1 :
南無 :
2000/02/03(木) 18:47 真宗大谷派(お東)に僧籍を持ってます。儀式全般の質問に 出来る限りお答え致します。どうですか?
2 :
うちは東本願寺だけど :2000/02/03(木) 21:04
禅宗の方が好感もてます。臨済宗あたり。 浄土真宗の親鸞、蓮如以後の足跡に付いて述べて下さい。
3 :
南無 :2000/02/03(木) 21:59
あのね、儀式全般って書いたんだけど・・・。 教義とか歴史とかになっちゃうと、手に負えないの。ややっこしいし。 ちなみに親鸞・蓮如の真筆と言われるものは見たことあるけど、 足跡っていうのはみたことないヨ。
4 :
名無しさん :2000/02/03(木) 22:08
親鸞会というところがあるそうですが、右翼ともカルトとも言われていますが、どうなんでしょうか?
5 :
南無 :2000/02/03(木) 22:50
親鸞会については、はっきりしないことも多いのですが、元々は真宗 本願寺派(お西)に僧籍を持っていた「タカモリ ケンテツ」という 人物が、西本願寺から異安心(信仰内容が違うという意味)として 僧籍を剥奪されたことに始まります。タカモリ氏に信順する人達の 集まりというのが基本です。初めは純粋な(タカモリ氏への)信仰集団 から出発したのでしょうが、金集め集団に変貌したとの噂の多い所です。 真偽は不明ですが、社会問題となった「豊田商事」と金銭的繋がりが 深かったと言われていますし、タカモリ氏を絶対者としている関係上 右翼とかカルトとか言われてもしかたがない感じがします。 なお、西本願寺に対して行われた親鸞会からの安心論争については 西本願寺が無視した形で現在に至っています。 親鸞会の金集めの方法の一つにビデオ(アニメ)の販売があり、 チューリップ企画という名前で訪問販売をおこなっています。 この訪問販売の強引な点から、訴訟問題が起きているのが現状です。
6 :
名無しさん :2000/02/03(木) 23:29
前世とか輪廻転生ってほんとにあるんですか。因果応報とか。
7 :
名無しさん :2000/02/03(木) 23:50
お東の今の門主さんにはお子さんがいらっしゃいませんが、 次の継承者はどうされるんですか。 現門主のご兄弟がたや、破門された先の門主さんが宗門に復帰する ことはありえるでしょうか。
8 :
名無しさん :2000/02/03(木) 23:55
母の実家が福井県の燧(ひうち)というところにある「真宗三門徒 派」という宗派のお寺なんですけど、お東やお西とはどのような関 係にあるんでしょうか。
9 :
南無 :2000/02/03(木) 23:57
前世とか輪廻転生とかは元々インドの民族信仰(釈迦以前からの)で 純粋な仏教思想ではないと思います。 が、命の連続性は否定出来ないでしょう。色々な生命の歴史がこれからの 生命の歴史へと続いてゆくこと。 因果応報についてはもっと簡単に考えればいいのでは? 因(原因)・・このスレッドを立てた 果(結果)・・今、答えるのに苦労して頭抱えてるってこと ただ、俗に言われる親の因果が子に報いというのはないです。 もし在るとすれば遺伝子レベルの話になちゃうと思いますが。 どうでしょう。
10 :
名無しさん :2000/02/04(金) 00:10
真宗のお寺の住職さんのお子さんたち、イトコの私は名前でよんで ましたが、同じ部落の級友たちは 長男「おしんぼっちゃん」 次男「こぼんちゃん」 長女 (本名) 次女「こじょちゃん」 と呼んでいました。長年の謎です。仏教的な称号でしょうか。長年 の謎でした。もしおわかりでしたら。
11 :
南無 :2000/02/04(金) 00:16
>7です。 確かに現門主の浄如さんには子供さんがいらっしゃいません。ですから 次期門主についてあれこれ噂が出ているようですが、はっきり言って 解かりません。 ただ、門主が今までのように親鸞からの血統で選ばれる伝統?から人選するならば 傍系からという選択肢まで当然可能性が出てきます。 ソロソロ根本的に考え直さねばならない時期なのかも知れません。 (血統至上主義についてですよ) あと、旧連枝の復帰についてはまず可能性はないと思いますが。 >8です。 真宗は現在10派(東本願寺派も入れると11派)ありますが、基本的に親鸞の血統 を引くものと、お弟子さんの開いたものとがあると言う事です。 まぁ、みんな似たかスッテンだと思って下さい。
12 :
南無 :2000/02/04(金) 00:31
>10です。 言葉は地域によって色々と変化しますので、出所が同じでも結果違ったり しますが、「おしんぼっちゃん」というのは 正確には「御新発意」もしくは「御新仏」に<ちゃん>が付いたものでしょう。 どちらも住職の長男、次期住職になる男子を指す糞丁寧語です。 「こぼんちゃん」なら小さい坊ちゃんの意味ではないでしょうか。 ただ、ここにある二男以下を長男と区別するニュアンスがイヤですけど。 「こじょちゃん」というのは単におじょうちゃんの変化では?
13 :
6です :2000/02/04(金) 01:44
レスありがとうございます。 じゃあ、前世で悪いことしたから、今こんなに ひどい目にあってるんだという説明は 間違ってるということなんですね。
14 :
南無 :2000/02/04(金) 02:03
絶対にありません。 例えば身分制度のあった封建時代などに、現状肯定の理由付けのために 因果応報という考え方が支配者側から利用されてきたことと、それに 追従してきた仏教界の堕落があるだけです。 今の苦労や矛盾を受け入れて善行を積み「来世」に良い世界 または良い身分で生まれてこいと言うように・・。 そのため地獄や極楽(浄土)というものが死後のものに誤解され 現在まで続いています。
15 :
名無しさん :2000/02/04(金) 02:27
「儀式全般」では全然ない質問なのに、丁寧に回答くださり、有り 難うございました。
16 :
6>14 :2000/02/04(金) 07:11
レスありがとうござます。 自分もそうでなきゃおかしいと思ってました。 でも、いまだにそういうこと言って、人を苦しめてる 宗教ってありますよね。自分の友だちが そういうのにはまってるんですよ。ほっとくしか ないんでしょうかねぇ。
17 :
名無しさん :2000/02/05(土) 03:49
以前テレビで、たくさんのお坊さんが、舟に乗っているような踊り?をする法要をみたことがあります。 在家らしいひと達もおけさをかけてたくさんいたような気がします。 チャンネルをかえたとき、その場面にあたったのですが、それは何を意味してるのでしょう。 真宗ではなかったら、ごめんなさい。確かそうだったと記憶してるのだけれど。
18 :
南無 :2000/02/05(土) 04:52
それは多分、東本願寺で毎年行われる「報恩講」という行事の最終日の 11月28日のお勤めだと思います。正信偈のお勤めの方法の一つなのです が、お勤めの際に上半身を前後左右に動かして、親鸞が越後へ舟で流さ れて行く時の様子を表したものです。 これ、結構難しくて、出来る坊さんたくさんいません。
19 :
名無しさん :2000/02/06(日) 07:54
法事などで平気な顔で肉や酒を口にしてる坊さんをよく目にしますが、 何も問題ないのですか?
20 :
名無しさん :2000/02/06(日) 09:10
極楽浄土はあるのでしょうか? 阿弥陀さまはいらっしゃるのでしょうか?
21 :
桐野 :2000/02/06(日) 18:17
真宗では「六道輪廻」をどのように解釈していますか。 もしくは南無さんが信徒さんに法を説く場合の解釈でも結構です。 「六道」とはなにか。 「輪廻」とは何がどうなることか。
22 :
南無 :2000/02/06(日) 21:25
>19です。 私も平気な顔して肉でも魚でも食べてます。エヘ。 このことについては2つの事を感じます。 第一は肉食について。第二に精進ということについて。 肉や魚を食べる、或いは食べないということは、通仏教的意味から 殺さないという戒律、つまり殺生戒が基礎になっていると思いますが 動物と植物の生命にはたして差などあるのでしょうか?動物に対して 感じる痛みを植物にはさほど感じないという、我々人間の感性がある だけではないでしょうか。どちらにしろ人間は食べるということで 他の生命を自分の中に取り込むしか、生きて行けないというのが事実 でしょう。その事実をどう受け取って行くかが宗教心ではないでしょうか。 ですから精進ということは仏道(もちろん仏教徒に対して)に精進しなさい、 励みなさいという事になると思います。肉を食べない私はOKと言って しまったら逆に、落とし穴に落ちるのでは?
23 :
南無 :2000/02/06(日) 21:51
>20です。 極楽浄土も阿弥陀さまもあるとお答えします。ただ問題は貴方のおっしゃる 言葉の中身と私が言う中身が同じかどうかという問題でしょう。 死んでから行く極楽浄土や地獄ではないということです。私達には生きている 今の現実しかなく、そこから離れてしまえば観念か妄想になってしまう のではないでしょうか。生きている現実世界を極楽浄土という言葉で 表されている世界として生きようとするのか、また地獄という言葉で 表された世界として生きようとするのかという選択の問題でしょう。 阿弥陀さまについて言うなら、よく見る姿としてのパンチパーマで背中から 光りを放つ人、或いは者が何処かにいる訳ではありません。それはよく 「働き」という言葉で言われます。私達には気ずくということがあります。 アイツが言ってたことはこのことだったのかという風に。 気ずいた中身が人間共通の普遍的なものであるなら、気ずかせてくれた アイツが阿弥陀さまの意味を持つのではないて゜しょうか。
24 :
名無しさん :2000/02/06(日) 22:26
>動物と植物の生命にはたして差などあるのでしょうか? でしたら植物も食べないべきでは? 仏教の戒律に矛盾を感じたのなら、自分の都合の良いように解釈せずに お坊さんをやめるべきではないですか? 坊さんって後継ぎなどで仕方なくなるもんじゃなく、その教えに共感、 納得し、苦しいことを承知の上で自ら望んでなるもんだと思うし。
25 :
南無 :2000/02/06(日) 22:26
お断りしておきますが、このスレッド全体が私個人の私見ですので宗派とは 関係がありませんので悪しからず。ということで >21です。 通仏教的には、 六道=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天 輪廻=六道をの迷いの世界を生まれ変わり 死に変わりしながら止まぬ状態 ということにでもなるのでしょう。それぞれの細かい意味は辞典でも 引いて見て下さい。問題はその受け取り方なのですが、例えば70年なら 70年の人生全体を私の内実が六道として輪廻しているということ ではないでしょうか。 時に争そう者として、時に欲する者として、時に夢みる者として。
26 :
南無 :2000/02/07(月) 00:25
>24です。 24さんは生きているということ自体を否定するつもりで書かれたのでは ないと思いますが、よく文意を汲み取って下さい。動物とか植物とかいう 話ではなく、人間は他を殺さなければ生きられないという事実を言ってい るのです。その中でこの程度を善、このから先を悪だと言っていること 全体の底の浅さを言っているのですけど・・。 それと、別に矛盾は感じていませんけど・・。上記のことでその答えに なっていると思いますので。
27 :
名無しさん :2000/02/07(月) 00:51
>南無さん 仏教には神さまはいるのですか?仏教は無神論だっていうはなしを 聞いたことがあるのですが。仏様は神様じゃあないですよね? なにも知らずにお寺で手を合わせているのですが。
28 :
南無 :2000/02/07(月) 01:32
神さまいません。だから当然神棚もありません。近所の神主さんも 一度も寺の方には遊びに来てくれません。私も神社へ「お参り」に はいったことありません。別にケンカしてる訳ではありませんが。 ただ神社も寺も「お参り」という言葉を使いますね。けど内容は まったく逆だと考えて下さい。 神社(神)に参る= 私の願いを神さまにたのむこと 寺 (仏)に参る= 仏の願いを私が聴くこと 合格祈願や病気治癒、家内安全や商売繁盛は神社の方へお願いします。 もしも、仏さんに頼むと 合格祈願=「勉強したら受かる、遊んでたら落ちる、ご勝手に!」 病気治癒=「酒とタバコやめて、医者に相談してチョ」 家内安全=「アンタとこの分だけ? 他の分、どうする?」 商売繁盛=「損して得とれ、取れんかったらあきらめろ」 と言うでしょう。さぁ、神様と仏様、どっちにします。 質問からずれちゃってたらゴメンナサイ。
29 :
名無しさん :2000/02/07(月) 01:41
僧侶の妻帯についてどうお考えですか?
30 :
17です。 :2000/02/07(月) 01:52
レスありがとうございます。ほんとのお坊さんとお話できる機会をいただけて光栄です。 またまた質問させていただきます。 「報恩講」という行事とはなんですか。 「正信偈のお勤め」ってなんですか。なぜ「お勤め」で親鸞上人が越後へ舟で流されて行く時の様子を表すのでしょうか。 お東、お西というのも実はちんぷんかんぷんです。どういう意味なんでしょう。 いまさらっていわれそうな質問かもしれませんが。 実は「お勤め」っていうのもどういうものなのかはっきりわからないんです。読経するってことなんですか。 初歩すぎてすみません
31 :
24 :2000/02/07(月) 01:52
「生きる」という行為は煩悩で成り立っていますよね。 仏教では煩悩が否定されているというイメージがありますが、それは 私の勘違いですか?(死ぬことだけが煩悩から逃れる唯一の術だと思う のですが)
32 :
南無 :2000/02/07(月) 02:39
>29です。 基本的に日本に伝わり広がった仏教には二つの立場があります。 聖道門(天台・真言など)仏教は出家、つまり家庭生活から離れて 道を求めようとするもりです。 浄土門(浄土・真宗系など)仏教は在家、つまり家庭生活の中で 道を求めようとするものです。 ですから親鸞も奥さんも子供もいましたし、蓮如においては順番に (同時にではありません)7人の奥さんがいたことは有名です。 それで妻帯ということの意味ですが、当然SEXの問題であると同時に つまりは人間の繋がり、社会性という問題になるのだろうと思います。 「29」さんは未婚でしょうか、既婚でしょうか? 未婚には未婚の気楽さと淋しさ、既婚には既婚の重圧と喜びとでも言う べきものがあるのではないでしょうか?どちらが良いとかではなく、 社会(家庭)の中に身を置き、回りとの関係性を保った形のほうが 人間本来の姿に近いのでは、と思います。
33 :
南無 :2000/02/07(月) 03:28
>30です。 先の答えが不充分ですみません。本願寺という寺は元々一つでした。 戦国時代一向宗という名前で呼ばれ、一向一揆で加賀に富樫氏を 滅ぼし自治権を確立したのも今で言う浄土真宗の門徒と呼ばれる人々 でした。それに対し織田信長は武力で当時の石山本願寺を攻めたのに対して 徳川家康は二分することを考えました。当時の本願寺の相続問題をキッカケ にして、二男が本願寺を継承し、家光の時に長男が新たに本願寺を開きます。 二男の継いだ元々の本願寺を西本願寺(真宗本願寺派・お西)、長男の開いた 本願寺を東本願寺(真宗大谷派・お東)と言います。 報恩講についてですが、真宗の一番大事な行事で、親鸞の命日である11月 28日までの一週間行われます(東本願寺の場合)。ですから親鸞の法要と言っても いいでしょう。具体的にはお勤め・法話の繰り返しと思って下さい。次に「正信偈」 についてですが、これは親鸞が書かれた教行信証という書物の一部分を抜き出した もので、御経(釈尊の説いたもの・仏説)に対して偈文(仏説に基づき、各国の 高僧の書いた書物、またはその一部)と呼ばれています。そして 御経または偈文を読経することを「お勤め」と言っています。 報恩講の最後に「正信偈」を坂東節と言われる勤め方(上半身を前後左右に振る) でお勤めし、流罪になった親鸞のもろもろを偲び、表しているのでしょう。
34 :
南無 :2000/02/07(月) 04:17
>31です。 人間なんて煩悩が生きてるようなものでしょう。私なんて大変!ジャンボ 10枚買っただけで3億円自分のものって思っちゃうし、不倫願望強いし 店終わったおねーちゃん連れてよく飲みいくし。頭の中の妄想はケダモノです。 32でも少し触れたのですが煩悩についての立場も聖道門仏教と浄土門仏教 では違います。聖道門仏教は煩悩を無くせるという立場で、その為に「行」 があります。それに対し浄土門仏教は煩悩を抱えたままという立場でしょう。 24さんは私達が使う夢・希望・望み・願いといったことの全てが煩悩 だということに気ずいていらっしゃるはずです。でなければ、死ぬことだけが 煩悩から逃れる術という発想は出てこないと思います。たしかに死ねば 精神活動が停止し、肉体は滅びます。しかし、死を目的に置いてしまうと 生きて在ることの意味が失われてしまいます。それでは本末転倒でしょう。 たしかに夢・希望・望み・願いといったものの全てが、私の思いという 私願であるならば、皆、煩悩です。良いこと悪いことの全てが。 けれど、それが煩悩であると知った時に、つまり客観的に自分自身が見えた 時に開けて来るものがあるのではないでしょうか。 おっ、また出てきたぞ、俺の煩悩。このことが人間の強さ、大らかさには ならないでしょうか。嫌いだったアイツの煩悩や可愛いあの娘の煩悩が 見えてきたなら、同じ社会を今まで以上に広く生きられるのでは?
35 :
第7の外道 :2000/02/07(月) 10:40
南無さんはじめまして。今までのレス、大変興味深く読ませていただきました。特に煩悩まみれの私としては、煩悩についてのお話などは特に共感させてもらいました(笑)。 ちょっと質問させていただきたいのですが、西本願寺と東本願寺では、現在では教義的な問題についても若干差が出ているということをどこかでちらりと読んだことがあります。そのときの記憶では、「西」の方が「浄土」を「現世とは別に、彼岸に実在するもの」と捉える傾向が強いという印象を受けました(私の誤解ならばすいません)。そこで教義面における東と西の違いというのは、どんな具合なのでしょうか?
36 :
24 :2000/02/07(月) 20:22
浄土門仏教では煩悩まみれでも関係ないということですか? 仏教の教えの根本的なところには(聖道門、浄土門関係なく) 「煩悩は争いを生むから、煩悩は必要最小限に抑えるべき」 というような考え方があると思っていました。
37 :
南無 :2000/02/07(月) 21:13
>35です。 そのネーミングを拝見しますとちょっとビビってしまいます。 教学的無理解と教学的無知を併せ持つ私がこんなこと書いている自体 申し訳ないのですが、お許し下さい。 まず、第7の外道さんが持つ印象と同じものを私も持っています。 しかし浄土を来世に設定することそれ自体は、身分制を内蔵する幕藩体制 に、300年に渡って真宗全体が迎合してきた事実だろうと思います。 さいわいに東の場合、明治以後の近代において清沢満之以降、曽我・金子・暁烏など の諸氏の輩出が御用教学からの脱却を早く促したと言えるでしょう。 それで東西の教義面の違いについてですが、「違い」ではなく比重の問題だと思います。 特に二種深信について 西=法の深信(救いの主体とその内容、つまり阿弥陀仏) 東=機の深信(救いの客体とその内容、つまり自己自身) を中心に展開されているという感じがします。 それはそうと「浄土を来世に生まれるべき世界」として話をされる先輩諸氏が 東西ともにまだまだ沢山現役でご活躍中です。・・・合掌。
38 :
南無 :2000/02/07(月) 22:01
>36です。 通仏教的に言うなら、煩悩は押さえるべきです。 悟る、または仏に成るということから言えば煩悩を押さえるどころか 滅することが前提になるでしょう。100%ダメなんです。 煩悩持ちの仏さんなんていませんから。 けれど現実には「程度の問題」にすりかわってしまうんです。 ここまでは可、これからは不可。あるいは、 これだけすれば可、出来なければ不可という様に。 もしもですよ、頭のうえにモニターが付いてて、考えたことが リアルタイムで音声付の映像で流れるといたら、街の中、歩けますか? 私は歩けません。裏ビデオどころじゃないですから。 先月ですけどお葬式の焼香の時なんですが、親族の中の可愛い茶パツの 女子高生が立ちあがって2.3歩歩いたところでストンと落ちちゃったんです。 見事にストンとスカートが。本人も何が起こったのか解からず4.5秒の間が空きました。 薄いストッキング越しのパンツ姿の女子高生です。 もう、嬉しいやら楽しいやらで、後はもうヘロヘロでした。 煩悩に油を注げ、とは言いませんし、抑えられるものなら抑える努力は大切です。 しかし煩悩まみれの自分なんだという所に立つ以外に出発点はないと思います。 そして問題は煩悩まみれの自分が、自分がですよ、 煩悩を断ずる道を歩くか 煩悩と格闘しながら生きてゆくかの選択でしょう。
39 :
24 :2000/02/07(月) 23:30
>けれど現実には「程度の問題」にすりかわってしまうんです。 この考えに至ったときに矛盾を感じなかったのですか? それでもできるだけ仏に近づこうと努力するのが、仏につかえる身と しての「本当」の姿では? 私にはどうしても、 「煩悩なんてどうせ無くせないんだから、好きなように生きるよ、俺は」 と言ってるように聞こえます。煩悩と格闘しているとは思えません。 それが普通の人なら何も問題ないと思います。しかし南無さんは、人に 仏教の教えを説いているわけですよね。罪悪感を感じませんか? これではそこらへんの新興宗教の教祖と変わらないと感じてしまいます。 (自分の言ったことに責任を持たないという点で) >煩悩を断ずる道を歩くか >煩悩と格闘しながら生きてゆくかの選択でしょう。 私はお坊さんではありませんし、何の宗教も信仰していません。 煩悩が悪いものだとも思っていません。 煩悩と共に生きるという選択肢もあるのでは?
