1 :
名無しさん@1周年:
私はキリスト教の知識は新約聖書の福音書と
ヒルティの幸福論(岩波文庫)からしか得ていないのですが
専門の方から見てヒルティのキリスト教の見方は
正しいのでしょうか?
2 :
名無しさん@1周年:2001/01/14(日) 11:45
多分誰も読んでないと見た(藁
なかなか有名なものだと思っていたのですが、そうでもないようですね。
4 :
名無しさん@1周年:2001/01/15(月) 07:43
長い。それに本格的な学問の書でもないから是非にも読むべき書
という感じがしないのです。前世紀のプチブルがお教養と午後の
つれづれに読む本だというイメージが強くってさ。
5 :
名無しさん@1周年:2001/01/15(月) 09:17
私は愛読していましたよ。キリスト教の専門家には評価されて
いなくても、安岡正篤氏のように、東洋哲学の専門家からは高く
評価されているように思います。私に言わせれば、ヒルティは
「実生活と一枚の宗教」を目指しただけ、「正統派」キリスト教
よりも真のキリスト教に近い。
6 :
名無しさん@1周年:2001/01/15(月) 09:41
「眠れぬ夜のために」を読んだら、本当に眠くなってきたよ。
>>5 正統派とヒルティのキリスト教との違いはなんなのでしょう?
正統派と呼ばれる人たちは学問的に学んでいるだけなのですか?
ヒルティは、キリスト教が魂救済の唯一の道である、と口癖のように言って
いるのですけど、その教えは東洋思想の儒教とすごく近くて、各人が与え
られた職業に打ち込んで、社会的に貢献することが大切だ、と説いています。
これは、祭祀としての宗教でなくて、生活としての宗教を重視する姿勢だと
思うのです。「キリスト者として生きる」=「職業を通じて隣人に貢献する」
という明確な定義を打ち立てた。
正統派のキリスト教でも「キリスト者として生きる」ことを推奨はしていま
すけど、むしろ「信仰をもつかどうか」=「祭祀としてのキリスト教を受け
入れるかどうか」に重点がおかれているために、どうしても日常生活が杜撰
になりやすいのです。「本音と建前」の使い分けが避けられない。ところが、
自分の生活こそが「信仰のすべて」だとすれば、こういう誤魔化しは許されず、
「建前」の名の元に、生活をねじ曲げた人は、たらいの水を流して赤子を失う
ように信仰そのものが切り捨てられることになります。
「汝の隣人を愛せよ」という教えと、戦争が共存していて平気なのが好例です。
そこにヒルティの真摯な目を感じます。
生活と信仰の乖離を非難した人は、ヒルティだけに限りません。キリスト教で
はキルケゴール、仏教では白隠禅師など、とかく形式化しがちな宗教に警鐘を
ならす人々は時代ごとに現れます。東西の別を問いません。
ちょうど、「眠られぬ夜のために」が手元にあったので、少し引用してみます。
人生の目的と目標は、正統信仰に到達することではない。この点では、宗教
改革時代もはなはだしく誤っていた。そうではなく、それは善き人間となる
こと、すなわち、できるだけ実際に神の近くにあるという偉大なことにある。
たしかに、真のキリスト教こそは、そこに到る最も近い、最もよい道であり、
それのみが本当に神のみこころにかなう、しかも歴史的に与えられた道である。
(2月11日)
よろこんで重荷を負うこと、これが最大の生活「術」である。それをなしうる
人こそ、真に「処世の名人」である。しかしだれでもあすのことを思いわずら
っていては、この術を行うことができない。ただ神への信頼と、たえず日に日
に新たなる信仰によってのみ、なしとげられる。
(2月13日)
われわれは、心の中に起こるどんな善い衝動でも、例えば物を整理するような
ごくささいな善い衝動であっても、いつも即座にそれに従い、実行することに
よって、先へ延ばしたり変更したりできないようにしなければならない。
(2月28日)
聖書の言葉を実生活に生かしたい人は、ヒルティを読むべし。
10 :
名無しさん@1周年:2001/01/15(月) 18:21
ヒルティが尊敬する書物していたのは、聖書はもちろんですが、
ダンテの「神曲」とトマス・ア・ケンピス「キリストにならいて」でした。
ダンテは、難しくてとっつきにくいけど「キリストにならいて」は、いい本だよ。
11 :
5:2001/01/15(月) 19:06
>10さん、割り込みごめんなさいよ。
ついでに、キリスト教が宗教戦争などに「良心の呵責」を感じない理由を
述べてみます。
「選ばれた者のためには、生であろうと、死であろうと、義であろうと、
罪であろうと、善であろうと、悪であろうと、それがどんな名で呼ばれよ
うと、すべてのことがはたらいて益となるのである」(ローマ書、8:28)
「わたしが信じさえすれば、いかなるものも、わたしのためにはたらい
て益とならないほど善すぎるものもなく、また悪すぎるものもありませ
ん。しかもわたしは、それらのものを必要とせず、わたしにはわたしの
信仰で充分なのです。なんという貴いキリスト者の自由と権威でしょう」
(ルター、「キリスト者の自由」、第15章)
つまり、人殺しも何も、私からは善悪は判断しません、キリストへの信仰
さえあれば、すべては神の思し召しであり、すべての罪は赦されるのだ、
という教えが根底にあるからです。「謝ればすべて済むなら警察はいらな
い」という俗諺が示すように、ここには非常に巧妙なる「免罪符」が隠さ
れているのです。
ヒルティはパウロを尊敬していたようですけど、上で引用したパウロの
言葉を見る限り、私には全く正反対の思想のように思えてなりません。
12 :
1:2001/01/15(月) 19:09
>ヒルティは、キリスト教が魂救済の唯一の道である、と口癖のように言って
>いるのですけど
確かそれを言っていたのはアウグスティヌスだったと思います。
ヒルティはキリスト教が一番簡単で確かな道だと言っただけで
それ以外ではいけないとは言っていません。
どこに書いてあったかはよく覚えていませんが幸福論なのは確実です。
>> 10
神曲とキリストにならいて 両方今売っていませんよね?
