釈迦は輪廻転生を肯定してる?

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名ナッシング
「そんなことは言ってない」vs「いや、それが前提だ」
混乱してます。
2名無し比丘:2001/03/13(火) 00:49
仏教用語を知りたいスレで教えていただいたんですが、
ここなんかいいと思います。
輪廻の話題はそんなに多くありませんがいろいろ討論されてました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~i-soga/


3名無し比丘:2001/03/13(火) 01:01
釈迦はどっちもいってますよね
でも個人的な感想を言わしてもらうと、
どの程度の実存までが輪廻転生しますかね?
仮に人間はするとして、サルは?鮎は?ミジンコは?大腸菌は?
仮に俺が来世大腸菌に転生するとしてその後、
大腸菌に次の輪廻転生素質があるのか多いに疑問です。
輪廻の意味のとらえかたにもよりますがね
唯物論の<万物は流転する>なんていう実存的な輪廻思想なら
おkでしょうけど
4名無し比丘:2001/03/13(火) 01:04

どの程度の実存  ×
どの程度の生命等 ○
5猫の秘密:2001/03/13(火) 01:09
霊の世界も迷いの世界
6名無しさん:2001/03/13(火) 01:22
釈尊の時代には輪廻転生説が圧倒的に信じられていて、
人々は輪廻説によって、悩み苦しまされていた。
釈尊の本望は、人々の苦悩を如何に除き去るかということ。
よって釈尊は、輪廻説を踏まえた上で出離の法を説いている。
しかし、これは釈尊が輪廻説を肯定したことは意味しない。
あくまで、眼前の衆生の苦悩を除かんために輪廻を押さえて説法した
と言うこと。輪廻説はインド土着の習俗にすぎない。
7ななし:2001/03/13(火) 03:50
おれは釈迦が輪廻を一応肯定したんだととらえていたよ
おれ個人も輪廻転生があると思っている
来世が大腸菌でもかまわない
実は人間であるより幸せかもしれないし
大腸菌もまた転生するだろう
8名無しさん@1周年:2001/03/13(火) 06:44
>あくまで、眼前の衆生の苦悩を除かんために輪廻を押さえて説法した
と言うこと。輪廻説はインド土着の習俗にすぎない。

で、あるならば、現代日本の仏教者は時代に合った説法をしなければ
意味が無い。それを仏教と呼ぶか実存哲学と呼ぶかはわかりませんが。

チベットの坊さんは「輪廻が無ければ仏教は成り立たない」とはっきり
断言していますね。真宗関係者と教義問答すればいいのに。
9名無しさん@1周年 :2001/03/13(火) 10:22
>8

チベットの「死者の書」にあるような、オートマチックな輪廻は
ないと私は思います。

仏教の中でも、特に禅では、死後にも存在するような「魂」と
いうものの存在を認めていません。ただ、実際のところは「あっ
ってもなくても変わりがない」というニュアンスだと思います。
禅は「ただ今、ここ、自分」を精一杯生きることを教えますので、
輪廻があるから「うまいこと」しよう、とかいう不純な行動を嫌
います。真宗の教えも、一見すると「極楽往生」が目的のようで
すが、当の親鸞さんは「法然上人に騙されて地獄へ落ちても構わ
ない」と宣言しています。そういう「採算度外視」の心こそが
宗教(特に仏教)の真髄であり、その心さえあれば、死後の輪廻
があろうがなかろうが、迷いなく暮らせるというものでしょう。

釈尊が敢えて、はっきりした答えを残されなかったのも、こうい
う理由だったのではないか、と思います。輪廻に着目すると、輪廻
に縛られて執着してしまいますからね。
10名無しさん@1周年:2001/03/13(火) 10:30
>9さん
良いこと言うねえ。
ホント、そう思います。
ただ私個人的には輪廻転生は肯定してます。
日蓮系も真言系も輪廻を認めてる前提で教義が展開されてると思いますが。
11mr:2001/03/13(火) 16:23
輪廻は肯定してたと思う
ただ、神は存在してなかったので
何が輪廻するのかが、その後の発展仏教の大命題となったが
法相宗、華厳宗などで、阿頼耶識なるもので、説明された
12名ナッシング:2001/03/13(火) 22:05
輪廻転生ががもしあるとして(俺はないと思ってるけど)
それが意味あるの?
今の自分は前世の生物とは別生物じゃん。
前世の人格が今の自分を動かしてるんじゃなくて,
今の人格が今の自分を動かしてるんだろ?
そのときに前世の人格はどこにいるの?
何も経験できないのじゃない?
前世のさらに前世の人格は?
来世には自分の人格はないんだよ?
13オレ教:2001/03/13(火) 23:56
釈尊が言う輪廻転生とは、子供に親の性質が受け継がれること。つまり遺伝。
前世来世などという生まれ変わりの話ではない。

元々、仏教はバラモン教で言う前世来世の輪廻転生の呪縛から民衆を救うために生まれたものであるのだから。
14タブラ:2001/03/14(水) 00:56
ブッダは「永遠に持続する実体などない」ととなえた。
これはどう考えても輪廻転生説の否定。
仏教は基本的には輪廻説否定の宗教でいいとおもう。
ただわからないのはブッダ本人がこれをどう考えてたか。

1. 悟ろうが悟るまいが輪廻転生などしない
2. 悟ったものだけが輪廻のサイクルを脱する(すこし矛盾があるが・・・)
3. 悟ったものはそもそも輪廻説を信じないので、輪廻を脱するのとおなじだ

どう考えていたんだろうね。
15名無しさん@1周年:2001/03/14(水) 02:00
>ブッダは「永遠に持続する実体などない」ととなえた。

とも仰ったし、

>何が輪廻するのかが、その後の発展仏教の大命題となったが

のも事実。あるお弟子さんがなかなか悟れずに思い余って自決し、
それによって悟りをひらいた。死の刹那、悪魔が彼の意識を捕らえて
やろうと待ち構えていたが、それはどこにも見出せず、意気消沈して
去っていった、なんていうエピソードもあります。
1616:2001/03/14(水) 02:19
>>14
その話での実体と輪廻を同じに考えるなんて人はいないでしょう。
17名無しさん@一周年:2001/03/14(水) 02:53
聖書にも輪廻については語られてた。
他の宗教との差別化や書かれた文字とか
色々な思惑で多数部分が除外されて外典になったけど。
元々は同じ聖書の一部です。(偽典もね)
18鶴仙:2001/03/14(水) 05:17
その「悟り」というのがあなたの観念じゃよ。
悟りも輪廻もみーーーーな観念、これさえなければ、つるっと明るい。
観念、観念、ほっほっほっほ
19頼むから:2001/03/14(水) 09:48
あなたも、その観念と一緒に逝っちゃってくださいな。>鶴亀仙人どの
209:2001/03/14(水) 09:54
>>17さま

こういうのがありますね。

イエスが言った、「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜ
なら、あなたがたは御国を見いだすであろうから。なぜなら、
あなたがたがそこから(来て)いるのなら、再びそこに行くで
あろうから」(『トマスの福音書』第49節)

素直に読むと、人は「御国」からこの世に来て、また「御国」に
帰る、それが複数回連続して起これば、輪廻転生ということに
なる。

この他に、聖書外典などに輪廻転生を示唆する文章があるので
しょうか?具体的に教えていただけるとありがたいです。
21釈尊は輪廻転生を肯定している!:2001/03/15(木) 07:09
仏教で「輪廻転生」を認めなければ、根本から成り立ちません。
仏教で言う成仏の定義は何かと言うと、「成仏=輪廻転生から解脱する事」ですから、輪廻転生を否定するなら仏教の目的そのものを否定する事になります。

人間が死んだら、すべてが消滅して何も無くなってしまう、とするなら、これは釈尊が説かれた「断見」です。
釈尊の言説に極めて近いとされている根本仏教経典(アーガマ)の中の一つ「仙尼経」においてはっきりと輪廻転生を肯定しておられます。
釈尊は、霊魂という言葉は使っておられません。しかし、「身破れ命終して現世の五蘊が消滅しても、異蘊が生じて相続する。」とはっきりと述べられています。
この中で「異蘊」というのが、人が死んだ後に存在を受け継ぐものであると解釈されています。
22ビンゴ!:2001/03/15(木) 07:42
ヒンドゥー教と仏教の基本にありますね>輪廻転生
ヒンドゥー教は多くの宗教に少なからずの影響を与えてる。
23名無しさん@一周年:2001/03/15(木) 09:06
>>21
私が前から知りたいと思っていた解説を21さんはしてくれました。
有難うございます。
仏教の始祖釈尊はバラモンのアートマンーブラフマンを前提として仏教
を説かれたのですが、いろいろな仏教学者の意見を聞いていると釈尊は
バラモン・ウパニシャッド思想の根底にある自我という固定的な実体を
否定された、五蘊は仮和合であり無我のものである、よって輪廻転生は
認めていないという意見が多く、仏教は輪廻転生を抜きにしたら成り立
たないと考えてきた私は混乱しておりました。
アーガマの「仙尼経」という経典、今度探してみてみたいと思います。

ところで21さんや輪廻を肯定されておられる皆さんにお聞きしたいの
ですが、よく言われることですが、もし輪廻を認めると現在、地球上に
60億人近い人類がいるということの理由はどうしてだと思われますか?
日本でも現在、1億三千万人近い人口ですが、明治初期には五千万ぐらい
の人口だったそうです。他の国々でも同じでしょう、
するともっと昔は今の十分の一かそれ以下の世界人口であったはずであり
、輪廻転生の教えはその時点で破綻するような気がします。
どう思われますか?マジな質問ですみません。
24名無しさん@一周年 :2001/03/15(木) 09:21
>>23

神道には「わけみたま」という概念があるって聞いたけど。
一霊四魂で、そのひとつひとつの魂から、新しい霊ができてくる
という話。誰か詳しい人に聞いてちょ〜
25名無しさん@1周年:2001/03/15(木) 11:12
>>21
おいおい。人間が死んだら、すべてが消滅して何も無くなってしまう、
というのが「断見」なら、輪廻転生を肯定するのもまた断見だろう?

26名無しさん@一周年:2001/03/15(木) 11:31
>>25
それは「常見」って言うんだ。
27名無しさん@1周年:2001/03/15(木) 11:37
輪廻転生を肯定も否定もしないと言うのが釈尊の立場。

「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
諸の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸の見解におけ
る過誤を見て固執することなく、省察しつつ内心のやすらぎをわたく
しは見た。」

相手が輪廻転生を信じていれば、それにあわせて話をする。ここで相手にあわ
せず輪廻転生など無いと主張してしまっては、論争になって収拾がつかなくな
ってしまう。これは無益である。毒矢の例えが示すように、仏教の教えは輪廻
転生のあるなしに関わらず有効。だから、輪廻転生を肯定も否定もしなくても
別に問題なし。
28質問:2001/03/15(木) 11:39
ウィルスの個数は多そうですけど、あれに転生する確率が高いんですかね?
29名無しさん@1周年:2001/03/15(木) 11:40
>>26
そうだね。失礼。

309:2001/03/15(木) 12:24
>27

そう言えば、無門関に似たような話があるね。うろ覚えだけど、
仏教修行していた僧が、死後なぜか狐の化け物になってしまった、
自分の悟りのどこが間違っていたか、と和尚に尋ねるという話。

「不落因果」では外道で、「不昧因果」が仏道なんだ、という
結論になってたような。つまり、輪廻転生をあるとして、その
因果から逃れようとすると(不落)、それはかえって輪廻転生に
執着する断見に陥ってしまう。本当の仏道の考え方は、もし輪廻
転生があるとするなら、それを素直に受け入れて、因果を「誤魔化
さない」(不昧)ようにせよ、ということだと解釈しています。

間違っていたらゴメンよ。
31mr:2001/03/15(木) 13:41
>>23
涅槃経の万物ひつう仏性、如来胎蔵説というのがあって
それで説明できる、人間以外全てのものが魂(仏性)を持つと
いうもの、まあこれは大乗経典だけどね

>>27
毒矢の例えもをもって答えたというのも解釈によって捕らえ方は違って
くるわけで、大乗仏教では、素直に聞ける人には輪廻を肯定して説き
否定する人にはあえて説かなかったされているのでは
32名無しさん:2001/03/15(木) 14:08
>>27 仏説は真理であって、議論ではないと言う意味だよ。
33名無しさん:2001/03/15(木) 14:09
>>23
地球上だけで考えるのは狭過ぎる。全宇宙の生命体は
時空を超える。また中有に迷う生命体もある。
34名無しさん:2001/03/15(木) 14:10
>>28
生命と言うのは「こころ」だから、ウイルスに「こころ」があるかどうか
まず考察すべき。私は無いと思っている。
35名無しさん@1周年:2001/03/15(木) 14:15
>>32
無用な議論はするなということ。
輪廻転生のあるなしは、結論のでない議論。
3628:2001/03/15(木) 14:20
>34さん
すると、おいらには犬猫というか哺乳類にはあるように思えます。
爬虫類も難しいけどありそう。鳥類も。
問題は昆虫だな。あれにこころがあるのかどうかが微妙ですね。
いや、やっぱり「やれうつな ハエが手をすり 足をする」ていうから
ありそうですな。

みみずやゴカイにあるかどうかが微妙ですね。
37:2001/03/15(木) 14:26
>21はたぶん阿含宗の信者だろう。どこかのスレでそういうことを言う人がいた。
阿含宗では不成仏霊を供養するのだから、霊魂がなければ困る。

たしかに輪廻から解き放たれるのが解脱であり、解脱することが仏になること。
しかし輪廻を実体的なもの、死後も存続する何かがあると釈尊が考えていたかどうかは疑問だ。
輪廻とは当時のインドでは常識だったわけだ。そして人々は輪廻を苦だと思っていた。
輪廻なんかない、と説くよりも、輪廻という概念を否定せず、しかもそれを無化する
教えを説いたと考えるべきだ。
釈尊の真意は輪廻にとらわれない、そのことで輪廻を怖れない、ということだと思う。
輪廻が苦だという感覚は今の日本人には理解できないのではないだろうか。

>31は真如苑の信者ではないか。真如苑も仏教でありながら霊魂を説くからね。

>36
衆生はミミズやゴカイをも含む。だからミミズにも輪廻する。
「セブンイヤーズ・イン・チベット」だったか、
ミミズを殺しては親を殺すことになるかもしれないからと、手で土を掘っていた場面があった。
38名無しさん@1周年:2001/03/15(木) 14:28
生命のあるものに心はある。
では生命とは何か?
心とは何か?
自我があり自己複製機能を持つコンピュータは生命か?

3928:2001/03/15(木) 15:03
DNA無いと呼ばないんちゃうん?
40釈尊は輪廻転生を肯定している!:2001/03/15(木) 21:37
>>37 そう言う37は、S学会の信者では?
それはさておき、釈尊の言説に関して議論するなら、出典を明確にすべきではないでしょうか?

釈尊が輪廻転生について具体的に説法したものが残っています。「雑阿含経」第51巻11がそれです。以下、中村元先生の翻訳から、その一部を示します。

【このように四神足が修練され豊かにされたときに、種種なる過去の生涯を想いおこした。すなわち、1つの生涯、2つの生涯、3つの生涯、4つの生涯、5つの生涯、10の生涯、20の生涯、30の生涯、40の生涯、50の生涯、百の生涯、千の生涯、千百の生涯を、また、幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。
「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカーストであり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死に方をした。そこで死んでから、かしこに生まれた。」と、このようにかたちや名称とともに種種なる過去の生涯を想いおこしたのである。
―中略―
このように清浄で超人的な天眼をもって、諸緒の生存者が死にまた生まれるのを見た。
すなわち、卑賎なるものと高貴なもの、美しいものと醜いもの、幸福なるものと不幸なもの、そして諸々の生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った。】

以上のように、極めて明快に輪廻転生を肯定しておられます。
41名無しさん@一周年:2001/03/15(木) 21:57
>>40
輪廻転生を肯定するなら23の言うところの地球上の人口数の問題は阿含
宗ではどういう見解を持ってるの?
興味あるから聞かせて欲しいねえ。
創価学会の37さんでもいいけど。
42釈尊は輪廻転生を肯定している!:2001/03/15(木) 22:02
>>41の方へ
>>33は私が書いたのではありませんが、33の説に賛成します。
43名無しさん@1周年:2001/03/15(木) 22:10
>>42
進化論はどう解釈するの?
また、生物誕生以前に輪廻はあった?なかった?

44名無しさん@1周年:2001/03/15(木) 22:32
輪廻とは迷いの世界。そして解脱した者には現世も来世もない。
つまり、輪廻とは実体としてあるのではなく、観念としてある
ということ。


45輪廻。輪廻はこれ如何に?:2001/03/16(金) 00:16
輪廻・輪廻って言ってるけど、実際問題そんな事は無いでしょう!
釈迦が言ったて言ってるけど、本当は、インドのヒンドゥー教や
仏教の母体の、バラモン教の教えだよね。
それって、2500年前の考え方だよね。そっれて、本当に古臭くない・・・?
その当時のカースト制に、都合の良い考え方だよね。
つまり、貴族は前世の行いが良かった、現世で幸福なんだ。奴隷は、前世で行いが悪かったので
現世では不幸なんだ。とか言って、民衆を愚弄する教えでしょう???
それじゃ、何時まで経っても文明は進化しないよね???
進化しないのもカルマ(輪廻)の法則????????????
そんなまだ言ってる、インド人は進化しませんね。(未だに、インドでは輪廻信じてるから、
現世は駄目だけど、来世いがあるとか言いてる。そんでもって、隣国が色々とやってると、彼らはカルマが悪いから
仕方が無いって言っては、隣国の脅威になる核兵器作ってだよね)
本当、インド人て言うのは分からないよ。
つまり、輪廻も釈迦が言ったかどうか知らないが、方便なんだよね。
きっと、ウソも方便だね!!!!!!!!!!!!!!!

46名無しさん:2001/03/16(金) 00:20
>>44 輪廻転生は実体としてあると思う。
47:2001/03/16(金) 00:24
>>45
カバラにも輪廻の概念はありますよ。
この世には真に古い新しいなんてものは無いんですよ。
48名無しさん:2001/03/16(金) 00:25
>>45
真理には「古臭い」もなにもないのでは?

49輪廻・輪廻って言ってるけど(パート2):2001/03/16(金) 00:27
輪廻・輪廻って言ってるけど。
死後の世界と一緒で、立証しようが無いよね。
だから、こんなこんな事言ったてしょうがないんだよね?
在る無いじゃ無くて、やっぱり、行動でしょう。
この世界でも、良い行いすれば何時かは、誰かが、きっと分かってくれる。
信じるものが在るから、人は人として強く、やさしくなれる。
今現在でも、悪い行いやってると、直ぐにでもわが身に降り掛かってくるよね?
つまりさ!釈迦でも、キリストでも考え方は同じ筈!?
今良い行いをするか、悪い行いをするか?どっちが良いかって事だよね。
輪廻なんて、あんた、オウムがしきりに言っていて、そんでもって、殺した弁護士一家も
我々に殺されて良かった。彼らはこれで悪いカルマ(輪廻)から、解放されたって言って
たと言うしさ。誰にとって良いか行いか、悪い行いかって判断になるんじゃないの???
それて、全体主義的で可笑しくない???
また過去に、逆戻り???。これって先進国が考える事なんだろうか?????

50>>49:2001/03/16(金) 00:37
カルマが輪廻とは・・・すごい。
51カルマが輪廻とは・・・すごい。????:2001/03/16(金) 01:14
カルマが輪廻とは・・・すごい。???????????
じゃぁぁぁぁぁぁ〜〜〜。
カルマって、日本語訳はどうなのよ〜〜〜????
カルマ=チンねじゃ無くて、輪廻じゃないの???
(これって、オウムでも言ってたような???)
52ななしさん:2001/03/16(金) 01:16
53名無しさん@1周年:2001/03/16(金) 01:41
カルマ(karman)とはもともとは「なすこと」「なすもの」「なす力」
という意味で、これが輪廻説と結びつき、輪廻転生をあらしめる一種の
力として、前々から存在して働く潜在的な行為の余力を積極的に示すよ
うになった。

仏教では業をとどめて輪廻の主体となっていくような実体的個我は認め
られないが(無我説)、精神努力して現状を打破していく自発的行為と
しての業は認められている。
54業?????:2001/03/16(金) 01:42
業???????????????
業=カルマ=行為て言うことでしょうか????
カルマって、サンスクリット語の何かの意味で「行為」では、
無かったでしょうか????
業というのは、日本語訳でしょう???。と言うよりもコジツケ的な当て字だよね!!!
業なんて抽象的な事言ちゃ〜〜〜。厨房と変わらないよ!!!!!!?????????
カルマ=行為=業=輪廻なんで無いの???つまり、良い行為=良い来世!
悪い行為=悪い来世って事でしょうね〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!
55まぁ、輪廻とか業とか??:2001/03/16(金) 01:48
まぁ、輪廻とか業とか??って、小説の題材とか良いかも知れないけど
先進国でこんな事言ってたら、本当に日本は仲間外れだよね????
先進国では、相互扶助とか共生が主体なのに、日本では未だに未開の地の
原始的で野蛮な考えが主流ですでは、なんか悲しいね!!!!!!!!
56名無し象は鼻がウナギだ!:2001/03/16(金) 01:53
進化論でがたがた言ってる国のほうが
未開の地で原始的で野蛮だと思うが。
57名無しさん@1周年:2001/03/16(金) 01:54
>>55
先進国は関係ないよ。欧米は欧米でキリスト教どっぷりでしょう。
いまだに進化論を否定している輩も多い。例えば、ブッシュアメ
リカ大統領のバックにはキリスト教ファンダメンタリストがつい
ている。
58エロチスト:2001/03/16(金) 02:38
輪廻説はあきらかに仏教の根本原理からはずれてる。
正統仏教ではないってことで否定したいんだけど、各宗派おおやけ
の教義では肯定してるフシもある。
この各宗派の教義ってのがクセモノで、仏教学者は大抵どっかの
宗派所属だから、母体になる教団が肯定してる輪廻説をこの連中が
否定するとはおもえない。しかも日本仏教教理のスタンダードはこの連中が
つくってるいるのだよ。
ようするに輪廻説に根本的矛盾があっても、学者はその点を指摘せず、
輪廻説が「公の教理」として成立し、それに異をとなえるものは
非正統の烙印を捺されてしまうってわけ。
みんな輪廻なんて信じてるわけじゃないけど、それを肯定し続ける
仏教界にいらいらしてる。
59:2001/03/16(金) 03:15
進化論は否定できない、それは今も起こっているからだ。
60欧米は欧米でキリスト教どっぷりでしょう???:2001/03/16(金) 07:17
>いまだに進化論を否定している輩も多い????/
未だに???。どこの国のどこの教会が?????
アメリカは、プロテスタント教会は1930年代に教会では
すべて全面的に公認してますよ。これに関しては1930年に公開裁判を
やって、学校で進化論を教えても良い事になった。
カトリックは、1995年だったかな? ローマ法王がバチカンで
全世界のカトリック教徒に対してと言うより、教会の神父対して、
教会の教義の中に、進化論を肯定して良い事になった。
もっと、キリスト教の事言う前に、キリスト教付いてもっと勉強してね!!
61名無しさん@1周年:2001/03/16(金) 10:54
>60

>アメリカは、プロテスタント教会は1930年代に教会ではすべて全面的に
>公認してますよ。

>カトリックは、1995年だったかな?

そんなもの、全然自慢になってないぞ。教会が間違ってました、悪うござい
ました、ってことだろう?そういう、居直り強盗みたいな独善的なところが
私には気に食わないね。

62名無しさん@1周年:2001/03/16(金) 11:02
>>60
>未だに???。どこの国のどこの教会が?????

あの〜これは一般教養の範囲ですよ?進化論を否定しているのはファンダメンタ
リストとすでに書いたではありませんか。具体的には福音派などがそうです。
キリスト教系カルト(エホバの証人や統一協会)も進化論を否定しているところ
が多いです。
63薄学の徒:2001/03/16(金) 11:55
>>58さん、薄学の徒にご教授ねがいたいのですが
>しかも日本仏教教理のスタンダードはこの連中が
>つくってるいるのだよ。
日本仏教教理とはなんですか?
どこかの宗派の教義のことを言ってるんでしょうか?
もしそうであれば具体的に何々宗とあげてもらえると
わかりやすいのですが

あなたのいう正統仏教って
信仰として存在してるんですか
もし存在してるのであれば
これもお教え願いたいのですが
64名無しさん@1周年 :2001/03/16(金) 12:14
>>63

58じゃないけど、日本独自の宗派という意味なら、真っ先に
法然上人の浄土宗が思い浮かぶね。そこから発展した真宗も
時宗も含まれるだろう。

正統仏教?そんなものあるわけないよ。正統なのはお釈迦さ
んだけ。後のは、全部「自称正統」。そういう勝手な決めつ
けに囚われるな、というのが釈尊の正統な教えだと思うぞ
(笑)。
65薄学の徒:2001/03/16(金) 12:51
>>64さん、ありがとうございます
なるほど、ということは浄土宗、真宗、時宗の教理は仏教学者が
つくっていると言う事でよろしいのでしょうか?

66名無しさん@1周年:2001/03/16(金) 13:08
>>65
というより、日本仏教教理なるものを表だって批判してはならない
という暗黙の了解が仏教学者の間にあるんでないの?

