1 :
ふみ。:
私は浄土宗の坊さんです。
念仏する(=南無阿弥陀仏と口に称える)ことによって、
将来極楽に往生(行って生まれる)ことができる。
極楽で更に修行をして、成仏しましょう。
というのが浄土系の基本的な教えなのですが、
こんなに簡単で、うまいこと考えてあるのに、なぜ流行らない
のだろうか?
どこかの教義書からコピペしたような意見は聞きませんが、
みなさんの生活の感覚から
「○○だから、私には合わない」的なご意見は、素直に
拝聴したいと思います。
「こんな坊さんがいたから」も受け止めます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
2 :
はげ:2001/06/06(水) 02:16
良くも悪くも豊かな現代の日本では、
現世を「穢土」と捉えにくいのではないでしょうか。
ということは当然「厭離穢土」の考えは生まれにくく、
「欣求浄土」というのもピンと来ない。
念仏によって西方極楽浄土にいけると善知識が説いても、
「何それ?」という感じなのでは。
3 :
ななし:2001/06/06(水) 02:28
念仏称えるだけで極楽往生できるなんて簡単すぎる。
虫がよすぎる。
達成感がない。
もっと修行とかして苦労した末に往生できたほうが実感として幸せなのでは、と思うのでしょう。
真実とは単純なものなのに凡夫にはそれがわからないのでしょう。
ちなみに私は真宗です。
4 :
妙好人:2001/06/06(水) 08:31
2と3の方の意見にも大変賛同できます。
門外漢なので正しいかどうかわかりませんが
浄土系の真髄は、阿弥陀仏への「まかせきり・甘えきり・すがりきり」
だと思っています。でも、それは単なる無気力主義ではなく、
法然にしても、親鸞にしても、厳しく峻烈な求道の末に行き着いた、
絶対者の大きさと自己の無力さの覚知、から生まれた境涯だと思います。
凡夫がその崇高な結論のみをまねしてみても、
やはりピンとこないのではないでしょうか。
指導する側とされる側、という概念もあいまいな現代において、
やはり求めるもの個々が、追体験できるプロセス(としての修行)
が望まれているのだと感じます。
5 :
名無しさん@1周年:2001/06/06(水) 08:50
>>4 >浄土系の真髄は、阿弥陀仏への「まかせきり・甘えきり・すがりきり」
ちょっと違うような気がする。
往生するもしないも含めて、
すべてを阿弥陀仏にお任せし、
自我を透明化していくことこそ、
南無阿弥陀仏のような気がする。
>>1 五木寛之の大河の一滴依頼、関心は高いと思う。
しかしそれが浄土真宗と繋がらないところに問題があるような気がする。
6 :
名無しさん:2001/06/06(水) 09:30
基本的に念仏ダサい、
寺、ばあちゃんの行くところというイメージは否めないと思う。
またあえて宗教を求めてる人は自分が今の状態よりよくなりたい
もしくは自分を高めたいのであって、
そのときに他力本願ではインパクト薄いと思う。
7 :
とおりすがり:2001/06/06(水) 09:44
キリスト教徒ですが、イエスキリストをわが主として信じるだけで救
われる、キリスト教も同じようなものです。
8 :
名無しさん@1周年:2001/06/06(水) 10:01
>>6 >またあえて宗教を求めてる人は自分が今の状態よりよくなりたい
>もしくは自分を高めたいのであって、
>そのときに他力本願ではインパクト薄いと思う。
「他力本願」の意味が反対になってるような…
「自分が今の状態よりよくなりたい」
「自分を高めたい」
このような自我から生じる苦しみをすべて阿弥陀仏に任せて、
日々の仕事に一心に励むことこそ、「他力本願」じゃなかったけ…
9 :
名無しさん@1周年 :2001/06/06(水) 11:01
>8
うむ。「自分のために」と金や名誉を求めて、いざ持ち帰ってみると
あれほどこだわってきた「自分」が留守だった、という事実を知ること
が「他力本願」の本意だと思うよ。
最初は、「金がなくて苦しい」とか、「自分」の救済のために阿弥陀
如来にすがるんだけど、阿弥陀如来に「自分」のすべてを任せきって
しまうと、すがる「自分」が阿弥陀如来に溶け込んでなくなってしま
う。同様に、「今の状態よりよくなりたい」「高めたい」という対象
の「自分」もまた、煙のように消えうせてしまう。
阿弥陀如来にすがって救われるのではなく、最初から救われていたこと
を認識する、という感じがより近いと思う。聖書にある「明日は炉に投
げ入れられる野の草花もこのように装ってくださる」の事実を身をもって
納得することでしょう。
キリスト教も念仏も、救われる対象としての「自分」が残っている内は
「他力本願」の真意にまで至っていないと思うよ。
10 :
法然:2001/06/06(水) 11:31
創価学会とかの日蓮系のほうが現世利益うたって
今のバカ日本人には魅力的に見えるんだろうね
特に創価学会なんかは新興宗教の手口そのまんま
座談会にいけば「私はここにいてもいいんだ」てきな大歓迎をうける。
真宗や浄土門は基本的に放任だから、かまってほしい人とか
寂しい人にはうけないのだろう。
11 :
名無しさん:2001/06/06(水) 13:22
日蓮系=>現世肯定
浄土系=>現世否定
12 :
ふみ。:2001/06/06(水) 15:24
>>11 浄土宗=>現世否定
とありますが、そんなに単純ではないと思います。
理論というものは、常に簡潔ですが、それを受け取る人は、
それほど単純ではないから。
お寺とか、宗教的環境というのは、入り浸るものではなくて、
たまに、「そうだ、ちょっとお寺言ってみよう」でいいと
思うのです。しかし、その時、確かに放任ぽいのかな、浄土系。
14 :
ふみ。:2001/06/07(木) 04:43
>>7 「救済」をして頂く人間、というのは共通していますが、
「なぜ?(=人間のダメさ)」の見方がキリスト教とは違います。
あちらは基本的に原罪なんでしょ?
「いくら良いこと、と分かっていてもできない」ことがあるよ、
というのが浄土系の人間観と考えています。
(往生という問題に限らず)
そういった人間観って、現代は受け入れられないのかな?
それ故、浄土系はウケないのかな、とか考えています。
15 :
ぽぱー:2001/06/07(木) 10:41
6さんの、世間的にそうだと思う。瀬戸内寂聴も他力本願じゃダメよ、と(共著の人かも知らんが)と言ってる。
16 :
名無しさん@1周年:2001/06/07(木) 11:00
寂聴さんは、天台宗だからね…
17 :
ぽぱー:2001/06/07(木) 11:00
ちゃんと調べてこないとダメだな。 般若心經使わん、他の神仏を認めない狭い宗派だとほかの坊さんも言ってたよ
18 :
悪人正機:2001/06/07(木) 11:05
あのなぁ、他力本願って意味解って使ってるのか?
どうせ天台とか禅宗や日蓮主義のやっかみだろうけど
19 :
名無しさん@1周年:2001/06/07(木) 11:17
>>18 あのなぁ…、あんたこそ、20ぐらいの過去記事ぐらい読んだらどうよ…
20 :
ぽぱー:2001/06/07(木) 11:39
あのなぁ、じゃないよ。現世知らずに現世否定ができるか!頭ごなしの話を誰が聴いてくれる?
21 :
ぽぱー:2001/06/07(木) 12:07
あのねのね。18さんへ、とか、要るね。人を受け入れるのは他宗の方が余程巧い。私ら現世を入れずに現世否定するから何の厚みもないわな。
22 :
ふみ。:2001/06/07(木) 12:39
>>15 他力本願じゃだめよ、ってさ。
文脈読んでんの?ただの文章の中じゃないの?
宗教論・仏教論の中で、言ってるの?それによって全然違うぞ>寂聴さん
僕だって、普段の会話で
「そんな他力本願じゃ、ダメダメ」みたいなことは言いますもん。
>>6 元の発言だけど。
自分を高めたい→高まった実感が欲しい→自分で何かしないと気が済まない
と言ってるんでしょ。つまり、自力じゃないと、って。
23 :
ぽぱー:2001/06/07(木) 13:23
ふみさん。他力本願をそういう仏教用語だと思ってる人は思いの他多いんです。他力本願はダメと使われて、自分も使って、何か感じませんか?
24 :
えー:2001/06/07(木) 13:23
なんか皆さん知識のある方々って感じがして恐縮ですが、私からしてみれば
浄土教とかだけでなく、宗教全体が今の日本においてとても重要とされてない感じがします。
しいて言えば、客引きをそれほど行ってない浄土宗さんがここまでいれれるのはすばらしいと思います。
人間、得することにはとても興味ありますから、それをおおっぴらにしてない新興宗教以外はなかなかだと思います。
老舗ってかんじ?
25 :
9:2001/06/07(木) 13:32
自力も他力も、仏教の根本思想から外れていると思うんだけど。
自力には、努力して高めるべき「自分」が「ある」
他力には、ひたすらすがって助けてもらう阿弥陀如来が「ある」
仏教の根本とは、どんなものでも普遍のものなどない、縁あって生じ、縁あって
滅する、ということです。阿弥陀如来といえども、「ある」と言い切ってしまった
ら「常見」に堕してしまうと思うのですけど。
私は、仏教の専門ではありませんが、日本の仏教教団の多くで経典とされている
大乗仏教の経典が、釈迦の没後数百年以上もあとで作られたものだという事実を
知っています。だから、「阿弥陀如来」の慈悲を説いた浄土三部経もまた、創作
物であることは否定できない。こういう学問的なことを持ち出さなくても、「実在
するなら証拠を出せ」と迫られたらたちまち困ってしまいます。
私は、「阿弥陀如来など空想の産物だから、信仰しても無駄だ」と言うつもりは
ありません。むしろ逆に、「阿弥陀如来は実在する」と言い切ったために「常見」
に堕し、「あるなし」にがんじがらめになって成仏できなくなるのです。
私見ですが、「他力」とは、「非自力(自分という存在に固執した努力の否定)」
という意味で、逆に「自力」とは、「非他力(実在する阿弥陀如来への執着の否
定)」という意味で使って、初めて正しい仏教になると思います。
どなたの言葉だったかは忘れましたが、「救われたいという念仏であってはならな
い(間違った他力信仰になるから)、すでに救われたという感謝の念仏をせよ」と
言われているのは、なるほどと思います。
26 :
名無しさん@一周年:2001/06/07(木) 13:55
>「救われたいという念仏であってはならな
>い(間違った他力信仰になるから)、すでに救われたという感謝の念仏をせよ」と
>言われているのは、なるほどと思います。
それ、神道思想そのまんまだね…
一体誰が言ったの?
27 :
9:2001/06/07(木) 14:01
>26
一遍上人だったと思います。今、原典が引用できないのが残念ですが。
28 :
ぽぱー:2001/06/07(木) 14:10
共著の人、その本の後半を仏教辞典にしてましたが、なんか悪気を感じるものでした。えーさん?24さん。自信無くしてるんですよね、その老舗が。
29 :
26:2001/06/07(木) 14:23
30 :
ぽぱー:2001/06/07(木) 14:38
すでにたすかりつるありがたさよの仏恩報謝、は連如さんも言ってるな。
31 :
9:2001/06/07(木) 14:52
ついでに勝手なことを述べさせていただくと、若い人が仏教思想に興味
を持って、最初に読み出すのは、岩波文庫の「ブッダの真理のことば、
感興のことば」あたりだと思うのです。私もそうでした。「法句経」など
は、「東洋のバイブル」と呼ばれる位、西洋でも根強い読者があります。
私は、そこから釈尊の「生の声」を聞き、そこからいろいろな宗派の勉強
を始めたのですが、禅籍などには共感を覚える反面、浄土宗には方便が先行
した「うさんくささ」しか感じませんでした。あれは、所詮は文盲無学の人
に説かれた教えだから、今のように、パーリ語などの原典を現代語訳で読め
る時代には無用、という先入観がありました。
その後、妙好人の存在を知って、浄土教のよさがだんだんと理解できるよう
になりました。私のような道筋をたどって仏教に親しむ人は、かなり増えて
きているようですし、私のようによほどチャンスに恵まれないかぎり、浄土
門に惹かれていく人は少ないのではないか、と思います。まずは、歴史的な
ブッダの足跡をたどり、「法句経」あたりに親しみ、本格的に瞑想修行など
を初め、「唯識論」くらいに食指を伸ばす。運が悪けりゃ、阿○宗やオ○ム
真理教のような、新興似非宗教団体の餌食になる。運が良けりゃ、曹洞宗あ
たりのまともな師家の元で座禅修行を始める。しかし、浄土門へ至る道筋は
見当たらないように思います。
学生の頃に、大学に「歎異抄」の同好会があって、実はすごく過激な布教団体
だったのですが、そういう会に半強制的に入れさせられて、「歎異抄」で頭を
洗脳させる、というような「僥倖?」に恵まれないかぎり、自発的に図書館
で浄土門の本を手にして感動を受ける、というチャンスはほとんどないと思う
のです。
浄土門の人気が今ひとつなのは、以上のような理由があるからではないか
と思います。
32 :
えー:2001/06/07(木) 16:54
老舗って、誰でもが知ってるわけでもなく、そこを好きな人が訪れる。
店側は何をしてるかと言えば、昔から変わらない同じ事をしてるだけ。
宗教はお店ではないですけど、今の世の中に合わせる事はむしろ破滅につながるんではないでしょうか?
すんません。わかったような事ばかりかってに書いてます。お店と宗教は例えようがないですよね。
真言宗の僧侶に言わせると、
浄土系仏教は、仏教経典の一部を経典としているのみで欠落があり、
日本最古の真言宗からすれば、仏教とは見なせない、らしいです。
34 :
9:2001/06/07(木) 17:40
>32
現代風に言うと、「癒し系」なんですよね。お店で喩えると、昔ながら
の無添加の味を守っている名店。リストラの吹き荒れる今日、他力的な
「癒し」を求める人は増えつつあると思います。自分の好みを持ち出して
申し訳ないですが、法然さんと一遍さんには共通した「ほんわかさ」が
あっていいなと思います。社会競争で傷つき、無能のレッテルを貼られて
裁かれた人々の心を潤せるものがあると思います。私は聖書も愛読するの
ですが、福音書のイエスの姿が法然さんと重なって見えることがあります。
親鸞さんはあまり好きになれない。「自分は地獄必定の悪人」と言いながら、
居直っているような「強さ」があります。「癒し」とはほど遠いと思うの
です。最後まで道を模索して、とうとう自分の書き物を燃やしてしまった
一遍さんの内面性の方に「癒し」に通じるものを感じます。
親鸞さんはイエスよりもパウロに近いですね。
とりとめのない話になってしまいましたが、
>宗教はお店ではないですけど、今の世の中に合わせる事はむしろ破滅につながるんではないでしょうか?
というのは、実は杞憂にすぎず、法然さんや一遍さんの思想は現代に
最もマッチした教えなんでは、と思います。
>>1 本物の教えを語れる人がプロにいないからでしょう。本物の教えを語れる人がプロに登場してくれば、そのときまた、広がるでしょう。
大集経にときたまう この世は第五の五百年 闘諍堅固なるゆえに 白法隠滞したまえり(親鸞 作)
36 :
ふみ。:2001/06/07(木) 22:51
>>35 いらっしゃいましたね。
プロは不要、というのが浄土系の一つの特徴ですが、
「プロは不要」と言い切ってくれるプロ、って言いたいのですね。
だから、、
コピペは不要ですってば。このスレッドでは。
>いらっしゃいましたね。
?? お待ちいただいていたのですか?誰を?僕を? 何かお間違えじゃありませんか? 僕は、お待ち戴くような器じゃありませんよ?。
>プロは不要、というのが浄土系の一つの特徴ですが、
プロは不要、というのはひとつの見解として成立はするでしょうけど、それが特徴??特徴というと、賛成者もいる。反対者もいるでしょう。議論が分かれるでしょうね。あなたの御主張としては承れる感じはしますがね。これはどういう筋での議論ですか?
>「プロは不要」と言い切ってくれるプロ、って言いたいのですね。
<何か、思いこみ、早とちりをされていらっしゃいませんか?議論の筋が見えません>
>だから、、コピペは不要ですってば。このスレッドでは。
<コピペ?? 何か、お間違え?? ご不快でもおありですか??>
38 :
ぽぱー:2001/06/08(金) 00:11
>>33ちくしょおおおお真言宗めえええ(笑
>>34確かに癒し系じゃないです。でも、親鸞さん自体は居直れてない人ですよ。
39 :
ぽぱー:2001/06/08(金) 00:51
というより、唯除五逆といい、自我の居直りをテーマにしてた人です。親鸞系で居直ってる人はそのまま間違ってる人と判断していいです…
40 :
不良会員:2001/06/08(金) 02:39
極楽真理教また立て籠もり!今年に入ってから745件目。
籠城何時まで続く?ついに十年目突入。
<超拡大>信者数は半世紀で十万倍。驚異の急成長の謎を探る。
「永遠の来世を思えば、現世など取るに足りません。」少年戦士は語る。
もし、中世に新聞が有れば、浄土真宗こと極楽真理教の記事で毎日の紙面の2/3が
埋まった事だろう。それも百年以上も。みんな忘れてないか。真宗は現在のカルトが
裸足で逃げ出す超過激戦闘集団だったことを。
現在の新興宗教の布教手法の原点はすべて真宗にある。
大衆への呼び掛け。←分かり易い文章で解く。
経文の唱和。←正信偈の唱和は蓮如上人から始まった。
最新のマスメディアの利用←御文章は当時としては最新の伝達方法。
自立的小グループ(講・法座など)の創設。
こうして空前絶後の巨大成長を遂げた真宗は、そののちそれ自体を守るべく
保守化硬直化していった。真宗が戦闘性を封印しているのは皮肉を言えば、
世界平和のためにも良いのかも知れない。
41 :
9:2001/06/08(金) 08:23
>38-39
含蓄のある発言をありがとうございます。大いに参考にさせていただきます。
42 :
ぽぱー:2001/06/08(金) 11:24
ところで自分ケータイ野郎なんですけど、昨日から親スレが途中までしか表示できなくて困ってます。誰か少しageてくれませんか…
43 :
ふみ。:2001/06/08(金) 11:29
>>35 プロ、とはどのような方を指していらっしゃるのですか。
また、つい反射的にレスしてしまって、ご不快を与えた様子ですので、
それについてはすみません。でした。
44 :
ぽぱー:2001/06/08(金) 11:51
42みたいなお願いってネチケット上どうなんでしょうか?出した後で考えてしまったんですけど…
45 :
ふみ。:2001/06/08(金) 13:22
>>44 コミュニケーションパル(ポケボー)でよかったら
差し上げましょうか?>ぼばーさん
46 :
ぽぱー:2001/06/08(金) 13:26
なんです、それ?CMのAOUサービスみたいの?
47 :
_(._.)_:2001/06/08(金) 21:10
坊さんがホストやってるのって浄土系のでした?
48 :
釈迦:2001/06/08(金) 21:31
みなのものわたしは自慰が大好きじゃッタ。
もう9歳のころからシコシコしとったんじゃ。
そしたら先っぽから白い液体がどばっとでてびっくりしたわい。
ねばねばでの〜。ドクドク出たぞ。
それから死ぬまで千ずり三昧でちんぽが左曲がりになってもうたわ。
さて・・・今度は左手でしようかな?
>>43 名前:ふみ。
>プロ、とはどのような方を指していらっしゃるのですか。
「私は浄土宗の坊さんです(
>>1)」例えばインターネットの掲示板で、このような名乗りをされるような方々です。
>また、 <何かしくじりが過去にも複数回あったのですか?>
>つい反射的にレスしてしまって、 <つい反射的にレスしたという覚えがあるのですか?>
>ご不快を与えた様子ですので、
誰かに不快を与えた様子ですか? 「議論の筋が見えません」とは申し上げました。「コピペは不要ですってば」の「ってば」という言葉に反応して、「ご不快でもおありですか??」とはお尋ねしました。これにはお答えが無いようですが、「不快です」と私の方から申し上げたつもりはありませんのですよ。
「不快を与えた様子です」というのも、早とちりが原因の貴方の反射的なレスではありませんか?
