1 :
ベーシック:
もともとあるものなのか?それともとって付けたものなのか?
それとも、そんなものはないのか?あるとしたらどんなものだろう?
2 :
変人:01/08/27 19:04 ID:EaJ8vbrU
尊厳なんぞもともとありゃせん。
ルネッサンス頃にとって付けたもの。
保身にとって都合がいいので、万人の共通価値観としてあるだけ。
メリット、デメリット考えれば、デメリットの方が大きい。
この厄介なもので人間は苦しんでいる。そうだとおもいませんか?
3 :
ベーシック:01/08/27 20:07 ID:yy3Jz8os
でも、隣で誰かが陵辱を受けているのを目撃すれば、大抵の人間は気分が悪くなったり、
怒りを覚えたりするのは何故なのか?何か、基本的な部分で共有しているものが、ある
ような気もするが、そういうものを尊厳とは言えないだろうか?
4 :
ベーシック:01/08/28 07:12 ID:3Mam5CZw
おーい、宗教板にいる人達、全ての宗教の元は「尊厳」にあるんじゃないかい?自分達の
狭い教義にだけ拘るなよ。人間の尊厳が嫌なら、存在の尊厳でもいい。法位法住でもいい。
誰か、答えられる人お願いします。
5 :
キリスト教:01/08/28 07:57 ID:gictO0H2
>>1 神という絶対者の存在を前提にすれば、
絶対者によって造られた森羅万象の中で
最も価値あるものとして最後に創造された
人間には、神の子としての価値がある。
6 :
キリスト教:01/08/28 08:01 ID:gictO0H2
>>3 で、人間は本来価値ある存在だからこそ
そのようなシチュェーションにおいては
本当はこうであってはいけないって感じる。
7 :
キリスト教:01/08/28 08:07 ID:gictO0H2
>>3 しかし、それが現実に起こってしまって
いるように、人間の尊厳についての意識を
基本的な部分で共有していると言うよりも
自己本位の心によって失っている。
8 :
変人:01/08/28 08:43 ID:f/S/iCns
>4 貴方の意見には同意。
尊厳は、知能と関係するのではないか。
たとえば猿が人なみの頭脳を有した場合、猿独自の宗教が創出されたであろうし、
猿神様、猿仏様がご本尊になります。勿論「尊厳」という価値観も生まれる。
この場合の「尊厳」は、猿の尊厳であり人間には無関係。
ということで、もともと尊厳というものは無いとおもうのですが、反論がありましたらどうぞ・・
9 :
ベーシック:01/08/28 09:43 ID:SrE.FW2Y
キリスト教さん
レスをありがとう。7のカキコにあるように、自己本位の心に依って失っている。
と言うことならば、尊厳は生まれに基ずいて万人に与えられていると解釈するの
ですが、もし、失っているのなら、神から授かった大切なものであるはずの尊厳を
取り戻す必要があると私は思ってしまう。創造主から頂いた神の子としての価値を
蔑ろにして良い訳がありませんよね。しかし、蔑ろにせざるを得ない実社会での現状
もある。この一見した矛盾をどのように解決したらよいのでしょうか?
10 :
ベーシック:01/08/28 21:00 ID:KECDxJDE
8
人間の作り出した宗教は、人間を神にしているだろうか?人間を仏にしているのだろうか?
あなたがどのような考えをお持ちかは知りませんが、自然災害などで死を受け入れざるを
得ない時、それを受容させるのが宗教的な働きではありませんか?
頭脳からのみ、そういう概念が生まれて来るとしたら、それは生物としての矛盾ではない
ですか?死を受け入れさせるなんて。いくら優秀な頭脳だって、生命が宿っていなければ
すぐに腐敗してしまうんですよ。一方、生命の宿ったものには、DNAに従っての部分もある
でしょうが、頭脳をこしらえる力があるんです。この、「生命」に尊厳があるとは言えない
でしょうか?
11 :
変人:01/08/28 22:38 ID:657lVbVk
>10
キリスト教と仏教では当然見解は違う。また、初期仏教と大乗では全く違う。
ちなみに初期仏教では、信仰という概念はありません。哲学といったほうが解りやすい。
近親者が死んだ場合、執着することを戒めております。全く宗教が介在していない。
大乗でも、本来「供養する」ということはありえない。お寺が勝手にしていることなのです。
レスを読んでて思ったのですが、貴方はクローン人間を想定してますね。
そうしますと、尊厳の意味が全く違ってきます。
それとも、頭脳と生命を切り離しているとこからすると・・う〜ん解らん。
12 :
名無しさん@1周年:01/08/28 23:54 ID:Uq/hquEg
仏教では人間っていうのは大した存在じゃないっていうスタンスを取っていると思うんです。
欲界でも下から4番目だし。ただし、人間界っていうのは楽しみと苦しみの比較がし易いから、
修行の場としては貴重だと。天界は楽しみ多く修行の必要性を感じなく、下の世界は苦しみ多
く修行どころではないと。仏教を哲学と捉える方とは異なる意見かもしれませんが。
尊厳(尊くおごそかで侵しがたい・こと)ですか。誰にでも覚醒の可能性があるという事かな?
でもこれは人間に限らないしなあ。
13 :
ベーシック:01/08/29 17:55 ID:9C8E3bzE
10変人さん
そもそも、宗教には形而上の存在を認めた上で成り立っているものではないのでしょうか?
形而上の存在は確認しようがありませんが、それを認めなければ宗教は成り立たないと思う
のですが。まあ、確認しようがないが故に誤解と混乱を発生させていることではあしますが。
しかし、初期仏教と言うか、御釈迦様には神通力もあったようですし、多くの形而上の存在
と交流していたと、初期の経典にも記してあると思うのですが。如何でしょう。
12さん
私にも「尊厳」と言うものがよく分からないので、スレを立てて真面目な意見交換をしてみたい
と思っている次第です。でも、よくは分かりませんが、直感的な部分で「ある」ような気がする
だけです。しかし、非常に重要なものであると思います。確かに、仰る通リ人間に限られたもの
でもないと私も思います。尊く厳かで、侵しがたいこと、胸に響く言葉ですね。
14 :
変人:01/08/29 19:02 ID:3BRxWZ7g
>13
>宗教は形而上の存在を認めた上で成り立っているもの・・・
形而上、形而下とはたして分けられるものなのでしょうかか?
そこのところが、キリスト教と違うのではないでしょうか?
仏教においては「色即是空」ですから・・
貴方が言っている、初期の経典といいましても、釈迦滅後100年経過後編纂されたものでありますし、
法華経となりますと、500年後となります。釈迦の実像を伝えているか・・となりますと疑問です。
釈迦は、バラモン教における「悟りを開いた方」という位置付けで、仏陀に格上げされるのは、経典が書かれる頃です。
そういうわけで、経典といいましても人為的に書かれた可能性が大きい、と見るのが自然だと思います。
15 :
12:01/08/29 19:44 ID:vtkRpz4E
>14
>経典といいましても人為的に書かれた可能性が大きい
まあ、こういう意見はよく見るのですが、そういう人達も経典全体を否定する
わけでは、もちろんないわけで、どこに境界線を引くのか、あるいは法則性を
見つけるかという問題になると思うのです。
某国の方は日本書紀を自分の主張にそう部分のみ引用し、そうでない所は
偽作であると決め付ける傾向があると聞き及んでいます。それと同様の事が、
原始仏典を一部真実一部偽作という人には見受けられると思うのですが、
どうでしょう?
16 :
変人:01/08/29 20:32 ID:8Z9txOX2
>15
こういった意見が出ることは予想しておりました。
>原始仏典を一部真実一部偽作という人には見受けられる・・
こういった明確な線引きというのは、ほとんど不可能ではないか。
なにがしかの経典によって、自分なりの結論を出す・・これでいいと思うのです。
阿含経を第一義に立てる人、般若心経を立てる人、法華経を立てる人皆さんいろいろですが、
ようはそれによって結論が出せれば良いのではないかとおもいます。
私ですと、般若心経が自分のスタンスにあっております。ですから、法華経の方とは当然考え方が違ってきます。
それでいいと思うんです。
仏教の原点バラモン教は、もともと寛容な宗教です。仏教にも本来この流れはあると思うのです。
中道とは、こういうことなのではないか・・・そんなふうに思うのです。
17 :
ベーシック:01/08/29 21:38 ID:vhMsCGF.
変人さん
形而上、形而下のことですが、色即是空と言うのは、形而上、形而下を一如とすると
言うことですか?理屈としては解るような気がしますが、実感としてはどうでしょう?
人間には確かめたくても、確かめられないことが沢山あるとおもうのですが。
でも、基本的に私は、聖書に書いてある事や、仏典に書いてある事よりも、生命の尊厳
と言われるようなものが何なのかを話し合いたいのです。あなたは2のスレで尊厳は厄介
なもので、そのお陰で人間が苦しんでいると書き込まれていましたが、あなたは自分自身
の身の上でさえも、尊厳を鬱陶しいものとして感じているのですか?
18 :
変人:01/08/29 22:54 ID:hDhjCm8s
>17
「生死一如」は自分の経験で拓かれた部分はあります。その延長線に色即是空があります。
観念的にはとらえづらいとおもうが、物理学の分野ですでに証明しているのではないでしょうか。
尊厳を鬱陶しいと考えているわけではありません。
人間とは特別なもの、そこから派生した価値観が「尊厳」と言う表現になったと思うのです。
私はそもそも、人間が特別なものと思っていないのです。
>8のレスのとうり、たまたま人間が知能が発達してしまった。それによって、尊厳という付録がついた。
そうとらえております。
一見、尊厳とは崇高な価値観に思えるのですが、そこから開放されたとき違った世界が見えてきます。
そこから新たに「尊厳」という意味を考えなおす。たぶん、そこに答えがあると思います。
あなたのレスを見て、私と考えが違うのは解っております。
大切なことは、自分なりのスタンスをもつ・・ということではないでしょうか。
19 :
ベーシック:01/08/31 19:49 ID:FQWKzg6Y
どうも、私自身スレを立てた時、人間の尊厳としてしまったところがまずかったのかもしれない。
「生命の尊厳とはどういうことか」の方がよかった。
あなたの言う人間はたまたま知能が発達してしまったと言う考えには、私は同感できないのですが、
人間だけが特別な生命体であるとは、私も思っていません。
でも、今は自分は人間をやっているのだから、人間の尊厳と言う言葉をつかったのです。私は、生命には
侵しがたく尊い何かがあると信じているのですが、では、それは何なのかは自分でもよく分かっていない
んですね。人間に限らず生命そのものに尊厳といえるようなものも、あなたはないとお考えですか?
それから、もし、よろしければ経験に基ずいた生死一如とその延長線の色即是空というものを説明して頂け
ませんか?
20 :
名無しさん@1周年:01/08/31 20:31 ID:4Kbcmchc
医学の進歩と称して動物を犠牲にして平然とし
ご利益教のおかげで生活が豊かになったとよろこんで、家族そろってステーキをたいらげ…
弱肉強食の頂点にいるのが人間という生き物です
不況だ不況だといいながら肥満解消にエステに通い
私は花が好きという人が、路傍に名も無く咲いている〜精一杯に冬を越して精一杯に咲い
てる花を平然と引き千切りながら
その口からは、愛とか平和とか宗教とか哲学とか、何の違和感も無しに語ることが出来る
人間てそういう、不条理を不条理とも思わない、不可思議なる前頭葉の持ち主でもあります
『人間は蟲のやうなもの、あまりに増え過ぎる』――アウレリオ・ペッチェイ(ローマクラブ創設者)
21 :
変人:01/08/31 21:53 ID:6Lyd6tAo
>19
生命となりますと、個々の生命となりますが、私の場合全体(人類)としてとらえておりますので
そこのところも、貴方と意見が合うかどうか・・
人類の歴史200万年。脈々と受け継がれてきました生命。個々の生命は、ほんの1っ点を担うにすぎません。
個々の生命の本分は、生命継承を第一義とし確実に受け継いできました。
そういう意味では尊いといえるでしょう。
生死一如は観念的には解しづらい。結論から先に言えば経験論です。
生と死の境に、身を呈す事によりホントウの真髄が解るものです。
色即是空もしかり、観念的に理解するというのは至難です。
ほんの少し扉が開けば、あとは光が射してくるものです。私は仏教徒ではありませんが・・
>20
人間の尊厳の裏には、こういった現実もあります。
人間とは、もっと謙虚な心が大切なのですが、いつか忘れてしまいます。
人間はあまりにも慢心になりすぎました。
22 :
ベーシック:01/09/01 09:12 ID:wWlOYoCw
21変人さん
私の生命観は、個の生命は生命の源と様々な階層をなして有機的に繋がっているのではないかと思う。
というものです。その、生命の源は、神と言われるものかもしれません。でも、これは私に説明する
のは難しい。私の信仰心に依っているものだからです。
色即是空、生と死の境からあなたは貴重な体験をして帰ってこられたのですね。素晴らしいと思います。
私も、観念と言うのは、経験と実践から生まれてくるものだと思うからです。そういうものから生まれ
てきたものは、その人の真実なわけですから、書物などから得た知識とは違ってその人の中で生きている
ものだとも思うんです。よく、この板の別のスレでは、経典に書かれていることや、聖書の言葉、誰か偉人
が語った言葉などの解釈などで、そこまで言い合わなくても良いだろうにと思ってしまったりもすることも
よくやっているのも見かけます。
私は、生活から何かを感受して思想を組み立て、どう言う意思を持つかが人間の営みだと思うし、書物や文献
などもヒントにはなっても、決して答えではないはずだとも思うから。だから、私は自分で答えを求める人、
得ようとする人と話したい。読書感想会で喧嘩なんてしたくない。たとえ、発展途上であっても、ナマの答え
に触れてみたい。そこで出会ってしまう違いには、これを真実でないとして侵すか?否。私は相手が誰かが苦労
して辿り着いた答えには、尊厳を認めます。ただ、実践や経験から離れて、知性に偏り過ぎた高度な理論の応酬
には、ちょっと違うだろうと言いたくなりますが。でも、ここの環境は、文字だけでのやり取りだから難しいな
あっておもうこともありますが。それでも敢えて質問してみたい。生死一如の経験論を説いてみてくれませんかって。
文字ではあなたの言う通リ無理でしょう。でも、あなたの「言葉」なら、私はそこから必ず何かを受け取って見せます。
しかし、どこの誰が見ているか分からない状況では止めた方がいいのかなあ。どうでしょうか?
23 :
変人:01/09/01 10:21 ID:.RVCVGa.
ベーッシクさん
経験論は、ほとんど理論を無視します。よって、誤解も生じやすい。一人よがりという印象も否定できません。
理論を無視するとはどういうことなのか。つまり、真理を追究する訳ではありませんから、観点が違うことも念頭におかねばなりません。
そういったことにより、経験で得た境地を他人に話した場合、たいていは失敗します。
たとえば密教において「悟りの境地をグル以外に話してはならない」というのがありますが
それと同じようなものです。わたしもなんどか他人に話しをしましたが、密教の教えのごとく意味がありません。
まあ、これも誤解をされる恐れがありますが例をあげます。
たとえば、死刑囚の処刑の期日が数日後にせまってきている。と仮定します。
死を目前にした場合、通常ですと恐怖が先立ちます。生の喜びなどありえない。と思われます。
でもこれは、殆どの方が経験しておりませんから、実のところ推測でしか考えられません。
この心境は死刑囚しか解らないということです。
文脈の裏を読んで頂ければ、私の言わんとしていることが汲み取れると思う。
24 :
ベーシック:01/09/01 10:31 ID:eyf774Gs
20さん
動物が動物を食べると言う弱肉強食の掟はしょうがないと思いますよ。食わなければみんな死ぬだけですから。
だから動物達の情緒では、他の痛みを推し量るということは難しいでしょう。だから、食えるわけですよ。
これが分かったら、動物はみんな死んでしまうかもしれない。動物はほとんど、ありのままの状態にしかなれない。
でも、人間は動物以上にも以下にもなれるものです。つまりそれだけの自由と権力を持っているんです。しかし、
その自由と権力は使い方を誤れば、それ相応の反作用を甘んじて受けなければならなくなります。今の世相がそう
いうものを映し出しているとは思いませんか?人心の乱れにそう言うものが反映されているように思いませんか?