例えば大乗非仏説は仏教学の常識だが、これについての突っ込んだ議論
はあまりしない。仏教の多様性を認めてどうこうとか、適当に流してお
しまいというパターンがほとんど。
6764:2001/03/16(金) 13:24
>>66

そうだね。大乗非仏説もさることながら、一番大きいのは葬式仏教
の問題。日本では三十三回忌まで長々と儀式を行うけど、追善供養
が有効なのは、仏教の理論によれば、転生先が決まるまでの初七日、
死後49日までのはずなんだよね。それだけでは物足りない民衆の
ために、どんどんといらないオプションをひっつけていって、おま
けに寺が儲かるもんだから、すっかりそれにアグラをかいてしまった。

今更、初七日以降の儀式は不要、なんて言え出せないのさ。
6864:2001/03/16(金) 14:05
この前ね、親戚に新仏が出たんだけど、坊主から、追善供養にって
施餓鬼をしつこく勧められたらしいね。ウン万円納めろだとよ。
だけど、施餓鬼っていうのは、餓鬼界におちて食い物に困っている
霊を供養する功徳が、死者の追善になるんで、いくら飽食坊主の
懐に入れたって、餓鬼の腹の足しにはならんさ。坊主の下腹の供養
になるだけだから、そんなものはやめとけって言っといたよ。

後で、餓鬼とは坊主自身のことだったのかって気付いたが(笑)。
6937:2001/03/16(金) 18:14
>40
創価学会じゃないぞ。ばかにするな。
あんたの言っているようなことは、かつて阿含宗のスレでさんざん言われてきたこと。
どこかから探して読んでみて下さいな。

>55
アメリカ人の25%は生まれ変わりを信じているというアンケート調査がある。

>64
>正統なのはお釈迦さんだけ
仏教の歴史を否定するわけかい。お釈迦さん以後のさまざまな流れを認めないのなら
あまりにも偏狭だと思うがね。

輪廻思想と無我思想は矛盾することは間違いない。そのどちらを自分は選ぶかだ。

ようは、死後の世界があってよし、死んでおしまいでもよし。
お釈迦さんの言いたかったのはこういうことじゃないか。
7064:2001/03/16(金) 18:26
>69

もしあなたの言う「仏教の歴史」が、ただ意味もなく三十三回忌
をやっても良心も咎めぬような、今の仏教の堕落を含めている
のだったら、私ははっきりと「認めません」と断言します。

それをもって「偏狭」とする、あなたの魂もすでに腐っている。
71霊の存在を否定する坊さん!?:2001/03/16(金) 22:55
>>58 >>68
輪廻転生を否定するなら、「餓鬼界におちて食い物に困っている霊」なんてものは認めないって事よね。
それに、58さんが言うように、もし「輪廻説はあきらかに仏教の根本原理からはずれてる。」 んだったら、
どうして、仏教徒の坊さんが「追善供養、施餓鬼供養をやれ」って勧められるわけ?

心の中の本心では、霊の存在を否定しておきながら、したり顔でお経を読んで、施餓鬼供養すすめて、お金を取るなんて「詐欺」じゃないの?

私は本心から、輪廻転生は存在すると信じているから、仏壇の前でお経も挙げるし、施餓鬼供養もお願いしている。
「霊の存在を否定している坊さん」が施餓鬼供養を勧めるなんて、人をバカにしている。
72名無しさん@1周年:2001/03/16(金) 23:31
2ちゃん宗教板で坊さんが徹底的に叩かれる理由の一つではあるわな。
73施餓鬼供養すすめて、お金を取るなんて「詐欺」じゃないの:2001/03/16(金) 23:34
施餓鬼供養すすめて、お金を取るなんて「詐欺」じゃないの???
そのとうりです。。。。。。
日本仏教会を牛耳っている、京都仏教会の陰謀です。
ハッキリと態度で、この封建制度そのままの徳川幕府そのままの
檀家制度や人別帳作りを拒否しましょう。
この様な馬鹿げた制度に、何んの疑問も持たずにいる日本人がアホなんですよね!!!!!
74ななし:2001/03/16(金) 23:39
六道は?
75名無しさん:2001/03/16(金) 23:43
あげ
76元祖よこはま:2001/03/17(土) 00:14
またこのテーマか。
結論出てるだろうに。

>私は本心から、輪廻転生は存在すると信じているから、仏壇の前でお経も挙げるし、施餓鬼供養もお願いしている。

死者を弔う気持ちを否定するつもりはないが、
基本的に葬式などの儀式は死者のためにやるのではなく、
後に残された人間のためにやるものだ。

また、輪廻説と無我説は本来矛盾しない。
それが矛盾しているように見えるのは、
「個」としての生命、魂、あるいは、
「個人」としてのパーソナリティーというものを「実在」として捉えているから。
そのような「個」としての輪廻は究極的には存在しない。
ただ、一時的にそういうものが存在するかのように見える理由というのはあるかもしれない。
たとえば、肉体が滅びてもアストラル体が残っていて、それが転生する、とか。
実際、オカルトティストはよくそういう主張をする。
しかしよく考えていただきたい。
肉体に寿命があり、滅びるなら、アストラル体もいつかは滅びるはずだ。
仏典に出てくる輪廻の話でも、
善い行いをして善いカルマを積み、天上界に神として生まれ変わっても、
神といえども寿命があり、いつかは死ぬ。
そして、神が死に逝くときの苦しみには、
人間が死ぬときとは比べることができないくらい
大きな苦しみがある、と教えていなかったか?

「生命」とはひとつの「全体」だ。

あなたそこから来て、そこへ返っていく。
本来その循環を輪廻というのであって、そうであれば無我説と輪廻説は矛盾しない。
77名無しさん:2001/03/17(土) 00:45
>>76 「死者を弔う気持ちを否定するつもりはないが、基本的に葬式などの儀式は死者のためにやるのではなく、後に残された人間のためにやるものだ。」

76様へ:貴方は「霊の存在」を肯定しますか、それとも否定しますか? 人間は死んだら、それで終わりと考えますか?
78元祖よこはま:2001/03/17(土) 01:45
>貴方は「霊の存在」を肯定しますか、それとも否定しますか? 人間は死んだら、それで終わりと考えますか?

これは質問自体が不完全というか不適切なので答えようがない。

…実を言うと、この手の問題に対する真の意味での解答は、
「正しい質問をすること」の中にある。
では「正しい質問」とは何か?

まず、「人に聞く」のではなく、「自分の心のありよう」を自分で見つめる。
そこに果たしてあなたが今想定しているような意味での「霊」が存在しているのか?
「死」に関しても、そもそも根本的に「死」とは何か?「生」とは何か?
が最初に問われなければならない。
そしてもちろん、あなたがそれを「見る」のなら、
このような質問自体がばかげている、ということに気がつくだろう。
7958=エロチスト:2001/03/17(土) 02:05
前のはすこし書き方がわるかったが、ようは学者が輪廻説をはっきりと否定し
ないかぎり、このことに対する仏教界のあいまいな態度はつづくだろう、
ということが言いたかった。
教理的なことに関して一般の坊主や信者は教団附きの学者にしたがわざるをえ
ない。学者が肯定も否定もしないことを「タダの坊主」「タダの信者」がやい
やい言ったって相手にされないんだ。
なさけないが事実上そういう仕組みになってる。

輪廻説を否定しても仏教の根本原理じたいは成立する。
成立しないのはお寺の営業活動。
8037:2001/03/17(土) 17:00
>71
>仏教徒の坊さんが「追善供養、施餓鬼供養をやれ」って勧められるわけ?
確かにその通り。追善供養を言うか言わないか、を坊さんを選ぶ基準としたらいい。
ただ供養とは追善供養という意味が本来ではない。供養する対象を仏として、
すなわち私の迷いを目覚めさせるはたらきとし、その恩のために供養する。
これはミリンダ王の問いや大智度論に出てくる。

>76
>「生命」とはひとつの「全体」だ。
こういう言い方だと、全体を実体化してしまう恐れがある。それでは仏教とは違ってくる。
同じようなことで、生かされている、とよく言うが、それも、生かしているものがあるんだ
となってしまう。これも仏教とは言えない。

>77
仏教では死んだらどうなる、という問いではなく
あなたは死にきれますか、という問いをする。
つまり、あなたは本当に生きていますか、ということ
8137:2001/03/17(土) 20:34
>70の64
仏教の歴史と33回忌とどう関係があるのか。釈尊以後の仏教をどう思うのかということだ。

>71霊の存在を否定する坊さん!?
>輪廻転生は存在すると信じているから、仏壇の前でお経も挙げるし、
輪廻を信じることと、仏壇の前で読経することとは無関係と思うが。
>施餓鬼供養もお願いしている。
あなたはあなたの亡くなった家族が餓鬼に堕ちていると本当に思っているのですか。
欲張りだったからたぶん餓鬼じゃないか、と。
そして施餓鬼(どういうことをするのか知りませんが)をすれば、
あるいは皆さんが馬鹿にする坊主に訳の分からないお経を読んでもらえば、
餓鬼にいる人が救われるかどうかすると思っているんですか。
それよりも自分は大丈夫だろうかとは思わないんですか。
82名無しさん@1周年:2001/03/17(土) 20:57
>ニセその他(笑)

>あるいは皆さんが馬鹿にする坊主に訳の分からないお経を読んでもらえば、
餓鬼にいる人が救われるかどうかすると思っているんですか。
それよりも自分は大丈夫だろうかとは思わないんですか。

どう大丈夫だと思わなくてはいけないのでしょうか?(笑)

83仏教の歴史と33回忌とどう関係があるのか:2001/03/17(土) 23:35
>仏教の歴史と33回忌とどう関係があるのか?????
これは、仏教言うよりその母体の教えに在るようです。
今でも、チベットのラマ教では、人は死ぬと7日X7周=49日(49日の法要)
と言う事をやっています。つまり、人は死んでその後、7日の周期で新たな生命に
再生する。と信じられているからです「チベット死者の書」引用・。
さらに、その後の法要とは、恐らく徳川幕府以後お寺が、現在の役所代わりに人別帳を
作り、その中に檀家制度を引き、幕府にこの地域の人数は幾らで、この一家には何人働きでが
あって、どのくらい租税が取れるか。また、この村から他に抜け人を出さぬよう見張っていた為、
現在もこの制度の上に、あぐらをかいている訳です。
徳川幕府以前は、やはりどこの宗派もみな布教の旅をしては、村から村へと
信者を確保していったのです。
今の宗教制度では、やはり快僧や怪僧は育たないでしょう!!!!!!
84元祖よこはま:2001/03/18(日) 00:16
>こういう言い方だと、全体を実体化してしまう恐れがある。それでは仏教とは違ってくる。

言いたいことはわからないでもないが、その後の書き込みを見ると
あなたも「空」の意味がわかっていないようです。
ただ、ここはカルトたたきのスレッドではないし
別にあなたと論争つもりはないからからまないでね(笑)。

>今の宗教制度では、やはり快僧や怪僧は育たないでしょう!!!!!!

快僧や怪僧を育ててどうするの(爆笑)?
もしかしてきみはアゴン州?
8584:元祖よこはま:2001/03/18(日) 00:45
>84:元祖よこはま???????????
>別にあなたと論争つもりはないからからまないでね??????
絡んでるのはそっちだろ????
第一、人の話題でしか話を持ってこない!!!!!
オリジナリティないんだよ。あんたひょっとして「法輪功」(藁
86元祖よこはま:2001/03/18(日) 01:07
85さん。
もしかして煽っているつもりですか?
87名無しさん@1周年:2001/03/18(日) 01:13
>>86
カスは放置しよう。
88元祖よこはま:2001/03/18(日) 01:24
>>86
>カスは放置しよう。

ええ、どうぞ放っておいてください。
8937:2001/03/18(日) 17:37
>82
>どう大丈夫だと思わなくてはいけないのでしょうか?(笑)
自分は餓鬼に堕ちないだろうかということ
90名無しさん@1周年:2001/03/18(日) 20:28
89 名前:37投稿日:2001/03/18(日) 17:37
>82
>どう大丈夫だと思わなくてはいけないのでしょうか?(笑)
自分は餓鬼に堕ちないだろうかということ

「餓鬼に堕ちる」という言葉の内実を具体的に提示してください。

91科学的思考が重要だ:2001/03/19(月) 01:15
>>79 「ようは学者が輪廻説をはっきりと否定しないかぎり、このことに対する仏教界のあいまいな態度はつづくだろう」

「学者」を自然科学者と解釈したとして、現在までの間で、自然科学者が「輪廻転生」について、科学的手法をもって検討した研究はほとんどない。
検討・研究したことが無い事象に関して、頭から「そんなことはありえない」と断ずる態度は、実に「非科学的な」態度であることは、十分にご存知だと思うが、それでよいか?
すると、輪廻転生に関して科学的に検証した事例がほとんどない、のであるなら、「輪廻転生は在るとも無いとも断定できない。今後の検討が必要である」とするのが、真に科学的態度・思考である。
したがって、「学者が輪廻説をはっきりと否定し」というくだりは、論理を自分の都合の良い方向に「作為的に」持って行こうとする誤った態度であるから、極めて不適切かつ非科学的である。

また、「輪廻説を否定しても仏教の根本原理じたいは成立する。」としているが、仏教の目的は「輪廻転生からの解脱」であると、釈尊が繰り返し述べておられることから、「輪廻転生を否定したら、仏教の根本原理は完全に崩れてしまう。」と言いかえるべきである。
92へへへへ!!!!!!!:2001/03/19(月) 01:21
[269:a(2001/03/19(月) 01:03)]名前欄に「steal@fusianasan」と書いて(鍵カッコは書かない)
e-mail欄に「&IP抜くぞゴルァ%」と書きます(鍵カッコは書いて下さい)。
本文には一行目に「ひろゆき天才。マンセー」と書き、
2行目以降にスレッド名と発言番号を書きます。
--- 本文の例 ---
ひろゆき天才。マンセー
マウスを動かすと雑音が出る 2
----- 例終わり ----
こうすると、「マウスを動かすと雑音が出る」スレッドの2番の発言者のIPを
抜くことが出来ます。
 やっぱりIP抜くのは大変なんですね。悪用しちゃだめですよ。
93ピエール:2001/03/19(月) 01:21
仏陀は確認できないことを「無記」として、語らなかったんじゃなかったかな。
ただし、仏教の根幹、「解脱」は、「輪廻」から生じる概念で、
仏陀は、暗に肯定していたと思うよ。
94名無し比丘:2001/03/19(月) 04:03
いや暗に否定していたでしょう。
つまり輪廻に惑わされるな、解脱こそニルバーナこそ真実だと。
始めっから無いって言うたらあの時代あの場所の人はついて来ないでしょう。
95名無しさん@:2001/03/19(月) 04:09
仏陀は肯定してる。
後で色々と出てきたのはしがらみが多く
もはや本来の教えからも遠い。
これも仏陀が言ってた事だ。
96名なし:2001/03/19(月) 04:10
肯定してたから解脱の重要性を説いたんでしょ。
9737:2001/03/19(月) 17:53
>90
>「餓鬼に堕ちる」という言葉の内実を具体的に提示してください。
それは
>71 名前:霊の存在を否定する坊さん!?
に質問してくださいな。
>私は本心から、輪廻転生は存在すると信じているから、
>仏壇の前でお経も挙げるし、施餓鬼供養もお願いしている。
ということですからね。
98名無しさん@1周年:2001/03/19(月) 17:59
>>91
輪廻が無くても、苦は現実に存在する。仏教の根本教義は苦の克服です。
よって、「輪廻転生を否定したら、仏教の根本原理は完全に崩れてしま
う。」などといことはありません。
99名無しさん@1周年:2001/03/19(月) 18:07
>>91
科学は万能ではありません。科学が取り扱える対象は、直接的あるいは間接
的に観測可能なものだけです。神やあの世、永遠の魂といったものは物
理的な存在ではなく、観測できないものなので、科学で取り扱うことは出来ま
せん。よって、その存在を科学で肯定したり否定したりすることはできない
のです。
100科学は自然現象から学んだのです!:2001/03/19(月) 22:37
>>99さんへ:
勿論です。科学万能などと思ったこともありません!
ただ、>>79において、「学者が輪廻転生を否定し・・・」という文章があったので、反論したまでです。
科学は「自然現象」のごく一部しか理解していませんし、科学は自然現象から学んだのです。例えば、科学が「水は水素と酸素から構成されている」ことを解明する以前、宇宙開闢の瞬間から現在まで、水はずっと水素と酸素から構成されていたのですから・・。
また、>>99さんの表現では「神やあの世、永遠の魂といったものは物理的な存在ではなく、観測できないものなので」とありますが、科学的な観測技術が進歩すれば、もしかすると「魂」なども観察できるようになる可能性があります。したがって、現在の「科学技術では」という文言を加えるべきでしょう。

10179:2001/03/20(火) 01:01
>>91
ここでわたしが言っている「学者」とは仏教学者のことです。
自然科学者のことではありません。
仏教の根本原理である空・縁起説にてらしてみると輪廻説は否定されるべきなのに
仏教学者が否定するでもなく肯定するでもなくのらりくらりした態度をとりつづけ
ていることを言ったのです。

>仏教の目的は「輪廻転生からの解脱」であると、釈尊が繰り返し述べておられる
ことから、「輪廻転生を否定したら、仏教の根本原理は完全に崩れてしまう。」

私がここでとりあげた根本原理とはいわゆる「仏教三宝印」のつもりでした。
三宝印では輪廻転生のことには直接ふれられていません。
それで「輪廻転生説を否定しても仏教は破綻しない」といったのです。
もちろん釈尊じしんは輪廻からの解脱を説いていますが、空・縁起説を説きながら
輪廻説を肯定していたとなると、完全に自己矛盾をきたしていることになります。
そこのところをどう「処理」していたのか、興味ぶかいところではありますが・・。
三宝印とか、空・縁起とかいったことは、あくまで後世のひとの分析・解釈なので、
釈尊本人のなかではもっと曖昧なかたちで放置されていたのかもしれません。
しかし、現代にいたるまでこの曖昧が放置されてるとなると、ちょっと・・。
輪廻説にたいする仏教者のスタンスとしては「死後のことについては考えても仕方
ないので考えるな」か「輪廻説は肯定しにくい」のいずれかである筈であり、
まちがっても輪廻説の積極的肯定はすべきではないと思われます。
102元祖よこはま:2001/03/20(火) 01:04
91=100だと思うが、相当な重症だな。
仏教を理解するための入り口にさえ立っていない。

>また、>>99さんの表現では「神やあの世、永遠の魂といったものは物理的な存在ではなく、観測できないものなので」とありますが、科学的な観測技術が進歩すれば、
>もしかすると「魂」なども観察できるようになる可能性があります。したがって、
>現在の「科学技術では」という文言を加えるべきでしょう。

「魂」が観測されることは、この先いくら科学が発達しても「絶対に」ありえない。
その本質からして、そんな馬鹿なことがあるわけがない。
これは「魂」とは何か、ということを理解した人には自明の「事実」だ。
まあ、「なぜ」観測することができないか、が解明されることはあるかもしれないが…。

前にも書いたが、アストラル体でもコーザル体でもアートマンでも魂でもなんでもいいのだが、
そのようなものが「ある」のなら、当然、形あるものはいつかは滅びるので、
その「魂」でさえ、いつかは滅びる。
そしていつかは滅びる「何か」を「魂」と呼ぶことが可能ならば、
なぜ「肉体」を「魂」と呼んでいけないのか?

100の言っているような意味での輪廻を釈迦が否定したことは
このスレッドの多くの人が指摘している。
もちろん彼らのほうが正しい。
100は仏教の本質を一から勉強し直すべきである。
103そんな馬鹿なことがあるわけがない?:2001/03/20(火) 01:47
>>102 「魂が観測されることは、この先いくら科学が発達しても「絶対に」ありえない。その本質からして、そんな馬鹿なことがあるわけがない。」

ですから、何回も繰り返しましたように、「そんな馬鹿な事があるわけがない」という態度そのものが、「非科学的」だと指摘したのです。
宗教を論ずる時には、「非科学的」態度を取ってもかまわない、とでも言うのでしょうか?

・また、「100の言っているような意味での輪廻を釈迦が否定したことは、このスレッドの多くの人が指摘している。」と102は述べていますが、「釈尊」が輪廻転生を否定しているとするなら、その根拠を示すべきでしょう。
何と言う経典のどの部分なのか、出典を明らかにしなければ、水掛け論に陥ってしまいます。
信頼できる出典を挙げて論ずる態度こそが、正しい「科学的な」宗教者としての態度である、と考えます。

以上の事から、102を書いた方は「科学的思考が全くできない方」である、と断定せざるを得ません。


104元祖よこはま:2001/03/20(火) 02:53
>宗教を論ずる時には、「非科学的」態度を取ってもかまわない、とでも言うのでしょうか?

いいや、ほかの何を論ずるとき以上に、より科学的であるべきだ。
ただ、おまえは何が科学的態度か、ということが全くわかっていない。
第一、まともな思考の持ち主なら、
102を読んで103のようなピントはずれなレスはつけられない(苦笑)。

いいかい、科学的な態度の持ち主なら、
いきなり魂があるかないかを論じたりはしない。
そうではなく、そもそも魂ってなんだ?ってことからはじめるんだよ。
魂が何かがわからないことには探しようがないからね。
そして仏教では、それに対する答えがあり、それを元に考えれば、
おまえの言うような意味での輪廻がないことがわかるんだよ。

>何と言う経典のどの部分なのか、出典を明らかにしなければ、水掛け論に陥ってしまいます。

いいや、経典にどう書いてあるか、は全く役にたたない。
なぜなら経典に書いてあることを「読み取る」のは人間で、
その人間の「解釈」が入ってしまうからだ。
おまえのような未熟な人間が読めば未熟な解釈しか出てこない。
たとえば>>21でおまえは
>しかし、「身破れ命終して現世の五蘊が消滅しても、異蘊が生じて相続する。」とはっきりと述べられています。
>この中で「異蘊」というのが、人が死んだ後に存在を受け継ぐものであると解釈されています。
と書いているが、それはあまりに勝手な「解釈」というものだろう。
ここのどこに「異蘊」が魂だ、と書いてあるのか?
さらに「異蘊」が永遠不滅だ、とでも書いてあるのか?
かりに「異蘊」が神智学徒の言うようなアストラル体やらなんやらに相当するものだとして、
それが転生するとしても、それで「異蘊」が魂で永遠不滅の存在だ、ということには
「全く」ならない。
なぜそうならないか、はすでに論じた。
105元祖よこはま:2001/03/20(火) 02:53
私はどの経典のどこ、という書き方はしないが、
たとえばかなり初期の経典で、人の死後のことについてたずねられた釈迦が、
燃えている薪を例に説明していたのを読んだ記憶がある。
確か、薪がなくなれば燃えている炎はどうなるか、と釈迦がその質問者に尋ね返し、
質問者が、薪がなければ炎も消えてしまう、と答えると、
釈迦は、それと同じだ、と答えたという。

#103はいよいよアゴン臭っぽいね。
10637:2001/03/20(火) 16:54
>105
ろうそくの譬えもありますよね。
同じような話ですが。
それと、富楼那が死んだとき比丘たちが
「彼は死んでからどんなところにおもむくでしょうか。彼にいかなる来世があるでしょうか」
と釈尊に聞くと
「富楼那はまったき涅槃に入ったのである」
と答えた。
これも釈尊が輪廻とそれからの解脱をどう考えていたかを知る挿話だと思います。
107渡海 難 p31-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/20(火) 21:37
>>8 名前:名無しさん@1周年さん
>輪廻説はインド土着の習俗にすぎない。

 インド土着の習俗として存在していた輪廻説を触媒に、仏教はある時期、独自の思想を深めた。深めた後で、逆に飲み込まれたという面があるんじゃないでしょうか。深まった独自の思想は、表面は似ているけど換骨奪胎している。ところが、ミイラ取りがミイラになって飲み込まれているという面がある(笑)。
 ミイラになった思想ではなく、換骨奪胎したときの思想に目を向けたいと思います。

>チベットの坊さんは「輪廻が無ければ仏教は成り立たない」とはっきり断言していますね。

 チベットの輪廻観は、古代仏教と古代キリスト教とが融合し、仏教の中に復活の概念が挿入されたものではないでしょうか。これは僕の想像的仮説です。西暦2,3世紀頃、ローマがキリスト教を国教化すると、中央アジアで仏教とキリスト教は盛んに衝突した。景教もイランから中国に入る。チベット輪廻論はキリスト教的感じがある。

>>14 名前:タブラ
>ブッダは「永遠に持続する実体などない」ととなえた。これはどう考えても輪廻転生説の否定。
   <そんなこたぁ無いでしょう(笑)。>

>悟ろうが悟るまいが輪廻転生などしない      <なるほど。ウンウン。>
>悟ったものだけが輪廻のサイクルを脱する     <大事な知見だ。矛盾はない。>
>悟ったものはそもそも輪廻説を信じない      <輪廻説は大事な知見だ。>
108渡海 難 p31-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/20(火) 21:37
>>15 名前:名無しさん@1周年さん
>ブッダは「永遠に持続する実体などない」ととなえた。とも仰った

 そうそう。実体は無いというのは、山を頂上から見下ろしたときの知見。輪廻はあるというのは、同じ山を麓から見上げた知見。頂上から見下ろした場合と、麓から見上げた場合では、山は正反対に見える。正反対に見えても、同じ山についての知見なのさ。

>なんていうエピソードもあります。   <ほんとう!?>

>>21 名前:釈尊は輪廻転生を肯定している!さん。
>成仏の定義は何かと言うと、「成仏=輪廻転生から解脱する事」です   <そうそう。> 

>輪廻転生を否定するなら仏教の目的そのものを否定する事になります。
  そんなこぁないでしょう(笑)。

>これは釈尊が説かれた「断見」です。  <そうそう。>
>輪廻転生を肯定しておられます。 <読んだことはないけどそうだと思うよ。>

>「異蘊」というのが、人が死んだ後に存在を受け継ぐものであると解釈されています。

 聞いたことはないが、僕も知らないいろんな説明法があるだろう。説明法は多種あっても、言いたいことは一つだろう。
109渡海 難 p31-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/20(火) 21:38
>>27 名前:名無しさん@1周年
>輪廻転生を肯定も否定もしなくても別に問題なし。    <ひとつの大事な見識だ。>

>>31 名前:mrさん
>人間以外全てのものが魂(仏性)を持つというもの、まあこれは大乗経典だけどね
     仏性と魂とイコールなの?

>>35 名前:名無しさん@1周年さん
>輪廻転生のあるなしは、結論のでない議論。     <ひとつの大事な見識だな>

>>36 名前:28さん
>昆虫だな。あれにこころがあるのかどうかが微妙ですね。

 風や雷を起こすのは龍なんだけど、龍は神様でもある。龍神様には魂はあるのかな。無いのかな?雷神、風神はどうかな?


>>69 名前:37さん
>死後の世界があってよし、死んでおしまいでもよし。   <共感できそう>
110渡海 難 p31-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/20(火) 21:39
>>71 名前:霊の存在を否定する坊さん!?
>「追善供養、施餓鬼供養をやれ」って勧められるわけ?

 追善供養、施餓鬼供養は、歴史的(五〇〇年,1000年昔)には、意味があったと僕は思う。今では歴史的使命を終えていると思う。

>施餓鬼供養すすめて、お金を取るなんて「詐欺」じゃないの?   <ウン、ウン。>

>>76 名前:元祖よこはまさん
>後に残された人間のためにやるものだ。   <そうそう>

>輪廻説と無我説は本来矛盾しない。     <そうそう>

>「個人」としてのパーソナリティーというものを「実在」として捉えているから。   <そうそう。>

>ただ、一時的にそういうものが存在するかのように見える理由というのはあるかもしれない。
     <ウンウン>

>あなたそこから来て、そこへ返っていく。本来その循環を輪廻というのであって、そうであれば無我説と輪廻説は矛盾しない。
    ???
111渡海 難 p31-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/20(火) 21:40
>>79 名前:58=エロチスト
>成立しないのはお寺の営業活動。    <惰眠をむさぼれなくなるということでしょう>

>>80 名前:37
>その恩のために供養する。
 きれい事を言うなら、金銭の授受、多寡とは切り離してやればいい。そこに金銭の授受、多寡が絡むから話がおかしくなる。
 ミリンダ王の時代には意味があったことが、果たして21世紀にその価値観をスライドすることは妥当かどうか。

>>91 名前:科学的思考が重要ださん
>検討・研究したことが無い事象に関して、頭から「そんなことはありえない」と断ずる態度は、実に「非科学的な」態度であることは、十分にご存知だと思うが、それでよいか?

