1 :
名無しさん@1周年:
2 :
マリア:2001/04/03(火) 02:05
結局立てることにしたのね。
3 :
名無しさん@1周年:2001/04/03(火) 02:17
開設おめでとう御座います。
今後の発展を、お祈ります。
4 :
名無しさん@1周年:2001/04/03(火) 02:20
最悪
6 :
名無しさん@1周年:2001/04/04(水) 01:48
読んだけど、ユダヤ教のキリスト批判をなぞっているという感じがした。
信仰義認の否定、原罪の否定、理解の重要視、パウロ批判など
ユダヤ教がキリスト教を批判するときと、ほとんどど同じスタンスじゃん。
これじゃあ、内部革命じゃないような気が。俺、まちがってるかな。
7 :
名無しのオプ:2001/04/04(水) 05:31
佛教の中にもカルトと呼ばれる教団があるように
キリスト教の中にもカルトはある。
・・・それだけのことじゃないの??
8 :
名無しさん@1周年:2001/04/04(水) 06:06
ま、キリスト教の他宗教への批判よりマシだね。
必要もなく殺しまくらないし。
ユダヤの殺しまくりより時代状況からも手口からも質が悪い。
9 :
名無しでGO!:2001/04/04(水) 10:52
>>6 ユダヤ教とキリスト教は連続(というより根本的に同一宗教)だからじゃないのかな?
この二つの宗教を別々のものとして捉えるから混乱が起きるのだと思う。
聖書の中でキリスト自身が仰っている(「私は律法を廃止するためではなく、完成するために来たのだ」)通り、ユダヤ教をキリストが完成させたものがキリスト教であるから、根本的にユダヤ教とキリスト教は同じものであるはず(少なくとも連続)。
そして、その同一性・連続性をぶっ壊したのがパウロだとすれば、パウロ批判がユダヤ教徒のキリスト教批判とほとんど同じになるのは当然といえば当然。
さらに、パウロが現代キリスト教の基礎を築いた人間であり、世界中が2000年間の長きに渡ってその思想を支持してきた以上、それを批判することは十分革命に値すると思う。
10 :
名無しさん:2001/04/04(水) 11:28
>9
新約聖書にある4つの福音書にしても、違う時期、違う人、違う
意図で書かれたというのは、今は常識だと思うよ。
パウロ批判については、以下のような推察が妥当と思うけど。
間違ってたら、誰か修正してくれ。
1)初めの教団は、ユダヤ教徒だけだった。
2)パウロは、教団を拡張するために、非ユダヤ教徒(異邦人)の受け
入れを主張し、戒律の撤廃を打ち出した。ところが、教団内には反対
派も根強く、パウロは何度か失脚しそうになった。
3)マルコ福音書は、教団の結束を固めるために非ユダヤ教徒を対象と
して編纂された(戒律撤廃に傾いた内容)。
4)戒律を撤廃した反動で、無銭飲食のためだけに教会に入る者などが
増え、道徳低下が問題になった。そこで、ユダヤ教徒派を中心に、
マタイ福音書が作られた(戒律復古に傾いた内容。「戒律を完成させ
るため」の句も含まれる)。
5)再び、パウロ派が巻き返しを図り、ルカ福音書と使徒行伝が書かれ
る。
つまり、パウロ時代からキリスト教は一枚岩じゃなかった。パウロ
の神学が主流派になったのは、ユダヤ教徒がローマ人に敵視されて
エルサレム神殿が破壊されたのがきっかけ。政治権力に対する従順
さがローマ帝国に気にいられて、最後には政治権力に利用されるよう
になる。
11 :
10:2001/04/04(水) 11:36
パウロ書簡だって、パウロが遭遇した教団内の紛争を解決するために、場当た
り的に演説を書き付けただけで、最初から一貫性がない。パウロは、ちょうど
「ああ言えば上祐」みたいなキャラだったんだよ。「あなたがたは」などと
高圧的に話を始めるところなんてそっくり。
9さんも少し書かれているけど、イエスが一体、律法を廃止するために来たの
か、律法を完成するために来たのか、福音書ごとに言っていることがバラバラ
なんだよね。これまでパウロ神学が批判されてこなかったのは、最初から主張
が矛盾だらけで真意がわかりにくかっただけでしょう。パウロ書簡の文章に
論理性が欠如しているという指摘をする人は多いよ。
12 :
10:2001/04/04(水) 12:13
結局、パウロの神学は、彼の政治的バランス感覚から生み出された
ものにすぎず、教義から零れ落ちた矛盾を全部、「復活せるキリス
ト」に無理やり押し込めただけ。
そういう矛盾だらけの代物だから、非クリスチャンの私であれ、ユダヤ
教徒であれ、5のHPの作者であれ、「まともに自分の頭で考えられる」
人間なら、当然同じ疑問にぶつかり、批判の内容も同じになるという
わけさ。
みんなが口を揃えて、同じ批判をする場合には、たいていそこに間違い
があるものだよ。クリスチャンは謙虚さが足りないね。
14 :
名無しさん:2001/04/04(水) 14:32
>>9 >ユダヤ教とキリスト教は連続(というより根本的に同一宗教)だからじゃないのかな?