多分、感じたり思ったりするから20のようなスレをしたのだと思うのですが。
しかしです、人間はそれだけではありませんよ!日本では年間三万人にも上る人が自ら命を断っているという現実もある。
又、自らの身を投げ打ってでも他人を守ろうとする心だって、現実にあるのです。下を見るのなら、上も見ましょうよ。
そんなことばかり見ていたら、生きていく力が枯渇してしまいます。人間は家族揃って平然とステーキを平らげるけれど、
その影でその家族がどれだけの悲苦を味わってきたかも知れないでしょう。それを家族で乗り越えた御祝いに食べていたの
かもしれません。上辺だけでは分かりませんよ。何が言いたいのかというと、人間の認識力は狭く限られたものだということ
なんです。この認識力で外の世界や他人を見る時、まず、ありのままには見えません。さらにその上での判断となると更に
片寄ったものにならざるを得ないでしょう。まず、教義や文献うんぬんより、ありのままの眼差しを自分の中に作り上げる事
の方が先決だと私自身思っているのですが。それとも、そう言う過程を得て辿り着いたあなたの今の答えが人間絶望なのでしょうか?
私は、お偉いさんの文献や経典などより、よろしければ、あなたの言葉の方が聞きたいのです。
25 :
変人:01/09/01 13:37 ID:0zbD9Wr2
ベーシックさん
だいたい読めました。人間を人間たらしめるもの。すなわち、それが尊厳ということですね。
人間として、尊厳にみあった理念なりそういった考えをもつべきだ。そういうことですね。
でも、これを究極的に突き止めていきますと、人間の存在そのものまで否定しなければなりません。
すなわち、人間はある程度他人、または環境を犠牲にして存在がなりたちます。
経済のシステムがそのようになっておりますから、そこからはみ出しては生きていけないですね。
貴方のレスで「年間三万人にも上る人が自ら命を絶って・・云々」がありますが、経済システムから生じたものと
受け止めていいとおもうのですが、そうしますと貴方も加害者?となりますね。経済システムの一員ですから。
貴方の、崇高な理念は良く解ります。しかし、現実は現実として受け止めませんと、ただの空論になってしまいます。
26 :
名無しさん@1周年:01/09/01 13:57 ID:ZgY/jwb.
人間を論じる時の盲点は
人間は何なのか?ではなく
人間は何ができるのか?に着目しなければ
一般的に堕落論で終わってしまう。
27 :
ベーシック:01/09/01 16:26 ID:gXFGQ5Hw
変人さん、25
あなたの察し、概ね当っていると思います。人間には人間に相応しい精神が必要だと私は信じますから。
でも、私の意見は独善的かもしれませんが、決して空論ではありえませんよ。何故か?私には実践がある
からです。でも、発展途上の未熟なものであろうとは思いますが。(w
しかし、人間を語る前に、生物の定めとして「他」を犠牲にないといきて行けないと言うシステムは生物
界の自然法則としてどうしようもありませんよね。なにしろ、生き物を食わなければ生きて行けないのだから。
それを名付けて弱肉強食と呼んでいます。しかし、本来、食べる事は即ち生きることと同じです。
ただ、生き長らえる為のものです。本能からは余計な欲望は生まれてきません。お腹一杯食べても、まだ食べたいですか?セックスして射精した後も、まだやりたいですか?朝、気持ちよく目覚めた後で、まだ、眠りたいですか?
必要な時に必要なだけ求めるのが本能の働きというものでしょう。それがなければ生物はすぐに死んでしまう。
こう言う本能が生物に与えられている以上、自然は生物に生きろと言っているんだと私は思います。
その中で人間は生死を知っています。しかしそれは、本当の生死ではなくて、快苦の極みとして知っている
に過ぎないのでしょうが知っています。それならば苦しみを斥けて、快楽を近ずけるという生き方を自然な生き方
として骨身にに付いています。それを土台にして欲望を暴走させる為に作られたのが、資本主義という経済のシステム
ではないのですか?ですから、生きることというより、快楽を追求する場が経済社会の基本スタンスですよね。
そういうことだと思います。快楽と言うパイは限られているのだから、私が出っ張れば、誰かが凹むのはそれは必至。
しかしですよ、自然界のシステムと自然界が与えた本能は「他を食ってでも生きろ」です。この答えは多分普通の人が想
像出来ないくらい苦しみ抜いて辿り着いた私の答えなのです。しかし、誤解はしないで欲しい。「生きろ」であって「快楽
を追求し欲望を満足させよ」ではないですよ。
28 :
名無しさん@1周年:01/09/01 19:17 ID:bR02QJ3c
ベーシックさん
私が抱く弱肉強食観というのは、別にお偉いさんの文献や経典の軛からは全く自由なもの
です。小さいときから、常日頃、私の魂や心の琴線が感じていた打ち消すことの出来ない
悲壮感やアイロニーといったところです。それを狭量と仰るなら、甘んじて受け入れまし
ょう。しかしですよ、他人様の著書を出して申し訳ないのですが、人間界に争いが無くな
ったとき、まずは動物界で肉食獣が消滅するんだそうです。弱肉強食の掟は、仕方がない
のではなく人間の想念によって変えられるということです。それに、動物達の情緒では、
他の痛みを推し量るということは難しいということですが、満ち足りたライオンの前では、
イボイノシシもガゼルも決して逃げようとはしません。しかし、お腹の満ち足りた人間の
狩猟者の前では悲しいほどに無抵抗です。大分ネガティヴな意件を申しましたが、かとい
って、私は夢も希望もないニヒリストではありません。まかりなりにも、過去生の因縁よ
り人間界に生まれて来た以上、消化不良を起こさない程度に宿縁に見合った知識を身につ
け、それなりに努力はするつもりです。人間絶望のまま死んでいったのでは、神仏に申し
訳ないですから。
変人さん
あなたが経験なされた、生死一如とその延長線の色即是空⇔空即是色〜経験論は、ほとん
ど理論を無視するということですね。例えは少し脱線しますが、医者にも見放された難病、奇病の患者が、博識多才の高僧に相談しても救われず、無学な拝みやさんに救われたとい
う話は事実のようです。高度な理論にも勝る何かを、拝みやさんは経験で学んでいるので
しょうか。
※ 人間の尊厳といわれても、あまりにもテーマが抽象的すぎて、咄嗟にはこたえられませ
ん。以後、考えておきます。
29 :
変人:01/09/01 19:28 ID:LXKE.KoY
貴方の考えは良く解ります。
資本主義と欲望は相関関係にあります。ある程度の欲望によって社会は成り立ちますが、
最低限の欲望に抑えてしまう、と仮定した場合資本主義はなりたちません。
つまり、システムをどこかで断ち切ろう。というわけにはいかないのです。
将来いい結果が得られないと解ったとしても、突き進まなければならないのが資本主義です。
端的に言ってしまえば、人間の限りない欲望(快楽も含む)が在ってこそ社会が発展した。ということです。
こういった社会は、人間相互のコンセンサスがあって築きあげたものですから、
ある程度の矛盾が生じましても、許される範疇と考えるのです。
すべてにおいて人間、善のみで生きられません。
「快楽の追求」においても、個々の価値観は千差万別ですから、個人の判断にゆだねる他ありません。
30 :
変人:01/09/01 20:11 ID:j6xJQT16
>28
難病、奇病の患者が一番コンタクト取ろうとするのは、同病の患者だと思います。
価値観が共有できる。または良き理解者ということですね。
二番めとすれば、なんらかのハンディー(病人、障害者)を持った方には親近感があると思います。
この延長線で考えれば、高僧よりも拝み屋さん、という事になるのではないでしょうか。
>拝みやさんは経験で学んでいるのでしょうか。
これも理由のひとつかもしれません。
もひとつ大事なことは、患者固有の人生観、世界観というものがありますから
健常者が、どうしても推し量れない部分というのもあるとおもいます。
理論を無視する・・ということは、そうゆうことです。「説明できない」ということです。
31 :
名無しさん@1周年:01/09/02 20:52 ID:y430056I
28さん
弱肉強食、見方によっては恐ろしい掟です。しかし私は思うのです。本来の「食べる」と言う
行為は即ち「生きる」ことです。個の生命にとっては悲しみがあります。でも、食べなければ
新しい命を生むことも出来ません。これは極限での話しですが、もし、2人で遭難したとしま
しょう。2人とも死ぬ道を選ぶか、私が相棒を食って生き残るか?あるいは私が相棒に食われ
て相棒を生かすか?私は、可能性があるなら、一人でも生き残る方を選びたいということです。
食べられると言うのは、食べたものの中で「生きる」ということかもしれない。
いのちは、不生不滅、不増不減で、理は諸行無常、諸法無我そのものを見せつけます。
自然が与えた本能は、必要なもの以外求めません。満腹のライオンの前を小動物が歩けるのです。
あれが食いたいこれが食いたくないと言うような欲望とは違うものです。でも、人間はそういう
本能の声を聞き忘れたのでしょう。
あなたが感じる食われるものの悲しみは、人間の自然な情緒ではないでしょうか?生き物に、私は
お前を殺したくない。でも、食わなければ死んでしまうのだ。と、やるせない気持ちになる
のが人間の心と言うものでしょう。そしてこの世界はそういう悲しみと苦しみに身を任せなければ
生きていけない場所なのだと思います。資本主義うんぬんより、もともとそう言う世界なんです。
生き物を食わなければ死ぬと言う厳しい掟が支配する。だから、悲しいしやるせなくなるのは人間
らしい感覚です。だったら自然や世界や生き物達に何か良い事をしてあげたいと自然に思うように
なるじゃないですか。それは小さな自分に出来ることでいいじゃないですか。
食べ残しを一割減らす努力とか(w。 ご飯粒を綺麗に平らげる努力とか、下らないと思うかも知れ
ないけれど、ご飯粒ひとつだって、捨てられるよりは食べてもらった方が嬉しいでしょうよ。
私もあなたの仰ることは理解できるつもりです。現代人としてのえげつなさも自分の中にあります。
人間の想念が変われば、弱肉強食の掟も変えられると言うのは、そういうこともありうるとは思いますが
私は身の回りの事をこなすので精一杯のにんげんなのです。それこそ、お偉いさん方にお任せします。協力
はする立場を取りますけれど。
32 :
ベーシック:01/09/02 20:54 ID:y430056I
ごめん、31は自分です。
33 :
とうりすがりに失礼:01/09/03 03:30 ID:obFTR.Kw
シマウマはライオンに食べられる事でライオンをたすけている、ならこの世は
弱肉強食の世界ではなく、動物レベルの助け合いの世界でしょう。
そして、人間レベルの助け合いを追求していくのが「人間の尊厳」では?
自然界に学ぶだけではなく、それが人間にだけ与えられた、
「覚醒」の可能性に向かって進んでいく事と一つなのでは?
34 :
変人:01/09/03 06:23 ID:.DLU/t2c
>33
貴方の言っていることは納得できます。
ものごとは、多角的に見ませんといけませんね。
「人間の尊厳」について・・抽象的テーマでありますが、単刀直入うまく定義づけてあります。
35 :
徒然草:01/09/03 09:41 ID:cfbZTHPI
>
仏教的に検証すれば、“食べるというという行為は、五蘊→色受想行識という人間存在を構
成する五つのエレメントの中の識→六識→眼耳鼻舌身意〜舌識という苦の要因です。般若
心経にも五蘊一切皆空…といったくだりが有りますが、本来は空なる五蘊に翻弄されなが
ら、私たちは生きていかなくてはいけないのでしょうか?空とはなんでしょう、単なる空
っぽという意味ではないとすれば、ひょっとしたら、尊厳という言葉も充分に当てはまる
余地がありそうですね。すみません、私如き未熟者が生意気を申しまして。考えてみれば、
日本という恵まれた環境に育ったからこそ、こういう思考形態が持てるのでしょうね。実
際のところ、極北に生きるイヌイット族のような立場であったら、生きる=サバイバルそ
のものですからね。動物を殺して食べるという行為が、極限以上にも極限以下にも成り得
ないサバイバルそのものであるとするなら、せめて尊厳という言葉を手向けてあげようで
はありませんか。そうでなければ、人間にとっても動物にとっても、あまりにも悲惨すぎ
ます。合掌 Ω\ζ゜)チーン…
>
ハンディを背負った人の苦しみには、健常者が推し量れない部分があるのなら、その説明
出来ない領域こそ、人間の尊厳なのかもしれませんね。人は様々な苦や困難を経験し、学
ぶ為にこの世に生まれて来るのだと思います。長い長い、無始の過去から無終の未来にま
で延々と繰り広げられる、しかし、何時かは断たなければならないサムサーラの旅人であ
る人間存在、また森羅万象もが、どうか尊厳というものを失わずに生き続けたいものです。
36 :
徒然草:01/09/03 09:47 ID:cfbZTHPI
28&35は同一人物です。
失礼しました。
37 :
変人:01/09/03 11:26 ID:B1lwZmAc
>35
>ハンディを背負った人の苦しみには・・・
まあ苦しいと思う方もおりますし、克服し新しい境地を拓いた方もおりますし。
失って始めて気がつく・・ということもありますからね。一概には言えないと思いますが。
障害を機に、自分なりのアイデンティティを確立した方もおりますから。
健常者では経験できないことを経験している訳ですから、精神的成長は有ってしかるべきだと
思います。それを、どう受け止めるかは本人しだいでしょうけど。
38 :
ベーシック:01/09/03 21:25 ID:DrRlZUSA
いやー。色々な方がマジレスしてくれて有難いです。自分で尊厳などと言っておきながら何ナノですが、
尊厳と言う言葉は誰でも知っています。辞書を引けば、これまた誰でも、その意味も知る事ができる。
でも、今私は何を知っていたのだろうって感慨がある。うーん、どうしたのだろう。今、心が活動してるみたい。
知性だけで反応している自分とは違う。こういう時って心が落ち着くんですよね。知性だけで反応している
ような時は色々な思考が、無限に増殖していくようなある種の不快感があるのの対し、非常に落ち着くんですよ。
あ、いやいや、私事はこれくらいにしないとな。
変人さん、29のレスで「全てにおいて人間、善のみでは生きられません」とありますが、少し質問させてください。
まず始めに、生きると言うことが中心にあります。その中で善悪が生まれてくると思います。そういう生きるという
ことを前提として、生まれてくる善悪を、あなたはどのように弁別していますか?
39 :
nanasi:01/09/03 21:28 ID:LQ6Mdf5.
てすと
40 :
変人:01/09/03 22:37 ID:HeY8PayI
ベーシックさん
親鸞上人が言っておられるごとし、人間すべて悪人ということでいいと思います。
まず善悪ですが、人間の経験上知りえた価値基準だと思います。共通認識とでもいうのでしょうか。
軽い悪(たとえば嘘)など、どこまでが許容範囲かは個人個人いろいろでしょうね。
これと似た経済手段というのがあります。
100円で仕入れたものを、120円で売る人と、300円で売る人がいたとする。
どちらが善か?となりますと、難しいですね。
商人の家族にすれば、300円で売ったほうが善ということになりますか?
ようするに善も悪も相関関係ですから、そこのところがむつかしい。
貴方の、めざす生き方というのでしょうか、それはあるていど見当はつきます。それには敬意をはらいますが。
41 :
ベーシック:01/09/04 18:36 ID:08k4Pyvg
nanasiさんは、なにをてすとしておられるのですか?