神曲は岩波から出ていますが言葉が古い・・・
安くて訳がよいものがあったら教えてくださいませんか?
13 :
名無しさん@1周年:2001/01/15(月) 19:17
あまりにも2chらしくないスレなのでage
14 :
名無しさん@1周年:2001/01/18(木) 07:48
近代教育は一生学問をしつづけるほどの心身の力や喜びを生み出す代わりに、
かえって早くからそのような能力をすっかり鈍らせ、
葬り去って、あまりにも弱い体格の神経質な世代を
育て上げるのではないかと疑われる。(ヒルティ:幸福論 岩波文庫152P)
ちょっと前によく聞かれた心の教育を考える上でも
この本は役立ちますね。
15 :
名無しさん@1周年:2001/01/18(木) 08:50
元の本があまりに完成度高いために、
コピペ以外することがないのだと
好意的に解釈しておこう。
いや、ヒルティの岩波文庫で読めるやつは読んでるよ。
いい本だ。ほかに言うべきことがない。
それゆえに議論の材料としては興味を引くものではないね(苦笑
確かにもっと読まれてもいい本だと思うけど。
ひょっとしたら、
「ヒルティ読みました。これは強力です。
いろんな不安がどっかに飛んでいきました。」
みたいな、わざとらしい評価のほうがわかりやすいのかしらん。
16 :
5:2001/01/18(木) 20:14
>15
どんなよい本でも、所詮は魂の栄養素にすぎないでしょう。ヒルティはすごく
栄養になる、としか言えない。私にとっては、ヒルティの胸を借りて、大いに
格闘を演じましたけどね。
>12
>>11で引用したように、キリスト教は「それのみが本当に神のみこころにかなう」
道だと断言していますよ。他のところでも。それでは不足でしょうか?非キリスト
者だった私はヒルティのそういう独善的な言葉を目の敵にして、取っ組み合いを
やったものでしたよ。どうも、読み方が違うようですね。どっちがいいわるい、
というのは抜きにして、面白いと思いました。やはり、良書といえども栄養素に
しかならないのですね。
17 :
1:2001/01/18(木) 22:27
>5
「真のキリスト教こそは、そこに到る最も近い、最もよい道であり、
それのみが本当に神のみこころにかなう、しかも歴史的に与えられた道である。 」
これは誰でも簡単に行くことの出来る道なだけであって
唯一ではありませんよ。
今日、そう書いてある部分を差がいてみたのですが見つかりませんでした。
見つかり次第引用しますが。
読み方のことですが、私はヒルティに出会って
かなりの衝撃を受けたため、彼を私淑していますが
そのためか彼の短所を見つけにくいのかもしれません。
あれ?っと思うところがあったら教えていただけませんか?
私も「栄養」を「実行」に移したいです。
>>16 11であなたはヒルティの何を引用したか?
12の論点は「ヒルティが言ったかどうか」なのだから、
「キリスト教が断言したかどうか」とは微妙に異なる。
あれだけ歴史のある宗教なら、誰かが何か言っているのはまず確実で
問題はそれが正しいと思われるかどうかだ。
「神のみこころにかなう」という表現は(聖書の)神の存在を
前提にしたものなので、その前提がある文脈でなら「それのみが」
という表現は間違っていないといえるかもしれない。16がヒルティの
どこから引用したのかあきらかにすれば、もっと明確な事が言えるだろう。
私がヒルティを読んだ限りでは、(聖書の)神の存在を前提としていない文脈では
「キリスト教が魂救済の唯一の道である」というようには書いてなかったと思う。
記憶違いや読み落としはあるかもしれない。
ヒルティが東洋の宗教を軽視していた事はあきらかだが、
これは彼の基準からの評価としてはそうなってしまうだろう。
本を相手にディベートの技法を使うのは意味がないと思う。
19 :
名無しさん@1周年:2001/01/18(木) 22:56
政治の道具としてのキリスト教と、
今の時代に個人が信奉するキリスト教を
同列に扱うのは問題があるのではないか。
20 :
5:2001/01/21(日) 13:25
>18,17
確かに引用先を間違っていますね。9の2月11日の部分を引用するつもり
でした。
私がヒルティを読んだのは、もう10年以上も前の話で、そのころはキリスト
教の教義など頭にない状態で読んだので、17さんとは逆に反感的に読み咎めた
のかもしれません。
逆にお伺いしたいのですが、ヒルティは「原罪」という教義を認めているの
でしょうか?もし、正統キリスト教徒と同じく、原罪を認めるならば、その
罪の贖いはキリストの死による贖罪しかありえず、異教徒の魂は救済されない
ことになります。だから、キリスト教でないと救いはない。いかにキリスト
教徒が他の宗教と融合をはかるとしても、1)原罪によって人は生まれながら
に罪を背負っている、2)その罪を償う唯一の方法は、キリストを救世主を
信じ、その死で罪が贖われたことを信じる、この2点は妥協できないのでは
ないでしょうか。
同じ西洋人でもトルストイなどは、私の目からすればですが、原罪そのもの
を前提にしていないように思います。彼はバラモン教、仏教、儒教、イスラム
教などを知り尽くした観点から、すべての宗教を貫く真理があることを見抜
いたのです。だから、キリスト教だけを別扱いにはしていません。当然、原罪
という極めてローカル色の強い教義は姿を消さざるをえません。
21 :
名無しさん@1周年:2001/01/21(日) 13:41