>それについてはすみません。でした。
謝られるようなことはされた覚えがないのに謝られても困ります。ま、あまり気になされますな(笑)。
50 :
ふみ。:2001/06/08(金) 22:16
51 :
ぽぱー:2001/06/08(金) 23:51
親鸞会かあ…ふみさん、AOUサービスでいっときます。うざくてゴメン。
52 :
ふみ。:2001/06/09(土) 00:31
>>24 しいて言えば、客引きをそれほど行ってない浄土宗さんがここまでいれれるのはすばらしいと思います。
スルドイ!のですが、あからさまな客引きをしない、という性質が合っている宗派なんですね、きっと。
>>31 仏教を「勉強しよう!」という人は浄土系にたどり着きにくい
なるほど!たしかに、「鎮め系」ですし、家の宗教として接するだけでは
自らの信仰にするかとは関係ないんでしょうね。
53 :
名無しさん@1周年:2001/06/09(土) 06:01
AGE
54 :
ふみ。:2001/06/09(土) 09:39
みなさんレスありがとうございます。
浄土の教えについてのお話は、だいぶ拝聴することがきました。
さて、ここからは一般化・拡散されてしまいそうですが
「坊さんが、○○だから流行らないのだ」的な、
僧侶についての批判(できるだけ個人的・具体的なものをお願いします)を
いただけませんでしょうか。
あるいは
「流行らせる必要はない。このまま静かにしておれ」的なご意見を
お持ちの方があれば、そちらもお願いいたします。
55 :
ふみ。:2001/06/09(土) 09:42
>>33 >仏教経典の一部を経典としているのみで欠落があり、
念のためにおうかがいしますが、
仏教教典の総てを教典とし、欠落のない宗派って
あるのですか?どちらの宗派ですか?
また、阿佐ヶ谷北さんも、「真言宗の坊さん」の仰るとおりだ、と
思っていらっしゃると理解してよろしいのですね。
56 :
信徒:2001/06/09(土) 16:52
大相撲が今、廃れているとのテレビ討論があり、だいたいの意見
としては(改革)を推奨していた。
流行?それが存続のために必要なら、なくなればいい。
私は本願寺派の人間ですが、昔から・・これは浄土真宗の存続の
過程でも言えることだけど、(存続)のプロセスにろくなことが
ないのは歴史が語ってる。信仰はそれぞれが継承していけばいい
ことであると思う。個人の信仰に利益は必要ないことだし・・。
浄土真宗は親鸞聖人が創ったわけでもないし、教団とてしかり。
親鸞聖人はあくまで教えを継承したかっただけ・・と思いたい。
57 :
不良会員:2001/06/10(日) 10:37
南無阿弥陀仏
帰命無量寿如来
南無不可思議光
これがαでありΩである。これ以外の何者でもない。
釈尊、七高僧、親師、蓮師すべてはこの一言を言わんが為にその一生を捧げた。
唯可信之高僧説
我々は南無阿弥陀仏と唱えるとき、その無限の光明と永遠の命をどれだけ思い浮かべる
ことが出切るだろうか。
弥陀一仏
一向専念無量寿仏
一切の聖教尽き果てて南無阿弥陀仏に成り果てぬ
光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨
何が何でも最下の我ら凡夫を救わんとする命懸けの如来の聖誓に
命懸けで答えることが出来ようか。
骨を砕き、身を粉にしてもあがなえぬ大恩。
南無阿弥陀仏とただ謝るばかり。
58 :
信徒:2001/06/10(日) 21:42
ほら、ひけらかすから後のレスがなくなるやん。
59 :
ふみ。:2001/06/10(日) 23:05
閑話休題。
私は、私なりに、ご法事のごとにお話するように心がけているのですが、
そういうのって、「ふーん、じゃ浄土宗のこと勉強してみようかな」と
いうきっかけに成りうるのかしら?
つまり、浄土系の事を知るきっかけって、どんな所にあるのだろうか?
という問いかけです。どないでしょ?
60 :
信徒:2001/06/11(月) 00:45
俺は身内の死去がきっかけ。
正直、それまでは自分のところが浄土真宗で、その教えがどうである
云々ていうのは判らなかったです。
でもそれ以降は僧侶のお言葉を真剣に聞いたり、質疑応答するように
なりました。
でも正直、自分の家が浄土真宗ではなく、他の宗派であったらその教え
に入っていったと思います。
もちろん、今は浄土の教えでよかったと思いますが・・。
61 :
ぽぱー:2001/06/11(月) 01:16
法事の時に、安い仏教書を何冊か差し上げるようにしてます。気が向いた時読めるように。
62 :
渡海難ウォッチャー:2001/06/11(月) 15:01
ぽぱーさん。あなたは坊さんなのかのー?
法事の時もここでのレスのようなおかしな日本語で説法するのかのー?
そりゃ止めた方がいいぞぅ。檀家の人達が可哀想じゃ。
わけの分からぬ文法で説法されても 聞く方は理解できず苦痛なだけじゃ。
人に話(文章)を伝えたいのなら この話し方(書き方)で正しく通じているか?ということを
もぅちょっと考えた方がいいんじゃろうなぁ。
63 :
ぽぱー:2001/06/11(月) 16:50
>>62さん、法話にはさすがに他の坊さんに添削してもらったやつを使ってます。61は後半切れてるね…仏教を聞くきっかけにしてもらってます。
64 :
檀家さん:2001/06/11(月) 22:54
法然さんが、念仏を選択した根拠って結局のところ何だったのでしょうか?
阿弥陀仏は、専修念仏宗の成立しなかったインドでもチベットでも韓国でも
阿弥陀信仰そのものは結構メジャーなのは何故?誰か特定宗門のドグマではなく
客観的にご教示いただけたら幸甚です。
65 :
ふみ。:2001/06/12(火) 01:26
>>64 選択、というのは浄土系では普通と若干、意味が違ってきます。
選択したのは、法然さんではなく、阿弥陀さんの方です。
その昔、阿弥陀さんが、まだ阿弥陀さん(仏)でなかったとき、
「こんな極楽を作りたい」と、極楽の条件を選択したんです。
その中に「私の名を呼ぶ者は、みんな私の作る極楽に迎えましょう」
というものがありました。
法然さんが、そんな阿弥陀さんを選択したのは
(まずほとんど)誰でも実行できるからです。
お金もないし、精神集中も大してできない。そんな人でも
オッケーな教えを探していたら、阿弥陀さんにたどり着いた訳です。
「専修」についてはまた後で。
66 :
ふみ。:2001/06/12(火) 13:58
>>61 >安い仏教書
いいんですよ、そこまで書かなくても。
「自分で気に入った仏教書」でも
「簡単な仏教書」でも。
でも、「真宗書」じゃないの?
67 :
ぽぱー:2001/06/12(火) 17:34
>>66いや、本当に安くて良いのがあるんですよ。\350超えないです。法話一席分の小冊子ですね
真宗書?>は仏教書でもある、と思ってます。
68 :
一闡提:2001/06/12(火) 18:40
>>ふみさん
ある本に書いてあったことですが…
(1)法然さんの頃は、戦争、疫病などで世相が混乱しており、民衆は現世に救い
を求めることが困難なほど虐げられていた。
(2)しかも、民衆は無学文盲であり、難しい教えを話したところで理解できない
という事情があったようです。その中で、せめて現世から離れた所で希望を見
いだせるように「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生できる」との教えは、理由が
あったのではないでしょうか。
しかし、現在の日本国民の豊かさ、知識水準からすると、ちょっと……
というのが正直な気持ちです。
69 :
ぽぱー:2001/06/12(火) 19:01
>>66真宗書>いや、ふみさん、仏教と宗派は分けちゃいけないんじゃ?仏教書、と書いたのはテキトーだったんですが。
70 :
ふみ。:2001/06/12(火) 21:31
>>68 いやー。このスレの本題にもどりましたねぇ。
確かに、当時の日本と、現在の日本の社会状況、また
知的水準や識字率などは変わっている、というか大違いだと思います。
そこで私が思うことは、
「僕たちは、やっぱり凡夫なのか?」ということです。
凡夫というのは、基本的には
「自分で修行をしたり、仏教教団に寄付したり、という功徳を積む」ができず、
「阿弥陀さんや、極楽のイメージトレーニングもできない。戒律(教団の、信者として守るべきルール)を守りきれない」という人々。
ですが僕は、これを拡張して
「罪を作らざるを得ない」「人に迷惑を掛けざるを得ない」
など、自分を「完全でない」と自覚できた人、と捉えています。
もちろん、「俺は仏教修行を完全にやり遂げた」と豪語する方もあるでしょう。
しかし、そんな方は現代でも極まれだと思います。(続く)
71 :
ふみ。:2001/06/12(火) 21:35
僕は、例えばほとんどの日曜日は法衣を着て過ごしますが、
今を含め、日常生活も持っています。
その中には、やはり他人と上手くいかないとか、イライラしたりとか、迷惑を掛けたりとか、しています。
坊さんとしての僕も、もちろん満点ではない。
そんな時、「ああ僕ってやっぱり凡夫」って思います。
して、「そんなお前でも、南無阿弥陀仏と言えばオッケーだよ」
という浄土系の教えは、個人的に「ありがたい」ものなのです。
>>65 名前: ふみ。
>選択したのは、法然さんではなく、阿弥陀さんの方です。
子供だましのお伽噺で大人が騙せればお慰み。
これで南無阿弥陀仏が流行るかな?
>>70 >自分を「完全でない」と自覚できた人、と捉えています。
「完全でない」と自覚できた立派な人には、さぞかし自分が含まれておるんじゃろう。
阿弥陀様に救われる良い子とは、自分の事じゃった。良い子の自分のために拡張し、自分で自分を救っていれば世話はない(笑)。
>>71 >「そんなお前でも、南無阿弥陀仏と言えばオッケーだよ」という浄土系の教えは、個人的に「ありがたい」ものなのです。
何がどのようにオッケーなのやら。阿弥陀さんが聞いたら腰を抜かしてたりして(笑)。
74 :
信徒:2001/06/13(水) 00:37
(誰にでも実行できるから・・・)
このことが自分のなかでうがった考え方を生んでるんですが、
なぜ、誰にでも実行できる必要があるのでしょうか?
難行では、誰しもがそれを実行できず、ほとんどが浄土に救
われない・・・
誰しもが実行でき、みなが救われる行や教えが本当(この言い方
が適当かどうかは別にして・・)という根拠が自分には
見えないのが本音なんです。
あくまで浄土の教えに傾倒している自分のなかでも、この部分に
は正直、疑問に感じます。
75 :
信徒:2001/06/13(水) 00:54
最近、身内を亡くしたときにね、すごいショックやったんよ。
故人は正直、宗教心ってのはなかったんやけど、すごくええ
人やったし、この世のものからすれば「こんなええ人があの
世で幸せになれんわけがない」って思うんですよ。いや、な
ってほしいんですよ、そう思えんと悲しいし・・。
そう考えるとね、宗教心のなかった故人も浄土で安楽できる
と考えるには浄土の教えが一番必要なんですね、生きてるも
んとしては・・。
そんなところから入っているわけで・・・正直ね。
もちろん、否定するわけではないんやけど、客観的に考える
と、そんな疑問も生じたりするのがほんとのところです。
76 :
wao:2001/06/13(水) 00:59
南無阿弥陀仏と称えたけど、オッケーじゃないのは何故?
ところで阿弥陀さん人のこと?
77 :
ふみ。:2001/06/13(水) 22:15
>>72 >子供だましのお伽噺で大人が騙せればお慰み。
参考までに、この場合の「子供」と「大人」の違いは何でしょうか。
ま、「子供だましのお伽噺」で「大人」が騙せないのは文面どおりでしょうが。
78 :
衆生海:2001/06/14(木) 00:37
>1
4・5行程度の各宗派の基本的な教えならば、中学校の歴史で学習する
んですよね。それに浄土系は教団に入って活動しなくても、内面的な部
分で信者になりうるので、本当は流行ってるのがわからないだけなのか
もしれませんよ。世間では宗教をやってると偏見の目で見られがちなの
で、隠してるケースが多いのでは。
れ
>>77 名前: ふみ
>この場合の「子供」と「大人」の違いは何でしょうか。
お伽噺がだまそうとしている対象年齢以下の人々が子供。お伽噺がだませることを予定していない対象年齢以上の人々が大人。境界線はグレーゾーンです。だまそうとしている想定年齢以上でも、実際にはだまされる人はいるでしょう。そう言う人は、体は大きくてもお伽噺の作者から見れば子供。だまそうとしている想定年齢以下でも、だまされない人はいるでしょう。そう言う人は、体は小さくてもお伽噺の作者から見れば大人です。
聞き手の年齢も考えずに大人に向かってお伽噺を始める人は、子供でしょうね。
>文面どおりでしょうが。
<考え方にはご満足いただけたようですね。>
80 :
真実:2001/06/14(木) 17:26
>ふみさん
>14
>「いくら良いこと、と分かっていてもできない」ことがあるよ、
>というのが浄土系の人間観と考えています。
これは宿業ということでしょうが、原罪=宿業ではないでしょうか。
浄土宗では親鸞や一遍をどう考えているんですか。浄土教の異端者でしょうか。
それと、浄土宗では救いは今ですか、死後ですか。
81 :
真実:2001/06/14(木) 17:27
>59
>私なりに、ご法事のごとにお話するように心がけているのですが
ほとんどの檀家の方はありがたそうな坊さんにありがたいお経をあげてもらえば
それでいいわけです。
坊さんの方はお経よりも法話を聞いてもらいたいのですが、
檀家さんにはありがた迷惑でしょう。
本を差し上げるのもおそらく同じだと思います。
喜ぶ人はごくごくまれ。
それにくじけて何もしないのは坊主失格ですが。
>坊さんの方はお経よりも法話を聞いてもらいたいのですが、檀家さんにはありがた迷惑でしょう。
賞味期限や有効期限が過ぎただけじゃない。とっくに使用禁止期間、廃棄義務期間に入ってしまったカビの生えた医薬品を売ろうとしているようなもんだ。
ユーザーから鼻つまみになってる商品を売り歩いてどうするの?
子供だましのお伽噺と、催眠術の呪文のかけ合いじゃ、社会が受け入れるはずもない。
坊さんという職業は、社会的にも存在の寿命自体が尽きてきたのかも知れない。
83 :
どーでもいいけど:2001/06/14(木) 22:33
>坊さんという職業は、社会的にも存在の寿命自体が尽きてきたのかも知れない。
賛成!
あたしゃ、某浄土真宗系の大学を出ていますが、学生も学者も宗教的センスに欠けるよ。
偉かったのは在家の仏教学者や宗教学者だったな。坊主の学者はダメ。
授業で「釈尊は霊魂を否定しました」って堂々と言ってたアホ坊主がいたよ。「阿弥陀如来さんもフィクション?」
って言いたかったけど、アホは理解できんじゃろとおもって、黙ってたけどね。
84 :
非公開@個人情報保護のため:2001/06/14(木) 22:38
www2.ocn.ne.jp/~hpower2/sensaku05.html
85 :
ふみ。:2001/06/14(木) 23:08
>>79 渡海さん、
基本的には、「年齢」で分けていらっしゃるのですね。
>実際にはだまされる人はいるでしょう。そう言う人は、体は大きくてもお伽噺の作者から見れば子供。
つまり、「だまされる人」=子供という意味で使っている、と考えていいのですね。
86 :
ナムチ:2001/06/15(金) 00:03
仏教の哲学は、仏教の解説書を通じて、生き方の指針としてどんどん広がってい
くよ。だけど、仏教哲学が普及すればするほど、坊さんという職業は存在意義が
無くなるね。そのうちみんなが、坊さんは仏教徒でなく、ご先祖崇拝教の祈祷師
(ペテン師)だと気付くだろうし。仏教(浄土系も含め)の哲学の部分だけ生き
残り、宗教の部分は死滅するでないかな。
87 :
ナムチ:2001/06/15(金) 00:14
言い方きつかったね。ごめん。でも坊さんが仏教(哲学)を語るのは
自分の商売を否定する自殺行為かなと。誠実な方もいらっしゃるでし
ょうけど、誠実であればあるほど自己矛盾に苦しむのではと。
88 :
なな:2001/06/15(金) 00:27
∧⊂ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(゚Д゚)ノ < うわ〜、宇宙が膨張してるよ
(| | \__________
〜| |
∪∪
89 :
この坊さんは:2001/06/15(金) 05:15
>極楽で更に修行をして、成仏しましょう。
>というのが浄土系の基本的な教えなのですが
などと言ってるし、基本的な部分からわかってないね。
ナムチさんの言う
>誠実であればあるほど自己矛盾に苦しむのではと。
は、彼にとっては矛盾ではなさそうなので理解しないのではと。
いちゃもんつけてるようにしか見えないと思うよ。
>>85 名前:ふみ。
>「だまされる人」=子供という意味で使っている、と考えていいのですね。
なだ続くの?こだわるのね(苦笑)。子供だましという言葉が気に障りましたか。ま、余り気にしなさんなよ。南無阿弥陀仏が流行らない理由が分かっていただければ嬉しいです(笑)。
「だまされる人」と「子供」とはイコールじゃないでしょう。騙そうとしている対象は、子供の範囲だということです。あくまで子供に限って騙そうとしているということです。いずれ本人が気が付くことは、作者の予定の中に入っているんでしょう。作者に罪責感は無いでしょう。
「だまされる人」≠子供 「だましの狙い目」=子供
「だましの狙い目」≠大人
「だまされる人」=ほとんどの子供+一部の大人
「だまさない人」=ほとんどの大人+一部の子供
<等号式は、僕のおおざっぱなイメージです。厳密ではありません。>
作者が騙そうとしていても騙されない子供はいるでしょう。
作者が騙そうとしている対象者は子供だということは、大人まで騙そうとしているということではありません。しかし、だまされる人の中には大人もいるでしょう。
だまされる大人は、本当は大人なんですよ。大人は子供ではありません。ただ、精神年齢は子供レベルでしょう。
だまされない子供は、本当は子供なんですよ。子供は大人ではありませんよ。ただ、精神年齢は賢いレベルだと思います。
「だまされる人」=精神年齢が子供 「だまさない人」=精神年齢が大人
92 :
非公開@個人情報保護のため:2001/06/15(金) 09:04
93 :
ふみ。:2001/06/15(金) 11:43
>>89 >いちゃもんつけて
そのようには感じませんでした。
>>90渡海さん
先日、私の書き込みの「また、」という言葉に対して
私としては<2つの文をつなげる言葉>として使っていたのですが
<過去にも数回>という解釈をされていましたので
続けています。
「子供だまし」とは、そもそも子供しか騙せない、という意味の言葉ですよね。
それゆえ、
「子供だましのお伽噺で大人が騙せたら」は「文面通りだ」と申したのです。
私が、「この場合」子供と大人は?とお聞きしたのは
「だまされる人」=精神年齢が子供 「ない人」=精神年齢が大人
と、お答えいただいたと思いました。
では、
子供、大人という表現を使われていますが、これは
不可逆的である、という意味合いを含んでいますか。
94 :
真実:2001/06/15(金) 16:14
>83
>授業で「釈尊は霊魂を否定しました」って堂々と言ってたアホ坊主がいたよ。
どうしてアホなのか。あんたは釈尊が霊魂の実在を説いていると思ってるのか。
>89
>>極楽で更に修行をして、成仏しましょう。
>>というのが浄土系の基本的な教えなのですが
>などと言ってるし、基本的な部分からわかってないね。
基本的な部分がわかっていないのはあんたのこと。
浄土教は浄土に往生して、そして修行して、そして成仏する、という教え
往生が目的だとしたのは善導、法然から。
95 :
真実:2001/06/15(金) 16:21
>ふみさんへ
前に質問したのですが、もう一度。
浄土宗では親鸞や一遍をどのように考えているのでしょうか。
96 :
どーでもいいけど :2001/06/15(金) 16:51
>どうしてアホなのか。あんたは釈尊が霊魂の実在を説いていると思ってるのか。
釈尊がどういっていようと問題じゃないんですよ。
釈尊が形而上的実体の一切を否定しているとしましょう。彼は授業でそのように言いました。
そうすると阿弥陀如来の形而上的実在性も否定しなければ論理的統一性が取れない。
それなのに彼は真宗の坊主として、檀家に阿弥陀如来さんの実在を説いているんですよ。
宗教的詐欺というわけです。
97 :
新後生:2001/06/15(金) 17:27
念仏は隠し念仏に限ります。
信じたくない人が信じれる宗教じゃないですし。
筑豊炭田の鉱夫たちを中心に教線を延ばした中山身語正宗と
その系列の、いわゆる“シンゴショウ系”宗派には
ローマ帝国時代の禁教下で信仰を貫いていた
非市民階級のカタコンベにおける信仰の姿に通じるものを見ます。
阿弥陀の実在の証明については時間を割いた事はありませんが
阿弥陀を信じる事で“生きる事が出来た人々”の実在は存じています。
98 :
え〜と:2001/06/15(金) 17:38
私は若い頃、浄土系か基督教かで迷いました。
で、まず仏教教典はどれを根拠に学んでいいか、わからなかった。
お寺も親切に説く坊さんが見つからなかった。
暗い感じがした。
阿弥陀仏という抽象的な存在?が理解できなかった。
若い人がいないように思えた。
要するに、ゼロから求道しようとすると、基督教のようにシステムや教典がはっきり示されていないんですね。
それで、カトリックになりました。
でも、今でも仏教なら浄土系に一番親近感があります>1
>それなのに彼は真宗の坊主として、檀家に阿弥陀如来さんの実在を説いているんですよ。宗教的詐欺というわけです。
フム、フム。なるほど。なるほど(笑)。
100 :
ぽぱー:2001/06/15(金) 18:58
>壇家さん
阿弥陀如来は、極楽浄土を主宰する仏として・中国の禅宗や浄土宗で観想念仏や称名念仏の対象になってきましたし、浄土教は東アジア全体に普及してます。
101 :
89:2001/06/15(金) 20:54
>94へ
>極楽で更に修行をして、成仏しましょう。
などと真顔で言うものだから、ナムチさんの言う仏教哲学
としては見れていないだろうよって意味で書いのと、
浄土教としても真宗ならば、更に修業〜は方便ってことになる。
なんか素直っていうか・・・
102 :
信徒:2001/06/16(土) 00:10
この世でその存在感を感じることができるわけないし、
それはどんな宗教でもね。
真宗の教えでそれを感じるとは、どこにも説いていない
と思うんやけど・・。
いずれにしろ、(帰依します)っていう言葉はある意味
すごいなぁって思う・・。
103 :
M:2001/06/16(土) 02:07
104 :
会員:2001/06/16(土) 02:42
布教より枝豆食べませんか
105 :
坊主憎い:2001/06/16(土) 05:42
106 :
ゴータマファン:2001/06/16(土) 10:17
素朴な質問ですが、お坊さんに仏事を依頼し、お布施をする人は、それが先祖の冥
福にメリットがあると思ってするわけですが、釈迦も法然も親鸞も、そーゆうコト
言ってないですよね。元来仏教思想と先祖供養は両立し得ないはずですが、そんな
檀家の誤解を正さず、むしろ助長してチャッカリお布施を取っちゃうのはいかがな
ものか。喩えるなら、そこらのひっきーのぱんつを宇多田のかと勘違いして100
万で買いたいという人に、黙って売るようなもんじゃないすか。
日本の既存宗派では、葬式仏教の現状を肯定してるのでしょうか。改善する動きは
無いのでしょうか。お教えを乞います。
107 :
信徒:2001/06/16(土) 15:19
>106
喩えはどうかと思うが・・(笑)
みんなわかってると思うよ、その矛盾は・・。
ただ、身内が亡くなって葬式をせず、ということ
はたして出来る?宗教に縁のない人が多い世の中
でそれは通用しにくいなぁ・・。
世間の理屈と教えのバランスを適当に保って葬式
をするしかないでしょうねぇ・・。まぁバランス
なんて保てんでしょうけど・・。
108 :
信徒:2001/06/16(土) 15:21
まぁ、教えは自分の胸のなかにあるって
誰かが言ってたけど、ええ言葉やと思う。
109 :
一闡提@68とは別人:2001/06/16(土) 17:02
極楽とは所の名前ではなくて、心の名前です。
Sukhavati is not the name of the State,but the name of the state of mind.
