1 :
口上手子分 :
2000/08/07(月) 11:57 2や3があるんだから、4があってもいいじゃないか! 岡本太郎を尊敬しています。 爆発だ!
2 :
名無しさん :2000/08/07(月) 12:57
>岡本太郎を尊敬しています。 なんで?唐突にこんなところで?
3 :
進学塾 :2000/08/08(火) 11:33
阿含塾、阿含宗もとうとう塾経営にのりだしたか! と思って、かんばんよく観たら、 河合塾だった!
4 :
名無しさん@1周年 :2000/08/08(火) 14:06
新幹線で東京に着くと銀座阿含ビルだ。 と言う話。新幹線は長らく乗っていな いないので聞いた話。
5 :
名無しさん :2000/08/08(火) 18:37
このスレッドをようちえんじのおかあさん主役のスレッドにしてあげてはいかがでしょう。 阿含宗2〜3スレッドで、名無しで出没しては姑息なカキコを繰り返して鼻摘み者のようです。 ぜひ、このスレッドへご招待してあげてください。
6 :
名無しさん@1周年 :2000/08/09(水) 02:37
>5 おおきなお世話! こちらはこちらで好きなようにさせていただきます! まあ、横浜のオヤジには来てほしくありませんね! では、いってみよう!
7 :
名無しさん@1周年 :2000/08/09(水) 02:44
関西本部にはエスカレーターがついている、 豪華だ。 と思ったら、もとボーリング場 本堂には昔レーンがひいてあったんだぞ(笑)。
8 :
名無しさん@1周年 :2000/08/09(水) 12:48
>7 関西総本部のエスカレータ。靴をはかずに乗る。 エスカレータに裸足または靴下で乗る感触。 みんな知らないだろうね。 もうすぐ、万灯会だね!
9 :
名無しさん@1周年 :2000/08/09(水) 12:50
あのシャンデリアもボーリング場の ものだったのだろうか?
10 :
>浜の汚塵へ :2000/08/09(水) 14:40
>4 それをいうなら、新幹線で仙台につくと 阿含宗東北本部だ。 新幹線の窓からみえるんだ。
11 :
名無しさん :2000/08/09(水) 15:03
>10 (4は、はまのおじんではありません。) (しかし固有名詞になりかかっているね!) 4です。杜の都、七夕の町、東北本部へ行ってみたいなあ。 関西では修行者の昼食お食事券は300円です。 各地ではいかがですか?
12 :
名無しさん@1周年 :2000/08/12(土) 14:16
ようちえんじのおかあさん、このスレでお相手してあげないもんだから、 グレかかってるみたいよ。 夏休みをきっかけに生活態度の変わる子供が多いらしいけど、 夏休み中にグレるおかあさんというのも困ったものです。
13 :
名無しさん@1周年 :2000/08/12(土) 17:42
ようちえんじのおかあさん(オバさん)、だんだんガラ悪くなってるみたい。 お子さんに悪影響及ぼさなければいいけど・・・。 お子さんと一緒にお受験のお勉強でもなされば、少しは賢くなるし、お上品になるんじゃないかと思うんですけど・・・。 どうも、阿含スレでさえ、誰も仲間がいなくなったもんだから、余所で暴れてるみたい。 お盆でお坊さんたちいないから、暴れ放題みたいよ。 阿修羅にあこがれてらっしゃるのかしら・・・。
14 :
名無しさん@1周年 :2000/08/12(土) 17:48
1081 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/08(火) 17:23 >1078 南無さん、みなさん、コメントありがとうございました。 まあここに来たのは、ハエたたきさんがあまりに他教団を叩きます ので、それでは、と言うことできたのですが。お坊様にも物事をま じめに考える方がいらっしゃるのだと安心しました。いろいろ教え ていただいて感謝しております。新興(新しい教団)だと、他教団 を侮ることの無きよう、ハエさんに、もしメールなどご存知でした らお伝え願いたいと思います。もし今度こられるのであれば僧侶で あるとぜひ名乗っていただきたいものですね。新興の教団とて教理 教論には確たる物を持っています。お相手出来たのが私達のような 宗祖に比べてノミ程度の、末端のへっぽこ信者で申し訳無かったの です。(なお、一行分を入れていますのは私達ではありません。私達 はそのようなレベルのものではありません)。合掌。 1166 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/12(土) 14:14 >1164 というよりも、浄土真宗のような宗派の場合、僧侶の存在自体が まるっきり無意味なんだね。「同行同朋」なんて体の良い言葉を 述べられるが、やってることといえば在家の門徒からの搾取でしょうが? 以前、現代における僧侶のありかた、寺院のありかたを 素人さんに逆質問してたスコバカヘタレ坊主がいたが、あんなのは どうしようもないね。よく恥ずかしくも無くあんなトボケタ口が利けるよな。 浄土真宗の僧侶?(オマエらが勝手にそう思いこんでいるだけで、実際は俗人以下の 人間のクズの集まりにすぎんのだがな)は全員、還俗しなさい。 浄土真宗の寺は全てぶっ潰して更地にせえ! そして散骨指定地として国民に提供するのだ!!うわははははは!!! これぞまさしく「同行同朋」の精神に叶う、真の宗教たる 浄土真宗の偉大なる仏教者の皆様方が 現代において為さなければならない 最重要、かつ緊急を要する案件だと思われます。 是非、御検討のほどを、もっともわたくしなどが 申すまでも無く、すでに実行段階にあるのでしょうが。(笑) 1167 名前: 小学生のお父さん 投稿日: 2000/08/12(土) 14:28 > 1166 長さがあるけれども内容のない、何ら根拠のない説得力のない批判ですが、 あなたはひょっとして、最近売り出し中のようちえんじのおかあさんですか? もう少し坊さんがドキッとするような批判をしてくださいね。 これじゃ、盆あけの坊さんに無視されるだけです。 次回頑張りましょう。 1168 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/08/12(土) 15:26 ↑図星なんでまともに答えられないでやんの! 低脳坊主の本領発揮だな!!!(激爆) 1169 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/08/12(土) 15:32 まっ、坊主もオマンコすりゃあ低脳児ができるだろうから、 「小学生のお父さん」にもなるわな!(嘲笑)
15 :
名無しさん :2000/08/12(土) 19:01
17 名前: たろー 投稿日: 2000/08/12(土) 14:02 名無しさん@1周年 て何処にでも出てくるけど、 何なの? 管理人でもなさそうだし。それにしても、時間有るねー。 2ちゃんねるに24時間居るの?仕事してないの? 本人でも誰でもいいから教えてくれ。
もちろん、24時間、居てますよ!
先祖供養とか、伊勢参りとか、世界平和とか、なんで 毎年違うことをやってんだ>あごん
18 :
名無しさん@1周年 :2000/08/13(日) 04:39
>17 今年はどんなことをやってんですか? 第三者として端でみてるぶんには面白いな>あごんは!
19 :
名無しさん@1周年 :2000/08/13(日) 18:09
> 先祖供養とか、伊勢参りとか、世界平和とか、 先祖供養と世界平和はいいとして、伊勢参りまでするんですか? 本当に何でもありですねぇ。 ハエたたき
20 :
名無しさん@1周年 :2000/08/14(月) 00:03
>19 伊勢参り? しないよ。 ただ、式年遷宮のとき柴燈護摩焚いたことはあるけど。 あなた、本物のハエたたきさん? まあ、宗教界のバーリ・トウードですから。
21 :
ハエたたき :2000/08/14(月) 17:56
> 式年遷宮のとき柴燈護摩焚いた それは何ですか? 伊勢参りより深くかかわったんじゃないですか?
22 :
名無しさん@保育所 :2000/08/17(木) 23:03
> 42 名前:中学生のお兄ちゃん投稿日:2000/08/17(木) 16:07 > ようちえんも宿題はないけど夏休みがあるんだったよね。 > 宿題のかわりに仏教のお勉強でもしてみればぁ〜? > 45 名前: 名無しさん@1周年投稿日:2000/08/17(木) 18:46 > 中学生のお兄ちゃんはお友達がいないのかなあ〜〜?いまから > 黄色い救急車が迎えにくるからね、そこには > お兄ちゃんのお友達がいっぱいいるところだよ、 > もう寂しくないよ、良かったね(ワラ レス返さなくていいと思うんだけど・・・。 わざわざ誘いに乗って名乗っているようなもんですね。 可愛いよ。
23 :
名無しさん@1周年 :2000/08/17(木) 23:58
ここはようちえんオバの専用スレッドなんだね。あちこちで荒らし回っているカキコの集大成が見れておもしれー。
24 :
名無しさん@1周年 :2000/08/18(金) 01:08
>浄土真宗の寺は全てぶっ潰して更地にせえ! >そして散骨指定地として国民に提供するのだ!!うわははははは!!! そうそう、さんせい! >21 日本の神社は、こぞって阿含宗に修法を頼みにきてんだよ。 皇室管理の慰霊碑なんかも阿含宗だ。だれが真宗のどくさ れ坊主に頼むもんか。 モーニング娘は歌謡界の主流だ。阿含宗は世界の仏教の 源流だ。供養もできないど腐れ坊主、逝って良し。
25 :
名無しさん@1周年 :2000/08/18(金) 01:12
あ〜とさんか〜さん。はいはいっ。
26 :
名無しさん@1周年 :2000/08/18(金) 01:25
>14 を読んでめちゃくちゃ高揚したぞ。 >24訂正。 世界の仏教の主流は阿含宗。源流は仏陀じゃ。 日本歌謡界の主流は松田聖子ではない。モー娘じゃ。 明日、妻に隠れてモーニング娘のビデオ買うからな。 あ〜とさんか〜さん。はいはいっ! 今まで妻に隠れて買ったビデオ。伊達公子とグラフの対戦。 マライアキャリーのライブ、etc じゃ。わかったか。 おんあぼきゃーべいろしゃのうまかぼららまにはんどまじん ばらはらばりたやうん。
27 :
名無しさん@1周年 :2000/08/18(金) 01:31
>20 バーリ・トウードってなによ。かっこいいじゃない。教えて! きっと、源流とか主流とか言う意味でしょう?
28 :
名無しさん@1周年 :2000/08/18(金) 02:13
バーリ・トウードとは何でもありの喧嘩の事だよ。
29 :
名無しさん@1周年 :2000/08/18(金) 02:15
>> 式年遷宮のとき柴燈護摩焚いた >それは何ですか? >伊勢参りより深くかかわったんじゃないですか? 伊勢神宮とは無関係ですよ。 同じ時期に伊勢市の離れたところで教団独自で焚き火?しただけ。 たんなる金稼ぎの一つですな。
30 :
保育園 :2000/08/18(金) 07:42
単なる焚き火だったんですか。 夏はキャンプファイヤー、冬は焚き火ですね。 悪くないですね。 夏は親子でキャンプファイヤー、冬は焚き火で焼きいも。 いかがわしい宗教活動は停止して、子供の育成会活動に専念すれば、 世の中に迷惑かけないし、ようちえんじのおかあさんはより積極的に活動できるし・・・。 でも、ヤマ○シ会みたいに子供のことで問題を起こしている団体もあるしな・・・。
31 :
名無しさん@1周年 :2000/08/18(金) 18:24
>29 バスの駐車場、案内所、信者の案内係り、休憩所が内宮に 設営されていたんだよ。何千人の阿含宗徒が神宮で勝手 に行動したわけ?何百人の奉仕者が許可もなく自由に内宮、 外宮で一日中行動できるわけ?
32 :
小学校 :2000/08/18(金) 21:55
やっぱり阿含宗のゴミ焼きイヤ護摩焚きじゃなく、伊勢神宮に参拝してたんじゃないか。 これだけでも、なにがなんだか分からん宗教団体ですね。 阿含信者にとっては仏陀とイエス・キリストと天照大神とメシア(?)、桐山靖雄・・・、誰が一番なんだ? 子供がポケモンやデジモンの人形やカードを集めて喜ぶのと50歩100歩ですね。
33 :
名無しさん@1周年 :2000/08/18(金) 23:19
だから、バーリ・トウードだっていっているだろ! そんだから面白いんじゃないか。 面白さのわからん奴は試合を見なけりゃいいのと同じで ほっとけばいいんだよ! でも、ほっとけないんだろ(笑)。 なにかと話題になるから、貶さずにはいられない、 ヒクソンの試合のようなもんだな。 >31 正式には伊勢神宮の外域団体である伊勢参りの会とかいう 信仰者の団体から招待され、お祝いのお護摩を焚いた。 では、神宮そのものから招待されたことはないのかと いうと、あるんだな 近江神宮からは正式に招待され 神仏両界の護摩を焚いたんだな。 まあ、伊勢は別格だから特定の教団をどうこうすることはない。 護国神社などでの法要は今でも地域の人々や宮司さんの 深い理解のもとおこなわれている。 8月20日も秋田県護国神社において神仏両界柴燈護摩法要 がおこなわれる、(午前11時より) 興味のある人は行ってみるといいんじゃない。 まあ、ばかばかしいと思う人はどうでもいいことでしょうけどね そんじゃ、ポケモン、デジモンあつめて喜びますよ(笑)!
34 :
保育園 :2000/08/19(土) 00:02
イヤね、ケチをつけてるんじゃなくて、 なにを信じているんだか理解できないんですよ。 天照大神なのか、イエス・キリストなのか、仏なのか、桐山靖雄なのか・・・。 阿含宗はなにを目標としているんだ?
35 :
名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 01:03
信仰の中心は釈迦であり成仏法でしょう つまり仏法僧、仏教を信仰の要としてその教えに したがっているわけですけど、 神、仏などの聖霊的存在に対して、また霊対して 独特の見解を持っているわけで、そこが色々批判の 対象にもなっているわけです。 神は仏法を助ける存在として祭るわけで中心ではない のです。密教の伝統を引いているわけで曼荼羅を 観ればわかるようにあそこにはインドの神様も祭られ ています。日本の神々の許しを得て日本という地に 仏法を広めるといったら分かるでしょうか? イエス・キリストについては祭っていません、 バチカンと友好関係をきずいただけのことです。
36 :
名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 01:11
ああ、それから護国神社については あそこは戦没者がまつられているので その供養のための法要でもあります。
37 :
名無しさん :2000/08/19(土) 09:23
>35 パーリ−仏典を読まれたらわかるのですが、仏陀はその土地の神霊、祖霊 を非常に大事にされています。天の神々や地の神々ですね。 神仏混交は日本で始まったのではなく、お釈迦さんの時代からなのです。 パーリ−原典を良く読んでみてください。
38 :
名無しさん :2000/08/19(土) 09:30
真宗寺について;更地にして3個槌に白と言う意見がありましたが、 ちょっと乱暴ですね。(本気ではないと思いますが) 阿含宗では、阿弥陀信仰はいまのままプラス 「仏陀の教法と仏舎利信仰を取り入れれば」仏教と言いうる姿にな ると教えていると思うのです。そうなると坊さんには戒律、規範 がもとめられますから大変でしょうけどね。信徒は何も困らないで しょう。
39 :
名無しさん :2000/08/19(土) 09:50
バーリ・トゥードって何語なんでしょうね。 近江神宮には行きました。昭和天皇が祀られているところ だと聞いて感激しました。あそこは、本殿のまん前でお護摩 だったですよね。伊勢神宮よりは規模が小さかったけど。 伊勢神宮のお護摩は大規模だったですねえ。昭和天皇ってチャ ーミングで可愛かったですね。 しかし、本当にお浄めが必要なのは、日本の場合「寺」なん ですね。心有る僧侶は阿含宗と一緒にお浄めをされていますよ。
40 :
名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 09:57
>バスの駐車場、案内所、信者の案内係り、休憩所が内宮に >設営されていたんだよ。何千人の阿含宗徒が神宮で勝手 >に行動したわけ?何百人の奉仕者が許可もなく自由に内宮、 >外宮で一日中行動できるわけ? 伊勢神宮の会員になって、つまりお金を寄附して、団体での参拝を申し込むと スムースな参拝という事と又付随する無用の混乱を避ける意味もあって 当然のようにいろいろな便宜を図ってくれます。 金額によっては通常入れない玉砂利の中までいれてくれます。 時々参詣したときにそのような「特別参拝」なるものを見かける筈です。 私も五回ほど中へ入れていただき特別に神官の祓いを受けたことがあります。 また伊勢神宮は当然の事ですが、入場してから出るまでの時間制限などありませんから, 別段の断りなく1日中いられる事は常識でしょう。 ただ 宗教的な行事,つまり今回のケースでいえば「柴燈護摩」は 絶対に境内の中ではやっていないはずです。 伊勢参詣とまつたく別の場所での護摩をうまく絡め合わせて あたかも伊勢神宮で柴燈護摩を焚いたかのように宣伝するところが 前科者の詐欺師としての宣伝方法なのですね。 知らない人は本気にしますから。 「伊勢神宮の外域団体である伊勢参りの会」については知りませんが はたして法律上で正式に認可を受けた「外域団体」なのでしょうか。 阿含宗発表だとすれば今までの桐山氏自身の沢山の詐欺・犯罪の前科もありますので 本物かどうかよく調べる必要があるでしょう。
41 :
名無しさん :2000/08/19(土) 10:02
37は >35となっていますが、>34でした。 9月3日、日曜日には阪神大震災の大火災のあったあたりで お護摩があるそうですよ。たぶん港川(湊川?) 公園だとおもう。興味のある方はどうぞ。10時か11時 くらいからでしょう。 震災と神戸空襲でなくなった方の慰霊供養です。 ハエタタキさんぜひどうぞ。ぜひぜひ僧衣をつけてきてく ださいね。
42 :
名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 10:07
阿含宗ではなく真言宗の本山関係によって 相当昔から柴燈護摩を行事の一つとして やっている神社が結構あります。 神社に絡めた護摩もいつものキリヤマ流のパクりなのでしょう。 集金の材料を考えるのが彼の日課だそうですから。
43 :
名無しさん :2000/08/19(土) 10:20
>40 「伊勢神宮において阿含宗大柴燈護摩修法」ってチラシを 何百万枚も全国にまいて、全国規模で護摩木勧進をして、新聞 雑誌で宣伝して、そんなことが勝手に出来るものでしょうか。 ありえないことを言わないでね。 伊勢神宮でのお護摩のチラシは、「護摩木勧進必須アイテム」 になっています。これを見せると、皆さん信用して護摩木勧進に 応じてくださるのです。最近では知名度が上がりその必要もあまり ありませんが。
44 :
名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 10:20
身内の病気も治せない「法力」で 他人の病気が治せると信じている盲信者たちよ。 幸あれ。 超人となり予知能力と透視が得意な筈なのに 占いを必要としている教祖にお金を貢ぐ者達よ。 幸あれ。 刑務所に収監されるときに「山へ修行に行く」という本人の嘘を信じて 餞別まで上げた賢い?信者たちよ。 幸あれ。
45 :
名無しさん :2000/08/19(土) 10:21
それでは、みなさん、さよーなら。
46 :
名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 10:26
「伊勢神宮において阿含宗大柴燈護摩修法」 本当に伊勢神宮の境内の中でやったのでしょうか? 別の場所で、しかも伊勢神宮とは関係なく行なわれた柴燈護摩に そんな宣伝をして集金行為をしたなら立派な犯罪でしょう。 またまた詐欺で前科が増えのに、管長もホントに「塀から出ても懲りない人」ですね。 まあ1年程度の期間で続けて犯罪を犯し逮捕されるような人だから ある意味度胸が据わっているのかもしれません。
47 :
保育園児のおとうさん :2000/08/19(土) 11:11
>>37 釈尊の時代のインド社会はバラモン教(ヒンズー教)系の呪術信仰や民
間信仰が根づいて日常化して、釈尊は当時の社会的慣習程度のものは
敢えて否定しなかったということで、決して諸神に帰依し信仰したと
いうことではありませんから、神仏混淆・神仏習合という表現は間違
いです。
わざわざ、伊勢神宮や近江神宮に参拝したというのとは意味が全く違
います。
戦没者の追悼法要をするためにわざわざ靖国神社や護国神社に出かけ
なければできないというのも不可思議です。
48 :
名無しさん :2000/08/19(土) 12:25
>47 いつまでも馬鹿な事書いてるねえ。 地上のどこでも良いんだったら、建物なんて 要らないじゃない。 なんの為に神社や寺院作っているの。
49 :
名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 13:01
>48 どこが馬鹿なの?ちゃんと説明しなきゃわかんないでしょう。
50 :
名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 13:55
>48 神道には神社など元々なかった。 仏教が到来した後に対抗してあのような様式になっただけ。 つまり悟りの為に建物など要らないの。 釈迦は菩提樹の下,イエスは荒野、モハメットは砂漠で悟ったというがね。 悟りの為に大寺院がいるとか言うのは単に金集めが目的なだけ。 食い物にされているのに気づかない信者たちは可哀相だね。
51 :
名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 14:09
>地上のどこでも良いんだったら、建物なんて >要らないじゃない。 そんなこと当たり前だろ。 いつまでも馬鹿な事書かないでね。
52 :
名無しさん@1周年 :2000/08/19(土) 21:35
>43 >伊勢神宮において阿含宗大柴燈護摩修法 ここまで嘘書くなよ。 いつ、阿含宗が伊勢神宮で護摩を焚いた? バスで30分もかかる山の中で焚いただけじゃないか。 ここまで嘘堂々と書くところみると、あの有名なヨーチおばさんだな。
53 :
名無しさん@1周年 :2000/08/20(日) 06:33
>52 また、横浜オヤジかよ、おまえが来ると荒れんだよな! どこが嘘だよ、伊勢神宮の行事に関連して護摩を焚いたと いうことだよ。 わざわざことこまかく言わないとわかんねえのかよ オヤジの固まったドタマじゃしょうがないか。 伊勢神宮敷地内部で、護摩焚く場所があるかよ 山の中でも焚いたという事実はあるだろうが おまえはオウム関連スレッドでわめいていりゃいいんだボケ!
54 :
名無しさん@1周年 :2000/08/20(日) 15:32
伊勢での柴燈護摩が伊勢神宮と関係しているというのなら、 信者さんは次の質問に答えてください。 質問1.小さな護摩を神宮内で焚いてもいいはずなのに、 伊勢市横輪町など市販地図にも載っていないような田舎で焚いています。 あの山の中の土地は伊勢神宮とどう関係しているのですか。 質問2.柴燈護摩に、伊勢神宮関係者で誰が出席したか教えてください。 質問3.柴燈護摩では点火の前に神主により神事が行われます。 伊勢の柴燈護摩では当然斉主は伊勢神宮から来たでしょうが、 その方の伊勢神宮での役職や名前を教えてください。
55 :
名無しさん@1周年 :2000/08/20(日) 19:51
>どこが嘘だよ、伊勢神宮の行事に関連して護摩を焚いたということだよ 伊勢神宮の行事と同じ時期に全然別の遠い場所で 神宮の神職の出席も全く無く無関係に焚き火しただけなのが 「伊勢神宮の行事に関連して護摩を焚いた」と言うことなのかね。 笑い話だろ,それって。
56 :
名無しさん@1周年 :2000/08/20(日) 21:52
>55笑い話だろ,それって。 あれ マジだったの? 当然ジョークだと思ってたけど。(わらわらわら)
57 :
名無しさん@1周年 :2000/08/20(日) 22:08
伊勢神宮遷宮式の一環として、阿含宗ではお護摩を焚きあげました。 新聞、雑誌、チラシで大々的に宣伝しています。伊勢神宮からは何の 抗議もきていないでしょう?全国にいろいろな信徒がいるわけで、 妨害工作はあったであろうとの想像はできますが。伊勢神宮関係の 寺院関係者もきっと多いことでしょうしね。よく、実行にこぎつけ られた物だと思います。伊勢神宮のお護摩に関しては、本も出版さ れていないようだし、本当に想像だけど、いろいろあったのでしょ うね。ただ天照大神の霊を阿含宗がお祀りして差し上げたという事実 は残るでしょうね。この時点で、阿含宗は日本を守護する仏教集団 であると天照大神が認めたということになります。霊界のことはkotarou さんに聞かないと分かりませんが。
58 :
口下手番長4 :2000/08/29(火) 16:19
59 :
Kotarou :2000/08/29(火) 16:27
803 名前: Kotarou 投稿日: 2000/08/29(火) 16:25 801 名前: 名無しさん@1周年様へ だから、これらは、存在しないが、有ると思い唱えなさい。と、 講話のあっていた日、全ての道具を持たれている方は、 色々な仏に、色々なお経を唱えてありました。
60 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 16:29
伊勢神宮の名前を騙った阿含宗の詐欺問題で ここでもよーちさんが抵抗しているぞ。 スレ3で負けたのに諦めが悪いね。
61 :
元信者>旧798 :2000/08/29(火) 16:39
>ハエたたきさま 多分ですが、十三仏真言のことではないでしょうか。 阿弥陀如来はオン、アミリタ、テイセイカラウン、 だったかな...。 阿含宗だけでなくて、真言宗でも唱えています。 阿含宗では、例祭の時に千座行の教本を唱えながら 護摩が焚かれるのですが、どうしても護摩の方が 時間が長くなるので、その合間を埋めるために? 十三仏真言や光明真言を唱えていました。 ちなみに、真言宗でも四十九日(七七日)目に使者 を迎えるのは阿弥陀如来ということになっている みたいです。真言宗は大乗仏教なので、それはそれ なりに辻褄が合う話なのですが、阿含宗となると...。 まあ、阿含宗の密教体質がいつまでも抜けないひとつ の例でしょう。阿含経には阿弥陀如来は登場しません ので。「小乗の行法」を掲げて「大乗の仏」を売る??
62 :
61 :2000/08/29(火) 16:43
使者-->死者でした。
63 :
名無しさん :2000/08/29(火) 17:05
阿含は阿含密教だよ。密教体質がどうしてぬけるのよ。
64 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 17:14
> 798(前スレッド)ハエたたきさん 阿含宗は阿弥陀仏に限らず、なんでも拝みます。 特に北陸は阿弥陀信仰が盛んなところですから、 阿弥陀信仰を否定しては布教に差し障ります。 北陸は観音慈恵会当時から拠点だったのです。 密教系なので、たとえば、関東別院の本堂の内陣は、 真ん中が仏舎利なのに、両側は大日如来と不動明王です。 他にも大黒天や素佐之男之命が、入口には愛染明王が祭られています。 網を広くはって信者を獲得するためです。 阿含宗ラーメンには寿司や腐った豆腐だけでなく、 如来から明王まで何でも入っている。 これで大乗仏教を否定し、阿弥陀仏などは全て架空の仏だと 批判するのですから、桐山さんの頭は十分にラーメンです。
65 :
元信者 :2000/08/29(火) 17:32
>63
そうなんですよね。桐山密教でよかったんです。だって、
やっていることは密教なんだから。
七科三十七道品を持ち出して、おかしな権威付けをした
ためにいらぬ尻尾を出した。
週末に本屋へ行き、久々に桐山氏の著作をめくってみま
したが、いつまで経っても七科三十七道品(途中で水増し
されましたけど)については、「アビダルマに説かれて
いる云々」の説明しかない。挙げ句の果てに、少数の
弟子達だけの秘伝にとどめようかなどと書いてみたりする。
アビダルマというのは、釈尊の没後100年程度経った頃、
仏教を哲学的に探求するグループが「存在とは何か」
などについてあれこれ書いたもので、むしろ釈尊の本来
の教えから離れて、空理空論を戦わせた時代、という
評判が悪いものなのです。煩瑣哲学って言いましたっけ。
そういう時代だからこそ、釈尊の修行法をわざわざ三十
七にぶった切って書いたので、当然のことながら、嫌に
なる位、煩雑な解説文がついているはずです。ところが、
七科三十七道品の説明は、どれもこれも唖然とする位に
短いです。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/1145/r-bukkyou4.html これが成仏法の解説、一部の弟子の秘伝に限定するよ
うな秘法が書いてあるなら、こんなはずはありません。
もちろん、護摩法を使った修行法が書いてあるわけでも
ありません。
秘伝部分は桐山氏が経験によって体得した、という仮定
も成り立つでしょうが、この七科三十七道品の原文の
簡潔さから言って、流用したのは名前のみ、ほとんどが
桐山氏の独創ということになると思います。
それはそれでいいけれど、釈尊直伝の成仏法、って呼べ
るものでしょうか。
66 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 17:34
>797(前スレッド) Kotarouさん >確かに、精神分裂症は、治ら無い。 >然し、それをこのお祝いの席言うかしら。 前は妹を30(?)体解脱供養出したら、 分裂症が治って社会復帰したという話でした。 値上がりしたのか、別の話か。 こういう御利益話は、ガンが消えたというような話同様に、 当人や担当した医者の話を直接聞かない限り、信用できません。 「300万円で医者が治せるか」と桐山さんは大上段に振りかざしました。 それなら金額を示して完治を請け負ったらどうでしょう。 夫人のガンや自分の脳梗塞も解脱供養で治せばよかった。 九州道場のお祝いの席で桐山さんがこれをいうのは当然です。 桐山さんの頭には道場の借金のことしかありません。 信者に10万円の解脱供養をもっと申し込めと言っているのです。
67 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 17:36
>いよっ!腐ったラーメン博物館!小池さんも食わね〜な。 ウチの兄弟は別人にされました。残された家族は「血の涙」を流しています。 こんなんで「徳」をつむ事になっているのか? 「世界平和」「景気の立て直し」もスローガンにあるけど何か世の中に 貢献した事ってあったのか? 親が癌になったら直ぐに解脱供養で金の請求。そのまま死んでいったら 今度は力が足りなかっただとさ!その後は家族断絶状態になったし。 不幸につけこんで更に不幸にしやがった!絶対に許さないのさ、阿含宗。 そして桐山!
68 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 17:36
>797(前スレッド) Kotarouさん >もう一つは、以前の建物の屋根がトタン板で、 >夜宿泊して、雨の日煩かった。 トタン板どころか、釈尊は田舎の森の木の下で亡くなったのです。 これを見ても、桐山さんがどんな人かわかるじゃないですか。 あの人の世界はカナブンベンツとホテル・オークラ。
69 :
元信者 :2000/08/29(火) 18:00
破防法の審議の際に、オウム真理教の教義について行われた
やり取りの中に、七科三十七道品が登場します。
------------------------------------------------------
http://members.xoom.com/areopagitica/haboho/benmei/asahara45.html ★歌を歌う
これはもともと修行には喜覚支というのがございまして。
この喜覚支というのは、修行が楽しんだということをい
ろんな形で記憶することによって修行を進めるという方法
でして、お釈迦様の七科三十七道品の中の七覚支、七つの
覚醒を支えるものの一つとして数えられております。
------------------------------------------------------
しかし、この「解釈」を否定できない位、原文にある
七科三十七道品の解説は手がかりに乏しいのです。
現に、桐山氏ははっきりとした反論を出していないよう
です。桐山さんもオウムと同じく、七覚支と称して、
「ショーコーの歌」うたっているなんてことないよな、
まさか。
反論できないのは、最初から具体的な成仏法などない
からです。
70 :
三月信者 :2000/08/29(火) 18:24
>69 確か例祭でオペラ風の曲のビデオ流していたけど今もそうなの? あれってテーマ・ソング?可笑しかったな? オウムみたいに人は殺さないけど、人格は殺している。 やはり極刑に処す!
71 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 20:31
>反論できないのは、最初から具体的な成仏法などないからです。 桐山本人が解脱(成仏)から最も程遠い所にいるのに 彼から指導を受けようとする人達がまだいるとは…。 可哀相に。
72 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 20:47
73 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 20:55
すなわち、『未来星宿劫千仏名経(みらいしょうしゅくこうせんぶつみょうきょう)』である。
それによると、未来の地球世代は、「星宿劫(しょうしゅくこう)」とよばれ、
宇宙の星々の間に、千人の賢人が、繁栄と平和のあらたな文明を創造すると予言しているのである。
賢劫の世紀から、星宿劫の世紀へと、人類は飛躍する!
だが、この予言は、『現在賢劫千仏名経』が前提になっていることを忘れてはならない。
まず、現世紀に、千人の賢人を生み出すことだ。かれらはその智慧を以て、
地球の危機を乗り越え、あらたな宇宙時代をつくり出すであろう。
仏の智慧の讃うべきかな!
http://www.agon.org/jp_html/books/no52.html ノストラダムスの次は別の予言だ。
1000人に選ばれる為に又たくさん金を取るのだろう。
もういい加減にしたら。
74 :
ヌマエビ :2000/08/29(火) 21:22
「刑獄の因縁」 26.必要のない嘘まで膨らませる 桐山氏は前科があることを信者に話していたと述べています。 しかし、1960(昭和35)年、刑が確定して、収監される前に、桐山氏は機関誌に「行 に立つの記」と題して、 「このたび、御本尊準胝観世音大菩薩の御霊示を蒙り・・」 と述べて、山にこもって修行すると述べています。 刑期を終えると、機関誌に次のように書いています。 「・・老師家をお訪ねしました。口をそろえて、『法器である』『宝器だ・・・』 と過褒のお言葉を頂いたことは・・・」 刑務所に入るのを恥じて、山に籠もると嘘の言い訳をしたことは責められません。 人間ですから、最小限の嘘はしかたないでしょう。 だが、心底恥じて、血の涙を流し、自殺まで図った宗教家が、ここまでの無用な 嘘を書くでしょうか。 「御本尊から御霊示」「過褒のお言葉」などなんら必要な嘘ではありません。 「山に籠もる」という一つの嘘で十分なはずです。 桐山氏はこのような嘘をつくためにも堂々と仏の名前を利用しています。 必要もないのに仏の名前まで持ち出すところに、桐山氏の信仰心がどうであるか をよく示しています。 本尊の御霊示や老師まで作り出し、壮大な嘘を言い訳に使っているという点に、 桐山氏の性格がよく現れています。 桐山氏がよく使う「仏様からの御霊示」が何であるかをよく示した例です。 仏様からの御霊示と言われてしまえば、誰も何も言えません。 桐山氏にとって、仏とは実に便利な「道具」です。 普通の人なら嘘は最小限にするところを、桐山氏は逆に力任せに嘘を膨らませて 壮大な物語を作り上げてしまう虚言癖とも言える性格であるのがわかります。 この性格と才能は、後に阿含宗を作る上で大いに役立ちました。 教団の正式な会報に残っているこれらの嘘の言い訳は、一般信者の多くが長年、 桐山氏の刑獄の因縁については何も知らなかったという証拠です。
75 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 21:48
なんで4があがっているんだ? よーち専用が、 いつのまにか、元信者、ヌマエビ氏、専用になっている ???
76 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 22:28
「行に立つの記」 あれは桐山一世一代の名文だ。 たしかに詐欺師だけれど文才はあった。
77 :
よーちえん :2000/08/29(火) 22:32
それでは、みなさん、何でも聞いてください。 わかる事は答えます。わからないことは答えません。
78 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 22:58
番長に勝手に使われてしまった・・・。(子分)
79 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 23:03
よーちおばさん こんばんは つかぬ事をお伺いしますが 何年くらい阿含宗にいるのですか?
80 :
名無しさん :2000/08/29(火) 23:10
>73 いや、やらせておこうぜ。 犬のションベン滝と欲ボケジーサンが作る賢人だってさ。 詐欺にひっかかる程度の頭で賢人になるとはオメデタイ。 本人がマジであればあるほど、ピエロってのはおかしい。
81 :
名無しさん@1周年 :2000/08/29(火) 23:10
1000年です。1000年女王って呼ばれています。
82 :
よーちえん :2000/08/29(火) 23:27
>79 プライバシーは答えない。
83 :
よーちえん :2000/08/29(火) 23:35
もう無いの?寝るよ。私は夜は、早いんだから。
84 :
よーちえん :2000/08/29(火) 23:48
時間切れ。それではまた明日ね。おやすみなさい。
85 :
名無しさん :2000/08/29(火) 23:51
いちおう名前を戻しておこう。
86 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 00:07
>82 >プライバシーは答えない。 よーちえんは人のプライバシーを詮索するのは得意だよな。特にハエたたき氏のこととか。
87 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 00:45
阿含よーちえんでの流行かな
88 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 00:54
阿含よーちえんでの流行かな
89 :
みかりん :2000/08/30(水) 05:55
今度屋敷浄霊をするとか言いやがるから、「そんなもの 無意味だ」と反対したら暴力を振るわれた。 顔は殴られなかったから今日は何とか仕事に 行けそう。。。どうしても自分が悪いとは思えない。 時間はかかっても、脱会する日まで頑張ろうと考えていた。 でもそうなるまでに何度ボコボコにされるのかな。 逃げたいけど子供がいると簡単にはいかないんだよ。。。。。
90 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 07:29
>89 なんというダンナだ! 「宗教は自由、憲法で保証されている、私は 阿含は信じない」、とハッキリいってやめよう! ダンナは脱会しないんじゃないのか? もうここまできたら話し合うしかないでしょう。 だだどうなんでしょう、ダンナの信仰に対して プライドを傷付けるようなことを言ったりしては いないか考えてみる必要もあると思います。
91 :
kotarou :2000/08/30(水) 07:44
89 名前:みかりん様へ 阿含宗程良い所は、他には有りません。 然し、創価学会会員を妻に持つ、友人は、 勤務先から、400万円借りて、40体の 先祖供養をしています。 収入は、彼の物ではないはず。 家族に内緒で、家族の幸せになるとして 隠れて善行をしているつもりです。 私は、阿含宗信徒から、ドケチと言う事で呼び捨てにされましたが、 まず旦那に自分のお小遣いの範囲で信仰しなさいと言って!!
92 :
よーちえん :2000/08/30(水) 07:49
みなさん、おはようございます。 うちの家と実家は、屋敷浄霊をしたけど、どちらも 金の粉が降ったよ。机の木目とか畳の間にも長い間 残っていた。お袈裟にもいっぱいついていたよ。 母は信じていないので、誰かがまいたんだろうて 言っていた。浄霊してくれたのはみんな私の長年 の友人なのだからまくわけ無いのにね。それに、別に そんなのを売り物にしているわけでもない。物理の 好きな人に聞いたら、そう言うことはありえる。超ひも 理論というのがあるらしい。だから物質の存在は有と か無ではなく、空なんだね。 信じない人は、見たことでも信じないんだね。 よその人の家のことは何も言わないよ。私の家では こうだったと言うこと。さあ朝ご飯、食べようかな。
93 :
kotarou :2000/08/30(水) 08:04
続き 人間に信仰は、必要です。 現に、相手は、阿含宗徒だから、 その信仰を続けると幸せになるよと言いなさい。 只、神も仏も、霊界です。 お金は、要りません。お供えは、要ります。 そうして、暫く、霊と誠と、お供えだけの 生活から、お小遣いから貯金して宗教に用いる事を 提案してください。
94 :
kotarou :2000/08/30(水) 08:27
89 名前: みかりん様へ 『「そんなもの無意味だ」と反対したら暴力を振るわれた。』 私の家は、父が無神論で、母が、霊媒者とかを信じて、 灰を家の周囲に撒いたりしていました。 子供は、どちらを信じるのかなー。
95 :
元信者>92 :2000/08/30(水) 08:57
あまりご存じがないようですけど、金粉が出現すると
いう現象は珍しいものではありません。神道系の教団
の中には、それを看板にして布教している位です。
この前、その話題が出た時には、阿含宗の場合には
手品のトリックみたいなものがあるということでした
ね。kotarouさん、その後、何か情報を入手されまし
たでしょうか?
金粉を降らす程度の奇跡など序の口で、蝋燭が燃えて
いる内に見事な龍の形に変形したとか、突然に机の上
に大黒天の木像が現れ、しかも日毎に「彫り進められ
ていく」とか、この種の話は話題に事欠きません。
バラの花に聖母子像が...なんていうきれいなのも、
お望みならありますよ。
http://village.infoweb.ne.jp/~fwhh0598/html/bara.htm 仮にこれらの奇跡が本当に起こったことだとしても、
「法の正しさ」とは何の関わりもありません。いや、
かえって偽物ほど、本質に関わりのないところを飾り
たてるものです。
金粉で「粉」飾された偽物という気がしてならない
のですけどね。私のひが目でしょうか?
96 :
よーちえん :2000/08/30(水) 09:35
>95 阿含宗ではこういう話はあまりしないようですね。私自身も、 修行中に衣服についたりと言うことが何度もありますので、 いんちきではないと言うことはわかっています。知り合いの 4歳の子供さんにも、お護摩の後、たくさんついていたことも あります。その子は冷たい雨にぬれながら一生懸命お祈りし ていたのです。小雨が降ったのは、去年かな、一昨年かな? 私は、仏様が喜ばれているのだと思っています。仏様は身体 を動かす、汗をかく修行を特にお喜びになられます。口先だけ の修行には反応していただけません。 阿含宗では金の粉のことは何も言いませんが、修行者の間では 知られたことです。「しるし」があったようで嬉しいものですよ。 口先だけの修行には出ない。悪口、不平、不満などを抱えてい ると出ない。最近は私は「口先だけの修行なので」出ません。
97 :
kotarou :2000/08/30(水) 09:42
95 名前: 元信者様へ 友人に聞こうとしていたら、どんな奇跡も無効と 言われたので、聞いても無駄かと未だ聞いていません。 400万円奉仕しても、惜しくないと言う、 確信が友人にはあるのです。まー確信犯です。 法律的に、思想犯罪の確信犯は、法律で裁けません。 悪いと思っていないのですから。 せいぜい、罵るくらいでしょう。
98 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 09:43
サイババの話を聞いて思いついた新手の詐欺ですね。 手品大好きの桐山らしい手口です。
99 :
kotarou :2000/08/30(水) 10:05
続き まー400万円がと金貨を買えば、金粉の分は出ます。 然し、物質の成分とか量とか純度の問題では無く、 或る行為で無から有が生じている訳ですから、奇跡です。 元信者さんは、宗教家なのに、奇跡を認めないから、三人の対話は、終了。
100 :
kotarou :2000/08/30(水) 10:14
続き もし、話しを続けたいなら、相手を信じて、奇跡が生じたとしましょう。 それでも、生身の人間を欺いて、食べる物に事欠いて、金粉が出ても 仏の道で無い。悔しいなら、3億円の宝くじに当たれ。 そうしたら、2000万円分の先祖供養も良いよ。
101 :
元信者 :2000/08/30(水) 10:19
よーちえんさんの体験は、トリックではないように私 には思えますね。私自身は金粉の体験がありませんが、 某関西の道場で、何度か祭壇のろうろくが龍神さんの 形になっているのを目撃しました。一般の会員さんに は伝えておりません。欲目でそう見えたんだろう、と 思われるかもしれませんが、その時は本当に鮮明でし た。ちゃんと鱗やヒゲまで付いていたんですから。 そこの道場には常駐の職員がいないから、常に衆人環 視の中にありました。トリックであれをやるのは難し いと思います。その他、物理現象では説明がつかない ことは何度か体験しました。 kotarouさんの友人のお話は、トリックを使った演出 を裏付けているように思いますが、私はそれ以外に本当 の奇跡もあるだろうと推測しています。 しかし、それにも関わらず、「奇跡がある」ことを必要 以上に重視すべきではないと思います。どんな奇跡も、 奇跡のデパート、サイババにはかないっこないんですか ら(笑)。
102 :
名無しさん :2000/08/30(水) 10:31
98 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/30(水) 09:43 >サイババの話を聞いて思いついた新手の詐欺ですね。 手品大好きの桐山らしい手口です。 貴方が金粉の件に関して詐欺だと仰る確たる証拠があるのであれば、 上記の発言は有効なものであるのでしょう。是非具体的な実例を お聞きしたいのですが。(時期、道場、浄霊班名&リーダー名はイニシャルで(笑)) それによって信者、反阿含、双方にとって有効な議論を進める材料に 成り得るかもしれません。
103 :
kotarou :2000/08/30(水) 10:32
101 名前: 元信者様へ では、奇跡を見ると、人間どうなると思いますか。 ハンサムな朝鮮人がいて、処女の日本人に召使の様に接触して、 1回だけ、麻薬を用いて、SEXするそうです。 2回目したいなら、中州でソープ嬢をしろと言って、働かせているそうです。 貴方は、世界が狭い、阿含宗以外に悪人は多い。 然も恋愛と言う事で、取り締まれない。 麻薬は、通常のSEXの1000倍ぐらい良いので、逃げない。 中州のソープ嬢のマインド・コントロールをとくのが先。
104 :
よーちえん :2000/08/30(水) 10:32
>98 手品と言っても、自分一人で修行していても 自分の衣服につきますからね。
105 :
よーちえん :2000/08/30(水) 10:38
桐山管長が出家か在家かというご質問がありましたが、 私は、徐々に在家修行者から出家修行者に変わって行かれたのだと 思っています。いつ頃からなのでしょうかねえ。小田猊下から伝法 を受けた頃。チベットより、一切萬霊守護金剛の法衣を受けた頃。 ダライラマ猊下とオーラの祭典で一緒にお護摩を焚かれた頃。 いろいろ考えられますが、弟子がそういう事を言うのは不遜ですね。 答えは「わからない」にしてください。
106 :
よーちえん :2000/08/30(水) 10:38
法位でした。
107 :
よーちえん :2000/08/30(水) 10:43
中州ってどこですか?
108 :
元信者>kotarouさん :2000/08/30(水) 10:52
ちょっと誤解があるようですね。 kotarouさんの友人は解脱供養に400万円出しても惜し くないと言っている。また、金粉の奇跡も信じている ということですね。「確信犯」と書かれたので、確信 的なトリックを使った犯行、と解釈してしまいました。 私は「奇跡は無効だ」とは言いましたが、「奇跡など 存在しない」と言った覚えはありません。他の方の意 見だと思いますよ。 私の認識は、奇跡の多くは邪悪な霊の仕業であること が多いので、たとえ目撃したとしても、それを無視す るのが正しい対処法だ、ということです。 衝撃的な「奇跡」としては、韓国かどこかのカトリ ック教会のミサの最中に、秘跡の時に授けられる ホスティア(キリストの肉体の象徴として使われる 丸いせんべいのようなもの)が、信者の口の中で、 血のしたたる肉片に変化したというものです。 こういった現象は、見ようによってはキリストの 「化体説」を実証する奇跡ともとれるわけですが、 (ということは、キリスト教以外の信仰を持つわ れわれは全部地獄墜ち決定ということを意味する) こんなことが起きるたびに騒いだからと言って、 人類の霊性が向上するわけでもなし、どう考えても 邪霊のいたずらとしか思えません。 こういう、ちょっと探せばわんさかあるような奇跡 を後生大事にされるkotarouさんこそ、「宗教をやら れている割に奇跡に振り回される」おかしな人だなあ、 と感じます。
109 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 10:56
出家した日と言うのは仏弟子となったいわば誕生日のようなものです。 桐山氏の経歴書は自分で書きながら何度となく内容が変わっていますが 自分の誕生日を間違えるようなものです。 まして弟子達ですら師の出家について「わからない」なら 部外者はもっとわかりません。実に不可思議な話です。
110 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 11:00
管長が霊示を受けている相手の霊が邪霊でないと言えますか? 邪霊ほど手品的な奇跡をたくさんあらわし 人々を欺いて間違った道に導きます。
111 :
kotarou :2000/08/30(水) 11:04
108 名前:元信者>kotarouさん様へ 先程言いました様に、どの宗教にも(中州の朝鮮人が騙した日本女性には) 奇跡があるのです。それで、理屈で無く信じているのです。 それを、取り戻すのは、難しいですよと言っているのです。 教理とか、原始佛教とか言っても、心に響いていないの。
112 :
kotarou :2000/08/30(水) 11:07
107 名前: よーちえん様へ 福岡の天神の近くの繁華街です。
113 :
よーちえん :2000/08/30(水) 11:11
>101 >何度か祭壇のろうろくが龍神さんの >形に >その時は本当に鮮明でし >た。ちゃんと鱗やヒゲまで付いていたんですから。 私はこういうのは見えないんですよ。うらやましいなあ。 勤行中のろうそくの変化は良くわかります。時には、誰 かが言っていたけど、ガスバーナーのように燃え上がります。
114 :
よーちえん :2000/08/30(水) 11:21
>109 日本人の僧侶を「出家度」の高い順に並べてみたらどうでしょうか。 日本ベスト10に入られたのはいつ頃? 現在は、ベスト1でしょう。みなさんはどう思われますか? (行者度と出家度は別だと思います。荒行をすれば素晴らしいわけ でもない。理念が要りますよね。) 変身の原理を書かれた頃は、出家と言う意識はあまりなかったのでし ょうか。ご自分では「改革者」と思われていたかもね。 これはご本人しかわかりませんよね。私も在家だから出家だから、 奇蹟を見せるからと言って信奉しているわけではありませんから ね。書物の内容で信奉しているのです。
115 :
kotarou :2000/08/30(水) 11:27
113 名前: よーちえん様へ と言う事は、元信者さんのほうが、奇跡に 遭遇している事になりますよねー。 彼の内なるレベルが高いからか、 阿含宗を神と仏が実在し守護している証明か。 いずれと思いますか。
116 :
よーちえん :2000/08/30(水) 11:35
阿含経を一般人が読める「面白い書物」にしてくださったのは 桐山猊下ですね。みなさん、そう思われませんか? 阿含経典の数え方についてどなたか教えてください。 スッタニパータは1000巻ですか、8巻ですか、それとも1巻 ですか?巻の数なんてどうでもいい、内容だと思うのですが。
117 :
錫杖金粉 :2000/08/30(水) 11:42
Kotarouさんは友人に聞いてくれなかったのですか。 それは残念。 阿含宗の金粉は「錫杖金粉」です。 阿含宗の屋敷浄霊では錫杖(シャクジョウ)を使います。 シンチュウの輪が6つ柄についていて、これを強く振って お経を唱えるときのリズムをとります。 シンチュウの輪同士が強くこすれ合い、はく離して粉となって飛ぶのです。 疑った信者が黒い腰衣を畳に広げて、 その上で錫杖を降り続けたら、見事金粉が降りました。 シンチュウは金色ですから、金粉のように見えます。 つまり104はその証言です。 屋敷浄霊が始まるまでは阿含宗では金粉は降ったことがない。 始まって間もなく金粉が降り始めたのです。 金粉を集めて試験機関に質量分析を依頼してごらんなさい。 金ではなく銅と亜鉛が検出されるはずです。 原因を知っている修行者たちが言わないのは当然です。 今頃まだ金粉の話を奇跡だと信じているとは、 屋敷浄霊の資格をもっていないか、新しい信者なのでしょう。
118 :
元信者>よーちえんさん :2000/08/30(水) 11:46
>奇蹟を見せるからと言って信奉しているわけでは >ありません と書かれているので、安心していますが、私もかつて はそういう身近な奇跡に逢うたびに小躍りしていた 時期があります。 その後、阿含宗を出ていろいろな宗教団体を見て回り ましたが、トリックによるものの含めて、奇跡なんか わんさかあるものだということを知りました。 結局は、元の釈尊の教え、イエスの教えに辿りついて、 「奇跡がない教えこそが、本当の教えだ」と確信するに 至りました。イエスは奇跡を起こしたとされるけど、 「あなたの信仰心のお陰だ」と言って、自分が起こした とは言っておりません。むしろ、この世では神は奇跡を 人に見せることはない、と断言しています。 「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるの だろう。はっきり言っておくが、神は、今の時代の者 たちには、けっしてしるしをお示しにならないのだ」 (イエスの言葉、マルコ8:12) >書物の内容で信奉しているのです。 という点については、残念ながら、桐山さんの本には 嘘が多いです。私も信者の間は信じたくなかったし、 そういう批判には「教団ぐるみで」耳に蓋していました から...。時間はかかるかもしれませんが、御自分の目 でひとつひとつ確かめていかれば、私の言うことが間違 いでないことを納得していただけると確信しています。
119 :
kotarou :2000/08/30(水) 11:47
101 名前:元信者様へ 『その時は本当に鮮明でした。ちゃんと鱗やヒゲまで付いていたんですから。』 そんな奇跡を見ながら、貴方は何故去れたのですか。 中州のソープ嬢に教えてあげたい。
120 :
よーちえん :2000/08/30(水) 12:14
>115 神々と仏は実在していると思いますよ。絶対神に関してはわかりま せん。 神々が賛嘆されているから、こういう事が起きているのでしょうね。 邪霊によるものとは思いませんけど。と言うのは、心得違いをすると とたんに出なくなるのです。一生懸命、人のお世話をしている人を 中心にでます。
121 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 12:23
>よーちえんさん よーちえんさんが桐山さんを本やビデオでしか知らないのは 書き込みを見るとよくわかります。 また行歴も短い。 阿含宗ではよくあることで、一般信者は本部から遠いほど、 行歴はある程度短いほうが桐山さんを信じている。 桐山さんの実態を知らないから、理想化し、偶像化する。 だが、このスレッドでどの程度桐山さんが通用したか、 よく読み直してみることです。
122 :
よーちえん :2000/08/30(水) 12:26
>117 さん、私は、ちらし配りで2回出ました。あと、大柴燈護摩で、 知人の4歳児の衣服につきました。同時に私の靴にもつきました。 その子は、両親が別居していたので必死で拝んでいました。 ですから錫杖ではないと思いますよ。屋敷浄霊でも出ない事がほと んどだしね。自分自身と知人合わせて10回は経験していますが、 出たのは2回きりです。 出る時に空気の様子が変わるみたいです。つんと鼻に来てくしゃみ が出そうな感じになるみたいですよ。
123 :
よーちえん :2000/08/30(水) 12:30
>118さん、 >結局は、元の釈尊の教え、イエスの教えに辿りついて、 >「奇跡がない教えこそが、本当の教えだ」と確信するに >至りました。イエスは奇跡を起こしたとされるけど、 具体的にはどのような、信仰生活の形態になるのでしょうか? 興味があるもので。ブッダは善き仲間に入ることは仏道の「半ば」 ではなく「すべて」だとおっしゃっています。一人で修行がで きるでしょうか。阿含経に「半」という経典があるそうです。
124 :
元信者>kotarouさま :2000/08/30(水) 12:31
>そんな奇跡を見ながら、貴方は何故去れたのですか。 奇跡に振り回されて、最後に不幸になった実例をいや ほど見せつけられたからだと思います。kotarouさんが 「阿含宗ほどいいところはない」と書かれてましたが、 他の新興宗教教団に比べたら、その通りでしょうね。 ただ、「他よりはずっとまし」という意味ですけど。 今その理由を考えるに、あまり「奇跡」を看板に出さ なかったし、それで儲けようとはしなかった。教団の 言う奇跡とは、花山での星祭りが許可されたとか、 総本山建立とか、良識に反しないまともなものばかり でした。私の目撃した「ろうそくの龍神」も、むしろ 秘密にされていました。そのまともさで、真剣な信者 を騙し続けたという面はありますね。 あの当時、古い先達に尋ねれば、驚くような奇跡経験 などいくらでも出てきました。奇跡話は、教団が組織 的に作り上げたわけでなくて、信者達の間で語り継が れていたのです。私自身にだって奇跡体験はあります よ。あまり詳しく書くと、私の正体がばれちゃいます から、この辺で(笑)。 阿含宗を批判する場合、奇跡をすべてトリックとして 片づけるのは、ほとんど困難だと私は個人的に思いま す。どんな小さな教団にでも奇跡話はあるものです。 むしろ、その奇跡を生み出す力の正邪の見極めが大切 だと思います。そして、正神は奇跡は起こさない。
125 :
よーちえん :2000/08/30(水) 12:40
>121さん、 疑惑を超えるのが一番大変なのですよ。 桐山管長に対しての疑惑は結構だと思いますよ。 121さんは、ブッダや仏舎利信仰に対しての疑惑はいかがですか。 阿含宗には真正仏舎利があることは確かなので、他のことはさてお いて、仏舎利信仰だけでも価値があると思うのですが。 桐山管長への疑惑を乗り越えて、仏舎利信仰や、仏陀の信仰へ たどり着けば、それはそれで素晴らしいことだと思うのですが。 どのような状況でおられますか?