 科学的真理と、宗教的知見とは立場が違う。科学的真理は大事だが、科学的物差しで全てが測れる訳ではない。

>「輪廻転生を否定したら、仏教の根本原理は完全に崩れてしまう。」と言いかえるべきである。
    <そんなこたぁないでしょう(笑)。>

>>98 名前:名無しさん@1周年
>「輪廻転生を否定したら、仏教の根本原理は完全に崩れてしまう。」などといことはありません。
    <そうだよねー。>

>>101 名前:79
>輪廻説を肯定していたとなると、完全に自己矛盾をきたしていることになります。
       <そんなこたー、ないでしょう。(笑)>
11279=101:2001/03/20(火) 23:34
>>111
>そんなこたー、ないでしょう。(笑)

なぜでしょうか?
人間存在も条件の集合体であり暫定的なものです。
条件がうしなわれれば存在は霧散します。
そのことをいっているのが縁起説です。
それとも「存在」だけは縁起説の範疇外にある<特例>ということでしょうか?
生がおわったあとも何かが存続すると。条件によって成立していない<非空>的
な存在があると・・・。
それはあまり仏教徒らしからぬ考えだと思いますが。
113名無しさん@1周年:2001/03/20(火) 23:45
スッタニパータより。

「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか。あるいはまた常住
であって、そこなわれないのでしょうか。聖者さま。どうかそれをわた
くしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておら
れるからです。」
114名無しさん@1周年:2001/03/20(火) 23:46
113の続き

師は答えた。

「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しな
い。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすかが、彼には存在しない。
あらゆる事柄がすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり
絶えてしまったのである。」
115名無しさん@1周年:2001/03/21(水) 11:54
>>107

キリスト教で言う「復活」とは、キリストにしか適用されないものです。
むしろ、キリスト教は輪廻転生を頑なに拒否しつづけることでは「最右翼」
です。輪廻転生がどうしてキリスト教に結びつくのか、さっぱり理解でき
ません。
116名無しさん@そうだ選挙にいこう:2001/03/21(水) 13:59
>キリスト教は輪廻転生を頑なに拒否しつづけることでは「最右翼」
>です。

107さんの言ってることもどうかと思うが、
原始キリスト教では輪廻を信じていた。
もちろんこのスレッドの100が言うような意味のではないが。
確か「ナグハマディ写本」だか文書だかで、
キリスト教学者が研究した本が出版されているから読んでごらん。
115さんがキリスト教徒なら、目からうろこのはずだよ。
11737:2001/03/21(水) 17:16
チベットの輪廻ですが、山口瑞鳳「チベット」によると、
ダライラマ5世は自伝で生まれ変わりを信じていないと書いているそうです。
またチベット死者の書についても山口瑞鳳らしくぼろくそに言っています。
興味がある人は読んで下さいね。>107のような私見が笑えます。
118115:2001/03/21(水) 17:30
>116

それはグノーシス主義のことでしょうか?
読んでご覧といわれても、タイトルがわからないようでは...。
『トマスの福音書』位は通読していますけどね。
119渡海 難 p18-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/21(水) 18:29
>112 名前: 79=101
>条件がうしなわれれば存在は霧散します。そのことをいっているのが縁起説です。

 存在とは何でしょうか。112 さん。貴方は人間として存在していますか。人間として存在していませんか。まあ、変な質問でも怒らんでください(笑)。貴方を幽霊だなどと言っているんじゃないんですよ。
 僕らは普通、人間として誕生すれば、死ぬまで人間として生き続けると思ってます。僕らが病気になって病院に行けば、お医者さんは牛や豚が来たとは思わない。人間の患者さんが来たと思ってくれる。病院に行ったら「うちは犬猫病院じゃない」なんて言われた覚えは、僕だって一度もない。
 ところが裁判所ではそうじゃない。傍聴席に座っていると分かる。事件被害者やその家族は、被告席に向かって冷たい視線を向ける。「あいつは人間じゃない。あいつはケダモノだ。鬼だ」。こう、露骨に罵声を浴びせる人だっているでしょう。被告席には誰が座っていると思いますか。人間の仮面を被った鬼、ケダモノが座って居るんです。分かりますか?
 人間の仮面を被り続けても、ケダモノの心でケダモノの行為をする者は、ケダモノなんですよ。鬼の心で鬼の行為をする者は、鬼なんですよ。鬼の心で鬼の行為をしているくせに、口先で「自分は人権のある人間だ」と叫べば、それは恥べき存在です。親は、被告席の息子を見て悲しむでしょう。子供の時は可愛い子だったのにねぇ。なんであんな鬼になっちゃったんだろうって。
 人は、絶えず意思と行動を変えます。生きながらにして鬼となり、ケダモノとなり、地獄にも堕ちます。だからこそ釈尊先生は二九歳の時出家しました。出家のとき一人の僧が誕生しました。一人の王が死にました。このときも死があり、新たな生がありました。釈迦このとき、最後の生死を越えました。
120渡海 難 p18-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/21(水) 18:31
 人には比較的広い意思があります。意思に即した行動があります。ただし人間の行動は、意思の全てを実現できるものではありません。あくまで一部を実現できるだけです。
 世の中に天才と呼ばれる人がいます。彼らは超人的な意思を持ち、超人的な行動力を持ちます。あるいは、国家の意思を決定する政治家達は、しばしば無数の人民まで動員して自己の意思を実現します。これを天と言います。
 自分の意志を持てず、他人の意思命令で動かされ、死地にまで赴かなければならない人々がいます。組織人であり代表は軍人です。軍人は、しばしば人民の上に立って天の意思を実現します。終戦後、軍人マッカーサーは、アメリカ大統領というい天に動かされながら、日本国民の上に君臨しました。こうした軍人は、人民以下の境遇を強いられることもあります。南太平洋に飛ばされた軍人の多くは人間以下の境遇の中で餓死していきました。阿修羅といいます。阿修羅は独自の意思(顔)を持たず、他人の複数の顔(意思)をもって行動します。
121渡海 難 p18-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/21(水) 18:31
 自律的盲目的な意思と、そんな盲目的な意思の下で行動するという主体があります。これがケダモノです。雨が降る。あるいは雷が轟く。ここに行為の実現を直感し、その行為から行為を意思している主体の存在が観念できます。本当に必要なときには雨が降らず、降らないでもいいときに雨が降る。天候の主体は、場当たり的で智恵はないようです。仏教はここに龍神というケダモノの存在を観念します。
 盲目的な意思の中でも、特に限定的な意思つまり欲望が全てという存在があります。欲望だけに駆り立てられ、その充足を求めて飢えた行動に駆り立てられる存在というものがあります。餓鬼と言います。
 飽くなき欲望だけに駆られながら、微動だに行動できないという場合があります。燃え盛る炎がそのまま氷詰めされたような状況でしょう。これを地の獄つまり地獄といいます。
 「地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天」これを六道と言います。人はしばしば意思と行動を変えます。意思と行動を変えるたびに死があり、新たな命の誕生があります。昨日まで有頂天にあった者が、今日は地獄に堕ち、翌日は餓鬼道をさまようということがあります。餓鬼・畜生界をさまよいながら、「馬鹿だった、馬鹿だった」と人はしばしば後悔します。後悔しても後悔しても、やはり次も同じような馬鹿をくり返すことがあります。後悔しても後悔しても馬鹿から抜けることは出来ません。輪廻の原因は無明にあります。無明(原因)を断てば人は生死の迷いを超えます。
122渡海 難 p18-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/21(水) 18:32
>115
>輪廻転生がどうしてキリスト教に結びつくのか、さっぱり理解できません。

 チベット仏教は真言・浄土教に類似するようです。梵文大無量寿経の一つはチベットから発見されています。チベットでは高僧が死ぬと、その魂がどこかに生まれるそうです。浄土教は輪廻を説きますが、輪廻界は地獄から天界までです。声聞・縁覚・菩薩・仏に輪廻はありません。なぜなら輪廻を断つのが悟りです。釈尊先生は余すことなく全てをやりつくして涅槃に入られました。釈尊先生は、誕生の時に最後の生死を越えました(ブッダチャリタ)。釈尊先生の入滅は、医学的な見知では知りませんが、思想的には死ではありません。やるべき事が全て尽きた無余涅槃の状態にあります。だから、釈尊先生に輪廻はありません。
 大乗仏教の仏・菩薩が輪廻転生するという思想は、仏教にはありません。僧は、出家の時に頭を剃り、ひげをそります。これは赤ん坊になることを意味します。僧は出家の時に最後の生死を通過します。誕生して名前を貰います。戒名です。チベット仏教の輪廻思想は明らかに大乗仏教の思想の外にあります。

 イエス言い給(たま)ふ。『なんぢの兄弟は甦(よみが)へるべし』マルタ言ふ『をはりの日、復活(よみがへり)のときに甦(よみが)へるべきことを知る』イエス言ひ給ふ『我は復活(よみがへり)なり、生命(いのち)なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡(おほよ)そ生きて我を信ずる者は、永遠(とこしへ)に死なざるべし。汝これを信ずるか』彼いふ『主よ然(しか)り、我なんぢは世に来るべきキリスト、神の子なりと信ず』(ヨハネ伝11-27)。
 復活祭は西洋では草木が蘇生する春の祭りです。イエスは神の子でした。アダムは神の子なり(ルカ3-38)。イエスはアダムの生まれ変わりです。昇天したイエスは終末に再び地上に現れ、人々を墓から蘇らせるそうです。善人と悪人に分け、悪人は尽く永遠の地獄に落とし、煉獄を開放して全てを天国に導くというのがローマカトリックの教えだそうです。
 大乗仏教の高僧が死んで蘇生するという思想は、キリスト教起源の思想でしょう。
123115:2001/03/21(水) 19:08
>122

「復活」と輪廻転生思想とは同じではありませんよ。引用の最初の
部分はラザロの復活で、別の個体への生まれ変わりではない。
おわりの日の復活も同様で、最後の審判が始まるまで墓の中にいて、
ラッパと同時に復活するのです。これも別の個体にはなりません。

>イエスはアダムの生まれ変わりです。

アダムによって全人類を巻き込む原罪ができたのに、なぜその
生まれ変わりのイエスに原罪をぬぐう力がでてくるのでしょう?
こんな珍説を認めたら、キリスト教会の教義が根底からすっと
んでしまう。

天国、地獄、煉獄とも、永遠に住みつづけるので、そこからは
二度と人間界に生まれることはないと教えるのです。だから、
輪廻転生はない。地獄ではゲヘナの火で「永遠に」焼かれるの
ですよ。
124名無し:2001/03/21(水) 23:24
初歩的疑問として、釈迦のゆうこと真に受けてもよいもの?彼が発した
ものは絶対受け入れるべき真理とでも?

彼とて所詮被造物の生命。結局誰もほんとのことはわからない。あえて
いえば、釈迦は弟子にこういいたかったんじゃないのかな。
  「悪いけど俺、なんもわからんよ。」
125渡海 難 p29-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/21(水) 23:51
>115さんへ
 悪いけど、僕は、貴方とこのスレッドでキリスト教論争しようとは思いませんよ(笑)。チベット仏教の輪廻思想は、仏教以外の思想の影響を受けたものだろうという仮説を主張するのがここでの今の僕の限度です。影響は、キリスト教起源か、ゾロアスター教起源か、ヒンズー教起源か、僕には分かりません。キリスト教起源の可能性が大きそうだという可能性を述べてみました。

 あなたは、「キリスト教の復活思想は、仏教の輪廻しそうに起源がある」と僕が言ってるように聞こえましたか。チベット仏教の輪廻思想は、キリスト教の復活思想の影響を受けて変質したと言っているだけなんですけどね。キリスト教起源の可能性があるという仮説が出るだけで、貴方は反応する方のようですね。貴方の中の信念が壊れそうですか。
 キリスト教の思想が、他の思想に影響を与えると言うことはあり得ないんでしょうか。キリスト教の思想が他の思想に影響を与えると、「復活」と輪廻転生思想とは同じであるという思想に変わるわけですか?
 貴方のキリスト教思想だって、よそのクリスチャンが聞いたらびっくりするような内容かも知れませんよ。自分の宗教信念だけが正当と思ったら大間違いですよ。
 イエスが死ぬと、弟子の一部はアフリカに渡ってエチオピアで布教をしています。エチオピアにわたった宗派は西アジヤからヨーロッパに伝わったキリスト教からは孤立して独自の思想を発展させています。
 ローマで国教になったキリスト教は、やがて激しい論争を起こします。論争に負けると、ネストリウス派はイランに移り、その一部は更に中国、モンゴルに移る。
126渡海 難 p29-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/21(水) 23:51
 論争に勝った一派も、やがてローマ帝国の分裂によって東西に別れる。
 東の宗派の一部は北に上る。ギリシャの衰退によって東の宗派はギリシャ正教とロシア正教とに分かれる。西の一派はローマカトリックとなる。ローマカトリックからプロテスタントが分派し、プロテスタントはローマカトリックを攻撃する。
 ローマカトリックと争ったプロテスタントも、各地で様々な教派に分かれていく。
 イギリス王室は、ローマカトリックの教義に不満で、独自の教派を建てて分裂する。最近は、エホバの証人とか統一協会もキリスト教を名乗っている。

>こんな珍説を認めたら、キリスト教会の教義が根底からすっとんでしまう。

 「キリスト教会の教義が根底からすっとんでしまう」なんて、どこのキリスト教のことを言っているんでしょうか。こんな主張で吹っ飛ぶキリスト教なら、キリスト教なんかはとっくの昔に吹っ飛んでいたでしょう。僕の主張で吹っ飛ぶキリスト教とは、世界中で115さん、貴方のキリスト教だけでしょう(笑)。
127名無しさん@1周年:2001/03/22(木) 00:36
>>124
>彼とて所詮被造物の生命。結局誰もほんとのことはわからない。
>あえていえば、釈迦は弟子にこういいたかったんじゃないのかな。
>  「悪いけど俺、なんもわからんよ。」

その後にこう続けるんだよ。「おまえだって何もわからんのだろう?」

しらんものはしらん。それは釈尊だって同じだ。ただ釈尊は知っていた。
なにを?苦の原因とその原因を取り除く方法を。

128名無しさん@1周年:2001/03/22(木) 01:34
不毛だ...
129元祖よこはま:2001/03/22(木) 01:41
>>117 チベットの輪廻ですが、山口瑞鳳「チベット」によると、
>ダライラマ5世は自伝で生まれ変わりを信じていないと書いているそうです。

その本は知らなかった。教えてくれてありがとう。

>またチベット死者の書についても山口瑞鳳らしくぼろくそに言っています。

だいたいオウムとか、このスレッドの100のような阿含宗がちやほやするからいけない(笑)。
私は以前、チベットのラマ僧と論争したことがあるが、驚くほど仏教に対して無知な上に、
オカルト的なことばかり言って自分は知っているつもりでいた。

>>122大乗仏教の仏・菩薩が輪廻転生するという思想は、仏教にはありません。

渡海さん。ご存知と思いますが「菩薩」はもともと大乗仏教では単に仏教の修行者を指すことばです。
つまり誰でも出家すれば、その日から菩薩の称号を得ることが出来ます。
また、悟りの「結果」として輪廻からの脱却があるのではなく、
「(輪廻の主体としての自我が無いので)輪廻がない」という、
ありのままの真実に気がつくこと、が悟りです。

>>123
>天国、地獄、煉獄とも、永遠に住みつづけるので、そこからは
>二度と人間界に生まれることはないと教えるのです。だから、
>輪廻転生はない。地獄ではゲヘナの火で「永遠に」焼かれるの
>ですよ。

ま、まさか本気じゃないよね?
ネタ、だよね…?。
130112:2001/03/22(木) 02:39
>渡海さん
>119〜121

丁寧なレス恐縮です。
おっしゃってることは解ります。六道輪廻をこころのあり方に喩える考え方と、
そもそも「自分は人間なのか、存在するのか」という空の考え方ですね。
そこのところに異存はありません。
しかしふつう「輪廻転生」といった場合、非仏教徒(ようするに檀家信徒の大半
・笑)は、そのような含蓄があるとはしらず、すなおに死後生・魂の永遠性の
肯定と受取っていると思います。坊主はみんな死後の世界や生まれかわりを肯定
していると。そして、その<誤解>をわざと放置してビジネスに利用している寺が
あります。
もっとストレートに「六道輪廻は心のありようの喩え」「人間存在を空ととら
える」と言えばよいと思います。
わたしが言いたかったのは誤解をうみやすい表現をわざと(?)放置している仏教
界のありかたのことです。
131Miss名無しさん:2001/03/22(木) 04:53
クーソーしてから寝てください。
132名無しさん@1:2001/03/22(木) 05:06
神にも寿命はある。
133115:2001/03/22(木) 08:55
>126

私はキリスト教徒ではありません。しかし、キリスト教の教義を学ばずに
批判することはできないので、ひと通り勉強しています。

しかし、あなたほどキリスト教をご存知ない人も珍しい。嘘だと思ったら、
キリスト教徒の方に尋ねて御覧なさい。そういう調子で脱線していく所を
見ると、仏教の方も期待できそうにないですね。あなたは真理に至るため
に議論しているのではなく、自説を正当化し、真理をねじ曲げんとして
愚論を繰り返している。
134115:2001/03/22(木) 09:29
どんなものでもキリスト教というわけではないことを知ってもらう
ために、キリスト教信条の概要を書いておきます。これを外れたら、
キリスト教とは呼べない。

・天地の造り主、全能の父なる神を信じる。その独り子、我らの主、
イエス・キリストを信じる。
・主は聖霊によってやどり、処女マリアより生まれ、ピラトのもと
で苦しみを受け、十字架刑によって死んだのち、3日目に復活し、
天にのぼった。
・聖霊、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみ
がえり(最後の審判のこと)、永遠の生命を信じる。

イエスが輪廻転生によって生まれたとすると、「神の独り子」、
「聖霊によってやどり」の部分に抵触するから、絶対に認められな
いのです。

ことわっておきますが、私はキリスト教信条が正しい、と言ってい
るのではなく、キリスト教信条に外れるようなキリスト教など存在
しない、せいぜい、渡海さんの身勝手な定義にすぎないということ。
13537:2001/03/22(木) 16:28
>129
山口瑞鳳「チベット」という本は、題名通りチベットについての本ですが、
仏教思想の入門書といえる部分もあります。
中観や唯識とはなにか、それをチベット人、ツォカパたちがどう受容し発展させたか、
が書かれています。
まあ私は空のことはわかりませんけど。
136かとりこ:2001/03/22(木) 16:40
海渡さんは輪廻転生の出典をキリスト教に求めたいみたいだが、
もともと、ペルシャあたりの宗教觀、永遠の命についての考え方が
土台にあって分かれたんじゃないかな?
キリスト教の影響よりそっちが大きいと思うんだけどね。
あと、マニ教は輪廻転生的発想があるみたいだけどね。
キリスト教の成立時代に存在していたものだが。
マニ教は仏教思想の影響が強いなんて言われてるな。
だとすれば時間的におかしくないか。詳しい人の知識が欲しいね。
13737:2001/03/22(木) 17:04
>123の115さん
>天国、地獄、煉獄とも、永遠に住みつづけるので
煉獄は違うんじゃないですか。
キリスト教の地獄は文字通り永遠の苦しみで、そこからのがれることはできないけど、
煉獄は仏教の地獄みたいなとこで、ある程度の時間が経ったら天国かどこかへ行ける
んじゃなかったでしょうか。
もちろんそれが輪廻だと言うつもりはありません。
それとアメリカ人の25%が生まれ変わりを信じているそうですが、
これはキリスト教からいうとどうなんでしょうね。
アメリカのキリスト教はなんでもありだそうですから、生まれ変わりも教義に含んでいるでしょうか。

13837:2001/03/22(木) 17:09
>136
「黄金伝説と仏陀伝 聖伝に隠された東西交流」原田実
という本がありまして、キリスト教とインド思想、もちろん仏教は
お互い影響がかなりあるらしい。興味ある人は読んで下さい。
チベットの転生思想もキリスト教の影響だというのは妄想に近いとは思いますけど。
139115:2001/03/22(木) 17:16
>137

確かにそうでしたね。煉獄は少なくとも過渡的なものですね。
煉獄って、後世の教父達が付け加えたらしいですね。地獄で
永遠というのはさすがにあんまりだ、ということで。

アメリカ人が輪廻転生を信じだしたのは、多分ですが、エドガー
ケイシーがアメリカに出たのが大きいかもしれません。彼は
基本的にはキリスト教徒でありながら、輪廻転生はある、とは
っきり言っていますからね。輪廻転生を認めるキリスト教の一派
があるかどうかは、私は知りません。
140かとりこ:2001/03/22(木) 17:19
お〜。
面白そうな本ありがとうな。今度本屋で探すよ。
「黄金伝説」に仏教の説話が入ってるというのはほんとみたいだね。
前に調べてて驚いた事がある。人文書院の註解の説明読んでね。
141渡海 難 p57-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/22(木) 19:21
129 名前:元祖よこはまさん

>ご存知と思いますが「菩薩」はもともと大乗仏教では単に仏教の修行者を指すことばです。つまり誰でも出家すれば、その日から菩薩の称号を得ることが出来ます。

 広辞苑を引用します。
 菩薩 (梵語bodhisattva)
 さとりを求めて修行する人。もと、成道以前の釈迦牟尼および前世のそれを指して言った。後に、大乗仏教で、自利・利他を求める修行者を指し、自利のみの小乗の声聞シヨウモン・縁覚に対するようになった。また、観世音・地蔵のように、仏に次ぐ崇拝対象ともされる。
 菩提薩
  朝廷から碩徳の高僧に賜った号。また、世人が高僧を尊称して用いる号。「行基―」

 大乗仏教で菩薩とは、自利の小乗段階を終え、大乗段階の修行に入った人を指します。菩薩の称号は、経典中の登場人物例えば観音菩薩、勢至菩薩、弥勒菩薩等々があります。歴史上の人物では、龍樹菩薩、世親菩薩など、菩薩と言われる人の範囲は限られます。中国仏教で「菩薩」とは、皇帝が特定の高僧を尊称するときに使っています。我が国で菩薩と呼ばれる方はただ一人です。行基菩薩です。
(真言宗では弘法大師を菩薩と尊称しているかも知れない。僕には確認できません)
 出家すれば、その日から菩薩の称号を得ることが出来るといいのは、元祖よこはま仏教(登録商標?)さん限りでの話でしょう(笑)。
142渡海 難 p57-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/22(木) 19:21
>「(輪廻の主体としての自我が無いので)輪廻がない」という

 輪廻の主体としての自我が無いということと、輪廻は無いということは、議論の次元が違う話です。輪廻しているということが、紛れもなく無我の根拠です。

>輪廻がないという、ありのままの真実に気がつくこと

 まあ、輪廻は無いと表現してもいいでしょう。あなたは禅宗の方ですか。禅などの立場で言えば輪廻は無いということになるでしょう。禅の坊さんでも来世を説く人はいるらしい。その場合、僕には考えがよく分からない。
 輪廻があるというのは、あくまで一つの説明方法です。輪廻は無いというのも一つの説明方法でしょう。禅をやっている方が「輪廻はない」と言うなら、僕は異論を挟みません。同じ山も、頂上から見れば目の下に見える。麓から見れば目の上に見える。僕は念仏者です。親鸞に学びます。親鸞仏教は山を見上げる。禅宗は山を見下ろす。禅の人が「輪廻はない」というところを、「輪廻はある」と僕らは言う。言葉は正反対でも、言っている事に本質的な違いはない。
 ただ、頂上に立っているつもりの人が、「山は目の上にある」と言えば、蜃気楼を見ていることなる。これはおかしい。麓に立っているはずのひとが「山は目の下にある」と言えばこれもおかしい。湖か何かに移っている影を見ているんだろう。「輪廻はある」と言う人でも、正しく輪廻を理解してそう言っている人と、誤解して言っている人がいる。「輪廻はない」と言う人でも同じです。
 輪廻はあるのか無いのか、議論の結論はどうでもいい。あると言ってもいい。無いと言ってもいい。大事なのは思考のプロセスだ。

>ま、まさか本気じゃないよね?ネタ、だよね…?。

 ま。いろんな考えの人がいる。驚くに値しない。考えは自由ですよ。
143渡海 難 p57-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/22(木) 19:22
130 名前:112さんへ

>おっしゃってることは解ります。六道輪廻をこころのあり方に喩える

 ウーム。何と言ったらいいかな。ちょっと違うようだな。
 例えば、小学校の時に誘拐してその子が十九才になるまで監禁していた男がいた。犯人は逮捕され、その後の取り調べで供述はすらすらとしていたという。そして、監禁時代を懐かしみ「あのころはよかった」なんて言っているという報道もあった。今でもその男は拘留されているはずだ。
 僕は、事件の報道を聞いて唖然とした。警察のお粗末振りに腹が立ち、男の母親にも憤りを覚える。女の子が監禁されていて、それを救えなかったなんてことはとんでもないことだと思う。それじゃ、その男が監禁されることはどうだろうか。逮捕後、男は警察に留置され、公判中は拘留されているだろう。当然懲役刑が待っているだろう。逮捕・留置・拘留・服役という監禁状態については、恐らく誰一人反対しないだろう。なぜなら、女の子を十年間も恐怖の中で監禁するなんてとんでもないことをすれば、誰でも当然の結果だと思うだろう。
 女の子を監禁していたとき、男は女の子に対しては絶対的な権力を持っていた。女の子を拘束する自由な意思と、実行力を持っていた。発覚すると、男は逆に自分が拘束される立場に立った。色んな思いや願望が出てきても、行動は極端に拘束される。行動は極端に拘束されているというのは、心の世界の問題じゃない。現実の問題だろう。
 輪廻というのは、決して心のあり方の喩えじゃない。僕は実存的に理解する。
144渡海 難 p57-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/22(木) 19:22
>そもそも「自分は人間なのか、存在するのか」という空の考え方ですね。

 ウーム。ここも違う。空の考え方じゃない。輪廻の考え方だ。
 空で言えば、少女の監禁も空だし、男の逮捕・留置・拘留・服役も空だ。少女の存在も空だし、男の存在も空だ。何一つ実体はない。そういう見方も必要な場合はあるだろう。ゆるしあいという時には、空は強力な根拠を発揮する。でも、監禁されていた女の子に、犯人の男を許してあげなさいと言えば、社会には血も涙も無くなる恐れがある。男も無罪放免にしましょうといえば、明らかに不合理だ。
 輪廻と空は、その説明で目指す到達点は多分同じだと思う。でも、考えのプロセスは違う。僕に空は扱えない。僕は輪廻で考える考えにな慣らされてきた。
145渡海 難 p57-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/22(木) 19:23
>すなおに死後生・魂の永遠性の肯定と受取っていると思います。

 死後の永遠性、肉体崩壊後の輪廻というのは、大事な問題だ。僕らは、実に時に有頂天になり、ケダモノになり、鬼になり、真人間になったかと思ったら、次の瞬間には地獄の苦しみも受ける。六(りく)道輪廻は無知(無明)による。
 女の子をケダモノのように監禁していたのも、男の愚かさの表れだ。智恵があればそんな馬鹿なことはしなかったろう。男はその後、警察ではすらすらと自供していたという。すらすらと自供していても、本質的な愚かさは、逮捕、取り調べで治るもんじゃないだろう。愚かさは変わってないだろう。
 無明は因であり、六(りく)道輪廻が果として表れる。六道輪廻は無明を本質とする。だから、無明は六(りく)道輪廻として評価される。六道輪廻という姿で有形的に観念できる。
 僕らの無明は死んで無くなるものじゃない。生まれてはじめてできたものでも無い。僕が昨日やった失敗は、今後も繰り返し行われるしくじりの一つであり、今後も多くの人がくり返すしくじりの一つだろう。これまで多くの人がくり返しくり返し行ってきたしくじりと同じしくじりを、僕は明日行うかも知れない。少女監禁という馬鹿な行為は、徳川時代にも、室町時代にもあったそうだ。あってはならないが、五〇年後、百年後もくり返されるかも知れない。僕を貫く無明は、僕の誕生に始まったものでなく、僕の死で終わるものでもない。闇は時代、地域を超えている。普遍的であり、無限の過去から無限の未来に時間を超えて貫いている。それなら、自分自身というものは、過去から未来に向かって無限に六道を輪廻する存在として観念できる。
 僕は、霊魂というものがあるのか無いのか知らない。霊魂の存否に関わらず、霊魂があっても無くても関係なく、僕はこの自分自身を過去から未来に向かって六道を廻(めぐ)っていく存在として観念できる。僕はそう思うんですよ。
146渡海 難 p57-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/22(木) 19:24
133 名前:115さん
>私はキリスト教徒ではありません。しかし、キリスト教の教義を学ばずに批判することはできないので、ひと通り勉強しています。

 そうですか。あなたはキリスト教を信じていないキリスト教の批判論者なんですね。

>あなたほどキリスト教をご存知ない人も珍しい。嘘だと思ったら、キリスト教徒の方に尋ねて御覧なさい。

 115さんが批判の矛先を浴びせるような相手のキリスト教徒に尋ねるといいのでしょうか?キリスト教を信じない115さんのに同調するようなキリスト教信仰者に尋ねるといいのでしょうか?

