三位一体わかりやすく教えて

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1名無しさん
キリスト教の、父は神なり、子は神なり、聖霊は神なり、その三つは一つなり(?)とか言う三位一体についてわかりやすく教えて下さい。
旧約聖書のヤハウェが新約聖書でキリストという名前に変わったんですか?
新約聖書でキリストが父よと祈っている相手は自分自身の天国の霊なんですか?
どんな風に父と子が別々で、どんな風に父と子が同一なんですか?
いろいろ調べても専門用語ばっかりで意味不明です。
27の7倍:2000/03/29(水) 01:37
>いろいろ調べても専門用語ばっかりで意味不明です。
その通り、意味不明です。

>新約聖書でキリストが父よと祈っている相手は自分自身の天国の
>霊なんですか?
キリスト教徒という人たちは、そう思っている人たちです。
要するに、馬鹿といわれても、仕方ないですな。
3名無しさん:2000/03/29(水) 10:25
age
4名無しさん:2000/03/29(水) 11:54
三位一体を否定してるのって、エホバ? モルモン?
エホバだったら、1さんは、ジョンさんだったりして。
5名無しさん:2000/03/29(水) 12:54
父なる神⇔御子キリスト・イエス⇔聖霊
これだけです。今更「ヤハウェ」っていうのはねぇ…。
67の7倍:2000/03/29(水) 15:36
>父は神なり、子は神なり、聖霊は神なり、その三つは一つなり
ホントは、ローマの多神教世界で、父も子も聖霊も神にしたかっ
たわけ。でも、ユダヤは、唯一の神なわけ。で、困ったわけ。
それで、この三つ別々の性質をもって(ペルソナ=位格)現れる
けど、本質は一つの神としたんだ。それで、三位一体なんだ。
まあ、元々、デタラメだから、これ以上うまく説明できなくても
しかたがない。
父なる神と子なる神の位格(性格のようなもの)は、区別しなく
ちゃあいかんのだよ。別々なんだが、その奥ふかいところでは、
シャム双生児のように繋がっているらしい。まあ、キングギドラ
のようなものさ。
77の7倍:2000/03/29(水) 15:41
>旧約聖書のヤハウェが新約聖書でキリストという名前に変わっ
>たんですか?
キリストは、救世主(メシア)の意味。キリスト教徒は、これを
イエスのこととして用いる。三位一体論によって、ヤハウェ=イ
エスなので、彼らはこのような意味で使っている。
しかし、元々が間違いなのだから、、、

8名無しさん:2000/03/29(水) 15:54
初期にはそんなに深く考えていなかったんだと思う。
イエスなる人を単純に「神の子」「救世主」と考える事は可能だったろう。
時代が少し下って、よくよく考えると、唯一の神って子供作るのか?
その子供は神とは違うのか?父と子じゃ唯一にならないじゃん。
イエスは神の変身した姿と考えたら?でもイエス自身が神を「父」
と呼んでるから、独立した存在なのでは?
そういえば聖霊っつーのもいるぞ?どうしよう。

ってな事で三位にして一体という、一見矛盾するような結論を
出したのではないかな?
9名無しさん:2000/03/29(水) 17:49
思うに、「イエスが単なる人間じゃ、俺達の権威はどうなる?」、で「イエスも神」
「マリアは「聖霊によって身ごもった」」のだから、「聖霊も神」
でないと困る

そんなところなんじゃないの
っていうか、「処女懐胎」「死語復活」なんてことに疑問を持たないで、
「我々の罪を償って死んだ」なんてことをすんなり納得できる、
その辺の感覚がついていけない。というか、その神経がはっきり言って分からん
10名無しさん:2000/03/29(水) 17:51
思うに、「イエスが単なる人間じゃ、俺達の権威はどうなる?」、で「イエスも神」
「マリアは「聖霊によって身ごもった」」のだから、「聖霊も神」
でないと困る

そんなところなんじゃないの
っていうか、「処女懐胎」「死語復活」なんてことに疑問を持たないで、
「我々の罪を償って死んだ」なんてことをすんなり納得できる、
その辺の感覚がついていけない。というか、その神経がはっきり言って分からん
117の7倍>5:2000/03/29(水) 21:39
>父なる神⇔御子キリスト・イエス⇔聖霊
>これだけです。今更「ヤハウェ」っていうのはねぇ…。

みだりに、神の名を唱えるなかれ。
12怒れる者:2000/03/29(水) 22:09
簡単に言えば、三位一体は、水蒸気と水と氷の関係と似ています。
我々は「氷にお湯をかけて溶かす」というように、あたかも湯と氷は別物の様に扱
いますが、本質はH2Oであり同一のものです。
神は本質的に一人の方ですが、人間を救うために顕現するとき、私達の状況に
応じて、三つの姿を使い分けます。父と子と聖神の三つの位格です。

北森嘉蔵氏の解釈では、罪を徹底的に裁こうとする父なる神の態度と、罪を許そ
うとする子なる神の態度という相反する二者が、矛盾すること無く一つに調和する
事こそ、三位一体の本質であるとしています。そして聖霊とは、罪人を潔める事で
罪の克服を促す三番目の神の姿であり、父と子をつなぐものです。

>新約聖書でキリストが父よと祈っている相手は自分自身の天国の霊なんですか?
諸説あるのでしょうが、私の考えとしては、キリスト様は復活するまで人間であった故
に、自分の本質が神である事を知らなかったのではないかと思います。
創世記によれば、人は知恵の実を食べ、もし生命の実も食べれば神と等しくなるとい
う記述がありますが、まさにキリスト様も、復活によって永遠の生命を取り戻した事で、
神の本質を取り戻したのではないでしょうか。
13名無しさん:2000/03/29(水) 22:19
三位一体を知りたいなら、少なくとも使徒言行録とヨハネ福音書を
読んでみてください。

三位一体という発想は、ほとんど新約聖書には見当たりません。
というのも三位一体は、新約聖書の各文書が成立した後の時代に現れた
哲学的素養のあるキリスト教神学者が言い始めたものだからです。
ユダヤ人キリスト教の世界では、このような哲学的=超歴史的な把握は
一般的ではなかったのです。聖書の神は歴史を通して働く神なのです。

ただ三位一体といっても、このように哲学的に把握した古代の神学者も
いれば、非哲学的に捉えなおす現代神学者もいます。

結局神とキリストと霊というキーワードに注意して聖書を読んで見る
のが一番だと思います。歴史を無視して捉えようとすると訳がわからなく
なります。
14名無しさん:2000/03/30(木) 03:19
皆さんは、
「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・(マタイ28:19)」
をどう捉えているの?
霊的な一致は理性では解決つかないよ。信仰の奥義を学者の提唱に
しちゃだめだな。俺はそう思うけど・・・
15名無しさん:2000/03/30(木) 07:33
>霊的な一致は理性では解決つかないよ。信仰の奥義を学者の提唱に
>しちゃだめだな。俺はそう思うけど・・・
そういうこと言っちゃ、ダメだと思うぞ。
そりゃあ、あのトマス=アクィナスでさえ、三位一体は信仰の奥義であると
言ったわけだけど、とにかく奥義なんだから信じろっていうような、理性を
犠牲にした信仰では、キリスト教は衰退するばかりだと思う。結局キリスト教は
分けのわからないことを信じているということになってしまうのではないか。
信仰は理性ではないが、理性的に捉える努力を放棄するのは教義の奴隷になることにならないか。
16名無しさん:2000/03/30(木) 13:04
 あのなー、15さん。
 宗教の目的は学問と違うぜ、根本的に。
 知ることにしても、理性的に捉える努力を知識としているんじゃない。
 “願い”が大切なんだ。
 祈るだろうが、先ず・・・その意味を考えなさって下されや!!
 信仰と理性の間に祈りを入れて考えて!宗教は神を理性的に知ることが
中心ではないよ。祈ったことがない人はすぐにあなたのような議論や
方向性を持ちたがる・・・。人は願望を持つ、人は渇くから満たしが必要だ、
お互いが幸せに暮らしたい、そういう欲求はインプットが先にあるんじゃない、
互いに生きているという証。知識は先に立たず、理性も先に立たず、魂が先に立ち、
願いが祈りとなる。理性と信仰の橋渡しに「祈り」があることを忘れちゃ
いかんな。 なんとも・・・特に三位一体を語るなんぞ、結論は「奥義」。以上。
17聖書:2000/03/30(木) 13:43
「あなたがたは理性により祈らなければなりません」
18名無しさん:2000/03/30(木) 15:09
>「死語復活」
って、ヘブル語がイスラエルで復活したってことか?

> 霊的な一致は理性では解決つかないよ
> そういう欲求はインプットが先にあるんじゃない、互いに生きているという証
こういう言い回しがポンポン出てくるようでは、三位一体が分かりやすくなるのは当分先のことだな…
19名無しさん:2000/03/30(木) 15:23
 ヘブライ語で「喉」「はらわた(腎臓)」は、聖書翻訳で
魂と訳されることが多い。その原文のニュアンスと使用されている
用語を咀嚼すると、生き生きとした「生きている」という意味が
感じ取れてくるから不思議。
 ここで、議論する前に「カーブォート」「ネフェシュ」などを
じっくり調べてみるべし。
2015>16さん:2000/03/30(木) 17:57
>宗教は神を理性的に知ることが中心ではないよ。
信仰と理性は別って、書いたでしょうが。

>特に三位一体を語るなんぞ、結論は「奥義」。以上。
奥義っていうのは、人間的努力を重ねて、その努力の限界において開けてくるもの
じゃないのか?ルターだって、努力の限界において信仰が開示されたわけだし。
言っとくけど、努力すれば奥義がわかると言っているわけじゃなくて、自分の非力さ
を知らないうちは、奥義だっていうこともわかるはずないということ。自分の非力さを
知るために理性的に探求すべきであるということ。
21祈りの基本は願い事。:2000/03/31(金) 01:59
理性なんて言葉は聖書に直接出てこない。
主の祈りはこうだ。
 “天に居られる私たちのお父様。
 願わくは、御名が尊まれますように。
 御国(天の国)が来ます様に。
   御旨が天で行われるように
   地にも行われますように。
 わたしたちの日々必要な糧を今日もわたしたちに
 お与え下さい。
  わたしたちは人に赦しを与えます。
 同じように(神よ)わたしたちの罪を赦してください。
  わたしたちを(悪魔の?)試みに合わせることなく
 (常に)悪より救ってください。  アーメン(真実。誠に。そうです。)”

 なんと単純。なんとシンプルかはわかると思う。
であるから、理性うんぬん言わなくとも、祈りは
その基本の願いが素直でありさえすれば誰にでも
開かれている。極端なことをいえば、聖霊のとりなし
は、‘うめき’であると聖書にあるくらいだ。言葉にさえ
ならなくともきちんと神に届くもの、それが“祈り”。
 “祈り”なくして、神との接点はもてないかもよ。
異言よりも預言の賜物を求めるべきという議論であれば
その点は聖書にも指摘があるのでわかるけど…
   
22よろ「¥:2000/03/31(金) 09:41
第1祈祷(神の賛美)
【ここは神様を賛美し、神さまの国(御国)の到来を祈ります】
 天にまします我等の父よ
  願わくば御名を崇めさせたまえ
  御国を来たらせたまえ
  御心が天になるがごとく 地にも成させたまえ
第2祈祷(人の祈り)
【人が生きてい行く上での祈りになります。その為に「日用の糧(食事・御言葉)」を与えてくださいと最初に祈っているのです】
 我等の日用の糧を今日も与えたまえ
  われらが罪人を許すがごとく われらを許したまえ
  我等を試みにあわせず 悪より救い出したまえ
第3祈祷(頌栄)
【頌栄(神様の栄光をたたえます)です】
 国と力と栄とは すべて汝のものなればなり アーメン

このイエス様が教えてくださったこの祈りは、実に単純でそして【祈り】としては見習うものがあります。
23名無しさん:2000/03/31(金) 10:24
なにやら、難しい議論になっているようですが、
一度スウェデンボルグの「真のキリスト教」を読まれて
みてはいかがでしょうか。

彼が見てきた霊界では、多くのキリスト教徒が三位一体
を誤解しているために神に近付けないでいるということ
です。キリスト教徒にとって必見の書だと思いますよ。
2415>21さん:2000/03/31(金) 14:39
>であるから、理性うんぬん言わなくとも、祈りは
>その基本の願いが素直でありさえすれば誰にでも
>開かれている。極端なことをいえば、聖霊のとりなし
>は、‘うめき’であると聖書にあるくらいだ。言葉にさえ
>ならなくともきちんと神に届くもの、それが“祈り”。
>“祈り”なくして、神との接点はもてないかもよ。
そうかねえ。だったらなんでイエスはアレほど言葉を尽くしてひとびとに
説いたのだ。祈りだけでいいなら、おまえら祈っていなさいといえばすむはず
じゃないか?それともイエスは、祈りなくしては、神との接点はないとでも
どこかで言っているのか?福音書のイエスの活動は、ユダヤ教に対する理性的な批判
のほうが比重が大きいんじゃないか?イエスは、祈り祈りといって、祈りに逃げ込んで
なんかいないと思うがね。主の祈りにのんきにあぐらなんかかいてないで、やるだけのことを
徹底的にやって、ゲッセマネの園で「わたしが願うことではなく、御心に適う
ことが行われますように」(マルコ14:36)というほうがイエスの本当の姿だと思う。
人間として悪戦苦闘した末の祈りこそ本当の祈りであって、主の祈りを念仏代わりに
唱えてなんになる?
257の7倍:2000/03/31(金) 14:58
どうせ、三位一体論なんて、デタラメだからなあー。
26怒れる者:2000/03/31(金) 15:42
で、肝心の1さんは、納得したのでしょうか。

>23さん
スウェデンボルグなら、角川文庫の「霊界日記」が安くて、かつ三位一体
論にも触れていて、初心者向けに良いです。
シュタイナーなんかはどうなんでしょう。私は神秘学概論にすら挫折しま
したが、彼が三位一体の教義をどう考えていたのか、興味があります。
27名無しさん:2000/03/31(金) 19:11
>ここで、議論する前に「カーブォート」「ネフェシュ」などをじっくり調べてみるべし。

って、一般人がどうやって調べるの、大体?
中途半端なスノッブ趣味はよした方がいいのでは

やっぱり三位一体が分かりやすくなるのは、相当先だな
287の7倍:2000/03/31(金) 20:31
>やっぱり三位一体が分かりやすくなるのは、相当先だな
それ以前に、デタラメだからなー!
2923:2000/03/31(金) 21:03
どうも、人類の罪について、償いを求める神(父)と、
償いをする神(子)に分離して、神様のひとり芝居で
契約ごっこをした、と解釈した所から、三位一体論が
出てきたように思います。つまり、三位一体論はすべて
の自分の罪をイエスキリストに押し付けた信者達の
下心たっぷりの創作物ではないか...。

三位一体のマジックによって、神様ひとりに飲み屋
のツケを押し付け、めでたく罪から逃れた信者達は
イエスの行動を模範とすることを忘れて、ひたすら
死ぬまでの時間つぶしに神学論争に明け暮れるので
あった。

私としては、イエスが磔にかかったことよりも、
生前のイエスが弟子に示した模範的な生き方の方
が何千倍も価値ある行ないだと思うのです。
30全てでたらめ:2000/03/31(金) 23:23
キリスト教はキリストが神じゃないといけないから
無理やりこじつけてるのさ。
317の7倍:2000/03/31(金) 23:40
キリスト教徒。
最後は、神のことは、人間には良く理解できんと、逃げるのは
本当。
32怒れる者:2000/04/01(土) 00:27
>23さん
本来のスレッドからずれますが。
貴方は磔刑のキリストよりも、キリストの福音にこそ価値があるとおっしゃる。
確かに、福音は重要です。しかし、それ以上にキリストの死は重大だと思う
のです。
キリストの肉と血によって原罪が贖われるというのが、キリスト教の核心たる
教義でありますが、福音に基づく生活は、原罪から解放された後の救いを
保証する物にすぎない。
よって、福音と死せるキリストを等価とするならまだしも、今の価値観で相対
化するのは、キリスト教徒としては誤りだと思います。
33名無しさん:2000/04/01(土) 02:22
 感動とか、感情側面を大切にすればいいと思います。
 三位一体の理論的な構造なんて解明の努力自体ナンセンス。
イエズス様が仰っているんです「父と子と聖霊の御名に入れる
洗礼を授けなさい。」って、弟子たちに。
 イエズス様は、主の祈りにもあるように天の御父に祈りを
捧げられますし、弟子たちに祈り方を伝えていますね。
 十字架に処せられる前に弟子たちに、聖霊の降臨とその方が
真理をことごとくわからせてくれるのだと諭され、励まされます。

 どれをとってもイエズス様のお言葉であり、教えです。
神様は人に侮られるような御方ではありません。イエズス様が
真の神であると最後の晩餐の際にキリストの胸に寄りかかるように
していたヨハネのように(Tヨハネ5:20)信じているのであれば、
三位一体の合理的、理性的な解釈が必要だとは感じませんが・・・

 イエズスが説教をされているというのも、2面性が存在します。
どういうことかは、福音書のマルコ4:11-12、マタイ13:10-13
ルカ8:9-10を参照してください。言わずもがな、キリスト教は
キリストイエズスの言葉とその生涯、特に十字架と復活の命に
その焦点があるといえます。わたしの主はイエズスキリストです。
という方たちの集まりであり、交流なのです。もちろん神は主
イエズスキリストであり、父であり、聖霊の御名によって言い
表されますが全く矛盾していません。それは、奥義と言葉では
示されるのみです。それだけです。
34名無しさん:2000/04/01(土) 02:43
>>ここで、議論する前に「カーブォート」「ネフェシュ」などをじっくり調べてみるべし。

>って、一般人がどうやって調べるの、大体?
>中途半端なスノッブ趣味はよした方がいいのでは

 あー、申し訳ない。知ったかぶりが出てしまった。
こういうことは、四谷にある教会の真生会館・聖書センター
責任者であられる、雨宮 慧 神父 様が詳しいようです。
もしかすると、上智大学神学部教授かな?調べてみてください。

35常識人:2000/04/01(土) 09:17
父なる神=ユダヤの唯一神、想像上の存在。
イエス=人間。
聖霊=父なる神の使い、パワー媒体、想像上のあやふやな存在。

それだけのことです。
信仰によって、盲目になっていませんか?
冷静に考えてみてください。
36>33:2000/04/01(土) 09:37
デタラメばっか言ってんなよ!!
>三位一体の理論的な構造なんて解明の努力自体ナンセンス。
そう、デタラメだからな!

37>34:2000/04/01(土) 09:40
雨宮「旧約聖書の心」「続旧約聖書の心」(女子パウロ会)ですね。
たしか「カーブォード」「ネフェシュ」については「旧約聖書の心」のほうに書いてあった
ような記憶があります。あの本はおもしろいから読んでみたら旧約の勉強にいいですね。
38名無しさん:2000/04/01(土) 09:41
そもそもキリストって
「自分は神の子」とか言い出したイタイひとだったわけだから。
今で言ったらオウム松本とかグル高橋みたいなもんでしょ。
ユダヤ教徒に迫害されてあたりまえだよな。
39>33:2000/04/01(土) 15:34
>三位一体の理論的な構造なんて解明の努力自体ナンセンス。

>もちろん神は主 イエズスキリストであり、父であり、聖霊
>の御名によって言い 表されますが全く矛盾していません。
>それは、奥義と言葉では 示されるのみです。

あなたが、矛盾しているように思うが。
4023>32さん:2000/04/01(土) 17:00
>キリストの肉と血によって原罪が贖われるというのが、キリスト教の核心たる
教義でありますが、福音に基づく生活は、原罪から解放された後の救いを
保証する物にすぎない。

人間が生まれつき原罪を持っていること、それがイエスキリスト
の磔刑によってあがなわれるということは、イエス自身が言って
いるわけではありません。福音書にはそんなことは書いていない
と思います。今のキリスト教義はイエスでなくて、後世の
「自称キリスト教徒」(多分、初代の教皇)が作り上げたものだと思います。

三位一体もアタナシウス信条がスタートになっているので、
三位一体がそんなに大切な事柄ならば、イエスがちゃんと
それを明言しているはずです。贖罪についても、それが
イエスの本意ならば、パレスチナ地方を歩き回って布教活動
する必要もなかったでしょうし、福音書も磔刑の前後以外は
全部付録だということになります。

私には不自然にしか見えません。
417の7倍:2000/04/01(土) 19:51
>>キリストの肉と血によって原罪が贖われるというのが、キリ
>>スト教の核心たる 教義でありますが、福音に基づく生活は、
>>原罪から解放された後の救いを 保証する物にすぎない。

>人間が生まれつき原罪を持っていること、それがイエスキリスト
>の磔刑によってあがなわれるということは、イエス自身が言って
>いるわけではありません。福音書にはそんなことは書いていない
>と思います。今のキリスト教義はイエスでなくて、後世の
>「自称キリスト教徒」(多分、初代の教皇)が作り上げたものだ
>と思います。

40は、結構、勉強してるな。しかし、それを言ったのは、パウロ
だ。パウロは、ユダヤ教の異端児だ。私は彼をヘレニストだと、思
ってきた。しかし、最近、彼なりに、苦しんでこの結論に達したこ
とが分かった。初期キリスト教徒は、この問題について、かなり悩
んだようだ。エルサレムの連中は、ユダヤ教に基づいていたが、パ
ウロは、神の子羊論を唱えた(ロマ、1コリ)。このパウロの考え
が後のキリスト教の基になった。もちろん、そんなことはない。
427の7倍:2000/04/01(土) 20:05
パウロ以前か同時期の新約聖書というと、実は、マルコの福音書
が残るのみだ。これを子細に調べたところ、現在のキリスト教徒
の主張とは異なる、ユダヤ教に基づいたキリスト像が現れてきた
のだ。詳細は省くが、ここではイエスの十字架の死とは、イエス
がそれまでしてきた行為に対する、神の承認の行為であり、神の
約束ともいえる。その成就の一つが復活であった。これにより、
「近く神の国が訪れる」ことが約束されたと、彼らは信じたので
ある。
キリスト教の核心とは、この「近く神の国が訪れる」ということ
である。
ただ、神殿崩壊後、マルコ福音書の内容が理解されなくなり、マ
タイやルカもマルコ福音書を理解していないようだ。
437の7倍:2000/04/01(土) 23:00
神殿崩壊前のキリスト者は、神の国について色々議論したと思
われる。自分たちは罪人なのに、何故神の国に入れるのかと。
どこかで、罪が消えたはずと考えたと思われる。パウロは、イ
エスを贖罪の羊と考えたようだ。しかし、エルサレムのキリスト
者はそうは、思わなかった。彼らはどう思ったかというと、ヘ
ブル人への手紙に記されているように、メルキゼデクのように
祭政一致型の大祭司と考えたとすると、つじつまが合う。
ヘブル人への手紙は、パウロ作でないとされるが、内容的には、
パウロ作である可能性が十分あるとおもう。
使徒行伝にもあるが、パウロは、エルサレムの連中に相手にさ
れなかったと思うし、そう言われてもいる。
44>41:2000/04/02(日) 01:04
>このパウロの考え
>が後のキリスト教の基になった。もちろん、そんなことはない。
「もちろん、そんなことはない。」とあるのは、どういう意味?
45名無しさん:2000/04/02(日) 02:59
結婚前にどっかの男とSEXしてできたガキンチョを
してない、処女懐胎、神の子とか言い張った
マリアさんに乾杯!!
46>45:2000/04/02(日) 03:38
キチガイには、返答なし。
47>45:2000/04/02(日) 03:54
違うぞ。
神とSEXしたんだよ。
48>47:2000/04/02(日) 04:49
じゃあ三位一体が本当なら、
SEXして生まれてきたのが
SEXした相手だったってこと?
キモイねそれ。
49名無しさん:2000/04/02(日) 09:00
旧約聖書と新約聖書の関係について教えて下さい。
507の7倍>41:2000/04/02(日) 12:34
パウロの考えが間違ってるという意味。
パウロは、ユダヤ教の異端児です。
弟子達と考えが違うということ。
51>48:2000/04/02(日) 12:42
同じアナのムジナですな。
52>49:2000/04/02(日) 13:09
>旧約聖書と新約聖書の関係について教えて下さい。
ユダヤ人の聖典が、旧約聖書である。
そのユダヤ人の一部のキリスト者が、書いたものが新約聖書。
よって、新約聖書は、旧約聖書の引用に満ちておる。
新約聖書ができたのは、1世紀から2世紀のことである。

53名無しさん:2000/04/02(日) 13:20
復活信仰、隣人愛、教会制度、洗礼、聖餐、どれもユダヤ教にすでに
あったもの。キリスト教はイエスよりもユダヤ教と親近性があるということ。
ユダヤ教の民俗主義の枠を取り除けば、ほぼキリスト教と重なる。
54>53:2000/04/02(日) 13:31
そりゃあそうだよ。イエスもその弟子たちもユダヤ教徒だった
んだから。
ただ、三位一体論は違うよ。これを変えれば、だな。
>ほぼキリスト教と重なる。
55名無しさん:2000/04/02(日) 15:29
>三位一体論は違うよ
ただ伝統的な三位一体論を教義から外す宗派も存在するし、古代教会とはおよそ
異なる説明のしかたをする学者もいるから、三位一体論をキリスト教の共通の教義とするはどうかな。
56>55:2000/04/02(日) 15:47
>三位一体論をキリスト教の共通の教義とするはどうかな。
ローマ教会を中心とするキリスト教会で、公会議を行い、決定
したのが、三位一体論。したがって、一部のキリスト教会を
除き、三位一体論というバケモノを信仰しておる。