126 :
kotarou :2000/08/30(水) 12:45
124 名前: 元信者様へ 真如苑の友人が、どんな信仰をしているか。 見るために、そこに行こうとしたのですが、 私の神が、『行く事を禁止する』と言うのです。 仕方なく、御蕎麦屋さんで、蕎麦を食べながら宗教の話をしました。 阿含宗は、反対しないので、神の目から見て、カトリック、 神社と遜色無いと思います。
127 :
元信者>よーちえんさん :2000/08/30(水) 12:46
>具体的にはどのような、信仰生活の形態になるので >しょうか? 人が人としてできる、当たり前のことをやるだけです。 自分に与えられたものに感謝する。自分に余力があれば 足りない人に与える。与えられたもの以上を望まない。 不幸な目に逢えば、そのまま苦しむ。誰をも恨まない。 不幸が去れば感謝する。 夏は暑さを味わい、冬は寒さを味わう。過去を後悔せず、 未来に期待しない。 ざっとこんな感じでしょうか。簡単すぎて拍子抜けしま したか(笑)?
128 :
kotarou :2000/08/30(水) 12:54
125 名前: よーちえん様へ それは違うよ。『桐山管長への疑惑を乗り越えて、仏舎利信仰や、仏陀の信仰へ たどり着けば、それはそれで素晴らしいことだと思うのですが。』 教祖に対し疑いを持つなんて、信者のする事ではない。 完全に信頼できずに信じるな! 疑う必要の無い範囲で、生活に取り入れれば良いのです。 まー、私のように、信者から馬鹿者扱いされますが、 (悔しいー)その代わり、宗教と、生活を両立できます。
129 :
よーちえん :2000/08/30(水) 12:57
>127 >結局は、元の釈尊の教え、イエスの教えに辿りついて、 >「奇跡がない教えこそが、本当の教えだ」と確信するに そこで、もとの無宗教に帰られたわけですね。うーん、無宗教 と言うのは、私にはどうしても理解できない「奇想天外」なこ となのですね。海をボートや船なしで渡るような気がします。 個人の自由ですけどね。
130 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 12:59
>125よーちえんさん 仏舎利信仰や仏陀信仰と阿含宗は何の関係もありません。 そこに行くのに阿含宗があるのは、無用な迷路です。 桐山さんは仏陀や仏舎利を自己宣伝の道具に使っているにすぎません。 ほんとうに釈迦仏教を名乗りたいのなら、 護摩や占いや先祖供養などすべきではありません。 金をばらまいての名誉買いもやめるべきです。 釈尊の教えに反したことをしながら、仏舎利や阿含経を このような誤った教えの看板に使った罪は極めて重い。
131 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:00
>128さん、読み間違いですよ。 121さんへの言葉です。121さんが桐山管長に対して 疑惑を持つのは結構なことですよ。桐山管長とて人間ですから 信じる人もいれば疑う人もいる。 私は疑っていませんよ。 それで、121さんは桐山管長は信じないのはよくわかりました。 「仏舎利信仰」や「仏陀」に関してはいかがですか?とお聞きして いるのです。
132 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 13:07
>129よーちえんさん >そこで、もとの無宗教に帰られたわけですね。うーん、無宗教 無宗教って、こういうことを書くから、 阿含宗徒の阿含経知らずと言われるのです。 127の内容は釈尊の教えを元信者さんの言葉で表現したものです。 いかに、よーちえんさんが桐山さんから教えられた釈尊と 阿含経の釈尊との間に開きがあるかわかります。
133 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:07
>121、130 阿含宗に関しては、信じる人もいれば、信じない人もいます。 信じる人は全国で多くても30万人?千人に3人ですね。 千三つという言葉があるのでしょう。一か八かのまだ上ね。 それほどまれなわけです。ところが私は信じている。それは それで、個人の自由でしょう。 あなたが阿含宗や、桐山管長は信じていないのはよくわかった。 千人のうち997人のお仲間なのです。 そこで、はなしは変わりますが、121さんは、 「仏舎利信仰」や「仏陀」に関してはいかがですか?とお聞き しているのです。
134 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:11
>132 これが仏教としたら(ご本人さんすみません)。 外人さんの仏教ですね。仏教と東洋的ポエムを間違えている。 仏陀の教えには確たる構造がありますよ。
135 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 13:12
>133よーちえんさん 130で返事したとおりです。 ここでは阿含宗を中心に話をするスレッドです。 仏舎利信仰や仏陀信仰を単品で扱うところではありません。 あまりをよちーえんさんがそれを追求すると、 阿含宗のことを追求されてはまずいから、 話をそらそうとしていると受け取られますよ。
136 :
元信者>129 :2000/08/30(水) 13:15
「待ちぼうけ」という歌をご存じですね。 偶然にうざぎが切り株に頭をぶつけて死んだので、それ に味をしめて、何日も何日も待ち続けた...。 それをやめて、自分の足で立ち去ったということです。 本当の宗教とは、自分の足で歩くという、当たり前のこと を教えることなのですよ。釈尊しかり、イエスしかり。 ちなみに、ホスティアの奇跡の所で述べたカトリック では、イエスの死によって罪を免れるという教えですが、 あんなもの、イエスの教えじゃない。立派な外道です。 その証拠に、ああいう小賢しい奇跡がわんさか起きる。 邪な期待を持った人間の集まる所に、邪な霊が引き寄せ られて、邪なワザを見せるわけです。
137 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:19
>135 さんは、阿含宗や桐山管長は信じていない。 仏陀や仏舎利信仰についてはノーコメントである。 と言うことで、まあ後者、も信じられないのでしょうね。 疑惑を乗り越えていない状態。狐疑とけずですか。 どちらがよい悪いではありませんが、私とは見解が異なります。
138 :
kotarou :2000/08/30(水) 13:21
129 名前:よーちえん様へ 私もそう思う。どんな悪友も、一人でいるよりまし。 彼は、今、私と、貴方と、三人で話しているから、 一人ではない。
139 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 13:21
>134よーちえんさん >外人さんの仏教ですね。仏教と東洋的ポエムを間違えている。 釈尊は外人さんですよ。 よーちえんさんが唱えてる経典に偈がありますが、あれはポエムです。 >「夏は暑さを味わい、冬は寒さを味わう。過去を後悔せず、未来に期待しない。」 という言葉は、これを釈迦仏教では一日賢人というのです。 ところが、阿含宗では、過去を因縁や霊障として後悔し、 未来を占いで知ろうとする。 釈尊の教えとはほど遠い。
140 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:21
>135 追求されてまずいことは何もないですよ。 私は信じている。あなたは信じていない。それだけですから。 私は 3/1000 の少数派。あなたは997/1000 の多数派です。
141 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:27
>136 イエスのことはまったくわかりませんが。 私とは世界が違うのですね。それぞれ思い悩んで 道を見つけるのでしょう。 奇蹟=邪霊の業 というのは納得しがたいですが、人 それぞれの意見ですからね。
142 :
kotarou :2000/08/30(水) 13:28
続き 私は、元信者さんが、ハエタタキさんが、自分の行っている 教会名を言わずに、阿含宗の批判をするのを理解できない。 ここを除名されたら、私は、何処に行けば良いのよー。
143 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:28
>138 悪友と言うのは疑問ですけどね?
144 :
kotarou :2000/08/30(水) 13:34
143 名前: よーちえん様へ 言葉は、難しい。 悪友といるより、一人で居る方が益し。 でなく、と言いたいのです。 阿含宗の方々の非難では、有りません、
145 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 13:38
>140 よーちえんさん >追求されてまずいことは何もないですよ。 では、どうして護摩や占いや先祖供養といった釈尊が禁止したり、 説きもしないことをやっていながら、釈迦仏教を名乗るのですか。 ハエたたきさんが出したスレッド2の758で出した経典についての質問、 スレッド2の620で出た質問に答えてください。 阿含宗には30万人も信者はいません。 本当に阿含宗のことを何も知らないので書いているのですね。
146 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:38
>144さんわかりました。 仏陀は、善き友と交わることは道のすべてであると おっしゃっています。 善き友を得られないならば、むしろ一人で居れとも。 福岡といえば、博多、山笠ですか。
147 :
元信者 :2000/08/30(水) 13:43
>よーちえんさん 132@`139さんの指摘が本当か嘘かは、実際に岩波文庫の 「ブッダのことば(スッタニパータ)」をお買いになって 読めばすぐに確認できますよ。著者は、桐山氏お墨付きの 中村元さんです。 阿含宗はアーガマを世に出した。それは正しいのですが、 教義まではアーガマにはなっていないのです。もし、 アーガマに従ったとすると、占いも解脱供養も何もかも やめなくてはならない。だから、やむなく桐山さんは成仏 法の名前「七科三十七道品」だけを拝借して、アーガマ を取り入れたことにしてしまったのです。 私はよーちえんさんに、釈迦仏教を押し売りする積もりは ありません。ただ、よーちえんさんが信望されている阿含 宗は、アーガマとは全く別の教え、密教の一種なんですよ、 と皆さんが知らせてくださっているのです。 この問題は信じる信じないでなく、スッタニパータを読ん で確認するかどうか、です。1000円でお釣りが来る本です。 釈迦の弟子ならば、携帯すべき聖典だと思うのですが。 3/1000というのは、単なる「井の中の蛙」の集まりにすぎ ないと思いますよ。本当にスッタニパータを読んでから、 桐山氏の言うことが信じられるとは、とても思えない。
148 :
kotarou :2000/08/30(水) 13:45
146 名前: よーちえん様へ そうです。私は、子供の頃、西公園と言って、 天神の近くの海辺に住んでいました。 実家は、博多区雑餉隈、今私は、大宰府天満宮の近くに住んでいます。
149 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:46
>145 さん、別に仏陀はそのようなことを禁止していないでしょう。私は そう思っています。 阿含経でも、祖霊を敬って祀つられています。これは先祖供養でし ょう。 どこにあったかと言われると困るのですが、疑惑を超えない者は火 の祭祀を行っても無駄であると言うお経もありました。 「疑惑を超えないもの」「無駄である」ですね。 出家は世間の苦しみを逃れるために「占い」「売買」「医術」を やめよと言うお経もありましたね。出家は心静かに暮らせよ、と 言う教えです。 また、このような疑問を信者が管長猊下に問いただすのはわかり ますよ。阿含宗を否定されている方には関係ないことだと思うの ですが。
150 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 13:54
>149よーちえんさん >さん、別に仏陀はそのようなことを禁止していないでしょう。私は >そう思っています。 >阿含経でも、祖霊を敬って祀つられています。これは先祖供養でし 経典の根拠を示してください。 よーちえんさんがそう思うではなく、阿含経のどこにあるのか、 それを具体的に示してください。
151 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:54
>147 阿含宗は、南伝仏教(根本仏教)、北伝仏教(おもに真言密教)、 東伝仏教(チベット密教)を円満融合させた教えでしょう。 私は、それで納得しています。 私の場合ですが、テーラバーダだけではどうにもなりません。 庶民はお経を読んで(短い本がありましたね)祭りに参加する。 僧侶は戒律を守り、瞑想する。それだけではね。 それプラス北伝密教の神々、そして、チベット密教の解脱力。 これが魅力的なのです。この形態が最高だと思います。 それを、お釈迦様は認められたからサヘトマヘトが京都北花山 に来たのでしょう。如来の現形があったのでしょう。 (私は、火の中の如来様は見えないのですが、あなたは見えるの でしょう?)
152 :
よーちえん :2000/08/30(水) 13:58
>150 さん、阿含教にばっぢ族の話があります。そこで祖霊 土地の神霊の話が出てきます。自分で調べてね。 それと、私は、先祖供養をしてくださる仏教が好きです。 150さんが先祖供養を否定されるのであれればそのような 宗教を求められたらいかがですか。
153 :
よーちえん :2000/08/30(水) 14:06
ちょっと仕事がしたいので、もうやめましょうね。 あすは、子供達が帰ってきますので、こんなことは 今日限りです。時間が惜しい。仕事をせねば。
154 :
よーちえん :2000/08/30(水) 14:09
「仏陀の弟子は、七代を浄める」という話が出ていましたね。 私も読んだことがあります。漢訳でなくて日本語訳です。
155 :
よーちえん :2000/08/30(水) 14:16
それでは、またね。bye
156 :
007 :2000/08/30(水) 15:28
147 名前: 元信者様へ 89 名前:みかりん様の言う屋敷浄霊についてお聞きしたいのですが、 彼女は、無駄だからしないと言っているのですか、 それとも、金額が張るからなのでしょうか。 彼女も、元阿含宗だから、その重要性は、理解しているでしょうに。
157 :
kotarou :2000/08/30(水) 15:29
147 名前: 元信者様へ 89 名前:みかりん様の言う屋敷浄霊についてお聞きしたいのですが、 彼女は、無駄だからしないと言っているのですか、 それとも、金額が張るからなのでしょうか。 彼女も、元阿含宗だから、その重要性は、理解しているでしょうに。
158 :
kotarou :2000/08/30(水) 15:30
軍事チャンネルに記載していて、訂正していなかったので、間違いました。
159 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 15:46
大多数の人達から見れば阿含宗は単なるゲテ物に過ぎない。 信者がいることが不思議な位だ。 よーちえんは金粉話で奇跡を訴えているけれど いつから始まったのか調べてみるといい。 サイババの話の後で単に真似しただけだとわかるだろう。
160 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 15:48
屋敷浄霊の次はパソコン浄霊でも始まるかな
161 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 15:51
火を出すだけなら大仁田だって出来るぜ!
162 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 16:08
代走、屋敷!
163 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 16:20
10年前、阿含宗の人間から「悪いものが出ているの見える」と 言われた。これって勧誘の手口でしょ? 無視したけど今でも何も不幸な事起きてないよ。 勧誘マニュアル知ってる人いる?
164 :
ハエたたき :2000/08/30(水) 16:35
>>127 ようちえんさんには理解できないようですけど、元信者さんのことばはまさしく仏教のお
釈迦さんの教えです。
一言で言えば「あるがままに」ということです。
願い事をして宝生護摩を焚いて、もし願い事がかなっても、またすぐに別の願い事が生ま
れるでしょう。
私のこころの中から次から次へと生まれてくる願い事(欲)を満足させるために、私以外の
ものを私の願いのままに動かそう、変えようとしていたら、いつまでたっても私の欲望が
満足することがなく、いつまでたっても私が幸せになることはない。
私の意のままにならないものを私の意のままに動かして満足をえようとするのではなく、
究極の幸せは、次から次へと際限なく様々な要求をし続ける私のこころそのものを、要求
しないこころにすることによって、こころに満足を与えることだというのです。
165 :
ハエたたき :2000/08/30(水) 17:18
私が子供の頃、祭りになると夜店とともに見世物小屋がやってきました。 「さぁさ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。お代は見てのお帰り・・・」という呼び込 みで、中に入ると、 「かわいそうなのはこの娘でござい。猟師で殺生を重ねた親の因果が子に報い、生まれつ いての毛むくじゃら・・・」という次第です。 これは、親が殺生をしたために、その報いが子供に現れているということなのですが、少 なくとも、仏教の教えからするととんでもない間違いです。 仏教では、自分のしたこと(因)の結果(果)は、必ずその本人にあらわれると教えています。 自業自得という言葉があるとおり、自分の行為の責任は自分がとることになっています。 「親の因果が子に報い・・・」は、いくら親でも、子供にとっては自分ではない=他人です から、他業自得ということになるわけで、これはいくらなんでもめちゃくちゃです。 で、何がいいたいかというと、先祖の因果が子孫の自分に報いているから、その因縁を切 るために先祖供養を・・・、ということが行われているとするならば、それは仏教ではあり ません。
166 :
元信者>157 :2000/08/30(水) 18:14
私自身、「屋敷浄霊」というのは初耳なのです。新手の 商法ですね。除霊の出張サービスか? 思うに、風水ブームに乗じて、「家の除霊」に手を伸ば しただけでしょう。 効果があるなしよりも、身の回りの不幸の原因を家のせい にしない「みかりん」さんの見識の正しさが、旦那の欲呆け した頭では理解できなかっただけでしょう(「みかりん」 さん、旦那を罵倒してゴメン!!!) 盲目だから阿含宗に集まるのか、阿含宗に来ると皆、盲目 になるのか...これが問題だ。
167 :
よーちえん :2000/08/30(水) 18:15
>157 007さん、軍事板でもがんばっているんですね。 先日、甥が来て軍事板を見て喜んでいました。 自衛隊関係の話題が多いようですね。
168 :
ハエたたき :2000/08/30(水) 18:28
>166 >盲目だから阿含宗に集まるのか、阿含宗に来ると皆、盲目 >になるのか...これが問題だ。 そこらへんが知りたい。
169 :
元信者>165 :2000/08/30(水) 18:33
そう言えば、外へ出て他人と会うと悪因縁がうつる、と いって家族郎党で「集団即身成仏」になった家がありま したね。 これも因縁の転嫁、という点から「外道」ですね。 あと、有名な「外道」は、アダムとイブの原罪が遺伝 して、人間は罪人として生まれてくるというキリスト 教。おまけに、その原罪をイブとサタンの不倫のせい にした上、教祖の言いなりになって集団結婚しないと 罪が消えない、と脅すのが統一○会。 こうして見れば、もう外道、外道、外道だらけ。 先祖の因縁たたり、原罪、怪しげな古い土地の利権書、 道具は何であれ、他人を脅して金を巻き上げるのが、 外道宗教と○暴の常套手段です。
170 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 18:36
>152よーちえんさん >さん、阿含教にばっぢ族の話があります。そこで祖霊 マハーパリ・ニッバーナ・スッタンタに出てくる ヴァッジ族のことをおっしゃっているのですか。 釈尊は、在家の人たちが世俗的な風俗習慣としての 祭祀をすることを否定しませんでした。 ヴァッジ族の話もただそれだけのことです。 先祖からの習慣を守っているかとアーナンダに質問しただけです。 しかも、これは戦争をやめさせるための質問です。 いつ釈尊が自分の教団にこれらの祭祀を取り入れましたか。 教団の僧侶が祖霊や土地の神霊を供養する話が出てきますか。 先祖供養を釈尊がはっきりと否定した証拠が ハエたたきさんが出したスレッド3の287の経典です。 「先祖供養をしてくださる仏教」を好きなのは個人の自由です。 だが、それは釈迦仏教とはほど遠い。 よーちえんさんの言う仏陀信仰、舎利信仰の中身は、 釈尊の教えとはまったく違う信仰です。 よーちえんさんが信じているのは仏陀でも舎利でもなく桐山さんです。
171 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 18:37
>154 よーちえんさん >「仏陀の弟子は、七代を浄める」という話が出ていましたね。 よーちえんさんは前にもこれをハエたたきさんに突きつけましたね。 あのとき経典を示してくれと書き込んだのですが、それっきりです。 今回は、追求されてまずいことは何もないのだから、 経典を示してください。
172 :
よーちえん :2000/08/30(水) 18:43
>164 阿含宗では「欲望」を整理していきます。10種類10項目。 それを毎日書いて、毎日読む。また、書きかえるのですね。 ちゃんと実行している人は少ないと思いますが。座右宝鑑の 方法です。 これを整理していると、自分と言うものが非常に良くわかる ようになります。十二の因縁でわかるように、人間は無明から 始まり、欲望をピークとする存在なのです。欲望をかなえるこ ともなく消し去ることができればそれは仏陀です。 この方法をちゃんとやると「自分の心の地図」ができるのです。 仏陀も在家の信徒にはそのようなことを求めていません。 阿含宗では、欲望を整理し、欲望をかなえ、欲望を浄化すること を教えています。 いくら心をいじっても無明や欲望は消えません。何十億劫も続 いてきた無明や欲望です。説教でも消えません。 それよりも、在家の信徒には身見、疑惑、戒取を切っていくほうが 大事なのです。 仏陀は在家には、五欲を満たた福徳円満な長者になれと説いています。 それでもシュダオンにはなれるのです。
173 :
よーちえん :2000/08/30(水) 18:45
>165 そういうことは、阿含宗では言ってないと思いますよ。 家系の因縁と個人の因縁が合致したところに自分がいる ということです。
174 :
よーちえん :2000/08/30(水) 18:53
>170 >釈尊は、在家の人たちが世俗的な風俗習慣としての >祭祀をすることを否定しませんでした。 >ヴァッジ族の話もただそれだけのことです。 ヴァッジ族はちゃんとそのようなことを行っているので、 攻め滅ぼされることは無いであろうとのブッダの言葉ですね。 禁止はしていない。重要なことだと認識されていると思い ますよ。
175 :
よーちえん :2000/08/30(水) 18:54
>171 私はその本は図書館で読んだのですが、緑色の表紙の 分厚い本です。1000頁くらいあったかしら。 あなたも探してみてくださいね。
176 :
元信者>よーちえんさん :2000/08/30(水) 19:02
>欲望を整理し、欲望をかなえ、欲望を浄化する 欲望はかなえればかなうほど強くなりますよ。 会社で部長のポストを得れば、次は社長の座を狙う。 念願のマイホームが手に入れば、今度は別荘。 カナブン・ベンツが手に入れば、何台も地下駐車場に 並べたくなる...。 桐山さんの野望がいい手本ではありませんか。 私が会員時代、桐山さんは伝法会で好きな「知床旅情」 と行動隊歌?をよく歌ったものです。その一節、 「金もいらにゃきゃ、名もいらぬ」が今も印象に残って いますよ。今思うと、あの歌、全〜〜部、嘘だったね。 欲望をかなえて浄化なんて、冗談にもほどがある。
177 :
ハエたたき :2000/08/30(水) 19:08
ようちえんさんに質問 阿含宗には、解脱供養のための護摩と宝生護摩という2種類の護摩があるそうですが、その主旨を教えてください。
178 :
kotarou :2000/08/30(水) 19:10
166 名前:元信者>157様へ 167 名前:よーちえん様へ 元信者様貴方がご存知無ければ、よーちえん様へ お尋ねするしかありません。 「屋敷浄霊」は、阿含宗では、認められているのでしょう。 そうすると、旦那さんは、実行したいだろうし、 費用は、どのくらいなのでしょうか。 よーちえん様へお教え下さい。
179 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 21:30
>174よーちえんさん >禁止はしていない。重要なことだと認識されていると思い >ますよ。 「禁止していない」とは何を禁止していないのですか。 釈尊はアーナンダに7つの質問をしています。 そのうちのどれをもってよーちえんさんは 「祖霊を敬って祀つられています。これは先祖供養」(149) と判断されたのですか。
180 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 21:32
>175 よーちえんさん 手元に本もないし、何という経典かすら知らないで書き込んでいるのですか。 それでいて、ハエたたきさんには探してみろと挑発したのですか。 よーちえんさんてとても度胸がありますね。 批判側が紹介するのは簡単だが、筋違いでしょう。 よーちえんさんに代わって、どなたか信者さんで 「仏陀の弟子は、七代を浄める」という経典を紹介してください。
181 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 21:38
>172よーちえんさん >それよりも、在家の信徒には身見、疑惑、戒取を切っていくほうが >大事なのです。 これまでも何回もこの言葉を使っているから、よほどよーちえんさんは 内容を理解し、実行し、三つの煩悩が切れているのでしょう。 阿含宗の信徒のどこが身見、疑惑、戒取が切れているのか、 内容を具体的に紹介してください。 阿含宗が釈迦仏教を標傍して22年もたてば さぞやシュダオンがたくさんいるでしょう。 具体的に誰がそうなのか紹介してください。
182 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 21:40
どなたか昭和60年にあった6700万の所得隠しの事件(桐山のゴルフ会員権やら家族の旅行費用) 知ってる方いますか?
183 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 22:22
岡本太郎と阿含宗、なんの関係があるんだ?
184 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 22:25
>182 事件ではなかったので知りません。
185 :
名無しさん@1周年 :2000/08/30(水) 22:29
>181 言ったって、あんたにはわからないよ。 第一、桐山氏は公人だからボロクソに悪口いっても いいが、一般の個人名、誰がカキコするか! 迷惑になるだけだろう。
186 :
よーちえん :2000/08/30(水) 23:33
>185さん、 よくこの板に入れましたね。ずっとエラーが出ていました。 まあ同じ事の繰り返しみたいなので、私はそろそろ退出し ますね。仏教が先祖の供養をするのは当たり前だと思うの ですが、それさえ文句を言う方があるのには驚きますね。 他のスレッドの書きこみを拝見させていただいても、私より ずっとスマートな方とお見受けいたしますので、よろしく お願いいたしますね。 ブッダが、あぶと蜂と蛇と猛獣と人間に気をつけよといわれた のがよくわかります。教えを忘れた人間は「おに」ですからね。 お気を付けになって。 よこはまさん、私の読んだ本の読書記録からページがわかりました。
187 :
よーちえん :2000/08/30(水) 23:42
ページをクイズで教えます。 ページの数字から0以外の整数をとります。(整数に決まっているけど ね)。それらの数字を大きい順に並べ、4種のごく簡単な演算をします。 そして得られた値の一の位を並べます。4つの数字が並びますね。 それは「0、6、6、4」です。賢い人なら頁がわかるかもね。 0664が検証番号です。これで将来、いま私が嘘をついてなかっ た事の証明になるのです。将来この掲示板を見てるとは思えないけ どね。では、これにておしまい。
188 :
名無しさん :2000/08/30(水) 23:47
よーちえんです、名前を戻しておきます。 将来、あれは何頁だったんだといわれれば、****頁、 大きい順に並べて、****。四つの演算は xxxxだから、 検証番号は****。嘘じゃないでしょうといえる。 意味がわかってくれたかしら。さよーなら。
189 :
ハエたたき :2000/08/31(木) 00:21
>186 ようちえんさん >仏教が先祖の供養をするのは当たり前だと思うのですが、 この同じカキコをこの2ヶ月間に何度も読ませていただきました。 阿含宗を批判する側は、先祖供養の内容や阿含宗の先祖との因縁切りの問題点を論拠を示して質問するのですが、 阿含宗信者の方はいつも“当たり前だと思う”だけです。 批判ではない質問も多くあったと思うのですが、罵声や支離滅裂な発言でごまかしてしまうだけです。 ようちえんさんは、ようやくコテハンで参加されるようになり、一歩前進かなと思いますが、 ただ根拠のない、説得力のない思いこみを連続攻撃のように書きなぐるだけで、議論にはほど遠いのが実態です。 どうしてこういう宗教に信者が集まり、多額の布施・会費を支払うのか・・・、疑問は深まるばかりです。
190 :
名無しさん :2000/08/31(木) 00:58
智慧ゆたかな者が家に生まれることがあれば、その雄者(出家修行者) は、実に、七代の父母を浄める。わたしは「神々の中の神々(ブッダ) が(このこと)を可能にした」と思う。なぜならば、あなた(ブッダ) によって、真にその名にふさわしい聖者が生まれたからである。
191 :
名無しさん :2000/08/31(木) 01:04
208ページです。 8と2。8+2=10 8-2=6 8*2=16 8/2=4。 検証番号は 0664 。 いつもメールのやり取りの暗号に使っているのです。 208=0664 と書いて合ってれば本物。実際はもう 少し複雑な数式を使います。
192 :
名無しさん :2000/08/31(木) 01:05
ハエたたきは、誰も浄めないただのおやじ。 自分さえ浄化できない。浄化槽、買いなさい。
193 :
名無しさん :2000/08/31(木) 01:07
神々の中の神(ブッダ)でした。
194 :
名無しさん :2000/08/31(木) 10:05
スッタニパータ(ブッダの言葉)岩波文庫 師(仏陀)は次の詩を以って、喜びの意を表した。 火への供養は祭祀のうちでも最上のものである。サーヴィトリー(賛歌) はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上 の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。 月は、諸々の星のうちでは最上のものである。太陽は、輝くもののうちで 最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとっ て最上のものである。 聖ヨハネの預言 私は水によって悔い改めの洗礼(バプテスマ)をさずける。しかし、 私の後からおいでになる方は、私よりも力のある方であり、私は その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない。 その方は聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をおさずけになる。 「マタイ伝」3−11 原始仏典 ちくま書房 中村元編 p208 智慧ゆたかな者が家に生まれることがあれば、その雄者(出家修行者) は、実に、七代の父母を浄める。わたしは「神々の中の神(ブッダ) が(このこと)を可能にした」と思う。なぜならば、あなた(ブッダ) によって、真にその名にふさわしい聖者が生まれたからである。
195 :
元信者>194 :2000/08/31(木) 13:35
最初のスッタニパータですが、同じ本の#249の「祭祀」に 対する注釈として、こう書かれています。 「祭祀---馬祀り(assamedha)などをいう」(p.305) 祭祀のどこが先祖供養なんですか? 説明してください。
196 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 13:37
>195 祭祀の目的はなんですか?考えてみてね。
197 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 13:38
194、定期上げおねがいします。
198 :
元信者 :2000/08/31(木) 13:43
阿含宗の信者の方たちに以下の言葉を送ります。 スッタニパータ#450より 「最上の善いことばを語れ(これが第一である) 正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが 第二である。 好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語る な。これが第三である。 真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。」 ヨハネの言葉は違う、と検証してお見せしたはずです。 偽りを承知で嘘を押しとおすつもりですか? 194さんは、いいかげんに「恥」を知るべきです。
199 :
名無しさん :2000/08/31(木) 13:49
>ヨハネの言葉は違う、と検証してお見せしたはずです。 ?? 知らないよ?
200 :
名無しさん :2000/08/31(木) 13:51
聖書の引用がどうして、偽りの言葉になるの?
201 :
元信者>196 :2000/08/31(木) 14:04
祭祀の目的が先祖供養とは限りませんよ。 例えば、「ブッダのことば」(岩波文庫)の p.63の「七.バラモンにふさわしいこと」には、人間 の享楽を得たいと願って祭祀を行ったとあります。 #299 しかるにかれらに誤った見解が起った。次第に 王者の栄華と化粧盛装した女人を見るにしたがって、 .... #301 バラモンたちは、牛の群が栄え、美女の群を 擁するすばらしい人間の享楽を得たいと熱望した #302 そこでかれらはヴェーダの呪文を編纂して、 かの甘蔗王のもとに赴いていった、「あなたは財宝 も穀物も豊かである。祭祀を行いなさい。あなたの 富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」 少なくとも、祭祀=先祖供養、という解釈は成り立ち ませんね。
202 :
名無しさん :2000/08/31(木) 14:14
仏教で得られる果報は、世間福と出世間福ですね。 生者のための、世間福は宝生、安楽。出世間福は解脱。 高度の修行者は、この世もあの世も捨てるから、世間福は のぞまないし、出世間福の概念も在家とは異なる。 死者のための果報は?。出世間福=解脱しかないですよね。 ですから祭祀に先祖供養が含まれる可能性はあります。 それと、3つの引用の(1)で、先祖供養がどうとか、 そういうことを主張しているつもりはありません。
203 :
名無しさん :2000/08/31(木) 14:16
ただたんに、仏陀の言葉として >師(仏陀)は次の詩を以って、喜びの意を表した。 >火への供養は祭祀のうちでも最上のものである。 こういう言葉が残っているのが嬉しいと言うことです。
204 :
名無しさん :2000/08/31(木) 14:24
>202 追加 祭祀は果報を願って行われるものですから。
205 :
名無しさん :2000/08/31(木) 14:32
元信者さん、きょうは無神論者のごみばこのハエとか、 横浜市とかが入ってこないから、助かりますねえ。 もうこんな神学議論はよしましょうよ。みんな自分の信 じる道を進めば良いじゃない。そう思いませんか。 ハエさんなんて、何で書き込みしているかさっぱり分かり ませんねえ。阿含宗には興味がないみたいなのに。議論 自体に興味があるようですね。 あなたは、阿含宗を離れて不安なのかもしれない。良いじゃ ないですが。人生は長いのだから。気が向けば帰ってこれ るし。正しいと思えばずんずん進めば良いし。私は阿含の 教えが正しいと思っているんですよ。
206 :
ハエたたき :2000/08/31(木) 16:38
>>194 阿含宗という宗教3にもカキコしましたが、
P236 註
五六八 火への供養 バラモン教では、神聖な火を燃やして、その中に穀類やバタなどを
投じて、神に献ずる。
都合のよい部分だけを引用していますが、バラモンのケーニヤが食事を施してくれたこと
に対する謝辞としての言葉です。
セーラ・バラモンら300人のバラモン修行者を帰依させた話しの一部で、釈尊が行った
行を語ったものではありません。
207 :
ハエたたき :2000/08/31(木) 16:40
>205 どうして詐欺師桐山のウソを信じて、多額の金を出すのか、とても興味があります。
208 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 16:58
先祖供養1体が10万円というコストの内訳も知りたいな。 2体、3体と増えると割引はないのか? 大体、阿含宗の人とは話が噛み合わないのはウチの身内で実証済なのよ。
209 :
名無しさん :2000/08/31(木) 17:19
>206 仏陀が、だれかに語った謝礼の言葉に 「火への供養は祭祀のうちでも最上のものである」とあって なにか不都合なことがありますか?仏陀がどのようなシチュ エーションにせよ、こう語ったと言うことでしょう。また、 弟子達がその言葉を残してくれているのですよ。
210 :
名無しさん :2000/08/31(木) 17:29
>208 よこはまさんでしょう?
211 :
名無しさん :2000/08/31(木) 17:31
♥
212 :
名無しさん :2000/08/31(木) 17:31
↑ 成功したぞ。
213 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 19:53
♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥ >209 >206 にバラモン教の儀式だって註が引用されているでしょう。 すでに結論が出ていることを何度もカキコしないの。 ♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥
214 :
名無しさん :2000/08/31(木) 20:04
>213 仏陀の教えは、バラモンの儀式と仏陀の理法なの。 キリストがユダヤ教徒であったように、仏陀はバラモン教から出現し 理法を説いた。バラモン教のすべてを否定したわけでは無い。 たとえば、祭祀に関しては供儀(犠牲を伴う供養)は否定しているが、 その他は否定していない。 仏陀の理法に対する「疑念を超えずに」儀式をしても「無駄」だと言っ ているが、祭祀そのものは否定していない。 この経典のように「火の祭祀は最高のものである」とたたえている。 まず、仏陀の理法に対する疑念を超えること。そして当時のやり方で 種種の祭祀などを行うことを教えている。 213は理解が浅いのだ。仏陀の時代には、みんな、シーンと静まり かえって瞑想をしていたと言うのは誤解だ。賑やかな時代だった。 仏陀の葬儀を見よ! あんたの解釈が浅はかなの。
215 :
七代の父母を浄める :2000/08/31(木) 22:16
>190 よーちえんさんが見たという本は「原始仏典」(中村元、筑摩書房)です。 1000頁ではなく432頁です。 これはテーラガーターで、難しいクイズにしなくても、 「仏弟子の告白」(岩波文庫)の533(P.121)に出ています。 信者さんたちはこれを釈尊が先祖供養を説いたと言いたいのですか。 まったく見当違いな解釈です。 第一に、題名どおり、仏弟子のカールダーイン長老の言葉であって、 釈尊その人の言葉ではありません。 出家のすばらしさを釈尊の前で賛嘆した言葉にすぎません。 弟子の賛嘆の言葉であって、釈尊の教えではありません。 ここでいう「浄める」には阿含宗の言う先祖供養の意味はありません。 これはインドのカーストを表す言葉です。 七代まで浄めるの具体的な内容は スッタニパータの中に次のように残っています。 バーラトヴァージャ青年は次のように言った。 「きみよ。父かたについても母かたについても双方ともに 生れ(素姓)が良く、純潔な母胎に宿り、七世の祖先に至るまで 血統に関しては未だかつて爪弾きされたことなく、かつて非難 されたことがないならば、まさにこのことによってバラモン であるのである。」 「ブッダのことば」(中村元@`岩波書店、132頁) 青年は「七代」前まで氏素性が正しいのがバラモンだと述べています。 バラモン以外の血が混じることは「浄くない」のです。 当時のインドには、七代前まで浄い血筋、という考えがあったのです。 つまり、190の経典は、カールダーイン長老が、 出家は、これほど厳しいカーストへの要求に 匹敵するほどのことだと、釈尊を前にして賛嘆したにすぎません。 七代まで浄まると賛嘆したのではなく、七代まで浄まることに 匹敵するとほどすごいことなのだと出家を賛嘆したのです。 先祖供養などまったく関係がありません。 先祖供養だなどと解釈するのは、 インド社会を理解していない無知な発言です。
216 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 22:22
>214さん どんなに反論されても、火の祭祀を釈尊がたたえたといいたいようですね。 スレッド3の561に再掲載した内容で議論は決着しています。 中学生にあの経典を読ませても、釈尊が火を祭祀をたたえたとは 解釈しないでしょう。 比較に使ったにすぎず、他の経典でははっきりと護摩を否定しています。 釈尊が占いや護摩を禁止したことは、 どの国のどの仏教学者も広く認めていることです。 信者さんたちはスッタニパータやテーラガーターの経典を もって護摩や先祖供養を釈尊が認めたといいたいようだが、 では、どうして桐山さんはこの二つの経典を引用しないのですか。
217 :
名無しさん :2000/08/31(木) 22:25
>215 これはまた、思い切った曲解ですね。 七代(200年?)に渡り、浄められなくて苦しむ存在があること。 その死者の魂が、生者によって浄められうることを、認識しなけ ればなりません。
218 :
名無しさん :2000/08/31(木) 22:31
>215 >スッタニパータの中に次のように残っています。 >バーラトヴァージャ青年は次のように言った。 >「きみよ。父かたについても母かたについても双方ともに >生れ(素姓)が良く、純潔な母胎に宿り、七世の祖先に至るまで >血統に関しては未だかつて爪弾きされたことなく、かつて非難 >されたことがないならば、まさにこのことによってバラモン >であるのである。」 >「ブッダのことば」(中村元@`岩波書店、132頁) 当然、このような言葉は仏陀によって肯定されるはずも 無いですよね。生まれによってバラモンになるのではない。 行為によってバラモンなのですから。 次の行から否定されているでしょう。生まれを誇るバラモンの 青年を教え諭しているのです。約4頁にわたりますので引用は しません。 「この経典は、生まれ(出自)を誇るバラモンの青年の考えを 否定し、教え諭す経典です。」引用されたものとは全く趣旨 が異なります。お分かりだと思うのですがねえ。
219 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 22:39
>185さん >いいが、一般の個人名、誰がカキコするか! シュダオンが阿含宗にいるのかと質問しただけで、 誰が個人名を出せといいましたか。 **道場の++本部長などと書けばいいのです。 それすらも書けないのは、さすがに嘘は書けないからでしょう。 桐山さんはただの一度も「某さんはシュダオンだ」とは 宣言していないはずです。 阿含宗にはシュダオン、シダゴンは一人もいない。 立宗して22年もたつに、ただの一人もいないとは 信者さん自身おかしいとは思わないのですか。 シュダオンや五下分結など、桐山さんの本からもって来た 未消化な仏教用語をここで振り回しても、たった一度の質問に すらまともに答えられないではありませんか。
220 :
名無しさん :2000/08/31(木) 22:39
>215 弟子の言葉が仏陀の言葉と異なるのであれば、仏陀は必ず訂正 されます。またテーラガータの「出演者」はニルバーナ目前、 アルハト目前の高度な修行者ですから、間違ったことを言うは ずも無いのです。 なお194の引用文、原始仏典 ちくま書房とひらがなになっ ています。「筑摩書房」に訂正いたします。 また、 目次は 原始仏典 D 長老の詩(テーラ・ガータ)早島鏡正訳です。
221 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 22:42
>217さん >七代(200年?)に渡り、浄められなくて苦しむ存在があること。 >その死者の魂が、生者によって浄められうることを、認識しなけ 毎回のことですが、信者さんたちはこういった反論をするときには、 必ず経典の根拠を示してください。
222 :
名無しさん :2000/08/31(木) 22:50
>219さん ある集まりで、ここにいるほとんどすべての人が「シュダオン」 でしょうね。とおっしゃられたことがあります。特殊な集まり ではありません。 また、新しい修行システム参加は、「三結くらい(シュダオン) ではちょっとむつかしいですね。せめてシダゴンまでいってほし いといわれたということも聞いています。」
223 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 22:52
>218さん >「この経典は、生まれ(出自)を誇るバラモンの青年の考えを >否定し、教え諭す経典です。」引用されたものとは全く趣旨 215の文章の意味を理解しておられないようですね。 ここに引用したのは、当時のインドには「七代の純血」 という考えがあったことの証拠を示したのです。 カールダーイン長老のいう「七代の父母を浄める」 とは先祖供養の話ではなく、カーストの話にすぎない ということを示したのです。 カールダーイン長老の言葉がどうして阿含宗のいう 先祖供養になるのか説明してください。
224 :
名無しさん :2000/08/31(木) 22:55
>221 引用文を読めばわかるでしょう。 「その雄者が浄めることを仏陀が可能にした。」 それまでは可能ではなかったのですよ。浄められる までは、不浄なる存在なのですよ。それが、少なくとも 七代はさかのぼる。浄められるまでは、不浄の中で 苦しんでいたわけです。それまでは、不可能であった。 そう言う存在はあるわけです。そして、それが生者に よって浄められた。そのような存在があるのです。読めば わかるよね。
225 :
名無しさん :2000/08/31(木) 22:56
>223 は全くの曲解。ありえない解釈。
226 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 22:59
>222さん >ある集まりで、ここにいるほとんどすべての人が「シュダオン」 >でしょうね。とおっしゃられたことがあります。特殊な集まり >ではありません。 初耳です。 どんな集まりですか。 シュダオンは聖者の一つですから、かなり高い境涯です。 それを不特定な信者にむかって「ほとんどすべての人が」 などというほど軽いものだとは驚きですね。 それを聞いたということは、あなたもシュダオンなのですね。 具体的にどのように五下分結が切れるのか、 聖者の境涯とはどのようなものか、経験者としてご紹介ください。
227 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 23:04
>225さん >は全くの曲解。ありえない解釈。 225さんの書き込みは議論になっていません。 スレッド3でハエたたきさんが書いたことをそのまま引用しますから、 参考にしてください。 >786 >全体的にそうなんだけど、阿含宗信者の皆さんの反論は、否定語を並べるだけで根拠を示していない >から理解できないんですよ。
228 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 23:09
>224さん >引用文を読めばわかるでしょう。 >「その雄者が浄めることを仏陀が可能にした。」 引用文とは何のことでしょうか。 もう少し詳しく説明してください。
229 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:11
>226 >五下分結が 切れたらアナゴンですよ。シュダオンは下の三結断じでしょう。 身見、疑惑、戒取 でしょう。こんなところに書き込みしている私が 切れているとは言わないけれど、そんなに高いハードルでもなさそう ではありませんか。結界内で修行されている方など、みんなそうで しょう。 阿含宗が嫌いな方、阿含宗はさておき、仏陀の教法が嫌いな方は 「疑惑」のハードルが超えられないのですよ。簡単だと思うんだけど。 一生懸命勉強して、間違っていれば訂正すれば良いのだから。戒取も 変な規則にとらわれなかったら良いのでしょう。身見が一番むつかし そうですね。「身見」の定義が本によって違うしね。
230 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:18
(1)スッタニパータ(ブッダの言葉)岩波文庫 師(仏陀)は次の詩を以って、喜びの意を表した。 火への供養は祭祀のうちでも最上のものである。サーヴィトリー(賛歌) はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上 の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。 月は、諸々の星のうちでは最上のものである。太陽は、輝くもののうちで 最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとっ て最上のものである。 (2)聖ヨハネの預言 私は水によって悔い改めの洗礼(バプテスマ)をさずける。しかし、 私の後からおいでになる方は、私よりも力のある方であり、私は その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない。 その方は聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をおさずけになる。 「マタイ伝」3−11 (3)原始仏典 筑摩書房 中村元編 p208 長老の詩(テーラ・ガータ) 智慧ゆたかな者が家に生まれることがあれば、その雄者(出家修行者) は、実に、七代の父母を浄める。わたしは「神々の中の神(ブッダ) が(このこと)を可能にした」と思う。なぜならば、あなた(ブッダ) によって、真にその名にふさわしい聖者が生まれたからである。 上記(3)をじっくり読んでみてください。少なくとも七代にわたって 浄められなかった存在がありますね。それが生者によって浄められること が可能であることもわかりますね。そう言うことです。
231 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 23:20
>229さん >切れたらアナゴンですよ。シュダオンは下の三結断じでしょう。 229さんをアナゴンだとは一言も書いていません。 身見、疑惑、戒取は五下分結の最初の3つです。 シュダオンになったということは、3つが切れたのですから、 五下分結が切れ始めたことになります。 「疑惑」のハードルが越えられないとはどういうことですか。
232 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:22
死者が生者によって浄められることが可能になったのは、 仏陀のおかげである。(仏陀がこのことを可能にした) と書いてありますね。文字通りではありませんか。 道に迷ったバラモンの青年が七代の血筋を誇るのとは、全く別で しょう。「ありえない解釈」としか言いようがないではありま せんか。
233 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 23:24
>230さん >上記(3)をじっくり読んでみてください。少なくとも七代にわたって >浄められなかった存在がありますね。それが生者によって浄められること >が可能であることもわかりますね。そう言うことです。 じっくりと読んだ結果を215に書いたのです。 230さんにとって、「浄める」とは具体的に何をさしているのですか。
234 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:24
仏陀の教法が嫌いということは、仏陀の教法に対する 疑惑があるからでしょう。「仏陀の教法が嫌いな方は」 という前提です。
235 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:26
>233 浄、不浄は仏教の基本的概念でしょう。 すべての存在を恒常的と思って迷っている状態を 不浄というのです。
236 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:28
>233 また、常に壊れ、失われていくことを不浄ということも ありますよね。恒常的な存在でない、我は不浄なりと 気がつけば、自性清浄、生死を乗り越えるということに なるんでしょう。これは、ご自分で考える問題ですよ。
237 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 23:29
>234さん >仏陀の教法が嫌いということは、仏陀の教法に対する >疑惑があるからでしょう。「仏陀の教法が嫌いな方は」 >という前提です。 阿含宗は、護摩や占いを禁止した釈尊に疑惑があり、 仏陀の教法が嫌いなのですね。
238 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:32
>237 あなたは、どうしても「阿含宗が憎い」という考えに とらわれて、ストレートに仏陀の教法が学べないでしょう。 それが、疑惑なんですよ。 阿含宗がまちがいだと思えば、ストレートに仏陀を探せば 良いのです。 私は、阿含宗の教えが一番の近道だと思っているのです。
239 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 23:32
>235さん >すべての存在を恒常的と思って迷っている状態を >不浄というのです。 初めて聞く説です。 235さんのおっしゃっていることは縁起の法のように聞こえます。 七代の父母と縁起の法とどう関係するのですか。
240 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:33
>237 阿含宗がまちがいだと思えば、阿含宗を避けて 他の道で仏陀に近づきなさいよ。
241 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:35
>239 縁起の法ではなく「空」の方ですね。 縁起の法は個人の存在論ですから。 どのようにしてあなたが存在するかという存在論であって、 浄不浄とは関係ないです。
242 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 23:36
>238さん >あなたは、どうしても「阿含宗が憎い」という考えに >とらわれて、ストレートに仏陀の教法が学べないでしょう。 >それが、疑惑なんですよ。 質問に答えられないと、「阿含宗が憎い」ですか。 釈尊が禁止した護摩や占いを堂々とやり、 説きもしない先祖供養をしながら、 疑惑や戒取が切れたなどと堂々と言っているのを、 憎いのではなく、笑っているのです。
243 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:36
「空」でありながら「有」にしがみつけば 不浄なのでしょう。
244 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 23:40
>243 さん >「空」でありながら「有」にしがみつけば >不浄なのでしょう。 だから、243さんのいう不浄と テーラガーターの七代の父母とどう関係するのですか。 難しい言葉を用いないで、もっと具体的に、 阿含宗はあの経典をどう解釈しているのかを示してください。
245 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:40
>242 よいことを言われました。「笑っているといいのですよ」。 笑って別れて、自分の道を歩みなさいね。他の道に気を取られずに。 分かれ道の向こうへあなたは行く。こちらを私は行く。 わたしは、阿含宗の教えと仏舎利供養が仏陀への最短距離 と思っています。ただ単に見解の相違です。 わたしはあなたを笑いません。正しい道を見つけてくださいね。
246 :
名無しさん :2000/08/31(木) 23:43
>244 阿含宗の解釈ではありません。自己流です。 私は私の道を行く。経本の解釈はご自分で。 きょうのコメントは、私個人の見解です。 時間が無いもので、よく考えもせずに走り書き。 それでは、時間切れです。もう寝ますね。あすから 、、、だから。さよーなら。
247 :
名無しさん@1周年 :2000/08/31(木) 23:50
>232さん >死者が生者によって浄められることが可能になったのは、 >仏陀のおかげである。(仏陀がこのことを可能にした) >と書いてありますね。文字通りではありませんか。 死者を釈尊が浄めたなどとどこに書いてありますか。 出家のすばらしさを誉めたにすぎないこの経典が、 どうして死者を浄めたことになるのですか。 215で書いたように、これはカーストを引き合いにして 出家のすばらしさを賛嘆したにすぎません。 死者を浄めるなど、釈尊は否定しています。 ハエたたきさんが出したスレッド3の287の経典です 再度質問しますが、232さんの言うとおりなら、 なぜ桐山さんはこれらの経典をまったく引用しないのですか。
248 :
ハエたたき :2000/09/01(金) 00:06
かれはそのとき、ナーランダ近郊のとある林の中にいた。 そこに村長がやって来て、かれに問いかけた。 「バラモンたちが言っているところによると、彼らが儀式を執り行 えば、死者はたちまち天上界に再生するそうだ。 どうだ、お前も同じことができるか?」 かれに対する村長の態度は、いささか傲慢不遜であった。 しかしかれは、そんなぶしつけな質問に慣れていた。 別段顔色も変えずに、かれはこんなふうに応えた。 「その問いに答える前に、村長、私からひとつ質問したい。 湖があって、かりにその湖に大きな石を投げ込んだとしよう。 当然に、石は底に沈むだろう。 そしてそのあとで、人々が集まって、湖の周りで『石よ浮かべ、石 よ浮かべ』と祈願するのだ。 すると、石は浮き上がってくるだろうか?」 「いいや、そんなことはない」 「村長よ、それと同じなんだよ。 生前、さんざんに悪を積み重ねた者が、死後地獄に堕ちても、いく ら祈願をしようが、彼が天上界に生まれることはない・・・。」 「それからね、村長。 今度は、ビンに油を入れて湖に投じたとしよう。 そして、ビンが割れたとする。 すると油が浮き上がってくる。 人々がそこで、『油よ沈め、油よ沈め』と祈願するのだ。 すると、油は沈むだろうか?」 「いいえ、そんなことはありません。 油は浮くにきまっています」 「それと同じことなんだよ。 生前に善行を積み重ねた者は、死後天上界に生まれ、地獄に堕ちる ことはない。 村長よ、これがあなたに対する解答である。」 かれはそう言い終えて、村長に向かってにっこりとほほえんだ。 (『南伝大蔵経』第16巻上、10〜13ページ) 阿含経 相応部 おわかりでしょうが、『かれ』は『釈尊』です。 「いかなる霊障の不成仏霊でも、かならず、解脱成仏にみちびく霊 力を持つ××××管長が、くわしく霊視をされた上、戒名、法名を つけて、成仏するまで修法されます。 はっきり成仏されますと、その御霊牌は、京都の総本山・△△霊廟 に安置され、永代にわたってご供養申し上げます」 これは、まさに村長が言っていた、 「バラモンたちが御祈祷すれば、死者は天上界に再生する」 に相当 するものです。 上記のエピソードが示しているように、 釈尊は、不成仏霊の成仏なんて、否定しておられます。 石は沈み、油は浮く。 一体につき何十万円の御供養料を支払って、 「石よ浮き上がれ」と祈願したって、沈むものは沈むのです。 釈尊はそう言っておられます。 バラモンたちはそれができると主張しているかもしれないが、 釈尊はそんなことは歯牙にもかけておられません。 そうすると、上記のパンフレットを配布している宗教は、 バラモン教の伝統を受け継いでいるのでしょうか・・・? =============================== 仏陀に最も近いとおっしゃるパンフレットが、仏陀によって否定されていますよ。