40 :
南無 :2000/02/08(火) 00:44
>39です。 煩悩を絶って、或いは減らしてという立場に立つ以上、最後は必ず「程度の問題」 になってしまいます。なぜなら、私達は「身(身体)」を抱えているからです。 思考・思想・精神といったものが身体を支配出来ないでしょう。違いますか? 食べなければ死ぬんですから。ですからこれは矛盾を感じるとかどうとかのレベル の問題ではなく、私達の「身」の事実です。否定出来ません。 否定出来ない「身の事実」には何の矛盾もありません。 つまり、頭でっかちの私達の思い上がりが身体まで支配しているように錯覚しているということです。 私達の「思い」は行き詰まることがあります。自殺という問題です。 しかし、私達の「身」が行き詰まることがありましたか? それと「煩悩と格闘」というのはチョッとカッコ良すぎましたか?すいません。 煩悩とは「迷い」ですから、「いつも迷いながら生きるしかない」と書き換えてもいいですよ。 気をつけて頂きたいのは「迷っている(煩悩)」という自覚と「好きに生きる」という選択は 別の事柄ですので一つにはなりません。迷っているという自覚が逆に、「ならばどうするのか」 という問いを生み出してくるのではないでしょうか。 新興宗教の教祖なれる程、大きな器ではありませんし、自分の言葉・思考・行動すべてに 責任を持ちきれるような、大したものでない自分であることは知っています。 責任の持てる大した私なら、教祖になるかも知れません。
41 :
第7の外道 :2000/02/08(火) 09:45
南無さん、レスありがどうございます。 大谷派には南無さんが名前をおあげになったような「哲学者」(といっても「暁烏」という人は初耳でした)が何人も登場していることもあって、割とリベラルのかな? という印象は持っていました。そういう人の思想的業績というのは、大谷派の僧籍をお持ちの方にはかなりの影響力があるのでしょうか? ただそうした人たちも異安心問題でいろいろ悩まされたとも聞いていますし、「影響」についてはなかなか微妙かつ複雑な問題があるのだろうとは推察しますが・・・。
42 :
名無しさん :2000/02/08(火) 15:39
>頭でっかちの私達の思い上がりが身体まで支配しているように錯覚しているということです 私が言いたいのは思い上がってるのは人間ではなく仏教の考え方だ、という ことです。身体まで支配してると考えてる人はそんなに多くないのでは? 少なくとも私は思ってません。 >「ならばどうするのか」という問い その問いに対しての南無さんの答えが、お金への「執着」、浮気の「実行」、 本来成仏を祈る場での「妄想」なのですね。 坊さんだって人間といえばそれまでですが、今までのような俗人の生活 はできないと「覚悟」して仏門に入られたのではないのですか? 私は南無さんの意見にほとんど賛成です。ただお坊さんの考えとは どうしても思えないのです。本当に仏教を信仰しておられるのですか? 「ビジネス」と割り切ってるのでは? それと私が言いたかったのは、「身の事実」の矛盾点ではなく 「身の事実」と仏教の教えの間の矛盾点です。
43 :
こんらん :2000/02/09(水) 00:20
暁烏敏(あけがらす はや)師もまた、大谷派において異安心と なった方ですが、その後、宗門に復帰し、総長までつとめられた と言います。ビッグですねえ。 『地獄は一定すみかぞかし』(新潮社−石和鷹)によると、妻の ほかに、信者の愛人とも一緒に暮らしていた事もあるそうです。 粋ですねえ。 「この身の事実」をこぎれいな、小利口な、浅はかな人間の知恵 で隠してしまわずに、如来の前にさらけだしていくことが、宗教だ と思いますが。そうしたときに、やはりはずかしく、おろかで、反 省もなく、「悪人」である自分に気付きます。如来様ってありがた いですねえ。 如来様に報恩感謝していくのが、真宗の信仰生活だと思います。 そしてその喜びを伝えるのが僧侶の役割だと思います。 「身の事実」を阿弥陀さまは、徹底的に否定していると思います よ。「どうせ凡夫だから」「煩悩はなくならないんだから」という 開き直りをも否定していくのが他力でしょう。そしてまた、小利口 な「私」が考える「身の事実」っていうのも、浅はかなものだとお もいますよ。不可思議ですねえ。 ところで、「報恩行」という言葉を聞いたことがありますが、 「行」という字がついているので、自力的に聞こえるのですが、ど う云う理解をしたらいいでしょうか?
44 :
名無しさん :2000/02/09(水) 14:12
まじめなのであげ
45 :
南本願寺 :2000/02/09(水) 14:15
「身の事実」の矛盾点とか、「仏教と身の事実」の矛盾点とかでてきて いますが、寺とか、宗門とか、僧侶と言う立場とか、そういうものに 守られて、そのなかで、矛盾をかかえながらも、自己の立場を肯定、 保持しようというのは宗教家としてまちがいだと思います。 暁烏師が、異安心となったのも、本願寺をほんとうの寺にしようと 総長になったのも、「私」と、「仏」あるいは「善知識」との間こと を最も大切にした結果であって凡夫である自己を肯定しようとか、保 身とか、そういうものではないと思われる。 お西においては、一度異安心の烙印をおされてしまうと宗門への復 帰はまず不可能だが、そのあたりお東さんは暁烏師の例もあるように おおらかだと思う。 南無さん、頑張って僧侶の使命を果たしてください。 ところで、「卑下慢」ってなんですか?
46 :
かんらん :2000/02/09(水) 14:20
骨髄バンクに登録し、患者の方と適合したが、家族の同意を得られず、 まだ返事も出来ない状態です。 人の命を救うよりも、家族の安泰を大事にしてしまう私です。 自分の身の平穏のために患者さんを見殺しにするような私でも救われる のでしょうか?
47 :
南無 :2000/02/09(水) 17:59
色々とご意見を頂戴しまずはお礼申し上げます。遅くなりましたが まずは一つづつ。 >41です。 各師の影響はやはり大きなものがあると思います。それ以上は個人の 了解になってゆくので申し上げられませんが。 10年程前だったと思いますが盛んに「清沢満之批判」がなされていた 時期がありました。批判自体は結構なのですが、単なる批判に終わらずに 自身の信仰心や了解ということにフィードバックされねば意味のないことと 感じております。 リベラルという言葉で言われると私としては嬉しい感じがします。 しかし、宗教番の記者の人達には、 「お西は大人で、東は子供」という評価を頂いていると聞いています。 お西さんは、社会を熟知した大人の集まりなのに対して、東は青っぽい ガキの集まりでまとまりがないという風に理解しておりますが、成る程 と思います。
48 :
南無 :2000/02/09(水) 18:40
>42です。 ご指摘下さった幾つかの事柄に各々ご返事致すべきなのかもしれませんが、総論として感じていることを申し上げます。 まず、私は仏教を、釈尊以来、統一あるいは画一化された内容(教義や宗教形態)を継続維持してきたものとは考えておりません。言うならば経典に依りながらも各々が右往左往してきた仏教徒の歴史の総体だと受け取っています。統一もしくは画一化されていない以上、それは理論ではないという事でしょう。 理論ならば矛盾を含むと成立致しません。仏教は「実践」であるというのが私の了解です。私にとって殺生戒を通し「殺」の問題を突き付けてきたのは仏教でした。しかし、煩悩(迷い)を断ずることが出来ない身を抱えている「事実」を知らせてくれたのも仏教だったのです。目的地へ行く道は無数に存在するのでしょう。 しかし、歩む者、いや、立ち止まっていてもいいのですが、道に立つ者には常にこの道一本しかないのです。複数の道の存在を矛盾と指摘出来るのは、傍観者においてのみ可能なのです。思い上がっているのは仏教ではないでしょう。やはり、一つの立場に固執する「私」の思い上がりなのです。そして、その思い上がりの 本質とでも言うべきものが「自己の絶対化」ではないかと考えます。私達は「自我」の確立以来、ずっと自分(自己)を立てています。また、そうしなければ精神活動が成り立ちません。ただここに付いて回るのが「自己の絶対化」という事柄です。自分もしくは自分の考えというものを知らず知らずのうちに絶対化してゆく という性質を人は持つように感じるのです。仏教とは絶対化する自己を相対化する手段ではないかと考えます。私が仏教と関わっているのも、実はこの方法以外に知らないからだろうと思います。−続く−
49 :
南無 :2000/02/09(水) 19:23
>48の続きです。 次に、坊主ということ或いは坊主であることについてなのですが、貴方の言われる「俗人の生活」と別のものだとは思っておりません。基本的に同じだと考えます。 ただ坊主の必要条件を言うなら二つ。 第一に「儀式執行のプロ」であること。第二に「依るべき所が経典であると自己決定すること」、この二つだけだろうと思っています。 私は依るべき所として教典を選んだはずなのですが、なかなか徹底出来ない愚か者です。ところで貴方は何に依って自身を律していらっしゃいますか? 世間一般の「道徳」ですか?「私」の経験ですか? 「私」の造って来た倫理ですか? どの場合にも「律してゆく自分(自我)」と「律せられる自分(身体)」がありますね。律してゆく自分は殺すなという殺生戒さえ守り切れる自分なのですが、律せられる 自分は、それでは生きられない自分だということです。こんなことを自分の煩悩を通して実感しながら坊主してます。もっと正直に言いますと 「スイマセンでした。綺麗事ばかり言いました。何も考えてないんです」 と言ってもいい位なんです。私の内実なんて。ただ、最後に申し上げた「依るべき所」「立つべき場所」を決めたんだという一点だけが、時として「私」を突っついてくるんです。色々な状況や場面で。 それが無くなれば坊主やめなきゃならんと思います。私の場合それが親鸞という人の生き方(当然背景の思想も含まれます)でした。このことだけがギリギリのところで坊主であることを私に許しています。 坊主はビジネスか否かについては次回に送っておきますがお許し下さい。
50 :
名無しさん :2000/02/10(木) 02:46
>統一もしくは画一化されていない以上 しかし釈尊が言った言葉はひとつなのでは。 その言葉を自分で解釈してそれに近い考え方の宗派を既存のものから 選ぶ(または自分で創る)のなら、さほど右往左往しなかったと思います。 しかし、既に他人が解釈したものに共感し、そこにまた都合のいい解釈 を重ねていった人達がでてきた結果、右往左往したのではないでしょうか。 つまり釈尊の言葉はひとつであり、仏教もまたひとつだと私は思います。 ですから、法然教や親鸞教が理論かどうかは知りませんが、 仏教が理論ではないという考えには疑問を抱いてしまいます。 (因みに私は釈尊が言ったことなど全く知りません) そしてその解釈の連続の過程で(悪い言い方かもしれませんが) 煩悩だらけの「自分」を正当化する為に「他力」という無理な解釈が うまれたように思えます。
51 :
じょん・どぅ :2000/02/10(木) 04:51
どうすればいわゆるお坊さんになれますか?
52 :
南無 :2000/02/10(木) 05:19
>43・45・50です。 皆さん煩悩についての受け取りにカリカリ来ていらっしゃるように感じますが、 「煩悩を絶てない身の事実」ということに対して 43=開き直り 44=肯定・保身 50=正当化 という言葉で反論下さいました。それぞれ言葉のニュアンスに違いはありますが 開き直り=50%当り。肯定=100%当り。保身・正当化=はずれ。というのが私の感想です。 もう一度読んで頂きたいのですが、私が言ってきたことは「煩悩」を肯定してきた訳では ありません。「煩悩を抱えた身」という事実を肯定してきました。この所に立たぬかぎり すべては空論になってしまいます。そして自分の中から湧き上がる煩悩に出会った時に 「ならばそれに対し自分はどうするのか」という問いに変わるのでしょう。煩悩の湧き上がらない 自分には出来ないということです。煩悩とどのように対峙するのかという私の答えが49の私見なのですが 貴方の答えをお聞かせ下さい。 それと50の中で言われている右往左往の了解は少し違います。48で私が右往左往という言葉で言いたかったのは 教義理解や解釈に右往左往したという意味ではなく、立場を定めてもなお、実践において身の事実の根深さに 右往左往せざるを得ないという意味です。
53 :
南無 :2000/02/10(木) 05:26
>51です。 資格(大谷派では教師といいます)を取得すれば誰でもなれます。 教師資格取得の方法は宗派の関係学校を終了すること、短いもので1年間です。
54 :
>南無さん :2000/02/10(木) 06:59
他のスレッドには出張しないのですか?
55 :
こんらん :2000/02/10(木) 13:12
「お肉」というきれいな言葉に包んで、「平気で」食するところに人の恐さが あるように思うのです。 先日の朝日の投稿で、おそらく「ここがヘンだよ日本人」のことだと思うの ですが、魚の活造りが日本料理の特徴のように言われたのに憤りを感じた日本 料理店の店主が「お肉を食べてる横で牛が苦しそうにうめいていたらどう思い ますか?」と書いていたが、なるほどと思った。 「分かっちゃいるけどやめられない」・・・煩悩ですねえ。 平気でいられないところに宗教があるのでは? こぎれいなパッケージに包めないのが如来の前という理解です。 「悪人こそすくいの目当てである」と言われた時に、どこまで 悪に徹する事ができるかというのも、宗教でしょうか? 「薬があるからといって、好んで毒を飲む人はいない」とも言 われますが。。。。横からゴチャゴチャすいません。 お坊さんと話すの好きなものですから。
56 :
南無 :2000/02/10(木) 18:05
>46です。 かんらんさん遅くなりましてスミマセン。 実は、自分の現実を通しての初めての問題提起に、嬉しく感じています。 46の中での問題は2点、 1、骨髄バンクに登録し、適合したのに家族の反対の中で答えを出せないという事 2、他人の命より家族の安泰を選ぶ私が救われるかという事 ですね。 1については答えを出せるのは貴方しかいません。バンク登録をした時のご自身の気持ち を、骨髄提供のリスクを心配される(多分)ご家族と徹底的に話し合ってみて下さい。 その上で貴方がどう判断なさるかしかないのでは? 2については「救われます」という答え方も「救われません」という答え方も出来ます。 まず、「救い」ということの中身を「問題を解決すること」や「楽になること」とは考え ないで欲しいのです。「救われる」ということは目の前の自分の問題を 逃げたり、目をそらせたりせず自分自身で背負い込む勇気を持つことなのだろうと思います。 貴方の場合に即して言いますと、最後は家族の安泰を選ぶという自分に出会われました。 そしてその事に痛みを感じていらっしゃいます。このことが大切なのでしょう。助けることが 出切るかも知れない命を結果として助けなかった自分に徹底してもがいてみて下さい。 そこから生まれるのは、多分貴方が今感じている「救われない自分」という自覚です。 この自覚だけが「救い」の内容ではないでしょうか。ただ「救われない自分」にあきらめたり 甘えたり、開き直ったりして肯定してはダメです。どこまでも「救われない自分」を否定し続け なければなりません。そこからしかこれからの努力は始まりません。 骨髄提供の意思が本物なら、今回は提供できなかったけど次回までには 家族の皆さんの同意を貰うという所に立てるのではないでしょうか。
57 :
南無 :2000/02/10(木) 18:10
>54です。 出でました。特に「30代」の所なんかに。でも今はここで目一杯?
58 :
50 :2000/02/10(木) 21:02
私は煩悩を悪とは考えていません。 むしろ向上心などは煩悩から生まれるものだと思います。 勿論、危害を加えたり、秩序を著しく乱すような、煩悩は抑えるべき だと思います。ただ、それは煩悩を否定しているわけではなく、 「そういう煩悩を持つ自分」を認識したうえで抑えるべきだと考えています。 おそらく南無さんも同じような考えをもっていられると思います。(間違っ ていたらすみません) 私がカリカリ?していたのは、「煩悩まみれの自分」に気付いた「お坊さん」 が悩んだ?末に、よりによって煩悩を「正当化」する方向に傾いたことに です。自分が思っているよりお坊さんの言うことは影響力があると思います。 自分が説いている教えに責任が持てるようになってからお坊さんに なっても遅くなかったのでは?むしろそうすべきだと感じます。 自分一人がその考えで仏教を信仰してれば問題ないと思います。 しかしあなたの周りにはあなたの話を「お坊さん」のありがたいお話と して聞く人がいるわけです。 信仰は一人でもできます。 信仰は自由です。他人を巻き込まなければ。
59 :
南無 :2000/02/10(木) 21:35
改めて最初から読み直し抜け落ちている点を2.3つ書きます。 >42 これは真宗の坊主といてどうしても言わねばならないことなのですが、葬儀、法要といった場は 亡き人の「成仏を祈る場」では決してありません。亡き方は生きて残された者が成仏を祈ろうが 祈るまいが、すでに仏の意味を持っているはずです。そのことを受け取るか受け取れないかが、 私達の側の問題として残されているという事です。ならば葬儀や法要は何をする場なのかと言うと 死という厳粛な事実(或いは過去の事実)の前で、「死」から逆に私達の「生」全体が問い返される という事でしょう。有限の命をどう生きるのだ、どうするつもりなのだと。 >43 人間の側から言えば全てが自力でしょう。自力・他力は二律背反するものではなく、自力無効が他力の 意味になるのではないですか。自力無効までのプロセスとして自力を尽くすということが必要だと思いますが。 >45 卑下慢についてですが増上慢の逆ですね。優越感と劣等感の関係と同じ構造でしょう。どちらも他者との「比較」 ということに原点があると思います。 >50 釈尊の言った言葉は一つか否かについてですが、さてどうでしょう。 釈尊自身の思想・了解といったものは一つでしょう。けれども釈尊自身は何も残してはいません。仏説と言われる ものは釈尊に出会った人達の「私はこう聞きました」という言葉が残されているだけですから。そして釈尊が行われ たのは「対機説法」(その人の状況・資質に応じて一番適切な言葉、方法という意味)ということを考え合わせて 貴方自身が答えを出されればよいことです。私と同じ答えである必要はまったくありません。
60 :
南無 :2000/02/10(木) 21:55
>50です。 ここまで来るのに色々大変でしたが、煩悩に対しての了解は共通したと 感じています。その上で改めて申し上げますが、私が言いたいのは 煩悩を正当化しようということではありません。煩悩を抱えていることが 人間の事実だということを肯定しているのです。まず、その事実認識 から始めなければならないと・・・。そして煩悩が煩悩として自覚された時に 依るべき所を持つことが宗教心ではないのかと。
61 :
↑ :2000/02/10(木) 22:00
すみません。 >58でした。
62 :
50 :2000/02/10(木) 22:16
>煩悩に対しての了解は共通したと >感じています。 これではまるで私の考えが南無さんのおかげで変わったみたいでは? 私の解釈は最初から変わっていません。 念のため。(馬鹿にしてるわけではないですよね?)
