幸福の科学って最近聞かないけど(2)

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119祝!勝訴!!関谷さんおめでとうございます!!
「『幸福の科学』の皆さんへのメッセージ もとなる心へ」 関谷皓元編  日新報道 より
(no.83より以前の日にちのものも含めて転載)


- 83@`84@`85@`の訂正 -
「もとなる心へ」の抜粋部分
>83 三月二十二日
 《伝導・献本献本・・・ → 《伝導・献本献金・・・
>83@`84@`85
 関谷皓元著 → 関谷皓元編


一月十九日(1994年)

『虚業教団』は、当会内部で、悪魔(サタン)の本だから、読んではいけないと流した上層部の方もございますが、本音は当会の真実を知られては困る内容だから、そう申すのでございます。たとえ神様でありましても、人間の心の創造性・主体性・その思い・行動に対し、束縛することはできないことになっております。たとえ何びとに対しても、その心を縛り、がんじがらめにするようなことは、神であっても、許されない行為なのです。

一月五日(1994年)

 今の会の現状は、心の教えはどこへやら霞んでしまい、浄財を集めることだけを中心に据えております。神の名を騙り、純粋な会員の皆様を迷わしめるようなことをしてはなりませぬ。神々は、金銭を要求なさったりは致しませぬ。行事やセミナーは、会の運営や、金銭欲にほかなりませぬ。・・・ものごとの本質を見抜く力こそ、培われなくてはなりませぬ。素直に会の方針に従うことが信仰ではない、ということを・・・。
120祝!勝訴!!関谷さんおめでとうございます!! :2000/08/26(土) 21:01
「『幸福の科学』の皆さんへのメッセージ もとなる心へ」 関谷皓元編  日新報道 より

一月二十五日(1994年)

 いずれの方も・・・考え方・思い・行動となりますと、各自違って参ります。それゆえに、各人の心を思いのままにし、その考えを縛ることなど、・・・(たとえ神様であっても)できない理由がそこにあるのでございます。各人の心の王国には、一切介入できない理由をふまえた上で・・・お話をなさることが大切となって参ります。最終的にはご本人が選びとるわけですから無理がなく、この鉄則を無視し、(大川教祖=)自らの考えのみ前面に押し出しますと、相手を自らの意のままに動かそうとする念で縛ることとなって参ります。残念ながら「長(=教祖)」は今、そのようなお心の状況で、会員をがんじがらめにしようとなさっております。これを見破らなければなりませぬ。

 人間であるからこそ傲慢とならないように、植物の生きる姿や太陽が無償で愛の光を投げかける姿を学ばれ、自らを高しとするのでなく謙虚に生きることを、総ての霊道を開いている方に願いたいのでございます。(霊道を開いている:幸福の科学用語。霊とお話ができる人のこと。)総ての人に申せますことは、自分より上位にある、神近き方でありましょうとも、その考えを絶対だと思ってはなりませぬ。自ら咀嚼(そしゃく)し、吟味し、自ら自身、納得し、心から共感し、そのように深い考えに到って、はじめて答えが出せるのです。言われるままに従うことが、信仰ではございませぬ。総て、上位の意見を鵜呑みにすることをベストだと思う方よ、ならば各自「念いの自由は放棄してもよい」ということと同じではありませぬか。


二月八日(1994年)

 ペンダントやご本尊で、人は、救われるわけではございませぬ。〜会の内部のあり方は、早々には、変わらないものと思えます。なぜならば、会の運営の資金は総て、ペンダント・ご本尊・植福貸付で賄っており、印税は、総て「長」のところへ入っております。〜王様に庶民の生活の水準は分からないように、このカルマを脱しない限り、「平等知の愛」を真に説くことは、できないと思われます。いくら《知》でわかっていても、書籍で説いても、観念の遊戯・机上の空論で(確かな心の手応えはなく)空回りするのみでございましょう。差別知で人を見るからこそ、そこに自らの過去世にこだわり、自らを高しとし、慢心の心やプライドが出、《生き神様》として多くの人に崇拝されたい部分も出てくるということでございます。

121祝!勝訴!!関谷さんおめでとうございます!! :2000/08/26(土) 21:03
「『幸福の科学』の皆さんへのメッセージ もとなる心へ」 関谷皓元編  日新報道 より

二月二十四日(1994年)