これは求めている答えではないと思いますが…
キリストの贖罪が異教徒に対して無効なものか
どうかを言及していた部分は思い当たりません。
キリストの死と復活は歴史的事実だという見解を
ヒルティは示しています。
信じるかどうかは問題ではないと。
あとは個人の意識のありようではないでしょうか。
>>12 『キリストにならいて』はまだ売っています。
私は最近、購入しました。
岩波文庫じゃなくて、サンパウロ(旧中央出版社)から
出ています。タイトルは『キリストにならって』ですが、
内容は同じです。
23 :
5:2001/01/21(日) 15:04
>21
さっそくのレスをありがとうございます。
>信じるかどうかは問題ではないと。
少なくとも、「信じることがすべて」と考えたパウロやルターとは
正反対の発想だと思います。 たとえキリストの復活を「神話」と
して信じない人でも、その行いさえキリストの精神(=天の父の
思し召し)に叶うなら、救済されるということだと思います。
それは、暗に「キリストを信じなければ消えることがない、呪わ
れた原罪」の存在を否定しているように思われます。もしヒルティ
がもう少しだけ雄弁で、そこまで言い切っていたならば、恐らく
彼もトルストイと同様に教会から破門されていたに違いありません。
24 :
名無しさん@1周年:2001/01/22(月) 02:31
>>23 ヒルティは教会批判などを行っていたようですので、
もともとあまり仲は良くなかったと思います。
救済についての考え方が教会と違っていたかもしれません。
わたしは教会の考え方についてはよくしらないのですが、
ヒルティの考えは 幸福論第2部315頁の *** に書かれています。
25 :
5(23):2001/01/22(月) 12:18
>24
どうもありがとうございます。今、「幸福論」が手元にありませんので、
後で検討させていただきます。
26 :
名無しさん@1周年:2001/01/25(木) 10:50
age
27 :
5:2001/01/26(金) 09:23
>24
昨夜、ようやく見つけ出して読んでみました。
なるほど、伝統的キリスト教とは解釈が違いますね。そこまで書くなら、
もっとぶちまけちゃえ、と思った位です(^^)。お陰様で、もう一度
読んでみる気持ちが出てきました。
28 :
名無しさん@1周年:2001/01/26(金) 16:04
♪あたしは〜きみの〜めろでぃ〜やその〜てつがくやことばすべて〜を〜
林檎板いってくる。じゃ。
>>28 ああっ!くそ〜俺も書こうと思ったのにぃ・・・先越された。
30 :
28:2001/01/26(金) 18:29
スマソ。
31 :
名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 04:42
age.
32 :
名無しさん@1周年:2001/01/29(月) 17:27
1,確かにヒルティのキリスト思想のは、贖罪観が希薄です。これは彼自身認めていて、このへんが正統派には批判される。
2.ヒルティ伝を最初に書いたのが、カトリックの神父だというのもおもしろい。ヒルティもカトリックには好意的で、彼自身は改革派なんだけど。
3.彼が共産主義に反対していることは、今となっては当たっていた感がある。
4.私も座右の書なのですが、ある種、堅い、あるいはあまりにも実践を重視することで、逆に鼻につくところもあります。
たとえば、「キリストの教えをまず、実行して、本当だと思ったら、信仰すればいい」といいますが、その困難さへの痛みというか、人間的な弱さへの共感が希薄な感じがする。
けっきょく教養人のキリスト教という嫌みを感じることもある。
こうしたところがあるにもかかわらず、私はもう20年以上、おそらく5回は「幸福論」と「眠られぬ」を読んで、ボロボロの文庫になってます。
自分は自分、ということを忘れないで読むなら、益が十分あると思います。
古典ていうのは、そういうもんですね。
33 :
5:2001/01/29(月) 18:03
>私はもう20年以上、おそらく5回は「幸福論」と「眠られぬ」
>を読んで、ボロボロの文庫になってます。
う〜ん。乱読ばかりの私にはとても真似できませんね。それだけ
読まれれば、ヒルティさんも本望でしょうね。ヒルティを批判する
人も、それ位読んでからでないと、内容の濃さ故に的外れの批判に
なってしまうでしょうね。トルストイ、エックハルト、キルケゴール、
スウェデンボルグ、と私が強い共感を覚えたキリスト教思想家は、
例外なく当時の教会から破門されています。本当にボロボロになる
まで読んでからの決断とは到底思えないのですけど。
どんな本でも、読んでむしょうに反発したくなる本というのは、
いい本だという気がしています。逆に、もしかしてこの著者は自分
の前世の姿ではないか、という位に共感する本もありますが、そう
いうのはかえって危ないですね(笑)。
34 :
名無しさん@1周年:2001/01/31(水) 17:50
>>32 >>たとえば、「キリストの教えをまず、実行して、本当だと思っ
>>たら、信仰すればいい」といいますが、その困難さへの痛み
>>というか、人間的な弱さへの共感が希薄な感じがする。
>>けっきょく教養人のキリスト教という嫌みを感じることもある。
これよりマシな言い方は思いつかん。
完全に実行しなくてもいいわけだし。
どんな言い方ならよかったのかしらん?