249 :
ハエたたき :2000/09/01(金) 00:08
かれはそのとき、ナーランダ近郊のとある林の中にいた。 そこに村長がやって来て、かれに問いかけた。 「バラモンたちが言っているところによると、彼らが儀式を執り行 えば、死者はたちまち天上界に再生するそうだ。 どうだ、お前も同じことができるか?」 かれに対する村長の態度は、いささか傲慢不遜であった。 しかしかれは、そんなぶしつけな質問に慣れていた。 別段顔色も変えずに、かれはこんなふうに応えた。 「その問いに答える前に、村長、私からひとつ質問したい。 湖があって、かりにその湖に大きな石を投げ込んだとしよう。 当然に、石は底に沈むだろう。 そしてそのあとで、人々が集まって、湖の周りで『石よ浮かべ、石 よ浮かべ』と祈願するのだ。 すると、石は浮き上がってくるだろうか?」 「いいや、そんなことはない」 「村長よ、それと同じなんだよ。 生前、さんざんに悪を積み重ねた者が、死後地獄に堕ちても、いく ら祈願をしようが、彼が天上界に生まれることはない・・・。」 「それからね、村長。 今度は、ビンに油を入れて湖に投じたとしよう。 そして、ビンが割れたとする。 すると油が浮き上がってくる。 人々がそこで、『油よ沈め、油よ沈め』と祈願するのだ。 すると、油は沈むだろうか?」 「いいえ、そんなことはありません。 油は浮くにきまっています」 「それと同じことなんだよ。 生前に善行を積み重ねた者は、死後天上界に生まれ、地獄に堕ちる ことはない。 村長よ、これがあなたに対する解答である。」 かれはそう言い終えて、村長に向かってにっこりとほほえんだ。 (『南伝大蔵経』第16巻上、10〜13ページ) 阿含経 相応部 おわかりでしょうが、『かれ』は『釈尊』です。 「いかなる霊障の不成仏霊でも、かならず、解脱成仏にみちびく霊 力を持つ××××管長が、くわしく霊視をされた上、戒名、法名を つけて、成仏するまで修法されます。 はっきり成仏されますと、その御霊牌は、京都の総本山・△△霊廟 に安置され、永代にわたってご供養申し上げます」 これは、まさに村長が言っていた、 「バラモンたちが御祈祷すれば、死者は天上界に再生する」 に相当 するものです。 上記のエピソードが示しているように、 釈尊は、不成仏霊の成仏なんて、否定しておられます。 石は沈み、油は浮く。 一体につき何十万円の御供養料を支払って、 「石よ浮き上がれ」と祈願したって、沈むものは沈むのです。 釈尊はそう言っておられます。 バラモンたちはそれができると主張しているかもしれないが、 釈尊はそんなことは歯牙にもかけておられません。 そうすると、上記のパンフレットを配布している宗教は、 バラモン教の伝統を受け継いでいるのでしょうか・・・? =============================== 仏陀に最も近いとおっしゃるパンフレットが、仏陀によって否定されていますよ。
250 :
ハエたたき :2000/09/01(金) 00:09
二重カキコになってしまいました。 ごめんなさい。
251 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 00:12
信者さんたちはぜひ 200番代以降の議論を再度読んでください。 230にある(1)(3)は何ら、阿含宗の護摩や先祖供養を 釈尊が認めた証拠にはなりません。 釈尊は護摩、占い、先祖供養を認めるどころか、禁止し否定しました。 釈迦仏教を標傍しながら、このようなことをするのは、 釈尊に対する背徳行為、裏切り行為です。 その信者の三結が切れるなどということはありえません。 阿含宗の信者はまさに疑惑と戒取にひっかかります。 桐山さんがアナゴンであるなどもちろん絵空事です。
252 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 00:14
他のひとの もろもろの あやまちを 見ることなかれ 他のひとの 為せると 為さざるを 見ることなかれ ただ みずからの 為したるを はた 為さざりしを のみ 見よ 第一に 自己をこそ ふさわしく 調え しかるのち 他に 教うべし かくあらば 賢きひとは 煩い なからむ 他に 教うるがごと そのままに みずからに 為すべし みずからを 制御してこそ 他を 制御せむ まこと 自己は 制御し 難ければなり
253 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 00:15
怨み 懐ける なかにありて 怨むこと なく いと 楽しく われら 生きむ 怨み 懐ける ひとびとの なかに 怨むこと なく われわ 住まわむ 勝利より 怨憎 生ず 敗残のもの 苦しみて 臥す さらば 勝敗をば なげうち捨てて 寂静なるは 安楽に 住す 孤独の 味と 寂静の 味とを 味わいて 法悦の 味を 味わうひとは 苦悩 去り 禍を 離る
254 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 00:16
「かれ われを 罵れり われを 害したり われに 打ち克てり われより 奪いたり」と かれに とらわれの思い いだく あらば 怨みは ついに 消ゆること なし 「かれ われを 罵れり われを 害したり われに 打ち克てり われより 奪いたり」 かれに とらわれの思い いだく なくば 怨みは すでに 消えて失せぬ まこと ひとの世に いつの代も 怨みによりては 怨みは 消えず 怨みより 離る かくてこそ 消ゆ これぞ とこしえの 真実 ならむ 「われら ここに みずからを 抑え止めむ」 と 他の ひとびとは そを わきまえず されど そを ひとびとが わきまえて あらば もろもろの 争いは 消ゆ
255 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 00:21
252の経典は、ぜひ桐山さんに読んでほしい。 大乗仏教や僧侶の「もろもろの あやまちを」をさんざん罵り、 すぐにカッとなって「自己は制御」できない人だし、 「みずからの 為したる」まちがいはいっさい見ないし、認めない。 釈尊は桐山さんのためにこのお経を残したのでしょう。
256 :
ハエたたき :2000/09/01(金) 00:38
阿含宗信者にとって必要なのは、阿含宗からの解脱、桐山さんの束縛からの解脱です。
257 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 00:42
仏教信者にとって必要なのは、仏教からの解脱、釈迦さんの束縛からの解脱です。
258 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 01:52
桐山さんにとって必要なのは、金まみれからの解脱、インチキの束縛からの解脱です。
259 :
名無しさん :2000/09/01(金) 09:32
>249 は、外道の修行者に与えた話です。善行も積まず、狐疑も渡らず 祭祀をしても無駄ですよ。 ハエさんのように、無神論で断見を脱することが出来ないかたが、 法事を行っても無駄なのです。 あなた(ブッダ)によって父母を浄める雄者が生まれたと書いてい るでしょう。
260 :
名無しさん :2000/09/01(金) 09:41
ブッダは火の祭祀(護摩)や先祖供養は禁止していません。 占いについては、売買、医業、その他から、心を平穏ならせる ために、修行者は離れよと言っています。在家信者に対しては 禁止されたわけでもありません。 修行者に対する禁止規定は、時代とともに変わります。物品 金銭を蓄えない僧団は、今やどこにもないでしょう。 これは世界の修行者が、自ら考え自ら実行すれば良い問題です。 俗人以上に俗な生活をされている方々の中では、阿含宗の 出家者は最上級でしょう。ですから、阿含信徒や民衆は、阿含の 僧侶を尊敬しているのですよ。 出家の規範は、出家が考えるべきです。俗人は、尊敬するなり 軽蔑するなりすれば良いのです。 何とかさんのように、朝晩のお勤めさえせず、パソコン入り浸りの 僧侶は当然軽蔑されますよね。
261 :
名無しさん :2000/09/01(金) 09:43
父母を浄めるという言葉の意味ですが、 昨夜は「空」を知ってもらう、と言うことだけを書き 「追善供養」;自己の善業を回してあげる「回向」に 言及することを忘れていました。追加いたします。
262 :
名無しさん :2000/09/01(金) 09:51
(1)スッタニパータ(ブッダの言葉)岩波文庫 師(仏陀)は次の詩を以って、喜びの意を表した。 火への供養は祭祀のうちでも最上のものである。サーヴィトリー(賛歌) はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上 の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。 月は、諸々の星のうちでは最上のものである。太陽は、輝くもののうちで 最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとっ て最上のものである。 (2)聖ヨハネの預言 私は水によって悔い改めの洗礼(バプテスマ)をさずける。しかし、 私の後からおいでになる方は、私よりも力のある方であり、私は その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない。 その方は聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をおさずけになる。 「マタイ伝」3−11 (3)原始仏典 筑摩書房 中村元編 p208 長老の詩(テーラ・ガータ) 智慧ゆたかな者が家に生まれることがあれば、その雄者(出家修行者) は、実に、七代の父母を浄める。わたしは「神々の中の神(ブッダ) が(このこと)を可能にした」と思う。なぜならば、あなた(ブッダ) によって、真にその名にふさわしい聖者が生まれたからである。 上記(3)をじっくり読んでみてください。少なくとも七代にわたって 浄められなかった存在がありますね。それが生者によって浄められること が可能であることもわかりますね。そう言うことです。
263 :
Kotarou :2000/09/01(金) 10:09
89 名前:みかりん 様へ 『今度屋敷浄霊をするとか言いやがるから、「そんなもの 無意味だ」と反対したら暴力を振るわれた。』 と言われますが、私も、やってもらおうと思います。 只、今直ぐは、お金が無いので、10月吉日に 阿含宗にお願いしようと思います。 と言いますのも、大宰府は古戦場の跡が多く、 今住んでいる処も金縛り会うと娘が言っていました。 私は、守護霊が強く、亡霊に会いません。 トイレが、鬼門とか、水周りが、鬼門とか、 娘が言っていましたが、風水とか、無視していました。
264 :
ハエたたき :2000/09/01(金) 10:43
中村元著「原始仏教の生活倫理」P400〜 「釈尊が、・・・当時の宗教家たちが民衆の迷信につけこむことによって生活していること を述べ、それを批判している。」 とあり、その内容に、 「・・・火をたく護摩の術、・・・家を建てる土地の相の判断、・・・悪霊払いの呪術・・・。 しかしこのような卑しい術を行わないのが、また修行僧の戒めの1つです。」 「・・・またある種の修行者・バラモン方は、・・・次のような卑しい術、邪悪な生活手段によ って生活を営んでいます。 すなわち、“大雨が降るであろう。”“干魃があるであろう。”・・・ しかしこのような卑しい術を行わないのが、また修行僧の戒めの1つです。」 「・・・またある種の修行者・バラモン方は、・・・次のような卑しい術、邪悪な生活手段によ って生活を営んでいます。 すなわち、・・・居住地を占う術、居住地を浄化する術・・・ しかしこのような卑しい術を行わないのが、また修行僧の戒めの1つです。」
265 :
ハエたたき :2000/09/01(金) 10:51
中村元著「原始仏教の生活倫理」P407 ゴータマブッダはむしろ残酷とまで思われるまでに、死者のために追善の儀式をしたいと いう世人の願望をつっぱねている。
266 :
Kotarou :2000/09/01(金) 11:30
265 名前:ハエたたき 様へ 貴方のお話を伺うと、バラモンは、良い宗教ですね。 日日の生活を、事細かに良き方に誘導してくれるのだから。 お釈迦様は、人間の日常生活のアドバイスには、 ブレキーブレキー。 速度を出さなきゃ安全。 そんな、自動車学校の教官の様に見える。
267 :
Kotarou :2000/09/01(金) 11:35
続き インドでも、廃れたんでしょ。 佛教は。 結局、日常生活の困難に回答を出す 宗教が、民と共に有る宗教では。 一隅を照らす。
268 :
ハエたたき :2000/09/01(金) 11:39
>266 誤解しないでください。 私の話しではありません。お釈迦さんの説法です。阿含経をそのまま引用しています。
269 :
Kotarou :2000/09/01(金) 11:39
続き 阿含宗が、バラモン教と名を変えれば、 双方に、意見のくいちがいは、無いわけだ。 そうしたら良いのに。
270 :
Kotarou :2000/09/01(金) 11:44
続き そうしないから、元信者とか、金の無い私が、 迷い込むのだろう。 禁欲の佛教と誤解して。
271 :
名無しさん :2000/09/01(金) 11:52
>265 近代の「合理精神?」で、何もかも殺ぎ落としてしまった ような仏教もあるのですよ。仏教学者の業績は偉大ですが 、霊感のない方は、その先入観にとらわれることもあります。 私は、中村博士の翻訳は良く読みますが、評論はあまり読み ません。読んでも参考程度ですね。 私は、阿含宗の教えでブッダに近づこうとしているし、それで 満足しています。
272 :
名無しさん :2000/09/01(金) 12:02
ハエたたきさんのコメントを読んでいると、ご自分が出来ないことに 的を絞り非難して言っているように思えます。 あなたが、本当にブッダへの道を捜し求めて、阿含の教えのここがお かしいと言うのなら、まともに話をする気にもなるのですが。 ご自分は、霊的なこともわからない、追善供養も出来ない、死者の 霊魂も理解できない。阿弥陀の熱心な信者の心境もわからない。 ないないずくしの自己を正当化することのみに、コメントが集中し ている。 このスレッドでも、人間理解の深い話も出たが、そんなことには興味 も示さない。阿含をあげつらっているばかり。本当の僧侶なら、自宗 との比較で語るべきなのだが、それさえない。 あなたは「自宗の教義さえも信じてないのですよ」 もし専門家なのなら素人なんか相手にせずに、真宗大谷派の法務部 を通して、正々堂々と専門家同士で議論しなさいよ。 そして、自分で「供養も慰霊も否定する仏教を作り上げなさい」。 そんな宗派はだれも相手にもしないでしょう。
273 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 12:08
>260さん >ために、修行者は離れよと言っています。在家信者に対しては >禁止されたわけでもありません。 また同じ議論ですね。 占いや護摩を在家に禁止されたわけではないというのなら、 阿含宗は全員在家であり、桐山さんは在家なのですか。 桐山さんが在家なら、どうして僧侶の肩書きを名乗り、 法衣法号をもらい、僧侶の養成をして、資格を与えているのですか。
274 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 12:12
>260さん >修行者に対する禁止規定は、時代とともに変わります。物品 >金銭を蓄えない僧団は、今やどこにもないでしょう。 前に否定された議論がまた出てきましたね。 時代とともに変わるというなら、護摩や占いや先祖供養といった 釈尊在世当時からインドで行われていて、しかも釈尊が禁止した事を 現在のどのような理由で行っているのですか。 釈迦仏教でない教団が物品や金銭を蓄えるのはかまわないのです。 大乗仏教は元々在家仏教ですから。 釈迦仏教を名乗ったとたん、僧侶には禁止されます。 釈迦仏教は265の中村博士が述べているように、 時には残酷と思えるほど厳しいものです。 桐山さんのようにデタラメ、いい加減に釈迦仏教など 名乗るものではありません。
275 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 12:16
>260さん よーちえんさんは否定された議論でも 明瞭な反論の材料もないまま何度も蒸し返し、同じ内容を繰り返します。 262のすでに議論され否定された経典を唯一の拠り所として、 何度も書き込みます。 こういう態度は知性を疑わせるものです。 桐山さんの求聞持法とは耳がテープレコーダーになるとのことでしたが、 よーちえんさんもただテープを再生しているだけですか。 一昔前の針の飛ぶレコードのようにさえ見えます。
276 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 12:27
>271さん >私は、阿含宗の教えでブッダに近づこうとしているし、それで >満足しています。 よーちえんさんや阿含宗徒が近づこうとしているのはブッダではなく、 桐山密教にすぎません。 桐山密教に近づこうとすればするほど、釈尊その人からは遠ざかります。 よーちえんさんの態度はオウム信者と何ら変わりません。 単なる自己満足です。 阿含宗を代表して戦っているつもりでも、 「阿含宗は理屈はまるでないゴッタ煮の祈祷宗教、呪術宗教だが、 自分はただ桐山さんが好きで、感情的に信仰し、満足している」 と毎回、宣言しているようなものです。
277 :
名無しさん :2000/09/01(金) 12:42
>275 あなたが否定しても「否定された議論」と言うことには ならないのですよ。それが見解の相違なんだから。
278 :
名無しさん :2000/09/01(金) 12:49
>276 見解の相違はある。私はブッダを求めている。ハエ氏は論外。 あなたはどうなの?ブッダを求めているとは宣言できないん でしょう。「見解の相違は見解の相違」でいいじゃない。 オウムの人にまで「ただの阿含たたきのおやじ」って言われて いたよ。ヤフーに書きこしているのもあなたでしょう?読んで ないけど。 とても、冷静で公平な議論をしているってふうには見えないわよ。 1)あなたがたとは見解の相違はあります。 2)私は仏陀を求めています。 3)阿含宗の教えで、満足しているし、感謝しています。
279 :
名無しさん :2000/09/01(金) 12:54
>274 >大乗仏教は元々在家仏教 大乗仏教には出家あるいは僧侶がいないという、天地を揺るがす ご発言ですね。驚天動地。
280 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 13:03
>277さん >あなたが否定しても「否定された議論」と言うことには >ならないのですよ。それが見解の相違なんだから。 よーちえんさんは例祭などで先達から、冷静な書き込みをするように、 罵倒は管長猊下の品位を傷つけるからとよしなさいと言われましたね。 よい先達です。 だから、よーちえんのHNでは罵倒せずに、匿名でやりました。 せっかくですから、もう一つ学ぶことがあります。 それは理屈の上で行き詰まったら、 悔し紛れに感情的な同じ主張を繰り返さない知性です。 よーちえんさんの反論はハエたたきさんが書いたように、 「否定語を並べるだけで根拠を示していない」(スレッド3、786) のです。 また、ハエたたきさんを攻撃しても無駄です。 攻撃の矛先を阿含宗からそらそうとしているのがわかってしまいます。 それだけ阿含宗は矛盾していると言っているようなものです。
281 :
名無しさん :2000/09/01(金) 13:11
>280 私は仏陀を求めていますって言える?
282 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 13:12
>279 さん >大乗仏教には出家あるいは僧侶がいないという、天地を揺るがす >ご発言ですね。驚天動地。 だれが、大乗仏教に出家や僧侶がいないと書きましたか。 大乗仏教は在家仏教運動から始まったという学者の説を述べたにすぎません。 今日の大乗仏教といっしょにして、 勝手な思いこみで拡大解釈して反論しないことです。
283 :
kotarou :2000/09/01(金) 13:20
除霊の必要性の有る穢れた土地を宅地にした人は、 地鎮祭を、神社に頼んだり、 お寺にその土地にまつわる無縁仏の供養を依頼するのでは、有りませんか。 それを、阿含宗がしているだけでは。
284 :
名無しさん :2000/09/01(金) 13:21
>282 在家仏教の僧侶は何をしても良いの? 馬鹿馬鹿しくなってきた。
285 :
名無しさん :2000/09/01(金) 13:23
それよりも、 >280 >私は仏陀を求めていますって言える?
286 :
名無しさん :2000/09/01(金) 13:25
在家仏教と言えば、日蓮宗と浄土真宗しかないと 思うのだけど、それでさえ、僧侶がいるよ?
阿含宗が霊視だの除霊だの護摩をたくといった密教的なことを やって金をとるのは、別にかまわないと思う ほかの新興宗教だってやってるし、それらを非難してたらほとんどの 宗教批判しなければならなくなる(笑 ただ、やめてほしいのは「阿含宗」という名称と われわれが釈迦の本当の仏教をつたえているんだとか もろもろの妄想をやめてもらいたい。
288 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 14:13
>287 同意します。阿含宗会員より。
289 :
kotarou :2000/09/01(金) 14:13
287 名前:名無しさん@1周年様へ それで良いわけだ。 その線で、主張すれば、名称の差し押さえとかになろうか。 以前、真宗の側から反対があったとか、名称には、苦労されている様だ。 中身は、安心を与え、代わりにお布施を戴く団体と言えよう。 それが、どうも、平均月収をご存知ない様に思える。 何処から、1000万円とかの金額が出るのか。 九州本部が立つまで、若き責任者は、苦労されていた。 兄さんが、それ以上献金すると、結婚できないと言う額を出されていた様だ。 立つまで、希望の額に到達せず、設計を変更するかで苦慮されていた。
290 :
kotarou :2000/09/01(金) 15:37
続き 毎日通うので、運勢を見てあげましょうと言われ、 見てもらうと、「50万、100万のはした金で、運勢を 変えられると思っていないでしょうね。」と言われた。 「誰が、そんな事を言ったね。」と友人が、驚いていたので、 「うん、寝泊りしている、若い人だったよ。」と言うと、 驚いて、「管長が一番信頼して、ここを任せている、 ここで一番偉い人やが。」と言っていた。
291 :
名無しさん :2000/09/01(金) 16:26
↑それって、なにか議論した挙句でしょう? あるいは、その人自身のこととかでは。
292 :
ハエたたき :2000/09/01(金) 16:51
>>264 追加
「たとえば或る種の修行者・バラモン方は、・・・次のような卑しい術、邪悪な生活手段に
よ って生活を営んでいます。
すなわち、四肢の特徴により、前兆により、自然現象の異変により、夢見により、身体
の特徴により、鼠に噛まれた衣服によるなどの諸種の運命判断、・・・ 身体を見て呪文を唱
えて行う運命判断、・・・鳥や烏の鳴き声による運命判断、これから人の生きられる寿命の
予知、動物の鳴き声による運命判断・・・
しかしこのような卑しい術を行わないのが、また修行僧の戒めの1つです。」
293 :
Kotarou :2000/09/01(金) 17:00
291 名前:名無しさん さん様へ 私の、運命の相談で、大きな木の枝葉を画かれ、 根の絵を画かれ、今の現象がこの枝葉で、根は、 これくらい大きい。
294 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 17:29
>283kotarouさん >それを、阿含宗がしているだけでは。 Kotarouさんの >269「阿含宗が、バラモン教と名を変えれば」 というのが答です。 誰かが書いていたように、桐山密教でやめておけばよかったのです。 釈迦仏教を名乗り、阿含経を護持しているなどと言うから、 矛盾が出てくるのです。 阿含宗は釈尊在世当時のバラモン教とそっくりです。 釈尊はバラモン教を否定し、対抗して出てきた宗教家です。 阿含宗のように釈迦仏教を看板にしながら、中身はバラモン教 などというのを羊頭狗肉というのです。
295 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 17:33
>287さん >ただ、やめてほしいのは「阿含宗」という名称と >われわれが釈迦の本当の仏教をつたえているんだとか >もろもろの妄想をやめてもらいたい。 そのとおりですが、287さんは信者さんですか。 信者の288さんも同意してしまっていますが、 桐山さんに逆らうことになります。 「もろもろの妄想」は桐山さんが言っている阿含宗の重要な柱です。 桐山さんは釈迦仏教の看板をいまさら下ろせないでしょう。
296 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 17:35
>286さん >在家仏教と言えば、日蓮宗と浄土真宗しかないと >思うのだけど、それでさえ、僧侶がいるよ? 自分の教祖の書いた本くらい読んだらどうですか。 大乗仏教は日本で発生したのではありません。 インドで大乗仏教がどのように始まったのか、 桐山さんの書いていることは正確ではないが、一つの説です。
297 :
名無しさん :2000/09/01(金) 18:49
>296 僧侶が、妻子を娶り世襲を始めたのは鎌倉仏教がはじめて? どの宗派だって(真宗以外は)戒壇があり僧侶は戒をうける のでしょう? テラバーダ以外は戒律不要というのはなんとも言いようが無いね。
298 :
みかりん :2000/09/01(金) 20:13
>kotarouさんへ 何度かレスしてくださっているようですが・・・・ごめんなさい。 私あなたがこちらに対して何を訴えたいのか、よくわからないんです。
299 :
ヌマエビ :2000/09/01(金) 20:55
「刑獄の因縁」 27.暴露された前科 桐山氏の後の言い訳と違い、前科は長い間、信者には知られていませんでした。 前科を最初に暴露したのは、1975年、桐山氏が師事した北野恵宝氏の一派です。 桐山氏が、自分には刑獄の因縁があった、と言い出すのはこの後です。 1975年に北野氏側が前科を暴露したのは、信者の多くが知らなかったからです。 信者たちが皆知っていたなら、北野氏一派にとって意味のない宣伝でした。 信者たちにとって初耳だったからこそ、攻撃として効果があったのです。 阿含宗立宗が1978年ですから、わずか数年前まで、実に15年間、桐山氏は自分 の前科を信者たちに隠していたのです。 1976年、毎日新聞の「宗教を現代に問う」の中で、続いて1978年、「宝石」で 前科をマスコミが取り上げ、世間に知られることになります。 すると、昔から信者に語っていたかのように、自分の刑獄の因縁の話を始めます。 阿含宗の前身の観音慈恵会では因縁切りは大黒柱でした。 因縁切りを説くなら、自分の因縁を公開し、どれだけ切れているかを示すべきで す。 刑獄の因縁こそが宗教を求めたきっかけであり、今日、信者を指導するための「座 右宝鑑」に取り上げる程なのだから、最初から示すべきでした。 しかし、暴露されるまで、桐山氏はガンの因縁と強い中途挫折の因縁だけで、刑 獄の因縁があることを述べたことはありませんでした。 1973年の「密教占星術T」には因縁が紹介され、刑獄の因縁の説明もあります。 しかし、桐山氏の刑獄の因縁については一言も触れられていません。 刑獄の因縁だけは、公開したのは他人に暴露されてからです。 凡人なら前科を隠すのは当然としても、宗教家として刑獄の因縁や因縁解脱を説 きながら、自分に都合の悪い刑獄の因縁はひた隠しにしていたのです。
300 :
名無しさん :2000/09/01(金) 21:00
>299 よこはまさん、ごくろうさまです。やふーでもがんばってね。
301 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/01(金) 21:05
>299 GOOD JOB!
302 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 23:13
えっ、ヌマエビ=よこはま?
303 :
名無しさん :2000/09/01(金) 23:16
よーちオバサンは だれでもよこはま
304 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 23:31
ヌマエビ=kiritanpon_2000
305 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 23:39
306 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 23:40
>299補足 でも、阿含宗の教勢が伸びたのはそれ以後、 1978の立宗ごろからです、前科者だとかどうとか いうことは布教にあまり関係しませんでした。 それから、刑獄の因縁が宗教をもとめたきっかけでは ありません、きっかけは若くして当時不治の病とされた 結核を病んだことです。 「宗教を現代に問う」は、なにも阿含宗(観音慈恵会) だけをとりあげたものではなく批判書ではありません さまざまな宗教を取材したルポをまとめたもので 個人的な前科ということは取り上げられてはいなかった はずです。
307 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 23:48
ミックス仏教だが、阿含経を中心としているから 阿含宗なのだ、 すべての宗派は阿含経を取り入れるべきである と言うのが阿含宗の主張であり、取り入れよう ともしない、真宗の坊さんにいちゃもんつけられんのは 違うんじゃないかと思うけどな。
308 :
名無しさん@1周年 :2000/09/01(金) 23:52
309 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 00:01
>307 >ミックス仏教だが、阿含経を中心としているから >阿含宗なのだ、 阿含宗のどこが阿含経を中心としているのでしょうかねえ。 勤行次第を見ても、阿含経の書いてあるところは極く一部にすぎません。 おまけに阿含経の解説だってされてはいません。 桐山氏が「阿含経の極く一部」を会員に都合良く解釈してみせているだけ。 これで 阿含経を中心としているなどとは笑止千万。 釈迦に対して少しでも敬意を払う気持ちがあるなら、 阿含宗などという教団名は即刻やめるべし!
310 :
名無しさん :2000/09/02(土) 00:25
オイオイ、普通勤行次第に解説まで載せるかい?(笑)
311 :
名無しさん :2000/09/02(土) 09:31
勤行式には二つの阿含経典(精要)が載せられています。 1)出家修行者のために七科三十七道品法を説いたものです。 2)在家修行者のために三福道がとかれてます。 在家のままで三福道を修することにより、下の五の分結を断ち、 アナゴンを得て、涅槃界(涅槃ではありません)に至ることが 可能であるとされています。シュダオン、シダゴン、アナゴン を得れば、再び後戻りして、三悪趣に戻ることは無いのです。 短いですが、非常に重要なありがたい経典です。詳しくは 「末世成仏本尊経講義」で説明されています。すべての経典の 中で、最重要の経典でしょう。
312 :
名無しさん :2000/09/02(土) 09:42
昨日、仏弟子の告白(テーラ・ガータ)岩波文庫 (ちくま書房の原始仏典では、長老の詩)を読んでいましたところ 「火の祭祀」を肯定する文献がありました。 341 (以前には)私は種々の祭祀を行っていた。私は火の献供をも実行 していた。 ― 「これは清浄なことである」と考えながら。私は 盲目の凡夫であった。 342略 343 わたしの誤った見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。 わたしは、いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう。われは、 修行完成者に敬礼する。 344 わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執を打ち破り、 生まれを繰り返す迷いの生存は滅びてしまった。今や迷いの生存を 再び繰り返すことはない。
313 :
名無しさん :2000/09/02(土) 09:45
献供は犠牲をささげる供養です。 これは清浄なことではなかった。略しましたが342に載っています。 そして、 >「わたしは、いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう」。 これは、迷妄をすべて捨て去り涅槃を得た、アルハトの言葉です。
314 :
名無しさん :2000/09/02(土) 09:48
>312 ナディー・カッサパ長老
315 :
名無しさん :2000/09/02(土) 09:53
桐山管長猊下も、同じように、地獄界から天界、仏界へと かけあがられたのですね。盲目の凡夫であったころもあら れたのでしょうか。今や聖者ですが。
316 :
名無しさん :2000/09/02(土) 10:22
すべての経典から、阿含経典に。さらに阿含経典から、この二つの 経典に絞り込んだことが偉大な業績なのです。本質を見ぬく力です ね。 わかってしまった後であれこれ言うのは、素人でも出来ますよ。
317 :
名無しさん :2000/09/02(土) 10:30
どなたかが、この二つの経典にズームしましたか?阿含宗の中心はこの 阿含経の二つの「奇蹟の経典」なのです。この経典を実行するためには 「如来の復活」が必要であり、如来の現形を信じられない人があれば 「真正仏舎利」が必要なのです。 ですから、阿含宗は「阿含宗」という名称でなければならないし その総本山は当然「釈迦山大菩提寺」なのです。
318 :
Kotarou :2000/09/02(土) 12:40
昨日、巨人のマジックが点灯した。 これで、長島、清原の信じる、 密教が、マスコミにもてはやされるでしょう。 ハエタタキさんは、欲望を叶えるので無く、 無欲の人間を作ろうとしている。 大衆は、面白可笑しく生きれれば良いの。 317 名前:名無しさん さんも 難しい理屈を持ち出されていますが、 大衆の願いを叶える密教でいけないのでしょうか。
319 :
名無しさん :2000/09/02(土) 13:09
>318 在家のものは五欲を満たし、願いをかなえて、しかもアナゴンに 到達できるのです。詳しくは「末世成仏本尊経講義」。 阿含宗では、願いを野放しにするのではなく、整理し、浄化する 事を教えています。座右宝鑑です。座右宝鑑も勤行式も、こんな 素晴らしいことを書いているのに、ちゃんと読まない人には猫に 小判なのですね。(kotarou さんのことではありませんよ。)
320 :
名無しさん :2000/09/02(土) 13:17
阿含宗の教えは、願いと望みにどうしてそんなにこだわるのか。 それは、願いと望みを分析し集大成すれば、その人自身がわか るからですよ。わかるというよりも願望の集大成は、その人の 「写像」でしょう。その人の存在とは、ある意味で、その人の 「欲望、タンハー」なのですね。 出家の方達は、この世もあの世も捨てて涅槃を得たいという願望 を持っているのです。 在家のものは、いまの目前の願望がかなえら得ること。そして願 望が浄化され、高まることを望んでいるはずです。欲望だらけの 在家のものに(欲望が強いから在家しているわけです)、取り澄 ました覚りを求めよと言ったって、不可能なのですよ。
321 :
釈尊は護摩を禁じた :2000/09/02(土) 13:19
バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。 それは単に外側に関することであるからである。 外的なことによって清浄が得られると考える人は、 実はそれによって浄らかさを得ることができない、 と真理に熟達した人々は語る。 バラモンよ。わたしは〔外的に〕木片を焼くことをやめて、 内面的にのみ光輝を燃焼させる。 永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、 敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。 バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。 怒りは煙であり、虞言は灰である。 舌は木杓であり、心臓は〔供犠のための〕光炎の場所である。 サンユッタ・ニカーヤ 「ブッダ悪魔との対話」中村元、岩波書店、p.147
322 :
名無しさん :2000/09/02(土) 13:21
今日は時間がないのでパソコン切ります。 もうこのスレッドもお終いかな。そうだといいんだけど。 私達「うるさい系」が引っ込んで「しみじみ系、あったか系」 になると良いんだけどね。 kotarou さん、屋敷浄霊の模様をまた聞かせてくださいね。
323 :
釈尊は護摩を禁じた :2000/09/02(土) 13:21
107.百年のあいだ、林の中で祭祀の火につかえる人がいて、 またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、 その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。 108.功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神にまつり犠牲をささげ、 あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、 (真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。 行いの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。 391.正しく覚った人(=ブッダ)は説かれた教えを、 はっきりといかなる人から学び得たであろうとも、 その人を恭しく敬礼せよ、―――バラモンが祭りの火を恭しく尊ぶように。 ダンマパダ 「ブッダの真理のことば、感興のことば」中村元、岩波書店
324 :
名無しさん :2000/09/02(土) 13:25
>321 >供犠のための 「くぎ」って書いてるよ。それと「疑惑」を乗り越えれば 「くぎ」以外の祭祀は行っても良いのよ。 「ぎ」って犠牲の「ぎ」でしょう。よこはまさん、おとな しいと思ったら勉強していたのね。私は仕事。さよ〜なら。
325 :
>318、 Kotarou :2000/09/02(土) 13:26
>ハエタタキさんは、欲望を叶えるので無く、 無欲の人間を作ろうとしている。 いーえ、あのかたは一円でも多く金が欲しいそうですよ。 堂々とこの掲示板で言ってました(笑)
326 :
釈尊は護摩を禁じた :2000/09/02(土) 13:26
例えばある種の修行者・バラモンがたは、 信者から与えられた施しの食物を食べて〔生活しながら〕 次のような卑しい術、邪悪な生活手段によって生活を営んでいます。 すなわち、四肢の特徴により、前兆により、自然現象の異変により、 夢見により、身体の特徴により、鼠に噛まれた衣服によるなどの諸種の 運命判断、また火を焚く護摩の術、〔用法の異なる種々の〕杓子を 用いる護摩の術、もみがら・ぬか・脱穀した穀物・凝乳・油を 備える護摩の術、種子などを口から火の中に吐き出して行なう護摩の術、 〔右膝からとった〕血をささげる護摩の術、また〔指の関節などの〕 身体をみて呪文を唱えて行なう運命判断、家を建てる土地の相の判断、 畑の相の判断、山犬の鳴き声による占いの術、悪霊祓いの呪術、 地の中の宝や金鉱をみつけるために占う術、蛇に噛まれた傷をなおす 呪文、毒物に対する呪文、蠍に噛まれたときの呪文、鼠に噛まれた ときの呪文、鳥や烏の鳴き声による運命判断、これから人の生きら れる寿命の予知、矢から身をまもる呪文、動物の鳴き声による 運命判断〔などを生活手段としている〕。しかしこのような卑しい術を 行なわないのが、また修行僧の戒めの一つです。 (DN@`vol.1@`pp67-70) 「ヒンドゥー教と叙事詩」中村元、春秋社、p.110
327 :
名無しさん :2000/09/02(土) 13:29
>321 この経典良かったわ。実は中国、ハルビンでのお護摩だけど、 当局の横槍?で火が使えなかった。管長猊下が、内護摩、 心で焚く護摩ですよとおっしゃった。弟子でありながら、苦し い良いわけのように観じていたのよ。一年三千の護摩なんて。 >バラモンよ。わたしは〔外的に〕木片を焼くことをやめて、 >内面的にのみ光輝を燃焼させる。 >永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、 >敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。 これで納得したわ。猊下のおっしゃってたことって 本当だったんだ。
328 :
名無しさん :2000/09/02(土) 13:33
>321,323 当たり前じゃん。内面が大事よ。内面的に「ブッダに対する 疑惑を乗り越えて」「ブッダやその弟子を尊び、恭しく敬礼」 するほうが大事。 まず、三宝に帰依する。すべてはそこから。それなくして外 面的に何をしてもだめ。あたりまえ。
329 :
名無しさん :2000/09/02(土) 13:35
>327 言い訳、感じてた、一念三千 と訂正します。急いでるものですみません。
330 :
名無しさん :2000/09/02(土) 13:43
>326 中村先生の文は良く分析しないとね。宗教指導者では ないのだから。 また、阿含宗の僧侶は、このうちのどれかを生活手段に したり、それで生活を営って言うことはないよね。 ブッダは偈を唱えて、供養を受けることも禁止しているよ。 説法や経典の勤行でお布施を受けてもいけないんだよ。本当は。 托鉢だけなの。このあたりをどうするかは、出家の間の問題 でしょう。出家のあり方は出家が決める。在家は尊敬するか、 軽蔑するかすれば良いのよ。
331 :
Kotarou :2000/09/02(土) 13:45
298 名前:みかりん様へ 貴方は、阿含宗の全てを否定されているのですか。 それとも、金が掛かるのでいやなのですか。 それとも、先祖供養以外は、無駄なのですか。 良く判りません。
332 :
名無しさん :2000/09/02(土) 13:48
阿含宗の僧侶は日本中で一番、清らかな生活をしている。 やくざものに善良な市民が、生活習慣を注意されているような 気持ちだね。 「お前そんな生活して良いのか?」 「あなた達のような、めちゃくちゃな生活している人に 言われたくないわ。」 「おれ達は、やくざだから、そんなのは良いんだよ!」 在家仏教だから、僧侶は何をしても良いと言うのと似てますね。 あんた達に結われたくない。とり急ぎ、誤字脱字ご容赦。さよーなら。
333 :
ハエたたき :2000/09/02(土) 14:46
お釈迦さんは8つのすぐれた人の身の処し方を説いています。 1、生命を傷つけぬこと 2、真実のことば 3、与えられたもののみ取ること 4、かげ口をいわぬこと 5、貪らぬこと 6、暴言をしないこと 7、怒らないこと 8、高ぶらないこと 暴言をはかずに、怒らぬようにしましょうね。ようちえんさん。
334 :
ハエたたき :2000/09/02(土) 14:59
『婦女の求めるところは男性であり、 心を向けるところは装飾品・化粧品であり、 よりどころは子どもであり、 執着するところは夫を独占することであり、 究極の目標は支配権である』
335 :
ハエたたき :2000/09/02(土) 17:13
『恥を知らず、厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、不正なるものは、生活し易い。』
336 :
ハエたたき :2000/09/02(土) 17:18
>332 『もしも、愚者が愚であると知れば、賢者である。 愚者にしてしかも自ら賢者と思うものこそ、愚者と名づくべきである。』
337 :
名無しさん :2000/09/02(土) 17:31
>333 よく、やくざものって説教したり、同情したりするらしいよ。 「おまえ、こんなことしてたらだめだ」とか、「おまえ、むすめが かわいそうだよ」とか。
338 :
名無しさん :2000/09/02(土) 17:39
>333〜336 自分で自分のことを言っている。婦女子の項は唐突だね。 前後があるだろうに。前後のほうが大事でしょう?きっと? ところで、ハエさん、ここに何をしに来ているの。 仏教に興味があるとは思えないけど。信仰心はないでしょう?
339 :
名無しさん :2000/09/02(土) 17:41
>335 だって、前後があるだろうに。仏教が誤って伝わるよ。 支離滅裂な引用しないでね。引用するにしても、意味を 考えて体系立てないと。
340 :
名無しさん :2000/09/02(土) 17:45
ところでハエさん、ここに何しに来ているの? 仏陀は信仰してないでしょう? お金や、女性には興味あるみたいね。それと既成仏教の 利権にも興味があるみたい。 「私は仏教徒です。真の法を求めています」て言えないでしょう。
341 :
ハエたたき :2000/09/02(土) 18:12
>>333 -336
お釈迦さんがもしこのスレッドにいたら、ようちえんさんにこう言われるだろうなぁ、
というお釈迦さんのことばを並べてみました。
>支離滅裂な引用しないでね。
>引用するにしても、意味を考えて体系立てないと。
阿含宗は阿含経を主とした教団だと主張されているので、経典のことばを示せばご理解いただけると考えました。
342 :
ハエたたき :2000/09/02(土) 18:19
>ところでハエさん、ここに何しに来ているの? 『集会に赴くも、群集のうちに在るも、何人も他人に向かって偽りを言ってはならぬ。 また他人をして偽りを言わせてもならぬ。 また他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。 すべて虚妄を語ることを避けよ。』 お釈迦さんの教えに従って、詐欺師・桐山の偽りを指摘し、詐欺師・桐山の偽りをカキコするようちえんさんら阿含信者の偽りを指摘しています。
343 :
ハエたたき さんへ :2000/09/02(土) 19:38
他のひとの もろもろの あやまちを 見ることなかれ 他のひとの 為せると 為さざるを 見ることなかれ ただ みずからの 為したるを はた 為さざりしを のみ 見よ 第一に 自己をこそ ふさわしく 調え しかるのち 他に 教うべし かくあらば 賢きひとは 煩い なからむ 他に 教うるがごと そのままに みずからに 為すべし みずからを 制御してこそ 他を 制御せむ まこと 自己は 制御し 難ければなり
344 :
ハエたたき :2000/09/02(土) 19:58
>343 私は阿含宗批判を目的にこのスレッドに参加しているのではありません。 私は自分の勉強のつもりでこのスレッドに参加しています。 このスレッドの参加することにより、私にとっては非日常的な目新しい考え方、発想に触れることができるし、 また、これまであまりすることがなかった分野の勉強もさせて貰っています。 そんな意味で、このスレッドには感謝しています。 ここは私の勉強の場です。
345 :
名無しさん :2000/09/02(土) 20:51
>342 それじゃあ、まず、ご自分が「もぐらたたき」という名の阿含宗 元信徒と偽って書き込みしたことを懺悔する。 続いてご自分が真宗の僧侶であることを名乗り、どのような僧侶 なのかを明らかにする。仏教徒なのか仏教徒でないのか。仏陀を 信じているのか信じていないのか。自宗の教義は信じているのか、 信じていないのか。もし信じていなくて、職業的に僧侶をしている のなら、それに対する考察と反省。 もし自宗を信じているのなら、自宗と阿含宗の比較。さらにはお互い 仏教徒としてどうあるべきか。 そのあたりが、すべて抜け落ちて、自分の存在は高みに上げ、 おまえの宗派はこうだああだとあげつらうのは、僧侶として、人間と して正しい態度なのかどうか。 そのあたりを深く反省考察していただきたい。もし、そのような真摯 な態度であれば、こちらだって決してきつい言葉を投げかけはしない。 そちらが不真面目な態度だから、そのような言葉が返ってくるのです。
346 :
名無しさん :2000/09/02(土) 21:00
もしあなたが真宗の教義を信じているのなら、阿含宗とは 当初は全く相容れない教えとなる。互いに近づくことはで きるが、最初には、その違いからくる、激しい議論となる だろう。それが全くない。それでも本当に真宗の僧侶と 言えるのか?もし、真宗の信徒ではなく、職業的に信仰を 偽っているのであれば、そこからスターとせねば成らないだ ろう。阿含宗の教えをあげつらっている場合ではない。 自分はどうするのだ。信じてもない宗教の僧侶という立場 なのだ。 それでは、ただ単に他宗をからかっている、あるいは、自分の 今後の寺院運営のための「論法」を学んでいると見なされても 仕方がないであろう。あなたは、本当に仏陀の教えを求めてい るのか???? もし真摯な人であれば、真光と、阿含を同じようにつつくことは できないはずだ。阿含の人は真光のスレッドには入らない、真光 の人も阿含には興味を示さない。それほどかけ離れた教えであり 境涯なのだ。両者に入り、両者をつつくということは、法力の存在 を主張する教団に対する、口先だけの対応のやり方を ここで学んでいるとしか言えないだろう。
347 :
ハエたたき :2000/09/02(土) 21:02
>345 >それじゃあ、まず、ご自分が「もぐらたたき」という名の阿含宗 >元信徒と偽って書き込みしたことを懺悔する。 これこそあなた達の単なる空想によるでっち上げの偽りです。 わたしは「もぐらたたき」ではありません。 私が、「ハエたたき」というHNにしたのは、 このスレッドを覗いた時に、「もぐらたたき」さんが活躍していて、 そのHNが面白かったので、それをパクって「ハエたたき」を名乗ったのです 私の職業や宗教的立場と、阿含宗が仏陀の教えを語るものとしてふさわしいか どうか、阿含宗の教えが真実であるかどうかということは無関係です。 関係のないものをあたかも関係があることのように並立させて議論しようとす る、その事がすでにあなた達のごまかしであり、いかがわしさを証明している と思う。
348 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 21:10
>312さん テーラガーター341で、自分がやっていた火の献供を 否定しているのが読めないのですか。 その人がどうしてまた再び火を拝むはずがありますか。 テーラガーターの340〜344を述べたのはナディ・カッサパ長老です。 桐山さんも取り上げたカッサパ三兄弟の一人です。 三人は釈尊に帰依するとき、火を焚く道具をすべて川に流したのです。 ここでの「布施に値する火の祭り」とは、321の サンユッタ・ニカーヤにあるように、 釈尊の教えを、自分がかつてやっていてなじみのある火の祭りに たとえて、誉めているにすぎません。 釈尊の出家の修行者が護摩を焚いたなど、 桐山さんすら言っていない作り話をするのはいい加減にしなさい。
349 :
ハエたたき :2000/09/02(土) 21:11
>346 真光は世界救世教系、世界救世教系は大本系。 その元祖的存在の大本の教祖・出口王仁三郎は、釈迦の予言した弥勒菩薩は自 分であると宣言して、あたかも神道系であるかのように勘違いさせていますが、 教義自体は、仏教のパクリです。 ですから、真光さんも因果応報や輪廻転生などという仏教用語をもっともらし く使って、教義として主張しています。 いうなれば、あなた達のライバルですよ。
350 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 21:14
>316 さん >すべての経典から、阿含経典に。さらに阿含経典から、この二つの >経典に絞り込んだことが偉大な業績なのです。本質を見ぬく力です 皆さんにその偉大な業績を紹介してください。 桐山さんがいかに自分のご都合で阿含経を利用したかを 示すとても良い例です。
351 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 21:16
>327 さん >この経典良かったわ。実は中国、ハルビンでのお護摩だけど、 >当局の横槍?で火が使えなかった。管長猊下が、内護摩、 >心で焚く護摩ですよとおっしゃった。弟子でありながら、苦し >い良いわけのように観じていたのよ。一年三千の護摩なんて。 よーちえんさんが聞いても、苦しい言い訳に聞こえましたか。 よーちえんさんも正常な感覚があるのを聞いて安心しました。 あれはまさに苦しいただの言い訳です。 「護摩が焚けなかった」ことを「理の護摩を焚いた」などと言い換える。 桐山さんお得意の言葉のごまかし、護摩のごまかしです。 ハルピンなど古い話ではなく、二年前の台湾でも、今度は山積みの 護摩壇を前に理の護摩を焚いたではありませんか。 真言宗を観念宗だなどとよく悪口が言えたものだ。 よーちえんさんが納得されたのでしたら、 前に信者さんにしたが返事がなかった件をもう一度質問します。 内護摩、いわゆる理護摩を焚くというのなら、 どうしてわざわざ外護摩、事護摩を焚くのですか。 釈尊の指示どおり「〔外的に〕木片を焼くことをやめて」 「内面的にのみ光輝を燃焼させる」理護摩にすればいいのに、 どうして禁止されたことを今でもしているのですか。
352 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 21:18
>330 さん >中村先生の文は良く分析しないとね。宗教指導者では >ないのだから。 逆でしょう。 宗派に属さない大学者の訳だからこそ信用がおけるのです。 よーちえんさんが取り上げたスッタニパータなどすべて中村博士の訳です。 都合のいいときは、中村博士の訳を使い、 都合が悪くなると、「良く分析」ですか。 中村博士以上の分析をよーちえんさんができるとは恐れ入りました。
353 :
ハエたたき :2000/09/02(土) 21:22
>345、346 私が一般の人よりも少しでも宗教的、仏教的知識があり、それゆえに、阿含宗やその他の宗教の、あたかも真実であるようだが虚偽であることに気付いたら、 見て見ぬふりをして、他人が騙されているのを見逃すほうが罪でしょう。
354 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 23:18
バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。 それは単に外側に関することであるからである。 外的なことによって清浄が得られると考える人は、 実はそれによって浄らかさを得ることができない、 と真理に熟達した人々は語る。 バラモンよ。わたしは〔外的に〕木片を焼くことをやめて、 内面的にのみ光輝を燃焼させる。 永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、 敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。 バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。 怒りは煙であり、虞言は灰である。 舌は木杓であり、心臓は〔供犠のための〕光炎の場所である。 サンユッタ・ニカーヤ 「ブッダ悪魔との対話」中村元、岩波書店、p.147 阿含宗の信者よ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。 それは単に外側に関することであるからである。 外的なことによって清浄が得られると考える桐山靖雄は、 実はそれによって浄らかさを得ることができない、 と真理に熟達した人々は語る。 阿含宗の信者よ。釈尊は〔外的に〕木片を焼くことをやめて、 内面的にのみ光輝を燃焼させる。 永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、 敬わるべき人として、釈尊は清浄行を実践する。 桐山靖雄よ。そなたの慢心は重荷である。 怒りは煙であり、虞言は灰である。 舌は木杓であり、心臓は〔供犠のための〕光炎の場所である。
355 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 23:34
この世で迷妄に覆われ、僅かの物を貪って、事実でないことを語る人、 −−かれを賎しい人であると知れ この世で刑獄の因縁に覆われ、一体10万円の供養料を貪って、真実でないことを語る人、 −−桐山を賎しい人であると知れ
356 :
名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 00:39
>355 なんで事実でないといいきれるの? 解脱供養は事実だよ、(少なくとも私にとって)。 だから、あなたの言葉はうけとりません かえします。 ーー桐山を敬うべき人であると知れ
357 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:18
>342 議論をしているa.b.c.d... が、一方的に自分の論を正しい、相手を まちがいだということはできません。それは、やくざと、にせ坊主の 論理です。
358 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:21
>341 仏陀が誰にでもやさしい言葉を書けていると思ったら大間違いです。 例外が一つあります。それはあなたのような「にせ坊主」に対してです。 自分も地獄に落ちるし、周りも引きこむからです。
359 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:26
>347 懺悔もない、反省もない。自分の宗教的立場を明かそうとしない。 信仰心などどこにもない。いかに他宗をつぶすかの研究のみ。 真宗にせ坊主の集まりで自慢したいんでしょう。「阿含なんて こう言えばちょろいもんだよ」て。 しかし、民衆の心はそれでは動かないよ。
360 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:28
>351 伊勢の修法地でユンボを焼いた人もいるくらいだから、 中国では大変だったと思うよ。しかし、経典の通り、 法はかなったわけだね。
361 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:30
>348 そこまで、まげて解釈する必要もないでしょう。 >「布施に値する火の祭り」と書いてあるのだから。
362 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:32
>352 「文証」としての意味はないでしょう?経典ではないのだから。
363 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:34
>353 十二の因縁も、十結煩悩も知らないような人が、よくそんなことを!?