57名無しさん:2000/04/02(日) 19:19
ユダヤ教から派生したのがキリスト教と理解して良いのでしょうか?
浄土宗と浄土真宗の違いみたいに。(ちょっとちゃうかな?)
58名無しさん:2000/04/02(日) 20:41
父=ユダヤ的恐ろしい神?
子=人を許したキリスト?
父と子はこんな感じに納得したのだけど
聖霊って?
マリアを孕ませた事ぐらいしか知らない。
p.s.
イエス・キリストってユダヤ人だよね。
59>57:2000/04/02(日) 21:50
>ユダヤ教から派生したのがキリスト教と理解して良いのでしょうか?
その通りともいえるし、そうでないともいえる。
1世紀の後半にユダヤ戦争というのがあって、それを境に前半はユダヤ教的色彩が
強いキリスト教が主勢力であって、そういう意味ではユダヤ教との連続性があると
いえるけど、後半以降になると次第に非ユダヤ教的色彩の強いキリスト教が主に
なっていって、こちらのほうはユダヤ教との連続性が希薄になっていった。伝統的に
正統といわれるキリスト教は、ユダヤ教的色彩が希薄なユダヤ戦争以後のキリスト教
の流れを継承している。もちろん旧約聖書の神を排除しているわけではないので、
ユダヤ教と断絶しているわけではないけど。
60>57:2000/04/02(日) 23:32
59に補足すると、ユダヤ人には、今のイスラエルとその他の
地域に住んでいる人を分けて考える。ユダヤ戦争というか神殿
崩壊(70年)以前は、イスラエル地域が主体であったが、そ
の後はユダヤ人の離散と共に、その他の地域に中心が移ったの
だ。さらには、50年代に主の弟ヤコブの死後、こうした動き
が盛んになったことも、付け加えねなならない。
後者は、ギリシア、ローマ地域に住んでいたユダヤ人であって、
ヘレニストなどとも言われる。彼らは、本家ほど聖書やユダヤ
人の慣習に精通していない。あるいは、離散後、そうした人々
が増えたとも、考えてもいい。
で、何が言いたいかというと、戦争後、ユダヤ人の質が変わって
きたこと。キリスト者も、本家が消滅するとともに、イスラエル
以外に中心が移ったのである。ユダヤ人キリスト者からヘレニス
トのキリスト者に変わった。とともに、思想的にもヘレニズムの
影響をうけた。
結局、ユダヤ教から派生したのは間違いないのであるが、わずかの
期間の後に、ユダヤからヘレニズムに変質していったのである。
本家イスラエルのキリスト者は、ユダヤ教に吸収されたとか、移
動したと考えられ、少し後には所在不明になっている。
58が言おうとしたのは、こういうこと。
61野次馬:2000/04/03(月) 18:38
>1
ユニテリアンは三位一体を否定しているぞ。
日本にはほとんどいないけれど、アメリカ・イギリス・ドイツには
結構いるみたいだ。あと、ハンガリーやチェコにも。
因みに、同じく反三位一体を否定していてもエホバの証人は
非合理なカルトだからね。ユニテリアン派は合理主義で、
故に余り人気がないらしい。
62>61:2000/04/03(月) 18:42
そんなこというのなら、コプト教会やアルメニヤ教会もでしょ。
63名無しさん:2000/04/03(月) 18:55
イエズスは神でない。復活はなかった。としない限り、三位一体なんて
当然のことでしょ?
 復活して弟子たちに現れたイエズス様の言葉をカットしてんの?
都合の悪いところはカットして新約聖書を受け入れるなんて、重大な
過ちじゃないか?イエズスが復活していないことと、神ではないことを
公言するときにのみ三位一体を否定することが出来る。
 そう言う場合には、キリスト教とは言わないんだよ、普通は。
よって、三位一体は必然的にキリスト教と異端とを分ける道しるべ。
                  でないかなあ〜。
64結論!:2000/04/03(月) 19:13
 われわれは罪人である。しかし、生きているので渇く、願う。
そこで、イエズスの仰ったように先ず単純に祈る。
 “主の祈り”

 イエズスは、復活の後弟子たちに現れてこう仰せになった。
「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている。だから、
あなたがたは行って全ての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに
命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは
世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
[聖書 新共同訳 日本聖書協会 マタイによる福音書28章18-20節]

 キリストを信じるならば、敢えて三位一体を宣言する必要もない。
その必要は、イエズスの神性を否定する異端やグノーシス的な異端の
神秘主義がイエズスを曲げて利用する姿勢から決別する必要から生まれた。
今でも、キリスト教を標榜しながら、聖書の都合の良い利用や解釈で
信徒を導く団体が数多くある。しかし、イエズスの賜物をそのままに
受け止めることがなければ、聖霊の賜物とも交わることなく真理を
授かることは永遠にないのかもしれない。
65>63:2000/04/03(月) 19:13
>ヨハネ14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内にお
>られることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う
>言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内にお
>られる父が、その業を行っておられるのである。
自分じゃあないって、言ってるよ。
66:2000/04/03(月) 19:22
書き出し1行目
。しかし、→。そして、

3段落3行目
・・・する必要から生まれた。→する意味をもつ。
   どちらにしても意味がわかりにくいですが・・・訂正です。
67>65:2000/04/03(月) 19:26
 だから、三位一体についてはキリストが示されない限り
その真意は計り知れない奥義なんだよ。きっと。
6865>63:2000/04/03(月) 19:33
>マルコ10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』
>と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

イエスは、自分を「神」だと、いってないよ。
話にならんな。
69野次馬:2000/04/03(月) 19:33
>62
アルメニア正教会やコプト教会は単性論とかで、
三位一体否定ではないでしょう。
>63、64
私は別にユニテリアン支持ではないよ、ただ三位一体を否定する
神学・教派も有るよってこと。
それに、その合理性が信徒を引きつけられないと言うとるでしょうに。
70>68:2000/04/03(月) 19:52
イエズスは完全な人間としてお生まれになったんだよ。
イエズスは神なんだ。
復活前に、公然と自分は神だなどとは言っていない。
それは、その通りなんだ。しかし、彼はよみがえって
弟子たちに仰せになられた。父と子と聖霊の御名に入れる
洗礼を授けなさい。とね。
復活の前のイエズスの言葉は決して人間性を否定していない。
ユダヤの律法をイエズスは良く知っているし、自分を神だと
公言することはなかった。だからといってそのときに偽りを
言ったわけではなく真実を述べたんだ。イエズスに尋ねたその
金持ちの男が12弟子の一人でなかったということもここでは
考え合わせなければならないよ。
7168>70:2000/04/03(月) 20:19
68の論理は、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」
つまり、イエスは「善い」ものではい、すなわち、神でないという
こと。
自分でいってんだから。

7268>70:2000/04/03(月) 20:21
あなたは、自分の論理が正しいというのか、イエスの言葉が正しい
いうのか、どっちなんだ?
73>70:2000/04/03(月) 20:24
>弟子たちに仰せになられた。父と子と聖霊の御名に入れる
>洗礼を授けなさい。とね。
別に、イエスが神でなくてもいいでしょ。ヨハネだって、自分の
名前で洗礼したんだから。神といってないし、その証拠でもない。
7471追加>70:2000/04/03(月) 20:27
>復活前に、公然と自分は神だなどとは言っていない。

公然と、「自分は神でない」といっているということだよ。
75名無しさん:2000/04/03(月) 20:54
父と子と聖霊の御名に入れる洗礼を授ける。
これがイエズスの仰ったこと。
取りたてて三位一体をうんぬんしなくても
当然のことなんだよって言いたかっただけ。

>71
 ユダヤの律法では、自分を神と称するものは死罪なんだ。
弟子でもない一般の金持ちに自分は神だなんて言うわけはない。
それに対してペトロには少なくともメシアであることをはっきり
告げる。ルカ8章18節以降、マタイ16章13以降、マルコ8章
27以降を参考にしてね。

>72
イエズスの言葉が正しいのは当たり前。自分はイエズスの復活や神性を
否定するなら聖書の記述を曲げて解釈したり無視しなければならなくなる
よ。と注意を促していた。論理を述べてはいない。そんなに頭良くない・・自分。

>73
イエズスが神でないという場合には、キリスト教とは言わないということ。
そこをおさえてね。

>74
「自分は神でない」と仰っている個所もないはず。
仰る内容は相手によって・・・
マタイ21章23節以降を読んでみて下さい。
76>75:2000/04/03(月) 21:01
>マルコ8章 27以降を参考にしてね。
「メシア=神」ではないよ。

>マタイ21章23節以降を読んでみて下さい。
上と同じ。
77>75:2000/04/03(月) 21:04
>イエズスが神でないという場合には、キリスト教とは言わないということ。
>そこをおさえてね。

だからキリスト教はインチキ宗教。


78>All:2000/04/03(月) 21:06
>イエズスが神でないという場合には、キリスト教とは言わ
>ないということ。 そこをおさえてね。

結局、そういうこと。あるいは、三位一体論を受け入れない
ものは、キリスト教徒でないということ。


7971>77:2000/04/03(月) 21:08
>だからキリスト教はインチキ宗教。

その通り!!!
8071>75:2000/04/03(月) 21:12
>ヨハネ14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内にお
>られることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う
>言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内にお
>られる父が、その業を行っておられるのである。

弟子にも、弟子しか居ないところで、自分と神とは違うとい
ってるよ。
81名無しさん:2000/04/03(月) 21:14
>76
 相手によって、その返答を微妙に変えている。
そして復活後のイエズスは「父と子と聖霊」の
御名に入れる洗礼を弟子たちに命じられました。
どうしても76さんは福音書の全体をそのまま
捉えることに拒絶反応を示しているね。
          少々、お気の毒様です。

>77
 まあ、まあ、冷静になさって下さい。
82名無しさん:2000/04/03(月) 21:25
>80
 ヨハネによる福音書1章18節を見ますと、
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である
神、この方が神を示されたのである。」とありますね。

 イエズス・キリストが神である事実。それは、聖書の本質であり、
変えようとしても無理な土台なんです。あしからず。。
83>81:2000/04/03(月) 21:25
>そして復活後のイエズスは「父と子と聖霊」の
>御名に入れる洗礼を弟子たちに命じられました。
だから、子も聖霊も神じゃあないと、言ってるでしょ。

なにいってんだよ。
>どうしても76さんは福音書の全体をそのまま
>捉えることに拒絶反応を示しているね。
>          少々、お気の毒様です。
あんたは、「教会のの解釈= 福音書の全体をそのまま捉える
ことに」といってるだけでしょ。

> 少々、お気の毒様です。
あんたのことだろ。

84>82:2000/04/03(月) 21:27
>「この方が神を示されたのである。」
神と神を示した人が同じとはかぎらないでしょ。

85>82:2000/04/03(月) 21:28
福音書記者がいってることと、イエスの言葉とどっちを
とるんだい?
8685追加>82:2000/04/03(月) 21:32
福音書記者が、神のことについて、述べられるはずないでしょ。
イエスの言葉からのみ、神を理解できるのじゃあなかったの?
87名無しさん:2000/04/03(月) 21:37
>相手によって、その返答を微妙に変えている。

微妙に変えて、都合のいいように理解してるのは、キリスト教会。
自分たちの解釈以外認めない。
要は、デタラメ。
88名無しさん:2000/04/03(月) 21:42
>85
その「イエスの言葉」も福音書記者が記し伝えてるモノにすぎない
って事実に早く気づけよ。
89>82:2000/04/03(月) 21:43
ヨハネのその箇所だけで、イエスが神というのなら、
じゃあ、福音書ごとに、内容が違ったりするのは、何故?
編集者の挿入でないという、証明は何?

90>88:2000/04/03(月) 21:45
>その「イエスの言葉」も福音書記者が記し伝えてるモノにすぎない
>って事実に早く気づけよ。

だから、聖書は神の言葉じゃあないんだよ。
91名無しさん:2000/04/03(月) 21:48
 ああー、皆さんはネタ切れ?
屁理屈が多くなっていますね。見たところ・・・

>83
普通にイエズスの言葉を拾ってみたら、教会の解釈
うんぬんでなくても・・・素直に読めば、
父と子と聖霊の御名に入れる洗礼は父を除いて考えるのだ、
とか、子と聖霊は別なのだ、とかの考えが出てきますか?
 あなたの先入観を作り出した哲学や宗教理解が、曲がった
解釈や理解を生んでいると思われますが、どうでしょうか。

>84
神が神を示されたということは、神がただお独りであるという
ことから「神と神を示した人が同じとはかぎらないでしょ。」
とは言えません。「父のふところにいる独り子である神」は
神なのです。

>85
ヨハネによる福音書の記者は12使徒のうちの一人、最後の晩餐で
イエズスの隣にいて、裏切り者は誰かをイエズスに問いただした
かわいがられていたヨハネのようです。彼は、Tヨハネの手紙5章
20節でもイエズスについて告白しています。
 イエズスを神でないとするには、イエズスの言動を曲解するばかりでなく
直接に交わった使徒たちの言行をも真っ向から全て否定しなければ成り立ちません。
そのようなことをする用意は、聖書を大切にする者であればクリスチャンに限らず
誰も持っていないものと思われます。いかがでしょうか。
92名無しさん:2000/04/03(月) 21:51
聖書原理主義=福音派を殺せ
93改竄者:2000/04/03(月) 21:51
>89

だって書き換えてるもんね。キリスト教会の都合のいいように。
エホバの証人だけだと思ってんの?

94>88:2000/04/03(月) 21:54
>普通にイエズスの言葉を拾ってみたら、教会の解釈
>うんぬんでなくても・・・素直に読めば、
>父と子と聖霊の御名に入れる洗礼は父を除いて考えるのだ、
>とか、子と聖霊は別なのだ、とかの考えが出てきますか?
> あなたの先入観を作り出した哲学や宗教理解が、曲がった
>解釈や理解を生んでいると思われますが、どうでしょうか。
じゃあ、なぜ、長い間かけて、三位一体論争をしたのでしょう?
つかれるなあ。

>「父のふところにいる独り子である神」は 神なのです。
話にならないよ。

>85
そんなことないよ。
9594:2000/04/03(月) 21:55
>88 は、 >91
96>91:2000/04/03(月) 22:01
> イエズスを神でないとするには、イエズスの言動を曲解す
>るばかりでなく 直接に交わった使徒たちの言行をも真っ向
>から全て否定しなければ成り立ちません。
>そのようなことをする用意は、聖書を大切にする者であれば
>クリスチャンに限らず 誰も持っていないものと思われます。
>いかがでしょうか。

そんなことないでしょう。
理由もなしにそんなこといってもねえ。

97名無しさん:2000/04/03(月) 22:06
>94
 昔から、あなたのような方は大勢いたのですね。多分。
>話にならないよ
 そうなんです。理性で理解するのではわからない「奥義」で
ある所以です。
98名無しさん:2000/04/03(月) 22:09
>96
 仰っていることが今一つ汲み取れません。
 ごめんなさい。
9996>98:2000/04/03(月) 22:12
>仰っていることが今一つ汲み取れません。
> ごめんなさい。

私もあなた方のことが、理解できません。


10096>97:2000/04/03(月) 22:19
>昔から、あなたのような方は大勢いたのですね。多分。

私には、あなたが特別にみえるが、、、
10196>97:2000/04/03(月) 22:21
> そうなんです。理性で理解するのではわからない「奥義」で
>ある所以です。

要するに、デタラメとしか、思えません。
悪しからず。
102名無しさん:2000/04/03(月) 22:33
>101
 信じるというのは、自分の理解できないこと、自分には
及ばない世界があることを知ることでもあります。
 ですから、でたらめなのではなく、あなたにとって
キリスト教は肌に合わないというのが本当のところではないでしょうか?

 いずれにしろ、自分は神について何にも知り得てないんだと
お気づきください。先入観がなければ、違う聖書との出会いが
あるかもしれませんし・・・
103補足102:2000/04/03(月) 22:37
 祈るということが、本質的かもしれません。
心をゆだねる。それが神に対する揺るぎ無いものであれば
神様はどういう方法でかはわかりませんが、愛して
いらっしゃることを実感させてくれるのだと思います。
 確実なこととしては言えませんが・・わたしは罪人ですし・・・あしからず。
104101>102:2000/04/03(月) 22:40
> ですから、でたらめなのではなく、あなたにとって
>キリスト教は肌に合わないというのが本当のところではない
>でしょうか?
キリスト教が、真理でないという点だけは、同意します。
 デタラメだと思います。神の理解が間違ってたら、全部、話に
ならないよ。でしょ?

>いずれにしろ、自分は神について何にも知り得てないんだと
あなた方が、そうだということに、気がついてほしいですね。
105101>103:2000/04/03(月) 22:42
>祈るということが、本質的かもしれません。

聖霊の時代は終わったし、無駄だね。

106名無しさん:2000/04/03(月) 22:49
>105
 わたしは、神については無知同然だと思います。
過去のことについて調べたり勉強することは出来ます。
しかし、永遠の観点については思い描くことすら出来ません。
ですから“祈る”ということになります。

>聖霊の時代は終わったし
 聖霊の時が終わるという言い方で神を否定していらっしゃいますが、
そんな時代がいつのことなのか、わたしはよくわかりません。
107105>106:2000/04/03(月) 22:54
>わたしは、神については無知同然だと思います。
なのに、三位一体論を頑なに守って、それ以外は相手にしない
のは、どうしてですか?

>聖霊の時が終わるという言い方で神を否定していらっしゃいますが、
別に、神を否定していません。
三位一体の神を否定しているだけです。
108名無しさん:2000/04/03(月) 22:56
父と子と聖霊は三位一体なのです。書物にせよ人生にせよ
時代にせよ、ぶった切ることで、議論のまな板に載せることは
出来ても、こと神に関する話題の場合には全ての理性的な
事柄を超越している問題が絡むので、議論は慎重になります。
 聖書のような書物がある場合にはそれに手を加えたり、
割り引いたりしてはおかしくなります。神についての理解も
その手のおかしさが蔓延しているので、本質的には「祈り」
なしでは真の宗教性維持は難しいと思います。
109>108:2000/04/03(月) 22:59
最後は信仰ににげると
なるほどね。
110名無しさん:2000/04/03(月) 22:59
>聖書のような書物がある場合にはそれに手を加えたり、
>割り引いたりしてはおかしくなります。

聖書には、沢山、手を加えてあるのは、事実でしょ。教会によって。
話しにならないよ。

111107>108:2000/04/03(月) 23:01
要は、デタラメってことだね。
>ALL
112110>108:2000/04/03(月) 23:05
>>聖書のような書物がある場合にはそれに手を加えたり、
>>割り引いたりしてはおかしくなります。

>マルコ10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』
>と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

イエスは、自分を「神」だと、いってないよ。
話にならんな。
余計、話しにならんな!
113110>108:2000/04/03(月) 23:13
107再掲。

>わたしは、神については無知同然だと思います。

なのに、三位一体論を頑なに守って、それ以外は相手にしない
のは、どうしてですか?

何故でしょう?

114113:2000/04/03(月) 23:15
今日は、寝るよ。>ALL
115名無しさん:2000/04/03(月) 23:19
 聖書は、イエズスキリストについて書かれているのであって
聖書の中に“永遠の命”があるのではありません(ヨハネ5章39節参照)。

 三位一体を否定しているということは、イエズスの言動を否定している。
 弟子たちとその言行を認めていないということです。

 信仰とは・・・パウロがこう言っています。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
               ヘブライ人への手紙 11章1節

116>108さん:2000/04/03(月) 23:25
>こと神に関する話題の場合には全ての理性的な
>事柄を超越している問題が絡むので、議論は慎重になります。

イエスの神性を信じることについてとやかく言うつもりはないが、
どうしてはじめから理性的な事柄を超えていると決めつけるのか?
教会が言うからとか聖書に書いてあるからとか、というのでは、偶像崇拝
と同じでないか?理性的な事柄を超えているとか軽軽しく言うべきではないと思う。
逆説的な言い方だが、信仰は疑うことを忘れてはならないと思う。
117名無しさん:2000/04/03(月) 23:50
>116
 宗教が、理屈以前に“方向性”を指し示す。
本質的な信仰(115レス参照)に対して疑いを持つということは
それが個人の内面の確信から出ている場合には無理なのです。
そして、わたしは、信仰とは疑うことの出来ないなにものか
であることが正常な自然な状態なのだと考えています。
118>117:2000/04/04(火) 00:00
>そして、わたしは、信仰とは疑うことの出来ないなにものか
>であることが正常な自然な状態なのだと考えています。

だから、あなたの考えが、あなたの教会が、正しいと、言ってる
だけでしょ?

119118:2000/04/04(火) 00:03
上は、>116の誤り。
120118:2000/04/04(火) 00:04
ごめん、>117でよかった。
121>115:2000/04/04(火) 00:15
> 聖書は、イエズスキリストについて書かれているのであって
>聖書の中に“永遠の命”があるのではありません(ヨハネ5章39
>節参照)。
結局、信じるものがないことに、なっちゃうよ、これ。

>三位一体を否定しているということは、イエズスの言動を否定している。
> 弟子たちとその言行を認めていないということです。
たとえば、イエスの弟子達は、ユダヤ教徒でした。彼らが、三位一体
論を信じてるわけないでしょ!
話しにならんな!

> 信仰とは・・・パウロがこう言っています。
>「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認す
>ることです。」
>          ヘブライ人への手紙 11章1節

パウロは、ユダヤ教徒の異端児でした。
使徒行伝にも、結局、ペテロらと別れたそうです。

しかし、それ以前に、あなた方の言うことを信用できないでしょ。
「信仰」=「教会」なんだから、信仰なんて、もてるわけないよ!
122121:2000/04/04(火) 00:26
結局、「信仰」とは、自らの所属しているキリスト教会のいうこと
を信じることなのよ。
聖書と関係なし。
でも、彼らは、何によって、その信仰を得たのでしょう?
123116>117さん:2000/04/04(火) 01:01
>本質的な信仰(115レス参照)に対して疑いを持つということは
>それが個人の内面の確信から出ている場合には無理なのです。
>そして、わたしは、信仰とは疑うことの出来ないなにものか
>であることが正常な自然な状態なのだと考えています。
信仰観の違いかな。わたしが思うには、人間の信仰なぞまやかしだという認識が
ある。神が絶対なら人間にまつわるものは信仰もなにも本当というものはないと
思う。だからしいて言えば疑いながらも絶望しないという限度で「信仰」という
ものがありうるのだと思っている。だから三位一体が嘘だとは言わないが、絶対に
真理であるとは言わない。三位一体が真理であると言ったとたん、それは偽りである
と思う。人間が真理なぞ言い当てることはできないし、それが奥義であると語ってしまう
ことも偽りであると思う。
124名無しさん:2000/04/04(火) 01:01
> 聖書は、イエズスキリストについて書かれているのであって
>聖書の中に“永遠の命”があるのではありません(ヨハネ5章39
>節参照)。

> 信仰とは・・・パウロがこう言っています。
>「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認す
>ることです。」
>          ヘブライ人への手紙 11章1節

パウロの言葉に「永遠の命」があるわけでは、ないのですよ!
困ったちゃんだね!!!
125名無しさん:2000/04/04(火) 01:13
>118
 理性や組織が正しいか間違っているかの問題ではないのです。
信仰というのは「望んでいる事柄を確信し、・見・え・な・い・事実を確認すること」
ですから。「行為」の源泉は説明できない深遠な確信にもとずいているのだと思います。
過ちや齟齬があったとしても、なお教会に行き、ミサに預かるということもあります。
 わたしの言っていることと、対するあなたの質問はかみ合っていないようですが、
ここは、このようにお答えさせていただきます。

>121
 信じているのはイエズス・キリストです。文字ではありません。
もっと言えば、父と子と聖霊の御名である唯一の神です。
 イエズスの弟子たちは、ユダヤ教徒ですが、イエズスの復活と
昇天をまえに、イエズスの仰ったように聖霊を受け、各地で宣教を
はじめます。使徒言行録を思い出してください。
 パウロは、熱心で知られるファリサイ派のユダヤ教徒でした。
ダマスコに向かう途中でイエズスの霊に出会うなり劇的な改心を
遂げることになります。ペトロらに按手による祝福も受け、イエズスを
述べ伝えるのです。彼は、異邦人の住む地を主な宣教の地としています。
あなたの仰る、結局ペテロと別れたそうですというのは、事実ではない
でしょう。ペテロの後継者にローマ教皇が居られます。カトリックでは
パウロとペテロは重要なイエズスの使徒であると捉えています。
 「信仰」=「教会」というのは極論に過ぎます。教会というのは
信仰によるものであれ、自己の好奇心からのものであれ、交流そのものが
ある場所を指すことになります。イエズスを慕う者の集まりであったり、
交流であることが多いですし、時には神との交流の場である個人を指して
神の神殿と表現することもあります(ヨハネ2章21節)(Tコリント3章16節)。

 信仰とは、「神」を信じることであって、キリスト教会の言うことを
信じるというのはその一つであるに過ぎません。聖書も大事です。祈りが
大切です。愛とそれに基づく行動が大切です。そのためにはもとに戻りますが
「神」への信仰が大切です。 
126野次馬:2000/04/04(火) 02:28
何番だったか忘れましたが、三位一体を否定する
教派としてユニテリアン派とエホバの証人を挙げましたが、
「反三位一体を否定する・・・」と誤植してしまいました。
訂正し、御詫び致します。
127聖書ファン:2000/04/04(火) 08:32
結局、信じる信じないの話に行くんだなあ。
私は福音書の中のイエスの隣人愛に感激して聖書ファン
になったので、もしイエスが本当に神の子でなくても後悔
しません。「騙された!!!」なんて叫んだりしませんよ。

仮にイエスが悪魔の化身だったとしても、私は彼の行動に
感銘を受けたのだから、黙って彼について行くつもりです。

教会のお偉方が何を口にしようが、やっていることはイエス
の行為とはかけ離れている。ホンネと建て前が分離している
内は、私は洗礼なんて絶対に受けないつもりです。形だけの
信者になるための洗礼は神への冒涜の初めの一歩だと思うから。
128>127:2000/04/04(火) 09:20
>仮にイエスが悪魔の化身だったとしても、私は彼の行動に
>感銘を受けたのだから、黙って彼について行くつもりです。
黙って彼について行くというのは、イエスを信仰するという意味?