63 :
南無 :2000/02/10(木) 23:00
>62です。 当然です。 一つの言葉についての認識の確認という作業の大変さを痛感です。
64 :
かんらん :2000/02/11(金) 00:40
骨髄の話しです。 「自分のきたねえ骨髄でもよかったら貰ってくれえ。」 という気持ちだったのですが、、、。 母は、泣いてしまいました。 妻は、「絶対大丈夫と言う保証があれば。」といいます。 「絶対ということは、人間が死ぬることと、弥陀の本願だけじゃ。」 と、聞きます。 父は、「ボランティアとは、というか、布施行とは、本来、自分を 犠牲にするもんだ。」といいます。 家族の同意がなければ次の検査には進めないんです。 登録のときは妻が同意してくれたのですが、いざとなるとやはり、、、。 家族の気持ちもわかります。骨髄移植についてのビデオを 借りたので、みんなで見ることにします。 南無さん、どうもありがとうございました。
65 :
しんらん :2000/02/11(金) 00:44
かんらん、こんらん、、、、次は展覧会?
66 :
名無しさん :2000/02/11(金) 01:14
崑崙であろう
67 :
かんらん :2000/02/11(金) 12:20
「自分のきたねえ・…」 骨髄液を自分の所有のように書いてしまいました。 めぐまれた「いのち」、「不借身命、借身命」という言葉を 思い出しました。
68 :
名無しさん :2000/02/15(火) 12:40
age
69 :
南無 :2000/02/16(水) 19:20
坊主がビジネスか否かという事柄についての私見。 何人か実際に聞いてみたのですが皆、ビジネスの部分とそうでない部分があるとの答えでした。 その割合についての認識が皆違うといった所です。大体、儀式をビジネス、布教を宗教活動( ビジネスではないという意味で)と考えているようです。経済社会の中にあって、経済と無縁 ではいられないのですが、本来の「出家」の意味からは経済と絶縁した生き方を選択したという 決心があったはずですし、食べていけないのなら死をも受け入れるという決意であったはずでしょう。 この形態においては100%ビジネスとは無縁です。しかしその分社会との関係性は薄いものとならざるを得ません。 南伝の小乗仏教は今もこの形態が色濃いと言えるのではないでしょうか。 そこで私の今の正直な感想ですが、100%ビジネスにした方がいいのでは?と感じています。都会と地方では 現状に大きな差かありますので一概に論ずるべきではないのかもしれませんが、ビジネスにするほうが利点は 大きいと感じます。良くも悪くも江戸以来の閉鎖的な寺檀制の中では門徒(信者)の人達は寺や坊主を選べません。 その上に世襲制の坊主がアグラをかいてしまうと、坊主自身の質は不問とされ、坊主の質の低下という弊害だけが 残ります。消費者(門徒・信者)が商品(寺・坊主)を選択し購入するほうが、坊主自身の向上への早道ではと 考えます。まぁ、このことにも色々な弊害もあるのですが。
70 :
名無しさん :2000/02/17(木) 20:38
本来、宗教とはビジネスではないと思う。ボランティアに近いのでは。 もし釈迦?がそういう意図で仏教を創ったのだとしたら、そこらへんの カルトとかわらない。ただの自己啓発セミナー。 崇める価値なし。
71 :
南無 :2000/02/17(木) 20:45
>70です。 その通りです。本来の宗教はビジネスではありません。 現在の坊主が聖人ではなく俗人なのですから、変に聖域を作らずビジネス としてしまうほうが69の意味で良いように思うという事です。
72 :
名無しさん :2000/02/17(木) 22:45
宗教をビジネスと考えている人は坊さんになる資格なし。 今の世の中では仕方ないと自己弁護する人も同様。
73 :
名無しさん :2000/02/17(木) 23:15
72さんへ。そう思います。 「衣食の中に道心なし。道心の中に衣食あり。」道元さんでしたっけ。 しかし、西行法師は、「無一物」といわれながらも、荘園は、手放さなかったようですが。
74 :
南無 :2000/02/17(木) 23:35
>72.73.です。 宗教をビジネスだとは一度も言ってはいません。 坊主を職業と考えてしまうほうが、出家・在家の双方の在り方において 本来性に帰る機会になるのではないかということです。 現在の寺檀制について本気でこのままでいいとお考えならば、 これ以上の論議は不毛です。宗教のことを言っているのではなく、 坊主のことを言っているのです。
75 :
名無しさん :2000/02/18(金) 00:03
「坊主が職業」と「宗教はビジネス」はどう違うのかわかりやすく 教えていただけませんでしょうか。 私には「坊主が職業」といった時点で宗教をビジネスと認識してるよう に感じられるのですが。
76 :
南無 :2000/02/18(金) 01:41
>75です。 74に書いた「職業」については専門職という意味で「職業」という表現 をしました。なお「ビジネス」という言葉については単純に「仕事」(経済的意味での) という意味で、「宗教」それ自体は決してビジネスではありません。私自身曖昧な 部分が残るのですが、74では「職業」と「ビジネス」を同義と考えて頂いてかまいません。 大雑把な言い方をしますが、宗教という場合、教義(神・仏・教典などの総体の意味)と 信者だけの直接の関係ならば問題は少ないのかもしれませんが、その中間に教化者・伝導者 といったものが介在する時、信者からの喜捨に対して中間搾取とでも 言うべき立場に坊主があるということです。そのことを根本的に許してしまうのが「寺檀制度」 の質としてあるのではと思うのです。この事柄を問い返す方法として 坊主を「専門職」と考える方がいいという提起を致しました。 もしも、そうなれば現在の坊主の全てが「ビジネス」としては成り立たなくなるでしょう。 当然、淘汰されます。中間に不透明な聖域として存在できないことを望みます。
77 :
名無しさん :2000/02/18(金) 23:30
お坊さんとは葬式をしようが法要をしようがお金を自分から要求する ものではないのでは?表向きは要求してないことになっているようです が、実際は生臭坊主ばかりのような気がします。 本来なら、もらわないもしくは自分が生活するのに必要なだけもらう べきだと思うのですが。南無さんはどうお考えですか?
78 :
南無 :2000/02/19(土) 00:34
>77です。 ごめんなさい。実際は私も含めて生臭坊主ばっかりです。私の知る限りは。 事務手続き上のものや、貸借物など金額の決まったものははっきりと請求 しますが、葬儀・法要などの「布施」については金額的な要求はいたしません。 しかし、このことが逆に色々な問題を生んで来ます。「寺檀制」の中での 寺の「格」のような所で金額が決められてゆくのです。「世襲制」の弊害として真面目にやっても 適当にやってても結果は何も変わらないという現状が坊主を堕落させます。 坊主が布施で生活するという事自体に起因する部分が大きいと思うのですが、 一番良いのは生活手段を別に確立し、趣味?か情熱だけで坊主をすることだろう と思います。 坊主は宗教ではありません。しかし宗教は坊主を内蔵しています。坊主を聖人と 考えずまず俗人だと考えて下さい。その俗人に対する評価は単に専門職のビジネス にしなければならないんではないかと感じています。
79 :
名無しさん :2000/02/19(土) 01:31
>葬儀・法要などの「布施」については金額的な要求はいたしません でも要求しないというのは建前で実際は暗黙の了解で決まっているも 同然では?戒名料にしても高い金を出さなければいい戒名くれない お坊さんがほとんどだと思います。 南無さんは1円でも嫌な顔しませんか? 布施は気持ちですよね? 俗人にお経をあげられてもちっともありがたくありません。 私がやっても同じです。 依頼している人は、仏様につかえる人は俗人ではないと信じて依頼し そのお礼として「布施」していることを忘れて欲しくないです。 必要最小限の布施のみで生きていくのが本来のお坊さんのあるべき姿 だと感じます。
80 :
南無 :2000/02/19(土) 01:37
>79です。 坊主は俗人です。 坊主は聖人だとお考えですか? ならば是非その理由をお聞かせ下さい。
81 :
名無しさん :2000/02/19(土) 02:29
聖人だとは考えていません。この世に聖人などいないでしょうし(釈迦も含む)。 私が言いたかったのは、同じ俗人にあげられるお経やつけられる戒名は 高い金を払う価値が無く、ありがたくも無いということです。
82 :
指摘くん(パンタカ) :2000/02/19(土) 06:02
1)仏教において布施(ダーナ)というのは、喜捨という言葉からもわかるように、何かの対価として 支払われるものではなく、自分の所有するものを、何の見返りを求めず喜んで捨てる実践であり、 モノやカネに執着する自分を自覚する数少ない機会である。もちろん相手は坊さんだけでなく、 乞食でもだれでもOK。エライ坊さんだから、布施をした自分に大きな利益があるだろう、 じゃなきゃ布施をしない、「ありがたい」というイイキモチにさえなれないし、なんていうのは、 仏教の精神から最も遠い。捨てるという行為にこそ意義があることを忘れてはならない。 (もちろん高位な戒名や利益を求めてやまない醜い自分をみることができるという利益はあろう) 最も卑しいと自分が思ってる相手(僧侶はいろいろな意味で適任かもしれない)に、 自分が執着し大切にしてやまない財産を与えるからこそ「行」となり、価値があるのだ。
83 :
指摘くん(パンタカ) :2000/02/19(土) 06:32
2)「真面目にやっても適当にやってても結果は何も変わらないという現状」は現状でよいのでは。 食うに困るといけないから、と、「マジメに」宗門興隆をめざして情熱に燃えた宗教活動してると、 「みんなが寺にきてくれれば、もう何でもいい、それがご縁というものだ」となってしまい、 「そこから教化が始まるのだ」という口実の下、現世利益にさえ走りかねない危険性が高い。 また儀式執行のプロの専門職だから布施という対価をもらってしかるべきなのだ、という、 矜恃とも言訳ともつかないこと考えるより、もらえるんだから、ありがたいことだなあと、 もらったぶんで自然に暮らせばいいのでは。さらには、自分の生活費は自分で稼いでるから、 となれば、自分の宗教活動は「純粋」だ、とか「我」が出てきかねない危険が高いとも思う。 布施を貰っているからと何ら卑屈になったり遠慮したりする必要はないし、周囲の目や評価を 気にすることもない。対価のない喜捨という資本社会で最も困難な功徳を積んでもらうのだから。 (現実に家族を養っていかなければならないという責任が、ということもあるかもしれないが、 できれば、それさえも捨ててみてはいかがか、親鸞のように。まあ、なるように、なるものさ。) パンタカはパンタカのまんま、で、いい、とおもう。
84 :
指摘くん(パンタカ) :2000/02/19(土) 07:37
3)現在の寺檀制の改革考えてらっしゃって、おっしゃってることは十分承知しています。 もちろん江戸期に固定されたこの制度が、仏教のみならず、この国の宗教的感情・あり方まで、 いびつにしているという指摘は確かだと思うし、私もこのまんまが最高だなんて決して思わない。 しかし、西欧やイスラム、インドなど、他の国の宗教のありかたも、けっしてほめられたものでも ないし、第一、そのどれも「お手本」「範形」となるようなものだともみるべきではないと思う。 まずは、これからの仏教、しかも大乗な仏教として、どのような姿がモデルとして考えられるのか その部分を、現状を出発点とした理想像を描いて欲しい。その「新たなるサンガ」の理想像が 見えてこないから、高い改革の意識にもかかわらず、「ビジネス」という表現などに、いろいろと 反発を招いてしまっているように思える。しばしば言われる「本来の姿」「本来性」とは、 いったい何なのか。(ここに、まずは共通の了解・理想が無いから、話が変になっている) 留意したいのは、変えれば必ず現状よりよいものになるとは限らないことであろう。
85 :
名無しさん :2000/02/19(土) 18:34
坊主は喜捨する必要はないの? 普通の人よりすべきだとおもうけど。 もらった布施が多すぎた場合、自分の懐にしまわずに 困ってる人に「喜捨」すべきでは? 布施もらって卑屈になってる坊さんなんて見たこと無い。 もらって当然だと思ってない?
86 :
南無 :2000/02/19(土) 22:29
>81です。 そうです。付けなければ良いのです。ご名答!
87 :
名無しさん :2000/02/19(土) 22:42
やったー! 当たったー!
88 :
南無 :2000/02/19(土) 23:18
>82.83.84.です。 色々とご意見を頂きバンタカさんありがとうございます。長いレスなのでスレッド間違えたかと思いました。 痛い所を突っ込まれました。はっきり言ってしまえばその通り「僧伽」の問題なんです。十数年、坊主を やってきてこのことがハッキリしないんです。理想といえば大げさになってしまいますが、そのあるべき 「僧伽」の姿が自分自身ハッキリと見えてこないんです。もちろん、現実を一度チャラにして始めからやり 直すという非現実的な話としてではなく、現実を踏まえてのことですが。ただこのままで良しとは決して思えません。 ご指摘通り、変えることが結果今よりも悪くなるかもしれません。けれど何処からか始めなければならないと感じます。 制度的なものが問い返される基盤として意識の問題が何よりも重要なことは間違えないでしょう。そんな私が現在一番 目に付き、鼻につくのが77や79に見られる坊主は生臭くないとか、俗人とは違うという発想なんです。一般社会が作り出す このような幻想のベールの中に坊主が安住することは大変な心地よさなんですけど、それではイカンでしょう。出来もしない ことを出来るような顔して、何も解からないのに解かったような顔をして。これについては坊主の責任と同じ程度一般社会側 にも責任かあると思います。よく解からないけどありがたいとか、何かしら尊いとか、何か聖なるものとか、坊主の周りに漂う? このような不透明さを壊して、互いに「素」になるところから始めるしかないと思っています。その為に「坊主はビジネス」 にしたほうが良いと申し上げました。多くの反発は当然のことと思います。ある種純粋に「坊主」というものを受け取って いらっしゃる方々と気長にやり取り出来ればと思い、このスレッドを立てました。
89 :
南無 :2000/02/19(土) 23:39
>85です。 坊主が布施をもらって「卑屈」ならなければなりませんか? バカ言っちゃいけません。 布施、その他一切の収入は宗教法人収入になります。私はその法人から 月々、給与をもらっているだけでポーナスもありません。当然所得税は 払ってます。 みなさん坊主って儲かると勘違いしてません?中にはトンデモナイ人も いますけど、坊主だけで食べていけないのが7割以上でしょう。他で 働いてその中で家族が生活し、その上「寺」の維持をしているというのが 一番多い現実です。 >87です。 おめでとう! それともう一つ、今度は是非、値切ってみて下さい。
90 :
名無しさん :2000/02/19(土) 23:39
そんなに鼻につきますか、私の意見。 もう書き込んでほしくないということですか?