>この二つの宗教を別々のものとして捉えるから混乱が起きるのだと思う。
マルキオン派は、旧約聖書を権威としそれに依存することに対して否定的だ
った。今考えてみれば正統派よりもマルキオンの方が方向性としては正しか
ったのではないかね。キリスト教はユダヤ教を克服していくのか、それとも
ユダヤ教の枠内にとどまるのか。どうも中途半端になってしまった感じを受
ける。まっ、色々事情があったのはわかるけどね。
15 :
マリア:2001/04/04(水) 15:35
>>14本当に色々あるわね・・・。
あたしはその手のことは詳しくないけど、あたし達後世の人間は
色んなものが見えるから、楽しているっていうか
検証できるし、いいわね。
宗教的な問題って、絶えず一つの事に縛られずに
色んなことを検証しかなくてはいけないという良い見本ね。
16 :
名無しさん@1周年:2001/04/04(水) 16:46
そして点と線は結び付く。
全てが繋がり、そこから多くを人は学ぶ。
17 :
10:2001/04/04(水) 18:18
>13
書き込んだんだけど、3日経ってもレスがないんだ。
>14
パウロ主義を忠実に守ると、マルキオンの形に落ち着かざるを得な
いと思う。旧約の神の怒りを、キリストの贖罪による盾によって
免れるという発想。しかし、見方を変えると「怒れる神からの逃避」
という意味では、ユダヤ教と何一つ変わっていない。神との呪われた
関係が、イエスの出現によって清算されたから、せいせいした気分
で旧約聖書を捨て去っただけだよ。イエスの説いた「我が子に蛇や
蝮を与える親があろうか」という神と人間の信頼関係が消えうせて
しまっている。
「〜しないと地獄へ落ちる」とか、「〜さえしておけば神の怒りから
免れる」という教条主義は、結局のところ、神と人間の信頼関係が
失われたところから始まる。契約なんて、親子の間で結ぶものじゃな
いからね。パウロもまた、結局、パリサイ人のひとりにすぎなかった。
マルキオンもまたそう。「〜」の部分が、「律法を守る」から「キリ
ストの贖罪を信じる」に変わっただけ。
イエスの「明日は炉に投げ込まれる野の草ですら...」の神への信頼
感のかけらもない。
>>14 (1)旧約批判を徹底したこと
(2)社会的ニーズを慣行に先行させたこと(水の聖餐とか)
(3)聖典を結集したこと
の3点ではマルキオンに分があると思います。
ただし、伝統的に言われていたようにグノーシス的傾向があったなら、
その反物質主義には賛成できない。
19 :
10:2001/04/04(水) 18:51
>18
グノーシスとマルキオンは正反対だと思うけどね。
グノーシスもマルキオンも、旧約聖書の神を「悪」と見なしている
のは共通だけど、グノーシスの「悪神」というのは、「善」に用立
てるための「悪役」と位置付けていると思うけど。仏教的な考え方
に近い。善あっての悪、悪あっての善、相対的な関係しかないから、
あまり悪を裁きの対象にしない。「悪役ご苦労さん」という感じじゃ
ないかな?悪ばかり、善ばかりでは発展のしようがないから、確かに
一理あるし、キリスト教が失ってしまった叡智をグノーシスは保って
いる気がする。
>>18 >キリスト教が失ってしまった叡智
何を指して言われたのでしょうか?
世界救済の根拠としての理法(ロゴス)ならば、キリスト教も見とめてるし。
ただ、キリスト教の救済論が認識論的でないことは確か。
21 :
名無しさん:2001/04/04(水) 20:28
でもグノーシスより正統派の方が遙かに理性的・合理的でしょう。
22 :
名無しさん@1周年:2001/04/04(水) 23:49
>>17 >>13
>書き込んだんだけど、3日経ってもレスがないんだ。
もしかしてあの掲示板の使い方を筆者自身が分かってないんじゃないの?