>>100 名前:ぽぱー
>阿弥陀如来は、…対象になってきましたし、浄土教は…普及してます。
<だったら何がどうなのさ?? 一体、何が言いたいの??(笑)>
>>101 名前:89
>なんか素直っていうか・・・ ???
>>107 名前:信徒
>身内が亡くなって葬式をせず、ということはたして出来る?宗教に縁のない人が多い世の中でそれは通用しにくいなぁ・・。世間の理屈と教えのバランスを適当に保って葬式をするしかないでしょうねぇ・・。まぁバランスなんて保てんでしょうけど・・。
宗教と葬式は昔から切っても切れない関係にあった。釈迦は葬式に出なかったらしいが、葬式にも参列しないような人々の集団が果して宗教だったか、これは疑問だ。
釈迦の時代の仏教は、果たして宗教だったか。宗教という概念に入るものだったか、これは考え直してもいい。仏教者イコール宗教者になったのは、仏教が日本に入ってきてからじゃないか。特に、平安仏教以後のような気もする。これは鎮護国家の思想と密接に関連するものだろう。政(まつりごと)は祭りごとだった。仏教が、政治家の師弟を教育する教育学として重要視され、鎮護国家の基盤になったとき、仏教者は宗教(呪術)性が要求されだしてきた。
仏教は本来、宗教ではない。そういうことで、平安・鎌倉仏教を支持する人々に、原始仏教に戻れと要求すれば、確かにそれも見識の一つに違いない。しかし、現代仏教は原始仏教とは違っても構わない。宗教の存在自体は社会的要求である。仏教者が宗教性を放棄しても、宗教そのものが消滅するとは考えられない。他に新たな宗教者が生まれるだけだ。宗教者の役割を、仏教者が一部で応じても、そのことがすなわち不当な事じゃない。
僕の言う宗教性とは、例えば、葬式、結婚式、先祖供養、こういう社会的セレモニーの執行を本質とする行為である。セレモニーは社会の潤滑剤である。人々は、意識に時の流れの区切りを付ける必要がある。セレモニーは、そういう役割がある。
時の流れに区切りを付けるのは重要なことだ。例えば親鸞思想を支持する人々の集団が、セレモニーの執行に責任を持って中心的役割を担うと宣言しても、それ自体は決しておかしな事じゃない。セレモニーの式次第を、親鸞思想の一部を借用して行うということもおかしな事じゃない。社会的に意義ある行為を行えば、それに応じた経済的な対価を要求することは当たり前のことだ。釈迦の時代の先人達も、その時代に同じようなことを行っていたかどうか、そんなことは問題にする必要はないだろう。
しかし、親鸞思想を支持し、人生の難局の超え方を親鸞に学ぼうという人々が、セレモニー業だけに熱中し、自分たちの本質を忘れれば、対価との関係で社会的な問題が起きる。親鸞思想を支持する人々がその昔、セレモニーの執行に何故手を挙げたか。何故依頼したか。セレモニーを契機に親鸞思想を学ぼうという意欲があったからだろう。だからこそ、彼らはセレモニーの執行に当たっては実費以上の経済的請求を社会に行ってきた。しかし、契機に過ぎなかったものが、いつしか本質に取って代わってくれば、彼らは単に偽シャーマンである。セレモニーの執行演技に物理的に要した実費以上の金額を請求すれば、これは不正義である。
例えば、偽シャーマンが、シャーマンの真似をしてセレモニーを演技を執行すれば、プロのタレントでない限り、2時間の葬儀で例えば千五百円程度以上の対価を受け取ることはできないだろう。
112 :
真実 :2001/06/16(土) 18:20
>96
>彼は真宗の坊主として、檀家に阿弥陀如来さんの実在を説いているんですよ。
どうしてそれを知っているんだ。檀家に聞いたのか。
阿弥陀如来は方便法身だと説いているかもしれないじゃないか。
そういう先入観を仏教では問題視するわけだろうが。
113 :
はい:2001/06/16(土) 19:35
毎度のことですが、渡海さんのおっしゃることはわかりにくいです。
<だったら何がどうなのさ?? 一体、何が言いたいの??(笑)>
という言葉はあなたに差し上げます。
110と111ではもっともなことを言われているように思うのですが。
できたらもう少し短めに要旨をまとめて書き込むようお願いします。
114 :
会員:2001/06/16(土) 19:44
渡海さん、休憩して枝豆でも食べませんか
>>113 分かりにくい? 苦笑
1 宗教性は仏教の本質じゃない。
2 仏教者が宗教行為の一部を担うのは、社会的要請に基盤がある。
3 仏教者が、仏教の本質部分を援用し、非本質的セレモニー行為を執行し、これで社会的対価を受けても、自由経済社会下では不当じゃない。
4 仏教者が、仏教の非本質部分で本質部分にとってかえれば、非本質部分を執行する正当性を失う。
5 非本質部分(宗教的部分)を執行する正当性を失うということは、現代では執行行為ではなく、請求対価の額に現れるはずだ。
ま、こんなところかな(笑)。僕の中で仮説として議論が煮詰まってる訳ではありません。内容がまだ分かんないと言われたら、もう少し考え直して別の機会に書きますよ。
親鸞仏教の本質に関わる質問には通常喜んで答えますが、宗教的行為の議論はあまり興味がありません。
>>114 ビールを送って貰えると嬉しいな(笑)
116 :
信徒:2001/06/16(土) 21:06
>>110 >>111 なるほどなぁ・・多少、中田のキラーパスみたい
なところはあるが、言わんとするところはわかっ
った。(笑)
まぁ、俺も身内を亡くした時以降の葬式に至るま
でで、いろんな矛盾を感じたよ。予想の範疇やっ
たからあえて流したけど・・。
ちなみに俺、仕事柄お寺に営業しに行くケースが
多いんだけど、正直、(なんでここにこんなえー
物があるねん?)っていうのを日常茶飯事に体験
してんだわ、これがねぇ・・。
117 :
檀家さん:2001/06/16(土) 22:33
ふみさん、ぼばーさん、ご教示ありがとうございました。ところで、ふみさんの解説
にあった阿弥陀さんのほうからの選択という考え方は、非常に密教の影響が感じられ
るのですが、実際、影響関係はどうなのでしょうか? 一般的に鎌倉仏教系は、密教
に否定的な印象を受けるのですが、誰か学者が、専修思想そのものが、密教(台密?)
の影響であると書いていた記憶があるのですけど。
それとぼばーさん、阿弥陀仏と観音信仰の外の他方仏信仰は、何故、東アジアでメジャー
になんらなかったんでしょうか?強いて言えば、薬師仏信仰が、一時流行ったぐらいです
か。流行神と一緒で理由というのは、わからないのでしょうか?それとも仏教外で既に流行
っいたものを取り込んだんでしょうか?上座仏教では、大乗の他方仏をヒンズー教の神々を
取り入れたものと考えていると聞きましたが。
118 :
☆一闡提☆:2001/06/16(土) 23:21
無数の仏国土をつぶさに見取った法蔵菩薩が打ち建てた至上の浄土
極楽浄土Sukhavati
無有衆苦 担受諸楽
苦無く楽のみの世界
これを「極楽」と訳した鳩摩羅汁はまさに天才中の天才と言えよう。
天親菩薩〜功徳大宝海 蓮華蔵世界
曇鸞〜楽邦 無量光明土
道綽〜安養界
善導〜本願大智海
源空〜寂静無為楽
無論、七高僧の諸訳いずれも素晴らしい。
ついでに拙訳〜Happy World 楽喜蓮土Lucky Land=楽しく喜ばしい蓮の咲き乱れる国
喜楽国きらくのくに
119 :
信徒:2001/06/17(日) 01:58
安田理深先生くらいまでいけば、こわいもんなしやなぁ
って思う、今日この頃・・。
あの人の話、難しい言葉はないけど非常に理解しにくい。
120 :
☆一闡提☆:2001/06/17(日) 02:23
いつも心に極楽を
121 :
真実:2001/06/17(日) 06:41
>86 ナムチさん
仏教の哲学など大多数の人は興味がない。
生き方の指針ならPHPがあるし、仏教の哲学がどんどん広がることはないと思う。
知的生活文庫や新興宗教の教義に利用されるのがオチ。
知識人の知的遊戯のおもちゃとしての仏教が小乗として批判され、
大乗仏教運動が起こったわけでしょう。
>仏教(浄土系も含め)の哲学の部分だけ生き残り
ということはありえない。そうなったらインドのように仏教は滅びる。
文字の読めないような人が、いかにして仏教と出会えるか、ですよ。
122 :
ななし:2001/06/17(日) 06:44
123 :
名無しさん:2001/06/17(日) 06:54
>>121 仏教ってもともと哲学としてスタートしたんだけど。。
釈迦が神格化されて宗教化したのは後世のことだ。
仏教の哲学を否定してしまったら、君のいう仏教って何?(笑)
哲学部分が消えたから日本の仏教が滅んだんだよ。葬式のときにしか役にたたんし。
知識人の知的遊戯のおもちゃになったのは大乗仏教だよ?あんなに経典を足していって膨大な量にして、文字の読めない人には無意味。
君のいう小乗仏教の方が、よっぽど仏教らしく生き残ってるじゃないか。インドシナ半島やスリランカを見たまえ。
文字の読めない人のためには、哲学部分がしっかりしてないとダメだ。
124 :
☆一闡提☆:2001/06/17(日) 07:09
楽喜音頭 ラッキーおんど
ハアー 蓮のウテナは何処にある
八万四千の白蓮華(ふんだりけ)
胸に咲いてる光ってる
そのまま来いとの仰せなら
今日ただいま 向かいます
ハアラッキー ラッキー ラッキーだ
貰うた貰うたよ 極楽へ
ツルリと行けるパスポート
五十二階を一っ飛び
極重悪人この我が
何故に貰える この不思議
念仏千回唱えても まだまだ足りぬ まだ足りぬ
報恩 報恩また報恩
ハアラッキー ラッキー ラッキーだ
125 :
ななし:2001/06/17(日) 09:34
>>124 頭から湯気が出ている脳天気?? (ワラ)
>>121 >文字の読めないような人が、いかにして仏教と出会えるか、ですよ。
今、貴方の生活の地盤はどこですか。飢餓とエイズのアフリカですか。? 大砲が行き交うアフガンですか? 小学校も教材もない中央アジアですか?
よもや日本国内ではないでしょうね。日本では、新聞の買えないホームレスでも、ゴミ箱をあさって新聞を読んでいますよ。
文字を知らないと生きていくことは大変ですが、日本にいる限り文字を学ぶ機会はいくらでもあります。多くの人がそれを利用しています。
日本人の多くは、文字どころか、外国語もある程度わかる。算数も数学も分かる。論理的な思考も訓練を受けている。日本仏教には、こういう人々が接触しているんです。
あなたの世界は、賞味期限も有効期限もとっくの昔に切れてるんじゃないですか?
127 :
☆一闡提☆:2001/06/17(日) 10:51
一々の花の中よりは
三十六百千億の
光明照らして朗らかに
至らぬ所は更に無し
と和讃に有るように本来は朗らかに生きるのが浄土の教え。
朗らか=ほがらか、は元来は明るく光ると言う意味だが、
無論、摂取の心光に照らされれば自ずと明るい爽やかな心に
成ることは言うまでも無い。
light delight 光明 歓喜
lighthearted delightful 晴れ晴れとした 楽しい
如来は朗らか大王
128 :
ななしだよ〜ん:2001/06/17(日) 11:10
一闡堤さん、鳩摩羅汁は、まさに天才。十如是の確信犯的誤訳や、極楽の名(迷)訳
のお陰で(そのうえ、大智度論を竜樹の名を騙り創作し)、東アジアに数多くの破壊
的カルトを生んできた功績は大なるものです。さすが、元武将だけのことはあります。
129 :
ななしだよ〜ん:2001/06/17(日) 11:22
訂正 一闡堤さん→一闡提さん 失礼しました。
130 :
羅汁三蔵の舌:2001/06/17(日) 11:26
>>128 羅汁が死んだ後、舌だけが焼けずに残ったという説話があります。
結婚をした羅汁は比丘の戒律を守る事が出来ず身体は破戒の罪で穢れているが、
伝説は訳経にあたってウソをつかなかったから舌は焼けなかったといわれています。
実は舌が物凄く丈夫で舌先からかなりの創り事が産まれたという事だったのですね。
131 :
☆一闡提☆:2001/06/17(日) 11:30
それと
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五を全訳しなかった事が痛い。
いわゆる観音経の後半の部分は阿弥陀如来と極楽について書かれてあったのに
これを省かれたのが(ひょっとして故意に?)後の厄介の種。
>>121 名前:真実
>仏教の哲学など大多数の人は興味がない。
大多数の人は仏教哲学などに興味が無くてもいい。もし真宗の坊さんであれば、最低限、親鸞思想だけは常識として理解しておく必要がある。
親鸞教学は、教行信証を一冊を理解できればいい。教行信証は厚い本じゃない。少し格闘すれば中身は分かる。
坊さんなら、教行信証くらいは質問者に噛んで含めるように説明できるようであって欲しい(当たり前の話だろう)。真宗の坊さんで、「私は教行信証が分かりません」じゃ、話にならない。これでは恥ずかしくて在家にも檀家にも顔も向けられないと思うが、いかが。『うちの坊さんは教行信証も分からないんだって』なんてことじゃ、困るだろう。
僕は、しばらく2CHで教行信証論を語ってきた。教巻が終わったから行巻を考えている。
以前、2CHに歎異抄スレッドが立った。「歎異抄論」をやってみないかとで提案したら、「渡海 難のいるところじゃできない」という返事が返ってきた。坊さんだろうと思う。歎異抄も語れなくて坊さんとして恥ずかしくないのか?大多数の人の仏教哲学の心配をする前に、坊さん達は自分たちの常識の心配をするべきだろう。
(もっとも、2CHで歎異抄を語っても、自分には金が入らないからプロとして嫌だということだったのかも知れないんだけどね<笑>。)
133 :
真実:2001/06/17(日) 19:29
>123
>仏教の哲学を否定してしまったら、
哲学とは何か、を言ったら話が長くなるけど、哲学とは西洋思想。
インド思想は宗教と表裏一体。
仏教が宗教であることを否定していることは間違いだと言っているのですよ。
>哲学部分が消えたから日本の仏教が滅んだんだよ。葬式のときにしか役にたたんし。
これは逆。インドでは僧侶が葬式をしないから、仏教が民衆のものにならず滅んだ。
日本に仏教があるかどうは問題としても、形だけでも仏教があるのは葬式のためだ。
>君のいう小乗仏教の方が、よっぽど仏教らしく生き残ってるじゃないか。
>インドシナ半島やスリランカを見たまえ。
そうした地域でも、ごく普通の民衆は民間信仰の方が生活の中に生きている。
134 :
信徒:2001/06/17(日) 21:58
評論大会やな・・・
135 :
信徒:2001/06/17(日) 22:02
>>132 少なくとも、一般の人にとっては坊さんは(よりどころ)。
たしかに、そうあってほしいねぇ・・。
136 :
どーでもいいけど:2001/06/17(日) 23:56
>132
>親鸞教学は、教行信証を一冊を理解できればいい。教行信証は厚い本じゃない。少し格闘すれば中身は分かる。
真宗の坊さんを甘く見てはいけません。ワタシの出た大学の真宗学科の坊主の子弟、
まず漢文が読めません。古文も読めません。歎異抄もあまり理解できません。
そこそこできるヤツは1割くらいじゃないの?