91 :
南無 :2000/02/19(土) 23:51
>90です。 すみません。私の言い方が不味かったと思います。皆さんの「坊主に対する見方」 を目に付く、「安住する坊主」が鼻につくという思いを書いたのですが、88を読むと そうなっていませんでした。コ゜メンナサイ。
92 :
名無しさん :2000/02/20(日) 00:36
>坊主が布施をもらって「卑屈」ならなければなりませんか? は >布施もらって卑屈になってる坊さんなんて見たこと無い。 に対してですよね? これは83で 指摘くん(パンタカ)さんが >布施を貰っているからと何ら卑屈になったり遠慮したりする必要はないし と書き込んでいたことに対しての書き込みです。 別に仕事をしているのかもしれませんが、それでもお坊さんの家は大きい ところが多いように感じます。そんなお金があるなら困ってる人に「喜捨」 すべきなのではと感じます。 >91 ここに書き込むことは私にとってかなり有意義だったので、安心しました。
93 :
駆け出しの同業者 :2000/02/20(日) 01:34
ここのスレッド、かなり興味をそそるので、あげ。 同じ悩みを抱えてる人がいただけでも、感動。 僧侶に対する批判も、筋が通っててイケテマス。
94 :
南無 :2000/02/20(日) 01:51
>92です。 寺というのは大体「本堂」と「庫裏」に大別できますが、この二つを 合わせた「寺」というものは住職のものではなく、門徒・檀家さんの 共有財産という位置付けになっています。ですから坊主はそこに住み 管理を任されているという立場ですし、門徒・檀家さんの多数決で 住職の解任も可能です。事実その例はあります。そうなると家族つれて プーになります。それこそ皆さんが思っていらっしゃる「聖」の誕生 になるのかもしれませんが。
95 :
南無 :2000/02/20(日) 01:58
>93です。 ようこそ! 初めて同業者と名乗る人が出てくれました。
96 :
じゃーたか君(パンタカ) :2000/02/20(日) 02:26
>92 もちろん、僧侶も喜捨すべきです。が、もともと必要以上に持ってはいないことが前提なので、 喜捨という行は重視する必要もないということにもなりますし、出家者かつ伝道者としての さらに重要な「行」もある、といえるでしょう。(贅沢するなんてのは論外でしょうが。) しかし、一旦、喜捨の必要があるとなれば、財産はもちろん、究極の持ち物である自分の体をも、 飢えた虎にさえ与え、食させ、救命する、というのが僧侶の心構えであり理想でしょう。 もともと布施は、出家して修行できない者が、「簡単に」実践できる「行」として意義があり、 結果として、三宝のひとつ僧伽の維持・繁栄につながるという利点があるわけです。 まあ、僧侶が金儲けしてて許せないと非難しても、まったくつまんないと思います。 自分が布施をした結果なのであれば無責任な発言でしょうし、他の僧侶であれば、 そこの信者さんが「我々の生活は苦しくても、せめて和尚さんだけには・・・」 という心づくしの結果かもしれないじゃないですか。他人の事など、ほっときましょう。 さもなければ、モノやカネのことばかりに執着する卑しい性分がバレバレになってしまいますよ。 そんなことは、ひけらかさずに、こっそり、そっと激しく自覚するのがよろしいかと思います。 もしかすると、贅沢クソ坊主は、そんなモノやカネに執着する我々の自覚を促すために、 わざと贅沢三昧してくれているのかもしれませんな。アリガタイことです。
97 :
感心くん(パンタカ) :2000/02/20(日) 02:29
なるほど。一般的に僧侶は「生臭くなく、俗人とは違う」という「社会的固定観念」というものが、 御同朋御同行の一対一の人間として真摯に向き合おうとするときに、非常に邪魔になると。 生臭なのに生臭じゃないと「勘違い」されている場合も、 生臭であるべきではないのに生臭とは何事だ!とされる場合にも、ということですね。 いずれにしても、様々な悩みや苦しみを抱える門信徒と遊離してしまう、と。 同じ地点にいるのだと理解してもらい出発点を見出すために、「同じ生活者に過ぎない」という 共通の「背負っているもの」があるのだという共感を可能ならしめるために、 一職業人「儀式執行のプロ」として、他の職業人と同一線上に立とう、という心意気ですね。 感心させられました。「学者同行は五月蝿い」と門徒をバカにし、自分を特別な存在かのような 意識をもった僧侶達とは雲泥の差だと思います。
98 :
名無しさん :2000/02/20(日) 02:29
>門徒・檀家さんの >共有財産という位置付けになっています。 表向きはそうなってるのかもしれませんが、実際はお坊さんの所有の ようになっているのが現状では?図書館に入るように家に入っていった ら怒られるでしょうし。自分の都合の悪い部分でも「現実」を見るべき だと思います。 それに檀家さんなどが建て替えや改築を希望したとしても 「そのお金を寄付しましょう」 と言うべきだと思います(受け入れられるか否かは別として)。
99 :
疑問くん(パンタカ) :2000/02/20(日) 02:31
が、戦略としてはいかがでしょうか、ちょっと疑問にも思います。 現実には、葬式仏教という言葉をあげるまでもなく、単なる儀式請負業者のみの社会的価値しか 見出せないような存在になりつつあるのが、現在の伝統教団の姿だと思います。「それをご縁と して・・・」としばしば言われていますが「口実・弁解」にしか聞こえないというのが現状ではないで しょうか。真宗は他宗派に較べてまだマシ、いや最も信仰が「まだ」生きている教団に見えます。 ゆえに「ビジネス戦略」を取られるのが有効だと感じられるのでしょうが、どうでしょうか、逆に、 加速度的に進行している退廃的意味での「宗教ビジネス化」に、新たなる「言訳」を加えてしまう、 という不本意な結果になりはしないでしょうか。よく言われるような社会の要請に応える必要や 責務など宗教には決して無いとは思いますが(社会に役立つ存在である必要など決して無い!) 一方で、大乗としての仏教団のありかた、という面もあります。 僧侶が、一人の人間として仏教的な生き方を、とにかく実践する、しようとする、以外には 結局はないのだとは思いますが、これからの「サンガのありかた」は別問題だとも思います。 貴重な御経験から、ぜひ理想を語っていただけたら、と思います。
100 :
名無しさん :2000/02/20(日) 03:43
>もともと必要以上に持ってはいないことが前提なので、 すべてのお坊さんが「前提」通りならいいんですけど。 現実は、そうじゃない人のほうが圧倒的では? その「前提」通りにしているお坊さんなら私は何も言いません。 それと、私はとても卑しいです。卑しいことが恥だとも思いません。 生きるものすべてがそうでしょうから。変に見栄を張りたくありません。
101 :
疑問くん(パンタカ) :2000/02/20(日) 06:59
おはようございます。 >それと、私はとても卑しいです。卑しいことが恥だとも思いません。 >生きるものすべてがそうでしょうから。変に見栄を張りたくありません。 いやいや、まったくおっしゃる通りです。私もです。見栄を張っても仕方ないですね。 でも、なんか変な話ですね。 生きるものすべてが卑しく、それを恥だとは思ってらっしゃらないのであれば、 何故に、同じく生きている僧侶が卑しい事を非難なさるのでしょうか。よくわかりません。 自分が卑しい事は恥ではないのに、他人の卑しい事は恥だと感じるのでしょうか。 自分は恥だと感じる必要は無いが、他人とくに僧侶は恥だと感じねばならないというのでしょうか。 なんかダブルスタンダードで、自分にばかり都合のよい話に聞こえてしまいます。 僧侶が見栄を張って卑しくない風を装っていると非難するならまだわかりますが、 南無師は「坊主は卑しい俗人にすぎない」と繰り返し主張されているではありませんか。 それは恥ではないということですよね。でも僧侶が俗人であるのはけしからんとおっしゃる。 僧侶だけは見栄を張って卑しくない風を装えとでもおっしゃるのでしょうか、自分は嫌なのに。
102 :
ヒミツくん(パンタカ) :2000/02/20(日) 07:01
邪推すると、俗人同士(僧侶も含む)が社会の中で金儲けなどの卑しい生存競争をやってるが、 僧侶は楽して儲かってるようだ。なんか嫉ましいぞ。連中を引きずり落とすウマイ手はないものか。 そうだ、やつらは卑しく俗人であってはいけないことにして、その儲けが不正で恥ずべきものだと いうことにしよう。やつらが「自分は俗人だ」と主張する事は間違ってる事にしよう。 そんな、ヒガミを正当化するリクツにしかなっていないように思えるのですがいかがですか。 ところで、私は事実、卑しくて仕方ないんですが、それは恥だと思ってしまいます。 無理は百も承知のつもりだけど、出来る事なら卑しくないほうがいいなあ、 と、実は心底思ってます。卑しくない風を装って見栄を張るばかりじゃなく、 本当に卑しく無い人間でありたい、と高慢このうえない欲を実は隠してる。 こりゃ卑しさ倍増の人間ですな。ここだけのヒミツだけど。
103 :
名無しさん :2000/02/20(日) 07:25
きれい事を説くならば、(すべてはできないにしても) 自分もきれい事を実践しているべきだと私は思います。 それはお金のことに限っていません。 それと、嫉むほど金に困っていません。
104 :
邪推くん(パンタカ) :2000/02/20(日) 07:49
よくわからないな。 言行一致こそが正しい、 わたしは生きるものすべてが卑しくていいと思うから、卑しい事をしている自分は正しい。 その程度のことしかいっていないことになりますよ。 南無師は俗人だと自分で言ってて、俗人の行為をしていると言っているじゃありませんか。 言行一致でしょう。なんら問題無い。 で、卑しくても恥だとは思わなくていい、というのに、 なんで、言行不一致という卑しさだけ例外なんでしょう。わかんないな。 生きるものすべてが卑しいのは当然で恥だとは思わなくてもイイのに、 何故、言行不一致だけ非難されねばならないんでしょうか。 あと、私は、いくらお金があっても、ウマイことやってるやつがいると、 ついつい嫉ましく思ってしまいます。わたしは、ね。
105 :
現職牧師代理 :2000/02/20(日) 07:51
横から乱入します。 お布施や喜捨を広い意味で取れば、 むかしっから社会福祉的な役割を伝統仏教は持っていたと思いますが? そして最近の僧侶の中には、もう一度そっちのほうに眼を向けている先生も多く存在します。
106 :
駆け出しの同業者 :2000/02/20(日) 18:36
私は南無さんの「坊主はビジネスに」という意見に賛成です。 なぜなら、僧侶・寺院が、「尊いもの、ありがたいもの」という 聖なる存在として社会に認知される傾向が強い現状があるからです。 それにからんで、布施・喜捨の話題が出てますが、 功徳を積むために、そういった「行」をおこなおうと思う人なんて ごく少数じゃないですか? 少なくとも私は思いません。 私は僧侶として現場に出れば出るほど、 いっそのこと宗教ではなく、哲学を提供する職業人、 儀式執行のプロ、というスタンスで生きるほうが、 余程、生活にはりが持てるのではないかと、思ってしまいます。 98のような >檀家さんなどが建て替えや改築を希望したとしても >「そのお金を寄付しましょう」 >と言うべきだと思います(受け入れられるか否かは別として)。 という指摘にどうしてもたじろいでしまいます。 ホントに私は駆け出しの坊主でして、現時点ではどちらかというと 卑屈になりやすい傾向が強いのです。 だって、現時点でお寺って銀行と同じように、 いろんな意味で保護・優遇されていると思いますもん。 >105 現代社会においては、それは社会福祉を提供するサービスに 委ねる方が、自然だと思います。 パンタカさんのご意見、 >よく言われるような社会の要請に応える必要や >責務など宗教には決して無いとは思いますが >(社会に役立つ存在である必要など決して無い!) に全く同感です。
107 :
名無しさん :2000/02/20(日) 23:41
>104 私はずっと「お坊さんになるということは仏の教えを実践すること」 だと思っていました。本当はどういうことなのですか? >他人の事など、ほっときましょう。 パンタカさんが書き込んでいらっしゃるのは自分のことですか?
108 :
南無 :2000/02/21(月) 23:03
バンタカさんのおっしゃる <96 「そっと激しく自覚する」 <99 「一人の人間として仏教的な生き方を実践」 という言葉はまったくその通りで頭の下がる思いです。何よりもまず 「求道者」としての自己の確立を求めていかねばならないと思います。 このことは今までの中で申した「本来性」・「本来の姿」という言葉 の意味でもあり、107で名無しさんが書かれる「お坊さんになることの 意味」でもあるでしょう。しかし、「求道者たらん」とすることは坊主 (これは理論や観念そして理解ということではなくあくまで実践ですが) の意味というより仏教徒であることの意味になってしまうでしょう。 仏教徒の中であえて僧形の姿をとることの意味は「伝導」ということに 尽きてしまいます。儀式執行は僧形でなくても可能でしようから。 布施ついてですが布施行に限らずすべての「行」は仏教徒であるから または坊主であるからしなければならないという義務でも責任でもなく 、することの出来る「権利」のように思うのですが。うまく言えませんけど。 >106です。 私も同様に寺や坊主は保護・優遇されていると感じていました。けれど 今は少し違った感想です。寺は確かに保護・優遇されています。しかし、 坊主はどうでしょう? 一見、優遇されているように見えるしそう感じる のですが、実態は優遇するという形の中で「無視」されているのではと 思います。坊さんの言うことなら・・・という形で。ある種、別の生物 で別の思考回路を持つもののように。どうでしょう?
109 :
107 :2000/02/21(月) 23:26
ある警官が速度超過をしている事を知った。 (あるお坊さんが贅沢をしている事を知った) その警官に速度超過は違反だと言われた。 (そのお坊さんに喜捨の教えを説かれた) あなたに言われたくない、と思った。 (あなたに言われたくない、と思った) このような感情で今まで書き込んでました。 警官以外の人の速度違反は気になりませんが、 警官の速度違反には敏感に反応してしまいます。 私だけですか?
110 :
南無 :2000/02/21(月) 23:45
>109です。 目は外を見るように出来てますから、そんなものでしょう。
111 :
名無しさん :2000/02/22(火) 02:00
age
112 :
再度 :2000/02/23(水) 16:06
あげ
113 :
名無しさん :2000/02/24(木) 21:03
お坊さんが普通の人と同じであるならば、お坊さんに対する 待遇(税金など)も普通の人と同じであるべきだと感じるのですが、 南無さんはどのようにお考えですか?
114 :
ふたたび現職牧師代理 :2000/02/24(木) 22:00
確定申告の時期ですが、税制上宗教者が優遇されているということはありません。 ただ、ご葬儀結婚式などのお布施、謝礼の場合、下さるかたが法人ではなく個人であって、こちらも領収出さない場合がほとんどですので 税務署があとから調査しにくい=補足率が低いと言うのはいえているかもしれません。 牧師のかっこしてるとコンビニで週刊誌読むのも見知らぬ人に文句いわれたりする ので、特別優遇されてるとは思いませんね。 脇から失礼。
115 :
駆け出しの同業者 :2000/02/24(木) 22:41
>114 袈裟を着ていると、急に便意をもよおしたとき、トイレを探すのに苦労する。 >108 確かに、一見、優遇されているように見えるが、そうでない部分の方が多いかも・・・ あぁ、仏教教義に振り回され、世間の目に振り回されてしまっているワタクシ・・・
116 :
南無 :2000/02/25(金) 01:21
>113です。 言われる通り坊主が優遇されるべき理由は何もありません。宗教法人 については後に触れますが、坊主個人に対して法的優遇は何もありません。 日常、例えば法要後のお斎(食事のことです)などの場合には必ず主賓として 扱われ、上座に座らされます。このこととは直接関係ありませんが、分家は 本家の下座、弟は兄の下座、女性は男性の下座という座配から抜け出せない 様式に、現実というものの重さと深さを痛感します。 >114です。 宗教の枠を超えて色々な交流の場が増えるといいですね。 ところで、私達も同様に布施に対しての領収書は出していません。 当然補足率が低いというのはありますが、オウム以来、税務署の 立ち入りが急増しています。寺の場合、住職が法人の収支を管理し その中から自分で給与を決めるというのがほとんどでしょうから 管理責任は大きくなります。ただ税務署も大した物で、立ち入りの 際にはビックリするほど裏を取って来るそうで追徴課税される場合が ほとんどです。アハハ。 >115です。 袈裟を着て飲みにはいけません。パチンコも行けません。ファミレスも 行けません。仕事帰りにちょっと遊んでゆくというのが、で・き・な・い!! これは辛い。非常に辛い。一旦帰って着替えて出直すというのは 妻「何処行くの?」 私「・・・・・・」 となってしまい泣きたい毎日です。それと出張がないのも同様。出張したーい。
117 :
名無しさん :2000/02/25(金) 05:06
我々の多くが葬儀に求めているのは、死者が無事あの世まで幸せに行ける為のより良い段取りです。無神論者であっても、何らかの目に見えない世界を信じている人は多いからこそ寺がまだ存在するのでしょう。その方法に精通するには、精神的に俗人とは違うものを持っている人がよいというイメージが世間一般に強いのだと思います。 ここで、葬儀がビジネス化するとしましょう。 そして、お坊さんがただの俗人であるという認識が世間に広まったとしましょう。 唱えるお経もビジネスの一環と認識するとしましょう。 さて、人が葬儀に求められるものは何でしょうか? 依頼人はただの俗人であるお坊様が唱えるお経と、故人を良く知っている近所のおじさんが唱えるお経と、どちらを選ぶでしょうか? 心がこもり、かつコスト的に安くなるのは、明らかに近所のおじさんでは? はたして寺にとってビジネスとして成立するでしょうか?? お坊さんが自分をただの俗人であることを主張し甘んずるということは、そういうことです。寺の存続も危ぶまれると思いますが?
118 :
117の続きです :2000/02/25(金) 05:08
失礼ながら、ずっと拝見していましたが、私にもこのスレッドに出られたお坊さんは俗人であることに「甘んじている」としか思えません。 パチンコ行きたい、ファミレス行きたい、出張行きたい、結構です。 ですが袈裟を着て行ってください。お坊さんが自分を「俗人」として見ているなら、そうすべきです。「人の目を気にして袈裟を着て行けない」であって、「自分に恥ずかしくない」ならば、正々堂々と袈裟を着て行ってください。 「人目を気にする」より、そのほうがまだ恥ずかしくないと思います。 それとも、「俗人」だから、その「人目を気にすることの恥ずかしさ」もあたりまえだと?(言いそうですね) 論旨としてはあたりまえ、しょうがない。そればっかりに見受けられます。ホントに葛藤してますかあ? 客観的に自分の煩悩を認めるのは結構。でもそれはあくまで葛藤が強い場合の策であって葛藤が見受けられないのに、「煩悩を認める」だけではあんまりです。 第三者が客観的にみると「開き直り」以上のものには見えないんですよ。 失礼ですが、読んでてこちらが恥ずかしくなりました。 まるで「お母さん、ぼくをそのまま受け止めて〜」という思春期の子供のようです。 世間はあくまで他人の集合体であって、お母さんではありません。 坊主を普通の人だと考えるなら、葬儀屋で十分です。 世間一般に言うビジネスとは、そんなに甘いものではありませんよ。
119 :
通りすがり :2000/02/25(金) 08:05
どこかの偉いお坊さんが、悟りを開こうと一生懸命修行したあとに、 「我、悟れぬものと悟りたり」(言葉が不確かですが)とおっしゃったそうですが、 これは、「悟れない自分」に甘んじることになるのでしょうか。 私には、どうもそう思えないのです。 このスレッドを読んで、同じく私には南無さんが「ただの俗人」であることに、 甘んじていらっしゃるようには見受けられないのです。 これだけお坊さんや南無さんに反感を持つ人がいるということは、 結局のところ、お坊さんが煩悩と葛藤しているところや、修行しているところを、 おおっぴらに人に見せないと、認めてもらえないということかもしれませんね。 だからといって、滝にあたって修行したとか、山を走り回ったとか、言ったら言ったで、 「威張ってる」とか「嘘じゃないの?」と言われたり。お坊さんは大変ですね。 インターネットのように表情が見えないところで、こういう話をするのは 難しいですね。私には南無さんが、煩悩と十分すぎるぐらい葛藤していらっしゃるのを、 行間より感じるのですが、そうでない人もいらっしゃってもおかしくないですね。
120 :
南無 :2000/02/25(金) 09:11
>117です。 葬儀ということの意味の確認なしでの議論は難しいと思います。葬儀の 意味については59で申し上げた通りです。 俗人と違う何を「坊主」に求めていらっしゃるのでしょうか。また逆に これまで貴方の求めていらっしゃる「何か」持った坊主」が本当に死者 を「あの世まで幸せに」送ってくれましたか? 葬儀は仏事としての宗教儀式です。仏説の御経は根本聖典です。また寺は 宗教施設です。それらがビジネスになれば宗教であることの意味が失われ てしまいます。坊主をビジネス(職業)として認識し直すべきでないかと 申し上げております。
121 :
南無 :2000/02/25(金) 09:48
120続きです。 貴方が行われる仏事に坊主を使わず、となりのおじさんに勤めてもらう ことは選択肢の一つでしょう。貴方が望む仏事の了解と坊主が行う仏事 の了解が別のものなら、共通認識を持つとなりのおじさんの方が貴方の 希望通りであることは間違いありません。貴方は貴方が行おうとする仏事 について、貴方の指名?した坊さんと認識の確認をまずしなければならない でしょう。貴方の望むことをその坊さんがするかしないか、或いは出来るか 出来ないかを。 118でおっしゃる「開き直り」以上のものに見えない。という御指摘。 ありがとうございます。私もそれを狙っています。坊主には開き直りが 必要なんです。 葬儀についてですが、現在、葬儀自体はビジネス化されてしまったと言っても いい状況です。セレモニー化というほうがいいかも知れません。本来、 家族・親族がすべきことを葬儀屋に任せてしまい傍観していることを どうお考えなのでしょう? 皆さん。