サイトの管理そのものは筆者の息子であるエヴァヲタがやってるみたいだし。
確かに初心者にはツリー状掲示板はちょっと使いづらいかもしれん。
それに、筆者もかなり年(1923年生まれ、ってことは…78歳!!)のようだから、体調でも悪くて寝込んでるのかも。
23 :
名無しさん@1周年:2001/04/05(木) 05:45
もし本当に、ユダヤ教が昔から
>>5と同じように的を得た指摘をしていたのであれば、
その方がより大きな驚きだ。多分、ユダヤ教のキリスト教批判を読んでも同じ感銘を受けるのだろう。
キリスト教ではなく、ユダヤ教のほうが優れているのだろうか?
というか、ここまで批判しているのに、それでもキリスト教に拘泥しているその理由がわからない。
24 :
名無しさん@1周年:2001/04/05(木) 08:45
>>23 そりゃキリスト教が「本物」だと感じているからじゃないの?
もちろん、パウロによるキリスト教じゃなくて、キリストによるキリスト教ね。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
「神は、その独り子お与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
「私は復活であり、命である。私を信じるものは、死んでも生きる。生きていて私を信じるものはだれも、決して死ぬことはない。」
「私は道であり、真理であり、命である。」
…挙げていけばキリがないが、こういったイエスのみ言葉に感動し、そして救われたからだろう。
だからこそ、イエスの言葉を捻じ曲げたパウロに対して、あれだけの批判を加える気になったのだと思う。
25 :
10:2001/04/05(木) 09:01
>>20-21
いや、「善悪」に対する考察としては、キリスト教は幼稚園レベル
だと思うよ。
ここにパンがある。腐っているところがあるから、捨てて「善い所」
だけにしなさい。まあ、最初の内は包丁でバッサバッサ切り落として
いくだろうけど、気が済んだところでもう一度見てみると、「善い所」
の中にも「悪い所」がやっぱり潜んでいるのを見つける。「善悪」は
相対的なものだからね、「悪」を切り捨てると、「善」の中から新た
な「悪」が生まれてくる。これを何度も続けていくと、最後にはパン
がなくなってしまう。
「善悪」は背中合わせの存在であるということがわからないから、
「悪」は消してしまえばいいとカン違いする。神の絶対的尺度から
見たら、人間など皆「悪」でしょう?自分の尺度をもって「善悪」
を勝手に決め、「悪」を裁くことそのものが「悪」だということが
わからないから、長々と宗教戦争に明け暮れてきた。キリスト教徒
ほど安易に他人を裁いてる人々は他に例がないよ。
26 :
10:2001/04/05(木) 09:12
ユダヤ教の社会は、律法を守る者が「善」で、守らぬ者は「悪」だと決め
つけ、「悪」を排除していた。それを突き詰めていくと、最後には神の御心
に叶うものは誰もいなくなる。イエスが主張したことは、神は「悪」だから
といって排除をなさらないということ。日光も雨も、善人ばかりでなく悪人
の上にもお与えになるということ。また、人間の考える「善悪」は、神の
「善悪」と違うということも教えた。「先の者が後になり、後の者が先にな
る」。「裁く神」というのは、人間が勝手にこしらえた偶像です。それは、
他人を悪と決め、自分を善として永遠の生命を独占しようという「われよし
の心」が鏡に映っているにすぎない。もし、「悪」であるという理由で、神
がひとりでも排除したならば、神はその神性を失ってしまうでしょう。
27 :
:2001/04/05(木) 09:32
>「善悪」は背中合わせの存在であるということがわからないから
わからないのではなくて、そのような相対主義に落ち着いてしまうと「倫理」が成り立たなくなるからですよ。
理性(形而上学)批判もそこからきてたりするからね。
28 :
:2001/04/05(木) 10:08
>>26 確かに、10さんの言うようにイエスの中に(ユダヤ的な)善・悪や共同体の内・外の区別は無かったのでしょう。キリスト教はそのようなユダヤ教(宗教)批判を通して世界宗教になりえた。