42 :
考える足:01/09/04 19:09 ID:kdjz2.WA
人間は、自由意志と引き換えに、自分の行為の結果に対する責任という重荷を
背負った。人間の尊厳は、その無限の可能性にあるのだと思う。
ただ、日常生活で人間の尊厳を実感している人はわずかでしょう。ほとんどの
場合、マニュアル化された生活パターンを繰り返している。自由意志を生かして
いない。せいぜい、「4枚目の北だからアンパイだ」と判断する時くらいかな。
多くの人は、自分の持つ人間の尊厳のことを忘れ、死ぬ間際になってようやく
それに目覚める。そして、深い後悔とともに、尊厳まるごと、死の口に呑みこま
れていく。
40さんのように、「善悪」の意味を考えたり、「善悪」の葛藤の中で自由意志を
行使しようとする人は少ないでしょうね。ましてや、「住人A」や「A課長」である
以前の「自分」を大事にして生きる人はもっと稀だと思う。人間の尊厳は、決して
「住人A」や「A課長」にはないのだと私は考える。
43 :
名無しさん@1周年:01/09/04 19:46 ID:8.EIo1Js
変人さん
死刑囚の例え、ハンディを負った人の苦悩、これは客観化するのは無理でしょう。また、そうする必要も通常はない。
病人の苦しみや、怪我人の痛みは本人が感じているもの、その人の内面だから。でも、それは知性で追うからではない
でしょうか?痛みや苦しみと言うのは、知で分かるものではなく、情の働きに依っている部分が多いような気がします。
例えば、これは特殊な例ですが、キリストに非常に感情移入する信者の中には、聖跡と言うキリストの受けた傷と同じ
ような傷跡が現れてくる現象が実際に起こることがあるのです。
御存知のように人間の精神活動には知性と情緒があり、それに意思が加わって成り立っています。私の物言いが正しく
ないかもしれませんが、知性は文字に、情緒は言葉に、片寄る解釈しかできないように思われるのです。力のある言葉
には、なにかエネルギーのようなものが乗ってきて感化という作用を誘発するものです。それに対し文字は自由で客観化
されたものですが、乗ってくるエネルギーは無に等しい。つまり本人の解釈の余地が多く残されていると言うことです。
さて、経験論ですが、これは情緒のある言葉を使えば、感化という誘発を呼ぶことが出来るのです。かつての覚者や偉人
優れた芸術家なども、既成の表現では現せないものを現す為に自分の言葉(表現方法)というものを創造したのだと思い
ます。優れた覚者はその経験を噛み砕いて説いたのでしょう。しかし、いくら噛み砕いて説いたとしても、共有するものが
なければ感化という作用は誘発されないのではないでしょうか?人類の潜在意識とでもいうのでしょうか?何かなければ
優れた宗教や哲学、芸術などにも心動かされる事はないと私は思います。(続)
44 :
名無しさん@1周年:01/09/04 19:53 ID:OxUzLJyk
| // /
|// /┃
/ ̄''' ┃ プラーン
| (-_-)
| U U
| UU
| (○)
| ヽ|〃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ハヤマッテコンナコトハスルナヨ・・・
45 :
変人:01/09/04 21:32 ID:KkmfUeQo
>42
まあ人生はそんなところですね、役職(仕事)を演じ続けて、気がついた時はすでに老境になっている。
>43
言葉は、もともと言霊(ことだま)といい、霊が宿るとされ古来より重要視されてきた。
原始仏教も口伝であったらしいから、日本と共通したものがあったのだろう。
経験論は、感化して誘発があるかもしれませんが、大事なのは認識ですから・・感性の方重要です。
感性より得た知恵(知識にあらず)が第一義で理論は二義以下です。
46 :
ベーシック:01/09/04 21:48 ID:xZgovK86
済みません、またやちゃいました。43は自分です。
では、43を踏まえて、続けたいのですが、善悪に付いて質問した以上自分の意見も発信します。
あなたが40のレスで仰っているように、善悪は生きるということを中心にして相対的に発生します。
しかし、私は40のレスを見る限り人によって色々というより、立場や状況によって色々であると
受け取りました。そういう善悪感は我を拠り所として自分中心です。そして人間、我と言うものは立場
や状況でコロコロと変わるものだからです。でも、存在の根に繋がっている部分はそうは動かないの
ではないでしょうか?これをして不動心と呼ぶと私は思うのです。私はあなたを生死一如を経験から得て
いる人として質問させて戴いてます。それは通常の社会生活の常識に動かされない心の境地です。その境地
から、発信する言葉として覗いたかったのですが・・・。勿論、受ける私の方も準備はしていたつもりです。
だから、百円で仕入れた物を幾らで売るのが正しいのか?と言うこととは違うのです。善き心に依っている
なら、幾らで売ろうが良いのです。悪しき心に依ってなら幾らで売ろうが悪いのです。常識でいう善悪なら
行為によって誉められるものと、裁かれるものでしょう。それが、自分中心ですから、裁かれるべきは他に
なり、誉められるべきは自分となります。そういう意味で必要から法律が生まれてきたのでしょうが、法律
では、内面まで踏み込めない。現れた行為しか捕まえることはできないからです。だから、顔で相手に微笑み
を送って、心で相手を裁くということがまかり通ってしまいます。ある意味それが普通なのかもしれません。
そういう心の人ばかりなら、自分もそうしなければ生きて行く事は難しくなるでしょう。人間は他の肉だけ
でなく、誉れも食いたいようです。他人の誉れは恨めしく、自分の誉れは死守する。他の誉れを喜べない。
悪は自分と他人を断絶する、自我に基ずいた心情が発生させていると思うのが今の私の結論です。我々にとって
「他」の苦しみも悲しみも無感覚でいることが出来るからです。神経で繋がっている訳ではありませんから。
善のことはまたいずれかの機会に譲ります。
47 :
変人:01/09/04 22:43 ID:otuHlKh6
ベーシックさん
だいたい貴方のスタンスが読めてきました。
貴方とよく似た方がおります。彼女の名前はマザー・テレサ。
テレサは「人間の尊厳」「善」を追求した方です。しかも実践で。
私など真似のできないほどデキタ方です
日本マザーテレサの会があります。そこで修行することもできます。
そういった方面はいかがなものでしょうか?
48 :
非凡な凡人:01/09/04 23:27 ID:TCKIu6uU
“善悪の彼岸”を著し、神を抹殺したニーチェは、自らは発狂しながら死んでいった
みたいです。「コギトエルゴスム」に始まった近代哲学は、人間の理と知のレベルに神
を引きずり下ろした代償として、傲慢と愚かさの奴隷になってしまったみたいだ。そ
ういう意味では、我々全員が反逆者ルシファーなのである。己の頭脳に埋没しすぎな
いように、皆さん謙虚になりましょうね。
By マザー・テレサ
49 :
変人:01/09/05 06:32 ID:xRNGrbts
>48
キリスト教の「絶対神」という概念は、そこが苦悩の根源になっていると思うのです。
二者択一ですから。「神を信じるか」「神を信じないか」。
仏教は広義において、二者択一ではありませんからニーチェみたいな悲劇はないと思います。
そもそもは、イデオロギーの問題だと思うのです。
神の否定=唯物論。これはニーチェに限らず、多くの悲劇を生んでおります。
50 :
非凡な凡人:01/09/05 11:09 ID:og5tfayU
キリスト教でいう絶対神とは人格神のはずです。創世記では、神は自分に似せて
人間を創造したはずなのに、どういう訳か原罪なるものが入り込んでしまった為
に、人間存在を悪と定義づけ、それは同時に、万能の神をも傷つけるという大失
態を抱え込んでしまったのではないでしょうか。本来は、絶対神=人間のはずで
すから、善悪を超越した完全無欠であらねばならないはずです、不完全な人間も
ね。
また仏教においても、お釈迦様が説かれた初転法輪の「四諦八正道」では、この
世を生きていく上での様々な苦を説かれています。しかし、その苦の原因を過去、
現在に至るカルマ=行為に求めることにより、実に合理的にこの世の不平等を説
明しています。基本的には、カルマに対しては本人自身が責任を持ちなさい、神
々はどうすることも出来ないというスタンスではないでしょうか。
キリスト教では、エヴァにそそのかされたアダムが禁断の知恵の実を食べたこと
により、人間の堕落が始まっています。しかし、それ以前に完全なる神が存在し
ている訳だから、むざむざ堕落していく人間の自由意思をほったらかした神の行
為は、私には何とも不可解です。しかし、絶対神を置かない仏教の唯心論とか唯
識論では、すべてが人間の自由意思に依りかかってきても、少しも矛盾は感じま
せん。そうです!ある意味においては、仏教こそ、人間が自らの意思で神となり
うる教えなのかもしれませんね。
もちろん謙虚さが大切なのはいうまでもないでしょう。マザー・テレサが世界的
に愛される理由は唯ひとつ、最後まで謙虚さを失わなかったことです。常に創造
主に使える僕として清貧を愛し、誰からも見放された死に逝く病人の中に神の尊
厳を見つめてたマザー・テレサ〜〜〜神仏がこの世に化身するとき、凡そ金持ち
とか地位ある者としてでなく、逆に社会から蔑まれ、石つぶてを投げられるよう
な人々に神の尊厳を見出すことの出来る人、そういう人こそが、まことの霊的に
崇高な人といえましょう。
51 :
変人:01/09/05 12:11 ID:Ic.16FU.
>50
まさに正論かと思いますね。
仏教におけるカルマについても、実に合理的にできている。
合理的な説明をするために、カルマという発想が生まれたのではないか・・というのが自論なのですが。
そうかといって、仏教にまったく関心がない・・という訳ではありません。
仏教哲理は、私の人生観に多大なる影響をあたえております。
原始仏教は「信仰」という概念がありませんから、自分なりの受け入れ方というのもあって然るべきかと思うのです。
52 :
ベーシック:01/09/05 19:33 ID:mpwq2BUY
47、変人さん。
私がマザーテレサさんと似てる?そうなのですか?彼女は多くの人に慈悲をもたらした人ですね。
でも、私は自分の使命を自覚しておりますが、実に平凡に生きることなんですよ。
妻を愛し、子供に必要なものを与え、両親を敬い、親戚を大切にし、友人も大切にする。社会との
接点で何かを捧げ、自分の心も豊かに成熟させる。
前のスレで書いたように、自分の身の回りのことをこなすだけで精一杯の人間です。無私になって
社会に奉仕することは出来ません。私は無我と無私は違うものだとも思っているのです。人間は何より
自分の使命を果たすことが重要だと信じています。
でも、実は私はマザーの事はよく知らないんです。私は限られた自分の時間を使って
心の世界と物の世界を探求しながら生活に反映させて生きているのですが、人間らしく生きたいんです。
せっかく人間になれたのだから、人間を味わい尽くしたい。そして、人間らしい心を持って次元を越える
旅に出たい。そして私の使命、家族や友人達に私は権威ある宗教用語を説きません。ただ、普通の言葉で、
生活の中でさりげなく、私の伝えるべきことを伝えるということです。
53 :
変人:01/09/05 20:26 ID:Eg.6PKHI
ベーシックさん
崇高な理念を掲げても、それを社会に還元するというのは至難です。
最終的にはコツコツ働いて、社会のシステムの中で生きていくのが一番安泰です。
貴方のレスを読む限り、人間らしく生きているのではありませんか?
貴方にとって、何か目指すものがあるのでしょうけど、そこのところが見えて来ないのですが。
それともなにかアクシデントとかの問題でしょうか?
54 :
非凡な凡人:01/09/06 11:55 ID:RbNiinbs
良い心がけ、思いやりの心、自己犠牲といったものは、それ自体が立派な想念のエネルギ
ーとなって当人の家族、当人の会社や友人関係、教団を率いる指導者であれば信徒全体に
良い波動を反映させるのではないでしょうか?最初は小さな規模から、だんだんに輪を広
げ、最後には世界レベルにまで拡散する想念のエネルギー、それは実際には不可視光線で
すが、同時に物理的エネルギー体である物の世界にもなります。精神であると同時に物、
互いに切り離すことの出来ない弁証法的統合なのではないでしょうか。ちっぽけな人間で
あっても、社会システムの中でコツコツと働きながら、自身の善性に満ちたサットヴァの
エネルギーを回りに反映、還元してあげることは充分に可能だとは思いませんか?考えて
みれば、戦争にしても一国の大統領とか独裁者一人の力では起こせないと思います。戦争
を起こそうとする邪悪な考えを容認する大多数の想念の力なくては、戦争だって容易には
起こらないでしょう。
55 :
ベーシック:01/09/06 19:14 ID:g7AyYcxs
変人さん
「人間らしく生きたい」ですが、私は人間として生きるという事でまだまだ解らないことが多いのです。
人間の精神作用は千変万化であり、摩訶不思議です。これを味わい尽くすには、とても80年位で
は足りませんよ。そして、人間として生きるって、自分だけ人間らしければ良いと言うのは最低ライン
ではないでしょうか?私の場合、崇高な理念と言われても、止むに止まれずそうならざるを得ないんです。
問題がなければ、私は何も探求したりしないと思う。思考錯誤しながら正しい答えに辿り着いた時、不思議と
道が拓ける時がある。私はそういう経験論を大事にします。思想だけでは、伸るか反るかの状況にいる時、力
を発揮する事は出来ない。あなたとは、考え方は違いますが、死に追われた者としての経験論は真実を掴んだもの
ではないかと思います。多分、脳の中の言語回路が違うからでしょう。時々、同じような心から発信している
言葉なのに、違う言葉を話す為に反発し合う人々を見かけることがあります。人の振り見て我が振り直せですね。
54非凡な凡人さん
私も、そういう想念の力を信じています。でも、悲しいかな、自我を中心とした思想で組み立てられた
システムの中では、分裂に継ぐ分裂を連鎖させ個々の想念が乱反射状態になって混乱し、その混乱した
エネルギーが場に満ちた時、些細なキッカケで悪に呑まれてしまったり、戦争など大変な災害を齎して
しまうのではないかと考えます。人間は自分の想念をどのように使っているのか殆ど無意識で自覚など
ないし、想念がどれだけのエネルギーを持っているかの科学的論証なども今の所できない訳です。
私は幼少のころ、想念の作用を利用することを自然にやっていた事があって、時々使い方を間違えて
とんでもない目に会ったりしました。でも、自分が悪い事をしているなど全然解らなかったんですよ。
想念のレベルでの善悪と普通に知り覚えた善悪ではかなり違いがあるのが解ったのは、もう成人してからです。
しかし、人間の想念はどうしても無意識的に悪い方へ悪い方へと行きたくなっちゃうみたいですね。自然に生活
しているだけで、すぐに想念は汚れてしまうようでもあります。想念のレベルで何をしているのか自覚が出来て
くると、結構大変ではありませんか?
私は思うのですが、人間は肉体は個々で独立していますが、想念では独立はできないような気がします。常に影響を
したりされたりし続けているように私は感じるのですが、私はこれを無我と言うんだと思っています。心や想念の状態
では、「我」として独立していない、と。決して我がないのではない、と。我を失う事ほど悲しいことはない、と。
あと、最後に私は作用反作用の理は想念や心にも当てはまると実感があります。これだけ悪い事が出来る人間は、その
反作用としてとてつもなく善い事もできるはずで、もうそのポテンシャルエネルギーは蓄えられているんじゃないかと
思うのです。ただその前に、想念と創造力をどのように使うかと言う問題が大きく横たわっている状態があるんだと思う。
でもこれは、小さな自我を基にして分裂と増殖を繰り返す相関関係を何とか治めないと、どうにもならないのではないか?
大我とか真我とかに己を合わせて、統合や融合の相関関係を何とか作り出す必要があるのではないかと思うんです。個と
しては何とか治めることができても、集団となると、まだまだ夢物語のような気もしますが。
>54
おっしゃるとおり、現実的で非常に解りやすい。
>55
あなたは非常に難しいことを考えていますね・・
奥さんと子供がいて、たまに遊園地とか連れて行って、帰りに美味いものでも食べて。
家に帰ったら、お茶でも飲みながら「今日は楽しかったね」と・・それでいいのじゃないですか?
それが貴方のいう「人間らしく生きたい」ではないでしょうか?
たまに奥さんに代わって皿洗いをする。これが善行だと思うのですが、いかがでしょうか?
奥さんは気分がいいから、他人にも優しくする。これがドンドン広がって世界平和に繋がるのではないでしょうか。
57変人さん
私は、人間らしく生きるのは、想念の有り様で決まることだと思っているのです。でも、そんなに難しいことの様に
受け取られましたか。そうなら多分私の実力がその程度に至らないということでしょう。
それにしても、あなたは私があなたの言うような家族との交流に心の価値を見出せないように見うけられるのですか?
正直、私の書き込みからあなたは、どのような人間像を浮かべておられるのでしょうか?試しみに、それをレスしてみて
もらえますか?誰某のよう・・・とかでなくて長所と欠点を簡単にで結構ですのでお願いしてみてよいですか?