35 :
名無しさん@1周年:2001/02/01(木) 13:30
2月4日
「この世には、愛はほんのわずかで、エゴイズムばかりが多すぎる、
だから我々このあわれむべき人間を見捨てて、彼らを軽蔑したいのだ」
とペシミストは言う。
この言葉の前半はたしかに正しいが、結論はそうではない。
少なくとも我々は、だからこそ世の中にできるだけ愛をふやし、
エゴイズムを減らしたい。
しかし、次のことは絶対に確信してもらいたい。
もしあなたが、すべての被造物を自明のこととしてやさしく愛するような
これまでと別の心が与えられないならば、
あなたが宗教や人間性や人間愛について語ることは、
すべて空しいおしゃべりにすぎない。
このような「別の心」だけがよくエゴイズムに打ち勝つ力を持つが、
これはだれでも生まれつき与えられているものではなく、
また、思考や意志のどんな努力を重ねても得られるものでもない。
このことは、それなりの人間知や人生経験をもっていながら、
なぜ我々が自己の外に存在する力による解放や救済を仰がねば
ならぬかということの理由である。
あなたがこのことをすでに経験しているのでなければ、
誰もあなたにそれを説明することはできない。
しかし、それを経験することはすべての人にできるのである。
36 :
名無しさん@1周年:2001/02/01(木) 13:48
>35
なるほど。信仰によって「すべての被造物を自明のこととしてやさ
しく愛するようなこれまでと別の心」が与えられれば、エゴイズム
は克服できるということですね。また、エゴイズムが克服できない
のは人間の原罪でもなんでもなく、ただ、その人が本当の信仰を
やっていない証拠ということになる。(そうでなければ、神様や
キリストの怠慢ということになる)そして、たとえ聖者と言われた
人が何を書こうが、「人は自ら善などなせず、キリストの贖罪なく
しては悪からは脱却できない」などと決めつけようが、その言葉は
「すべて空しいおしゃべりにすぎない」。
37 :
35:2001/02/01(木) 17:18
いや、他のスレをいくつか眺めてた感想なんだけどね。
>>36 の見方は穿ちすぎ。
あと、結構改竄してるのでヒマな人は本みるよろし。
38 :
35:2001/02/01(木) 17:57
>37
ご忠告はありがたいが、「どこがどのように」穿ちすぎかを
指定しないと、何も言っていないことと同じだと思いますけど。
39 :
1:2001/02/01(木) 18:35
幸福論以外の物もよいですよ。
皆さんはヒルティ著作集は読まれましたか?
私は結構好きですが。
40 :
35:2001/02/01(木) 19:54
>>38 いや、私が35で書いた以上のことを読んでしまったんだから
穿ちすぎってのは別に間違っちゃない。
まあそれは読み取ったことが
正しいかどうかってのとはまるきり別の問題だから、
それについて何か言う必要もないわけだけど。
41 :
名無しさん@1周年:2001/02/01(木) 20:01
そういえば今まであまり探さなかったけど、
図書館で検索すると結構でてくるな。
42 :
名無しさん@1周年:2001/02/08(木) 09:24
> 41
ぜひ力の秘密というのをよんでくださいヒルティ著作集8 悩みと光
に収録されています。
晩年の作品だそうで 非常に力強く感じました。
43 :
名無しさん@1周年:2001/02/09(金) 03:38
あげ
44 :
名無しさん@1周年:2001/02/10(土) 21:55
ヒルティ著作集は 現在出版されているのでしょうか?
検索したらYAHOOのブックサービスみたいなところがいくつかでてきましたが…
45 :
のえのえぷう:2001/02/20(火) 15:37
力の秘密、読みましたです。
よくまとまってるけど、
主張の概要は幸福論の頃とあまり変わらない。
これはいいことなのかもしれないけど。
むしろ決定論的な論調が多くなってて
やや鼻につく感じがするかな。
これは私が若すぎるからかもしれないけど。
46 :
名無しさん@1周年:2001/03/03(土) 20:14
健康ということと同様に、幸福というものも、意識しているのは病的なことかもしれん。
本当に健康な時に、健康なんて意識せんだろう。幸福というのも、明確な定義などできない。
あまり無理に意識などせんほうが、幸せだろうね。
しかし1つだけ言えることは、自分が生かされてることに感謝できる状態が、本当の幸せ
な状態なんだろうね。そういうときは、幸せなんて意識する必要すらない。
47 :
ななし:2001/03/04(日) 06:38
それは違うとおもう。
不健康な場合にでもそれに気がつかないこともあって、
それはたいてい状況をより悪化させる。
48 :
名無しさん@1周年:2001/03/18(日) 22:42
私はキリスト教に関しての聖書以外の本を
ヒルティとトマスアケンピスくらいしか読んだことがないのですが、
もし、ヒルティを読まず、聖書だけを読んでいたら
聖書に対してあまり感銘を受けることはなかったのではないかと思っています。
ヒルティのように
現実世界に関連して話を展開している
内容が簡単である
といった要素を持った読みものが他にありましたら
教えていただけないでしょうか?