 会の外見ばかりを取り繕うことに力を入れすぎ、見せかけの大きさを維持するための経営資金を、行事やご本尊で補おうとしているところに無理がありました。・・・サンガー内部で働いている会員さんは、動かぬ方を裁いたり、(そういった方の心情を察しようともせず)問答無用で自分達の考えのみを正当化してグイグイ押してきたのです。いわんや、威圧的な態度に出たり、会員の人間性を尊重せず、自らを高くし、人の意見に聞く耳を持たずにここまできた、その結果が出て参っておるのでございます。自分達の我欲と保身・名声にとらわれる心、「知」で頭でっかちのまま人を意のままにしようとしたところに、問題が出て当然でございます。


四月十四日(1994年)

 当会は、さらに、醜さを見せつける言動を致すでしょう。本来の使命とはかけ離れた状態であります。邪魔をするものは、槍と蜜で檻に閉じ込め脅す行為を平気で致し、醜い心を(汚れなき法を盾にとり)覆い隠し平然としております。各地で開かれる講習会やセミナーも講師や上層部が致しておりますが、知識を頭に詰め込み飾り立て、心とは裏腹に美しい様相で集まる人々を酔わせる感を呈しておりますが、何も知らない方々は神理にめぐり会えた感激で舞い上がっておりますので、気づくことができませぬ。心ある方々は、その本質をこそ見極めなければなりませぬ。

 当会が経営のための費用を捻出せんがため、行事やペンダント・ご本尊に手をつけたあたりから、大きな間違いを犯し始めました。総てに無理を重ねるゆえに、倒れる人が続出いたしました。しかしながら、当会の多くの方々は、倒れる人に対し、「自己責任」と言い、自分達に協力(金銭的な面・・・etc.)しない人々を、「三法帰依に反する」と言い、なじり、相矛盾したことをしております。モーゼ様やミカエル様が謹慎処分ということも、何故、何ゆえにか答えてはおりませんし、第一、霊言が降りず、高級霊とコンタクトがとれず、また、自らの父親を幽閉同然にしておりまする。そんな状況で高級霊と会話ができるとは、これは異なことでございます。「モーゼ様はきょう子先生のセミナーで御指導下さった。」と言ってみたり、「関谷(氏の裏切り)に対し怒っている」とか・・・。つい最近では、ミカエル様・高橋信次先生とともに端に寄せて、言いたいことを言い、貶(おとし)めております。
122祝!勝訴!!関谷さんおめでとうございます!! :2000/08/26(土) 21:07

「『幸福の科学』の皆さんへのメッセージ もとなる心へ」 関谷皓元編  日新報道 より

四月二十日(1994年)

 これよりのちサンガーは、まさに軍隊のようになって参ります。エルカンターレ(=大川隆法)への絶対帰依とは、絶対服従を意味し、それに逆らうことは許されず、逆らえば除名・破門を申し渡されます。エルカンターレ(=大川隆法)は最高の立場にいると断言なさり、三宝帰依で魂を縛り、自由を許さず、和合僧破壊の罪で、脱会したいと思う者を脅す形となって参りましょう。・・・当会(=幸福の科学)に欠如しているのは、《愛》と《慈悲》でありますし、中道・反省・感謝という言葉は、単なる飾りとなり果ててしまいました。・・・しかしながら、当会(=幸福の科学)の長たる方(=大川隆法)の今の心は、教団を大きく、自らエルカンターレ(=大川隆法)の名を知らしめたいがためで、真に多くの人の心を救おうというのが第一義ではないということです。・・・それが歴然とした証拠に、やめてゆく会員は多く、そういった方々の心を真に救い得ておりませぬ。


 結局は、一段と高いところから人々をランクづけし、見下ろすことばかりで、真の人間としての「魂の尊厳と誇り」「仏性の神性のきらめき」というものは、そのようなランクづけでは決して計り知れないものがあるということに、自らが気付いておりませぬ。・・・「一発叩かれたら三発お返しを」などと申す幹部がいるわけですから、まさに、師のお心イコール弟子の心であります。そこに反省も感謝もなく、攻撃的で負けん気の方ばかりでは、中道の教えも、心の教えも必要ありますまい。世界は自分(=大川隆法)のために、会員は自分(=大川隆法)のために絶対服従し、命令に従うのは当然というお考えでありましょう。