>58
勝手にカキコさせていただきます。
理想主義者、完全主義者、の印象があります。
普通、メールアドレスは書かない方が多い中、カキコするところなど几帳面な方と察します。
本来、そういった「生き方」なりを追求するべきなのでしょうけど、
私など凡人は、そんなに純粋になれないところもあります。
57のカキコのごとし、凡人はそれなりの生活で満足なのですが・・
人間の想念が無意識的に悪い方向へ向かうのは、欲六界でいえば、特に地獄界、餓鬼界、
動物界の三悪趣といわれる業識の作用ではないでしょうか。醜いカルマが下位のチャクラ
に無意識的に記憶され、それが普通に人間として生活していても作用する仕組みになって
いるのだと思います。また三悪趣に限らず人間界にしても情や執着を背景としていますか
ら、利害関係等が生じた場合、当然に醜いカルマ、醜い想念となって顕れるでしょう。
私たちが生きているこの現象世界は、二元論、相対性から免れることの出来ない仮相の世
界であるなら、当然にこの世の善悪の観念は、実相においては存在しません。しかし、だ
からといって殺人を犯していいかといえば否です。三次元世界には三次元世界の掟がある
のです。精神世界や宗教的知識は、確かに人間のステージをそれなりに高めてくれますが、
くれぐれも、霊的傲慢に陥った場合、たちまちの内にサタンの餌食となることを忘れては
いけません。キリストにしても釈迦にしても、サタンの誘惑に打ち勝ってこその聖者なの
です。このことを常に心掛ける限り、「我を失うことほど悲しいことはない」という、自己
保全の想念からも解放されるものと思われます。
変人さん
時々、他人から理想主義者、完全主義者だって言われます。純粋さに付いても言われた事がある。
比較相対化してみると、どうもそのようであると、認めざるを得ません。
私は「美しきもの」に、取り付かれた人間なのかもしれない。でも、私は自分のそういう価値観を
他人に押し付けたりはしたくないし、自分の殻に閉じこもって生きて行くのももったいないと思う
のです。ただ、その「美しきもの」は人間の精神的な共有財産だと思うので、何とか人の心を繋ぎ
とめたいと思ってしまうのです。これ以上人の心がバラバラになったら、安心した生活など覚束ない
じゃないですか。やっぱり平和な環境が安心した生活の基盤ですよ。特に日本など、見かけ上の平和
と精神的な平和の著しい違いに私などは驚いてしまう。人間としての平凡な生活すら、脅かされた状態
ではないかって感じもします。だから、人と人の間にある、何か大切なものに尊厳という言葉を乗せて
託しているのです。その中で、一人よがりにならないように、ここにスレを立たせてもらったのです。
尊厳は、私だけのもの、彼だけのものではないと私は思うからです。例えば、何かのカテゴリーの中に
おいては、尊厳に値するようなものが生きているようですが(趣味や、宗教)その中でしか作用しない
小さなものです。人間の尊厳、抽象的なもので分かりにくいことですが、皆様、どうかお願いしますね。
非凡な凡人さん
私には、実相の世界はまだまだ解らないことだらけなんです。僅かに寝入り際や、夢の中の想念で活動できる
だけです。瞑想している時などは、覚醒した状態で夢を見ることもできるのですが、いかんせん想念の世界で
自由に活動するのは大変であると言うのが実感ですね。でも、この話しはあまり掘り下げて話すのは控えたい
のです。ここは、公の掲示板だから、誰が何の目的で見ていないとも限らないじゃないですか。
ひとつだけ、お話してみましょう。私は、7才位の時、友人と2人で猫の身軽さを試そうと言うことで、猫を
3階から投げ落としたことがあったのです。何とも残酷なことをしてしまったと後悔しているのですが、やって
しまったものはどうすることも出来ません。やがて、そんな事も忘れて成人して22才位の時、夢の中で粗暴な男
達2人に、有無を言わさず高い所から突き落とされる夢を見ました。その時は何故そんな夢を見たのか判らず、只の
悪夢として方付けたのですが、ある時、自分を振り返る行をしていたら、その事実と夢の事を同時に思い出し、十年
以上前のことでも、想念の世界では報いを受ずには終れないのかと、先に立たない後悔をしたことがありました。
あと「我を失う事ほど悲しいことはない」の発言に付いてなのですが、心ならずですが、仏教の法句教を引出してみ
たいと思います。
「良く整えられし己こそ、まこと得がたき寄る辺とならん」と言うのがあったと記憶しているのですが、どうでしょう。
己を失って神仏に縋ってしまう諸宗教の弊害、社会の中でも自分の視点と言うものがなければ、修行はおろか生活すらも
ままならないと思うのです。これを放棄して世間に倣え、他人に倣え、宗教に倣えしていても、虚しくなるだけではないか
と私は考えます。偉人や聖人などは内面がそこまで到達しているから、私を失っても大丈夫なのでしょう。私などが無私に
なってしまったら、廃人になって、妻から離縁を言い渡されてしまう・・・。真理はひとつでも人の状態は様々です。
でも、非凡な凡人さんは、私のカキコを見て、私の我の強さに厳しい戒めを持つように忠告してくれているのだと受け取ら
せて戴きました。非凡な凡人さんは自己保存の本能から、開放された方なのですか?御立派だと思います。
ベーシックさん
現在のあなたの思想、信条に到達するには、それななりの経緯があるとは思っておりましたが、
62のレスを見まして閃いたものがあります。フロイトの「夢判断」です。
7歳位の時の記憶が、意識の深層に残存し、思考になんらかの影響を与えているのではないか。
幼少の頃の体験は、人格形成に多大な影響をもたらすのは、一応定説になっております。
フロイト、ユングあたりの「無意識の世界」が、面白いのではないか。
両者がすべて正しいとは思っておりませんが、なにかそこにヒントがあるように思います。
想念の世界で報いを受けたからこそ、立派にカルマ落としをしたのではないのですか?逆
に、いつまでもカルマの代償を払わずに、動物虐待のカルマ的負債を抱え込んだままだっ
たなら、あなたの霊的階梯も現在のようには進まなかったのではないでしょうか。
また、あなたが引用された、「良く整えられし己こそ、まこと得がたき寄る辺とならん」という法句教についてですが、ここに記された己というのは、自身に内在するかけがえのな
い仏性を、同時に他人に対しても他の動植物に対しても平等に投影出来る、自他の区別か
ら解放された己という意味ではないでしょうか。
文面から覗えば、ベーシックさんは大変に高度な瞑想技術を持っておられる様です。本当
のところ、私のような凡人が実相なんて言葉を観念的に使ってみたり、霊的傲慢が云々と
人に説教じみたことをいうのは滑稽極まると恐縮もしているのです。が、思索のヨーガの
真似事くらいは、私のような凡人にも許されるのじゃないかと。そういうレベルなんです。
悪までも観念的遊戯でありますから、もちろん自己保存の本能には雁字搦めの状態です。
はい。しかし、マザー・テレサのような謙虚な心だけは失わずに、わたし流に真理の求道
は続けたいと思います。
最後に付け加えますが、私の好きな弘法大師の詩より〜〜〜
三界の狂人は狂せることを知らず。
四生の盲者は盲なることを識らず。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、
死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
『秘蔵宝鑰』
この詩は、迷い輪廻の流転を繰り返す凡夫の姿を己の中にも見出そうとする弘法大師の謙
虚さを詠っているのではと思います。阿羅漢という高いステージに達したお大師様を、功
徳を現世利益に使ったのは間違っているとして非難する方もいますが、お大師様の慈悲深
い仏教は、煩悩の何たるかも解らない盲を如何にして速やかに仏に縁させようかと苦心し
た結果であれば、一方的に非難するのは如何でしょう。
変人さん
そう言えば、私はフロイトの夢判断を読んではいないません。ユング心理学はある時人に勧められて
かじったことはあるのですが・・・。これも偏見ですね。フロイトは人間のコンプレックスの基は全て、性欲
の抑圧にある。と言うあたりの風評に、どうもそう言う結論で終っている人物の書物なら今更読まんでも
いいだろう。などと思って通リ過ぎてしまったのです。今度は謙虚な心で向い合ってみようと思っています。
あなたのお察しの通り、幼少の頃の様々な体験で私の心はズタズタになってしまったのです。そのお荷物を、
どう料理するかが私の人生の意味だったのですよ。でも多分、悟れなければ一生背負うことになると思います。
そして、多分、悟れないので一生背負うことになるのですね(w
でも、このお荷物がなければ、私は本来怠け者なので、すぐに遊び放題の生活になってしまうと思うのです。
そういう意味では、問題を抱えた男ですが、私は他を貶めるようなことは控える事を学んでいます。そして、あなたとは考え方も違うよう
ですが、異なるものを理解すると言うのは大変価値のあることだと思いますので、ひとつ宜しくお願い致します。
だだ、場所が公の掲示板なので、プライベートなコミュニケーションと違い言葉の用い方にかなり制限があるのですが、その辺はお互い様
と言うことで誤解を招くかもしれませんがお許しください。
非凡な凡人さん
無我に付いて、あなたとはこのレベルでの意見交換は必要なかったと言うことですね(w
私もその様に非常に大きなものだと思います。小さな自分でないと。キリスト教の神の子
も、仏教の仏性も根は同じではないかとも思います。言葉も違うし解釈も様々でしょうが。
でも、私達は学者ではないし、人生の中で経験の中で広く大き豊かな心を得るのが大切な
ことだと思うので、何かアクシデントでもない限り、これ以上厳密に分析する必要もない
でしょう。
精神的な活動や、生活の行いの中で密やかに求め続けて行くのが、私は好きなんです。
弘法大師、空海様は、私は偉人だと思いますが、そういう批判もあるのですか?詳しくは知らない
ので申し訳ないのですが、でも、私もあなたの書き込みの一句、何処かで見た記憶があります。
これは「凄く凄く重たいものだなー」と感じました。短いのですが、とても重いのです。これほどの
ものを支えられる精神はやはり、凄いのだと思います。受け売りではなく、あの方自身の御言葉ですから。
そう言う意味でも私も、自分の言葉というものをもっと大切に育てていきたいと思っています。だって、言葉は
本来、生きた心そのもののはずだからです。そういう言葉が話せるようになりたい。
そして、生きとしいけるもの全てにある無我の尊厳を私は求めていきたいのです。至らないところが多くある未熟
ですが、これからも宜しくお願い致します。
ベーシックさん
誠実なお人柄が、レスに表れております。
人間は苦しみぬいて、なにかを悟るのではないでしょうか?
私は過去において、生死をさまよう大病を患いました。その時始めて「生きる意味」が解った気がしました。
なにかのキッカケがありませんと、心は閉ざしたままです。
呪縛から開放されることに、一念を集中させておりますと、他のことが見えなくなるのではないでしょうか?
視点を変えてみてはいかがでしょうか。ザンゲのために一生過ごしてしまいそうな気がするのです。
「人間の尊厳」という認識は、よけい良心の呵責に追い討ちをかけるのではないでしょうか?
そこがどうも不思議なのです。「人間、皆悪人なり」と言う認識のほうがずっと気持ちが楽なように思うのですが。
あなた自身のアイデンティティを批判するのは失礼なのですが・・
変人さん
私はそれでいいのですよ。私が辿り着いた答えなのですから。そして、私は自分を公の場で理解してもらいたい
と言うより、他を理解したいのです。私の思想など他人は、興味もないし受け入れられるものではないと思います。私だから
受け入れられる。そう言う質のものなんですよ。これは傲慢とも言えますが、私は自信であるとこれを認めてい
ます。ここには何人たりとも踏み込むことは出来ないのです。踏み込めるのは人間以上の存在だけではないかと思います。
他人が見れば、惨めな生き方にも見えるかもしれません。そう言う眼差しで、軽蔑を受けることもありました。
しかし、本当に威厳をかけて仕事に打ち込んだ時、又、人生上で、命がけで立ち向かわなければならないような
時、行動を友にしたり、たまたま居合わせた人々などは、私の思想というより、生き様に、尊厳を見付けだして
いたと言うこと人伝に聞いたり、直接、評価されたこともあります。こう言うのは自慢したいからではありません。
この尊さは、全ての人々が共有しているものであると言う信念を、確かめたいという思いがあるのです。私の一人
よがりの尊厳であれば、他人の心に勇気や明るさを誘発することはなかったはずだという自信なのです。私自身の
人生が堅苦しくなると言う問題も確かにあるし、嫌なのですが、そういう尊さを、人間が共有していると言う私の
信念を確かめてみたいんです。その人の尊厳が私と同じものでなくてもいいのです。何か、共振するようなものが
あるのならば。この比重は私の人生の中のテーマかもしれません。そして私の心の中には、善と悪の葛藤があります。
悪に傾けば私は楽しいのですが、心が悩みます。善に傾けば心は喜ぶのですが、私が悩みます。変人さんは、そう言う
苦悩を味わう私を心配してくださっているのかもしれませんが、御安心ください。私は相対の彼岸へ行く方法も知っている
し、出来るのです。よく、失敗はしますが(w。 そうでなければ普通の生活などやってられないし、営めません。
電波スレか…
ベーシックさん
自分と価値観を共有できる人間がいない。これは寂しいことです。
これに関しては、私も同じ境遇です。相手を随分探しました。ですから貴方の気持ちは解ります。
最近一人見つけました。ネット上ですが。自分の考えに合う仏典も見つけました。「般若心経」です。
この宗教板に「悟り」というスレがあります。私はそこの住人です。よろしかったら遊びに来てください。
だいたいsageでカキコしてますので、常に沈没しておりますが、よく探せば見つかります。
「悟り」のスレを、最初から読んでいただければ、貴方と私は同じ境遇だと解るはずです。
スレに参加していただけたら大歓迎です。なにか掴んでいただけたら幸いです。
レスの最後の部分がどうも気になります。
やはりこの世は苦の連続です、その中をかろうじてすり抜けながら、どうやら生きているのが
人間ではないでしょうか?どうしてもすり抜けられない人、うまくすり抜ける人。
人間の真価は、そういうところで試されるのではないでしょうか?
というよりも、それが一番大切な事なのではないでしょうか?
人間が作り出した価値観など、それに比べれば「大河の一滴」です。
人間に課せられた第一義は「生きる」ということではないでしょうか?
人類200万年の歴史。脈々と受け継いできた「生命継承」。ころが一番の基本だと思います。
そこの根底にあるものは、貴方が言っている「生命尊厳」という共通認識があってのことなのでしょう。
凡人は、なかなかそこのところまで掘り下げて考えませんから、通常は忘却の彼方ということでしょうか?
で、こういった認識というものは、潜在意識の奥底に誰にでも在ると思うのです。
それに目覚める人、気のつかない人・・その差ではないでしょうか?
変人さん
色々お気使いして戴いているようで、ありがたく思います。私とあなたでは、経験が違うし、考え方も違います。
それは私も承知しているつもりです。でも、その違いを認め合った上で、その違いを超えた大いなる何かに共振
できる何か、生命の中の黄金率のようなもの。何か緊急事態が起こると湧きあがってくるもの。
人種も超え、宗教も超えて人と生命を繋ぐもの。何気ない普通の人でも我が身を省みることも忘れて他を救おうと
する人々を動かしているもの。
何も感じなければ、そんな行為には及ばない。自と他の境界を超えて何か大切なものを人間は感じることが出来る。
私はそう信じているます。
捕え方は様々でも、考え方も様々でも、こうして変人さんとも、尊重し合えるものをお互いの中に発見することが
できるのです。これを侵すようなことをするのは自分の心が喜ばない。尊厳は「私のもの」でも「あなたのもの」でも
ないのですが、誰もが感じる事ができる。
とは言ってみたものの、実は私の妻は外国人で理解し合えることは素晴らしい事なのですが、理解し合うのは大変でも
あります。今またその大変さを身にしみさせる事がありまして、少しレスが遅れましたが、素晴らしいものに辿り着く
には、やはり、それだけの代償を払わなければならん時が結構あるものです。レスにパワーが入らなくて済みません。
昨日は明け方の3時頃まで妻と理解し合う為に対話をしていたので、寝不足で思考がまとまらないんです。スマン。
明日、御紹介戴いたスレを頭脳サッパリ状態で拝見させて頂こうと思います。ありがとうございます。
ベーシックさん
アメリカのテロ事件がありましたね。事件の背景を考えますと、貴方の方が正しいのかもしれません。
あの事件は宗教、民族の問題が絡んでいます。それよりももっと基本的なこと「人間の尊厳」という
人類共通の価値観があれば、今回のテロは無かったはずですから。
やはり「基本的」というのを見過ごしてしまう。人間の悲しさですね。
私は、一日一回以上スレには目をとうしています、レスが入ったようでしたらオープンしますから
落ち着いた頃にレスつけて下さい。
変人さん
どうも、落ち着いたと言うか、何ですが、よく妻とはじっくり対話するんです。育った国が違うと、本当に
日常生活で使っている常識の基盤が違うものです。だから私は妻との対話を重要視します。
私は思うのですが、人間は80%から90%位は嘘で構成されているものではないだろうかと。この場合の
嘘は、実というものに対しての嘘なのですが、勿論私自身も含めてです。
よく、瞑想を行うのですが、自分自身の内的なものに騙されてしまうこともよくあるのです。閃光のような
インスピレーションを受けることもあるのですが、大体、上に書いたような確立で解釈を間違えるような気
がします。間違えるというより、私が解釈すると薄められてしまうと言った方が正しいかもしれません。
だから、人間の喋ることはどんなに正しくてもそれくらいのものでしかないのだろうと思っている訳です。
少なくとも、意味を伝える言語としての言葉に付いてはそうだろうと思っています。その点「ふれあい」とか
「交流」と言うものの方が「存在」と「存在」の出会いのダイレクトさがあるのではないかと思います。
宗教にしろ哲学にしろ、その他のものでも、人生上の重要なものが、その意味の解釈で止まってしまったら、
それがどんなに立派な言葉で説かれたとしても、薄められるものとしての宿命を背負うことになるのでしょう。
今回、妻の関係で言葉の殆ど通じない人を少しお世話したのですが、意味の言葉が通じ合わないので、イメージ
や感覚にたよるコミュニケーションしかなく困難でしたが、人と人のふれあいという意味では、通じる言葉で
分り合えると言う前提の上での交流より実が多かったような気がしています。
変人さんは人と人が理解し合うという事に付いて、どのような可能性と制約を感じていらっしゃるのですか?