>自説を正当化し、真理をねじ曲げんとして愚論を繰り返している。

 どのようにお感じになっても構いせんよ。
147渡海 難 p57-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/22(木) 19:25
>どんなものでもキリスト教というわけではないことを知ってもらう

 「キリスト教というわけではない」とあなたがいうキリスト教は、貴方が批判の矛先を浴びせたいキリスト教でしょうか?キリスト教を信じているわけではない貴方が行う批判には同調するキリスト教でしょうか?
 自説を正当化し、真理をねじ曲げんとしている愚論のキリスト教なんでしょうね。

>イエスが輪廻転生によって生まれた

 イエスが輪廻転生によって生まれたなんて僕は思っていませんよ。マリヤと神官との間の密通で孕まれた子だろうと思っています。

>キリスト教信条の概要を書いておきます。これを外れたら、キリスト教とは呼べない。

 自分勝手なキリスト教信条の概要を述べてこれに批判を加える。独り相撲がお好きなようですね。

>私はキリスト教信条が正しい、と言っているのではなく

 キリスト教は間違っていると言っているんでしょうね。
148渡海 難 p57-dn01saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/22(木) 19:26
>キリスト教信条に外れるようなキリスト教など存在しない、

 貴方はどこのキリスト教を批判の対象としているんですか。キリスト教信条に外れるようなキリスト教ですか。キリスト教信条に外れないキリスト教ですか?。
 キリスト教信条に外れるようなキリスト教はキリスト教でないというなら、貴方はキリスト教信条に外れてないキリスト教を批判しているんでしょうね。キリスト教信条に外れてないキリスト教を、キリスト教信条に外れているいと批判しているのでしょうか。真理をねじ曲げんとしている愚論ですね。

>渡海さんの身勝手な定義にすぎないということ。

 愚論をくり返す人から何を言われても構いませんよ。


136 名前: かとりこさん
>海渡さんは輪廻転生の出典をキリスト教に求めたいみたいだが

「海渡さんは輪廻転生の出典をキリスト教に求めたいんだ」ということに、かとりこさんはしたいみたいですね。あなたは幻の渡海 難とでも相撲を取りますか。
149名無しさん:2001/03/22(木) 23:25
>>104
>しかし、「身破れ命終して現世の五蘊が消滅しても、異蘊が生じて相続する。」とはっきりと述べられています。
>この中で「異蘊」というのが、人が死んだ後に存在を受け継ぐものであると解釈されています。
と書いているが、「異蘊」が永遠不滅だ、とでも書いてあるのか?
かりに「異蘊」が神智学徒の言うようなアストラル体やらなんやらに相当するものだとして、それが転生するとしても、それで「異蘊」が魂で永遠不滅の存在だ、ということには
「全く」ならない。

私は、「異蘊」が永遠不滅だとは一言も言っていません。
釈尊も言われるように、縁が無くなれば、その存在も無くなるのですから、肉体が滅びた後、輪廻転生する縁が無くなっている時(すなわち、ニルバーナに達している時)は、「異蘊」も存続せず、輪廻転生もせず、迷いの生存から解脱するということです。

150元祖よこはま:2001/03/22(木) 23:55
>>141 >広辞苑を引用します。
> 菩薩 (梵語bodhisattva)
> さとりを求めて修行する人。もと、成道以前の釈迦牟尼および前世のそれを指して言った。
>後に、大乗仏教で、自利・利他を求める修行者を指し…。

つまり、これを読んでも「もとの意味は」仏教の修行者=菩薩ってことだね。
まあ、「称号を得る」という書き方は悪かったが、
ようは、この手の言葉は国によって時代によって意味が違ってくる。
日本では菩薩は一人しかいないかも知れないが、チベットではたくさんいる。
それを同じようには解釈できない、ってことを言いたかったんだよ。
だからチベットでは高僧でも生まれ変わるのかもしれないしね(笑)。

さらに私がこれを指摘したのは、実は「輪廻」という言葉の定義も、国により時代により違うからだ。
このスレッドの100のようなカルトが主張するような意味での輪廻はない。
それはやっぱりはっきりと否定するべきなんですよ。

>親鸞仏教は山を見上げる。禅宗は山を見下ろす。禅の人が「輪廻はない」というところを、
>「輪廻はある」と僕らは言う。言葉は正反対でも、言っている事に本質的な違いはない。

これはそのとおり。
それが分かっているなら別にどう思っていてもかまわない。
しかしあなたの>>122の説明では、カルトが喜びそうな
「輪廻からの脱却=修行の結果」みたいなことを肯定しているようにみえる。
あなたは親鸞仏教を信じるという。
しかし親鸞の言いたかったことを理解しているなら、
時代に合わせて言い方をかえることも考えるべきです。
まあ、あなたはその立場にある人ではないのかもしれないが。
144や145を読む限り、あなたもまた相当いろんな誤解を抱えたままの人のようですからね。
151元祖よこはま:2001/03/23(金) 00:14
>私は、「異蘊」が永遠不滅だとは一言も言っていません。
>釈尊も言われるように、縁が無くなれば、その存在も無くなるのですから、
>肉体が滅びた後、輪廻転生する縁が無くなっている時(すなわち、ニルバーナに達している時)は、
>「異蘊」も存続せず、輪廻転生もせず、迷いの生存から解脱するということです。

ということは「異蘊」が魂ではない、ということは認めるのかな?
さらに聞くが、なぜ「異蘊」が存続するのか、その理由を考えたことがある?
ついでに聞くと、桐山はただのボケ老人だよね?
まさか涅槃に入った人だ、なんて思っていないよね。
152かとりこ:2001/03/23(金) 01:31
>海渡
「『海渡さんは輪廻転生の出典をキリスト教に求めたいんだ』と
いうことをかとりこさんはしたいんだ」という事を海渡さんはし
たいんだな・・・・・・って、こんな言葉遊びしてもしょうがないだろう。
歴史的な前後觀がなんとなくおかしい。
と言ってるんだがそれについてはどうだ?

あと俺の前に書いてたキリスト教についての定義は、書き手は単なる
一般的カテゴリ論を述べてるだけだろ?
それが変だと思うなら海渡さんの定義するカテゴリの範囲を提示
すればいいだけだろう。この場面で相手を批判するのはどうかと
思うが。
153115:2001/03/23(金) 09:49
>152

海渡さんには何を言っても無駄ですよ。放っておきましょう。
彼が死ぬまでに、改心の機会を神様がお与えくださることを、私は祈ります。
私はサジ投げた。

154名無しさん@1周年:2001/03/23(金) 09:53
渡海 難は望んでも望まなくても、どこか小箱の様な地獄に収まる奴。
155かとりこ:2001/03/23(金) 11:41
>>153
そうだね。ユニークな論考だから、もっと緻密にやって欲しいな
という気もしたんだけどな。をれも忠告にしたがって傍観に戻るか。
156名無しさん:2001/03/23(金) 12:16
>1
死んですべてがなくなってくれるとすれば、死ねば苦も生滅するはずだから、
修行したりする必要はまるでないということになる。
生きていることは苦でしかないとすれば、さっさと安楽死すればいいという
教えになるはず。
解脱が、苦からの解脱であろうと、輪廻からの解脱であろうと、
「心(魂)の不滅」を認めなければ仏教は成り立たないのではないか。

心の不滅と、心の無常や自我の生滅とは矛盾しないという考え方なの
だろうと思う。
157渡海 難 p16-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/23(金) 18:46
>>150 名前: 元祖よこはまさん

>つまり、これを読んでも「もとの意味は」仏教の修行者=菩薩ってことだね。
    さあ (・_・??

>日本では菩薩は一人しかいないかも知れないが、チベットではたくさんいる。
    さあ (・_・?? 私は存じません。

>それを同じようには解釈できない、ってことを言いたかったんだよ。だからチベットでは高僧でも生まれ変わるのかもしれないしね(笑)。
    「だからチベットでは」?   ここでどうして順接でつながる推定が生まれるの?

>さらに私がこれを指摘したのは、実は「輪廻」という言葉の定義も、国により時代により違うからだ。
    さあ(・_・???。私は存じません。

>このスレッドの100のようなカルトが主張するような意味での輪廻はない。それはやっぱりはっきりと否定するべきなんですよ。

 さあ(・_・??
 会ったこともない人を突然カルト呼ばわりすることは、慎重にしたいですね。下手をすると相手を傷つけ、自分も傷ついて引っ込みがつかなくなる。
158渡海 難 p16-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/23(金) 18:47
> >>122の説明では、カルトが喜びそうな「輪廻からの脱却=修行の結果」みたいなことを肯定しているようにみえる。

 カルトが喜ぶかどうか知らないけれど、輪廻からの脱却と修行は、仏教の大事なテーマです。
 生死生死つまり過ちをくり返す原因は、正しいことを知らないことによる。正しいことを正しく知らないから人は過ちをくり返す。正しいことを正しく学ぼう。釈尊先生はそう考えられた。大乗仏教の智恵は教育学であり、その本質は教育活動にある。

 「前(さき)に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮(むぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。」
 教行信証の末尾の言葉です。親鸞はこのような言葉で教行信証を締めくくっていきます。
 共に学び合おうじゃないか。輪廻からの脱却方法として大乗仏教が提案したものは、互いに学び合い、教え合うことでした。生死海を尽くすとは、生死生死が果てしなく幾たびも繰り返されて行く迷いの世界を終わりにしようということです。そのためにはどうするか。前(さき)に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪えというわけです。

>144や145を読む限り、あなたもまた相当いろんな誤解を抱えたままの人のようですからね。

 会ったこともない人をいきなりカルトと呼ぶ貴方とは、価値観や考え方で違うところがたくさんあるようですね。
159渡海 難 p16-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/23(金) 18:48
>>152 名前: かとりこさん
>という事を海渡さんはしたいんだな

 いいえ違いますよ。
 輪廻転生の出典は大乗仏教にあるんです。ここは揺るぎません。ただ、大乗仏教の輪廻転生では、僧、特に高僧が生まれ変わるという思想はない。大乗の高僧は不退転の位に入るんです。「不退転」とは退いて転ぶという意味、つまり迷いの世界に戻るという意味です。不退転とは、迷いの世界に戻らないという意味です。高僧は迷いの世界に戻りません。つまり、六道に戻りません。
 神の子がこの世に復活したと言う思想がキリスト教にある。チベット仏教の輪廻思想は、大乗仏教にもともとあった輪廻転生という思想の枠組みの中で、キリスト教の神の子が大乗仏教の聖者(高僧)という概念にシフトし、高僧が転生するというふうに、キリスト教の復活思想の影響を受けて変質したものだろう。僕はそう言っているわけです。
 渡海は、輪廻転生の出典をキリスト教に求めていませんよ。輪廻転生の出典は、大乗仏教にあります。大乗仏教の輪廻転生思想がキリスト教の復活思想と出会って変質したというのです。
 恐縮ですが、海渡ではなく渡海と書いてください。どうも自分を指されている感じがしない。

>歴史的な前後觀がなんとなくおかしい。
   どのようにおかしいですか?

>この場面で相手を批判するのはどうかと思うが。
    貴方の言うことはちんぷんかんぷんだ。この言葉は貴方に向けて返しておこう。
160渡海 難 p16-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/23(金) 18:48
>>153 名前: 115
>私は祈ります。

 キリスト教徒ではない人(No133)に祈られたらたら、草場の陰で神様はさぞくしゃみをなさるじゃろう(笑)。恐縮ですが、海渡ではなく渡海と書いてください。どうも自分を呼ばれてる感じがしない。

>私はサジ投げた。
  下手な考え休むに似たりと言います。愚論をくり返すなら、休んだ方がましでしょう。


>>154 名前: 名無しさん@1周年さん
>渡海 難は望んでも望まなくても、どこか小箱の様な地獄に収まる奴。

 はいはい。あなたが落ちてく地獄なら、どんな小箱の中でもお供しますよ。
161渡海 難 p16-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/23(金) 18:49
>>155 名前:かとりこさん
>ユニークな論考だから、もっと緻密にやって欲しいな

 独創的な思想は、最初はなかなかよく分からんものですよ。頭を軟らかくして考えてください。

>をれも忠告にしたがって傍観に戻るか。

 特に質問もない。ある程度、御納得いただけた部分もあったようですね。今後は自分の頭の中でずっと反芻していくと、その内「あっ、そうだったのか」と、膝をポンと叩くときがくるでしょう。
162渡海 難 p16-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/23(金) 18:50
>>156 名前: 名無しさん
>死んですべてがなくなってくれるとすれば、死ねば苦も生滅するはずだから、修行したりする必要はまるでないということになる。

 死んですべてがなくなるということはない。156さん、失礼だけど貴方だってこれまでいろいろ失敗をしてきていると思う。今までは失敗も無かったかも知れないけれど、今後は失敗するかも知れない。もちろん成功もあるだろう。ただ、その成功も薄氷を踏む思いの成功ということもあるだろう。成功しても、そこで驕り高ぶれば、やがてまたしくじるだろう。僕らは生きている限り、先の見えない無知と背中合わせなんだ。
 この無知は、貴方が生まれて突然生じたものではない。死んで終わりになるものでもない。貴方の失敗と同じ失敗は、これまで多くの人がくり返してきた失敗と本質は同じだ。貴方の成功も、見た目は違うかも知れないけど、これまで多くの人がくり返してきた成功と本質は同じものだろう。大同小異、薄氷を踏む思いで達成される成功だ。僕らの無知は、決して自分だけのものじゃない。極めて普遍的なものなんだ。だから、その無知(無明)は、貴方が生まれて突然変化したものでもない。貴方が死んで無くなるものでもないのさ。
 ところが、ひとつ翻って考えよう。地球物理学者は石に地球の起源を教わっている。花から絵画の神髄を教わっている画家がいる。花に生命の起源を教わっている生物学者もいる。実に、あらゆるものがさまざまに僕らに真実を明らかにしようとしてくれている。無明は無くならないと言って悲観する必要は全くない。森羅万象あらゆるものが僕らに様々に真実を語ってくれている。それなら、真実を語ってくれているその心に共鳴し、そこに耳を傾け、その働きに乗託してみようじゃない。仏教の修行とは、本質はそういうことなんさ。
163渡海 難 p16-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/23(金) 18:51
>解脱が、苦からの解脱であろうと、輪廻からの解脱であろうと、「心(魂)の不滅」を認めなければ仏教は成り立たないのではないか。

 永遠なのは無明なんです。無明が永遠なんです。無明は永遠だけど、その無明も智恵が入れば明るくなる。千年の暗室も、灯がともれば一瞬で明るくなる。灯がともらないと二千年でも三千年でも暗いままなんだ。だからこそ仏教は、灯をともそうと言い、互いに学び合おうと提唱するんですよ。
164渡海 難 p48-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/23(金) 19:00
>159
誤  「不退転」とは退いて転ぶという意味、つまり迷いの世界に戻るという意味です。
正  「退転」とは退いて転ぶという意味、つまり迷いの世界に戻るという意味です。
165名無しさん:2001/03/23(金) 21:33
>>162
あのう、「死んですべてがなくなってくれるとすれば」と
仮定するとどうなるかという話をしてるだけであって、
「死んですべてがなくなるんだ」とは全然断定してませんよ。

あなたはまったく日本語が読めないようですね。
思考力もないのに妄想ばかり膨らませていろいろ書いておられるようだが、
誰もまともに読まないだろうし、サーバーの負担になるだけなので、
やめたほうが世の中のためですよ。
166元祖よこはま:2001/03/23(金) 21:42
>>157
>>さらに私がこれを指摘したのは、実は「輪廻」という言葉の定義も、国により時代により違うからだ。
>    さあ(・_・???。私は存じません。

知らないのなら素直に学べばよい。

>>それを同じようには解釈できない、ってことを言いたかったんだよ。だからチベットでは高僧でも生まれ変わるのかもしれないしね(笑)。
>    「だからチベットでは」?   ここでどうして順接でつながる推定が生まれるの?

本当にわからないんですか(苦笑)?

>さあ(・_・??
> 会ったこともない人を突然カルト呼ばわりすることは、慎重にしたいですね。下手をすると相手を傷つけ、自分も傷ついて引っ込みがつかなくなる。

心配ありがとう。しかし私は100のことはよく知っている。

>「前(さき)に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮(むぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。」
> 教行信証の末尾の言葉です。親鸞はこのような言葉で教行信証を締めくくっていきます。

なるほど。
で、「あなたは」親鸞上人の言葉どおりにしているのか?
167元祖よこはま:2001/03/23(金) 21:42
このスレッドを読み返してもらえば分かるように、私は知らないことを教われば
教えてくれてありがとう、と言うし、
相手が正しいことを言えば、それは正しい、と言う。
いつも噛み付くわけじゃない。
カルト叩きのときを別にすれば、輪廻に対する認識も基本的には>>78に書いたとおり。
あなたは「>>162森羅万象あらゆるものが僕らに様々に真実を語ってくれている。それなら、真実を語ってくれているその心に共鳴し、
そこに耳を傾け、その働きに乗託してみようじゃない。」とか「>>163互いに学び合おう」と言う。
それを口で言うのは簡単なことです。

しかしあなたは実際にそうしていないじゃないか。

だからみんなあなたにあきれているんだよ。
遅ればせながら「渡海難を問う」スレッドであなたのことを知った。
あなたの言う「森羅万象あらゆるものが僕らに様々に真実を語ってくれている。」
というのは全く正しい。
願わくば、その「森羅万象」の中に2ちゃんねるも入っていますように(笑)。

#私もこの方にはサジを投げよう。
168かとりこ:2001/03/24(土) 01:12
いやはや。ユニークというか、面白い。
海渡さんのキャラクターは気に入った。
ただ悪いが、議論は難しいと言うことだけは分かったよ。

ゾロアスター、グノーシス、新プラトン主義、ヨハネ教団とか、
ヒンズーとかジャイナ教とかその辺りの死後の世界理論と変遷を
俺も聞いてみたいと思ったけどやめとくよ。
169名無しさん@1周年:2001/03/24(土) 01:37
>>168
失礼だよ、人を見下したような書き込みはやめようよ。
170かとりこ:2001/03/24(土) 01:46
>>169
見下してないよ。マジに気に入ってるよ。
俺はこういう個性の強い人は好きなんだが。
ただ、対話は難しいだろ?やりとり見てよ。
171名無しさん@1周年:2001/03/24(土) 01:54
>169
彼の言葉遣いが偉そうなのには悪意はないと思う(たぶん)
彼の言っている内容にも別段悪意は感じられないでしょう?
もし彼のカキコが君の気を煩わせ躓かせたのなら
あまり良くない事とは思うけど、果たしてそれほどのものかい?
172かとりこ:2001/03/24(土) 02:00
>171
あれ?弁護してくれてるんだね。有り難う。
悪意はないよ。まったくね。寧ろ好きだけどね。
海渡さんみたいに強い人は。
173112:2001/03/24(土) 02:28
>渡海さん
>143〜145

なるほど「空と輪廻はおなじものを違う角度からみたもの」ということですね。
その考え方でしたら同意できます。
ただそれはうまく言えませんが、実存的な次元での解釈だとおもうんです。
(正しいことをおっしゃっていると思いますが)私が問題にしているのは
世間一般ではその実存的解釈ともっと素朴な「死後の世界」「永遠の魂」の
イメージがごっちゃにされている点です。この両者は似ているようではっきり
と区別しなければならないものだとおもいます。
174112・つづき:2001/03/24(土) 02:33
>渡海さん

また、書かれたことを拝見していますと「わたしに空はあつかえない」と
言われながらも、空観をハラにおさめられていることがうかがえます。
あえて空観を前にださないのは、真宗の教えにたいする忠実さゆえと
推察しますがどうでしょう。
ただ、私は通仏教的な意味で書いていたのであって、そこへ真宗独特の
解釈でレスされますと、いささか話が混乱するかともおもわれます。
真宗は(じつは私も真宗徒ですが)仏教のなかではかなり「異端」な部類
であって仏教にたいする解釈も独特なものがあります。通仏教的な話題
のとき真宗的な解釈をもちこむのは、ダブル・スタンダードじゃないで
すが、はなしが混乱気味になってしまうことが多いように思いますが、
どうでしょうか。
私はふだんこの両者をわけて話すことにしています。
175名無しさん@1周年:2001/03/24(土) 03:54
あらゆる可能性と元を備えた個は部を構成し全と成る。
全てを含む大いなる全は部と成り個と成り無に帰す。
再び無から全てが始まる。
176名無しさん@1周年:2001/03/24(土) 05:37
>かとりこさん
海渡×
渡海○
177α=ω=??:2001/03/24(土) 05:45
「輪廻転生」と言う生き物を
盲目なスレ住人達が手探りで触り
ある住人が足を掴み「これが輪廻転生だ!」と言い
別の住人が首を掴み「これこそが輪廻転生だ!」と言い
いつしか釈迦が輪廻転生を肯定していたか否定していたかの
話題では無くなる…スレはカリユガの時代に突入した。
住人は盲目のままに、道を誤りながらもそれに気づかず
独自の話題を生み、数々の展開を見せ、自説を持ち出し
それを披露しあいながら満足気に進む…。

我はここに人間と人類の宿命と限界を見た…。
178通りすがりのむーたん:2001/03/24(土) 08:35
「無記」形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ることで無用な論争の弊害からのがれ、苦しみからの解放という本来の目的を見失わないためにとられた立場。
ブッダは、体系的な理論を説いたわけではありません。説く相手に応じて説き方を変えた(仏の対機説法)といわれています。最古層の経典には、“新しい層にみられるような整備された教理”は見出されません。
当初のブッダの教えは、宗教的というよりも合理的で倫理的でしたが、ブッダの教えに信頼を寄せ、帰依する人々の集団が形成されるにともなって、急速に宗教性が強まったものと考えられています。
原始仏教のすべてを理性的であるとみなすことはできません。布教の過程では当時の俗信あるいは迷信を必ずしも排除しなかったからです。

苦しみから安らぎへいたる道を人々に示すこと、理論より実践これがブッダの目指したことなので輪廻などの事はどうでも良かったような(どちらかというと否定してるっぽい)感じです。
ただ当時一般に広まっていたこの思想は、ごく早い時期に仏教の中にとりいれられています。
輪廻転生があると言う事を前提として当時の色々な説の輪廻転生観を否定しています。
ブッダの神秘化、神格化は原始仏教のごく早い時期に始まったので仏教の宗派によっては肯定してたり否定してたりするかもしれません。(ブッダの入滅後100年ころすでに教団は分裂しています)
チベットは仏教の宗派のラマ教で肯定派ですね
179ぶー:2001/03/24(土) 09:03
いまどきチベット仏教をラマ教なんて言っていることじたい
説得力なし
180通りすがり:2001/03/24(土) 12:03
釈迦自身が、当時のヨガ行者の一人であったことを忘れてはいけないのでは。
合理的倫理的だけではすまされないものがあるはず。
宗教的なものを極力排除しようとしたとも見えるが、あえて否定する必要も
認めなかったとも考えられる。
釈迦の思想も、当時の常識的世界観を前提として推測するほかないと思う。

外れるが、釈迦は「動物の真似をするな」と弟子に教えている。
動物の真似とは、ハタヨガのアーサナのことだろう。
ハタヨガのアーサナの多くには動物の名前がついている。ハタヨガが体系化された
のは後のことだが、実修の歴史はインダス文明にさかのぼるとも言われる。
釈迦はハタヨガを否定していたと考えられる。
チベット仏教は、ヤントラヨガと言うかたちでハタヨガを受け入れている。
181渡海 難 p17-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/24(土) 17:42
>>165 名前:名無しさん
>「死んですべてがなくなるんだ」とは全然断定してませんよ。

 あっ。そうでしたか。「死んですべてがなくなるんだ」とは全然断定していませんでしたか。そうでしたか。失礼しました。ところで、死んだって何一つ本質は変わらないというふうには、確か断定してませんでしたよね。
 僕にとっては、「死んですべてがなくなる」なんていう仮定そのものが全くナンセンスなんですよ。「死んですべてがなくなる」なんていう仮定を成立させることのできる方には、確かに頓珍漢なレスだったかもしれませんね。

>やめたほうが世の中のためですよ。
 「死んですべてがなくなる」なんていう仮定を成立させることのできる方だけと議論したいなら、会員限定の秘密掲示板でも作ってくださいな。

>>166 名前:元祖よこはまさん
>知らないのなら素直に学べばよい。

 そうですね。必要はあれば、あなたより誠実そうな方のところに教わりに行きますよ(笑)。

>本当にわからないんですか(苦笑)?