しかしそれを広めるためには旧来の宗教的態度をとるしかなかった。そうでなければ共同体では存続できないからです。
29 :
10:2001/04/05(木) 13:23
>>27 必ずしも「倫理」の問題ではない。
グノーシスだって、「悪」の用は認めても、積極的に「悪」をやる
べきだと主張していないし、むしろ、禁欲的な修行僧のような連中の
方が多かった。「トマス福音書」など読むと、そういう雰囲気が強い
です。「善悪不二」をモットーとする仏教修行者の中でも、「悪」を
肯定する外道が現れることがありましたが、ごく例外にすぎなかった。
もともと、仏教の根幹は「善いことをせよ、悪いことはするな」です
からね。ただ、「悪」に寛大だから、異端として処刑するような乱暴な
ことをしなかっただけです。
むしろ、「教会」という組織ができてしまうと、反対勢力を「悪」と
決めつける他なくなるというのが動機でしょう。それが異端の迫害に
つながっていった。一時期は、清貧を教えの柱とする聖フランシスコ
修道院が教皇から異端判決を受けたこともありました。明らかに「倫
理」の問題ではありません。
>>28 そうですね。時代の要請というものもあった。もし、原始キリスト
教団のユダヤ人勢力が強くてパウロが失脚していたら、エルサレム
神殿の崩壊の時、もろともローマ帝国にやられていたでしょう。
ただ、今の時代は違います。キリスト教も原点=史的イエス、に
戻るべきです。
30 :
マリア:2001/04/05(木) 14:24
その時代が近づきつつあるわね。
31 :
名無しさん:2001/04/05(木) 14:48
>>26 >それを突き詰めていくと、最後には神の御心に叶うものは誰もいなく
なる。
そんなことを当時のユダヤ教徒は考えていなかっただろうし、実際、煩
瑣で厳格な律法を完全に守りきったラビたちはいたよ。ガマリエルとか
アキバとか。
律法の報いは死、なんてのは、改宗したパウロの後知恵、だと思う。
32 :
10:2001/04/05(木) 17:43
>>31 しかし、イエス自身もパリサイ人に対して、そんな偽善ばかりの善行
では天国には受け入れられない、と言っていて、「律法の報いは死」
ほど極端ではなくても、律法主義を否定しているのは確か。
「律法を守るということ」と、「律法の精神で生きること」とは違う、
前者は外の浄めにすぎず、「律法の精神」=「神と隣人を愛する気持ち」
がなければ何の価値もないんだ、という主張をイエスはしたのだと思い
ます。もし、「神と隣人を愛する気持ち」で行動すれば、「お前は律法
を守っていないから、地獄へ落ちてしまえ」などとは言えなくなるはず
だし、ラビ達のように自分の救済だけに没頭して、落ちこぼれには目も
くれないという態度は取れないと思う。
自分さえ助ければ、という利己主義の心が、ユダヤ教(イエスの時代の
教条化したパリサイ主義)にはあると思います。それを否定したパウロ
は正しかったが、「真心を込めた善行」=「内側の浄め」をどうでも
よいものとしてしまった時点で、イエスの教えをねじ曲げてしまった。
33 :
10:2001/04/05(木) 17:48
おもしろいことに、パウロの教団でも同じような危機感を持っていた
人があって、ヤコブの手紙やヨハネの手紙など、隣人愛の実践を強調
する書簡が相次いで作られています。
34 :
マリア:2001/04/05(木) 18:28
>>33イエズスの教えで行き着くことは、結局「隣人愛」よね。
あたしがカトリックだった時の神父さんは、そう言ってたわ。
あたしもそう思う。
でも、なんか今のキリスト教徒の人たちって、
隣人愛=布教。自分たちの教えに入らないのは、異教なのでダメ。
また、身内間では正統か異端かしか興味なさそうなのが、
何か理解できないのよね。
35 :
10:2001/04/05(木) 18:47
>>34 >今のキリスト教徒の人たちって、 隣人愛=布教。
その方が自分の手を汚さずに済むし、何と言っても「自分は神の
代理として、正しい法を無知な人々に施しているんだ」という
優越感が味わえますからね。そういう優越感を味わうために、一番
の感心事は、自分が正統であること。
本当に、相手を自分と同じ目線に置いて、心からこの人も救われて
ほしい(救ってやりたい、じゃなくて)、という気持ちからの布教
ならば、聖書の解釈の細かい違いやら、「異端呼ばわり」などでき