122 :
名無しさん :2000/02/25(金) 09:58
俗人でも、それを認識し、修行していこうとしているお坊さんなら、お葬式でお経あげてもらえるのはありがたいです。 どんなに良いひとでも、近所のおじさんが中心となるのはいやです。 死ぬときぐらい浮世の人情から離れておくってもらいたいです。
123 :
南無 :2000/02/25(金) 14:10
>122です。 問題はそのような坊さんに、貴方が、出会っているかということです。 それと袈裟をつけての外出の件ですが。私は仏事の「場」で袈裟をつける という認識です。違う別の「場」で袈裟をつける気はありません。 人目を気にするとか、恥ずかしいからということとは違います。 私の葬儀は以前から申して来たような意味で不透明な所に安住している坊主 より、仏教徒たらんとする近所のおじさんにお願いしたいと願います。
124 :
参考資料(1) :2000/02/26(土) 01:57
1月26日京都において開催された全日仏の理事会で承認された 「戒名(法名)」に関する報告書は、下記の通りである。 報 告 書 現在、「戒名(法名)」に関して、一般社会からさまざまな批判が寄せられている。 本研究会は、平成十年十月の理事会で設置が決まり、これまで五回の会議を開催してこの問題の検討を行って来た。その結果を、ここにご報告する。 本研究会は、主に次の点につき意見交換を行った。 一.各宗派に於ける戒名(法名)の意味、及び宗派間の相違点 二.各宗派に於ける戒名(法名)の種類等、規定や慣行 三.いわゆる「戒名(法名)料」の実態、及びその会計処理の在り方 四.戒名(法名)に関する一般社会からの批判の意味、及びそれへの対応
125 :
参考資料(2) :2000/02/26(土) 02:00
会議の席上、出席者から活発な意見が出された。その主要なものを要約すると、次のようになる。 @戒名(法名)について批判があるのは、主に大都市部である。それは都会に於いて、 寺と檀信徒(門徒)との関係が希薄であることに起因している。 A今日の戒名(法名)批判には、葬儀の商業化という現代社会の経済至上主義が背景にある。 B戒名(法名)は、仏弟子に成る時にいただく名前である。生前に受けるのが望ましいが、 一般の人にはあまり理解されていない。各教団も、説明しようとする意欲が充分ではない。 C一部に「戒名(法名)料」と称して、高額な請求をする僧侶がおり、それが仏教界全体への 不信となっていると言わねばならない。 D戒名(法名)の授与は、多くの宗派で各住職の裁量に任されている。 そのため、地域差、寺院差が大きい。今後は各教団で、一層の研鑽を進めるべきだ。 E布教・伝道を通して、社会の苦悩を解消するための努力を充分に果たしていないことへの 批判が、戒名(法名)問題の根底にある。仏教界全体として反省すべきだ。 F「戒名(法名)料」批判に応えるためには、会計処理を含めた寺院運営の在り方を再考する 必要がある。
126 :
参考資料(3) :2000/02/26(土) 02:04
結論として本研究会は、次の二点を理事会に対しご提案する。 一.今後、「戒名(法名)料」という表現・呼称は用いない。 仏教本来の考え方からすれば、僧侶・寺院が受ける金品は、全てお布施(財施)である。 従って、戒名〈法名)は売買の対象ではないことを表明する。 二.戒名(法名)の本来の意義を広く一般に知らしめるため、主な宗派から資料をご提供いただき 全日本仏教会が以下の内容のリーフレットを作成して、必要な所へ配布する。 @当該宗派に於ける戒名(法名)の教理的な意味、 A戒名(法名)に関する当該宗派の規定〈例えば院号)又は慣行、 B一般信者が生前に戒名(法名)を受ける方法、 C戒名(法名)に関する一般信者等からの相談窓口 以 上
127 :
参考資料(4) :2000/02/26(土) 02:06
平成十一年十一月三十日 戒名(法名)問題に関する研究会 座 長 荒 川 正 憲(真宗大谷派) 石 川 浩 徳(日蓮宗) 井 上 信 一((財)仏教振興財団) 小 室 裕 充(真言宗智山派) 壽 山 良 知(高野山真言宗) 中 村 秀 雄(曹洞宗) 二階堂 行 邦(真宗大谷派) 長谷川 正 浩(弁護士) 平 井 宥 慶(真言宗豊山派) 藤 原 東 演(臨済宗妙心寺派) 松野尾 慈 音(浄土真宗本願寺派) 水 谷 幸 正(浄土宗) 山 田 俊 和(天台宗) 戒名(法名)問題に関する研究会 第1回研究会 平成11年1月21日 午後2時〜 明照会館「会議室」 第2回研究会 平成11年3月29日 午後2時〜 明照会館「会議室」 第3回研究会 平成11年6月10日 午後2時〜 明照会館「会議室」 第4回研究会 平成11年9月14日 午後2時〜 明照会館「会議室」 第5回研究会 平成11年11月30日 午後2時〜 明照会館「会議室」
128 :
参考資料(5) :2000/02/26(土) 02:07
委 員 名 簿 〈順不同・敬称略〉 座長 荒川正憲(真宗大谷派・全日本仏教会前事務総長) 委員 石川浩徳(日蓮宗現代宗教研究所長) 〃 井上信一(仏教振興財団理事長) 〃 小室裕充(真言宗智山派教化センター専門員) 〃 壽山良知(高野山真言宗東京別院主監〉 〃 中村秀雄(曹洞宗教学部学事課長) 〃 二階堂行邦(真宗大谷派・専福寺住職) 〃 長谷川正浩(全日本仏教会顧問弁護士) 〃 平井宥慶(真言宗豊山派教化センター宗学研究所研究員) 〃 藤原東演(臨済宗妙心寺派教学部長) 〃 松野尾慈音(浄土真宗本願寺派基幹運動本部員) 〃 水谷幸正(浄土宗総合研究所所長・現宗務総長) 〃 山田俊和(天台宗前総務部長)
129 :
南無 :2000/02/26(土) 02:26
>↑ 沢山の資料をありがとうございます。 合わせて貴方のご意見も合わせて頂戴出来ればと思います。
130 :
117@`118です :2000/02/26(土) 03:12
すみませんが、小生には南無さんの仰ることがさっぱりわかりません。 南無さんは116でこう仰られていますよ。↓ >>袈裟を着て飲みにはいけません。パチンコも行けません。ファミレスも >>行けません。仕事帰りにちょっと遊んでゆくというのが、で・き・な・い!! >>これは辛い。非常に辛い。一旦帰って着替えて出直すというのは >> 妻「何処行くの?」 >> 私「・・・・・・」 >>となってしまい泣きたい毎日です。それと出張がないのも同様。出張したーい。 ところが、私のレス、 >パチンコ行きたい、ファミレス行きたい、出張行きたい、結構です。 >ですが袈裟を着て行ってください。お坊さんが自分を「俗人」として見ているな >ら、そうすべきです。「人の目を気にして袈裟を着て行けない」であって、 >「自分に恥ずかしくない」ならば、正々堂々と袈裟を着て行ってください。 に対するお答えが以下の通りです。 >>それと袈裟をつけての外出の件ですが。私は仏事の「場」で袈裟をつける >>という認識です。違う別の「場」で袈裟をつける気はありません。 >>人目を気にするとか、恥ずかしいからということとは違います。 違う別の「場」で袈裟をつける気はないのに、なぜ「非常に辛い」のでしょうか?? なぜ、「泣きたい毎日」なのでしょうか???さっぱりわかりません。 私の日本語、ちゃんと通じてますかあ? >私もそれを狙っています。坊主には開き直りが >必要なんです。 なぜ「坊主には開き直りが必要」でしょう? 開き直ってるのは一般人に限らないと思うのですが…。 これ以上の開き直りを狙うっていったい…? ああ…
131 :
続きです :2000/02/26(土) 04:09
>葬儀についてですが、現在、葬儀自体はビジネス化されてしまったと言っても >いい状況です。セレモニー化というほうがいいかも知れません。本来、 通じていないようなので、分かりやすく書きます。 今はまだ完全にビジネス化されていません。なぜなら お坊さんに対する「望み」(誤解?)を一般人は抱いているので。 南無さんのいう「幻想のベール」が完全にはがされた時、 アルバイトのお坊さんが南無さんの代わりをします。 そのアルバイトのお坊さんの雇い賃は葬儀屋から出ます。 お墓も寺運営のものは無くなります。 寺にはほとんどお金は入りません。 この状態で寺がつぶれませんか?とお聞きしているのです。 ベールが寺を守っている認識がなく、それで食っていけると思うのは、 やはり子供の考えることにしか思えないです。 世間を知らない方に見受けられます。実際そうなのかもしれませんが。 それとも南無さんは葬儀屋に就職なさいますか? >家族・親族がすべきことを葬儀屋に任せてしまい傍観していることを >どうお考えなのでしょう? 皆さん。 家族は傍観している訳ではありません。多くの家族は悲しみに対処するのに 精一杯です。ただでさえ亡くなられてから通夜、葬式までほんの数日しかなく、 その間に親戚縁者、知人等に知らせを出し、葬儀屋と葬儀の段取りを決め 忙しく準備に追われる家庭が多いのが現実だと思います。 悲しみに暮れる家族を「傍観している」としか見れないとは、しかも お坊さんが。呆れてモノが言えません。 それとも医師と同じく他人の死に鈍感なんでしょうか? 悼みを分からない人間にはなりたくないものです。
132 :
新説 :2000/02/26(土) 12:50
寺はメンバーズクラブ! どんなにお金持ちになったって歴史は買えない。 家の歴史の保管所だと思えば、維持費を払うのは当たり前! さらに寺にもランキングがあるので、身の丈に合ったところに入るのも 当たり前!維持費が払えなくなったら出ていくのが当然。 そうじゃないと他のメンバーにしわよせが来て大迷惑!! 坊主にしたって、貧乏臭い馬鹿の坊主から学ぶものは何も無い。 坊主はどこまでも贅沢させて、贅沢分野のみでもエキスパートに仕立て上げる のがメンバーの勤め。 文句あるなら骨は海に蒔け。それで家の歴史もろとも消滅にてクリア に解決。 文句ある?
133 :
新説 :2000/02/26(土) 12:55
坊主は、煩悩だのなんだの、やりたいくせに我慢するなんて姑息なこと をするのはやめなさい! 全部やり飽きた!とまで言ってくれないことには有り難味がない。 ステーキを食ったことがない人からうまい店の話なんか聞けるか! 結婚したことの無い人に縁談なんか頼めるか! やったこともないくせに、煩悩を捨てうんぬんなんてきれいごとなんか 言うな! 坊主はぴあ並の情報源として存在するのが現代流。 あきらめが悪い坊主が多くて困るぜーー
134 :
新説 :2000/02/26(土) 13:29
>131 そうそう! 家族は、悲しみにくれる暇なく儀式の段取りに追われてる! この、悲しみにくれる暇なく儀式に追われるシステムこそが 仏教有り難味! 特に予定に追われるわけでもなく、葬儀が終わってすることなくなったら 悲しくて悲しくてやりきれないものがある。 その後、時とともに悲しみが薄れた頃に、儀式の間隔が空くように できているので、故人はいつまでもいい人でいられる。 戒名にしたって、お金持ちはいいものを、貧乏人はそれなりに。 こんなことはあ・た・り・ま・え! ミソクソ一緒にされてたまるかよ! 文句あるなら骨は海に撒け!(さっきのは変換ミスね)
135 :
新説 :2000/02/26(土) 13:36
ちなみに、髪の毛を伸ばしてる坊主はニセモノね。 お布施は流通相場の半額でいいでしょう。 実働時間が短いからね。
136 :
名無しさん :2000/02/26(土) 18:52
既存仏教のお坊さんが教えの実践に対してあまり熱心ではないことが 熱心に修行している(またはしているように見える)カルトに魅力を 感じ入信する人を増やしている原因のひとつだと思う。 既存の宗教ももともとはカルトだと思うけど。
137 :
新説 :2000/02/26(土) 20:52
>136 あんたねー なにボケたこと言ってんの? 仏教だって元を正せばインドの王子様が贅沢三昧、酒飲み放題、 女抱き放題やって、すべてをやり飽きた挙句、他にすることなくなった から、精神修行を始めたの! このステップを踏まずして、表面なでただけのものの辻褄なんか 合うわけないでしょーが? 究極を極めない人の言葉に有り難味なんかあるか??? 王子様がやったからこそ有りがたいわけじゃん? 庶民がやってるものなんか魅力的でもなんでもないでしょーが?? その後、庶民が見よう見真似で始めたものの、元々中途半端なところ から始めてるもんだから、辻褄合わなくなって、自分の都合のいい ように教義をいじくりまわしたものが今の仏教なわけ。 すべてをやり飽きる前に悟りなんか開けるわけないじゃん? やり飽きていない人がやってる修行なんか、実のところデタラメ! 煩悩は捨てるものではなくて、飽きていらなくなるものなの!
138 :
新説 :2000/02/26(土) 20:58
追加ね >煩悩は捨てるものではなくて、飽きていらなくなるものなの! 毎日毎日、肉食ってみぃ?(メロンでもいいけど)嫌になるでしょ? 同じく、女抱いてみぃ?嫌になるでしょ? 酒飲みまくったって、フェラーリ買いまくったっていつかは飽きるでしょ? 何事も飽きるまでやって初めて修行と言う! 飽きない人は庶民。早々に飽きて次のことを始めるのが聖人。 最終的には石の上に3年くらい座って見たくなるもんよ それで見えたものが真実。 そこまで極めていない坊主はお経歌手程度に思ってりゃ間違い無い。
139 :
新説 :2000/02/26(土) 21:16
誰だって、贅沢したいわけよ。 不自由無く暮らしたいわけ。当たり前じゃん。 成功している人の周りには人が集まるでしょ? 理由は、恩恵に預かりたいからに決まってるでしょ。 恩恵というのは、お金であり知識であり経験であり人脈であり。 強いものからは必ず得るものがある。 それが昔は坊主だったってこと。 それがいつの頃からか卑屈になって綺麗事ばっかり言って、情けないねー ポルシェやフェラーリは裏門ではなくて正門に堂々と飾れ! もらった布施にふさわしい生活をしろ! 貧乏な坊主に一言。 金の集め方、遣い方を学んで出直して欲しいね。 貧乏人なら街に溢れてるよ。もう見飽きたね。 金持ちの坊主に一言。 早いとこ隠居して、金集め指南書の1冊も書いてください。 それでこそこっちも元取れるってもんです。
140 :
136 :2000/02/26(土) 21:35
>137 私が書いたことと、どう関係があるのですか?
141 :
>新説 :2000/02/26(土) 22:03
>文句あるなら骨は海に蒔け。それで家の歴史もろとも消滅にてクリア >に解決。 >文句ある? あなた、何人ですか〜? なんで、坊主に文句があると骨を海に撒かなきゃいけないんですか。 自分の敷地とか業者が所有の墓に埋めるに決まってんでしょ。 そんで、なんで家の歴史が消滅するの〜? たとえ海に撒こうとも子孫が家系図持ってりゃ問題ないでしょ。 日本語、通じてます?
142 :
>新説 :2000/02/26(土) 22:13
あんたも坊主? 馬鹿な坊主が多くて困る。
143 :
南無 :2000/02/26(土) 22:34
何か荒れてきたような感じですが、まぁそれはさておき。 >130です。 「場」が違うから着替えのために帰宅。帰宅すると遊びに行く際の 妻との確執。たったこれだけのこと、わかりません? 「開き直り」の中身については88で申したのでパス。 >131です。 そのシュミレーション通りなら、寺など潰れる方が結構。必要の無いもの が消滅するのは必然です。「寺をまもるベール」ではなく「坊主をまもる ベール」と感じています。このスレッドでずっとそのベールを剥ぐことを主張 しているのですが。 続く。
144 :
南無 :2000/02/26(土) 23:18
>131・134です。 まぁ気長に読んで下さい。 私のオヤジは5年前に死にました。膀胱ガンの摘出手術を受け2年後に肝臓と肺に再発。 抗ガン剤の治療後、医師からはあと半年の寿命だと言われた時点で寝たきりになって いました。退院したいというオヤジの希望通り最後の一年は自宅におりました。 後に寝たきりになったオフクロと同じ部屋にベッドを二つ並べて寝ているという状況 で、横で寝ているオフクロも気ずかない内に臨終を迎えたのです。 死んだあと、通夜・葬儀までに何をするかご存知でしょう。葬儀屋さんが来て「湯灌」 が始まります。寝たきりだった為、オヤジの入浴は週に1.2回のデイ・サービスだけで 十分ではなかったろうと思います。お湯とタオルで身体を拭いてやるのですが、その時 に葬儀屋さんが「自分でされますか?」と聞くんです。ちょっと違和感を感じたのですが 自分でオヤジの身体を拭いてやりました。身体はもう骨と皮だけになっていました。 腕も足もこれほど細くなるのが不思議な程、痩せていました。角質化したカカトなどは ひび割れた岩になってました。その後白い着物に着替えさせてやるのですが、私と葬儀屋 さんの二人でやったことを覚えています。傍にいた兄は最後まで見ているだけでした。 その後、「納棺」を終わり一息ついた時に「湯灌」のことを葬儀屋さんに確認したのです。 「湯灌」は家族がするものだろうと。しかし、葬儀屋さんの答えは違っていました。 「最近は家族が湯灌をすることはほとんどありません。全部私達がします。家族に何もさせない ほど、いい葬儀屋だと言われます」私はこの言葉に驚き、以後、家族が湯灌をするのかしないのか 注意するようになったのですが、現実はやはり葬儀屋さんの言う通りになっています。 続く。
145 :
南無 :2000/02/26(土) 23:39
続き。 葬儀屋が商売として成り立つということは、元々、家族や近所の人々がしていたことを 手放してしまったことに起因するのでしょう。「悲しみに暮れる家族・131」綺麗な言葉です。 肉親を亡くして悲しまないものなどいません。悲しみのどん底でしなければならない事が あるんでしょう。代行の出来ないもの、代行させてはならないものがあるんでしょう。 肉親の死に触れ、感じ、受け取ることを、家族は悲しみのどん底でしなければならんのでしょう。 それさえ放棄して人まかせにしている今の葬儀を「ビジネス化」されていると申し上げています。 「傍観」という言葉を訂正する気はありません。今、家族は傍観者になっています。
146 :
南無 :2000/02/26(土) 23:48
>新説さん。 賛同はしませんが、まぁ、面白く読ませて頂きました。
147 :
新説 :2000/02/27(日) 00:37
>136 >既存仏教のお坊さんが教えの実践に対してあまり熱心ではないことが >熱心に修行している(またはしているように見える)カルトに魅力を >感じ入信する人を増やしている原因のひとつだと思う。 教えを実践するためには土壌を同じにしないことには仕方ないでしょう? 土壌が揃わないうちから何の修行をしようっての?てこと >141 >なんで、坊主に文句があると骨を海に撒かなきゃいけないんですか。 >自分の敷地とか業者が所有の墓に埋めるに決まってんでしょ。 ごめんごめん。撒くのは山か公園だったんだね。 こっちは、骨は寺の墓に埋めるもんだと思ってたからさ 悪かったよ。身の丈に合ってるのが一番だからね >たとえ海に撒こうとも子孫が家系図持ってりゃ問題ないでしょ。 そうね。 証人のいない家系図ってのもタンスのこやしくらいにはなるかもね。 大切にしてちょーだい
148 :
新説 :2000/02/27(日) 00:57
>南無さん 核家族化が進んで、親の老後の世話すら人任せにする時代にそういう きれい事はそもそも心に響きませんよ。<葬儀 まさに、やりたい人はやればー?の世界です。 遺体はただの物体です。 外注可能な部分は他人に任せ、遺族以外に代行できないことをするのが 遺族の役割です。 物体に未来は無くとも、遺族には未来と人間関係と現実が附属してきます。 遺体にすがって泣いてる暇があったら、さっさと葬儀参列者名簿を作れ、 後席のメニューと席順考えろ!ですね。
149 :
新説 :2000/02/27(日) 01:03
>141 追加、 根本的にわかってないようだから教えてあげるよ。 戒名は経済状態の指標なのよ。松竹梅ってあるの。 松は松なり、梅は梅なりの戒名しかついていないし、それが値打ち。 家系にハク付けしようと思ったら、いい寺でいい戒名もらうしかない んだって。 こういうハク付けがいらない人は、骨撒くのは海でも山でも公園でも いいの。 関係ない人もいるからね。 こだわる人は極一部の名家だけ。庶民にはどうでもいいハ・ナ・シ
150 :
南無 :2000/02/27(日) 01:38
>新説さん。 あなた坊主でしょ! 坊主やってて現状逆手に取ってる。 もしそうなら坊主ってこと認めたほうがいいのでは?
151 :
新説 :2000/02/27(日) 01:57
>南無さん 理想を語る前にもっと人を見る(読む)修行をなさった方がいいですよ。 中途半端な状態で「坊主」を名乗ることは恥ずかしいことです。 「お経歌手」に改めることをお薦めします。 葬儀屋に不満をお持ちのようですが、お経歌手よりは葬儀屋の方が 存在意義は高いでしょう。
152 :
新説 :2000/02/27(日) 02:20
現代風にわかりやすくまとめてあげましょう ・寺はプライベートメンバーズクラブ ・坊主はメンバーのコンシェルジュ ・戒名はメンバーのランキング 松はプラチナ、竹はゴールド、梅はシルバー ・ロクな情報も提供できないくせに綺麗事をぬかす坊主は「お経歌手」。 坊主は各分野にて、一般人に秀でる体験によるアドバイスができねば ならない。ただし原則として有料。 究極を極めないうちは「お経歌手」と名乗るのが正解。 しっかり修行してくださいよ!
153 :
南無 :2000/02/27(日) 02:52
>151 当たってます。 >152 同意いたしかねます。
154 :
>新説 :2000/02/27(日) 06:25
>こだわる人は極一部の名家だけ。庶民にはどうでもいいハ・ナ・シ 名家でも、金持ちでも、海に撒く奴はいるだろう。馬鹿? そんなに金に拘る卑屈な坊主ってのも見苦しいなあ。 要するに金しか信用できない寂しい奴だから、そーゆーことが見えなく なるんでしょう。で、肝心の自分にも金がないから欲しがる。 友達もいないんじゃないの?