ベーシックさん
言葉は言霊(ことだま)言いまして、霊が宿るというような意味で、古来日本人は大切にしてきました。
まあ、それも昔の事コミュニケーションの発達でそれもだんだん無くなってきました。
言葉はそれ自体に、共通認識がありますから、これが一番の方法だとは思うのですが・・
男と女となりますと、これは別物ではないか。理解し得ない存在であることを先ず前提とする。
基本的にはそう解釈しています。脳の構造、生理的にも全く違うという事を認識しています。
ある程度の理解で良しとしませんと、かえって混乱をきたすように思います。
生活における基本的な部分で共通項があればそれで充分ではないでしょうか?
しかし、それもままならず・・となりますと、やはり問題です。
どこで妥協点を見つけるか・・それにかかっております。一番のネックは習慣の違いでしょう。
このハードルを乗り越えられなければ、やはり生活圏を分離する以外ありません。
部屋を別々にする、ということです。多角的に方法を考えるべきです。
まあいづれにせよ、男と女の間には深い溝が在るという事は避けられません。
日本人同士でさえそうなんですから、貴方が大変な想いをしている事は想像できます。
二人で共有できるなんらかの価値観を構築できればいいのですが・・
変人さん
うーん、異性間と同性間では、やはり関り方が異なってくるのは止むを得ませんね。私は御存知のように
理想主義的な傾向がありますので、かつてこんなことで悩んだこともあります。それは、自分自身の男女
の差別が、情けなかった。例えば、美しい女性と、むさ苦しい男を、同じ人間として関れなかったという
ような事でです。頭の中にある、平等とか博愛と言うものと、精神が葛藤したのです。こういう意味では
変人さんの言のように、道徳や尊厳で人は苦しめられますよね。
今ではもっとおおらかにそういう自分も受け入れるという術を学びましたが、受け入れると言う精神がと
ても重要ですね。勿論、何もかもと言う訳にはいきませんが、受け入れると言う柔軟な精神がないと裁き
という方向にどうしても向かってしまう。
男同士の場合だと、戦友という関係が非常に強い人間的な絆で結ばれているような気がします。これは
思うに、相互理解ではないのかもしれない。同じ目的を背負い、その為に死まで共有してしまう。相互理解
を深めることと、絆を結び合うこととは、関係性はあるかもしれませんが、何か違うようなもののような気
がしています。相互理解は、自と他の深い溝に橋をかけるように、地道に進めて行く作業で、智の領分に依って
いる。命の絆と言うのは、自と他の溝を瞬時に超えてしまうような不可思議な現象を現す事がある。これは情に
依っている領分。例えば、男女間の知性的な相互理解と言うのは非常に困難でも、セックスと言う究極の情の作用
を用いれば、やはり、瞬時に自と他の境界が融けることもある。まあ、この場合は瞬時に醒めてしまうこともある
のですが。
一人一人のひとつの精神の中に、知性と感情と言う異なるベクトルを持つ精神が内在している。人間にとってこの
知性と感情はクルマの右輪と左輪のように、ひとつのものの中の異なる要素として縦横無尽に使いこなせるように
なるのが、やはり理想主義者としての私の理想なのかもしれません。
概ね男性は知性に、女性は感情に依っているなどと言われていますが、男性は女性と関ることで、情緒が豊かにな
るチャンスに恵まれ、女性は男性と関ることで、知性を磨くチャンスを得る。(続)
まあ、何が言いたいのかと申しますと、人間の精神は全てを見渡すポテンシャルを持っているのではないか
ということなんです。私はこれを仏性とか、神の子としての権能だとか思っているのですが、人間は基本的
に精神の中にそういうポテンシャルを内在しているのではないか、本質的には一人の精神の中で自己完結で
きているのではないか?しかし、その為には様々なものと出会い、試練などの縁の作用がどうしても必要に
なってくるシステムになっているのではないか?存在と存在、自と他は、実は有機的に繋がっていて、自己
完結していながら、自己完結の心に目覚めてくればくるほど、他の重要性、他との切っても切れない関係性
思い知らされるように浮き彫りになってくるシステムになっているのではないか?と言うのが私の生命観な
のです。この極みに大悟とか、無我というものがあるような気がするのです。
ベーシックさん
戦友などは、互いに共有するところが同じであるから、ごく自然に結びつきは出来てしまいますよね。
それに「死」というのもある意味共有するわけです。男女の心中と同じでしょうか?
玉砕となりますと集団心中。こうなりますと、自己の生命が集団に同一しますね。
まあ、こういったのは特殊なのですが、これのソフトな関係というのは人間相互あって然るべき。
そこが原点かと思います。人間相互の理解ですが・・
もともと人間にはそういった能力が備わっていたと思うのです(万年単位の歴史考察)。
現代において、そういった能力が失ってきている。もっと端的にいえば・・・
人間相互のコミュニケーションさえ下手になってきている。「寂しい子羊」が沢山おります。
要因とすれば、貴方が常に提唱している「人間として基本的なこと」・・これだと思う。
いづれにせよ、こういった状況というのも認識すべきでしょう。そこで活路をみいだす方法論ですが・・
状況を肯定してしまうか・・はたまたその逆か・・。理想主義は後者でしょう。
ですから、理想主義は大変なんだと思います。貴方の見解は如何に?
変人さん
私の理想主義と言うものに付いて簡単にお話してみましょう。理想主義にもいろいろあるでしょうから。
まず、中心に現実があるのだと思います。この現実と言うのが曲者なのですが、仏教用語で言うところ
の「無記」を持ち出してみます。そのポテンシャルから、善悪など、作用反作用の相対的ベクトルが出て
きます。物理で言うと、真空から陰電子が飛び出してくると、その抜け殻は必然的に陽電子になっている。
と言う説明です。
私の宇宙観、生命観は、発展途上で暫定的なものですが、まず、無記とか真空のように絶対というものが
あり、それを中心にして相対的なベクトルがうまれてくる。何故そう思うかと言うと、それ以外のものは
基本的なものにはありえないような気がするからです。地球に中心があり、太陽系に中心があり、星雲に
中心があります。この中心というのは非常に重要です。中心があって、そこから様々なものが生まれてく
るのですから。物質にも必ず重心という点があります。運動エネルギーにも、必ず作用点と言う中心点が
あります。数字にも−0+という三つの要素があり、ゼロが起点になります。中心のないものというのは
考えられないということで、そう思うのです。
笑われるかもしれませんが、中心と言うのは神の要素なのではないかと思うのです。全てに宿って全てを
支えるという意味でも。一番大切なものなのに、見えないようになっている。太陽も眩しくて見えません。
(これは冗談ですが)でも、太陽は私達の星系の中心にあってこれがないと太陽系は成り立たず、しかも
太陽は一秒間に300万トンという己が身体である質量を核融合ですり減らしエネルギーを放射している。
凄いですよね、死ぬまで燃え続け、与え続けるなんて。こういうところに私などは神仏の心を思い浮かべ
たりしてしまう。
済みません、前置きが長くなり過ぎたので一旦切ります。(続)
ベーシックさん
宇宙観、生命観は良く貴方の性格が現れています。私はもっといい加減です。
基本的には一元論を根本にしております。
宇宙の創生は、やはり真空からです。真空がユラギそこから物質(陽子?)、反物質(反陽子?)
が発生。衝突すると消滅しますが、たまたま物質が多く偶然に物質が残存した。
偶発的なものと思っているのです。こんなことを書きますと唯物論者と誤解されそうですが、さに在らず。
貴方は、鉄(fe)の原子がアメーバーのように動くのをご存知ですか?
無機質が運動をするのは考えられないのですが、ミクロの世界は実にダイナミックです。
そこに神を見出す人もいるのでしょうが、私は一概にそうとは思っていませんが。
「それらしきもの}という概念で捉えております。
そうそう太陽といえば、エネルギーの源は「e=mc2乗」ですね。これは驚異ですが
ここにも神を見出す人もいるでしょう。
物理学の世界は、宗教以上に神秘的です。たまにこういう事を考えるのも大切ですね。
私とは、少し考えが違いますが素晴らしい宇宙観をもっていると思います。
さて、前置きが長くなって済みませんが、中心と言う発想が私にとって非常に重要なものということ
なのです。以下は私の信仰心に依っているものですので、私にもよく分からないものが多いのですが
お許しください。
その中心をベースに私が存在しています。今ここに書き込んでいるのは相対的な私で生死の私です。
この私に生がある限り死は免れません。それと同じように私に善がある限り、悪から免れることも
無理なのです。ここにいるのは善悪の私なのです。変人さんは、私の思想が崇高だと仰いますが、それ
と同時に低劣な私も同在しているのです。それは他人には見えません。見せる必用もありません。でも
確かにあるのです。自分が知っていればよいのです。自分が善人になってしまえば自分の低劣さを他に
投影して他から反発をくい、結局善人の自分が最後にその低劣さと向い合わなければならなくなったり
します。相対的ですからどちらか一方では成り立たないのです。自分でそれを知っていればいいのです。
人は概ね善を好み、美を愛する。その分悪や憎しみは他に転嫁する。己が心と忠実に向い合うということ
を苦手とするんです。ただ、自分の善、自分の美は他との関りの中でズタズタにされてしまうのです。
ここはちょっと複雑なのですが、人は自分が善であると信じなければ生きて行けません。でも、それを否定
される力がこの世界には満ち満ちているのだと思います。他人のせいで済ませば、善であると信じて生きて
いる、心の中の悪の部分に光が当ることは難しいと思います。そこに光が当るのは嫌なのです。それは自分
が苦しいからです。善人の自分、何も悪い事をしていない自分が不当に苦しむのは通常、納得がいきません。
だから、相対の中の中心になっている神の如き不動の自分を発見することが重要なのです。仰る通リ理想主義
は崇高さ故に低劣に足を掬われ、善を希求するが故に悪に悩まされます。現実との狭間で葛藤も起こします。
でも、私は中心を発見した。この部分はあれかこれかで揺れ動いたり葛藤したりはしないのです。まだまだ
不確かな発見で見失うことも多いのですが。でもこの中心を体験する前と後では内面的な平安にかなり違いが
あるような気がします。
相対の中の中心とは、仏教における中道ですね。これの究極が一元論なのでしょう。
貴方がいうように、二元論に対し確かに合理的であるし安定していて平安です。
善悪にしても、相対的に考えたほうが合理的な感じがしますが、「善悪一如」のほうを取ります。
それは、人間の心の奥底には「悪」というのも内在していると思うんですよね。
歴史的にみて、爬虫類に襲撃されたり、人間どうしの殺戮そういった「負」の部分というのは
深層意識に押し込められていると思うのです。「善」など僅かでしょう。
人間の本質とはそういうものなんじゃないかなー。と思ってしまうのですが、そこのところが
貴方と違いますね。貴方は「善」なるものと思っているのでしょうから・・。
この問題は重要なので、宿題にして私自身よく考えてみます。
前にレスした「悟り」というスレね・・あれ鯖が重くなってトンでしまいました。
ここでいうののもなんなんですが、あのテーマは難しいね。というのは・・・
「悟り」を議論する前の、肝心なベースの部分が迷っている人に、「悟り」を話しても
はたしていいものか・・どうか。私の慢心といってしまえばそれまでですが。
とにかく、人に理解させるには相当なエネルギーを使うんですね。
それでも解ってもらえなければ、それきりなんですね。
デカルトには関係ないのですが「我想う故に我あり」この我に執着のある人(仏教信者)に
いちいち私が解釈をつけてもどうかなー。と思ってしまうのですよ。
しかも私は無宗教でして、仏教信者にツッコミをいれていいものかどうか・・ですよね。
このスレは結構読者が多いと思います。一応sageますが、見解をお持ちのかたは
どうぞレスつけて下さい。>all
変人さん
私は思うのですが、悟りであるとか、心の境地のようなものは、文字に依る伝達は不可能なのだと
思うのです。つまりナマものと言うか、口伝で想念の誘発を用いても難しいような気がします。
やはり「自分で気付く他、道はない」これが人間の尊厳でもあるとも思うのです。自分で気付くと言
うことが必要不可欠なのですから。厳しいようですがそういうものではないでしょうか?
私達は他人の内因にはなれず、外力として作用する以外どうすることもできません。それに、変人さん
が仰る様に大変エネルギーを消耗します。そこまでして解ってもらうこともないともおもうのです。
相手の言うことをよーく聞いてみると、そこまでこちらが親切にするべき質問でもないようなことも
あったりして。自分が正しい、相手が間違い。極言するなら「自分を認めろ」という心の言葉に立派な
文字を乗せてしまうところなど、人間の業の悲しさが出てしまう。そういう心には悟りより救いや癒し
が必用なのですが、そういう心はそういうことを認めません。そこで方便と言うものが力を発揮するの
ではないでしょうか?つまり、直球勝負ではかわされてしまう。だから、変化球を投じるのです。
でも、これは相手の心の言葉を良く聞いて、受け入れる度量がないと更に混乱してしまうかもしれません。
まず、自分が解っていることが重要です。次に自分と縁の深い人に方便を試し見てみる。その上で分り合える人を
求めるという順で私は実践したいと思います。身の回りのことで精一杯なんですよ。でも、普通の人間らしい
生き方だと私などは思ってしまう。自分一人さっさと涅槃へ行って人間は終れないのです。
ベーシックさん
今度のレスは全く同感です。
自分で経験して良く解りますね。でもこの経験が、私にとっていい勉強になりましたね。
まあ、この2チャンを借りまして一応私なりにやってみたのですが、「人間の考察」という
面においていろいろ観ずるところがありますね。
貴方は「性善説」がベースになっているようですね。わたしは実際のところ確信がもてないのですが・・
仏教では「善悪一如」といってるんですね。私ですとこちらの方ですかねー。
つまり、一元論的思考になってしまうんですよ。相対的に考えないんですね。
どなたか言ってました。自然界は「丸」が基本らしいです。
まあ、地球も丸いですし石も丸に近い。三角、四角はあまりないですね。
一元論はイメージからしますと「丸」ですね。
だけど、男と女、メスとオス、プラスとマイナス。世の中相対的なものが多いです。
おもしろいですね。こういう単純なことを考えてしまうのです。
私は今まで、自分のことを無宗教かと思っていたのですが、禅宗の人の考えを聞くと
私と良く似てるんです。最終的にはどうなるか解らないのですが・・・
あなたも、なにか傾倒しているものがあるのでしょう・・よく神が出てきますから。
漠然とした「神の存在」ということもあるし、神にもいろいろありますからね。
仏にもいろいろありますよ。私は実際のとこ仏には関心がないのです。
宗教とは難しい。
86 :
名無しさん@1周年:01/09/21 01:50
「善悪一致」で思うのだか、今現在正しいといわれている事は
歳月とともに正しくなくなる可能性がある
又、正しいといわれている事の押付けは我があるという事で
我=欲という形になってしまう
仏教では「欲」という物は災いをもたらすものであるから
欲があるという意味では善も悪も同じ部類に入ってしまう
のではないか
だから、善も悪も何も無い「無」「空」というものが
出てきたのではないかと思う
変人さん
結局のところ、私も一元論だと思いますよ。この根源から相対論が発生してくるのですから。
あと、神とか宗教に関してなのですが、あまりこだわる事もないような気がするのです。
私は母親がキリスタンの関係で、キリスト教に触れた経験もあるし、仏教にも自ずから触れた
こともあります。新興宗教の類にも触れた事があります。だから、私は自分なりの宗教の結論
を持っています。それは、助けてもらえる代わりに、縛られるという感覚です。
人間には、救いや癒しが必用です。病人が薬を必要とするように。自己の治癒力が病気を駆逐
できるまでは薬が必要でしょう。私は万人が病人だと思います。悪人というよりも。
性善説なのですが、悪人と言う言葉を代用してみると、悪がわかればわかるほど、善を求めざ
るを得なくなる。そうしないと生きていく価値を見出せないのです。
悪は何の努力もなくても毎日毎日どこでも目撃できます。しかし、善はどうでしょう?だから
善を求めたくなるのかもしれません。神、宗教、性善説、性悪説、それらの文字は実ではあり
ませんから、ただの拠り所くらいにしかなりません。ただ、人間である以上拠り所は必要である
と私などはおもうのです。空や、実相、無我などはそこまで辿り着ける心の持ち主だけが使える
言葉であるはずなのです。人間は自分の居所を捨てて空や無我に向かうのは道理に合わないよう
な気がします。自分の居所に確りと根をはって、着実に心がそこまで成長して辿り着く必要がある
のではないかと思います。エマージェンシーの時はその限りでなく、空や無我に同調されて救われ
ていくようではありますが。人生自体は、この環境で生きるのが本道ではないでしょうか?