大学の中で一番頭の悪い連中が集まる学科でした。他の大学もそうみたいだったけど。
137 :
どーでもいいけど:2001/06/18(月) 00:05
そういえば論文をろくにも欠けない教授も真宗・仏教学科に多かったな。
138 :
ふみ。:2001/06/18(月) 03:20
しばらく失礼してました。
見てみたら、「坊さんの資質」の話になってますね。
みなさんのご意見、拝読させていただきました。
あっと驚くような事はなかったものの、
なかなか、身にしみました。
「坊さん」をテーマにしたスレッド(他にもあるのですが)に
したら如何でしょうか。では。
139 :
他宗信徒:2001/06/18(月) 03:38
流行らないというより、流行らす努力をしてない。
個人的には教義があいまいなのが原因だと思う。
140 :
☆一闡提☆:2001/06/18(月) 05:57
非僧非俗・平座の心と言う両師の心をよもや忘れるまい。
僧が頭を剃らないのも「髪を剃るより心を剃れ」という教えに従ったもの。
元より真宗は僧も俗も無い、皆等しい<同朋>だ。
ただ「商いもし、猟すなどりもする」凡夫には教えを深く学ぶ事も叶わず
また七高僧を始めとした先達の言葉を知る事も叶わない。
それを伝えるための人間が僧である。
…現実にこれぞ我が師といえる坊主に会ったことはない。
伝え聞く妙好人にも坊主は居ないしな。)藁←当たり前だけど。
自分にとって最大最良の師は曾祖母だった。
彼女の事を南無南無バアチャンと子供の頃は呼んでいた。
いつも南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏を唱えていたから。
一文不知の尼女房でも後世を知りたる者は…とか
仏法は若き日にたしなめ、とか
などと聞くと幼い日のことを思い出す。
141 :
☆一闡提☆:2001/06/18(月) 06:09
>>139 教義が曖昧ってアンタ、1に書いてある通り
念仏を唱えて阿弥陀如来のいらっしゃる極楽浄土に往生する
という明快な教義がある。
こんなにハッキリした教えは他には無い。
なのに何故、流行らぬというのがスレの主旨だろう。
その前提を覆したら、今までの論議は何だったんだと言う事になる。
>>136 名前:どーでもいいけど
>真宗の坊さんを甘く見てはいけません。
宗門立大学の宗門学部宗門学科の学生・教授はアホばっかということか?事実の真偽は知らないが、同窓生に蔑まれて馬鹿にされる余地はあるんだろう。
宗門立大学だけじゃないだろう。オウム事件の前に、麻原某に論戦を挑めるインド思想・チベット思想学者は、日本に一人もいなかった。サリン事件が起きた後も、相変わらず沈黙している。国立大学、有名私立大学と言っても、学問レベルは独学の詐欺師に遠く及ばないようだ。
多額の税金をつぎ込んで運営している大学の権威も、詐欺カルトの前では借りてきた猫同然。詐偽カルトは、インド哲学や仏教学講座のある大学のお膝元で勢力を広げる。多くの人がカルトに泣かされても、アホ学者は手も足も出ない。インド哲学・仏教学講座などは、社会の糞の役にもたたない穀潰しのゴミ学部なんだろう。そのくせ、構造改革で整理の対象にも上がらない。穀潰し学部だと正しく評価できる人材すら育ててこなかった怪我の功名というところか。多額の税金が使われている国立大学で勉強した連中よりも、詐欺教団で独学の詐欺師にまじめに教わった連中の方が、学問レベルは上だという、笑えない珍現象が起きているようだ。
僕は2chで教行信証論を連載してきた。「序文」と「教の巻」を終えた。多くの坊さん達が参加してカキコしてくれていたようだ。結構な話だが、スケベなポンチエの連続には閉口した。漢文も古文も読めず、歎異抄も理解できないどこぞの大学の〇〇学科に通う坊主の小せがれの悪ふざけだったんだろう。(大学の先生も悪ふざけに入っていたりして。 えっつ (@_@)!? ま、マサカねー(^-^; 冗談です(笑) )
寺ではいい若いモンが勉強もしないで、昼間から暇もてあましてキンタマ遊びに耽ってるようだ。金はお布施で右から左に入ってくる。結局、仲間同士、インターネットで声掛け合い、キンタマのしぶきをインターネットで機関銃のように世界中に連射するみたいなそんな離れ業も見せたくなるんだろう。坊さんは、文字の読めないような人を相手にするという(
>>121)。それなら、日本の坊主の知的レベルは、オナニーが飛ばせれば十分だ(苦笑)。
アホ坊主のアホ小せがれがアホ大学に行けば、子供だましのお伽噺と催眠術の呪文で教師は生徒を眠らせる。教える方も教わる方も、宗祖が心血を注いで命がけで書いた教行信証を、真面目に読もうという姿勢は微塵もない。宗祖の考えなどは知らなくてもいい。真宗坊主は、社会のゴキブリとして檀家に寄生すれば檀家に生かされ、一生を終えていく。ゴキブリ坊主はいつの時代も生かされている。ありがたい話だ。ゴキブリ坊主を生かしてくださる仏様みたいな親切なアホ檀家を拝む方が、遙かに功徳はありそうだ。
144 :
とーりすがり:2001/06/18(月) 20:12
ここまでくそみそにいうと言う人の品性と人格を疑うよ
ぱっとみてこいつだけとはつお近づきになりたくないってかんじ
145 :
会員:2001/06/18(月) 20:39
渡海さんと山幸彦さんって、親子ですか?
146 :
比丘:2001/06/18(月) 20:51
念仏というのは一切衆生を救わず。南無妙法蓮華経のみが衆生を救う。
何故にと問えば、貴族階級のみを対象とした宗教はえた・ひにんと呼ばれる
人たちをすくわない、何故なら人間とみなしていないから。
蓮の花はどろの中から見事な花を咲かせる。
これが法華経の正法正道である。
147 :
信徒:2001/06/18(月) 22:26
>>146 ここでそんなこと言ってどうすんねん(笑)
「おおっ!そうなんかぁ!」っていうやつ
おんのか?
別のスレッド立てたらええんちゃう?
148 :
信徒:2001/06/18(月) 22:29
>>143 まぁ、あんまり感心できん言い方やな。
あんた、けっこうええこと言うてんのに・・・・。
149 :
どーでもいいけど:2001/06/18(月) 23:00
>宗門立大学の宗門学部宗門学科の学生・教授はアホばっかということか?
ほとんどそう。まともなのは院生にちらほらってとこですか。
印哲系やチベット仏教、印度仏教系のすばらしい教授は少数いいのいましたが。
>多くの人がカルトに泣かされても、アホ学者は手も足も出ない。
いい論評しててたのは森岡正博っていう哲学・倫理学系の若手学者くらいだったな。
150 :
どーでもいいけど:2001/06/18(月) 23:04
>144
>ここまでくそみそにいうと言う人の品性と人格を疑うよ
>148
>まぁ、あんまり感心できん言い方やな。
まあ、まあ、そうおっしゃらずに。そのとおりなんだから。
151 :
ナムチ:2001/06/18(月) 23:22
143の渡海さんの「宗祖の考えなどは知らなくてもいい。真宗坊主は、
社会のゴキブリとして檀家に寄生すれば檀家に生かされ、一生を終えて
いく。」って言葉は、さぞきつい言葉に聞こえるでしょうが、もし釈迦
や法然、親鸞が、葬式仏教の現状を見たら、こんな穏かな批判ではすま
ないと思いますよ。
152 :
ななし:2001/06/19(火) 02:56
>>143 >僕は2chで教行信証論を連載してきた
2chでやるなよ・・・
>宗祖が心血を注いで命がけで書いた教行信証を、真面目に読もうという姿勢は微塵もない。
宗祖が命を懸けたものを2chという便所のらくがきにカキコしているあなたは基地がい。
153 :
☆一闡提☆:2001/06/19(火) 05:09
みんな仲良くしようよ
同朋同行じゃないか )激藁
154 :
いってらっしゃい:2001/06/19(火) 05:43
>>144彼のは救われっぱなしの極楽懈慢界から投げかける言葉だからなぁ…救われた証がないんだよな、渡海氏自身に。専修にして雑心なるもの・出離その期なし
155 :
ぽぱー:2001/06/19(火) 06:32
>>150坊主批判については一言もないな。まず経済的に坊主が寺から離れないと、この矛盾には立ち向かえない。
>>152 名前:ななし
>2chでやるなよ・・・ <大きなおせわじゃ。蓮の花は泥沼に咲かせるんじゃ。>
>宗祖が命を懸けたものを2chという便所のらくがきにカキコしているあなたは基地がい。
インターネットという最新の世界公共の場を便所にして自分のキンタマをポンチ絵でさらし、世界中に自分のオナニーを連射する。あんたもそんな恥かき坊主の片割れか。アホッタレ。
>>154 名前:いってらっしゃい
>救われた証がないんだよな、渡海氏自身に。 <信謗ともにあるべし。>
157 :
名無しさん@1周年:2001/06/19(火) 10:02
渡海難について各界の反応
総理大臣/小泉純一郎さん 「何で今さら、こんな質問が出てくるのか分からない」
自由党党首/小沢一郎さん 「(事務所を通じて)コメントする価値を見いだせない。」
東京都知事/石原慎太郎さん 「くだらないねえ。何が楽しみでこんなアホを相手にするのかな。連中は。」
日銀総裁/速水優さん「頭の中までデフレが浸透していると、再認識せざるを得ない。」
ソニー会長/出井伸行さん 「ブロードバンドが普及すれば、こういう削除も速くなると思う。」
白鴎大学教授/福岡政行さん 「やっぱり自公保連立政権の発足から渡海のようなアホが増えたと思います。」
マルチタレント/大橋巨泉さん「俺は渡海難みたいなやつがいるから日本にいたくないんだ」
新しい教科書を作る会/西尾幹二さん 「渡海難ほど戦後民主主義教育の欠陥を表しているものはない。」
元グリーンベレー/柘植久慶さん「海外にはこの程度の変質者はコンビニにもいる。日本が平和すぎた。」
女優/広末涼子さん「こういう人がいる日本って、やっぱりすごすぎると思う。」
プロデューサー/テリー伊藤さん「渡海は本当にバナナの皮を踏んで滑ってこけそうな人だよね。」
法政大学教授/田嶋陽子さん「男社会の汚い部分がよく現れている」
財務大臣/塩川正十郎さん「もうよろしやろ?」
158 :
名無しさん@1周年:2001/06/19(火) 10:04
国土交通大臣/扇千景さん 「コメントってあなた、こんなものにコメントする必要ないわよ。」
外務大臣/田中真紀子さん「渡海難みたいな人がいるからいつまでたっても日本はよくならないのっ。」
大学教授/田嶋陽子さん「これだから渡海難みたいな馬鹿男は・・・。え?渡海難が男かどうかわからない?
こんなクソスレ立てるのは男に決まってるでしょ。」
弁護士/大平光代さん「渡海さんがこの失敗から立ち直って早く社会復帰することを祈っています。」
マラソン選手/高橋尚子さん「今ちょっと監督がいないので・・・。」
霊能者/宜保愛子さん「渡海氏の写真からは・・・とてつもない怨念が感じられます。」
女優/神田うのさん「うのさぁ、これ、見た瞬間にクソレスだって思ったんだけど、
やっぱりみんなもそう思う?」
歌人/俵万智さん「『このレスはクソだね』と君が言ったから6月15日は渡海難記念日
>>157-158
アハハハハハ。
藁多 ワラタ 笑った。
6月15日は毎年、渡海難記念日
「親鸞仏教を語りあう渡海難記念日」が2茶から始まる (笑)。
あっ。
「海難記念日」なんて言わないでよ。笑い転げた人が海で溺れ死んだ日なんて、いやよ(笑)。
>>159-160
完全にアホやね、こいつ。
自分がどういう立場にあるのか、自分は他人からどういう目で見られているのかが全然わかってないよ!
頼むから氏んで。お・ね・が・い!
162 :
名無しさん@1周年:2001/06/19(火) 13:43
措 置 入 院 決 定 の お 知 ら せ
渡海 難 殿
平成13年 6 月19 日
厚生労働省官僚 染 谷 意
1.あなたは、精神保健指定医の診察の結果、入院診療が必要であると認めたの
で通知します。
2.あなたの入院は【 1)精神保険法第29条の規定による措置入院 2)精神保
健法第29条の2の規定による緊急措置入院 】です。
3.あなたの入院中、手紙やはがきなどの発信や受信は制限されません。ただし、
封書に異物が同封されていると判断される場合、病院の職員の立会いのもとで、
あなたに開封してもらい、その異物は病院であずかることがあります。
4.あなたの入院中、人権を擁護する行政機関の職員、あなたの代理人である弁
護士との電話・面会や、あなた又は保護者の依頼によりあなたの代理人になろう
とする弁護士との面会は、制限されませんが、それら以外の人との電話・面接に
ついては、あなたの病状に応じて医師の指示で一時的に制限することがあります。
5.あなたは、治療上の必要上から、行動制限を受けることがあります。
6.もしもあなたに不明な点、納得のいかない点がありましたら、遠慮なく病院の職
員に申し出てください。
それでもなお、あなたの入院や処遇に納得のいかない場合には、あなた又は保
護者は、退院や病院の処遇の改善を指示するよう、都道府県知事に請求すること
ができます。この点について、詳しくお知りになりたいときは、病院の職員にお尋
ねになるか又は下記にお問い合わせください。
7.病院の治療方針に従って療養に専念してください。
163 :
ななし:2001/06/19(火) 14:04
渡海 難は寺の坊さんより劣る。
なぜか・・・。
本名を明かしていない。←逃げている
仏法は趣味である。←本職でない
2chで布教している(つもり)。←実社会では誰も聞いてくれないから(基地外)
164 :
名無しさん@1周年:2001/06/19(火) 14:09
>2chで布教している(つもり)。←実社会では誰も聞いてくれないから(基地外)
当然ながら2chにおいても誰からも相手にされていません。
ただし、何も知らない人がいらっしゃるようで中にはわざわざバカと相手になる人がいるんですけど。
165 :
名無しさん@1周年:2001/06/19(火) 14:15
>>164 注)「わざわざバカと相手になる人」と書くと、渡海を煽る一般人が誤解するので、次のように定義する。
「わざわざバカと相手になる人」とは、渡海のどうでもいいレスに対してわざわざ返答する人のこと。
要するに渡海のレスに対しては無視するのが一番!
166 :
渡海難ウォッチャー:2001/06/19(火) 16:29
それにしても 2茶って・・・
∧_∧ アオルキチガイ ♪~
∩´∀`∩)
\ )
( ( /
((_)
↓
∧_∧ カタールデンパ ♪~
(∩´∀`∩
| /
( ( /
(_(_)
↓
∧_∧ オナジアホナラ ♪~
∩´∀`∩)
\ )
( ( /
((_)
↓
∧_∧ アオラニャソンソン♪~
(∩´∀`∩
| /
( ( /
(_(_)
なのよ!
>>161-165 ←典型的ごきぶり・アホタレ坊主
2茶の一握りのごきぶり・アホタレ坊主の裏には、その数十倍、数百倍のごきぶり・アホタレ坊主がいる。
一人のアホタレ坊主が、仏様の顔をした数十軒、数百軒のアホタレ檀家によって生かされておる。だれが一番アホタレなんかのう。マッタク。笑い話にもならんわい。
169 :
どーでもいいけど:2001/06/19(火) 18:57
>161-165
きっと坊さんなんだろね〜
こんな見方しかできないからみんなにバカにされるし、
一般の人は幻滅してカルト集団に行くんだよ。
渡海難氏がビョーキかどうかしらないけどさ、たとえば分裂病の人って
支離滅裂な話をしていても、結構鋭いこということも多いんだよ。
ちまたのアホ坊主なんかよりずっと鋭いこという人も多い。
こちらの超能力で心の中を読んでいるのかいな・・・って思うこと
もしばしば。
がらくたの中にお宝見つけるだけのセンスがないような坊主はあかんね。
170 :
どーでもいいけど:2001/06/19(火) 18:59
>こちらの超能力で心の中を
は
>超能力でこちらの心の中を
に訂正
>>169 どーでもいいけどお前は渡海信者か?
坊主と勝手に決めつけるなよ!
>>168 >
>>161-165 ←典型的ごきぶり・アホタレ坊主
うわっ、やっぱりアホだこいつ!っていうか頭の中が単細胞じゃねーの?
これって俺が坊主だって決めつけてない?バカじゃないの?え?
俺は坊主でも神主でも神父・牧師でもカルト信者でもなんでもないんだよ、マジで!
ただ「渡海はアホだ」とみんなが言うもんだからちょっとからかってみただけなのさ。つまり
>>162は試してみただけ。
あんたってやっぱりバカだよ、渡海さんよ。
あんたを嫌う人はみんな坊主だって決めつけてない?そうやって坊主でない人をアホタレ坊主だと決めつけて楽しいか?
だからお前さんは2chで嫌われるんだよ!
>>169、お前も人事じゃないぞ!そんなこと言ってたら嫌われるぞ!わかった?
173 :
とーりすがり:2001/06/19(火) 19:32
>169
一般の人は幻滅してもカルト教団入らないよ。
カルト教団入る人は最初から既成教団の門はたたかないと思ふ。
175 :
どーでもいいけど:2001/06/19(火) 23:06
______
/_ |
/. \ ̄ ̄ ̄ ̄|
/ / ― ― |
| / - - |
||| (6 > |
| | | ┏━┓| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | | | ┃─┃| <
>>171,172 ほ、ほう〜〜、ご指摘ご苦労
|| | | | \ ┃ ┃/ \________
| || | |  ̄  ̄|
176 :
どーでもいいけど:2001/06/19(火) 23:09
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヤ (´ー` )
>>172 しょーもない人間に嫌われてもどうってことないけど
レ⊂ヽ/ ヽ/つ \__________________
ヤ \/ \/
レ | | |
(__)_)
177 :
ななしくん:2001/06/19(火) 23:42
>168
坊さんを目のカタキにしているが、彼らは実社会にてどうどうと布教(?)している。
あんたはインターネットの匿名性を利用していきがってるだけ。
そんなに坊さんが嫌いなら直接寺に言いに行けば・・・。
本願寺に直接行ったらどうですか?
結局、本名や住所公表できない弱虫さんだね。
178 :
信徒:2001/06/19(火) 23:53
>>153 そりゃそうや(笑)
しかしまぁ、あれやな。この手のスレッドは大概
自論に絶対的なプライドがあるもんやから
ほとんど喧嘩になるな、実際。
179 :
☆一闡提☆:2001/06/20(水) 12:35
五濁の時機到りては
道俗共に争いて
念仏信じる人を見て
疑謗破滅さかりなり
…末法じゃのう…
180 :
渡海難ウォッチャー:2001/06/20(水) 13:23
みなさん気付いてないようなのでお教えしますが
168=169=170=174=175=176
ですよ。つまり どーでもいいけど=渡海難 です。
彼は時々このように別HNを使って自分自身を擁護します。
いつもはHNを変えても口調が一緒なのでバレバレでしたが
今回は口調を変えたりして 渡海難とは別人だということを
必死にアピールしてますが・・・。哀れですねぇ。
>>177 名前:ななしくん
>本名や住所公表できない弱虫さんだね。
こんなこたぁ、あんたぁ、鏡を見ながら自分に向かって言いなさい。「ななしくん」なんて得体の知れない名前は、何だい? あんたが自分の覆面に使ってるHNだろうが。
渡海 難というのは、もう十年近く使ってる僕のペンネームだ。覆面に使ってるHNじゃないよ。僕の場合、仏教上の自分の主張は全部「渡海 難」を使ってる。僕の仏教主張上の人格の全ては、「渡海 難」という名前に化体している。本名では仏教上の主張などしていない。
あんたは僕の本名を知りたいのか。そんなもの知ってどうするんだい?本名は仕事で使ってるよ。僕は、仕事上の関係でアンタみたいな人と接触するこたぁ、考えられないんだよ。僕の本業の世界は、坊さんなんかが入ってくる世界じゃないからね。法律と技術の世界だ。仏教とは無関係だ。僕の本名を知ってどうするんだい。アラ探しでもするかい?あること無いことを「ななしくん」なんていう匿名でインターネットに公開し、脅迫でもするかい?ゴロツキ坊主がやりたがりそうなことだな(笑)。
「親鸞仏教の正当性を問う」「親鸞仏教を見直そう。」「渡海 難を問う」ではいろんな坊様に会った。自分のキンタマをインターネットに晒し、盛んにドスケベーのポンチ絵で騒ぐ坊主がいた。アンタは男か女か知らんが、どうせアンタもそのキンタマ野郎の仲間だろう。ゴロツキ坊主のチノーは知れてるわい(笑)。
大谷派にも本願寺派にも、僕は、知り合いが多い。アンタの回りにも、僕の本名も住所も知ってる坊さんは何人もいるだろう。この掲示板を見てる連中の中にだって、いるだろう。あんたが僕の本名を知らないだけだ。
182 :
渡海難ウォッチャー:2001/06/20(水) 13:36
渡海難は常に仮想敵団体を作らないと気がすまないようです。
現在は真宗僧侶全体を自分の敵と見なし、自分に不利益なことを言う
人間は全て真宗僧侶であると思い込んでしまってます。
少し前までは敵視していた団体は親鸞会でした。
そのころは誰にでも「お前は親鸞会の会員だろ!」と根拠のない決め付けを
していました。
彼の妄想はどんどんエスカレートしていき、
「親鸞会が総力をあげて渡海難を潰そうとしている」などと
とんでもない被害妄想も持っていました。
完全に精神が病んでいるようです。
彼が包丁を持って小学校に向かうなどということがないよう祈るばかりです。
>坊さんを目のカタキにしている
冗談じゃない。僕は坊さんを尊敬しているんだ。目のカタキにする理由がどこにある?僕だって、親鸞関係の書物の読み方の最初は、坊さんから教わったんだよ。坊さんがいなけりゃ、教行信証も、歎異抄も、三部経も読めなかった。尊敬はしても、目のカタキにする訳ないだろう(笑)。
世の中では金が一番尊い。金がなければ銀が尊い。金も銀もなければ、銅を重んじる。金も銀も銅もなければ、鉄や鉛を重んじるんだ。
世の中では仏が一番尊い。仏がいなければ菩薩が尊い。菩薩がいなけりゃ、声聞・縁覚を重んじる。声聞・縁覚もいなければ、賢人哲人が尊い。賢人哲人がいなければ、目覚めた凡人が尊い。目覚めた凡人もいなければ、戒律を守るだけの僧侶が尊い。戒律を守るだけの僧侶もいなけりゃ、頭を剃っただけの形ばかりの僧侶が尊い。頭を剃っただけの形ばかりの僧侶もいなけりゃどうする?自分のキンタマをインターネットにさらして世界中にしぶきをぶっ飛ばす有髪のあほたれ坊主でも尊いと思わなくちゃならんじゃろぅ(苦笑)。
>彼らは実社会にてどうどうと布教(?)している。
そりゃそうだよ。坊主と言えば、インターネットで声掛け合い、キンタマを広げて歓声を挙げるアホーばかりじゃないんだよ(笑)。偉い人もいるぞ。多分な。(キンタマヤローよりも更にアホーもいるかも知れん。それにはまだ会ったことはない(笑)。)
「自分は生かされている」と立派に布教している坊様は多い。そういう坊様は、キンタマ野郎よりは立派だろう。そいつらは誰に生かされてるのかって?檀家さんによって生かされてるんだ。檀家さんは坊主にとっての仏様、神様なんだ。
>あんたはインターネットの匿名性を利用していきがってるだけ。
まあ、何とでも言ってくれ。インターネットでキンタマを晒す坊主の真似はしたくないと思っている。マジでな。
>そんなに坊さんが嫌いなら直接寺に言いに行けば・・・。
坊さんは尊敬してるんだよ。
「嫌いなら…行けば」とは、どういう頭の構造をしているんだい?「嫌いなら…行くな」というのが普通だよ(笑)。
文字も読めない人を日本の中で相手にしようとすると、坊主はこういうおつむ構造になるのか?アホでも日本の坊主は通用する。
>本願寺に直接行ったらどうですか?