364 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:36
>353 ハエたたきさん、あなた、いまだに十二の因縁の意味がわかってない でしょう? あなたが、阿含宗の2000〜3000のコメントで、学ぼうとして いるのは浅い「阿含の叩き方」だけなんですよ。 ハンドル見ればわかるでしょう。ハエタタとか、もぐらたたきとか。
365 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:38
>353 もうすこし「仏教と自分の人生」というテーマで考えてみなさいよ。 あなたが求めているのは、世過ぎのための「仏教風の言葉」だけで しょう。仏陀はそう言う人間を許してないのですよ。
366 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:42
>353 あることが虚偽であるというなら、真実を示さないとだめですよ。 「個人は死んだら溶けて、自動的に仏国土に行く」という、真宗の 教えとも異なる、幼稚な俗論が真実なの?自民党県連のおっさんの ようなこといわないでよ。
367 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:44
ああ、こんな馬鹿なことに30分も費やしてしまった。 10時までに神戸の湊川公園というところに行かないとだめなのよ。 7時半には出発しないとね。
368 :
名無しさん :2000/09/03(日) 06:54
(1)スッタニパータ(ブッダの言葉)岩波文庫 師(仏陀)は次の詩を以って、喜びの意を表した。 火への供養は祭祀のうちでも最上のものである。サーヴィトリー(賛歌) はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上 の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。 月は、諸々の星のうちでは最上のものである。太陽は、輝くもののうちで 最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとっ て最上のものである。 (2)聖ヨハネの預言 私は水によって悔い改めの洗礼(バプテスマ)をさずける。しかし、 私の後からおいでになる方は、私よりも力のある方であり、私は その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない。 その方は聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をおさずけになる。 「マタイ伝」3−11 (3)原始仏典 筑摩書房 中村元編 p208 長老の詩(テーラ・ガータ) 智慧ゆたかな者が家に生まれることがあれば、その雄者(出家修行者) は、実に、七代の父母を浄める。わたしは「神々の中の神(ブッダ) が(このこと)を可能にした」と思う。なぜならば、あなた(ブッダ) によって、真にその名にふさわしい聖者が生まれたからである。 (4) 仏弟子の告白(テーラ・ガータ)岩波文庫 341 (以前には)私は種々の祭祀を行っていた。私は火の献供をも実行 していた。 ― 「これは清浄なことである」と考えながら。私は 盲目の凡夫であった。 342略 343 わたしの誤った見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。 わたしは、いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう。われは、 修行完成者に敬礼する。 344 わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執を打ち破り、 生まれを繰り返す迷いの生存は滅びてしまった。今や迷いの生存を 再び繰り返すことはない。
369 :
名無しさん :2000/09/03(日) 07:00
>323 >107.百年のあいだ、林の中で祭祀の火につかえる人がいて、 >またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、 >その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。 仏陀を供養することが大事。あたりまえ。仏陀を敬礼し、供養せよ。 >108.功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神にまつり犠牲をささげ、 >あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、 >(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。 >行いの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。 犠牲をささげる祭りの否定。真正なる祭りの功徳の肯定。正しい人(仏陀) を尊ぶことの重要性。ハエさん、仏陀を求めている?? 391.正しく覚った人(=ブッダ)は説かれた教えを、 はっきりといかなる人から学び得たであろうとも、 その人を恭しく敬礼せよ、―――バラモンが祭りの火を恭しく尊ぶように。 祭りの火の肯定。 「祭りの火を恭しく尊ぶ」=「その人(仏陀)を恭しく敬礼する」となっている。
370 :
名無しさん :2000/09/03(日) 07:04
正しい「火の祭り」と、「供犠や献供」を読み間違えないように。 また仏陀に対する疑惑を乗り越えず、帰依せず〜〜しても無駄である。 という経典は〜を否定しているものではない。 正しい人(仏陀)に対する疑惑を乗り越えることの重要性を解いている。
371 :
名無しさん :2000/09/03(日) 07:08
以上357から370まで○○でした。急ぎ旅の故、誤字脱字ご容赦。 369長すぎるので書きなおします。
372 :
名無しさん :2000/09/03(日) 07:11
追加ですが、原始仏典ではバラモンという言葉は、肯定的に使われて いますので間違わないように。 「真のバラモンになれ」というのが仏陀の教えです。 バラモン教の改革者なのね。改革されたバラモン教が仏教。 後戻りしたのがヒンズー教、イスラムと戦うために変貌を遂げた。
373 :
名無しさん :2000/09/03(日) 07:15
(1)スッタニパータ(ブッダの言葉)岩波文庫 師(仏陀)は次の詩を以って、喜びの意を表した。 火への供養は祭祀のうちでも最上のものである。サーヴィトリー(賛歌) はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上 の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。 月は、諸々の星のうちでは最上のものである。太陽は、輝くもののうちで 最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとっ て最上のものである。 (2)聖ヨハネの預言 私は水によって悔い改めの洗礼(バプテスマ)をさずける。しかし、 私の後からおいでになる方は、私よりも力のある方であり、私は その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない。 その方は聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をおさずけになる。 「マタイ伝」3−11 (3)原始仏典 筑摩書房 中村元編 p208 長老の詩(テーラ・ガータ) 智慧ゆたかな者が家に生まれることがあれば、その雄者(出家修行者) は、実に、七代の父母を浄める。わたしは「神々の中の神(ブッダ) が(このこと)を可能にした」と思う。なぜならば、あなた(ブッダ) によって、真にその名にふさわしい聖者が生まれたからである。 (4) 仏弟子の告白(テーラ・ガータ)岩波文庫 341(以前には)私は種々の祭祀を行っていた。私は火の献供をも実行 していた。 ― 「これは清浄なことである」と考えながら。私は 盲目の 凡夫であった。 (342略 ) 343 わたしの誤った見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。 わたしは、いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう。われは、修行 完成者に敬礼する。 344 わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執を打ち破り、 生まれを繰り返す迷いの生存は滅びてしまった。今や迷いの生存を 再び繰 り返すことはない。
374 :
名無しさん :2000/09/03(日) 07:19
>わたしは、いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう。 >われは、修行完成者に敬礼する。 仏陀を供養するのには「火の祭りが」一番いいのよ。さよ〜なら。
375 :
ハエたたき :2000/09/03(日) 10:29
お釈迦さんの根本的な教えの一つに「無常」という考え方があります。 「無常」ということを一言で言い切ってしまえば、 形あるものはかならず滅する・滅びる、生きている者はかならず死ぬ、ということです。 この世に存在するもので永遠なるものは一つもないということです。 十二因縁に示された12の生存のポイントの中でも、問題点は、最後の老死=老いて死ぬ ことです。 私たちの生活は、一瞬一瞬、歳を取り続けている=たえず老人になり続けているわけで、 一日生きれば一日だけ死に近づき、極端な言い方をすれば、一秒ずつ死に向かって生きて いるわけで、最後にはかならず死にます。 この老死に関連してあらゆる苦しみが起こるのであり、これが我々の現実です。 我々は死を恐れる、なんとかして死を避けたがるもので、こうした老と死の苦しみがどこ から起こったのか、またどうすればこの苦しみから解脱することができるかという問題を 探求したものが十二縁起の説です。 お釈迦さんの教えを受け継ぐものであると名乗るとき、老死に関連して起こる苦しみから の解脱を説くものであるかどうかが問われるべきです。 阿含宗・桐山さんの護摩が、老死の苦しみを解決するものであるかどうかが、お釈迦さん の前で問われているのです。
376 :
ハエたたき :2000/09/03(日) 10:48
>>335 ようちえんさん
『恥を知らず、厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、不正なるものは、生活し易
い。』
もう一度あなたにこのブッダのことばを贈ります。
377 :
ハエたたき :2000/09/03(日) 10:56
>376 追加 『人が生まれると口の中に斧が生じる。 それによって自己を斬るのである。 _愚者は悪言を語るのであるから』
378 :
名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 14:52
よーちおばさんは、性格異常なだけでなく、知性にも大いに問題ありね。 過去に論議され、結論が出ていることを何度でも蒸し返して、 自分に都合が悪くなると罵声を繰り返すのみだもの。 よーちおばさんのしていることは「議論」じゃないわぁ。 議論できる知性がないんだものね。 少なくとも相手が何を言っているのか理解できなくちゃね。 よーちさんのしていることは、桐山氏の受け売りと 自分勝手な思い込みを羅列するだけ。 まあ、阿含宗に因縁解脱する法があるのかないのか、 解脱供養に不浄を払う力があるのかないのか、 「よーちおばさん」を見ればいい見本だわよねー!!!!! ・おばさんは「見本になるような性格の良さ」があるでしょうか? ・ホモエクセレンス(超人)たる「知性に片鱗が窺える」でしょうか? ・「教養に満ちあふれた才気」があるでしょうか? ・解脱供養の効果が出て、すがすがしい清らかさをその言動から窺えるでしょうか? ・煩悩を滅した「忍従・忍耐強さ」があるでしょうか? 何年会員やってんだか知らないけど、「仏を語る」なら もうちょっと礼儀や清らかさを身につけられたらいかがでしょうかねえ。 阿含宗の会員代表として、この場で発言するなら、 「因縁解脱の阿含宗」を体現してみせなきゃ何の説得力もありませんよ。 単なる「お笑い虚言集団」の代表だわ〜。 少なくとも、よーちおばさんを見る限りにおいて、 阿含宗には何の法もありません。 (はあと!!!?。?。?。
379 :
名無しさん :2000/09/03(日) 16:19
>375 ハエさん、それは四苦八苦の話だよ。
380 :
名無しさん :2000/09/03(日) 16:25
>375 四諦(苦、集、滅、道)のうち、苦のところだけも混ざっている。 四諦は、苦、集、滅、道、以外の考え方もあるんでしょう? これ生じれば、、云々とか。 なんにしろ、十二支縁起の説明は全くできていないよ。
381 :
名無しさん :2000/09/03(日) 16:27
>376,377,378は コメント不要ですね。
382 :
名無しさん :2000/09/03(日) 16:35
>379 十二支縁起は、十二項目が連鎖していくのだけど「無常」で 連鎖していくわけではない。他の「四項目」で連鎖してく。 四項目って何? ヒント付だよ。順&逆に連鎖するんだよ。 「無明」が無常だから「行」が、「識」、が生じるなんて 言えないでしょう?答まで書いてしまったね。
383 :
名無しさん :2000/09/03(日) 16:37
>379 諸行無常だから苦が生じるというのは正しい。 十二の因縁には無関係。
384 :
ハエたたき :2000/09/03(日) 17:54
>>375 説明
十二因縁というのは、老死などの苦の根本原因は無明であるとし、その無明を滅すれば、
苦が滅するのであるという考え方です。
お釈迦さんは、人生の苦を克服するために出家し、最終的に無明を滅することに成功し、
そのさとりにいたるまでのお釈迦さんの内的経験を説明したものが十二縁起です。
縁起とは、縁によって起こる、という意味で、いかなるものでも他に依存して存在すると
いう事実です。
たとえば、自己という存在は、他者が存在しなければ存在し得ない。
他者という前提なしに、自己がアプリオリに存在することはない。
また、反対に、自己というものがなければ、他者も存在しない。
このように、すべてのものは相互に関係して存在している。
「これが存在すれば、あれも存在する。これが生ずれば、あれも生ずる。
これが存在しなければ、あれも存在しない。これが滅すれば、あれも滅する」
「相互に依存して存在する」という関係の他に、「相互に依存して生滅する」という関係
をも含めて縁起というのです。
この縁起の理を用いて、苦の根本原因は無明であるとつきとめ、無明を滅すれば苦が滅す
ると観察するのが十二縁起です。
十二というのは、無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死です。
385 :
ハエたたき :2000/09/03(日) 17:55
>>384 続き
私たちの日常生活において、なぜ苦悩があるのでしょうか。
老と死があるから苦があるのです。
それなら何故、老死があるのでしょうか?
生まれること(生)から老死があるのです。
なぜ生存があるのでしょうか?
執着(取)があるから生存があるのです。
なぜ執着があるのでしょうか?
渇愛(愛)があるからです。
なぜ渇愛があるのでしょうか?
感覚(受)があるからです。
なぜ感覚があるのでしょうか?
接触(触)があるからです。
なぜ接触があるのでしょうか?
6つの知覚器官(六入:眼・耳・鼻・舌・身・意)があるからです。
なぜ知覚器官があるのでしょうか?
精神と肉体(名色)があるからです。
なぜ精神と肉体があるのでしょうか?
識(私たちの認識を成り立たせるもの)があるからです。
なぜ識があるのでしょうか?
人間の行為(行)があるからです。
なぜ人間の行為があるのでしょうか?
それは私たちの意識の根底に無明(無知)があるからです。
以上のように観ずることによって、結局すべての苦の原因は無明であることが分かります。
無明とは人生の真実相に関する無知です。
逆に言えば、無明を滅すれば・・・、順を追って、苦悩も滅することになるのです。
無明←行←識←名色←六入←触←受←愛←取←有←生←老死
無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死
386 :
ハエたたき :2000/09/03(日) 18:30
>>385 続き
十二因縁は、私たちの現実世界は、生まれ、成長し、種々の愛執を得、そして老い衰え、
死に、・・・・・・さらに再生するという輪廻の苦悩の世界ですが、この苦しみから脱するには
どうしたらよいかという心の思索を通して観察されたといわれています。
まず、お釈迦さんは、無明という根本の暗闇、根本の無知にもとづいて私たち人間の出生
と人生というものがあり、ついには老い死んでいくものであると観察し、また逆に、無明
がなくなれば、出生に始まって老死で終わる人生もなくなると観察しています。
一言で言い切ってしまえば、私たちの現実の姿をありのままに見つめつくしているという
ことです。
これが縁起説の説明であり、これによって諸行無常(あらゆるものには常住性がない)、
諸法無我(万物には執着・我執すべき実体がない)という根本的立場が示されています。
387 :
名無しさん :2000/09/03(日) 19:29
>386 まあ、本の通り書いたのだろうけど、ちょっと違ってるかもしれない。 まず、因縁てなに?
388 :
名無しさん :2000/09/03(日) 19:31
十二(支)因縁、十二縁起という語彙の中の、「因縁、縁起」の 説明ね。
389 :
名無しさん :2000/09/03(日) 19:48
>386 失礼しました。丸写しとは言え書いてましたね。 >縁起とは、縁によって起こる、という意味で、いかなるものでも他に依存して存在すると >いう事実です。 >たとえば、自己という存在は、他者が存在しなければ存在し得ない。 >他者という前提なしに、自己がアプリオリに存在することはない。 >また、反対に、自己というものがなければ、他者も存在しない。 >このように、すべてのものは相互に関係して存在している。 以上のようなことはお釈迦様は教えてないような気がする。生物学 的には事実だけどね。 >「これが存在すれば、あれも存在する。これが生ずれば、あれも生ずる。 >これが存在しなければ、あれも存在しない。これが滅すれば、あれも滅する」 これが十二支縁起のキーポイントですよね。上をよく見てほしいのだけど、 仏陀以外は「無明」が有るわけでしょう。あなたには無明が有る。 ということは、無明があれば十二支すべて、連鎖的に有るんだから、 あなたには十二支すべてがあるということになりませんか?
390 :
名無しさん :2000/09/03(日) 19:52
余談だけど、他者が存在しなかったら自己は存在しないだろうが 自己が存在しなくても、他者は存在するよね。他者というのは 「宇宙のすべての生物というもの」になるけどね。仏説ではないと 思う。
391 :
名無しさん :2000/09/03(日) 19:59
もう一度整理します。 >「これが存在すれば、あれも存在する。これが生ずれば、あれも生ずる。 >これが存在しなければ、あれも存在しない。これが滅すれば、あれも滅する」 これが縁起の法則です。私風の記号で書くと A↑→B↑ A→B A↓→B↓ A^→B^ 生ずる 有り 滅する 無し (不細工な記号で申し訳ない) これが十二支縁起のキーポイントですよね。上をよく見てほしいのだけど、 仏陀以外は「無明」が有るわけでしょう。あなたには無明が有る。 ということは、無明があれば十二支すべて、連鎖的に有るんだから、 あなたには十二支すべてがあるということになりませんか? A1 → A2 → 、 、 、 → A12
392 :
名無しさん :2000/09/03(日) 20:01
また余談だけど、 宇宙に生物というものが存在しなければ私は存在し得ない。 私が存在しなくても、宇宙のすべての生物は存在し得る。 391お願いしま〜す。
393 :
名無しさん :2000/09/03(日) 20:25
ハエタタキさん、私はデイタイム、AM6〜PM9です。 今から買い物に行きます。今日は神戸行きで疲れて、 買い物してないの。10時までやっているスーパー有るから。 また明日ね。人間の存在について考察しましょうよ。
394 :
ハエたたき :2000/09/03(日) 21:00
>仏説ではないと思う。 こういう自分勝手な想像で非難しないでください。 私は、あなたが理解できようができまいが、私のことばで根拠を示して説明したのですか ら、あなたも桐山阿含宗的十二因縁を論理立てて説明してください。 >これが縁起の法則です。私風の記号で書くと >A↑→B↑ A→B A↓→B↓ A^→B^ >生ずる 有り 滅する 無し >(不細工な記号で申し訳ない) 麻原や高橋や福永なら分かるかもしれませんが、私にはこんな図を書かれても理解できま せん。 あなたも少しは自分で調べたり、桐山さんに聞くなりして勉強しなさい。
395 :
モジョ :2000/09/03(日) 21:42
1の頃一度書き込みしたんだけど、まだ続いてる…。 俺はね、現世利益批判をしながら(竜神がとぶだっけ、他宗批判の載っている)、ご利益先祖供養を売り物に広告を出していた金剛界胎蔵界の護摩木を修行と称してノルマ科せられたときに、バカらしくなってやめた。 後年、オウムが出てきたとき、阿含宗の教義抜けれない人が麻原にはまり込んで逝ったんだなとすぐに思った、特に初期からいる幹部クラスね。 阿含宗で「やられた!」と自ら気付いた人は、延長線上にあるオウムには絶対に行かない筈だよ。 それにしてもお護摩は確かTBSの番組で取り上げて反響呼んだんだよな。 あれがなきゃ、入信しなかった人いっぱいいただろう。 TBSってところは、阿含宗の権威付けに一役買うは、オウムのビデオの件もあるし、ろくな局じゃねぇな。 今冷静に考えるとTBSの担当者にかなり握らせたんじゃないかと確信しているのだが…。
396 :
名無しさん@1周年 :2000/09/03(日) 23:23
「十二支縁起」って何よコレ。 十二因縁、十二縁起っていう言葉はありますけどね。 「十二支縁起」などという用語はありませんわ〜。 いつもながら仏教用語も正しく使えないわけね、よーちおばさん。 (はあと!!
397 :
名無しさん@1周年 :2000/09/04(月) 01:27
>390 >余談だけど、他者が存在しなかったら自己は存在しないだろうが >自己が存在しなくても、他者は存在するよね。他者というのは >「宇宙のすべての生物というもの」になるけどね。仏説ではないと >思う。 あほか。 見るものが存在しなければ、どーやって見られるものが単独で存在できる? もうちょっとよく考えてごらん。 ハエたたきさんが言ってる「自己」と「他者」というのは、 言葉を換えれば「主体」と「客体」のことだよ。
398 :
名無しさん :2000/09/04(月) 09:48
ハエさん、よこはまさん、もう一度ちゃんと考えてみましょうよ。 >無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死 という十二の項目の連鎖があるのでしょう?それは、縁起の法則で連なっている。 その法則は >「これが存在すれば、あれも存在する。これが生ずれば、あれも生ずる。 >これが存在しなければ、あれも存在しない。これが滅すれば、あれも滅する」 個人の存在で、無明はあるわけですね。(ブッダ以外は無明があるのだから) 無明があれば、 「無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死 」 のすべてが存在することになりませんか。あなたの中に? (あなたの中というのは便宜的な言い方です。後で説明します。) ここまで確認してください。ちゃんと「個人の存在」から「涅槃」にまでつなげ ますのでお付き合いください。
399 :
名無しさん :2000/09/04(月) 09:52
ハエたたきさん、あなたは教科書に載っている十二の縁起の項を 丸写しした。だけど、「十二の縁起するもの」って何なのという 答えは持ってないでしょう?
400 :
名無しさん :2000/09/04(月) 09:54
あなたの中に無明はある。と言うことは あなたの中に 「無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死 」 と言う項目が連なって存在する。これって何なのよ?と思いませんか。 (あなたの中というのは便宜的な言い方です。後で説明します。)
401 :
名無しさん :2000/09/04(月) 10:00
>395 モジョさん、こんにちは。また、何か書きこみお願いしますね。 密教はというか、仏教は現世利益を否定してませんよ。 スッタニパータにも、功徳を求めて供養するという言葉が出てきます。 ブッダの異名の一つが「福田」です。供養に応じて福を授けてくれるの ですね。福には、世間福と、出世間福があります。
402 :
名無しさん :2000/09/04(月) 10:03
>397 あなたが存在しなくても、世界はなにも変わらないよ。 あなたの頭の中の鏡に映った世界が消滅するだけ。 「現実は心が作った影」なんて、何とか会のようなことは 仏教では言わないよ。
403 :
名無しさん :2000/09/04(月) 10:04
ハエさん、400番からお願いします。
404 :
名無しさん :2000/09/04(月) 11:47
405 :
元信者 :2000/09/04(月) 12:01
>401 そうですね。仏教では現世利益を否定していない。密教 には「懲服の法」(こんな字だったかな)で、相手を呪い 殺す法までありますから。 しかし、原始仏教の教えから考えると、現世利益を追い求 めるのはブッダの教えには反すると思います。もともと、 原始仏教は出家仏教だけだったし、あまりに修行が厳しい ので教団から脱走する修行者もいたらしい...。 現世利益が言われ始めたのは、在家の信者を取り込んで いく時に一種の方便(法華経とは逆の意味で)だったので はないでしょうか。 現世利益を大乗仏教を奉じる諸教団がやるのなら、それ なりに正当性があると思いますが、阿含宗が自らやるのは どうでしょうか。 >402 確かに世界は変わらない。給料は昨日と同じく、雀の 涙。だけど、同じ給料でも自分が幸せだと思える自分 になれたら、それでいいではありませんか。金を奪い 合って、ビジネスという名の仮面を被って修羅の心を 出し合う生活から足を洗い、与えられた分で満足して 暮らすことだできれば、それこそがブッダの功徳です。 もともと、仏教とはそういうものではなかったでしょ うか。法の功徳でもって収入を増やすのは、それは錬 金術ですよ。問題の解決にはならない。
406 :
405 :2000/09/04(月) 12:07
あっ、思い出した。「調伏の法」だった ^^;)。
407 :
名無しさん :2000/09/04(月) 12:38
(1)スッタニパータ(ブッダの言葉)岩波文庫 師(仏陀)は次の詩を以って、喜びの意を表した。 火への供養は祭祀のうちでも最上のものである。サーヴィトリー(賛歌) はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上 の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。 月は、諸々の星のうちでは最上のものである。太陽は、輝くもののうちで 最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとっ て最上のものである。 (2)聖ヨハネの預言 私は水によって悔い改めの洗礼(バプテスマ)をさずける。しかし、 私の後からおいでになる方は、私よりも力のある方であり、私は その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもない。 その方は聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をおさずけになる。 「マタイ伝」3−11 (3)原始仏典 筑摩書房 中村元編 p208 長老の詩(テーラ・ガータ) 智慧ゆたかな者が家に生まれることがあれば、その雄者(出家修行者) は、実に、七代の父母を浄める。わたしは「神々の中の神(ブッダ) が(このこと)を可能にした」と思う。なぜならば、あなた(ブッダ) によって、真にその名にふさわしい聖者が生まれたからである。 (4) 仏弟子の告白(テーラ・ガータ)岩波文庫 341 (以前には)私は種々の祭祀を行っていた。私は火の献供をも実行 していた。 ― 「これは清浄なことである」と考えながら。私は 盲目の凡夫であった。 343 わたしの誤った見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。 わたしは、いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう。われは、 修行完成者に敬礼する。
408 :
名無しさん :2000/09/04(月) 12:43
>405 元信者さん。上記の(1)を読んでください。 >(1)スッタニパータ(ブッダの言葉)岩波文庫 >修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとっ >て最上のものである。 とあるでしょう。人々は功徳を望んで供養を行ったのです。 根本仏教(原始仏教)が、出家のためのものである、 在家無視、在家の功徳は否定されている、と言うのは、読み 誤りです。 原始仏典のここかしこに、在家のための法、その功徳について の教えがあります。
409 :
名無しさん :2000/09/04(月) 12:48
>(1)スッタニパータ(ブッダの言葉)岩波文庫 >修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとっ >て最上のものである。 人々が、ブッダや、仏陀の弟子達に供養しますと、大きな功徳が 授けられたのですね。ですから、ブッダ、サンガは福田と呼ばれ たのですよ。これは根本仏教(原始仏教)のお話です。
410 :
名無しさん :2000/09/04(月) 12:57
>405、元信者 さん、もっと切実な希望はないですか。これをかなえない限り、死ん でも死にきれないとか。願望を一生、抑えて抑えきれますか? また、命がけに近い祈念もあるでしょう。 いまは、ハエさんの400番への返答待ちなので、ちょっと 不充分なコメントで申し訳ありませんでした。
411 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 13:19
>>400 >あなたの中に
>「無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死 」
>と言う項目が連なって存在する。
>これって何なのよ?と思いませんか。
これって何なのよ。どういう意味?
412 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 13:20
>>401 >密教はというか、仏教は現世利益を否定してませんよ。
どうして突然、密教が登場するのですか?
>スッタニパータにも、功徳を求めて供養するという言葉が出てきます。
どういうところでしょう。
>ブッダの異名の一つが「福田」です。供養に応じて福を授けてくれるの
>ですね。福には、世間福と、出世間福があります。
キチンと概念を説明してください。
「功徳」「供養」「福」について、あなたの概念・定義を示してください。
413 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 13:20
>>397 は私ではありません。
>「これが存在すれば、あれも存在する。これが生ずれば、あれも生ずる。
>これが存在しなければ、あれも存在しない。これが滅すれば、あれも滅する」
>自己という存在は、他者が存在しなければ存在し得ない。
>他者という前提なしに、自己がアプリオリに存在することはない。
>また、反対に、自己というものがなければ、他者も存在しない。
>このように、すべてのものは相互に関係して存在している。
お釈迦さんのことばを言い換えただけでしょう。
414 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 13:24
お釈迦さんが何をテーマにしたのかといえば、それは心でしょう。 人間の心のあり方を問題としているのでしょう。 とりあえず。
415 :
元信者 :2000/09/04(月) 13:30
>408 これは理解できますね。お布施に回った時、在家信者は功徳 が授けられるからというのでお布施に応じたのでしょう。 ただ、現世利益と結びつくものかどうか...。世間福は、世間 的な善行によってもたらされ(商売上、顧客に便宜をはかると その徳で商売が繁盛するなど)、梵福は梵行によってもたらさ れると思います。お布施に応じるというのは梵行の一種なので、 子孫が尊い仏教のご縁をいただくとか、そういう功徳だと思い ます。 世間福を求めて梵行を積む、というのはちょっと感覚に合わな いです。 >410 私の持っていた願望が、実は全く実体のないものだったこと がわかり、昔のように何かが欲しいと悶々と苦しむようなこ とがなくなりました。 今は、借家住まいですけど、無理してマイホーム買ったって、 内壁に加えて、外壁の所有権が増えるだけでしょう?その分、 心休まる絵でも買って、部屋の内装にお金をかければいい。 私は物資欲を否定していませんが、物質欲というのはつい メンツとか競争心とか「どうでもいいことへのこだわり」 になりやすいので、それを避けるようにしているだけです。 これを仏陀の教えと称していいのかわかりませんけど。 100g3000円のステーキが高くて買えないのなら、半分だけ 買って、2倍分味わえばよいのです。本も車も私は中古しか 買いません。こだわりをなくせば、どれもどうってことない です。自分が「みじめだ。貧乏だ。」とさえ思わなければ いいのですから。 >命がけに近い祈念 というのも、実は全くありません。「もらえるなら、ありが たくいただこう」と思う願望ばかりです。
416 :
元信者>407 :2000/09/04(月) 14:29
聖書から引用されている文章についてですが、一番イエスの 言葉の原型に近いマルコ福音書は、以下のようになっていて 「火による洗礼」が抜け落ちています。 「わたしは水でお前たちに洗礼を授けるが、そのかたは聖霊 (神の霊)で洗礼をお授けになる」(マルコ1−8) では、いつこの「火」が混じったか、ですが、使徒行伝に こういう記述があり、聖霊の形を「火」と見たからだという ことがわかります。 「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼ら が座っていた家中に響いた。そして、火のような舌が分かれて 現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満た され、聖霊がはなせるままに、いろいろな外国語で話しだした。」 (使徒行伝2−3〜4) つまり、「火」とは本当の火のことでなく、聖霊の象徴と 解釈するべきです。マタイ伝の一節をもって、桐山氏の護摩 法とするのは曲解だということがわかっていただけると思い ます。 阿含宗のみなさんも仏教徒のはしくれなんですから、明らか に誤っていることを、盲目的にアップされたり...されません よね???
417 :
名無しさん :2000/09/04(月) 16:13
>411 〜414 ハエたたきさん、一体何を書いているの。支離滅裂じゃないの。 大丈夫?
418 :
名無しさん :2000/09/04(月) 16:15
>416 文章は、「聖霊と火によって」になっていると思うのですが。
419 :
名無しさん :2000/09/04(月) 16:39
元信者さんへ。 世間福はこの世の幸せ。出世間福はあの世の幸せだと思うのです。 普通の仏教修行者は両方を求める。 非常に高度な最終の修行者は「この世とあの世をともに捨てる」。 どちらも要らないのかもしれないし、涅槃を得る力というのが 出世間福になるのかもしれない。 まあ、一般の仏道修行者は、この世とかの世の幸せを求める。 たとえ話で申し訳ないんですが。あなたが可憐な草花だとする。 本体が(花も根も本体なんだけど、一応それ以外の本体)が あなた。根が「世間福」。美しい可憐な花が「出世間福」 としてください。人は可憐な花にあこがれ、欲望を地に這わせる 「根」を醜いもののように思う。しかし、仏陀はその「根」 があなたにとって一番大事なものだと言うことを知っているのです。 あなたが欲望が押さえられたように見えるのは「ある程度充足」 しているからですよ。
420 :
名無しさん :2000/09/04(月) 16:40
供養と功徳の話は、元信者さんが付き合ってくれています。 十二因縁の話は途絶えています。どなたか400番から 付き合ってください。
421 :
名無しさん :2000/09/04(月) 16:41
ハエたたきさん。それじゃあ「こころ」ってなによ。 仏教的に教えて? (私は答えは持ってるよ。)
422 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 17:21
「母または父が老いて朽ち衰えているのを養わないで、自らは豊かに暮らす人
__これは破滅への門である」
「世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。」
「母と父とは・・・子らの供養すべきもので、また子孫を愛するものである。
だから賢者は・・・父母に敬礼し尊敬せよ。」
なぜ、父母に孝順をつくすべきはという理由は、
「母と父とは子らに対して多大のことをなし、育て、養い、この世を見せてくれたからで
ある。」
と、親から受けた恩の大きさを教えています。
「されば正しい善人は、恩を感じて恩を知り、むかしの恩を思い起こして母と父を扶養す
る。むかし恩を受けたとおりに、かれら(父母)に対して義務を果たす。・・・」
>>165 >>248 などで示した通り、お釈迦さんは、死者のための追善の儀式を(追善供養)
をはっきりと否定しています。
ここでいう供養は、父母・先祖に対する尊敬と感恩報謝の心からなされるものです。
423 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 17:25
「世の人々は、執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりにふけり、執着のこだわりをう れしがっている」 お釈迦さんが覚りをひらいたのちに、精神統一した時、一般の人々のこころに関して浮か んだ思いだといわれていることばです。 執着のこだわりを喜び、楽しんでいるのが、私たちの現実のこころだといわれています。 このこころがよく護られて、制御されて智慧にみちたところが、覚りというのでしょう。
424 :
元信者>418 :2000/09/04(月) 17:59
福音書には4種類ありまして、それぞれ成立した年代や 書いた著者が異なっています。福音書が古い順に該当する 部分を比較してみます。 マルコ: 「わたしは水でお前たちに洗礼を授けるが、そのかたは 聖霊 (神の霊)で洗礼をお授けになる」(1:8) マタイ: 「その方は、聖霊と火でお前たちに洗礼をお授けになる」 (3:11) ルカ: 「その方は、聖霊と火でお前たちに洗礼をお授けになる」 (3:16) ヨハネ: (該当する語句なし) つまり、最初に「火」の洗礼という文句はなく、20-30年後 にマタイ派がこの文句を付け加えた。それを受け継いだルカ のグループもこれを踏襲した。そして、最後にヨハネのグル ープは多分、重要だと考えずにこの文句を削除した、と推測 できます。 マタイでなぜ「火」が登場したかですが、マタイ派は弟子 達のカリスマ性を強調する目的で福音書を書いたため、 弟子の身の上に起こった聖霊降臨のできごとを重要視し、 それをヨハネの口を使って権威づけようと、書き加えた のだと考えられます。私の使っている共同訳では、「火 の洗礼」の所に注釈が付いていて、いずれも「聖霊のか たどり」のこと、と断っています。
425 :
名無しさん :2000/09/04(月) 18:16
>424 元信者さん、ありがとうございました。この件に関しては 私は聖書のことはわかりませんので、ご意見を受けたまわって おきます。だだ、二つの福音書に「聖霊と火で」という言葉 があることは確かであるようですね。 将来への「謎解き」として残しておきましょうね。私は、確信 していますが、強く主張する気もありません。
426 :
名無しさん :2000/09/04(月) 18:19
>423 それじゃあ、執着って何よ? どうせこれもわからないね。 阿含経と言うのはね、勝手に好きなところだけ抜き出して 「世間話」の種にしてしまってはだめなのよ。貶めることに なるの。ハエさんは、私の一連の質問に対しては「0点」でした。
427 :
元信者>419 :2000/09/04(月) 18:20
煩悩即菩提、ですね。 凡夫と仏は氷と水のような関係で、本質的には異なるもの ではない。煩悩がなければ、悟りもまた存在しない。 それはその通りですが、実生活を見てみると、それは単なる 空理空論という気がしてきます。 >あなたが欲望が押さえられたように見えるのは「ある >程度充足」しているからですよ。 この「ある程度充足」というのが曲者だと思うのです。 ある程度って、今の日本人のレベルでしょうか。あるい は、食うや食わずの一時の北朝鮮のレベル?一人で二人 分のカロリーを平らげるアメリカ人のレベル? 人間、気がついたら欲望の奴隷になって、食いきれない 位の食物を抱えて冷蔵庫で腐らせ、使い切れない位の 金を積み上げて、税金対策に悩む...そんな存在だと思い ます。 私が小さい頃なんて、クーラーなんてありませんでした。 あの頃は社長も大臣もみんな、団扇を使っていたものです。 あの頃から比べると、まるで王様の生活です。なのに、 世界がつまらん、と非行に走る少年達...。 貧しさを知ることが、本当に富む者になる秘訣かもしれな いです。私から見れば、皆さんは「十分充足」している。 それをしみじみ噛みしめて、過去を懐かしむ時代が刻々と 近づいている...と確信しています。でないと日本は滅びる。
428 :
名無しさん :2000/09/04(月) 18:41
阿含宗では、欲望、願望を整理せよ。 欲望を、妥当な物にせよ。 欲望をかなえながら、浄化せよ。と教えていますよね。 仏教徒として、最高の欲望は「涅槃を得たい」でしょうが、 仏陀さえそれにとらわれ「無色界への欲望にとらわれた」時期 があったとされていますね。 欲望を植物の根に喩えるのは、割と好きです。 どんなに美しい方でも、しっかり欲望の根は繁茂しているのです。 欲望は「生命維持の根源ですから」とりすまして否定と言う 訳にも行きません。
429 :
元信者 :2000/09/04(月) 19:00
何か、阿含宗批判を離れて、仏教思想の根幹について議論 が進んでいるような...(^^;) 人間の五感の感受性は、対数的だそうです(数学のログ)。 物の値段も同じような感覚になっています。 一本1000円の酒に物足りなくて、はりこんで2000円の酒を 買うと、確かにいいのですが、そのうち2000円が当たり前 になってしまう。久しぶりに1000円のを飲むと、とても 飲めた物ではない。俺は舌がどうかしていた、と感じる。 それで、もうちょっと「いい酒」を、と思うと、今度は 一気に4000円になる。それ位奮発しないと、最初のような バージョンアップを感じない。...次は8000円、その次は 16000円....。金は倍々で必要になってくる。 酒を車に代えても、家に代えても、大体は法則が成り立ち ます。金はいくらあっても、たちまちに足らなくなる。 給料を倍にするのは至難の技ですが、欲望の充足は対数で 利いてくるので、すぐに追いつかれてしまう。 こんなアホらしい倍々ゲームにつき合っておらずに、さ っさと1000円ので我慢するなり、2000円のを半分で我慢 することを学びましょう、というのが仏教の教えだと思い ます。 赤提灯の屋台で飲む一杯のコップ酒が「月に一度の贅沢」 だと言い切れる人が、本当の富者です。彼にはまだまだ 楽しみが残されている。倍々ゲームを上り詰めた大富豪は、 末期ガン患者みたいな惨めな存在です。世界一不幸な、 夢も希望もない人間です。 不満を解決するために、お護摩に願いを込めるのもいいが、 本当に自分は「足りない」のか、反省することの方が100倍 も大切なことです。これなしでは、仏教とは言えない。
430 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 19:13
元信者さんたちへ 阿含宗のいう釈迦仏教の定義ってどこまでなのでしょう? 釈迦直説といって阿含経・原始仏教でしょうか。 それとも小乗・部派仏教というところまでなのでしょうか? いくらなんでも、ようちえんさんの密教というのはあんまりだと思うのですが・・・。 その密教にしても、インドの密教かチベットなのか、・・・日本の真言や天台密教なのか・・・。 十二因縁も知らないくせに・・・みたいに、ようちえんさんから非難されたので、レスした のですが、 一般的には、お釈迦さんは十二因縁(縁起)の理を観じてさとりをひらいたといわれていま すが、厳密にいえば、十二因縁という形式は、後世の理論家によって作られたもので、お 釈迦さんの直説とはいえないものなので、ちょっと疑問に思うんですよね。 まぁ、もっともらしいものは何でも利用しているということでしょうが、応答する立場と してはどの概念まで使って説明してよいものやら少々悩みます。
431 :
名無しさん :2000/09/04(月) 19:15
>429 対数的と言うのが面白いですね。昔の言い方だと幾何級数的? 阿含宗の修行をすると、欲望はどんどん収まっていきますし、 変質していくようです。変質って浄化ですけどね。 昨日お護摩で、長年「ひどいめまい」で寝たきりのだった方 に合いました。ご夫婦でこられていました。耳鼻科の手術が失敗 して、めまいが治らない。しかし、耳鼻科では手術はうまく言って いるという、そう言う状況だったのですが。阿含宗に入られて 1年足らずで、晴れ晴れとした顔で、歩いておられました。 「めまいが治りたい」「もう一度普通に生活したい」という、切なる 願いは、否定することもないと思うのです。 阿含宗の祈願で治ったと言うのは、宗徒同士でないと理解できない でしょうが。
432 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 19:24
>426 「諸君、あらゆるものは燃えている。何によって燃えているのか? 貪欲(トンヨク)、瞋り(イカリ)、おろかさなどの煩悩の火によって燃えているのだ。 あらゆるものを空しいと感ずれば、我々は貪欲を離れることができる。 そうすれば、輪廻(リンネ)の拘束から抜け出ることができるのである」
433 :
名無しさん :2000/09/04(月) 19:35
>430 十二因縁について討論しましょう。できれば何か教えてください。 どう言う立場でも結構です。そういうことですね。それが、本の 丸写しのようなコメントだけで、ご自分として、十二因縁をどう とらえてらっしゃるかのコメントがいただけないわけです。 >十二因縁(縁起)の理を観じてさとりをひらいたといわれています。 その十二の項目=十二支は、何処のどなたなのですか? ハエさんのお話では 「お釈迦様がテーマとした十二の何か訳の わからないもの」ではないですか。 近所のおばさんに「十二個のものってなんですか?」と聞かれたと 想定してください。それでは、もう一度。(どんな立場でも良いですよ)
434 :
名無しさん :2000/09/04(月) 19:46
簡単なほうは答えを書いておきます。私の答えなので、間違いかも しれません。素人だし、教学嫌いですから。 1)こころとは; 五蘊から色を除いたもの。(色)受、想、行、識。 2)執着とは何よ? 十二因縁の「取」。
435 :
名無しさん :2000/09/04(月) 19:46
このあたりをつなげて、何とか涅槃まで行きましょう。
436 :
名無しさん :2000/09/04(月) 19:50
>厳密にいえば、十二因縁という形式は、後世の理論家によって >作られたもので、お 釈迦さんの直説とはいえないものなので、 >ちょっと疑問に思うんですよね。 何を言ってんですか、ハエたたきさん。縁起の法はお釈迦様の 教えの真髄でしょう。まとめ方とか並べ方が異なるだけで、いつの 時代でも変わりはしませんよ。
437 :
名無しさん :2000/09/04(月) 19:56
>404 仕事中なもので辞書が手元にありません。ネットで調べたら 英語辞書しか見つからなかった。 (1) 無明 ignorance; (2) 行 action-intentions; (3) 識 consciousness; (4) 名色 name and form; (5) 六處 the six-fold sphere of sense contact; (6) 觸 contact; (7) 受 sensation; (8) 愛 craving; (9) 取 grasping; (10) 有 becoming; (11) 生 birth; (12) 老死 old age and death (impermanence). In this order@` the prior situation is the condition for the arising of the next situation. Also@` in the same order@` if the prior condition is extinguished@` the next condition is extinguished. (私の訳)この順に前者が生じれば、後者が生じる。また、同じく、もし前者が 消滅すれば、後者が消滅する。
438 :
名無しさん :2000/09/04(月) 20:16
>432 そんなふうに、ただたんに引用してもだめ。仏陀の教法は体系的 なんだから。 その引用した教えは、仏陀の教法のどの当たりで、誰に対して なされたものかを考えないと。それは、七科三十七道品法の中の 高度な教えなんだよ。(たぶん)。欲にとらわれた在家のものに 対する教えではない。そのあたりのおっちゃんおばちゃんが 空を感じたところで、貪欲はどうにもならないの。 まず、仏陀の教法に対するマップを作らないと。五蘊や十二因縁 などは、基礎の基礎で、その当たりを学ばないと何にもわからないよ。
439 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 20:16
>407 >(4) >仏弟子の告白(テーラ・ガータ)岩波文庫 >341 >(以前には)私は種々の祭祀を行っていた。私は火の献供をも実行していた。 > ― 「これは清浄なことである」と考えながら。 >私は盲目の凡夫であった。 >343 >わたしの誤った見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。 >わたしは、いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう。 >われは、修行完成者に敬礼する。 マガタ国のラッティ林に滞在していた時、人々の前で、お釈迦さんは、カッサパに、なぜ 祭火を崇拝することをやめて仏弟子となったのか、と質問をしました。 ウルヴェーラ・カッサパは、祭火を崇拝することをやめて仏弟子となった事情を話して、 釈尊の足元にひれ伏して、「釈尊は自分の師であり、自分は弟子である」と宣言しました。 ウルヴェーラ・カッサパは、ナディー・カッサパの長兄で共にお釈迦さんの弟子になりま した。
440 :
名無しさん :2000/09/04(月) 20:21
>432 >あらゆるものを空しいと感ずれば、我々は貪欲を離れることができる。 >そうすれば、輪廻(リンネ)の拘束から抜け出ることができるのである これを初期大乗ふうに翻訳すれば、「空を覚って無明を断てば、 愛と取は消える。そして涅槃を得ることができる。」 ね、高度な教えでしょう。涅槃直前の修行者に対する教えだよ。 原始仏典では、十二支がまとまってではなく、このようにばらばら と出てくるのです。
441 :
名無しさん :2000/09/04(月) 20:26
>439 後半は、なんの文献ですか? しかし、この人は、物事を考え様としない。ちゃんとやさしく 仏陀の教法を教えているのに、学ぼうともしない。すべて、 一度はここスレッドに出てきたことなのに、読んでもいない。 恥を隠すために、支離滅裂な引用をはじめた。 知性と言うものがまったくない人だ。最低の坊主だね。
442 :
元信者>430 :2000/09/04(月) 20:29
法話の内容=阿含宗の教義、ということにすれば、私が居た 20年前にはあまり密教と代わり映えしませんでした。 「説法六十心」を使った法話もあって、あれは大日経だった か、密教のお経がベースになっています。 法話のたとえ話も、阿含経よりもむしろ大乗仏教に近いもの でした。その後、法話の中心が原稿に桐山氏が直筆したテキ ストを使っての阿含経講義になるのですが、その頃から、成仏 法の権威付けばかりで、内容的には浅くなったと感じました。 結論が「だから成仏法は大切だ」で最初から決まっていましたね。 昔の説法の方がずっと面白かった。
443 :
名無しさん :2000/09/04(月) 20:30
では、私はデイ・タイムなので、消えます。 今日はたくさん仕事が出来ました。わたしは、仕事しながら 書き込みしているよ。ちょっと仕事に飽きたら書きこむ。 ちょうどいいのよ。しかし、横浜さんは消えたね?!
444 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 20:39
コテハンじゃないので、ごちゃごちゃで、何がなんだか分かりませんね。
445 :
名無しさん :2000/09/04(月) 20:40
>442さん、 説法60心って、18で終わってませんか? 私は、桐山管長なくしては、まったく仏教については理解できなかった と思いますので、感謝しています。 いまテーマにしている十二因縁の理解などでも、昨夜読んだダライラマ の著作などとはずいぶん違うのですが、それでいいと思っています。 ダライラマは「生、老死」を人間の誕生と老死と考えているのですね。 輪廻のサイクルで十二因縁をとらえています。私は個人の本体としての 「十二支の縁起するもの」を考えています。 最終的には、私達のような下品(げぼん)の在家のものは、三福道 しかないわけで、まずは一生懸命、日々の勤行をすることだと思って います。 オリンピック体操競技も「まずは逆上がりから」というのが私の モットーです。「逆上がり」をやらされるとやめる人がいるんですよね。 やめた人を見ると、本当に勤行をちゃんとされたのだろうかと 思ってしまうのです。値千金ですよ。
446 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 20:43
>442 密教は高野山・真言密教ですか?
