聖書が神のことば「になる」という根拠は?

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1りょうすけ
何を根拠に、聖書が神のことば「になる」というのですか。
何か「神秘主義」じみていてるにもかかわらず、「これこ
そがキリスト教です」と言われると、とてもじゃないけど
滑稽で、冷めてしまうのです。
はっきりとした「よりどころ」を教えて頂きたいのですが。
2名無しさん@1周年:2001/06/01(金) 00:13
というか、新約聖書って単なるドキュソが4大福音史家を装って創作したという
可能性はないのかい?
なんかモーゼって実は実在しなかったのではないか、って説もあるようだけどどう?
3りょうすけ:2001/06/01(金) 00:18
それが根拠なんですか?
話、逸らそうとしてるだけ?
4名無しさん@1周年:2001/06/01(金) 00:49
>>1
聖書が神の言葉かどうか、証拠は、といわれれば、そんなものないと思う。
それは、宇宙がビッグバンで生まれたかどうか、くらいの真実味しかないと思う。
   
ただし、人間の普遍的な心、良心を喚起させる読み物であることは確かだと思う。
聖書以降にも、いろんな思想信条の読み物が出されているけど、聖書を超えるものは
無かったと思う。そういう意味で、貴重な思想書である、と私は捉えています。
学問的にも貴重な資料であるし、滑稽とは>>1さんの感情論で、世界的にも一応、
そのような理由で、認識されているのではないでしょうか。
  
それから、>>1さんは、他の宗教の経典は認めるけど、聖書は認めないという立場ですか?
聖書も、キリスト教という宗教の経典のようなものだから、信徒の人たちがそういうのは
仕方がないですよ。文化文明が先に発達した欧米で、キリスト教が発展したため、
聖書は、アジアで布教された宗教より、迅速に広まったと思われます。
52:2001/06/01(金) 01:13
根拠とか話そらすとかなに。
ただ不特定多数の人間に聞いてるだけだけど。
6りょうすけ:2001/06/01(金) 01:25
困ってしまって・・・。なぜ、神のことば「になる」のか、という積
極的な根拠が知りたいのです。聖書には、自身を神のことば「である」
と表現しているのに、〜「になる」と信じて疑わない人たちは、何か
新興宗教のようです。とてもじゃないけど、ルターやカルヴァンの継
承者と自称しているのがそらぞらしくていけません。
7積極的根拠求む!:2001/06/01(金) 01:27
聖書が神のことば「になる」という、積極的根拠求む!
8名無:2001/06/01(金) 01:29
>>5
りょうすけは頭悪いから、無視したほうがいいかも。
9まいっちんぐマチコ:2001/06/01(金) 01:37
積極的根拠っていわれてもなあ。
そんなのないよ。
人間の書いたもんなんだから。
10警告! ルール違反!:2001/06/01(金) 01:37
「2番」さんはスレッドが立てられた直後に、まったく違う質問をしようと
しています。
これはルール違反。
11名無しさん@1周年:2001/06/01(金) 01:45
そのルールどこに書いてある?
12通りすがりの者:2001/06/01(金) 01:46
聖書そのものが神の言葉ではなく、実存的なかかわりにともなって、神の言葉になるというのは、実存主義の詭弁。
この理屈は、実存主義をちょっとやれば、キェルケゴールの焼き直しだということはすぐに分かる。
つまりだ。自然主義神学が登場したときに、彼らは「聖書なんてでっちあげだ。単なる人間が作った古典にすぎん。」と言った。そこで、自称クリスチャンのバルトなるおっさんが現われて、キェルケゴールの理屈を使ってこの不信者どもからキリスト教を守ろうとした。
「たしかに聖書は歴史的事実を記した書物であるとは言えない。しかし、我々が実存においてかかわるときにそれは俄然神の言葉に変わるのだ。」とな。
これは、ロマン主義などの世俗ヒューマニズムの理想が、ダーウィン主義など実証主義によって徹底して否定されたときに、人間を科学万能主義の宿命論から人間を救うために編み出した実存主義者の屁理屈とそっくりなのだ。
こういった類のキリスト教は、キリスト教ではなく、「実存教キリスト派」だから、注意しよう!
13名無しさん@1周年:2001/06/01(金) 01:55
>>12
どうでもいいけど、肯定派も否定派も人間が決めたことだから、
これが絶対、というのははないと思うよ。
これからだって、聖書に対する、新しい主義主張が生まれるかもしれない。
      
聖書が神の言葉かどうかなんて、自分が信じる信じないの問題じゃないの。
信じられんからそれは根拠がない、なんて話はおかしいし。
14名無しさん@1周年:2001/06/01(金) 01:58
>>12
>聖書が神の言葉かどうかなんて、自分が信じる信じないの問題じゃないの
    
ごめん、これが、実存主義者の屁理屈と、君が書いた考え方だったね。
15名無しさん@1周年:2001/06/01(金) 02:02
>>12
「実存教キリスト派」だから、注意しよう!
   
そういう風に、煽動することこそ、柔軟性のない凝り固まった思想。
カルトっぽいな。
16再び 積極的根拠求む!:2001/06/01(金) 05:12
聖書が神のことば「になる」という、積極的根拠求む!
17再び 積極的根拠求む!:2001/06/01(金) 05:19
Kバルトが言う『聖書そのものは神のことばではないが
神のことば「になる」』という主張の、積極的根拠求む!
18名無しさん@1周年:2001/06/01(金) 06:00
どんな説でもどんな書物でも、信じればそれが真理だろ。
創世記の「光あれ」だって、科学のビックバン宇宙論だって、実証できない以上信頼度は同じ。
キリストの奇跡や復活だって聖書以外に記録がないのに2000年も前の出来事を誰が証明できる?

どんな立場で何を信じるか、なんて個人個人で決めりゃあいいんだよ。
19バルトの根拠は:2001/06/01(金) 06:07
結局、何の根拠もないまま「東京神学大学」出身者たちは「聖書は
神のことばではないけれど、神のことばになる」と結論づけて卒業
してきたんでしょうか。
20通りすがりの者:2001/06/01(金) 07:07
>どんな立場で何を信じるか、なんて個人個人で決めりゃあいいんだよ。

 そのと〜りでございます。
 これが実存主義者の特徴。
 つまり、「すべては相対である!自分にとって真理なりゃそれでいいじゃないか。」
 これは、ヒューマニズムの2大柱の一つである「人格理念」の最終兵器なんだぎゃあ。
 みんな、ここで、バルト主義が人間中心(ヒューマニズム)であることがよ〜く分かるだろ。
 正統主義は、けっしてこんなことは言わないから。

 ヒューマニズムの理論的支柱は、カントの「唯人論」だ。
 カントは、「世界は神が作ったかもしれないし、作らなかったかもしれない。そんなことは人間にとってどうでもよいことだ。大切なのは、世界は人間によってのみ意味を与えられるということだ。神とか天使とか死後の世界とかは、科学の及ぶ範囲ではないので、それらについて何らかのことを自信をもって言うことはできない。だから、我々人間が、神とは無関係に、世界に意味を与えていこうじゃないか。」と述べたね。
 これは、カント以降の世界を支配した決定的な主張だ。
 バルト主義は、このヒューマニズムのキリスト版なわけだ。
 口ではどんなに「神様、神様」って言っていても、腹の底では、「おれが王様で何が悪い?」と開き直っているんだね。
 もう一度言うけど、これはキリスト教ではないから気をつけようね。

 それからね。自分が真理だと思っているならそれでいいんじゃないか?
 と言い出したら、オウムとか野放しにしろっていう話し?と聞かれてしまう。

 第一、そんな主観主義肯定したら、科学の世界は成立しないな。
 だから、相対主義者が「すべては相対だ!」と言っても絶対に信用しちゃならんのだ。
 ちゃっかり、自分の日常生活では「おい!客観性が大切だぞ!」なんて、科学やってんだからね。

 つまり、相対主義の言葉はコカコーラみたいなもので、時々聞くと新鮮だが、毎日それで生活しようとすると無理がある。
 ちゃんとご飯を食べないとだめだね。
21nana:2001/06/01(金) 07:37
>20
全く同意。こういう指摘をしてくれる人がもっと必要だ。
22名無しさん@1周年:2001/06/01(金) 08:23
>>20
そういう>>20さんも、主観があるから客観がある、ということを棚にあげている。
主観主義否定しながら、それは、きみが主観的に述べている意見だ。
主観主義を否定しているきみが、主観的に述べている部分は信用ならないということになる。
23名無しさん@1周年:2001/06/01(金) 09:39
大多数の人が天動説を信じていた時代、世の中はそれで充分うまくいっていた。

ニュートンの万有引力は、近代までは万人の認めるものだった。

相対性理論は、科学は全てを解き明かせるという自信を人々に与えた。

量子力学以降の現代、主観(観測者)無くして事象は成立し得ない事がわかった。

・・・時代時代で信じられてきた世界観は、全て後世の発見によって覆されてきたわけだが、
思うに、世界(を形成している法則)というものは、
その時代の人々の総意(あるいは主流・多数派となる意見)によって決定されるのではなかろうか?

つまり電子の位置が観測者の存在によって初めて特定され得るように、
世界を司る者の存在が『神』なのか『万有引力』なのか『量子力学』なのかは初期状態ではシュレディンガーの猫のように混沌としており、
ある一定数の人々(時代の観測者)の意思が統一した見解を持った時初めて、何がその世界を司るかが決定されるのではなかろうか。
24実存主義者:2001/06/01(金) 09:41
>20

>正統主義は、けっしてこんなことは言わないから。
>もう一度言うけど、これはキリスト教ではないから気をつけようね。

ということは、正統主義においては、一切の主観を排して、客観的にキリスト教
が神の意志に叶った教義であることを証明できるということですね?

客観的証明なき主観は「個人の思い込み」で害はないけど、客観的証明なき独断は、
虚偽によって多くの人を誤らせる立派な犯罪行為ですぞ。

ご飯を食べるのは大事だが、キリスト教正統主義こそが「ご飯」であることの
客観的証明を求める。
25jigoku_taishi:2001/06/01(金) 11:26
>>4
>宇宙がビッグバンで生まれたかどうか、くらいの真実味しかないと思う。
  
科学者はそれを証明しようと研究を続けている。
神学者は聖書の正しさを証明しようと研究を続けているだろうか?
単なる盲信と、仮定の上での議論とは別物。

> 聖書を超えるものは無かったと思う。
> そういう意味で、貴重な思想書である、と私は捉えています。

聖書にどんな貴重な思想が述べられているのか?
神を信じない者、唯一神以外のものを信じる者は打ち滅ぼせと?

> 文化文明が先に発達した欧米で、キリスト教が発展したため、
> 聖書は、アジアで布教された宗教より、迅速に広まったと思われます。

キリスト教の発展が迅速だったのは、その攻撃性ゆえ。
他教を暴力と文化の破壊によって駆逐し、
他教の神を悪魔へとすり替えた結果。

日本ではキリスト教による破壊と駆逐がうまくできなかったため、
キリスト教があまり根付いていない現実を見れば明らか。
26バルトの破れ:2001/06/01(金) 22:51
Kバルトは、教会論や宣教論については、自論を聖書に基づいて説明しようと
しているのに、いざ聖書論については聖書自身を論拠にしようとはしない。
そこにバルトの「破れ」があることは、みーんな気付いているにもかかわらず、
「だんまり」を決め込んでいるのが「卑怯」・・・「東京神学大学」出身者た
ちは、そこらへんについては、なぜ誰も何もいわないのだろうか。
謎です。
どなたか「バルトが何を根拠に『神のことばになる』と結論づけたのか」をご
存じのかたはないだろうか。
27:2001/06/01(金) 23:02
>>25
 山掘り返して方舟探してるヤツいっぱいいるよ(w
28nanasi:2001/06/02(土) 03:08
でも新約聖書って写本しかなくて本文ないのに
信頼できる書物なの?
29卵の名無しさん:2001/06/02(土) 03:33
>>28
現在、旧約聖書で約1700、新約聖書で約4000の写本が知られています。
聖書は「原典において誤りのない神の言葉」であります。しかし、この原典は、
現在私たちの手元にはありません。どうすれば原典を回復できるのか?これが、
『本文批評』という学問の目指すところです。
さて、旧新約聖書併せて5700以上の写本を比べ合わせ、批評的に吟味し、
比較し、(1)書き写す時に、どうゆう誤りを生じる可能性があるか?
(2)記者の角度から見て、その箇所に記してあった、真の言葉を決定する
作業を続けて行きます。その場合、文体、文脈、思想傾向から、言葉を決定
していきます。この慎重な研究の結果、食い違っている、殆ど全ての箇所の
読み方を決定する事が出来、結論として、原典は殆ど再現出来たと言っても
過言ではない状況です。新改訳聖書では、原典において、問題のある箇所は
欄外にきちんと、そのことが明記されています。
30nanasi:2001/06/02(土) 03:40
最も古い原典はいつ書かれたものなのですか?
本文よりも随分あとだったら、信頼できるのでしょうか。
31nanasi:2001/06/02(土) 03:41
>>30
ここで聞いたのは新約のことです。
32卵の名無しさん:2001/06/02(土) 03:46
新旧約聖書併せて、5700以上の写本が残っていますが、これは、
他の(例えばホメロスの叙事詩など)多くの古典と比較しても、圧倒的
な数です。また、写本間の食い違いも、他の古典と比較して、非常に
少ないという特徴があります。写本家が、聖書の写本をするときに、
極端とも言えるほどの厳密さで書き写したからにほかなりません。
例えば当時のユダヤ人は、写本するには、資格が必要で、各欄は、48行
以上、60行以内と決められ、インクの色は、黒だけ、権威のある
写本を前におき、書き写す前に、一語一語声をあげて読み、「神」という
言葉を記す度に、その前に、ペンを清め、『ヤーウェ』という言葉を
記す前には全身を洗い清めました。写本の完成後は、1ヶ月以内に、
その写本の吟味が行われ、1枚に1つの誤りがあっても、また、各文字と
各語は数えられて、一字でも多かったり少なかったり、ある文字が、
たの文字とくっ付いていたら、それらの写本は無効とされ、直ちに
完全に破壊されました。このような極端な規則の存在によって、写本間の
誤りが、他の古典に比べて、極端に少ないわけです。
33コーヒー牛乳:2001/06/02(土) 03:54
新約の本文はアラム語かヘブライ語で書かれていて、
それをギリシア語に翻訳したという可能性はありえますか。
34卵の名無しさん:2001/06/02(土) 03:55
こちらをご参照下さい。詳しくは、こちらをご参照下さい。
http://www.wlpm.or.jp/seisyo/index.htm
35卵の名無しさん:2001/06/02(土) 03:57
新約聖書の本文は『コイネーギリシャ語』です。
36コーヒー牛乳:2001/06/02(土) 14:54
ありがとうございます。
ちょっとわかりずらい聞き方だったかもしれません。
新約聖書はギリシャ語で書かれたというのが定説ですが
必ずしも新約聖書全巻がはじめからギリシャ語で書かれたというわけではないのでは。
発見された最古のものはギリシャ語ですがあくまで写本ですよね。
原典がギリシャ語であってもイエスやその弟子達はヘブライ語かアラム語で話していたのだから
本文を自分達の使ってる言葉のアラム語かヘブライ語で書いて
後の人間がギリシア語に翻訳した可能性はないだろうか、、、、という妄想なんですが・・・。