それなら、隣人愛を追求すればいいのであって、
イエスを尊敬することはあっても、信仰する必要はないのでは?
相対性理論に感激したからって、アインシュタインを信仰するわけないですよね。

その他の意見については、全く同感です。
129118,121>127:2000/04/04(火) 11:59
>結局、信じる信じないの話に行くんだなあ。
そういうこと。だが、じゃあ、何を具体的に信じているかと
いうと、教会ということになる。聖書じゃあない!
とどのつまりは、自分の言ってることが、正しいと主張してる
だけなのだが、それでは拙いので、あーだこーだと、詭弁を
使ってるのだ。
分かるでしょ。

130118,121>128:2000/04/04(火) 12:03
>イエスを尊敬することはあっても、信仰する必要はないのでは?
あなたの「信仰」とは、教会を信じることでしょ。
それ以外を、「尊敬」といってるだけでは?
でも、それは、普通の日本語ではないと思います。
教会での用法を用いても、一般には、通じませんよ。
131118,121>125:2000/04/04(火) 12:09
一般の人が用いている言葉でいってください。

あなたの「信仰」とは、教会を信じることです。
カトリック以外に、カトリックと教義の異なる教会は、プロテスタ
ントを含めてたくさんあるのですよ。
知っていますか?
132>131:2000/04/04(火) 12:24
カトリックですが、知っていると思いますが、知らない人のためにひとこと。
カトリックにも色々あります。125さんはカトリック信徒のようですけど、
カトリックのなかにも殆ど水と油のような違いが入り交ざってます。
もちろんカトリックの教義はありますが、事実上最早「カトリカ(普遍)」で
なくなりつつあります。プロテスタントに近いものから、昔のカトリックに
逆戻りしようとするものまでなんでもありです。目立たなきゃあ、つまり
教会の権威を脅かすような政治勢力にならなきゃあ、野放しです。
以前は禁書みたいなことをしていたそうですが、あまりに多すぎてギブアップ
状態です。
133128:2000/04/04(火) 13:15
>130
>教会での用法を用いても、一般には、通じませんよ。
なんだか誤解なさっているようですが、わたしは、一般人です。
128での「信仰」は、イエスを神とあがめ奉るという意味で使いました。
また、「尊敬」は、単に、「えらい人」として敬うという意味で使用したつもりです。
134聖書ファン:2000/04/04(火) 16:23
>128さん

もし、イエスの行動に感激し、イエスを模範として一生を
隣人愛に捧げ、最後には磔刑にかかっても相手を許したと
したら、それは「尊敬」ですか? それとも「信仰」と
呼ぶべきですか?

私が思うに、イエスは「私にみんなついて来い」と主張して
いるので、イエスの行動を神聖なるものとして神棚にあげて
しまい、絵に描いた餅として礼拝することを「信仰」と勘違い
しているだけだと思う。

イエスは、自分を崇め祀れと言ってません。私の言うとおりに
行動した者は天国に迎えられる、と言っているのです。理屈
ばかりでちっとも行動しないのがパリサイ人です。イエスは
これを一番嫌ったはずです。
「南無相対性理論」を百万遍唱えても、理論は理解できない。
135聖書ファン:2000/04/04(火) 16:29
わたしに向って「主よ、主よ」と言う者が皆、天国に
入るわけでない。わたしの天の父の意志を行う者だけが
入るのである。(マタイ伝、7:21)
136名無しさん:2000/04/04(火) 18:05
でも十字軍とかってオウムなんか比べ物にならないくらい残虐だよね。
137聖書ファン:2000/04/04(火) 18:10
>136さんへ

十字軍もオウムも「わたしの天の父の意志」ではないことを
実践したのが問題だと思っています。神の名の元に、異教徒
の庭先を平気で空爆する某国の大統領も同じことです。
口では神を崇めながら、「わたしの天の父の意志」とは逆の
ことを精出してやっているからいつまでも平和が来ないのです。
138>137:2000/04/04(火) 18:16
某国の大統領はイシヤの奴隷です。
神(大元?)は信じていますが、自分には宗教は必要ありません。
139>1:2000/04/04(火) 18:21
 ということで、イエズスを信じ、聖書を信じる人は
ためらいなく、三位一体を信じるわけ。

 これまでの書きこみにあるように、
三位一体を否定する場合には、その実
@イエズスの復活や神性を否定している。
Aペトロやヨハネを初めとする聖霊を受けた弟子の告白や
 言動を全て否定している。
ということが、言えるわけ。

 ペトロとパウロの関係を誤解している方も居られるので
参考にペトロとパウロは一致していることを示す聖書個所
を挙げておく。使徒言行録と並んで125についての根拠ね。
◎新約聖書ガラテヤの信徒への手紙2章9節

 クリスチャンってなんだ?
 ヨハネの洗礼でもある水による洗礼と、イエズスキリストの
仰せになった霊の洗礼。この両方が大切な要素。聖書のイエズスの
御言葉では、ヨハネによる福音書3章5節が端的。

 “三位一体”とは、復活して弟子たちに現れた際、キリストが洗礼に
関して命じた言葉をもとに、取りたててキリストの神性の否定や
復活の否定をする異端信仰から決別する意味でキリスト教として
宣言した項目。“三位一体”だけを抜き取って議論しても実りある
結論は導かれないと思われる。であるから、先ずは祈ってみること、
父と子と聖霊の御名に入る洗礼を授かることがイエズスを信じる上で
大事だということになる。

 かく言う、私は悟っているわけでも特別な人間でもありません。
              間違い、意見はどんどんしてください。
      罪人ですから、私は間違います。その点ご指摘の方よろしく!
140聖書ファン:2000/04/04(火) 20:28
>139さんへ

>三位一体を否定する場合には、その実
@イエズスの復活や神性を否定している。
Aペトロやヨハネを初めとする聖霊を受けた弟子の告白や
 言動を全て否定している。
ということが、言えるわけ。

ちょっと違うな。イエスは「天国の門」であり、彼をバイパス
して天国には行けない。これははっきりと福音書に書いてある。
また、「天の父を見せてくれ」と懇願する弟子に対して、「私
は「私を見た者は私の父を見たのである」と言っていて、イエス
は神の意志に従って行動する模範であることを宣言しています。
言い換えれば神の代弁者、肉体を持たぬ神が身をもって人間達に
指導するために、神が受肉してこの世に現れた存在です。つまり、
現れ方は異なるものの、その本質は神そのものです。精霊について
も同様で、その本質は神そのものです。

つまり、父も子も精霊もひとつのペルソナの神であり、その現れ
方や働きが異なるのみです。だから、3つの分裂したペルソナを
持って、怒れる父をなだめる子が自らを犠牲にして...などという
絵空事など、後世のグータラな聖職者がでっちあげた「神のひとり
芝居」にすぎんのです。福音書を読めば、父も子も精霊もすべて
同じ共通の方向に人間を導こうとする意志が見えてくるでしょう。

もう一度、原点に戻って「冷静に」福音書を読めば、それが自ず
からわかってくるはずです。唯一の神を3つに分断させた時点で
聖書は正しく読めなくなる。
141名無しさん:2000/04/04(火) 21:04
結局、誰も、相手の論旨を聞いていなくて、勝手に、主張して
いるだけだな。ばかばかしくなったよ。
142>139:2000/04/04(火) 21:10
>これまでの書きこみにあるように、
>三位一体を否定する場合には、その実
>@イエズスの復活や神性を否定している。
>Aペトロやヨハネを初めとする聖霊を受けた弟子の告白や
> 言動を全て否定している。
>ということが、言えるわけ。

理由は、まだ聞いていないと思うよ。


 
143終了_決定:2000/04/04(火) 21:25
三位一体論は、デタラメと決まりました。

_________終了____________
144128:2000/04/04(火) 22:08
>134さん
>もし、イエスの行動に感激し、イエスを模範として一生を
>隣人愛に捧げ、最後には磔刑にかかっても相手を許したと
>したら、それは「尊敬」ですか? それとも「信仰」と
>呼ぶべきですか?
もちろん、そのような人のことは尊敬します。
そのような人がいたとすれば、まわりから見れば、「信仰」の人だと思います。
が、本当のところは、その人にきいてみないとわからないことです。

>絵に描いた餅として礼拝することを「信仰」と勘違いしているだけだと思う。
なるほど、私はその意味で、133で「信仰」という言葉を使ってしまいました。
130さんの >あなたの「信仰」とは、教会を信じることでしょ。
に対して、教会とは関係ないということを強調したかったあまり、
133のような発言になってしまいしました。
申し訳ありませんでした。

>私の言うとおりに行動した者は天国に迎えられる、と言っているのです。
隣人愛に感激するのはよくわかるのですが、わたしの疑問は、
なぜそこからイエスへの信仰が生まれるのかということです。

私は、天の国に入りたいから隣人愛を実践するわけでもないし、
イエスが行動しなさいというから行動するわけではないのです。
聖書を通して、隣人愛を実践した人がいたことを知り、
イエスを尊敬し、私もそうありたいと思うだけなのです。
私はイエスを信仰していることになるのでしょうか?
145名無しさん:2000/04/04(火) 22:10
>142
 引用した聖書個所読んでみてください。

@イエズスの復活や神性を否定している
 これについては、マタイによる福音書28章19節に
復活したイエズスが弟子たちを遣わす文言があるからわかるよね。
この父と子と聖霊の御名に入れる洗礼を授けていないのは
イエズスの仰ったことを無視して出来ることだ。
 無視できるのはイエズスの復活を否定することと、イエズスの
神性を否定することをして初めて可能となる。

Aペトロやヨハネを初めとする聖霊を受けた弟子の告白や言動を
                       全て否定している。
 これは、68→70→75>71を参照して欲しい。(ヨハネ)福音書自体が前提として
イエズスの神性を述べていることについては82のレスを。他に91で>85など
に挙げているヨハネの手紙Tなどの聖書個所を読んでみて欲しい。
146128:2000/04/04(火) 22:19
すみません、144に追加。
もちろん、イエスも神も信仰しているつもりはないです。
というか、128=35です。
147名無しさん:2000/04/04(火) 22:36
 “三位一体”から隣人愛のことまで、話が広がっているようですが・・・。

ローマの信徒への手紙5章5節、5章30節。

コロサイの信徒への手紙1章8節。

「そのおきてとは、わたしたちが神の子イエズス・キリストの名を信じ
ること、また、御命じになったとおり、互いに愛し合うことであります。
おきてを守る人は、神に留まり、神もまた、その人に留まります。神が
わたしたちに留まっておられることをわたしたちが知るのは、神が賜った
聖霊によるのです。」[Tヨハネの手紙3章23−24節]

などの個所をお読みになれば、真の隣人愛も神様との関わりによってもたらされる
賜物の一つであることに気づくと思います。
 似非隣人愛は厳に慎むべきだと思います。勝手な自己完成を目指しているだけで
神様の意思など忖度(そんたく)していなかったと気づくのみというのが落ちです。
148147 二行目訂正:2000/04/04(火) 22:47
ローマの信徒への手紙5章30節。 は15章30節の誤りです。
                   申し訳ありません。

149名無しさん:2000/04/04(火) 23:04
なに話題そらしてんの。
そんなに三位一体が否定されるのが怖いの?

そりゃそうだろうけど。
150名無しさん:2000/04/04(火) 23:14
>149
 どうしたって聖書を読めば、イエズスの神性を否定するのは
困難ですし、イエズス自身が仰ったことも否定できません。
 三位一体が理性的に納得できなくても、否定されることは
ないのですよ。キリスト教であれば・・・
 仕方がないのです。諦めてください。私のせいではありません。
                      あしからず・・・
151>150:2000/04/04(火) 23:22
>どうしたって聖書を読めば、イエズスの神性を否定するのは
>困難ですし、イエズス自身が仰ったことも否定できません。

そういう話の流れにはなってないけど。
読解力ないの?
152128:2000/04/04(火) 23:42
>147さん
>真の隣人愛も神様との関わりによってもたらされる
そうだとすると、真に隣人愛に基づいた行動を行うことは
私には無理そうですね。悲しいことです・・・

>150さん
>どうしたって聖書を読めば、イエズスの神性を否定するのは
>困難ですし、イエズス自身が仰ったことも否定できません。
それは、当たり前ではないですか。
古事記を読めば天皇が神である事を否定するのは困難
というのと変わりありません。

私も聖書は一通り読んだつもりですが、
どうしてもイエスに神性を認めることはできないのです。
なぜそんなに簡単にイエスの神性を認められるのか不思議です。
153>152さん:2000/04/04(火) 23:52
アリウス派ではないが、やはり神の唯一性という観点からすれば
イエス=キリストは被造物と解釈するのがすっきりしていますね。
正統派は、それでは受肉の意義が損なわれるといいますが。
ユダヤ教的思考に立ち戻って、これからはアリウス派が見なおされる
べきですね。
154名無しさん:2000/04/05(水) 00:03
>152
 閉鎖的になるかもしれませんが、貴方の内に豊かな想像力が
あるのであれば、自己完成をさせて行く上で隣人愛を摸倣する事は
出来ると思います。 イエズス様が自分を愛していないのに、つまり
愛を感じたことがないのにどうして同じように他者を愛せるのだろうか?
と悩む方は多いと思います。
 わたしは、幼児洗礼を受けていますが、愛は信者の交流のうちから
体感し、今に至っています。 また、聖霊の働きかどうか戸惑う体験も
しました。 神が愛されているという方に出会えるといいですね。
 その方は、あなたを愛します。そのとき愛に気づくはずです。
偽りのない愛はかけがえのないものです。128さんは、良き出会いが
あるように振舞いください。 それが一番です。

 聖書を一通り読んでも、人はみんな生育環境や育ってきた歴史を持ちます。
ですから、理性的な側面から神を理解して神性を認められるならそれは
逆にすごい洞察力で、決断だと言わざるを得ません。
 天の国は、あなたがたの間にあるとイエズスはルカによる福音書
17章21節で仰います。それはあなたが一人で頑張って得られるものでは
ないということです。このことを忘れないで下さい。聖書などの文字の中に
神の国はない。それは貴方が自らの内に実現させたり実現するものではない
ということが大切なことだと思います。 
155:2000/04/05(水) 00:09
 意味が汲み取りづらい、変な文章ですみませんでした。
156名無しさん:2000/04/05(水) 00:36
 真実は、まだ文字にもなっていない言葉にもなっていない振る舞いに
現れると思います。
 ですから、発言してしまえば、それは成就したことになってしまいます。
発言した内容が成就したのではなくて発言したということ自体が目的を
果たしたことになる。それが、牧師や神父といわれる人たちの陥りやすい
まやかしだと思います。
 かつ、ここで三位一体について書いてきた私の投稿も、実体の伴わない
ただの言葉あそびとレベルは変わりません。
 三位一体についてここでお話したことは、頭の中で完結させようとして
いる、悪魔の働きかけであるかもしれません。お気をつけて・・・みなさん。
               では、ごきげんよう、さようなら。
157名無しさん:2000/04/05(水) 01:18
で、誰が一番えらいの?三人のなかで
158名無しさん:2000/04/05(水) 01:32
156って、マラナタさん?スゴイよね。あそこまで三位一体を擁護できるなんて。
どういう頭の構造しているのかな。頭のなかが三位一体みたいな構造をしているのかな。
たいていのひとは、三位一体なんてわからんというのに、あそこまで自信をもって
熱く三位一体を語られるなんてさ。はじめてだよ、あそこまで語れるひとを見たのは。
もしかしてキリストの再来か?
159128:2000/04/05(水) 01:56
>154さん
了解しました。
大変丁寧にお答えしていただき、ありがとうございました。

生育環境というのは、神の理解に関して大いに関係ありそうです。
確かに、私の場合、禅的な環境の中で育ってきたせいか、
自力本願的な考え方が身に染み込んでいるようで、
そのため、神の存在などの事を認めたがらないような気もします。
まあ、それはいまさらどうしようもないことなのですが、
ともすれば自己中心的思考に陥りやすいとも言えるかも・・・
それだけは気をつけなければ・・・と思っています。

>156
>真実は、まだ文字にもなっていない言葉にもなっていない振る舞いに
>現れると思います。
おお、これは、禅の不立文字に近いですねえ。
面白い。参考になります。
160聖書ファン>144:2000/04/05(水) 09:04
>聖書を通して、隣人愛を実践した人がいたことを知り、
イエスを尊敬し、私もそうありたいと思うだけなのです。
私はイエスを信仰していることになるのでしょうか?

それ以外の信仰の形を私は知りません。
イエスの足跡と思想に感激し、これは真理だと確信し、
自分もそうなりたいと願い、自分もその理想に近付け
るように日々努力する。それが信仰です。

この一連の信仰の流れには、三位一体論も、その他の
雑駁な神学も一切関係がない。赤子の心を持つ者だけ
が天国に迎えられるので、頭でっかちな「餅絵崇拝者」
や、偉そうな教皇や牧師が言うんだからと教義を鵜呑み
にして、それが信仰だと錯覚している「偶像崇拝者」は
最初からイエスの教義とは関係がありません。

イエスは神への愛、隣人愛の実践者でした。皆さんも
実践者ならばイエスの弟子。そうでなければ、キリスト
教徒であってもイエスの弟子とは別物です。

>156
>発言してしまえば、それは成就したことになってしまいます。
これが不言実行という意味なのでしたら、私も賛成します。
161猫キック:2000/04/06(木) 05:02
もういいかな?

三位一体を知って,なんとします? >1
知識だけではイエス様とは何の関係も成立しません.

まず三位.
神様.この方は父なる神です.
イエス様.子なる神です.
その他に聖霊と呼ばれている方がおられます.
この方はとても謙虚で,名前が知られていません.

父なる神は全能な方で,子なる神はこの方より生まれ,
(父なる神が身ごもったと言うことではありません.
 あなたは母から生まれても,父の子でしょう?)
父を愛し,父に従います.父は正しい方で愛ですから
父は子を愛し,子は父を敬います.
聖霊様も子なる神とは立場が違いますが,父なる神に
従われます.


つぎは一体.
体がひとつという意味ではありません.
つまり,文語約(アレ,元訳だったかな?)の聖書のよう
に『神はひとつ』ということです.
(キングギドラではありません!失礼な!!)
勘違いしている人がすごく多いですが,意味が違います.
英語では何と言うか分かりますか? 調べましたか?

天使は創られましたが,イエス様はお生まれになったの
で,生まれたときから神です.
これはこの世風に言うと,跡取りですね.

神学者は分かりにくいことを言って,聞く者たちを益々
混乱させますが,実際はそうではありません.

神様のところは,私たちととてもよく似ています.それ
は,私たちがご自分達に似せて創られたからです.
だから本来なら,自分をよ〜く見れば分かるはずなんで
すけど・・・
まあ,この世の自分勝手な父親と,我が儘勝手で生意気
な子供達を見ていたら,三位一体が私たちと同じようだ
などと言われても信じられない?

わたしの書いたこと,どこか聖書と矛盾していますか?

ところで知識としてこれを知っても,しょうがないです.
天国に行けなかったら,三位一体どころではありません.
162聖書ファン:2000/04/06(木) 09:46
>猫キックさんへ

>神様.この方は父なる神です.
>イエス様.子なる神です.
>その他に聖霊と呼ばれている方がおられます.
>この方はとても謙虚で,名前が知られていません.

ということは、この時点で異なる存在が3つあるという
ことでしょう? つまりは3つのペルソナ。だから、跡
取り息子が放蕩して父を困らせることもあるんだ。同様に、
父の怒りをなだめるために、息子が命を投げ出すってこと
もあるってことでしょう? それなら、三位一体じゃなく
て「三人一家族」でしょう? そのように読めますけど。
163聖書ファン:2000/04/06(木) 11:32
生む、従う、愛する、敬う、これらは全部「他動詞」で、
対象があって初めて成り立つ行為です。
だから、父も子も精霊も独立した別の存在だということ
になる。どうでしょうか?
164聖書ファン:2000/04/06(木) 18:55
それより、「怪人三面相」って考えたらどうでしょう?
宇宙の支配者としての「父」の仮面、肉体を身にまとい、
自ら人間の模範を演じて人類を救う「子」の仮面、「子」
のなき後も、手を替え品を替えて、人類を導く「精霊」
の仮面。仮面を剥ぎ取れば、同一の神で、働きの現れ方
が違う。役柄上、弟子達に「父」への信仰のあり方を
示すために、「父よ」と呼びかけたかもしれないが、
実はひとり芝居だった。

これなら、神の唯一性を破棄せずに済みます。ただし、
「子」の犠牲によって「父」に謝罪するという教義は
無効となります(こちらの方が本来の教義だったと
私は福音書の内容から推測します)。
1651:2000/04/07(金) 23:09
よけい混乱してきました。
でも、教会や個々の人によっていろんな考えがあるということだけはわかりました。
皆さん、ありがとうございました。
ところで、三位一体を信じない教会は異端扱いというのは定説なのですか?
166野次馬:2000/04/07(金) 23:44
>1、165
牧師や司祭でもない私でよろしければ・・・
プロテスタント、ローマ・カソリック、正教会、など
を問わず99%の教派は(ユニテリアンなど)三位一体を否定する
教派を異端と見なしております。→故に「正統派」が存在するのです。
また、余談ですがアルメニア正教会やコプト教会などカルケドン
公会議に決定に従わず単性論という立場をとる教会も異端とされて
おります。
まあ、ユニテリアンもアルメニア正教会・コプト教会もほとんど
日本には有りませんので、「異端」で気をつける教会は、
統一教会、モルモン教会、エホバの証人などでしょう。

そうだ、ユニテリアン教会に近い考え=反三位一体かつ「非カルト」の
教会は東京都世田谷区に日本自由キリスト教会というのがあります。
聖書研究で著名な学者であった赤司氏の弟にあたる赤司繁雄氏が
牧師をしており、洗礼もないリベラルな教会だそです。
ドイツのユニテリアン的なリベラル派の牧師が明治時代に日本に
もたらしたと聞きます。
167名無しさん:2000/04/08(土) 00:07
カトリック神学の基礎を築いたトマス=アクィナスという神学者でさえ、
三位一体を理性的に証明することは不可能であると言ってさじを投げて
しまっています。だからひとに聞いてもあまり要領を得た回答を期待する
のは無理というものです。むろんわたしにも答えられません。
三位一体がよく分からなくても、聖書を読むと神とキリストと聖霊が
なんとなく大切であることが実感できます。さらにカトリックならば
ミサに参加するとなお実感を強くすることができます。つまり三位一体は
理屈というよりも実感から生まれたものだと思います。
168名無しさん:2000/04/08(土) 02:49
これはあくまでカトリックの規範に過ぎないのですが、
ニケア(ニカイア)信条に、
三位一体を信じない連中は呪われよ
(「呪われよ」(「呪いあるべし」)と本当に書いてあります)
という旨が書いてあるので、定説も何もそれがカトリックである条件なのです
(どこかウェブ上にあると思う。俺は知らんが。知ってる方情報お願い)

ただ、三位一体を表す言葉をどうするかで、少なからぬ悶着があったらしい
英語的に言えばthe sama-beingとするのかlike-the-same-beingとするかで
169名無しさん:2000/04/08(土) 11:12
当時の多神教社会であるギリシア、ローマ社会では、布教上の
問題から、イエスを「神」にしなければ、ならなかった。
その結果、三位一体論になったのだ。
170名無しさん:2000/04/08(土) 11:14

   Λ凸Λ    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   ( ´∀`)< モナー教の方がいいよ。
  /(  ▽ ) |        きみたち!
 / | | |\  \__________
∠_(__)_)_ゞ
171憂国の士:2000/04/08(土) 11:41
>170
「名無しさん」じゃね〜だろうが、モナーこと
井口@同志社中という御立派な御名前があるじゃろうに。
172名無しさん:2000/04/08(土) 14:42
>当時の多神教社会であるギリシア、ローマ社会では、布教上の
>問題から、イエスを「神」にしなければ、ならなかった。
>その結果、三位一体論になったのだ。
たしかに多神教的発想の側面がないではないが、布教上の問題からというよりも
異端対策のため。古代教会の教義史は異端を排除して正統を確立するプロセスだ。
布教上の問題からというのは、教義が成立して中世に入って、ゲルマン族等に布教
する際に教義を理性的に解説する場合には当てはまるが。
173>172:2000/04/08(土) 15:47
>異端対策のため
異端と正統が別れる前の話だよ。
174名無しさん >171:2000/04/08(土) 15:48
モナー教を、ここで、はじめたのは、俺だよ。
175173:2000/04/08(土) 15:58
それに、異端対策だって、布教上の問題じゃん。
176聖書ファン:2000/04/09(日) 09:08
>1
余計混乱させてしまったようで済みません。
私はクリスチャンではありませんし、教義については講談社
学術文庫の「カトリックの信仰」をひと通り勉強した程度
です。専ら、日本神道や仏教にどっぷり漬かって勉強して
きました。しかし、「カトリックの信仰」を読んでいて
どうにも不思議だったのは、なぜ頑に固定した教義にこだ
わり、それと異なる説をすべて異端として排除するのか
(というより、できるのか)が全く理解できませんでした。
ここの三位一体論についても同様です。イメージ的には頑固
な岩のような頭の持ち主がしかめっ面して頑張っている姿
です。私の宗教のイメージは自由闊達、変化自在です。イエス
や釈迦が説法する相手に応じて喩え話を変えられたように。
今のキリスト教会の教義は、イエスの原点かた大きく逸脱して
全然別物になっているように、私の目には見えます。

仏教では、観世音菩薩が三十三の姿に身を変えて、人類を
救うと教えます。これも相手に合わせて「仮面」を変えて、
相手を導こうという慈悲の現れです。これを三位一体に
置き換えても全然不思議じゃないと思うのですけどね。

>167

わからないことをちゃんとわからない、と正直に認めた
トマス=アクィナスさんはさすがだと思います。それが
宗教的良識というものです。自分がわからないものを人に
強要するなど、最初からお話にならない。「信仰」を「盲
信」と取り違えているのではないでしょうか。
177>176:2000/04/09(日) 10:39
おっしゃっていることがよくわかりません。
導くまでは色々と姿形を変えますが、導く先は一つでしょうに?
パウロの姿勢は、仰る観世音菩薩様とそっくりであると思いますよ。
178176>177:2000/04/10(月) 08:50
導く先とは、天国に迎えられることだと思っています。そのこと
自体は、三位一体だろうが、怪人三面相だろうが、同じことです。