ないと思うんですよね。
私が昨日、あるスレでパウロを散々こき下ろしたら、最後にはサタン
扱いですよ(笑)。こういうレベルの連中がうろうろするような
天国なら、こちらから願い下げだ、なんて考えるサタン候補生です
(笑)。
36 :
10:2001/04/05(木) 18:55
ふと思い出しました。
マザーテレサが、いよいよ臨終を迎えた人に安らぎを与えるために、
非キリスト教徒の人には、キリスト教を無理強いせず、その人の信仰
していた宗教の祈りをしてあげていたのだそうです。「相手を自分と
同じ目線に置いた」、立派な布教だと私は感激しました。
布教って、自分の信条で人の頭を洗脳することじゃないと思う。
言葉がないとできない布教なんて、偽物にすぎない。
37 :
名無しさん@カト信者:2001/04/05(木) 19:02
>本当に、相手を自分と同じ目線に置いて、心からこの人も救われて
>ほしい、という気持ちからの布教ならば、聖書の解釈の細かい違い
>やら、「異端呼ばわり」などできないと思うんですよね。
激しく同意。
ただ、それができない教派の信者も大勢いる。悲しいことだ。
>言葉がないとできない布教なんて、偽物にすぎない
そのとーり!ただ、それができない教派の信者も大勢いる。悲しいことだ。
38 :
名無しさん:2001/04/05(木) 19:07
現在のキリスト教は一般論的にいえばカルトじゃないだろ。
ただ歴史的には、発生当初から、かなり長い間カルトだったことは間違いないけど、
別にそんなこたあ恥じゃない。
39 :
暴論:2001/04/05(木) 19:16
近代以前は世界全体がカルト
40 :
nanasi :2001/04/05(木) 19:43
>>39 そりゃいいすぎだろ。カルトの意味が曖昧になる。
そんなに単純化してどうすんだ。暴論だ。
41 :
ぷちとまと:2001/04/05(木) 19:55
カルトの重要な要件に、社会内の思想的少数者で、しかも、多数者によ
って忌避されるべき存在との認識が存在する、というのがあげられるで
しょう。
だから、初期キリスト教はカルトだとしても(多分そうだと思う、奴隷
も主人も平等だ、なんて危険思想を振り撒いてた)、現在では(主流派
は)そうではない、といわざるをえないでしょう。
長期間思想的多数派を占めていたら、長男長女は細切れにする、でも
病気になった親は生贄にする、でもカルトとは言えないと思います。
42 :
:2001/04/05(木) 20:32
そもそもカルトという社会論的用語を、歴史解釈に持ちこむからややこしくなる。
43 :
ぷちとまと:2001/04/05(木) 21:09
>>22 いや、歴史の特定の時点を固定して論じる際には社会論的視座は有効
です。その区別を曖昧にしたまま議論されている傾向があるので、混
乱がしょうじているだけではないのですか?
44 :
サタン候補生=10:2001/04/06(金) 09:37
>>22 昨日、作者より丁寧なレスをもらいました。ちょっと恥ずかしいから、
再レスはやめようと思います。もっと、書き込んであげる人が出ると
いいんだけどなあ。
45 :
名無しさん@1周年:2001/04/07(土) 00:09
なになに、史的イエス=キリスト教に戻れだと?
笑わせるでない。イエス∈ユダヤ教だ!
ユダヤ教でもなく、パウロ教でもない、イエス=キリスト教など幻影だ!
そんなものは中身のないだだの復古主義に過ぎない。
中身がないからこそ、いくらでもすばらしいことばで飾れるのだ。
中身があれば人間のすることだから、時代的な制約があって当然。
しかし、批判されるべき欠点があるということは、無価値と同等ではない。
寧ろ、反論を寄せ付けないもの、批判の余地が無いものこそ人類の進歩にとっては無価値なのだ。
(無価値どころか、はっきり逝って有害です。)
パウロを否定するがキリスト教を否定しない立場がすべきことは、
不可能な史的イエスの再現ではなく、
なぜ、パウロは間違ってしまったのか、そして、なぜ2000年もその誤りを修正できなかったのか
その原因を真摯に追求することだ。
パウロはヘレニストだったから誤ったのだ、とな?
もしもその程度の答えなら、ヘレニズムを否定してそのままヘブライニズムまで戻れ!