また、一般的なキリスト教に関することを知るためには
やはりアウグスティヌスや
トマスアクィナスなどを読む必要があるのでしょうか?
ある人から、この二人の書物は
カトリックの人は必ず読んでいると聞いたのですが。
49 :
名無しさん@1周年:2001/03/18(日) 23:02
48<
私はカトリックですが、別にアウグスチヌスやトマスアキナスは読んでいません。問題ないです。
それより、
>ヒルティのように
現実世界に関連して話を展開している
内容が簡単である
といった要素を持った読みものが他にありましたら
教えていただけないでしょうか?
というのであれば、井上洋治神父や平田栄一さんの本をお薦めします。
日本人の現実に即して、やさしく書かれていますよ。
50 :
48:2001/03/18(日) 23:18
>49
キリスト教のイメージは 感傷的で
自分の事をするより他人のことを世話する方が
簡単だからという逃避的な優しさを持ったものだと思っていたのですが
ヒルティには宗教的、哲学的、古典的な強さがあり
巨人的なところも垣間見せられます。
私の先入観かもしれませんが、日本人の書というだけで
何かそういった弱さを感じてしまいますがそういうこともないのでしょうか?
51 :
名無しさん@1周年:2001/03/18(日) 23:22
>48.50
そういうことはないと思います。
力強さや毅然としたものももちらん感じられますね、この人たちは。
52 :
名無しさん@1周年:2001/03/20(火) 19:56
ヤコブ・ベーメはどうでしょうか?
どなたか「キリストへの道」など読んでいませんか?
53 :
世界@名無史さん:2001/03/20(火) 22:59
ヒルティかあ。二、三回ほどよんだことがある。
学生時代はすくわれたなあ。
キリスト教というよりも、彼のストア哲学がすきだった。
54 :
1:2001/03/20(火) 23:18
> 52
ヤコブ・ベーメって確か幸福論に出てきますよね?注の所に。
何処だか詳しい場所は覚えていませんが・・・・・・。
詳しくわかる人がいたら教えてください。
ヤコブベーメという人も調べてみます。
>53
私もあの部分が好きで自省録まで買ってしまいました。
55 :
1:2001/03/21(水) 00:29
調べてみた結果、ヤコブ・ベーメの著作で現在入手可能なものは
無いようですね。
終わり。
ところで
ヒルティが自分の作品で引用している人って殆ど知らない人じゃないですか?
でもいいことばかり言っている。
さすがヒルティ。
56 :
名無しさん@1周年:2001/03/21(水) 01:25
1<
いや、ヤコブ・ベーメは入手可能です。
私も、「キリストへの道」(松籟社 1991年)を愛読しています。
32さんに同感です。何回もヒルティを読んでいると、そうおもいます。
それで今は、たとえば自分が死を宣告されたとき、残りの時間で何を読むか、と自問したとき、
私はヒルティではないなあ、と思います。
ベーメは死の床でも読むに値するような気がするのですが、どうですか、みなさん?
57 :
名無史さん:2001/03/21(水) 02:36
>32
ああ、そう考えたことはなかったなあ。飛ばし読みに近いから、私は。
私は、自覚しだいで「職業」が、そのまま祈りというか、宗教的なものに
高まった感じがして、人生に落ち着きが出た気がする。
ついでに、あのストア的な「断念」に、なんど救われたかわからない。
自分の力の及ばない先の事柄についてじたばたすることが少なくなったし
これから起こる事にも覚悟のようなものが少しだけできた。
ただ、たしかに、これはこれから生きつづける人間のための書かなとも思った。
もう死ぬというときはどうなんだろう。
58 :
名無しさん@1周年:2001/03/21(水) 10:15
age
59 :
名無しさん@1周年:2001/04/08(日) 15:55
age
60 :
nanasi:2001/04/30(月) 18:18
age
61 :
ななし:2001/05/28(月) 23:35
>>57 ストイックに一生生き抜くことは生き地獄ですよ
62 :
nanasi:2001/05/29(火) 13:31
ヒルティは彼自身も認めている通りエピクテトスのストア主義的な考え方を好んでいます。
ストア主義の批判もしていますが、やはり彼の考えにはなんらかの形でその影響が残っている印象を受けます。
それは良い意味で言えば力強さととなって残っているのですが
悪く取れば 冷たい感じだとも言えます。
簡単に言うと 完全なる愛の人とは感じられないということですが
皆さんはどう思われます?
63 :
yy:2001/06/05(火) 16:10
やはりあまり知名度が無いのか?