問題は、三位一体の導入によってイエスの教義が骨抜きになって
しまったということです。

昨日も、福音書をひっくり返して探していたのですが、人類の罪
を「子」であるイエスが十字架にかかることで「帳消し」にし、
イエスを「盲信」する者は無償で救済に預かる、と現代のキリスト
教会が主張しているようなことは、どこにも読み取れませんでした
該当するかと思われるのは、エゼキエル31.31-34位ですが、前後
を含めて読めば意味が全然違うことは明白です。
(あるとおっしゃるなら、是非指摘していただきたいものです。
現代のキリスト教会の名誉をかけて。)

心を空にして福音書を読めば、天国に迎えられるのは、イエスの
言う通りに神への愛、隣人愛を実践し、自らの罪の深さを認識
してこれを悔い改め、他人への借財(恨みつらみ、悪人だと
咎める心)を棒引きにする者だけだ、という結論になると思い
ます。

三位一体は「父」と「子」を分離することで、「子」にすべての
罪を負わせて勝手に全人類の罪を帳消しにし、イエスの説く悔い
改めの道を閉ざしてしまった。そこが問題だと思うのです。
三位一体を持ち出した瞬間、天国へ至る道から外れていく。だから
「導くまでは色々と姿形を変えますが、導く先は一つでしょう
に?」とありますが、目的地が違ってしまう。そこが問題だと
主張しているわけです。

三位一体は、神学的な興味にとどまる話でなく、信仰の本質、
魂の救済に直接影響するような一大事ですよ。
179怒れる者:2000/04/10(月) 15:43
>176さん
実は、キリスト教徒ではありますが、原始仏教や老荘にも惹かれています。仏陀も老荘
も神ではありませんが、世界の真理に触れた方として、尊敬しています。そんな訳で、
176さんの観世音菩薩の例えも理解できるのですが、少し考えねばなりません。

ユダヤ教の根底には、契約の概念があります。「ただ一人の神を信じます」と神と契約
を結ぶ事で、救済が得られるというものです。キリスト教はユダヤ教の延長にある訳で
すから、当然に契約の概念は受け継がれています。「信仰告白」と「洗礼」です。
一度、神と契約したら、唯一の神を認めない事は、契約違反です。裏切り者です。だ
から、裏切り者は異端として弾圧されます。
キリスト教徒は、子なる神=キリストと契約しています。父なる神は、三位一体の教義
によって、キリストと同一だから、信仰しても契約違反にはなりませんが、それ以外の
神を信仰するのは違反です。
父なる神が、キリスト以外の姿をとって顕れたのかも知れない、という考え方は却下で
す。何故なら、キリストの出現は預言されていますが、それはダビデの末であるとされ
ているので、旧約の延長上にあるキリスト教会にとって、観世音菩薩やら何やらが神で
ある訳がないのです。

>エゼキエル31.31-34位ですが、
エゼキエル書31章は、18節までしかありませんよ。
180怒れる者:2000/04/10(月) 16:37
>前の続き
仮に、三位一体の教義を誤りだとしてみましょう。キリストは預言されたインマヌエルであ
るが、神ではない。預言者であり、人間にすぎないという仮定を立てます
インマヌエル=キリストは、ユダヤ教の神と契約した者達の救い主です。故に、キリスト
を救い主であると受け入れるものは、自動的にユダヤ教徒となったと言えます。ならば
旧約に従わねばなりません。すると、神は唯一であり、他の名前で顕れる事は有り得な
いから、他の宗教を認める訳にはいかないという理屈になります。

次に、キリストの他にも神がいると仮定しましょう。
旧約の記述は間違っていた事になります。神が自分の事を間違える訳はありませんの
で、旧約聖書の信頼性が危なくなってくる。すると、旧約の延長上にあるキリスト教も崩
壊する。

一つの可能性として、キリストはユダヤ教徒の救い主であるが、実は他の信仰を持つ者
にも救い主を用意してあると考えてみます。さしずめ仏陀は、ヒンズー教徒のキリストと言
えましょう。ですが、ユダヤ=キリスト教徒には十戒があります。「他の何人も神としてはな
らない」訳ですから、他のキリストを信仰する理由がありません。

だから、ユダヤ=キリスト教徒は、どうやっても他宗教を受け入れる訳が無いのです。
181聖書ファン>怒れる者さん:2000/04/10(月) 16:52
>エゼキエル書31章は、18節までしかありませんよ。
すみません。エレミア31.31-34の間違いでした。

>父なる神が、キリスト以外の姿をとって顕れたのかも知れない、という考え方は却下で
す。
これは異邦人の私にも理解できます。問題は、イエスと人間の
間に交わされた契約の中身です。

>「ただ一人の神を信じます」と神と契約
>を結ぶ事で、救済が得られる....
>「信仰告白」と「洗礼」です。
それはイエス自らが宣言したことですか?「主よ主よと言う者が
すべて天国に入るわけではない」とか、「私について来たい者は
自分を捨て、自分の十字架を背負って(十字架をイエスに押し付
けてではない)、私に従って来なさい(マタイ、16.24)」など
は、「信仰告白」や「洗礼」のみでなく、それを実践せよという
イエスの声を感じませんか?「人はその行ないによって裁きを
受ける」、とは、そういう意味なのではありませんか?

臨終の告解や、聖職者が額に塗る水の数滴で、その人間の行き先
が決まるなどという子供騙しにしか見えませんね。福音書を
真剣に読めば読む程、そうとしか思えない。
182聖書ファン>180:2000/04/10(月) 17:22
レスが交錯して、とんちんかんな内容になってしまいました
(お詫び)。
うむむむ。三位一体の本質に関わる問題が出てきましたね。
イエスが神かどうかを一応保留したとして、「これは
わたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。その
居言うことを聞け」(マタイ、17.5)と神様のお墨付き
があるのですから、イエスの行動を規範とした生活を送る
人は皆んな、天国に迎えられるはずです。そうでないと、
福音書そのものがまがい物ということになる。

ここで、なぜイエスをどうしても神にしたかったか、という
と、人類の罪をあがなう程の生け贄は、神しか思い浮かば
なかったからです。しかし、ニーチェのように神は殺せない。
だから、神様を切り売りすることにし、「子」を分離して
十字架に掛けたのです。

私はイエスは神のひとつの姿だと思っています。しかし、
イエスの言葉を守ることが神様の心に適う限り、イエスの
正体が何であれ、実践者は天国に迎えられるはずです。
イエスが人間にすぎなかったか、やっぱり神だったか、
は天国へ行ってからコーヒーでも飲みながらのんびり議論
すればよろしいかと思います。

魂の救済が一番大事ですからね。実践あるのみです。
私の論理は破たんしていますか?
183怒れる者:2000/04/10(月) 18:24
>聖書マニアさん
私先に述べたのは、三位一体の教義を否定したところで、ユダヤ・キリスト教徒が、他の
宗教を受け入れる事は有り得ない事の説明であって、私は、実践より形式が大事などと
は一言も言っていません。第一、それではパリサイ派じゃありませんか。
福音を実践する事も大事ですが、(その形式が教会で定められた方式ではないとしても)
洗礼や信仰告白は同等に重要だと考えています。

>臨終の告解や、聖職者が額に塗る水の数滴で、その人間の行き先
>が決まるなどという子供騙しにしか見えませんね。
告解は、神に心から懺悔させる事が大事なのです。油を塗り祈るという形式は、死者を安
心させ懺悔を促すために、長い間をかけて編み出した技法でしょう。形式は人のために用
意されたのであって、形式自体が大事なのではありません安息日と同じです。
洗礼についてもイイススは、バプテスマのヨハネに、自分に洗礼を施す様に命じられ、洗礼
を受けるべきだと示されたのです。
聖書に示されているのは、形式主義に陥って本質を忘れてはならないという事で、形式を
捨てろとは書いていません。また、その様にイイススが説かれたなら、ユダに「然り。汝の言
う通り、油を贖う金を貧しい者に施すべし」と言ったはずではないですか?
形式主義を捨て、福音の実践に拘るあまり、ジュネーブを荒らしてまわった外道、カルヴィ
ンの例もあります。むやみに形式を捨てるのではなく、中庸こそが大事だと思います。

何だか、三位一体について論じよという、スレッドの趣旨から外れていく・・・。
184怒れる者:2000/04/10(月) 19:15
いかん、ますます混乱してきた。タイムラグがいたいですね。
>聖書マニアさん
>ここで、なぜイエスをどうしても神にしたかったか、というと、人類の罪をあがなう程の
>生け贄は、神しか思い浮かばなかったからです。しかし、ニーチェのように神は殺せ
>ない。だから、神様を切り売りすることにし、「子」を分離して十字架に掛けたのです。
なるほど、これはこれで仮定として正しいと思います。
>イエスが人間にすぎなかったか、やっぱり神だったか、 は天国へ行ってからコーヒー
>でも飲みながらのんびり議論すればよろしいかと思います。
私の場合、それ以前に天国に行けない可能性が高いので、問題が解決した暁には、知
らせて頂ければと思います。
185聖書ファン:2000/04/10(月) 19:24
>怒れる者さま

愚鈍な私に根気よくおつき合いくださって感謝します。

>福音を実践する事も大事ですが、洗礼や信仰告白は同等に重要だと
>考えています。
あっ、大分近づいてきたみたい(笑)。もうひと押しなんだけど。

マザーテレサは、ヒンズー教徒の臨終に立ち会った時には、
「ヒンズーの神に祈りなさい」と指導されたそうです。形式
で言えば、「キリスト以外の者を神として崇めるよう指示した
」わけですから、契約違反ですよね。にも関わらず、なぜ彼女
は民族や宗教を超えて尊敬を受けるのでしょうか?

私はイエスの隣人愛を完璧に実践した、彼女の行ないに感銘
を受けるからだと思います。天国に迎えられる人も彼女のよ
うに輝いていて、異教徒にとってもまぶしく感じるはずです。
こうなると、形式的なことなど馬鹿らしくなってきます。

>ユダに「然り。汝の言 う通り、油を贖う金を貧しい者に施す
>べし」と言ったはずではないですか?
ならば、教会の信者も右にならえすべきですね。その割りに
信者の皆さんは腰が引けてませんか?何やかんやと理由をつけて、
最後にはイエスに泣きついて救い上げてもらおうという甘えた
心があるから、いつまでも実践する勇気が起らないと言ったら
あんまりでしょうか?そんな甘えをイエスがいつ承認したか、
その証拠を見せてくれ、と言っているだけです。

すべての信者がイエスの言葉を実践すれば、即座に戦争など
無くなるのですよ。それを理由つけて伸ばし伸ばしにしている
のは皆さん信者の責任だとは言えませんか?

>何だか、三位一体について論じよという、スレッドの趣旨
>から外れていく・・・。
もう、あまりお手間は取らせませんよ(笑)。ここで議論さ
れた中には、三位一体のうさん臭さを(恐らく肌で)感じた
方々の意見がありましたが、私はその不純なる動機そのもの
に立ち入ろうとしたのです。全くつながりがないわけでは
ありません。でも、そろそろネタは尽きましたね。
186聖書ファン:2000/04/10(月) 19:33
>怒れる者さま

>私の場合、それ以前に天国に行けない可能性が高いので、
>問題が解決した暁には、知 らせて頂ければと思います。

そう思っておられる方ほど、天国に近い所に居られるので
困ったものです。私の方こそ、天国からのe-mailをお待ち
しています(笑)。
187さようならの156です:2000/04/14(金) 22:13
 レスがあったみたいですので、手短に投稿する事にしました。
>158
 仰る通り、マラナタというHNを使ってキリスト教の立場をまとめ
て書いたときがありました。議論するには頭が足りないと感じていまして
レスをくれた方には申し訳ありませんが以前のトピは中断してます。
 いまは、振り出しからという感じですね。
 最後の一文、キリストの再来かなどはとんでもない話です。しかし、
認めてくださっている点は素直にお礼を言わせてもらいます。

>128=159
やはり、生育の背景が人にはそれぞれありますよね。私も然りです。
書き込みに興味を持って返答くださり、ありがとうございます。

>160
「不言実行」が私の言いたかったことではなく、実行ということの中に
行動のみならず発言そのものも含まれる時に問題が生じる可能性がある
と指摘したかったのです。実現しないことを発言する無意味さを皮肉った
ばかりでなく、行動根拠に対する言語の不要さをも言外に含ませた言い分
のつもりです。もちろん、仰るように不言実行は格好いいですね、同意します。
188名無しさん:2000/04/14(金) 22:44
>イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、
>わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。
>なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じ
>ないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話してい
>るのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておら
>れるのである。
>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが
>言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによ
>って信じなさい。 (ヨハネ14/9−/11)

だから、(イエスとは別の)神の霊がイエスに宿っていると
いっるんだよ。
読めば、分かるでしょ。
189名無しさん:2000/04/14(金) 22:49
>バッキンガム宮殿でのカクテルパーティーで、先生がエリザベス女王と対面したとき、
あのね、日本の皇室と英国王室の深い付き合い考えたら、たとえリップサービスでも、女王からこんな言葉は出ないの。

深見氏の大嘘でしょう。
#ところで、副総裁就任が本当として、本当としてですよ、副総裁何人くらいいいるんだろうか?
加入が300人くらいの団体で副総裁が200人位いたりして     (-_-;)
190188さん?:2000/04/15(土) 01:19
何を言いたいのかはっきりして下さい。
父と子と聖霊によって授けられる洗礼では、唯一の神を表していない
と仰るのですか?イエズス様はマルコ12:29では次のように仰っています。
【イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエル
よ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。】
 神がお一人なのはイエズスが仰っています。
水の洗礼と霊の洗礼が大切だとも仰いますし、ご自分の昇天の後の
聖霊降臨についても仰ったように実現することは使徒言行録を読めば
明らかです。
 考えても、やはり三位一体という信仰の神秘は人間には悟ることが
出来ないというのが一般には教会で言われていることです。カトリックで
あれば、三位一体について要理の第8課で詳しく述べられています。
お読みになってみてはどうでしょうか?奥義であることは信仰を表す
十字架の神秘を示すときにも父と子と聖霊の御名によってアーメン
と十字を切ることからもわかると思います。これは信仰であって理性の
範囲を超えた真理なのです。くどくど聖書を挙げて一面の解釈に浸っても
しようがないのです。
191マラナタ:2000/04/15(土) 02:10
 調子が、あまり良くないですが、HNをマラナタに戻してみます。
しばらくは調整期間です。だらだらと訳の分からない低調なレスが
続くかもしれませんが、ご容赦下さい。 では、今日のところは
お休みなさい。
192188さんじゃないですが:2000/04/15(土) 02:20
要理の第8課読みました。たしかにおっしゃる通りですが、解説部分に

「信仰によって、ある程度までその意味を理解し、それについて有益な
知識を得ることもできます」

と書いてあります。

また高柳俊一神父は「現代人の神学」という本の中で次ぎのように書いています。

「本質的三位一体論が救済の摂理の三位一体論を伴わない場合には、その理論的深みは
失われ、形骸化してしまう。つまり現実の生活にとって何の意義も関連ももたず、
繰返し唱えられるものになってしまう。神学の思索の中でも、真に生き生きとした
思惟の対象としてではなく、解決ずみの命題として受け取られてゆく。」

たしかに三位一体は信仰の神秘ですが、このような意味で「思惟の対象」として取り組んで
ゆくべきだと思うのです。
19388:2000/04/15(土) 04:28
>これは信仰であって理性の 範囲を超えた真理なのです。
>くどくど聖書を挙げて一面の解釈に浸っても しようが
>ないのです。

三位一体論は、「信仰」にすぎないのであって、聖書読解に
よるものでないことが、分かってもらえれば、結構です。

しかし、最初、彼らは何によって、三位一体論にたどり着いた
のであろうか???

レスは、疲れるので、要らないよ。
194188:2000/04/15(土) 04:38
初めの頃から、そうだと言ってたのを、うだうだ反論してきたのは
あなた達でしょ。
あーあ。馬鹿馬鹿しい。
195188:2000/04/15(土) 04:50
>これは信仰であって理性の 範囲を超えた真理なのです。

あっそうだ、どうやって、真理と分かったのかだけ、教えてよ。
196190>193-5:2000/04/15(土) 14:28
キリストの言葉をそのまま受け止めるならば、
三位一体は、避けて通れません。福音書のはじめから
申し上げるのはやめます。イエズスが神であるということは
次の聖書箇所からも洞察できると思います。
そして、マタイ28章19節が素直に受け止められるなら、
ことさら三位一体をあげつらわなくても良い理解が得られると思います。
★ヨハネによる福音書★
「もし私を知っていたなら、私の父をも知っているはずである。」8:19

「あなた達は人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』を悟り…」8:28

「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」8:58

「…わたしを通って入るなら、その人は救われる。……」10:9

「『わたしがある』をあなたたちが信じるためである」13:19

「わたしを通ってでなければ、誰も父のもとに行くことはできない。
あなたたちがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。
いや、もう今から父を知っており、また、すでに父を見たのだ」14:6-7

「真理の霊、その方を…」14:17

「父が わたしの名によって お遣わしになる霊、その方 がすべてのこと
をあなたたちに教え、わたしが言ったことをすべて思い出させてくださる。」14:26

「しかし、真理の霊である その方がこられると、真理のあらゆる面で
あなたたちを導いてくださる。…」16:13

○「わたしと父とは一つである」10:30
197名無しさん:2000/04/15(土) 18:19
だから、「イエスが、神の霊に満たされていた」と、いってる
でしょ。人の話きいてよね。
イエスが、神の霊と同時にいた(=イエスの体のうちにいた)
のだから、当たり前よ。
馬鹿馬鹿しい。
198197補足:2000/04/15(土) 18:37
>わたしの内におられる父が、その業を行っておら れるのである。

イエスが自分で答える場合のほかに、イエスのうちにいる神が、
業をつかって答えている(異言のようなもの)場合とがある。

199名無しさん:2000/04/15(土) 19:02
次のイエズスが神であることは聖書を読むことで、くみ取れましたよね。
それはいいですか?
では、神である主の仰せのように行うことが大切です。議論はお互いに
かみ合わないですし、不毛なようです。
あなたは、父と子と聖霊の御名に入る洗礼を受けられたら良いのです。
それが、イエズスが仰った福音の真実だと思います。

《だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。》マタイ28:19−20

200名無しさん:2000/04/15(土) 19:16
>198
聖書のどこの箇所でのイエズスの発言をそのように解釈しているのか
興味深いところです。具体的に指摘をして自説を展開して下さい。
よろしくお願いします。
 そうでないと、私は誰が何をどうだと言ったのかがよくわからなかったり、
あなたの立場が三位一体の否定からどのような結論を導こうとしているのかが
全く掴めなかったりしますので。その点を配慮願います。
201訂正。偉そうですみません。>197.8:2000/04/15(土) 19:25
次のイエズスが神であることは聖書を読むことで、くみ取れましたよね。
                 ↓
イエズスが神であることはこれまでの投稿でも聖書箇所を示してきたように
聖書をよく読むことでくみ取れると思います。
202198@`:2000/04/15(土) 19:27
188 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/14(金) 22:44

>イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、
>わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。
>なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じ
>ないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話してい
>るのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておら
>れるのである。
>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが
>言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによ
>って信じなさい。 (ヨハネ14/9−/11)

だから、(イエスとは別の)神の霊がイエスに宿っていると
いっるんだよ。
読めば、分かるでしょ。
203198:2000/04/15(土) 19:30
ほかにもあるけど。
しかし、何回言えばわかるんだ。
あんたらと話しても、人の話聞かないから、不毛なんだよ。
俺も、馬鹿馬鹿しいよ。
204>199:2000/04/15(土) 19:33
>次のイエズスが神であることは聖書を読むことで、くみ取れましたよね。
>それはいいですか?

なぜ、これがそういう意味になるのか不明です。
あなたがたは、ひとの話しを理解しないで、無視しているだけだか
らね。もう、やめようか?

205名無しさん:2000/04/15(土) 19:48
父はお一人ですが、「わたしが父の内におり・・・」とイエズスは
仰っています。これが、「父がわたしの内に・・・」から始まる
言葉であれば、私もすんなりとあなたの言われる
>だから、(イエスとは別の)神の霊がイエスに宿っていると
>いっるんだよ。
が少し理解できると思います。
 父と子と聖霊を切り離して洗礼を授けることはイエズスの言葉に
反します。理性でこのことの意味が明確にわからないとしても、
復活を否定し、聖霊降臨を受けた使徒の主だった柱と目される
パウロやヨハネの告白を無視し、さらに福音書随所に現れるキリスト
の言葉を曲解するとすれば、とてもそれは正統なキリスト教とは言え
ないと思いますよ。

 198さんは、どんな立場でイエズス様を理解しておられるのでしょうか。
何かの共同体や組織に属しておられるのですか?
206訂正!205:2000/04/15(土) 19:52
>聖霊降臨を受けた使徒の主だった柱と目される
>パウロやヨハネの告白を無視し、・・・
パウロやヨハネ→ペトロやヨハネ でした。すみません。
207198:2000/04/15(土) 19:56
それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分につい
て証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答え
て言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとして
も、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そして
どこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなた
たちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実であ
る。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしにな
った父と共にいるからである。
あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。
わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしにな
った父もわたしについて証しをしてくださる。」
ヨハネ8/13−18

これを読むと、イエスと神が別個の独立した存在でなければ、意味
をなさないことが分かるでしょ。
私は、一人一派だよ。
208198:2000/04/15(土) 20:04
>父と子と聖霊を切り離して洗礼を授けることはイエズスの言葉に
>反します。

意味が良く分からないのだが、、、類推すれば、、、
これは、「父と子と聖霊」が、独立してでなく、チームを組んで、
チームが一丸となって、事にあたっているという、意味に解する
べきでしょう。
209198:2000/04/15(土) 20:07
>>聖霊降臨を受けた使徒の主だった柱と目される
>>パウロやヨハネの告白を無視し、・・・
>パウロやヨハネ→ペトロやヨハネ でした。すみません。

「神」のことは、イエスを通してしか、理解できないんだよ。
箇所をしらべるのが面倒なので、失礼するが、あなたなら、
わかるでしょ。

210名無しさん:2000/04/15(土) 20:15
>198
私は、207の指摘は別に三位一体を否定する見解には思われません。
カトリック要理は、抜粋しますが次のように説明します。

36イエズス・キリストは、神ご自身について何を啓示なさいましたか。
イエズス・キリストは、神はただご一体で、しかも父と子と聖霊というご
三かたであると啓示なさいました。(教会の伝統的な表現に従えば、そのご三かたは、
それぞれペルソナ〔位格〕と呼ばれます。)

37神がご一体で、しかも父と子と聖霊というご三かたであるというわけを、人間は
悟ることができますか。
神がご一体で、しかも父と子と聖霊という、ご三かたであるというわけは、
人間の知恵を越える真理ですから、これを悟ることはできません。
神の啓示されたものですから、人間はこれを信じるのです。人間の知恵では
悟ることができなくても、神の啓示されたものであるから信じる真理を“信
仰の神秘(奥義、秘義)”といいます。
神がご一体であって、しかも父と子と聖霊である信仰の神秘を「三位一体の
神秘」といいます。

 続く。
211名無しさん:2000/04/15(土) 20:21
それから、あなたの仰ること自体は妥当な見解だという裏付けとしては
次のような要理の説明もありますよ。

28イエズス・キリストがご自分を神の子とおっしゃったのは、どういう
意味ですか。
イエズス・キリストがご自分を神の子とおっしゃったのは、ご自分が御父で
ある神とまったく独自の関係を有し、父と一体であり、その永遠の御ひとり子
であることを意味しています。

以上です。カトリック要理を手に入れられましたらお読みいただければと
思います。
212名無しさん:2000/04/15(土) 20:37
地図を描くように神を理解できると思うのは間違いだと思います。
国境線を描き足すがごとくの行為や、見たことのない土地部分に配色
を施してみても、便利ではあっても実際の姿ではありません。
丸い地形を平面に描こうとしても、どうしてもゆがみがでます。

神に対する見解も、安易に便宜的に把握するのは良くないのでは?
208の意見はその点で、危険な理解だと私は思いました。
213198:2000/04/15(土) 20:42
>あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。

ユダヤ人の 律法には、二人の別の証人がいるということは、
分かりますね。この二人が独立したものでなければいけませんね。
さて、三位一体論は、独立していますか?いませんね。
あなたがたが、いたと主張しても、ユダヤ人は認めませんね。
イエスは、ユダヤ人にたいして、話をしてるんですから、別個
でないと、話があわないんですよ。

214198>カトリック:2000/04/15(土) 20:44
話をしても無駄だと良く分かりました。
これで、止めましょう。
215198>カトリック:2000/04/15(土) 20:48
>イエズス・キリストがご自分を神の子とおっしゃったのは、ご自分が御父で
>ある神とまったく独自の関係を有し、父と一体であり、その永遠の御ひとり子
>であることを意味しています。

それは、三位一体論そのものですね。
それでは、自分の主張が、はじめから正しいといっているのと
おなじですね。あなた方の話は、こればかりです。


216198>212:2000/04/15(土) 20:56
>地図を描くように神を理解できると思うのは間違いだと思います。
> 神に対する見解も、安易に便宜的に把握するのは良くないのでは?
>208の意見はその点で、危険な理解だと私は思いました。

そのように、あなた方に主張してきたのは、私です。
それに、三位一体論も、同程度だとおもいますがね。
ならば、三位一体論も危険ということになるでしょうね。
217>209:2000/04/15(土) 21:05
手がかりになるやりとりや言葉の一節すら挙げられていないので
私は、あなたの言っていることがさっぱりわかりません。
大体でよいので、あらすじや言葉を思い出して書いて下さい。
そして、その聖句なりなんなりから何を読みとって欲しいのかを
書いて下さい。聖書から来る印象はお互いに大分異なるようなので
同一箇所を読んでもあなたと同じ理解を得られないかもしれませんから・・。
218怒れる者:2000/04/15(土) 21:46
神の本質は言葉であり、絶対の権能であるとします。絶対であるという事は、唯一だという事です。

>(ヨハネ14/9−/11)
>だから、(イエスとは別の)神の霊がイエスに宿っているといっるんだよ。
14章6節を読むと、「イイスス之に言う、我は道なり、真実なり、生命なり、人若し我に由らずば、父
に来るなし」とあります。生命とは神の代名詞(創世記参照)ですが、イイススは9節で、自分は神
であり、父神とは別の位格を有している事を述べていると、私は判断します。
この続きとして9節以降を読むなら、父神や聖神がイイススに宿った上での言葉とは考えにくい。

さて、イイススが子神であるならば、父神と子神の二人がいる。すると絶対の原則に矛盾が生じる。
そもそも旧約の教えと矛盾する。
そこで三位一体の教義が考え出された。見かけは三人でも、本質は一人。これなら矛盾が生じる
事なく、イイススは神であるという論理が成立する。
イイススが神であると信じるなら、三位一体の教義を受け入れざるをえない。
三位一体を否定するには、イイススの神性を否定せねばならない。すると、イイススは自らを神と偽っ
た訳で、十戒に違反した事となる。
新約を旧約の延長と捉える限り、背約者を奉る事は出来ない。旧約を放棄しない限り、キリスト教は
成立不可能となる。しかし、キリストは旧約に由るメシアである。旧約を放棄するわけにはいかない。
よって、道徳としてならばともかく、キリスト教を宗教として受け入れるには、三位一体も受け入れねば
ならない。

理屈の上ではともかく、三位一体が正しいのか間違いなのか、私には良く分かりませんや。千八百年
近くも碩学が議論してきて、多数決でしか決着の付かない事柄だけに、何ともしようがありません。
私が何を言っても、三位一体が真実とは証明できないし、198さんが三位一体を否定しても、バチカ
ンやモスクワの教会博士には論破されるでしょう。真相は神のみぞ知る。
219猫キック:2000/04/16(日) 02:43
すごく不毛な話が続いていますね.
信仰と何の関係もないことです.神様を解剖しているつもりでは
ないでしょうが・・・.猫キックしたくなります.