<何しに行くの?(笑)>
>>178 名前:信徒
>自論に絶対的なプライドがあるもんやからほとんど喧嘩になるな
どこぞのお寺の御檀家の方ですか。今回に限っては坊様に言ってあげてくださいな。
話は違いますが、どこぞのキンタマ宗は、お坊様が、面白いプライドと品位をお持ちです(笑)。
>>179 名前:☆一闡提☆
> …末法じゃのう…
<聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。>
186 :
いってらっしゃい:2001/06/20(水) 13:47
>>179そうじゃないっしょ。神奈川の彼がキティだからこんななんでしょ。彼をもっと知って下さいよ。
>>180 名前: 渡海難ウォッチャー
>168=169=170=174=175=176ですよ。
馬鹿馬鹿しい。
坊主らしきに見えたら嘘つきと思え。その典型のような奴じゃな。
2茶は嘘つき坊主の巣窟だ。アンタも、自分のキンタマを渡海レスの間でインターネットにさらしたあの恥さらし坊主の一人かい?
仏様面したアンタの寺の檀家の顔を拝みたいよ。
..................
189 :
渡海難ウォッチャー:2001/06/20(水) 13:54
渡海難へ
177でななしくんは
>そんなに坊さんが嫌いなら直接寺に言いに行けば・・・。
と書いている。
「嫌いなら・・・行け」ではなく「嫌いなら(文句を)直接言いに行け」である。
わざと「言いに」の部分を省略し、またいつものようにわざと間違って解釈しているが、見苦しい。
ななしくんの文章はあのままで十分に正しく意味が通る文章である。
それを本当に理解できないのだとしたら、渡海難 お前の頭の構造がおかしいのである。
>>182 名前: 渡海難ウォッチャー
>完全に精神が病んでいるようです。彼が包丁を持って小学校に向かうなどということがないよう祈るばかりです。
嘘つきは坊主に始まるのか? 鏡を見ながら言ってくれ(笑)。
188=渡海難
>>189 名前: 渡海難ウォッチャー
>ななしくんの文章はあのままで十分に正しく意味が通る文章である。
<アホ坊主の仲良しクラブか(笑)>
195 :
渡海難ウォッチャー こと ぺぺ:2001/06/20(水) 14:03
渡海難へ
「親鸞仏教の正当性を問う」「親鸞仏教を見直そう。」「渡海 難を問う」などでの卑猥な絵の書き込みをなぜ坊さんの仕業だと思ったのさ?ちょっと教えてくださいな。
渡海難 = 渡海難ウォッチャー =( ´∀`)= 渡海難ウォッチャー こと ぺぺ = 俺
202 :
ちんぽこ:2001/06/20(水) 15:01
ちんぽこ晴れ晴れ
203 :
渡海 難(p5057-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):2001/06/20(水) 15:01
渡海難 = 渡海難ウォッチャー =( ´∀`)= ふー疲れた = 逝ってらっしゃい = 俺
204 :
渡海 難(p5057-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp):2001/06/20(水) 15:04
ちんぽこ ≠ 俺
205 :
ちんぽこ:2001/06/20(水) 15:09
ちんぽこは男性のほとんどにある(切除した人を除いて)
206 :
信徒:2001/06/20(水) 23:18
207 :
ななしくん:2001/06/20(水) 23:59
渡海 難は逃げ出したね。
本名を明かさなければどんなに他人を批難しても自分は安全だからね。
実社会では誰も聞いてくれないからね、あんたの話。
208 :
信徒:2001/06/21(木) 01:03
最初のふみさんのスレッドでさぁ、
(どこかの教義書からコピペしたような意見は聞きませんが・・)
ってあるやん。
つまりは(俺はこんなに勉強していろんなこと知ってるでぇ)って
いう自慢ったらしいレスはいらんっていうことなんやねぇ。
それがヒステリックになるとこんな結果になるんよなぁ。
ふみさん、そろそろくぎったほうがええですよ。
新たなスレッドを立てるとか・・。
209 :
名無しさん@1周年:2001/06/21(木) 01:43
>>208さんに激しく同意です
このスレ、最初なんかいい雰囲気でずっと
ROMらせていただいてたのに、
こんなに最初の趣旨から逸れて
荒れた雰囲気になっちゃって。
ただROMってただけなのにこんなこというのも
無責任かとも思うのですが・・・。
210 :
やっとデミレタガ…コノスレオワッテナイカぽぱー:2001/06/21(木) 05:58
>>117壇家さん
東方阿シュク如来とかのことですね。インドじゃ大乗經典成立中・4-5世紀にも世親が[無量寿經優婆提舎願生偈(浄土論]書いてるし…阿弥陀如来が残った理由…は多分經典が良く出来てたからじゃないですか?いい加減な答えでご免なさい。
211 :
ぽぱー:2001/06/21(木) 06:20
Sigh…終わってるなこりゃ。
>>208 >このスレ、最初なんかいい雰囲気でずっと
>ROMらせていただいてたのに、
>こんなに最初の趣旨から逸れて
>荒れた雰囲気になっちゃって。
渡海難がここに来ると必ず荒れるんです。彼はスレを私物化して自分の主張を他人に押し付け、さらに自分の意見に反対する者を勝手に坊主と決めつけその上キンタマ坊主などとぼろくそに悪口を書くので叩かれるんです。
渡海難がこのスレに来なければもっとマターリといけるんですがね。
213 :
お疲れさまでした:2001/06/21(木) 23:39
渡海がこれから一週間程来ないんだって。
214 :
信徒:2001/06/24(日) 18:38
終わったかな・・・
みなさん、さようなら・・
215 :
真実:2001/06/24(日) 20:12
なぜ阿弥陀信仰は中国や日本で盛んになったかということ
加藤常賢『漢字の発掘』に「西」という文字について、
「黄帝とか西王母とかいう伝説上の神が本来は中国本土で生まれた伝説上の神で
あるにもかかわらず、すでに戦国時代になると、遠く西方の崑崙山に移住して
しまっている。(略)
この時代はすでに西方の諸国と交通があって、当時の知識人にとって、何事か憧れの
的となって、その地方が神秘的に考えられた結果ではないかと思う」
とあります。
西方は中国や日本にとって何かをもたらしてくれる特別の方角というイメージがあるのでは
と思うのですが。
216 :
ぽぱー:2001/06/24(日) 20:54
>>215なるほど。そっちの方が分かり易いですね。
217 :
ふみ。:2001/06/29(金) 23:20
個人的に忙しくしていて、暫く見ることもできませんでした。
かなり荒れた1週間だったのですね。
渡海さんの最初の書き込み、「真実を語れる人が坊さんにいない」という趣旨だったと思いますが、それ自身は批判として受け止めざるを得ない、と思いました。
しかし、ここんとこの氏の書き込みは、単なる罵詈雑言としか見られず、見るに耐えません。
また、私自身、現在の浄土系宗派の問題が「流行っていないということ」であるか?「流行る」とは何なのだ?という点について未整理だったことに鑑み、一旦終了(私にその権利や権限があるのかは分からないのですが)とさせて
いただきたく存じます。
浄土系{南無阿弥陀仏}のスレもありますから、またそちらでお目にかかるかも知れません。
様々なご意見をちょうだいし、ありがとうございました。
ふみ。
218 :
ななし:2001/06/29(金) 23:45
>また、私自身、現在の浄土系宗派の問題が「流行っていないということ」であるか?「流行る」とは何なのだ?という点について未整理だったことに鑑み、一旦終了(私にその権利や権限があるのかは分からないのですが)とさせて
いただきたく存じます。
ある妙好人の言葉で、
「仏法は今繁盛しておりまする。」というのがある。
三河のおそのさんだと思う。
ある時僧侶がおそのさんに「おそのさんの住んでる田原の辺は真宗の門徒が少ない。あまり真宗が繁盛していないようですな。そのようなところでもあなたのような方がおられる。不思議なことじゃ。」
と言ったところ、おそのさんいわく、
「仏法は今大繁盛です。他の人のことは知りませんが、私ひとりには仏法は花ざかりです。ありがたいことです。南無阿弥陀仏。」
真宗の繁盛、流行とはこのようなものですね。
私の胸でも真宗は大繁盛しています。
南無阿弥陀仏
219 :
檀家さん:2001/07/01(日) 18:44
法然さんより前は、(慧心僧都源信とか)
南無阿弥陀仏=南無妙法蓮華経だったのでしょう?
a
221 :
名無しさん@1周年:2001/07/14(土) 08:30
g
222 :
名無しさん@1周年:2001/07/26(木) 06:54
極楽で修行して成仏しましょ。なんて・・
来世成仏じゃないですか!
そんな事、お釈迦様は説いてないですよ。
それに、「一生に七度念仏を唱えたらそれだけで
極楽に行ける 」っということ自体いったい何?
って感じ!大昔の進歩もしない宗教だから流行らない!
仏教の教えを2種類に分けると、一つには、一生懸命勉強をしてこつこつと修行にはげん
でこの世でさとりを開くことを目ざす聖者の道を聖道門といいます。
2つめは、自分の能力ではとても覚りを開くことができない落ちこぼれ(浪人生)が、阿
弥陀さんという先生を信じて念仏して浄土という覚りを開くための予備校に行き、そこで
朝から晩まで仏法漬けの生活を送って、来世にさとりを得ようとする愚かな凡人が悟るた
めの道を浄土門といいます。
この聖道門・浄土門は、唐の道綽(ドウシヤク)が安楽集で説いたもので、聖道門は自力教で難
行道(ナンギヨウドウ)、浄土門は他力教で易行道(イギヨウドウ)とされています。
道綽は,末法の今の時は、聖道門ではさとり難く、浄土門によれば容易であるとしました。
法然も選択(センチヤク)本願念仏集の中で、道綽の教えをうけて、すみやかに生死をはなれん
とおもはば二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をさしをきて、えらんで浄土門にいれと
強く呼びかけています。
これは念仏して浄土に生れる道が易行であるという原理のほかに、人びとの教えを受容す
る能力(機根)が衰えると信じられている末法という時代を考え合わせて、念仏往生こそ時
(時代)機(教えの受容者)相応の教えという確信に基づいています。
224 :
名無しさん@1周年:2001/07/26(木) 20:21
「無理するな、頑張らなくていい、凡人の努力なんて思い上がりや間違った考えを生むだ
けでなんの役にも立たない、自分の愚かさに気付いて素直に阿弥陀仏にすがれば、阿弥陀
仏が浄土から覚りの境地へと連れて行ってくれる」
簡単に言ってしまえばこういう教えでしょう。
頑張るな、何もしなくていいっていう教えは、元気があり余っている若者向きではないか
もしれない。
>>224 >頑張るな、何もしなくていいっていう教え
確かこれに近いことを、ヒロサチヤさんが言っていたように思います。
無理したくても無理できないときがある。そんなときは、無理しろと言われても無理はできない。そんなときは頑張らなくていい。凡人の努力なんて思い上がりや間違った考えを生むだけでなんの役にも立たない。こういう考えは大事でしょうね。
でもね、努力しなければいけないときはある。努力すれば、報われるときもある。無理できるときはある。努力できるときはある。そういう時の方が、人生の中では多い。そのことを忘れて、一方的に「頑張るな、何もしなくていい」などと言えば、これは邪道だ。「元気があり余っている若者向きではないかもしれない」のは、邪道の教えだからなんでしょう。
努力できるときは努力しないといけない。努力できないときは、努力はできない。道理をきちんと振り分けて考えていく事が大事でしょうね。
阿弥陀さんの救済は、自分ではどうしようもない落ちこぼれを救うことが目的だと思いま
す。
自分で努力して、自分の力で、覚りを開くことのできる人は阿弥陀さんの力を借りる必要
がないのですから、自分の力で覚りを開けばいいのです。
ですから、阿弥陀さんの救済は、どうしようもないものが優先される。
もう少し自分で頑張ってみるわ、という人に対しては、ああそう、じゃぁしばらく自習し
とってね、という具合に後回しにされる。
テストで0点ばかりとるんだけど、なんとかみんなと一緒に覚りを開きたいと思ってる。
だけど、どんな勉強をしたらいいかもわからんで落ちこぼれとる。
そんなどうしようもない落ちこぼれこそ阿弥陀さんの救済の対象者なのではないでしょう
か?
228 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 10:23
『顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽』(正信偈)
難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
龍樹(150-250頃)は、『十住毘婆沙論』(『華厳経』の「十地品」の注釈書)の中で、
仏教を「難行道」と「易行道」に分けています。
「難行道」というのは、厳しい修行をして、長い時間かかって覚りを開く教えで、これを
「陸路を苦労して一歩一歩進む難行そのもの」とたとえています。
「易行道」というのは、「船に乗って水路を行くように楽に覚りを開く道」と言っていま
す。
阿弥陀さんの救済を信じれば、苦しい努力をしなくとも、自然に覚りを開く人となれるん
だから、そちらの道を選びなさいと自分の努力を捨てる道を勧めているのではないでしょ
うか?
229 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 10:48
>>223 『道綽決聖道難証 唯明浄土可通入』(正信偈)
道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
中国の道綽禅師が『安楽集』という本を書かれて、その中で仏教を聖道門と浄土門とに分
けています。
聖道門は、浄土教以外のすべての仏教で、自分で厳しい修行をして悟りを開こうとする考
え方(教え)。
道綽禅師は、
「聖道門は確かに立派な教えだけれども、それをとても成し遂げることはできない。今、
本当に仏になろうとするなら、もはや浄土教しかない」
と断言されています。
さらに
『万善自力貶勤修 円満徳号勧専称』(正信偈)
万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
「自力の修行はいくらやってもムダ・役に立たないから、ただ念仏しなさい」と人々に勧
められています。
現代語で言えば、頑張るな、努力するなと言われていると思います。
>>228 >阿弥陀さんの救済は、自分ではどうしようもない落ちこぼれを救うことが目的
なるほど。
それで、阿弥陀さんっていうのは何者ですか?阿弥陀さんの救済ってどういうことですか?阿弥陀さんに救済された場合とされない場合とでは、一体何がどう違うんですか。
貴方は晴れて一番先に救済された阿弥陀さんのエリートですか、惜しくも一番後に回されている阿弥陀さんの落ちこぼれですか?
エリートは最初なんですか、後なんですか?。落ちこぼれは最初ですか、後ですか?。
自分ではどうしようもない落ちこぼれが、阿弥陀さんだったらどうやったら救えるというんですか。
>落ちこぼれを救うことが目的
落ちこぼれっていうのは、いけないもんなんですか?。救われなければいけないんですか?。普通は日陰モンですか?
最初っからの落ちこぼれなんかいないんですよ。昨日まで落ちこぼれと思われていた人が、今日は選挙に受かって人の上に立つこともある。人の上に立っていた人が落選して落ちぼれることもある。他人は落ちこぼれに見えても、本人は落ちこぼれの意識無く、再起を誓って自信をもって行動している人もいる。周りの人は、リーダーだと思っているのに、本人は落ちこぼれ意識に苦しんでいることもある。
救いの対象となる落ちこぼれなんて、どういう落ちこぼれなんですか?
>自分ではどうしようもない落ちこぼれ
自分ではなんとかなる落ちこぼれなんているんですか。人の上に立つリーダーだって、多くの敵に囲まれて身動きできないときもある。
総理大臣というのは、落ちこぼれなんですか、落ちこぼれではないんですか?音楽家を目指したけど、落ちこぼれて政治家になり総理大臣になっちゃたという人もいるかも知れない。路上生活者は、落ちこぼれなんですか、落ちこぼれではないんですか?理髪店で成功したんだど、路上生活者の窮状に見かねて自分も路上生活に飛び込み、路上生活者になって救援活動をしている誇り高い人もいるそうです。
総理大臣というのは、自分で勝手に何かができるんですか。できないんですか。靖国神社に参拝に行くと言えば、外国から文句が来る。参拝も勝手にならない。路上生活者にだって、自分で勝手にできる幅と、できない幅があるでしょう。どうしようもない落ちこぼれなんて、どこにいるんですか?どうしようもない落ちこぼれというエリートだけを救うなら、阿弥陀さんなんか必要ないでしょ。
>自分で努力して、自分の力で、覚りを開くことのできる人は阿弥陀さんの力を借りる必要がないのですから、自分の力で覚りを開けばいいのです。
自分の力で覚りを開くことのできる人?、そんな人がいるんですか?。そんな人は、他人の力を借りれば覚りが開けるんですか?、そんなもんじゃないでしょう。
人間は悟りを開かないといけないんですか。悟りなんか開けなくても、尊敬されるような生活をしっかり築いている人はいくらでもいますよ。
>阿弥陀さんの救済は、どうしようもないものが優先される。
優先されるようなどうしようもない人とはどういう人ですか?優先されるようなどうしようもない人は、本当に優先されていますか。阿弥陀さんに優先されたエリートと、阿弥陀さんに後回しにされた落ちこぼれと、何がどう違うんですか。首から番号札でも付けているんですか。貴方は何番目でしたか?
>もう少し自分で頑張ってみるわ、という人に対しては、ああそう、じゃぁしばらく自習しとってね、という具合に後回しにされる。
優先された人がどこかにいるんですか?後回しにされた人がどこかにいるんですか。優先された人、後回しにされた人、そんな人がいれば僕は会ってみたい。聞いてみたい。貴方は何番目でしたかって?私は一番最後でしたよなどと言う人がいれば面白いでしょうね。いわば全人類の落ちこぼれだ。私は一番最初でしたよなどと言う人はどんな顔をしているんでしょうね。いわば全人類のエリートだな。
>テストで0点ばかりとるんだけど、なんとかみんなと一緒に覚りを開きたいと思ってる。
テスト0点がいけないんですか?テストで0点と、覚りを開くということが、何か関係あるんですか?
>どんな勉強をしたらいいかもわからんで落ちこぼれとる。
馬鹿言いなさんな。勉強しても試験の悪い奴はおる。勉強しなくても試験のできるやつはおる。阿弥陀さんとどんな関係があるんすか?
>そんなどうしようもない落ちこぼれこそ阿弥陀さんの救済の対象者なのではないでしょうか?
仏教の原理が全く分かってないようだ。
>>228-229のコメントは後日
>>現代語で言えば、頑張るな、努力するなと言われていると思います。
一言だけ先に言います。 そんな、馬鹿な。
234 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 18:47
渡海は、「落ちこぼれ」になにかトラウマでもあるのか
235 :
:2001/07/27(金) 18:50
>>234 渡海さん自身が「落ちこぼれ」の典型です。
236 :
通りすがりの無神論者:2001/07/27(金) 19:28
>1さん
>>浄土系(南無阿弥陀仏)がなぜ流行らない?
全部よんでませんが、浄土系に限らず、仏教、宗教を信じないのは
大多数の人が現実主義だからじゃないですか?
あるかないかわからないものにすがったりしてても、、って思っちゃうんじゃ
ないでしょうか。(わりとマジレスですよ。)
237 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 19:41
>>236さんの言う通りだと思うよ。
それとカルト教団の出現により「宗教不信」になる人が多くなったということも考えられるね。
オウムや統一教会などの新興宗教が問題を起こしたもんだから、浄土系の仏教をはじめとする既存の宗教まで信じなくなってしまったんだよ!