ユダヤ人でないルカや語学堪能なパウロはともかく
残りの弟子達が必ずしもギリシア語で書くでしょうか。
変な質問だったらすいません。
37卵の名無しさん:2001/06/02(土) 19:35
コイネーギリシャ語というのは、その当時の社会にあって、庶民が使用していた、
日本風に言うなら、八つぁん、熊さんが使っていた、最も簡単なギリシャ語でした。
ローマ帝国が支配していた当時の社会にあって、いわゆる共通語でした。
収税人マタイは所謂ローマ帝国の手先でしたから、当然ギリシャ語は読み書き
出来たようです。マルコ、ヨハネも、当時にあっては富裕な出でしたから、読み書き
できたようです。ペテロも、ローマで布教していますし、考察すると、彼らが、
コイネーギリシャ語を読み書き出来た事に疑問の余地はないと考えられています。
38名無しさん@自称くりすちゃん:2001/06/03(日) 01:27
>>37
おそらく殆どの新約文献が事実としてコイネーで書かれた事には反対しないけど・・・・

福音書記者や公同書簡の著者がマタイやマタイやペテロだなんて教会伝承、立証でき
ないかぎりヨタ話にすぎないと思うけど

>>36
Qのもとがアラマイだったとかいう可能性を否定する気もありません

>>29
そのかわり、ギリシャ・ローマ古典についてはその無謬説なんてありません。
新約だけが特別に強い主張をしているのだから、そのぶんより強力な証拠が要請され
て当然です。しかも、大部分の写本は後代の小文字写本で、本当に信頼できる写本は
案外数少ない(ヴァティカンとか、シナイとかetc.)
新改訳が欄外表記しているのは、スタンダードな本文批評より翻訳者の教義的立場に
有利な場合に殆ど限られてるじゃないですか、あれは信用出来ない
39りょうすけ 軌道修正:2001/06/03(日) 01:35
このスレッドの趣旨は、「聖書は神のことばであるかないか」という議論をした
いのではありません。
「聖書は神のことばになる」と主張する人々の論拠、拠り所は何か、と訊いてい
るのです。
またそう信じている人は、「自分は神秘主義に陥っているのではないか」と自分
で悩むことはないのでしょうか?
どうか教えてください。
40名無しさん@1周年:2001/06/03(日) 02:06
だから論拠なんてないんだよー。
そう信じたいだけなのー。
41正論くん:2001/06/03(日) 03:58
長い年月の間に改ざんされまくっている聖書に
神のことばや力はありません。
42名無しさん@1周年:2001/06/03(日) 04:34
そうなのだよ。
43りょうすけ:2001/06/03(日) 06:51
真意が伝わらないようで・・・・・
カール・バルトが、何を根拠に「聖書は神のことばではないが、神のことばになる」
と主張するのですか?
これを教えてください。・・・・・・ということなのですが・・・・
44プロ:2001/06/03(日) 12:35
>>41
少なくとも旧約聖書に関しては、現在刊行されている聖書のうち【新共同訳】聖書は改竄の可能性は少なくかなりの信頼度がおける。

新共同訳の底本になっているビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシアは死海写本を元にしている。

死海写本自体は炭素14の年代測定により紀元前1〜2世紀のものと判明しており、【新共同訳】聖書に関してだけ言えば、少なくともイエスの時代に伝わっていた聖書と同じ内容であり、そこに改竄は無いと言える。

もっとも、紀元前1〜2世紀以前にすでに大幅な改竄があったとすればこれはどうしようもないが。
45りょうすけ:2001/06/03(日) 17:50
だれも答えられないのに信じてるのでしょうか?
「実はね、バルトは・・・云々」というお話はどなたさまもなさらないようで。
それではバルトの「神のことばになる」っていうのは単なる教条でしかないと
いうこと?
46名無しさん@1周年:2001/06/03(日) 18:52
”ばると”ってなに?きみのモーソー?
47疑問:2001/06/03(日) 19:01
「聖書はすべて神の霊感によって」と聖書記者が書いた、まさ
にそのとき、このことばは「神のことばになった」のでは?
そんなにころころ「神のことば」になったり、そうでなく
なったりするんでしょうか。
ましてや、こんな重大な内容は、聖書の結集(けつじゅう)の
ときには、当然のこととして「全員異議なし」でパスした、と
しか考えられないのですが。いかがですか。
48卵の名無しさん:2001/06/03(日) 19:18
信仰をもって聖書を読めば神の言葉に『なる』というバルトの
主張は誤りです。聖書は、書かれた時から、原典において、
『誤りのない神の言葉』です。
49プロ:2001/06/03(日) 19:21
特に神学校などで学んでいる者でないかぎり、一般の信徒がバルト神学について詳しく知っているとは思えない。
かくいう自分も、難解なバルト神学について人に語れるほどの造詣は持ち合わせていない。

ところでりょうすけ氏の発言を見るに、本当にカール・バルトの書を読んで理解できない部分を教示願っているようには見えない。
思うに、クリスチャンにケチをつけたいが為にたまたま聞き齧った「バルト神学」という語を道具として使っているように見受けられる。
「君たちバルト神学も知らないクセに盲目的にキリスト教を信じてるの?」と馬鹿にしたいだけではないのか。

本当に自分が神学を学ぶにあたって疑問を持っての事であれば、2ちゃんねるなどではなく大学の神学部教授に質問状を送るなり、近くに教会があるなら神父や牧師に相談するなりすればいい。

それと、神学の知識が深いからといって信仰が深まるわけではないよ。
5021世紀のマルチン・ルター:2001/06/03(日) 20:26
聖書は人の手によって書かれました。
神の霊感を受けて書かれてはいますが。
その時代時代の限られた科学的な知識や、歴史の認識の中で書かれたのが聖書です。
だから、聖書に矛盾や間違いがあるのは、仕方ありません。
当時は進化論もないし、ノアの箱舟のような洪水伝説はいくらもありました。
聖書に権威を与え過ぎると無理が生じます。
だから、未だに聖書にしがみつき、進化論や科学的、また歴史的発見に目をつむるのは間違っています。
聖書を自分流に解釈するのは危険です。
正統的なキリスト教では、どう解釈しているかを知って下さい。
アーメン。
51通りすがりの者:2001/06/03(日) 21:12
>22

主観主義にも2つあるね。
(1) 人間は主観以外のものを持てないのだから、何が正しくて何が間違っているかは本当はわからない。だから、他人に真理を伝道するキリスト教などの態度は間違っている。これは、俗に不可知論という。近代ヒューマニズムの基本だ。
(2) 人間は、認識の出発点を人間に据えるならば、主観以外のものを持てない。しかし、出発点を全知の神に置くならば、人間は、神の啓示によって絶対的な知識に達することができる。また、そのことを他人に伝道することができる。これは、正統的なキリスト教の立場だ。

(2)に対して(1)は、「それはおかしいではないか。神の存在が証明されてもいないのに、神を認識の出発点とするなんて」と言うのが常であるが、神の不在も証明できないのであるから、(2)の認識論を否定はできない。
しかし、(2)は(1)の「何が正しくて何が間違っているかは本当はわからない。人間が断定するのは間違った態度だ」という姿勢を否定できる。なぜならば、「人間だけが唯一の認識の出発点である」という命題を(1)は証明できないからだ。「人間だけが認識の唯一の出発点である」という命題が正しければ、「人間の認識能力を超えた事柄については分からないから誰も何も断定できない。」という不可知論を主張できるが、「人間だけが認識の唯一の出発点である」ということが正しいと証明できないわけだから、「全知の神から出発しよう」という立場を否定できないし、彼らが「絶対的な真理は存在するのだ!」と叫んでも、「それはおかしいよ。すべては相対なんだから。」と言えないのである。

おわかりだろうか。
52りょうすけ:2001/06/03(日) 21:13
専門家しか分からないことに、信仰の錨が下ろせるんですね?
なんか、むか〜し、一般信徒には分からなくて、教職者だけが
「真理?」を独占してた時代があったようですね。

だれも答えられないのに信じてるのでしょうか?
「実はね、バルトは・・・云々」というお話はどなたさまもなさらないようで。
それではバルトの「神のことばになる」っていうのは単なる教条でしかないと
いうこと?

でも私は本当にこの2ちゃんねるに書き込んでいる人の、その字句をとおして
自分たちの、借り物ではない拠って立つところを知りたいのです。
53りょうすけ:2001/06/03(日) 21:25
わたしは、専門家しか分からないような「にせ神学」や、一般信徒ににせの「天国行き切符」
を売りつける「にせ教師」とその「取り巻き」の、化けの皮を剥ぎたいのです。

ちょっと聞きかじっただけでも、素朴な信仰故に迫害を堪え忍んだ老信徒のみなさんは、
とっくの昔にお見通しでしたよ。ただし「迫害」とは「自称クリスチャン」の狼のこと。
54名無しさん@1周年:2001/06/03(日) 21:36
けっきょくケチつけてケンカ売りに来ただけじゃん
ダッセェ
5554さん:2001/06/03(日) 21:44
54さんの、その字句をとおして
54さん自身の、借り物ではない拠って立つところを知りたいのです。
56通りすがりの者:2001/06/03(日) 22:13
>だから、聖書に矛盾や間違いがあるのは、仕方ありません。
>当時は進化論もないし、ノアの箱舟のような洪水伝説はいくらもありました。
>聖書に権威を与え過ぎると無理が生じます。

聖書に権威がなければ、じゃあ誰が権威かという問題になります。
結局、聖書信仰に立たないと、人間理性を権威としてしまうのです。
これはヒューマニズムと同じ立場つまり「人間は万物の尺度である」なのです。
このような立場に立ったために、近代の自然主義神学では、人によって聖書の厚さが変わりました。
「この個所は後代の教会人の加筆であり、この個所は真正の個所。」と言って。
しかし、この選別の作業をする人のそれぞれの価値観が基準として濃厚に反映されることになったので、聖書は「○○氏用聖書」でしかなくなってしまい、クリスチャンの間に共通の信仰が成り立たなくなったのです。
こうなると、もはやキリスト教は啓示宗教ではありません。
人間の知恵が優先される自然宗教になったのです。
だから、そのような自然宗教の信者は、聖書を読んでも、「自分の殻を破る」ということができないのです。
なぜならば、自分が信じられないことは、ウソと断定してしまうから、聖書を権威として「教えられる」ことも「考え方を変えられる」こともなくなった。
こういった自然主義神学はキリスト教を本質の部分において破壊するものなので、21世紀の地下水君のような考え方は危険なのです。
57りょうすけ:2001/06/03(日) 22:21
「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ。」
という証言をぜひ述べてください。
58通りすがりの者:2001/06/03(日) 22:27
りょうすけ さん。
バルト主義は、「羊のなりをした狼」なのです。
バルト主義が行き付いたのは、「普遍救済主義」です。
つまり、キリストの十字架を信じていなくても、万人はすでに救われているのだ。クリスチャンとはその救いの事実を知っている人に過ぎない、というものです。
これによって、歴史的な教会はみな救いを説くことをせずに、単なる社交場に等しいものになってしまいました。
なぜならば、正統的なキリスト教に立てば、「宣教しなければ人間は滅びる」という動機がありますが、普遍救済主義では、そのような動機はないからです。
伝道してもしなくても同じなら、宣教活動が停滞することは当然です。
これこそ、サタンの謀略でなくてなんでしょうか。
59名無しさん@1周年:2001/06/03(日) 22:30
>51は、

(1)が正しいとしても、(2)が正しいか、間違っているか明確にできない。

しかし、

(2)が正しいとすると、(1)に矛盾があることが導ける。

ということかな。
しかし、これだけで、(1)より(2)の立場が有利だってことにはならないと思うが。
60りょうすけ:2001/06/03(日) 22:40
通りすがりの者さん
先刻承知です。
わたしは本気で、57のことが聞いてみたいのです。
そうはおもいませんか。
「〜になる」派のだれもが、まことしやかな教義を鵜呑みにして、
素朴な信仰をもつ人々をも、滅びに引き込んでいるのです。
これこそ「マインドコントロール」でなくて何でしょうか。
どなたか
「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ。」
という証言をぜひ述べてください。
61りょうすけ:2001/06/03(日) 22:56
ソクラテスの産婆法 なのです。
語ることで、自分に取り憑いているものに気付いてもらいたいのです。
62通りすがりの者:2001/06/03(日) 23:03
>59
認識の起点をどこに置くかという問題は、ヒューマニズムとキリスト教とを分ける最も重要なポイントの一つである。
ヒューマニズムの視点に立ってすべてを判断しようとすると、信仰とか物事の本質や人生の意味(叡智界の領域)とかは不可知だと結論せざるを得ないのだ。
しかし、実存主義が間違っているのは、「不可知」→「絶対を主張するあらゆるものを否定」という論理の立て方をするところだ。
このような論理の立て方ができるには、ヒューマニズムの視点が唯一正しいものであることを証明しなければならないのだ。
しかし、そんなことは不可能だ。
ヒューマニズムの視点ではなく、聖書的キリスト教の視点に立つならば、「絶対的知識は可能だ!」と主張できることがわかるだろう。

>しかし、これだけで、(1)より(2)の立場が有利だって
>ことにはならないと思うが。

(1)に立つと、物事の現象を追うことはできても、価値判断ができなくなる。価値判断ができなくなれば、法律が作れなくなるから、社会は混沌化するのだ。
例えば、相対主義を肯定すると、社会において刑罰とは「現時点における体制の価値判断に合致しなかった者に加えられるリンチ」でしかないのだ。
だから、麻原に対して我々は、「ひどいことをする奴だ!」とは言えない。「可愛そうに。彼は生まれた時代が悪かったのだ。現在の日本は、彼の価値観に合わなかったのだ。」としか言えないということになるのだ。
これは、相対主義の理論上では真理かもしれないが、実際上の社会において、このように考える馬鹿は少数である。
実社会は、やはり「絶対的倫理」というものを想定しているのだ。
近代の世界は、近代の市民革命とくにピューリタン革命の成果に基づく法律を採用している。
だから、聖書法は Higher Law としてまだ影響力がある。
しかし、20世紀以降、進化論によって、普遍的真理が否定され、弱肉強食の価値観が入ると、法律も、Higher Law ではなく、社会の通年によって決定されるようになった。
法相対主義、法実証主義では、限界があるというので、最近は自然法が見直されているようになったが、西欧社会はキリスト教を捨てたので、新しい Higher Law を何にするか未定である。
63奈菜死:2001/06/03(日) 23:09
>61あなたこそあなたの教会の教義の奴隷になっていることにきがつかないの?自分の考えだけが絶対的に正しくて他が間違っているというんじゃ、ファシズムと同じじゃない。人を裁くのはやめなさい。
64りょうすけ:2001/06/03(日) 23:19
「教会の教義の奴隷になっていることにきがつかないの?」
どんな教義ですか? 何を根拠に?

何が正しくて、何が間違っているということが大切だと思います。
人を裁くのはやめなさい。
65通りすがりの者:2001/06/03(日) 23:24
>61
>あなたこそあなたの教会の教義の奴隷になっていること
>にきがつかないの?自分の考えだけが絶対的に正しくて他が間
>違っているというんじゃ、ファシズムと同じじゃない。人を裁
>くのはやめなさい。

誤解してます。
いいですか。
隣人が間違いを信じているのに、それを矯正しないほうが悪いのです。
もちろん、矯正を試みて、相手が変わるかどうかは本人次第です。
しかし、情報だけは提供しなければならない。
これは、クリスチャン同士に対する義務です。
「じゃあ、どうしてあなたが正しいと分かるのか。」ですって。
それは、その教義そのものをじっくりと検討すべきでしょう。
あなたも含めて。
教義そのものを検討することなく、すべて他の人々の誤りを正そうとする態度がファシズムであるならば、学問上の論争も含めて、私たちは何も言えなくなってしまいますよ。イエスマンになれと言うのでしょうか。
バルト主義は異端なのです。
異端の人々には異端ですよ、と言ってあげるのが親切なのです。
「なに〜。異端だと〜。」と怒るのは、議論してからやってください。
自分が絶対に正しいなんて誰も言えないでしょう。
聖書が基準なのです。いっしょに、バルト主義の主張と聖書の教義とを比較して論議することです。
66奈菜死:2001/06/03(日) 23:24
>何が正しくて、何が間違っているということが大切だと思います。
信仰の問題の正誤を判断できるのは、あなたではなく神様よ。自分が正しいとおもってるのかもしれないけど、それはあなたの判断であり、神様のではないわよ。
67通りすがりの者:2001/06/03(日) 23:31
>信仰の問題の正誤を判断できるのは、あなたではなく神様よ。
>自分が正しいとおもってるのかもしれないけど、それはあなた
>の判断であり、神様のではないわよ。

そうですね。神様が判断するのです。そして、その判断が聖書に書いてあるのです。
だから、聖書を調べましょうと言っているのですね。
68りょうすけ:2001/06/03(日) 23:36
ソクラテスの産婆法 なのです。
語ることで、自分に取り憑いているものに気付いてもらいたいのです。
「信仰の問題の正誤を判断できるのは、わたしではなく神様です。」
これは聖書の受け売りです。
69奈菜死:2001/06/03(日) 23:43
>67でもその聖書で律法学者はイエスの御心にかなわなかったのよね。自分の聖書の読み方が正しいとどうしてわかるの?
70通りすがりの者:2001/06/04(月) 00:16
>67
>でもその聖書で律法学者はイエスの御心にかなわなかったのよね。
>自分の聖書の読み方が正しいとどうしてわかるの?