>>86 確かにそうなんですね。
いろいろな悩み、疑問がだいたい仏教哲理で片付いちゃうんですよね。
自分は無宗教だと思っていても、いつのまにか考えることは仏教的になっているんですよ。
しかし私は、貴方ほど掘り下げて考えていませんでしたから、いい勉強になります。
事象の捉え方を、本質のところまで視点を移す・・こういった訓練も必要なのかもしれません。
ベーシックさん
現実至上主義というところでしょうか?
まあそれを土台に、いろんな角度で検証してみる・・というのが私のスタンスでしょうか。
「そこまでやらなくても、今が良ければそれでイイジャン」。というのが現代の風潮です。
虚無主義(ニヒリズム)というのでしょうか?結構、市民権を得てるんですね(w
貴方の場合は、それに逆行している感じで、かえって新鮮です。
昭和の始め頃だったでしょうか?東大の文学青年が、世をはかなんで日光華厳の滝に身を投げました。
死ぬ前に、近くの大木に「辞世の句」を小刀で堀ったんですね。いまでも語り草になってます。
「句」の内容は「世の中、生きていくのがつらいので死にます」ていどの簡単なものです。
みやげもの屋さんに行くと、今でも絵葉書にして売っています。
たぶん人間の好奇心が偶像を造り上げ、ついにヒーローに仕立てたのでしょう。
昭和の初期の学生ですから、たぶん純真だった・・そこからある種のノスタルジーを感じるのかもしれません。
以上・・。雑談ですので意味はありません。
変人さん
真面目に道を求める人の良き縁になれるのは光栄なことです。でも、私も良き勉強をさせてもらってますよ。良き縁を
作れるということは幸いなことです。
さて、ここで一つ告白をしてみようと思うのですが、少年の頃の淡い恋の物語でございま。その恋をキッカケに私は
ナゾナゾをかけられてしまったんです。それが数年前にようやく解けたので、私は妙に納得してしまった。
では、始めてみましょう。私が少年の頃、ある美しい少女に激しい恋心を抱いてしまったのです。勿論、一方通行で
あったことは言うまでもありません。でも、私の想像力は膨らみました。彼女を暗黒の世界から救い出す騎士になって
みるというものでした。(お笑いでしょ?)でも、その頃の私は真剣に想像していたんですよ。
それと同時に、お恥ずかしい話しなのですが、私は子供、頃お化けがとても恐ろしかったのですが、彼女と一緒で彼女
を救う為なら闘える自信が湧いてきたものなのです。さて、そこで少年の私は、ふと疑問に思ったことがあります。
私にとって彼女の美しさと魅力は絶対的なものだったのですが、果たした彼女が一人だったとしたら、美しく魅力的な
自分の為に、彼女は己が恐怖と闘えるのだろうか?直接彼女に聞いたわけではないのですが、私は彼女は一人では自分
の魅力で恐怖を克服できないだろう、一人だったら自分の魅力どころか、私と同じように恐れおののくに違いない。と
結論したのです。でも、そうすると私の感じている美しさや魅力は一体何なのだろう?何処にあるのだろう?彼女のもの
ではないのか?自分のものなら自分で活用できないのはおかしい。と、言うような疑問でした。(続)
その時は真剣に悩んだのですが、結局答えが出せずにうやむやになっていきました。どうしてもわからなかった
んです。それからも折に触れて時々考えてみたのですが、やっぱりわからずじまい
だったのです。ところが、宗教など心の世界を主体的に求めるようになってから、ある時答えに辿り着いたような
気がしました。私が感じていた美しさや魅力は、実は自分の心の中にあったのではないか?彼女のものではないに
違いない。彼女が外力という縁になって私の内面から引出したに違いない。と。
そうでなければ、私達の感受する、美しさや価値などが様々に変化すると言うことに納得がいかない。相互作用で
外力に引っ張られることはあっても、人はそれぞれ自分の内面、心を見ているんだろうって。人はそれぞれ自分の
心の世界の住人であるに違いない。だから、内面が変化すれば見えていたものも変化するのだろうって。
そうでなければ、必至に努力して、これさえ手に入れば満足だという物を手に入れて、客観的にその物自体に変化
はないのに、何時の間にか色褪せてしまうということも考えられない。そうであれば外にある物を求めても求めても
ある意味、徒労でもある。だからそんな時心はある種の虚しさを感じるのだろう。自分の心がお留守になってますよって。
なるほど私は納得して安心したのです。が・・・。では、内面にある不確かな心をどうやって掴めば良いのだろう?どう
やって不確かなものを確かにすることができるのだろう?という疑問にいつの頃か発展していったんです。でも、その答えも、今
ではかなり近付いたような気もします。で、同時進行でこれを他と共有し合うにはどうすれば良いか?集団心理と言うものが
まだまだ理解できない。一人で居る時と誰かと居る時や集団で居る時では、明らかに引出される心理が異なっている。
善く解釈すれば、一人の時はできない善行でも、集団化すると可能になってしまうのは何故か?その逆も然りということです。
>>90 >果たした彼女が一人だったとしたら、美しく魅力的な
>自分の為に、彼女は己が恐怖と闘えるのだろうか?直接彼女に聞いたわけではないのですが、私は彼女は一人では自分
>の魅力で恐怖を克服できないだろう、一人だったら自分の魅力どころか、私と同じように恐れおののくに違いない。と
言わんといている意味が解りません。
文章おかしくありませんか?
掲示板に長文カキコするときはスタートメニューからプログラム→アクセサリー
→メモ帳を開きそのメモ帳に書き込みをしたものを掲示板にコピぺしましょう。
〜〜〜掲示板・誰もが知ってる一口メモでした〜〜〜
92
済みません。文章を書くのは苦手なのです。でも、私の言う事など戯言と受け流してしまっても、あなたに
とって問題はないと思うのですが?変り者の呟き程度に。私の方はそれで結構です。
私も、あなたのレスの意味が解らず、意図が不明ということで対処させていただきました。
>>93 掲示板に長文を直接書き込まずメモ帳等でコピぺしたほうがいいと言うのは
ひとつには掲示板に直接書き込みしてしまうと
「飛んでしまったとき」にまた一からやり直さなければならないということ。
もうひとつはメモ帳などにカキコした場合そのスペース(行数)が大きいので
全体を俯瞰出来るため意味不明の書き間違い等が発見しやすいなどの利点があります。
そして全体を見渡して間違いがないと思ったら掲示板にコピぺするというのが一般的な方法です。
もしかしたらご存知ないのかと思ったのですが既にご承知でしたらすみません。
私は別に揚げ足取りをするつもりはありません。
もしかしたら私にはそのカキコの意味が理解出来ないと思われたのですか?
だとしたら残念です。
その内容についていくつか申し上げたいこともあったのですが
私のカキコの仕方がまずかったようで
気分を害されてしまったようなのでこれ以上はやめにしておきます。
ベーシックさんとは縁がなかったということなのでしょう。
とんだ横やり失礼しました。
ベーシックさん
女というのは、心理学的に言いますと「危険な男」に惚れるらしい。
危険ですと胸がドキドキする。それを「恋のときめき」と勘違いするらしい。
もっとデリケートなものかと思いきや、以外に単純。男の方がロマンチストということになりましょうか?
人間は確かに不安定です。「一念三千」と言いまして、瞬間瞬間に変化するようです。
女性を見る時でもそうですね。いい女に見えたり、そうでもなかったり・・
まあ、いつでも気が変わります。いい女に見える時は自分が映画俳優になった気分になるのですが、
そうでないときは、狸と歩いてる気分になりますね。
女性の方は、そんな男の心変わりも知らず、いつも平然としてますね。
そんな時は笑いそうになってしまうのですが、こらえるように努力します。
あまりこういう事を書きますと「女性差別」とかいいまして、女性の攻撃にあってしまいます。
女性が見ないようにsageにしておきますから・・オ〜コワ。
92さん
別に、気分を害したりはしてませんよ。ただ、私は2chに対してあまり良い印象を持っていないので
せっかくの当方の親切心を、当然の如くに踏みにじられるかもしれないということに対してのささやか
な防衛策ということで了解してもらえないでしょうか?
このスレを立ち上げた当初、変人さんともコミュニケーションが巧く成り立たず、いくつものやり取り
を経て、これなら私の内面での体験に付いて多少なら書き込んでも変人さんに奇妙な思いをさせずに済む
だろうという判断の基での書き込みだったのです。
勿論、公の掲示板なので、これでもかなり神経を使っているつもりなのですが、スレを最初の方からご覧
になって頂ければ、変人さんとの経緯の中で出てきた書き込みであるということがご理解できるのではな
いかと私の方は思うのです。
こういう前提を無視されない方であれば、突然「何処そこの書き込みはおかしいのではないか?」と何の
前置きもなく、また、名無し無名の状態で飛び込んでこられれば、常識的に考えて、警戒されると私など
は思ってしまうのです。そう言うことで93のレスでは意図が不明としか判断できず、かといって放置す
るのも、不明である以上私の判断では失礼になるので、とりあえずジャブを出してみて反応を覗うという
やり方を選択したのであります。
ただ、私の方こそあなたに不愉快な影響を与えてしまったとしたら、お詫びします。ただ、特定の人付け
にレスしたものについては、その経緯を考慮して欲しいと思います。そう言う場合特に文法を無視するよ
うなやり方になってしまうもので、つまり、意味を伝えると言う目的で文章を整えるよりも、その時の
の心の声をよりダイレクトに文字に乗せたいということで、心の赴きにまかせてしまうんです。そういう
ことなので、公の掲示板に乗せるのは不適当かもしれませんが、かなりデリケートなものを扱っているの
で、今の私にはそれ以上の方法が思い浮かばないと言うことなんです。ですから、ご覧になるのは御自由
ですが、そういうやり方が良いと思っている男なのだと言うことで了解してください。
変人さん
あなたも、おもしろい方ですね。いや、決して悪い意味ではないのですが、今までの私の考え
では、どちらかと言うとあなたは、女性のことなどで心を煩わせるようなタイプではないだろ
うと思っていたもので、女性心理をおそれておろおろする変人さんの心など、想像することすら
できなかったんです。いや、なんか安心しましたよ。
でも、私も理想主義などと他人からは思われたりしますが、女性との関りにおいては何度この人
に全てを捧げるんだという決心が変わったことでしょう。そう言う意味では悪い意味で一念三千
を実感させてもらった男ですね。我ながら不思議でした。でも、そういう不思議を感じるセンス
がなければ、己が心の中など、何も探求したりしないということでもありましょう。
実は最大の不思議こそ、自分が今ここに居るということというのは、核心を突いているのかもし
れませんね。
ベーシックさん
確かに「我」は不思議です。デカルトはこれに執着しましたね。
ですけど、わたしはデカルトとだいたい反対の立場ですね。
「我あるが故に我あり、されど我なし」というところでしょうか・
「我」に執着しますと、見えるものが見えなくなります。
一度これを取り払い、客観的に考えてみる。こういった事も必要ですね。
改めて自分の存在を検証するんです。そうしますと「我」が見えてきます。
この「我」こそ重大な問題なんですね。自分自身を知る・・ということでしょうか?
でも、これは至難なことです。私もようやく扉を開いた状態。先はなかなか・・?
変人さん
そうですね。「我」をどのようなものと観るか?この姿勢が重要であると、私は考えます。それぞれ「我」と
いうものに付いての会見も違うでしょうから。私の真意が伝わるかどうか、一抹の不安はあるのですが書き込
んでみましょう。
まず「我」があるという立場がある。そして「無我」であるという意見もある。では、私はどう考えるかと言う
と、実はこのことに付いてはさほど問題意識はなく、哲学的な問題で、議論するのも、あまり好まないんです。
私は常に、いのちと言うナマモノを原点とするように心掛けています。先に申し上げた中心への求心力を求める
ことがテーマなのです。さあ、そこで「中心は無か?」と尋ねられたら、今の私は「有」と答えます。完全調和
で透明だから、無のようですが、そうではないように思うのです。確かに、我々の五蘊というのは実態のないも
のとは思うのですが、中心こそは究極の「有」であり「実態」のあるものだと思います。
ただ、我々人間の前には、虚実不明の迷妄と言う壁が立ちはだかっていると私は考えます。この壁の手前で、
いくら立派に無我を説いていても、私などは虚しく感じてしまうんです。私の意見は、難しい仏教哲理などを持ち
出す前に、自分が感じているものに、正直になることで、そこから始めるべきだということです。自分が深いとこ
ろで感じているものを無視して、難しい理屈で着飾って悦に入ったとしても、それは自己欺瞞で、本来のいのちに
対する反逆行為にもなりえるのではないかとも感じます。
最近、御紹介してもらった「悟り」のスレも拝見しているのですが、私も、変人さんと同じような体験が可能です。
風と一体化するような。すべてのものと一体化するような。とても美しく不思議な体験です。そこで、その体験を
踏まえて、問いかけてみたいのですが、その状態の時にそれを感受している主体は一体何なのか?ということです。
やはり、それも「我」の一種なのではないかと思うのです。私は今の所、我が無いと言うことを、否定する立場を
取っているのですが、その辺をあなたはどのようにお考えですか?
ベーシックさん
>風と一体化するような。・・感受している主体は一体なんなのか?
主体は「我」なのでしょうけど、それが広がりをもっている・・ということです。
ですから、この延長線で考えるなら「我」という認識自体が無くなってしまうのではないか。
というのは感じられます。「我」は絶対的ではない。というのを経験上考えられる。
意識が認識している。というだけではないですか?
つまり、外科手術している間は「我」という認識はないですよ。一応認識の問題ですね。
認識も絶対的なものとは考えずらいですから。たとえば、身体が生理的に生きていて、
意識の無い状態ですと、「我」というものが認識できない。ということは、「我」が在るとは
言い切れないんじゃないか。この場合はどうでしょうか?
死んで「我」が無くなる・・という問題以前に「我」が消失してしまっているのではないか?