要するに宗教って恐れられているというイメージになってしまったんだね。
『阿弥陀経』の末に
『もろもろの衆生のために、この一切世間に信じ難き法を説きたまう』と
阿弥陀仏の教えをさして「普通の人々にはとても信じることが難しい教え」と述べられて
います。
また、親鸞聖人は『正信偈』で、
『弥陀仏本願念仏 邪見キョウ慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯』
「弥陀仏の本願念仏は、邪見キョウ慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難
のなかの難これに過ぎたるはなし」
「正しい道理を知らないで奢り高ぶり、自分は特別に偉いと思いこんでいる人間にとって
は、阿弥陀仏の平等の救いを理解することは、とても難しい」と言われています。
易行といって、私たちが救われるためには、自分では何もする必要がありません。
すべてを阿弥陀仏にまかせきってしまえば、阿弥陀さんが覚りの世界へ連れて行ってくれ
る、というより、救って下さいとお願いをするまでもなく、すでに私たちは阿弥陀仏によ
って救われてしまっているのに、そのことに気づいていないだけだというのが本願念仏の
教えでしょう。
救われていると教えられても素直に信じることができずに頑張ろうとします。
易行といわれるけれども、信じることは難しい、難中の難、それに過ぎたるはなしと言わ
れています。
信じることが難しい教えは流行るはずがない?
239 :
ゴンベエ:2001/07/27(金) 20:41
>易行といって、私たちが救われるためには、自分では何もする必要がありません。
>すべてを阿弥陀仏にまかせきってしまえば、阿弥陀さんが覚りの世界へ連れて行ってくれ
>中略
>救われていると教えられても素直に信じることができずに頑張ろうとします。
>易行といわれるけれども、信じることは難しい、難中の難、それに過ぎたるはなしと言わ
>れています。
こういうウソが通用するほど大衆がバカではなくなったということです。
通用すると思っている坊主の方がバカにされているんですよ。
240 :
実家が浄土宗:2001/07/27(金) 21:02
>237
確かに何か宗教を信じてるって人に言うのにはちょっと抵抗が有りますね。
中学生の時、祖母が亡くなったんですが、
その時のお寺さんの説法が、自分の死生観の基本になったと思います。
自分が宗教から教わったものは、
浄土宗 ->死生観、「徳」という概念
神道(神社) ->自然との関わり、先祖崇拝、感謝の心
宗教を信じているかと言われるとちょっと悩みますが、
自分は神道も浄土宗も好きですよ。
241 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 21:56
>>239 昔の人はバカで、今の自分たちはかしこい
そういうことか?
242 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 22:14
>>237 宗教は恐ろしいもんだと思うよ。
無知だったり、自分でしっかり見極められなかったら人生ダメになる。
「宗教なんて頼らない」とか言ってた人がバンバン新興宗教やカルト
に入ってるもんね。
243 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 22:22
>>239 > こういうウソが通用するほど大衆がバカではなくなった
これは明らかに間違いです。
浄土教に対しては、
「さんざん悪いことをした人間が念仏をしたぐらいで救われるのはおかしい」
「念仏なんてまともな修行のできないできそこないの人間が頼りにするもんだ」
といった批判・疑問は古い時代のインドや中国でもあったようです。
>241さんの質問にはぜひ答えてほしいです。
244 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 22:32
素人考えだが‥、
シャカの教えは人生の現実を説いたのだろう?だったら法然と
言う人が説いたのも人生の現実を説くものであったはず…。
>>236のように現実主義の大多数の自分達が信じられないのは、
どう現実と関わっているのかがよく見えてこないからだと思う。
245 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 22:36
何にリアリティを感じるかは時代と言うか人による
246 :
通りすがりの無神論者:2001/07/27(金) 23:17
確証バイアスーーー
ある考えや仮説を評価・検証しようとする際に、多くの情報のなかから
その仮説に合致する証拠を選択的に認知したり、判断において重視した
りする傾向。仮説に都合の悪い情報は無視されやすい。
この結果、当初の考え(信念)は維持されやすい。
<有斐閣発行『心理学辞典』より>
つまり、、、確証バイアスによって人は信念を獲得し、その信念を確証するものを
探そうとする。一方、信念に反することがらを探すのではなく黙殺したり、
あるいは低い価値しか与えなかったりもする。
たとえば、満月の晩には事故が多発する、と信じている人がいたとしよう。
この場合、その人は満月の晩に起きた事故だけに注目してしまい、満月の晩
以外の日に起きた事故に注意を払ったりしなくなってしまうだろう。
こうしたことが繰り返されると、満月と事故が関係して
いるという信念は、不当に強化されることになる。最初に抱いた先入観や信念を
裏付けるデータを重用して、これに反するデータを軽んじようとする
傾向、、、のことらしいです。ノストラダムスの説を信じてた学者なんかは
もろにこれらしいです。
これって、ほとんど全ての宗教に入信してしまった人たちにも当てはまる
って思っちゃうんですが、どうなんでしょうか?
247 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 23:22
>>246 勉強になりました。
盲信の元はそういう思いこみですよね。
気をつけるようにしなければ・・・。
248 :
宗教(特に浄土系)は:2001/07/27(金) 23:26
ようするに、爺婆くさいからはやんねーんだろ
お迎えが近いひとが気休めと趣味でやるもん
というイメージしかないね!
はっきり言って。
249 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 23:27
若々しい、気休めや趣味でないものってなんだろう?
250 :
名無しさん@1周年:2001/07/27(金) 23:31
>248
242を読め!
251 :
読者:2001/07/27(金) 23:48
>250
読んだけど、はいらねーよ浄土系は絶対オレは
なぜって、よりよい死を願う、死の宗教だから。
252 :
名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 06:23
251みたいなのが、最初は「よりよい死を願う死の宗教だ」と思ってたん
だけどさ〜とか言って、カルト系に入っちゃうんだろうね・・・
253 :
ごんべえ:2001/07/28(土) 08:11
>241
昔と今の一般大衆の教育水準の違いを考えれば分かることだと思いますが?
坊主と言えば、昔は大衆より知識レベルが高かった(知識人だった)わけですが、
今ではそんな坊主はごくごく少数でしょう。
254 :
ゴンベエ:2001/07/28(土) 08:13
>243
何が言いたいのかよくわからん
255 :
読者:2001/07/28(土) 08:38
>252
だからはいらねーって、
カルトだろうが伝統だろうが、こんな陰気くさい
浄土系なんか入るかよ、今時!
>>239,
>>241,
>>243 現代は、坊さんが不勉強なんでしょう。
古典を読むと、昔の坊さんはかなり正確に理解していているようです。古典とはこの場合、例えば蓮如のお文を指しています。
蓮如は親鸞仏教をかなり正確に理解しているという感触を僕はもっています。感触というやや曖昧な言い方をする理由は、確信がもてないからです。蓮如は、大衆宗教家として民衆に理解しやすいようにかなりきわどいことも言っています。しかしその背後を見ようとすれば、極めて正確な理解をしているようです。
確証はありませんが、坊さんが不勉強になったのは、徳川時代からでしょう。明治以降は無茶苦茶なんじゃないでしょうか。明治・大正期の浅原才市さんなんかは、例外中の例外でしょう。一直線に駄目になってきたんじゃなく、浮き沈みしながら、腐敗崩壊してきているんだろうと想像しています?
追加
才市さんは、坊さんではありません。かれは下駄職人です。
当時の本願寺仏教体制では、普通なら決して日の目をみることはなかったでしょう。たまたま、鈴木大拙という人物と巡り会ったことで、掘り出された希有の人です。
当時、坊さんではあれだけの腹の人はいなかったでしょう。
>>228-229
浄土教を学ぶ僕らは、人生には二つの大きな仕事があると教わった。そのうちの一つの仕事は、時空を超えて極めて意義深く、重大重要な仕事だ。もうひとつは、時空を超えた意義深さや重大性はないけど、先のひとつが仮に片づけば、次ぎに重大性を持ってくる。時空を超えた意義深い仕事を、例えば蓮如などは後生の一大事とも言っている
後生の一大事とは、極めて意義深く、重大重要な仕事だ。昔の人は、それだけに一生を捧げた。重大重要性では昔と変わりはないけど、その遂行方法は親鸞聖人以降、極めて簡単になった。「ただ念仏」。これだけで十分なんだ。
ただ念仏。これだけで第一の仕事は片づくんだ。ただ念仏で第一の仕事が片づくというのは、自分の手柄じゃない。そこはきちんと知っておかないといけない。
第一の仕事が片づいたということは、第二の仕事も片づいたという事じゃない。工場サラリーマンは、工場に働きに行かないと失職する。家族は路頭に迷う。学生は、しっかり勉強しないといけない。こういうことも、実は大事な仕事なんだ。こう言う仕事は、後生の一大事が片づけば自動的に片が付くなんていうもんじゃない。後生の一大事が片づけば、そこで片づいたのは、後生の一大事であって、生きて行く上での仕事じゃない。後生の一大事が片づけば、僕らは残りの仕事に全力を傾けるべきだ。
ただ、後生の一大事が片づいているというのは非常に意味がある。僕らは残りの仕事に全力を傾けるべきだが、そこではどんなに失敗してもいい。どんなに失敗しても、後生の一大事が片づいていれば、後生は明るい。死んでも地獄に行かない。どんなに、どんなに失敗しても、地獄には行かないんだから、残りの仕事には死を恐れず、命を賭けて安心して全速力で全ての力を傾けるべきだ。
全速力で全ての力を傾けるべきだと言われても、全ての力を傾けられるときと、傾けられないときがある。傾けられないときは、傾けられないんだから、そんなときは心配する必要はない。持てるエネルギーを傾けられなければ、確かに人生に成功はない。それは当たり前だ。でも、成功がないのは人生である。後生は明るいんだから、人生では失敗しても、後生の一大事は片づいている。死んでも地獄には行かない。後は極楽が待っている。安心して失敗すればいい。安心して失敗できると思えば、死を恐れず、全速力で全ての力を傾けられるときも多いだろう。全速力で全ての力を傾けられれば成功もあるだろう。後生は明るい。
後生の一大事は大変な一大事なんだ。でもそれは「ただ念仏」で片が付く。それなら、後生の一大事はさっさと片を付け、次の仕事に全力を傾けようじゃないか。これが浄土真宗の教えなのさ。
260 :
名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 16:33
261 :
消臭ポット:2001/07/28(土) 16:52
後生の一大事て念仏すれば、一度だけでも念仏すれば、後生の一大事
は、かたずけられるのかいな?終わりなのかいな?疑問だ。
262 :
名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 17:14
>>257 >当時の本願寺仏教体制では、普通なら決して日の目をみることは
>なかったでしょう。たまたま、鈴木大拙という人物と巡り会った
>ことで、掘り出された希有の人です。
>当時、坊さんではあれだけの腹の人はいなかったでしょう。
ちょっと待ってよ。
鈴木大拙が「文献」を掘り出したにしろ、才市の「文献」は残ってたわけでしょ?
とすると当時から「妙巧人」として尊敬され、「日の目」を浴びて、「文献」にされてたと推定できるんだけど?
もちろん、文献を残していたのは坊主だと思うんだけど…
263 :
名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 17:34
264 :
匿名希望:2001/07/28(土) 18:35
私は念仏を三年あまりやってみましたが、効果がありませんでした。
265 :
名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 19:00
君は創価に入るべきだな
1年で効果があるよp
なんでもかなうよ
267 :
名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 20:20
人間が、一番こころ安らかにいられるところは、今の自分をそのまま受け入れてもらえる
世界です。
勉強ができなくても、貧乏でも、年をとって仕事ができなくなっても、いつでも「そうか
そうか」と言ってもらえるのが、一番安心です。
「勉強ができない」と親に叱られ、貧乏だと「甲斐性なし」と軽蔑され、「役たたずの年
寄りは早く死んでしまえ」と言われるようでは、居ても立っても居られません。
ありのままの自分を「そうかそうか」とそのまま受け入れてもらって大安心にひたった人
間は、もっとも素直な自分になれます。
強制や押しつけがないから、自発的に行動するようになる。
なんでも自分でやる気を出した時には苦にならないけど、他人に強制されてしなければな
らないことというのは苦しくて嫌ですよね。
私が私のまま、背伸びもしないで、卑屈にもならないで、素直に自分自身になれることが
人間にとって一番楽なことです。
それが、阿弥陀仏の平等の慈悲に救い取られた世界なんでしょう。
そして、信心とは阿弥陀仏の平等の慈悲に気付いて、救い取られて大安心の生活をするこ
とでしょう。
268 :
名無しさん@1周年:2001/07/28(土) 20:21
阿弥陀仏の平等の慈悲による救いには、人間が自分の力では決して救われない、ダメ人間
だという自覚が必要です。
阿弥陀仏の平等の慈悲を本当に理解すると、自分がまるっきりのダメ人間だと分かってく
るのです。
そして、そのダメ人間の自分がそのまま摂取されるから、もっとも素直なありのままの自
分になることができて、今度は逆に力がわいてくるのでしょう。
その力は、無理をするとか、頑張るとかと表現されるものではなく、いきいきと生きる力
だと思います。
人間がダメ人間だと自覚することが、本当は自分の力を100%発揮する道だと教えてい
るのが浄土教の教えだと思います。
269 :
真:2001/07/28(土) 20:51
270 :
匿名希望:2001/07/29(日) 00:36
衆生本来、仏なり (白隠禅師坐禅和讃)は仏教の基本命題なら
ほんらい、ダメ人間はいません。
271 :
匿名希望:2001/07/29(日) 00:40
仏教は生きる為の手段なのでしょうか?
272 :
名無しさん@1周年:2001/07/29(日) 00:53
>>270 「一切衆生悉有仏性」=凡夫・悪人といわれるような人でも仏になる可能性をもっている
つまり、ダメ人間でも救われるという根拠がここにあるのです。
273 :
匿名希望:2001/07/29(日) 01:02
仏性とは、仏となる可能性ではないとおもいます。
可能性となると遠い未来のこととなります。
一切衆生悉有仏性とは、円満な、完全な、仏の本質が今、此処に、何の
努力をせずとも、具備していることを言います。
274 :
名無しさん@1周年:2001/07/29(日) 01:07
衆生が本来有しているところの、仏となる可能性(岩波仏教辞典)
275 :
腰痛:2001/07/29(日) 01:32
縁によるから、仏”性”なんじゃないの?
(ゴールとしての)可能性ではなくて・・・。
276 :
名無しさん@1周年:2001/07/29(日) 01:36
要は、その仏性という種をいかに発芽させるかだと思うよ。
その道の1つということで。
やや、密教理念テイストの残り具合が多いから、
面倒くさいと思う人は、真宗に行くと言う面もある。
真宗の教えも間違いではないが、
安全性から言えば、浄土宗かなと個人的には思う。
一介の密教修行者の戯言でした。
277 :
名無しさん@1周年:2001/07/29(日) 01:38
>>276 訂正します。
密教理念テイスト→浄土宗のほうが密教理念テイスト
すいませんね。
>>261 >後生の一大事は、かたずけられるのかいな?終わりなのかいな?疑問だ。
かつての哲人達を考えてみてください。伝教大師、鑑真和上、弘法大師、等々。こういう哲人達は、どのようにして救われていったんでしょうか。
彼らは紛れもない仏道修行でした。彼らは仏道修行者の仲間に加わったからこそ仏道に支えられて救われていきました。仏道修行者の仲間に加わろう。末席でもいいから、まず仏道修行者の仲間に加わろう。浄土真宗はそう提案します。
仏道修行者の仲間に加わればそれだけでいいのか。この点は、十分に問題にされなければいけないでしょう。この問題については、これまでも僕は自分のホームページの中では議論してきています。話が長くなりそうなのでここでがしません。仏道修行者の仲間に加わればそれだけでいい。これが結論です。そんな結論はおかしいという人は、改めてレスをください。それはおかしいというレスが出れば、それに答える形で議論したいと思います。
仏道修行者の仲間に加わるとはどういうことか。それは、念仏を称える仲間に入ることで、仏道修行者の仲間に加わろういうのが、浄土真宗の提案です。では、何回称えたらいいんでしょうか。1回称えたら仏道修行者ですか?2回称えたら仏道修行者ですか?。千回称えても仏道修行者とは言えない場合もある。逆に、一回でも称えれば仏道修行者と言えることもある。仲間に加わるとはどういうことか。野球選手の仲間に加わるという例で考えたい。
ある少年野球の監督が少年達に言ました。家に帰ったら一回でもいいからキャッチボールをしなさいよ、と。有名選手はみんなそうして練習してきた。野球選手はキャッチボールをやるものなんだ。それが野球選手なんだ。君たちも野球選手の仲間になろう。野球選手の仲間になる。これが目標だ。
少年は家に帰ってお父さんと5分間、2回だけボール投げをしました。そして止めました。「あ。もうこれで十分だ。監督は一回でいいと言った。僕はボール投げを1回やった。だから野球選手になった。目標を達成した。もう十分だ。ああ、自分は野球選手になった。僕は立派だなぁ」
別の少年は家に帰ってお父さんと1回ボールを投げました。その後で突然心臓麻痺で死にました。結局1回しかできませんでした。
監督はどう思うでしょうか。2回やって止める少年が野球選手ですか。1回しかできなかった少年はどうですか。1回しかできなかった少年に対しては、監督は立派な野球選手の死としてその死を悼むことでしょう。2回で止めちゃうような少年は、野球選手とは言えないでしょう。
念仏は1回称えたらいい。10回称えたらいい。そんなもんじゃない。また、10回でもいい、1回でもいいというのも真理です。次にも、次にも、限りなくエンドレスに重ねられていくことが当然予定されている念仏なら、10回でも、仮に1回でもいい。空前絶後、もう2度と称えられる予定の無い最後の念仏なら、何回称えても意味がない。
仏道修行者とは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、次にも次にも重ねてられていくことが予定されている念仏を一度でも二度でも三度でも重ねていく人を言うんです。これが仏道修行者です。仏道修行者の仲間に加わるということ、これが尊い。後生明るいということは、仏道修行者の仲間に加わるその尊さを意味します。
>>262 >文献を残していたのは坊主だと思うんだけど…
坊さんを庇うこの言い方の方は坊さんですか。若い人か年取った人か知らないけれど、もし坊さんなら才市さんについてもっと勉強しなさいよ。無知は在家に笑われますよ。
僕の方にも少し舌足らずのところがあったけど、坊さんにしては才市さんを知らな過ぎる。高校生ですか。高校生でもお寺関係なら才市さんくらいもっと知っときなさいよ。鈴木大拙が「文献」を掘り出したなどと言ってるんじゃだめだ。
>>268 >ダメ人間だという自覚が必要です。
ダメ人間だという自覚が持てないとダメ人間ですか。ダメ人間だという自覚が持てるのがいい人間なんですか?ダメ人間だという自覚が持てるようないい人間でも、やはりダメ人間だという自覚が必要ですか?。 何のこっちゃい??
>阿弥陀仏の平等の慈悲を本当に理解すると、自分がまるっきりのダメ人間だと分かってくるのです。
平等の慈悲を本当に理解できないと、ダメ人間だと分かってこないんですか。こういう人はたくさんいるでしょ。平等の慈悲を本当に理解できる人などほとんどいない。坊さんなどは絶望的だ。
それで、ダメ人間だと分かってこないようなダメ人間は、救われないんですか。ダメ人間だと分かるような優れた人、ダメ人間だと自分で分かるような優れた人でないと救われない。ダメ人間は救われないんですね。いい人間がダメ人間だという自覚をもって、はじめて救われる。何のこっちゃい??
>そのダメ人間の自分がそのまま摂取されるから、もっとも素直なありのままの自分になることができて、今度は逆に力がわいてくるのでしょう。
ダメ人間だという自覚をもてるようないい人間が、いい人間ではなく、ダメ人間として摂取される。いい人間がダメ人間だという自覚をもって、つまり実体と自覚に食い違いがあって素直となる。素直なありのままの自分になれないと、力がわいてこない。そういうことですね。
>人間がダメ人間だと自覚することが、本当は自分の力を100%発揮する道だと教えているのが浄土教の教えだと思います。
これじゃ一人も救われネーだろョ。
283 :
名無しさん@1周年:2001/07/29(日) 13:59
>>253 >今ではそんな坊主はごくごく少数でしょう。
宗門大学の特に宗門学科は、偏差値が最低です。
284 :
名無しさん@1周年:2001/07/30(月) 08:45
どうも面白くなくってレスが途切れてしまいますね。
285 :
名無しさん@一周年:2001/07/30(月) 22:51
浄土教も密教も(大乗全部かな?)インドでは、ゾロアスター教、中国ではキリスト教ネストリウス派やマニ教の影響
を受けて成立したとういうのは本当?