英文解釈や現代国語、古文などをやってお分かりのように、スタンダードな解釈法があります。
英文を間違って解釈する人々もいますが、それでもはやり一般に正しい訳と呼ばれているものはたしかに存在し、それはやはり、理に適っているものであることが多いですね。
それと同じように、聖書に関しても、間違った解釈をした人々がいるから、だから誰も正しいと呼べる訳はないのだとは結論できません。
2000年の釈義学の蓄積があると同時に、新しい発見、学説もあります。
しかし、それらがみな正しいとは必ずしも言えず、とくにバルトのような考えが出てくることもあります。
しかし、異端は、時間とともに淘汰されて行って正しいものが残るように神様は配慮してくださいます。
神は教会を愛しておられるので、誤謬の中に永遠に放置されることはないのです。
そういう意味において神の導きに信頼する必要があります。
さて、聖書解釈において重要な点は主に以下です。

(1)原著者の意図したことは何か。
(2)文法的に正確に
(3)歴史的背景
(4)文脈と合致しているか
(5)聖書全体の主張と調和しているか。

バルトの普遍救済主義は、明らかに、聖書全体の主張と矛盾しており、もしそれが正しければ、パウロの労苦はすべて無駄であったということになります。
パウロが懸命になって伝道して、石で打たれ、鞭打ちの刑に合い、海上を一昼夜漂ってもなお、努力して、ついに殉教したのは、ただひたすらに異邦人の救いのためでした。
もし、バルトが正しければ、このような努力は無駄であったということになり、聖書がこれだけのスペースを割いたパウロの手紙も空しくなってしまいます。
ですから、間違った解釈というものは存在するのです。
そして、細部を見ながら全体を見、全体を見ながら細部を見るという反復をしながら、聖書全体の主張と著しく矛盾するこのような考えを私たちは拒絶しなければならないのです。

同じことは、進化論についても言えます。
進化論も一種の異端です。聖書の基本の基本である、創造を否定するのですから、このような異端を教会は絶対に受け入れてはならないのです。
71奈菜死:2001/06/04(月) 00:37
わーおすごいわね。「それでも地球はまわっている」
コペルニクスは正しくて、アインシュタインやダーウィンはまちがってるわけね。ついでに3000年以上昔の古代イスラエル人の考えていることがあなたにはわかると。さぞヘブライ語やギリシャ語もおたっしゃでしょうね。
72あずみ:2001/06/04(月) 00:45
バルトもいいけど、プルトマンとかボンフェッファーの方が好きです。
73あずみ:2001/06/04(月) 00:48
最近では西南学院大学神学部の青野太潮先生...
74名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 00:53
>73
福音派のゴチゴチの原理主義者じゃねーか
75あずみ:2001/06/04(月) 00:55
みずからを真理を手にするものと自称するものには、真理の一片たり
ともあったためしがありません。キリスト教においてもまた同じ...
76あずみ:2001/06/04(月) 00:56
あなた、青野さん知らないね...
77名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 00:59
>76
知ってるよ 西南の神学部長だろが
7823:2001/06/04(月) 01:09
あのー、私の意見は無視されて流されてしまったわけですか?
79名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 01:21
>78
第一原理が別の原理によって決定されるというところに
ややパラドックスがあるようにおもわれます。
8023:2001/06/04(月) 01:31
>>79
時代の変化に伴って法則が変化していくのではという意見です。
主観が現実の事象に影響を及ぼすという事は量子力学によって証明されてますから、
これを更に飛躍させてみたわけです。
極端すぎたかもしれませんが。
8123:2001/06/04(月) 01:37
ぶっちゃけてわかりやすく言えば、
多くの人が神を信じていた時代には実際に神が存在しており、
天動説が主流だった時代には実際に大地は真っ平らで天が回っていたのではないかと。(笑)
8223:2001/06/04(月) 01:51
まぁ仮説というのもおこがましい言ってみれば単なる思い付きなんですが、
本人としてはこれは煮詰めていけば結構面白いんじゃないかと思ってまして。
できれば一緒に穴をほじくって頂いて、もう少しまともなものになるや否やみてみたいなと。
8321世紀のマルチン・ルター:2001/06/04(月) 06:02
>>58
>>これこそ、サタンの謀略でなくてなんでしょうか。

オ、出た出た。
こいつ、やっぱ、電波だよ。
サタンがいるとか。
フフフ。
怪奇映画の見過ぎだよ。
フフフ。
電波君。
フフフフフ。
84あずみ:2001/06/04(月) 08:41
聖書の記述もまた歴史的な限界性の中にある。古代的な歴史観や倫理観、
古代的な神話に彩られた聖書の記述はすでに私たちには「そのまま」理
解することはできない。だからこそ、「非神話化」することによっては
じめて現代人である私たちは古代人と等価に理解することができるよう
になる。非神話化することによってのみ、私たちは聖書の記述を神の言
葉としてとらえることができるのだというのが、プルトマンの主張です
よね。

こういうの大好きです。
85名無し:2001/06/04(月) 10:07
まあ、ブルトマンって聞くだけで拒絶反応を示す、頭の中が
いまだに神話世界の連中が教会にも結構いるから、
そういうこと言っても反感買うだけかもね。
彼らは神話世界に生きていたいんだよ。
天使や悪魔がビルの谷間とかにもうようよしててほしいんだよ。
別人種は無視するに限る。
86奈菜死:2001/06/04(月) 10:43
非神話化にも問題はあるわけでしょう。
87奈菜死:2001/06/04(月) 10:54
聖書を用いて人をさばいたり、差別したりしないかぎりはどんな読み方をしようが自由です。聖書を人を傷つける道具にしかできないのなら、聖書なんか読まないほうがましです。神の恵みから離れて聖書を読めば律法主義に陥ります。聖書を人を傷つける道具にすることは神への冒涜です。
88奈菜死:2001/06/04(月) 11:02
りょうすけへ  あなた勿論豚肉はたべないわけね。あなたの教会では障害者は礼拝堂にはいれないのよね。だって聖書は誤りのない、神の言葉なんだから。あなたの教会の信徒が不倫したら、皆で石で殺すわけね。だって神の言葉は絶対ですものね。
89奈菜死:2001/06/04(月) 11:07
こんなときだけ、普段否定してる非神話化もちださないでよね。聖書は神の言葉で絶対なんですもの。まさか旧約を否定して、新約だけなんじゃないでしょうね。聖書全体が誤りのない神の
言葉なのよ。歴史的背景がだの、古代人の世界観だのいいださないでよ。神の言葉は普遍なんですから。
90奈菜死:2001/06/04(月) 11:13
エホバが輸血拒否してるからって裁く権利なんかないのよ。彼らは聖書の言葉を忠実に守ってるんだから。血にふれてはいけないのよ。
91りょうすけ:2001/06/04(月) 11:41
まだ、ストレートに答えてくれた人はゼロです。なぜ?
「素朴に聖書を読んで信じる」ことの否定しかかえってこないようですが。

(問い)
「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ。」
という証言をぜひ述べてください。
92りょうすけ:2001/06/04(月) 11:56
〜とも書いてある・・・(イエスさま 荒野での誘惑)
これも大切です。
サタンの手口はある聖句をポンともってきて、他を見えなくさせようとします。
使徒行伝「これを食べなさい」は奈菜死さんもご存じのはず・・・・
93名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 12:14
>91
だからなんでそんな証言しなきゃいけねーんだよ
だれもそんな事思ってねえよ
いいかげんしつこいんだよボケ
94りょうすけ:2001/06/04(月) 12:18
まだ、ストレートに答えてくれた人はゼロです。なぜ?
「素朴に聖書を読んで信じる」ことの否定しかかえってこないようですが。

(問い)
「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ。」
という証言をぜひ述べてください。

95名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 13:22
UZEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEEE!!!
同じ事ばかりクドクドと!
荒らしかテメーは!
なんでテメーがケチつけやすいように
テメーの望むセリフ言わなきゃなんえんだよアホが!
誰もそんな事言ってねーって事は
誰もそんな事思ってねーんだよ!
回線切って首吊って氏ねやカスが!
96名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 15:08
 聖書は神になるではなく、聖書は神のことばを含むである。あくまで人間の手でかかれたものなので、書き手の人間的弱さや誤りも混ざっていることは否定できない。
97名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 15:10
 聖書には神の言葉を含む、壮大なファンタジーである。
98名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 15:17
聖書は神の言葉である、神の言葉になるではなく、神の言葉を含むで正しいと思う。
99名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 15:22
聖書は誤りなき神の言葉であるというのは言いすぎです。なぜなら聖書記者の人間的弱さや誤りも含まれているからです。
100聖書に言うてちょうだい:2001/06/04(月) 15:42
「聖書は誤りなき神の言葉であるというのは言いすぎです。なぜなら
聖書記者の人間的弱さや誤りも含まれているからです。」

「聖書記者の人間的弱さや誤り」も分かった上で十全に霊感されてま
す。ご心配なく。
イエスも人であられ、神でいらっしゃる。
101名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 15:48
パウロの言葉はパウロの言葉であり、神の言葉ではない。パウロは人間であり、神ではない。だから間違ったことも書いている。
10295さんへ りょうすけ:2001/06/04(月) 15:53
あのう〜 わたしが立てたスレッドなんですけど・・・・
質問のストレートな答えが返ってこないから、
再三答えをリクエストしてるんです・・・
お気に召さないようでしたら、他で遊んでいってください。
おねがいしま〜す。
103名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 15:56
間違っているものを誤りのない神の言葉であるとして、人をさばくのはいかがなものでしょうか。パウロの言葉を素朴に読んで受け入れていたら、教会の女性牧師、女性役員、教会学校の女性教師は全員やめなければならなくなります。アメリカの南部バプテスト教会はこの間まではそうでなかったのに、突然女性を教会の主要なポストから追い出しにかかっています。素朴な聖書の読み方で。
104名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 16:01
というわけで「聖書は神のことばを含む」。
105すっかり話題が逸れてしまって:2001/06/04(月) 16:01
トホホ
106名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 16:03
間とったんだからこれでいいでしょう。
107しゃあない 相手したろ:2001/06/04(月) 16:10
訂正
誤 間違っているものを
正 間違っている「と私が感じている」もの
108名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 16:45

あなたはおかしいとかんじないの?
109名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 16:47
相手してやろうって態度がむかつく。人が真剣に答えてるんだから、そっちも真剣にうけなさいよ。
110あなた:2001/06/04(月) 16:56
おかしいとは感じないの?

そもそも、合理的解釈に立とうとする姿勢が、人間の理解を超えた神
さまのことを理解することに、馴染むんだろうか。

神さまの物差しで我々が量られるんであって、ゆがんだ我々の目盛り
で神さまを量ろうとする?
111葡萄酒と革袋:2001/06/04(月) 17:03
徹底的に合理的解釈に立つなら、無神論という宗教さえ成立しない。
ましてや、聖句の引用やイエスの言葉の引用などは足場にすることは
ボロをだすこと(合理的解釈に立っていないことを示すこと)になる。
112葡萄酒と革袋:2001/06/04(月) 17:09
このことは、べるさんも奈奈死さんもご存じのはずではなかったか。
だから しゃあないなあ です。
113名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 17:11
神がいることを前提にみんな話してるけど
神がいないならガタガタ屁理屈言ってもしょうがないんじゃない。

114また「荒らし」:2001/06/04(月) 17:13
113
115だって言いたくなるのさ〜傍観者:2001/06/04(月) 17:21
しょうがない。
116名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 17:23
>>102
はいはいスレ建てごくろうさん。
あんたはもういらないからどっかヨソ逝ってね。
117:2001/06/04(月) 17:24
「荒らし」過敏症候群

病状
自分の気に入らないレスは、じぇーんぶ「荒らし」にしてしまい、
「荒らし」は放置の原則が完全に記憶から消え去ってしまう症状が見られる。
予後悪し。。。♪

118りょうすけ:2001/06/04(月) 17:34
「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ。」
という証言をぜひ述べてください。
119名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 17:35
いいから消えろりょうすけ。
お前の役目はもう終わった。
ここが公共の掲示板である以上、
このスレはお前の個人的所有物じゃない。
120りょうすけ:2001/06/04(月) 17:46
スレッドのはじめ

「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ。」
という証言をぜひ述べてください。
121名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 17:48
聖書はそもそも神の言葉として書かれたのではない。あんたのためにかかれたのでもない。はっきりいやあなくてもいいんだよ。それでも信仰はたもてるからね。
122名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 17:51
聖書は神の言葉ではない。神が自分の手で書いたものでない以上。
123名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 17:52
神の言葉ではない。信仰告白集のようなものか?
124全然 答えなし?:2001/06/04(月) 17:53
スレッドのはじめ

「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ。」
という証言をぜひ述べてください。
125名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 17:55
わかった。
頭悪い荒らしりょうすけは以後放置する。
126dadada:2001/06/04(月) 17:57
127りょうすけ:2001/06/04(月) 18:04
スレッドのそもそもの質問

「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ。」
という証言をぜひ述べてください
128:2001/06/04(月) 18:10

   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
  /           \
 /       ( ●)   |
 | |(● )   ‐-‐ |  |
 | |-‐     | |_/
 \/ /   _/ |
    |_● ̄  | /
      |/ ̄|/
       \_/
129りょうすけ:2001/06/04(月) 18:25
すばらしい絵ですね。
130あずみ:2001/06/04(月) 18:37
旧新約聖書の各文書は「神はこう語られた」と信じた人々によって書かれた証言集
です。証言というのは、事実だけを語ろうとしても、どうしてもそこに証言者の主観
や思いこみ、勘違いや誤りなどのノイズが混入するものです。だけど、読者が聖霊に
よって清明されるとき、聖書はそうしたノイズをも貫いて私たちに神の言葉となって
語りかけるということなのでしょうか。

こんなところでくだまくひまがあったら、「教会教義学」でも読破してからバルト批判
しましょう。
131奈菜死:2001/06/04(月) 18:41
聖書は神のことばではなく、神からの問いかけです。答えではありません。答えはわたしたちが考えるのです。
132名は:2001/06/04(月) 18:45
長倉牧師
133修了:2001/06/04(月) 19:05
おわtり
134りょうすけ:2001/06/04(月) 20:26
「読者が聖霊に よって清明されるとき、聖書はそうしたノイズをも貫いて私たちに
神の言葉となって語りかけるということなのでしょうか。」
その根拠は何に基づくんでしょうか?