64 :
ななし:2001/06/07(木) 03:50
変わり気のない人に話をするなんて無駄なことを
私にさせないでもらいたい
なんてことを言っていたような気がします。
65 :
会員です:2001/06/07(木) 06:52
ははあ。ヒルティが好きな私は伝道者失格ですね。
66 :
1:2001/06/07(木) 14:21
書き込みしてくださる人が激減しましたね・・・。
幸福論の中のある章から 題材を持ってきましょう。
確か『幸福論』の1部 「仕事の仕方」のところでだったと思いますが
人間がみな仕事をするようになれば社会問題は自ずと消える、
といっているところがあったかと思います。
それを文字通りに取ると 現代人は殆ど仕事してるのに
何故(労働に関する)社会問題はなくならないのだろう、ということになります。
今でも、いつも仕事が終わるのは夜の0時だ という人はいます。
奴隷のようなものです。
ということはそこで「仕事」といっているものの定義は
「本当の仕事」というものを指すのであって
「パンのための仕事」を指すのではないということになると思います。
でもそれはそれで間違った解釈をしているような気がするのですが
正しい解釈はどんな感じでしょう?
67 :
ななし:2001/06/14(木) 12:26
その仕事をする気持ち次第です。
68 :
A:2001/06/14(木) 12:33
ヒルティはすでに古典だし、その文脈をそのまま現代に当てはめるのは
無理だと思う。
古典はみんなそうだけど、読み方に気をつけないと・・・・
ついでに言えば、聖書も古典。
法律書やマニュアルとは違うもんねー>逐語霊感説者
69 :
名無しさん@1周年:2001/06/20(水) 23:59
>>68 しかもヒルティよりさらに古い。下手すると紀元前の文書だったりするし。
現代人の感覚でそのまま読んで真意を捉えられると思わないくらいのほうが
いいんじゃないかとすら思う。
その点、カトリックの「聖書にはかならず注をつける」ってのはいい習慣だと思う。
新共同訳にはついてないけど。
age
71 :
名無しさん@1周年:2001/07/01(日) 03:11
>>66 欧米の職業意識には多かれ少なかれ、
神につかえるという意味があるみたい。
だから、どっちにしても、神という概念が入り込む隙の無い
日本の職業観からいくと、理解不能でしょう。
たとえばマックス・ヴェーバーの
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』では、
カルヴァン主義に励むこと=仕事に励むこと=資本主義の進展
というのがおおまかな構図になっている。
ここでの職業はドイツ語のベルーフ、つまり天職にあたるもの。
72 :
名無しさん@1周年:2001/07/11(水) 14:50
>>71 昔、その『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』について卒論で扱ったので
就職の面接で似たような事を説明して、「現在の資本主義は職業倫理観念が抜けていて(営利追求のためだけに働いていて)
当時のピューリタンたちから見れば鬼子のようなものです」と言ったら、
面接官の顔が見る見るうちに真っ赤になって、面接終了となりました(藁
73 :
名無しさん@1周年:2001/07/11(水) 17:25
>>72 あんたはえらい!
日本の景気は悪くなって当たりまえ。
あんなの、資本主義じゃないもの。
景気悪化の原因は倫理的な問題だと言ったら、いいすぎか。
74 :
逸翁:2001/07/11(水) 17:59
そうだ、全国500万人の公務員とそれに連なる500万人の準公務員的な
税金食いを撲滅しよう。
75 :
ななし:2001/07/12(木) 22:21
資本主義というものがわからないので
働いていて迷いを感じても明確に問題を見出せません。(個人的なものではなくて)
どういうのを読めば理解できるようになります?
76 :
考える名無しさん:2001/07/12(木) 22:29
>>71 >欧米の職業意識には多かれ少なかれ、
>神につかえるという意味があるみたい。
>だから、どっちにしても、神という概念が入り込む隙の無い
>日本の職業観からいくと、理解不能でしょう。
この資本主義を支える精神的主柱としての西欧の神にあたるのは、日本で
は、道学などの「天」や「お天道様」「世間」だ、それがあったから、日本
の江戸期に初期近代資本主義が勃興し、明治以降に引き継がれ得た、とい
うのがR.N.ベラーの主張でしょ。
日本の職業観から理解不能ということはない。かつては、働かないでぐ
うたらしていることは「お天道様のでている中をあるけない」という道徳
的負価値がちゃんとありました。
77 :
名無しさん@1周年:2001/07/12(木) 23:55
R.N.ベラーの主張っていうのはよく知らないんですが、
「天」や「お天道様」「世間」の観念でヒルティが論じる職業観念が
理解できるとおっしゃるのは、ちょっと…。
それらと一神教的な「神につかえる」観念は一緒ですか?
また、カルヴァン主義についていうならば、「精神的支柱としての西欧の神」より、
むしろ「強迫観念としての西欧の神」というニュアンスに近い。
だから、同じプロテスタント諸国でも、ルター派の地域では
近代資本主義の発達が遅れたわけです。
カルヴァンの予定説に相当する*なにものか*が、
ちょうどいいタイミングで江戸期の日本に現れて、
近代資本主義を生み出す起爆剤となったというのが正しいならば、
それは、単なる精神的支柱ではなく、資本主義を生み出す強迫観念を
導き出すような要素を持たねばならないでしょう。
それはなに?
78 :
名無しさん@1周年:2001/07/13(金) 01:47
かつては道徳的価値があったかもしれないが、いまの日本でどれだけの人が論語を読んでいるのだろう?
79 :
1:2001/07/14(土) 23:33
本来の『信仰のみ』のプロテスタントなら資本主義の発展には
関係なくありませんか?