155 :
名無しさん :2000/02/27(日) 06:27
なんか南無さんがすごく立派なお坊さんに見える…。
156 :
>新説 :2000/02/27(日) 06:33
>証人のいない家系図ってのもタンスのこやしくらいにはなるかもね。 これから国民の情報を全てデータベース化しようって時代に何いってるんだか こいつは… 大体、寺に墓があるからって証人がいることになるのかね。 証人の定義を述べてみなさい。
157 :
新説 :2000/02/27(日) 13:37
>154 あんた坊主に金払ったことあるわけ? 払ったことがあるとして(多分ないんだろうけど)、何の対価として 払ったっての? 払った金の見かえりとして何を得た? >156 だから、庶民には関係のないハ・ナ・シだって言ってるでしょーが。 データベースで満足してりゃいいの。あんたは。
158 :
新説 :2000/02/27(日) 13:42
追加ね >154 得るものが何もなかったのであれば、同額を施設にでも寄付した方が 何倍も感謝されるぞ。その方がコストパフォーマンスとして高い。
159 :
新説 :2000/02/27(日) 13:59
坊主の有効利用をおしえてあげようか? にっぽん昔話の時代から、和尚さんは小坊主に隠れてまんじゅうを 食べることになっている。 そこで、まんじゅうをうらやましがってるんじゃ意味がない。 和尚さんは人体実験中。 庶民に先駆けてうまいものをセレクトしていくに決まってるんだから 最終的に一番うまいものしか食わない。 じゃ、さんざん食わせて選ばせた挙句、セレクトされたものを最初 から食った方が得。 わざわざ自分の体張って、無駄金&手間暇時間かけて1級品を探すより 話が早い。 最終的にそれを選んだ過程についての話が値打ち。それを選ぶに至った 体験談が聞けないのであれば特に意味無し。 これはまんじゅうに限った話じゃないぞ。
160 :
新説 :2000/02/27(日) 14:03
南無さんに聞くのであれば、パチンコ台のくぎを読む方法とか、 金額でいくら、時間でどのくらいかけたら飽きるのか、とか、 はたまた現在の勝算はどのくらいか?とか。 パチンコの醍醐味は何か?とか、そういうことを聞くのが正解だと思う けどね。 もしくは、パチンコ屋に出入りして、パチプロの一人とでも仲良くなって 庶民へのアドバイザーとして確保しているのか。とかね。 そこで、最終的にあなたは何を見、何を悟ったのか?ってかんじ。
161 :
新説 :2000/02/27(日) 14:27
とどのつまり、セレクトにセレクトを重ねて、寿命をまっとうする直前の 坊主が選んで残したものが、その坊主(寺)の値打ちってこと。 いいものが残ってるほどメンバーシップの価値も上がるしね。 いいもの残して欲しいよね。永続性が寺の売りなんだからさ。 高けりゃいいってもんでもないが、チープなものしか残ってないんだと したらなぜわざわざそんなチープなものを選んだのかを聞きたくなるね。 「それしか買えなかった」ってのは情けないねーーー 結局、何一つ究極を極めなかったことか・・って思っちゃうね。
162 :
新説 :2000/02/27(日) 15:03
>南無さん お布施の相場について教えてください。 ・葬儀のお布施について(松竹梅ごと) ・法要のお布施について(松竹梅ごと) ・その他の寄付について(松竹梅ごと) 頻度と内容も併せてお教えくださると助かりますね。 ・更に別途、寺院管理料等について 以上、南無さんの所属しているお寺のもので結構です。 参考までに本山の相場も教えていただければ幸いです。 南無さんは宗派を代表しているわけでもなく、単なる個人的なアウトロー としてここでご活躍のようですので、お答えいただけるものと信じて おります。
163 :
新説 :2000/02/27(日) 15:07
追加、 本山って、大本山とか総本山とか別格本山とかいろいろあるらしいので、 個別にお願いできれば幸いです。
164 :
名無しさん :2000/02/27(日) 22:45
>やったこともないくせに、煩悩を捨てうんぬんなんてきれいごとなんか >言うな! この論理でいくと、「人殺しも盗みも戦争もすべて経験した上で否定しろ」 となってしまうと思います。 なにもわざわざ経験しなくても、想像や歴史から学ぶことは容易にでき ると思います。
165 :
新説 :2000/02/27(日) 23:00
>この論理でいくと、「人殺しも盗みも戦争もすべて経験した上で否定しろ」 >となってしまうと思います。 やりたかったら、やればいいと思うけどね。 問題は、やり終えた後で、心が晴れ晴れとするかどうかってことじゃ ない? 晴れ晴れとした気分になり、かつ、それについての社会的責任を まっとうし、それに価値を見出せるならやったらいいと思うけどね。 問い、 良心とは元々人間に備わっているものか、後天的に学習したものか? さあ、どっち?
166 :
名無しさん :2000/02/27(日) 23:21
後
167 :
名無しさん :2000/02/27(日) 23:34
166を補います。 「後」というのは「後天的に学習したもの」ということです。 問い、 新説さんはなぜそんなに偉そうなんですか?
168 :
>新説 :2000/02/27(日) 23:39
人の質問に最後まで答えなさい。 もう一度言う。 証人の定義を述べてみなさい。
169 :
新説 :2000/02/28(月) 00:00
>167 あなたには偉そうに見えるだけのこと。 偉そうかどうかは相対的基準だしね。 普通に見える人もいれば、馬鹿に見える人もいるんじゃない? どう見えたからといっても、本体そのものに変化無し。 >「>新説」 辞書くらい自分で引けよなー ちなみに、あんたの辞書には何って書いてあるわけ?
170 :
新説 :2000/02/28(月) 00:14
>「>新説」 あんたって、骨を山とか公園に撒く人だっけ? 自分で作った家系図があれば、家の歴史は消滅しないって言った人 だよね? そういうやつらばっかだから、先祖は大名だのなんだのばっかになるん だよ。勝手に作ればいいんだからさ。いくらでも捏造できるの。 先祖代々どっかの寺に所属してれば、過去帳ってのを作ってもらえるの! んで、まあ、そのくらいしかもはや寺には値打ちなんかないわけ。 過去帳だって、自分で作れるよ。書けばいいだけだから。 でも、どこの寺のどの住職が責任をもって監修したかの認めがないこと には、そんなもん何の値打ちもないの! もし、過去帳があるんなら、一番ケツ見てみぃ? 書いてないんなら、それはただのメモ帳。 まとめてやろうか? ・寺のサインのない過去帳はただのメモ帳。 ・戒名は祖先の経済力の指標。いい戒名のオンパレードなら名家。 ・過去帳本体は公開はしないみたいだけど、自分ちの分を抜書きして くれといえば監修ののち作ってくれるはず。 ・自分ちが名家だってひけらかしたいんなら、いい戒名買って、過去帳 作ってもらって、コピーして新聞広告に折り込めばヨシ。 希望しない人は寺と関わる値打ちなし。
171 :
新説 :2000/02/28(月) 00:24
結局、もはや、名家以外は寺に固執する必要なんかないわけ。 昔は、骨は寺に持ってくしかなかったかもしれないけど、今は海でも 宇宙でもどこでも好きなとこに撒けるからね。 戒名だって、わざわざもらうほどのもんでもないでしょ?
172 :
名無しさん :2000/02/28(月) 00:26
>新説 あんたの書いたもの読むとゲンナリするわ。 最低ーって感じ
173 :
>新説 :2000/02/28(月) 00:30
おやおや。誰が「骨を山とか公園に撒く」と言った? 日本語も分からんのかこの坊主は。 >先祖代々どっかの寺に所属してれば、過去帳ってのを作ってもらえるの! >んで、まあ、そのくらいしかもはや寺には値打ちなんかないわけ。 だあーかあーらあー 政府が個人情報を保管するこの時代にそんなものは必要ないだろうと言っている。 そのくらいしか寺に値打ちがないんだったらもう終わってるだろう。 おまえ、何人だ?? >希望しない人は寺と関わる値打ちなし。 反対だろ?新説のような坊主がいる寺には値打ちがないんだよ。 自分の言ってることが見事に矛盾していることにも気付かんのか。 知能あるのか??
174 :
新説 :2000/02/28(月) 02:03
>172 げんなりしてる暇あったら、寺の存在意義について考えてみたら? 俺の説以外にしっくり来るものなんかないだろーが? あるんなら教えてよ。寺に何を期待しろってのよ??? >173 >政府が個人情報を保管するこの時代にそんなものは必要ないだろうと言っている。 >そのくらいしか寺に値打ちがないんだったらもう終わってるだろう。 だから、庶民には関係のないハ・ナ・シだってくどいくらいに言ってる だろ?あんたには関係ないの。 寺に固執するのは名家だけ! >知能あるのか?? 相手に無い場合は、こっちにあっても無きものとされる。 これも相対的なものだからね。
175 :
新説 :2000/02/28(月) 02:08
そんなことより、布施相場の話はどうなったよ? キミらに迫ってる現実はそっちなのよ? 明日生きてる保証ってないだろ? 自分を含む親族が死んで慌てるんじゃ全然遅いんだって。 梅にあまんじるくらいなら、宇宙に撒いた方がロマンチック、かつ 話のタネになる分、コストパフォーマンスは高いと思うけどね。 意味無くランニングコスト払うのも馬鹿馬鹿しいんじゃないの?
176 :
新説 :2000/02/28(月) 02:25
自分が葬式出す立場になってみぃ? 葬儀屋にいくらかかるか知ってんの? ざっと見積もって、寺に90センチの祭壇が組んであったら100万くらい だと思ってりゃ慌てることはないね。あとは、その幅を単純に倍にして いけばいい。それに、布施が別途要るわけよ?慌てると思うけどねーー だから、せっかく現職の坊主が名乗りを挙げてるんだから、布施相場の 相場でも教えてもらったら? 払いすぎるともったいないし、足りないと恥ずかしいからね。
177 :
新説 :2000/02/28(月) 02:30
>だから、せっかく現職の坊主が名乗りを挙げてるんだから、布施相場の >相場でも教えてもらったら? 訂正↓ >だから、せっかく現職の坊主が名乗りを挙げてるんだから、布施相場 >でも教えてもらったら?
178 :
>新説 :2000/02/28(月) 02:31
やれやれ。 名家だけに寄生して、日本中の寺が全部食ってけるかって聞いてんだよ。 需要が減ったら供給も減る。戒名だって安く手に入る。 大体、多数が寺を馬鹿にし始めたら名家だって考えを改めるだろう。 馬鹿にされて安くなった戒名を持ってて自慢できるのか? 脳みそに皺あるのか?
179 :
>新説 :2000/02/28(月) 02:39
こんだけ説明しても分からない奴って珍しいよな。 所詮は寄生虫。 脳みそが少なくても責められないか。
180 :
何だか荒れてますけど :2000/02/28(月) 09:13
お布施相場と戒名相場は伺いたいです。
181 :
alydar :2000/02/28(月) 15:11
お葬式…約40分 30000円 法名・戒名料なし(お位牌は書かない) 法事(初七日・49日・年回等)…勤行約40分・法話約30分…20000円 七日七日お参り…勤行約20分・法話約20分…2000円 月参り…勤行約20分…1000円 年間維持費…3000円 その他の寄付金(10年に一回くらいしかないけど)…こちらからの要求額なし (総代さん達が勝手にきめてる) 友達のお寺の子に聞いてきました 間違いないみたいです これでよーございますか??
182 :
新説 :2000/02/28(月) 15:14
>「>新説」 >名家だけに寄生して、日本中の寺が全部食ってけるかって聞いてんだよ。 食っていけるわけないに決まってるじゃん! 将来的には二極化が進むんだよ!名門相手の高級寺と、貧民相手の 公民館寺ね。中間層はオールアウト!淘汰されんのよ! あんたの寺もなくなっちゃうかもね(ぶあははははは) >大体、多数が寺を馬鹿にし始めたら名家だって考えを改めるだろう。 あんた全然わかってないわ!寺にはランキングがあるんだよ! 全部が一緒じゃないの! 馬鹿にされる寺ってのは、中間層なわけ。すべてにおいて中途半端な ものが生き残れるわけなんかないの!ニーズがそもそも無いの! どの時代にも最高級のものと最低のものは生き残るんだよ! 早々に二極のどちらかに行くかの方向性を立てた寺だけが生き残るわけ。 墓持ってる寺の中で、今の時代に布施を吊り上げて行くとこは生き残る 。値下げするとこは淘汰されんの。倒産前の悪あがきってやつ!! 人口が減って、布施も値下げして、どうやって維持するわけよ? 倒産するんだよ! 中間層はデータベースでいいの!
183 :
新説 :2000/02/28(月) 15:14
>馬鹿にされて安くなった戒名を持ってて自慢できるのか? 自慢できるわけないでしょ?だから、値下げする寺は将来的には無く なるよ。 嘘だと思うんなら、寺院経営コンサルタントにでも聞いてみな。 聞くまでもなく、弱肉強食の原理だけどね。 あんたの寺が倒産するかどうかの目安でも教えてやろうか? ・歴史的に価値のある唯一無二の何かを所有しているか否か (住職の学習の成果ともいえる) ・定期的に修繕し、その出費を考慮した経営をしているか否か (寄付の頻度の多い寺は往々にしてこれを考慮していない) ・布施に対して領収書を出すかどうか (会計のしっかりしている寺は出す) ・布施相場を聞いたときに明確な答えが出るか否か。また、希望価格と 実際納入額が違う場合の対応はどうなっているのか。 (きちんとした対応が出来ていないのであれば、納めない人のツケは その他の人に上乗せされることになるためアンフェア) ・寺院管理費に相当する布施を滞納したときに催促が来るかどうか。 (催促がないのであれば、納めない人の勝ち) ・寄付は定期的に来るものか、予告なくいきなり来るものかどうか。 (きちんと経営していれば、原則として寄付は必要ないはず) 行き当たりばったりの経営してる寺が倒産しない理由はないだろ? 倒産する寺に無駄金遣うのはもったいないと思うから教えてやってんの!
184 :
新説 :2000/02/28(月) 15:19
>181 わざわざありがとう。 ざっと見た限り、この相場じゃ、現在兼業、将来的には倒産の危険性が 高いね。修行してる暇なんかないでしょ。これじゃ。 「お経歌手」の講演料としては妥当かもね。
185 :
alydar :2000/02/28(月) 16:49
>新説さん そこ兼業してないんですけど… あれだけのデータでそんなこと言い切っちゃったうからこんな無理 が出るんじゃないですか それとちなみに彼はこの値段でも何か高い気がするなぁと言ってました よ もうちょっとちゃんとコメントしてちょうだい というか、寺が倒産してもいいんじゃないの?? 何でそんなにむきになってるのかよくわかんない??
186 :
>185 :2000/02/28(月) 17:09
新説はねー、坊主やってて自分とこの寺が潰れかどうか必死なんだよ。 見苦しいなぁ。
187 :
こんらん :2000/02/28(月) 17:26
久しぶりに来ました。 葬儀、法事、月忌など以外の寺の活動もあるのでは? 婦人会、壮年会、日曜学校、キャンプ、青年会、、、、。 法要、法話会、ボーイスカウト、、、、。 研修会、親子の集い、平和のつどい、、、。 あなたの寺ではどんなことしてますか?