447 :
名無しさん :2000/09/04(月) 20:48
>444ハエたたきさん。 >ダライラマは「生、老死」を人間の誕生と老死と考えているのですね。 >輪廻のサイクルで十二因縁をとらえています。私は個人の本体としての >「十二支の縁起するもの」を考えています。 もしも、十二因縁から涅槃に至る道を、続けるなら、上記がヒントです。 今日のコメントは、筋道立てて書いていますので読んでみてくださいね。
448 :
名無しさん :2000/09/04(月) 20:49
>446 ああ疲れる、スレッド読んでね、何回も出たでしょう。 HP参照。話そらそうとしているの? それでは失礼。
449 :
名無しさん :2000/09/04(月) 20:51
元信者さん、明日9時以降に来ます。
450 :
ヌマエビ :2000/09/04(月) 21:26
「刑獄の因縁」 28.前科と刑獄の因縁の両方を隠した 桐山氏は前科を悔いて自殺まで図ったと述べています。 前科がわかる前は、病気や仕事を苦にして自殺を図った話になっています。 ここで注意すべきは、血の涙も自殺も、桐山氏しか知らないという点です。 刑獄の因縁を若いころから知っていたという話同様に、誰もそれを確認することが できないことですから、何とでもいえます。 刑務所に入ったときの言い訳をみてもわかるにように、あとで作った桐山氏の言い 訳は信用ができません。 自殺の原因が、病気や仕事の失敗から、いつのまにか前科になっているのは、 作家・桐山氏の作った物語であることを証明しています。 この人の物語は時間とともに変化し、増長するから、あてになりません。 桐山氏が信者に前科を隠したことだけが問題なのではありません。 前科を隠すことと刑獄の因縁を隠すことは、宗教的には別なことです。 宗教家として刑獄の因縁を説きながら、自らの刑獄の因縁を隠していたことは宗教 的重罪です。 因縁を売り物にし、後には、刑獄の因縁を三大悪因縁の一つにまで数えて、人々を 脅かし、教団の拡大に利用したのです。 血の涙とか、自殺とか、それほどの慚愧心のある宗教家が、どうしてこのような信 者に対する二重の裏切り行為ができたのでしょうか。 こうした流れをみれば、明らかに、桐山氏はバレなければ前科も刑獄の因縁も隠し 通すつもりでした。 人々をさんざん悪因縁で脅迫しておきながら、都合の悪い自分の因縁は口をぬぐう つもりでいたのです。 ここには宗教家・桐山氏の良心、宗教心がどのようなものか如実に現れています。 予知能力があるという桐山氏の予想に反して、15年目に暴露されてしまいました。 しかし、転んでもたタダでは起きないのが桐山氏です。 逆風を利用して、新しい物語を作り始めます。
451 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 21:54
>405 元信者さん >現世利益を大乗仏教を奉じる諸教団がやるのなら、それ >なりに正当性があると思いますが、阿含宗が自らやるのは >どうでしょうか。 基本的に仏教には原始・部派・大乗と例外はあってはならないでしょう。 インド仏教の末期に起った密教に関しては別に考えないといけないと思います が・・・。 お釈迦さんの教えを正しく受け伝えるものであるから、仏教思想体系にかなっ たものであるから仏教と名乗れる資格を持つので、そうでないものは仏教では ありません。 上記の発言は、大乗仏教では堕落が許されて、原始・小乗では許されないという ように読めます。 既成教団に気づかいされたのでしょうが、ここでは必要ない気づかいでだと思 います。
452 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 22:01
>447 ようちえんさんへ >今日のコメントは、筋道立てて書いていますので読んでみてくださいね。 あなたは自分の頭で考えて、自分が納得したことをカキコしているので、 あなたの頭の中では筋道が立っているのでしょうが、 私には思いつくままに書きなぐり続けたとしか思えません。 数人がカキコしているのなら理解できますが、同一人物のカキコだとは思えません。
453 :
ハエたたき :2000/09/04(月) 22:18
>445 >私は、桐山管長なくしては、まったく仏教については理解できなかったと思い >ますので、感謝しています。 >いまテーマにしている十二因縁の理解などでも、昨夜読んだダライラマ の著 >作などとはずいぶん違うのですが、それでいいと思っています。 結局、桐山さんのことば以外は耳に入らないという結論ですよね。 あなたのカキコを読ませていただいてからカキコします。 >452 の続きですが、少しまとめてカキコしていただけませんか? 機関銃のように思いつくままに、カキコされてはどれに答えてよいやら分からなくなります。 あなた自身のカキコも一貫性がなくなります。
454 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 03:07
>398 >個人の存在で、無明はあるわけですね。(ブッダ以外は無明があるのだから) >無明があれば、 >「無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死 」 >のすべてが存在することになりませんか。あなたの中に? おまえ、ほーんとにアホだなあ。>阿含宗。 「無明」というのは文字通り「明かりが無い」ということ。 「光の不在」を「闇」というのと同じで、 その言葉の真の意味で「無明」は実在しない。 あなたは自分の「影」を実在するといえるだろうか? 否。 なぜなら「影」とはその本質からからして光の不在のことだからである。 それ故に、光はある、と言うことはできるが、 無明がある、とは言えない。
455 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 03:28
397、454>402 >あなたが存在しなくても、世界はなにも変わらないよ。 あなたの頭の中の鏡に映った世界が消滅するだけ。 あのねえ、 あなたが存在しなければ、あなたにとって世界は存在しないだろう? >「現実は心が作った影」なんて、何とか会のようなことは >仏教では言わないよ。 そんなことは私だって言っていない。 あなたは私の言っている事を誤解している。 もう一度よく考えなさい。 これは仏教の根本テーマだ。 ナーガルジュナの空観も、その後の唯識論も 結局はこの「主体」と「客体」のありようを説明したものだ。 あなたの、自分の間違った考えをさも正しいかのように言う言い方は、 読んでいて恥ずかしいものがある。 もっとも阿含宗の人はみんなその傾向があるみたいだが。(ワラ
456 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 07:46
454-455 私なりの説明 無明とは一言でいってしまえば、私たちの迷いのことです。 迷いは、見いだされることのよってなくなっていくというのがお釈迦さんの教えです。 十二縁起によって、私たちの生存が迷いであると分かれば、そこで迷いの生存がなくなる ということです。 しつこいですが、無明は見いだされることによって無明でなくなる。 言い替えれば、無明が見いだされない限りは無明があるのです。 信者が桐山・阿含宗にだまされて信じ込んでいる時、だまされているかぎりだまされてい ることを知らないわけで、だまされたということがわかったときには、もうだまされては いないということです。 夢の中で苦しんでいる人がいます。 夢の中にいるかぎり苦しみは現実ですが、夢であることに気がつけば、夢の中での苦しみ は消えてしまいます。 つまり、夢であることに気がつくということは、夢がなくなるということです。 無明は見いだされることによってなくなるものです。
457 :
元信者>445 :2000/09/05(火) 08:48
「逆上がりから」はごもっともだと思いますが、 「逆上がり」=「護摩法や勤行」とは思いません。以前はその ように考えていましたけど、「逆上がり」=「日常生活に釈尊 の教えを生かすこと」なのではないでしょうか。 阿含経を何万回読経するよりも、今、自分に関わっている人に 暖かい言葉をかけてあげる方が釈尊の意図にかなっていると 思います。解脱供養を何万回やるよりも、世界平和に尽力して、 新たな不成仏霊を数万体作らないようにする方が釈尊が喜ばれる ことです。 阿含宗に居ると、すぐに成仏法のような「飛び道具」に頼ろうと しがちですが、あれは一種のロボトミー手術です。私の目から見 ると、魂の整形美人、とでも言うような不自然さを感じてしまい ます。子供の絵でも、自由に伸び伸び描かせたものは、個性が 出て生き生きした絵になりますが、大人が手を入れるとたちまち 絵が死んでしまいます。成仏法で人を「矯正」しようとするのも 同じことです。手軽でしょうが、出来るものは桐山ブランドで 規格化された金太郎飴です。こんなものが仏教のわけがない。 昔の桐山さんの説法には、「無財の七施」が出てきます。貧乏人 でも、他人に笑顔を見せるだけで功徳を積むことができる。日常 に仏教を実践することの大切さを示しているのではないでしょう か。解脱供養に金積むよりも、困った人に金積んで、笑顔を得る。 これこそが釈尊の教えだと思います。 桐山氏は、成仏法一点張りになってから、その原点から外れてし まい、成仏法ビジネスに堕してしまいました。
458 :
元信者>451 :2000/09/05(火) 09:13
もし、原始仏教の教えに全員が従ったとしたら、誰がお布施 をしてくれるのでしょう。食うためには生産活動をしなくて はなりません。 「この世は苦なり」。これも、インドだから出た発想で、 自然に恵まれた日本人がこの釈尊の言葉を聞いて想像する苦 とは天地ほどにかけ離れています。 お経も聖書も、聖人がその時代や風土の背景に合わせて説い た語録集で、時代に合わせて変化するのはやむをえないと 思います。イエスも徹底した禁欲主義を訴えましたが、それ を文字通り実行すれば、故マリアテレサのように聖人にされて しまう。それは、裏返すと、イエスの教えはそのままでは 「実行不可能」だということです。 大乗仏教ほか、後世に作られた教えも、本来の釈尊の教え、 「欲望を抑えて執着を絶つことで苦から開放される」から 逸脱しなければ、仏教として十分な効力を持つと思います。 しかし、在家の信者に対して出家並の禁欲を守らせるのは どうでしょうか。釈尊の説いた教えそのままは、現代のわ れわれには通用しないのです。下着はちゃんと1週間分は 用意しないと仕事に差し支えます(笑)。守るべき教えと、 時代に合わせて変化するべき部分とは区別すべきでしょう。
459 :
名無しさん :2000/09/05(火) 09:14
>454 「哲学的」にはそうなのかもしれません。しかし「これあればあれあり」 ですから、「ある」と一応言っておかないと、話が進みませんよね。
460 :
名無しさん :2000/09/05(火) 09:28
>455 >ナーガルジュナの空観も、その後の唯識論も >結局はこの「主体」と「客体」のありようを説明したものだ。 いろいろ深くお考えになっての、発言だったのですね。 失礼しました。私は、頭が悪いので唯識論などと言うとさっぱり わからないのです。根本仏教(原始仏教)+まとめとしての初期 大乗仏教。それ以上は踏み込まないようにしています。ダライラマ 猊下は中観派でしたか?ダライラマ猊下の本もむつかしすぎて理解 出来ないのです。もちろん阿含宗教学では、そのあたりもちゃんと 勉強しないといけない、のだとは思うのですが。 個人的には「根本仏教+まとめとしての初期大乗」しか興味がない のです。浅学で申し訳ありません。
461 :
名無しさん :2000/09/05(火) 09:45
>457さん、 ご意見ごもっともですが、私としましてはとりあえず、毎日の法典勤行 を一生懸命実行していただきたいものだと思います。 苦界、この世の泥沼から抜け出すためには、捉まるためのロープが必要 なのですよ。それが、阿含宗の場合は「法典勤行」だと思います。その ロープは仏陀釈尊に繋がってないといけないのです。
462 :
名無しさん :2000/09/05(火) 09:49
>458 仏陀は、在家のものには「家にいて妻(夫)子を持ち、人を雇い 五欲を満たして」、五の下分結を断じて、アナゴンを得ることが 出来ると解いています。普通の正しい生活をして、シュダオン、 シダゴン、アナゴン、にまで至ることが出来るのです。
463 :
名無しさん :2000/09/05(火) 09:58
>457 阿含宗の法典勤行には、二つの阿含経(精要)が載せられています。 1)は出家のための七科三十七道品法です。 2)は在家のための三福道です。 三福道とは如来、正法、聖衆の身元において功徳を植えること です。功徳を植えるとは、具体的には、信、戒、施、聞、持、観、 法次、法向。これを自分でおこない、他者にも薦める。 簡単に言えば、如来の身元で在家の五戒を守り、菩薩行を行う。 菩薩行は仏陀がちゃんと教えているのですね。 以上を言いかえれば、普段の生活で正しく、他人に親切に生きよ と言うことですね。(もうすこし条件がつきますが)
464 :
kotarou :2000/09/05(火) 10:00
456 名前: ハエたたき様へ 「無明とは一言でいってしまえば、私たちの迷いのことです。 迷いは、見いだされることのよってなくなっていくというのがお釈迦さんの教えです。 十二縁起によって、私たちの生存が迷いであると分かれば、そこで迷いの生存がなくなる ということです。」 貴方の、阿含宗信徒に対する無理解は、「私たちの生存が迷いであると分かれば、」 の所です。生きている痛み苦しみは、迫力があり、映画の様に対岸の火事ではないのです。 毎日毎日、自分の能力以上の課題が満載し、苦悩している人を前提に言うべきでしょう。
465 :
名無しさん :2000/09/05(火) 10:13
個人の存在とは何か。(浅学な私の意見−1) 個人の要素;五蘊;色、受、想、行、識。色は物質、その他は心。 ここで「あなたの本体はなにか」「あなたを覆っているもはなにか」 という質問が発せられる。 手はあなたか?足はあなたか?イメージは?思考は?と問いただして いくと、五蘊のどれもが、あなたの本体ではないことに気がつく。 そこで出てくるのが、欲望;タンハー。死にたくない、食べたい、 生き残りたい、という強烈な意志と恐怖。バンジージャンプ?を経験 してみたら、この強烈な意志と恐怖=タンハーが「自分の本体であると 気づくはず。タンハーの前後に連鎖して生じ滅するものがある。 それが、十二支。 「無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死 」 この十二の連鎖が「自己の本体」あるいは「自己を覆うもの」。 (有は存在、生は死すべき存在)。 「私は愛だ、愛に覆われている」「私は無明だ、無明に覆われている」 「私は取(執着)だ、取(執着)に覆われている」。 この十二は無明から始まっている。
466 :
名無しさん :2000/09/05(火) 10:21
個人の存在とは何か。(浅学な私の意見−2) この、無明を始まりとし、タンハーを中心とする十二支は、 根本煩悩とよばれる。(調べてないので間違いかも)。この根本煩悩 より、10個の随煩悩が生まれる。 十結煩悩。 五の下分結;身見、疑惑、戒取、欲貪、瞋恚 五の上分結;色貪、無色貪、じょうけ、慢、無明。 (じょうけの文字を忘れました。広辞苑には載ってないわ。)
467 :
名無しさん :2000/09/05(火) 10:30
個人の存在とは何か。(浅学な私の意見−3) この、無明に覆われ、行、識、収まらず、名色を求め、六入を保ち、 触、受、愛、を好む。取りすがり、(有)存在し、 (生)死すべきもの、(老死)朽ち果てるべきものである「わたし」 この苦を盛る器をいかにすべきか。
468 :
名無しさん :2000/09/05(火) 10:36
個人の存在とは何か。(浅学な私の意見−4) この、無明をはじまりとし、タンハーを中心とする、迷いの生を 断ちきるには、無明を断ちきれば良い。この十二を乗り越えるには 無明を断ちきれば良いと、仏陀は気がついた。 十二のものは、これあり、これなし、これしょうじ、これめっす、 の法則で連なっている。 「縁起の法則」 無明を断ちきれば、すべてを断ちきることが出来る。 「生死を乗り越える法を教えてください」という言葉が原始仏典 にはよく出でくるが、人間は生死からは逃れられない。 現実の生死ではなく、十二支の人間存在の因子としての生死なんだ。
469 :
名無しさん :2000/09/05(火) 10:41
個人の存在とは何か。(浅学な私の意見−5) では、その無明を断ちきるためにはどうすれば良いのか。 お釈迦さんは天才だ!十結煩悩を断ちきれば、あるいは、 十結煩悩を一つ一つ切っていけば、無明に到達すると言 うことに気がついた。 一番下の3つが、身見、疑惑、戒取。 いままでの見解は捨てて、仏陀が見つけた縁起の法をはじめとする 真理を見につけること。真理に対する疑惑を捨てること、さまざま な不合理な戒律や、教えを捨てること。 こうして上がっていくと、無明に到達することが出来る。
470 :
名無しさん :2000/09/05(火) 10:43
個人の存在とは何か。(浅学な私の意見−6) では、どうすれば、十結煩悩を断っていくことが出来るのか。 それは、阿含宗法典勤行に記されている二つの阿含経に集約 される。 1)出家(この世を捨てた人のための)七科三十七道品法。 2)在家のための三福道。
471 :
名無しさん :2000/09/05(火) 10:54
在家のための三福道で、シュダオン、シダゴン、アナゴン まで、達することが出来る。シュダオンは七来、アナゴンは 一来だったかしら?
472 :
名無しさん :2000/09/05(火) 10:58
無明を断つというのは、空を知ること。 無明を断てば、愛も取もない、生も老死もない。 たとえば阿含経で、僧侶が賊に襲われて殺されようとしているのに にこにこしている話が載っている。テーラガータだと思う。 それは、無明を本当に断って、取と愛なく、生老死を超えているか ら。 そのあたりのおっちゃんが座禅して「空を覚った」と言うのとはレ ベルが違うんだよね。
473 :
名無しさん :2000/09/05(火) 10:59
私には、三福道しかありません。以上、よーちえんでした。
474 :
kotarou :2000/09/05(火) 11:02
469 名前: 名無しさん様へ 「では、その無明を断ちきるためにはどうすれば良いのか。 お釈迦さんは天才だ!十結煩悩を断ちきれば、あるいは、 十結煩悩を一つ一つ切っていけば、無明に到達すると言 うことに気がついた。」 この事と、阿含宗の護摩木は、どう繋がるのですか?
475 :
名無しさん :2000/09/05(火) 11:31
kotarou さん、こんにちわ。 お釈迦様は、在家のものに「福徳円満の長者」になれと 説いています。樹木で喩えると、根も、幹も、枝も、葉も 花も、実も、ちゃんと健康に育ってないと、修行はできな いんですよね。 果樹園の主(お釈迦様)は、果樹(私達)のことを心配して くれているわけです。如来は応供の仏であり、福田です。わた したちは、世間、出世間の果報を願って、如来の供養を行う のです。
476 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 11:47
>>458 元信者さん
>大乗仏教ほか、後世に作られた教えも、本来の釈尊の教え、
>「欲望を抑えて執着を絶つことで苦から開放される」から
>逸脱しなければ、仏教として十分な効力を持つと思います。
言葉足らずで誤解されたかもしれませんが、
私はあなたのこの言葉を確認したかったのです。
「欲望を抑えて執着を絶つことで苦から開放される」という
お釈迦さんの教えから逸脱したものは、
大乗でも、密教でも仏教とはいえないと・・・。
477 :
名無しさん :2000/09/05(火) 11:59
>欲望を抑えて執着を絶つことで苦から開放される 煩悩=欲望、執着=無明 と誤って解釈しているのかな?
478 :
kotarou :2000/09/05(火) 12:04
476 名前:ハエたたき様へ 「『欲望を抑えて執着を絶つことで苦から開放される』という お釈迦さんの教えから逸脱したものは、 大乗でも、密教でも仏教とはいえないと・・・。」。 阿含宗の、護摩木は、その逆ですよ。 皆、現世利益を求めて、来ていますよ。 貴方の、佛教は間違いではありませんか。 奈良の大仏は、当時のお金にすれば、 相当な金額でしょう。 それだけの見返りが約束されていたから、 国家的事業として行ええたのでしょう。
479 :
元信者>476 :2000/09/05(火) 12:06
>「欲望を抑えて執着を絶つことで苦から開放される」という >お釈迦さんの教えから逸脱したものは、 >大乗でも、密教でも仏教とはいえないと・・・。 これは自明の理だと思います。欲望の火に油を注ぐ教えであ れば、大乗でも密教でも外道です。これは間違いありません。 >475 果樹園でも、悪い虫がついたり、雑草が生えたりしないよう に手入れが必要です。世間福の求めるものは、肥えた土や 太陽、適度な雨、に相当します。それだけでは、雑草がはび こって虫がつき、肝心の果実を失ってしまいます。出世間福 は、雑草を刈り取る鎌、害虫を殺す薬に相当します。この 両方が備わらなければならない。 これをわれわれの日常生活に当てはめると、世間福は生きる 上で必要な衣食住でしょう。出世間福は、不必要に欲を刺激 する節操のない異性との交際とか、ギャンブルとか、豪奢な 買い物などを避けて、仏道に沿った生活を送ることでしょう。 さて、今あなたが求めて居られる願望は、本当に世間福と 出世間福になっていますか?その願望が叶わないと、仏道を 成ぜられないような、必要不可欠の願望だと言い切れるで しょうか。 仏陀の言葉を利用して、自分の欲を正統化するのはたやすい が、仏陀の言葉の通りに自分の欲を正す人は少ない。
480 :
元信者>478 :2000/09/05(火) 12:30
割り込んですみませんが、kotarouさん、宗教が世俗権力に 荷担したら、その時点で宗教でなくなりますよ。世俗権力 とは、善の仮面を被って私欲を満たす存在ですから。そう いう生き方には一文の価値もないからやめよ、と説くのが 本物の仏教です。 奈良の大仏は日本仏教の死を悼む墓標にすぎません。 仏教を信仰することの見返りですか?「無功徳」ですよ。
481 :
名無しさん :2000/09/05(火) 12:35
>欲望を抑えて執着を絶つことで苦から開放される 欲望は、十二支の(取)、または、十結煩悩の欲貪(よくとん)。 執着は、十二支の(取)。 (1)(取)を抑えて(取)を断つことで苦から解放される。 これはおかしいですね。 (2)欲貪(よくとん)を抑えて(取)を断つことで苦から解放される。 これもずいぶんおかしい。十結煩悩を下から断ち、欲貪をおさえて、 涅槃界にはいり、七たび天人と生まれ変わり、無明をたち、結果として 取を断てば苦から逃れられる。 執着、十二支の(取)を断つと言うことは、結局、無明を 断つことなんだから、こころのなかで、「執着を断つぞ」 と決心したところで、どうにもならないのですよ。 お釈迦さんの教える解脱のルートには無いと思う。
482 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 12:36
「善」と「煩悩」と「無記(どちらでもないもの)」の3つがあると考えます。 で、私たち普通の人間が、毎日生きているとしょっちゅう心の表面に浮かんでくるありふ れた付随的な悩み=随煩悩(ズイボンノウ)には20種類あるといわれています。 いじっかしいでしょうが、簡単なことばになっていると思いますから、ぜひ読んでくださ い。
483 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 12:37
1. 普段、ちょっと嫌なことを言われた、されたことくらいのことで、すぐに腹を立てま す=忿(フン) 2. その場で腹を立てるだけじゃなくて、しばしば根に持ちます。いつまでも覚えていて、 恨んでいて、許そうとはしない=恨(コン) 3. 自分のした悪いことはすぐにごまかして、隠そうとして、忘れようとする=覆(フク) 4. 自分のことでは、ちょっとしたことでもうじうじ、ぐじゃぐじゃと悩み、そしてやる ことなすこと、無神経に人を悩ませる=悩(ノウ) 5. 人がうまくいっているとうらましい、嫉み(ネタミ)心が起こってしまう=嫉(シツ) 6. 自分がうまくいき、いいものを持っていても、あまっていても、人にはあげたくない、 おしい=慳(ケン) 7. 自分の得のためなら、人をだましたりする=誑(オウ) 8. 自分の力が足りなければ、力のある人にお世辞・おべっかを平気で使う=諂(テン) 9. 自分に都合の悪い人は、いじわる、イヤミ、皮肉ということばや態度から始まって、 刀や鉄砲や爆弾という暴力にいたるまで、色々な手段で傷つける=害(ガイ) 10. 自分は一人前だ、立派だ、これだけのものを持っているとか、これだけのことができ るといい気になる=キョウ(キョウ慢のキョウ) 11. 自分のありさまをふりかえって反省することもない=無慚(ムザン) 12. 世間に照らして反省することもない=無愧(ムギ) 13. ちょっといいことがあったからといってのぼせ上がり=掉拳(ジョウコ) 14. ちょっと悪いことがあったからといって落ち込む=コン沈(コンジン) 15. 何を知り、何を信じ、何をするかについては、 まじめにかんがえようとしない=不信(フシン) 16. 何を知り、何を信じ、何をするかについては、たいした努力もしない=懈怠(ケダイ) 17. 「まぁ、何とかなるさ」といいかげんにすませ=放逸(ホウイツ) 18. たまにチャンスがあって大切なことを学んでも、すぐに忘れる=失念(シツネン) 19. これが面白い、あれが楽しい、ああすればいいか、こうすればいいか・・・ 気が散っていて=散乱(サンラン) 20. 本当に正しいことを知らない、知ろうとしない=不正知(フショウチ)
484 :
名無しさん :2000/09/05(火) 12:39
>479 私が考えている世間福は、この世の幸せ。ギャンブルをしないのも 異性関係が複雑でないのも、世間福です。 出世間福は、あの世の幸せ。天に生まれる、三悪趣に落ちない。 シュダオン果をえて、涅槃界に入り、いずれは仏道を成就する。
485 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 12:49
>>478 kotarouさん
>阿含宗の、護摩木は、その逆ですよ。
>皆、現世利益を求めて、来ていますよ。
>貴方の、佛教は間違いではありませんか。
イエイエ、私も元信者さんも、自分の宗教・宗派の宣伝をしているのではなくて、
極めて常識的な仏教の定義を述べているのです。
精神が豊かになる、心が清らかに、晴れ晴れとしたものとなる、一生懸命生きれるようになる、
自分の能力以上のことを望まない、必要以上のものを欲しがらない・・・などの心の満足ではなくて、
お金が儲かる、病気が治る、夫婦・家庭円満・・などの、現世利益を説くものは仏教とは言いがたい。
それは、心を満足させるばかりか、かえって欲望の炎に油を差すようなものだからです。
阿含宗が燃やしているのは、煩悩を打ち払う炎ではなくて、煩悩をますます燃え上がらせる炎です。
486 :
名無しさん :2000/09/05(火) 12:50
>482 >「善」と「煩悩」と「無記(どちらでもないもの)」の3つがあると考えます。 では、悪はどこに言ったの? 善の反対は悪でしょう。善因良果、悪因悪果。因縁果報に関する用語。 因縁果報、行為と業は仏教の基本だよ。 煩悩は、私達を「苦しみの世界に結びつけるもの」。善悪に関係なし。 無記は、仏陀が「仏弟子は考える必要はない、あるいは考えないほうが 良いとした、高度な形而上の問題」。 全能の神がいるかとか、宇宙の最辺はとか、色身は同一か否かとか。 煩悩や、善悪とは関係ない。 おねがいだから、思いつきでめちゃくちゃ書かないでね。
487 :
名無しさん :2000/09/05(火) 12:56
>485、ハエさん。 仏教はね、仏陀の理法なのだから、思いつきで 何でも言えば良いというものじゃないよ。 無記の意味さえ知らないのなら、発言しないほうが良いよ。
488 :
元信者>481 :2000/09/05(火) 13:06
こう書くと、私は仏教徒ではない、と言われそうなんですが。 十二縁起には、どうもピンと来ないのです。それは「取」 だ、「無明」だ、と言われても、なるほどと思えない。 もともと、仏教とは、ハエたたきさんが書かれたように、 ものをあるがままに見る智慧のはずです。目は横に、鼻は 縦についていることを確認する作業です(道元の言葉)。 その作業をやって損得はありません(無功徳)が、あるが ままの姿を知れば、「われが、われが」と欲の倍々ゲーム などあほらしくてやっておれない。 成仏する法というのが特別にある、と思うのがおかしいと 思います。釈尊は、カルマ監獄から脱走した囚人にすぎな いのでしょうか。それなら、脱走するための手順が必要に なるでしょうけど。仏教の本質が「物事の実相を知ること」 にあるのなら、生まれた姿のまま、素手でそれができるはず です。 十二縁起とか、シュダオンとか、特殊な用語を使うことで、 かえって仏教の本質から遠ざかるように思えてなりません。 護摩法で供養をして、来世に得られる出世間福を期待する、 というのは、目を縦に、鼻を横にしようという無理な行為 に思えるのですけどね。
489 :
名無しさん :2000/09/05(火) 13:11
>488 名前: 元信者さん、今日はもう時間がないのです。 あす、また488から読みますね。申し訳ない。また明日ね。
490 :
元信者 :2000/09/05(火) 13:18
来世の浄福を願う、というのは、現世の幸福が来世も続き ますように、もしくは、今世はみじめな生涯に終わりそう だが、来世こそは敗者復活を、という願望の延長線上にあ るものです。 仏教の教えは、与えられた「今」を生きることではありま せんか?少なくとも、スッタニパータの段階では、仏陀の 教えはそうだったと思います。具体的に書くと、483の ようなことになるのでしょう。 阿含経のすべてが釈迦直説というわけではなく、すでに後世の 教団が付け加えた教義がかなり混じっているそうですので、 途中で変質したのでしょうか。
491 :
kotarou :2000/09/05(火) 13:22
485 名前:ハエたたき様へ 「現世利益を説くものは仏教とは言いがたい。 それは、心を満足させるばかりか、かえって欲望の炎に油を差すようなものだからです。 阿含宗が燃やしているのは、煩悩を打ち払う炎ではなくて、煩悩をますます燃え上がらせる炎です。」 貴方が言う佛教伝来は、キリスト教伝来の間違いではないですか。 時の政府も、民衆も、その絢爛豪華さにあこがれて、入信したと思いますよ。 欲を捨てる論理にあこがれて、誰が異国の文化をとり入れましょうか。 既存の佛教が、檀家と言う固定収入に満足して、 大衆の願いに耳を貸さなかった付けが、新興仏教の台頭を許しているのではないですか。
492 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 14:06
>491 kotarouさん なんだか徐々に阿含宗から離れてしまうような話題になるので、 レスしにくいのですが・・・、 豪華絢爛、キンキラキンのお寺があるのはなぜか? それは、人間・大衆・民衆に、経典に書かれている、浄土・仏の国をイメージさせるためで す。 念仏とは、仏の姿・形や、仏のすぐれた特徴(功徳)を心の中に浮かべ、じっくりそれを 見極める、イメージする、瞑想する、観念するという意味です。 仏のイメージがふつふつを湧き出て、それがある一定の時間、途切れることなく、続かな ければなりません。 雑念が途中で入り込むようでは、念仏にならないのです。 そこで人々は、イメージ教化のための補助手段として、仏像などの彫刻を彫らせたり、仏 画を描かせたりして、まわりに置くようになりました。 それが、仏教芸術といわれるものは、信仰・念仏の補助手段なのです。 欲望、執着、迷いなどといわれる私たちの煩悩を離れた世界、究極なまでに純粋化された 仏の精神世界をキンキラキンの仏像などで示そうとしたのです。 仏像を拝めば、仏教を信仰すれば、キンキラキンの黄金が手に入るという意味ではありま せん。
493 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 14:12
491 kotarouさん >欲を捨てる論理にあこがれて、誰が異国の文化をとり入れましょうか。 イエイエ、究極の幸せ・幸福・満足感は、私たちが欲を捨て去った境地・心にあるという教えが仏教です。 >既存の佛教が、檀家と言う固定収入に満足して、 >大衆の願いに耳を貸さなかった付けが、新興仏教の台頭を許しているのではないですか。 この批判はその通りだと思います。 しかし、既成仏教教団が堕落しているから、阿含宗は正しいという論理にはなりません。 確認まで。
494 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 15:39
>>482 -483 で、随煩悩(ズイボンノウ)という具体的・表層的な迷い・悩みを紹介しましたが、そ
ういう具体的な悩みの症状が出てくる原因、悩みの根っこを「根本煩悩」といいます。
むさぼり=貪(トン)、いきどおり=瞋(シン)、おろかさ=癡(チ)、
たかぶり=慢(マン)、うたがい=疑(ギ)、あやまった見方=悪見(アッケン)
の6つがあるとされています。
最初のむさぼり=貪(トン)ですが、欲とか欲望ということばと同じように考えられています。
食欲ということでいえば、人間が生きていくには食べなければならない。
だから、食べたいという欲求を持つのは自然なんです。
でも、お腹をこわしても果てしなく食べたいという「過食症」は、もちろん病気です。
また、自分のところでは捨ててしまうほど余っていても、、飢え死にしそうな人がいても
あげたくない、腐っても自分のところにしっかりと置いておきたいというのも、やっぱり
「ものおしみ」という心の病といえるのではないかと思います。
495 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 15:39
欲といっても、自然な欲求と病的な欲望は違います。 それをごっちゃにして、なんでもかんでも「欲はいけないものだ。欲望否定、禁欲はりっ ぱなことだ」というのは考え方としてはおかしいと思います。 食欲がなくなると、人間は死んでしまいますし、性欲がなくなると、子どもが生まれませ んから、人類は滅びることになります。 だからといって、どんな欲望でもあるものはあるんだから、みんな認めてしまえというの もおかしいです。
496 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 15:40
お金がなくては今の世の中は生きていけません。 食べるために、生きるためにお金が欲しいというのは、自然に近い欲求だと思います。 しかし、私たちのお金への態度は、程度の差はあっても、多かれ少なかれ、必要以上の金 を欲しがる、少しくらいずるいことをしても、法を犯しても、人を傷つけても、環境をこ わしても、時には人を殺してさえ・・・果てしなく欲しがるという、病的な欲望になってい るのではないでしょうか? 本来生きるために必要な自然な欲求が、病的な欲望に歪んでいるところに、一般的な人間 の問題があると教えているのがお釈迦さんです。 普通の人間が生きていて、自分が悩んだり、人を悩ませたりする原因の一つに病的な欲望 があると指摘されているのだと思います。
497 :
名無しさん :2000/09/05(火) 16:56
>490元信者さん。 私が書いてみたような観点で、もう一度、スッタニパータ などを読んでみてください。十二の縁起するものなど、空の概念、 さまざまなことが、さりげない言葉で書かれています。 当たり前なんだけど、すべてが仏陀から始まっています。 やさしい言葉で書かれているので、見逃しやすいのです。
498 :
元信者>497 :2000/09/05(火) 17:29
まず、私ってどなたでしょうか(^^) 今読んでいますが、どこに十二縁起の話が出てくるのでし ょうか。 釈尊は誰にでもわかり、誰にでもできる法を説いている ように思いますが。 「いかなる戒めをまもり、いかなる行いをし、いかなる行為 を増大せしめるならば、人は正しく安立し、また最上の目的 を達し得るのであろうか」 という問いかけに対して、 1)長上を敬い、妬むな。師の法話を慎んで聞け 2)謙虚な態度で師に接せよ 3)真理を楽しめ 4)笑いやだじゃれなどをやめよ などなど 無明やら取など、しちめんどくさいことは書いてないよう ですけど。
499 :
Kotarou :2000/09/05(火) 18:12
493 名前:ハエたたき様へ 「しかし、既成仏教教団が堕落しているから、阿含宗は正しいという論理にはなりません。 確認まで。」 私は、「堕落しているから」とは、思いません。 大衆の悩みや、希望を叶える作業を放棄していると言っているのです。 それを叶えている、桐山猊下のほうが、堕落しているかも判りません。 然し、大衆の心を掴んでいる。それを認めなさい。 そうすると、私なら、もっと安く、簡単に、出来ますよと言われれば、 喜んで、大衆は、参加するでしょう。
500 :
Kotarou :2000/09/05(火) 18:36
続き 悟られたハエタタキさんから観て、阿含宗信徒が、 桐山猊下の余りにお粗末な手品に、 見事、引っ掛かっているのが判るでしょう。 でもそれは、大衆全てなのですよ。 貴方が、悟られた方として、10万円以下で 除霊、成仏法とかを、なされるなら、 明日からでも、信者で満員なるでしょう。 ハエタタキ阿闍梨様 頓首、頓首 、
501 :
元信者 :2000/09/05(火) 19:04
私には、kotarouさんの正体がだんだんわからなくなって きました(^^;)。 10万円なんて不要ではありませんか。私なら、岩波の 「ブッダの言葉」を配りますね。それで、実践講習会を開く。 この前、ネットをサーチしたら、そういう教団があるみたい ですね。会員さん達の欲ボケが直ってきたら、阿含宗もウカ ウカしておれませんね(笑)。もうしばらくは安泰でしょう けど(皮肉の笑)。 話は変わりますが、心理療法の先生が、ふとしたことから 憑依現象に興味を持ち、患者の症例を克明に記録しています。 面白いことに、多重人格障害に対して行われる心理治療で 憑依現象も解決できるのだそうです。 除霊は、精神科でやってもらうのが早道、というオチでした。
502 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 19:25
>500 Kotarouさん お釈迦さんの教えを学べば、悪霊が見えるようになり、除霊ができるようになるのではありません。 霊を恐れない心になるのです。 悪霊に取り憑かれない心になるのです。 だから、お釈迦さんの弟子、仏教徒には除霊が必要ありません。
503 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 19:35
釈迦が信者たちの除霊をした事はありません 近年詐欺師はやっていますが。
504 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 21:12
>372さん >追加ですが、原始仏典ではバラモンという言葉は、肯定的に使われて >いますので間違わないように。 バラモンは肯定的にも否定的にも使われています。 釈尊はバラモンというカーストを認めたのではありません。 オバサンは、釈尊はバラモンを尊重し、そのバラモンは火を焚いていたから、 だから、釈尊は火の祭祀を尊重していた、といいたいのですか。 桐山さんでさえ、このような我田引水の説は唱えていません。 何度も言うように、釈尊が護摩など火の祭祀を認めたことはありません。 教団内では禁止されていたことです。 阿含宗の護摩を正当化するために、 バカげた屁理屈をいつまでも唱えるのはみっともない。
505 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 21:14
>401さん >ブッダの異名の一つが「福田」です。供養に応じて福を授けてくれるの >ですね。福には、世間福と、出世間福があります。 よーちオバサンの言い分だと、供養に応じて、釈尊が世間福、 つまり御利益を与えたことになります。 どこにそのような経典があるのか根拠を示しなさい。
506 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 21:27
>408さん >原始仏典のここかしこに、在家のための法、その功徳について >の教えがあります。 功徳を阿含宗流に現世利益ととらえているからです。 釈尊が現世利益など説くはずがありません。 412でハエたたきさんが質問したことに答えるべきです。 よーちオバサンの「功徳」「供養」「福」の定義はすべて阿含宗流です。 それは釈迦仏教の定義とは違う。 桐山さんは他にも因縁、梵行など、仏教用語を巧みに意味をすり替えて 信者に教え、阿含宗を正当化しています。 信者たちはそれが釈迦仏教での定義だと信じてこんでいます。 信者たちは桐山さんを通してしか釈迦仏教を知らない。 だから、オバサンは堂々と釈尊が御利益を説いたなどと述べているのです。 オバサンは見てのとおり、ちゃんと仏教を勉強したことがなく、 阿含宗=釈迦仏教だと信じている。 阿含宗は現世利益を説いているから、釈尊も説いたという とんでもないことを平気で言うのです。
507 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 21:30
>428さん >阿含宗では、欲望、願望を整理せよ。 >欲望を、妥当な物にせよ。 >欲望をかなえながら、浄化せよ。と教えていますよね。 名誉欲にとらわれ、名誉を手にいれるために、 信者を脅迫して金を集めることが、 「欲望をかなえながら、浄化」することなのですね。 桐山さんが自分の欲望を正当化するための言葉を オバサンは文字通り信じて、披露しているにすぎない。 釈尊は「欲望をかなえながら、浄化」などと教えたことはありません。 これが阿含宗の教えなら、やはり釈迦仏教とは関係のない 外道の教えだということになります。
508 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 21:35
>431 さん >阿含宗の修行をすると、欲望はどんどん収まっていきますし、 >変質していくようです。変質って浄化ですけどね。 桐山さんは慈恵会時代は勲章などもらっていませんでした。 阿含宗で修行した結果、今では底なしの名誉欲にとらわれています。 これが「どんどん収まって」いく結果なのですね。 年々拡大する欲望を、収まっていく、浄化などと、 言葉をすり替えるのはさすが桐山さんの弟子だけのことはある。
509 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 21:38
>462 さん >仏陀は、在家のものには「家にいて妻(夫)子を持ち、人を雇い >五欲を満たして」、五の下分結を断じて、アナゴンを得ることが >出来ると解いています。普通の正しい生活をして、シュダオン、 どうして阿含宗で五下分結を切ることができるのか、説明してください。 釈尊が禁止した護摩や占いをして、説きもしない先祖供養をして、 疑惑、戒取をどうやって切ったのか、説明してください。
510 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 21:44
>463さん >三福道とは如来、正法、聖衆の身元において功徳を植えること >です。功徳を植えるとは、具体的には、信、戒、施、聞、持、観、 釈尊の遺骨を高額で購入して、 各道場には真正仏舎利だと信者をだました仏舎利を祭り、 釈尊が説いたこともない桐山さんの自己申告の成仏法と 阿含経を知らない阿含宗徒しかいない阿含宗の どこに「如来、正法、聖衆」があるのか説明してください。
511 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 21:45
>469さん >いままでの見解は捨てて、仏陀が見つけた縁起の法をはじめとする >真理を見につけること。真理に対する疑惑を捨てること、さまざま >な不合理な戒律や、教えを捨てること。 これは具体的にどの経典で釈尊がそのように述べているのか、 示してください。
512 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 21:59
>488元信者さん >十二縁起とか、シュダオンとか、特殊な用語を使うことで、 >かえって仏教の本質から遠ざかるように思えてなりません。 そのとおりです。 特殊な用語というよりも、オバサンの話はすべて 桐山さんの本からの受け売りです。 桐山さんも阿含宗に都合良く解釈した話で本を書きます。 検証もしないでオバサンは阿含宗=釈迦仏教として書き殴っているのです。 同じでないものを同じとして書いているのですから、 支離滅裂なのは当然です。 また、いかんせん、オバサンの知性があまりに低いものだから、 仏教用語を振り回すだけで、自分に酔ってしまい、 すっかりそれを理解した気になっています。 桐山さんによるご都合解釈、それを釈迦仏教だと信じる誤解、 さらにはオバサンの知性の低さ、 これら二重、三重のゆがみの上での議論ですから、 仏教の本質からは遠ざかるのは当然です。
513 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 23:10
>470 七科三十七道品 七科三十七道品というのは、四念処(シネンジョ)、四正厳(シショウゴン)、四神足(シジンソク)、五根 (ゴコン)、五力(ゴリキ)、七覚支(シチカクシ)、八正道(ハッショウドウ)で、あわせて37の数になるの でそう呼ばれているのです。 これだけでも、ものすご〜く難しそうでしょう? でも、これだけで大切なものがすべて揃っているかというと、決してそうも言い切れなく て、まだ他に多くが数えられるのです。 例えば、空・無相(ムソウ)・無願三昧(ムガンザンマイ)、念仏・念法・念僧、慈悲喜捨の四無量心、 ・・・などです。 『阿含宗という宗教2』でもどなたかが指摘していたと思うのですが、七科三十七道品な どという概念は、簡単に持ち出せるような代物ではないのです。 >1)出家(この世を捨てた人のための)七科三十七道品法。 このように書けば、いかにもすべてを考察して詰めているぞ、阿含宗・桐山はお釈迦さん の行の全てを検証済みだと勘違いさせそうですが、この1行以外なんの説明もありません。 これが阿含宗の手口なのでしょう。 いかにもお釈迦さんの教えを正しく伝えていると勘違い・思いこませておいて、 一方では、解脱護摩(先祖の追善供養)や宝生護摩(現世利益)という非仏教的な儀式で 金儲け(詐欺)を働いているのだと思います。
514 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 23:20
佛教学辞典 1928・法蔵館 より さんじゅうしちどうほん 三十七道品 道品とは梵語ボーデイ・パークシカの譯で、菩提分、 覺支、覺分とも譯する。佛教の至高目的たる悟の境地 (涅槃)を實現する智慧(即ち道、菩提、覺) を得るための實踐道の種類の意で、これに三十七項目 あるから三十七道品といい、三十七菩提分法、三十七 覺支、三十七覺分とも稱せられる。 即ち四念處(四念住)・四正勤(四正断)・四如意足 (四神足)・五根・五力・七覚支(七菩提分、梵語 ボーディ・アンガの譯)・八正道(八聖道)の七科の 集計である。
515 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 23:22
阿含経典 1979 増谷文雄 第三巻より ついで、『阿合経典』の第四篇としてここに集録せら れるものは、実践の方法すなわち道についての経典群で ある。 その「道」とは、究極の目標に到達するための実践の 方法をいうことばである。それは、例うれば、舎衛城よ り王舎城にいたろうとするには、それに従って歩くべき 道があるように、人々が苦なる人生をたちいでて、苦な き人生にまで到達するためには、そこにもまた、それに 従って歩くべき道が存しているのである。 だが、その道は、かならずしも、ただ一つではない。 いろいろの道が存し、いろいろの道が語られているので ある。それらを、古来の仏教者たちは、しばしば、「三 十七道品」あるいは「三十七菩提分法」などと称する。 この経典群のなかにも語られている「四念処」「四正勤」 「四如意足」「五根」「五力」「七覚支」および「八支 聖道」を合計すると三十七道品となる。すなわち、仏道 修行のためには、さまざまなる実践の方法が存するので ある。
516 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 23:34
南伝 相応部経典 四五、八、分別 かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータビンディカ (給孤独)の園にましました。その時、世尊は、もろもろの比丘たちに告げていった。 「比丘たちよ、いまわたしは汝らのために聖なる八支の道を説こうと思う。ひとつ、それを汝ら のために分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。そして、よくよく考えてみるが よろしい。では、わたしは説こう」 「大徳よ、かしこまりました」 と、彼ら比丘たちは世尊にこたえた。世尊は説いていった。 「比丘たちよ、いかなるをか聖なる八支の道というのであろうか。いわく、正見・正思・正語・ 正業・正命・正精進・正念・正定である。 比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦 の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。 比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正思というのであろうか。比丘たちよ、迷いの世間を離れたいと思 うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することなからんと思うことがそれ である。比丘たちよ、これを名づけて正思というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正語というのであろうか。比丘たちよ、偽りの言葉を離れること、 中傷する言葉を離れること、そ悪な言葉を離れること、および雑穢なる言葉を離れることがそれ である。比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正業というのであろうか。比丘たちよ、殺生を離れること、与えら れざるを取らどること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけ て正業というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正命というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の聖なる弟子が あり、よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる。比丘たちよ、その時、こ れを名づけて正命というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正精進というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があり、 いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を 振い起して努力をする。あるいは、すでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひた すらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、いまだ生ぜざる善きことを生ぜし めんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいはま た、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志 をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。比丘たちよ、その時、こ れを名づけて正精進というのである。
517 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 23:38
比丘たちよ、いかなるをか正念というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、 わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、 それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。また、わが感覚において感覚というも のをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪 りと憂いとを調伏して住する。あるいは、わが心において心というものをこまかく観察する。熱 心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住す る。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつ け、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。比丘たちよ、 この時これを名づけて正念というのである。 比丘たちよ、では、いかなるをか正定というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘が あって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながら も、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅を具足して住すると いう。だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向となり、も はやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいた る。これを第二禅を具足して住するという。さらに彼は、その喜びをもまた離れるがゆえに、い まや彼は、内心平等にして執著なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいた る。これを、もろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足 して住するというのである。さらにまた彼は、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも 憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念ありて、清浄 なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するという。もろもろの比丘たちよ、これを名づ けて正定というのである」
518 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 23:44
>ハエたたきさん ものすご〜く難しそうですか? >七科三十七道品などという概念は、 >簡単に持ち出せるような代物ではないのです。 そうですか?
519 :
名無しさん@1周年 :2000/09/05(火) 23:53
>ハエたたきさん これを実践するとしたら、たしかに、ものすご〜く難しいですがね。 なにしろ涅槃に至る道なのですからね。
520 :
ハエたたき :2000/09/05(火) 23:59
>>514 -517
ご苦労様です。
あなたは以上の説明で、七科三十七道品のすべてを説明したつもりですか?
あなたが引用した法蔵館・佛教学辞典、阿含経典 1979 増谷文雄 第三巻にあるように
「四念処」「四正勤」「四如意足」「五根」「五力」「七覚支」および「八支聖道」
四念處(四念住)・四正勤(四正断)・四如意足
(四神足)・五根・五力・七覚支(七菩提分、梵語ボーディ・アンガの譯)・八正道(八聖道)
七分類37項目説明しつくしていますか?
521 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 00:00
>>514 -517
ご苦労様です。
あなたは以上の説明で、七科三十七道品のすべてを説明したつもりですか?
あなたが引用した法蔵館・佛教学辞典、阿含経典 1979 増谷文雄 第三巻にあるように
「四念処」「四正勤」「四如意足」「五根」「五力」「七覚支」および「八支聖道」
四念處(四念住)・四正勤(四正断)・四如意足
(四神足)・五根・五力・七覚支(七菩提分、梵語ボーディ・アンガの譯)・八正道(八聖道)
七分類37項目説明しつくしていますか?
522 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 00:03
↑ 二重になりましたね。すみません。
523 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 00:40
>ハエたたきさん いえ、いえ、八正道(八聖道)だけですね。 他の四念處(四念住)なんかは、精神障害になる恐れがあるので、ここには書きません。 やはり、求める人にこそ、開示されるべきものです。 あしからず。
524 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 02:39
>513 出家のための、世をすてた人のための三十七道品・・・? そんなこと聞いたことありませんね。 プロの修行、上根の修行法とは言っていましたが、現代では 在家でも修行の方法はあるということで修行道場があるのです。 解脱護摩、宝生護摩が非仏教的ですか、仏を念じ供養するのが 非仏教的ですか? 私は霊も阿弥陀仏も信じていないのに生活の為に葬式をして お金をもらう人たちこそ非仏教的で詐欺的存在であると思います。
525 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 03:27
455>456 >しつこいですが、無明は見いだされることによって無明でなくなる。 >言い替えれば、無明が見いだされない限りは無明があるのです。 ハエたたきさん、なぜ見いだされることによって無明は消えるのですか? 無明が「理解の不在」だからでしょう。 闇は光があれば一瞬にして消えます。 なぜなら闇は光の不在だからです。 それと同じように、 もしも人の中に理解が起これば、同時に無明は存在できません。 私の言ってることとあなたの言ってることは基本的にそれほど違わないようですが、 私がなぜこのような一見ささいな「言葉使い」に執拗に食い下がるのか、 この発言が誰に向けられたものなのかを もう一度よく考えてみて下さい。 つまり、無明というものをなにか「実体のあるもの」として扱うから 阿含宗では、やれ除霊だ、因縁解脱だ、などというバカなことを言うのでしょう? 実際、私がアホ呼ばわりした相手は、 明らかにそういう方向で話を進めているんです。 たとえば、彼らの話をよく読めば、 無明を絶つための修行を成仏法と呼んでいるのは明白です。 しかしながら、そういうアプローチを仏教では教えていません。 仏陀の時代でも、昔ながらのヨガの行者は、 「無明」と直接戦うため、禁欲の行などに精を出していたようです。 しかし仏陀の教えたのは禁欲でもなく放逸でもなく、中道でした。 なぜか? 無明とは単に「理解の不在」なのだから、 それと直接に戦うことは無意味だからです。 禁欲も、除霊も、因縁解脱も全く無意味です。 大事なのは、あるがままの現実を見てそれを理解することです。 「無明がある」と言うことによって、それと戦う作業が始まるんです。 少なくとも阿含宗にとってはそうです(あなたの場合は違うようですが)。 >460 >いろいろ深くお考えになっての、発言だったのですね。 >失礼しました。私は、頭が悪いので唯識論などと言うとさっぱり >わからないのです。 どうも唯識論を単に観念的なものだと思っているようですね。 残念ながら唯識論は、もともと瑜伽行派(ゆいがぎょうは)と言われる人たちが 発展させた理論で、その背景には彼らの「実体験」があります。 瑜伽行派の「瑜伽」というのはインドの「ヨーガ」を中国語に音訳したもので、 そのまま「ヨガの行者の一派」のような意味です。 もちろん、彼らはヨガの行者ですから、「他の何よりも」実体験を重視します。 つまり、唯識論はたんなる卓上の空論などではありません。 それに世間一般で言われているほど難しいことを言っている訳でもありません。 もっとも、あなたが本当の瞑想を一度も経験したことが無いなら確かに難解でしょうがね。 あなたは桐山流の 「大乗仏教=具体的な修行法がない卓上の空論」 といったわけのわからんウソにだまされているようですね。 #それにしてもこのスレッド、進むの早いな。
526 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 03:54
そんじゃ仏教って、結局、あきらめを説くのね。 人生あきらめろ、無意味だから、ただ感情に流され ないように無感情、喜びも怒りもなくただボッと 中道でいることが、悟りなんだ 薄痴こそ仏 実体があろうがなかろうがソレが現に影響を及ぼして いるならば解決策をこうじなければならない 実生活の悩みに関係ない、 頭の中でだけの仏教だからこんなんで満足できる のでしょう。
527 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 04:48
525>526 >そんじゃ仏教って、結局、あきらめを説くのね。 上記の発言のどこをどう読めばそういう結論がでるのか? あなたの話では、あたかも 「戦う」か「あきらめる」か2つに一つしか選択肢がなく、 戦わないならあきらめるしかない、と言っているようだ。 だが、あるがままの現実を見る、というのは、 「実際に」やってみればわかるが、まったく「あきらめ」なんかではない。 >人生あきらめろ、無意味だから、ただ感情に流され >ないように無感情、喜びも怒りもなくただボッと >中道でいることが、悟りなんだ 薄痴こそ仏 まったくちがう。 ほとんど正反対と言っていい。 だいたい「中道」というのは 右でも左でもないから中道なんであって、 その意味では「感情」でもなく「無感情」でもない。 もしもある人が中道にいるなら、 その人はすべてを楽しみ、同時に何ものをも楽しまない。 >実生活の悩みに関係ない、 >頭の中でだけの仏教だからこんなんで満足できる >のでしょう。 いかにも桐山に洗脳された阿含宗信者の言いぐさだね。 あなたがそう考えるのは自由だが、 私はあくまでも私自身の「実際の」体験を元に話をしている。 第一、頭だけの理解なら、私は理解とは言わない。 あなたはそういうことを言うことによって 「私には内的理解(全人格的理解)がありません。 一度も自分のあるがままを省みたことがありません」 と白状しているようなものだ。 自分では私が単に頭で理解しているだけで、 自分こそは現実にちゃんと対処しているつもりなんだろうが、 残念ながらまったく逆だよ。
528 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 08:49
>525 >>信者が桐山・阿含宗にだまされて信じ込んでいる時、だまされているかぎりだまされて >>いることを知らないわけで、だまされたということがわかったときには、もうだまされ >>てはないということです。 実在する、存在する、真実であると認識していたものが、実は、自分の無明=無知から起 こった錯覚、思い込み、誤解、妄想、夢・幻影であるとわかったら、それまで見えていた 錯覚、思い込み、誤解、妄想、夢・幻影は消えてなくなるし、事実が見えたのですから無 知=無明でもなくなるでしょう。 無知に対しては、「自分が愚かだったから、無知だったから・・・」と気付けば十分なわけ で、あなたのおっしゃる通りでしょう。 >この発言が誰に向けられたものなのかをもう一度よく考えてみて下さい。 あなたに誤解されるかと思ったのですが、私の発言は、あなたの455の話題に付随して阿 含信者に対して発したもので、あなたへの反論ではありません。 あなたに対する確認です。 レスの必要もないかと思ったのですが、誤解のないようにするための、確認の意味で。
529 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 09:11
>524
> >513
> 出家のための、世をすてた人のための三十七道品・・・?
> そんなこと聞いたことありませんね。
>>470 名無しさん(ようちえんさん?)のお説です。
仲間同士で批判し合ってるようなものでしょう?
530 :
名無しさん :2000/09/06(水) 09:54
>498 >無明やら取など、しちめんどくさいことは書いてないよう >ですけど。 ちゃんと書いていますよ。随所に出てきます。
531 :
名無しさん :2000/09/06(水) 10:03
>488 仏陀が初法転輪?で、五人の友人の比丘達に自分の得た 真理を教えましたよね。「コンダンニャが覚った!」と言う 言葉は有名です。その内容は、縁起の方を中心とする、 仏陀の理法なのです。仏教は仏陀の理法=真理が中心です。
532 :
名無しさん :2000/09/06(水) 10:06
↑>498でした、 >498続き。 >1)長上を敬い、妬むな。師の法話を慎んで聞け >2)謙虚な態度で師に接せよ >3)真理を楽しめ >4)笑いやだじゃれなどをやめよ 仏陀が五人の比丘尼わかってもらおうとしたことは、上記では ないですよね。やはり、真理=仏陀の理法です。
533 :
Kotarou :2000/09/06(水) 10:06
502 名前:ハエたたき様へ 「霊を恐れない心になるのです。 悪霊に取り憑かれない心になるのです。 だから、お釈迦さんの弟子、仏教徒には除霊が必要ありません。」 それは、貴方に帰依して、どれくらいの期間でなるのですか。 私のうちも浄土真宗ですが、ナーモそんな指導とか法話とかござっせん。
534 :
名無しさん :2000/09/06(水) 10:25
あと、気がついたこと。 バラモンは、真のバラモン、偽者のバラモンといった文脈で 使われています。よく、バラモンが〜すると書かれていると、 それだけで「〜の否定」と受けとってしまう方が居られますので。 七科三十七道品法は出家のために。三福道は在家のために。と 書いたのは、大まかに言ってそうだということです。在家のものが 道品法を行っていけないわけもない。八正道、瞑想法、などなど。 しかし、すぐに自分を「上品(じょうぼん)の修行者だと思い誤る 人もいるのですね。大学者でも、家を捨てられないものは、下品(げぼん) なのです。(「家」と言う単語は象徴的に使っています。←こんな説明が 必要な人がいるんだね)
535 :
名無しさん :2000/09/06(水) 10:30
>482 名前:ハエたたき 投稿日:2000/09/05(火) 12:36 >「善」と「煩悩」と「無記(どちらでもないもの)」の3つがあると考えます。 ハエさん、山ほどわけのわからないことを書く前に、この482の恥ずかしい コメントを何とかしなさいよ。まず、主語がないでしょう、どこに何が三つ あるの。この三つは何で並んでいるの??