その姿を見た一般人(非プロテスタント)がその行動だけを見て
それを真似た結果そうなった、と言う意味で
プロテスタントは資本主義の発展に貢献したと言うことでしょうか?
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 話を伺っていると
面白そうですね。
今度読んでみようと思うのですが その前にマルクスの資本主義を
読んでおくことは前提知識として必須条件でしょうか?
資本主義を知らずしてその批判を聞いてもわからないでしょうから。
アドヴァイスお願いします。
80 :
名無しさん@1周年:2001/07/14(土) 23:56
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 は、資本主義を批判している本というわけではなく、その成り立ちを社会学的に分析した本です。
カトリックが贖宥状(免罪符)を売り出したのが、宗教改革のきっかけでしたね。
だから、プロテスタントは、お金に汚いヤツが嫌いなのです。
カトリックも、暴利をむさぼったり、利子で儲ける連中は罪深いといってますが、
カルヴァンは、その点、カトリック以上に厳格なのです。
おまけにアウグスティヌス以来、カトリックには予定説というのがあって、「天国に入れるかどうかは、その人の行いにかかわらず最初から決まっている」と脅かしているのですが、カルヴァンは、これをクローズアップします。
となると、「いつか改心すればいいや」ではなくて、「最初から天国にいける人」のようにふるまわなければ、信者は怖くてたまりません(藁)。
そこで、神につかえるために一所懸命働く、謹厳実直な欧米人ができあがりましたとさ、という話だったと思います(もはやうろ覚え)。
マルクスの『資本論』。併せて読むと面白いとは思いますが、基本的に社会主義の文献だし、長いしで、読まなくていいでしょう。
81 :
名無しさん:2001/07/14(土) 23:59
>>79 ウェーバーが、マルクス批判を念頭に置いていたことは衆知だけれど、
『プロ倫』はそれだけで読んでわかる本です。
82 :
名無しさん:2001/07/15(日) 00:00
>>77 まっとうに働かなければ、世間さまがゆるさない、お天道さまの下を
あるけない、という倫理的強迫観念だ、と思いますね。
83 :
名無しさん@1周年:2001/07/15(日) 00:09
>>82 たとえば、地獄に陥ちるというほどでなくても、
村八分にされるとかいう制裁があったのですか?
それなら納得ですが。
84 :
名無しさん@1周年:2001/07/15(日) 06:59
ヒルティはどこに行った?
85 :
名無しさん@1周年:2001/07/15(日) 23:45
どこかへ。
86 :
名無しさん@1周年:2001/07/16(月) 04:50
ヒルティT 7月16日
他の人々が欲するままに任せておいてよいことが、
世の中には限りなく多い。
結局それはどうでもよいことだからだ。
そうすれば、自他ともに生活が非常に楽になる。
ところが世間には、他人の意見や提案には
いつも何かとケチをつける癖を次第に募らせる人たちがいる。
その結果、通常、人々はそういう人の意見に従わなくなり
やがて彼らの考えをたずねようともしなくなるだけだ。
87 :
名無しさん@1周年:2001/07/16(月) 13:44
教会で、だれもヒルティを読んでくれないので、悲しいです。
ヒルティを読んでいると、説教が小さなものに思えてくる。傲慢かな?
88 :
ななし:2001/07/16(月) 20:14
確かヒルティは教会へはそんなに行くものではないとか
講演会などもそれ程行く価値はないとか 言っていましたよね。
時間の使い方のところで
89 :
ちょっと遅レスだけど:2001/07/17(火) 16:08
90 :
名無しさん@1周年:2001/07/17(火) 23:50
エックハルトって、禅ですね。ほとんど。
どうしたらあんなに似るのかな?
91 :
89:2001/07/18(水) 08:38
それは、エックハルト、ベーメ、禅の思想が、時代や民族を超えて、人類に普遍
な真理を掴んでいるからでしょう。似せようとして似たものじゃないと思うよ。
92 :
89:2001/07/18(水) 08:47
昨日、ちょっとベーメの著作のひとつの前書きを見てみたら、この書
は「誠意」をもって真理を追究する人のためだけに書かれたものだか
ら、「誠意」のない人にはご遠慮いただきたい、というような感じの
ことが書かれていた。この基本姿勢は、禅も同じだと思う。真理はそ
れを真摯に追究する者の前にのみ、姿を現す。
既存宗教みたいに、大衆を相手に「力づく」で布教し、外から真理を
鵜呑みにさせるのと発想が全く逆だということだね。だから、教会で
ヒルティを説教することはないだろうと思う。真理とは、もともと神
と一個人の対話から生まれるので、群れることからは生まれない。
その厳しさを理解する人だけが、エックハルト、ベーメ、禅、ヒルティ
らの真理を体得できるのだと思う。
93 :
名無しさん@1周年:2001/07/18(水) 16:25
ブッダのスッタニパータの一番始めで、「犀の角のようにただ一人歩め」とあります。
宗教とは、孤独の中で行われるものではないでしょうか。仏教も、初めは全き孤独においての地道な思索作業だったのに、現存の頽落には
眼を覆うものがありますね。
94 :
名無しさん@1周年:2001/07/18(水) 23:36
「スッタニパータ」も、確かにエックハルトに近い匂いがしますね。
ブッダ、禅、エックハルト(ベーメは読んでないのでわかりませんが)は
みな、修行者でしょうね。
その点、ヒルティはもっと実際的な感じがしますね。
95 :
89:2001/07/23(月) 10:17
ヒルティは、後期ストア学派のエピクテトスに影響を受けていたと思われます。
中央公論の「世界の名著」の訳者が、初めてエピクテトスに出会ったのは、ドイツ
語の授業でテキストに使っていたヒルティの作品に出てきたのが初めだったと書い
ています。
『語録』や『要録』を読むと、ますます仏教との近さが浮き彫りになってきます。
96 :
1:2001/07/23(月) 19:26
そういえば幸福論で翻訳されているエピクテトスの著作は
完訳なのでしょうか?