その出どころが知りたいのですが?
135名なし:2001/06/04(月) 20:39
あずみ
136りょうすけ:2001/06/04(月) 21:24
「読者が聖霊によって清明される」

この「清明」が特に「神秘的」ですがどういうことを
意味してるんでしょうか?
137名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 21:25

   りょうすけは荒らしです
  みなさん放置でお願いします

138あずみ:2001/06/04(月) 21:51
聖霊が働くんじゃないですか。詳しいことはバルトさんにお聞きなさい。
139りょうすけ:2001/06/04(月) 21:52
「聖書はすべて神の霊感によって」と聖書記者が書いた、まさ
にそのとき、このことばは「神のことばになっ」てい・・・・?
これは聖書に関する一定の見解を聖書記者が述べている箇所です。
それと異なる見解が出てきて、「おい聖書さんよ、俺のほうが妥当だ」
と聖書に譲歩を迫るようになった。
ある人に対して神は「神のことばです」、もう片方に対しては「神のこと
ばではない」と言われるのでしょうか?

そんなにころころ「神のことば」になったり、そうでなく
なったりするんでしょうか。
こんな内容は、聖書の結集(けつじゅう)のときには、議論するま
でもなく、当然のこととして「全員異議なし」でパスした、と
しか考えられないのですが。いかがですか。


140りょうすけ:2001/06/04(月) 21:57
聖霊の概念は、あずみさんはどういうものから得ましたか?
141名なし:2001/06/04(月) 21:59
キリスト教神学甘くみるんじゃないよ。
14223:2001/06/04(月) 22:04
そして忘れられていく私の発言・・・
143りょうすけ:2001/06/04(月) 22:23
「キリスト教神学甘くみるんじゃないよ。」

そんなに偉かったんですか。私の知ってる神学者の先生方はそんなことは
おっしゃらない。もう召されましたが「神学者はね。信徒にわかりやすく
語れないとね。」と口癖のようにおっしゃってましたよ。
わたしは教職でも、大学院出でもありません。普通の非キリスト教系の大
学を出た一般信徒です。
お手柔らかに。
144名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 22:30

   りょうすけは荒らしです
  みなさん放置でお願いします

145言葉の定義:2001/06/04(月) 22:41
「死んで仏になっても天国で見守ってるよ」
なんて、言葉の定義、概念が混乱している一例でしょう。

どこから「聖霊」という概念を得たのですか

と迫りましたが、気付くかたも多いことでしょう。
「誤りのある書物から私はその概念を得ている」そうは思いたくな
いでしょう。
じつはここが味噌です。「聖書は神のことばである」と言う前提で
聖書を頼りに得た「聖霊」の概念は、そうでない前提で「聖霊」と
呼ぶことは出来ないのです。「救い」「キリスト」「証」・・・・
全部違ってくるのです。ソクラテスの産婆法ですよ。
自分で口に出してみて初めて気付くのです。
146どうぞ あずみさん:2001/06/04(月) 22:43
あなたの番です。
147名無しさん:2001/06/04(月) 22:49

  りょうすけは見ての通り
  頭の弱いコマッタチャンです
  エサを与えないでください
148りょうすけ:2001/06/04(月) 23:10
未だに「聖書が神のことば「になる」」と信じている人が多いのに
まともな答えがありません。

聖書が神のことば「になる」という根拠は何ですか?
149あずみ:2001/06/04(月) 23:21
だから、そんなことはバルトにききなさい。
150統一エホバヤマギシ学会員:2001/06/04(月) 23:22
信じよ!! 捧げよ!!
151りょうすけ:2001/06/04(月) 23:25
いやあ、実際そう信じている人の生の声を聞かせてください。
152りょうすけ:2001/06/04(月) 23:31
宿題のまんま

「聖書はすべて神の霊感によって」と聖書記者が書いた、まさ
にそのとき、このことばは「神のことばになっ」てい・・・・?
これは聖書に関する一定の見解を聖書記者が述べている箇所です。
それと異なる見解が出てきて、「おい聖書さんよ、俺のほうが妥当だ」
と聖書に譲歩を迫るようになった。
ある人に対して神は「神のことばです」、もう片方に対しては「神のこと
ばではない」と言われるのでしょうか?

そんなにころころ「神のことば」になったり、そうでなく
なったりするんでしょうか。
こんな内容は、聖書の結集(けつじゅう)のときには、議論するま
でもなく、当然のこととして「全員異議なし」でパスした、と
しか考えられないのですが。いかがですか。
153あずみ:2001/06/04(月) 23:32
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、
戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(テモテへの第2の手紙3:16)

よく、「聖書はすべて神の言葉である」ことの論拠としてこの個所が
引用されますが、ここで言われていることはタナハ(特にトーラー)は
人を教え、導くのに有益だということだけで、旧新約聖書全体がすべて
誤りなく、均質に神の言葉であるなどということではありません。
ちなみに「すべて」というのは「全部」という意味ではなくて、
「(タナハ、というよりトーラーの)おのおのの文書は」という意味な
ので、この言葉を根拠に旧新約聖書全体のの無謬性を主張することは
妥当ではないと思います。
154名無しさん@1周年:2001/06/04(月) 23:32
>>149あずみさん
 
  りょうすけは反論したり構ってあげると
  非常に喜びます
  相手にしないで放置しましょう
155あずみ:2001/06/04(月) 23:35
前にも書きましたが、私はバルトよりもブルトマンとか
ボンフェッファーが好みなので、あしからず。
156りょうすけ:2001/06/04(月) 23:42
「神の霊感による」「神の霊感によって」
についてはいかがでしょうか。

「旧約聖書各書」は「神の霊感による」あ
るいは「神の霊感によって(書かれた)と
いうことでよいのでしょうか。
157あずみ:2001/06/04(月) 23:43
まあ、新約にしても旧約にしても聖書の記述に矛盾がないなどと
無邪気に思いこんでいるようでは先が思いやられます。
矛盾があるからこそ、信仰理解に違いがあるからこそ、相互の文書
に緊張関係があるからこそ、逆説的にではあれ、聖書は下記の言葉
として私たちに語りかけるのだということが、なぜ理解できないの
でしょうか。聖書の外周的本文に満足する人々のかたくなさを神が
砕かれますように。主の御名によって祈ります。
158あずみ:2001/06/04(月) 23:48
そう書いてありますね。古代的、神話的表現で....
159あずみ:2001/06/04(月) 23:52
ちなみに「旧約各書(全体)」ではなく、やはりトーラー
(モーセ五書)に限定していると考えた方がいいと思いま
す。
160>23さん:2001/06/05(火) 01:25
真理A:「主観が現実の事象に影響を及ぼすように、多くの人が信じるとそれは実際に真実になる」

真理Aが正しいとします。たまたま、多くの人が真理Aという真理は間違っていると考えたとします。
すると、真理Aによって、Aは実際に間違いとなります。
Aが実際に間違いであれば、Aは真理としての効力を失いますから、
多くの人がAが真理ではないと考えても、Aは間違いにはなりません。
真理Aには矛盾が生じます。


真理B:「絶対的な価値観が存在する」

真理Bが正しいと仮定します。すると、
ゲーデルの不完全性定理によって、
おそらく、
真理Bには矛盾が生じます。


以上より、真理とは、主観に依存するのでもなく、
絶対的に存在するのでもないということが、証明されました。
161りょうすけ:2001/06/05(火) 01:51
さあ、出てきた。
よく分からない曖昧模糊とした、一見神学用語のように見えて
実は定義されていない言葉の援用「古代的、神話的表現」

「矛盾があるからこそ、信仰理解に違いがあるからこそ、相互の文書
に緊張関係があるからこそ、逆説的にではあれ、聖書は神の言葉
として私たちに語りかけるのだということが、なぜ理解できないの
でしょうか。」
・・・・それは根拠、拠って立つところを理解できるように、あなたが
説明していないからです。いやあなた自身も理解していないから、きち
んと説明できないのです。冷凍庫から出してきたような教条をわかりも
せず「これはなあ・・」と広げてるようなものです。

何と何に矛盾があるのか、(矛盾なのか矛盾に見えるのか)
何と何に信仰理解に違いがあるのか、
文書どうしに「緊張関係」があるとするのは主観
「〜からこそ」・・・なぜそんな必然が生ずるのか不明、乱暴(根拠がない)
どの命題が逆説的なのか(一見どう見えて、実はどうなのか)
(逆説的ととらえるのは主観的・文学的で曖昧)
聖書は神の言葉として私たちに語りかける(日本語として成っていない)
聖書はいつでも全ての人に神のことば「を」語っているのではないのか?
162りょうすけ:2001/06/05(火) 01:54
途中で切れてしまったので、分割して

さあ、出てきた。
よく分からない曖昧模糊とした、一見神学用語のように見えて
実は定義されていない言葉の援用「古代的、神話的表現」

「矛盾があるからこそ、信仰理解に違いがあるからこそ、相互の文書
に緊張関係があるからこそ、逆説的にではあれ、聖書は神の言葉
として私たちに語りかけるのだということが、なぜ理解できないの
でしょうか。」
・・・・それは根拠、拠って立つところを理解できるように、あなたが
説明していないからです。いやあなた自身も理解していないから、きち
んと説明できないのです。冷凍庫から出してきたような教条をわかりも
せず「これはなあ・・」と広げてるようなものです。

163りょうすけ:2001/06/05(火) 01:55
続き

何と何に矛盾があるのか、(矛盾なのか矛盾に見えるのか)
何と何に信仰理解に違いがあるのか、
文書どうしに「緊張関係」があるとするのは主観
「〜からこそ」・・・なぜそんな必然が生ずるのか不明、乱暴(根拠がない)
どの命題が逆説的なのか(一見どう見えて、実はどうなのか)
(逆説的ととらえるのは主観的・文学的で曖昧)
聖書は神の言葉として私たちに語りかける(日本語として成っていない)
聖書はいつでも全ての人に神のことば「を」語っているのではないのか?
16423:2001/06/05(火) 02:01
うわ、いきなり終了しちゃったよ(笑)
うーん、どうすべ。

この世界のシステムには幾つもの階層があって、
パラダイムシフトによって書き換えが行われる層は
比較的表層に近い数階層に限られるというのはどう?
165りょうすけ:2001/06/05(火) 02:09
自分のことばで説明しなくて、どうして人が咀嚼出来るでしょうか。
いや、自分も理解できていないのに、どうして人に教えるのですか。
ルターもウィクリフもフスもカルヴァンも理解できないでしょう。
まさに「マインドコントロール」状態です。「聖書は神話、聖書は
矛盾だらけ」その先入観からのスタートしかないのでしょうか。
わたしは、聖書のことばからスタートするのですが・・・・
166りょうすけ:2001/06/05(火) 02:23
まだまだ出てこない明確な「根拠」
167名無しさん@1周年:2001/06/05(火) 02:25
りょうすけを見てると
「真剣10代しゃべり場」が頭に浮かぶ(ワラ
168153さんへ:2001/06/05(火) 06:29
テモテへの手紙 第二3章14節〜17節
14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、
15 また、幼いころから聖書(タ・ヒエラグランマタ)に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
16 聖書(パーサ・グラフェー)はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
パウロは若き牧師テモテに書き送った手紙の中で、聖書に関して、2種類のギリシャ語を
使い分けて、上記のように述べております。15節では、旧約聖書全体を指し示す
『タ・ヒエラグランマタ』という言葉を用いていますが、16節では、神の霊感された
書を意味する『パーサ・グラフェ−』という言葉を用いて、新旧約聖書全体(福音書、
及び、パウロの手紙を含む)が、すべて『神の霊感による』と主張しています。
さて、その聖書の解釈ですが、ペテロはペテロの手紙 第二1章20節〜21節
で次のように主張しています。
20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのでなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
バルトの主張は、新約聖書の著者である、パウロ、ペテロの主張と真っ向から
対立しています。
169名無し:2001/06/05(火) 08:06
新旧約全体が「神の霊感による」と考えたり、テモテ2をパウロの書簡や
ペトロ2をペトロの書簡とみている点で、おそらく全然あずみとは話しが
噛み合わないだろうね

170あずみ:2001/06/05(火) 09:11
新約聖書が正典結集されたのは4世紀です。その手紙を誰が書いたにせよ、
その手紙は書かれた当時は「新約聖書」ではなかったのです。なぜなら、
当時は「新約聖書」などというものは存在しなかったから....(^^;;;
171あずみ:2001/06/05(火) 09:19
「新約聖書」とされた諸文書間にどのような緊張関係があるかに
ついてはご自分で本をお読み下さい。ガラテヤ書とユダ書との関係
は有名ですが、共観福音書相互の緊張関係やパウロ書簡のうち真正
とされるものと偽書とされるものとの信仰論の違いなど、テーマは
山ほどあります。

人に聞くのではなく、自分で勉強しましょう。
172名なし:2001/06/05(火) 13:25
歴史批評的解釈と逐語霊感説とではどだい議論なんて無理なのよ。無駄なことはおやめなさい。所詮水掛け論なんだから。
17321Cの本家:2001/06/06(水) 00:15
まだまだ出てこない明確な「根拠」

ご自分で本をお読み下さい?
難しい何十冊もの本が読める人だけが理解できる、そんな教義ではないでしょう。
これだけ主流を自認しているほどですから。キリスト教は一部のインテリだけに
理解される、そんなもんじゃないでしょう。
174名無しさん@1周年:2001/06/06(水) 00:42
>>170,171

ま、お山の大将ってことで。
痛い目に遭うまでの間だから。
175名無しさん:2001/06/06(水) 01:05
>>171
トマス福音書やQ資料についてはどうお考えですか?
176あずみ:2001/06/06(水) 01:52
「どうお考え」とは、どういう意味でしょうか?