皆さんの中に,ひとりでも実際に神様に聴いてみようか!と思う
者はいないのですか?

自分のことを無視して,自分のまわりの大勢があーだこーだとト
ンチンカンな事を言っていたら,いやになっちゃうでしょう?
神様もそう思っているかもしれませんよ.生きてますから.
ライナスだったかが,「神様がため息をつく」と言ったのはまさ
にこういうことだと思います.

聴いたら答えてくださるなんて,誰も思っていないんでしょう?
昔から神学というものはそうでした.
信じないで考える.考えても分からないから,
難しい言葉を使って,煙に巻くようなモノをでっち上げる.
さも信仰があるような,ないような・・・モノです.
それを聴いた者たちは・・・(ここで『ため息』となります)

ちょっとは汗でもかきながら,祈ってみたらどうでしょうか.
まず,信じられるようになって,その後で,理解とまでは行かな
くても納得できるようになるでしょう.全てはそれからです.
しかし,その逆は決してありません.ルールでそうなっているよ
うです.最初に考えるこということは,この場合,方法違いです.
そういう者が集まって意見を戦わせて何になるでしょう?

先入観を捨てて,よ〜く聖書を読んでみましょう.勿論旧約聖書
の初めから,黙示録までね.そして答えられるまで祈ってみたら
どうですか.こういうのを信仰って言うんでしょう?
信じないで揚げ足を取る者は,人の世界では利口者と評価されま
すが,神様からは捨てられてしまいます.気を付けましょう.
それと神様をキングギドラみたいに思っていると,天国なしにな
りますよ.

今日は日曜! 礼拝に行きましょう!!
220猫キック:2000/04/16(日) 03:00
(長いので省略。レスを全部読むボタンで読めます)
というのが付いてしまった.
もう一言.
皆さん自分の神様を追い求めてはどうでしょうか.
確かに信仰は聞くことからはじまりますが,聞いた後はそれを確
認するでしょう?
ここで議論する前に,他人の神様ではなく,自分の神,自分の主,
自分のイエス様をガッチリつかんだらどうですか.要は確認する
ことです.

それともこのスレッドは,ただ言葉の遊びをする場所でしょうか?
(ハンドルだと偉そうですみません.またしばらく沈黙.)
221名無しさん:2000/04/16(日) 05:21
やっぱり、三位一体が分かりやすくなるのは、まだまだ相当先のことのようで…
222Mr.Seven:2000/04/16(日) 05:21
非常に興味があったので
ここを読んでいたのですが、
説明ではなくて肯定と否定の論争になっちゃいました。
改めて質問です。
宗教は人生がそうであるように矛盾を内包しています。
しかし、それを受け止めるための方法も同様に存在します。
「だってそうなんだもん」的なことや、
「聖書を読め!」ではなく、
「三位一体」をあなたがどう解釈し、
また受け止めているかを教えてください。
223怒れる者:2000/04/16(日) 13:18
>219さん
神学を全否定する貴方の考えは誤りだと思います。
神学を築いてきた初期教父や教会博士らが、単なる理屈屋だとお思いか? 彼らは時
に、神学に命を懸けました。そこには信仰の正当性がかかっていたからです。
信仰に命を懸けるものに、神がため息をつかれるとは思えません。

>難しい言葉を使って,煙に巻くようなモノをでっち上げる.
でっち上げと決め付けるからには、あなたは論理の矛盾を証明しなければなりません。

>まず,信じられるようになって,その後で,理解とまでは行かなくても納得できるように
>なるでしょう.全てはそれからです.しかし,その逆は決してありません.
トマスの疑念(ヨハネ伝20.27)を読んで下さい。イイススは確かに、まず信ぜよとおっ
しゃいましたが、トマスはイイススを見て(理解して)、後に信じたではありませんか。逆は
あります。

>皆さんの中に,ひとりでも実際に神様に聴いてみようか!と思う者はいないのですか?
では、貴方は神に伺った結果、どのような答えが返ってきたのでしょうか?

>222さん
私は、イイススは神であると信じます。これは信仰だから理屈抜きです。誰が何と言おう
と変える気はありません。
また、三位一体以外の論理で、父と子の存在の分離と神の絶対性との矛盾を、聖書に
反する事無く説明できない限り、三位一体論を放棄する気はありません。逆に言えば、
もっと良い論理があれば、そちらを支持します。
三位一体論は、信仰を理論的に裏付けるための手段だと考えています。
224名無しさん:2000/04/16(日) 13:53
ワシは改革派(カルバン派)教会に通ってたけど、
つまらない上に、全く信仰心が湧かなかった。
また、日本キリスト教会(「教団」とは別組織)の
説教は難しいしね。
ただ、正教会には一度行ってみたいな。
ニコライ堂とか、何しろ装飾が美しいしね。
正教会、カソリック教会、アングリカン教会(聖公会)
などは、とにかくビジュアルで惹きつけられる。
ルター派はドイツとかでは荘厳な聖堂が多いけど。
それに比べて、多くのプロテスタント諸宗派は
聖書学習と賛美歌、ユニテリアンは理神論的な能書き、
これじゃ面白くないよ。
225>198=215:2000/04/16(日) 15:33
>おなじですね。あなた方の話は、こればかりです。
マラナタさんをカトリックの代表的な意見だと考えないでください。
マラナタさんにいらついているのはわかりますが、それをカトリック全体に
ぶつけるような書きこみはどうかと思います。迷惑です。
マラナタさんの信仰心が厚いのはわかりますが。
226>224:2000/04/16(日) 15:39
>正教会、カソリック教会、アングリカン教会(聖公会)
>などは、とにかくビジュアルで惹きつけられる。
ある意味で同感ですね。人間臭いんってすよね。だからルターのような謹厳な
聖職者の目からは堕落と映ったのでしょう、人間くさいカトリックの暗の部分が。
227225付け足し:2000/04/16(日) 15:49
むろんマラナタさんはカトリック要理を引用しているので、言っていることが
カトリックから外れているというわけではないのですが、教義をそのまま
紹介しているだけで説得力に欠けるという意味です。
どんな教義もその成立背景には人間的な探求の過程があるわけで、そして
その探求も西洋文化が背景にあるけで、それ飛び越えて教義を押しつけても
無意味です。要理をそのまま信じろといわれて信じられる人間はどうかと思います。
228カルティアン:2000/04/16(日) 17:59
>224

>ある意味で同感ですね。人間臭いんってすよね。だからルターのような謹厳な
>聖職者の目からは堕落と映ったのでしょう、人間くさいカトリックの暗の部分が。

 謹厳とか、アンチビジュアルはむしろ、カルバンでは? ルターは、人間くさ
かったし、教会美術・礼拝形態もカトリック的なものを余り排除しなかった。
(アディアフォラ)
229226>228:2000/04/16(日) 18:46
>謹厳とか、アンチビジュアルはむしろ、カルバンでは?
そうですか。プロテスタントのことはよく分かりませんので。
ただ中世のカトリックよりは、ルターのほうが謹厳だという意味でいっただけなのですが。
お気を悪くされたのなら誤ります。>カルティアンさん
230名無しさん:2000/04/16(日) 21:18
まあ、概してプロテスタントことに
カルバン派(改革派・長老派)教会は
厳粛かつ貧相でつまらん。
日本にあるか否かしらんが、ユニテリアンは
合理主義でつまらん。
行くならカソリック教会、正教会、聖公会(アングリカン・
チャーチ)が良い。
信仰に教義なんて余り重要じゃないよ。
231怒れる者:2000/04/16(日) 23:02
>230さん
おおむね賛成。キリスト教史を勉強したところ、カルヴァンとルターの人格に破綻があったと知るに
至り、ルターの信仰義認論だけは評価しますが、プロテスタントとは縁遠いです。
根拠無く言っている訳ではなく、ルターがユダヤ差別主義者であり、カルヴァンがスターリニズム的
な専制政治を敷いていた事について、証拠の文献があります。はっきり言って、プロテスタントのイ
メージががらがら崩れますよ。
しかし、プロテスタントでも、メノナイトとクェーカーは立派なもんです。彼らの生活を見習いたいです。
232>222 マラナタ:2000/04/17(月) 00:35
 三位一体の理論を咀嚼して話してくれという事であれば、私は
そんなこと出来ませんとお答えします。
 私は、三位一体がイエズスキリストの復活の否定や神であることを
否定する異端と袂を分かつための用語であったのではないか、と捉えて
います。

 マタイ28章19節などを、歴史的な根拠をもってイエズスの仰った
ことではないと否定する方がおられるならば、考え直す根拠として十分に
取り上げることは出来ると思います。
 しかし、それでも、カトリック信仰は聖書ともう一つ重要な根拠に聖伝
を持っています。教父の言葉や著作や伝統的な典礼や様式を含む伝承だ
と考えていただければいいのですが、書物としての聖書以上にそうした
口伝のようなの、継承されてきた行為慣習が重要視されることがあります。
 三位一体を否定されるのならば、まずはマタイによる福音書の28章
19節前後は、後代に書き加えられたもので聖書の内容にそぐわないという
確証を与えていただかなければ議論のまな板に載せられません。
 こうした内容に心当たりがおありの方はいつでも論拠を示して三位一体に
反論して下さい。それ以外であれば、聖書をよくお読みになっていないだけで
話としてはナンセンスだと思います。あしからず。
233230:2000/04/17(月) 00:43
>怒れる者さん
”信仰に教義など余り重要ではない”とは、
私の過言・脱線でしたし、何も教会の建物や
装飾のビジュアルの方が重要だとは考えて
おりませんが、怒れる者氏のおしゃる通り、
ルターはナチばりの反ユダヤ主義者でしたし、
カルバンはヒットラーやスターリンの如く
過酷な恐怖政治をジュネーブで行いました。
また、イギリスのクロムウェルの恐怖政治、
ニューイングランドでの魔女狩り・インディアン虐殺
などもカルビニズムと無関係ではないでしょう。
それは、ともかくとしても、プロテスタントの多くは
聖書学習と禁欲を重視し過ぎ、またユニテリアンは
キリスト教とは言えないほど理神論的な合理主義で、
どちらとも彼らの言う”本来のキリスト教”から彼らこそ
脱線しているように思えます。
ただし、禁欲や聖書学習が無意味とか不必要などとは
思っておりせんし、それこそメノー派やクウェーカー派
の信者は”リアル・プロテスタント”とも言えるほど
に感心する信仰生活ですね。
234Mr.Seven:2000/04/17(月) 01:55
どうやら、否定派だと勘違いされてるようです。

「あなたがどう受け止めているのかを教えてください」
主要な教義の一つだろうけど、
人それぞれ受け取り方が違うみたいなんで。
235マラナタ:2000/04/17(月) 02:01
222さんへのレスは、ここをお読みになっている方で三位一体に懐疑的な
すべての方に対するレスでもありました。Mr.Sevenさんがどちらの側か
わからなかったものですから、このように書き込んでしまいました。
誤解を与えてしまって申し訳ありません。
236マラナタ:2000/04/17(月) 02:04
要理にも書かれていますが、カトリックがイエズスの救いの言葉を
どのように理解しているかは一般に基本は次のようです。聖書を書き抜く
都合上少々長くなりますが勘弁して下さい。
●●救いの道としてお教えになった項目●●
        と
参照聖書句の一覧を挙げています。

●●心の改めと信仰●●
マルコ1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
                                   と言われた。
マタイ4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」
                         と言って、宣べ伝え始められた。
マタイ7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に
                      自分の家を建てた賢い人に似ている。
7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。
                          岩を土台としていたからである。
7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、
                    砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、
                             その倒れ方がひどかった。」
ルカ8:11 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。
8:15 良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、
                          忍耐して実を結ぶ人たちである。」
ヨハネ5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった
         方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、
                                 死から命へと移っている。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる
                                 者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
237マラナタ:2000/04/17(月) 02:07
●●御父である神に対する愛●●
マルコ12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが
        立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、
                               どれが第一でしょうか。」
12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、
                 聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
                          あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』
                          この二つにまさる掟はほかにない。」
12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。
      『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を
        自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物や
                      いけにえよりも優れています。」
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から
            遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
マタイ22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められた
                                と聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。
    「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
238マラナタ:2000/04/17(月) 02:08
ヨハネ15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。
                             わたしの愛にとどまりなさい。

●●御旨に対する従順●●
マタイ7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。
                    わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
マルコ3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
ヨハネ15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、
             わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

●●神のお計らいに対する信頼●●
マタイ6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、
             これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、
                          これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
                      その日の苦労は、その日だけで十分である。」
239マラナタ:2000/04/17(月) 02:11
●●兄弟である人々に対する愛●●
マタイ6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
ルカ10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
            「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、
    あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、
      追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、
                             半殺しにしたまま立ち去った。
240マラナタ:2000/04/17(月) 02:13
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、
                       その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、
                       その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、
                                   宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、
         宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。
                    費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。
                             「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ヨハネ15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
241マラナタ:2000/04/17(月) 02:14
●●心の清さ●●
マタイ5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、
                        既に心の中でその女を犯したのである。
5:29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
    体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。
       体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
ルカ16:15 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを
        見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、
                                  神には忌み嫌われるものだ。
242マラナタ:2000/04/17(月) 02:16
●●けんそん●●
マタイ20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒に
                イエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
20:21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。
           「王座にお着きになるとき、
                     この二人の息子が、一人はあなたの右に、
                         もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
20:22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。
     このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
20:23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。
    しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。
             それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
243マラナタ:2000/04/17(月) 02:17
20:24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
20:25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、
      邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
20:26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。
           あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
20:27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、
     多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ルカ14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、
              あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、
                               へりくだる者は高められる。」

 その他イエズス様は、罪の痛悔、誘惑に対する警戒、不断の祈り、十字架をともにして生命に至るよう
にとすべての人をお励ましになりました。今回は疲れたので「けんそん」まで。
244マラナタ:2000/04/17(月) 02:19
文の区切りが適当で、かえって読みにくくなってしまったことを
お詫びいたします。
245訂正243邦人→異邦人:2000/04/17(月) 03:00
マタイ20:25の引用で異邦人の「異」が抜けていました。
他に誤りがあれば教えて下さい。聖書は日本製書協会の
新共同訳を用いております。
246猫キック:2000/04/17(月) 03:33
さっき見たらレスがあったんで,お答えします.

>やっぱり、三位一体が分かりやすくなるのは、まだまだ相当先のことのようで…
 分かりやすくしてどうするのでしょう? おかずにしてご飯でも食べるの?
 知識としての三位一体は,本当のことを知ったとしても何の役にもたちま
 せん > 221


>「だってそうなんだもん」的なことや、
>「聖書を読め!」ではなく、
>「三位一体」をあなたがどう解釈し、
>また受け止めているかを教えてください。
 ログを読みましょう.私は私の知っていることを書きました.
 いろいろ並べて,自分に都合の良いモノを選ぼうとしているのでしょうか?
 だから私は生きている神様に自分で聴けばよいと言ったのです.> 222


 以下 > 223
>神学を全否定する貴方の考えは誤りだと思います。
 私は神学校に10年以上いました.神学の大部分は実際の神様からずれています.
 この場合,「当たらずと言えども遠からず」も,ずれているモノに含みます.
 これがほとんどですが.ひどいのもあります.有名どころがそうです.
 例えば,あなたに話しかけている相手が,あなたの顔の10p横の壁に向かって
 熱心に話しかけたら,それもあなたの名を呼びながら話しかけたら,あなたは
 「こいつは ずれている」と思うでしょう? 神様は尚更です.でも,確かに
 神様を捕まえてと言うか,食い下がって真理に到達した者たちはいます.そう
 いう人は大勢いますが,そういう人たちは「あなたも経験しなさい」とは言っ
 ても,理屈で,神様を(分からないことが)分かったような神学を捏ねたりは
 しないでしょう.経験した人は簡単明瞭です.「口を閉じてやってみよ」です.

247猫キック:2000/04/17(月) 03:37

>神学を築いてきた初期教父や教会博士らが、単なる理屈屋だとお思いか?
 「すごい!」と思う者もおりますが,理屈屋もいます.異端に対しては確かに
 反駁しなければなりませんが,その術に飲まれないようにしなければ.
 しかし「じゅっぱひとからげ」で論じれば,私はイエス御自身を見上げるとき,
 誰も取るに足りないと思います.言い換えれば,本物に繋がろうとしないから,
 「すごい」と思える者に繋がったり,理屈屋に傾倒するのでしょう.

>彼らは時に、神学に命を懸けました。そこには信仰の正当性がかかってい
>たからです。
 神学 = 自分の義のために ×
 神学 = 神様のために ○
 ちょっと見には同じに見えるところが残念です.神学者が,神学によって栄光
 を受けようとするのなら,その者はイエス様から捨てられるでしょう.そうい
 う者は「不法を働く者」と言われてしまいます.

>信仰に命を懸けるものに、神がため息をつかれるとは思えません。
 信仰って何? から始めるわけにはいきませんね.
 神様にため息をつかせる(我ながら何と不遜なモノの言い方)ような者とは,
 神様のことをやりながら,なお自分の義に落ちていってしまう者です.
 神様のことをあーだこーだと言いながら,神様をまったく見てはいない者たち.
 だからため息が出るのでしょう.

248猫キック:2000/04/17(月) 03:40

>>難しい言葉を使って,煙に巻くようなモノをでっち上げる.
>でっち上げと決め付けるからには、あなたは論理の矛盾を証明しなければなりま
>せん。
 いやです.また揚げ足を取られます.この前,私が書いた「不毛」そのものです.
 全然やる気のない者を相手にしても水掛け論です.困ったことに反駁された者は
 「それでも自分が正しい」と思い続けるモノです.私がそうでしたから.
 私が言うのは,「神学者をあてにしないで,自分でやってみればどうですか?」
 これだけです.命を懸けて神様に食い下がりなさい.もしかしたら,神様はあな
 たに三位一体どころか,宇宙の果てまで悟らせてくださるかもしれません.それ
 はただ,神様とあなたの個人的な関係です.私の入り込む余地はありません.

249猫キック:2000/04/17(月) 03:41

>トマスの疑念(ヨハネ伝20.27)を読んで下さい。イイススは確かに、まず信
>ぜよとおっしゃいましたが、トマスはイイススを見て(理解して)、後に信じたで
>はありませんか。逆はあります。
 逆は確かにあるでしょう.それは神様の勝手です.すみません.
 神様は信じない者に奇跡をバンバン見せつけて,信じるようにさせるかも知れま
 せんね.でも私への対応はそういう順序ではありません.あなたにはどうです?
 さて,ヨハネの福音書には,上の部分に行くまで,いったい何度「そして弟子た
 ちはイエスを信じた」(2:11b)と同じような言葉があるか,数えたことがありま
 すか? この弟子たちの中にトマスはいました.弟子たちは信じては疑い,高慢
 になっては挫け,十字架となっては逃げ回り・・・本当にイエス様によって,そ
 の信仰を育てられたのですね.弟子たちの,信じられないけど信じようとしたこ
 と,信じ られないことが少しずつ信じられるようになっていく過程を考えると,
 トマスもペテロもみんな一緒だと思います.
 しかしトマスの信仰を継承した人々は,おっと神学じゃない,危ない.
 そもそも,弟子たちはイエス様の最初の証人として立てられてのでしょう.それ
 に疑ったのはトマスだけではありません.マグダラ以外は,みんな力一杯?疑っ
 たのです(マルコ 16:14).イエス様は弟子たちをいつくしまれ,その不信仰を
 癒されました.誰でも最初はみんな疑うんだと思うんです.でも信じるぞ!と懸
 けて行動する,すると確認が来るのでは? 懸けない人は確認のしようがないと
 言うことでしょう.

250問題解決セーブ王:2000/04/17(月) 04:02
私が来たからには8時半の男・宮田なみにピシャリと抑えます。
251猫キック:2000/04/17(月) 04:02

>では、貴方は神に伺った結果、どのような答えが返ってきたのでしょうか?
 私の経験を聞いてどうするのでしょう? 私と同じことをしようと言うのですか?
 私になんか聞かないで,神様に直接あなたが聴いてみたらいいですよ.どこまで
 行っても自分とイエス様の関係が第一です.大体私は「こんなとこで証ができる
 わけがない」と思っています.ちょっと一生懸命になっちゃったけど.
 怒れる者さんは,三位一体は信じるが,神様が答えるとこができるなんて信じら
 れない,と言うわけではないでしょう? どうか御自身,頑張ってみてください.

 もし誰か一人でも,イエス様に会うことができたなら,カルバンも,バルトも,
 ルターも,神様を解剖しているような神学者も,取るに足りない者だったと知る
 でしょう.しかし,教会の中で,聖書理解やクリスチャンたちを縛っているそれ
 らのものから抜け出てイエス御自身に繋がるものがどれくらいでるでしょうか?
 一人ひとりのその壁はすごい強敵です.神様との間にある自分自身の壁です.
252マラナタ 243から続き:2000/04/17(月) 07:03
●●罪の痛悔●●
マタイ4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」
                         と言って、宣べ伝え始められた。
12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、
     彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて
            悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
ルカ13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の
              血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難
   に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、
                                 皆同じように滅びる。
13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに
        住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも
                    悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、
              悔い改める必要のない九十九人の正しい人について
                            よりも大きな喜びが天にある。」
15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、
                 その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、
               家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、
    『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、
                          神の天使たちの間に喜びがある。」
253マラナタ :2000/04/17(月) 07:04
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、
    『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。
                      それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、
             そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、
                            彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、
                  その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、
                     食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。
    『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、
                             わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。
    「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、
            まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、
                       憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても
                罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、
         この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
254マラナタ :2000/04/17(月) 07:04
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、
         いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、
                      音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、
                      お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに
    仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、
    わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして
                帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。
    『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに
       見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
255マラナタ :2000/04/17(月) 07:05
●●誘惑に対する警戒●●
マタイ26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。
                            心は燃えても、肉体は弱い。」
ルカ21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、
     人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

●●不断の祈り●●
マタイ6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。
    偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。
                   はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、
       隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、
               隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。
          異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、
                 願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。
          そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
ルカ18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを
                       教えるために、弟子たちにたとえを話された。
21:36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、
      人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
ヨハネ14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。
                   こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
256マラナタ :2000/04/17(月) 07:06
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。
    あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、
    わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしが
                             あなたがたを任命したのである。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。
       はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に
                             願うならば、父はお与えになる。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。
        願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
16:25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。
            もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。
            わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
257マラナタ :2000/04/17(月) 07:07
●●十字架をともにして生命に至る●●
マタイ16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、
           自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
                  わたしのために命を失う者は、それを得る。
16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、
    何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
16:27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、
                   それぞれの行いに応じて報いるのである。
マルコ8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
            「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、
                 自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、
              また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
ルカ9:23 それから、イエスは皆に言われた。
     「わたしについて来たい者は、自分を捨て、
           日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
              わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、
          自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、
   自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
ヨハネ12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
               一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
12:25 自分の命を愛する者は、それを失うが、
           この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
258マラナタ :2000/04/17(月) 07:14
以上要理の〈29〉「イエズス・キリストは救いの道として
             どういうことをお教えになりましたか。」
に対して、
心の改めと神のみ言葉に対する信仰、御父である神に対する愛、
そのみ旨に対する従順、そのお計らいに対する信頼、
敵を含むすべての人々に対する愛、助け、ゆるし、心の清さとけんそん、
罪の痛悔、誘惑に対する警戒、不断の祈り、などを挙げています。
参考箇所は展開して聖書を引用のうえ書きあげた通りです。
               興味のある方はお読み下さい。
259>252以下:2000/04/17(月) 07:16
#こんなことされると、益々カトリックが嫌われてしまうじゃあないの(T.T)
#止めてくれー。同じカトリックとして辛いよ。
#なんかこれじゃあ、信仰の押し売りみたいだよ。
260マラナタ :2000/04/17(月) 07:25
 いや、そう仰らないで下さい。
過去ログにありますが、イエスの言葉以外に信用ならんと
仰る方がおりました。その方に、該当個所があればコピーなり
してもらい、これ以外であれば聖書箇所を調べて教えて
もらわないとすんなりと彼が言う聖書の該当個所は出てきません。
どこのどなたかは存じ上げませんが、お互いの理解のための
助けになればという意図もあったのです。信仰の押しつけのつもりは
毛頭ありませんから・・・ご理解下さい。>259
261マラナタ :2000/04/17(月) 07:37
↑日本語変ですが、
つまり、私は勉強不足なので聖書を調べる手がかりがないと
相手の仰ることが、てんで理解できないという告白です。
重ねて申し上げますが、私は、書き込みを信仰の押し売り
のつもりで書いてはいません。私の知識とその観点を端的に
示すのに、要理と該当聖句を挙げるのが一番かと思いましたので
そのようにしたまでなのです。では、また夜にでも覗きます。
262聖書ファン:2000/04/17(月) 09:19
ひとつだけ教えてください。
三位一体を認める、認めないは、死後に天国へ行くか地獄の火に
放り込まれるかの分水嶺になるような、信仰上の重要事なんで
しょうか? 特にカトリックではどのように説かれていますか?