きっと違いますよね。
完訳ってあります?
>>80 >おまけにアウグスティヌス以来、カトリックには予定説というのがあって、
>「天国に入れるかどうかは、その人の行いにかかわらず最初から決まっている」と
>脅かしているのですが、カルヴァンは、これをクローズアップします。
>となると、「いつか改心すればいいや」ではなくて、「最初から天国にいける人」のように
>ふるまわなければ、信者は怖くてたまりません(藁)。
>そこで、神につかえるために一所懸命働く、謹厳実直な欧米人ができあがりましたとさ、
>という話だったと思います(もはやうろ覚え)。
というか・・・
エートスを持っている事を自覚しながら働くわけですが、勤勉に働く自分を認識して、
これだけ勤勉に働いている(=エートスによって動かされている)のならば、
自分は救済に予定されている人間であるのだろう、と自己確認する。
循環論みたいですが。
但し、予定説ではなくアルミニウス主義を執るメソジストまで概念加工して
カルヴィニズムと同じような扱いをしてしまっているのが、この本の惜しむべき欠落です。
98 :
1:2001/07/25(水) 20:23
ウェーバーの『プロ倫』の前に『職業としての政治』を薄いので、先に読んでみました。
ウェーバーはその中で心情倫理と責任倫理という概念を作り上げて
キリスト教的な思想をやっつけてるような気がしたのですが
あまりウェーバーってキリスト教に関する知識はないのかな? と思いました。
非常に「世間的な」キリスト教だけを取り上げて批判している気がしたので。
きっとその当時はそのようなクリスチャンしかいなかったのでしょうね。
ざざっと読んだだけなので言っていることが間違っているかもしれません。
御指摘あればお願いします。
>>98 『職業としての政治』は3年前に私も読んだ。内容はかなり忘れてしまったけれど。
ウェーバーはキリスト教徒ではなかったと普通は考えられているけれど、
少々キリスト教に好意的で、もしかしたらキリスト教徒だったかもしれない、
ぐらいに思われていたりもするかな。
ウェーバーの心情倫理と責任倫理は、
森本あんりが『キリスト教入門』(日基出版局の薄い本)の中で
ほぼキリスト教として取り挙げているね。
(自己レスですが)
>>97 『ジョン・ウェズリ研究』岸田紀(ミネルヴァ書房)
読むの疲れます。
101 :
nanasi:2001/07/28(土) 00:02
ヒルティもプロテスタントだったから
御金持ち?
ウェスレーはプロテスタントだったが、人々に施しし続けて
最期には僅かな小銭しか手元に無かったという。
ヒルティはプロテスタントか?
行為義認っぽいのでは?
103 :
1:2001/07/28(土) 21:21
どうもヒルティの話が盛り上がりませんね。
次のテーマは 幸福論第1部
「どうしたら策略なしに常に悪と戦いながら世を渡ることが出来るか」
をから
理想主義と現実主義とについて 話し合いませんか?
もちろん話だけにとどまらず、皆さんの実際の生活の上でも
何かしらの刺激があるようなものになればよいと思います。
私自身としては 策略なしに・・・で述べられている真の成功に必要なものは
不成功である という考え方に非常に感銘を受けました。
104 :
>102:2001/07/28(土) 22:45
ヒルティは改革派ってことにはなってるけど、
教会を評価してないよね。
むしろカトリックに好意をよせている。
それからヒルティ伝を最初に書いたのもカトリックの神父だね。
関係ないけど、内村鑑三が晩年に漏らしたことは、
自分は無教会だったけど、
もしどこかの教会に所属しなきゃならないとしたら、
カトリックに行ってたかもしれないって言ってたらしい、
かなり衰弱してからね。
内村が最初に洗礼を受けたのはメソジストだったけれど、そうなのか。
無教会だからこそ、逆に教会を重んじるカトリックに惹かれるのかい?
ってこれじゃあ短絡思考?
106 :
名無しさん@一周年:2001/08/11(土) 09:23
age
107 :
名無しさん@1周年:
ヒルティが、そして内村が、カトリックにひかれた理由は、よくわかります。
ヒルティはたしか幸福論の中で、こんな感じのことをいっています。「打ちひしがれた人はプロテスタントには行きづらい。
日曜は、あすへの活力を貯えるところ。理屈っぽい説教は逆効果、
ステンドグラスと音楽と広々としたスペースでの、新鮮な空気で、力を与えられ、また一週間を送っていく」
内村も、たしか講談社新書の所感集で、カトリックには謙虚な寡婦が多い、プロテスタント
の婦人はあつかましく、男まさりの人が多い、みたいなことを言っています。