536 :
名無しさん :2000/09/06(水) 10:31
>482 主語がないと指摘されても、その意味さえわからないのでしょう?
537 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 11:01
>535
丁寧に読んでいただいてありがとうございます。
ご指摘のとおりです。
主語が抜けていますね、
>>482 私たち普通の人間が毎日生活していると表面に現れてくる心の性質、表面に現れた心の働きの性質として、「善」と「煩悩」と「無記(どちらでもないもの)」の3つがあると考えられています。
その中の煩悩には、あなたが指摘した根本的なもの=根本煩悩と付随的なもの=随煩悩があるという流れでした。
538 :
名無しさん :2000/09/06(水) 11:04
>537 ??大丈夫?
539 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 11:20
>>533 Kotarouさん
>それは、貴方に帰依して、どれくらいの期間でなるのですか。
私に帰依しなくとも、元信者さんが指摘されたように、本屋さんへ行って、
益谷文雄、中村元、平川彰、玉城康四郎・・・といった方たちの本を買って読まれればよい
でしょう。
Kotarouさんはキリスト教にも知識をお持ちのようですから、キリスト教神学から仏教へ
入ってこられた岡野守也の唯識入門系の本はお薦めです。
唯識の基本的なことだけでも知れば、「仏教ってこんな合理的な心理学だったのか」って
目が覚めると思います。
>私のうちも浄土真宗ですが、ナーモそんな指導とか法話とかござっせん。
仏教として、浄土真宗として、基本的な常識だからわざわざ説明されないのだと思います。
機会があったら質問してみてください。
私と同じ答えが帰ってくると思います。
そうそう、本屋さんへ行けば一般向けに各宗派の儀式等の解説書がたくさん売られていま
すよね。
そういう簡単な浄土真宗の解説書の中にも、除霊や追善供養は必要ない、先祖供養は報恩
感謝の心で・・・と書いてあるはずです。
540 :
元信者 :2000/09/06(水) 11:40
>530@`531 白状しますと、私は岩波書店の「ブッダの言葉」でしか スッタニパータは読んでいないのです。この限定された 知識では、確か十二縁起は書いてなかったと記憶してい ます。随所に書いてある、ということですので、是非、 スッタニパータから具体的に引用して示していただく ようお願いします。
541 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 11:49
539 名前:ハエたたき様へ では、阿含宗信徒は、本来檀家として、宗教を持っているだろうから、 その教えに叛いている、供養としては、間違っているわけですね。
542 :
名無しさん :2000/09/06(水) 11:52
>540 元信者さん、今日は。テーラガータなどを読むと、十二因縁とか 七科三十七道品法などが、ちりばめられていますよ。空の概念な ども全部載っています。当たり前ですけど、仏陀がすべての元 なのですね。ご自分でゆっくり読んでみてください。私も暇な時 には、書いて見ます。この宗教板のスッタニパータのコメントを 引用します。
543 :
名無しさん :2000/09/06(水) 11:53
>540 スッタニパータスレッドの引用。 >17 名前:名無しさん 投稿日:2000/09/03(日) 20:20 >1の怒りは、随煩悩ですね。十結煩悩の5番目かな? >身見、疑惑、戒取、欲貪、瞋恚。 (の瞋恚) >18 名前:名無しさん 投稿日:2000/09/03(日) 20:22 >2の愛欲は、十二因縁の、触、愛、取。
544 :
kotarou :2000/09/06(水) 11:54
541は、私です。
545 :
元信者>542、543 :2000/09/06(水) 11:56
どうもありがとうございます。 テーラガータですね。さっそく探してみます。 浅学がばれて赤面の至りです(^^)。
546 :
名無しさん :2000/09/06(水) 12:02
>29 名前:名無しさん@1周年 投稿日:2000/09/06(水) 04:14 >4 >激流が極めて弱い葦の堤を壊すように、驕慢を滅して余すこと >なき修行者は、この世とかの世とをともに捨てる。 >あたかも蛇が旧い皮を脱皮して捨てるようなものである。 この驕慢は、何なのでしょうか? 十結煩悩の「慢」でしょうか。 だとすれば「極めて弱い葦の堤である驕慢」を滅する修行者は 本当に、ニルバーナ直前なのです。 身見(我見、我執)の慢は下の分結の最下位。弱い葦の堤なんて 言えないですよね。強固な手ごわい堤です。
547 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 12:12
>514さん >さんじゅうしちどうほん 三十七道品 桐山さんは一度もこれを弟子に修行法として伝えたことはない。 経典や説明をただ書き写し、信者に読んで聞かせただけです。 意味もよくわからない、実践したこともない仏教用語をこうやって 羅列するのをコケオドシというのです。 桐山さんが看板に使っているからといって、まねしないことです。 阿含宗の誰が具体的にどれをどのように実践したか教えてください。
548 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 12:14
>524さん >解脱護摩、宝生護摩が非仏教的ですか、仏を念じ供養するのが >非仏教的ですか? 護摩は非仏教であり、釈迦仏教ではありません。 阿含宗でいう「仏を念じ」「供養する」は、これまた仏教でありません。 阿含宗での仏を念じるのは、 願いをかなえてもらうための御利益信仰であり、 供養するのは世間的な利益をお返しにもらうための取引信仰です。 そんなものが釈迦仏教であるはずがない。 阿含宗は非仏教的ではなく、非仏教です。
549 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 12:16
>534さん >七科三十七道品法は出家のために。三福道は在家のために。と >書いたのは、大まかに言ってそうだということです。在家のものが 510での質問に答えてください。 三福道などと経典の言葉を使って人に説教するのなら、 阿含宗でいう三福道の中身がどうなっているのか、まず答えるべきです。 仏教用語を振り回して、中身をごまかそうとしても無駄です。
550 :
名無しさん :2000/09/06(水) 12:18
>545 私もまったくの素人ですが、阿含宗では理を尽くして 仏教の基礎を教えていただけますので、少しは原始仏典が 読めるようになるのでしょうか。(大乗仏典はまったく読 めません。勉強しているのは般若心経のみです。)
551 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 12:20
>541
>では、阿含宗信徒は、本来檀家として、宗教を持っているだろうから、
>その教えに叛いている、供養としては、間違っているわけですね。
>>422 で答えているでしょう?
「母または父が老いて朽ち衰えているのを養わないで、自らは豊かに暮らす人
__これは破滅への門である」
「世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。」
「母と父とは・・・子らの供養すべきもので、また子孫を愛するものである。
だから賢者は・・・父母に敬礼し尊敬せよ。」
なぜ、父母に孝順をつくすべきはという理由は、
「母と父とは子らに対して多大のことをなし、育て、養い、この世を見せてくれたからで
ある。」
と、親から受けた恩の大きさを教えています。
「されば正しい善人は、恩を感じて恩を知り、むかしの恩を思い起こして母と父を扶養す
る。むかし恩を受けたとおりに、かれら(父母)に対して義務を果たす。・・・」
>>165 >>248 などで示した通り、お釈迦さんは、死者のための追善の儀式を(追善供養)
をはっきりと否定しています。
ここでいう供養は、父母・先祖に対する尊敬と感恩報謝の心からなされるものです。
=======================================
あなた達の理解が間違っているのです。
何度も同じことを繰り返さないでください。
552 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 12:21
>534さん >バラモンは、真のバラモン、偽者のバラモンといった文脈で >使われています。よく、バラモンが?すると書かれていると、 >それだけで「?の否定」と受けとってしまう方が居られますので。 釈尊はバラモンというカーストを誉めたことも認めたこともない。 ましてや、彼らの護摩を含めた祭祀など認めたことはありません。 直接反論できないからこのような書き方しかできないのでしょう。 ハエたたきさんの文章にあれこれケチをつけているが、 一番「山ほどわけのわからないことを」書いているのはオバサンです。 オバサンは自分がしていることをいつも相手がしていると言いますね。 阿含宗を代表するオバサンの書き込みを見る限り、 阿含宗での三福道とは、 如来の名を悪用して釈尊が説きもしないことを語り、 正法というラベルを貼って呪術宗教、祈祷宗教の中身をごまかし、 聖衆になったつもりで相手を罵倒することです。 これは三福道ではなく、三悪道です。
553 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 12:27
>541 は、kotarouさんだったんですね。 すみません。ようちえんさんだと思い込んでいました。 思い込み、勘違い、誤解、決めつけ・・・、煩悩ですね。 失礼しました。
554 :
名無しさん :2000/09/06(水) 12:33
>549 三福道については、このスレッドでも、何回も詳しく 書いています。
555 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 12:37
>554さん >三福道については、このスレッドでも、何回も詳しく >書いています。 如来、正法、聖衆の阿含宗での中身について、 どこに具体的に書いているのか、番号を示してください。
556 :
名無しさん :2000/09/06(水) 12:44
ハエさん。 善悪は、行為の種類。身、口、意、の行為。 良果(善業)を生むのが善行。悪果(悪業)を生むのが悪行。 煩悩は我々を苦界に結びつける要因。 本によって違うのかもしれないが、10の煩悩、20の煩悩、108の 煩悩は随煩悩。 無記は中立と言う意味ではなく、仏陀がコメントを避けた高度な形而上 の問題。 この三つが横並びにはならないからね。仏教者としては恥ずかしいコメン トだよ。普通なら自分を恥じて二度と書き込みはしない。 あなたは、普通では無いのでしょう。
557 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 12:49
しっかし長いっすねー。 どこまで続くのだろう。 2・3人の発言が中心だと思うので、1人が飽きたら なし崩し的に沈没しそう。
558 :
名無しさん :2000/09/06(水) 12:57
それでは、私はこの当たりで失礼。例のお三方で続けてくださいね。 さよ〜なら。
559 :
元信者>550 :2000/09/06(水) 12:59
私が在籍していた時代の阿含宗では、私自身の浅学が証明 するように、誰ひとり阿含経を勉強して学ぼうという者は おらず、桐山氏の言うことだけを盲信していました。 阿含宗で教わるのはキリヤマ・ニパータだけでしょうね。 ここでの議論を見る限り、あまり体質は変わっていない でしょう。
560 :
kotarou :2000/09/06(水) 13:12
結論として、ハエタタキさんに帰依すると、お金要らず、 平安を得れるわけですね。
561 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 13:48
>560 kotarouさん >結論として、ハエタタキさんに帰依すると、お金要らず、平安を得れるわけですね。 kotarouさんは、しつようにお金にこだわられますね。 仏教の本来からいえばそうでしょう。 信仰心、教えを頂いた代償がお布施ではないでしょう。 教えを頂いて、信仰させていただくと、お布施のできる心になるのでしょう。 お釈迦さんは法座(お釈迦さんの講演会場)への入場料として布施を徴収したなんてことはないでしょう。
562 :
514>547さん :2000/09/06(水) 14:20
>桐山さんは一度もこれを弟子に修行法として伝えたことはない。 >経典や説明をただ書き写し、信者に読んで聞かせただけです。 >意味もよくわからない、実践したこともない仏教用語をこうやって >羅列するのをコケオドシというのです。 >桐山さんが看板に使っているからといって、まねしないことです。 >阿含宗の誰が具体的にどれをどのように実践したか教えてください。 実践するのは、あなたです、わたしです。 あなたに、そしてわたしに向けられた説法と思わなければ、なんの意味もありません。 >意味もよくわからない、実践したこともない ってなぜ、あなたにそれがわかるのでしょうか? 説明してください。
563 :
514 :2000/09/06(水) 14:29
564 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 14:47
求聞持法の成就者もいない。 クンダリーニ覚醒者もいない。 因縁解脱者もいない。 七科三十七道品の達成者もいない。 およそ40年間桐山氏は何をやっていたのでしょうか。 信者から騙し取ったお金で囲碁大会やってる場合じゃないでしょう。 看板に,偽りあり,と良く言いますが、阿含宗の場合, 「看板も中身も全て偽りだらけ」です。
565 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 15:14
>>556 三性:すべてのものの性質を善・不善(悪)・無記(善とも悪とも決定づけられない心や行為)に分類【倶舎論】
諸法の性質を宗教倫理的価値の点から分類したもので,善・悪・無記(善でも悪でもないもの)の三をいう.
無記:あらゆるものを倫理的観点から善と悪,そのどちらでもないものの三者に分ける場合の,どちらでもないものを〈無記〉という.
煩悩:悪い心のはたらき。わずらいなやみ。心身をわずらわし、悩ます精神作用・・・
566 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 16:28
ダンマパダ(法句経) 第1句 「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心よりなる。 汚れた心で語り、行うなら、苦しみはその人につき従う。 轍(ワダチ)が車輪につき従うように。」 仏教では身口(語)意のの三業といいます。 業とは行為のことです。 行為には、身体で行うこと、言葉で行うこと、意(心)で行うことの3種があるというので す。 そのうち、心で考えることが、もっとも重要であるとされます。 どのような言動をしても、心で何を考えているかが問題です。
567 :
名無しさん :2000/09/06(水) 16:44
>三性:すべてのものの性質を善・不善(悪)・無記(善とも悪とも決定づけられ >ない心や行為)に分類【倶舎論】 ハエたたきさん、私は倶舎論は勉強したことがありませんが、ずいぶん分かり やすいお話ですね。主語があるしね。「すべてのものの性質」 以下の文章とはだいぶ違うようですよ。 >482 名前:ハエたたき 投稿日:2000/09/05(火) 12:36 >「善」と「煩悩」と「無記(どちらでもないもの)」の3つがあると考えます。 >で、私たち普通の人間が、毎日生きているとしょっちゅう心の表面に浮かんでくるありふ >れた付随的な悩み=随煩悩(ズイボンノウ)には20種類あるといわれています。 過剰あるいは、異常な、煩悩により悪行は起きるのでしょうが、 煩悩=悪ではないですよね。 それだと、煩悩に覆われた凡夫は「悪業」しか積めないことになる。 凡夫でも、良い行いもするわけです。煩悩=悪、と言うのは間違い。 煩悩を説明するのに、三性があって、とは切り出さないでしょう。 煩悩=悪、と思いこんだんだね。無色貪などは、悪業を積ませるものとは 言えないし、正常な欲望は人間生活に必須のものだ。やはり、煩悩は 我々をこの世に結びつけるものと考えるほうが良いと思う。
568 :
名無しさん :2000/09/06(水) 16:46
すべてのものの性質だから、穀物は善? 穀物が腐っていれば、人間にとっては、悪? 肥料としては、善? 悪だと、穀物も、煩悩にとらわれているの?
569 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 16:51
>566 ダンマパダ(法句経) 第2句 「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心よりなる。 清らかな心で語り、行うなら、幸福はその人につき従う。 影が体から離れないように。」 ね?苦しむにしても、幸福を感ずるにしても心しだいだといっているでしょう?
570 :
元信者>567 :2000/09/06(水) 17:02
>煩悩は我々をこの世に結びつけるもの >過剰あるいは、異常な、煩悩により悪行は起きる とてもすっきりしていて私は好きですけど、必ずしも「量」 の問題では片付かないように思います。 例えば、性の問題ですが、愛し合っている夫婦同士が一日 何回やろうが、「悪だ」とは言えないし、アバンチュール を楽しむために浮気する場合は、1年に1回に制限するか ら「悪でない」とは言えない。 この場合、性の快楽を「盗む」心に悪の根源があるように 思います。それはどんなに微小なものでも、悪でしょう。 同じ金額の給料を貰っても、「ありがたい」と感謝して受け 取れば善でしょうけど、「こんなスズメの涙」と不満の心で 受け取れば悪ではないでしょうか。金額は同じなのに、善悪 が分かれるのですから、欲望の量とは直接関係がないように 思います。
571 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 17:46
>562さん >実践するのは、あなたです、わたしです。 その実践が何なのかと聞いているのです。 何もありはしないから、この程度の返答しかできない。 言葉で逃げないことです。 >523四念處(四念住)なんかは、精神障害になる恐れがある と書いたのだから、四念處を実践しているのでしょう。 桐山さんがいつこれを弟子に伝授したのか、説明してください。 またどうして四念處で精神障害になるのか、 そのような経典の記述がどこにあるのか、示してください。 七科三十七道品など桐山さんは教えたことがないのだから、 阿含宗では誰も実践できるはずがない。 桐山さんは、自分のやっていることが 釈尊の修行法だと本人がそう言っているだけです。 それが護摩や占いや先祖供養とはあきれます。 信者はまた七科三十七道品など、中身も知らない単語だけを さもわかったかのようにハッタリで振り回す。 師匠も師匠なら、弟子も弟子です。
572 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 18:00
ダンマパダ(法句経) 第183句
七仏通戒偈(シチブツツウカイゲ)
「もろもろの悪をなさず,すべての善を行い,自らの心を浄(キヨ)めよ.
これが諸仏の教えである」
仏道修行の肝要は「心の浄化」であるというのです。
善・悪、苦・楽といってもそれは心のあり方によるというのです。
>>566 >>569
573 :
名無しさん :2000/09/06(水) 18:35
>572 これらの引用は、すべて「仏弟子」に与えられたものです。 仏弟子とは、仏陀に対する疑惑をすてたもの、仏陀に帰依 するものです。 まず、仏陀に対する疑惑を乗り越えて、三宝に帰依してくだ さい。 それなくして、経典を思いつくままに、精神論ふうに利用すれば 「外道の教え」が出来るだけです。 (よこはまさん、これを読んで、あなたがどう書くかわかってるよ。 そこまで、ワンパターンと見られてもまだ書く?)
574 :
名無しさん :2000/09/06(水) 18:36
よこはまとハエたたきが、今生において、三宝に帰依できますように。
575 :
名無しさん :2000/09/06(水) 18:43
>572 やっぱり、仏陀に帰依もしていないにせ坊主が、ダンマパダを 引用すると、いわく言いがたい不快感があるものですね。 ハエは、法話でこの手を使おうと思っているみたいだけど、 檀家がかわいそうだ。下を向きながら「お前には言われたくないよ」 て言うんだろうね。 やっぱり、無信心の坊主なら、せめて「黙って早寝早起き、寺の掃除、 朝夕のお勤めご苦労さん坊主」が良いね。口先ばかりの坊主が一番嫌だ。 無信心の癖に説教するなよ。ハエたたき。
576 :
名無しさん :2000/09/06(水) 18:51
>570 この趣旨は、煩悩=悪 とした、ハエタタキのむりやりの 言い訳はおかしいと言うことです。 煩悩は悪でもなんでもない。多くても少なくても、我々を この世に結びつけるものです。 性欲は、煩悩の欲貪なのか、十二支の愛、取、なのか。 性に関しては、スッタニパータに明確な規定があります。 仏弟子は、一人で森の中で修行せよ。その暮らしに喜びを見出せ ない時は、二人で(同性)で修行せよ。その暮らしに喜びを 見出せない時は、サンガで修行せよ。その暮らしにも喜びを見出せ ない時は、配偶者を得て、家庭を営み二人で修行せよ。 ここまでです。それ以上のことは、だめみたいですよ。(笑)
577 :
名無しさん :2000/09/06(水) 18:56
>570 ベンジャミン・フランクリンが書いてますよね。 金持ちになる法。「収入の八割で暮らす」。 いくら収入が多くても困っている人はいますよね。 収入に満足する。人生の極意ですね!
578 :
名無しさん :2000/09/06(水) 18:59
願わくば不潔なハエタタキが、これ以上清らかな法典を 引用しませんよう。 (このおっちゃんは、こう言われるとよけい、やるんだよね。 だから嫌われ者なんだ。― おっちゃんて関西弁ですか?)
579 :
562>571さん :2000/09/06(水) 19:46
>その実践が何なのかと聞いているのです。
>何もありはしないから、この程度の返答しかできない。
>言葉で逃げないことです。
はい、はい、そう思っていてください。
実践はすでに、
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=psy&key=965617064&st=514&to=523 の516・517で示しましたよ。
それから、自分で何をするべきかは、自分で考えることです。
この程度の返答しかできない、と思うなら、それでいい。
言葉で逃げている、と思うなら、それでいい。
わたしは別に、なんとも思いません。
やる、やらないは、あなた次第ですからね。
>四念處(四念住)なんかは、精神障害になる恐れがある
>と書いたのだから、四念處を実践しているのでしょう。
>桐山さんがいつこれを弟子に伝授したのか、説明してください。
伝授した、という記録は、ないと思います。
>またどうして四念處で精神障害になるのか、
>そのような経典の記述がどこにあるのか、示してください。
わたしの経験から、そう申しております。
ただし、真剣にやれば、の話ですよ。真剣に。
>七科三十七道品など桐山さんは教えたことがないのだから、
>阿含宗では誰も実践できるはずがない。
なぜですか?
阿含経の日本語訳は、たくさん、出版されていますよ。
>信者はまた七科三十七道品など、中身も知らない単語だけを
>さもわかったかのようにハッタリで振り回す。
>師匠も師匠なら、弟子も弟子です。
はい、はい、わかりました。
言論は自由ですものね。
ご勝手にどうぞ。>571 名前:名無しさん@1周年 投稿日:2000/09/06(水) 17:46
>>562さん
>>実践するのは、あなたです、わたしです。
>その実践が何なのかと聞いているのです。
>何もありはしないから、この程度の返答しかできない。
>言葉で逃げないことです。
>>523四念處(四念住)なんかは、精神障害になる恐れがある
>と書いたのだから、四念處を実践しているのでしょう。
>桐山さんがいつこれを弟子に伝授したのか、説明してください。
>またどうして四念處で精神障害になるのか、
>そのような経典の記述がどこにあるのか、示してください。
>七科三十七道品など桐山さんは教えたことがないのだから、
>阿含宗では誰も実践できるはずがない。
>桐山さんは、自分のやっていることが
>釈尊の修行法だと本人がそう言っているだけです。
>それが護摩や占いや先祖供養とはあきれます。
>信者はまた七科三十七道品など、中身も知らない単語だけを
>さもわかったかのようにハッタリで振り回す。
>師匠も師匠なら、弟子も弟子です。
580 :
名無しさん :2000/09/06(水) 20:08
>759 七科三十七道品法について、詳しく書かれている本も 出ていますよね。
581 :
元信者>579,580 :2000/09/06(水) 20:23
私もいろいろ調べたんですが、要は一種の瞑想法でしょう? 「わが身は不浄なり」を徹底的に瞑想したりする。 そういう意味の七科三十七道品は確かに存在します。しか し、それが護摩法とか、昔私がさんざんやった千座行とは 何の関連もないものだと思うのです。私が在籍していた時、 阿含宗が立宗したてだった頃なので、会員さんから「千座 行は阿含経とどう関係するのか」という質問が法話の時に 出たのです。それに対する説明は、「千座行の中に取り込 まれている」でした。それを信じたからこそ、仏陀の成仏 法と信じて睡眠時間を削ってチラシを配り、千座行への 入行を勧めたのです。 あまり世話になった古巣を突付くのは気がひけますが、 事実は事実として明らかにするべきではありませんか?
582 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 21:47
>573よーちオバサン >(よこはまさん、これを読んで、あなたがどう書くかわかってるよ。 >そこまで、ワンパターンと見られてもまだ書く?) 相変わらず、自分がやっていることを相手がやっていると 言い返すワンパターン文面ですね。 よーちオバサンのとてもおもしろいところは、 一生懸命に桐山さんを弁護するために、 釈尊を足蹴にして、ツバを吐きかけ、侮辱している。 桐山さんと阿含宗を擁護するためにまくした内容が、 釈尊を殴り倒しているのと同じだということにまるで気が付かない。 釈尊が護摩や先祖供養を認めたなどというのは、釈尊に対する侮辱です。 阿含宗では、如来である釈尊に対して徳を積むのでしょ。 オバサンのしていることは、徳を積むどころか、ツバを吐きかけている。 如来に対する誹謗中傷がどうなるか、 前に信者さんの取り上げた堕胎経でも読み直してはどうですか。 オバサンの書き込みは、阿含宗の信仰が釈尊の名を借りた 桐山信仰にすぎないことをよく示しています。
583 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 21:52
>579さん 結局、579さんの言っていることは、 桐山さんは七科三十七道品など教えてはいない、 しかし、579さんは本を読んで我流で四念處をやった、 それはまちがったやり方だったから、精神を患った、ということです。 阿含宗の弁護にもなっていない。 本当に釈尊の言うような四念處をやって、 阿含宗で信仰が続けられるはずがありません。 護摩木で祈願したり、霊障のホトケや解脱供養を信じながら、 一方で四念處観をするなど、水と油を混ぜようとするようなものです。 相反することを心に植え付けようとして、精神を患ったのは、 むしろ、579さんの精神が正常な証拠かもしれません。
584 :
579>元信者さん :2000/09/06(水) 22:56
>私もいろいろ調べたんですが、要は一種の瞑想法でしょう? >「わが身は不浄なり」を徹底的に瞑想したりする。 そうですね。それだけではありませんが。 >私が在籍していた時、阿含宗が立宗したてだった頃なので、 わたしも観音慈恵会の袈裟を持っています。 >事実は事実として明らかにするべきではありませんか? そうですね。なぜ、阿含経を会員に広く伝えないのか、不満です。 確かに、いわゆる「七科三十七道品」は、初心の人にとっては危険すぎる個所が多いと思います。 日本も訴訟社会になりつつありますから、もし、阿含宗として、そんなものを気軽に公開したら、きっとそればかりに熱中し、体を傷めてしまうかもしれません。 そうなれば、家族の人が訴訟を起こし、何千件もの訴訟をかかえ、つぶれていくことでしょう。 そういうリスキーな事をしなくても、そのまえにやるべきこと、学ぶべきことは、たくさんあるはずです。 ダンマパダ、スッタ・ニパータなどはその筆頭です。 世界中で愛読されているダンマパダでさえ、阿含宗では公認していない。 なんたることか。 仏教を教えずして、何のための阿含宗か?と、常々思います。 それと、千座行ではありませんが、今の勤行次第の中には、阿含経が入っています。 要訳すると、「七科三十七道品を実践しない限り、どんな人も、仏陀にはなれないのだ」という経です。 これを、阿含宗の人は(わたしもそうなのだが)、毎日、声高らかに読経しています。 意味を理解しながら読んでいる人は少ないと思いますが、(いないとは言いません) 毎日、「七科三十七道品を実践しない限り、どんな人も、仏陀にはなれないのだ」と唱えているのです。 #カメレス、ごめんなさい。IMEがイカレていて、ここまでに4回再起動しています。漢字はすべてIMEパッドで、マウス入力なのです。
585 :
579>583さん :2000/09/06(水) 23:06
あらあら、酷い言われようですね。 まあ、どう思われようと、かまいませんけどね。 おしいですね、せっかく阿含経の主要な所を引きぬいているのに、それを自分の糧にしようとしないなんて。
586 :
名無しさん@1周年 :2000/09/06(水) 23:30
>585さん >おしいですね、せっかく阿含経の主要な所を引きぬいているのに、それを自分の糧にしようとしないなん >て。 自分のやり方だけが糧であり、 他人の解釈はまちがっているという態度です。 スッタニパータやダンマパダが重要だと書きながら、 よく阿含宗で、あの桐山さんの下でやってられますね。 オバサンと同じで、護摩も先祖供養も認めたという解釈ですか。 現実を見ようともしない、というその一点だけでも、 585さんの態度は釈迦仏教からはほど遠い。 阿含宗や桐山さんという現実をあるがままに観察することさえしないで、 七科三十七道品を云々するのは 四則演算を知らないのに微積分を習おうとするようなものです。
587 :
ハエたたき :2000/09/06(水) 23:37
>576 女が男に、男が女に惹かれる、性的にふれあいたいと思う、どう考えても、これは自然な 性欲・欲求でしょう。 でも、だからといって、レイプも、SMも、売春も、不倫も、そういうことを必要以上に 煽るような情報も・・・、全部野放しにしていいということにはなりません。 性的な欲求は自然でも、世間にはものすごく歪んだ性的な欲望というものもあって、それ は病的な欲望だといえます。 「知者は婬行を回避せよ。赤熱せる炭火の抗を回避するように。 もし浄行(不婬)を修することができなければ、(在家者として、わが妻をもつにとどめ) 他人の妻を犯すことなかれ。」 「愛するものの愛する人は誰であろうとも、たとえチャンダーラ女(賎民の女)であろうと も、すべての人は平等である。 愛に差別なし。」 「己が妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、 −これは破門への門んである。」 「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって、 得たものをその度に失う人がいる。 これは破門への門である。」 「盛年を過ぎた男がティンバル果のように盛り上がった乳房ある若い女をひき入れてかの 女への嫉妬から夜も眠られぬ−これは破門への門である。」
588 :
579>586さん :2000/09/06(水) 23:48
はい、はい、がんばってくださいね。
589 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 02:31
↑つまりそれしか言えないんでしょ?
590 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 03:02
護摩法も先祖供養も実際効きます! だから、桐山管長の下でやっていられます。 理屈こねるだけで満足できないものでして・・・(笑)。 >581 千座行ね、三十七道品の成仏法で得た法が込められ ていたからということでしょう、成仏力、そういう力が 存在し、如来に通じているということです。 そういうバイブレーションとか雰囲気を感じることは なかったのですか? そうでしょうね なかったから辞めたのでしょう。 ちらし配りをキチガイみたいにやる、いましたわ そういう人、なんでもただガムシャラにやればいいと 思って、睡眠時間けずって・・やり過ぎはなんだって よくないでしょうに、これも貪りのひとつでしょう。 特に、リーダー的人物がこれだと・・周りが迷惑です。
591 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 03:06
>573 >572 >これらの引用は、すべて「仏弟子」に与えられたものです。 >仏弟子とは、仏陀に対する疑惑をすてたもの、仏陀に帰依 >するものです。 私は572でないし、よこはまさんでもないが これはちょっとひどい。 あなたがうわさのよーちおばさんですか? だいたいあなたの言っている「帰依」とは「盲信」のことでしょう。 そういうのは普通、「帰依」とは言いません。 さらに仏陀は臨終の際、 「私の言ったことをそのまま信じるのではなく、 自分自身の理解の灯(自灯明)と法(法灯明)を頼りにしなさい」 という趣旨のことを最後の言葉としました。 そこが仏教がキリスト教やイスラムの原理主義などと決定的に違うところなんです。 2千年以上も言われ続け、 そのたびに否定されてきたような勝手な解釈を、 よくも恥ずかしくもなく書けるもんですね。 >まず、仏陀に対する疑惑を乗り越えて、三宝に帰依してくだ >さい。 >それなくして、経典を思いつくままに、精神論ふうに利用すれば >「外道の教え」が出来るだけです。 夢を夢として認めず、夢の中で勤行やら因縁解脱の行とやらをすれば それが「実践」になるとでも? あなたがどんなに一生懸命になったところで 夢の中で走ったつもりになっていたとしても、 実際に眼が覚めてみれば自分が1歩たりとも動いていなかったことに気が付くでしょう。 三宝に帰依だのなんだの「精神論」を振りかざしているのはあなたでしょう。 阿含宗の人は、二言目にはそれは単なる精神論だ、実践が欠けている、だの、 単なる観念では人は救えない、だのと言うが、 527でも指摘したように、あなたがたの方が自分の作り上げた幻想の中にどっぷり浸かって、 思考という観念の世界から抜け出ることができなくなっているんです。 大乗仏教をまじめに学んでごらんなさい。 あなたが単に知らないだけか桐山にだまされているのか知りませんが、 「実践」の宝庫ですよ。 もっとも大乗の実践の基本は「気づき」ですから あなたが大好きな「幻想」は手放さなくてはならないでしょうが。
592 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 03:31
591>590 >護摩法も先祖供養も実際効きます! >だから、桐山管長の下でやっていられます。 >理屈こねるだけで満足できないものでして・・・(笑)。 何に対して何がどう「効く」というのか? あなたが言っているのは 夢の中でお腹がすいていて、一所懸命に念じたら夢の食べ物が現れた、 という趣旨のことでしょう。 「悪夢」が「甘美な夢」に変わったからといって実際には何にも好転していない。 それどころか以前より増して深く眠りこけているだけです。 仏陀の教えは、それが悪夢であれ、甘美な夢であれ、 夢は夢なのだから「両方とも捨てて(中道)」目覚めなさい、ということです。 桐山みたいに、あなたの悪夢を良い夢に変えてあげよう、 というのは立派な詐欺だよ。 それと591でも指摘したが理屈をこねているのはむしろ阿含宗の信者さんたち。 それがあまりの屁理屈だから他から論破されて、 「実践」やら「功徳」やらに逃げているだけ。 私としては、その信者さんたちにとって最後の砦としていつも逃げ込んでいる先の 「理屈じゃない功徳」とやらの滑稽さを指摘しているだけ。 分かる(笑)?
593 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 04:02
功徳や実践なき宗教など屁みたいなもんだろ(笑)。 そりゃ、あんたは好転せんだろうよ、はなからなんも してないもんな、経典よんで夢みてんのアンタだろ(笑)
594 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 05:09
592>593 >功徳や実践なき宗教など屁みたいなもんだろ(笑)。 なにが「功徳」で何が「実践」なのか、ということが重要。 自分の願いや欲望がかなうことが「功徳」だろうか? 勤行やら、因縁解脱の行やら、滝に打たれたりすることが「実践」なのか? あなたがた阿含宗が言っているような「功徳」を求めたり、 目覚めをもたらさない「実践」をしたりというのは、 仏教はおろか、もはや宗教ですら無い。 >そりゃ、あんたは好転せんだろうよ、はなからなんも >してないもんな、経典よんで夢みてんのアンタだろ(笑) 525、527も私の発言だからもう一度よく読みなさい。 「実践」が欠けているのは、あなたのような発言をする人の方でしょう。 私が何もしていない、とか経典をよんで夢みてるだけ、というのは あなたが「本当の」実践を知らず、 「本当の」功徳を受けたことがないからでしょう。 もっとも、あなたは自分の甘美な夢に夢中で、 その夢から覚めるのが嫌みたいですが。
595 :
我輩 :2000/09/07(木) 05:55
>590 >護摩法も先祖供養も実際効きます! >だから、桐山管長の下でやっていられます。 >理屈こねるだけで満足できないものでして・・・(笑)。 「法の華」でも「ライフスペース」でも、それで難病が治ったとかいう人は本当にいるらしいんだよね。 問題は多少の人に奇蹟が生じているとしても、それよりはるかに多くの人たちが大きな迷惑を被っているということなんじゃないですかね。 しかし、あちらこちら覗いてみたけど、どうしてあんな、と思うような教祖さんのところでも、起きるときは奇蹟ってのは起きてるんだよね。 世の終わりにはインチキ宗教がたくさん現われて不思議なことをして見せることになるってイエスさんが言ってたけど、マジにそろそろかな…… (^^;;)。
596 :
名無しさん :2000/09/07(木) 10:07
>584さん、 三福道の教えもあるでしょう。在家のままで、五欲を満たし、 五の下分結を断じて、(シュダオン、シダゴン)アナゴンを得て、 涅槃界に入る。シュダオンを得れば、預流で、聖者の列にはいり 後戻りはしないのですよ 階段は一段ずつ登りましょう。
597 :
名無しさん :2000/09/07(木) 10:09
>584 >世界中で愛読されているダンマパダでさえ、阿含宗では公認していない。 ?? ダルマチャクラなどにも、よく引用されていますよ。
598 :
名無しさん :2000/09/07(木) 10:13
>590さん、 アーガマ(パーリニカーヤズ)を読めばわかるように、仏陀は、 護摩法も先祖供養も、決して否定していませんよ。 「火の祭典は祭祀の中でも最高のものである。」 「釈迦の弟子は、先祖七代を浄める。」 横浜市のデマゴグに惑わされないようにね。
599 :
名無しさん :2000/09/07(木) 10:24
>591さん、 仏陀の、涅槃得の階梯は、 身見、疑惑、戒取、欲貪、瞋恚、、、、、、、無明 を下から順に切っていくのです。 仏陀の理法に対する疑惑を切らないとどうにもならないのですよ。 疑惑を離れるとは、盲信することではありません。考えて、考えて 疑う余地のなくなった状態が「疑惑を離れた」じょうたいです。 ですから、横浜市の態度は正しいのですよ。疑って疑って真理を 求めている?のですから。 >「私の言ったことをそのまま信じるのではなく、 >自分自身の理解の灯(自灯明)と法(法灯明)を頼りにしなさい」 マハーパリニバーナ経が手元にないのでわかりませんが、 仏陀は 「わたしを拝んだところで何にもならない。」 「わたしの教えた法が重要なのだ。」 「わたしの法を信じて学べ。」と言ったと思いますよ。 「仏陀と仏陀の法が信じられるものが、仏教徒なのです。 あるいは仏陀の教えが、真理かもしれないと思い、真摯に学び始めた ものが仏教徒なのです。」 上記のことを意味して「仏陀に帰依する」とわたしは言っているのです。
600 :
名無しさん :2000/09/07(木) 10:31
>599 燈明=島=洲 と言う訳もありますね。 原語では、この二つは似ている言葉らしい。 最近は、島=洲 のほうが有力みたいですよ。
601 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 10:36
>求聞持法の成就者もいない。 >クンダリーニ覚醒者もいない。 >因縁解脱者もいない。 >七科三十七道品の達成者もいない。 本当ですか? 結局はじめから効能書きだけだったのですか?
602 :
名無しさん :2000/09/07(木) 10:48
↑ 横浜市の自作自演が始まったよ。
603 :
名無しさん :2000/09/07(木) 10:52
>601 引用の番号書かないと、元コメントがわからないじゃない。 自作自演の特徴だね。元コメントの宛名の記号がない。 自分宛てだからね。
604 :
>598 :2000/09/07(木) 10:59
バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。 それは単に外側に関することであるからである。 外的なことによって清浄が得られると考える人は、 実はそれによって浄らかさを得ることができない、 と真理に熟達した人々は語る。 バラモンよ。わたしは〔外的に〕木片を焼くことをやめて、 内面的にのみ光輝を燃焼させる。 永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、 敬わるべき人として、わたくしは清浄行を実践する。 バラモンよ。そなたの慢心は重荷である。 怒りは煙であり、虞言は灰である。 舌は木杓であり、心臓は〔供犠のための〕光炎の場所である。 サンユッタ・ニカーヤ 「ブッダ悪魔との対話」中村元、岩波書店、p.147 阿含宗の信者よ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。 それは単に外側に関することであるからである。 外的なことによって清浄が得られると考える桐山靖雄は、 実はそれによって浄らかさを得ることができない、 と真理に熟達した人々は語る。 阿含宗の信者よ。釈尊は〔外的に〕木片を焼くことをやめて、 内面的にのみ光輝を燃焼させる。 永遠の火をともし、常に心を静かに統一していて、 敬わるべき人として、釈尊は清浄行を実践する。 桐山靖雄よ。そなたの慢心は重荷である。 怒りは煙であり、虚言は灰である。 舌は木杓であり、心臓は〔供犠のための〕光炎の場所である。
605 :
kotarou :2000/09/07(木) 11:00
539 名前:ハエたたき様へ 貴方のお話を伺っていると、マルチンルターを思い出します。 貴方もまた、浄土真宗の異端児ではありませんか。 そうでなければ、多くの、あなたによく似た僧侶が、 ここに現れるでしょうから。
606 :
元信者>605 :2000/09/07(木) 11:58
それは的確なご指摘だと思います。 ルターが成し遂げたのは、教皇に絶対的権力を与えてバビロンに 仕立て上げたカトリック社会から、奴隷を解放することでした から。教皇でなくて、聖書に書いてあることに帰依せよ、と 主張した。 ハエたたきさんは、桐山氏の絶対的権力の奴隷になっている 阿含宗の信徒さんを解放し、仏典に書いてあることに帰依せ よ、と説いておられるのだから、まさに2CHのルターです。 ただ、奴隷の方が気楽でいい、という信者はカトリックにも 阿含宗にもたくさんいます。kotarouさんにはお分かりでし ょう?
607 :
名無しさん :2000/09/07(木) 12:01
>605 信仰心のないものがルターであるわけはないでしょう。 真宗の坊主の99.9%は信仰心などないのです。 ですから、ごく普通の真宗坊主。
608 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 12:12
>585さん >おしいですね、せっかく阿含経の主要な所を引きぬいているのに、 >それを自分の糧にしようとしないなんて。 516以降の経典をあげたのは585さんですよね。 桐山さんはこの経典を読んで、どう糧にしたのでしょう。 護摩と占いで人を集め、霊障で人を脅かし、 集めた金でひたすら勲章をもらっている。 その上、他人の本を密教占星術奥伝と称して講義し、 二つに分けてコピーして信者に配った。 どこに正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定 があるのですか。 こういうのを欲ボケ、泥棒、詐欺というのです。 これがあなたの師事する桐山さんの糧です。 590さんも桐山さんのようになりたいわけだ。 590さんは糧にしているというわりには、正見・正思を実践しながら、 どうして桐山さんの正体に気が付かないのでしょう。 阿含経を読み、ほんの一部でも糧にしたら、阿含宗にいられるはずがない。
609 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 12:16
>590さん >ちらし配りをキチガイみたいにやる、いましたわ >そういう人、なんでもただガムシャラにやればいいと チラシ配布を必死にやった人をこのように罵倒しているが、 それを指示したのは桐山さんですよ。 590さんのいう周りが迷惑なリーダーとは桐山さんに他ならない。 まずいことがあると全て他人のせいにするのは桐山さんの得意技。 長年こういう師匠の下にいるとそっくりになりますね。 590さんは社務所で瞑想し、犬のションベン滝にうたれて、 欲ボケしたジーサンの指導の元、 七科三十七道品と成仏法を体得するわけだ。 観音慈恵会のお袈裟をもっているという584さんと590さんが 同一人物なら、二十年以上も阿含宗をやっていることになります。 二十年も桐山さんを見ていて、正体にいまだに気が付かず、 先祖供養や護摩が「効きます」などと、御利益信仰に はまっている自分の姿を恥ずかしいとも思わないで堂々と書き込む。 それで仏陀の智慧を獲得し、七科三十七道品を体得できたら、 まさに阿含の奇跡ですね。
610 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 12:22
>599 >仏陀の理法に対する疑惑を切らないとどうにもならないのですよ。 よーちオバサンもたまには良いことを書きますね。 釈尊が禁止した護摩を拝んでいる阿含宗徒の疑惑が切れるはずがない。 なぜなら、釈尊の教えを信じようとしないのだから。 釈尊が説きもしない先祖供養をしている阿含宗徒の 戒取が切れているはずがない。 なぜなら、先祖供養という日本の土着信仰を捨てきれないのだから。 よーちオバサンの主張どおり、十結の考えからいくと、 阿含宗徒は最初の三結すら切れることはないから、 シュダオンにはなれず、ましてや桐山アナゴンなどありえません。
611 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 12:29
>599 >「わたしを拝んだところで何にもならない。」 >「わたしの教えた法が重要なのだ。」 >「わたしの法を信じて学べ。」と言ったと思いますよ。 よーちオバサン、今日はさえてますね。 釈尊は自分を拝むのではないとおっしゃっています。 阿含宗では礼拝供養と称して、仏舎利を拝んでいます。 それでいて釈尊の教えに反して、禁止した護摩を拝み、 説きもしない先祖供養をしています。 阿含宗では釈尊の教えた法を完全に無視して、 仏舎利としての釈尊だけを拝んでいる。 よーちオバサンの指摘どおり、 阿含宗は釈尊が否定した信仰をやっています。
612 :
579>596さん :2000/09/07(木) 12:56
>階段は一段ずつ登りましょう。 全くもってその通りだと思います。そのためにも、お釈迦様の教えられた言葉を、一段階ずつ、体に入れて、しっかりと自分のものにしていくことが、大事なことだと思います。 性急なるは、体を壊すだけです。
613 :
579>597さん :2000/09/07(木) 12:57
>>世界中で愛読されているダンマパダでさえ、阿含宗では公認していない。 >?? >ダルマチャクラなどにも、よく引用されていますよ。 個人が、個人に引用して説明しようとすると、職員に厳しく禁止させられるという意味です。 言葉が足らず、失礼しました。ごめんなさい。
614 :
名無しさん :2000/09/07(木) 13:18
>613 やはり、引用も解釈もむつかしいからでしょうね。 仏典の解釈を少し間違うと、おかしな事になりますからね。 詳しいことはわかりませんが、教団における経典の解釈は、 教団の占有物と考えて良いそうです。解釈権と言うのですか? 異なる解釈をしたいのであれば、他宗派を立てるべきと言う。
615 :
kotarou :2000/09/07(木) 13:32
606 名前: 元信者様へ 多少の皮肉を込めています。 と言いますのも、プロテスタントと言う 新たなる教会を作らざるを得ないのでは。 と言う、懸念があるからです。 牧師とか、僧侶と言う導き無しには、 無理では無いだろうかと。 とすれば、阿含宗信徒を、誰かが、導く必要が生じる様に思います。
616 :
名無しさん :2000/09/07(木) 13:35
仏陀の礼拝供養について。(浅学な私の意見) 基本的には、初転法輪を思い出せば良いと思う。 真理を見出した仏陀は、友人の五人の比丘尼、その理法を伝え ようと思った。 「ともよ、私は真理を見出した。」 「私を信ぜよ。私の言葉を真摯に聞け。」 そして、5日間?の対話のうちにまず、 「コンダンニャが覚った!」 現代人でもそうである。仏陀は真理を得たと言っている。 それに対して、どうするのか。頭からの批判的態度でなにが 得られるというのか。 まず仏陀に対して、礼を尽くす。仏陀の弟子になり仏陀の理法 を学ばせてくださいと申しでる。それが仏陀に対する帰依の 第一段階。そして、学んで、学んで、理解する。理解できなけ れば、去れば良い。理解でき、それが真理だとわかれば、感謝の 礼拝をする。その段階なくして、文字面だけを操ってどうなるのか。
617 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 13:36
>614さん >教団の占有物と考えて良いそうです。解釈権と言うのですか? >異なる解釈をしたいのであれば、他宗派を立てるべきと言う。 よーちオバサンは、桐山さんが引用すらしていない経典を 勝手に引用して、勝手な解釈をしています。 別な信者さんは経典を自分で解釈して、教えてもらっていない四念処を 勝手にやったと書き込んでいます。 他にも釈尊の生まれ変わりだの、護摩は火界瞑想だのと、 桐山さんが言ったことも、書いたこともないことを書き込んでいます。 正当な阿含宗の教義を引用したのは、ふぁるこさんくらいでしょう。 桐山さんとは異なる解釈をしたいのですから、よーちオバサンたちは、 阿含宗から離脱して、他宗派を立てるつもりなのですね。
618 :
名無しさん :2000/09/07(木) 13:47
仏陀への帰依、礼拝。 第1段階。 身見(我見)を捨て、仏陀の理法を謙虚に真摯に学びますので、 仏陀の弟子にしてくださいと「頭を下げ」ご挨拶をする。 (どこの教団と言うことはなく、心の中でも良い。) 第2段階。 仏陀の教法を学び、真理を知り、その真理を見つけ体現した 仏陀に対して、感謝と尊敬の礼拝供養を行う。 第3段階 仏陀ご自身が、自らを「応供の仏」であると名乗っておられる。 供養に応じて功徳を与える。仏陀の理法を学び、自ら覚るのが 仏教であるが、仏陀はご自身を礼拝供養するものには「力を貸 してあげるよ。修行しやすく世間福も与えるぞ」と宣言してい るのだ。功徳を求めて仏陀とサンガを供養するのは、仏陀が 教えれられたことだ。 第4段階 仏陀の葬式の方法は仏陀が決められた。王の葬式のごとくせよ と命ぜられている。そしてその遺骨は、なんの迷いも議論もなく、 当然のごとく各地に分配され、各地で供養されるようになった。 それに対して、長老達が異議を申し立てたと言う話はない。 「仏舎利供養は仏陀が決められたことなのだ」。マハーパリバーナ経 を見よ。仏舎利供養のこの世界での開始の様子が良くわかる。 仏舎利は仏陀であり、応供の仏なのである。 「仏陀ご自身が、自らを「応供の仏」であると名乗っておられる。」 ここは、よこはまが狂ったように突っ込んでくるであろうが、 面倒なので、詳細は省いている。自分で考えてね。考えればわかるから。
619 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 13:49
>616さん >現代人でもそうである。仏陀は真理を得たと言っている。 >それに対して、どうするのか。頭からの批判的態度でなにが >得られるというのか。 阿含宗の信者さんは心して616さんの意見を聞くべきでしょう。 よーちオバサン初めこのスレッドの阿含宗の信者は、 経典に書いてある釈尊の教えを頭から信じようとしません。 護摩を禁止しているのに護摩を礼拝し、先祖供養などしています。 こんな態度では何も得られない。 まったくそのとおりです。
620 :
名無しさん :2000/09/07(木) 13:49
>617 私の解釈が、間違っていると指摘されれば、改めれば良いのです。 あらためたくない人は、他宗派を立てれば良いのです。
621 :
名無しさん :2000/09/07(木) 13:56
(1)スッタニパータ(ブッダの言葉)岩波文庫 師(仏陀)は次の詩を以って、喜びの意を表した。 火への供養は祭祀のうちでも最上のものである。サーヴィトリー(賛歌)は ヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。 大洋は、諸河川のうちで最上のものである。 月は、諸々の星のうちでは最上の ものである。太陽は、輝くもののうちで 最上のものである。修行僧の集いは、 功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。 (2)聖ヨハネの預言 私は水によって悔い改めの洗礼(バプテスマ)をさずける。しかし、 私の後から おいでになる方は、私よりも力のある方であり、私は その方のはきものを脱がせ てあげる値打ちもない。 その方は聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をおさ ずけになる。 「マタイ伝」3−11 (3)原始仏典 筑摩書房 中村元編 p208 長老の詩(テーラ・ガータ) 智慧ゆたかな者が家に生まれることがあれば、その雄者(出家修行者) は、実に、 七代の父母を浄める。わたしは「神々の中の神(ブッダ) が(このこと)を可能 にした」と思う。なぜならば、あなた(ブッダ) によって、真にその名にふさわ しい聖者が生まれたからである。 (4) 仏弟子の告白(テーラ・ガータ)岩波文庫 341(以前には)私は種々の祭祀を行っていた。私は火の献供をも実行していた。 ― 「これは清浄なことである」と考えながら。私は 盲目の 凡夫であった。 (342略 ) 343 わたしの誤った見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。わたし は、いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう。われは、修行完成者に敬礼する。 344 わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執を打ち破り、生まれ を繰り返す迷いの生存は滅びてしまった。今や迷いの生存を 再び繰り返すことはない。
622 :
名無しさん :2000/09/07(木) 13:58
>修行僧の集いは、 >功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。 >わたし は、いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう。 >われは、修行完成者に敬礼する。
623 :
名無しさん :2000/09/07(木) 14:02
仏舎利供養は、功徳を望んで供養を行う人にとって最上のものだ、 と思いますよ。なぜなら、仏舎利は応供(供養に応じていただける) の如来様だからです。世間、出世間の殊勝の果報がいただけるのです。
624 :
名無しさん :2000/09/07(木) 14:05
よこはまし、ならびにハエしへのプレゼント。 >仏陀への帰依、礼拝。 >第1段階。 >身見(我見)を捨て、仏陀の理法を謙虚に真摯に学びますので、 >仏陀の弟子にしてくださいと「頭を下げ」ご挨拶をする。 >(どこの教団と言うことはなく、心の中でも良い。) あなたたち、仏陀に頭が下げられるの?あなた達のほうが仏陀より 利口だと思っているのでしょう?
625 :
>621 :2000/09/07(木) 14:06
107 百年のあいだ、林の中で祭祀の火につかえる人がいて、 またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、 その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。 108 功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神にまつり犠牲をささげ、 あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、 (真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。 行いの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。 391正しく覚った人(=ブッダ)は説かれた教えを、 はっきりといかなる人から学び得たであろうとも、 その人を恭しく敬礼せよ、―――バラモンが祭りの火を恭しく尊ぶように。 ダンマパダ 「ブッダの真理のことば、感興のことば」中村元、岩波書店
626 :
名無しさん :2000/09/07(木) 14:08
>625 >自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、 >その供養することのほうが、 まず、仏陀を供養しなさい。仏陀に対する疑惑を捨てなさい。 何よりもこれが大切。
627 :
名無しさん :2000/09/07(木) 14:12
>功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神にまつり >犠牲をささげ、 あるいは火にささげ物をしても、その全部 >をあわせても、 犠牲をささげる祭り、献供の無意味さを説く。 >(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。 真正なるまつりの尊さを説く。 「火への供養は祭祀のうちでも最上のものである」 「いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう」 >行いの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。 しかし、何よりも仏陀への礼拝供養が大切である。 行いの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。
628 :
名無しさん :2000/09/07(木) 14:17
>正しく覚った人(=ブッダ)、 >その人を恭しく敬礼せよ >バラモンが祭りの火を恭しく尊ぶように。 仏陀を恭しく敬礼せよ。真のバラモンが「祭祀のうちでも最上のもので ある火への供養を尊ぶように。「(真に)布施に値する火の祭り」を尊 ぶように。
629 :
名無しさん :2000/09/07(木) 14:21
自己を修養した人、行いの正しい人、正しく覚った人、、 これらはすべて仏陀のことだよ。そのあたりの村人ではないよ。 それと、>625、391の文章がおかしいのでは?