 そうそう。さっぱり分からないですよ。元祖よこはまさんには、分かってないと言うことも分かってないんでしょうね。
182渡海 難 p17-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/24(土) 17:42
>しかし私は100のことはよく知っている。
      そうですか。ま、貴方が身の程知らずなんでしょう。

>親鸞上人の言葉どおりにしているのか?

 (苦笑)。
 いやいや。私は親鸞学校では劣等生なんですよ (^^ゞ ポリポリ。
 私の前にはたくさんの人がいる。僕の後には誰もいない。ドンケツなんですね。でも、親鸞さんはそんな僕にも、嫌な顔一つしないで教えてくれる。有り難いことですよ。とっても感謝しています。


>>167 名前:元祖よこはま
>いつも噛み付くわけじゃない。

   そうですか。そうですか。いつもじゃないけど、時には訳もなく噛みつくときもある。そういうことなんでしょう。

>カルト叩きのときを別にすれば、

   闇雲にカルト叩きされたら、叩かれた方がたまりませんねー。
183渡海 難 p17-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/24(土) 17:43
>それを口で言うのは簡単なことです。
       そうそう。口で言うのは簡単なことですねー。

>しかしあなたは実際にそうしていないじゃないか。

 そうそう。実際は難しいですねー。だから僕は、親鸞学校に参加させてもらっているんですよー。親鸞学校は、ドンケツの劣等生でも受け入れてくださいますからね。

>だからみんなあなたにあきれているんだよ。
   みんな呆れ返っても、親鸞学校だけは受け入れてくださるから、尊いんですよ。

>あなたの言う「森羅万象あらゆるものが僕らに様々に真実を語ってくれている。」というのは全く正しい。

 オヤ? 貴方の小耳にも、この言葉は心地よく聞こえたようですね。良かったですね。大層おめでとうござんした。
184渡海 難 p17-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/24(土) 17:44
>願わくば、その「森羅万象」の中に2ちゃんねるも入っていますように

 ウン。親鸞さんの認識には入ってるでしょう。あの人の懐は大きいからねー。
 僕? 劣等生の僕には難しいですねー。ま。入るかなー?。でも、元祖よこはまさん。貴方は入らんですよ。なんせ、僕は劣等生です。懐は狭いんですよ。誠実そうな方でないと、真実を語ってくれている森羅万象には含まれないんですよ。勘弁してね。

>私もこの方にはサジを投げよう。

 おや?薬味でも調合するさじをお持ちだったんですか。渡海 難相手にカルトのイニシエーションでもやろうと待ち受けていましたかな。
185渡海 難 p17-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/24(土) 17:44
>>173 名前:112さん
>その考え方でしたら同意できます。     <うれしいです。>

>イメージがごっちゃにされている点です。この両者は似ているようではっきりと区別しなければならないものだとおもいます。

 同感です。僕が2CHで発言しているのも、この概念の区分を社会に対して明確にしたいからです。

>>174 名前:112・つづきさん
>空観をハラにおさめられていることがうかがえます。

 うれしいです。
 輪廻を考えるときは空観を見据えて考えるべきでしょう。空観を忘れると、論者は迷信に陥ります。空観を考えるときは輪廻を見据えて考えるべきでしょう。輪廻を忘れると、論者は感情を忘れます。
 ただ、外部に向かって表明するときは、輪廻に立つのか空観に立つのか、どっちかに徹底しないと議論は破綻するでしょう。その上で、輪廻に立って話をする人は、空観に立っている他人の話に共鳴できないとどこかがおかしい。空観に立って話をする人は、輪廻に立っている他人の話に共鳴できないとどこかがおかしい。僕はそう思います。
186渡海 難 p17-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/24(土) 17:45
>真宗の教えにたいする忠実さゆえと推察しますがどうでしょう。

 忠実さというより、整合性でしょう。親鸞は輪廻で考えていますから、親鸞に従う限り全て輪廻で考えて行った方が、議論に無理がないと思っています。
 
>仏教のなかではかなり「異端」な部類であって仏教にたいする解釈も独特なものがあります。

 僕は決してそうは思いません。親鸞は、大変純粋な大乗原理主義です。原理主義はしばしば復古主義に結びつきますが、親鸞はそこに時間というファクターを加えて修正する修正主義者です。修正主義的復古主義です。だから現代とも調和し、大乗の原点も分かる。実に素晴らしいですよ。
187渡海 難 p22-dn08saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/24(土) 20:56
>185
誤 論者は感情を忘れます。
正 論者は痛みを忘れます。
188ばふーん:2001/03/24(土) 22:22
>むーたん

わかりやすいな。サンキュ。
189驚きのむーたん:2001/03/24(土) 23:24
チベット仏教をラマ教っていっちゃ駄目なのかな?
ぶーさん教えてー(^ー^)ノ 
190元祖よこはま:2001/03/25(日) 02:05
>>183
>>あなたの言う「森羅万象あらゆるものが僕らに様々に真実を語ってくれている。」というのは全く正しい。
> オヤ? 貴方の小耳にも、この言葉は心地よく聞こえたようですね。良かったですね。大層おめでとうござんした。

私は上記の言葉が正しい、とは書いたが、
あなたのとるその態度が正しい、とは思っていない。
あなたの言っていることには、うなずける部分も有るのだが、
実際にその言葉が書き込まれるときのやりとりでは、
あなたの取る上記のような態度と、言っていることのギャップが大きすぎて、
ずっと違和感を感じていた。
ここ何回かのやりとりで具体的にどこがおかしいのか、
私なりに見えてきたことがあるので、感じたことをそのまま書かせてもらう。

まず最初に、あなたは基本的に、
なぜ「森羅万象あらゆるものが僕らに様々に真実を語ってくれている。」のか、
その理由が分かっていない。
この言葉を文字通りに受け取れば、それはたとえば、
海は海について教えてくれる、とか、あなたの言葉を借りるなら、
>>162
>地球物理学者は石に地球の起源を教わっている。花から絵画の神髄を教わっている画家がいる。
>花に生命の起源を教わっている生物学者もいる。実に、あらゆるものがさまざまに僕らに真実を明らかにしようとしてくれている。
ということになる。
191元祖よこはま:2001/03/25(日) 02:07
しかしこれは真実の半分に過ぎない。

というのも、何かを教わるとき、本当に大事なのは、「教えてくれる相手」ではないからだ。
「森羅万象」などと言うと、どうしてもその「万象」、
つまり「対象」の方に心が動かされてしまう。
そして人によっては、たとえば教えてくれるはずの対象が何も教えてくれない場合、
「この花、何にも教えてくれないぞ」などと文句を言うわけだ。
あるいはあなたのように、
>>181 そうですね。必要はあれば、あなたより誠実そうな方のところに教わりに行きますよ(笑)。
などと言ったりする。
しかしこれはおかしい。
なぜなら、真実を教わるかどうかは、実は「対象」の問題じゃないからだ。
もしも、それが教える側(対象)の問題なら、それならなぜ「森羅万象」から、などと言うのか?
最初から「誠実な人」から、とか「正しいこと」からのみ、とか、「親鸞上人」から、とか書けばいいじゃないか。

ここにあなたが見落としている真実のもう半分がある。
それは、

あなたに真実を告げるのは、実は「森羅万象」の方ではなく、
教わる側の「あなた自身」だ、ということだ。

あなたの心が十分静まっていて、この「森羅万象」に謙虚に耳傾けるとき、
そのとき初めてあなたは何かを教わることができる。
そして、あなたが何かを教わることができるのは、実は、
あなた自身の、その澄み切った静かな心のおかげであって、
そのような心で、あるがままに森羅万象に対峙するなら、
そのときは、その対象がどのようなものであっても、あなたはその中に真実を見ることが出来るんだよ。
192元祖よこはま:2001/03/25(日) 02:07
したがって、あなたが以下に言う、

>>184 誠実そうな方でないと、真実を語ってくれている森羅万象には含まれないんですよ。

などというのは、文字通り「何も分かっていない」証拠でしかない。
もちろんあなたは「私は劣等生だから…」と言うかも知れない。
あるいは「そんなことは理屈では分かっているけど、実践は大変なんだ」
と言い訳するかもしれない。

しかし、私がこれを指摘するのは、これが分かれば、これに関連して、
あなたのお気に入り?の「教行信証」の解釈も全く違ったものになってくるだろうからだ。
さらにもう一つ、あなたがこういう場所で書き込みするときの
「動機付け」の間違いを指摘したいから、でもある。

親鸞の「教行信証」はなかなかすばらしいと思う。
しかし、教えることが出来るものは知識、情報、技術などであって、
基本的に宗教上の真理、あるいは理解というものは伝達することは出来ない。
それが出来るなら釈迦も親鸞もとっくにやっているはずだ。
したがって私の解釈はあなたのものとは全く違う。

私が上記で論じたように、あなたに真実を告げるのは「あなた自身」以外にあり得ない。

…実を言うと、私はここで偉そうな口調でいろいろ書き込みしているが、
それで別に誰かを導いてるだの、誰かに教えている、だのと思ったことは「ただの一度も」ない。
私はどのような真理の理解も、結局は「自己開示的なものである」ということを
骨の髄から心得ているからだ。
ところがあなたは誰かからその自論をほめられると「うれしいです」と有頂天になり、
逆にけなされると露骨に気分を害する返答をする。

あなたは一体何に対して一喜一憂しているのか?

あなたは本当には誰も教えられないし、導けない。また、あなたは誰からも教わらないだろう。
親鸞の「教行信証」は、あなたがこの事実を見るときにのみ、その本当の意味を開示するだろう。
193また省略しすぎ?の むーたん:2001/03/25(日) 05:35
〜八万四千の法門の流れ〜
原始仏教
仏陀は弟子達を得て、布教活動の宣言を発します

仏典結集
弟子達の記憶を元に原始経典群の編集がはじまります。具体的な出来事を中心にして、教えのあり方と説教の統一を図ります。

部派仏教
教団は教理の解釈をめぐって、保守派と進歩派に分裂した。その後さらに分裂をかさねます。各部派は、自派の教理にもとづいて聖典を編纂しなおし、独自の解釈を立てました。

大乗仏教
大乗経典群による仏教思想の展開です。長編となり思想的要素を強く織り込んでいます。
なお日本では大乗経典は仏陀の直接ではなく、後世の加上であるという大乗非仏説が主張されたりもしました。

原始仏典から今日に至るまで一千年以上の歳月を経て仏教経典は成立してきました。
仏陀の説法の原形を最も忠実に伝えると言われているスッタニパータは最も初期の仏教の思想を伝えるとはいえ、後に発展し整備された思想を多く含んでいるので、そこに説かれるものをすべてブッダの教説とみなすことはできません。よって、ブッダの思想を解明する資料として利用するには、成立年代に関する注意が欠かせません。
194麻衣とレーヤ:2001/03/25(日) 05:39
>1
いいじゃないかさ〜 永遠にみんなで輪廻しましょうでっしゃろかいな〜
195名無しさん@1周年 :2001/03/25(日) 05:42
↑うわ〜〜やっちゃたなー!オヤジィ……

また新たな犠牲者が……
196名無しさん@1周年:2001/03/25(日) 06:01
ちんぽことかいなだ
197渡海 難 p21-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/25(日) 11:41
>>190 名前:元祖よこはま
>あなたのとるその態度が正しい、とは思っていない。

 おや?何か失礼がありましたか?失礼がありましたら重々にお詫び申し上げますよ。

>違和感を感じていた。
    そうでしたか。お気に召さない部分でもあったようですね(微笑)。

>その理由が分かっていない。   <ホホウ。なるほど。>

>>191 名前:元祖よこはま
>真実の半分に過ぎない。     <ホホウ。なるほど。>
 
>本当に大事なのは、「教えてくれる相手」ではないからだ。 <ホホウ。なるほど。>

>「対象」の方に心が動かされてしまう。     <ホホウ。なるほど。>

>人によっては、たとえば教えてくれるはずの対象が何も教えてくれない場合、「この花、何にも教えてくれないぞ」などと文句を言うわけだ。

 ホホウ。花に向かって文句を言う?誰が? 変わった御仁じゃ。文句を言われた花は、牙でもむいて怒鳴り返して来きますかな。まるでカルトが作ったアニメだな。

>しかしこれはおかしい。     ホホウ。
198渡海 難 p21-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/25(日) 11:42
>真実を教わるかどうかは、実は「対象」の問題じゃない

 対象? (・_・? 
 対象とは教材という意味でしょうか。教材の問題じゃないと言いたいのでしょうか。教材選択の問題じゃないということ?
 対象じゃなく主体? 教えてくださる主体(教師)? 教えてくださる主体の問題ではないと言いたいの?
 教師にとっての教育の対象(生徒)の問題ではないと言いたいの?

>それが教える側(対象)の問題なら
   教える側の主体(教師)?。   教える対象の内容(教材)?

>それならなぜ「森羅万象」から、などと言うのか?

 森羅万象を、主体と考えているのか、教材と考えているのか。混乱があるんじゃない?

>最初から「誠実な人」から、とか「正しいこと」からのみ、とか、「親鸞上人」から、とか書けばいいじゃないか。

 「誠実そうな方でないと、真実を語ってくれている森羅万象には含まれないんですよ」という言葉が少しお気に障りましたかな。
 誠実そうに見えないと言う言葉に引っかかってくるようじゃ、誠実そうに見えないと言うことは、貴方も多少気にしておるんじゃろう。多少、救いようもあるかな。
 多分救いようはないようだけど、なぜ「森羅万象あらゆるものが僕らに様々に真実を語ってくれている。」と言うのか、そこの理由が貴方に分かってないようだ。貴方の小耳に心地よく響いたのも、そんなところが原因かも知れない。
199渡海 難 p21-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/25(日) 11:42
>ここにあなたが見落としている真実のもう半分がある。

 貴方(元祖よこはまさん)の中に主体と客体の概念で混乱があるんでしょう。あなた(元祖よこはまさん)の方に見落としがあるような気がする。

>あなたに真実を告げるのは、実は「森羅万象」の方ではなく、教わる側の「あなた自身」だ、ということだ。

 あなた(渡海)に真実を告げるのは、「あなた(渡海)自身」だ、ということ?。 僕が神がかるわけ?  えっー (@_@)?

>あなたが何かを教わることができるのは、実は、あなた自身の、その澄み切った静かな心のおかげ

   まるで超能力者だな(笑)。

>その対象がどのようなものであっても、あなたはその中に真実を見ることが出来るんだよ。

 そんじゃー、神のお告げを伝達する新興カルト宗教でも作りましょうか。そのときは貴方が教祖<元祖桐山>、僕が神主<渡海彰晃>? (笑)。薬味さじで信者にLSDでも分配すれば、いい商売になるかもしれない。オウムの信者はLSDで宇宙の果てを見たらしいからね(爆笑)。
200渡海 難 p21-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/25(日) 11:43
>>192 名前:元祖よこはま
>文字通り「何も分かっていない」証拠でしかない。

 そうそう。僕は何も分かってない。僕は何も分かってなくてもいいんですよ。皆様がいろいろ御存じでくださっているから、安心なのよ。

>言い訳するかもしれない。    <言い訳じゃなく。現実なのよ。>

>これに関連して、あなたのお気に入り?の「教行信証」の解釈も全く違ったものになってくるだろうからだ。

 関連しなくても、僕の解釈は勝手に二転三転してきているのよ。親鸞さんには僕も勝てないのさ(笑)。

>「動機付け」の間違いを指摘したいから、でもある。    <ご親切さんにありがとうござんした。>

>親鸞の「教行信証」はなかなかすばらしいと思う。

 そうですか。貴方のような人からまでお褒めのお言葉を頂戴しちゃ、親鸞さんもうれしさ一杯になり、草場の陰で花粉症のくしゃみでもなさっていらしゃることじゃろう(笑)。
201渡海 難 p21-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/25(日) 11:44
>宗教上の真理、あるいは理解というものは伝達することは出来ない。

 あなたに出来なくても安心なんですよ。外のみなさんがいろいろとやってくださるので、ずっと安心なんですよ。

>出来るなら釈迦も親鸞もとっくにやっているはずだ。

  そうですか。そうですか。なるほど。なるほど。

>あなたに真実を告げるのは「あなた自身」以外にあり得ない。

  自分がお告げの発信源になる? 「渡海彰晃」、「桐山 難」とでも名乗れば、みんなは大笑いするでしょう。カルトと同じだ。お賽銭を投げてくださるのは、元祖よこはまさんお一人だけだったりして(笑)
202渡海 難 p21-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/25(日) 11:45
>それで別に誰かを導いてるだの、誰かに教えている、だのと思ったことは「ただの一度も」ない。

 そりゃそうだろう。貴方に導かれたり、教えられたりした人は、世界中に一人もいないでしょう(笑)

>結局は「自己開示的なものである」ということを骨の髄から心得ているからだ。

 お偉い聖者様におなりのようじゃ。まるで裸の王様だ。身の程知らずというということだけでしょう。貴方に導かれたり、教えられたりする人は、いるはずも無い。

>あなたは誰かからその自論をほめられると「うれしいです」と有頂天になり、逆にけなされると露骨に気分を害する返答をする。

 そうそう。単純なのよねー。馬鹿にされれば腹を立てるし。誉められればにんまりする。親鸞さんはそんなアホな僕でも誘ってくださるから尊いのよ。

>あなたは一体何に対して一喜一憂しているのか?

 ま、僕も貴方と同じで、余り本当のことが見えてないからでしょ。
203渡海 難 p21-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/25(日) 11:45
>本当には誰も教えられないし、導けない。

 そうそう。僕には誰も教えられない。導けない。

>また、あなたは誰からも教わらないだろう。

 誰からも教わらなくてもいいんですよ。みなさんが、一生懸命教えてくださろうとなさてくださっている。みなさんが、一生懸命教えてくださろうとなさてくださっているから、劣等生の僕でも、百分の一、千分の一が身にくっついてくる。ありがたいことですよ。

>親鸞の「教行信証」は、あなたがこの事実を見るときにのみ、その本当の意味を開示するだろう。

 僕がどんな事実を見る前でも、見た後でも、そんなことに全く無関係に親鸞の「教行信証」は真実を語ってくださっている。だから安心なんですよ(微笑)。
204元祖よこはま:2001/03/25(日) 14:25
>↑うわ〜〜やっちゃたなー!オヤジィ……

195さん、もしかして私に向けてのメッセージですか?(笑)。
この人(渡海)は、いつも正論言われて反論できないとこんな調子になるの?
205名無し:2001/03/25(日) 15:24
>正論言われた
  ??

>反論できない
       (藁ワラ
206名無し :2001/03/25(日) 15:29
元祖よこはまも白旗を挙げた。
207相手にできない:2001/03/25(日) 16:42
>元祖よこはまも白旗を挙げた。

横から口出ししてもうしわけないが、渡海氏はほとんどのところで、そうそう単純なのよねー、とか反論できていないし、元祖よこはまさんの高度な議論に全くついていけていません。白旗を揚げたというより、サジを投げたんでしょう(藁ワラ 。
208Re.相手にできない :2001/03/25(日) 18:09
 元祖よこはまさんの高度な議論

 軽薄者の元祖よこはまが高度なの? ワラワラ
 サジなんか持ちだしてきて小手先で相手を操ろうとしたら、逆に相手から鼻先で適当にからかわれた。
 渡海 難は小手先で操れる相手じゃない。からかわれていることもわかんない元祖よこはまに、歯の立つ敵じゃない。
 敵をみくびった元祖よこはまは、こけて退場 (ワラワラ(笑)
209相手にできない:2001/03/25(日) 18:35
>サジなんか持ちだしてきて小手先で相手を操ろうとしたら、

彼は操ろうとなんてしていないだろう。
それはできないことだ、と自分で明言しているじゃないか。

>敵をみくびった元祖よこはまは、こけて退場 (ワラワラ(笑)

敵もなにも間違いを淡々と指摘しただけだろ。間違いを指摘してくれる人を敵と言うのはあなたと渡海氏くらいなものじゃないのか。どちらにしろ先に退場した元祖よこはまさんの方が大人。真摯な忠告にも耳を貸さない渡海氏はガキ。
210名無しさん@一周年:2001/03/25(日) 19:01

>>208
何もお前に二人のジャッジメントしてもらわなくてもいい。
こっちは二人の丁丁発止の論戦を有意義にROMしてたんだ。
評論家みたいに余計なこと言うな。
211名無しさん@十周年 :2001/03/25(日) 19:32

   /⌒゛ヽ                     ________
  (  ハ )                  /
   | i " |     _― ̄ ̄ ―_      |
   | i  |   /          \  <  ゴルァ!ドラミぃ!
 (⌒) | ! @` |  /   (o)(o)      |   |  ハァハァ
  | し i  | |   /  ●   \    |   \
   ~| _' | | / 三  |  三   |   |      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ( _ ) ||   __|__    |  ノ
    \  \\   \_ /   ノ  \
      \    ̄ ―(Θ)― ̄


21237:2001/03/25(日) 20:10
渡海難は度し難し
仏教を学ぶことは自らを知ること、そうだったなあ、ということ
しかし渡海難は決して教えられることはない
言えば言うほど、自分のよろいを堅くするばかり
仏教の知識によっておえらくなるばかり
親鸞の教えをどのように聞いているのか
なにはともあれ、渡海が出現するスレはつまらなくなる、誰も書き込まなくなる
すこしはそのことに気づいてね、渡海さん
21337:2001/03/25(日) 20:41
輪廻と転生と生まれ変わりは違う
輪廻は苦である。71さんのように、死んだら餓鬼に堕ちて苦しむかもしれない、
ということを怖れる。だから輪廻をしない解脱を求める。

チベット仏教で言う転生は、仏が衆生済度のためにこの世に生まれてくるのであって
六道を輪廻しているのではない。仏だから輪廻から解脱している。
>189驚きのむーたんさん
誰も答えていないようなので答えると、
ラマとは師匠のこと。チベット仏教では師匠を非常に重んじるのが特色である。
そこで西洋人がチベット仏教をラマ教と言った。これだと仏教とラマ教は異なる
宗教と思われかねない。チベット人はラマ教とは言わない。
内教(こういう訳でいいかわからないが)、五明のひとつの内明という。

生まれ変わりとは、柳田国男が言うように死んでも子孫の一人として再びこの世に
生まれてくることである。したがって、生まれ変わることは苦しみであるどころか
死んでも死なないのだから、死を恐れずにすむ。

輪廻とは流転輪廻、空しくすごすことだろう。
リングワンデリング、雪山でまっすぐ歩いているつもりが円を描くように、同じ所を
ぐるぐる歩く。そういう人生を輪廻と言うのだろうと思う。

214渡海 難 p24-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/26(月) 07:58
No212=37は度し難し
仏教を学ぶことは自らを知ること、そうだったなあ、ということ
しかしNo212=37は決して教えられることはない
言えば言うほど、自分のよろいを堅くするばかり
仏教の知識によっておえらくなるばかり
仏教の教えをどのように聞いているのか
なにはともあれ、212=37が出現するスレはつまらなくなる、誰も書き込まなくなる
すこしはそのことに気づいてね、212=37さん

輪廻と転生と生まれ変わりは違う

 <そんなこたー無いでしょう(笑)。
 広辞苑を引用します。 「てん‐しょう【転生】 生れ変ること。『輪廻リンネ―』」>

「チベット仏教で言う転生は、仏が衆生済度のためにこの世に生まれてくるのであって六道を輪廻しているのではない。」

 <「チベット仏教で言う転生は……六道を輪廻しているのではない。」などと、断定的に言うなら、きちんとその根拠を明らかにすべきじゃないの? 推定でも悪くはないが、推定ならそういう推定を生み出した根拠くらい明らかにしたらどうなの?「オレは知っているんだ」というだけじゃ、仏教の知識によってお偉くなるばかりでしょ(笑)。>
215渡海 難 p24-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/26(月) 07:59
>チベット仏教で言う転生は、仏が衆生済度のためにこの世に生まれてくるのであって六道を輪廻しているのではない。

 仏がどのように衆生済度のために生まれてきたの?仏は、どんな手品を使うと生まれてこれるんでしょうね。誰が仏なの?チベット仏教の坊さんは仏なの?本当にそうなの? 「オレは知っているんだ」というだけじゃ、仏教の知識によってお偉くなるばかりでしょ。


>生まれ変わることは苦しみであるどころか死んでも死なないのだから、死を恐れずにすむ。

 広辞苑を引用します。
「りん‐ね【輪廻】
  〔仏〕(梵語 sa s ra 流れる意) 車輪が回転してきわまりないように、衆生が三界六道に迷いの生死を重ねてとどまることのないこと。迷いの世界を生きかわり死にかわること。流転ルテン。輪転。」
 迷いの生死を重ねてとどまることのないことが、どうして苦しみじゃないの? 生死を重ねてとどまることのないことは、死んでも死なないことなの? アーアホラシ(笑)
216渡海 難 p24-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/26(月) 08:01
>雪山でまっすぐ歩いているつもりが円を描くように、同じ所をぐるぐる歩く。そういう人生を輪廻と言うのだろうと思う。

仏教を学ぶことは自らを知ること、そうだったなあ、ということ
しかしNo212=37は決して教えられることはない
言えば言うほど、自分のよろいを堅くするばかり
我流の仏教の知識によっておえらくなるばかり
仏教の教えをどのように聞いているのか
なにはともあれ、212=37が出現するスレはつまらなくなる、誰も書き込まなくなる
すこしはそのことに気づいてね、212=37さん
217渡海 難 p14-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/26(月) 18:58
>186
誤 修正主義的復古主義です。
正 修正主義的原理主義です。
218仏教徒:2001/03/27(火) 00:17
なんだかこのスレも荒れてきたなー。
いいスレだったのに。

ひとの一言一句に揚げ足とるようなレスはやめようよー。
そんなことしたら荒れるにきまってるじゃん。
カチンときてもそこはあっさり受け流そうよ。
大人なんでしょ?
喧嘩に夢中になってるうちにスレ本来のテーマがどっかいっちゃてるよーな
気がするじょ〜。
219分かりやすさのむーたん:2001/03/27(火) 00:41
>213さんありがとーヾ(@^▽^@)ノ
世界史にもラマ教って乗ってるから全然問題ないと思ってたです。
しかも あえて仏教と区別してるとも思ってたです。('-'*)フフ

220ん?:2001/03/27(火) 00:47
>>219
祖師?
221元祖よこはま:2001/03/27(火) 01:00
>>210 こっちは二人の丁丁発止の論戦を有意義にROMしてたんだ。

210さん、有意義にROMしていましたか。
では、あなたのような方のためにもう少し語りましょう。
ただし、最初に宣言しておきますが、これは「論戦」ではありません。
通常の意味での「論戦」に関しては、私はこの人には167で書いたとおり、
とっくの昔にサジを投げています(この人からは宗教的理解を感じないので 笑)。
以降の書き込みも、>>190であらかじめ断った通り、
感じたことをそのまま書かせてもらっただけです。

学びたい人は自ら学んでください。

>>197
>>あなたのとるその態度が正しい、とは思っていない。
> おや?何か失礼がありましたか?失礼がありましたら重々にお詫び申し上げますよ。

…そう、確かにあなたの態度には失礼があった。
しかし、あなたは「私に」そのことで詫びを入れる必要など全くない。
なぜなら、あなたのその失礼な態度は、ここで書き込みをしている限り、
他の誰をも傷つけないだろうからだ。
物理的に誰かを傷つけるなら話は別だが、私だけではなく、誰であれ、
あなたのその失礼な態度によって傷つくことはない。
もし誰か、これをROMしている人の中で、傷ついたり、気分を害したりする人がいるとしたら、
その人は本当はあなたの言葉によって傷ついているのではない。
そうではなく、あなたの言葉を解釈するそのやり方でもって自分で自分を傷つけているのだ。
もし悪意をもってあなたの言葉を読めば、悪意を持った解釈になるだろう。
その、他でもない「自分自身の」悪意が自分自身を苦しめることになる。
同じように、もしあなたが誰かに対して失礼な態度をとれば、
それは結局、あなた自身を苦しめることになるだろう。
したがって、あなたが詫びを入れなければならないとしたら、
それは「私に」対してではなく、「あなた自身に対して」だ。
222元祖よこはま:2001/03/27(火) 01:01
>>違和感を感じていた。
>    そうでしたか。お気に召さない部分でもあったようですね(微笑)。

上記と同様の理由で、「私が」お気に召すかがどうかはポイントじゃないんだよ(苦笑)。
私が違和感を感じていたのは、あなたの言葉と実際の態度が違うからだ。

><ホホウ。なるほど。>

感心してくれてありがとう。

>>198
>>それが教える側(対象)の問題なら
>   教える側の主体(教師)?。   教える対象の内容(教材)?