188 :
南本願寺 :2000/02/28(月) 17:31
私は、袈裟衣のまま、カラオケボックスに行った事があります。 法事のお斎のあと、門徒さんに連れて行ってもらった。 他のお客さんが振り返って見ていた。 「お経と一緒で上手いですね」と言われた。五年前の事です。
189 :
alydar :2000/02/28(月) 17:32
>186 レスありがとうございました じゃああんまり関わらないほうがいいんですね では南無さんがまた出ていらしゃったら書き込むことにしまーーす
190 :
名無しさん :2000/02/28(月) 17:49
でも新説さんの言ってることにも一理あると思う(すべてじゃないけど)。
191 :
新説 :2000/02/28(月) 18:35
>185 だって、お葬式40分で3万円でしょ? 法名・戒名料はもらわないってことだよね? 80分コースにしたって一回6万円じゃん? 月に10人亡くなったって60万よ?寺の修繕費なんか出ないでしょ? ついでに、月に10人も亡くなったら一人じゃ手間が間に合わないと思う けどね。 この計算でも3日に一度葬式やってることになるし、その合間をぬって 法要してるわけでしょ?すごいね。 でも、その頻度でフル回転してるってことなら、もう既に公民館寺の道 をたどってるってことだから、生き残れると思うよ。多分。
192 :
新説 :2000/02/28(月) 18:42
>alydarさん ああ、ごめんね。名前書いてあったのに番号で答えちゃったよ。 >というか、寺が倒産してもいいんじゃないの?? >何でそんなにむきになってるのかよくわかんない?? 俺は、どの寺が残ろうが倒産しようが全然関係無いよ。 ただ、南無さんがきれい事を言ってる気がしたから、現実の話をして みただけ。 騙されてるとは言わないけどね、現実は現実として直視して、見の振り 方を考えた方が、坊主にもメンバーにも得だと思っただけの話。
193 :
180です :2000/02/28(月) 22:16
alydarさん おそくなってすみません。これでよーございます。ありがとうございました。 戒名ただですか。。。。。「友人」のおうちのご宗旨と、県だけでもお教えいただきたい、、、、
194 :
>180さん :2000/02/28(月) 23:13
alydarさんの額はデマだと思います。0が一つ足りません。 本当だとすれば、考えられる線は葬儀屋さん、もしくは霊園と結託した出稼ぎ坊主でしょう。
195 :
一門徒 :2000/02/29(火) 00:10
>194 いえいえ、そんなことはありません。 当方は、人口数万の一地方都市ですが、 alydarさんの額は、その通りだとおもいます。 数十年に一度、大修理の寄付がありますが、数年前、当方でもありまして、 役員会で、一軒当たり30万円前後と決まりました。 我が家は子供の進学などありましたので、 15万円と記帳させていただき、3年間の分納させていただきました。 総代さんには、十口300万円という方もおられました。 住職さんは3000万円を個人として寄付されたそうです。 総工費は一億数千万円だと聞いております。 先日、お祝いの法要がありました。
196 :
一門徒 :2000/02/29(火) 00:36
当方は地方都市ですので、 都会の方はもっと多くの額を納めになられるのかもしれません。 しかし、福岡市や広島市の親戚と話したときも、 おなじような額でした。けっして少なくはないと思いますよ。 そういえば、お隣の町のお寺は、大きなお寺なのですが、 戦争の前後らしいのですが、先代のご住職が、本堂の大修理に際して、 額が多かったのでしょう、「これから永代、葬儀に関してはお布施を辞退する」 と約束されたそうで、今でも何もお取りにならないそうです。 それで、都会に出ていかれた門徒の方が亡くなられた時も、 何十年もお付き合いがなくても、呼ばれて、わざわざ上京なさるそうです。 噂では、都会は費用がかかるので、何も納めなくてよいこちらのご住職をお呼びになるのだとか。
197 :
ボノ :2000/02/29(火) 01:18
お布施の相場の出元のボノです 本願寺派の僧侶をしています まさかこんなところにうちのお布施の相場が書かれるとは思ってもい なかったのでalydarをちょっと叱っておきました けど本当の話だからいいですけどね >新説さん 公民館だろうが、なんだろうが別に何でもいいです。 とりあえずうちには「歴史的に価値のある」ものなんてないし、「布 施に対して領収書」も出してないし、「滞納したときに催促」なんて 出してませーーん それで将来つぶれたらつぶれたまでです。 そんなことまでして、寺院を経営したくもないし、そんな企業みたい なことをする必要もないです。というか、もうちょっと別の方法で生 き残りを考えてますのでご心配なく! 修繕費が出せないなら、自分で修繕すればいいし、どうしてもだめな ら門徒の大工さんをやめたような人に頼めば修理なんかどうにかなる ものです。それでもどうしてもダメっぽい時は総代さんたちが直して くれます。 それに葬式は誰が死んでも時間は一定です。お布施が五十万円だろう が、五千円だろうが一緒です。だってお布施なんて終わった後じゃな いと金額なんて確認できないじゃないですか >194 僕は葬儀屋でもなく、霊園と結託したこともないですよぉ まぁ取りあえずお布施なんていくらでもいいでしょう お布施がいやなら別に葬式に坊さん呼ばなくていいじゃない こっちだって困ります(法話とかする時にね) というか、何でこんな話になってんのかな?? あ、レス読めばいいんですね
198 :
一門徒さんへ :2000/02/29(火) 01:28
是非恩恵にあやかりたいので、そのお寺の名前を教えていただけませんか。 何十年かに1回くらいなら、30万くらいは出せそうです。 葬式も、3万円くらいなら、生前に納めさせていただきます。 どちらかといえば、お隣の町の無料のところを教えていただきたいのですが・・。
199 :
一門徒 :2000/02/29(火) 01:57
おやおや、困りましたね。 お寺さんにご迷惑が掛かるかと思いますので、 それは出来かねます。でも、普通のお寺だったら、 そのようなものだとは思いますよ。当方の地方ではそうです。 実際、お金よりも大切なのは日頃のおつきあいではないでしょうか。 毎月、祖母の命日には、わざわざお参りに来ていただいております。 また、ご法座がお寺であるときは、数日前にお掃除に行ったり、 当方の地域が当番の時には出すお食事をつくりに出掛けたりします。 近所の農家のおじいさんは、いつも野菜など、できたものを差し上げて らっしゃるみたいですね。お金だけではないと思います。
200 :
一門徒 :2000/02/29(火) 02:10
お葬式のことを気にされておっしゃってるのかとは思いますが、 当方では隣組のお手伝いがありますので、費用はそんなにかからない、 と聞いております。我が家の不幸は昔の話ですので詳しくはわかりませんが。 それでもお手伝いに出掛けたとき聞いた話でも、テレビなどで聞くほどではありません。 お飾りも、お寺の互助会が持っていて、一万円で貸していただけるそうで、 隣組やお寺の世話役の方が組み立てていただけます。お食事も、近所の方が お寺の台所でつくっていただけますし。 最近では、葬儀屋さんにたのんで、派手なお飾りなさるお家もありますが、 それでも、ご近所のお手伝いは欠かせないと思います。 では、おやすみなさいませ。
201 :
元総代 :2000/02/29(火) 02:12
私の家は、一地方都市にて、代々、檀家総代を務めてまいりましたが、どなたかがおっしゃっていたように、総代というのは他の檀家さんに比べて、 莫大な金額を要求されます。 他の檀家さんに呼びかけて、寄付を募る以上、総代が率先して出さねばならないのです。 しかし、昔は我が家も地主でしたので、そういう羽振りのいいことが出来たかもしれませんが、私の代になってからは、普通のサラリーマンです。 普通のサラリーマンの給料なんて所詮は知れてます。 子供達を都会の大学に入れようと思うと、お寺にばかりお金を使うわけにはいきません。 私も、もう定年を迎え、子供達も今は都会で暮らしています。 将来的には子供達の世話になると思います。自分の子供達にはもう、お寺のことで苦労はさせたくないというのが本音です。 家内が先立ちましたときのお布施は、お坊さんが6人おいでになりましたが、お布施は一人に10万円づつだといわれました。そんなにたくさん来てくださらなくても良かったのに。 元々は名家かもしれませんが、今となってはただの引退したサラリーマンです。昔のようなことを期待しないで欲しいというのが本音です。 私も近い将来、お葬式をしなくてはいけなくなるでしょうが、子供への負担は出来る限り減らしたいと思います。 家の歴史に関しては、お墓はそのまま残しておくつもりですし、家内の分までの過去帳は作ってもらおうと思います。 でも、もうそれでいいと思うことにします。 ボノさんが、「総代さんたちになんとかしてもらいます。」とお気楽なことを言ってらっしゃるのを見て、力が抜けました。そういうことをさせられてきた人達の気持ちはご理解くださっているのでしょうか? 色々なものを我慢して、子供にも我慢させて溜めたお金なのです。私達となんら変わらないのであれば、お坊さんは気楽でいい商売だと思います。今となっては、家の歴史にしがみついてきた自分が愚かに思えて仕方有りません。
202 :
名無しさん :2000/02/29(火) 02:12
生き残るのは一門徒さんやボノさんのようなお寺だと思うなぁ。 金に目をぎらぎらさせた坊主なんて遠慮したいし。 安心しました。
203 :
>201 :2000/02/29(火) 02:16
総代はお金に余裕のある人に任せればいいのでは? 変なプライドで勤めるよかいいと思うけど?
204 :
名無しさん :2000/02/29(火) 03:52
都会と田舎ではお寺に対する認識が違いますね。 大体批判されてる方は都会に住まわれている方ではないでしょうか。 地方では寺と檀家の関係は結びつきが強いだけにうまくいっています。
205 :
名無しさん :2000/02/29(火) 05:04
釈迦が「煩悩」に飽きて修行をはじめたのなら、お坊さんも 坊主になってから「煩悩」に飽きるんじゃなくて、「煩悩」に飽きて 修行をしようと思ってから坊主になるべきだと思う。 いずれにしても坊主になったからには煩悩と無縁であるべきだと思う。
206 :
名無しさん :2000/02/29(火) 05:14
仏教の基本的な教えに五戒というのがあると聞いたことがあるのですが、 真宗は守らなくていいんですか?
207 :
新説 :2000/02/29(火) 14:40
根本的に、みんな坊主に期待しすぎ。 インドの王子様がなぜ、いまだに語り伝えられているかといえば、 他にいないからじゃないの?どんな田舎に行こうとも10個や20個寺が あるわけだし、同じように10人も20人も坊主がいる。 みんなが聖人のわけなんかないでしょーが? 聖人だと思うと腹が立つから、根本的に発想を改めた方が期待ハズレで 不愉快な思いをしなくていいだけマシってこと。 あと、坊主になってから煩悩に飽きるんじゃ確かに遅い。だから、寺の 子は子供のうちから煩悩三昧させて早々に飽きさせるのが正解。 そのための金は惜しむなってことよ。 インドの王子様状態にさせておけばいーんじゃないの? 欲しいという前から与えておけばいいの。 中途半端な煩悩三昧をさせるから、いつまでたっても飽きないの。 だから、坊主はもらった布施に見合う暮らしをしろって言ってるのに。 早くから始めれば早くに飽きるでしょ、聖人ならね。 あと、不思議なのは、自分の寺はいかに安いかを宣伝しておきながら、 来るもの拒むのはどういうことなんだろうね?葬式3万円は確かに安い と思うよ。広く門戸を開く方がフェアだと思うけど?今は3日に一度の 葬式かもしれないけど、葬式して欲しい人はゴマンといるからね。 3万円ならみんなやって欲しいと思ってるはず。ほんとにオプション無し の3万円ならね。毎日やれば月に葬式だけで90万円くらいの収入には なるからね。それなら総代さんとかに頼らなくても経営できるんじゃ ないの?みんなのためだと思うけどね。 総代さんは気の毒の一言ね。きちんと支払わない人の分のしわ寄せを 一気に受けることになるんだから、立派な人だと思うよ。 ロクに感謝されもしないのにさ。
208 :
南本願寺 :2000/02/29(火) 15:48
如来にとって手におえないのは、如来を信じないということ。 贅沢するとか、悪行を尽くすとかそういう事ではないように思いますが。 俗人か、聖人かそんなことは、如来さまに判断してもらえばいいことであって、 人間の価値判断がすべてだと考えるのは、仏さまに対して、おこがましいよ。 それを、「疑い」というのでは? 寺の経済のことがでてきてますが、自分の寺の住職さんに尋ねてみたら? ただし、お布施の額は、言わないと思いますが、そんなことよりも、 寺の活動を重視した方がいいのでは? (真宗の)寺は念仏の道場ですよ。
209 :
坊主が生き残りを掛けて必死の模様 :2000/02/29(火) 16:13
別に坊主なんてイラナイじゃん。 俺は、母親の葬式に坊主呼ばなかったよ。 くだらねぇから。
210 :
名無しさん :2000/02/29(火) 19:30
キリスト教の教会だと、教会でやった場合込み込みで20万くらいでやってもらった。
211 :
新説 :2000/02/29(火) 22:33
>南本願寺さん >人間の価値判断がすべてだと考えるのは、仏さまに対して、おこがましいよ。 これが、なんとなく嘘臭いんだよねー。 自分の手に負えなくなると、架空の何かのせいにするってのが、どうも しっくりこない。 そもそも、普通の日本の教育を受けてきた俺とあなたで何がどう違う ってのかが不明だよね。(ちなみに俺は坊主じゃない) 飯も食えばトイレにも行くだろうし、人間としての機能に差はないでしょ? 社会生活においたって、坊さんも殺人をすればムショに行くでしょ? 税金だって払うし、年金だってもらうわけでしょ? 日本人として社会生活を送っているにもかかわらず、何がどう違うわけ? お経だって、素人でも坊さんよりうまい人はいくらでもいるでしょ? ・・となると、坊主の存在意義って何よ? (ここで、「寺の子は生まれながらに金に困らない運命にある」とでも 言い切ってくれれば、まだマシ。違いなんてそのくらいしかないからね) 俺は、そもそも宗教ってのは、自分の都合のいいように集団の統率を 取るために存在するものだと思うけどね。 その中において、仏教は日本において、ある程度の歴史と文化があり、 禁止事項が少ないのと、儀式のシステムの完成度が高いことを評価 してるだけ。
212 :
南本願寺 :2000/02/29(火) 22:51
なるほど。 しかし私は、信仰のことを言っているのであって、寺、教団というのはまた 少し問題がちがうと思います。 社会的影響力は、力(経済・地位等)によって違ってくるので、 たしかに寺、教団は、力を持つ事が不可欠でしょうが、それが目的 ではないということが、坊さんの共通認識として必要でしょうね。 ちなみに私はそのことをランプとほやの喩えで聞きました。 信仰上のことでいえば、ムショとか、年金とか、税金とか社会生活 が問題になるのではなく、あくまで信心が問題になる。 ということです。 どうぞまたつっこんでください。自分の思想点検しますから。
213 :
本当の葬式 :2000/02/29(火) 22:59
葬式っていったい何かもう一度考えてみよう。 寺っていったい何かもう一度考えてみよう。 信仰っていったい何かもう一度考えてみよう。
214 :
南無 :2000/02/29(火) 23:26
二日の間に何か大変なことになってますね。 先ずは大雑把な感想ですが、 >新説さん。 貴方の一貫した「唯俗諦論」とでも言うべき主張はある種、感心致します。 そんな貴方に「伊蘭子」のネームを送ります。 綺麗事や理想は大事だと思いますね。真俗二諦という問題に坊主は真諦を 放棄した訳ではありませんよ。勘違いしないで下さい。 >209です。 坊主が生き残りをかけている?訳ではありませんよ。いらないものは無くなれば いいんです。坊主でも寺でも。問題は一つ一つの言葉を各人が自分の思いこみで 理解しただけで共通認識がない事ではと思います。そこから確認しないと論議が成立 しません。 これは5年程前に噂として流れたのですが、大谷派の内局で50年後のシュミレーション をしたところ、過疎地・中山間地を中心に3割の寺が廃寺になるという結果が出ている そうです。寺が念仏道場であるとこは解かりますが、現実に寺の維持という事柄は 経済の問題になってしまいます。寺の総代が信仰心とは別の経済力のある名家という基準で選定 されているということも否定できません。 合わせて、今、大谷派の宗議会与党の中で有教師者への追加試験が検討され始めたそうですよ。
215 :
ちょっと立ち寄らせてもらいました :2000/02/29(火) 23:48
>212 >どうぞまたつっこんでください。自分の思想点検しますから。 この言葉。いいですね〜〜! 謙虚で。 kの科学の信者に「爪の垢を煎じて飲ませてやりたい」と 切に願うものものです。 関係ないレスしてすみませんでした。 失礼します。
216 :
こんらん :2000/02/29(火) 23:58
存在意義は、「誰にとっての」というのがあってはじめてあきらかになる。 よって、209さんにとっては、坊主の存在意義がないのでしょう。 せいぜい、「そんなものいらない」という対象としてぐらいか? わたしは、坊さんに出会ってよかったと感じてますが。
217 :
新説 :2000/03/01(水) 00:15
既存仏教ってのはもう、瀕死の状態だと思うけどね。 今や、呪文を唱えただけで救われるなんて思ってる人なんてほとんど いないと思うし、いたとしたって、そいつの人生なんかもう終わってる ね。 結局、自分以外の誰も救ってなんかくれないことは、もうみんなわかっ ちゃってるわけ。救ってくれるとしたら、医者ね。(セラピストを含む) 昔の偉い人より、今の科学者の方がうんと現実味があってありがたいのよ。 ついでに、社会システム上、宗教の自由なんてものが保障されちゃって るから、今や教科書に宗教のことなんてほとんど書いてないわけ。 寺なんて、死んだときの骨捨て場くらいに思ってるよ、今の子はね。 ついでに、捨てるったって大金がかかることも知らないと思うよ。 日銭稼ぎの坊主が綺麗事ほざき続けた結果だね。
218 :
新説 :2000/03/01(水) 00:17
ほんとに理想を追求しようと思ったら、生活のことなんかそもそも考え ちゃいけないと思うけどね。欲しいものは常にある状態で、やりたい事 も、常にできる状態で、その上で何かを求めるものだと思うけどね。 寺が急速に増えた原因ってのは、昔は坊主しか勉強できなかったのよ。 庶民にはそもそも、学習のチャンスが無かったの。寺は学校であり、 坊さんは有力者のご意見番だったわけね。だから、食うに困ることが 無かったのよ。 海外留学できたりしたのも、金と知識と人脈があったからだよ。 その分派が、適当にいい加減なことを言いながら、勢力拡大して、 なんか呪文を唱えれば救われるだのなんだのとデマほざいた結果 寺が乱立したの。
219 :
新説 :2000/03/01(水) 00:19
昔の人は純粋だったよねー。学がないってのは不幸だよねー。 今は、坊主よりマスコミの方がうんといろんなこと知ってる時代だしね。 そもそも、情報のスピードが全然違うからね。 一般人と同じことしか知らない坊主がありがたいわけなかろ? んじゃ、一般人と差つけるためには、何ができるわけ?てことになると もう、「生まれながらに金持ちであり、今後もこれは変化しない」こと しかないんじゃないの? 一般人と一番無縁なのは、金持ち文化だよ。特に今の時代はね。 さらに、一億総中流思想に騙されてる中で、求められるのは差別化なの。 時代はゴージャスを求めてんの。 だから、二極化のどちらかの方向性を立てて、生活のためにお経を詠む なんて、情けないことはやめた方がいいって言ってるのに。 「寺は常にゴージャスであってしかるべきである」に同意できない人は さっさとヨソに行ってもらっていいわけよ。 じゃないと、双方勘違い野郎ばっかになって、結局、「理想と現実は 違う」というサビついた言葉以外の何も生み出さないと思うけどね。 ちなみに、私は貧乏臭いものとアンフェアなものが大嫌い。
220 :
新説 :2000/03/01(水) 00:21
ところで、南無さんの所属してる寺の布施相場は?
221 :
新説 :2000/03/01(水) 00:24
追加、 >南無さん 「シュミレーション」ではなくて「シミュレーション」ね。 ゲームにはまってる子供なら誰も間違えないよ。 仏壇はなくても、テレビゲームはある時代だからね。
222 :
南無 :2000/03/01(水) 00:43
217の 既存の仏教は瀕死の状態ってのは賛成。 それに対して各宗派の対策があるのかないのかよく解かりませんが 大谷派における同朋会運動というのは死んでます。各宗派から末寺 へという発想も、本山が何かしてくれるという発想も止めて、 坊主個人の所でもっと自由に勝手に動き始めるべきだろうと思います。 別に二極化する意味はありません。新説さんがゴージャスを求め続け ればいいだけのこと。頑張ってネ。
223 :
新説 :2000/03/01(水) 00:57
>南無さん で、布施相場は? なんか、この質問からひたすら逃げてませんか?
224 :
新説 :2000/03/01(水) 01:00
>南無さん 別に、あなたの月給の平均値でもいいですけどね。
225 :
南無 :2000/03/01(水) 01:01
>220です。 すんごくゴージャスです。 >176 >払いすぎるともったいないし、足りないと恥ずかしい。 何で相場なんて気にするの?新説さんらしくありません。 一万でももったいない、100万でも恥ずかしいと主体的に 生きるほうが貴方らしいですね。
226 :
新説 :2000/03/01(水) 01:27
>南無さん >一万でももったいない、100万でも恥ずかしいと主体的に 俺はフェアでわかりやすいものが好きなんですよ。 ランキングが同じにもかかわらず、自分と隣の人の値段が違うのが そもそも気持ち悪い。 どこの誰だかわからんやつの掃除代出す気は無いし、誰かに負担して もらうのも気持ち悪い。 顔色見て、生活態度見て気合で一発ボラれるのも気持ち悪いしね。 で、結局、あなたも言わないわけですね。 サラリーマンの身分じゃ言えないのもわからんではないですが。
227 :
南無 :2000/03/01(水) 01:42
>226です。 フェアもアンフェアもないでしょ。布施なんですから。 ボルということ自体成り立たない。料金として請求する訳じゃないですから。 中にはそんなのも居るという話は聞いたことはあるけど、見たことはないです。 まぁ隠してる訳じゃないから書くと、私の住む田舎街では 葬儀 50000円 法要 30000円 月経 一回1000円 という位でしょう。 ちなみに私の月収は40万。年収480万。ポーナス無しですよ。
228 :
南無 :2000/03/01(水) 01:54
>226です。 フェアもアンフェアもないでしょう。布施なんですから。 料金として請求する訳ではないのでボルということが成り立ちません。 中にはそんな者もいるという話は聞いたことありますが、 見たことありません。 別に隠す訳ではありませんから書きますと、私の住む田舎町では 葬儀 50000円 法要 30000円 月経 1000円 といったところでしょう。 ちなみに私の給与は月40万。ボーナスなしの年収480万です。 ゴージャスでしょ?
229 :
南無 :2000/03/01(水) 01:56
>↑ごめんなさい。ダブリました。
230 :
うっ茶ん :2000/03/01(水) 03:33
あげ
231 :
こんらん :2000/03/01(水) 08:55
俗なきれいなお話しばっかりですね。 清く正しく美しく、快適に安定し、平穏な毎日を送ることもいいでしょうが、 すえとおらないですよ。 どろどろした、きたなあい、「穢れ」の場にこそ宗教が必要なのでは? 真俗二諦の俗こそ綺麗事であり、真こそ人間の本当の姿だと思いますが。
232 :
鉄観音昆布茶 :2000/03/01(水) 14:28
儀式全般ではございませんが 他スレッドにあった人事ですが、少し解説して頂けますか。 その際に、仏の弟子として何ゆえ大谷一族が特別な地位を占めるのか、 も、さしさわりのない範囲で結構ですからご教示くだされば助かります。 一応、檀家です。
233 :
新説 :2000/03/01(水) 14:40
>南無さん おー!一応お答えいただけたわけですね。 ありがとうございます。 では、ここで質問です。 私の知る寺では、南無さんの寺のほぼ30倍の布施が葬式の平均値として 出ているところもありますが、その差とはなんだと思います? 実働に差は無いように見えますけどね。 その代わり、寄付は一切募らないないとのこと。まさに、嫌なら死ぬな、 ってとこでしょうが、現代風だと思いましたね。 実際、寺の屋根が落ちようが、床が抜けようが、住んでる人以外には さしたる問題でもないですからね。 んなもん請求されても困るわなー、の世界。 かといって「寺は皆様のものです」なんて言おうものなら、住職はた だの管理人。しかし、管理人にしちゃお経講演との兼任になるから、 純粋なる管理人には劣るはず。 元々の寺の設立理由からすこぶる遠い状態になってると思いますけどね。 元々は、寺に行けば、何かを得ることができたかもしれないけど、今は 寺でしか学べないものなんかないでしょう?