630 :
名無しさん :2000/09/07(木) 14:26
>625 仏陀を供養せよ。真正なる祭りの功徳はすばらしい。仏陀を尊べ、 仏陀(仏陀の教えを伝えた人?文章がはっきりしない)を恭しく 敬礼せよ。真のバラモンは恭しく祭りの火を尊ぶ。 まずは仏陀への礼拝供養と帰依。 続いては、火の供養の功徳についての経典でした。
631 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 14:50
>615 kotarou さん >阿含宗信徒を、誰かが、導く必要が生じる様に思います。 どうして人に頼ろうとするのですか? 仏教徒はお釈迦さんの教えに頼ればいいのですよ。
632 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 14:51
>616@`624@`626 仏陀 = 桐山 とすり替えている。 仏陀、仏陀の教えに帰依するのが仏教徒だけれども、桐山を信じこんで、桐山に帰依する ことと、仏陀に帰依することとは違う。
633 :
kotarou :2000/09/07(木) 15:00
631 名前: 名無しさん@1周年様へ 檀家制度は、江戸時代の名残で、本当に 学びたいなら、本で悟れると。 昔@`howto物がはやりましたが、 音楽学校、柔道場、個人でやると、 我流と言いますが。
634 :
名無しさん :2000/09/07(木) 15:38
>635 私は、桐山靖雄師を通して仏陀を信仰している。 あなたは、桐山師が嫌であれば、直接、仏陀を 信仰すれば良いと思う。 他人の信仰をとやかく言うことはないのよ。 自分が何を信じるかが問題だと思うよ。何も信じ ないという人もいるしね。
635 :
名無しさん :2000/09/07(木) 15:40
↑ >632でした。
636 :
元信者>633 :2000/09/07(木) 15:40
釈尊の時代の弟子達は文盲率が高くて、釈尊自らの説法を 聞かなくては始まらない、という状態だったのでは。 檀家制度も、信徒の知性レベルが低すぎて、仏教の教えが 理解できなかったのを、せめて仏を拝むことで心の平安を 得させようという苦肉の策だったのでしょう? 現代日本のわれわれは、数百円で釈尊の智慧が満載された 教本を、現代日本語で読めるのです。もう独り立ちしても いい頃ではないでしょうかね。 前にも書きましたが、奴隷状態でないと心の平安を得られ ない人は意外に多いのです。独り立ちできるのに、したく ない、という「大人の孤児」を収容するのが宗教団体の 実態だったりして。 私は阿含宗をやめてから、どの教団にも属していません が、ひとりの信仰ほどいいものはありませんよ。神と自 分の一対一。
637 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 15:46
正当な阿含宗の教義を引用すると、その教義自体が間違いだとたたかれ、 阿含宗以外の教義を引用すると、阿含宗をやめろとたたかれ、 桐山管長の本を引用すると、ウソッパチの本だと相手にされず、 桐山管長以外の本を引用すると、阿含宗ならば桐山管長の本から引用しろと相手にされない。 はぁー。
638 :
kotarou :2000/09/07(木) 16:00
637 名前: 名無しさん@1周年 様へ 貴方は、もう十分偉い。 ご苦労様。
639 :
元信者>634 :2000/09/07(木) 16:02
だんだんと問題の本質が見えてきた。 どなたか、「釈尊は自分を礼拝せよとは行っていない」と 指摘されていましたが、現代のわれわれだって、釈尊を 礼拝すれば、それは釈尊の奴隷として平安を得ることに なり、仏教の本来の教えとは離れてしまう。仏教とは釈尊 が開いた道を歩くことですから。ひとりでも歩むことはで きる。 釈尊でなくて、桐山氏の法力を礼拝すれば、やはり奴隷 には変わらないでしょう?
640 :
kotarou :2000/09/07(木) 16:36
639 名前: 元信者>634 貴方は、正解だとも言えるし、間違っているとも言える。 自分がなんであるか、それを、他者によってしか、 決められないのが、人間です。 例えば、今貴方は、何歳だと思いますか。 子供の時も今も、自分は、自分なのです。 おじさんになったかどうか、それは、他者との関係で 決められるのです。
641 :
コピペでごめん4 :2000/09/07(木) 16:40
460 名前:深見さんの本音5 投稿日:2000/08/28(月) 13:38 熱心な会員ほどお金を出す 「コスモメイトのできる前の方が自由だったよね」 深見教祖のこの言葉は、古きよき時代(といっても、ほんの 10年前のことだが)のコスモメイトを知る人にとって、 共通する思いなのかもしれない。 深見教祖を昔から知る元幹部のひとりがいう。 「深見先生にしろ、コスモメイトにしろ、昔はこうじゃなかった。 オーストラリアに牧場を買ったのだって、 『会員さんに喜んでもらえたらいいね』なんて、 皆で話をしていたくらいですから。 ところが1990年から91年にかけて、コスモメイトが資金的に 非常に苦しくなったときがあったんです。それからですよ。 深見先生がおカネのことをいいだしたのは。 いろいろな催しものだって、深見先生は、始める前に、 今日はいくら集まったか確認しないと気がすまないんです」 別の元幹部の話。 「そのころ(90年から91年にかけて)だと思うんですが、 オーストラリアを中心に海外資産を手当たり次第買い漁って しまったために、コスモメイトの収入より支出が越える事態に なったんです。そこでいろいろな行事や秘法を考えだして、 一挙に収入を増やそうとしたわけです」 (中略) 最近、検察庁の検事総長以下、主だった幹部に対して、 ほぼ同一内容の手紙が送られてきた。 <パワフルコスモメイトは純粋な宗教活動を行なっている 宗教団体である。従って、その収入に関して非課税となるのは 当然のことであり、国税当局もこれを認めてきた経緯がある。 ところが、国税当局が、これまでの経緯をひっくり返し、 脱税だと決めつけるのは、信教の自由をおかす以外の なにものでもない> これらの手紙は、おそらくパワフルコスモメイト会員たちが 出したものと思われる。前出の“肉声テープ”に収められた 深見教祖の肉声と引き比べた時、あまりのギャップに疑問を 覚えずにはいられないのである。(了) 以上、どんな団体スレよりコピペ
642 :
641 :2000/09/07(木) 16:42
申し訳ない。 別スレと間違えました。直謝り。
643 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 17:47
>618 >仏陀への帰依、礼拝。 これはよーちオバサンの立てた新しい宗派の教義ですね。 623以降の書き込みも、こんなことは桐山さんは一言も言ってません。 「よーちオバ教」の解釈権はオバサンにあります。 今のところ、信者はいません。
644 :
元信者>640 :2000/09/07(木) 17:49
それは逆でしょう。「おじさん」の自分でなくて、子供 の時代にも今も一貫した自分の方が本当の「自分」では ありませんか? 年をとって「おじさん」になるのは肉体の自分で、この 世での仮の姿にすぎません。
645 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 17:50
>618 >と命ぜられている。そしてその遺骨は、なんの迷いも議論もなく、 >当然のごとく各地に分配され、各地で供養されるようになった。 >それに対して、長老達が異議を申し立てたと言う話はない。 経典のどこを読んでいるものやら。 遺骨の分配を巡って、 仏教徒でないバラモンが介入しなければならないほど争いをしたのですよ。 「長老」とは誰のことですか。 出家の修行者が遺骨の祭り方に口をだすわけがないでしょう。 書き込むときには、経典を読んでからにしなさい。 桐山さんのようにうまくごまかさないと、 よーちオバ教には信者が集まらないよ。
646 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 17:54
>618 >「仏舎利供養は仏陀が決められたことなのだ」。マハーパリバーナ経 >を見よ。仏舎利供養のこの世界での開始の様子が良くわかる。 >仏舎利は仏陀であり、応供の仏なのである。 仏舎利が「仏陀であり、応供の仏」などといつ釈尊が言いましたか。 応供の仏という概念が経典のどこにあるか示しなさい。 桐山さんの創作教学と阿含経をいっしょにしなさんな。
647 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 17:59
>637さん >正当な阿含宗の教義を引用すると、その教義自体が間違いだとたたかれ、 ため息はごもっともです。 ガラスをダイヤだと偽っても、たたけば壊れるからすぐにわかります。 それと同じで、釈迦仏教とは似ても似つかないものを 釈迦仏教だと主張したら、世間では通用しないのは当然です。 桐山さんはその場しのぎの適当なことを言うものだから、 阿含宗の教義の内側においてすらも矛盾がたくさんあります。 桐山さんが正しいという前提で主張するかぎり、 どう主張しても成り立たないことはこれまでの議論で十分です。 嘘やデタラメで固めているから、素人でも指摘できる程度です。 オバサンのようにわめいたり吠えたりする以外に方法がありません。 信者さんにしてみると、阿含宗を攻撃されるのは 自分を攻撃されるような錯覚を覚えるのでしょう。 だが、あなたは桐山靖雄でも阿含宗でもない。 なぜ、自分がこれほどデタラメで矛盾だらけの宗教を信じているのか、 一度振り返る機会にしてはいかがですか。
648 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 18:55
>ガラスをダイヤだと偽っても、たたけば壊れるからすぐにわかります。 ダイヤもたたけば、砕けます。 あ、いや、純粋に物理のお話。 ごめんね、話の腰を折って。
649 :
名無しさん :2000/09/07(木) 20:07
>645 「分配して、供養するということ」に関しては、誰一人疑問を 呈さなかった。 分配に関してもめたことは知っている。仲裁に入った人は 「仏陀は耐え忍ぶことを教えた」といって仲裁しているんですね。 再度、 「分配して、供養するということ」に関しては、誰一人疑問を呈さなかった。 あなたのコメントは予想通りでした。
650 :
名無しさん :2000/09/07(木) 20:09
>646 >仏舎利が「仏陀であり、応供の仏」などといつ釈尊が言いましたか。 この質問も予想どおり。飛躍の有る発想はすべてわからないみたい。 説明するのが面倒。
651 :
名無しさん :2000/09/07(木) 20:11
>648 硬度と、破壊できるできないは別なんだよね。 叩いても割れなかったら、加工できないよね。
652 :
名無しさん :2000/09/07(木) 20:17
>646 仏陀の十号の意味と、仏舎利の意味、そして、仏陀の滅後 弟子や信者達が何の迷いも無く仏舎利供養を始めた事を考 えればわかるはず。 原始仏典を調べれば、これこれこうで有るといえるだろうが、 調べなくてもわかるよね。考えれば。 また、調べるのも面倒だよね。自分で調べてね! 「仏舎利は応供の如来に等しい。」 この命題に対して、肯定の立場、否定の立場、両方で 文献を読んでいけば良い。3日も読めばわかるだろう。
653 :
元信者 :2000/09/07(木) 20:20
仏舎利ですか。聖遺物のひとつですね。 カトリックでは、奇跡を3回以上起こしたとバチカンが認め た人を聖者に祭り上げ、その遺物を礼拝するのです。中には それで奇跡が起こった例もあります。というより、遺物を 拝んで奇跡が起きたので、聖者と認定されたケースが多い。 プロテスタントは、一切そのような聖者も聖遺物も認めて いません。彼らの主張によれば、偶像崇拝になるからです。 私はどちらかというと、仏舎利を礼拝するのは偶像崇拝だ と思います。人間の弱さをカバーしてくれる心理効果は 認めますが、釈尊が言う「私を崇拝するな」に背く行為 だし、仏舎利の奴隷になって安心を得る、文盲時代の信仰 の形です。 いくら仏舎利を拝んで奇跡が起きたとしても、釈尊が喜ぶ とは思えません。いや、遺体を残したことを泣いて悔やむ でしょうね。
654 :
名無しさん :2000/09/07(木) 20:28
>652 予想予想と書いたから、次の予想も書いておく。 「仏陀の十号なんて後世が勝手につけたものだ。」て言いたいん でしょう。 そんな事は無いよ。十号はちゃんと原始仏典に載っている。 実は調べてないんだけど、調べればきっと有るよ。 なぜこんなことをわざわざ言うかといえば、仏教は筋道の立った ものだから、原始仏典には、筋道通りのことが載っているはずだと 確信しているから。 次のあなたの言葉も予想できるよ。「いいかげん」という単語が はいるよね。 反論したければ、自分で仏典を調べて反論してね。(そのまた次の 言葉も予想できる。「自分」ていう言葉が入るでしょう?)(笑)
655 :
名無しさん :2000/09/07(木) 20:40
>653 元信者さん、こんばんは。 >私はどちらかというと、仏舎利を礼拝するのは偶像崇拝だ >と思います。人間の弱さをカバーしてくれる心理効果は >認めますが、釈尊が言う「私を崇拝するな」に背く行為 >だし、仏舎利の奴隷になって安心を得る、文盲時代の信仰 >の形です。 2500年前は、文字をあまり使わなかったようですが、知性と 霊性は現代より、もっともっと高度な時代だったようですよ。 また言葉は、読誦することにより頭に入れてしまう時代だった ようですね。現代でも、ユダヤ人などは音読で丸一冊の本を 簡単に頭に入れてしまうようですが、かの時代もそうだったので しょう。 現代より知性が低いことは無いでしょう。電気とモーター、とエン ジンや電子機器は有りませんがね。 仏教の場合は「私はどちらかというと〜と思います」ではなく、文献 を示さないと、何事かを主張はできないようですよ。 「こう思う」というのも直感として大切だと思いますが。
656 :
名無しさん :2000/09/07(木) 20:42
それでは、私は 6−21デイタイムなので、 これで失礼します。
657 :
ハエたたき :2000/09/07(木) 21:20
>「こう思う」というのも直感として大切だと思いますが。 あなたは、自分の主張が、お釈迦さんの教えにもとづいたものではなく、 単なる自分の思いつきだとおっしゃるのですよね。
658 :
ヌマエビ :2000/09/07(木) 21:23
「刑獄の因縁」 29.そして霊障物語が始まった 桐山氏は前科がばれてしまうと、今度は、それを逆手にとって、霊障話へと妄想 を発展させていきました。 1978年に「宝石」で前科が報じられると、例祭法話で、続いて1981年の「1999 年カルマと霊障からの脱出」で、自分の前科を逆手にとって、霊障の怖さを宣伝 し始めます。 1980年以降、霊障こそが悪因縁の元であると主張し始めます。 他の新興宗教では珍しくもない霊障ですが、桐山氏はそれまで説いたことがあり ませんでした。 桐山氏は自分に霊視能力が備わったからだと述べています。 2年前に阿含宗を立宗したので、阿含経と霊視能力をくっつけ、一石二鳥を狙っ たつもりでした。 霊障話が突然出てくるのが、前科が世間に知られた時期と一致するのは偶然では ありません。 前科を正当化するための言い訳を構築する必要に迫られていました。 桐山氏は転んでもタダでは起きません。 逆転の発想で、前科がばれると、壮大な霊障物語によって、自分のカモフラージ ュに留まらず、阿含宗に新たなセールスポイントを付け加えたのです。 霊障物語によって、前科は先祖の因縁だけでなく、大元は霊障によって作られた のだと、言い訳に「奥行き」を持たせました。 作家として、詐欺師としての真骨頂です。 だが、桐山氏の主張を聞くときに忘れてはならないのは、因縁も霊障も、桐山氏 以外には誰も何一つ確認のできない内容だという点です。
659 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 21:25
こら、きりやま!因縁因縁て因縁つけて金巻き上げるのもいい加減にしろ!
660 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 22:14
>649さん >「分配して、供養するということ」に関しては、誰一人疑問を呈さなかった。 >あなたのコメントは予想通りでした。 なるほど、よーちオバサンは人をひっかけたつもりですか。 しかし、経典をよく読んでごらんなさい。 マッラ族は分配することを疑問どころか、拒絶したのです。 かれらがこのように言ったときに、クシナーラーのマッラ族は、 かの集まった人々に、このように言った、 「尊師はわれわれの村の土地でお亡くなりになったのである。 われわれは尊師の遺骨の一部分も与えないであろう」と。 「ブッダ最後の旅」中村元、岩波書店、177ページ よーちオバサン、人をひっかけようと思ったら、 経典くらいちゃんと読んでからにしなさい。 オバサンと違い、私はひっかけてやろうなどとは思いません。 だから、645でちゃんと経典を読むように勧めました。 素直に読んでいれば、649のようなバカ恥をさらさなくても済んだものを。 オバサンは人をひっかけたつもりで、自らひっかかって、 何の根拠もないことを自信たっぷりに書いていることや、 底意地の悪さにかけては天下一品だと暴露したようなものです。
661 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 22:17
>648、651 話がそれるのでダイヤの話はしたくないが・・・。 ダイヤは、内部に傷でもないかぎり、ちょっと叩いたくらいでは割れません。 ダイヤを加工するのには叩いて割る(651)のではなく、削るのです。 ダイヤを鋼鉄のシャフトに付けて高速回転させて 岩石に穴を開けるのに使いますから、激しく叩いたのと同じです。 有名なのはイギリスとフランスを結ぶユーロトンネルの掘削機です。 阿含宗ではダイヤの代わりにガラスを取り付けてトンネルを掘りますか。 たしかに手で叩いたくらいでは割れないガラスもありますが。 たとえ話に文句がつくということは、 いかに本論では議論ができないかということですね。
662 :
名無しさん@1周年 :2000/09/07(木) 22:22
>650 >この質問も予想どおり。飛躍の有る発想はすべてわからないみたい。 >説明するのが面倒。 飛躍しているのは発想ではなくよーちオバサンのアタマです。 「文献を読んでいけば良い」 「自分で調べて」 というのは、 「何の根拠もないことだから、文献などない」 「自分では調べたことがないし、口からでまかせに言った」 という意味で、オバサンが答えられなくなったときの常套返事ですね。
663 :
648 :2000/09/08(金) 00:26
>661 割れます。 靱性(じんせい)とは、その材料のねばり強さ、すなわち加えられた外力に抵抗して破壊しにくい性質をいう。硬度とは別の物性であり、靱性が高いということは、壊れにくさ、割れにくさを示すものである。靱性が低い場合は、反対の性質である。脆性が大きいことになる。一般に、硬度と靱性が混同され、割れにくい性質を硬度と誤ったり、硬度が高ければ割れにくいと思い込んだりしている。ダイアモンドは万物最高の硬度を持つが、破壊に対する抵抗、つまり靱性は水晶と同程度であり、衝撃力が加えられた場合は破壊する。翡翠(ジェダイト)が俗に硬い宝石といわれるのは、それらが集合結晶で、他の単結晶材よりも靱性が高く、割れにくいために研磨加工がやりにくいことから生じた誤解である。 といったところです。 劈開(へきかい)とは、不規則な形態のダイアモンド原石でも、決まった三つの重要な面、すなわち六面体面、八面体面、十二面体面の一つに相当する面をもつものである。ダイアモンドの劈開性は完全であり、その可能方向は、結晶の八面体面に平行な方向である。原石をいくつかに分割、または欠陥部を取除く際に、研磨加工では能率的にいかないので劈開作業によって分割する場合がある。この作業は原石をステックの先端に接着し、劈開すべき部分にダイア工具で切り溝をつけ、タガネ状の劈開ナイフをそこにあて、特製のハンマーで方向を見て叩くと、原石は劈開面上で二つに分割される。作業そのものは単純であるが、一歩誤ると高価な原石を粉々に破砕してしまうので、結晶的知識、多年の経験、そして細心の注意が必要とされる。 ということです。 専門職も見ているということを、お忘れなく。 >たとえ話に文句がつくということは、 >いかに本論では議論ができないかということですね。 何でも煽りに結びつけるのですね、あなたは。 「純粋に物理のお話。」と 断っておいたでしょう。 ったく。 宝石加工業員より。
664 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 01:14
若くて原宿系の古着が似合う阿含宗徒はいませんか? 私の理想です。そんな人と付き合いたい〜
665 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 01:29
>663さん ちょっと一言。 ここは阿含宗批判のスレなの。宝石加工の話なんか他でやれば。 たとえ話から派生したというのはわかるけど、 阿含宗批判からずれてしまっては意味がないと思いますよ。 662さんに対し、「煽りに結びつけるのですね」とあるけど、 毎度煽ったり野次ったりしてるのは、ようちえんじのおかあさんの方のようですが。 たとえば、ハエたたきさんなどへの煽りや野次りは、品性を疑うものが多々見受けられます。
666 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 03:15
なんだここわ? よーするに阿含宗は釈迦仏教じゃないといいたいんだろ あたりまえなんじゃないか、新宗教だろ。 阿含宗側が釈迦仏教といっているのか知らんが、 桐山さんが立てた新宗教 これが正しい。 なにをいまさらごちゃごちゃと言ってんだか! 悪口に関しては当局はノーコメントです。
667 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 03:33
591>599 >疑惑を離れるとは、盲信することではありません。考えて、考えて >疑う余地のなくなった状態が「疑惑を離れた」じょうたいです。 まったく違う。 こんなでたらめを、自信たっぷりに平気で書けるなんて、 阿含宗のレベルの低さが伺われますね。 もっとも、世間一般のいわゆる「常識」でも、こういう勘違いはあるようですから、 これを機会に、この手のテーマに関する仏教的理解と世間的理解の仕方の微妙な違いを学んで下さい。 いいですか、 「何かを信じること」と、「何かを疑うこと」というのは、 実を言うとまったく同じ性質を持ったことなんです。 なぜか? 両者とも「思考」の領域に属しているからです。 普通、何かを「信じる」とき、私たちは思考で物事を捉えています。 決して「あるそのもの」の「あるがままの有りよう」を直視しているわけではありません。 同じように、何かを「疑う」ときにも、 そこには思考による価値判断が入り込み、 「あるがままの現実」をそのまま見ている訳ではないんです。 したがって、いわゆる「信仰」と「疑い」は、 物事を「あるがままに見ること妨げる」という意味においては、 まったく同じものなんです。 仏陀は、自分を「信仰」するように、とは教えませんでした。 代わりに「中道」を教えたんです。 そして「中道」とは「信仰」も「疑惑」も両方捨てることです。 >「仏陀と仏陀の法が信じられるものが、仏教徒なのです。 >あるいは仏陀の教えが、真理かもしれないと思い、真摯に学び始めた >ものが仏教徒なのです。」 仏陀の法とはなにか? 仏陀の教えとはなにか? まず第一にあなたが念頭に置かなくてはいけないのは、 真理は誰のものでもない、ということです。 仏陀が言おうと言うまいと真理は真理。 人は、それを自分自身で自分自身のなかに見いださなくてはならない。 第二にあなたはそれをどうして「真理」だと知るのか? あなた方阿含宗は、阿含経こそは仏陀の直接の言葉だという。 そうかも知れない。 しかし、それを解釈するのは「あなた」でしょう。 そして「あなた」がもし真理を知らないのなら、 どうあがいてもそれを正しく解釈できる訳など無い。 同じ言葉でも受け取る人によって、 また、同じ人でもそのときの成長の度合いによって、 その同じ言葉が違った意味に読めるときがある。 仏陀の言葉を100%間違いなく解釈できるのは仏陀だけ。 「あなた」にはそれは無理です。 それくらいのことはあなただって認めるでしょう? もしかしたら、あなたは愚かにも桐山が代わりに解釈してくれる、 と言うかも知れない。 しかしそれでも同じことの繰り返しです。 よく考えてごらんなさい。 100歩譲って桐山が正しい解釈をしたとしても(絶対あり得ないが)、 その桐山の(解釈した)言葉を聞いて、 「その言葉」を解釈するのは、またしても「あなた」だから。 私は別に屁理屈を言っている訳ではないよ。 実際、このスレッドのなかでも「解釈権」の話が出てきているでしょう? こんなのは、それこそ宗教というものができて以来、何千年も繰り返されてきたこと。 であるなら、 本当の「帰依」とは、 自分自身の内なるブッダ(覚醒)に対するもの以外ではありえない。 自灯明(別に洲でも良いが)というのは、本来そういう意味で、 信仰を持たないこと=疑惑を持つこと などという単純なものではない。 仏舎利なんぞ拝んでいるのは仏教ではない。
668 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 03:37
阿含宗というよりか、桐山靖雄が憎い憎いという人たちの コーナーです。 どこの馬の骨ともわからない、正式にお寺で修行したことも ない奴が、一宗派を立て成功している、 実に気にいりません たかが新興宗教のくせに 釈迦を引き合いにだしたりして、釈迦をだすなら護摩たくな 護摩は密教の専売特許だぞ、霊障だすのも気に入らない 新興宗教でも、結局なにをやろうが、気にいらねえんだよ! なんであんなのに信者がつくんだ、 信仰は自由でも桐山につくのは許せない、桐山潰したい! ということです。
669 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 03:53
本格的な釈迦の世界の仏教をやりたい人はスリランカでもタイ でも行ってやればいいです。 なにも阿含宗をひきあいにだすことはないのです。 批判のための批判ばかりで 誰もスリランカで出家したいなんて、やつぁ、おりませんよ、ここ 坊さんもいるけど、職業としての坊さんで、スリランカに行くとは 聞いていませんけど、批判だけはずいぶんしますわ。 まあ、憎たらしいんでしょう、桐山氏が。
670 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 04:10
>669 >本格的な釈迦の世界の仏教をやりたい人はスリランカでもタイ >でも行ってやればいいです。 場所の問題かね。 タイにもスリランカにもミャンマーにも本当の仏教なんてないよ。
671 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 04:15
>669 >批判のための批判ばかりで よく読め! タコが。 桐山密教はオウムを産んだの。 日本におけるカルト系新興宗教の元祖のような存在なの。 わぁーた?
672 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 04:17
「本当の」仏教自体が虚妄だしね
673 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 04:50
>桐山靖雄が憎い憎いという人たちのコーナーです。 ああそうだ。悪いか。 >結局なにをやろうが、気にいらねえんだよ! >なんであんなのに信者がつくんだ、 >信仰は自由でも桐山につくのは許せない、桐山潰したい! おお、潰れろ! 潰れろ! 潰れろ! 潰れろ! 潰れろ! 潰れろ! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 潰れろ! 潰れろ! 潰れろ! 潰れろ! 潰れろ! 潰れろ! 潰れろ! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! 氏ね! あ〜〜〜気持ちいい〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
674 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 05:25
阿含信者は桐山護摩に入れて灰になってしまえ!!!!! それこそ成仏っつうもんだ。 阿含信者は、これでみんな成仏だ。 よろこべ!!!!!! 最後に桐山も灰になって完全成仏だ。
675 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 07:24
>671 >桐山密教はオウムを産んだの。 >日本におけるカルト系新興宗教の元祖のような存在なの。 阿含宗の教祖とその盲信者達には 前科者の教祖が殺人集団を生み出した事実を自覚して欲しいね。
676 :
元信者>655 :2000/09/08(金) 08:35
RESをどうもです。 原始仏教の時代は今よりも霊性が高かった。それはその通りで しょうね。現に釈尊の法の高度な内容を理解して行じていた訳 ですから、檀家制度で方便の信仰に頼っていた時代とは違い ますね。ただ、当時は印刷技術もなく、今のように誰でも本が 買えるわけではなかった。霊性が高くても、文盲では独り立ち できず、釈尊の所へ出向いて直接話しを聞くほかなかったので す。 仏教についての議論は、文献を当たってからやるべし。これも その通りですね。ただ、私はキリスト教にも足を突っ込んで久 しいので、どうしても対比して見てしまうのです。すると、 イエスと釈尊が説きたかったことは、どちらも同じだったので はないかいう結論が。どちらも、人が作り出した権威(偶像) を崇拝することをやめさせ、本当に自由になることを教えた のではないか。 人はどうしても奴隷根性が抜けきれません。不安に負けて、 権威を作り上げ、それを崇拝してしまいます。仏典が編集さ れていた時代も同じでしょう。常に偶像崇拝の誘惑が仏陀の 法を脅かしていたはずです。 仏典に当たった時、その辺のトリックを見落とすと、過去の 偶像崇拝を復活させるだけに終わります。私は実際に、聖書が 偶像崇拝に堕していく過程を散々、目撃しましたので。
677 :
名無しさん :2000/09/08(金) 09:40
>676 元信者さん、おはようございます。ダイヤモンドさんもおはようございます。 >靱性(じんせい)とは、その材料のねばり強さ、すなわち加えられた >外力に抵抗して破壊しにくい性質をいう。 すごく勉強になりました。仏教では堅固な精進の心のことを、ダイヤモンド (金剛)に喩えますから、その強さの種類を考えることも良いことだと、思い ます。強さにも種類がある。外見上押しの強い人が、内面は弱かったりする 場合もありますしね。 私は、硬度も靱性(じんせい)度も、弱そうです。 よこはまさん。「真理の検証のし方」に関しては「ブッダ最後の旅」でアーナ ンダが語っていますよ。 つづく。 「仏舎利供養、仏蹟巡礼、帝王偉人の祠(神社)、などの正統性」 に関するブッダの言葉。
678 :
名無しさん :2000/09/08(金) 09:56
ブッダ最後の旅 大パリニバーナ経 中村元訳 岩波書店 第5章 (18.病重し)P133 11 「尊い方よ、、、、」(略) 「アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体を処理するのと同じ ように、修行完成者の遺体を処理すべきである。四辻に、修行 完成者のストゥーパをつくるべきである。誰であろうと、そこに 花輪または香料または顔料をささげて礼拝し、また心を浄らかに して信じる人々には、長いあいだ利益と幸せとが起こであろう。」 (略) (これは、かの修行完成者・真人・正しくさとりを開いた人のス トゥーパである)と思って、多くの人は心が浄まる。かれらはそこ で心が浄まって、死後に、身体が壊れてのちに、善いところ・天の 世界に生まれる。アーナンダよ、この道理によって、修行完成者・ 真人・正しくさとりを開いた人については、人々がかれのストゥーパ をつくってこれを拝むべきである。
679 :
名無しさん :2000/09/08(金) 10:03
仏舎利信仰は、とうぜん仏滅以後ですから、原始仏典には マハーパリニッバーナ経にしか載っていないのではないかと 想像しています。大乗経典には、仏舎利信仰の正統性と功徳 を語る仏典は山のようにあるそうですね。
680 :
元信者>678 :2000/09/08(金) 10:10
なるほど。これを見ると、仏舎利供養があながち後世ので っちあげとは断言できませんね。 ただ、修行僧に供養すると功徳を得る、というレベルと同じ 話なのではないでしょうか。あくまで釈尊の修行法が「主」 で、仏舎利供養は「従」。それが証拠に、「多くの人は心 が浄まる」と解説が書いてあって、キリスト者が十字架を 見て心を正す、というのと同じ意味だと思います。胎教で きれいな音楽を聞かせるといい、という位でしょうか。 とても、仏舎利供養そのものに成仏力があるとは思えませ んね。皆さんは如何ですか?
681 :
名無しさん :2000/09/08(金) 10:42
>676 元信者さん、偶像崇拝については、私は二つの考え方をしています。 キリスト教、イスラム教、では偶像崇拝を否定します。 阿含宗でも偶像崇拝は否定しています。仏像を礼拝するときは、 その像ではなく「おみたま」を拝んでいのだ、という解釈だと 思います。 私は、違う考え方も(少し)しています。それは、偶像崇拝に 関して、正邪はないのかもしれない?? ただ、宗教として普遍性があるかどうかの問題ではないかと(も) 思っているのです。 エジプト人は神像を作りました。その神像はエジプト人にとっては 崇高で偉大なものだったでしょうが、他国人にとっては、不思議で 不気味で、崇拝の対象にはならないものだったかもしれません。 神道でも「鏡」が神の象徴であればよかったのだが、現人神に まつりあげ、天皇の姿を神とした。それは、他国人にとっては、とて も受けいれがたいものだったでしょう。 そういう意味で偶像崇拝を否定した宗教は、世界の舞台で成功した。 (成功という意味は、生物学の世界である遺伝子が優位を占めるよ うな感じで考えてください。)そういう考え方もあるのではないかと 思っています。
682 :
名無しさん :2000/09/08(金) 10:47
「ブッダ最後の旅」には、 アーナンダによる、真理の検証のし方、 仏蹟巡礼、 仏舎利供養、帝王偉人の祠(神社)、などの正統性に関 するブッダご自身の言葉などがのっています。 また随所に七科三十七道品法が、平易な言葉でちりばめら れています。
683 :
名無しさん :2000/09/08(金) 10:50
>680 元信者さん、 >死後に、身体が壊れてのちに、善いところ・天の >世界に生まれる。 という言葉もあります。
684 :
名無しさん :2000/09/08(金) 10:52
シュダオンが七来で、七たび天人と生まれ変わってのち、涅槃を得る。 アナゴンが一来で、一たび天人と生まれ変わってのち、涅槃を得る。 でしたね。天に生まれると言うことはそういう意味だと思うのですが。
685 :
名無しさん :2000/09/08(金) 11:04
そこで、阿含宗の三福道が出てきます。 如来の身元において、正法の身元において、聖衆の身元において 功徳をうえる。そのことによって、五の下分結を断じ(シュダオン、 シダゴン)アナゴン果を得ることが出来る。 語の下文結とは、身見、疑惑、戒取、瞋恚、欲貪(よくとん)。 身見とは、我見、または、自己の存在(五蘊)恒常であると見る見解。 疑惑は、ブッダやブッダの法に対する疑惑。 戒取は、ブッダが教えないところの、合理的でない決まり。 功徳を植えるとは、具体的には、 信、戒、施、聞、持、観、法次、法向の八項目を、自分で実践し 他人にも薦める。(八法十六法)。 三結断じれば、シュダオン。三結び断じて、瞋恚、欲貪、うすら げば、シダゴン。五結断じて、アナゴン。 どちらにせよ、疑惑、信、が最初にくる。 疑惑の断ち方、真理の見分け方も、アーナンダの言葉として、 マハーパリニバータスッタンタに出てくるようだ。
686 :
名無しさん :2000/09/08(金) 11:10
三結断じれば、シュダオン。三結び断じて、瞋恚、欲貪、うすら げば、シダゴン。五結断じて、アナゴン。 シュダオンは流預(よる、流れに預かる)といわれ、聖者の流れに 入ったもので、二度と苦界には戻らない。七来ともいわれ、生まれ 変わりの後、涅槃を得る。(必ずしも七回ではない)。 七回はちょっとつらいね。この生で最後にしたいものだが。
687 :
名無しさん :2000/09/08(金) 11:24
まとめとして、 仏舎利供養は、阿含宗の占有物ではない。 日本には名古屋の日泰時に、各宗派共同供養の真正仏舎利が 奉安されている。 各宗派はこの真正仏舎利の供養を始め、阿含経の研究を始め れば、今日からでも正統的な仏教宗派になれるであろう。 (あまりにも差し出がましいコメントでしたが、なにも各宗派を 否定しているわけではないという意味です。) 各宗派でも、そろそろ「宗教改革」が始まっているのではないで しょうか。
688 :
名無しさん :2000/09/08(金) 11:26
677〜687(680を除く)は、私でした。 私ってだーれ?
689 :
名無しさん :2000/09/08(金) 11:35
最後に、阿含宗機関紙の「ダルマチャクラ」に載っていたことですが どの号かわかりませんが、同紙上に、 桐山靖雄管長猊下は「有餘涅槃を得た」との宣言が記載されたようです。 涅槃を得てブッダにならる前の桐山管長しかご存知ない方は、ぜひ、 もう一度、ブッダになられた桐山管長にお会いになっていただきたいも のだと思います。 (つぎの横浜さんのコメント予想。「世の中」「も」という単語が入る。 「世の中」「も」を使わずにコメントいただきたいものですね。)
690 :
名無しさん :2000/09/08(金) 11:41
>684 名前:名無しさん 投稿日:2000/09/08(金) 10:52 >シュダオンが七来で、七たび天人と生まれ変わってのち、涅槃を得る。 >アナゴンが一来で、一たび天人と生まれ変わってのち、涅槃を得る。 >でしたね。天に生まれると言うことはそういう意味だと思うのですが。 そういう意味って、どういう意味? シュダオンってなぁ〜に? 七来ってなぁ〜に? 七たび天人と生まれ変わるってどういうこと? 涅槃を得るってどういうこと? アナゴンってなぁ〜に? 一来ってなぁ〜に? 一たび天人と生まれ変わるってどういうこと? 天に生まれるってどういうこと? 天ってどんなところなの?
691 :
名無しさん :2000/09/08(金) 11:48
685-686 宇宙人の言葉みたいでわかんなぁ〜い。 もう少し、普通の日本語にして欲しいなぁ〜。 三福道って3つの道なんでしょう? 3つの福の道ってなぁ〜に? 全然わかんなぁ〜い。
692 :
名無しさん :2000/09/08(金) 11:55
>690.691 言葉って言うのは、ヒントだから、自分で考えたほうが いいかもね。
693 :
名無しさん :2000/09/08(金) 11:56
「世の中」「も」を使わないと「〜」になるみたいね。
694 :
名無しさん2号 :2000/09/08(金) 12:10
五重の塔だってもともとの起源をさかのぼれば、インドのストゥーパです。 五重の塔もお釈迦さんの遺骨を納めた建物といえます。 でも、五重の塔が本堂、信仰・修行の主たる建物ではありません。 尊い方の遺骨をホッタラカシにできない、大切にお守りをしたい・・・、それは人情でしょ う。 素朴な人情的な敬うという感情と、教えに対する信仰をごっちゃにしてはいけないと思い ます。
695 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 12:11
>678 >ブッダ最後の旅 大パリニバーナ経 中村元訳 岩波書店 この経典は阿含宗の信仰がまちがっていることを示しています。 ここには仏舎利を礼拝することは説いてあるが、 仏舎利が応供の如来であるとか、先祖を供養するとか、 霊障のホトケを解脱させるなどとは書いてありません。 仏舎利の前で護摩を焚いて拝めとは書いていません。 ましてや、何人かの人が指摘しているように、 内容の伴わない礼拝など、釈尊は厳しく戒めています。 経典にあるように、心を浄らかにして礼拝するもので、 また、礼拝によって一層心を浄らかにするためです。 阿含宗のように、信者を霊障や因縁で脅迫するムチと、 現世利益というアメで仏舎利を礼拝させるのは、 恐怖心を植え付け、欲をあおりたてるのですから、 心が浄まるどころか、かえって汚れます。 桐山さんは浄くない心で拝んでいるから、 台所は火の車なのに、名誉買いはやめられない。 仏舎利は在家の信仰です。 出家の僧侶は関わらなかった。 では、桐山さんは在家なのですか。
696 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 12:17
>686 >三結断じれば、シュダオン。三結び断じて、瞋恚、欲貪、うすら >げば、シダゴン。五結断じて、アナゴン。 毎回、阿含宗が釈迦仏教とほど遠いことを説明していただき、 ありがとうございます。 阿含宗の信者は疑惑と戒取でひっかかりますから、 三結を断じることができず、シュダオンにはなれません。 阿含宗の信者は八法の最初の「信」「戒」でひっかかりますから、 八法を実践することはできません。 阿含宗の三福道には、 金で買った仏舎利と、 桐山さんの自己申告の成仏法と 阿含経を知らない阿含宗徒がいるだけです。 桐山さんは、三福道、八法十六法、十結など経典の単語を悪用して、 内容を伴わない自教団の宣伝に使い、信者は鵜呑みにし、 よーちオバサンは壊れたテープレコーダーのように垂れ流しているだけです。
697 :
エセ名無しさん :2000/09/08(金) 12:19
>>693 す〜ぐ、そうやって、よこはまさんだって思い込む、決めつける、あなたのその考え方が間違っているのよ。
ざ〜んね〜んでしたぁ〜。わたしは、よこはまさんじゃないも〜ん。
>言葉って言うのは、ヒントだから、自分で考えたほうがいいかもね。
自分がしゃべったことばの意味が分からないから、おかしな言い訳するんだぁ〜。
あなたのことば、国語辞書探してもわかんなぁ〜い。
698 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 12:21
>689 >桐山靖雄管長猊下は「有餘涅槃を得た」との宣言が記載されたようです。 桐山さんもついにブッダのお仲間入りです。 脳梗塞だけでなく、老人性痴呆症が始まったようです。 あれだけの勲章を身につけたブッダ様が、三途の川を渡れるかどうか、 楽しみがまた一つ増えました。
699 :
元信者>698 :2000/09/08(金) 12:44
>あれだけの勲章を身につけたブッダ様が、三途の川 >を渡れるかどうか、 これはマジに心配になってきました。 信じるかどうかは、皆様にお任せしますが、霊視のきく 人の目撃談によると、金や名誉に執着するとそれが重みに なってグイグイ地獄の方へ落ちていってしまうのだそう です。 三途の川というのも、何かの象徴なのではないでしょう か。重い物を捨てないと向こうに渡りきれない、という。 私などは、イエスや釈尊が、欲望を抑えて担いだ荷物を減 らしなさい、執着を断ちなさい、と教えたのは、こういった 死者の悲惨な姿を目撃していたからのように思えてなりま せん。 シュダオンとかアナゴンと比べると、ものすごくわかりや すい話でしょ?元々釈尊が説いた教えって、こういう誰に もわかる素朴なものだった気がします。私の妄想か?
700 :
ほいくえんのおかぁちゃん :2000/09/08(金) 12:55
>689 >桐山靖雄管長猊下は「有餘涅槃を得た」との宣言が記載されたようです。 妄想、幻覚を見るようになってしまったんですね。 詐欺師から単なるボケ老人になったということでしょう。
701 :
名無しさん :2000/09/08(金) 13:12
>694 >でも、五重の塔が本堂、信仰・修行の主たる建物ではありません。 これが、日本仏教の間違いなんですよね。
702 :
名無しさん :2000/09/08(金) 13:15
>695 有餘涅槃を得た方ですから、当然、在家でも出家でもありません。 人間としての存在を乗り越え(肉体は残すが)、もはや修行者 ではないからです。
703 :
名無しさん :2000/09/08(金) 13:17
>696 >阿含宗の信者は疑惑と戒取でひっかかりますから、 >三結を断じることができず、シュダオンにはなれません。 人のことは良いんですよ。ご自分のことを考えてね。
704 :
名無しさん :2000/09/08(金) 13:21
>699 元信者さん。 先日、奥様がなくなられました。あの年で配偶者をなくすると 普通は悲惨なものです。 冷静でにこやかに法を説かれる姿をみると、やはり、この世の 存在を超えているとしか思えませんね。 まあ、人間というものは「同時代」の偉人というものは、なかなか 理解しないようですね。
705 :
名無しさん :2000/09/08(金) 13:23
今日は、よこはまさんは、名無しさんから始まって だいぶ名前を変えましたね。ご苦労様でした。
706 :
名無しさん :2000/09/08(金) 13:27
>699 >私などは、イエスや釈尊が、欲望を抑えて担いだ荷物を減 >らしなさい、執着を断ちなさい、と教えたのは、こういった どうやって、欲望を抑えるの?執着を断つの? 「自分で自分を説教する?」 それでは、むりだから、仏陀がその有効な方法を教えているん じゃないの。
707 :
名無しさん :2000/09/08(金) 13:29
タンハーを断つったって、乾きに絶え、飢えに絶え、笑って 殺されるところまで行かないと涅槃ではない。 説教や道徳では無理だから、仏陀の教えが有る。 凡人には、シュダオンになるのが限界だと思うよ。
708 :
名無しさん :2000/09/08(金) 13:32
この苦界から逃れるためには、自分の全存在を否定するところまで 踏み込む必要がある。どうして、 「欲望を抑える。執着を断つ。」という言葉だけでそのようなこと ができますか。 やはり、ブッダの教えた通りの道を歩む必要がある。歩みたくない 人はそれでいいのだけどね。
709 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 13:44
>706、707、708さん、ご参考に。 南伝 相応部経典 四三、三四、涅槃 かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジエータ(祇陀)林なるアナータピンディカ (給弧独)の園にましました。 その時、世尊は、比丘たちに告げて、つぎのように仰せられた。 「比丘たちよ、わたしは、汝らのために、涅槃と涅槃にいたる道を説こうと思う。よく聞くがよい。 比丘たちよ、では、涅槃とは何であろうか。比丘たちよ、貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊 滅、これを称して涅槃というのである。 比丘たちよ、また、涅槃にいたる道とは何であろうか。比丘たちよ、ここに比丘があって、遠 離により、離貪により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して、正見を修め育てる。また、遠 離により、……正思を修め育てる。……正語を修め育てる。……正業を修め育てる。……正命を 修め育てる。……正精進を修め育てる。……正念を修め育てる。……正定を修め育てる。比丘た ちよ、これを称して涅槃にいたる道というのである。 比丘たちよ、このようにして、わたしは、汝らのために、涅槃を説き、涅槃にいたる道を説いた。 比丘たちよ、およそ、弟子のさいわいを願い、慈しみある師が、慈しみをもって、弟子たちの ために為すべきことは、わたしはすべて、これを汝らのために為した。 比丘たちよ、ここに樹下がある。ここに空屋がある。思索するがよい。放逸であってはならぬ。 後日に悔いることなかれ。これが、汝らに与えるわたしの教誡である」
710 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 13:46
南伝 相応部経典 四五、八、分別 かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータビンディカ (給孤独)の園にましました。その時、世尊は、もろもろの比丘たちに告げていった。 「比丘たちよ、いまわたしは汝らのために聖なる八支の道を説こうと思う。ひとつ、それを汝ら のために分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。そして、よくよく考えてみるが よろしい。では、わたしは説こう」 「大徳よ、かしこまりました」 と、彼ら比丘たちは世尊にこたえた。世尊は説いていった。 「比丘たちよ、いかなるをか聖なる八支の道というのであろうか。いわく、正見・正思・正語・ 正業・正命・正精進・正念・正定である。 比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦 の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。 比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正思というのであろうか。比丘たちよ、迷いの世間を離れたいと思 うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することなからんと思うことがそれ である。比丘たちよ、これを名づけて正思というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正語というのであろうか。比丘たちよ、偽りの言葉を離れること、 中傷する言葉を離れること、そ悪な言葉を離れること、および雑穢なる言葉を離れることがそれ である。比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正業というのであろうか。比丘たちよ、殺生を離れること、与えら れざるを取らどること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけ て正業というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正命というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の聖なる弟子が あり、よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる。比丘たちよ、その時、こ れを名づけて正命というのである。
711 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 13:47
比丘たちよ、いかなるをか正精進というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があり、 いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を 振い起して努力をする。あるいは、すでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひた すらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、いまだ生ぜざる善きことを生ぜし めんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいはま た、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志 をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。比丘たちよ、その時、こ れを名づけて正精進というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正念というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、 わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、 それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。また、わが感覚において感覚というも のをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪 りと憂いとを調伏して住する。あるいは、わが心において心というものをこまかく観察する。熱 心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住す る。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつ け、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。比丘たちよ、 この時これを名づけて正念というのである。 比丘たちよ、では、いかなるをか正定というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘が あって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながら も、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅を具足して住すると いう。だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向となり、も はやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいた る。これを第二禅を具足して住するという。さらに彼は、その喜びをもまた離れるがゆえに、い まや彼は、内心平等にして執著なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいた る。これを、もろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足 して住するというのである。さらにまた彼は、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも 憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念ありて、清浄 なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するという。もろもろの比丘たちよ、これを名づ けて正定というのである」
712 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 13:48
↑省略されていません
713 :
名無しさん :2000/09/08(金) 18:29
>709 >比丘たちよ、貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊 >滅、これを称して涅槃というのである。 十結煩悩; 五の下分結;身見、疑惑、戒取、瞋恚、欲貪。 身見、疑惑、戒取;これが愚痴(おろかなこと) 貪欲;欲貪(よくとん) 瞋恚;=瞋恚 五の上分結;も貪欲、愚痴、に当てはめられないこともない。
714 :
名無しさん :2000/09/08(金) 18:35
>709 >正見を修め育てる。また、遠 >離により、……正思を修め育てる。……正語を修め育てる。…… >正業を修め育てる。……正命を >修め育てる。……正精進を修め育てる。……正念を修め育てる。 >……正定を修め育てる。比丘た >ちよ、これを称して涅槃にいたる道というのである。 八正道;七科三十七道品法; 念処、正勤、如意足、根、力、覚、道(七科)のうちの「道」
715 :
名無しさん :2000/09/08(金) 18:53
>710 八正道;七科三十七道品法; 念処、正勤、如意足、根、力、覚、道(七科)のうちの 「道」について。 >苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、 >苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ること >がそれである。 >比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。 苦集滅道、の四つの真理(四諦)知ることが、正見のなかでも 重要なことなのでしょうか?
716 :
ハエたたき :2000/09/08(金) 18:59
だいたい、宗教体験といわれるものは、カルト的な常識からかけ離れたものが多いので、 仏教も、摩訶不可思議なるものを、わけも分からずに、やみくもに信じるものであると思 われているのではないかと思います。 しかし、 【信・信仰】 1. パーリ語サッダー:(熱烈な信仰とは異なる)冷静な信。 2. パーリ語パサーダ:清らかな澄み切った心、心を澄んだ清らかなものにする精神作用。 3. パーリ語アディムッティ:盲目的に信ずるのではなく、自然の道理を知るにいたって、 自然に信ぜざるをえない。「不合理なるが故に我信ず」ではなく、それが真実である とおのずと知って信ずる。 とあるように、仏教の信心は、やみくもに信じるということではありません。 仏教の目標である「さとり」は、もともと「しっかり知る」というニュアンスがあります。 「信」は「さとり」への出発点ですが、この「信」にも同様のニュアンスがあります。 仏教では、なるほどど理解、なっとくしてはじめて「信」が生まれるものだということが 強調されます。 上記の「アディムッティ」ということばは、「解脱(さとり)に向かって」という意味も もったことばで、「信解(シンゲ)」「勝解(ショウゲ)」「了達(リョウダツ)」というように漢訳さ れていて、信じることと理解することが一緒になっているのです。 ことばを変えていえば、智慧と心の清浄とを重視しているのが仏教であって、護摩で追善 供養するだの、霊障だの、除霊だの、奇跡だ、超能力だ、占いだの、呪術といったものは 仏教とは無縁のものです。
717 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 19:04
>702 >有餘涅槃を得た方ですから、当然、在家でも出家でもありません。 返事のしようがなくなると、恒例の否定語の連発です。 釈尊は最後まで出家でした。 釈尊は人間としての存在を超えたなどと言ったことはありません。 人間としての存在を超えるなど、桐山さんの言葉の受け売りです。 阿含宗では人間としての存在を超えると勲章がほしくなるらしい。 オウムの教祖も同じようなことを言って、欲に任せて生活し、 最後は人殺しまでしました。 やはり両者は一脈通じるところがあります。 桐山さんのブッダ宣言が、 ダルマチャクラの何月号の何ページにあるのか教えてください。 さぞや盛大に取り上げてあるのでしょう。
718 :
名無しさん :2000/09/08(金) 19:05
>711 八正道;七科三十七道品法; 念処、正勤、如意足、根、力、覚、道(七科)のうちの 「道」のうちの、正定について。 >正定 >もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象 >に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感ず >る境地にいたる。 >これを初禅を具足して住するという。 >その対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向となり、 >もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる >喜びと楽しみのみの境地にいた >これを第二禅 >その喜びをもまた離れ >ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいた >捨あり、念ありて、楽住するという。 >これを第三禅 >楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも >憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、 >ただ、捨あり、念ありて、清浄なる境地 >これを第四禅を具足して住するという。 なかなか、難しいものですね。
719 :
名無しさん :2000/09/08(金) 19:06
>711さん、ありがとうございました。
720 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 19:06
>703 >人のことは良いんですよ。ご自分のことを考えてね。 人のことは良い、ということは、 阿含宗では三結を断じることができないと認めるのですね。 よーちオバサンの偉大な進歩です。
721 :
ハエたたき :2000/09/08(金) 19:07
>>513 七科三十七道品
七科三十七道品というのは、四念処(シネンジョ)、四正厳(シショウゴン)、四神足(シジンソク)、五根
(ゴコン)、五力(ゴリキ)、七覚支(シチカクシ)、八正道(ハッショウドウ)で、あわせて37の数になるの
でそう呼ばれているのです。
722 :
名無しさん :2000/09/08(金) 19:10
>711 今月号の「桐山管長なきあとの解脱供養についての質問」。 「それに対する回答で、以前のダルマチャクラで、、」と触れ られています。 もとのダルマチャクラの号数は知りません。
723 :
名無しさん :2000/09/08(金) 19:13
ハエたたきさんの行かれた仏教大学では、辞書やテキストの丸写し が、論文あるいはレポートとして認められているのですか??
