桐山氏の「三段の変化」瞑想法の謎

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1ZORO
桐山氏の「阿含密教超能力の秘密」という大きな赤い本に紹介された、ニーチェの「ツァラトゥストラはこう言った」の
「精神の三段の変化」という章をよんで、私は阿含宗脱会の決意を固めました。
これは、「精神の三段の変化」をテーマに桐山氏が編成した秘伝の瞑想法として紹介したものです。
秘伝であるからここでは詳しく書けないとあったので、めったに読まない文学書を図書館でかりて読みました。

どうして、私が脱会を決意したのか、長くなりますが読んでください。
2ZORO :2000/10/20(金) 21:12
岩波文庫「ツァラトゥストラはこう言った 上」
()内はあくまで私の解釈です。
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私はあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ。
精神にとって多くの重いものがある。畏敬の念をそなえた、たくましく、辛抱づよい精神にとっては、多くの重いものがある。
どういうものが重いものなのか?と辛抱づよい精神はたずねる。
そして駱駝(阿含宗信者)のようにひざを折り、たくさんの荷物(十三人お導き、十万円護摩木勧進、一体十万円の解脱供養、聖地霊園のローンなど)
を積んでもらおうとする。どういうものがもっとも重いものなのか、古い時代の英雄たちよ?と辛抱づよい精神はたずねる。わたしもそれを背負い、自分の強さを感じて喜びたい。(中略)
こうしたすべての極めて重く苦しいものを、忍耐づよい精神はその身にひきうける。荷物を背負って砂漠へ急いで行く駱駝のように、精神は彼の砂漠へと急いでいく。

しかし、もっとも荒涼たる砂漠のなかで第二の変化が起こる。ここで精神は獅子となる。
精神はここで、かれを最後まで支配した者を探す。
精神は彼の支配者(桐山氏)、彼の神(仏舎利尊)を相手取り、この巨大な竜(アゴン宗)と勝利を賭けてたたかおうとする。
精神がもはや主なる神と呼ぼうとしないこの巨大な竜とは、何者であろうか?
この巨大な竜の名は「汝なすべし」である。

だが、獅子の精神は「われは欲する!!」という。

獅子の精神の行く手をさえぎって、この有鱗類の「汝なすべし」が金色燦然と横たわっている。鱗の一枚一枚に「汝なすべし」が金色に輝いている。
千年にも及ぶもろもろの価値が、この鱗に輝いている。
「いっさいの価値、それはこの私なのだ。もはや『われは欲する』などあってはならない!」こう竜はいう。
わが兄弟たちよ!なんのために精神において獅子が必要なのであろうか?
重荷を背負い、あまんじ、畏敬する動物では、どうして十分ではないのであろうか?

新しい価値を創造する。−−−それは獅子にもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手に入れること−−−
これは獅子の力でなければできない。

自由を手に入れ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてする事、わが兄弟たちよ、このためには獅子が必要なのだ。

新しい価値を築くための権利を獲得すること−−−これは辛抱強い、畏敬をむねとする精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。
まことに、それは彼にとっては強奪にも等しく、強奪を常とする猛獣のすることだ。

精神はかつては「汝なすべし(桐山氏、仏舎利尊、アゴン宗)」を自分の最も神聖なものとして愛した。
いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。
こうして彼はその愛していたものからの自由を奪取するにいたる。この奪取のために獅子が必要なのである。

しかし、我が兄弟たちよ、答えてごらん。獅子でできないことが、どうして幼な子にできるだろうか?
どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?

幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。
そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意思を意思する。
世界を失った者は、自分の世界を獲得する。
(以下略)
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3ZORO
桐山氏自身が、どういう意図で「三段の変化」を持ち出してきたのかはわかりませんが、すくなくとも私はニーチェのこの文章に感銘を受け、皮肉にもこれがアゴン宗を脱会するきっかけとなりました。
信者の方は「いや、これはキリスト教の神を言っているのであって、仏舎利尊をさすものではありません。」
あるいは、「いや、これは形骸化した大乗仏教を否定し、釈迦仏教を復活させた教祖の歩み、軌跡を物語っているのです。」
または、「いや、これは警察や、雪印に象徴されるような旧態依然の現代社会を危惧された訳であって・・・」

しかし、阿含宗信者にとって最も逆らうことの出来ない存在といえば、桐山氏や、仏舎利尊であって、キリスト教や伝統仏教、旧態依然の現代社会云々ではないはずです。
まさにこのゾロアスターの精神の前においては、いかなるものの特別扱いもゆるされないはず。他人のものではなく、自分のものをこの思想の前に差し出すべきです。

「仏舎利をすてたら、地獄に落ちる。」こう言った駱駝の精神から、
「地獄に落ちてもいいから、自由な精神を得たい!!」と願う獅子の精神を持つべきだと私は思います。

信者のかた、これをテーマに正面から是非論じあってみてください。「三段の変化」をとりあげたのは、他ならぬ桐山氏なのですから。