その両方だよ。

>>最初から「誠実な人」から、とか「正しいこと」からのみ、とか、「親鸞上人」から、とか書けばいいじゃないか。
> 「誠実そうな方でないと、真実を語ってくれている森羅万象には含まれないんですよ」という
>言葉が少しお気に障りましたかな。
> 誠実そうに見えないと言う言葉に引っかかってくるようじゃ、誠実そうに見えないと言うことは、
>貴方も多少気にしておるんじゃろう。

私がいったいいつ、あなたの言葉が気に障った、などと書きましたか?
あなたの問題を率直に指摘しただけの話ですよ。
あなたが上記で書いていることは、私が書かなかった「あなたの」妄想でしょう。
223元祖よこはま:2001/03/27(火) 01:03
>>199
>>その対象がどのようなものであっても、あなたはその中に真実を見ることが出来るんだよ。
> そんじゃー、神のお告げを伝達する新興カルト宗教でも作りましょうか。
>そのときは貴方が教祖<元祖桐山>、僕が神主<渡海彰晃>? (笑)。
>薬味さじで信者にLSDでも分配すれば、いい商売になるかもしれない。
>オウムの信者はLSDで宇宙の果てを見たらしいからね(爆笑)。

やれやれ、これも私が言わなかった「あなたの」解釈、妄想だ。
たしか初期の仏典で、釈迦に関する悪いうわさを聞いたある人物が、
釈迦に対して罵詈雑言、誹謗中傷を言いにやってきた、という話を聞いたことがある。
釈迦は一通りその人物の罵倒を聞き終わると、その人物にこう尋ねたと言う。
「友よ、ある人があなたのところに贈り物を持ってきて、
あなたがそれを受け取らなかった場合、その人はその贈り物をどうするだろうか?」
すると、その釈迦を誹謗中傷した人物は、
「その贈り物を持ってきた人物は、自分の贈り物を自分で持ち帰るしかないでしょう」
と答えた。その答えを聞いた釈迦は、彼にこう、さとしたという。
「友よ、それでは私(釈迦)はあなたの贈り物(その男の誹謗中傷)を受け取りません」
つまり、その釈迦を罵倒した男は、釈迦に対する罵詈雑言を自分で持って帰るしかなかったのだ。
そういうわけなので、私も釈迦を手本に、あなたのその妄想を受け取らないでおこう(笑)。
あなたはその自分の解釈、妄想と永遠に戯れているがよい。

>>201
>>宗教上の真理、あるいは理解というものは伝達することは出来ない。
> あなたに出来なくても安心なんですよ。外のみなさんがいろいろとやってくださるので、
>ずっと安心なんですよ。

「私に」できないのはもちろんだが、私にだけではなく、釈迦にも、親鸞にも、もちろん「他の皆さん」にもできない。
224元祖よこはま:2001/03/27(火) 01:05
>>202
>>結局は「自己開示的なものである」ということを骨の髄から心得ているからだ。
> お偉い聖者様におなりのようじゃ。まるで裸の王様だ。身の程知らずというということだけでしょう。
>貴方に導かれたり、教えられたりする人は、いるはずも無い。

私がいつ、私は偉い聖者だ、などと言ったのか?
これもまた「あなたの」解釈だ。
ちなみに私は、冗談抜きで、自分を「偉い」などと思ったことはない。
その代わり、特に自分を「劣っている」とも思ってもいないがね
(生まれてから今まで一度もない、とまでは言いません 笑)。
あなたの書き込みの内容を冷静に観察すると、いたるところに偉いとか、偉くないとか、
自分は劣等生だ、とか、教えていただいている、だとかの
「上下関係に関する」言葉がよく出てくる事がわかる。
あなたは本当に、自分が親鸞学校の劣等生でドンケツだ、などと思っているのか?
口先だけではなく、心の底から本当にそう思っているのか?
もしもそうだとしたら(そう思っているとしたら)、あなたはまだ、
本当には親鸞学校に入学していないのだろう。
世間一般の普通の学校では、もちろん上下関係もあるし、
優等生もいれば劣等生もいるだろう。
しかし、私が知る限り、親鸞学校には、劣等生も優等生も「両方共にいない」からだ。
なぜならテストの点数なら比べることができるが、
「人間そのもの」は比べることなどできないからだ。
たとえば、バラの花と菊の花はそれぞれ違う。それぞれにユニークだ。
それを、どちらがより綺麗かとか、どちらがより美しいかなど、
比較して優劣をつけることなどできるものじゃない。
人間に関しても、もちろん同じだ。私は私でユニークで、あなたはあなたでユニークだろう。
どちらかが優れていてどちらかが劣っている、などということは一切ない。
225元祖よこはま:2001/03/27(火) 01:07
…ところがあなたは自分を劣等生だ、などという。
いいや、親鸞学校においてはそれは不可能というものだ。
もちろん、自分を人より優れていると思って、えばり散らしたりしたらそれも間違いだ。
この手の間違いは誰にでも分かる。
しかし自分を劣等生だ、と言ってへりくだるなら、
実はそのときにも、えばり散らしているときと「全く同じ程度に」間違いを犯しているんだよ。
もしかしたらあなたは、えばるより、へりくだったほうが罪が軽いと思っているかも知れないが、
むしろそのほうが自分の間違いに気付きづらいので、罪が重いと言えるかも知れないくらいだ。
つまり、問題の本質は「比較する心」にある。
人がもし、自分の心の中に比較する心を持っているなら、
そのときにはその「自分自身の」比較する心が、劣等生と優等生の別を作り出す。
そのような心は、いくら謙虚であろうと必死に死に物狂いの努力をしても、
永遠に謙虚にはなれないだろう。
なぜならそれは努力の問題じゃないからだ。
実際には謙虚であるためには何の努力も要らない。
謙虚でありたければ、自分自身のその「比較する心」を手放せばいいだけだ。

>>203
>>本当には誰も教えられないし、導けない。
>そうそう。僕には誰も教えられない。導けない。

それを言うなら「僕にも」でしょう。あなただけではなく、私にも、釈迦にも、親鸞にもできません。
226元祖よこはま:2001/03/27(火) 01:08
>>203
>>また、あなたは誰からも教わらないだろう。
>誰からも教わらなくてもいいんですよ。みなさんが、一生懸命教えてくださろうとなさてくださっている。>みなさんが、一生懸命教えてくださろうとなさてくださっているから、劣等生の僕でも、
>百分の一、千分の一が身にくっついてくる。ありがたいことですよ。

またまたこんなでたらめを(笑)。
みなさんがどんなに一所懸命に教えようとしても、
あなたにはその百分の一、千分の一はおろか、万分の一、
いや、それどころか、億分の一も「全くなにひとつとして」身にくっついてこないであろう。
何かが学べるのは、自分で、自分自身を学ぶときだけだからだ。

道元禅師いわく、
「仏道とは自己を習うなり」

そしてもちろん、誰かが「真摯に」自己を習うなら、
そのときには、自己から学ぶのと「等しく」森羅万象からも習うことになる。
それは同じものの2つの側面だからだ。
自己を強調すれば禅仏教になるだろうし、
森羅万象を強調すれば念仏仏教になるのかもしれない。

…しかし、あなたは残念ながら親鸞学校の生徒さんではないようだ。
もちろん、「親鸞上人から見れば」誰であれ、自分の学校の生徒でない人などいないだろう。
それを親鸞自身が言うのならかまわない。
しかし、もしこれを、親鸞を理解していない人物が、生半可な知識を持ち出し、
その言葉の威を借りてそのように語るのなら、それは立派な宗教詐欺で、カルトと一緒。
227名無しさん:2001/03/27(火) 01:33
>>151
ということは「異蘊」が魂ではない、ということは認めるのかな?

この場合の「魂」の定義を示さないと十分な議論が出来ませんので、定義してください。

>さらに聞くが、なぜ「異蘊」が存続するのか、その理由を考えたことがある?
「タンハーによって異蘊が相続する。」と釈尊は説いています。
また、「タンハーが滅している場合は、異蘊も相続せず、迷いの生存もない。」と説かれています。

228あえて仏教と分けてると思っていたむーたん:2001/03/27(火) 01:35
チベットに仏教が伝来したのは7世紀前後。
仏教は一部の人々の間にとどまり、民衆は民間信仰こうであるボン教を信じていました。
その後、インド、中国両国から仏教を摂取しましたが、14世紀に入りツォンカパによって、ようやく仏教興隆の土台が築かれました。
仏教とラマ教の最大の違いは仏教は三宝によって成り立っていますがラマ教は四宝で成り立っているのです。
ダライ・ラマは法王にして君主であり観音の化身ともいわれています。
仏教の宗派のラマ教じゃ駄目?('-'*)フフ 
229むーたん:2001/03/27(火) 02:02

輪廻とは、生き物がさまざまな生存となって生まれ変わることです。
輪廻説古代ギリシアにも見られるそうですが、起源は不明です。
六道の世界の輪廻は仏教でのお話ですのでチベット仏教も輪廻でd(>▽<)グッ!!!。

230元祖よこはま:2001/03/27(火) 02:04
>>227 この場合の「魂」の定義を示さないと十分な議論が出来ませんので、定義してください。

確かに、私には私なりの定義の仕方がある。
でもそれは、他の人が十分納得するものではないだろうと思う。
バラモン的には、魂とはアートマンだ、ということになっている。
しかし仏教ではこれを否定した。

>>さらに聞くが、なぜ「異蘊」が存続するのか、その理由を考えたことがある?
>「タンハーによって異蘊が相続する。」と釈尊は説いています。
>また、「タンハーが滅している場合は、異蘊も相続せず、迷いの生存もない。」と説かれています。

タンハーとは渇愛のことだね。
現代風にものすごく簡略化して、誤解を恐れず大胆に翻訳するなら、
それは結局「執着」ということなるだろう。
しかし一体「何が」「何に対して」執着するのか?
執着している主体は何で、その対象となる客体は何か?
実はここに、魂について考えるヒントがある。

#私の方から定義するためには、
定義を了解してもらうための予備知識が必要になるだろうから
ちょっと今すぐには無理だな。
逃げたりしないし、キミがまじめに話し合うつもりなら
私も時間の許す限り付き合うよ。

まあ、マターリいきましょ(笑)。
231むーたん:2001/03/27(火) 02:21
>六道の世界の輪廻は仏教でのお話ですのでチベット仏教も輪廻でd(>▽<)グッ!!!。
こう書くとチベット仏教は仏教ではないと読めちゃうね。(ーー;)
書き直しー
>六道を輪廻しなくても輪廻でd(>▽<)グッ!!!
232渡海 難 p19-dn08saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/03/28(水) 08:56
>221〜226
 ウム。成る程!
2332チャンネル委員会:2001/03/28(水) 20:03
            o
            /  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /
           /   このスレは目的を   /
           /  達成して終了しまし   /
          / た。ありがとうございま  /
          / した。            /
         /    モナーより      /
         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/
  ∧_∧  /                /∧_∧
 ( ^∀^) /                /(^∀^ )
 (    )つ               ⊂(    )
 | | |                   | | |
 (__)_)                  (_(__)
234分かりやすく書こうとすると説明不足になるむーたん:2001/03/28(水) 23:29
>180さんの
「釈迦の思想も、当時の常識的世界観を前提として推測するほかないと思う」という返答になるかわかりませんが
社会の変動にともない、それまでの思想の担い手たちであった婆羅門以外にも多くの自由思想家たちが現れました。彼らは婆羅門に対し沙門( 努める人々、修行者。自由思想家とも約されます)と呼ばれます。ブッダはそのひとりに数えられています。
原始仏典には、ブッダと同時代の思想家たちの説がさまざまなかたちで伝えられていて、仏教が成立したころの古代インドの思想状況を反映しているといわれています。
唯物論のように業・輪廻の思想を否定した人もいます。
235ばふーん:2001/03/29(木) 00:42
>>234
>むーたん

けっこうラジカルな思想家もいっぱいいて面白いよね。釈迦と同時代の沙門には。
「悪しき行いも後世に影響するこはない」として殺人まで肯定していたひととか。
まあそれは極端な例だったけど、だいたいは釈迦とよく似た理論をもっていたよう
だね。釈迦の思想がまったくのオリジナルでなかったことがわかる。インド思想の
伝統というか・・・。
たとえば、ジャイナ教のマハー・ヴィーラとか部分的には釈迦の思想とそっくり。
仏教以前のウパニシャッド哲学ももうほとんど仏教みたいだし。
そのなかでも仏教がいちばん拡大していったというのは、釈迦のカリスマ性もある
んだろうけど、理論的にやはりすぐれていて破綻がすくなかったというのがあるん
だろうね、きっと。
23637:2001/03/29(木) 20:59
213での書き方は誤解されたので、書き直すと、
チベット仏教でのダライラマなど活仏の転生は輪廻ではない。
なぜなら仏が衆生済度のためにこの世に生まれてきたのが活仏だからである。
衆生の生まれ変わりは輪廻である。
チベット仏教では輪廻と転生を分けて考える方がいい。

>229
で言われるとおり、輪廻とはさまざまな存在形態として生まれ変わることです。
インド思想では輪廻することは苦しみであると認識していました。
しかし現代の人、アメリカ人なども含めて、生まれ変わることを苦だとは思っていません。
前提が違うわけですから、共通の場で語るべきではないと思うわけです。

1がした問題提起としたのは、釈尊は輪廻を肯定したかどうかです。
輪廻=苦、これは、生きること=苦、という意味ではイエスであり、
死後の生という意味なら、イエスでもノーでもない、だろうと思います。
また輪廻することが永遠の生という意味なら、ノーです。
23737:2001/03/30(金) 11:06
>228あえて仏教と分けてると思っていたむーたんさん
>仏教の宗派のラマ教じゃ駄目?('-'*)フフ
駄目だと思います。
中国仏教、日本仏教というのと同じような意味でチベット仏教です。
チベット仏教の中にいろんな宗派があるけど、ラマ教という宗派はない。
それにラマを重んじることはチベット仏教の特色の一つであって
すべてではないからです。
238名無しのオプ:2001/03/30(金) 15:28
ここって学会とか阿含とか真如苑とか他多数とか
まるでカルトの巣窟だね。
自分達の教義を否定されないように頑張っちゃってるね。
239名無しさん@1周年:2001/03/30(金) 15:48
だって「教義の否定=自分を否定される事」だもん。

おめえも調子こいてっと、ぶっ・・チャーに変身させちゃうぞ!
(後半弱気)
240名無しのオプ:2001/03/30(金) 16:09
HAHAHAHAHA
笑ったよ
241名無しのオッペケペ:2001/03/30(金) 17:16
チンコ丸出しで笑ったもんネー!!
242名無しのクレヤボヤンス:2001/03/30(金) 17:41
>241
いいや・・・私には見えていた。あなたが実際はチンコ丸出しで
笑ってはいないという事を!!
私の大江千里眼では全てお見通しよ!
ゲハハハ(演出過剰)
243名無しさん@1周年:2001/03/30(金) 17:49
>241・242

バカ?
244むーたん(ノ_・。):2001/03/30(金) 19:59
輪廻転生は宗教によって色々な輪廻転生観があります。
チベット仏教の輪廻は
仏教の輪廻観ではなく
ヒンドゥー教の輪廻観に近いかとおもわれます
ヒンドゥー教の教えに業と輪廻が一応ワンセットなのですが
輪廻だけを話すと
「輪廻=生死の流転(過去・現在・未来)の繰り返し」
ということなので輪廻なのですが
チベット仏教の輪廻は「仏教の輪廻」とは違うみたいですd(^-^)ネ!

それとラマ教を宗派の一つというのは駄目なのかぁ。かなり言い得ていると思うのに(・_・、)グスン
>ラマを重んじることはチベット仏教の特色の一つであって
すべてではないからです。

全てではないのは当たり前のことなんですけどラマを重んじることの比重がとても大きくないですか?
(とうより何を言っても“それが全てではない”と言われると困っちゃう…肯定も否定もせずに相手の意見を潰せちゃうね( ̄ー ̄)ニヤリッ)
「一般の仏教が世の宝に例えて三宝(仏・法・僧)に帰依することを仏教徒の根本条件としましたが、チベット仏教はその上にラマを加えた四宝に帰依します。
教祖ダライ・ラマは生き仏として崇拝され、信者は精神的・物質的奉仕を捧げることが成仏の道とされました。」
ラマを重んじることを義務付けられてるね
245学んだら即実行のむーたん:2001/03/30(金) 21:08
238さんや239さんへ
それが全てじゃないよーヾ(@^▽^@)ノ
246雲 黒斎:2001/04/01(日) 03:39
うむ・・・宗教というとカルトだとおもう薄学の輩があとをたたんようじゃな。
糞でもして寝るとしよう・・・
247名無しさん@1周年 :2001/04/01(日) 05:46
1-246
つまり
「釈迦は転生(生まれ変わり)を否定も肯定もしていない」
「仏教とは輪廻からの脱出の方法である」
「輪廻とは苦であり、生きることそのものである」
「釈迦は生=苦の原因とその脱出方法を説いている」
ということですか?
248渡海 難 p40-dn08saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/01(日) 09:32
>「釈迦は転生(生まれ変わり)を否定も肯定もしていない」

 仏教には、釈迦の名の下で転生を否定している主張もある。肯定している主張もある。

>仏教とは輪廻からの脱出の方法である

 輪廻はあると言う立場では、輪廻を断つことを教える。
 輪廻はないと言う立場では、妄想を断つことを教える。
 (なお、立場立場で異論があっていい。)

>「輪廻とは苦であり、生きることそのものである」

 輪廻とは、苦の現れ方を記述するひとつの表現方法である。

>「釈迦は生=苦の原因とその脱出方法を説いている」

 生は苦の原因ではない。生は苦の表れ方の一つである。輪廻肯定の立場では、生老病死が等しく苦である。生老病死は等しく苦であり、生老病死の原因は無明(愚かさ)にあると認識した(十二因縁)。
 愚かさの克服は、真理を正しく知ることで達成される。それは、教育と学習である考えた。祇園精舎を始めとする学校教育運動は、仏教のそうした考えの実践である。
249名無しさん@1周年:2001/04/01(日) 11:43
>>248
君いつもいるね。いつもそんなことばかり書いているね。
気付いてるかい?はっきり言って誰も君のこと相手にしてないよ?わかってるの?
それって、自分ではおもしろいと思って書いているんだろうね。
きっと、薄ら笑い浮かべて書いているんだろうね。
でもさぁ、君以外の人には全然おもしろくないんだよ。
もしかして自分でもおもしろくないのに書いているんじゃないの?
自分でも何してるのかわからなくなってるんじゃないの?
家族からも近所からも煙たがられているんだね。
友達も彼女も彼氏もいないんだね。学校でも会社でも浮いているんだね。
どこに行っても相手にされないんだね。
ネットでも無視されてここに流れ着いて来たんだね。
ここでさえ相手にされてないじゃん。どうするの?
かわいそうに。もう駄目じゃん。
生きていても何もいいことないよ?
どうせ誰からも相手にされないんだから、死んだ方がいいんじゃない?
相手にされないから奇抜な言動で注目を浴びようと必死なんだね。
始めは少し注意を向けてもらったのだろうけど、
もう飽きられて完全に無視されているね。
それって迷惑なんだよ?気付いてる?
おもしろくもないのに、意味不明な事を大量に書かれても目障りなんだよね。
さようなら。この世から消えてくれ。君いるだけで迷惑。
せめて最後ぐらい人里離れた山の中で自殺してね。
250渡海 難 p12-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/01(日) 16:58
 でもこの人の性格って、相当ネクラだねー。2CH随一じゃないかしら(笑)
 歩くネクラ人間。フランケンシュタインみたいな人かねー。
心ある坊さん達や。読んでいるか? 249みたいなこういう人も多分、自分は浄土真宗を信じているんだと、思っているんだろね。
 浄土真宗そのものに批判的な人は、こんなカキコはせんじゃろう。
 浄土真宗を信じていると思っている人の思想の淵源は、正当と亜流とを問わず、ほとんどがいずれかの遠からぬ過去の坊さん達に行き着くんだろう。
 世の中にアホ坊主は腐るほどいる。僕はアホ坊主は相手にしない。心ある坊さんに申し上げたい。あんたらの先輩達は、過去、どんな糞みたいな説教をし、どういう人間を歴史的に築いてきたか、少し考える時代に入っているんじゃないの?
 三〇年、五〇年、百年昔の坊さんのアホダラ節に、自分たちは責任はないと言うかも知らん。それでも、三〇年、五〇年、百年昔の坊さんのアホダラ節を、二十一世紀に入っても、同じようにリピートしていれば、、あんたらもまたNo249みたいなアホ人間を将来に向かって育てることになるんだよ。
251渡海 難 p12-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/01(日) 17:00
>250
誤 でもこの人の性格って、
正 249はいろいろ書いてるね。この人の性格って、
252名無しさん:2001/04/01(日) 17:32
>>248
同意。
253247:2001/04/02(月) 04:07
>>248
ども、なるほど。
> 仏教には、釈迦の名の下で転生を否定している主張もある。肯定している主張もある。
> 輪廻とは、苦の現れ方を記述するひとつの表現方法である。
ということは「輪廻転生」と「輪廻」は違うものなのですね?
254渡海 難 p39-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/02(月) 11:52
>253
>「輪廻転生」と「輪廻」は違うものなのですね?

   >>214を見てよね(苦笑)
255名無しさん@1周年:2001/04/02(月) 12:22
>アホダラ節

ワラタ
25637:2001/04/02(月) 20:31
>244
>教祖ダライ・ラマは生き仏として崇拝され
どの本に書いてあったのか知りませんが、ダライラマは教祖ではありません。
ゲールク派の宗祖はツォンカパです。 ダライラマの師匠はパンチェンラマということになっているし。
チベット仏教にはいろんな宗派があります。
ダライラマがそれら宗派のトップではありません。ゲールク派のトップであり、
チベット国の政治上のトップなわけです。
くどいのですが、ラマ教という言葉は使わない方がいいと思います。
257253:2001/04/03(火) 00:09
>> 254
うーん、

「転生」=人間などの生物が肉体的に死んだのち、別の生物として生まれ変わる
ことで、肉体は変わっても魂(アートマン?)は変わらない。

「輪廻」=心の状況の移り変わり。

という認識は間違いですか?

258渡海 難 p50-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/03(火) 15:12
>>257
>という認識は間違いですか?