ヘブライニズムからの逸脱がカルトを引き起こすのならば。
自省を都合よく別の情念で覆い隠すものこそ、今も昔も宗教でも非宗教でも集団でも個人でも、カルトなのだ。
46 :
名無しさん@1周年:2001/04/08(日) 02:22
キリスト教に限らず宗教は詐欺。
都合が悪くなると、平気で教義を変更する。
その変更に一貫した理由はない。
それを無理やり再解釈したり、場合によっては教義に変更があることさえ認めようとしない。
神のことばだから信じたはずだ。
その神のことばを訂正する必要が生じるとはどうしたことだろう。
矛盾を前にして、敬虔ぶるのではなく、頑なになるのでもなく、
素直に正直に「分からない」といってくれたほうが、どれだけましか。
47 :
名無しさん@1周年:2001/04/08(日) 02:44
伝統宗教は、歴史上のある時期から、教義が変更されなくなるんだよね。これが。
政治から分離した時、国が独立して民主主義社会が訪れた時。
そういう時でも、教義を変更し続ける宗教群がある。それは要注意。
それから、教義の変更と、教義の解釈の変更は違うからね。
経典があるとする、経典はずっと変わらない。しかし経典の中の
ひとつの文章は、10人いたら10人が違う解釈をするかもしれない。
だから、どうにかして、解釈を統一しなければならないこともある。
経典を書きかえることは教義の変更だけど、解釈を修正することは
教義の変更ではない。詐欺だと言われようと、人間が作業をするしか
方法がない。神や仏が手取り足取り教えてくれないんだから。
48 :
名無しさん@1周年:2001/04/08(日) 03:30
これは、キリスト教の諸問題の原因をパウロに押し付け、
理想的なキリスト教を主張しようとした、ご都合主義に対しての反論を念頭において書いたものだ。
> 伝統宗教は、歴史上のある時期から、教義が変更されなくなるんだよね。
> 詐欺だと言われようと、人間が作業をするしか方法がない。
例えば、カトリックは20世紀の中盤に教義の大変更があったではないか。
教会の外に救いは無い→他宗教でも救われる
この180度の方針変更を、詐欺と言わずしてなんと呼べばよいのか?
単なる解釈の違いが表面化しただけとでも言うのだろうか?
もしそうなら、いつ元に戻るかわかったもんじゃない。
むしろ、教義変更しましたと言ってもらったほうがよい。そのほうがずっと安心できるよ。
49 :
名無しさん@1周年:2001/04/08(日) 03:37
第二次世界大戦のあとでしょう。
あれを境に、世界の価値観が変化したのは否めない。
そこまで否定したら、人類に進歩がない。
神にそむいて戦争に明け暮れしてきた人間から、
人間の意識がレベルアップしたということでしょう。
50 :
名無しさん@1周年:2001/04/08(日) 03:44
>いつ元に戻るかわかったもんじゃない。
君たちの言いぐさはいつもそうだ。
ちょっと国家が厳しいことを言えば「言論統制の時代に戻るかもしれない」
自分らが信じられないの?そういう時代に戻さない、という自信を
持てないの?その時代に生きて価値観の転換を求められた人間は、
絶対そういうことは言わないよ。
自分たちが、加担したことを自覚して反省しているからだよ。
後世に生まれて、何も知らない君らが勝手に怯えているだけだろう。
そうやって怯えること(被害妄想)が戦いを生むということも自覚した方がいい。
51 :
名無しさん@1周年:2001/04/08(日) 03:49
>>48 >むしろ、教義変更しましたと言ってもらったほうがよい。そのほうがずっと安心できるよ。
カトリックは解釈を変えたとき、ヴァチカンがその都度、全世界に発表している。
まもなくネットでも、逐一発表できるようになるそうだ。
カトリックが一番ネットに積極的なんだよ。
各国語の翻訳に関しても、一番進んでいる。
52 :
マリア:2001/04/08(日) 12:06
>>46宗教ってんのは、宗教が生まれた時点で人のものになってるのよ。
その時点で既に神のものではないのよ。
イエズスは神だから、まぁ、置いておくとして、その後は人間が宣教してるわね。
その時点でもう神のものでなくなっている可能性が高いのよ。
自分が神の霊からのものと感じて、あれこれ言って、それが信者の多数に
受け入れられたら、それでその宗教の神が言ったことになるのよ。
パウロが生前のイエズスに興味がないって言ったのも、そういうところからよ。
他の使徒たちはかなり迷惑してたみたいだけど、
彼の支持者は後世において多数派になったってだけよ。
色々変わるっていうことは良い事なのよ。
悪い部分があっても誰も叫ばす変えないって言うのは思考停止だと思うわ。
カトリックは、良い方へ動いたり、悪い方へ動いたり、
最近揺れつづけているわね。
そうやって、一歩一歩前進していけばよいと思うわ。
53 :
名無しさん:2001/04/08(日) 12:16
>>52 >宗教が生まれた時点で人のものになってるのよ。
>その時点で既に神のものではないのよ。