Qは存在しただろうし、トマス福音書の重要性も認めますよ。コプト語の
全文を収録した本も持ってます...
177カタログショッピング:2001/06/06(水) 02:30
なんか聖書の周りをぐるぐる回ってるだけで、聖書の内容にたどり着く
前に息切れするって感じ。
自慢たらしく知識ひけらかして、ちょっとやなかんじ。
しょせん、いいとこのボンボンが趣味でやってるってかんじ?
17821世紀のチンチン・ルター:2001/06/06(水) 22:57
ない!
179卵の名無しさん:2001/06/06(水) 23:08
あずみ様へ、私の立場は以下の通りです。聖書は;
(1)『十全霊感』
  聖書の全部分は同等に神の霊感を受けて記されている
⇒これは、自由主義者たちの言う「部分霊感」すなわち、聖書には霊感を受けた
 箇所と、受けなかった箇所がある、という立場を否定します。もし、この部分霊感
 の立場を認めるなら、「誰が霊感を受けた場所を決定するのか?」という、
 『究極的権威』に関する疑問と、聖書自身の主張と相反する疑惑が残ります。
 神の啓示の書である聖書から、人間の理性と常識(それは誰一人として一致する
 ことがないと思いますが)に反する部分を取り除いたら、後に残るものは
 一体何なのでしょうか?
(2)『逐語霊感』
  神の霊感の程度に関するもので、神の霊感は一語一語の言葉の選択にまで
  及んでいるという立場を採ります。
⇒「思想霊感」すなわち、霊感が及んだのは、聖書記者の思想にだけであって、
 言葉の選択に関しては、誤りを含んでいる可能性があるという立場を否定します。
 誤り無き神が誤り無き真理を、誤りのある人々の言葉で伝達されたとは
 考えられません。
(3)『動力霊感』
  聖書記者達が、聖霊の特別な助けを与えられて聖書を記録する時、彼らの
 個人的な性格や活動と少しも抵触しなかった事を意味します。イザヤはイザヤ
 らしく、パウロはパウロらしく記しました。
⇒「自然霊感」「天才霊感」すなわち宗教的な天才がひらめきを感じて記した
 という考えを否定します。
⇒また、聖書の一言一句が、記者の人格や個性とは関係なく、機械的に、ちょうど
 ワープロとして記者が使われたという「機械霊感」を否定します。
神様の摂理の御手の中で、上記の如く記されたと考えております。
180福音自由教会の一会員:2001/06/06(水) 23:48
卵の名無しさん へ
「誤り無き神が誤り無き真理を、誤りのある人々の言葉で伝達されたとは考えられ
ません。」

私もほとんど貴方と同様の見解ですが、上記の部分がひっかかります。
イエスが神であり、かつ人であられたと同様、聖書は神のことばであり、かつ人の
ことばである、というべきではないかと思います。
これは、霊感というはたらきは、神の聖霊のご性質に属していて、それがイエスのご
性質と対をなしていると考えるからです。
いかがでしょうか。
181福音自由教会の一会員:2001/06/06(水) 23:54
舌足らず
「誤り無き神が誤り無き真理を、あえて誤りのある人々を用いながらも、ご聖霊の
全き御手によって完全に伝達された」と考えます。
182卵の名無しさん:2001/06/07(木) 05:06
>>181
舌足らずでスイマセン。私もEFCの一会員です。
(2)『逐語霊感』
  神の霊感の程度に関するもので、神の霊感は一語一語の言葉の選択にまで
  及んでいるという立場を採ります。
⇒「思想霊感」すなわち、霊感が及んだのは、聖書記者の思想にだけであって、
 言葉の選択に関しては、誤りを含んでいる可能性があるという立場を否定します。
 誤り無き神が誤り無き真理を、神の霊感によって一語一語の言葉の選択が
 誤謬から守られたのだと思います。

>イエスが神であり、かつ人であられたと同様、聖書は神のことばであり、
>かつ人の ことばである、というべきではないかと思います。
これを動力霊感すなわち、個人的な性格や活動と少しも抵触しなかった事を
意味します。イザヤはイザヤらしく、パウロはパウロらしく記しました。
説明が舌足らずで誤解を与えたことをお詫び致します。
183福音自由教会の一会員:2001/06/07(木) 06:09
早々のお返事、有難うございました。
184あずみ:2001/06/07(木) 07:28
旧新約聖書は「イエスキリストを証しする」文書です。 証言集ということ
ですよ。人が「神はこう語られた」と書き残した「証言集」ですよ。

そして、どの証言を聖書として残すかを決めたのはのちの教会です。聖書も
また誤り多い人間の手によって書かれ、選ばれたものである以上、そこに
矛盾も誤りがないなどということはあり得ません。もしそんなことを主張する
とすれば、それは聖書を聖書を神のかわりにしてしまうことであり、
「偶像礼拝」と呼ばれなければならないでしょう。
185184 そうだろうか:2001/06/07(木) 23:22
少なくとも、こう告白する(宣言する)教会、教団の会員にはなれない。

我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、
教会の拠るべき唯一の聖典なり。去れば聖書は聖霊によりて、神につき、救い
につきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規
範なり。主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せられる唯
一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。
186あずみ:2001/06/07(木) 23:25
私、そこの教会員です....
             (^^;;;
187184 そうだろうか:2001/06/07(木) 23:25
こう告白する(宣言する)教会、教団は「偶像礼拝」なのか?

我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、
教会の拠るべき唯一の聖典なり。去れば聖書は聖霊によりて、神につき、救い
につきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規
範なり。主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せられる唯
一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。
188あずみ:2001/06/07(木) 23:40
 御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび
己を全き犠牲として神に捧げ、我らの贖ひとなりたまえり。
 神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我ら
の罪を赦して義としたまふ。この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我ら
を潔めて義の実を結ばしめ、その御業を成就したまふ。
 教会は主キリストの体にして、恵みによりて召されたる者の集ひなり。
教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐
との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたもうを
待ち望む。
 我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す。

 (以下、使徒信条)
189あずみ:2001/06/07(木) 23:43
教団の信仰告白は「告白」であって、「宣言」ではありません。
190184 どう整合する?:2001/06/07(木) 23:43
我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、
教会の拠るべき唯一の聖典なり。去れば聖書は聖霊によりて、神につき、救い
につきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規
範なり。主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せられる唯
一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。

旧新約聖書は「イエスキリストを証しする」文書です。 証言集ということ
ですよ。人が「神はこう語られた」と書き残した「証言集」ですよ。
191あずみ:2001/06/07(木) 23:45
信仰告白引っ張り出してきて、それを「踏み絵」に使おうとする
あんたは一体何様のつもり?
192あずみ:2001/06/07(木) 23:47
「キリストを証し」という個所は、その通り「証言」ということ
でしょう。

何いってんの、この人。
193184 いったいどっち?:2001/06/07(木) 23:48
我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、
教会の拠るべき唯一の聖典なり。去れば聖書は聖霊によりて、神につき、救い
につきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規
範なり。主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せられる唯
一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。

旧新約聖書は「イエスキリストを証しする」文書です。 証言集ということ
ですよ。人が「神はこう語られた」と書き残した「証言集」ですよ。
194あずみ:2001/06/07(木) 23:49
あんた、教団の信仰職制委員会の回し者かい?
195184 いったいどっち?:2001/06/07(木) 23:50
「神の言にして」が見えてます?
見ないことにしてるのかなあ?
196あずみ:2001/06/07(木) 23:51
教団は合同教会だから、信仰告白は幅を持って理解できるように
作ってあるの。あんたの個人的解釈を押しつけるんじゃないよ。
197Good(*^-')b:2001/06/07(木) 23:52
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198184 いったいどっち?:2001/06/07(木) 23:53
どうもご都合が悪いようですね。
199184 いったいどっち?:2001/06/07(木) 23:56
私は何も見解は言ってません。
貴方の見解
ある教団の見解
並べて尋ねてるだけよ。
200あずみ:2001/06/07(木) 23:57
「神の言」だからって、均質にモノトーンに「神の言」とまでは
書かれていないでしょ。「信仰と生活との誤りなき規範」とは書
いてあるけど、「歴史的にも科学的にも無謬」とまでは書いてな
いでしょ。「遂語霊感された」とも書いてないでしょ。
教団はそこまでゴリゴリではないということです。
201184 いったいどっち?:2001/06/07(木) 23:58
「信仰告白は幅を持って理解できるように作ってあるの。」
そう最低限の一致点だけを載せてるよね。
202184 いったいどっち?:2001/06/08(金) 00:01
「神の言」だからって、均質にモノトーンに「神の言」とまでは
書かれていないでしょ。「信仰と生活との誤りなき規範」とは書
いてあるけど、「歴史的にも科学的にも無謬」とまでは書いてな
いでしょ。「遂語霊感された」とも書いてないでしょ。
教団はそこまでゴリゴリではないということです。

私は何も見解述べてないよ。
何を躍起になって言ってんの?
203あずみ:2001/06/08(金) 00:02
じゃ、あなたは「(旧新約聖書は)キリストを証し」の個所も
認めるわけですね。「旧新約聖書は証言集」だということを...
204184 いったいどっち?:2001/06/08(金) 00:02
「神の言」と書かれている。
205184 いったいどっち?:2001/06/08(金) 00:03
答えになっていない。
206横槍:2001/06/08(金) 00:06
フライドチキンは「揚げかしわ」にちがいないが・・・・
207横槍:2001/06/08(金) 00:09
「揚げかしわ」と言って売らせていただきましょうか・・・・・
208もん:2001/06/08(金) 00:11
だいたい、あっちこっちで「神の言葉」を聞いたとか聖書が「神の
言葉」だといっているけど、みんなうそっぱちだよ。もしくは、
低級な霊が「自分は神なり」としゃべってるのを耳元で聞いて
本に出している。特に「神との対話」なんて本は、ナンセンス
きわまりない。本当の神と呼べる高次元の神霊は
おしゃべりじゃないし、しゃべったとしても、短く思慮深い言葉で
伝えられるのです。また人間世界には、ほとんどといっていいほど
関心を示さない神ばっかりです
209あずみ:2001/06/08(金) 00:14
えらそうなことを言わないで下さい。
教団の信仰告白は「賛美告白」であって、「律法的拘束性」を持たない
のです。律法的拘束性を持つ告白は福音的教会の信仰告白からはほど
遠いのです。福音的教会における信仰告白の拘束性は、自発的に告白
された福音が、告白せる教会を拘束するだけです。
210たすけて〜〜:2001/06/08(金) 00:16
みなさ〜ん!
これどう整合するの?
おしえて!!!! 教えてくださ〜い!!!!

我らは信じかつ告白す。
旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、
教会の拠るべき唯一の聖典なり。去れば聖書は聖霊によりて、神につき、救い
につきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規
範なり。主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せられる唯
一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。

旧新約聖書は「イエスキリストを証しする」文書です。 証言集ということ
ですよ。人が「神はこう語られた」と書き残した「証言集」ですよ。
211本当ですか?:2001/06/08(金) 00:19
この団体ではそういう公的な「共通理解」「取り決め」があるらしい。

教団の信仰告白は「賛美告白」であって、「律法的拘束性」を持たない
のです。律法的拘束性を持つ告白は福音的教会の信仰告白からはほど
遠いのです。福音的教会における信仰告白の拘束性は、自発的に告白
された福音が、告白せる教会を拘束するだけです。

212あずみ:2001/06/08(金) 00:27
そんなことも知らないで騒いでいたんですか、あなたは。
詳しいことは「基督教新報」(1951年3月24日号)を
ご参照下さい。
213裕也:2001/06/08(金) 00:37
信仰告白は、教会史的に見るなら、201さんの言うとおり「信仰の一致点」であり
異なる教え、すなわち異端との区別を明確にしたものです。したがって、あずみさん
の言うとおり「合同教会」なら、その教団の信仰告白は、当然合同できる一致点を示
したもので、告白しない教会は合同することはできません。
214つまり:2001/06/08(金) 00:43
これに賛同する人は一緒にやりましょう、ってことですか。
215あずみ:2001/06/08(金) 00:55
ところが教団は成立の経緯もあって、信仰告白は教団成立のかなり
あとに作られたので、「賛美告白」というかたちを取らざるを得な
かったということです。
216つまり:2001/06/08(金) 01:01
どの時点?戦前?戦後?
217あずみ:2001/06/08(金) 01:02
教団内部には多くの旧教派の流れがあり、信仰理解にも相当の差異が
あったという事情もあったようです。もちろん、いまでも旧組合、旧
メソ、長老という3つの大きな流れがあり、いろいろな面で張り合っ
たり、いがみ合ったり、競い合ったりしています。
218あずみ:2001/06/08(金) 01:03
あなた、教団の歴史も知らないわけ?

あほらし....
219あずみ:2001/06/08(金) 01:08
「日本基督教団史資料集(1-4)」(日本基督教団出版局)をご一読される
ことをおすすめします。1冊7000円です。4巻で28,000円+税....
220裕也:2001/06/08(金) 01:08
それはおかしいですね。教会史を学んだ方たちが信仰告白と称するものを制定した以上、
それは、新教団のスタートですよ。面従腹背状態の人たちが「賛美」というふうに自己流
に解釈しているだけで、国際的な見解として「賛美告白」も「告白」にかわりはないので
す。
221まあつまり:2001/06/08(金) 01:17
ある教団では、心にもない「神のことばにして」という「告白」を以て、神を
「賛美」する者もいるわけだ。

口先だけの「告白」や「賛美」を神はお受けになるんだろうか?

222あずみ:2001/06/08(金) 01:19
それはあなたのご意見にすぎません。教団成立は1941年6月24日であり、
信仰告白は1954年10月26日に制定されたものです。教団の信仰告白が
「賛美告白」だというのも、前にあげた基督教新報に明確に記してある
ことで、自己流解釈ではありません。
223あずみさんへ:2001/06/08(金) 01:22
「基督教新報」(1951年3月24日号)
日本基督教団史資料集(1-4)」(日本基督教団出版局)

本当にさっきのような解説でいいんですか。
あなた、変な読み方してません?
224あずみ:2001/06/08(金) 01:28
してないつもりだけど....
225あずみさんへ:2001/06/08(金) 01:34
少なくとも、さっきの「信仰告白」中の「神のことばにして」の箇所
については、黙殺したまま読んでるって思われてますよ。「変な読み
方してない」って言っても、彼女(彼?)には説得力無いんじゃない
かなあ。
226あずみ:2001/06/08(金) 01:35
どこの誰だか知らないけど、教団の信仰告白を自分の信仰理解に
引き寄せて理解して、異なる信仰理解の人を攻撃するための材料
に使っているようです。このようなかたくなな心が一日も早く神様
の恵みによって砕かれますように。主のみ名によって祈ります。
                        アーメン。
227名無しさん :2001/06/08(金) 01:41
あなた、教団の歴史も知らないわけ? あほらし....

こんなことは言わないほうがいいと思います。
あなたの値打ちが下がります。
228あずみさんへ:2001/06/08(金) 01:50
あなたがなぜ攻撃されてるなんて思う必要があるんですか?
異なる信仰理解の人にちゃんと答えてあげればいいんですよ。
まだお若いのではないかと推察させてもらいますが、このさき
同じような人に出会うことも多いはず。
腹立ち紛れに「アーメン」なんてやってはいけないと思いますよ。
老婆心より。
229さぶ:2001/06/08(金) 20:39
あずみ
柳家地下水
この両名と議論して何か為になった人いる?
230タンパク質は23種のアミノ酸から:2001/06/09(土) 03:13
神さんて言ってることが、最初と最後の方と違うじゃん。
人を殺していいのか、悪いのかはっきりさせてよ。
231緋色の女:2001/06/09(土) 03:23
地下水 なつかしいね〜
今ごろどこでなにしてんだろ
232名無しさん@1周年:2001/06/09(土) 05:53
あげ
233りょうすけ:2001/06/09(土) 23:59
まだ 根拠を示したものは出ていません。何とか根拠お願いします。

何を根拠に、聖書が神のことば「になる」というのですか。
何か「神秘主義」じみていてるにもかかわらず、「これこ
そがキリスト教です」と言われると、とてもじゃないけど
滑稽で、冷めてしまうのです。
はっきりとした「よりどころ」を教えて頂きたいのですが。
234名無しさん@1周年:2001/06/10(日) 03:38
一生やってろ。
あ〜アホくさ。
235ue:2001/06/10(日) 23:34
ue
236奈菜死:2001/06/11(月) 08:41
日本基督教団は滅び行くのみ。せいぜいやりあいなさい。
237奈菜死:2001/06/11(月) 08:44
聖書は神の言葉を含む。これでよろしい。
238名無しさん@1周年:2001/06/11(月) 09:11
>>237

 人が創り出した神の言葉を、ね。
239あしむろ:2001/06/11(月) 13:49
聖書の根拠を疑ってはいけません。それは神霊冒涜です。あなた方には
救いは訪れないでしょう。しかし、私は救われています。今もそれを
失わないために必死に祈っています。あなた方も悔い改めれば
救われるかもしれません。さあ、祈りましょう。この偽善者の
多い世界で信仰することこそが、試練なのです。聖書を信じ、
神を信じなさい。
240:2001/06/11(月) 20:57
聖書は、人間が思いつきで書いた文学であり、
神の言葉だなんて何千年も誤解しているのは
どうかなあ
でも、人類最高のベストセラーだよね
241:2001/06/11(月) 21:11
>>239 キリスト教の、いけないところは信仰することが試練だと。
うそ教えてるのがいけないね。
苦難を超えて正しくを生き抜くことこそ、試練なのに
本来神の子である人間は、神とは近くにあって
いつも思っていることが大切なのに、最初に聖書ありきで
神を遠ざけてしまっているのに機が付いてない
242241:2001/06/12(火) 04:45
意味不明
〜なのに の使い方 むちゃくちゃ
243キティ発見:2001/06/12(火) 16:15
>>241
 日本語が不自由です。ほぼ言いたいことはわかりますが、もう少し、
 文章に推敲を重ねましょう。
244名無しさん@1周年:2001/06/12(火) 17:32
在日韓国人なんじゃない?
245244:2001/06/12(火) 18:26
論外 むちゃくちゃ
246名無しさん@1周年:2001/06/12(火) 19:13
>まだお若いのではないかと推察させてもらいますが、このさき

若くねーよ、28歳。
あずみのような、キチガイ高飛車勘違い女が祈ったって意味ねー。
こいつのこの性根の悪さ丸出しのレスを見てると吐き気がするわ。
247あずみ:2001/06/12(火) 21:09
28じゃねーよ、このばか。死んだら?
248名無しさん@1周年:2001/06/12(火) 21:31
>>245
名前欄に相手のレス番いれるな むちゃくちゃ(ワラ
他人を騙るつもりかゴルァ

スレッド内リンクの張り方くらい勉強して出直して来い
どーせヤフーあたりからの流れモンだろが
249奈菜死:2001/06/12(火) 22:17
あずみさん誰かにうらまれてんの?平気?
250名無しさん@1周年:2001/06/12(火) 22:18
>>249
別に恨んでないけど、あちこちのスレでやつのレスをみて不愉快にさせられた者だ。
251奈菜死:2001/06/12(火) 22:20
中傷じゃなくて批判をしなさいな。
252名無しさん@1周年:2001/06/12(火) 22:25
あちこちで中傷してるのはあずみの方だろ。
相手がまともに議論してるのに「意味不明」とか「だまれ」とかさ。
そりゃ恨みも買うわ。
253あしむろ@イヒィ:2001/06/13(水) 16:17
>>all
 誹謗中傷しかできないあずみは無視でお願いします。このスレが削除
 されかねませんから。
254奈菜死:2001/06/13(水) 20:49
あずみさんあなたは賢い。しかしその賢さがあなたの信仰のつまずきにならないように気をつけなさい。
255名無しさん:2001/06/13(水) 21:30
>>247
>このばか。死んだら?は無いでしょう。いくらなんでも。
↑あずみさん、既につまづいてるトコロが哀しい。
256りょうすけ:2001/06/13(水) 23:32
もう一度問う!