 聞かれても困る。僕には、他人の考えを正しいとか間違っているとかいう資格はない(笑)。

>「転生」=人間などの生物が肉体的に死んだのち、別の生物として生まれ変わることで、肉体は変わっても魂(アートマン?)は変わらない。

 こういう主張が仏教だという人がいるなら、その人の仏教と僕の仏教とは、呼称が同じでも、実体は全くの無関係、縁もゆかりもない。それだけのことでしょう。
 例えば、ヒンズー教がどんなことを言っているのか、ゾロアスター教が何を主張しているのか、古代エジプト宗教がどんなことを言っていたか、僕は全く知らない。僕は宗教の専門家ではない。呼称では「仏教」と言う同じ名がついているのかも知れない。呼称が同じじゃ紛らわしいが、紛らわしくったって縁もゆかりもない宗教がどんな主張をしているか、僕の知ったこっちゃない。興味もない。
259渡海 難 p50-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/03(火) 15:13
 人間に霊魂なるものがあるのなないのか。そんなことは僕は知らない。知りたければ、心霊学でも研究している人に聞いて欲しい。あのねー、僕は技術法律屋なんです(笑)。魂(アートマン?)があるかないか、技術法律屋に質問されても、ワカリマセン(苦笑)。
 人は別の生物として生まれ変わるかどうか、興味があるけど、僕の知ったこっちゃない。そんなことは、釈迦だって親鸞だって知らなかったろう(苦笑)。
 例えば、釈迦は二千数百年昔のインド人だ。彼は、土星に輪があることも、木星に月があることさえ知らなかったろう。人間は全て心臓があり、心臓は生まれたときから死ぬときまで休まず動いているということすら知らなかったかもしれない。親鸞って、日蓮さんだって同じようなものさ。
 人間に魂(アートマン?)があるかないか。別の生物として生まれ変わるかどうか。昔の人も興味はあったかも知れないが、そんなこたぁ知りゃぁしなかったろう。彼らの常識は、現代人の僕らの10%,5%にも満たなかったかもしれない。彼らの誤解の量は、僕らの十倍、百倍じゃ足りないかも知れない。
 僕も、心霊学には野次馬的に興味がある。だけど、そんなことを僕は二千年も昔の人に質問するほど暇じゃない。知りたければ、二十代、三十代の若い専門の研究者に聞きに行くよ。彼らの方が実証学的に遙かに正しい認識を持っているだろう。
 例えば、スカイラボの飛ばし方や、宇宙遊泳の方法を、千年、二千年昔の人に聞いて何か分かると思うかい。千年、二千年も昔の人は、スカイラボや、宇宙遊泳だって考えたことも無かったろう。アインシュタインだって、ニュートンだて知らないだろう。僕はそんな人に質問を向けないんだ。
260渡海 難 p50-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/03(火) 15:13
>「輪廻」=心の状況の移り変わり。

 僕はそう思わない。
 小学校の女の子を誘拐して、十年間も監禁いていた大馬鹿者が最近捕まった。
 その馬鹿者は、逮捕・留置・拘置という手続きで今でも監禁されているはずだ。ところが、この大馬鹿者が監禁されることには、誰も異議を挟まないだろう。十年間も女の子を監禁していれば、そうなるのは当たり前だ。女の子を監禁していたとき、彼は自分の意志をその女の子の上に実現する自由を持っていた。なぜそんな自由があったのか。やっこさんが馬鹿だったからだろう。少しまともな智恵があれば、そんな馬鹿なことはしなかったろう。腹立たしいばかりのアホ振りが、女の子を監禁するという身勝手な自由となって表れ、検察庁に拘束されるという状況に表れている。検察庁に拘束されているというのは、アホの自業自得と言う外はない。そいつは実に取り返しのつかないアホをやってのけたのだ。
 逮捕後、彼は女の子監禁時を懐かしんでいるという。いま、彼は、自分が監禁状態に置かれている。監禁状態では、いろんな思い、願望を抱いても、その実現に向けた行動は大幅に制限される。
261渡海 難 p50-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/03(火) 15:14
 時に人は、自由な意思とその意思を百%実現できる行動を持つときがある。政治家は、自分の意志を、自分だけじゃなく、多くの人を動員して実現する。これを天という。
 かつて、マッカーサー元帥は、日本人民の上に君臨した。軍人として、アメリカ大統領府の意思を、日本において実現するために動いた。
 人は通常、意思を持つ。意思は行動で実現する。意思には、実現できるものと実現できないものがある。行動には必ず一定の束縛がある。意思は自由でも、その実現行動に一定の束縛があるのが人間だ。
 組織の人間にも行動力がある。しかし、組織人の行動力が実現する意思は、他人の意思だ。軍人はしばしば独自の顔(意思)をもたない。近所では虫も殺さないと思われていた人が、戦場では鬼軍曹に変わる。婦女子も八つ裂きにする蛮行を敢行する。彼らは、他人からの命令で死地に赴き、修羅場で玉砕する。これが阿修羅だ。阿修羅は、人の上に立つ者と、人間以下の環境下で餓死玉砕していく者がいる。
 意思が自己の欲望だけに特化され、行動が欲望の意思に振り回されるものがいる。ケダモノという。ケダモノの心でケダモノの行為をする者はケダモノである。
 欲望が、空腹感に特化されたケダモノを餓鬼という。餓鬼に満足感はない。
 欲望意思に振り回され、行動は身動きできないときがある。これを地獄という。紅蓮の炎が氷詰めされた状態だ。地の獄という。
262渡海 難 p50-dn10saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/03(火) 15:14
 女の子を監禁していた男が拘束を受けて身動きできない状態になっているとすれば、果たしてそれは心の問題だろうか。僕は心の問題ではないと思っている。検察庁所管の拘留場で、彼は現実に身動きできないでいると思う。検察庁の拘留場などは全て夢幻であって、心の影像に過ぎないと言う人はいるかもしれない。独房も、鉄格子もみな空であり、幻だというかも知れない。もしそうなら、女の子の監禁も、逮捕も、全て空である。何一つ実体はなく、夢幻である。女の子監禁の事実があたっということも、なかったということも、共に夢幻である。夢幻であるということ自体も夢幻である。しかし、ぼくはそんな考えは採らない。
 人は絶えず意思と行動が変わっていく。輪廻転生は、現実であって決して心の問題ではない。僕はそういう考えを採る。
263?H&ampnbsp:2001/04/03(火) 17:20
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師祖師
264渡海 難 p14-dn08saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/03(火) 18:06
>263
 笑

 「祖師」という言葉から類推すると、?H&ampnbspさんは日蓮系の人?
 確か、日蓮系の人は日蓮さんを「祖師」と呼ぶよね。
 「親鸞だって、日蓮さんだって同じようなものさ。」という言葉が気に障った?
 日蓮さんは、神がかった神秘的な超人であってほしい(笑)?
265名無しさんの主張:2001/04/03(火) 19:25
>渡海
お前みたいなキチガイは来んなよ、、マジでさ、頼むから。
お前に死ねとは言わないからさ、俺の前に現れないでくれよ。
お前を見てると、こっちまで頭おかしくなってしまいそうだぜ。
お前のカキコ見るとマジで胸がむかつくぜ。
お前が何を考えて書き込んでるのか俺には到底分からんが、
お前が嬉しそうににやにやしてるのかと思うと哀れに思うぜ。
お前は本当にそれで満足なのか?わざと人を不愉快にさせて。
お前はそれでアイデンティティを確立してるつもりかも知れねーが、
お前以外の人間には迷惑なんだぜ?
お前みたいなキチガイは消えちまえ。それが世の中のためだ。
266悪魔王サタン:2001/04/03(火) 20:00
>265
それはムリというもの
267名無しさん@1周年:2001/04/03(火) 20:15
  ∧_∧    ∧_∧   ∧_∧   ∧_∧     ∧_∧
  ( ´∀`)   ( ´ー`)  ( `∀´)  ( ゚ ∀゚ )    ( ^∀^)
 (    つ┳∪━━∪━∪━━∪━∪━━∪━┳⊂     つ
 | | |  ┃ 渡海難はこのスレから出て行け  ┃ | | |
 (__)_) ┻━━━━━━━━━━━━━━━┻ (__)_)
268渡海 難 p42-dn09saiwai.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/03(火) 21:45
>265,267
 笑
269名無しさん@1周年:2001/04/04(水) 01:29
難度海 沈降さんはこういったテーマについてどう考えているのかな?
270太陽と月と:2001/04/04(水) 02:39
生きてるものには魂(霊)がある。と思う。
想像がつかないほどの輪廻を繰り返してると思う。
それぞれの因縁で出会いがあり、別れがあると思う。
悪い因縁と良い因縁があると思う。
愛し愛され、憎み憎まれ、殺し殺され、食う食われる。
全て輪廻によってもたらされた因縁じゃないかと思う。

お釈迦様は知ったのだと思う。そして輪廻を解かれたのだと思う。

慈悲をもって日々過ごすに越した事はないと思う。

輪廻はいつからなんだろう?大きい存在がきっといると思う。

語りすぎる宗教家達は盲目ではないかと思う。
真実に多くの言葉はいらないと思う。     失礼いたしました。 
271257:2001/04/04(水) 05:50
>>258
いえ、ですから、一般的に輪廻転生とは、「人間などの生物が肉体的に死んだのち、
生前の行いに応じて別の生物として生まれ変わること」と理解されていると思うの
ですが。

それでこのスレのタイトルは「釈迦は輪廻転生を肯定しているか?」で、今までの
ログを見ると、あなたを含めて「釈迦は(一般的な意味で言う)輪廻転生を否定も
肯定もしていない(つまり、わからない)」と言われているようなので。

「輪廻」=心の状況の移り変わり。 でないことは了解しました。その人の状況が
行いに応じて移り変わるという訳ですね。

「一般的な意味で言う転生と、仏教で言う輪廻とは異なる」というふうに理解して
いいでしょうか?
272名無しさん@1周年:2001/04/04(水) 06:04
仏教を一つに考えると難しいよ。
「それは○○仏教だ!」と言われるから
釈迦だけを見るのが良いよ。
273271:2001/04/04(水) 06:31
>>272
む、了解です。

では改めて

・一般に、輪廻「転生」とは
 「人間などの生物が肉体的に死んだのち、 生前の行いに応じて
 別の生物として生まれ変わること」と理解されている。

・「釈迦は(一般的な意味で言う)輪廻転生を否定も肯定もして
 いない」(つまり、わからない)

274渡海 難 p2097-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/04(水) 14:21
>>273 名前: 271
>「人間などの生物が肉体的に死んだのち、 生前の行いに応じて別の生物として生まれ変わること」と理解されている。

 カルト宗教ではしばしば、「人間などの生物が肉体的に死んだのち、 生前の行いに応じて別の生物として生まれ変わる」と脅かし、金を集めているようである。

>「釈迦は(一般的な意味で言う)輪廻転生を否定も肯定もしていない」(つまり、わからない)

 人間釈迦の肉声記録は残っていない。
 釈迦の名の下で輪廻転生を否定している仏弟子達の記録がある(般若経経典類 例 善勇猛般若経 等多数)。
 釈迦の名の下で輪廻転生を否定している仏弟子達の記録がある(例 正法念経 等多数)
275渡海 難 p2097-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/04(水) 14:22
 生の意味について説明します。原典は浄土論註という書です。親鸞の教行信証から孫引きします。浄土論註は、曇鸞という人が書きました。曇鸞は、5,6世紀の中国の高僧です。
 問うて曰わく、大乗経論の中に処処に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、願生と言うや。

 <問。大乗仏教の≪般若系≫経典や経典論の中で、随所に次のように記載がある。究極的には生というものは無い。無いとはどういうことか。空虚な空間を想像して欲しい。空虚な空間の中にはまさに何もない。無いというそのことは、まさに空虚な空間のようなものだ。まさに何もない。空虚な空間のように、まさに生というものは無い、と。それなのに、天親菩薩≪バスバンズ 西暦4,5世紀のガンダーラ地方の僧 イスラム原理主義者が破壊したバーミヤンの遺跡地方の人。浄土論を遺している≫は、なぜ極楽浄土に生まれたいと願うと言っているのか。ここでは生という概念が出ているではないか>。

 答えて曰わく、衆生無生にして虚空のごとしと説くに、二種あり

  <答。 生きとし生けるものに誕生はない。空虚な空間には何もない。そのように生きとし生けるものに誕生ということはないと説く場合、二つの立場がある>。
276渡海 難 p2097-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/04(水) 14:23
 一つには、凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて有らゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。

 <一つは、普通の人々がしばしば言っている意味と同じだ。普通の人々が、現実の生活の中で「あの人は死んだ。あの家では子供が生まれた」と言っているような意味の生と死である。こうした見方に対しては仏教は反対する。仏教の究極的な見方では、そんなものは一切無い。誕生も無い。死亡もない。亀は一本の毛もない。まさに無い。空虚な空間のようなものだと言う意味での「無い」とは、亀は一本の毛もないという場合の無いと同じような意味の無いという意味だ>。

 二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと

 <ふたつには次のような意味である。有形的に記述される様々な事実は因と縁によっておこる。因と縁によっておこるとは、そこには何一つ新たな本質的な生起は無いということである。まさに空虚な空間のようなものだと言う。まずここは抑える>。

 天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがごときにはあらざるなり。

 <その上で、天親菩薩が極楽に生まれんと願うという意味での生は、その因縁の意味に関連して生という言葉を借用している。普通の人が「だれそれは死んだ。だれそれの家で赤ちゃんが生まれたという意味の生・死ではない」>。
277渡海 難 p2097-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/04(水) 14:24
 仏教で因縁の義とは、十二因縁の意味です。生老病死は無明を因とします。無明が様々な縁と結びつくとき、様々な現象が起きる。愚か者だから女の子を見て誘拐したくなる。智恵があればそんな馬鹿なことはしなかったでしょう。少女を誘拐して馬鹿が少女に対して二階六畳間のお天下様になる。少女に対して馬鹿なお天下様になったから、やがて警察に捕まってとらわれの身となる。警察でとらわれの身となるハメになったのは、少女に対して馬鹿な天下様になっていたから。馬鹿な天下様になっていたということの本質は、愚か者だという事です。馬鹿者ということです。
 あるときは少女に対してお天下様になるという形で無明が現れる。あるときは警察に捕まってとらわれの身となるという形で無明が現れる。
 少女に対してお天下様になるということも、警察に捕まるということも、いずれも無明の現れかたのひとつ。同じ無明でも、少女に対してお天下様になるという現れ方のときと、警察で捕われの身となるという現れ方がある。どこが違うのか。時期が違う。縁が違うわけです。
 仏教が輪廻でいう生死は象徴的な表現(因縁の義)です。「だれそれは死んだ。だれそれの家で赤ちゃんが生まれたという意味の生・死」ではないと考えるべきでしょう。浄土論註で曇鸞は、さらに議論を進めて極楽に生まれるとはどういうことかという議論をしています。輪廻転生の生と極楽往生の生とは意味が少し違いますが、原理論では重なる部分があります。ここのカキコでは、「往生」という意味の「生」までは議論を踏み込まないことにします。
278渡海 難 p2097-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/04(水) 14:24
 仏教が言う「生」の意味は、「だれそれは死んだ。だれそれの家で赤ちゃんが生まれたという意味の生・死ではない」ということ。肉体の生死ではないということだけを指摘しておきます。
 肉体の生死をもって輪廻を議論する仏教があれば、それは天親・曇鸞・親鸞と流れてきている浄土教仏教とは無関係です。肉体の生死をもって輪廻を議論する仏教が好きだという人はそういう仏教に入っていくといい。そういう仏教は、現代ではいくらでもある。本願寺の坊主でさえ、そう思っているアホはたくさんいるらしい。
 人間には霊魂あり、死んだら猫や犬、ゴキブリに生まれ変わると信じたい人はそう信じるのもいい。機能殺したゴキブリは誰の生まれ変わりだろうと考えるのもいいでしょう。そんなこと思うのは、人それぞれ。そんな現象はありえないという証拠は、僕だってもってない。それでもそういう人は、猫や犬、ゴキブリに自分が生まれ変わる前に、人間の仮面をかぶったまま不幸にならんように気ぃつけんさいよ。
279渡海 難 p2097-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/04(水) 14:29
>278
誤 機能殺したゴキブリ
正 昨日殺したゴキブリ
280名無しさん@1周年:2001/04/04(水) 16:59
>>279
ご苦労様!一言ですまないけど、頑張ってね。
281渡海 難 p2031-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/04(水) 19:37
>>280
>一言ですまないけど、頑張ってね。

 はいはい。みなさまのお一言、お一言が嬉しいんですよ。
282渡海 難 p0745-ip01hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/04(水) 20:07
 ボンミスが多くて済みません。
>274

誤 釈迦の名の下で輪廻転生を否定している仏弟子達の記録がある(例 正法念経 等多数)
正 釈迦の名の下で輪廻転生を肯定している仏弟子達の記録がある(例 正法念経 等多数)

<正法念経は、肯定系に属する経典です。> 
283273:2001/04/05(木) 01:30
>>274-282
レスどうも。浄土系でも「転生」は否定されていると。

仏教思想関係のページをなにげにみてたのですが、

> ヴァッチャは、霊魂と身体とは同一であるか別であるか、
> 人は死後もなお存在するか存しないか等のことについて、
> 世尊がいずれの意見であるかを問うた。だが、世尊(釈迦)
> は、そのいずれの意見をもとらない旨を答えた。
(マッジマニカーヤ 中部経典72、
増谷文雄訳「火は消えたり」『仏教の根本聖典』、
大蔵出版、240〜242頁)

> 「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』など
> は、真実として捉えられるものではないのであるから、この
> ようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』
> とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』
> というような教えは、まったく愚かな教えであると言えない
> だろうか。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)

という釈迦の説法があったので、「釈迦は輪廻転生を肯定してない」
と受け取ってました。「輪廻」の意味を渡海さんに教えられる
までは、てっきり「肉体的な転生」と思ってましたので。
284273:2001/04/05(木) 01:33
↑長文スマソ
285渡海 難 p1166-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/05(木) 13:27
>レスどうも。浄土系でも「転生」は否定されていると。

 否定されていませんよ。否定されているのか、肯定されているのか、そこはきちんと区別してください。浄土教が転生を否定しているとすると、たとえば次の和讃(親鸞作)が空中分解します。

 曠劫多生の間にも、出離の強縁しらざりき、本師源空いまさずは、この度空しく過ぎなまし

>てっきり「肉体的な転生」と思ってましたので。

 肉体転生ではないんですよ。分かってくれる人が一人でもいてくれると嬉しいです。この点ではたくさんの人が大変な誤解をしている。誤解は273さんだけじゃない(笑)。
 評論家の梅原猛さんなんか、誤解者のチャンピオンだ。あの人はしきりに霊魂輪廻説を宣伝している。あの人はもともと西洋哲学の人だ。あの人なんかは、日本思想とか、仏教思想なんかに顔を突っ込む人じゃない(笑)。
286渡海 難 p1166-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/05(木) 13:30
 日本思想や仏教思想界はまことに人材に乏しい。ちょっと権威付いていれば何言っても一流扱いされる。僕の学生時代、日本思想とか仏教哲学なんか専攻するなんて奴がいたら、余程の変人だった(笑)。英語が得意なら法律・経済系、数学が得意なら理工系、英語・数学・理科が得意なら医・歯系とほぼ進路が決まっていた。
 僕は理数系が得意だった。家族も親戚もみんなエンジニヤだった。僕が技術系に進むことは、小さいときからの既定の事実だった。僕の高校の国語の教師だけは、文学部に行くことを薦めてくれたことがあった。でも、僕が理工系に進むことは反対しなかった。<実は、この先生の国語(古文・漢文)のテストが僕はいつも最低だったんだ。いつも落第点すれすれだった。それなのに、その先生だけは進路指導で僕に言ってた。「君は文学部に行くべき人間だって」(笑)>
 大学に入ってはじめて僕は仏教を知った。坊さんとの出会いも持った。僕は、高校の先生の言葉を思い出して、一時は、本気で文科系に転部しようかと思った。でも、当時、僕は、成績もクラスでは上位にいた<出身校は国立じゃないよ。私立だよ(笑)>。転部しても僕には将来が全く見えなかった。出会った坊さんも、転部してまで哲学とか仏教学系に進むことには反対した。「ろくなことない。貴方は在家で仏教を信心しているから素晴らしいんです」と言われた(笑)。
287渡海 難 p1166-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/05(木) 13:31
 四十代後半から五十代になって社会というものが見えてきた。オウム事件以後、非常に強く感じてきた。僕は、やはり仏教哲学を専門としてその学問分野で生きるべきだったんだろう、と。哲学とか仏教学とかやる奴は、学生時代、少なくとも僕の回りでは「ろくでもない」奴と思われていた。進路に迷う若者に、坊さんでさえ自嘲する分野だった。人が集まらない学問分野は急激にレベルが落ちていく。明治以降、法律・経済・科学技術分野の学問レベルは、事実上ゼロから出発していたのに、その後飛躍的に伸びた。仏教哲学は、鎌倉時代を頂点に、特に徳川時代以降、車輪が坂から転落してくるようにレベルが落ちてきた。梅原さんなんかがにわか勉強して小手先で本を書くと、それだけで超一流扱いされる。仏教協会は伝道文化章を授与する。文化勲章(文化功労賞だったかな?)もくれる。日本哲学のレベルの低さがわかるよ(笑)。日本哲学・日本思想界は、迷信と魔の巣窟だ。日本でカルトが蔓延するのも無理がない。梅原猛さんや吉本隆明さんなんかの著作を見れば、日本カルト宗教の原点が見えてくる(笑)。
288名無しさん@1周年:2001/04/06(金) 16:09
  ゝ‐――――∂――∂――――∂――∂――――ゝ
          /   /       /   /
          /   /       /   /
          /   /  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         /   / < 終ったみたいだね。
        /   /   \__________
        /   /       /   /
       /   /       /   /
     Λ_/Λ  /     Λ_/Λ  /  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    ( /∀´)/     (´∀` ) / < すごかったね。おもしろかったね。
    (つ   つ     ⊂/   つ   \__________
   ←λ_ ~) ~)ヽ   ←λ_~) ~)ヽ
   ヽー(__)_) ゝ  ヽー(__)_) ゝ ゝ
289むーたん:2001/04/07(土) 04:37
>256さんへ
ツォンカパって創始者(開祖)じゃなかったの?
あとゲールク派以外の宗派はうちも知ってるけど
例えばどの宗派が教祖がダライラマじゃないの?
ちょっとおしえてー (。・_・。)ノ
290いいかげんな理解ですが。:2001/04/07(土) 05:38
現世の輪廻転生から解脱するための教えを説いたのが釈尊では
ないんでしょうか?(よって、輪廻は前提なのでは?)

291名無しさん@1周年:2001/04/07(土) 07:44
釈尊の視点から見れば言葉よりも感覚として知れるのかも。
そこから見ないと理解できないのかもね。
292名無しさん@1周年:2001/04/07(土) 11:10
釈迦の直説ってのはどんなものなのだったのかってのは、わからないんだよ。
最古の原始仏典といわれる阿含経典なども実は釈迦の死よりかなり後のものだからね。
教説の内容から論理的にたどって釈迦の直説を類推するという立場もあるけど
そうしたら案外大乗仏教みたいになっちゃったりして(宗教とは別に)歴史学の方面では
最近よくわけがわからないことになってるみたいね。
293292:2001/04/07(土) 14:28
今思うと、いちばんありそうな結論は、釈迦がいっていたのは
魂や輪廻の実在如何を棚上げした上での議論だったのかも知れないね。
29437:2001/04/07(土) 20:25
>289
ツォンカパはゲールク派の開祖です。チベット仏教の開祖ではありません。
彼の弟子の一人であるゲドゥン・ドゥブがダライラマ1世です。
ダライラマ3世ソナム・ギャムツォは有名人であり、有力な保護者がいた。
それでダライラマの称号をもらった。
そして彼はきっとあの有名なゲドゥン・ドゥブの生まれ変わりだろうというので、
さかのぼってゲドゥン・ドゥブがダライラマ1世とされたわけです。
ですからダライラマはゲールク派のトップなわけですが、どの宗派の開祖でもない。
でも他の宗派、たとえばサキャ派やカルマ派などそれぞれの宗派にはそれぞれ開祖がいるし、
トップもいる。
去年だったかチベットから亡命したカルマ派の活仏はカルマ派のトップですね。
チベットのことなら前にも紹介した
山口瑞鳳「チベット」
が少し難しいけどお勧めだし、読みやすいものなら
クリストファー・ギブ「チベット史ものがたり」
など。
295渡海 難 p1006-ip02hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp:2001/04/07(土) 23:18
>>290 名前:いいかげんな理解ですが。

>現世の輪廻転生

 これは間違いでしょう。
 輪廻転生論では、過去世、現世、来世という順に転生すると考えています。現世だけに限れば、生に始まり、老・病を経て死で終わる。転生ではその死から来世が始まる。
 だから、現世の輪廻転生という言い方は間違いだと思います。

>輪廻は前提なのでは

 私もその通りだと思います。
 釈迦は生老病死を重ねていく輪廻について思索され、その原因が無明にあると気付かれた(十二因縁)。これが全仏教の原点だと思います。
296むーたん:2001/04/09(月) 00:09
>294さんへ
ゲルグ派ってかきわすれちゃった
ツォンカパはゲルグ派の創始者って事は知ってるです
チベットの宗派のトップはあくまで宗派のトップの転生であって
ダライラマと同格ではないと聞いてるけど間違いなの?
宗教のトップと宗派のトップは違うと思うけど
それに現在のダライラマの世代数はゲルク派成立以後の人物に便宜的に世代数をふったもので、
伝統的なチベット社会ではゲンドゥンドゥプ以前にも観音にまで遡る数々の前世が存在すると信じられており、
この前世者を抜きにしてはダライラマの権威と行動原理の源泉は理解できないと思われてるらしいの。
「ダライラマのイメージがチベットの開国説話と結び付いている限り、物語の生きている社会の中ではダライラマは絶大な権威を持つことができる。」
ということなのだ
29737:2001/04/09(月) 18:00
>むーたんさんへ
>296で書かれていることは私はよくわからないことばかりです。
何かの本に書かれているのでしょうが、どういう本か教えて下さい。

私はダライラマは天皇のような存在だと思っています。
天皇は神道というか日本教のトップであり、日本のトップでもあります。
こういう理解は違っていますか。
298292@`293:2001/04/09(月) 18:04
ヲイヲイ スレッドの表題は、釈迦本人がどう考えていたかだろ?
チベット仏教は、それそのものはさあ、まあ素晴らしいと思わないでもないけどさ、
根本仏教と関係ないじゃん。
299名無しさん@1周年:2001/04/09(月) 23:14
>根本仏教と関係ないじゃん。

宗派や専攻する学問にもよりけりだとおもいますが。
300専門用語だと説得力増さない?むーたん:2001/04/12(木) 04:00
インド仏教の研究にとってチベットの仏教は重要な地位を占めてるです。
ヒンドゥー教も仏陀の軌跡を知るには研究対象になりますし・・・
という言い訳はだめ?ヾ(´▽`;)ゝエヘヘ

ヒンドゥー教の異端思想の時代。知的実験の雰囲気の中で
ヴェーダ文化の中心地からほど遠い東の地でクシャトリア出身者が仏教を起こしてます。
ゴータマは当時一般に行われていた修行では満足できず。最後は菩提樹の下で悟りを開きます
仏教のウパニシャッドの影響は明白である。
が、反ヴェーダ的宗教でありカースト制を否定した。
以上はヒンドゥー教の仏教の説明なんだけど178の補足になるはずです(仏陀は沙門ってのも入れとこっと)

「釈迦は相手の理解力に応じて説き方を変えた為、弟子達の受け止め方には少しずつ差が出てきました」
これは部派仏教成立の由来ですがこれもヒントになりそうですよね。

うちの解釈なんですが解脱説いてるから(本心はどうであれ)輪廻肯定だと思うですがどうです?('-'*)フフ

301ベル:2001/04/12(木) 04:51
悟りを開き、神を知った人は全てを肯定する。
神を知れば何事も否定できません。
批判、注意はできますが、否定が何であるかを知るからできません。
302むーたん:2001/04/12(木) 04:52
>294さんへ
山口瑞鳳って「チベット死者の書はエセ仏典」とか書いて恥じかいた人じゃなかったっけ?
(ダライラマ14世はチベット死者の書は仏典と認めてるです)
>297さんへ
ダライラマ14世著書の著者説明などに
「観音菩薩の化身として転生を繰り返し現在に至る。ダライラマ制が開始した時点から14世を数える。」
と書かれているから著作の本を探してみてほしいです。
観音様から数えると現在のダライラマ14世は61番目の観音様の化身です。
チベット開国伝説なんかを調べれば出てくると思うです
>私はダライラマは天皇のような存在だと思っています。
うちは間違ってないと思うです。(人によっては否定してきますけどd(^-^)ネ!)