101 :
名無しさん@1周年:01/09/25 15:50
便所で一人、糞を垂れるときの境地、
これこそ人間の尊厳の心の絶対的基準と言えるものであろう。
101さん
その尊厳はあなた自身が大切に保存しておけばいいでしょう。あなたにとってはそれが
素晴らしいもののようです。それを私がどうこういう筋ではないというのはお分かりで
すよね。
変人さん
うーん、そうですねえ。確かに人間には意識が無い時があります。同時に「あの体験中」も私と云うものに
広がりもあるし、体験中にそのエネルギーのようなものに我が飲み込まれてしまうようなこともありました。
でも、私はそれは私の我が未熟であるからだと思っているんです。つまり私の自我には様々な人間的な穢れ
がこびりついています。あの世界はそういうものの侵入を許さないのではないかと感じるんです。入り口付
近では、確かに恍惚感に浸れるのですが、それ以上となると厳しいものを感じるのです。そこはおのずと入
れる者を選んでいるような。神の領域の厳しさのような。一切の穢れや不浄を拒否するような。人間であり
ながら、そこまで辿り着き、その後も基の生活に戻れるとしたら、凄い精神の持ち主ではないだろうか?と
私などは考えているのです。でも、私が我を維持したままでいるからそう言う厳しさに出会うのかもしれま
せん。
さて、変人さんの質問に対しての私の意見ですが、それは難しい。私の中では答えは出ているのですが、こ
れをどのような文字で伝達すればいいのか?とても難しい。
人間には己が精神を自分で意識できる部分と無意識の部分、さらに潜在意識と言われているようなものもあ
るのではないかと思います。そこで「我」なんですが、私達が「我」と呼んでいるのは自分で認識できる意
識だけです。だから、法律なども、認識できない無意識的な所業などは、その責任を問えないことになって
います。つまりそれは「我」という私のせいではないということでしょう。一般社会での「我」の認識とは
認識できる己の意識だけだからです。さてそこでフロイトが抑圧された自覚できない意識が様々な障害を起
こしていることを発見しています。私という我が望まないにも関らず、抑圧された意識がそれを現してくる
のです。(続)
(続)
では、その認識できない意識は我ではないのではないか?一般社会ではそういうことになります。
でも、私はそうではないかもしれないと考えます。これは、時間とも関りのあることなんですが
人間の認識できる意識というのは、私はデジタルだと思うのです。アナログではない。つまり飛
び飛びでしか物事を認識できない。飛び飛びと言うのは対象とも言えるかもしれません。対象化
されなければ、認識もできない。そして二つの事を同時に認識もできない。これが今の所人間の
限界ではないでしょうか?つまり、対象化して片方を認識した時に、片方が解らなくなってしま
う。限界付近では、対象化による認識は難しくなるのではありませんか?私は思うのですが、こ
こまででも辿り着けた人は、私の言葉でいう中心という感覚を自然と身に付けているのではない
かと。そう言う人達は、立場や考えの違いで相手を否定する争い事など起こさないはずだと私は
考えます。感覚の中に中心が活きているからです。一般的にはその状態になれば、無我と言って
も、差し支えないと思います。つまり、自分で無いものを自分の中に認めているのですから。こ
の状態も我という塊で独立しているものは無いからです。独立しているのなら、他を切って己が
幸福だけを求められるはずです。でも、その状態でも、考えて判断している主体が存在している
ので我がないわけではない。そして私は肉体の限界を超えて活動する精神や心というものすらも
認めているのですが、それはさらに難しい話になります。しかしそれでも、考えたり判断したり
する主体が存在しているように見受けられます。
よく、分からないことを言って済まないと思うのですが、実際ここまでくると文字による伝達は
かなりの制約を受けてしまいます。
変人さんを始め、この環境故の心ない洗礼を受け、それでも真心を持って求道しようとしている
人々の精神に、ささやかながらでも畏敬と感謝の念が湧きあがって来ます。自然に有り難い想い
が湧きあがってくるのです。これは、我に閉ざされた小さな心ではありませんが、それでも感謝
と畏敬を感受する主体があります。でも、この心さえ忘れなければ、それ以上有我と無我で探求
を深める必用も私はあまり感じていません。
ずっとこのスレ見ていますが
あなたは心が小さいですね。
そこから得られるものがどんなものなのか。
器が小さければ掬える水も僅かばかり。
この言葉を単なる煽りだと思うのならそれも仕方ないでしょう。
しかし、この言葉をまともに受け止めたとき
あなたのなかで変わるものがあるはずだが。
まあ、それは無理かな。これを書いてるのがあなたの嫌いな名無しでは。
べシックさん
言ってる事は良く解りますよ。潜在意識にある神聖な存在が内在している。
それが、人間の浄化を求めている。こういう事ですね。
それに沿った生き方をすべきである。ということですね。そこが人間の本質という事ですね。
意識といいましても、万物を見通している分けてないので、すべてお見通しは
人間の本質である。こういう事ですね。その存在は神に近いのではないか。
そういうことですね。言ってしまえば。
人間は本来神に近いものであるから、それに気がつかねばならぬ。こういう事ですね。
かなり言っていることは解りますよ。すこし変わった考えですけど。
その発想自体が面白い。自分で考えたのですか?
私も、急な話なもんですからビックリしております。
なにしろ、こういう考えの方はあまりいませんから。これが正解でしたら大発見です。
107 :
名無しさん@1周年:01/09/25 20:24
御分霊って知ってる?
105さん
あなたは、何の目的でここに書き込むのです?私に何かを教えたいのですか?
何がしたくてあなたはここに書き込むのでしょう?何がしたいのですか?
御察しのように私は心の小さな者です。その通リです。器が小さければ掬える
水も僅かばかり。その通リです。そうでしか今の所生きられない人間なのです。
私は悟っていませんので、あなたの心の境地を察する事はできません。
109 :
名無しさん@1周年:01/09/25 21:23
寛容って、な〜に?
110 :
名無しさん@1周年:01/09/26 16:06
>>109 自尊心が障害とならないこと。そして、流れる水のように融通無碍に無差別に自我
から離れて対応できる相のこと。だと思います。
109
寛容は、寛容以外の何ものでもありえませんよね。
112 :
名無しさん@1周年:01/09/26 17:54
後は自分のものにするだけだね。>ベーシックさん
112
はい、そのとうりです。寛容がなかんようなかんようが我にあれ!皆にあれ!
変人さん
自分で考えたとは言えませんね。先にも書いたように私はキリスト教にも、新興宗教にも、仏教にも
触れております。それらのエキスを頂いて、自分の体験を重ね合わせて試行錯誤を繰り返しながら、
私がたどり着いた答えということです。
でも、ビックリしましたか?済みませんでした。最初の頃に私は形而上、形而下と世界と分けて捉え
ていると書きましたが、人間の知覚、認識が飛び飛びである以上、どんなに頑張っても人間には解ら
ないものがあると言うことなんです。その解らないものがある以上、謙虚にならざるを得ないと私は
感じています。肉体の制約を超えた精神はそれ以上のものを認識できるようですが、その事に付いて
は口を閉ざすのが最も正しい選択ではないかと思っています。自分で体験する時が誰にでも必ず来る
のですから。死の直前まで行くのと、死ぬのとでは、やはり違いがあるのです。人間がその自らの一
生を本当に悟るのは、その境界線を越えた後だと私は考えます。済みません、また訳の解らない事を
書いたりして。言いたい事は、その境界線以前と、以後の解らない人間の精神には、その解らない事
を判っている精神には、謙虚さが自ずと現われるのではないかということです。その謙虚さを知る必
要を認めているなら、時に傲慢になってしまう自分を戒められると考えます。私達の人生には、どこ
でアクセルを踏み、どこでスピードを保ち、どこでブレーキを踏むかと言う知恵が欲しいものですか
ら。
>>113 >寛容がなかんようなかんようが我にあれ!皆にあれ!
これは、どういった意味でしょうか?
115
特に意味はないんですよ。へへへ、ごめんね。ちょっとふざけてみただけ。
もし、このスレを見ている人がいるなら、私のカキコに惑わされないでく
ださい。少しはヒントくらいあるかもしれませんが、その人の疑問はその
人にしか答えを出せない。他人との違いなどに怯む事はないです。人生は
ドリルじゃないのですから。少なくても修行完成者でないのなら、それで
いいと私は思う。私の書いた答えなど、他人にとってはその程度のものに
さえ、なり得ないかもしれません。
「生きる」とは、真剣に放浪し深く洞察し、吸収しなければ意味がない。
社会と馴れ合ったり、なにも考えなしに生きることも人生でしょうが、それは本当に
「生きて」いるのであろうか?
もし嵐が吹き荒れるなら、その中に飛び込んでこそ実体が掴めるのではないか?
こんな考えですが、いかがなもんでしょ・・?
変人さん
一般的な解答で申し訳ないのですが、やはり、状況判断と、その動機が重要ではないでしょうか?
目の前に、混沌の嵐があっても、責任を果たさなければならない人間関係がある以上慎重になる
必用もあると私は考えます。
ただ、そう言う場合の、動機と状況判断は、己と深く厳しく向かい合わないと、その正確さに研き
がかからない。そういう関係になっているのだと思います。
「生きる」と言うことも、やはりその能動性と受動性を如何に使い分けるかが智慧なのでしょう。
変人さんの言うように、生きる能動性も重要ですが、生きる受動性も同時に重要ではないかと思う。
私は思うのですが、人生上、自分の好きなもの、関心をそそるもの等には、能動性を発揮できるの
ですが、嫌いなもの、避けたいもの等の能動性を発揮しずらいもの等から足を掬われるような出来事
が起こって来るようです。その嫌いなもの等に対して、能動性を発揮するには、それを支える受動性
が必用になってくるのではないでしょうか?しかし、これは人間の心にとってかなり厄介なテーマで
あると感じています。(嫌いなもの等に対して、能動性を発揮するというのは、それれを克服する為
に、そうしても必用ではないかと考えるからです。受動的に受け止めてしまうものごとには、能動性
を働かせないと、克服できない。解かり安い、究極の例は、死です。受動的にならざるを得ないもの
です。私などはこう考えます。まず、死に受動的になっても、その受動性故の可能性を正しく観察し
たなら、死に対する能動性も正しく働く。自己破壊や自殺に向かってしまうエネルギーを転化できる
ようになってくる。そうなれば、素晴らしい、一段上の生を実感できるようになると考えています。)
ベーシックさん
人間、行動するににおいて、状況判断や動機が無い人はおりません。
たいていの人間は、本能的に有りますね。それが重要であるか、否か。
人間の価値とは、そういうところできまるのでしょう。
「生きる」という事も然り。「死」の誘惑に負けない強固な精神力が必要でしょう。
「死神」はいつやってくるかもしれません。普段の準備も大切です。
それを克服するだけの「生きるエネルギー」を蓄積するべきです。
それを「能動的生き方」とすれば、おのずと「死」を受け入れられるでしょう。
先ずは「死神」の到来をなんとしても、阻止しなければなりません。
変人さん
そうですね、人間を含む全ての生物が、動機もあるし、状況判断もしていますね。ただ、その質と量が
その精神の持つ価値といえると私は思っています。変人さんの言う「重要であるか、否か」というのは
それが邪なものか、健全なものかということでしょうか?
でも、少し質問してもいいですか?生死一如と観るならば、死神などは自己の本質を捕まえることはで
きないとは思いませんか?その本質(中心)が幾らかでも感受できるのなら、どんな生存の状態でもそ
こで「ただ、生きる」という一番ピュア−な生命そのものに自然と同化して行きますよ。
つまり肉体の死を超えた世界でも、現世でも、より好みをせずに「ただ、生きる」ということに成りき
ってしまう。この状態に同通すれば、個人の魂にとっての危機は越えられるはずだと私は思っています。
ただ、社会的な繋がりを無視できな人間にとって「場」に対する責任を果たすと言うことも重要だとは
思うのですが、今の所の自分には、それがどう言うことなのか、はっきり言ってよく解りません。
あと、済みませんが変人さんの書き込みの、後半部分がどういうことなのか巧く掴めないのです。
「先ずは、死神の到来をなんとしても、阻止しなければなりません」と言うことですが、何か、早急に
対処しなければならない危機が訪れていると言うことなのですか?あと、117くらいから書き込みの
ベクトルに変化を感じているのですが、その辺も気になります。
ベーシックさん
本質(中心)は、人間の概念にはるか及ばない・・
こういったものは、神聖なものなのでしょうか?
一連のレスで、そういったものが感じられるのですが、どうも私には理解できない部分があります。
まあ、エネルギーとでもいうのでしょうか?相当インパクトがあるようですね。
本質=潜在意識。とは違うのですか? まあ、いわゆる「至上善」の最たるものでしょか?
貴方の考えですと、この本質にもっと磨きをかける・・ということなのでしょうか?
それとも、本質の成すままに生きよ・・ということなのでしようか?
そういった事が前提にありませんと、すこしレスの内容が理解できません・・
変人さん
質問内容が、かなりきつくなってきました。変人さんの疑問に答えられる実力が多分、私にはない。直感
の働きには、思考や観念は後からついてくるので、私の解釈が間違っている可能性も考慮してください。
では、質問に対する答えなのですが、本質(中心)は変化しないと思います。だから、磨く必用はない
と思います。そこに辿り着くために表面を研磨して行くという感じなんです。それは神聖なものだと思
いますよ。綺麗だし、輝いているのですから。本質(中心)が潜在意識かということですが、それは私
にはよく分かりません。オーバーラップしている部分はあると思いますが。純粋にそうかとも思えない
のです。私の場合、そういうことを突き詰めて求めて行きますと、大変な抵抗に出会って身動きが出来
なくなってしまうので。社会生活を営んでおります以上、無理には求めないんです。
これこそ、変人さんの仰るように自分なりのスタンスを保ちませんと前進できないみたいです。命の中心
から、ゆらぎの様に発生してくる様々なエネルギーを、忠実に現象化させれば、それでいいんだと思って
います。それには、そのエネルギーの声より正確に受信できるように、表面意識を磨く必用があるのでは
ないかということです。
本質そのものに研きをかけるのか、本質の成すがままに生きるのかは「ゆらぎ」が何故起こるのかが解ら
ないと答えられません。直感では+αではないかなと思っています。人間そのものが「ゆらぎ」なのかも
しれません。自由意思がそれっぽいです。
変人さんの質問の答えになっていますか?よく解らないかもしれません。できれば、質問はひとつずつが
より絞り込んで返答できます。
>>122 貴方の考えですとだいたい解ります。
私は、無神論でとおってますけど、これは方便です。方便で説明しないと理解できない。
「仏」が有る、無しの問題ではないのです。そのうち解ります。
スレの最後の方で「老師」の話がレスされました。あの方は、禅宗の御住職です。
「非心非仏」これが重要なのです。究極です。
変人さん
私も、神がいるとか、仏がいるとか、いう発言自体にはあまり捕われないようにしようと心掛けています。
人間は、何かに依らなければ生活できない。でも、本質(中心)は何にも依らずあるのかもしれません。
つまり、絶対なもの。でも我々の今のところの通信手段は、客観化された言葉以外にはないので、他人との
意思の疎通を図るには客観化された何かの合図に依らなければならないのも事実です。
ただ、人間の性として合図そのものに執着してしまう。中味や精神、心といったものは、客観的で合理的な
効果を重要視する価値観故、さらに置き去りにされがちです。現代などそういう生活を送らなければ営めな
い環境でしょう。
ただ、人間や生物にとって生死は絶対です。だれでも、これを謙虚に探っていけば半分は答えに辿り着いた
ようなものかもしれない。御釈迦様の出家の動機もその辺にあったようです。生と死、これは非常に客観化
しずらい。絶対のものだから。これは観念ではありえないのです。「非心非仏」などはこれに通じたレベル
の高いものでしょう。
これは余談ですが、インスピレーションなどを受ける時は、凝縮した意識というより拡散した意識状態の時
に訪れるようです。何かにものすごく集中していて、疲れて散歩でもしているような時に、忽然と現れてき
たりする。悟りのスレで、悟りを求めるのが究極の煩悩だと言われましたが、確かにそうでしょう。
何事も大切なものは、一点集中の凝縮した意識だけでは掴みきれないものがる。それを手放した時に訪れる
ものがあるということでしょう。御釈迦様も苦行を捨てた後に、悟りを開いたと言われています。私自身は
これを、生命の能動性と受動性と解釈しています。生命のポテンシャルエネルギーは封印されたままです。
そのポテンシャルエネルギー(位置エネルギー)は能動性故に受動性が開かれ、その逆も然りなのです。
どちらか一方では成り立たない、相互作用です。強い能動性(煩悩かもしれませんが)を手放すからこそ、
開かれる受動性も大きいのではないでしょうか?
ベーシックさん
>拡散した意識状態。
インスピレーション。よく、トイレなどでそういうことがおきますね。
あれは「無我」の状態なのでしょうか?ぼんやり状態ですね。
あと、車を運転していて疲れている状態・・これは幻覚をみます。
確かに、意識はそれほどパーフェクトなものではありませんね。
「迷い」「煩悩」が混沌とした世界(意識)ですから、先ずそれを前提に考えませんと
いけません。ふだんは「意識」を意識するはけではありませんからね。
生命の能動性とは、意識のことですか?
生命の受動性とは、深層意識ですか?
なかなかそこのところが理解できないのですが。
煩悩が、強い能動性。となりますと、煩悩が頭から飛び出してしまうという事でしょうか?
126 :
ベーシック:01/10/03 21:16
変人さん
いやー、嬉しいですねえ。変人さんとの共通体験が見つかりました。
曰く「クルマを運転していて疲れた状態・・・これは幻覚をみます」
実によーくわかる話です。私も居眠り運転ちょっと手前でよく見ます。
私の世界観では、生きていることが絶対で、これを中心としています。生命が中心とは、生きていることが中心
という意味で使います。生きているということは、様々な事を感受するということです。感じたなら、それに対
する、リアクションがある。それが能動性で、感受するのが受動性です。無意識でもそのような作用が働いてい
ると考えます。
強い能動性がそのまま煩悩ではなく、自我と言うフィルターを通ることで煩悩と化すのです。悟りが欲しいという
意識も、高いレベルでは邪魔になるのと同じ意味です。つまりそこまで強く求めたので開いたポテンシャルが、
災いするのです。だから、精神にとって修行は危険があるのではないでしょうか。
強く求めて開いたポテンシャルを活かすには、それを捨てなきゃ成就しないようです。まあ、言うはやすし、行う
は難しです。でも、生命活動の重要な新陳代謝も作っては捨て、作っては捨てを繰り返すので、この状態を保って
いられるのですよね。つまり私も中道という理の上に成り立っているということです。これが崩れたら病気に
なってしまうでしょう。作る力が強すぎてもダメで、壊す力が強すぎてもダメなんです。
127 :
山師さん(摩耶山):01/10/03 21:44
諸兄初めまして。悟りスレでお馴染みの方もお久しぶりです。
>>126,柔らかく、しなやかに、たおやかに、居たいものですね。
しゃぼんダマのように、そうっと・・・
ベーシックさん
>精神にとって修行は危険があるのではないでしょうか?