魂の救済に関係ない神学上の「言葉遊び」なのなら、これを最後
に私はここを去ります(怒れる者様、どうぞ御安心を 笑)。

マラナタさんが引用された聖句は、どれも素晴らしい。今一度、
襟を正して読むべき内容です。私は、これらのことをすべて
実践した人は、本人が拒否しても天国に強制的に迎えられると
思います。三位一体などとは関係なく。
263>262さん:2000/04/17(月) 13:25
>三位一体を認める、認めないは、死後に天国へ行くか地獄の火に
>放り込まれるかの分水嶺になるような、信仰上の重要事なんで
>しょうか? 特にカトリックではどのように説かれていますか?
伝統的カトリック神学によれば、信仰とは教会教義に対する知的承認を意味しました。
だからそういう立場に立つなら、三位一体を拒否すれば救われないということになる
でしょう。
しかし第2バチカン公会議で採択された「教会憲章」によれば、三位一体を拒否しても
救われることになると思います。(教会憲章の具体的個所は今調べられません、あしからず)
その個所は、現代カトリックの神学者カール=ラーナーの「匿名のキリスト者」という概念を
採用したものです(匿名のキリスト者という言葉自体はでてきませんが)。
ラーナーによれば、神の存在を否定したり、啓示を拒否したりした者でもひたむきに真理を探求し
その確信に誠実であるなら、神の救済に与るといいます。だから無神論者であっても救われる可能性
があるのです、カトリックの場合。万人救済を重視するのです。
三位一体の神秘を知的承認できずとも、神をひたむきに追い求めることはありうるのであって、
自由意志で神に反逆すること(このような人々が地獄に行くと言われています)とは違います。

なお「匿名のキリスト者」的考え方は正式にカトリックの基本原則に採用されましたが、
これに反対する人々はカトリック、プロテスタントを問わずまだまだ沢山います。
264聖書ファン>263さん:2000/04/17(月) 16:10
ご丁寧に教えてくださって、ありがとうございました。

なるほど、
>神の存在を否定したり、啓示を拒否したりした者でもひたむき
>に真理を探求しその確信に誠実であるなら、神の救済に与る
ということであれば、私のような「一人一教の異端者」でも、
天国へ行ける可能性があるということですね。そうなると、三位
一体というのは位置づけがずいぶんと薄らいでしまいます。
当然、これに反対される方も多いでしょうね。

では、洗礼も同じような位置づけなのでしょうか?「匿名」を
許すというのは、「無登録の信者の存在を許す」と解釈すれば、
洗礼がなくてもOKという風に取れるように思うのですが。
265263>264さん:2000/04/17(月) 19:15
フィレンツェ公会議(15世紀)以後、カトリックは「カトリック教会の外に救いなし」
としてきました。しかし現在では、カトリック以外のキリスト教徒でも、異教徒でも
さらには無神論者でさえも救われる可能性があるとしています。
教会憲章によると「自らのとがなしに、いまだ神を明白に認めるに至らなくとも」
永遠の救いに至ることができるとしています。従って当然洗礼を受けていなくとも
救済される可能性があることになります。神の憐れみは無限であり、赦されない罪は
ないということを強調すると万人救済的となり、救済されないのは、自分からあえて
神からの離反を選んだ(「自らのとが」)場合に限ります。それから「神を明白に認める」
というのは、教会の教義(例えば三位一体)を知的承認(「同意」)することをいいます。
266怒れる者:2000/04/17(月) 19:20
>猫キックさん
祈りが大切だという事、神を一番にすべき事には賛成します。しかし、何故そこから、三位一体の否定
へとつながるのか分かりません。

>聖書ファンさん
私は、何処かのスレッドで、「ユダヤ=キリスト教の本質は神との契約である」と書きました。
つまり、神との契約を遵守する事が、救いに与かる条件だと考えられます。
十戒を守り、且つイイススの福音を信じる事が、神との新しい契約です。
三位一体の神学は、イイススの帰天以降に出てきたものですから、それを認めないからといって、救い
に与かれない事はないと思います。

昨晩から考え続けて、イイススの存在を説明するには、イイススの言動は主なる神の一人芝居であった
とする単性論、メシアニックジューの様に、イイススはメシアだが神ではないとする説、そして三位一体論
の何れかしかなく、キリスト者は何れかのカテゴリーに含まれるはずだという結論に達したのですが、いか
がなものでしょう?
267カルティアン:2000/04/17(月) 20:32
>怒れる者さん
>おおむね賛成。キリスト教史を勉強したところ、カルヴァンとルターの人格に破綻があったと知るに
>至り、ルターの信仰義認論だけは評価しますが、プロテスタントとは縁遠いです。
>根拠無く言っている訳ではなく、ルターがユダヤ差別主義者であり、カルヴァンがスターリニズム的
>な専制政治を敷いていた事について、証拠の文献があります。はっきり言って、プロテスタントのイ
>メージががらがら崩れますよ。

 この辺はおっしゃるとおりでしょう。特にナチスドイツ下の「帝国教会」に際して
ルター派が果たした役割を考えると・・・。この点、カルビニズムのバルトをどう評
価するか・・・。
 「人格破綻」かどうかは置くとしても、聖パウロは結構エグイんでないですか?
 まぁ、そういう問題のある人間をも神は用いるということでしょうね。
268猫キック:2000/04/17(月) 23:56
> 怒れる者さん
>祈りが大切だという事、神を一番にすべき事には賛成します。
>しかし、何故そこから、三位一体の否定へとつながるのか分かり
>ません。

 祈りが大切だとは,大抵のクリスチャンは分かっていると思い
 ます.しかし実践する者は極々少数でしょう.一日に2時間?
 30分? いえ10分祈るクリスチャンは,各教会に牧師,司祭も
 含めて何人いるでしょう? それを踏まえた上で,神様を一番
 にしているという者は,実際,何を持って神様を一番にしてい
 るの?
 (祈りが時間では計れないことは知っています.でもあえてこ
  う書きましょう.神様との交わりが親密になれば,時間はど
  んなに短くても,長くても,気にならないものですね)

 私は三位一体を否定していません.私はユニテリアンではなく,
 三位三体論者でもありません.ただ私の言う三位一体は,神様
 はキングギドラのようではない.私たちのようなのだから祈っ
 て確認してはどうですか? と言ったのです.
269怒れる者:2000/04/18(火) 00:13
>猫キックさん
分かりました。私が誤解していたようです。お許し下さい。今晩は神について思索してみます。
論理を極める事は、祈りに等しいと思っています。その根拠は、ヨハネ伝冒頭の「神は即ち言葉
である」という一節です。神はロゴスです。論理の末に神は顕れて下さると、私は信じます。だか
ら私は、理詰めで神に対しようと思います。

>カルティアンさん
パウロからカルヴァンに至る禁欲主義が、私には理解できません。彼らは、何故にこのような結
論に達したのでしょうか。欲望の暴走は罪ですが、性欲は神の与え給うものであるし、イイススは
酒を好まれました。中庸さえも罪であるとする姿勢には納得できません。
スウェデンボリではありませんが、パウロの回心さえも、それが真に神から出でたものか、検証す
る必要があると思います。

久々に葡萄酒を呑んだので、書き込みにおかしい点があるかもしれませんが、その際は後日、
訂正させて頂きます。
270マラナタ>262:2000/04/18(火) 00:22
>特にカトリックではどのように説かれていますか?
 イエズスキリストを信じる上で、私は三位一体を信じていると
正面切っていうことは滅多にないことです。
 使徒信条ですら、それを宣言する文句はありません。
 では、「匿名のクリスチャン」と言える人は別に洗礼を受けなくても
良いか、教会に行かなくてもいいのかといえば、そうとも言えないようです。
 粕谷甲一神父様の言葉を借りれば、次のような理由によります。
人が、「このようなきれいな気持ちで、生涯を全うするためには、
当然、守りが必要になる。そこに教会というものがある。教会には、
御言葉があって、人間の生き方を教えてくれる。秘跡というものがあって、
人間を支えてくれるのです。弱い人間が崩れないように。匿名のクリスチャンは
たくさんいる。だから、月足らずして洗礼を受けることの出来た私たちは
奮起して、そういう月満ちた人達に、御言葉と秘跡の恵みを伝えなければ
なりません。人間には、苦しい時に一人で祈ることが出来る場が必要であり、
そこに教会があるのです。」
 以上です。私自身は、実は現在はカトリックに迷う人間なので、あえて
差し障りのないように、神父様の言葉を借りさせていただきます。
  ちなみに、263.5は詳しい方で・・勉強させてもらっています。
271マラナタ:2000/04/18(火) 00:51
 ここで、わたしがなぜカトリックに迷っているのかをお話しして
おきましょう。
 「父と子と聖霊」の御名に入る洗礼を受け、堅信という儀式によって
使徒の後継者である司教様から按手と油の塗油を受けていても、聖霊に
よる愛の交流ではないのではないかという信徒の交わりに対する疑問を
抱いている部分があります。
 聖書の記述を読むほどに、三位一体の議論でもそうですが、記述に
矛盾が見られます。その矛盾は結局、聖霊の賜物や信徒の交わりを通じて
生きることそのものに真実があることを告げるものであると理解しています。
 しかし、現在の典礼には「聖霊来て下さい。」と連呼する場面があります。
これは、逆に考えれば聖霊は来ておりませんと大声で宣言し続けている
文言とも取れます。如何なものかと首をかしげておるのです。
 その他に、個人的な信仰体験や社会体験から来る問題がありますが
詳しくはお話ししません。個別に聞かれればお話ししようと思います。
     ですので、今は、カトリックの立場は崩しませんが、それに
固執しようとは思っていない人間です。
272マラナタ:2000/04/18(火) 02:01
上2つの投稿は話を端折りすぎて意味が通じないかもしれませんが、
お許し下さい。
 私のカトリックに対する疑問点は、使徒継承の確実性や4世紀前後の
歴史的出来事への不安もあります。

 私自身、奇跡としか思えない信仰体験を幾度か体験しております。
しかし、それが聖霊が注がれた事による真のキリストの霊によるものか
キリストから引き離す偽りの霊によるものかは自分でわからなくなり、
社会的な影響もあることなので、静観しています。確信のない行動は
罪だと(ローマ14:23)聖書にもありますし、人を躓かせるものは不幸
(マタイ18:7ルカ17:1)とありますから。
 箴言の9章は7つの秘跡と呼びかけるマリア様と浅はかな者にカトリック
信者が当てはまるのではないかと、戦慄を覚えたことが昔ありました。
取り越し苦労だったようですが、安易に流されてもいけないと思っています。
 聖体拝領というものがカトリックのミサの中では行われます。両形食の場合に
むかーし、パンの形態をしたキリストの体を血である葡萄酒に浸して、
信者の舌に乗せる拝領形式がありました。しかし、聖書を読む方はご存じ
のように、イエズスに寄り添って最後の晩餐の時に、裏切り者は誰かを
問いただすヨハネにたいし、イエズスの裏切りの示しは、まさにその
パンを葡萄酒に浸して与えるものがそれなのです。気味の悪さを憶えたものです。
 続く。

273マラナタ:2000/04/18(火) 02:36
 イエズスは、自ら模範を示して、最後の晩餐を前に弟子達の足を洗います。
今でも、教会によってはそれを洗足式として行うところもありますが、互いに
洗いあう習慣はありません。このことが重大な欠陥に私は思えて仕方ありません。
各教会に足洗い場があって、礼拝やミサの前にお互いに足を洗ってしかるべきだと
さえ、思っております。
 マリアが高価なナルドの油をイエズスに塗る場面は、イエズスの言葉をそのまま
果たすのであれば記念として語り伝えられるべきですが、このことを記念する
祝日や祭りは特にありませんね。この時にどうして300デナリオンで売って
貧しい人々に施さなかったのかと言ったのは他ならぬ裏切り者のユダであったと
ヨハネの福音書では書かれています。考えさせられるところです。
 質問や、お聞きになりたいことはどなたでもどんどん下さい。
                   では、こんなところで・・失礼
 
274名無しさん:2000/04/18(火) 02:45
俺はキリスト教には全然詳しくないのだが
>265
そういう方向に行くのが当然だと思う。
受け入れなきゃ地獄行き、たまたま接する機会がなければ辺獄で永遠にため息
ってのじゃ、「全人類の救済」って看板に偽りありなんじゃないの
信仰告白っつっても三位一体は何のことやら分からないし、
悔い改めっつっても何の罪を悔い改めるんだ?
 どうも自分のこれまでした悪行ってことじゃないみたいだし
 「原罪」なんてどうやって実感しろっていうんだ
洗礼に至っては単なる儀式以上には思えないし
というわけで、キリスト教徒にはなりたくても納得行かなくてなれないのだが
「それでは地獄行きです」とか言われると、多少は動揺するもんな

>271/2
こういうお話の方が俺には面白いよ
275聖書ファン:2000/04/18(火) 09:48
マラナタさんのお話はとても面白く感じました。あ、RESをどうも
ありがとうございました。

イエスが弟子の足を洗い、あなたも同じようにしてあげなさい、と
言われる場面は感動的ですね。その時の弟子の心境を想像しただけ
で胸がジーンとしました。あの時の感動がイエスの心、ちょっと飛躍
して聖霊の声なんじゃないでしょうか。宗教的真理って、いつも
感動を伴うものだと思うのです。正直なところ、「神の実体は三位
一体だったんだ」と夜も寝られない位に感動するなんて、私には
ありえないです。同様に、偉〜い司教様から直々に頂く儀式より
も、自分が尊敬する人物に足を洗ってもらった方が魂にズンと
来ます。それで、よし、俺も他の人の足を洗ってやるぞ、と行動
にかき立てるものが信仰であり、聖霊の導きだと思います。
276>271:2000/04/18(火) 14:16
>しかし、現在の典礼には「聖霊来て下さい。」と連呼する場面があります。
>これは、逆に考えれば聖霊は来ておりませんと大声で宣言し続けている
>文言とも取れます。如何なものかと首をかしげておるのです。
どうしてマラナタさんほどの熱心なクリスチャンがそのようにおっしゃるのか理解に苦しみます。
天の父はいつも共におられるのに、イエス=キリストは「父よ」と祈ります。
ミサの場合も、その空間を聖別(出エジプトのシナイ山での出来事のように)しなければ、
聖体拝領も本当の意味で私達のものとはならないのであって、そのためには聖霊の働きを祈るのは
当然ではないでしょうか?

マラナタさんは、聖霊を大切にされているようですね。
たしかに現代ほど聖霊の働きが望まれる時代はないのに、逆に現代ほど聖霊が遠のいて感じる時代は
ないのかもしれません(というより現代人が聖霊から遠のくということでしょうが)。教会内でもこれが
本当に「聖徒の交わり」なのか?と思ってしまったことはわたしの場合何度もあります。
ただそういう時わたしは旧約聖書を思い出します。旧約聖書を読むと、旧約の民が聖なる民であるから
神は彼らを選んだのではないことがよくわかります。カトリック教会も教会とは「旅する教会」である
といいます。教会とは、終末への途上にある未完成なものであるといいます。
たとえ未完成な教会であっても、旧約聖書の民同様に、「選ばれた民」なのです。旧約聖書で王制時代の
個所を読むと、旧約の民が神から遠のいてゆくのがよくわかりますが、辛苦をなめて再び神に立ち返ります。
終末への希望のなかで、現在の教会をありのまま受け入れるということは、マラナタさんの場合ムリなのでしょうか?
277聖書ファン:2000/04/18(火) 15:03
勝手に口を出してごめんなさい。

>ミサの場合も、その空間を聖別(出エジプトのシナイ山での
>出来事のように)しなければ、 聖体拝領も本当の意味で私達
>のものとはならない

そこに私達の教会だけが聖別されていて、それ以外のミサは無効
だという排他主義が見えますね。教会とは特定の団体ではなく、
イエスを理想と仰ぐ信者ひとりひとりです。ミサを行う牧師ないし
神父に神秘的な力があるとでも言われるのでしょうか?

私が京都の河原町にある教会に近接する本屋に立ち寄った時、
神父の服装をした方が店番をしていて、うさん臭い目付きで入って
くる人を眺めるのがいやに気障りだったことがあります。それまで
にも何度か出会った目ですからね。「おまえら罪人は一体、何しに
来たんだ」と咎める目です。恐らく信者の人には気づかれないで
しょう。

イエスの御前においては、牧師も神父もひとりの罪人にすぎま
せん。それを否定することは、イエスをも否定することです。
特定の教会でないと聖体拝領ができないというのは、単なる
うぬぼれでなくて一体何でしょう。我が神尊しの独善的宗教団体
以外の何者でもない。イエスを私有化する魔の仕業です。
278聖書ファン:2000/04/18(火) 15:15
私の前の上司がカトリック教徒で、独善的な理論を展開してやり
こめるのでまわりの人から煙たがれていました。キリスト教徒は
自分の罪を悔い改める教えのはずなのに、なんと鼻の高い人だな、
と思っていましたが、残念なことに会う人会う人のほとんどが
似たようなタイプでした。

イエスの代理人たる神父の威を借りて、まわりの非信者を罪人と
見下すような風潮があるように思うんですけど。気のせいだろう
か。もし、それが本当だったらイエスの精神とは正反対ですよ。

書きたいことをずばずば書いてしまってごめんなさい。でも、
私にとって本当の印象なんですよ。
279276>聖書ファンさん:2000/04/18(火) 17:05
>そこに私達の教会だけが聖別されていて、それ以外のミサは無効
>だという排他主義が見えますね。
別にカトリックが救いへの唯一の道であるという意味で書きこみを
したつもりはありません。次ぎのような意味で聖別という言葉を使いました。
私たちは普段は俗なる空間で生活していますが、聖なるものに近づくときには
身を清めるということをしますよね、宗教を問わず。例えば神道でも山岳信仰では
ご神域に入る前におきよめをするように。旧約聖書でもシナイ山の記事(出エジプト記)
を読むとわかりますが、やはり「聖別」という言葉がでてきます。神とは聖なるかたであり、
神に近づくということは、俗なる空間から区別された聖なる空間に移動することを意味します。
ミサではご聖体を拝領しますが、ご聖体とはキリストのことであり、キリストとはいうまでもなく
神ですから、ミサにはどうして聖別が必要なのです。というよりも聖別のないミサは
ミサではありません。そしてこのような聖別はミサを執り行う神父の神秘的な力によるのではなく、
聖霊の働きによるのです。だからミサの中で聖霊の働きが祈られるのです。
この辺の事情は、熱心な信仰をお持ちのマラナタさんなら当然ご存知のはずなのですが
どうして聖霊の働きを祈ることを「如何なものかと首をかしげて」しまうのか理解できないのです。
なにか聖徒の交わりに対する具体的な不信感が背景にあってのことかもしれませんが。

いずれにしろ排他主義のつもりじゃありません。聖体拝領がまさに「聖」体であるためには
聖別が必要だという意味なのです。そうでなければ、拝領するのはご聖体ではなく、
単なるパンとぶどう酒に過ぎないことになってしまいますからね。
280聖書ファン>279:2000/04/18(火) 17:51
あっ、どうも「聖別」という単語を誤解していたようです。
すみません。神道の禊ぎのような概念ですね?

頭の中では一応理解できたのですが、どうしても納得がいかない
部分が残ります。聖体拝領は確かにイエスが行われたことですが、
「これを行え」とは書いていません。本当に必要なことなら、
必ず指示があるはずなんですけど(足を洗うことについての
マラナタさんの指摘-->273)。
うがった見方かもしれませんが、聖職者がイエスの代役として
永遠の生命に至る契約を信者に与えているように見えます。
イエスの代役としてふるまえるような人間など、この世にあり
えましょうか。ちょっと「調子に乗りすぎ」という気がします。

「先生、おっしゃるとおりです。神は唯一である。他に神は
いない、とおっしゃったのは、ほんとうです。そして、心を
尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を
自分のように愛する、ということは、どんなハン祭やいけにえ
よりも、優れています」。イエスは律法学者が適切な答えを
したのを見て、「君は神の国から遠くはない」と言った。
(マルコ、12:32-34)

上の聖句は、恐らくイエス自身がやれとお命じにならなかった
聖体拝領と比較しても同じ結論になるのではないでしょうか。

聖体拝領って、イエスじゃなくて後世の人が作り出した儀式
ではないのですか?
281279>聖書ファンさん:2000/04/18(火) 18:47
>聖体拝領は確かにイエスが行われたことですが、「これを行え」とは書いていません。
いや、イエス自身言っております。例えば第1コリント11章23節以下です。共観福音書にも
最後の晩餐の個所に同様の伝承が記載されています。そしてこれらの記事は、たとえ
原始キリスト教団の神学が反映されているにせよ、イエスに帰すことのできる言葉である
と言われています。

救済はカトリック教会の外にはないというわけではないのですが、カトリック教会に参加
して救済されるということの意味が、聖体拝領という恵みの中にあるのです。そういう
意味で信徒にとって聖体拝領は不可欠です。

>聖職者がイエスの代役として
>永遠の生命に至る契約を信者に与えているように見えます。
たしかにそのようにうつる聖職者は結構いると思います。なにせ最近までカトリックは
カトリックの外には救いがないと考えてきたわけですから。しかし次第にそのような
聖職者も減ってきているのではないでしょうか?(でも聖書ファンさんは、どうも
いやな聖職者にばかり遭遇してしまっているようですが)
282聖書ファン:2000/04/18(火) 19:41
うむむむ...でも、コリント第1の11:23にある「わたしがあなた
たち..」とある「わたし」とは、イエスではなくてパウロのこと
ですね。私は福音書以外は信じるべきでないという立場なので、
残念ながら説得力に欠けます。是非、実行すべきだ、という重要
なことなら、イエス本人が「やりなさい」と命じるはずです。
そして、イエスは「やりなさい」と山のような宿題をわれわれに
出しています(マラナタさんの「山のような」引用)。

私が今参照しているのは、講談社学術文庫の新約聖書(共同訳全注)
ですが、「これを行え」とはありません。単なる記録という感じ
です。

私はあまりお弟子さんの言動を信用していません。福音書の中で
彼らがいかにとんちんかんなことを言っていることか...。出来の
悪い弟子を持って、イエスはさぞかし苦労されたことでしょう。

>カトリック教会に参加 して救済されるということの意味が、
聖体拝領という恵みの中にあるのです。

そういう事情なら、今さら「どうでもいい」なんて言えないです
ね(笑)。でも、本当に聖書の中の、それもイエスの言葉だけに
忠実に解釈していくと、最後は儀式ではなく、「神を愛せよ、隣人
を自分のように愛せよ」を実行することが、神の望まれることだ
という結論になってしまうのです。それがカトリックや、他の
プロテスタントの伝統的な解釈と違うとしても、私には如何とも
し難い。ああ、信仰の道は孤独だなあ(笑)。

>でも聖書ファンさんは、どうも いやな聖職者にばかり遭遇して
しまっているようですが)

いい人も居たんですが、あんまり出世してないみたいです(笑)。
283マラナタ:2000/04/18(火) 21:32
>274
おもしろかったですか?コメントどうも!
>275
ほぼ聖書ファンさんの意見に同意します。レスどうも。
>276
カトリックらしい真摯な指摘に感謝します。私は、亜流キリスト教や
オカルト的な異端信仰に毒されているかもしれません。
どんどん指摘して下さい。私の考えは長くなるので今は控えさせていただきます。
>280
>体拝領って、イエスじゃなくて後世の人が作り出した儀式
>はないのですか?
 これは、イエズスが自ら、記念としてこれを行いなさい
と仰っているはずです。
ルカ22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、
それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがた
のために与えられるわたしの体である。わたしの記念として
                  このように行いなさい。」
Tコリント11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、
あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように
                   行いなさい」と言われました。
11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、
   わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、
    わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
このように、イエズスは仰っています。とくにTコリントはペトロや
ヨハネと事実交流があり、直接にイエズス様の言葉を教えてもらって
書き記しているはずですから、福音書自体よりも文言はよりリアリティーが
あり、正確だと思われます。
284>聖書ファンさん:2000/04/18(火) 21:58
>うむむむ...でも、コリント第1の11:23にある「わたしがあなた
>たち..」とある「わたし」とは、イエスではなくてパウロのこと
>ですね。私は福音書以外は信じるべきでないという立場なので、
>残念ながら説得力に欠けます。
いや福音書にも同様の句が、イエスの言葉として記載されています。
参照してください(マタイ26章26〜29節、マルコ14章22〜24節、ルカ22章14〜20節)。