303名無しさん@そうだ選挙にいこう:2001/04/12(木) 05:20
>>301
>悟りを開き、神を知った人は全てを肯定する。
>神を知れば何事も否定できません。
>批判、注意はできますが、否定が何であるかを知るからできません。

そりゃあ、いくら何でも、ここで使うにふさわしくない「肯定」だよ。
キミの言ってる「肯定」は、通常の否定と肯定の二元性を併せ呑んだ「肯定」だろう。

むしろ仏教的理解では、すべてを否定し尽くすんだよ。

まあ、結論は同じになるが、全面的肯定=全面的否定で両者は同じもの。
#まだまだ青いな。
30437:2001/04/12(木) 21:17
>むーたんさん
>山口瑞鳳って「チベット死者の書はエセ仏典」とか書いて恥じかいた人じゃなかったっけ?
私は山口が恥をかいたとは思わないのですけど。
>ダライラマ14世はチベット死者の書は仏典と認めてるです
仏典といっても釈尊が説いたわけじゃなし。ダライラマが認めているから、
私も認めなければならないわけじゃないでしょう。
私に言わせれば、ダライラマのいい加減さをあらわしていると思います。
ダライラマ14世が本当に観音から数えて61番目の化身だと信じている日本人は
頭のおかしい人だとしか思えません。
だって観音は実在の人物ではありませんからね。
ともかく、むーたんさんとは水掛け論になっているので、
これ以上論議しても同じことの繰り返しになると思います。
私はダライラマのファンですが、天皇否定論者です。
いかにしてそうした存在にとらわれないか、
これが仏教との課題だと思います。
305ちょっと攻撃モード?むーたん:2001/04/13(金) 04:42
知らないみたいだから詳しく書くね
山口瑞鳳さんはこのような説明をしています
「この書は学界では紛れもない偽書として知られる。剽窃、偽作したものをあらかじめ地中などに埋め、古代に秘匿された宝物であると称して人前で取り出して見せる「埋蔵書」の一つであり、”チベット人自身が仏典”と考えていない。」
ダライラマは
「この書を仏典ではなく、如何わしい宗派の創作したまがい物の経典であるかのように言う意見もあったようです。」
ということを言っています
チベットは死者の書を仏典として認めているので山口瑞鳳さん恥をかいたというのがうちの文章です
ダライラマのいうことがすべて正しいとは思わないけど、この事に関してはダライラマの言うことをうちは支持しているです(だってチベット人がどう思ってるかはダライラマの方が山口さんより知ってそうじゃない?)。
ただそんだけで認めろといってる訳じゃないよー
釈尊が説いていない仏典を仏典ではないと否定する意見はかつて日本でもありましたしね。
>ダライラマ14世が本当に観音から数えて61番目の化身だと信じている日本人は
頭のおかしい人だとしか思えません。
チベットではそういう位置にいる人がダライラマだっていう説明なので・・・
うちも信じてないですし、ダライラマのファンでもチベット仏教の信者でもないけど
 (世界史基準でラマ教と言ってる人σ(゚-^*))

でも頭がおかしい人は言いすぎかなヽ( ´Д`)丿(信じてる日本人いそうな気がするです・・・)

水掛け論になってるのかな?そんなら言うけど
チベット仏教にも六道輪廻あるからダライラマのファンなら知っておくのも悪くないよぉ。
(微妙に日本のとは違うからね説明が文章長くなって面倒なので229のような返答しちゃったんだよね('-'*))
30637:2001/04/13(金) 19:33
>むーたんさん
水掛け論ではないかもしれませんが、話がかみ合っていないのは間違いないところでしょう。
死者の書をどう考えるか。
私はそんなものは仏教の書物とは認めたくない。山口瑞鳳がどういう根拠で書いたのか
知りませんが、ダライラマよりは山口をとります。
山口が恥をかいたとは思いません。
かえってダライラマが自己の出自を正当化したのであり、そのため恥をかいた、
と思います。
またダライラマなどチベット人の書いたものは、皇国史観のような自己正当化
されているものが多く、ある程度は眉につばを付ける必要があります。
ダライラマが麻原をほめたことは事実ですし、金さえもらえれば褒めちぎるのも事実です。
そういう責任逃れが上手な点も天皇と似ています。

>チベット仏教にも六道輪廻あるから
そりゃ知っています。十王経などのタンカもありますね。

それでこのレスの問題に戻れば、輪廻を釈尊が説いたのは、釈尊在世当時の一般常識の枠の中で
法を説いたから輪廻にも言及したのであって、釈尊の真意は輪廻を実体的なものとは考えない、
というのが私の考えです。

私はチベットファン、ダライラマファンですが、
チベット仏教をすべて肯定しているわけではありません。

それと、むーたんさんはラマ教は仏教の一宗派だというから、
それはおかしいと言っているわけで、そのことは認めていただけたわけですか。
307素直な良い子のむーたん:2001/04/14(土) 07:07
>306さんへ
山口瑞鳳がどういう根拠で書いたのか 知りませんが、ダライラマよりは山口をとります
↑凄いねー根拠もわからずに山口さんを支持するなんてなかなか出来る事じゃないよぉ
分かりやすく言えばね。
チベット人は仏典とは認めていないと主張してるのが山口さんで
チベット人は仏典と認めていると主張しているのがダライラマです。
なんかダライラマを攻撃してるね。ホントはダライラマのファンじゃないんじゃないの(・_・?)
>チベット仏教で言う転生は……六道を輪廻しているのではない
と書いてあったんで知らないと思ってたです。
チベットの仏教の六道輪廻勉強するとね。チベット仏教で言う転生も六道を輪廻してると思うと思うです。d(>▽<)!
>ラマ教は仏教の一宗派だというから、 それはおかしい・・・
日本仏教は大乗仏教系でスリランカとかは小乗仏教系なんだけどチベット仏教はどちらとも言えないのね
そんで説明とかに「仏教の一派」とか書かれているの
宗派は元の宗教からの分派のことを言うんで問題ないと思ったです。
「ラマ教は仏教系」とかの方が良かったかなと思ったです。ごめんちゃい('-'*)


30837:2001/04/14(土) 15:44
>チベット仏教で言う転生は
これは後で訂正しましたが、活仏の転生は輪廻とは違う、という意味です。

それとくどいのですが、ラマ教という言葉は今は使う人はほとんどいませんよ。
そういう宗教があるわけではないのですから。
30937:2001/04/14(土) 16:09
ダライラマは、自分は観音の化身である、と信じているのでしょうか。
310名無し:2001/04/14(土) 23:54
>>308
>>チベット仏教で言う転生は
>これは後で訂正しましたが、活仏の転生は輪廻とは違う、という意味です。

たとえばヒンドゥーの伝統でも、仏陀はヴィシュヌ神の化身として扱われている。
そして彼らに言わせれば、ヴィシュヌ神は、時代に合わせて、
ラーマになったりクリシュナになったりしてこの世に出現する、という。
しかし、これは、ここで言っているような、
いわゆる何か「魂」のような常住の実体があって、それが「生まれ変わる」
というような意味での転生じゃない。
おそらく、チベット仏教の活仏の転生というのも同じような概念なんだろうね。

>ダライラマは、自分は観音の化身である、と信じているのでしょうか。

本人はどう思ってるんでしょうね。
私には、彼がいわゆる、よき教師とか指導者以上の存在には思えません。
311ベル:2001/04/15(日) 00:55
>>303
見神すると、何物も否定できなくなりますよ。
これは捨てると言う否定の先にあるものです。
否定はそこまでの過程でしかありません。
312名無しさん@そうだ選挙にいこう:2001/04/15(日) 03:35
303>>311
>見神すると、何物も否定できなくなりますよ。
>これは捨てると言う否定の先にあるものです。
>否定はそこまでの過程でしかありません。

あほ!!
おまえは見神したのか?

「二元性を越えるは王者の見地」

だったけかな。たしかミラレパか誰かが言っていた言葉だ。
これに限らず、過去に見神したと見なされている人たちはみな、
一様に二元性からの脱却が悟りの本性だと言っている。
否定も肯定も「両方とも無い」とき、
それをことさらに「肯定」と呼ぶことに何の意味がある?
本当は「それ」を肯定と呼ぶのも、否定と呼ぶのも両方間違い何だよ!

#顔洗って出直してこい!
313素直な良い子のむーたん:2001/04/15(日) 04:24
>310さんへ
転生と化身は別もんです
もしかしたら37さんは
「仏の化身は転生とは言わない」と言いたかったのかな?
どうなのかな37さん(・_・?)

それと37さん
>釈尊の真意は輪廻を実体的なものとは考えない、というのが私の考えです
それは仏教用語の「輪廻の主体」のことじゃないの?
その文章だけだと「私の考え」って意味がよくわかんないよぉ・・・( ・_・)ジッ

>ラマ教という言葉は今は使う人はほとんどいませんよ。 そういう宗教があるわけではないのですから。
これは全然使っていいでしょ?
高校の世界史で使ってる名前だし
そんな事言いはじめたら日本仏教という宗教もうち知らないよ。
チベットでチベット仏教という名前の宗教もあるの?
キムイルソンはいるけどキンニッセイって人は存在しないっていうのと一緒じゃない?
そこにこだわる理由がわかんないです。(?_?)
314ベル:2001/04/15(日) 04:26
>>312
どうやら語弊がありましたね。
解りやすく全てが愛しいとでも言いましょうか。
315ベル:2001/04/15(日) 04:50
[追加]
言葉の前にある意志を言葉以外ではご存じでないでしょうから。
ニュアンスで解って貰えると思いましたが、やはり無理でしたね。
気を悪くしたのなら申し訳ありません。
私は塩水と砂糖水を一日一杯づつ一月半瞑想とともに過ごしました。
そして見神しました、まばゆい光と具現化された構造を見ました。
これは嘘ではありません確かな真実です、では。
316名無しさん@そうだ選挙にいこう:2001/04/15(日) 05:09
>>315
>言葉の前にある意志を言葉以外ではご存じでないでしょうから。
>ニュアンスで解って貰えると思いましたが、やはり無理でしたね。
>気を悪くしたのなら申し訳ありません。

別に気を悪くしたのではないよ。
おまえがあまりにあほだからあきれただけ。

>私は塩水と砂糖水を一日一杯づつ一月半瞑想とともに過ごしました。
>そして見神しました、まばゆい光と具現化された構造を見ました。
>これは嘘ではありません確かな真実です、では。

真正のアホ発見!(笑)
そのまばゆい光と具現化された構造を神だと思ったのか?

いいかい、坊や。
「心」というものは、事象を「対象化」する事によって、
初めて認識を得ることが出来る。
この「物事を対象化する力」が働いているうちは、決して見神する事はない。

また、「肯定」も「否定」も両方とも、
肯定するための「対象」、
もしくは
否定するための「対象」
を必要とする。
もしそこに、精神作用の対象化の力が止んで、
「対象」としての事象が消滅しているなら、
そこには当然、「肯定」も「否定」も両方無い。

#禅では、おまえがしたような体験を魔境と言って一笑に付する。
先達の言葉は素直に聞けよ、まったく。
31737:2001/04/15(日) 17:38
素直な良い子とは思えないむーたん
というのが感想です。
いちいち答えるのが面倒になったのでこれでおしまい。
318名無し:2001/04/16(月) 00:42
>>313
>>310さんへ
>転生と化身は別もんです

ええ、もちろん。
310でもそう書きました。
ただですね、このスレッドには、転生と輪廻が違う、とか書くと、
「そんなこたーないでしょう。広辞苑を引きます」
なんていう方がいらっしゃいましたから(爆笑)。
つまり、言葉の定義があいまいなまま議論してると、そういう御人に、
「なんでチベット仏教では高僧が生まれ変わるのか、僕には分かりません」
なんて言われそうですからね。
319素直な良い子のむーたん:2001/04/16(月) 21:26
>318さんへ
説明するとチョー長くなるので化身と言うのを調べてみてほしいです
仏教用語の「法身」と「色身」が化身の説明にでてくるはずです
「・・・化身とはこの報身の仏が命あるものを救おうという気持ちを起こしたとき、我々の前に現われる肉体を有した存在である・・・」
つまりね
37さんの言う「転生と輪廻が違う」の説明の
「チベット仏教で言う転生は、仏が衆生済度のためにこの世に生まれてくるのであって
六道を輪廻しているのではない。仏だから輪廻から解脱している。 」
というのは化身の事だと思われるです
チベット仏教にも「衆生を救済する仏の色身」と言う説明もあるし
「修行者はこれら「法身」「色身」のうち、他人を救済する為に、とくに色身を得ることを目的としている」ともあります
「本尊のヨーガ」とかもあるけどこれは別もんだから・・・
もしかしたら37さんは転生と化身がごっちゃになってるかもしれないです
320電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/04/16(月) 22:20
数日前に戻ってきました。

仏教では輪廻を肯定いたしません。
常識です。
321名無し:2001/04/17(火) 00:52
318>>319
>もしかしたら37さんは転生と化身がごっちゃになってるかもしれないです

いや、だから彼もそれは知っていて、
それをごっちゃにしている人(誰とは言いませんが)のためにそういう説明をしただけかと…。
32237:2001/04/17(火) 19:33
>しつこくてアホなむーたんさんへ
チベットにおける転生と輪廻のこと、説明不足ですみません。
>318さんのおっしゃるように、何とかさんを無視したので変なことに
なりました。
あなたが
>チベットは仏教の宗派のラマ教で肯定派ですね
と書いたので
>いまどきチベット仏教をラマ教なんて言っていることじたい説得力なし
と言われたのがと言われたのが発端でしたね。
そしてラマ教なんていう宗派はないと私は言ったわけです。
これは常識だと思うんですけどね。

それと転生ということですが、チベット関連の本や論文を読みますと、
活仏の生まれ変わりは転生と書かれているのが普通です。
活仏=仏、菩薩ですから、活仏の生まれ変わりは輪廻ではない。
するとチベット仏教の話をする上においては、輪廻=転生としては
誤解を生ずる恐れがある。だから輪廻と転生とは別だということに
する必要があるとと私は思うのですよ。
もちろん、これは一般の仏教の常識から、「広辞苑」の愛読者から非難される
でしょうけど。
おしまいと言ったのに長々書いたことは許してね。
323名無し:2001/04/17(火) 21:45
>それと転生ということですが、チベット関連の本や論文を読みますと、
>活仏の生まれ変わりは転生と書かれているのが普通です。

私は専門家じゃないんでよくわかんないんですが、
確か英語では、むーたんさんの言うようないわゆる「化身」も、
仏教で言うような「輪廻」も、最近はやりの生まれ変わりとしての「転生」も、
全部ひっくるめて「リーインカーネーション」って呼んでいたような…(違った?)。
だから国を越えて翻訳されると、違いがごっちゃになってしまうんでしょうね、きっと。
324アホと言われたむーたん:2001/04/17(火) 22:58
>いまどきチベット仏教をラマ教・・・
去年高校のいまどきの世界史どす。

>チベット関連の本や論文を読みますと、 活仏の生まれ変わりは転生と書かれているのが普通です。
仏は転生と言う表現は普通しないです。あらわれるという表現をするです。
多分チベットの仏教の僧形が日本の仏教にないのかも、だから変な説明をしてるとおもうです。
(日本の仏教徒用の説明かな?チベットの仏教の論文とか知らないのだ)
チベットの仏教も転生は輪廻と一緒に説明します。
>だから輪廻と転生とは別だということに する必要があるとと私は思うのですよ
それは37さんが思うんでしょ?
37さんオリジナルの教義を持ち出されて語り始められても・・・ヽ( ´Д`)丿。
自分でも言ってるように非難されるでしょ

>ラマ教なんていう宗派はないと私は言ったわけです。
これ307で理由も説明して謝ってるんだけど。
悪口言うだけじゃなく謝ってることまで持ち出すのは相当追いつめられてるね

>321さんへ「いや、だから彼もそれは知っていて、・・・」
その根拠となるレスの番号おしえてくださいです。
(うち長い文とか読んでなかったりするです)
化身の説明を活仏の転生の説明として話してるじゃない
ならチベットの化身の説明して聞いてみたいと思わない?

325名無し:2001/04/17(火) 23:38
>その根拠となるレスの番号おしえてくださいです。

322(笑)

>(うち長い文とか読んでなかったりするです)

だめじゃん。

>化身の説明を活仏の転生の説明として話してるじゃない

だから彼が言いたかったのは
「チベットで(仏が生まれ変わるという)言われている転生」でしょ?
それがむーたんさんの言う、「化身」とイコールなわけでしょ?

>ならチベットの化身の説明して聞いてみたいと思わない?

つまり上記のとおりだとしたらもうすでにしているじゃん。
326むーたん:2001/04/18(水) 00:20

>仏は転生と言う表現は普通しないです。あらわれるという表現をするです。
書き忘れましたが転生を広辞苑などの意味に合わせて使う場合仏の転生と使う場合あるです。

もう返事きてる( ̄口 ̄;)!
>325さんへ
322は説明じゃないぢゃん(○`ε´○)ぶーっ
えーとね
37さんのチベットの仏教の化身の説明が知りたいと言う意味どす
327南無観世音菩薩様:2001/04/18(水) 01:23
輪廻とは人間が仏になるまでするのではないでしょうか?
僕は魂が仏になるまですると思います。
32837:2001/04/18(水) 13:50
>素直なときと素直でないときのあるむーたんさんへ
しつこく書きますと
確かに>307で謝っているけど、
>313では相変わらずラマ教という言葉を使うことを肯定しています。

>仏は転生と言う表現は普通しないです。
活仏の転生、などという言い方をします。
広辞苑は仏教辞典じゃないのでこういう場合には使わないほうがいいと思います。

>323の名無しさん
たしかに英訳では「リーインカーネーション」ですね。

しかし仏が衆生済度のため人間として現れる化身、
そして化身が活仏として生まれ変わる転生、
そして衆生が六道を輪廻すること、
これらは少しずつ意味が違います。
輪廻=転生だと思っていると、ダライラマも輪廻しているのか、
と誤解しかねませんね。
これはあくまでもチベット仏教でのことです。

化身と活仏の転生との違いですが、
自分から私は仏の化身だという僧はまずいません。
他の人があのお坊さんはきっと○○仏の化身だろう、と言うわけです。
そうした僧の中には転生したとされる人もいるし、転生しない人もいる。
たしかツォンカパやプトンは転生していないと思います。
化身とされる僧が転生すると、その子供は活仏とされるわけです。
ですから化身とされる僧がすべて転生するわけではないし
活仏というわけではありません。
32937:2001/04/18(水) 13:51
>自分が恥をかいていることを知らないむーたんさんへ
さらに相当追いつめられているのでしつこいですが
>244
>「教祖ダライ・ラマは生き仏として崇拝され」
と何かの本から引用され、また
>どの宗派が教祖がダライラマじゃないの?
とダライラマが教祖だと勘違いされています。
その誤解は解けたのでしょうか。
それよりもダライラマが教祖だなどという無知丸出し本を引用したら恥をかきますよ。
誰が書いたものでしょうか。K先生ですか。

もう一つしつこいのですが、>302に
>山口瑞鳳って「チベット死者の書はエセ仏典」とか書いて恥じかいた人じゃなかったっけ?
と言っていますが
>305にあなた自身が
>「この書は学界では紛れもない偽書として知られる。」
と引用されている通り。
チベット人がどう思っているか知りませんが、
「チベット死者の書」などという胡散臭い本を持ち上げるのは
ちょっと困ったオタク(阿含宗みたいな)ぐらいのものです。
繰り返しますが
>チベットは死者の書を仏典として認めているので山口瑞鳳さん恥をかいた
とは私には全く思えません。
330電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/04/18(水) 15:49
輪廻の英訳はリーンカネーションではありません。リバースあるいはリボーンです。
331【^∇^】:2001/04/18(水) 15:51
俺は解脱して輪廻転生しないニダ!
332電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/04/18(水) 15:52
37はアホ阿含だな。これまで絡んできた阿含名人を何人駆逐したことか。
今度はこちらから攻撃しようか。ついでだ。
33337:2001/04/18(水) 16:52
思い出したのですが、
一番最初の活仏はカルマ派です。
ゲールク派はそれを真似したわけです。
それ以前、サキャ派などは伯父から甥に権力が伝えられたのですが、
カルマ派などはそれができないので、生まれ変わりを使ったわけです。
なんにせよ活仏の転生(輪廻ではない)は政治的なものです。
ですから訂正しますと、
高僧の転生(輪廻ではない)と仏の化身と活仏の転生は本来別々の概念だったのが、
政治的な必要から、仏の化身である高僧が転生して活仏となったとされた。
このように整理してみましたがどうですか。
33437:2001/04/18(水) 16:55
>332
私はアゴンではない。
>330
私の読んだ本では転生がリーインカーネーションになっていましたよ。
335電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/04/18(水) 17:47
輪廻をリーンカネーションと訳すような下らん書物は捨てなさい。
仏教用語ではない転生や生まれ変りをそう訳す分には言及しません。
33637:2001/04/18(水) 20:13
>335
毎度同じことの繰り返しですけど。
チベットで高僧もしくは活仏が転生(生まれ変わりであって輪廻ではない)
したのを英訳ではリインカーネーションと訳されています。
チベット語でどう言うのかは知りませんが。

電波男さんに尋ねたいことがあります。
電波男さんは浄土宗の寺の出身で、おばあさんは霊能者だそうですね。
霊能者とは過去世や死者の霊が見える人のことでしょうけど(普通は
そうですね)、霊能者の存在と釈尊の教えとは矛盾するように思うのですが
どうでしょうか。
337電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/04/18(水) 21:29
よく御存知ですね。でも私は浄土宗寺院の出身ではありません。
浄土宗で出家はしましたけどね。

祖母が霊能者であったら私が必ずそのことを肯定しなくてはならないのでしょうか?
世間的には「著名な霊能者」で通っていたから私はそう言っただけですよ。

ま、「霊」の存在について語るのは別フィールドでしょう。

ところで貴方はだれですか?なぜそこまで私について詳しいのですか?
338電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/04/18(水) 21:30
あ、その英訳は駄目ですね。
33937:2001/04/19(木) 20:15
>337
別のスレッドで知りました。
霊の存在や過去世と輪廻の問題は無関係ではないと思いますが。
>338
どのようにダメなのですか。
340電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/04/19(木) 20:40
輪廻の本義は「輪のように同じ処を巡ること」です。この漢訳は素晴らしいのです。
機会があれば詳しくお話し致しましょう。
34137:2001/04/19(木) 20:44
では詳しくお願いします。
ついでに流転、転生、生まれ変わり、など同義語との違いもお願いします。
それと、輪廻の主体は業識だという説もありますね。これはどうですか。
教えてください。
342電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/04/19(木) 21:07
>輪廻の主体は業識だという説もありますね

このような説はありません。間違った考え方です。仏教ではありません。
唯識をそのように誤解する人が多いことも確かですが。
343名無し象は鼻がウナギだ!:2001/05/14(月) 01:31
>>340
輪廻の本義は「輪のように同じ処を巡ること」です。

原語saMsAraからは「流れていくこと」しか分からないのでは?
輪廻の訳語は分かりやすいとは思いますが、正確な訳ではないと思います。
シュミットハウゼン教授などは波線のような上下運動を提案されてますが・・・。
細かいことでスマソ。
344電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/05/14(月) 14:27
>343
そのサンスクリット表記方法を見ると、素人ではないですね。(笑)

>原語saMsAraからは「流れていくこと」しか分からないのでは?
>輪廻の訳語は分かりやすいとは思いますが、正確な訳ではないと思います。
>シュミットハウゼン教授などは波線のような上下運動を提案されてますが・・・。
>細かいことでスマソ。

本義と語源とは分けて考えてください。おっしゃるとおり、語源は saM√SR
(集まって流れ出る)と言う動詞語根から形容詞化され名詞となったものです。

つまり、輪廻とは「流れ出たもの」→「世界」というインド一般の観念があり、
仏教ではそれを迷いの世界のことであり、無明より流れ出ると言います。その
世界の様が、「無明より繰り返しくるくるといずる」という事で車輪に例える
ようになったのが本義なのです。

この「無明と世界(世間)」の解釈の違いを研究すると仏教諸派の哲学的相違
がわかりますよ。シュミットハウゼンがどこでそのように言ったのか知りませ
んが、彼の研究はもうかなり古いものになっております。かれの有名な「〜の
経量部的前提」はラ・モットやフラウワルナーの説とともに論破されておりま
す。欠点は、伝統的解釈があるのに恣意的な読みをしているところでしょうか。
文献が多いので目が届かなかったことが大きな理由でしょうけど。
345電波男Ψ(´д`)Ψ:2001/05/14(月) 14:58
名無し象は鼻がウナギだ! さん。

このHN、、、あなたニフ者でしょう?(笑)
346名無しさん@1周年:2001/05/14(月) 16:32
釈迦が輪廻を肯定しようが否定しようが
輪廻があるなしには関係ないしねえ。
輪廻はあったほうが、いいけどね。個人的には。
347名無しさん@1周年:2001/05/14(月) 18:28
人口の増加がどうのって矛盾点があるけど、
下等生物が進化して続々と人間に転生してきてると考えたら?
348名無しさん@1周年 :2001/05/14(月) 18:29
エドガーケイシーとかは宇宙人まで視野に入れた輪廻説だよ
349名無しさん@1周年:2001/05/14(月) 18:40
スゲー壮大だな。そこまでいくとちょっと。。。。
350輪廻
英語で言うリバースって人間が人間に生まれ変わること
で動物を含めすべてに生まれ変わりがあるのをリ・インカネーション
って聞きましたが。
通常ヒンズー教ではリ・インカネーションを指してますよね。