「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ!!」

という証言をぜひ述べてください。
257りょうすけ:2001/06/13(水) 23:34
スレッドのテーマとずれてきていたからね。
258名無しさん@1周年:2001/06/13(水) 23:45
>>256-257
うざい!黙れ!2ちゃんねるから去れ!
ほんっっっっっっっっと〜〜〜〜に!粘着だなオマエ。
頼むから死んでくれ。
二度と戻ってくんな!
259名無しさん@1周年:2001/06/13(水) 23:47
    ∧. ╋   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    / †|、┃ < クソスレを立てる奴は死刑!!
   |`ー┐∂  \_____________
    |::.ヽ丿┃      ..  | |   || | ..
    |:   | |┃ ..ハニャーン・・・.| | ≠|| | .. .
   ノ::::...ノ |┃     ∧∧ |二二|| | ..  ..
 ̄´ ̄ ̄` ̄ ̄ ̄\ (゚Д゚ )| | Θ || |\⌒ つ  ←りょうすけ
             ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
対クソスレ用キャラクター、「邪教徒君」

260名無しさん@1周年:2001/06/13(水) 23:49
>>257
> スレッドのテーマとずれてきていたからね。

アホか!
ずれたんじゃねえよ!
オマエが建てたクソスレを廃物利用して有効活用しようとしてんだ。
邪魔すんな!
261名無しさん@1周年:2001/06/13(水) 23:52

   _______________
   |
   |     さ っ さ と き え ろ ハ ゲ
.  Λ Λ  /
  (,,゚Д゚)⊃
〜/U /
. U U  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

262名無しさん@1周年:2001/06/13(水) 23:55
    ------------- 、
   /  ̄ ̄ ̄.// ̄ ̄|| |
  /    .∧// ∧ ∧.|| |   りょうすけ
[/_________.(゚//[ ](゚Д゚ )|| |     ↓
.||_    ___|_| ̄ ̄ ∪.|.| |______( `Д)   うわーーーん!
.lO|--- |O゜.|___ |.|_|ニニニニニニl.|
|_∈口∋ ̄_l______l⌒ l.|_____| l⌒l_||
  ̄ ̄`--' ̄ ̄ `ー' ̄ ̄`--'  `ー'
りょうすけを不法投棄してきまーす。
263りょうすけ:2001/06/14(木) 20:34
もう一度問う!

「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ!!」

という証言をぜひ述べてください。
264やっぱりにせ教師:2001/06/14(木) 21:07
Kバルトは、教会論や宣教論については、自論を聖書に基づいて説明しようと
しているのに、いざ聖書論については聖書自身を論拠にしようとはしない。
そこにバルトの「破れ」があることは、みーんな気付いているにもかかわらず、
「だんまり」を決め込んでいるのが「卑怯」・・・「東京神学大学」出身者た
ちは、そこらへんについては、なぜ誰も何もいわないのだろうか。
謎です。
どなたか「バルトが何を根拠に『神のことばになる』と結論づけたのか」をご
存じのかたはないだろうか。
265やっぱりにせ教師:2001/06/14(木) 21:15
宿題のまんま

「聖書はすべて神の霊感によって」と聖書記者が書いた、まさ
にそのとき、このことばは「神のことばになっ」てい・・・・?
これは聖書に関する一定の見解を聖書記者が述べている箇所です。
それと異なる見解が出てきて、「おい聖書さんよ、俺のほうが妥当だ」
と聖書に譲歩を迫るようになった。
ある人に対して神は「神のことばです」、もう片方に対しては「神のこと
ばではない」と言われるのでしょうか?

そんなにころころ「神のことば」になったり、そうでなく
なったりするんでしょうか。
こんな内容は、聖書の結集(けつじゅう)のときには、議論するま
でもなく、当然のこととして「全員異議なし」でパスした、と
しか考えられないのですが。いかがですか。
266あずみ:2001/06/14(木) 22:22
まずは新約聖書の正典結集までの歴史を勉強しなさい。話はそれからです。
267前提:2001/06/14(木) 22:28
「聖書はすべて神の霊感によって」と聖書記者が書いた、まさ
にそのとき、このことばは「神のことばになっ」てい・・・・?
これは聖書に関する一定の見解を聖書記者が述べている箇所です。

その後
それと異なる見解が出てきて、「おい聖書さんよ、俺のほうが妥当だ」
と聖書に譲歩を迫るようになった。
ある人に対して神は「神のことばです」、もう片方に対しては「神のこと
ばではない」と言われるのでしょうか?
268前提:2001/06/14(木) 22:32
ここはさておき

というわけですね。
つねに眉につばをつけてから、そののち聖書を読む。
必ず、予断を準備してから、そののち聖書を読む。

で、
「聖書はすべて神の霊感によって」と聖書記者が書いた、まさ
にそのとき、このことばは「神のことばになっ」てい・・・・?
269名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 00:47
>りょうすけ

                Λ_Λ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                ( ・∀・)< 勉強のジャマだから静かにしてくれる?
             _φ___⊂)__ \_______________
           /旦/三/ /|
        | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  |
        |熊本みかん|/
270りょうすけ@キチガイ:2001/06/15(金) 00:51
。  。゚ 。。。 。゚.。 カユイ カユイ
   彡川川川三三三ミ〜。プゥ〜ン
 。 川|川/゚∴゚\ b〜 プゥ〜ン
 。‖|‖.゚◎---◎゚|〜 ゚プゥ〜ン   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  川川‖∵∴゚。3∵゚ヽ〜。゚ 。 。 < ズーバーーーー!神の言葉になると
  川川∴゚∵∴)д(∴)〜゚ 〆⌒\。 \  証言しろー! ハアハア…!
 。川川∵∴゚∵o〜・%〜。 (c人゚∴3    \_____________
  川川‖o∴゚〜∵。/。  ゚|゜#。゚。゚b。カユイ カユイ
 川川川川∴∵∴‰U   d゚。o∵。|゚ プゥ〜ン
 U 〆∵゚‥。 ゚o゚ o\_ 。(・∀・。)プゥ〜ン
。 /  \゚。∵@゚∴o∴つ (c‥∵゚)゚
 o |∴\ '''''゚''''''''''''つ U  d;∵|:∴|゚。
  %。゚。。‰∴。∵゚∴o゚  o (::c(∴゚)。o。。
 |o∵o。。| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
271名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 00:53
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272名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 00:55
優良スレ           普通            クソスレ
 ┝━━━━━━━━━━┿━━━━━━━━━━┥
                        88彡ミ8。   /)
                       8ノ/ノ^^ヾ8。( i )))
                        |(| ∩ ∩|| / /   <ココ!
                       从ゝ__▽_.从 /
                        /||_、_|| /
                       / (___)
                      \(ミl_,_(
                        /.  _ \
                      /_ /  \ _.〉
                    / /   / /
                    (二/     (二)
273名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 00:58
          ∧_∧____   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ___  (´∀` ,) //| < [問題] りょうすけの正体は?
    <──<\⊂ へ ∩)//|||   \__________________
    \.  \,>'(_)i'''i~~,,,,/
──┐  ̄|| ̄(_) ̄~||~ ̄
    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
━━< 問題:   りょうすけの正体は?                                   >━━
    \___________________________________/
    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
━━< A: ヒッキー                     B:ドキュソフリーター              >━━
     \________________/  \________________/
    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
━━< C:中卒塗装工                   D:リアル厨房                  >━━
    \________________/  \________________/
274名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 02:00
本当はストレートに

    (A)  聖書は神のことばである。

と主張したいが、確かにこれは根拠が無い。

    (B) (聖書が神のことばである)と信じているから(聖書は神のことばである)になる。

と言い回しを複雑にしてみた。


なぜ、この命題(B)が正しいのかと食いついてきたら、トートロジーだからと答えることにしよう。


なぜなら、トートロジーであれば、

    命題(A)=(聖書は神のことばである)が真でも偽でも、命題(B)は必ず成立する

ので、命題(B)の正しさは保証されるからだ。


だから、ちょっと余裕だして、

    「聖書は神のことばではないが」を、命題(B)に付け加えたり

してみたのが、

    『聖書は神のことばではないが、信じると神のことばになる』

である。
275名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 02:02
というか、命題(A)をあくまでも追求すべきだ。
仮に命題(B)に独自の真理が含まれているとしても、
もっと単純な形になるのではないかと直感する。

命題(A)を差し置いて、なぜ命題(B)を議論する必要があるのだろう。
こちらのほうが不思議だ。
ぜひ説明して欲しい > りょうすけ & キリスト教徒の方々
276ふふふ:2001/06/15(金) 02:09
「本当はストレートに  聖書は神のことばである。 と主張したいが、確かに
これは根拠が無い。」

聖書をよーく読んでいたなら「確かにこれは根拠が無い。」とはならないはずだが。
277名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 02:30
> しているのに、いざ聖書論については聖書自身を論拠にしようとはしない。
> そこにバルトの「破れ」があることは、みーんな気付いているにもかかわらず、

> 「本当はストレートに  聖書は神のことばである。 と主張したいが、確かに
> これは根拠が無い。」


自分が正しいという根拠に、自分自身はなりえない。
唯一神を除いては。
それは聖書も例外ではないはずだ。

知的誠実であれば、聖書論の根拠に聖書を持ち出すことは出来ない。

これを否定するキリスト教神学は、20世紀に戻って超数学を勉強しなさい。
話はそれからです。
(あずみのまね)
278Bを議論する必要:2001/06/15(金) 02:34
Bが、いわゆる歴史的に繰り返される「グノーシス(仮現論)」という異端の1形態
だ、ということを明らかにしたいからです。
「歴史的事実かどうかは問題にしない。要は信じることである。」というBの思想は
神秘主義の新興宗教であって、人間の思想の産物、まさに偶像崇拝に他ならないので
す。
「神のことばになる」という説は、残念ながら非常な勢いで日本のキリスト教会に入
り込んできていますが、その説の積極的かつ具体的な根拠を、現在までに示したレス
はまだ皆無です。そのことこそが Bがただ教条的に受け入れられた狂信であること
を端的に表しているのです。
279277の過誤:2001/06/15(金) 02:50
聖書に拠れば
「知的誠実」の「誠実」は罪によって曇ってしまっている。
すなわち
「人間は神の啓示と言われるものに頼らずして、神の啓示の何たるかを裁断すべき
である」
というのが「知的誠実」を貫くものになってしまう。
一方聖書は
「人間は神の啓示に拠ってのみ、知性の回復が図られ、神の啓示の何たるかを知り
うるようになる」
ということを示している。

「智恵の第一歩は神を畏れることである」(神を畏れかしこむことからやっと智恵
が始まる)(聖書 箴言)
280277の過誤:2001/06/15(金) 03:16
自分が正しいという根拠に、自分自身はなりえない。
唯一神を除いては。
それは聖書も例外ではないはずだ。

「聖書が神のことばではない」という前提からスタートしている。
つまりスタート地点ですでに、これから吟味しようとしている命題の結論を下して
いる。
これは統一原理のビデオ講義と同じ手法である。
281名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 03:25
お答えくださり有難う御座います。

>>278
つまり、結論としてではなく前提として
(A)「聖書は神のことばである」
を信じる方が正しいキリスト教信仰であるということですか?

私も(B)は無意味と思うので、意見が一致したのはうれしいのですが、
でもでも、(B)が異端だとすると、バルトも異端なのですか?
私が持っている現代哲学入門(ワラ)のテキストに、唯一登場するキリスト教哲学者なのに?!


>>279
難しいです。これから少々考えます。

> 「智恵の第一歩は神を畏れることである」
> (神を畏れかしこむことからやっと智恵が始まる)
> (聖書 箴言)

端的にいって、
  神は完璧すぎる、でも聖書は神ではないので不完全である
ではだめですか?
282名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 03:31
もしかして、「神のことば」の定義が違う?

神のことば=神そのもの

なのでしょうか?

だったら、私はギブアップです。
どう考えたらよいのか分からないです。
283名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 03:51
聖書≠神のことば=神そのもの
聖書=神のことば≠神そのもの

はありえても、

聖書=神のことば=神そのもの

はどうでしょうか?

だって

聖書=神そのもの

になっちゃうよ。
284名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 03:53
神のことば=神そのもの
ヨハネによる福音書には
そのように書いてありますが。
285神のことば:2001/06/15(金) 04:13
「人はパンのみに拠りて生くるにあらず。神の口より出づる一つ一つのことばによる。」

神のことば=神そのもの  ではありません。(聖書によると)
日本のほとんどの教会は「聖書は神のことばで・・・」と公言しています。
一方、復活や奇跡が信じられない、常識はずれだ、と自分の頭の大きさに聖書を切り抜い
て突っ込もうとする人々は、なんとか合理的な解釈はできないかと、浅知恵を搾りますが
合理化の拠って立つところがないため、神秘主義に傾斜するわけです。
286キティ発見:2001/06/15(金) 11:50
 カントの三大批判書を読んで認識や知覚について学んでください。
287名無しさん:2001/06/15(金) 13:59
>>284
ヨハネにおける「神の言葉」は「ことば」とは訳されているもののロゴスのこと。
同じに、理法や秩序・論理等をも含む。
これと、「聖書は神のことば」というときの「言葉」=言語表現・命題・メッセージ
等とは別個の意味を持つでしょう。
288>286:2001/06/15(金) 22:47
なぜカントが出てくる?
289あずみ:2001/06/15(金) 23:00
純粋理性批判、実践理性批判、もうひとつは何?