724 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 19:17
>707 >説教や道徳では無理だから、仏陀の教えが有る。 よーちオバサンのこの考えこそが桐山さんの考えです。 自分の力ではどうにもならないから、 釈尊の力を借りて因縁やカルマを切るのだというのです。 桐山さんはその力を身につけて、護摩を焚いて、エイッと 気合いかけると切れてしまう、と本気で信じている。 釈尊の力で因縁が切れるなんてそもそも嘘だが、 桐山さんは巧みにその力は自分しかもっていないと話をすり替えています。 やがて桐山さんの「力」なくしては何もできない信者ができあがります。 因縁を恐れ、霊障を恐れ、護摩木や解脱供養なしには、人生真っ暗。 逆にこれさえやっていれば、生前はどんな不幸も防げるし、 死後は三途の川も青い光を放ちながら渡れると信じている。 釈尊が一度でも、自分の力を頼りにしろ、などと言ったかどうか、 そのような経典がどこにあるか、 よーちオバサンはぜひ紹介してください。
725 :
名無しさん :2000/09/08(金) 19:23
>724 >釈尊が一度でも、自分の力を頼りにしろ、などと言ったかどうか、 >そのような経典がどこにあるか、 大パリニバーナ経に鍛冶工のチュンダの話があります。ブッダに 最後の食事を供養した(間違って毒キノコを差し上げた)在家の 信徒です。その食事の供養によって、チュンダがどれだけの功徳 を得たかについてのお経があります。 読んでみてくださいね。
726 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 19:26
>722 >今月号の「桐山管長なきあとの解脱供養についての質問」。 ありがとうございます。 今月号ではなく、8月号ですね。 元のは1月号、122号です。 「わたくしは有余依涅槃の聖者である」(p.9) と書いてあります。 有余依涅槃の聖者とは仏陀のことですから、 ほんとうに桐山さんはイッテしまいましたね。
727 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 19:29
>725 >を得たかについてのお経があります。 読んでみてくださいね。 具体的にどの部分をそう解釈しているのか示すべきです。 同じ経典でも、よーちオバサンは火を祭祀を釈尊は認めたといい、 批判側は否定したというように、解釈は人によって違います。
728 :
ハエたたき :2000/09/08(金) 19:29
三十七道品 さんじゅうしちどうぼん 〈道品〉(bodhi_p_k_ika_dharma)とは,_悟りへの階梯をなす_修行法のこと.〈菩提分法(ボダイブンポウ)〉ともいう._四念処(シネンジヨ),四_正勤(シシヨウゴン),四_神足(シジンソク),_五根(ゴコン),_五力(ゴリキ),七_覚支(シチカクシ),_八正道(ハツシヨウドウ)という7種の修行法をまとめて三十七道品という.初期仏教経典における最も代表的な実践論とされる. 四念処 しねんじょ 〈四念住(シネンジユウ)〉ともいう.浄・楽・常・我の四顛倒(シテンドウ)を打破するための修 行法で,身体の不浄性を観察し(身念処),感覚の苦性を観察し(受念処),心の無常性を観 察し(心念処),法の無我性を観察する(法念処)もの.原始仏教では_三十七道品(修行法) に加えられる. 正勤 しょうごん [s:samyakpradh_na,(samyak)prah__a] 正しい努力._悟りへの道において,それを妨げる_悪を断ち,それを進める善を起こすよう励むこと.prah__aに基づいて〈正断(シヨウダン)〉〈意断(イダン)〉,pradh_naに基づいて〈正勝(シヨウシヨウ)〉とも訳される.正勤には次の四つの区分があり,〈四正勤〉といい習わされる.1)すでに起こっている悪を断つ努力.2)いまだ生じていない悪は,これを起こさない努力.3)いまだ生じていない善を起こす努力.4)すでに起こっている善は,これを大きくする努力.四正勤は,_三十七道品の構成要素の一つでもある.
729 :
ハエたたき :2000/09/08(金) 19:30
神足 じんそく [1][s:_ddhi_p_da]サンスクリット原語は,〈神通力の構成単位〉〈神通力の基礎〉の意.神通力を獲得する基礎となる意欲・努力・思念・思惟観察の四つのこと.p_daに〈足〉の意味もあるので〈神足〉と漢訳したのであろう. 五根 ごこん [s:pa_cendriya] 〈_根(コン)〉(indriya)とは本来〈力〉〈能力〉を意味し,普通には感覚の能力もしくは器官のことをいう.この意味での五根は,視覚器官(眼(ゲン)),聴覚器官(耳(ニ)),嗅覚器官(鼻(ビ)),味覚器官(舌(ゼツ)),触覚器官(身(シン))の五つを指す._五官(ゴカン)ともいう.これに精神作用をつかさどる内的な器官(_意(イ))も加えると_六根(ロツコン)となる.このほかに,_悟りを得るための五つのすぐれた働きを持つものも五根と呼ばれる.すなわち,_信仰(信(シン)),努力(勤(ゴン)),思念(_念(ネン)),_禅定(ゼンジヨウ)(_定(ジヨウ)),_智慧(チエ)(慧(エ))である. 五力 ごりき [s:pa_ca bal_ni] _悟りに至らしめるはたらきのある,すぐれた5種の勢力.信(シン)・_精進(シヨウジン)・_念(ネン)・_定(ジヨウ)・慧(エ)(_智慧)の_五根(ゴコン)が,欺(ギ)・怠(ダイ)・瞋(シン)・恨(コン)・_怨(オン)の5種の障害(五障(ゴシヨウ))を克服する力.悟り(_菩提(ボダイ))に至るための37種の修行準備(_三十七道品(ドウボン))の中に含まれる.
730 :
ハエたたき :2000/09/08(金) 19:31
覚支 かくし [s:bodhya_ga] 〈_覚〉(_悟り)の部分,すなわち,悟りへと導く要素のこと.〈覚分(カクブン)〉〈菩提分(ボダイブン)〉とも訳される.原始経典以来,1)_念(ネン),2)択法(チヤクホウ),3)_精進(シヨウジン),4)喜(キ),5)_軽安(キヨウアン),6)_定(ジヨウ),7)_捨(シヤ)の七つが覚支として数えられ,〈七覚支〉と総称された.それは,これまでのおのれの言行を注意深く思い起こし(念),それらを正しい_智慧によってよく思量しつつ(択法),怠ることなく励むならば(精進),心に喜びが生じ(喜),喜ぶことによって身体が軽やかになり(軽安),それより心が安らかになり統一されて(定),あらゆる感情を離れた平等な態度が達成される(捨),ということである._四念処(シネンジヨ)の修行から七覚支の修行に進み,七覚支の修行の完成によって_明(ミヨウ)(悟りの_智慧)と_解脱(ゲダツ)が得られるとは,原始経典にしばしば説かれるところである.また,七覚支は_三十七道品の構成要素の一つでもある. 八正道 はっしょうどう [s:_ry_____ga_m_rga] 八つの支分からなる聖なる道の意._苦(ク)の_滅(メツ)に導く八つの正しい実践徳目.〈八聖道(ハツシヨウドウ)〉〈八支正道(ハツシシヨウドウ)〉ともいう.1)正見(シヨウケン)(正しい見解),2)正思(シヨウシ)(正しい思惟),3)正語(シヨウゴ)(正しい言葉),4)正業(シヨウゴウ)(正しい行い),5)正命(シヨウミヨウ)(正しい生活),6)正精進(シヨウシヨウジン)(正しい努力),7)正念(シヨウネン)(正しい心の落着き),8)正定(シヨウジヨウ)(正しい精神統一)の八つをいう._釈迦(シヤカ)の最初の説法(_初転法輪(シヨテンボウリン))において説かれたと伝えられる._四諦(シタイ)の教えにおいては道諦の内容を構成する.また,_苦楽の二辺(いたずらな_苦行(クギヨウ)と欲楽にふけるという二つの極端)を離れた_中道(チユウドウ)の具体的実践方法としても説かれる._三十七道品の構成要素でもある.
731 :
名無しさん :2000/09/08(金) 19:32
ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 中村元訳 岩波書店 P123 この二つの供養の食物は(スジャータとチュンダによる供養)、まさに ひとしいみのり、まさにひとしい果報があり、他の供養の食物よりも はるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳 がある。鍛冶工の子である若き人チュンダは寿命をのばす業を積んだ。 鍛冶工の子である若き人チュンダは容色をます業を積んだ。鍛冶工の子 である若き人チュンダは幸福をます業を積んだ。鍛冶工の子である若き 人チュンダは名声をます業を積んだ。鍛冶工の子である若き人チュンダ は天に生まれる業を積んだ。鍛冶工の子である若き人チュンダは支配権 を獲得する業を積んだ、と。 また、これについて、どうコメントされるかは予想がつきます。 「特殊」って言う言葉を使うでしょう。上のコメントの「オウム」 も予想どおりだった。(書かなかったけど)
732 :
ハエたたき :2000/09/08(金) 19:33
>723 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/09/08(金) 19:13 >ハエたたきさんの行かれた仏教大学では、辞書やテキストの丸写し >が、論文あるいはレポートとして認められているのですか?? わたしはあなたのお手伝いをしているのですよ。 仏教辞典の定義に従って説明してくださろうとしているのでしょうから。
733 :
名無しさん :2000/09/08(金) 19:42
>726 >今月号ではなく、8月号ですね。 >元のは1月号、122号です。 >「わたくしは有余依涅槃の聖者である」(p.9) >と書いてあります。 >有余依涅槃の聖者とは仏陀のことですから、 >ほんとうに桐山さんはイッテしまいましたね。 しかし、資料豊富ですね。ここまで阿含フリークの方は 珍しいですよ。私も、今日の朝まで知りませんでした。 しかしハエさんも、いってしまったみたいですよ。無意味な 資料のコピーをはじめた。一体何が言いたいのだろう。 論旨なき書き込み。異様だね。
734 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 19:53
>731 >ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経 中村元訳 岩波書店 >P123 この言葉のどこがチュンダに対して、 釈尊の力を頼りにするようにと言っているのですか。 だれがどう読んでも、釈尊がチュンダに対して気遣いをしているのです。 チュンダの出した食べ物が原因で釈尊は亡くなったのですから、 彼が激しく責められることは目にみえています。 また責められなくても、彼の自責の念はすごかったでしょう。 釈尊はそれを予想して、自分の死後、チュンダが責められないように、 また自分を責める必要はないのだと予防線を張ってくれたのです。 釈尊がいかに周囲に対して細やかな気遣いをしていたかを示す好例です。 桐山さんもブッダになったのだから、金集めのために 職員たちにハッパをかけるのはやめて、やさしくするべきです。
735 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 19:55
>731 >また、これについて、どうコメントされるかは予想がつきます。 よーちオバサンの透視能力はもうわかりましから、 予想どおりとは書かなくていいです。 予想がつくなら、こちらが書く反論や解釈を先に述べてください。 こちらは書く手間暇が省けてとても助かります。
736 :
ハエたたき :2000/09/08(金) 19:57
>>542 >テーラガータなどを読むと、十二因縁とか七科三十七道品法などが、ちりばめられてい>
>ますよ。空の概念なども全部載っています。
わたしには探せなかったので、ぜひ示して欲しいと思います。
737 :
名無しさん :2000/09/08(金) 20:02
>736 自分で探してね。たとえば798、710、711は 道品法の話だったでしょう?十結煩悩の話も出てたでしょう。 ほとんどがそんな話だから、そのつもりで読まないと見逃すよ。
738 :
名無しさん :2000/09/08(金) 20:07
↑ 709、710、711の間違いでした。 その説明が、713,714,715です。 これだけの経典に、道品法、十結煩悩、四諦の真理まで、出ています。 こんな感じで読んで行くと、全編これ、ブッダの理法ですよ。
739 :
名無しさん :2000/09/08(金) 20:21
>734 そうなんですよね、特殊な例なの。注釈にもそう書いています。 でもね、ブッダは無意味な真実でもない慰めなどは言わないの。 ブッダに供養することで、程度の差はあれ 「大いなる果報、大いなる功徳、寿命をのばす業(わざ)、 容色をます業、幸福をます業、名声をます業、天に生まれる業、 支配権 を獲得する業を積んだ。」が得られる。 だから応供の仏であり、福田なのですよ。無意味な称号はつき ませんよね。 そのほか特殊でない例も、経典にはたくさん載っています。 ハエさん、調べるならアルハトの意味だよ。また丸写しする? よこはまさんの発言予想は止めときます。(書きたいけど我慢、我慢。)
740 :
ハエたたき :2000/09/08(金) 20:40
>>709 -711
>聖なる八支の道というのであろうか。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
とあるように七科三十七道品の中の八正道だけでしょう。
残りの6科29道品はどこですか?
741 :
名無しさん :2000/09/08(金) 21:08
>740 ぱらぱらと出てくるの。いろいろ読んでね。 大パリニバーナ経は理法の宝庫だよ。 岩波文庫の「ブッダ最後の旅」買ってね。 PM21過ぎたね。それではまた明日。さよーなら。
742 :
名無しさん :2000/09/08(金) 21:12
七科三十七道品法は、まとめてする必要はないらしい。 弟子の状況に応じて、導師が与えていく。ブッダも同じ ようにされたようだね。最も最終にくるのは、四神足(如意足) らしいよ。これを済ませると、涅槃が近いらしい。
743 :
名無しさん :2000/09/08(金) 21:14
正定なども「正しく心を定めること」などといわれると 簡単そうだけど、第一禅、二禅、三禅、四禅と具体的に 書かれると、とてつもなく難しいよね。ではでは。失礼。
744 :
ハエたたき :2000/09/08(金) 22:45
>ぱらぱらと出てくるの。 ぱらぱらとどこに出てくるのか教えてくださいと言っているんですよ。 >弟子の状況に応じて、導師が与えていく。ブッダも同じようにされたようだね。 導師って誰?ブッダの導師って誰?適当なウソつくんじゃないよ。 桐山のウソ・デタラメ本に書いてありますか? >最も最終にくるのは、四神足(如意足)らしいよ。これを済ませると、涅槃が近いらしい。 四神足というのは、すぐれた禅定を得ようとして、努力したり統制したりすることで、当然の教えですから、さとりに至る直前というのはとんでもない誤りです。 ついでにいうなら、四正勤というのは、阿含経の中に見つけられない教えの一つなのですが、内容的には、悪は除いて生じないようにし、善は進んで行うべきことを4つに分けて説いているもので、これも当然の教えです。 何しろ、ようちえんさんのいう七科三十七道品というのは全くの口から出まかせのいいかげんなものです。 でも、ようちえんさんは、明日の朝には何もかも忘れて、ケロッとして違うウソを並べ立てるんでしょうね。
745 :
>ハエたたきさん :2000/09/08(金) 23:06
2日前に説明したはずです。
同じ説明をさせたいのですか?
同じ説明をさせるのは、あなた自身、他の人に対して、嫌っていた事でしょう。
もう少し、人の言う事を聞く方だと思っていたのに、残念ですよ。
740 名前:ハエたたき 投稿日:2000/09/08(金) 20:40
>>709 -711
>聖なる八支の道というのであろうか。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
とあるように七科三十七道品の中の八正道だけでしょう。
残りの6科29道品はどこですか?
521 名前:ハエたたき 投稿日:2000/09/06(水) 00:00
>>514 -517
ご苦労様です。
あなたは以上の説明で、七科三十七道品のすべてを説明したつもりですか?
あなたが引用した法蔵館・佛教学辞典、阿含経典 1979 増谷文雄 第三巻にあるように
「四念処」「四正勤」「四如意足」「五根」「五力」「七覚支」および「八支聖道」
四念處(四念住)・四正勤(四正断)・四如意足
(四神足)・五根・五力・七覚支(七菩提分、梵語ボーディ・アンガの譯)・八正道(八聖道)
七分類37項目説明しつくしていますか?
522 名前:ハエたたき 投稿日:2000/09/06(水) 00:03
↑二重になりましたね。すみません。
523 名前:名無しさん@1周年 投稿日:2000/09/06(水) 00:40
>ハエたたきさん
いえ、いえ、八正道(八聖道)だけですね。
他の四念處(四念住)なんかは、精神障害になる恐れがあるので、ここには書きません。
やはり、求める人にこそ、開示されるべきものです。あしからず。
746 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 23:16
>ハエたたき >ようちえんさんは、明日の朝には何もかも忘れて、ケロッとして違うウソを並べ立てるんでしょうね。 人のことをよく言えたもんだね。同じじゃねえか。
747 :
ハエたたき :2000/09/08(金) 23:28
>人のことをよく言えたもんだね。同じじゃねえか。 違いますよ。 ケロッと何もなかったかのように同じことを繰り返す阿含さんたちだから、 念を押したかっただけです。 しつこく念を押されたくなかったら、あなた達こそ同じことを繰り返さないことです。
748 :
名無しさん@1周年 :2000/09/08(金) 23:59
>739 >だから応供の仏であり、福田なのですよ。無意味な称号はつき オバサンの発想の根底は御利益です。 桐山さんが説いていて、それに染まっているのだから、 どんな経典を読もうが、すべて御利益話に転化してしまう。 普通の人なら、釈尊の言葉をチュンダに対する 慈悲の現れだと解釈するところを、 桐山ブッダ流には、御利益の羅列だという。 オバサンの手にかかると、釈尊もただの御利益本尊に変身です。 オバサンの言いたい応供や福田とは、 供養と称する下心満面の取引金品を出すと、何か御利益をくれる 自動販売機型の本尊のことです。 オバサンの解釈は、阿含宗がどのような宗教であるかを 端的に表しています。 桐山さんは慈悲心が欠落した人だから、 信者たちの間にも慈悲の心が育たない。 釈尊の慈悲の言葉を読んでも、御利益の羅列にしか見えない。 その結果が、このオバサンの下品な解釈です。 オバサンは、チュンダにこのくらい御利益をくれる釈尊なんだから、 遺骨を拝めば、半分くらいは取れるだろうと踏んでいるのでしょう。 こういう餓鬼信仰を丸出しにしていながら、 一方で、七科三十七道品だのシュダオンだのと 難しそうな仏教用語をおねだり信仰の上にペタペタと張り付ける。 これもまた桐山さんそっくりのものまねです。 「だから阿含宗に功徳という名前の御利益がある」と言いたいのです。 そういう目で阿含宗代表のオバサンの文章をお読みください。
749 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 01:39
↑の人、かわいそうだね。 言葉は心の鏡。普段、考えていることが、言葉になって表れてきます。 この人は、普段からこういう考えで、暮らしているのでしょう。 そして、普段自分が思っていることが、こうやって表れてくるのです。 オバサンと呼ばれる人が、どなたかは知りませんが、許してやってね。
750 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 02:28
御利益か…。 確かにここのところコメントしてる阿含宗はそういうのが多いね。 功徳と実践のない宗教なんて屁みたいなもん、とか言ってるのとか よーちおばさんとか。 ここまで落ちぶれると馬鹿馬鹿しくって書く気がしなくなるね。 「御利益」なんてあったってなくったってどーでもいいのに。 なにわのことも夢のまた夢…。 夢の中で何が起ころうと夢は夢。 「御利益」もらってそれでハッピーなんて私には信じられない! 私だったら、もし仮に「御利益」がもらえたとしても全くうれしくない。 第一、何か欲しいものがあったら自分の努力で手に入れる。 仏陀だって曲がりなりにも(大した国じゃなかったようだが)一国の王子だった。 金の心配はいらなかったし 国一番の美女の奥さんがいて 何不自由ない生活をしていた。 でも仏陀は不満だった。 すべてを捨てて出家した。 仏陀が御利益を求めたことがあったろうか? 仏陀は御利益ではなく、真理を求めた。 夢からの目覚めを欲したのである。 本当の仏教徒なら「御利益」があったから本物、なんてことは、 はずかしくって口が裂けても言えないはずだ。
751 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 02:30
>749 阿含宗という宗教4 >53 名前:名無しさん@1周年投稿日:2000/08/20(日) 06:33 > >52 > また、横浜オヤジかよ、おまえが来ると荒れんだよな! > どこが嘘だよ、伊勢神宮の行事に関連して護摩を焚いたと > いうことだよ。 > わざわざことこまかく言わないとわかんねえのかよ > オヤジの固まったドタマじゃしょうがないか。 > 伊勢神宮敷地内部で、護摩焚く場所があるかよ > 山の中でも焚いたという事実はあるだろうが > おまえはオウム関連スレッドでわめいていりゃいいんだボケ! ほう、「言葉は心の鏡。普段、考えていることが、言葉になって表れてきます。 この人は、普段からこういう考えで、暮らしているのでしょう。 そして、普段自分が思っていることが、こうやって表れてくるのです。」 と、よーちおばさんは自らおっしゃっているわけですから、 おばさんは「普段からこういう考えで、暮らしている」人なんですね? およそ、仏道修行者たる者の言動ではありませんねえ。 八正道はどうなったんですか??? 品性下劣ですわー。 仏を目指す前にぜひ人間性を身につけて下さいましねえ。
752 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 02:30
教義がどうであれ、醜い心むき出しの阿含叩きのやつらより、純な心を持っている阿含の人の方に好感を持つな。 つーか、阿含叩きに狂ってるオメーら、オメーらが仏教なんて語るな! 阿含の人の方が、よっぽど仏の心を持ってるぞ。 醜いにも程があらぁ。 なんか、えらく、阿含の肩持ったが、阿含じゃないぞ、俺は神道だからな。 それ程にオメーらが、醜い心むき出しってことなんだよ。
753 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 02:41
>751 >品性下劣ですわー。 オメーのことだ。 >仏を目指す前にぜひ人間性を身につけて下さいましねえ。 オメーが先だ。ドアホ。
754 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 02:51
>753 >>751 >>品性下劣ですわー。 >オメーのことだ。 >>仏を目指す前にぜひ人間性を身につけて下さいましねえ。 >オメーが先だ。ドアホ。 私は751じゃないが阿含宗を養護する人って何でみんなこんな人ばっかなの? あっ、類は友を呼ぶってやつか。 阿含宗もほんとこんなのばっかしか寄りつかないね。 Kotarouさんとか。 ま、同病相哀れんでいて下さい。
755 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 03:21
754のつづき。 750>752さん。 なんか思いっきり勘違いしているみたいなんで一言。 よーちおばさんとかKotarouさんとか、 よく読めば非難してる方も、結構みんな和気藹々?やっていて、 あなたの言う通り、有る意味「純」な人たちだ、っていうのは分かっているんです。 っていーかぁ、宗教にはまってだまされている人ってみんなそんなところが有るでしょ? 問題はそういう人をだましている人(桐山)や、 だましている手口(教義)が問題なんであって、 阿含宗の場合、特にその「教義」に特一級の危険性が秘められているのが問題なんです。 だからオウムは阿含宗を母胎にして出てきた。 オウムの幹部は麻原をはじめ、その多くが阿含出身者です。 実際、現代日本では、「仏教」に対してやってはいけないもっとも罪の重い罪を犯したのは、 桐山がその元祖です。彼を手本に多くのカルト系新興宗教が起こったという部分がある。 だから最近は脱会者が多くて、勢力も弱いのにここではたたかれているんです。 つまりあなたが「教義がどうであれ」というのはお門違いもはなはだしい。 みんなその「教義」を問題にしているのに気が付きませんでしたか? だからこそ、このスレッドは他よりも飛び抜けて仏典からの引用が多い。 それに教義批判よりも人格攻撃をしようとするのは阿含宗側が圧倒的に多いでしょ。 すぐに、よこはまさんの返答は分かる、とか言うしね(笑)。 分かりました?
756 :
kotarou :2000/09/09(土) 07:34
722 名前:名無しさん様へ 桐山猊下は、自らの死期の近い事を悟ったのでしょうか。 僧侶は、粗食で欲を断っていますから、長生きする人が多い。 桐山管長は、密教食を食べてあるから、100歳は軽いと思うので、 随分と先の事を、予告されているのでしょうが、 準備のよい事で、恐れ入ります。
757 :
kotarou :2000/09/09(土) 07:43
私が、最初成仏法について思ったことは、 七科三十七道品はこれまでの既成佛教が、 日常にとり入れて行ってきている事ではないか。 と言う事です。 今の、科学全盛の時代と同じく、佛教全盛の時代に 見過ごす事は、無いと思う。 桐山管長は、自分がはじめて発見したら、 人類も、初めてと思っているところがおありの様だ。 謙虚さが必要でしょう。 「天の下に新しき事無し。」
758 :
kotarou :2000/09/09(土) 08:00
続き 元信者さんやハエタタキ様は、 この世に「粘性抵抗」なる物があるのを認めて欲しい。 世間の風とか言う事で人は表現するが、それを認めない人は、 不成仏霊、浮遊霊の存在も認めない。 で、阿含宗信徒が苦しんでいる現状を認めない。
759 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 09:54
>756~758 kotarouさん >742 >七科三十七道品法は、まとめてする必要はないらしい。 よーちえんさんのこの言葉は、正確ではないにしても、全然間違いでもないと思います。 >七科三十七道品はこれまでの既成佛教が、 >日常にとり入れて行ってきている事ではないか。 この表現は、もっと正しいと思います。 三十七道品やそこからもれている念仏・念法・念僧や入出息念定などの教えは、 すべて重んじなければならないものばかりであるのは当たり前です。 しかし、そこから自分たちが実際に行うべき具体的なものはどういうものであるのか、一 つ一つを吟味して考察して選び抜いてきたのが、仏教の歴史だと思います。 そして、有名なところでは、浄土教系が念仏を選び抜き、禅宗系が禅定を選ぶ抜いたので す。 >不成仏霊、浮遊霊の存在も認めない。 >で、阿含宗信徒が苦しんでいる現状を認めない。 私たちは、あなた達の苦しみは、阿含宗ではますます苦しむばかりだし、いつまで阿含宗 を信仰しても解決できないと指摘しているのです。 私たちは、阿含宗の解脱供養・護摩では、あなた達の霊の問題は解決できないと指摘して いるのです。
760 :
ハエたたき :2000/09/09(土) 09:56
>759は、わたしでした。
761 :
名無しさん :2000/09/09(土) 10:04
>744 まずあなたの論旨がわからない。 1)阿含宗を批判したい。 2)原始仏典には、仏教がないといいたい。 3)ハエたたきは仏教を知らないという意見に反論したい。 一体どれなの?
762 :
名無しさん :2000/09/09(土) 10:15
>744 >>弟子の状況に応じて、導師が与えていく。ブッダも同じようにされたようだね。 >導師って誰?ブッダの導師って誰?適当なウソつくんじゃないよ。 仏陀の時代の導師といえば「ブッダ」に決まっている。 仏陀には導師はいない。無師独覚。 当たり前じゃなの。基本的なことがわかってないと話ができないよ。 あなたと違って、仏教の話で嘘なんかつくわけがないの。
763 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 10:17
まあいずれにせよ、仏教には期待できないでしょう。 ダメですね、こんなことでは 仏教から阿含がでて阿含からオウムがでて 阿含の主張することはすでに伝統仏教がやってきていて そんで結局のことは仏教そのものがダメっていうことです。 だいたい時代遅れの古臭い駄目宗教なのです。 同じことの繰り返しの批判とワンパターンの反論 プロの坊さんも参加してこのありさま、 いかに仏教が陳腐なものに堕してしまったか よくわかりました。
764 :
名無しさん :2000/09/09(土) 10:27
>744 >四神足というのは、すぐれた禅定を得ようとして、努力したり統制したり >することで、当然の教えですから、さとりに至る直前というのはとんでも >ない誤りです。 そうですね、この当たりは、当然私には何にもわかりません。 ただ無餘涅槃を得た桐山管長猊下がそうおっしゃっていますから。 直接ご本人にお尋ねになってください。 弟子は、師の言葉を信じるのみです。(不肖の弟子ですが)
765 :
名無しさん :2000/09/09(土) 10:42
>748〜750 仏様の功徳はお嫌いの方が多いようですね。 だけど、仏の教えは「法医王」とか「お薬」に喩えられるのでしょう。 病人、人生の病人が、功徳を求めても悪くはないと思いますが。 にせ薬の方がよっぽど悪いよね。 仏陀の法は「本物の薬です」。効かなければ「プラシーボ」。
766 :
名無しさん :2000/09/09(土) 10:53
>757 コロンブスの卵と同じ話だね。後になれば何でも言える。 「こんは話、昔から知っていたよ」って。 そこに焦点を当てたことが大事なの。
767 :
名無しさん :2000/09/09(土) 10:55
>759 それじゃあ、お念仏で解決できるの?
768 :
名無しさん :2000/09/09(土) 10:56
>763 よこはまさん、ごくろうさまでした。他人のふりしてもわかるよ。
769 :
名無しさん :2000/09/09(土) 11:36
>759 名前:名無しさん@1周年 >三十七道品やそこからもれている念仏・念法・念僧や入出息念定などの教えは、 すべて重んじなければならないものばかりであるのは当たり前です。 しかし、そこから自分たちが実際に行うべき具体的なものはどういうものであるのか、一 つ一つを吟味して考察して選び抜いてきたのが、仏教の歴史だと思います。 そして、有名なところでは、浄土教系が念仏を選び抜き、禅宗系が禅定を選ぶ抜いたので す。 大乗思想、及び実践の萌芽は原始仏教にその源流が認められるというのは、 多くの仏教学者が認めるところです。金岡秀友博士も「密教成立論」で そのあたりの発展史について述べていました。 念仏思想については、 「ブッダの真理の言葉 感興の言葉」 岩波書店 『真理の言葉』第21章 さまざまなこと 296 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、 昼も夜も常に仏を念じている。 このあたりを拡大解釈して浄土思想が出てきたのか?そのあたりの事情は 学者では無いのでなんとも言えませんが、仏教の関心のあるかたはこの 第21章を一度お読みになって頂きたいと思います。一節ごとに意義深い 内容が説かれていますから。 原始仏教の念仏と浄土教の念仏は同一か否か? 原始仏教の禅定と禅宗の禅定は同一か否か? その道の専門家の御意見を覗いたいですね。
770 :
名無しさん :2000/09/09(土) 13:07
761、762、764〜768は、わたしです。 レベルの高い方(769)は私ではありません。 ハエたたきさんへの質問ですが。 >1)阿含宗を批判したい。 >2)原始仏典には、仏教がないといいたい。 >3)ハエたたきは仏教を知らないという意見に反論したい。 (1)でしたら、昨日より論点が変わっています。 (2)でしたら、阿含宗というより仏教全体の問題です。 (3)でしたら、私との会話で、重大な疑義が生じているはずなので、続けたいと 思います。私は「十二支の縁起する項目が、アートマンである」と言っています。 これはかなり思いきった意見だったつもりです。もちろんこのようにダイレクトに は表現していません。しかし、私の文章を読んでいただければ、わかるはずです。 「そんなことどこに?」とおっしゃるのであれば「唖然」。説明したくない。 まあ、「アートマンは仏教では説かない」「無我説である」というのが、私の ハエさんのつぎの発言予想です。 >(1)でしたら、昨日より論点が変わっています。 というのは、お分かりでしょうか?よこはまさんは、わかっておられますよ。 それよりも(769)へのお返事が大変ね。
771 :
名無しさん :2000/09/09(土) 13:14
>744 >弟子の状況に応じて、導師が与えていく。ブッダも同じようにされたようだね。 >導師って誰?ブッダの導師って誰?適当なウソつくんじゃないよ。 >桐山猊下のウソ・デタラメ本に書いてありますか? 「された」を受身に取ったんだね。尊敬語だよ。どうしてこんな読み間違いを するんだろう?
772 :
阿含宗は偉大だ。 :2000/09/09(土) 15:40
阿含宗の桐山管長は、20世紀における有数の大聖者です。 高い境地に達せられた桐山管長との御縁を得ることができた人達は幸いです。 後悔しないうちに、阿含宗の総本山へお参りに行った方がいいですよ。
773 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 18:30
>772 >後悔しないうちに、阿含宗の総本山へお参りに行った方がいいですよ 後悔しないうちに、阿含宗の総本山に訣別した方がいいですよ
774 :
ハエたたき :2000/09/09(土) 20:07
>769 >原始仏教の念仏と浄土教の念仏は同一か否か? >原始仏教の禅定と禅宗の禅定は同一か否か? 同一かという問いに対しては、学者ではないわたしでも同一ではないと断言できます。 時代も社会も違うのですから、同一であるはずがありません。 問われなければならないのは、お釈迦さんの教えを正しく受け継ぐものであるかどうか。 お釈迦さんの説くさとりの境地、涅槃を目指すものであるかどうか。 仏教の思想的な流れ、歴史にのっとったものであるかどうかでしょう。 「新しい仏教のこころ−わたしの仏教概論」増谷文雄 「新しい仏教の探求−ダンマに生きる」玉城康四郎 「現代人のための仏教」平川彰 とりあえず、宗派に属さない学者が書かれたもので、わたしが読んだものを紹介します。
775 :
ハエたたき :2000/09/09(土) 20:10
776 :
名無しさん :2000/09/09(土) 20:52
>774 仏教大学の論文は、著書の紹介ですむらしい。
777 :
名無しさん :2000/09/09(土) 20:55
>774 自分の頭では考えない、文書の丸写し、辞書の丸写し、 定型文をしゃべれるだけの坊主。 教科書は、手紙の書き方、時候の挨拶、定型文の書き方 見たいなものなのだろうね。ノーと売ってるけどね。 仏教は、暗記物か??
778 :
ハエたたき :2000/09/09(土) 21:04
740 名前:ハエたたき 投稿日:2000/09/08(金) 20:40
>>709 -711
>聖なる八支の道というのであろうか。いわく、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。
とあるように七科三十七道品の中の八正道だけでしょう。
残りの6科29道品はどこですか?
===========================================================
同じことの堂々巡りはやめましょう。
779 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 21:17
>765さん >仏陀の法は「本物の薬です」。効かなければ「プラシーボ」。 オバサンの説明は、釈尊と桐山さんの区別や、 釈迦仏教と阿含宗の区別がなく、両者をごちゃ混ぜに話しています。 これもまた阿含宗徒にはよくみられることです。 「仏様の功徳」というとき、オバサンの言っている 仏様とは阿含宗の仏様であり、功徳とは阿含宗のいう御利益です。 だが、仏様とは釈尊の事で、功徳と御利益は違います。 「仏陀の法」とは阿含宗では、桐山さんが教えている内容を指すし、 世間一般には釈尊が説いた教法を意味します。 桐山さんが名付けた「仏陀の法」など釈尊とは何の関係もない。 こんなふうにオバサンは仏教用語を持ち出し、 本来の意味とはかなり違う阿含宗的な意味を入れて話をしている。 阿含宗では梵行や因縁という仏教用語を使うが、 意味は釈迦仏教での使い方とはまるで違います。 阿含宗の定義では桐山さんは有余依涅槃の聖者だという。 だが、仏教の物差しで測れば、彼は有余依涅槃どころか、 初歩的な煩悩すらも切れていないただの俗人です。
780 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 21:27
>739 731のチュンダについての経典の前と後に、二度も釈尊は、 「アーナンダよ。鍛冶工の子チュンダの後悔の念は、 このように言って取り除かれねばならぬ」 と述べています。 中村博士も後ろの解説で、 「みずからは苦痛に悩みながらも、チュンダのことを気づかっていたのである。 チュンダをかばう思いやりがみられる。 ゴータマ・ブッダは思いやりの深い人であった」 と述べています。 これを読んでも、オバサンは御利益話だと思ったのですね。 オバサンも元々御利益ばかりで阿含宗に入ったわけではないでしょう。 ところが、入行してたぶん5〜6年もたつと、 釈尊の言葉も中村博士の言葉も耳に入らず、御利益の虜になっている。 元々オバサンにも人並みの慈悲の心はあったはずだし、 仏教信仰なら慈悲を拡大していいはずなのに、 それが消えて、まるで餓鬼のように御利益ばかりに目が行く。 自分でも驚きませんでしたか。 これはオバサンだけではないのです。 阿含宗にいるとだんだんそうなる。 後ろからは霊障や因縁で脅迫され、前には功徳という名前の 御利益をぶら下げられている。 実態が見えないように七科三十七道品、四果などといった 仏教用語の表書きが貼ってあるから、信者は霊障や御利益を 釈尊が説いたのだと信じ込んでしまう。 なにせ阿含宗では、欲を正当化し、あおりたててくれるのだから、 欲が消えるどころか、だんだん欲深くなる。 信者さんたちの行き着く姿は目の前にあります。 無数の勲章をぶら下げた桐山ブッダ様です。 だが、彼の姿は名誉餓鬼そのものです。 釈尊の名をかたり、己の欲望をどのように満足させてきたか、 総本山に見に行く価値はあるかもしれません。
781 :
名無しさん@1周年 :2000/09/09(土) 21:29
>756 kotarouさん >桐山管長は、密教食を食べてあるから、100歳は軽いと思うので、 密教食を出している光和食品の社長さんは 76歳でガンで亡くなりました。
782 :
ハエたたき :2000/09/10(日) 00:21
ずっと、ようちえんさんのような感覚でいられたら幸せでしょうね。
このスレッドのカキコだって、読んでいるようで、全然読んでいませんよね。
阿含宗を批判するカキコばかりではなく、
>>745 さんのようなたぶん阿含信者だと思え
る人のカキコも読めない。
そればかりか、自分のカキコだって、感情のままにレスしまくるだけだから自己矛盾し
ているんだけど、そんなこともおかまいなし。
何の恥じらいも、ためらいもなく、自分の信じる阿含宗と桐山さんを護るという正義感
で、堂々とレスし続けているのでしょうね。
皮肉なんかではなく、ようちえんさんのような心になれたら、厚かましく、図々しく、
図太く生きることができて、幸せだろうなぁ、と思います。
私たちに批判されても、腹も立たずに、何ら気にならない境地にまで達すれば、本当に
わが道をいくという心境でしょうね。
死ぬまでずっと桐山・阿含宗の夢の中で生きていけたら幸せでしょうけど、いつか夢か
ら覚めることもあるでしょう。
その時のことを思うと気の毒ですね。
人のことなんかほっとけボケ、って罵声が聞こえそうですけど、わたしにとっては人ご
とではありません。
783 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 02:04
>ようちえんさんのような心になれたら、厚かましく、図々しく、 >図太く生きることができて、幸せだろうなぁ、と思います。 >私たちに批判されても、腹も立たずに、何ら気にならない境地にまで達すれば、本当に >わが道をいくという心境でしょうね。 >死ぬまでずっと桐山・阿含宗の夢の中で生きていけたら幸せでしょうけど、いつか夢か >ら覚めることもあるでしょう。 ダイジョーブ。よーちえんさんみたいな人は夢から覚めないですよ。 そういう情緒や感受性、知能や理解力がないようですもん。
784 :
名無しさん :2000/09/10(日) 09:27
>778 阿含宗の依経は漢訳阿含経だが、念処、正勤、如意足、根、力、覚、道。 と七科が挙げられている。昨夜、ぱらぱらとスッタニパータをめくって みたが、はじめの部分は、四念処と四正勤に当てられている。 「良い事を行う」に一章を当てられているところも有る。これは四正勤だ。 テーラガータをめくってみると、四つの瞑想(四禅)と、五つのすぐれ たはたらき、五つの力、さとりを得るための七つのてだてと心の安定を 得るための修養、と四神足、五根、五力、七覚支がダイレクトに書いて ある。 四つの瞑想(四禅)の注釈、(四禅)は誤りであろう。 めんどうだから、書かないでいると「かけないのだろう」と思う。 本当に頭が悪くて人の悪い人は付き合いにくい。自分で調べれば わかるじゃない。次はスッタニパータのどこだというに決まって いる。 こちらは、いちいち引用している時間は無いのだから、最初の100、 200あたりを精読しなさいよ。 一を聞いたら十とは言わないが、二か三くらいはわかりなさいよ。
785 :
名無しさん :2000/09/10(日) 09:29
>784 ハエさんは文章が読めないようだから、もういちど。 「四つの瞑想(四禅)と、五つのすぐれ たはたらき、五つの力、さとりを得るための七つのてだてと心の安定を 得るための修養」 これは、テーラ・ガータからの引用ね。
786 :
名無しさん :2000/09/10(日) 09:44
>778 なにが「堂堂巡りはやめましょうだ」と思うよ。 あんたが、頭が悪いから堂堂めぐりしているんじゃないの。 一を聞けば十をわかるつもりで、「ヒント、示唆」があれば「あ!」 と思って自分で調べて考えなさいよ。 それが、教養あるもの同士のディスカッションでしょう。 一から十まで手取り足取り説明しないといけないの。龍谷大学 というのはよっぽどレベル低いんだね。(研究者は別だろうが)。 先日、ネット上「仏教の専門家」とであった。こちらは素人だ から辞を低くくして教えを請うのみ。こちらの質問に対して、 横槍が入ったが(横槍の人は、専門家のファンみたいだった)、 それを抑えて、「なかなか良い質問だ」と評価してくれ、 2時間にわたって、激しい議論が続いた。私は長年の疑問が氷解 した。その間、本の丸写しなど一文字も無しだ。打って響くような 解答。そのままで論文になるような文章が、何も見ずに空で、 数分で帰ってくるのだ。こう言う人が専門家なのだなあと、感心し たよ。 私だって専門家はちゃんと尊敬する。むやみに馬鹿だというような 事は無い。しかし、あなたは何も知らないし、何も考えられ無い。 たちが悪い、頭の悪い、ただの仏教大学の卒業生だ。馬鹿大学では 成績は良かったかもしれないが、世間ではたいした事は無い。 これは事実だから仕方が無い。 たった、それだけのものが、世界の大あじゃりと同等な口を利くから 片腹痛いんだよ。
787 :
>よこはまさん :2000/09/10(日) 09:50
私の、ののしり方を見てね。「786」。 私が、人を罵るときは、こう言うののしり方をするから。カタカナの罵 り言葉は使ってないでしょう。他の人と間違えないでね。 私の悪い性格なんだけど「頭の悪い人、わかりの悪い人」にすごく 腹が立つの。こいつは馬鹿だと思うとすごく腹が立つ。いけないねえ。 よこはまさんは、頭が良いから嫌いじゃないよ。ハエたたきは本当に馬鹿。 よこはまさんが馬鹿なことを言うときは、「馬鹿なこと」とわかって 言っているでしょう。ハエたたきは本気で馬鹿なことを言っているから ね。馬鹿につける薬は無いよ。 言い訳;私は私自身も馬鹿だと思っています。
788 :
>よこはまさん :2000/09/10(日) 10:00
>779 私は、仏陀の教えと、阿含宗の教えを混同することはありません。 よこはまさんが阿含宗が嫌いであれば、仏陀の教えをダイレクトに 得ていただきたいと希望するのみです。 ROMのかた、他宗の方も、阿含の教えにこだわることは無い。 仏陀にダイレクトに帰依すれば良いのです。 しかし、自分の考えが「桐山靖雄に影響されている」と、ハット 気づく方も多いのでは?非常に影響力の強い思想家ですね。
789 :
>よこはまさん :2000/09/10(日) 10:05
>780 これは、注釈が間違っているのですよ。間違っているというか 注釈の読み方が間違っているのかな? 仏陀が誰かを慰めるために、嘘を言うわけは無いからです。 わざわざスジャータの例まで出している。スジャータとチュンダの ささげた供養が最も大きな功徳があったのです。 昨夜も、スッタニパータを読んでいたのですが、供養と功徳のオン パレードでしたよ。これだけスッッタニパータで強調されている、 供養と功徳の関係をどうして否定するのだろう?
790 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 10:06
遡って興味深く読みました。 ところでひとつお聞きしたいのですが, よーちえんさんは幼稚園児を持つ阿含宗信者さんだとわかりましたが 対戦相手のよこはまさんという方は横浜在住の元信者さんなのか、 それともたんにお名前なのか、どちらですか?
791 :
>よこはまさん :2000/09/10(日) 10:10
ハエたたきさんに対して、阿含宗批判なら、一昨日から 論点が変わっているはずだと申し上げましたが、よこはま さんは、どう論点が変わったかわかりましたか? (ハエはわからないようなので。)
792 :
>よこはまさん :2000/09/10(日) 10:11
>790 よこはまさん、ご苦労様です。791の質問お願いね!
793 :
>よこはまさん :2000/09/10(日) 10:14
784〜792は「わたしです」。 790はよこはまさんです。 さあ私は、こどもにピアノの稽古をつけよう。 さいど、791お願いね!
794 :
名無しさん :2000/09/10(日) 10:16
よこはまさんて、自作自演がばれると数時間書き込み しないでしょう。そういう小細工しなくても良いよ。 わかっているんだから。
795 :
名無しさん :2000/09/10(日) 10:17
それでは、また明日。さよ〜なら。
796 :
名無しさん :2000/09/10(日) 10:34
>よこはまさん。昨日はえたたきに、 私は「十二支の縁起せるものが、アートマンである」と述べたがどう思うか と聞きました。とうぜん、返事はありません。あいつにわかるわけが無いものね。 よこはまさんは、どう思いますか? 「仏教はアートマンは否定している。無我説である。」という解答は無しでね。 ↑これは、わたしが一言で反論するから。それ以外の解答を望む。 この議論がうまくいったら、成果はよこはまさんに進呈するよ。ネットで 「これは私の説ですが」と言ってもいいよ。最終的には、、、だけどね。 (、、、は漢字三文字。)
797 :
名無しさん :2000/09/10(日) 10:36
>791,796 解答お願いしま〜す!
798 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 16:14
>790 >ところでひとつお聞きしたいのですが, >よーちえんさんは幼稚園児を持つ阿含宗信者さんだとわかりましたが >対戦相手のよこはまさんという方は横浜在住の元信者さんなのか、 >それともたんにお名前なのか、どちらですか? おばさんの言う「よこはまさん」は反阿含宗派の総称なんですよ。 無記名投稿(つまり「名無しさん@1周年」)で、 ロジックな文章書く人はみんな「よこはまさん」なんです。 スレッド1だか2あたりで、阿含宗横浜地区の阿含宗会員の話題が出たとき、 いくらか意見を出す人がいたら、その意見を言った方のことを主に「よこはまさん」 と呼ぶようになったようです。 なぜか私もよこはまさんと呼ばれてますし、どうやらよーちさんは、 不特定多数の、自分に反論する意見の者は全員「よこはまさん」と 呼び慣わしているようです。 たぶん私が考える範囲では、数名の投稿者が「よこはまさん」にされているでしょうね。 ためしにハエたたきさんあたりが「名無しさん@一周年」で投稿したら、 おばさんはやっぱり「よこはまさん」と呼びますよ。(笑!! よーちさんは、自分と異なる意見の人は全員「よこはまさん」なのです。
799 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 17:32
>798 そういえば僕も何回かよこはまさんだと呼ばれました。 まあ、よーちえんですから…。
800 :
口下手番長5 :2000/09/10(日) 19:31
801 :
名無しさん :2000/09/10(日) 20:14
(1)スッタニパータ(ブッダの言葉)岩波文庫 師(仏陀)は次の詩を以って、喜びの意を表した。 火への供養は祭祀のうちでも最上のものである。サーヴィトリー(賛歌)は ヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。 大洋は、諸河川のうちで最上のものである。 月は、諸々の星のうちでは最上の ものである。太陽は、輝くもののうちで 最上のものである。修行僧の集いは、 功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。 (2)聖ヨハネの預言 私は水によって悔い改めの洗礼(バプテスマ)をさずける。しかし、 私の後から おいでになる方は、私よりも力のある方であり、私は その方のはきものを脱がせ てあげる値打ちもない。 その方は聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をおさ ずけになる。 「マタイ伝」3−11 (3)原始仏典 筑摩書房 中村元編 p208 長老の詩(テーラ・ガータ) 智慧ゆたかな者が家に生まれることがあれば、その雄者(出家修行者) は、実に、 七代の父母を浄める。わたしは「神々の中の神(ブッダ) が(このこと)を可能 にした」と思う。なぜならば、あなた(ブッダ) によって、真にその名にふさわ しい聖者が生まれたからである。 (4) 仏弟子の告白(テーラ・ガータ)岩波文庫 341(以前には)私は種々の祭祀を行っていた。私は火の献供をも実行していた。 ― 「これは清浄なことである」と考えながら。私は 盲目の 凡夫であった。 (342略 ) 343 わたしの誤った見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。わたし は、いま(真に)布施に値する火の祭りをおこなう。われは、修行完成者に敬礼する。 344 わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執を打ち破り、生まれ を繰り返す迷いの生存は滅びてしまった。今や迷いの生存を 再び繰り返すことはない。
802 :
名無しさん@1周年 :2000/09/10(日) 23:27
age
803 :
kotarou :2000/09/11(月) 18:13
昨日、本屋で、林被告の手記を立ち読みしました。 全部読むと、自分が林被告になりそうで、買わずにおこうと思いましたが、 ここの欄の事がありますので、購入しました。 読んでみると、今ここで話題の、七科三十七道品について、 かなり詳しく、説明されています。 1. 桐山猊下が、これを日常やるには、危険がある。 2. 桐山猊下は、自分自身死ぬまでに悟れるかどうか。 と言われた事にショックを受けた事や、自分が10年続けた 千座行を阿含宗が止めた事を記してある。 要するに、桐山猊下は、これこそが全てと言いながら、 実行段階になって、七科三十七道品を中止したと記してある。 そこに、既に悟ったと言う麻原さんに比較し、桐山猊下に 正直な人と言う評価をしてはいるが、教祖としての物足りなさを 表明している様に感じました。 阿含宗信徒に感じた事は、如何して、成仏などと言う、 とつけも無い事を考えるのかなー。 普通の人として生きていくだけでは、不満なのかなー。 ご苦労な事で。
804 :
名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 12:29
歴史に残る凶悪なオウム事件を予測できなかった阿含式・密教占星術は偽物ですね。 千座行を3年間やった麻原や12年間続けた林郁夫達もついに因縁解脱できませんでしたね。 たくさんの信者が犯罪者となる事を予知できなかった桐山の超能力も偽物です。 これだけでも桐山=詐欺師の証明です。 >これ以上被害者を増やさない為に age
805 :
名無しさん@1周年 :2000/09/22(金) 13:01
あご〜ん
806 :
名無しさん@1周年 :2000/10/03(火) 14:04
よーちえんオバンの成仏を祈ってage もう輪廻してこないでね お願いだから
807 :
阿含宗元広報室長の告発 :2000/10/09(月) 07:25
『銀行、ゼネコンにまざって、地上げ屋、暴力団並びにそれに類するバブルな紳士たちが入り込んできて、 結局、宗教的な問題以外のところで、教団が動いていくというメカニズムができあがっていた。 そんな教団の変質を見ていて、私は「これは変だ」という思いを膨らませていった。 というのも、億の金が荒っぽく動けば、人間の一人二人殺されてしまうことは十分にありうることだ。 しかも阿含宗では何百億単位の金が役員会を開くでもなく、管長の一言で決まってしまう。 管長を利用しようという人間や、だまそうという人間などいろんな世界の人間が集まってきても不思議ではない。 そして、阿含宗にあれだけややこしい人たちが関わっていたとしか私には考えられないのである。 それが土地の問題をめぐってであり、いまから思えば覚醒剤、銃器、殺人といった全てが含まれているわけだ。 つまり、これまで日本では暴力団という組織だけでしか行われなかったことが、宗教法人のなかではじめたとき、 オウム事件の素地が出来上がったのだ。』 阿含宗って凄く怖いね XXXみたい やっぱりたくさんの凶悪犯罪者を生み出したわけですね
808 :
名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 07:28
また阿含関連のスレッドがあがってますね。 信者の方はこうやって次から次にスレッドをたてて、 反対論者に論駁されると空白攻撃を仕掛けているようです。 私は阿含でも反阿含でもありませんがはっきりいってウザいです。 冷静に見て阿含の方は反阿含の方の質問にまともに答えていないし、 やたらスレッドを立て空白で上げるなど攪乱作戦に出ているようですが、 イメージがますます悪くなるだけですよ。 もういい加減に自分たちの負けを認めて出ていきなさい。
809 :
名無しさん@1周年 :2000/10/09(月) 08:42
>私は阿含でも反阿含でもありませんがはっきりいってウザいです。 >もういい加減に自分たちの負けを認めて出ていきなさい。 あんた、はっきりいって論理に矛盾があるよ。
810 :
名無しさん@1周年 :
2000/10/09(月) 09:17 ***このスレッドでは、よーち&(は・あ・と!!の出入を禁止します*** ***オバタリアン妄想霊は立ち入り禁止。あなたは方は、阿含スレッドの恥さらしです***