286 :
名無しさん@1周年:2001/07/30(月) 23:16
>インドでは、ゾロアスター教、中国ではキリスト教ネストリウス派や
>マニ教の影響を受けて成立した
これが合っているのかどうかは全く分かりませんが、それぞれの時代に
それぞれの地域で色々なものと互いに影響を及ぼしあうというのが自然
ですよね。
287 :
:2001/08/09(木) 16:32
288 :
名無しさん@1周年:2001/08/16(木) 07:19
渡海危険上げ、
このスレをあげて渡海の本質を前もってみんなに知ってもらおう。
289 :
名無しさん@1周年:2001/08/19(日) 04:19
age
290 :
あん:2001/08/26(日) 03:18
最近、XーJAPANのFOREVER LOVEを聴いていたら、浄土真宗の教えと共通するものを感じた。
最近、信心というものは排他的なものではなくって、自らが深まっていく道のような気がした。
291 :
名無しさん@1周年:01/08/28 15:55 ID:LZ31hNWQ
292 :
一遍ファン:01/08/28 16:15 ID:51NwsfuE
一遍上人が病気で没された後、残された教団は、引き続き全国行脚の
旅を続けたんだけど、それは悲惨な実態だったらしい。栄養失調で、
病人が続出し、とうとう動けなくなると、そこに置いてきぼりにし、
ひたすら極楽往生を願ったそうだ。
思うに、一遍上人の時代は、生きることに何の希望もなくて、ただ死後
だけは安らかであれと、極楽往生に自分のすべてをかける人が多かっ
たんだろうな。この世で追い込まれたギリギリのところで、最後の力を
振り絞って掴んだ綱が阿弥陀如来、という境地で、まさに他力そのもの
だと思う。
現代人には、同じ境地に立って、阿弥陀如来にすがることは、とても
無理な話だと思う。一切を捨てきるのは、あまりに多くを所有している。
293 :
名無しさん@1周年:01/08/28 16:30 ID:aUO0hfXA
>>292 >あまりに多くを所有している
いずれ全てを失うよ
294 :
名無しさん@1周年:01/08/28 16:33 ID:aUO0hfXA
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。
一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。
295 :
一遍ファン:01/08/28 16:33 ID:51NwsfuE
>293
>いずれ全てを失うよ
うん。大切なのはその後でしょうね。とにかく、今はダメ。
296 :
名無しさん@1周年:01/08/28 17:46 ID:8pRW55mo
>>295 >うん。大切なのはその後でしょうね。とにかく、今はダメ。
それは、「いずれすべてを失う」=(
>>294 を借りれば、)
「我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、死んでいかなければならない生命を生きている」
という自覚の欠如ではありませんか?
297 :
一遍ファン:01/08/28 18:02 ID:51NwsfuE
>296
いや、それは単なる「宗教的センチ」でしかない。時々「懐石料理」
を口にして、「わびさびも、たまにはいいもんだ」と悦に入っている
のと変わらない。人は裕福な環境の中で清貧を想像することはできま
せん。それは単なる偽善です。
昔の求道者が、わざわざ自分の身に苦行を強いたのも、そのはかない
生命の実相を、他人事ではなくて自分の事として自覚するためです。
他人の苦労話を聞くだけで、「ああ、生命ははかないなあ」と他人の
体験をかみしめても、それは自分自身の体験にはならない。自分が体験
しなくてすむのなら、誰も出家したりしない。
私には、一遍上人の時代の信者達と同じ境地には、絶対になれない。
日本の社会が崩壊して、私が同じ位の苦しみを味わわない限り、どう
しても私と一遍さんとの溝は埋まらない。同じ「南無阿弥陀仏」を
唱えても、所詮は「同床異夢」です。
298 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長 :01/08/28 18:38 ID:IwIsA8pU
>>1 流行らす?・・・はは・・
流行か・・・若いな・・
はは・・
伝統じゃよ・・
まぁ、しかし・・浄土宗の小僧が立てそうなスレじゃな・・
はは・・
貴方は恥ずかしくないのか?・・
流行らないと認識しておるなら流行らせるべく
奮闘努力すればよい・・・
貴方の実践(伝導)活動など・・
聞かせて頂きたいものですな・・・
はは・・・
299 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/08/28 18:41 ID:IwIsA8pU
>>1 貴方は、愚連社悪誉がお似合いじゃよ・・・
はは・・
300 :
名無しさん@1周年:01/08/28 19:34 ID:8pRW55mo
>>297 >人は裕福な環境の中で清貧を想像することはできません。
私はそういうつもりではありません。
自分の生命・人生が有限なものだという自覚がないから、
なんとなくだらだらと生きてしまっているのではないかと・・・、
自分の死を意識・自覚することにより、
一日一日を生き切るようになれという呼びかけが仏教にはあるのではないかと・・・。
それは時代社会には無関係に、人間には共通のテーマだと思うのですが・・・。
301 :
一遍ファン:01/08/28 20:05 ID:51NwsfuE
>300
単に
>自分の死を意識・自覚することにより、一日一日を生き切るように
>なれという呼びかけ
をする仏教書は、そこらへんの本屋に山積みになってますよ。そんな
もの、買っただけの値段しかないと思う。読み終わったら忘れますよ。
だって、所詮は他人の念仏のことしか書いていないからね。
それではきっと「今、自分は死ぬしかない」という場面では、屁のつっ
ぱりにもならん。念仏せずにはおかぬ位の「重いもの」を日常から自分
の肩にしょっていて、念仏することで何とかやりすごしている人でない
と、ただ唱えるだけでは念仏にならんと思う。
昨日、本を読んだら面白いことが書いてあった。船が難破するとき、
若い人は自分の体力に自信があって、ついジタバタしているうちに力尽きて
しまう。ところが、婆さんなんかはもう助からないからと観念して、念仏
唱えているうちに助かってしまう。
思うに、単に「自分の死を意識・自覚する」だけでは、いざという時に
ジタバタすることになる。生活を通じて、念仏をともに自分の身を捨て去
る訓練を積んでおかないとね。畳上の水練では役に立たない。
302 :
名無しさん@1周年:01/08/28 20:16 ID:8pRW55mo
>>301 知識と自覚の差だと思います。
>読み終わったら忘れますよ。
>所詮は他人の念仏
>ただ唱えるだけでは念仏にならん
これは単なる知識であって、他人事です。
仏教の教えは、知識では役に立たないでしょう。
303 :
一遍ファン:01/08/28 20:28 ID:51NwsfuE
>302
>これは単なる知識であって、他人事です。
>仏教の教えは、知識では役に立たないでしょう。
その通りです。問題は、この安全で裕福な生活のどこで、その「自覚」
を得るのかです。厳密には、やはり一遍さんが経験したような、鎌倉
時代の、人殺しが日常茶飯に行われるような場面でないと、同じレベル
の「自覚」は得られないのです。一遍さんが「念仏すれば、信じなくて
も極楽往生する」と言ったのは、そういう修羅場を想定しての話です。
私の義理の父が、シベリア抑留の経験があって、よく話してくれるん
ですが、とにかく私には想像もできない過酷な体験です。これがたった
50年余りの時間の壁です。鎌倉時代はその20倍の隔たりがある。
思うに、今の念仏宗は、かつての念仏宗とは、形こそ同じではあれ、
全くの別物という認識を持つべきです。
304 :
名無しさん@1周年:01/08/28 21:31 ID:8pRW55mo
>>303 時代社会の違いはどうしようもないですね。
ただ、人生に挫折したり、絶望の縁に立ったり・・・、仏教では機縁というようですが、
現代でも救いを求める人には応えてくれるのが仏教の教えだと思います。
305 :
あん:01/08/31 22:34 ID:wCvRcHf6
信心、信仰というものは、あくまで、自分自身の道であるのに、
宗教団体、宗教集団というワクを基準として「その内にあるもの」「その外にあるもの」と区別していくと、
おかしくなっていきます。
一人ひとりの信心なのだから、人生の中で深めていくものであるとおもいます。
「洗脳」とか、「危ない宗教」という言い方が当てはまる宗教集団がありますが、
そういうところはものすごく自分たちの教団意識が強いと思う。
306 :
名無しさん@1周年:01/09/01 00:07 ID:Qd3UQddc
>>305 同意。
叱られるかもしれないけど、親鸞は徹底した個人主義だと思います。
教団を作って徒党を組もうなんて発想は全くなかったと思います。
307 :
煩悩に苦しみかつ楽しむ者:01/09/03 00:45 ID:ArYxT2KY
私が以前参らせていただいていた浄土真宗の寺の僧侶は、
「(なむあみだぶつ)ではなく、(なもあみだぶつ)
と称えることがとても大事で、(なむあみだぶつ)では
電話番号のかけまちがいのようなもので、仏様に通じない」。
ということをしきりにおっしゃっておられました。
このことについてなにかご存知の方がいらっしゃいましたら、
お教えいただきたいのですが・・・。
308 :
名無しさん@1周年:01/09/03 12:37 ID:diIqGrag
>>307 「なもあみだぶつ」と念仏するのは西本願寺系統でしょう。
どうして、南無阿弥陀仏ではないのか?は知りません。
役たたずでごめんなさい。
309 :
名無しさん@1周年:01/09/03 12:42 ID:diIqGrag
↑
ごめん、漢字に変換されちゃってたね。
南無阿弥陀仏 → なむあみだぶつ
310 :
あん:01/09/03 13:27 ID:VOoAp4ec
「なんまんだぶ」でも「なんまいだ」でも「なまんだーぶつ」でも、かけられ
だ電話に応えることが念仏だと認識してます。口で称えても、心に思ってでも
いいとは聞いていますが、
「(なむあみだぶつ)では電話番号のかけまちがいのようなもので、
仏様に通じない」というようなことは全く聞いた覚えはありません。
「なんみょうほうれんげきょう」だったらわかりますけど。
私は西本願寺系統(基本的にはなもあみだぶつ)ですが、東本願寺系統?(基
本的にはなむあみだぶつ)も称えます。
311 :
一遍ファン:01/09/03 13:34 ID:fJkZXrLE
一遍さんは、「念仏で救われようとする心」も捨てきって念仏せよ、と言われたの
で、電話番号のかけちがいだろうが、通話中だろうが、構わず念仏しておればいい、
という結論になるでしょうね。307さんのエピソードに出てくる僧侶の念仏は、
まだまだ自力の臭みが残っているように思う。
312 :
煩悩に苦しみかつ楽しむ者:01/09/03 23:34 ID:5FAcvp66
>>311 一遍ファンさんの結論もわからないではないのですが、普段の私には「自力の臭みの
全く残らぬ念仏」はできそうにありません。「他力と思い込んでいる自力」という疑い
があるからです。「他力100%の念仏が称えられる(称えさせられる)」のは極限
状態に陥ったときのみのような気がいたします。
私においての他力とは私を念仏を称えることへと導いてくれた目にはみえぬ大きな力
のことです。このことは自らのはからいではなかったからです。そしてこのことを今
では非常に有り難く思い、感謝しております。
313 :
煩悩に苦しみかつ楽しむ者:01/09/04 00:24 ID:JN1r1VI.
>>311 一遍さんは「念仏ですくわれようとする心」も捨てきって念仏せよと言われたそう
ですが、浅ましくてスケベ心の強い私のような者はたとえ命の危険にさらされる
ような極限状態においてもやはり「すくわれたい。助けてください」と思いながら
念仏をとなえてしまいそうです。これはいけないことなのでしょうか・・・。
314 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 00:32 ID:/9YM7KVQ
ナーモ・・サンスクリッド語
それを、南無とした・・それだけ
ナーモ・・尊称だよ意味は
所詮言葉・・意味はない
「非世界 是名世界」
大切なのは・・「心」
315 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 00:35 ID:/9YM7KVQ
「観念の念にもあらず」
316 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 00:40 ID:/9YM7KVQ
浄土宗でも引声念仏の時は
「なーも」と唱えます・・
317 :
一遍ファン:01/09/04 08:57 ID:kdjz2.WA
>312-311
ダメでしょうね。釈尊の教えの根本とは、「虚仮(こけ)の自己」のはかなさを
認識して、執着から離れるということで、これ以外に救われる道はない。念仏も
「虚仮の自己」を滅却する手段のひとつなのです。自己を残したまま、自己の利益
を願って念仏を唱えても極楽浄土からは遠ざかるばかりです。「すくわれたい、
助けてください」という声そのものが「虚仮の自己」から出ているので、「なんだ、
救われていたじゃないか」と気づく時に救いが成就するのです。
一遍さんは、禅の師家について認可状を得ています。自分の経験から、自己を捨て
ない念仏が虚しいことを知っていた。だからこそ、「捨て聖」と呼ばれる位に「自己
を捨てよ」と説いたのです。
法然上人、親鸞上人は、天台宗で修行をされている。観仏の修行など、想像を絶する
苦行です。意識が朦朧として、目の前に仏(の幻想)が見えるまで、ひたすら五体投地
を繰りかえす。かかとで木の床がこすれ、穴が空く。足首が象の足のように腫れ上がる。
こういった、自力を尽くした境地で説かれた他力だからこそ、意味があるのです。
法然上人の念仏もまた、現代人の念仏とは、形こそ同じであれ、次元が違うことを
認識するべきだと思います。
318 :
一遍ファン:01/09/04 09:18 ID:kdjz2.WA
(続き)
ふと思ったのですけど、極限状態に追い込まれた時って、自己が消えるのではない
でしょうか?私はバブル全盛時代に株で大失敗をし、破産寸前にまで追い込まれた
ことがあるのですが、毎日のように「今日は三十万損した」とやっている過程は、
焼き鏝を胸に当てられるほど苦しい思いをし、それこそ神仏にもすがりましたが、
いよいよ最後の時になり、すべて清算して無一文になると、サバサバしたというか、
「すくわれたい」という一種の煩悩から開放された気分になりました。神仏に見捨て
られ、「すくわれなかった」ことで、私は「すくわれた」のです。
「すくわれるかもしれない」と思っている内は、自己があってまだまだ極限状態で
はないと思います。「もう、どうでもいい。煮るなり焼くなり好きにしろ」と自己
を丸投げしたときに初めて救われる。
319 :
名無しさん@1周年:01/09/04 13:06 ID:o/Hdn28.
>>317-318
>バブル全盛時代に株で大失敗をし、破産寸前にまで追い込まれた
あなたは、なかなか面白い人ですね。
バブルで破産なんて、一遍さんや法然さんには想像もできない経験でしょう。
それは時代社会が違うんですから、どうしようもありませんよね。
320 :
一遍ファン:01/09/04 13:13 ID:kdjz2.WA
>319
あんまり面白い経験ではなかったですが(^^)。天井だと思って空売り
を仕掛けたのがウンの尽きです。その数ヵ月後、今度は買い手が皆んな
青くなった。
私の場合、自殺さえしなければ死ぬような恐れはなかったわけで、
一遍さんや法然さんの苦悩とは比べ物にならなかったでしょうね。
しかし、それなりの小さな悟りは開けたと思います。
>それは時代社会が違うんですから、どうしようもありませんよね。
最近、株安が進んでいますが、その裏には自分と同じような苦しみを
味わっている人が何人もいるんだな、と思って見ています。一遍さんの
時代とは、苦しみの種類が変わったということでしょうね。
321 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 13:20 ID:rwLSYSc6
>>319 元祖は、「泡は必ず消えて無くなる」と仰っておられます。 バブルは永遠のものでは無いと元祖は承知しておられました。 合掌
322 :
名無しさん@1周年:01/09/04 17:44 ID:dsAc1fEY
323 :
一遍ファン:01/09/04 17:54 ID:kdjz2.WA
>322
私の念仏とは全く違うと思います。最後の絶体絶命の時まで、後生大事
に「自己」を引きずっていく念仏で、これでは手遅れですよ。
原始仏典にこういう喩え話があります。人が死んだ後、極楽へ行くか
地獄へ落ちるかは、油が水に浮いたり、石が沈んだりするようなもの
だ、と。これに対して、いくら回りの人が祈ろうが、念じようが、
浮くものは浮き、沈むものは沈むんだ、と。
最後のドサクサにまぎれた1回の念仏によって、石が油に変わるはずが
ない。やはり、一遍さんのように一日一日、念仏とともに少しずつ
「自己」の執着を捨てていくしかないと思います。
324 :
名無しさん@1周年:01/09/04 18:13 ID:bpN0yS/E
325 :
一遍ファン:01/09/04 18:28 ID:kdjz2.WA
>324
引用をありがとうございます。
>自力では、「自己」の執着を捨てることはできないと思いますが
執着そのものが一種の妄想なのですよ。低俗な話で申し訳ありませんが、今のよう
にヘアヌードが解禁になっていなかった頃、局部を黒く塗りつぶした本(いわゆる
ビニ本)が、驚くほど高価な値段で売られていました。もし、人間が裸で暮らして
いるならば、こんな現象はないわけで、執着は造られたものにすぎないのです。
ブームなんて典型的でしょう?みんなが欲しがるし、なかなか手にはいらないから
これに執着する。そういう「からくり」に気づき、無駄な執着を離れるのが仏道
修行だと私は考えています。念仏は、「ちょっと待てよ、その執着は実態のない
作り物なんじゃないか」と冷静に考え直してみる、精神統一の呪文みたいなもの
だと私は考えています。
326 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長 :01/09/04 19:52 ID:heAszs6I
>一遍ファン
>今の念仏宗は、かつての念仏宗とは、形こそ同じではあれ、
>全くの別物という認識を持つべきです。
>法然上人の念仏もまた、現代人の念仏とは、形こそ同じであれ、次元が違うことを
>認識するべきだと思います。
一つ質問していいかい?
「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざる
これを正定の業と名付く。かの仏の願に順ずるが故に・・云々」一部抜粋『勅伝』
「南無阿弥陀仏と唱え給えば、住所は隔と言えども源空に親しとす。源空も南無阿彌
と唱えてまつるが故なり。念仏をさいとせざる人は肩を並べ膝を与と言えども源空にうと
かるべし。三業皆異なるが故なり。」『十六門記』
貴方は「念仏」に差を付けてるが・・・
上記の抜粋の文は有名な文句なのであえて説明しないが、たしかに「高平、低平」
と言う言葉もある。しかし「念仏」に差を付けては見も蓋もないのでは?
俺はふざけたコテハンだが、それなりに話は出来ると思うが・・
327 :
一遍ファン:01/09/04 20:09 ID:kdjz2.WA
>326
結局、念仏に「高低」を付けられるようなものは、念仏とは呼ばないのではない
でしょうか。念仏の数についても同じことで、念仏を数えているうちはダメだと
思うのです。「多念にあらず一念にあらず」でないと。人が溺れたとき、何度
「助けてくれ」と叫ぶんだか自分では数えません。声の続く限り、叫ぶ。とにかく
叫ばずにはおれないから叫ぶ。そういう念仏には、「高低」も「多一」もない。
私が念仏する時、いつもそれを聞いているもうひとりの冷静な自分がいるのです。
そういう場合は、その冷静な自分が冷ややかに念仏を数えているのでしょうね。
これは本物ではないと思う。ところが、本当に危ない目に逢った時の念仏は、
ふたりの「自分」が声を揃えて一斉に唱える。もちろん、数など数える余裕はない。
「高低」と言ってよいのかわかりませんが、そういう違いがあると思っています。
328 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 20:23 ID:0suhnpv2
>一遍ファン
なるほど・・では、「念仏」に対する貴方自身の見解と言う
訳ですね。
何か、抜粋して対抗してくるかな?と思いましたが貴方自身の
見解であるのであれば、俺は何も言う事ありません。
「業」を積んでもしょうがない・・と言う訳ですね
判りました・・ではでは・・失礼します。
329 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 20:33 ID:0suhnpv2
>一遍ファン
貴方自身の意見を言うのは自由です。
元祖や親鸞などの名前を引っ張り出すのはいかがかと思うが
「多念儀」「一念儀」・・のお話であるのであればまた俺はまた来ます。
全部読んでません。
私の家は浄土真宗です。でも、私自身真宗にのめりこんでいません。
念仏、他力、阿弥陀などいちよは浅いですが、本も読みました。私自身真宗については
真っ白に近いので、念仏の回数とか、なんだかんだとこだわりもありません。
今生きていて、苦しい時どう浄土真宗は解決するすべは何かということがわからない。
でも、苦しいとき母親とかは阿弥陀さんが何かきずかせよとして成長させようとしている、だからがんばりなさい
みたいなこということはある。そういう何か知れない自分自身を導く力というのはわかる。
だから、その力を忘れないようにするため、念仏をとなえるのかなという気がしている。
そして、私たち人間は阿弥陀からみたら、小さな存在であり、凡夫とかいったかな、少しでも
阿弥陀のように無分別的な目で、判断したり行動できることなのかなーとか最近思ってる。
それでも、それって他の人の生き方とそう変わらないような気がする。わざわざ真宗なんてつける必要もないし。
念仏も、何回称えたって、意味はないようなこと書いてあったような気がするし、
あたりまえのあたりまえでわからない。もっと他の意味があるんだろうか。
勉強不足なだけかな。来世で救われると言うのは、もっての外で意味ないし、宗教としての
存在価値ないと思う。家の家族うまく、説明できる人いない。
331 :
名無しさん@1周年:01/09/04 21:30 ID:xN94tHy6
「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。」
332 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 21:40 ID:eNbUX7lw
333 :
名無しさん@1周年:01/09/04 21:41 ID:ONyK713k
私は44才の既婚男性です。
まだTVが一般的でない幼少の頃、保育園の映画会で見たカラー動画の
「安寿と厨子王」「西遊記」などで、みほとけ、なむあみだぶつ、一心に念仏、
という言葉や映像が今でも強く心に残っています。当時の私には、精神的世界に
対して強く興味をひかれたものです。ませてたんでしょうけれど。
でも、今思うには、念仏のみで救われるだけでは、説得力がまったくありません。
こういうセールストークは、世の中が貧困にまみれてないと意味が無いと思います。
334 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 21:45 ID:eNbUX7lw
>>333 貴方が信じようが信じまいがそれは貴方自身の問題・・
335 :
名無しさん@1周年:01/09/04 22:33 ID:b/5q07Ns
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、
ただ念仏のみぞまことにておはします
336 :
名無しさん@1周年:01/09/04 22:41 ID:vdLZpje2
念仏は宗教というより心理学だな。
337 :
名無しさん@1周年:01/09/04 22:42 ID:U1mf4khI
338 :
名無しさん@1周年:01/09/04 22:46 ID:xN94tHy6
>>333 >世の中が貧困にまみれてないと意味が無い
豊かな現代には意味がないという意見が、2チャンネルで多いですね。
多分、世の中の多くの人がそう思っているのでしょうね。
自分は裕福で、幸せだと感じているのでしょう。
「一切世間のために、この難信の法を説く。」(阿弥陀経)
正に現代にあっては、「難信の法」なのでしょう。
339 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 22:51 ID:qAeCHf6E
340 :
名無しさん@1周年:01/09/04 22:53 ID:D9J8fgR.