 (中略)宗教が・・・当会(=幸福の科学)のように総ての人が、当会の望むようなそのような生き方をしたら、この世の中は停滞へとつながって参りましょう。当会のいう「見も心も」とは、献金・献本・伝導・行事参加・植福のことであります。愛なき理攻めで人をガチガチに縛り、見も心も不自由にしてゆく先は《地獄》であります。・・・「見も心も投げうって」というのは、財産を捨て職も捨て、家族も捨てて当会(=幸福の科学)のために、というのでは決してありませぬ。〜ものごとの総てに無理があり、貯金を使い果たし倒れる人が続出しておるのです。当然の結果です。揚句の果ては、身動きのとれぬ会員を掴まえて「布施の心がない」とか「勉強熱心ではない、野狐禅だ」と罵るのであります。

注:(=○○○○)のように"="のついている部分は、書籍からの抜粋でなく、意味をはっきりさせるためるために書き添えたものです。(転載者)
123祝!勝訴!!関谷さんおめでとうございます!! :2000/08/26(土) 21:09

「『幸福の科学』の皆さんへのメッセージ もとなる心へ」 関谷皓元編  日新報道 より


四月二十日(1994年)つづき

 当会(幸福の科学)は《お金を集めること》と、《教団を大きくすること》と、《名を売ること》で、そこに全勢力を集中させております。宗教が真にもつ意味は魂の解放であり、見えざる、よいですか、見えざる神への信仰であります。見えるものを信じることは、百人が百人、可能であります。しかしながら、見えざる神の息吹こそ、神の存在を確信することは、大変難しいことであります。

 一番大切なことは、教団拡大でもなければ、教団維持の資金繰りでもありませぬ。〜当会は教団維持の資金繰りに頭を抱えて躍起になっておりますが、会員がさらに減って参りますので(何も気付かずにいる方、あるいは耐えていこうとする方も、中には、まま、いらっしゃいますでしょうが)ほとんどの残された会員の方が、大きな負担をしいられることとなって参ります。〜今では、出家者(職員)は会員のお布施や行事などの費用・月刊誌・講習会の費用などで賄うおつもりでしょうが、軌道に乗るということはまずありえませぬ。当会の通った後は、草木もはえぬほど多くの会員が傷つき倒れております。・・・差別知で人を見る傾向が、どれほど弟子に、会員に影響を及ぼしているか、その責任が問われることとなって参りましょう。


四月二十五日(1994年)

『現代のユダ(おそらく、虚業教団の著書,関谷皓元氏)サブタイトルが「悪魔に翻弄された転落者たち」となっております。「三宝(大川隆法、彼の書籍、彼の教団)を冒涜することは、人間にとって最大の罪である。仏敵(大川隆法氏の敵のこと・彼が彼自身のことを釈迦の生まれ変わりと宣言しているので)となった者(脱会した会員や、心的離反者も含む)たちへ、猛省を促し、真の救世運動を推し進めるための仏弟子(大川隆法氏の弟子のこと・幸福の科学会員や信奉者のこと)必携の書」とも書かれておりますが、ものごとが正しく見ておらずに、嘘・偽り・中傷で反論した内容が仏弟子必携の書とは、当会のレベルも落ちたものです。

 自分(大川隆法)イコール・エルカンターレに対し、信じないものはすべて仏敵と致す」のでは致し方ありませぬ。心の狭さ以外の何者でもない、ということであります。

124名無しさん@1周年 :2000/08/26(土) 22:01
119〜123さん
関谷皓元氏編「もとなる心へ」からの抜粋、ご苦労さまです。
教団体制側としては事実を衝かれているだけに非常に痛い内容だと思います。
悪魔本として信者に読ませまいと必死に隠蔽し、取り繕おうとした教団の
焦りが理解できます。
しかし、これほどまでに嘘と欺瞞に満ち満ちていたとは...教祖と幹部の
来世こそ恐るべしではないでしょうか。
またこのような教祖の言葉とやり方を鵜呑みにし、都合の悪いことは見て見ぬ
フリをしてやり過ごそうとする信者の自己陶酔的および自己防衛・保身的思考
に基づく書き込み(あらゆる掲示板で)は、もはや良心の働きを放棄している
としか見えません。
非常に残念で哀れです。それでも信者たちは教祖の絶対性を信じて疑わず何か
深遠で高邁な意味があるのだと必死についていくのでしょう。教祖を否定する
ことは即ち自分のアイデンティティーの崩壊につながりかねないことを察知して
いるからです。
かなり病的な状態に追い詰められていることは推察できます。もちろん、ご本人
たちにその自覚症状はないと思いますが。