修行はいわば煩悩の塊りですね、じつは私も「強い煩悩の塊り」です。
修行によって「煩悩」を取ろう・・というのは、そもそもの間違い。
「煩悩」はあってもいいんですね。人間ですから・・・生きている証です。
これが全く無くなってしまったら死んだ状態です。
「煩悩」によって「生きている歓び」があります。
山師さん
ようこそ。柔と剛の使い分け、私には難しいです。特に柔の方はなかなか・・・
変人さん
仏典の中にありますよね。曰く「人間的な執着から離れた者は、実にこれに付いて憂うことがない」って。
仏教が目指している境地とはそこに辿り着くこと。私が仏教に触れて、一番解せなかったのがそこでした。
私の中には人間らしく生活したいという衝動があって、どうにも違和感を受けてしまう自分を否定すること
ができなかった。今となっては、それは最高の境地なのだから、私がそれの真似事をしても、中味が伴って
いないので、違和感があるのは当然だって納得してるのですが。
ただ、煩悩があってもいいんだって、開き直ることは私には難しい。私は「煩悩憎し」の状態にいます。
しばらくはこの状態に留まらざるを得ないかもしれません。許し・・・が心の中に大きくなってくるまで。
煩悩を抑え込む戒律などに付いて、変人さんはどのような考えをお持ちですか?
ベーシックさん
>人間的な執着から離れた者は、実にこれに付いて憂うことがない
これは、万人共通の価値観であり「道すじ」だと思います。
「初心者」でもこの理法ですと、安心して仏教に帰依できます。
「執着から離れる」ことが、本当に大切なのか・・・これは自分で解ることだと思います。
「執着から離れようとする自分」・・これは「執着」です。
ここかれ離れようとすれば、おのずと結論は出るのではないでしょうか?
すこし、ややこしいですがお解りになりましたか?
「煩悩」もこれと同じこと、「離れたい」と思う心が「執着」です。
仏典を、理解するには「段階」というものが有ると思います。
少し考え方が変わっても、それは「道すじ」ですから・・。
一応、これが私の考えです。
変人さん
そうなんですか?私などは最初から、仏教の何か人生を捨ててしまうような所に、違和感を感じてしまう。
苦しみから逃れたくば、楽を捨てよ。と言うのは道理としては納得できますが、では、人生って何ですか?
って思ってしまうんです。
変人さんの131のレスの意味は解るような気がします。「やじろべえ」ってありますよね。中心にいる
やじろべえが自分で、両手に苦楽を握っている。中心にいる自分が、どうすればいいのか一番感知している
のが道理であるということですよね?
自分と言う中心軸を離れて、理論や理念に傾いていけば、自ずと相応の結果が返ってくる。そういうことで
すよね?自分に従うより、自分の中に働いている道理を発見してそれに従えと仏教は言っているのですよね。
諸法無我に、同化してしまえば、それが宇宙の尺度での正しさと言えるかもしれません。
でも、私は愚かで分かっていても人を愛したい。だから、憎しみからも離れられない。
憎しみを抱えたままの愛情を育てていく勇気がないのかもしれません。理想主義者の欠点ですね。愛しては
離れ、愛しては離れ。私はこのような輪廻を繰り返してきた。自分のことが見えなくなって偉そうなことは
述べられませんね。
自分自身が辿ってきた道で、得たものに付いて自信はあるのですが、変人さんと遣り取りを繰り返している
内に、自分の中で変化しているものを感じているこの頃です。
ベーシックさん
「愛憎」とは一体のものですからね。愛情云々しているときには、「憎しみ」というのも
ごく自然に感情に現れてきますよね。これも「若さ」なのでしょう。
「諸行無常」年を重ねてきますと、べつの愛情が出てきますね。これは性別を超えた
「いたわり」というのでしょうか?「寛容」というのでしょうか?
友情に近いものなんでしょう。「エゴ愛」というのでしょうか・・そういうものが抜けてきます。
貴方の気持ちは解ります。昔のわたしもそうでした。これはどうにもなりませんね。
生きていくのがやりきれない、絶望感、喪失感に悩まされます。
これは、自分の感情が勝手にそうさせる訳ですから、コントロールが効きません。
じっと耐えて、年月を重ね、気が付いた時には人生の半ばにきている・・
人生とは、こういったものなのでしょう。だれでも同じような道を歩くのでしょう。
ありのまま、そのままで生きていけば、それでいいのでしょう。
それが一番自分らしい生き方でしょうから。
変人さん
うーん、そう。そこで躓いてしまう傾向がありますね。エロスはよーく分かるのです。でも
アガペは時々しか出てきません。しかも出そうと思ってではなく自然にだから、任意的にと
言うのは難しい。
ただ、私には疑問があるのですが、そういうアガペの愛は、悪に対してどのような心を差し出
すと思いますか?エロスの状態では、許せないと言う反感が出ると思うのですが。アガペの時
はそれに立ち向かうことはしないようですが、私には何故なのかよく分かりません。
変人さん
あと、追加ですが瞬間的に我を忘れて誰かを助けようとする時って、どんな時にも誰にでもとは
言わないけれど有ります。それが見ず知らずの他人だったりするのにです。
私自身にもそう言う経験が何度かあり、我ながら何故なのかよく分からないんです。
新大久保の駅でも、酔っ払いを救う為に有能な人物が2人も巻き添えになって亡くなりました。
私の場合は、ホームに電車が止まっている時だったのでよかったのですが、咄嗟に行動してしまった
というのは同じではないかと思うんです。しかし肉体は心の命令がなければ動かないはずです。
後になって考えると色々と恐くなったりするのですが、何故あんな行動をとってしまったのかはよく
理解できません。
新大久保の方も分かってやったわけではないような気がします。国籍も違う他人の為にしかも社会的
にはあまり価値がない人の為です。もし、彼らが助かっていれば、あれこれ考える前に咄嗟に飛び出
してしまったと答えるかもしれません。
私は思います。人間には頭脳的な理解の範疇を超えた精神があるに違いない。肉体は頭脳の指令がな
ければ、動けません。頭脳は精神の指令を求めると私は考えます。私は人間は幾ら脳のキャパの10
パーセント位しかつかっていない現実を示されても、精神はその中に納まりきらないと思います。
私は、自己犠牲の精神と言うのは好きではありませんが、これらの人々も、決して自己犠牲の精神に
乗っ取って行動しているわけではあるまいって思います。
その辺に、人間の尊厳を私などは感じます。後で考えてもよく分からないくせに、咄嗟の時は迷いや
躊躇いなどなく、自信を持って行動している人間がいる。いつでも誰にでもではないかもしれません
が、人間の精神の内部にはそういう領域があるに違いないのです。
136 :
名無しさん@1周年:01/10/14 20:32
age
おまえらうるせえええ
死ねえええええええええ栄
エロス愛は、どこか「所有」という意識がありますね。それが少しでも侵害されるようですと
感情的になりやすい。だけど、年月とともに飽きてきますね。
美人でもいくらか飽きてきます。ブスですと段々馴れてきますね。
まあ、いずれにせよ結果的に「所有」という意識がなくなりますよね。
「アガベの愛」になってきますよ。なあ、戦友みたいなもんでしょうね。
互いに人格を尊重するような・・。友達みたいなもんですから。冷えたピザのようなものです。
普通、ピザは時間がくれば冷えてきますからね。熱い時に食べておけば、それでいいんですね。
新大久保駅事件。考察は大変面白い。
そういう瞬間というのは、誰しも行動(人命救助)を起こしそうですね。
殆ど瞬間でしょうから、裏を返せば「救助による危険」というものもある。
互いに巻き込まれる可能性もありますね。助ける方もパニック状態でしょうから
行動を起こしてしまいますね。そうしますと、貴方の自論が正しいのでしょうね。
139 :
ベーシック:01/10/25 14:31
変人さん
エロスの愛とはそう言うものですね。エロス愛の状態に心がいる時は互いの人格の尊重
は利害が一致している時という悲しみがあります。
男女の恋愛に限らず、エロス愛って結構な幅を世間で広げているように見うけられます。
人間の起こす様々な事象の中で、熱狂するというのはエロス愛の業だと思います。
まあ、私事ですが私は妻とはアガペにはまだなれない。自分の方に引き寄せたい願望が
強くある。この吸引力が噛み合っている内は強力な協調体制を築けるのですが、歯車が
噛み合わなくなると修羅場を現象化してしまう。妻には私を不安定にさせるものがある。
私達の場合は、交際期間を経て10年近くになりますが、他の女性に想いを寄せた事が
ない。妻が40才にでもなれば冷めてくるのでしょうね。でも今はまだ熱い時なのでま
だまだ食べて美味しいのです。私の場合、確りと時間をかけて食べないと消化できない
タイプなのでしょう。
しかし、我ながら妻との愛憎に喜悲する自分は、かなりの俗物だと思います。身も世も
なく骨抜きにされてしまった彼女と出会わなければ、私などは結婚を決意するまでに到
れなかったと思う。ひたすら自分の求める聖の道を歩んで隠者のようになっていたかも
しれない。まあ、今でもその要素は消えませんが。今回は私事ばかりで済みませんでし
た。変人さんは奥さんとは、もう戦友的な感覚なんですか?
宗教などはいきなりアガペの愛を要求してくるように私は感じるのですが、いきなりは
難しいですよ。熱い内に確りとエロス愛を食べて消化しなければ、さめた時にアガペの
愛は多く実らないのではないでしょうか。少なくても私の場合、幼少の時からのキリスト
教の影響でエロス愛の必用を自覚するまでに余計なプロセスを経なければならなかった気
がします。
ベーシックさん
エロス愛は、征服欲みたいなところが有りますから、だんだん満たされなくなる・・
というのは通常の感覚だろうと思います。
20代の頃は、それなりに興味がありましたが、それも段々風化されてきます。
まあ、これも自然の流れだと思っています。
人生における価値観は、変わってくるのは極自然なのでしょう。
エロス愛は、甘美な世界と同時に、虚構の世界・・というのも感じます。
あえて人間は、そういった世界というのも魅力があるのは事実でして、そういった経験
というのも大事なことだと思っています。
経験を経て、それなりの落ちついた人生というものがあるのでしょうから。
そういった境地においてアガベの愛が育つのだと思います。
人生は無常。がしかし、その時代その時代が真実だと思いたい。
青春時代は決して無駄では無かったと思うのです。人生に多大な影響を与えている。
貴方の場合は、宗教という制約のなかで育った・・という特殊事情があるようですね。
「愛」の捉え方もかなり影響してくると思います。
「愛は寛容なり、愛は情け深い、」コリント前書
変人さん
あなたは聖書の言葉も御存知なんですね。変人さんの言うように私は幼い頃にキリスト教の洗礼を
受けて育ちましたので、少しはキリスト教について意見することもできるとおもうのですが、キリ
スト教は、かなり偏狭な宗教であると思います。内と外と言う枠組みが非常に明瞭になっている。
これはイエスのせいではなくて、その土地の風土の問題だと考えます。キリスト教の歴史には悲劇
が多すぎます。寛容さ、足りないですね。明らかにキリスト教は。私は6才の時に決定的な運命の
分かれ道を経験しまったということも含めて。私は非常な劣等感を抱かざるを得ない大怪我をしたのです。
それからというもの、荒れちゃって荒れちゃって。露骨に差別を受ける学校と、偽善であっても優
しさを受ける教会のコントラストは、幼い私にとって矛盾に悩むというよりは、その違いが不思議
という以外なかったなあ。そう、例え偽善であったとしても、悪いことをして、許されるという経
験を持ったのも初めてもことだった。それもまた不思議な感覚でした。悪事を働いてバツを受けな
いというのは。教会に通っているということでも学校では差別をうけたなあ。さらに教会で伝道者
の受難などのお話を紙芝居などで見せられていた挙句、神を信じるなら差別を恐れてはいけないな
どと言われていたので、実際に恐れてしまう自分は、裏切り者のようなやましさを感じたものです。
立て看板を持って、駅前で伝道させられた時には、恥ずかしさと恐ろしさで、身動きが取れなかった
のですが、その内やけになって大声で喚いていたっけなあ。色々な経験をしたという意味では濃密な
時間でした。一番違和感を感じたのは、讃美歌を歌ったり、歌いながら踊ったりしている時に、わざ
とでもいいから楽しそうにやらなきゃいけないということだった。楽しさを無理強いされることには
子供ながらある種の苦しみを感じていた。これだけはある程度成長してからも、装うことに抵抗を感
じていたな。周りの人に聞いてみても、神を賛美することは歓びだということだった。私は本心を疑
っていたけれども。何故、大の大人が神など信じられるのかが、子供心にも不思議でしょうがなかった。
何か、下心があるに違いないと考えていたのです。
恐ろしく疲れるスレッドですね。
>>307 駅前で、たて看板を持った2人の女性に巡り合ったのは、私が17・18歳ころだったでしょうか?
彼女たちは、大学生で夏休み中でした。あの姿はちょうど日蓮のつじ説法でした。
私は声をかけ、やがて粗末な下宿やに案内されました。家財道具といえば黒板一つ。
まさに清貧生活。私は何度となく下宿やにかよいました。講義を聴くというよりも
たぶん、淡い恋心だったのかもしれません。「姉妹」という言葉に満たされるものを感じました。
決してエロティシズムではありません。純粋な「あこがれ」みたいなものです。
実際、貴方が考えている如し、私には宗教心というものは無かったかもしれません。
宗教という名のもとに、集う人間同士の繋がりが魅力的だったと思います。
彼女達の夏休みが終わる頃、わたしの淡い恋も終わりを告げました。
私がおもうに、清貧生活とはいえ確かに心満たされるものはあります。
信仰は、それに付随するものでもなんでも良いような・・そんな世界だと思うのです。
私と、同じような考えの方も、おそらくは多いのではないかと推察されるのですが・・・
しかし二世ともなりますと、価値観も違ってくるのでなんとも言えないですが・・
彼女達と過ごしたあの夏休みは、今でも強烈に印象に残っています。
うんこちゃん
だーから変人さん以外、だーれもマジレスしてくれない。このスレ最初から読んだりしたら、私だって
疲れてしまうよ。でも、まあ私なりに心血を注いだということなんだけれどもね。
他のスレで目撃しても、変人さんは一貫したスタンスを保ちながらも、色々な方の考えや思想を柔軟に
受け入れているように見えますし、変人さん自身も少しずつ変わっている様に見受けられます。
この板、私も結構気に入っています。宗教や思想の自由をホントに体験できる。それに比例するカオス
や混乱も身に受けなければなならんし、私などは受けるようなことを自分からやってしまっちゃうが。
でも、それが自由というものだよね。批判や反発をして、時には毒々しく罵ったりあったり。面と向か
っては、なかなか出来ない事です。しかし、そんなことをしていると自分に嫌気がさしてくるのが人情
のようです。そこでここを卒業していくのも、違った形で関っていくのも自分の心に従って選択すれば
いいだけ。まあ、誰にもわかっていることかもしれないけどね。
>>144 「水清くして魚住まず」。2ちゃんの水の濁りは、私には丁度良いみたいです。
煽りレスに、一種の快感?を感じてしまいます(w
貴方が仰るように、私も随分変わったと思います。
2ちゃんへの中間総括。
言霊(ことだま)と言いますか・・各人のレスには、その人の赤裸々な人生そのものが
映し出されているような感じをうけます。
意識せずとも、心乱れる時はそのようなレスを打ち込みますし、逆も真なり。
少し頭のイカレテイル人のレスは、無理に解釈しますと、私が危なくなってきます。
まあ、そこのところの「見極め」というのが大事なのでしょう。
初心者は、特にここのところのリスクが大きいと思いますね。
一応私はクリアしましたけど(w
やはり、何人かはいるみたいですね・・危ない人。貴方は発見したんでしょうけど・・
まあ、お互い気を付けましょう。
>>144 印象に残ったレス・・・
私の、メーンスレッドが荒らされた時がありましてね。
そのとき、誰かさんの歌詞をコピペしてくれた方がおりました。
その時の私の心境に、歌詞がピッタリでしてね、感動しましたよ。
まあ、粋な計らいだったんですね。 まあ、世の中には色々な方がおりますよ。