>>330 平生業成
現生正定聚
現生不退
不体失往生
不断煩悩得涅槃
341 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 22:53 ID:qAeCHf6E
>>337 流行らす必要・・あるのか?え?
流行じゃねーーぞ!あ?
伝統なんだよ・・ バカタレ
342 :
変人:01/09/04 22:56 ID:w/znvfPU
南無妙法蓮華経は三拍子。
南無阿弥陀仏はリズムがない。
ということは、唱えているうち眠くなってしまうのではないでしょうか?
ちなみに私は日蓮宗に帰依しておりません。
343 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長:01/09/04 22:56 ID:MICYQoZo
344 :
一遍ファン:01/09/05 09:01 ID:MyQc5grk
>連合会総会長さん
あなたのおっしゃる通り、ここでは私の理解した念仏について書いただけです。
元祖や親鸞上人を特別神聖な存在とは見なしていないし。
念仏が現代で流行らない理由は、
>>330,
>>333で言い尽くされていると思います。
現代人の理性には物足りなくなったんですよ。私もそうだった。「念仏さえ唱えれ
ば、極楽へいく」と言われて、「さようでございますか」と、周りから止められる
まで念仏を唱えるほど「純情」ではない。それで、自分なりに答えを見つけようと
して、禅や原始仏教に手を伸ばし、今日に至っているのです。
そういう姿勢を、求道心の発露と見るか、不信心の証拠と見るか、評価は分かれる
のでしょうけど。
>>340 わからん者が見ても、わかるはずない。どういうこと?
346 :
名無しさん@1周年:01/09/05 19:15 ID:UPIbTOcQ
>>346 ありがとうございます。
ここは渡海難がはびこっていないのと、ちゃんと答えてくださる方がいてありがたいです。
348 :
名無しさん@一周年:01/09/06 00:07 ID:oDQjcmPs
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛
349 :
名無しさん:01/09/06 00:11 ID:n5PEb7zU
浄土系=インテリ受け
日蓮系=大衆受け
というのが私の印象。
親鸞の教えは単純明快に見えるがさにあらず。
350 :
名無しさん@1周年:01/09/06 21:26
age
351 :
名無しさん@1周年:01/09/06 21:29
浄土系って古来の為政者向き。今は流行らないけどね。
352 :
石川はウンコしないよ。連合会総会長 :01/09/06 21:30
>一遍さんへ
私は別に貴方のレスストッパーではないので最近書き込み
がないので・・心配しております・・
是非お話したい事もありますので・・
>>347 名前:名無しさん@1周年 投稿日:01/09/05 20:54 ID:gKo197r2
>ここは渡海難がはびこっていない 〜 ありがたいです。
笑 (^^ゞ
どんな教えでも、最初から簡単に納得できることって少ないと思う。
とくに浄土真宗っていうのは「わかる仏教」というより「であう仏教」
であるから、やはり「念仏称えて極楽に行く」という論理(?)っていうのは
頭で理解するというより、凡夫の自覚と共に「であう」ものではないでしょうか。
355 :
一遍ファン:01/09/07 09:35
>352
ご心配なく。書きたいことを書き尽くしたから沈黙を守っているだけです。
ご意見を書いていただければ、また愚説をば書かせていただきますので、よろしく
お願いします m(_ _)m
356 :
名無しさん@1周年:01/09/07 14:58
一遍さんのことはほとんど知らないんですけど、
「称ふれば、仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
念仏によって念仏者と阿弥陀仏が一体になるって意味ですよね。
可能なものならば、こういう境地に達したいものだと思います。
ちょっと出張。
浄土真宗ならこうですな。
称ふれば、仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ
失礼しました。
念仏を唱える条件によってその効果は違うのかという議論は、
親鸞とその他の法然の弟子との会話ですでに結論が出てるはず。
もちろん結論は『どんな人が唱えようと全く同じモノ』。
つまり唱える人の仏教徒としてのレヴェルなどは全く関係ない。
そもそも、レヴェルを必要とするというのは、
菩薩のたてた請願の本質にそぐわない。
いくらやってもレヴェルを上げられないしょ〜もない存在、
それどころかこれがいいことだと思ってやっていることが実は
全然ダメなことだというような、
そんなお馬鹿さんでも救ってくれるの念仏のはず。
また、なぜ流行らない?というタイトルですけども、
私は流行っていると思います。
というのは、ほとんどの日本人にとって、
南無阿弥陀仏を一生一度も唱えないということは考えにくいからです。
つまり、キリスト教徒だろうと日蓮教徒(あえて教としておきます)だろうと、
みんな唱えているのです。
一度でも唱えれば阿弥陀仏は救ってくれるわけですから、
流行っていると言っていいと思います。
まぁ1さんの言っていることはそういうことじゃなくて
世間に考え方が受け入れられてないのはなぜかということだとは
思っていますが…。
考えが世間で受け入れられない理由は、私の考えでは、
全く見ず知らずの阿弥陀仏が本当に救ってくれるのか?
という疑問をつい持ってしまう人が多いのと、
なんか宗教っぽくないと言いますか、
ほかの宗教では結婚するまで処女を守りなさいとか、
決まった時刻に決まった方角にお祈りしなさいとか、
けっこう厳しいことを言われているのに
念仏はただ唱えればいいということなので、
なんらかの物足りなさがあるからではないでしょうか。
強烈な信仰心も全く必要としてないですし。
361 :
名無しさん@1周年:01/09/10 07:24
362 :
一遍ファン:01/09/10 13:57
>358-360
ちょっと私とニュアンスが違うように思います。「念仏すれば、それで足りる」と
いうことじゃないと思うのです。
私が悔い改めたら、いくら阿弥陀様が「念仏だけでよい」と言われても気が済まない
から、私財をなげうって仏塔を建てたり、布教活動を通じて少しでもご恩に報いたい
と考えるだろうと思います。ところが、もし私が一文なしで、しかも五体が不自由の
身ならば、何も報いることができないから、その時は心を込めて念仏させていただこう
と思います。秋の夜に鳴きとおす虫のように、一匹の虫になりきって一心不乱に念仏
させていただこう。
そこに「貧者の一灯」のような不可思議な念仏の力が宿ると思います。有り余る者が
いくら念仏しても救われるわけがない。念仏するしか救いがない者が、念仏によって
救われるのですから。
>362
いや、あなたの考え方がそうならばそれで個人的には構わないと
思いますが、私は『有り余る者がいくら念仏しても救われるわけがない』と
いうことはないと思いますね。
だってわれわれ凡夫がなにをしようが、それが仏に感謝される方向なのか、
それとも迷惑なのか、判断がつきませんから。
ひとつだけ言えることは、阿弥陀仏は自分の名を唱えるものを成仏させるという
意志と能力をもっていること。
ならば、往生し、成仏することが阿弥陀仏の意向にかなうことであり、
それ以外のことは考える必要はないと思います。
>>363 つまり、その人個人の素質の優劣に全く関係なく、念仏を称えさせて下さる
阿弥陀仏がお救いくださる、という意味でしょうか?
365 :
一遍ファン:01/09/10 15:22
>363
具体例になりますが、ここに飢えて苦しんでいる人がいるとします。
そして、私の手にはパンがある。私ができる最高のこととは、念仏す
ることではなく、パンをその人に与えることです。しかし、もし家に
自分の母親が飢えて苦しんでいて、パンを持って帰らねばならないの
なら、話は変わってくる。パンを半分だけ分け与えるか、それともその人を
見捨てるか。どうしようもなければ、念仏するしかない。「罪深き私を
どうぞお許しください」の悔悟の念仏です。
「もしかしたら、この人が苦しむのは仏からの試練かもしれない」と
いうのは単なる自己正当化のための言い訳です。そういう人は、阿弥陀
如来から全く同じ理由で地獄へ落とされても文句が言えない。それが
因果応報というものです。
コピペですまそ。
>365
われわれ凡夫がなにをしようが、それが仏に感謝される方向なのか、
それとも迷惑なのか、判断がつきませんから。
ひとつだけ言えることは、阿弥陀仏は自分の名を唱えるものを成仏させるという
意志と能力をもっていること。
ならば、往生し、成仏することが阿弥陀仏の意向にかなうことであり、
それ以外のことは考える必要はないと思います。
>364
つまり、念仏宗にとってのαでありωである事実は、
念仏を唱えれば往生→成仏のルートを辿るということであり、
阿弥陀仏の心の広さに感動、感謝するとかそういう人間臭さとは一切関係なく、
念仏を唱えれば往生させてくれるし、唱えなければどんな人間だろうと
往生させてくれない。
いや、往生させないということに関しては触れてないから、
させてくれないとは言いきれないが、
とにかく念仏唱える→往生のルートは揺るぎ無いものでしょう。
その人間が例えレイプ犯(例えば親鸞上人)であろうと、
核のスイッチを押した人間であろうと。
367 :
名無しさん@1周年:01/09/10 17:02
逝ける証拠もないのに先のことを考えて唱えるなんてあほくさい
368 :
名無しさん@1周年:01/09/10 17:08
唱えることにより余分な思念が消える効果はあるな。
369 :
名無しさん@1周年:01/09/10 17:19
370 :
名無しさん@1周年:01/09/10 17:52
>>365 贅沢三昧の生活を送り、物質的快楽を追求しつづけるわたしたちは、たいへん恵まれた環
境にあり、現在の住宅環境は冷暖房完備の快適なものです。
インドやアフリカの飢餓は日本にはありません。
飽食の時代と言われたように、飢餓どころか、日本人は美食に飽きていて、毎日放出され
る大量の生ゴミに群がるカラスが問題となるほどです。
就職したばかりの若者でさえ車を乗りまわしています。
日本人の中流意識は、近世までの王侯貴族の賛沢をはるかに上回っています。
それでもまだ、物質文明の中で、欲望を際限なくふくらませなければ満足できないようです。
「欲望を捨てたところに、真実の幸福がある」
そのことを、ボロをまとって釈尊は呼びかけたのではないでしょうか。
釈尊の呼びかけに応えることのできない自己であるという自覚が、念仏の心ではないでし
ょうか。
インドやアフリカの飢餓を思わずに、食べ物を食い散らかしていた自己であったという自
覚が、念仏の心ではないでしょうか。
自覚が生まれれば、自ずと、食料をもってボランティアとしてアフリカまで出かけられな
くとも、せめて食い散らかすことのない生活ができるようになるのではないかと思います。
>>370 >日本人の中流意識は、近世までの王侯貴族の賛沢をはるかに上回っています。それでもまだ、物質文明の中で、欲望を際限なくふくらませなければ満足できないようです。
これは坊さんのカキコか?。社会感覚としては、十年から十五年程度の古さを感じる。坊さんの生活程度は概して今でも、王侯貴族の賛沢をはるかに上回っているのかも知れない。
東京の駅頭で、ホームレスの数は飛躍的に増えている。自殺者も激増している。餓死者も出ている。一般の生活レベルは、不況の中で確実に苦しくなってきている。少なくとも今後2,3年は更に一層苦しくなるだろう。
>>369 >渡海難が浄土真宗関連のスレを荒らすから。
素人の渡海難が半年一年2CHで何かを言って浄土真宗が動揺してきたなど、こんな話をすると信じる人がいるのか(激爆笑)
>>370のカキコは坊さんのものかどうかは知らんが、坊さんのオツムは数百年の惰眠の中で化石化している可能性がある。アホな坊さん共が数百年間、よってたかって親鸞さんを食い物にすれば、親鸞さんの教えでも身がもたんだろう。
>>365 名前:一遍ファン
>「罪深き私をどうぞお許しください」の悔悟の念仏です。
>阿弥陀如来から全く同じ理由で地獄へ落とされても文句が言えない。それが因果応報というものです。
これ、どういうこと? 阿弥陀仏って、許したり許さなかったりするの? 阿弥陀如来って人を地獄に落としたりするの?
373 :
名無しさん@1周年:01/09/10 20:28
>素人の渡海難が半年一年2CHで何かを言って浄土真宗が動揺してきたなど、こんな話をすると信じる人がいるのか(激爆笑)
渡海さん、今までの自分のカキコが人々にどういう印象を与えているのかお分かりですか?
はっきり言ってチンプンカンプンで、その上ダラダラとした長文が多い。
しかも中身がまとまっておらず、内容的にもうざい。おまけに人の揚げ足をとるような発言ばかり。
以上のとおりで、一言で言うと、あなたのカキコは悪い印象しか与えていません。
自己中心的で、ある意味基地害だというあなたの性格そのものがカキコに表れている思います。
あなたのカキコを読んで親鸞の教えを理解できる人なんていないでしょう。
あなたのカキコを読んで、むしろ親鸞の教えはこんなにもうざいのか、と思われても仕方ありません。
そこのところをよく考えて欲しいと思います。
そして、二度と2chには来ないで下さい、平和でマターリとした議論ができるように。
渡海さん
他スレで一応の決着がついたら、ぼくがあなたの相手を存分にしてあげますから。
スレを立てて。「渡海さんいらっしゃい」なんてどうですか。なんでも聞いてあげますよ。
だから、あんまりほかのところを荒らさないでね。あの、マジですよ。「参戦します」って
ゆうぐらいだから受けてたちますよね。だからここには書き込まないでください。
どんな議論でもうけてたちます。だからほんとに、ほかのところは無視してください。
>>374 やめといたほうがいいよ、NBさん。
渡海難の相手をするのは必要以上に疲れるから。
しかも頭がおかしくなっちゃうよ。
>>渡海様以外の皆さんへ
私のカキコが渡海様を呼んでしまったようですね。
皆さん申し訳ありません。
377 :
名無しさん@1周年:01/09/10 21:46
2chの中の宗教板の中の某スレの中の、あいつとあいつの対立、、、、
という井の井の井から出られぬ理屈の応酬はいいかげんにやめないか?
押しの強い人が伸びる世の中だから、、現代は。
念仏だけじゃなくて広宣流布をしないと極楽浄土にいけないよという
教義にすれば増えるんじゃない? もちろん皮肉です。
>>376 名前:370
>私のカキコが渡海様を呼んでしまったようですね。皆さん申し訳ありません。
心配しなさんな。貴方が呼んだんじゃない。真宗スレッドのNBさんのカキコのばかばかしさに呆れ返って逃げてきたんですよ(苦笑)。
追加
「うざったくコピペ」さんや、「暇だったのでコピペ」さんや「リクエストに応えて」さんやNBさんの宇宙交信レスがここでも始まれば、僕は退散しますよ。
あんなコピペなんて、面白くもおかしくもなんともない。僕が関わる世界じゃないモンねー。
クワバラ、 くわばら。(苦笑)。
飽食の人であれ、貧しい人であれ、「はからい」という悪循環にとらわれ、
苦しむことには変わりない。
382 :
渡海様に呼ばれたコピペ屋さん:01/09/10 22:55
『念仏申さんものは、ただ生まれつきのままにて申すべし。
善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、本のままにて申すべし。』
(法然上人伝記附三心料簡および御法語)
人は自分の姿や心を振り返って見ると、とかく本来の自分というものがどのようなものな
のかわからないものである。
社会生活の中で自分の気持ちを押さえたり、外見をつくろって見栄をはったり、金銭や地
位にとらわれていることが少なくない。
それによって悩み、苦しみ、失望し、自己嫌悪に陥るなど、心はつねに揺れ動いている。
ふと、そんな自分に気づくときがある。
法然がそのような人がどのような姿で念仏すればよいのかについて述べたのがこの言葉で
あろう。
何も飾ることもなく、あるがままに、本来の自分をさらけだして念仏することが肝要であ
るという。
善人と呼ばれる人は自然のままに、悪人と言われる人もその生地のまま、生地のままで、
念仏すればよいのである。
大切なことは自分が執着しているものを振り払い、理屈や道理をも捨て去って念仏するこ
とにある。
383 :
名無しさん@1周年:01/09/10 23:31
渡海さんって、広告に関係ある人?
いえね、ずいぶん前にどこかで見たことあるかなって。
私は1週間前にここに来たんだけれど。
384 :
名無しさん@1周年:01/09/11 00:50
宗教板の人って荒らしを無視することが苦手なのかな?
それとも荒らしにレスしてるのも実は荒らしてる張本人なのかな?
ほかの板から来たものとして感じたことを書くと、
ここまで荒らしに迷惑してるというのを表明するのも珍しいなと。
フツー全く無視のまま話を進めますが?
>>384 あんたわかってないよ。漏れもほかの板では荒らしなんて気にしないよ。
渡海はブラクラなんだよ。ブラクラはってあったら警報ださずにゃおれないでしょ。
あいつは超しつこいブラクラ荒らしなんだよ。ここの板にとって。
ブラクラ警報出せば出すほど喜ぶんだよ。あいつは。
>385
別に俺は警報のことを言ってるんじゃないんだけどね。
明らかに無視してないじゃん。
俺はその前からの話題をそらすべきじゃないって言いたいわけよ。
388 :
名無しさん@1周年:01/09/11 13:52
>388
は?ナニ言ってんの?オマエ渡海難かよ。
煽りにレスするのは煽ってるのと同じってことを言ってるんだけどね。
おばかさんにはこんな簡単な文意も汲み取れないのだろうか…。
390 :
名無しさん@1周年:01/09/11 15:59
391 :
名無しさん@1周年:01/09/20 16:52
法然さんの「謙虚さ」というのか、「小ささ」というのか、なんて
言っていいのかわからないけど、そんな感じがとても惹かれます。
392 :
名無しさん@1周年:01/09/25 20:37
渡海難けっこういい揚げ足もとるとおもうけど
でも坊さん発言と量がちょっとつらい
age
393 :
名無しさん@1周年:01/09/26 14:45
お念仏は、心に響かないけど age
394 :
名無しさん@1周年:01/09/26 15:49
>391
智者のふるまいをせずに、ただ一向に念仏すべし…ですか
395 :
名無阿弥陀仏:
はじめまして。
うちのお寺は浄土宗ですが、私は特別信心深い人ではありません。
毎朝仏壇にお花とお線香上げて、お盆お彼岸にお寺参りする程度の
平均的?現代日本仏教徒です。
去年、風邪をこじらせて扁桃腺炎と中耳炎を併発し酷い目にあいました。
そのとき、丁度大学で『往生要集』やってまして(当方文学部の学生)
高熱でぼんやりしていた頭で
「あ〜、南無阿弥陀仏唱えると極楽に連れて行って貰えるんだよね〜」
と、御念仏しながら寝てしまいました。
目覚めた時いつになく清々しかったのを覚えています。
プロのお坊さんは毎朝清々しいですか?