なるほど。これには同意。
54 :
サタン候補生:2001/04/09(月) 09:25
>>45 中身がないと判断しているのはあなただけだと思うよ。イエスの残した理念、
「汝の神を心を尽くして愛せよ、汝の隣人を汝自身のように愛せよ」が、ただ
の空論とは思わないけどね。
>>52-53
どんな宗教理念でも、それが正しいかどうかを判断するのは、人間の価値観
にすぎませんからね。人間の中に「神」がなければ、どうやって「神」を見分け
るのだろう。誰も目撃者がいない所で、人殺しをしたとします。その人が罪の
意識に苛まれて眠れない夜を過ごし、悪夢にうなされるのは、法律で裁かれる
という恐れではなく、聖書に「人を殺すな」と書いてあるからでもなく、ただ、
「自分の行いが罪である」ことを自覚しているからです。その自覚でもって、
現代の法律や聖書の方を正しいかどうか判断するのです。
>カトリックは、良い方へ動いたり、悪い方へ動いたり、
その「良い、悪い」を判断するのもまた、人間の価値判断です。「一歩一歩
前進」しているかどうかも、人間が決めます。真理も神も人間の中にある。
ただ、「神を人間の都合で決めていい」という意味ではありません。人間も
誤謬に汚れた価値観でもって行動し、「悪」を「善」と思い込んでやってきた
ことが数多くある。その誤謬を徐々に拭い去り、最後には「神」の目で「善悪」
を正しく評価できるようになるでしょう。その真理の方向性を指し示す磁石を、
各個人は生まれながらにして持っているのだと思います。
「神が言ったことだから従う」から誤りに陥るのです。「自分が(心の中で)
言うから従う」でないといけないと思います。「自分」が果たして誰か、につい
ての問題は残りますが。
55 :
私もパウロは嫌い:2001/04/10(火) 02:55
>>54 不愉快な言い回しだったかもしれません。すいません。
「中身が無い」とは、キリスト教でありながらパウロを否定することが、「中身が無い」ことではないかというものです。
パウロとユダヤ教の中庸を目指しておられるのだと思いますが、
はたして本当に、パウロを否定したところにキリスト教が成立するものなのでしょうか?
また、成立させるために、キリスト教の母体となったユダヤ教を過小評価してはいませんか?
> イエスの残した理念、
>「汝の神を心を尽くして愛せよ、汝の隣人を汝自身のように愛せよ」
は、ユダヤ教の理念でもありました。
イエスが神?嫌すぎるなソレは。。。
57 :
くそおやじ:2001/04/10(火) 03:17
神になったキリスト。。これが正体
58 :
サタン候補生:2001/04/10(火) 09:22
>55
いや、不愉快という感じを受けたわけではありませんが、パウロを取り去ると
中身がなくなるとしたら、そんな価値のないものをイエスが命を賭けて説いた
ことになるので、そんなクリスチャンが存在するのか、と耳を疑っただけです。
>本当に、パウロを否定したところにキリスト教が成立するものなのでしょうか?
立派に成立しますよ。パウロ書簡や使途行伝を一切読まず、福音書だけ1年間、
読んでごらんなさい。イエスの心がわかってくると思います。その心こそが
本当のキリスト教です。
>イエスの残した理念、
>「汝の神を心を尽くして愛せよ、汝の隣人を汝自身のように愛せよ」
は、ユダヤ教の理念でもありました。
その通りです。イエスはユダヤ教の誤謬を正し、モーゼの原点に返れと主張し
たのです。モーゼの律法は「禁止」ではなく、人の生きかたの心の指針です。
十戒とは、十の禁止項目ではなくて、「汝の神を愛せよ、隣人を愛せよ」の
心を示しています。しかし、だからと言って、わざわざユダヤ教に戻る必要は
ないではありませんか?ユダヤ教には、よいものばかりではない、毒麦の種
だってたくさん含んでいるのです。私は、イエスが説いた教えで完全だと思い
ます。ユダヤ教から補足するべきものなどひとつもないでしょう。
それが必要だったのは、パウロがイエスを「万人の生贄」にするために、旧約
聖書の救世主像とイエスを重ねようとしたからに他ならない。
59 :
サタン候補生:2001/04/10(火) 09:37
(続き)
こういった「作為的書き換え」は、パウロ書簡の後に編纂された福音書にも
行われました。イエスがベツレヘムに生まれ、マタイ伝の冒頭に無理極まり
ない系図を並べたのも、旧約聖書の予言を演出するための工作でした。
イエスはアブラハムの子孫でないと、旧約聖書の予言と食い違いができて、
パウロ達は根拠を失うのです。そもそも、イエスの父は聖霊ではありません
か?こんな単純な子供だましですら、なりふり構わずやってのけた。
ちなみに、マタイ伝とルカ伝には、2種類の全く違った系図が載っていますね。
ヨセフの父に当たる人は、マタイ伝では「ヤアコブ」、ルカ伝では「エリ」に
なっていて、イエスの祖父の代で早くも食い違いが生じている。こんないい加減
な系図、裁判所でも通用しませんよ。この矛盾をどう説明されるのか?