125>>118 :2000/08/26(土) 23:07
ホント?
見てこよーっと。
126123 :2000/08/27(日) 00:06
123の本文の( )は、「もとなる心へ」の書籍の本文ではありません。
前出の「カルトとは何か」のなかでの特徴と対比する意味で
元会員であった転載者(123)が書き添えたものです。

127祝!勝訴!!関谷さんおめでとうございます!! :2000/08/27(日) 00:30
124さん お返事ありがとうございます。(ペコリ)
嘘と欺瞞、自己防衛と自己保身そのとおりですね。気づくまで止まらない
のでしょうか。でも関谷氏は、大川氏はとてもビジネスの上手な営業マン
タイプだと書いていました。どれほど指摘されても、嘘で続けてゆくの
ではないかとも思われます。よほど一般の人達が、賢く見分けないと
時間が経過するのを待っていて、また騒ぎがおさまったら何でもなかった
かのように活動をしつづけそうだな、とも感じられます。どこまでも
騙されるほうが悪いんだ、とうそぶいてしまうようなタイプの教祖だと
手におえませんね。

「『幸福の科学』の皆さんへのメッセージ もとなる心へ」 関谷皓元編  日新報道 より

四月二十五日(1994年)つづき

 どのように気に入らない相手であったとしても、自分達の思い通りにいかないからと非難・批判し、ましてや仏敵と罵ったりで、総ては神が自分たちの側にあるといわんばかりの目に余る無礼、まさしく驕りたる者の証明でございます。「魔に入られた」だのとか、また脱落者の印を押し、多くの会員に知らしめる行為など、真の修行者ならば慎まなくてはなりませぬのに・・・。そのような心に、どのような聖霊が宿りたると申すのでしょうか。その心こそ、恥じるべきでございます。〜また,当会を脱会した一部の方の中には「念が飛んで来て自分の身体を不調にする」と、いたく気にしておる方々がいらっしゃいますが、決して恐れてはなりませぬ。〜この念の使い方を誤って出された方は、いずれ反省を余儀なくさせられます。〜当会側から見て、退会しそうな方に対して引き留めたり,自分達の思うように動かしたいがため、エルカンターレ・ファイトをしたりするなど、言語道断でございます。元を正さない限り、このような行為は続くでしょう。・・・念をおそれてはなりませぬ。やめてしまえば、その念も発されなくなって参ります。


五月九日(1994年)

《神》より《仏》の方が上という論理を振りかざして、多くの神近き方々の協力一切を退け、また、人間というものがいかに多くの支えのもとに生かされているか,万物万象の協力のもとにいかしめられているか,この根本を外して救世運動が広がって行くとは思えませんぬ。八方ふさがりの当会は、わけのわからぬ闘いをあちこちに仕掛けて、自分達の立場を正当化しております。世間一般の常識を軽視しておりますが、決してそのような甘いものではあございませぬ。世間一般の方々に尊敬され、親しまれるような当会とならずしては、協力者はこれより現れてくることはないでしょう。(もし現れても、内情を知ると魂に深く痛手を負い、離れてゆくことになりましょう)

128祝!勝訴!!関谷さんおめでとうございます!! :2000/08/27(日) 00:32

「『幸福の科学』の皆さんへのメッセージ もとなる心へ」 関谷皓元編  日新報道 より

五月十日(1994年)

 つける薬のない、手の施しようのない会となってしまい、人の善意を汲み取ることも出来ず、悪いほうに悪いほうに解釈し、自分達の会を一言でも非難しようものなら攻撃し、相手の弱点を、まるで重箱の隅を爪楊枝で突くようなことばかりしております。総てを敵に回して,神経をピリピリと張り巡らし,会の取材内容を一行足りとも見つけると、抗議し怒鳴り込んで有無を言わさぬ、非常にどうしようもない、手の施しようのない呆れた団体となりつつ,相手にしない方がよいというマスコミ側の本音が感じ取れて参ります。社会的信用を失う行動に出ております。これでマスコミ改革をして、うまくいったと当会は思うのでしょうが、その上に他宗派の批判を致しており、総ての教団を敵に回しております。創価学会も信者集めに走っておりますが、当会は同じ土俵で優劣を競わんとしているようにも見えます。