上の二つは高校生の時、読んだんですが。 

勉強不足だ....
290名無しさん:2001/06/15(金) 23:04
聖書の言葉を幼子のように信じようとしない時点で
あなた達はすでに心が汚れています。
291名無しさん@1周年:2001/06/15(金) 23:07
カント先生の道徳律があれば、迷信に満ちた宗教など不要!
292あずみ:2001/06/15(金) 23:10
幼子の我に来たるをとどむな
天なる御国は子等のものぞ...
293オルカ:2001/06/16(土) 00:53
あずみっていろんなところにいるよね〜。藁
294名無しさん@1周年:2001/06/16(土) 00:57
>>293
オマエモナー
295I love ypu:2001/06/16(土) 01:31
296キティ発見:2001/06/16(土) 08:48
>>288
 奇跡のような合理的解釈のできない領域に関してカントが何と
 言っているかを示す為に三大批判書を挙げたのです。安易に
 合理主義から神秘主義に傾かないための方策にも一読の価値ありです。
297(*^。^*)/こんにちは:2001/06/17(日) 01:32
聖書が神の言葉だという根拠は示せないと思うよ。
だって聖書が神の言葉であることをこの世の理屈や物理法則などで証明できたとしたら、神様はこの世に属している存在になってしまうし、証明した人間の頭の中に入る人間以下の存在に過ぎないということになってしまいます。
こっちのページでもうちょっと語ってます。よろしくね。
http://page.freett.com/wubf/top.htm
298早合点ですよ:2001/06/17(日) 05:34
「聖書が神の言葉だという根拠」を問題にしているのではありません。
「〜になる根拠」を語って欲しいのです。
ハイ!
299名無しさん@1周年:2001/06/17(日) 06:44
死ね。
300:2001/06/17(日) 06:59
301リベラル:2001/06/17(日) 09:12
266 名前:あずみ 投稿日:2001/06/14(木) 22:22
まずは新約聖書の正典結集までの歴史を勉強しなさい。話はそれからです。

あずみ よ お前の勉強不足はこの文章からもわかる。
上記の勉強した者が同じ結論に達するか?
自分と同じ結論を出す者だけを「勉強している」なんて
思うな。
いろんな立場のものだって お前程度の勉強はしているのさ。
もうちょっと 謙虚になれや。
302キティ発見:2001/06/17(日) 15:31
>あずみ
 オマエと同じ考え方をするのがいると思うのは傲慢な考え方だ。
 人はそれぞれ顔が違うように考え方も異なることを理解しろ。
 自分の意に沿わない考えが出てきたからといって、「勉強しなさい」
 ということはないだろう。
  議論や勉強以前に君は、寛容というものを知りなさい。
303あずみ:2001/06/17(日) 15:48
>聖書の結集(けつじゅう)のときには、議論するまでもなく、
>当然のこととして「全員異議なし」でパスした、としか考え
>られない

とあったので、実際には正典結集までは相当の時間と紆余曲折が
必要であったことを理解していただきたかっただけです。それには
多少本を読んで勉強していただく必要があるということです。
304キティ発見:2001/06/17(日) 21:04
>あずみ
 何を言ってるんだ?日本語わかってます?
305考える名無しさん:2001/06/17(日) 22:12
>>304
私はあずみ女史を嫌いだが、303における彼女の発言は容易に理解可能だ、と思います。

あずみさん、三大批判の残りは『判断力批判』です。
306あずみ:2001/06/17(日) 22:16
ありがとうございます。
307あずみ:2001/06/17(日) 22:17
今度、読んでみますね。
308叫び:2001/06/17(日) 22:21
あずみ の 知ったかぶり、不遜、傲慢を
我慢しテヤって下さい。

他じゃ、相手にされないのです。

ただ、彼女が何か言うと、彼女の話よりも
彼女のたいした知識でもないのにしったかぶり
している鼻持ちならぬ態度に苛立ちと怒りを
感じる人が出てくるのです。

せっかく、他の人がいい話をしても
彼女の登場によっていつも議論が
他の方にそれていくのです。

彼女はそれが自分の未熟さゆえに、
と反省してくれるようになれば
いいのですが。
309会員:2001/06/17(日) 22:30
あずみさんはあづみさん?
それともオルカさん?
310キティ発見:2001/06/17(日) 22:46
>>305
 ジサクジエン逝ってよし。

>>309
 あずみとオルカは別人。ただし、どっちも真面目な議論を攪乱しに
 来る点では変らない。しかも、無自覚にやっているから始末に負えない。
311あずみ:2001/06/17(日) 23:32
「あづみ」はにせもの。
312会員:2001/06/17(日) 23:36
姉妹かと思いました

こまどり姉妹
313宗教改革当時からの「正統主義」の立場:2001/06/18(月) 00:09
宗教改革当時のローマ教会(反宗教改革勢力)
  「聖書をそのまま読むことは危険だ。教会の指導が必要だ。」
エホバの証人
  「聖書をそのまま読むことは危険だ。組織の指導が必要だ。」
モルモン教
  「聖書をそのまま読むことは危険だ。モルモン経に従って読むことが必要だ。」
近代自由主義
  「聖書をそのまま読むことは危険だ。学者の指導が必要だ。」
  「聖書をそのまま読むことは危険だ。聖書批評学が必要だ。」
プロテスタント正統主義(ルター、カルヴァン、ツヴィングリたち)
  「聖書をそのまま読まないことは危険だ。」
  「聖書をそのまま読むことが必要だ。」

314ウィクリフ、フスの立場:2001/06/18(月) 00:19
聖書の言葉は、聖書の言葉によって解釈する。
他の価値体系や他宗教を援用せず、聖書の価値体系の純粋性を保つことが、聖書解釈の前提となる。
315あずみ:2001/06/18(月) 00:32
「聖書をそのまま読む」とは、どういうふうに読むんですか?
316あずみ:2001/06/18(月) 00:37
ルターはユダの手紙を「わらの書簡」と呼んでますが.....
317あずみ:2001/06/18(月) 00:39
ルターは「ヨハネ黙示録」にも価値を見いだしていなかったよう
ですし....
318あずみ:2001/06/18(月) 00:40
それに聖書の範囲さえ、いまだに確定されていないんですけど....
319ユダヤ:2001/06/18(月) 00:41
新約は全てデタラメ。
聖伝と同じくキリスト教徒の幼稚なでっちあげ。
320名無しさん@1周年:2001/06/18(月) 00:47
> 聖書の言葉は、聖書の言葉によって解釈する。

これは論理的に不可能だろう。
聖書といえども、自己矛盾は避けようが無い。
321つまり:2001/06/18(月) 01:09
まわりのうわさを耳にしても、まずその人に会って
実際じかに話を聞くように、予断を交えず、
紳士どうし、淑女どうしのように聖書の内容に耳を傾けることです。
即ち、たとえば次のような予断に縛られないで読まないことです。
 ・ルターはユダの手紙を「わらの書簡」と呼んでますが.....
 ・ルターは「ヨハネ黙示録」にも価値を見いだしていなかったようですし....
 ・聖書の範囲さえ、いまだに確定されていないんですけど...
 ・新約は全てデタラメ。
 ・聖伝と同じくキリスト教徒の幼稚なでっちあげ
 ・聖書といえども、自己矛盾は避けようが無い。
322訂正:2001/06/18(月) 01:11
まちがい「即ち、たとえば次のような予断に縛られないで読まないことです。 」
正しくは「即ち、たとえば次のような予断に縛られないで読むことです。」
323頼む:2001/06/18(月) 01:15
仲人はいらん!
本人どうしにしてくれ!
324名無しさん@1周年:2001/06/18(月) 01:28
この世に自己矛盾しない体系はありません。

だから、
・聖書といえども、自己矛盾は避けようが無い。
は予断にはあたりません。

>>321 こそ予断そのものです。
325違うでしょう:2001/06/18(月) 01:31
「聖書といえども、自己矛盾は避けようが無い」
これは「私はこの前提に立って読んでいきます」という予断です。
326ユダヤ:2001/06/18(月) 01:32
人間が予断無しに何かを理解する事ができるのかね?
できやしないよ。
その「判断力」という物自体が、
判断する者の過去の経験に基づいてるんだから。

読んできた書物、影響を受けた思想、出会ってきた人々、生まれ育った環境などなど。

予断無く物事を判断できるのはアドナイだけだよ。
人間には無理だ。
327意志の問題でしょう:2001/06/18(月) 01:36
「こうしよう」という意志と忍耐の問題でしょう

まわりのうわさを耳にしても、
まずその人に会って
実際じかに話を聞くように、
予断を交えず、
紳士どうし、淑女どうしのように
聖書の内容に耳を傾けることです。
328対人関係では当然のこと:2001/06/18(月) 01:39
まわりのうわさを耳にしても、
まずその人に会って
実際じかに話を聞くように、
予断を交えず、
紳士どうし、淑女どうしのように
その人の話に耳を傾けること
329名無しさん@1周年:2001/06/18(月) 01:41
>>325
もし、自己矛盾しない完璧な体系がどこかに存在すれば、あなたのそれは正しい。
自己矛盾しないものを示せますか?
330カウンセリングの苦手な人:2001/06/18(月) 01:44
カウンセリングの苦手な人

次のような主張を展開する人は、たぶんカウンセリングの苦手な人
つまり、カウンセリングマインドに欠ける人ではないかと推測します。
 ・ルターはユダの手紙を「わらの書簡」と呼んでますが.....
 ・ルターは「ヨハネ黙示録」にも価値を見いだしていなかったようですし....
 ・聖書の範囲さえ、いまだに確定されていないんですけど...
 ・新約は全てデタラメ。
 ・聖伝と同じくキリスト教徒の幼稚なでっちあげ
 ・聖書といえども、自己矛盾は避けようが無い。
331自分を客体化出来ない人:2001/06/18(月) 01:48
自分を客体化できない人

次のような主張を展開する人は、たぶん自分を客体化できない人
つまり、いったん自分のこだわりをさておくことの出来ない人ではないかと推測します。
 ・ルターはユダの手紙を「わらの書簡」と呼んでますが.....
 ・ルターは「ヨハネ黙示録」にも価値を見いだしていなかったようですし....
 ・聖書の範囲さえ、いまだに確定されていないんですけど...
 ・新約は全てデタラメ。
 ・聖伝と同じくキリスト教徒の幼稚なでっちあげ
 ・聖書といえども、自己矛盾は避けようが無い。
332ユダヤ:2001/06/18(月) 01:57
自分の意見を否定されると粘着質に繰り返し攻撃して
他人の意見の正当性を推し量ろうとする努力も出来ない人は
カウンセリングにも向かず、自己の客体化もできない人。
たとえば以下のような人がその典型。(藁
>>330-331
333帰納的に理解しやすく例示したまで:2001/06/18(月) 02:04
「自分の意見を否定されると粘着質に繰り返し攻撃して
 他人の意見の正当性を推し量ろうとする努力も出来ない人は
 カウンセリングにも向かず、自己の客体化もできない人。
 たとえば以下のような人がその典型。(藁 330−331)」

攻撃などしていません。「そのまま読む」ことのポイントをわかっていただくために書きました。
334ユダヤ:2001/06/18(月) 02:06
>>333

>>326で私が言った事をよく読み、その意味を考えた上で発言しなさい。

335帰納的に理解しやすく例示したまで:2001/06/18(月) 02:09
対人関係で「相手を受容しようと努める人」は同様のやり方で、聖書を「そのまま読むこと」が出来ます。
336ご教示かたじけない:2001/06/18(月) 02:12
「私が言った事をよく読み、その意味を考えた上で発言しなさい。」
そのつもりで書いたのでしたが・・・・・・
337ユダヤ:2001/06/18(月) 02:13
君は思想や哲学にかぶれているようだが、
デカンショも所詮は人間の浅知恵に過ぎない。

そもそも、イエスなる少しエキセントリックなユダヤ教のラビが生きた時代から何百年も経った後に、キリスト教なる新興宗教の信者が自分の宗教の権威付けの為に勝手に書いた教典に何の意味があるのかな?
338そんなのあほらしい?:2001/06/18(月) 02:22
書かれたものには、書き手の心がにじみ出す。
良い読み手は、そのにじみ出た書き手の心をつかもうと、努める。
矛盾してる、難解だ、と感じても、なお自分で理解しようと努める。
しかし、他人の批評や予断は、それを阻害する。
だから良い読み手は、他人の批評や予断を聞いていたとしても、それを排そうと努める。
339ユダヤ:2001/06/18(月) 02:25
>>338
新約を『読み物』として読むならばその態度は正解。
その中に『アドナイの言葉』を探そうとし、
自分の宗教の拠って立つ論拠にしようと考えて読めば誤る。
340重ね重ねのご教示、恐縮の極み:2001/06/18(月) 02:30
どうしても予断に縛られたまま

 予断 「イエスなる少しエキセントリックなユダヤ教のラビが生きた時代から何百年も
    経った後に、キリスト教なる新興宗教の信者が自分の宗教の権威付けの為に勝手
    に書いた教典」
341お解り?「そのまま読む」って:2001/06/18(月) 02:39

ここらでいかがでしょう。

わたしが「そのまま読む」と書いた意味、お解りいただけましたでしょうか?
対人関係になぞらえると、ピンとくるのではないでしょうか。
342ユダヤ:2001/06/18(月) 02:46
読み方云々以前に、その素性が問題だと言ったまで。

たとえば『いつでも会える』という感動を呼ぶと話題の絵本がある。
確かに読んで感動するし、素晴らしい絵本だと思う。
だが絵本は所詮絵本だ。

これについて「この読み方が正しい」「いいやその読み方は間違っている」
と論じる事は滑稽ではないのかな?
343簡単明瞭です。:2001/06/18(月) 02:57
書き手の伝えたいことを、十二分に理解する読み方が「正しい読み方」
理解しようと努めることは、その「必要条件」
344さっぱりわからない:2001/06/18(月) 02:59

そもそも「そのまま読める」が不可能で無意味な主張では。

・聖書といえども、自己矛盾は避けようが無い。

を排するのは、キリスト教徒側の立派な予断ではないのか?
345ユダヤ:2001/06/18(月) 03:05
>>343
その『書き手の伝えたい事を十二分に理解する読み方』がおできになるあなた様は、
どうしてその読み方で我々の書き込みを読んでくださらないのかな?