聖書学者によれば、マタイ伝とルカ伝は違うグループによって編纂され、お互い
の存在を知らなかったらしいです。結果的には、言い逃れができない証拠を残し
てしまった。
60 :
私もパウロは嫌い:2001/04/11(水) 02:35
キリスト教が沢山含んでいる毒麦の一つとして、ユダヤ(教)人に対する蔑視を指摘しておきます。
証拠は以下のキリスト教側からの発言で明らかでしょう。
> ユダヤ教には、よいものばかりではない、毒麦の種
> だってたくさん含んでいるのです。
> ユダヤ教から補足するべきものなどひとつもないでしょう。
やはりユダヤ教を軽視しているように思われます。
(一応、キリスト教オマエモナーと突っ込んどきます)
それから、キリスト教からパウロ的な部分を除けるとして、そこから取り出せる
ユダヤ教と本質的に異なる主張ってどんなものがあるでしょうか?
まさか贖罪と復活?であれば、福音書だけでなくパウロの手紙も重要ですよね。
61 :
サタン候補生:2001/04/11(水) 08:59
>60
「ユダヤ教」に2つあると思うのですよ。パリサイ派が考えていたような
「律法を守らない人間に怒りを下す神」にびくびくして、奴隷のように
かしずくことを教える「裁く神のユダヤ教」と、イエスが看破したように
「汝の神を心を尽くして愛せよ、汝の隣人を汝自身のように愛せよ」と
いう精神を元にする「愛の神のユダヤ教」が。
もともとは、「愛の神のユダヤ教」しかなかったはずなので、この意味
では「イエス教」=「(本来の)ユダヤ教」というのは正しい。
パウロが否定したのは「裁く神のユダヤ教」の方でしたが、残念ながら、
彼もまた根っからの「(間違った)ユダヤ教徒」でしたので、裁く神への生贄
という考えが頭から去らない。そこで作り上げたのが「キリスト教(イエス
教ではない)」です。
だから、60で使われている「キリスト教」が、「パウロがでっちあげたキリ
スト教」という意味ならば、パウロの「金メッキ」を剥ぎ落せば何もなくな
るでしょう。これが「イエス教」の意味ならば、「(本来の)ユダヤ教」と
同義ですから、「ユダヤ教から補足すべきものはひとつもない」ということ
になります。
キリスト教からのお知らせ
(1) 信仰義認説を提言しました(いまから約2000年まえ)
ユダヤ教は、信仰よりも教義(律法)の実施を重要視するきらいがありました。
しかし、不完全な人間のこと、よいと見られる行為のなかにも必ず悪い部分が見つかります。
行為に悪は不可避であるため、この無間地獄状態から逃れるためには
行為以外の原理が必要となります。キリスト教は行為以外の原理として信仰を重視します。
(2) 結果を報告します(さいきん)
約2千年間の長きにわたりキリスト教は、信仰義認という宗教的仮説を実験してまいりましたが、
あまたの努力と犠牲の甲斐なく、実践での矛盾点を克服することができませんでした。
矛盾に伴う倫理的な問題は、あまりにも重要性でありその影響は無視しがたく、
とき19XX年に至り、ついに、この仮説を破棄することに決定いたしました。
これからは、信仰と行為の優越性を論じることなく、信仰と行為のどちらをも重視していきたいと思います。
(3) お客様のご意見
おのれ、今になってまちがっていたと申すか?
俺なんか十字軍のとき、どさくさにまぎれてユダヤ人を迫害しちゃったよ。
お陰でいまじゃ、地獄暮らしさ。どーしてくれる。この詐欺!
(4) キリスト教からの回答です
まことに心痛きわまります。
ただ私どもと致しましては13世紀の事件に関しては、
既に保証期間が過ぎていると認識しております。
勝手ながらこの件はサポートいたしかねます。
どうかご了承くださいますように。
なお、そちらにパウロという男がいるかと思いますが、
キリスト教が間違った原因につきましては、私どもよりも、
直接彼にお聞きくださるのが適当かと存じます。
焼くなり煮るなり好きにしてくださいませ。