五月十七日(1994年)

この世には、絶対なるものは何一つありませぬ。大宇宙をお創りになられた神の存在をおいて、絶対というものは存在いたしませぬ。

七月一日(1994年)
 主宰はもやは、天上界のインスピレーションは受けておられませぬ。自らの権力・名声・その地位・立場を守らんが為、必死で砦を死守しております。〜当会の教えでなくば人々を救えぬなどとは、言語道断でございます。自負心だけで人を救うことはできませぬ。〜また、総ての人々を自らの前にかしずかせようという思惑自体、天使の心ではないといえます。当会の今の現状は,総てを敵に回し,自らのみを正当化し,自分達のみが選ばれたる人々とばかり声を大にして他教団を排撃し、ことあるごとに告訴し、嘘偽りの情報を内部に流しておりまする。善良な羊のまわりに高い堀を張り巡らし、外にはおいしい空気と青々とした草があるのに「外に行ってはいけない、外にはサタンがいる、外は危ない世界」とばかり、その本来自由である各人の魂を縛り、足かせをし、窮屈なまでに心を縛っております。

 宗教は、人の魂を解放し、喜びや心の幸福を与えなくてはならないのに、苦しみあえぎ、傷つく人が出たり、辞めてゆく人続出するのは何故でありましょうか。もはや、自らの心を見失い、自分達に都合のよい論理で人を従わせようなど、正気の沙汰とは申せませぬ。

129祝!勝訴!! :2000/08/27(日) 00:38
「『幸福の科学』の皆さんへのメッセージ もとなる心へ」 関谷皓元編  日新報道 より

七月十六日(1994年)

 長たる方は、派手やかなことがお好きのようでございます。見せかけだけの上辺にとらわれますと、ものごとの本質は見えなくなって参ります。ものごとの本質を見極める力を、皆様方一人ひとり、培っていただきとうございます。

七月二十二日(1994年)

 これ以上、心病む方々を放っておいてはなりませぬ。また、心得違いをしている当会の長や幹部達を黙認していてはなりませぬ。多くの方々に対し(泣き寝入り・知らぬ顔の半兵衛を決め込むのではなく)勇気を奮い起こして立ち上がり、当会をそのあり方を正す方向へと促すのも大切なことであります。

八月五日(1994年)

 『新・太陽の法』で感じられるのは、増上慢で謙虚さの微塵も感じられぬ慢心の心、自らを絶対唯一の神といわんばかりの神をも恐れぬ不届きな態度、自画自賛の自己アピールする文章が至るところにこめられており・・・。自らの優秀さをひけらかし、自らの力を誇示する、そして自らの配下を引き連れその勢力を伸ばし、悪しき想念波動をこの地上に蔓延(はび)こらせようとする者が誰であるか、お分かりのことと思います。〜明らかに意図するところは、この地上における名声、この地上での富、そして教団の拡大、人心を狂わせ、地下の者たちにその心を支配させ、自らの思うがままに生きんとする、法を恥ずかしめ汚し、神の名を貶(おとし)める行為を繰り返さんとしております。


 自らの率いる団体のみを正しい宗教団体とし、他を排斥せんと、醜い批判非難、他宗排撃をしており、自らの心を悪しき他界のものに操られている証拠であります。・・・御恩があるから、今「長」が現に間違っていても会を離れることはできない、と思っておられるかたもいらっしゃいましょう。しかしながら、為すがまま、やりたい放題にさせておくことは罪である、ということを分からなくてはなりませぬ。(間違った者に入られると、その思考は正常ではなくなり、さらに拍車を加える、ものごとは誤った方向へと転向して参り、多くの方を迷わせる方向へ行ってしまいます。)体当たりしてでも止めなくば野放しの状態となり、手の施しようもなくなれば、悪しき想念はこの地上に・・・(以下略)
130祝!勝訴!! :2000/08/27(日) 00:40

「『幸福の科学』の皆さんへのメッセージ もとなる心へ」 関谷皓元編  日新報道 より

八月十日(1994年)

 八月号の月刊誌で、今度は「霊友会」を批判・非難しておるとのこと。明らかに、闘争破壊を好むものの仕業でございます。〜多くの者が出家し、当会という社会とは孤立した中で、知識のみで頭でっかちになってしまうのならば、当会を団体にする必要などなかったのでございます。我も我もと出家したくなるような、煽るような言葉は控えるべきでございます。〜当会に出家することのみをよしとして全員がそうしていっては、社会危惧にならぬとも限りませぬ。