新約を『神の言葉であるかのような予断を持って読んではいけない』と言っているんだよ。

新約はただの読み物として、小説としては面白い。
なんとか自分の新興宗教にハクをつけたいという著者の必死の努力も読み取れる。

わかったかな?
346あくまで予断に縛られたまま:2001/06/18(月) 03:16
その『書き手の伝えたい事を十二分に理解する読み方』がおできになるあなた様は、
どうしてその読み方で我々の書き込みを読んでくださらないのかな? (ユダヤ)

新約は全てデタラメ。
聖伝と同じくキリスト教徒の幼稚なでっちあげ。 (ユダヤ)

新約はただの読み物として、小説としては面白い。
なんとか自分の新興宗教にハクをつけたいという著者の必死の努力も読み取れる。(ユダヤ)

十二分に理解させて頂いてます。「悪意」がにじみ出ています。
347ユダヤ:2001/06/18(月) 03:51
悪意なぞないよ。
事実を述べたまで。
なぜキリスト教などという取るに足りない新興宗教をまともに相手にする必要がある?
悪意と取れたなら、それはあなたの側がユダヤ教にねじくれた憧れを抱いているからだろう。
348キティ発見人:2001/06/18(月) 03:52
人間は物自体を認識する事はできない。カントを読みましょう。
349ユダヤ:2001/06/18(月) 03:54
そう、所詮人間の理解には限界がある。
【予断無き読み方】という言い方自体が矛盾しているんだよ。
350ステファノ:2001/06/18(月) 06:35
業無き信仰これ死んだものなり。御託並べるだけのやつぁ糞だね。
351あずみ:2001/06/18(月) 07:52
「そのまま読む」と言いますが、あなたの読み(理解)が「そのまま」かどうかの
保障はどこにもないのではありませんか。あなたにとっては「そのまま」のつもり
でも、他の人にはその人なりの「そのまま」があるかもしれませんよ。
352名無し:2001/06/18(月) 08:04
解釈を伴わない読み方なんかないね。
そのことに気づいていない連中って、一番始末におえない。
353あずみ:2001/06/18(月) 08:05
 だからこそ、かえって思いっきり主観的に読んだ方がいいのでは
ないでしょうか。そして、その自分の読みが思いっきり主観的である
ことをしっかりと認識しておくことが大切だと思います。

 なぜなら、「真理を掌中にしている」と自称する者には一片の真理
もないからです。かえってみずからの読みが主観的であり、誤謬に満
ちているかもしれないことを知っている者たちにこそ、真理はおぼろげ
ではあっても見えてくるのかもしれないからです。
354あずみ:2001/06/18(月) 08:11
 新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエスが実際に語った
言葉はアラム語です。ご存じのように、翻訳は解釈でもあります。
私たちは福音書の記者によって解釈され、翻訳された文書をイエスに
関する第一次資料としているのだ、ということをよく考えるべきで
しょう。
355ユダヤ:2001/06/18(月) 08:15
>>351
あずみさんや。
その事は>>326でもうすでに書いてる。
わざわざ繰り返さなくてもいいよ。
356凡人:2001/06/18(月) 11:36
347 名前:ユダヤ 投稿日:2001/06/18(月) 03:51
悪意なぞないよ。
事実を述べたまで。
なぜキリスト教などという取るに足りない新興宗教をまともに相手にする必要がある?
悪意と取れたなら、それはあなたの側がユダヤ教にねじくれた憧れを抱いているからだろう。

そうかな?
ユダヤ教徒にだっていろいろあるわな。
キリスト教に対して
偏見に満ちた人もおれば
真面目に相手にする人もいる

パレスチナ問題に対する対応思考、行動が皆同じでないように
キリスト教に対する対応も皆同じじゃないぞ。
357名無し:2001/06/18(月) 13:12
>353
>だからこそ、かえって思いっきり主観的に読んだ方がいいのでは
>ないでしょうか。そして、その自分の読みが思いっきり主観的である
>ことをしっかりと認識しておくことが大切だと思います。
テキストを読むという行為自体が解釈そのものであり、
解釈は少なからずテキストの意図からの逸脱を伴います。
デリダのいう「脱構築」っていうんでしょうか?
聖書もテキストを読むという行為を通して伝えられてきたわけだから、
聖書自体が過去の読み手の解釈の堆積物、悪く言えば、
原テキスト(神の語りかけ)からの逸脱が地層となって堆積しているともいえる。
しかし面白いのは、イエスはケリュグマにおいてよみがえったという場合、
本当なら原テキストからの逸脱であるはずのもの(=ケリュグマ)が、
実は逸脱ではなく、原テキストそのものであるということ。
ブルトマンの実存論的解釈も主観−客観の図式を超えた読み方の
ひとつだけど、そうすると、ブルトマンを尊敬されている?あずみさんの場合は、
思いっきり主観的に読むというのとはちょっと違うのでは?
358キティ発見人:2001/06/18(月) 18:05
100%の主観も100%の客観もありません。だから、思いっきり主観的に
読むということも無理ではないかと思います。

>>357
 デリダをしっかり勉強してきてください。用語だけ拝借してこない
 ように。
359あくまで予断に縛られずに:2001/06/18(月) 23:25
「まわりのうわさを耳にしても、
 まずその人に会って
 実際じかに話を聞くように、
 予断を交えず、
 紳士どうし、淑女どうしのように
 その人の話に耳を傾けること」

360あずみ:2001/06/18(月) 23:33
「眼光鋭く」「猫の毛を逆なでするように」聖書を読むというのも、
おもしろいと思うのですが....
361あくまで予断に縛られずに:2001/06/18(月) 23:33
主観、客観とかいう難しい言葉の枠にあてはめようとするから、話はやや
こしくなる。「真理を掌中にしている」と自称する者は、あくまでも次の
ような「予断」を準備した上で聖書を読ませようとしている。

   だからこそ、かえって思いっきり主観的に読んだ方がいいのでは
  ないでしょうか。そして、その自分の読みが思いっきり主観的である
  ことをしっかりと認識しておくことが大切だと思います。

   なぜなら、「真理を掌中にしている」と自称する者には一片の真理
  もないからです。かえってみずからの読みが主観的であり、誤謬に満
  ちているかもしれないことを知っている者たちにこそ、真理はおぼろげ
  ではあっても見えてくるのかもしれないからです。
362あずみ:2001/06/18(月) 23:36
猫の毛を逆なですると、よしよしと撫でていては気づかない傷や
ノミ、皮膚病なんかを見つけたりできるんですが.....
363あずみ:2001/06/18(月) 23:38
私は「真理を掌中にしている」なんて全然思ってませんけど。

何言ってるの、この人。
364宗教改革当時からの「正統主義」の立場 :2001/06/18(月) 23:45
宗教改革当時のローマ教会(反宗教改革勢力)
  「聖書をそのまま読むことは危険だ。教会の指導が必要だ。」
エホバの証人
  「聖書をそのまま読むことは危険だ。組織の指導が必要だ。」
モルモン教
  「聖書をそのまま読むことは危険だ。モルモン経に従って読むことが必要だ。」
近代自由主義(新興疑似宗教)
  「聖書をそのまま読むことは危険だ。学者の指導が必要だ。」
  「聖書をそのまま読むことは危険だ。聖書批評学が必要だ。」
プロテスタント正統主義(ルター、カルヴァン、ツヴィングリたち)
  「聖書をそのまま読まないことは危険だ。」
  「聖書をそのまま読むことが必要だ。」
365「目が開かれて神のようになる」読み方:2001/06/18(月) 23:49
「眼光鋭く」「猫の毛を逆なでするように」聖書を読むというのも、
おもしろいと思う
 猫の毛を逆なですると、よしよしと撫でていては気づかない傷や
ノミ、皮膚病なんかを見つけたりできるんです
366あずみ:2001/06/18(月) 23:59
こういう読み方のことを「批判的に読む」といいます。

別に「目が開かれて神のようになる」わけではありません。
367「目が開かれて神のようになる」読み方:2001/06/19(火) 00:03
「目が開かれて神のようになる」とは、おのが腹を神とするようになる、ということです。
368タック:2001/06/19(火) 00:06
聖書は神の言葉だというのは、信仰告白です。
その意味、内容は、実は人によって大いに違いますがね。
わたしは、聖書は、出来るだけ客観的に読もうとしてい
ますが、それでも自分に迫って来るものがあって、自分
が支えられ、動かされ、聖書の約束の通りに変えられて
来たと感じているので、聖書は神の言葉だと告白してい
ます。タック。
369「目が開かれて神のようになる」読み方:2001/06/19(火) 00:10
すみません。的を外しました。

「眼光鋭く」「猫の毛を逆なでするように」聖書を読むというのも、
おもしろいと思う
 猫の毛を逆なですると、よしよしと撫でていては気づかない傷や
ノミ、皮膚病なんかを見つけたりできるんです

目の中に鉄骨が入っているのに、聖書の中に塵があるかどうか、躍起になって読む、
そんな読み方のことです。
370それだけだろうか?:2001/06/19(火) 00:18
「聖書は神の言葉だというのは、信仰告白です。」
371名無しさん@1周年:2001/06/19(火) 04:46
キチガイが約一名、必死で頑張ってるな。ヽ(´ー`)ノ
372それだけだろうか? :2001/06/20(水) 07:53
「聖書は神の言葉だというのは、信仰告白です。」
373たこたこ:2001/06/21(木) 19:56
あがれ
374名無しさん:2001/06/21(木) 20:03
一つには歴史がある。
多くの人間が聖書を神の言葉だと信じてきたという歴史的事実は、
信仰を支える根拠の一つとなり得る。
375話の腰を折るようですが:2001/06/21(木) 21:10
聖書の中に「多くの人間が」あてにならない、といった内容はありませんでしたか?
376名無しさん:2001/06/21(木) 21:45
>>375
ありますね(w
ただ伝統というものは馬鹿に出来ない面がある。
もちろん、悪しき伝統、なんてものもありやすがね。
377375さんへ:2001/06/22(金) 00:16
多くの人間が聖書を神の言葉だと信じてきたという歴史的事実は、実際聖書は神の
ことばであるということに起因してると言えるのでは?
378?:2001/06/22(金) 20:40
そうか?
379考えぬ名無しさん:2001/06/22(金) 22:31
>>377
じゃあ、支那や朝鮮や日本の多くの人間が大乗仏典を釈迦の言葉だと信じてきたと
いう歴史的事実は、実際大乗仏典は釈迦の言葉であることに起因しているのか?

多くの人間が太陽が地球の廻りを廻る、と信じてきたという歴史的事実は、実際太陽
が地球の廻りを廻っている、という事に起因しているのか?
380いいや:2001/06/23(土) 01:24
聖書の歴史性が信仰を支えてきた。歴史的事実に基づかない、思想の産物は虚像だけを
生じさせるのみ。
381考えぬ名無しさん:2001/06/23(土) 01:44
信仰⊃虚像なら、信仰⊃非歴史的
したがって、聖書に歴史性がクリティカルな部分で存在している、との論証が
信仰が虚像でない事の主張を正当化するのに必要。
382名無しさん@1周年:2001/06/23(土) 03:27
>>1

根拠なんてあるわけがあるまい。頭から信じるか信じないかだよ君。

それが信仰ってもんでしょ。
383勉強不足:2001/06/23(土) 03:44
>>1

そもそも宗教に対する知識が致命的に欠けている。
基督教は神前法後の宗教であり、仏教は法前仏後の宗教。
つまり1が根拠を問いただそうが、納得しなかろうが、厳然として神はそこにいる。
「教典に整合性のある宗教がより正しい宗教」などと言うのは論外。
仏教徒同士で競相判釈するならともかく、特定の価値観で他の価値観を批評するなど
独善的かつ排他的といわざるをえない。
384いのちの木については:2001/06/23(土) 08:15
「教典に整合性のある宗教がより正しい宗教」などとは言っていない。
「教義が教典に整合しないような宗教はパー」です。
385書き直し:2001/06/23(土) 08:16
「教典に整合性のある宗教がより正しい宗教」などとは言っていない。
「教義が教典に整合しないような宗教はパー」です。
386383:2001/06/23(土) 19:54
>>385

教典と教義の整合性だってある程度幅があってしかるべきだと思うが。
「教義が教典に整合しないような宗教はパー」
は「原理主義でない宗教はパー」というのと同義だろ。明確な線引きが出来ないんだから。
これは決して極端な例えではなくて、世界中の経典宗教の論争の火種になるポイントであって
あくまで解釈の問題だろ。
387考える名無しさん:2001/06/23(土) 22:02
>>384
「聖書が神の言葉になる」立場を否定するキリスト教も多々あります。
概ね
(1)聖書は神の言葉である――保守主義(19世紀までの主流派と今世紀の根本主義者)
(2)聖書は神の言葉ではない――歴史主義(トレルチなど)
私は、>>1のリョウスケ氏は、(1)(2)の何れかの立場から、「聖書は(神の言葉
ではないが)神の言葉になるのだ」というバルト的新保守主義を批判したのだ、と理解して
いましたが。
388あずみ:2001/06/23(土) 23:40
>「教義が教典に整合しないような宗教はパー

 だけど、キリスト教の「教典」である新約聖書は教会によって作られた
(と言うより「教義に合致するものが選ばれた」)諸文書集なのだという
ことを忘れないようにしなければならないと思います。
389いっそのこと:2001/06/24(日) 00:27
あずみさん。新編の「せいしょ」作って「ちゃんとした新興宗教だ」って名乗りを
あげたほうが、すっきりするんじゃない?
自分じゃキリスト教とか言いながら、「教典」のここが怪しい、ここは信用ならな
い、なんて中途半端よ。
390こう書いてあった:2001/06/24(日) 00:32
このスレッドの趣旨は、「聖書は神のことばであるかないか」という議論をした
いのではありません。
「聖書は神のことばになる」と主張する人々の論拠、拠り所は何か、と訊いてい
るのです。
またそう信じている人は、「自分は神秘主義に陥っているのではないか」と自分
で悩むことはないのでしょうか?
どうか教えてください。
391こうmo書いてあった:2001/06/24(日) 00:35
「わたしは、これを根拠に、『聖書は神のことばではないが、信じると
神のことばになる』と信じているのだ。」
という証言をぜひ述べてください。
392名無しさん@1周年:2001/06/24(日) 02:23
もう飽きた。
マジでさっさと死んでくれりょうすけ。
393あずみ:2001/06/24(日) 08:04
>「教典」のここが怪しい、ここは信用ならな い、なんて中途半端

 私、そんなこと言ってないけど...
394考える名無しさん:2001/06/24(日) 13:04
>>390
読解行為からはなれてテクストは存在しない(インクの染みにすぎない)、という
テクスト論上の一立場からすれば、「信じて(=ある前解釈をもって)読む時に、
聖書は神の言葉となる(=ある送り手のメッセージというテクストとして現前する)」
というのは、至極真っ当な主張にも思えて気ます。
395意味不明の394:2001/06/25(月) 00:54
一部地方で用いられている言葉なのですか?
    「読解行為からはなれて」=?  「テクスト」=?
    「読解行為からはなれてテクストは存在しない」=?
新興宗教ですか?
    「ある送り手のメッセージというテクストとして現前する」=?
    「ある送り手のメッセージというテクスト」=?
    「〜として現前する」=?
396堕靡泥の星:2001/06/25(月) 00:59
>>395
意味は十分通じる。
つまらん揚げ足取りするな。
397?意味不明の394 :2001/06/26(火) 01:55
[意味は十分通じる。]一人合点
じぇんじぇん解りましぇ〜ん
398?意味不明の394:2001/06/26(火) 01:57
[意味は十分通じる。]一人合点
じぇんじぇん解りましぇ〜ん
399あしむろ@イヒィ:2001/06/26(火) 15:05
何の解釈学も不要です。各人が思うとおりに読めばいいのです。それが
信じるということです。
400あぶ:2001/06/26(火) 23:47
りょうすけさんは、バルト批判をしたいのですか?

「聖書は神のことばではないが、信じると神のことばになる」などと言っている神学者は
ひとりもいませんよ。

「聖書は神の言葉である」と言わないで、「神の言葉になる」といった理由は、
神の言葉とそれを解釈する人間の動的関係を指摘したいからだと思います。

世の中には「神の言葉」を否定する人も沢山いるのですから、スレの主が
否定派なのか、肯定派なのかで議論の仕方がちがってくるわけですが、
その点があまり鮮明ではないですね。

議論をするためには、まず自分の立場をはっきりさせましょう。
401名無しさん@1周年:2001/07/01(日) 22:57
あげ
402age:2001/07/02(月) 00:16
age
403あがれ:2001/07/03(火) 02:33
404上がれ:2001/07/04(水) 14:00
405興味深い:2001/07/07(土) 03:09
あげましょう。
406名無しさん@1周年:2001/07/09(月) 02:15
いっこうに書かないね
407名無しさん@1周年:2001/07/09(月) 03:13
りょうすけも堕靡泥の星も
ただのヘタレ粘着ヒキコモリだからな。
408名無しさん@1周年:2001/07/09(月) 03:14
おお、煽りいか
409名無しさん@1周年:2001/07/09(月) 03:42
>>408
(しぃっ!)
410名無しさん@1周年:2001/07/11(水) 06:24
信仰は唯一主にある。これ以外のキリスト教を、私は知らない。
411名無しさん@1周年:2001/07/13(金) 01:52
うえ
412名無しさん@1周年:2001/07/13(金) 01:54
>>1
禿げ死苦同意
413シコって出し男:2001/07/13(金) 01:56
いのりなさい。ざーめん。。


http://www.interq.or.jp/yellow/shinya/okuti.htm
414名無しさん@1周年:2001/07/18(水) 00:17
さびれてる
415名無しさん@1周年:2001/07/21(土) 00:22
/
416名無しさん@1周年
結局だれも根拠を示せないまま?