>忠実に解釈していくと、最後は儀式ではなく、「神を愛せよ、隣人
>を自分のように愛せよ」を実行することが、神の望まれることだ
>という結論になってしまうのです。
そういう考え方もありまえますね。それはそれでひとつの解釈だと思いますが。
イエスをキリスト(救世主)としてではなく、人間の模範としてならうとか
イエスの神体験を共有するとか。
ただあなたが重視する福音書でさえも、史実のイエスを伝えることを目的として
編集されたわけではありません。たとえばマルコ福音書ならば、マルコが所属する
共同体の信仰告白が背景にあるのです。福音書記者もパウロも人間イエスを否定する勢力には
反対でしたが、史実のイエスではなく、復活のキリストを伝えようとしています。
復活のキリストとは共同体の信仰告白の内容です。
285283マラナタ:2000/04/19(水) 00:36
わたしが書いた文章は意味不明で申し訳ありません。
コピペが失敗ですし、文章に主語としての「パウロ」が抜けていたりと
さんざんでした。乱筆乱文をお許し下さい。
286聖書ファン:2000/04/19(水) 08:35
私ような者に辛抱強くおつき合いくださり、本当にありが
とうございます。

夕べ、聖書を見直してみて、ルカに「わたしの記念としてこの
ように行いなさい。」とあるのを見て、臍を噛んでおりました
(笑)。

でも、裏返すとマタイもマルコも「記念行事」を行うのは重要
という認識がなかったということになりますね(しつこい!!笑)。

同時に2つのスレッドで議論を展開しているので、私も訳が
わからなくなってきました(^_^;)。言いたいことは、別の
スレッドに書き込むことにします。三位一体と関係ない話に
そらしてしまって今までご免なさい。 >皆様
287名無しさん:2000/04/19(水) 09:43
あ、そういえばルカの成立はパウロの書簡より後じゃん。
無神論者的観点で考えればパウロを読んでルカが創作した
ってのが自然な気がする。
288マラナタ:2000/04/20(木) 03:27
>276
 276さんが、私の意見を読んで、理解に苦しむのは当然なのです。
実は、この考えはジョセフ・マーフィー「あなたにも超能力がある」
に記述された伝統教会への批判の文章から拝借したものです。
 内容は、超能力というよりも潜在意識を活用した祈りで日常の難局を乗り
切る指南書のような構成です。それは、聖書を利用し、心理学的なアプローチ(?)
からの祈り、言い換えれば“科学的な祈り”を実行すると願望が実現する
という主旨だったと記憶しております。
 書籍を読むきっかけは、教会に出入りしていたある異端信仰を持っていた方
との交流です。彼が所属する自分の団体に引き入れるのが狙いだったと
いうことが交際するにつれわかっていくのですが・・。彼との交流の中で、
まだ知り合ってそれほど経っていない頃の彼のお薦めがこの書籍だった
ということです。
 彼の誘導は、巧妙だったと思います。一度に“科学”と標榜するいかがわしい
宗教に強引に引き込もうとせず、少しずつ聖書を導入したりしながら、何の教義
に導こうとしているのかを見せることなく、虎視眈々とその機会を狙っていた
ようですから。(その後交流を始めてから3年あまりの後、彼は教義書物を
返還し、一応その異端団体から足を洗いました。が、最近彼とお会い
していないのでまた元に戻ってはいないかどうか、少し心配しています)
 276さんの感性は鋭く、私は大変ありがたい指摘を受けたと感謝しています。
但し、思想や観念は、極度に純化したものは危険な何かであるという感覚
も私は自分の中に持っております。その辺りのバランス感覚や取捨選択が
難しいところです。
 ここで、私の考えを言わせていただくと、これらの問題を解決するキー
が、「聖霊」と真実「愛」と交流という事になるのです。
289マラナタ:2000/04/20(木) 03:28
 ジョセフ・マーフィーは確かにいかがわしく「科学的な祈りを繰り返す
」(?)主張、悪魔がイエズスを試す時に引用した詩編の91編を引用した
祈り方の指導などが書かれていました。しかし聖書全体、聖書自体の内容
に触れて説明されてはいません。悪魔がイエズスを試みたときのイエズス
の応答、申命記6章などについてただの一度も触れる場面はありません。

 実のところ、私は告白しますが、ジョセフ・マーフィーの考えを引用し
て教会典礼を批判をしたことは恥ずかしく思っております。276さんが
鋭くこの点を指摘され、私はこのことについてはきちんと書かなくては
ならないなと思ったとたん、恥ずかしさで気が滅入りました。といって
同胞を躓かせることは、厳に慎みたいので思い切って恥を忍んでここまで
書かせていただきました。今後も、私の考えや記述にたいし批判や率直
な感想をいただければと思います。
290マラナタ:2000/04/20(木) 03:28
>276&オール
 わたしは、上記のレスをお読みいただければわかりますように、276さん
の指摘のごとく、変な考えや観点に毒されている可能性が否定できません。
 ここを読んでいる皆さんが、私の投稿をくれぐれも鵜呑みにせずご自身
の祈りや知識と感性のフィルターにかけて、吟味して受け取って下さる
ように切にお願いいたします。
 私は出来るだけここで交流した方のために祈り(主の祈り)ます。
 私のためにもクリスチャンの方は、祈っていただければ幸いです。
    では・・・長文乱文失礼します!
291276>マラナタさん:2000/04/20(木) 17:01
理解してくださり安心しました。
わたしの書き方が悪かったせいか、聖書ファンさんに傲慢な感じを与えてしまったようで、
マラナタさんにはさらにいやな感じを与えたかもしれませんが、お許しください。

マーフィーの著作は、たしかベストセラーになったと記憶しておりますが、恥ずかしながら
1冊も読んでおりません。心理学的アプローチの祈りとはどういうものなのでしょうか?
心理学者ユングは、プロテスタントでありながらミサというものを大変評価しております。
ミサには呪術に陥る危険性があるが、人間の内部にある無意識の世界に触れる作用があって、
意識と無意識の統合に資する効果があると言っております。宗教を知性・意識中心に
理解することには反対であるという意味で「思想や観念は、極度に純化したものは危険」と
おっしゃっているのであれば、わたしも賛成です。ただし聖霊体験(神秘体験)といったものを
強調し過ぎるのも危険であると考えますが。

>これらの問題を解決するキーが、「聖霊」と真実「愛」と交流という事になるのです。
父と子と聖霊の交わりの中にわれわれ人間も招き入れられることを実感できるのがミサでは
ないでしょうか?ミサとは三位一体の神秘を実感する場であるというがわたしの認識です。

よけいなことかもしれませんが、禅修養を推奨している神父も最近は多いようですので、
もしマラナタさんのお住まいの近くに参禅できる教会があるのでしたら、参加してみては
いかがでしょうか?東京でしたら、門脇神父が奥多摩の方に禅道場を開いております。
292聖書ファン>291:2000/04/20(木) 19:47
まず、書きぶりが傲慢なのは私の方ですので、最初にお詫び
させてください。

>ミサとは三位一体の神秘を実感する場であるというがわたし
の認識です。

失礼ながら、291さんは本格的な交霊のご経験がおありでない
ようですね。私は神道を勉強した経験があるのですが、そこで
行われている鎮魂帰神法は長年の歴史を持ち、人の心の奥底に
ひそむ邪悪な心(邪霊)をも浮き彫りにしてくれます。
いくら、神父がイエスの名の元にミサを授けたとしても、霊視の
利く神道家の目から見れば、邪霊を心に付けたままの人間が、
やはり邪霊を心に付けたままの人間に儀式を施しているだけに
しか見えないことでしょう。それが証拠に、教会でいくら「精霊
によって浄められた」という高揚感を持ったとしても、教会の
扉を一歩出たとたんに元の醜い心を隠しながら生きるパリサイ人
に早変わりです。

世に数え切れない教会が林立し、毎週のようにミサが行われて
いるのにも関わらず、キリスト教徒の手によって、軍隊が派遣
され、人が殺され続けるのは、結局のところミサが「内なる
人間」の浄化に役立っていないからです。

291さんは、隣人愛を祭壇に祭り上げてしまって、実生活に
生かしておられないようです。それでは魂は浄まりませんよ。
293聖書ファン>291:2000/04/20(木) 20:00
神道の世界では、邪霊が去らない限り、いくら本人が熱心に
祈祷しても正神に感応しないというのは常識です。それをイエス
は「外側を浄めるのでなく、まず内側を浄めなさい」と言って
おられるのです。聖霊を受け入れる場合も同様です。聖霊を
受け入れるための聖別とは、単なる儀式や雰囲気作りでなく、
聖霊を受ける人が邪霊を追い払うことです(つまり、内側を
浄めること)。神道をやった人ならイエスの言葉からピンと
くるはずです。

邪霊が最も嫌うものは「隣人愛」、それも見せかけではなくて
心の底からの愛です。心の底からの隣人愛でなければ、実行に
は移せません。だから、イエスは「やると口に出さず実行しろ」
と命じられたのです。

ここではあまりくどくどと書きませんが、イエスの言葉を的確に
解釈するには、神道的な知識は不可欠であることだけ、強調
させていただきます。
294291>聖書ファンさん:2000/04/20(木) 21:47
>291さんは、隣人愛を祭壇に祭り上げてしまって、実生活に
>生かしておられないようです。それでは魂は浄まりませんよ。
「実生活に生かしておられない」というのは、わたしの生活のどの部分を指しておっしゃられている
のでしょうか?具体的に指摘していただけるとありがたいのですが。
それからミサに参加すれば実生活はなにをしてもよいと書いた覚えはまったくありません。念ため。
295聖書ファン>291さん:2000/04/21(金) 08:50
確かに、私が291さんの私生活の様子を知るわけがなく、
不適切な表現でした。これは、以下のような文章に訂正させて
いただきます。

「現在のキリスト教会は、隣人愛を祭壇に祭り上げてしまって、
(ミサや洗礼などの形式に堕落し)、信者に対してイエスの
命じられた隣人愛を実生活に生かさなければ、魂が浄まらない
ことを教えていない」

私の本意は、ユダヤ教が戒律主義に陥って、十戒の根本精神
である隣人愛の実践を忘れたのと同様、今度はキリスト教が
ミサやら神学に呆けて、イエスの根本精神である隣人愛の
実践を忘れてしまっているということです。

もちろん、すべてのキリスト教徒がそうだとは思いません。
中には心の底から隣人愛を実践されている方もおられるで
しょう。そういった方は、ミサや洗礼の助けを借りずとも、
天国に迎えられるではないか。では、ミサとか洗礼という
のは魂の救済に不可欠なものなのですか?(しかも、交霊
技術から言えば、神道に比べるとままごとに等しい)
不可欠とするのはカトリック教会の保身のために生み出さ
れた神学だけなんではないですか? という問いかけです。
296291>聖書ファンさん:2000/04/21(金) 12:26
>中には心の底から隣人愛を実践されている方もおられるで
>しょう。そういった方は、ミサや洗礼の助けを借りずとも、
>天国に迎えられるではないか。では、ミサとか洗礼という
>のは魂の救済に不可欠なものなのですか?(しかも、交霊
>技術から言えば、神道に比べるとままごとに等しい)
今までに何度も書いてきましたが、カトリック以外に救いへの道はないと言っているのではありません。
カトリックから登る道に用意されているのが、洗礼やミサなのです。
神道の交霊技術と比べて見劣りがするということですから、カトリックから登る道は神道から登る道よりも
険しいのかもしれませんが、すべての道は天に通じていると信じますから、険しく時間がかかるとも
間違った道ではないと信じます。たとえままごとのように見える「技術」であっても極めるのは大変なものです。
おそらく凡人の私には生涯極めることはできないでしょう。そのような不完全なわたしでも救われるという
のがカトリックの信仰です。「交霊」できなければ救われないというのであれば、わたしなどどうあがいても
救われません。だから凡人のわたしの場合は、見劣りがする道であっても、カトリックを選びます。それから
いいわけがましいようですが、カトリック信徒は殆どこのような凡人の集まりですから、隣人愛とはかけ離れた
行いを行ってしまうひとが多いと思います。思いと行いが一致しないのが凡人の悲しい性なのです。
そういう時には、何卒凡人がやることなのだから仕方ないと許して頂けると幸いです。
もちろん度が過ぎている場合は忠告批判してやってください。
ただなかには立派なカトリック信徒であったため死んでから聖人になったひとがほんの一握りいます。
そういうひとでさえミサを大切にしました。そうだとすると凡人のわたしの場合もミサを大切にするのがよい
のではないかと思うのです。聖人がミサを大切にしたのに、たとえままごとのように見えるものであっても、
凡人に過ぎない信徒がこれを軽んじてよいわけはないと思うのです。
297マラナタ>291:2000/04/22(土) 10:20
 マーフィーの心理学的アプローチの祈りとは、わたしが彼に書籍を借りた時に
ワープロに書き出したものから引用させていただきますと、たとえば…

妻の職場における不貞を恐れる夫(に関する記述)
《彼は次のような科学的な祈りを繰り返すことによって、嫉妬の感情と
                  全ての不安を捨て去りました。
『私の妻は、私の建設的な考えと想像を受け入れます。彼女は今、平和に
満ちています。神は彼女を導き、神の正しい意思が彼女を支配します。
私たちのあいだには、調和と愛と平和と理解が存在します。私は、妻の
ことを考えるとき、いつも次のような祝福の祈りを唱えます。
       「神があなたを愛し、守って下さいますように」と』》

正しい決定を下すための簡単な祈り
《「私は、父と子と聖霊によって、わたしが知るべきことを現し、
私を通じて働いていることを知っています。私は答えが私の中に存在し、
今私に与えられようとしていることを知っています。三位一体の主の
無限の知性と限りない知恵は、私を通してあらゆる決定を下し、私の人生
について唯一の正しい行為と正しい決定が行われます。私は目覚めた論理
的な意識の中にやってくる導きを理解します。わたしがそれを見落とす
ことは決してありません。答えははっきりと示され、私は答えられた祈り
によって起こる喜びを感謝します。アーメン」》
298マラナタ:2000/04/22(土) 10:21
何者にも傷つけられないための祈り
《傷つくのは自分の反応、つまり、原因は常に自分自身の考え方の中にある
(ということを述べた後)
「神の平和は 私の意識と心にあふれます。神は私を愛し、気にかけて
                         くださいます。》

言葉の反復による治療
《緊張していると感じたとき『平和』という言葉を静かに何回も繰り返します。
虞や不安を感じた時には『不屈』あるいは『平静』
難しい問題が生じた時は『勝利』と 何回も繰り返すのです。》

こんな感じです。潜在意識への働きかけや、暗示のような効果を利用したり
科学的な祈りを繰り返すという言葉が出てくるのです。どう思われますか?
299マラナタ:2000/04/22(土) 10:28
私は、心理学的な意味付けを越えたある種の聖霊との神秘の関わりが
あるものと感じております。聖霊体験をことさら重要視するのはおかしい
ですが、聖霊の降臨が無いのにもかかわらず、さも体験したような素振りを
演じるのはやめて欲しい。同時に信徒それぞれの体験や告白や日常性
を大切にしたミサ形態をとって欲しい。そういう願望がわたしにはあります。
300マラナタ:2000/04/22(土) 10:41
>ミサとは三位一体の神秘を実感する場であるというがわたしの認識です。
 カトリックとしては仰るとおりです。しかし、私には今一しっくりときません。
 291さんは、ミサから本当に三位一体を実感しておられるのですか?
 ミサの重要点は、「行きましょう、主の平和の内に」かもしれませんよ。
 「派遣」がその根幹にあるのではないでしょうか。その意味で内側に
 閉じるようなミサにおける神秘体験だけでは決定的に大事な感性が
 不足していると思います。ちょっと言いすぎでしょうか?
               ご意見を伺えれば幸いです。


301マラナタ>291(↑共):2000/04/22(土) 10:44
禅の道場のお誘い、ありがとうございます。
わたしは、東京から遠く離れた地に住んでいますので、
すぐにというわけにはまいりませんが、情報を集めて見ようと
思います。きっかけを下さってありがとうございました。
302291>マラナタさん:2000/04/22(土) 15:51
説明して頂きどうもありがとうございました。

「神は彼女を導き、神の正しい意思が彼女を支配します」と言いながら、「私の妻は、私の建設的な考え
と想像を受け入れます」と祈るのは、果たして正しいカトリック的な祈りといえるでしょうか?
これでは、「私の人生について唯一の正しい行為と正しい決定が行われます」と祈っても、神の願いでは
なく、自分の願いを押しとおす祈りではないかと疑ってしまいます。たしかに心理学的には自己暗示として
意味があるのかもしれませんし、そういう療法の必要性は否定しませんが、それをカトリックの祈りと
混同してしまうのは如何なものでしょうか?カトリックの祈りとは呪術的な祈りではないはずです。
たしかに神の願いを願うということは、言うには易く行うには難しいとは思います。だから呪術的な祈りに
頼りたくなる気持ちを非難する資格はわたしにはありません。ただいったんカトリックから登る道を
選んだのなら、その道を探って行ってほしいものです。登りつめて行き止まりであったと確信して排教
するのならそれは仕方ないことですが、そこまで行っていないのにカトリックの道は険しいから易きに
流されるというのは、人間として仕方ないことですが、それは迷い以外のなにものでもないと思います。
(これは自戒の意味でもあります。自分も弱い人間ですから、どうしてもそれと似た迷いを持ってしまいます)
303291>マラナタさん (続き):2000/04/22(土) 15:52
わたしは、「ミサとは三位一体の神秘を実感する場である」と書きましたが、少し言葉足らずでした。
たしかに実感するのは難しいという点には賛成です。祈りということについて深く追求されている奥村一郎
神父もカトリックの典礼は複雑で、「祈りの深さとダイナミズムを失わせている」と言っております。
そのために最近のカトリックは禅修養を取り入れたりしているのです。ただだからと言ってミサは不要とし
禅修養を中心にするとしたら、もはやカトリックとは言えないでしょう。ミサからは神秘体験を実感するのは
難しいからなにか他に神秘体験できるものを探すという姿勢は、先に書いた人間的な心の迷いのあらわれだと
思います。もちろんそうは言っても先に引用した奥村神父の言葉のようにミサに参加するだけでは神秘を
実感するのは難しいでしょう。だから禅修養やカトリック的修道が必要であるわけなのですが、それはミサに
参加して三位一体の神秘を実感できるようにするためのものであって、ミサと切り離された修養であっては
ならないと思うのです。ミサが「閉じるような」ものとして感じられるというのは信徒の責任です。
ご自分の責任をご聖体(キリスト)に責任転化するのは如何なものでしょうか。奥村神父は祈りとは
自分に死んで神に甦ることだと言います。聖体拝領を通してキリストに死ぬ時、ミサはおのずと外に開かれ
るものであると思います。自分に死ぬことは難しいことですが、それは神の責任ではありません。
どこまでも自分の責任なのです。

少しきれいごとを書きすぎたかもしれませんが、自戒の意味です。カトリックの道は完全ではありません。
ただカトリックから登る道を選んだことを大切にしてほしいという思いで書きました。
304マラナタ>291:2000/04/23(日) 07:00
 少し、極端に私の書き込みを受け止められたようですね。
まず、ジョセフ・マーフィーはカトリックではありません。但し、
三位一体を否定するどころかそこかしこで利用した祈りが出てきた
と記憶しておりますが。

 ミサに対してご聖体に責任を転嫁するとまで、私は言っておりません。
ミサが形式化しすぎた面と、組織の維持が先行して、イエズスの
ご自身で示した生活に倣う事については、形骸化していると
                       感じるまでです。
 主の復活、おめでとうございます。  まずは、簡単にご返事まで。
305291>マラナタさん:2000/04/23(日) 19:13
主の復活、おめでとうございます。

291の書きこみは、読み返してみると冗漫でピントがボケており失礼しました。

ところで少々伺いたいのですが、マラナタさんは聖霊体験というものをどのように
考えられておりますか?

マラナタさんは、三位一体とは奥義であり理性で把握しようとするのは無駄な努力である
というような趣旨を述べていたように記憶しておりますが、聖霊体験でならば、
三位一体の奥義を掴むことができるとお考えですか?パウロも自分の霊的体験を引いて
自分に対する批判に答えておりますし、聖霊体験が大切なものではあるのは確かなのでしょうが、
理性では最終的に神には到達できないように、聖霊体験とエデンの園を体験するということの
間には深い断絶があるように思うのです。理性ならば信仰との断絶がかなり分かりやすいの
ですが、聖霊体験の場合には、神と一体になったという錯覚をもたらしてしまうのではないかと
思うのですが、どうなのでしょうか?キリストの復活が人間の神秘体験に矮小化されてしまう
おそれがあるのではということなのですが。新約聖書を読んでの印象なのですが。

まだまだわからないことばかりですが、
聖霊降臨祭に向けて、聖霊とは自分にとってどういう方なのか考えてゆきたいと思います
306マラナタ>291:2000/04/23(日) 19:50
 私は、恐ろしい聖霊体験とは、一度聖霊に満たされた者が陥る
            永遠に神から捨てられる事態にあると思います。

マタイ12:31-32『だからあなたがたに言っておく。人の犯すどんな罪
    も冒涜も赦される。しかし、聖霊に対する冒涜は赦されない。
    また、人の子をあしざまにいう者は赦される。しかし、聖霊を
      あしざまにいう者は、この世でも後の世でも赦されない。』
マルコ3:28-30 『「…しかし、聖霊に対して冒涜の言葉をはく者は、
    永遠に赦しが得られず、永遠に罪の責めを負う」こう仰せになった
    のは、「彼は汚れた霊につかれている」と人々が言ったからである。』
ルカ12:9-10『しかし、人々の前でわたしを認めない者を、わたしもまた、
     神の使いたちの前で認めないであろう。また、人の子をあしざま
     にいう者はすべてゆるされるが、しかし、聖霊を冒涜する者は
                          ゆるされない。』
ヘブライ6:4-6『たとえ、人々がひとたびは光に照らされて天の賜物を
     味わい、聖霊にあずかり、神の良いことばと、来たるべき世の
     力とを味わっても、堕落するならば、その人々を悔い改めさせる
     ことは不可能です。彼らは自分で、神の子をまたもや十字架に
               つけてさらしものにしているからです。』
などに読みとれるごとく。
 聖霊体験は、一言でいえば、聖書の内容やイエズスの言葉が生活の中交流の
内に追認できる環境にあるのではないかと思います。聖書にあるように聖霊に
よってそれぞれが賜物をいただいていることの実感と、偽りのない交流や信頼。
そんな中に感じ取れるものだと思います。
307マラナタ:2000/04/23(日) 20:01
 本当の愛とは、何であるのかを、思いこんではいけないのです。
それは、体験を通して愛を知ることから始まる神秘体験であり、
命を懸けたいとなみであると思います。
 私は、今の教会の交流には愛への努力は感じますが、愛を感じることが
無くなってしまいました。私が、皆を愛していないのかもしれませんが、
偽りの愛は与えるつもりも受けるつもりもありません。個人的にも、奇跡
かと思われる体験をしていると思っていますので余計に慎重になっております。
自分にも、カトリックに対しても自信を持てないままでは、周囲を躓かせない
とも限りません。
308↑マラナタ:2000/04/23(日) 20:06
日本語が分かりずらいですね。申し訳ありません。
                お許し下さい。
309マラナタ:2000/04/23(日) 20:35
私に聞きたいことがありましたら、何でもお聞き下さい。
個人的なことであれ、考えや知識や体験について疑問その他があれば
出来るだけお答えします。      よろしくお願いします。

310マラナタ:2000/04/23(日) 21:00
このような投稿をしておりましたら、窓の外に、雷と雹(ひょう)が降ってきた
模様です。今も稲光がしております。神様の恵みでしょうか?怒らせてしまったの
でしょうか?
 申し訳ありませんが、私は善人でもありません。どちらかといえば悪人
でしょう。だまされないように神を信じる方は祈ってからここを覗いて下さい。
 自分で言うのもおかしいですが、いろんな意味で経験は人並みではないと
思います。キリストについても、社会においても、聖職者からやくざまがい
の人間に至るまで交流を経験しましたし、純粋なキリスト教徒のみならず、
フリーメイソン、バラ十字などと関わる人間も相手にしておりました。
「性」「善と悪」の感覚についても、一歩下がって私の意見が聞かれる方が
理想ではないかと私自身が思うほど社会的にも見聞きして来ているのです。
私の心は決して清らかなのではなく、何事にも勇み足で歩んでしまったため
に清濁あい併せのんでよくわからなくなっているのです。イエズスキリスト
という命綱は付けて降りていったつもりですが、私は谷底にまで視野を広げて
いますので、特別な体験をしていない方は、お近づきにならない方が良いです。
     では、雷と雹にインスピレーションを感じながら
        ここのトビを読んでしまった方にお伝えしておきます。
2000.4.23 [email protected]
311291>マラナタさん:2000/04/23(日) 23:05
>私は、恐ろしい聖霊体験とは、一度聖霊に満たされた者が陥る
>永遠に神から捨てられる事態にあると思います。
聖霊体験とは恐ろしいものなのですか?わたしには残念ながら聖霊体験がないのでよく
わからないのですが、一度聖霊に満たされたなら喜びの気持ちに満たされるのではないかと
頭で思ってしまいます。聖霊に満たされたという気持ちと罪意識が同時に到来するという
ことでしょうか。神と一体でありながら、神との距離を測ってしまう自分がいるというような
ことなのでしょうか?