 当会は、他から何か言われる毎に「侮辱だ、名誉を傷つけられた」とばかり、すぐに頭にカーッと血をのぼらせて殴り込んでゆくことばかりしております。他から何か言われたら、自らをすぐさま省みることが大切なことであって、「自らに非はない」とばかり、まるで子供同士のいさかいの中に親が怒鳴り込んでゆくような、恥ずかしいことを致しております。なぜそのようなことをするのか、元々にさかのぼってゆきますと、《この世的な名誉・プライド・相当な自負心》で他を見下していることに他なりませぬ。あまりの思い上がりに他ならない、と申せます。

 自分達の「生き神様」の名誉を守るためならば、幹部達はそれこそ今まで人を人とも思わぬほどに利用していたのも忘れ、<殴り込み部隊><脅し部隊>を編成させ、血の気の多い若者を煽動させ、脅し、すかす行為を平気でさせております。当会内部に跋扈(ばっこ)するものも、動物霊の類や、怒り妬み強き阿修羅霊に他なりませぬ。


八月三十一日(1994年)
  もはや、すり替えをなさる心に働きかけるは自己保身・名声・プライドの損失以外になく、自らの心はあくまでも人間としての煩悩に振り回されておりまする。総てこのように、金銭欲・自我我欲(自らに称賛を集めたい為の)・自己保身欲・見栄・プライドのなせるわざでございます。〜人々に対する感謝の心なく、純粋な心で霊言を信じ、身も心も財産も投げ打って尽くした方々に対し、それは当然のことといわんばかりの、恥知らずな暴言を吐いております。〜総ては自らの犠牲のためにある人々」と思う心は、悪しき魔界の者の心でございます。
131祝!勝訴!! :2000/08/27(日) 00:41
「『幸福の科学』の皆さんへのメッセージ もとなる心へ」 関谷皓元編  日新報道 より

八月三十一日(1994年)つづき

 心ある人々よ、良心の声を聞いたならば、このような状況を察知せねば魂の破壊となってしまいます。悪魔に魂を売り渡すようなことを、決してしてはなりませぬ。今の長のお考えは、自らを正当化するためには手段を選ばぬ、非常に冷酷無比な愛なき心であります。その言葉は、巧みで人々の心を甘くくすぐり、神の子として考える心を麻痺させてしまいます。

 今こそ自らの心の王国を、自らの手で守らねばなりませぬ。・・・自らの心をすり替えて、長たる方に従うことが信仰ではありませぬ。決して、決して、そうではありませぬ。〜神というものは、一人一人の心の中に、常に共にあって下さるのでございます。外に神を求める心こそ、非常に危険な心と申せます。〜自らを「神」と名乗る天使はいないことにも、気がつかなくてはなりませぬ。ニセモノの神を名乗る者に、気をつけなくてはなりませぬ。

 皆々様の魂を、悪魔に売り渡してはなりませぬ。気づかずに狂信・盲信となっておられる方々へ、これは警告でもあります。「皆々様の心の内に眠る守護霊よ、今こそ、目を覚ますのです。大変なことが起きようとしているのです。誤てる教義を受け入れてしまう自らの安易さをこそ、戒めなくてはなりませぬ。自らの魂の尊厳を汚すようなことをしてはなりませぬ。死せる魂となっては、決してなりませぬ。神よ、哀れなる魂たちに、目覚めを与え給え、彼らを善導し給え」


九月五日(1994年)

「当会の教義に従い、ご本尊を排し、植福を一心に行う方々の行かれる世界は?」とのことでございますが、その団体を光の天使達が指導しているならまだしも、明らかに入れ替わった(地下の者達)状態では、いくら純粋で正しいと見える方々でありましょうとも、間違って指導する者の配下におかれ、宗教霊に操られ、さらに信者達を狂信・盲信にしてゆく事実があります。このような方々がゆく世界が天国だと果たして言えますでしょうか。光の磁場ではなく、闇の世界でございます。

132祝!勝訴!! :2000/08/27(日) 00:45
終わりました。(転載)(パタ。。。)
関谷さんおめでとございます。(^^)よかったですね。
読んでくださってありがとうございました。(_ _)