もともと感性が鋭くさらに「特別な体験」をしておられるマラナタさんが神秘体験を求められる
動機は、微温的な環境を歩いてきたわたしにはわかりかねますが、救われるという喜びを感じた
ことはあります。マラナタさんから言わせれば、甘ったるいような体験で、まあ喜ぶべきことなのか
残念に思うべきことなのか自分には判断がつきかねますが。
312聖書ファン>291:2000/04/24(月) 08:48
遅レスで恐縮です。誠意溢れるレスを頂いていつもありがたく
感じております。

カトリックで行われているミサが有効なものかどうか...。
恐らく18世紀最大の霊覚者であるE.スウェデンボルグは
地獄で行われているミサを目撃し、「霊界日記」(Spritual
Experience)にこう書き記しています。

「彼ら(地獄に住む教皇派修道僧)は世におけるように、
ここでもミサを絶えず執り行っています。しかも、人々が理解
できない外国語でいつも行うのです。同じように、彼らは礼拝
をすべてそうしたことで済ますので、どんな内面性も欠いた
見かけだけの神聖さしかないのです」(n.5289)

カトリックで聖列された聖人達の末路も決して喜ぶべきもので
はないようです。スウェデンボルグは、聖パウロ、聖ザビエル
らと霊界のかなり下層で目撃したと書き残しています。

(以上は、「スウェーデンボルグの霊界日記」、高橋和夫訳、
たま出版、から抜粋しました。夕べ読んでいて、偶然に出くわ
した文章です)

私は291さんの信仰を脅かす意図はありませんが、もし
291さんが本物の信仰を求められているなら、避けて通れ
ない試金石だと思います。御自分の信仰を貫くためには、私
だけでなくて、スウェデンボルグをも斬り倒して進まねば
なりません。それをされない限り、偽りの信仰でしかありま
せん。

一読をお勧めするのみとし、あとどちらへ進まれるかは291
さんがお決めになることです。291さんに神様の厚いご加護
がありますように(合掌)。
313291>聖書ファンさん:2000/04/24(月) 15:33
本を紹介してくださり、ありがとうございます。
すぐには読むことはできませんが、余裕ができたら読んでみたいと思います。
ところで私は神秘主義について2つの点で危険性を感じております。

キリスト教も古代教会のごく初期の時代には、ミサは秘儀的性格が強かったと言います。しかし
キリスト教が制度化されるにつれミサからは秘儀的性格が失われ、神秘体験の部分は修道院とか異端という形
によって担われていくようになっていきました。さらには制度化された教会との軋轢の中でキリスト教的
神秘主義は度々警戒され、その都度正統キリスト教の中心から周辺へと追いやられ、異教との接触を
繰返してゆくものが出てきました。その分キリスト教的神秘主義には、混交宗教的色彩が強いものが多い
ようです。そしてそのような混交宗教的色彩には正統的信仰(復活信仰)を相対化させる危険性があるのでは
ないかと思うのです。つまり復活信仰はキリスト教的歴史観と不可分に結びついているのですが、
神秘主義の混交宗教的色彩はそのような復活信仰の救済史的性格を相対化させ復活信仰を神秘主義に矮小化
させる危険性があるのではないかということです。
314291(続き):2000/04/24(月) 15:34
それとたしかにスウェデンボルグのようなキリスト教的神秘主義は信仰を豊かにしてくれるのかも
しれませんが、それだけが「本当の信仰」に到達する道だとするのは、どこが「小乗仏教的」ですね。
カトリックの聖人の多くは修道士です。カトリックにおける「小乗仏教的」要素は主に修道院で
培われてきました。そのような聖人でさえその末路は「決して喜ぶべきものではない」というのであれば、
カトリックの一般信徒はどうなってしまうのでしょうか?しかしキリストの救いとは果たしてそのような
ものなのでしょうか?神秘体験をしなければ救われないというのは、そもそもキリスト不在の非キリスト教的
信仰のように思えるのですが。神との合一を経験した者が却って神と人との間にある隔たりを忘れてしまい
そのような経験を持てなかった一般信徒を見下すということが、キリスト教の歴史には度々ありましたが、
そういう意味でもまた神秘主義には不安を感じます。

現在の自分の信仰が十分だなどとは考えていませんが、上に書いたように正統的な信仰の要である「復活」の意義
と「罪」の意識を希薄にする危険性が神秘主義にはあるように思えるので、神秘主義に関わることには二の足を
踏んでしまいます。劇薬も少量ならば健康によいけど、さじ加減を誤ると取り返しがつかないことになるのと
似ていますね。だからわたしの場合には、いい指導者を得るまで気長に待ちます。ただキリストが真の指導者
なのですから、キリストから離れなければ救われる筈で、いい指導者に遭えなくてもそれはそれで別にかまわない
のではないかと思うのですが。
315聖書ファン>291さま:2000/04/24(月) 20:17
>そのような聖人でさえその末路は「決して喜ぶべきものではない」というのであれば、
カトリックの一般信徒はどうなってしまうのでしょうか?

これについては、簡単に言いますと「自らが聖人として崇められ
る」という栄光に目を眩まされてしまったためだそうです。
同じ善行をしても、「相手のために役立ちたい」という隣人愛
でなく、「立派な修道士として評価されたい」という名誉を求め
る心にいつの間にか入れ替わってしまったのでしょう。

>神秘体験をしなければ救われないというのは、そもそもキリ
スト不在の非キリスト教的 信仰のように思えるのですが。

イエスは何をすれば「内なる人間」が浄められるかという結論
だけを言われたので、たとえ神秘体験がなくても、イエスの
言葉通りに隣人愛の実践を行う者は救われることになります。
スウェデンボルグが霊界探検をするきっかけになったのは、彼
自身によればイエス自身の意志で、後世の教会人達に誤解され
た「みことば」(聖書の聖句のこと)の正しい意味を明らかに
するためだということです。
316聖書ファン>291さま(続き):2000/04/24(月) 20:32
>「罪」の意識を希薄にする危険性が神秘主義にはある

少なくともスウェデンボルグはこれには当てはまらないと思い
ます。彼は「悔い改め」なければ再生はない、と断言していま
す。ただ、罪の意識を持つだけでは不十分で、身をもってイエ
スの言葉を堅く守るのが不可欠だ、としている分、現代のキリ
スト教会よりも「罪の意識」は徹底しています。

291さんは、カトリック教徒として、イエスの教えを身近に
聞かれる恵まれた機会に居られます。私は元々、神道や仏教を
歩き回った人間で、文字通りの異教徒です。しかし、スウェデ
ンボルグの教義は異教徒の目にも光輝いているのがはっきりと
わかりました。浅学を省みず、私がこのような場違いな場所で
拙い文章を書いているのも、イエスの言葉に従って、隣人で
ある291さんに「よいもの」を差し上げたいと心から願う
からです。

「こんなつまらないこと、最初から知っている」ということ
ならば、それでも構わないと思います。何とぞ、一度ご検討
くださりますように。
317猫キック:2000/04/25(火) 03:04

ご忠告しますが,スウェデンボルグは神様とは全く関係がありません.
まあこう書いても読む者は読むでしょうし,私はこのことにはもうコメントをしませんが,それは聖書を読む時に,大変邪魔になる先入観を植付けることになり,違う道に行ってしまいます.
イエス様に繋がろうと思う者は,ただイエス様だけを求めるべきです.

スウェデンボルグは霊の世界の事実と違っています.それは神様から来たモノではなく,それ以外の者によります.イエス様とは全く関係ありません.あれはサタンの映画です.

求道者や弱いクリスチャンも目にするであろう掲示板で,スウェデンボルグなどは躓きにこそなりますが,神様に向かうことには決してなりません.こんなモノを読むように勧めることは,神様に叱られます.そもそもキリスト教書店で扱っていること自体が驚きです.この馬鹿さ加減が,霊の世界に全く目の見えない多くの日本のクリスチャンの実態です.○○と味噌をいっこんたっくりにして扱って平気なのです.しかも,イエス様には熱心でない.
でもそんな中にも,聖書を読んでイエス様を一生懸命求める者はいます.動機の正しい熱心な者はイエス様に出会います.

もし,もしクリスチャンであって,スウェデンボルグが輝いて見えるようなら,その人は神様から遠いところにおり,反対を向いていて,闇を見つめています.その魅惑の輝きは暗闇です.

スウェデンボルグは霊媒です.人々を神様から微妙に違う(微妙でもないか)方向に導きます.火遊びでもいけません.

イエス様を求めましょう.救いはイエス様にあります.

しかし,どのスレッドもそうだけど,長くなってくると,本の題からズレますね〜.
...眠いのに書いたら文章が変でしたが,とにかくスウェデンボルグはいけません.

318名無しさん:2000/04/25(火) 07:53
 キリスト教徒以外は救われん、異教徒、無神論者は地獄落ち
という考えより、スウェデンボルグの方が真っ当だと思うね。
319聖書ファン>猫キックさま:2000/04/25(火) 08:35
猫キックさんに
>スウェデンボルグは霊の世界の事実と違っています.
それは神様から来たモノではなく,それ以外の者によります.
イエス様とは全く関係ありません.あれはサタンの映画です.

と教えられた方はどなたですか? あるいは、猫キックさんが
スウェデンボルグを実際に読まれてそのように判断されたの
でしょうか?

これまでカトリック教会が行ってきた異端裁判はすべてこのよ
うなものでした。猫キックさんの頭の中にあるキリストは、
一教会の幹部に雇われた日雇いのキリストです。自分の足で
歩くことを禁止し、ひたすら既存の教義を押しつける。それ
こそがサタンでなくてなんでしょうか。

このスレッドで猫キックさんに、三位一体について質問をお
出ししたはずです。まだ、まともに答えてもらっていませんね。
結局、御自分の頭でも理解できないことを人に押しつけている
だけなんじゃありませんか?

真理は虚偽にすべて打ち勝ちます。真理に会ってうち砕かれる
のを恐れ、相手をサタン呼ばわりして信者に目隠しをするのは
それ自身が虚偽である証拠です。真理ならば、スウェデンボル
グごときで揺らぐはずがない。違いますか?
320名無しさん:2000/04/25(火) 12:23
スウェデンボルグはキリスト教よりは神秘主義方面に人気が在りますね。
オカルト好きなら一度くらいは聞いた事が在る名前だと思う。
キリスト教徒では知らない人が多いのではないでしょうか。

結局のところ、スウェデンボルグは一般のキリスト教からは異端もしくは
異教でしかないのだと思います。
321聖書ファン>320:2000/04/25(火) 12:44
スウェデンボルグ自身も著書を教会関係者や国王に送ったが、
相手にはされず、結局、彼自身も異端審問を受けることに
なったようです。彼としては、命を賭けての布教活動だった
わけです。

中世に行われた魔女狩りは、神の取り次ぎを教会が独占する
ために行われたものでした。ジャンヌダルクは有名な一例
ですが、下手すれば彼女だって聖列される前に魔女として
処刑されていたでしょう。教会は自分たちの保身のために
聖者と魔女を使い分けてきました。

その恥じるべき歴史を教皇さんが「反省」したのじゃなか
ったのか...。一般信者の意識レベルはまだまだ中世のまま
のようです(嘆息)。
322291>聖書ファンさん:2000/04/25(火) 13:35
>聖パウロ、聖ザビエルらと霊界のかなり下層で目撃したと書き残しています。
ザビエルはいざ知らず、パウロが霊界の下層で目撃されたというのでは、なんだかもはや、
一般信徒には救いがない、というのとかわりないような気がします。たとえ「神秘体験がなくても、
イエスの言葉通りに隣人愛の実践を行う者は救われる」と言われても。とてもわたしがパウロ以上の
隣人愛の実践ができるとは思えませんから。
「「立派な修道士として評価されたい」という名誉を求める心」はたしかに清いものではない
のでしょうが、まったく無欲な人間がいるとしたら、それはもはや人間とはいえないのでは
ないでしょうか?完全に清いのは神だけです。

>スウェデンボルグの教義は異教徒の目にも光輝いている
パウロを霊界の下層に置いている辺りで正統キリスト教とは相容れないものを感じますが、
聖書ファンさんのおっしゃることにも思い当たる点があります。キリスト教には様々な異端が
ありましたが、中には輝きを放つものもありました。そういう輝きを放つ異端の文書を読むと、
正統キリスト教が置き忘れてしまったなにかを伝えているように感じることがあります。
キリスト教の制度化が進む前の、霊性が強く現れた時代を彷彿とさせるなにかということですが。
323291(続き):2000/04/25(火) 13:36
>イエスの言葉に従って、隣人で
>ある291さんに「よいもの」を差し上げたいと心から願うからです。
ありがとうございます。そのことは聖書ファンさんの書きこみからよく伝わってきます。
スウェデンボルグには制度化が進み硬直化した教会にはない輝きがあるのはたしかなのでしょう。
ただ教会も弱められた霊性を取り戻す努力をしています。ミサの形態も昔から比べて家族的要素が
強めらています(もちろん十分ではありません)。さらに修道院に短期泊まって黙想会が開かれ、
ミサをより身近なものとして体験することも行われています。ひとりで信仰に取り組むのも大切な
ことなのでしょうが、共同体のなかで霊性を培って行くことが正しい信仰には必要ではないかと
考えています。私のまわりにも一般信徒でありながら、本当に立派な方がおります。道徳的にという
意味だけではなく、深く霊性を得ている方です。そういう方に接していると霊性の大切さがわかるし、
それが自分には欠けていることは重々承知しております。だから「こんなつまらないこと、最初から
知っている」なんてとても言えません。長々とすみません。
(本題からズレてゆくという猫キックさんの指摘反省しておりますが)
324聖書ファン>291さま:2000/04/25(火) 15:04
パウロについては、昨日ご紹介した本より、関連部分を抜粋
します。

「パウロは使徒達のなかでも最悪の者達の間にいるが、この
ことを私は十分な経験によって知っている。福音を宣べ伝える
以前に彼が捉えられていた自己愛が、そののちも彼のもとに
残っていた。そののちの大半の時期もそうした状態にいたた
め、彼は自己愛と自分の本性とに駆り立てられて、騒乱の場
にいようと願っていた。天界の最大の者になってイスラエル
の部族を裁こうという目的から、彼はあらゆることを行った。
...彼はあらゆるものを支配しようとしている最悪の悪霊の
一味のひとりと連合して、自らの目的の達成のためにこの
悪霊と誓約した。...彼が「使徒書簡」を書いたことは、彼
の内面もそれにふさわしい者だったという証明にはならない。
なぜなら、敬虔でない者でも良い説教をし、「使徒書簡」を
書くことができるからである。...さらに、彼はその「書簡」
の中で、主が教えたことの一言も述べていないし、主のたと
え話の一つさえ引用していない...。」(n.4412)
325聖書ファン>291さま:2000/04/25(火) 15:40
つくづく思うのですが、人間が人間の本性を見抜くことは
不可能なのではないでしょうか。たとえ悪事を働いた人
であっても、その本心は隣人愛が輝いているかもしれず、
それでイエスは「人を裁くな」と教えられたのだな、と
つくづく思います。パウロがその悪い例だとすれば、本当
に悲しいことだと思います。私はパウロの「愛の賛歌」が
好きで、今も好んで引用しています。

しかし、たとえ心の奥に自己愛があったとしても、その
言葉は黄金に輝いていますし、私にも力を与えてくれます。
たとえ泥棒の残した言葉でも、心を打つ言葉は尊重するべ
きだと思います。

291さんは、その言葉を言った相手でなくて、言葉その
ものから正邪を判断される方だと確信しております。
291さんのような方がカトリックの指導者になられれば
将来は明るいと思う次第です(偉そうなことを言ってすみ
ません。でも、本心からそう思います)。
326名無しさん:2000/04/25(火) 18:53
ゲッターロボ。
327マラナタ>291:2000/04/26(水) 23:06
聖霊とは真実と事実を知らしめる恵みです。
人それぞれに必要な糧をお与えになります。
個人的な神秘体験は内的に終わりますから
ある意味では思いこみや妄想と同じく虚しいものです。
聖霊体験とは、多分、事実として真理を悟らせてくれる
何かなんです。自分の場合は。

よくわからないかもしれませんが、許してください。
良いレスが思い浮かびません。
328291>マラナタさん&聖書ファンさん:2000/04/26(水) 23:31
色々レス下さりありがとうございました。
頂いたレスから、そして自分でレスをする中で、自分の聖霊理解がいかに欠けたものかを
気づかされました。いい機会を下り感謝しております。
しかしキリスト教は奥が深いですねえ。わからないことばかりです。。。
329猫キック:2000/04/27(木) 05:39
ちょっと時間が経ちましたが書き込みます.

猫キックは「聖書ファン」と名乗る方に答えようとは思いません.

私は「三位一体をわかりやすく教えて」と言うタイトルを見て,自分の知っていることを書き込みました.それはログを見ればわかります.しかし私は自分の受けたことをそのまま掲示しましたが,本来それを見て誰でもが理解できるとは思っていませんでした.一部の方が経験しているとおり,信仰によらないではこの真理を悟ることはできないからです.ただ悟ることのできた方は,「ああその通り」と思われるでしょう.それ以上でもそれ以下でもない.それは真理であって,生きた神という相手があってのことですから,正しい動機で求め続ければ同じことを受けます.頭は理解できません.

ただ,私は私の先に書いたことを,曲げて解釈したり,聖書を引用してはいても,主の御旨を悟っていない個人的な経験による考えで解説してくれる意見に対しては返答しなくてもよいと思っています.私にとってイエス様のこと,神様のこと,聖霊様のことは,簡単に考えたり思い付いたりして,ホイホイと文字を連ねる種類のものではないからです.私にとって神は,私を大切にしてくださる怖い父です.その愛と峻厳は他に例がありません.

330猫キック:2000/04/27(木) 05:40
私はカトリックではありませんし,マリヤも,置いてある像も私には関係ありません.しかしカトリックの中にも,直接神に繋がっている人がいることは知っています.それは偉い人や,慈善で知らない者がないほど有名になってしまった人ではなく,聖霊にバプテスマされた人たちです.彼らは神に知られていて,聖霊は神様の思いと手段を悟らせます.

神を抜きにして隣人愛を語ったところで,それを実践したとしても,それはその人の徳になるだけで,何人かを助けるだけでしょう.もし人に知られなくても,自己満足を得るのみです.それは「自分の義」と言います.

たとえば,良い行いによって天国に入れるとしたら,罪のない神の子は,受肉して苦しんで十字架につく必要はなかったでしょう.しかし「神の義」が用意された以上,これによらない者は天国に入れません.梯子が用意されたのにそれを登らず,壁を登ってくる者は不法侵入を試みる者です.
隣人愛の実践も大切ですが,それを貫き通して死んでも,それのみでは神とは無関係です.天の扉は開かないでしょう.そこは壁です.道ではありません.イエス様によらないからです.まずイエス様を救い主として受け入れるべきです.

話が広がりすぎましたがもう一言.
スウェデンボルグについては,アレもイエス様と関係があると思われる方のために忠告しました.それは天国の壁を登るどころか,サタンと肩を組むようなものです.

さてさて,私は「頭の中に」「日雇いのキリスト」がいると言われましたが,「聖書ファン」と名乗る者には「関わるな」と,私の中の「GHOST」が囁きます.この後も私は同じ態度でいきます.
では最後に... クリスチャン がんばれ!
                      以上.
331聖書ファン:2000/04/27(木) 11:20
291さま、マラナタさま

こちらこそ、門外漢の私に辛抱強くおつき合いくださり、感謝の
言葉もありません。私自身、先達であるお二人の胸を借りて、
いい勉強をさせていただきました。

今のとなっては遅すぎの感もありますが、度重なる無礼なる
表現、心よりお詫び申し上げます。
332聖書ファン:2000/04/27(木) 11:33
猫キックさま

>隣人愛の実践も大切ですが,それを貫き通して死んでも,
>それのみでは神とは無関係です.天の扉は開かないで
>しょう.そこは壁です.道ではありません.イエス様に
>よらないからです.まずイエス様を救い主として受け入
>れるべきです.

これは私も同感です。イエスにつながった隣人愛でなければ
現世的な善にすぎない、とスウェデンボルグも書いています。
私は別にイエス様を否定しているのじゃなくて、イエス様を
拝むことも大切だけど、イエス様のおっしゃる通りに生活し
なければだめですよ、と申しているだけです。何やら誤解さ
れているようですね。

まあ、「聖書ファン」は黙殺せよ、という精霊様の有り難い
御信託が下りたそうですので、もう何も申しますまい。

人に憑いて精神を支配するのは、聖霊だけとは限りませんよ。
これは私の憑依霊からの猫キックさんへのはなむけの言葉
です。
333猫キック:2000/04/27(木) 22:28

>私は別にイエス様を否定しているのじゃなくて、イエス様を拝むことも大切だけど、イエス様のおっしゃる通りに生活しなければだめですよ、と申しているだけです。何やら誤解されているようですね。


 ちょっとだけ書きますが,誤解ではなく,捉えていることが違います.「イエス様を拝むことも大切」と言うとき,「拝む」とはどういうことでしょうか? クリスチャン達はどう考えていますか?
 言葉尻を捕らえようと言うのではありません.私は「イエス様と共に行く」ということがクリスチャンの特権だと考えます.しかしそれも経験した者やそれを目指す者と,はなから求めようとしない者との理解に雲泥の差があることも存じています.
 これは,触れそうな暗闇にひとりで居るとき,禁固となって一日中口を利けないとき,友や身内を亡くしたとき,自分がこれから死ぬというときにもイエス様が共におられ,腹の中には平安がある,と言うことです.私が主よと言うとき,主は聞いてくださり,私が静まって耳を傾けるとき,主は語って下さいます.
 礼拝の時だけではなく,一日中主と共にいられたら,どんなにすばらしいでしょうか.
私が誤解ではないと申しましたのは,イエス様の教えに従うのではなく,イエス様に従い,共に歩くのだと言うことです.どうでしょう,誤解でしょうか?
334猫キック:2000/04/27(木) 22:33
>まあ、「聖書ファン」は黙殺せよ、という精霊様の有り難い御信託が下りたそうですので、もう何も申しますまい。


 精霊 → 聖霊
 「黙殺」というのはすごい表現ですが,「聖書ファン」と名乗る方は私には手強すぎると言うのが本音です.私が恐れているというのではなく,私の受けたものと全く種類が違うことを語ると言うことです.霊が違うと言うと大げさですが,私はほとんどそう思っています.なるべく相手にしたくないタイプですが,あんまり内容が・・・.ではイエス様のことを書こうと思った次第です.

 しかしここに至って「御信託」とは.え? 信託銀行? 神託?
まあ何でもいいですが,私のところでは
 「御信託が下った!」とか,「お告げじゃ!」とか言うのは全くないです.
 (ドラマチック?ですみません.私のイメージはこんなもんです)


>人に憑いて精神を支配するのは、聖霊だけとは限りませんよ。これは私の憑依霊からの猫キックさんへのはなむけの言葉です。


 『私の中の「GHOST」が囁きます』と私が書いたからとて,何故それを「聖霊」と取るのでしょうか? 私の霊( human ghost )が囁くという意味であれば,何とするのでしょう? イエス様が言われたように,聖霊に対しては極力注意しなければなりません.そこには『この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。』と,信じる者には身の毛の立つような宣言があります.恐ろしいことに,それは信じない者にも語られている言葉です.

335猫キック:2000/04/27(木) 22:35

 「憑いて」というのを「聖霊」に対して使ってはいけません.まず,聖霊は人を「支配」しません.それは聖書にそう書いてあります.読みとれるでしょうか? 私が異言で祈っても,私の意識はしっかりしており,止めようと思えばその瞬間に止められます.「聖書ファン」と名乗る方が受けた霊は何でしょう?
 今書いたように,聖霊は「人に憑いて精神を支配する」ことは決して致しません.またご自分のことで「私の憑依霊」と言っておられますが,軽々しく霊のことを扱うものではないでしょう.
 日蓮はそれこそ何かに憑かれて,3日も呪文(?)が止まらなかったそうですが,聖霊にはそういうことはありません.
336聖書ファン>猫キック様:2000/04/28(金) 08:46
>イエス様の教えに従うのではなく,イエス様に従い,共に歩くのだと言うことです.

私には同じ事のように思いますね。イエスが禁じたことを避け、
イエスが命じたことを行う。これはイエスに従うことですし、
共に歩くことでもあります。

>『この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。』と,信じる者には身の毛の立つような宣言があります.

これはまさにその通りですが、例えばですが、手の平に聖痕
が現れて、「お告げ」があったとしても、それが聖霊である
とは限りません。神道流に言えば、サニワ(審神:霊の正邪
を見分けること)が必要です。

猫キックさんの場合は「お告げ」ではない、とのことですが、
霊の影響化にある人間は、知らず知らずのうちに霊の価値観
を自分の価値観と思いこんで従っているものです(詳しく
書くと、神道の話を嫌でも出してこないといけないので、
ここでは触れません)。

>聖霊は「人に憑いて精神を支配する」ことは決して致しません.

これは誤解を招く表現でしたね。私は、イエスの教えを実行し
ようとして昂揚する魂はイエスと共にあり、イエスと共に隣人
愛を実践するのだと思っています。そうでなければ、単なる
現世の善行で内的な人間が浄められるはずがありませんので。
その「神人合一(神道の用語)」状態を称して、こう表現した
のです。もちろん、人間側に自由意志は残されていると思い
ます。
337聖書ファン>猫キック様:2000/04/28(金) 09:07
多分、こういう図式になると思います。

○猫キックさんと見解が一致している点
1.イエスは天国の門であり、イエスを受け入れない者は救われ
ない
2.礼拝の時だけでなく、四六時中、人はイエスとともにあるの
が理想である

○見解が一致しない点(推測も入っているので、間違いがあれ
ば指摘してください)
1.イエスの十字架上の死によって、世界中の人の罪があがなわ
れた。<--&gt;
イエスの十字架上の死そのものは、人類の罪の許しとは直接
関係ない。ただし、人類の罪の許しへの道を開くための最後
かつ最大の試練であった

2.よって、イエスに祈ってそのあがないにあずかることで
魂は救われる。善行はその次である(やるのが望ましいが不可
欠というわけではない)<--&gt;
イエスは人類の罪の許しへの道として、罪を悔い改め、隣人愛
を実践することを身をもって示した。よって、イエスへの祈り
だけではなく、隣人愛の実践が魂の救済には不可欠である。

3.人が救われるかどうかは、神が聖霊を遣わされるかどうかに
よる。つまり、人間の側には選択権はない<---&gt;
人間の自由意志によって、(イエスの霊的な助けを受けながら)
隣人愛を実践し、魂を救済される道が開かれているのだから、
選択権はすべて人間の側にある。
338名無しさん
同行二人空海と共にある。