234 :
新説 :2000/03/01(水) 14:56
>232 俺は坊主じゃないから、その分割り引いて聞いてね。 大谷一族が特別なのは、天皇が存在している理由と同じだと思うね。 結局、人間は、最終的には歴史に価値を見出すわけ。他に差別化なんて できないからね。 日本の歴史の代表格が天皇であり、それに近いものには付加価値が発生 する。その値打ちを維持するためには、絶対的に世襲でなければならな い。 他の宗派を見りゃわかるだろうけど、宗派のトップがしょっちゅう入れ 替わってるとこは、トップが替わるごとに何かあるよ。政治家と一緒で 任期中にだけ問題が起きなきゃいいわけだしね。 何かあってもやめれば済むだけ。責任の所在が不明になるの。 さらには、トップが替わるごとに以前の功績がゼロにされるんだから、 取り巻きにしたって馬鹿馬鹿しくなるから、サロン文化は作れない。 特権階級というのがいなくなるの。 だから、特権階級を維持するために、大谷一族は別格でなければなら ない。・・ってとこじゃない?
235 :
鉄観音昆布茶 :2000/03/01(水) 15:07
むう。。少し考えます。 あと、横浜の蓮●寺では院号が300万しました。 もはや院号というより因業。 もらって喜んだ身内も大馬鹿だと思います。
236 :
ボノ :2000/03/01(水) 15:30
>新説さん またまた勝手に理解されてますねぇ (あと、不思議なのは、自分の寺はいかに安いかを宣伝しておきなが ら、来るもの拒むのはどういうことなんだろうね?・207) るなとか言ってませんよ。 何のことなのかな?? それと233の答えね、そんな多額のお布施をする人がいるか、いないか のちがいじゃないのかな。 けどよく考えてみれば 法のない寺はつぶれていい 葬式は別に坊さんを呼ぶ必要はない 所属の寺なんて自分で選べばよい というとこでは意見が一致してるように思うのですが?? どうなんですか?? >鉄観音昆布茶さん 院号なんていらないですよ 300万ですか… 生きてるうちに教えを聞いとけばそんな集金マジックにひっかからな かったのに 聖書に金持ちが天国にいくのは難しいとかいうようなことが書いてる ように死んでから院号を金で買うような人が浄土参りできるのも難し いでしょうね(僕は仏様じゃないので本当のところはわかんないです けど…)
237 :
鉄観音昆布茶 :2000/03/01(水) 16:32
>死んでから院号を金で買うような人が 全く同意します。因業のあるなしが死後の扱いに関係あるとは思えません。 むしろ、生前の行いだと私も愚考します。 で、差し支えなければ今回の人事、解説してください、どう考えても、2代続いてバカ殿のご乱心としかおもえません、、、 .
238 :
すんごく初歩的な質問です。 :2000/03/01(水) 17:17
真宗大谷派の、朝夕の勤行の時読む場所がよくわかりません。 正信偈はわかるのですが、「念仏和讃 三首引 三淘」なんて 書いてあってもどこだかわかりません。 教えて下さい(最初と最後の五文字くらいわかれば、探します)。 使っている勤行集は、「真宗大谷派勤行集(赤:薄い)」と、 「寺院兼用 真宗在家勤行集 全(オレンジ:厚い)」です。 それから、勤行の練習用のテープもしくはCDで、オススメのもの はありますか? お願いします。
239 :
南無 :2000/03/01(水) 18:24
>231です。 >どろどした、きたない「穢れ」の場にこそ宗教が必要。 逆だと思います。宗教(真宗というほうが適当です)出会った時に どろどろときたない「私」が見えて来たということでしょう。 人間(私)の側に「すえとおる」ものなど何一つありません。 真俗二諦、どちらか一方に立つのではないはずです。
240 :
ボノ :2000/03/01(水) 21:18
>南無さん 俗には諦(真実)はないですよ! 真宗は真俗二諦じゃないのでは??
241 :
南無 :2000/03/01(水) 21:25
>232です。 大谷家が特別な地位にあったと、大谷派では過去形になっていると思いますね。個人的 には。しかし、仏の弟子として特別であったのではなく、血統としての優位性だったのでしょう。 宗祖・親鸞の血を引くという意味で。確かにそこには有形無形に伝承されたものはあったでしょう。 それらを否定する気はありません。ただ血の伝統がそれ以上でもそれ以下でもないはずなのに、 ある種絶対化されて来た中での貴蔟化が一般との遊離をもたらし、お東紛争と言われる一連の 事件の中で露呈したということです。しかし、よく言われるようにこれは大谷家単独の問題では なく、各末寺の住職も各地においてミニ法主となっていることと同根です。ご門徒が寺の為に 何かして下さる事を、坊主の為にして下さることとは勘違いしないことが重要だろうと思います。 普段は暖かいご門徒衆であっても、ギリギリの所では坊主ではなく、寺を守ろうと決断されるでしょう。 院号についてですが元々は相続講の賞典として本山が下付するもので、東の場合は8万円以上の寄付に対して 本山から院号が届きます。従って300万で院号を受けてもおかしくはありませんが、292万の行方が問題 ですね。ですから本山を維持しようという熱意が第一義となります。その結果として院号が付いてくるという事。 なお、8万の院号も300万の院号も同じです。
242 :
南無 :2000/03/01(水) 21:37
>240です。 ボノさん。こんにちは。 あのー、私は「真諦」「俗諦」という言葉は使います。 「諦」については真実ではなく真理というか事実という感じで。 真宗は真諦と俗諦の間の白道という了解です。いかがでしょうか。
243 :
ボノ :2000/03/01(水) 22:02
>南無さん 「火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、ま ことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」 って書いてあるので、やっぱり「俗なる真理」ってのはおかしいような 気がします…。事実ならまぁいいのかな?? 「非僧非俗」(南無さんの「〜白道」と同義)こそが唯一の真諦だと思いますが… あっ、けどここはこういう話をすることじゃなかったですね すみませんでした これからもよろしくお願いしまーす
244 :
鉄観音昆布茶 :2000/03/01(水) 22:35
>南無 様 ありがとうございます。 292万ぼられた、、、、、、。
245 :
新説 :2000/03/01(水) 22:52
長すぎます。。 >ボノさん >(あと、不思議なのは、自分の寺はいかに安いかを宣伝しておきなが >ら、来るもの拒むのはどういうことなんだろうね?・207) >るなとか言ってませんよ。 >何のことなのかな?? これ、一門徒さんへのことね。 一門徒さんは、自分の寺は3万円で、隣の寺はただって言ったよね。 んで、誰かが、「どこか教えてくれ」って言ったんじゃないっけ? そしたら、それは出来ないって言ってたでしょ? その理由は「寺に迷惑がかかるかもしれないから」だって。 寺にしてみりゃ、3万円でも、無いよりいいと思うんだけどね。 寺の利益は大雑把に言えば門徒の利益でしょ? なんとなく、自分が受けてる恩恵自慢はしたいが、他の人には分けたく ないって言ってるようが気がしたわけ。 >それと233の答えね、そんな多額のお布施をする人がいるか、いないか >のちがいじゃないのかな。 その寺は、総代衆に布施相場一覧表を作らせたの。総代が一番、払いの 悪いやつの尻拭いをさせられてるからね。総代が率先して末端の底上げ をしたわけ。 見たことあるけど、お車代からお膳料まで細かく規定してあったね。 多分、住職が総代衆に働きかけたんだと思うけどね。「作らなければ 最終的に困るのはあなた方なんですよ」とかなんとかね。 うまいね。
246 :
新説 :2000/03/01(水) 22:52
寺や坊主に関する不平不満は、基本的には自己責任でありすべて自業自得。 選択の余地はいくらでもあるにもかかわらず、そこを選んでおきながら 文句を言うのは許されない。 しかし、寝首をかくような布施請求(実質的にはそうでしょ?)は、 アンフェアだと思う。 >死んでから院号を金で買う に関しては、自分は、寺は歴史の保管所だと思っているので、ステイタス として高い院号はもらう。その分、寺に対しての労働はしないが金は出 す。日給で換算すると、結局、寺で労働する分と最後に一括で納める 額に大差は無くなる。むしろ一括払いの方が安い。 仕事を月に1日休んで寺で草むしりなんかしようものなら、今現在でも、 5万円くらい寄付したのと同じことになってしまう。 日給8000円の人が草むしりするのとは違うからね。 同じようにカウントされると困るね。
247 :
新説 :2000/03/01(水) 22:54
245の頭に「長すぎます。。。」ってのがついてるけど、 長すぎたものをコピーして2分割して張り付けたらこうなったのよ。 意味ないから無視して。
248 :
南無 :2000/03/01(水) 23:26
>238です。 念仏和讃 三首引 三淘というのは、念仏の間に和讃を三つ(三首) 入れてお勤めしますということです。初重に一首、二重に一首、三重に一首 合わせて三首の和讃を使います。 「真宗大谷派 勤行集」(赤い表紙の薄い本)ではP3〜P32までが 正信偈になりますね。その後P33からP48までが「念仏和讃」になります。 この場合、初重、二重、三重に二つずつの和讃を使い、合わせて六首使って いますので「念仏和讃 六首引 三淘」ということになります。三首引の場合は P33から始まりP35L2からP37L4へ飛ぶことで初重の和讃を一首だけ にします。同じようにP41L1からP43L3へ飛び、P46L3で終わり 二重、三重の和讃も一首ずつ勤めて、回向へと続いて行きます。 「淘」というのは念仏や和讃の横に書いてある記号のようなもののことで 無淘・二淘・三淘・五淘・八淘・十淘など色々ありますが、まず三淘で練習して 下さい。なお勤行集のカセットテープは昔、スネイル社からでていたように思いますが CD化されているのかどうか私は知りません。知り合いの坊さんに準備してくれと依頼 すればいいと思います。
249 :
南無 :2000/03/01(水) 23:49
>245です。 読んで唖然とします。御指摘通り住職が作らせたものだろうという気が します。その布施相場一覧表。そうなると坊主以前の問題として寺が 企業化していると言うことになります。 >246です。 >寺や坊主を選択する余地がある このことなんですが、地方においては選択の余地は無いというほうが 現実に近いでしょう。A家がB寺の所属であるということはA家の本家 や分家の全てがB寺の所属であるということです。その中でC寺に変る ということはA家に対しての親戚一同の圧力の外、B寺、C寺の住職間 の軋轢を生み出します。そのためC寺の住職はなかなかOKを出しません。 これらの全てを無視するか、クリアーしなければ選択出来ないのが現実でしょう。 何かヤクザさんのシマみたい。
250 :
ボノ :2000/03/02(木) 00:13
>新説さん じゃあそのお布施一覧の値段を納得する御門徒がいるかいないかの違いという ことにしときます。 死んでから院号を買うという話は、法座とかあるたびにお寺のお参りして、お 話を聞いとけば、そのような無茶なことが仏法と異なっていることくらい わかりそうなもんだと思ったのです。 だいたいお浄土なんて自分と他人の区別がなくなるような、完全平等の世界な んですよ。金持ちだろうが、男だろうが、女だろうが、同じ三文字の法名で生 まれるはずです。直接的に院号がどうじゃこうじゃって話はなくても、これく らいの話はどこでもやってるんじゃないですか? …ちょっと自信ないけど、僕がしてるだけなのかな?? 南無さん 現実は現実かもしれませんが、多少の軋轢があったにしても、事情が事情なら 受け入れる覚悟が僕らには必要だと思いますが… ヤクザのシマじゃないんだから(笑)
251 :
新説 :2000/03/02(木) 00:29
>南無さん 寺が企業化して何がどう悪いのか、俺には全然わかりませんね。 日本国民として生きるからには、金はどうしたって必要になります。 布施収入で暮らせないなら、生活保護を受けるという手も無いわけでは ないでしょうが、それだって、誰かの税金を横流ししてもらってるだけ の話。テイク&テイクの世界です。ネバーギブってのは、それこそ人の 道にはずれると思いますけどね。 国民一丸となって農作業と物々交換の時代ならともかく、まぁ、その 時代にしても、生産物を受け取っていたのであれば、結局は金を受け 取っていたのと同じこと。 大昔にしたって、向学心のある坊さんが中国に勉強に行くためには、 たとえ最初に受け取ったものは農作物であろうとも、最終的には換金 してたはず。 民家に米もらいに歩くのだって、米一升もらうのと500円もらうのと、何が どう違うんでしょう? 私は、金は受け取らないが、物や労働力で払えと言われる方が高くつい て困ります。 寺は元々企業だったんですよ。売ってたものが教育であり、学費が生産物 だっただけの話。 >このことなんですが、地方においては選択の余地は無いというほうが >現実に近いでしょう。 さらに現実を言えば、100年後には3件のうち2件は消滅しますよ。 子供の数がそもそも少ない。一人っ子同士の結婚で生まれる子供が一人。 一人では、お気持ち経営の寺を何軒も世話できないので、最終的にどこかに まとめる可能性すらある。特に、付加価値がない寺だとすれば、寺その ものに魅力が無い。その時、どこを選ぶかってのがポイントだと思いますよ。 まぁ、一人で何軒もの寺の世話するんなら、激安のとこにしますけどね。 全部おまとめにするんなら、高くてもいいからステイタスのあるところ にする。宗旨変えは特にいとわない。仏教に根本的に差なんかないし。
252 :
新説 :2000/03/02(木) 00:34
(長くて省略されてしまった分) 全部おまとめにするんなら、高くてもいいからステイタスのあるところ にする。宗旨変えは特にいとわない。仏教に根本的に差なんかないし。
253 :
新説 :2000/03/02(木) 00:50
>ボノさん >じゃあそのお布施一覧の値段を納得する御門徒がいるかいないかの違いという >ことにしときます。 文句言う人はいないのかって聞いたら、 「経営するためにはお金が必要で、あなたが払わない分は他の誰かに 上乗せされるにすぎない。」って言うんだってさ。まぁ、ホントのこと だろうけどね。 最低ラインを告知してあるにもかかわらず、多く払う人が増えたらしい。 みんな最低扱いは嫌なんだね。 だって、告知してある以上、墓に戒名彫ってありゃ、すぐにいくらか わかるんだもんね。ほんとにうまいと思うよ。 >法座とかあるたびにお寺のお参りして、お >話を聞いとけば、そのような無茶なことが仏法と異なっていることくらい >わかりそうなもんだと思ったのです。 そもそも、法座とか仏法ってのがそもそも陰気臭いよ。 ミサとかサービスとか言えばカッコつくってもんだけど。 今はインターナショナルな時代だからね。仏教用語知ってるより、英語 やフランス語がペラペラの方がなんだか有り難いけどね。 大学にしたって、仏教系の大学じゃ、数珠と経典くれるらしいけど、 キリスト系のとこじゃ、聖書と指輪かペンダントだってさ。 カッコいいね。 そりゃ、お経詠めるよりは聖歌の一つも歌えた方がおしゃれだし、 なむなむ言ってるよりは、アーメンの方がこれまたカッコいい。 なんとかならんのかね?これ。
254 :
新説 :2000/03/02(木) 00:56
あ、俺が仏教で気に入ってるのは、輪廻転生思想だけね。 誰が亡くなっても、いい人だったら、明日には誰かの赤ん坊として またこの世にいるんだろうと思うから、別に悲しくないしね。 やな人だったら、三途の川で石でも積んでるんだろうから、当分戻って こねーだろーと思って安心できるしね。 キリスト教だと、天国に行って終わりだから、ほんとにさよならした 気分になるから困るね。
255 :
ボノ :2000/03/02(木) 01:00
新説さん >そこがいいって人もいるんですって、いやマジで(笑) けどカッコいい、って新説さんが言ってるの本当にカッコいいかな?? お寺ボケしてる、お経歌手の僕にはわかないでーーす まぁカッコよければいいってもんじゃないような気もするし、呼び方変え ても、中身が一緒だったらねぇ 英語やフランス語なんていっぱいいるけど、仏法に通じてる人あんまりい ないですよ。少数なぶん、こっちがありがたい…、ってことには…、なん ないですよね
256 :
ボノ :2000/03/02(木) 01:05
輪廻転生って人間は人間に生まれかわるって決まってないですよ もしかしたら新説さんが今日食べた食べ物が、新説さんが知ってた、 あの(ってどの??)いい人かもしれませんよ! というか、こんな短絡的なもんじゃないですけどね 詳しくは南無さんに聞いてくだひゃーい
257 :
名無しさん :2000/03/02(木) 01:06
最近仏式のお葬式に行ったら、現代語なんですね、お経が。 わたしはキリスト教なんですが、現代語よりもラテン語のミサのほうが 心に響いてくるんですよ。外国かぶれといってしまえばそれまでですが おそらくミサ聖歌の節は本来ラテン語にあわせて作られていてそれで心に 響いてくるものがあるのだと思うのです。つまり内容を理解するという よりも聖歌に包まれるようなところがいいのだと思うのです。 お経も翻訳されているよりも、意味がわからなくてもいいからお坊さん の読経が場を包み込むようなのが、わたしは好きですが、これは おかしいことでしょうか?現代語に訳したお経のコーラスを聞いたこと があるのですが、やっぱり訳さないほうがいいという印象でした。
258 :
新説 :2000/03/02(木) 14:14
>ボノさん >もしかしたら新説さんが今日食べた食べ物が、新説さんが知ってた、 >あの(ってどの??)いい人かもしれませんよ! この思想、なんとかならない?これって、いわば脅しじゃん? こういう風に根本的なものをいじくりまわした結果、仏教はインチキ 臭くなり、かつ、陰気なものになったんだと思うけど? 死んだらどうなるかってのは、今現在、科学では解明されてないの。 自分の信じるようにすりゃいいわけよ。 そもそも、生あるすべてのものに運命ってのはあるわけ。 いかなる方法であれ生命が終了した時点で、その後は好きにすりゃいいの。 だって、ただの物体だからね。 食うもヨシ、捨てるもヨシ。 「必要でもないのに、むやみやたらと殺生するな」って言いたいために、 輪廻転生思想を利用して、「あなたが今殺したものは、ほんとはあなたの 爺ちゃんかもしれない」って、ポジティブに言ってみたら、「アカの他人 ならともかく、自分の爺ちゃんなら殺すわけにはいかない」とか思って、 別に殺したっていいものをあえて生かしたやつがいたってこと。 人間のエゴを利用しただけのことね。 姑息だよね。
259 :
新説 :2000/03/02(木) 14:15
ま、元を正せば、「必要もないのにむやみやたらと殺生するな(かわいそう だから)」って事だったと思うよ。必要があれば、別にいいと思うけどね。 ついでに、早々に生まれ変われば、死ぬ前よりもいいものに生まれ変われる かもしれないしね。 仏教が今のように陰気臭くなったのは、この脅し思想の賜物だと思うね。 戒名にしたって、ここから派生してるわけでしょ? いつの間にか、目的が「いかに生きるか」じゃなくて「死んだらどうなる 」になっちゃって葬式専門店になっちゃったんじゃないの? 「死んだらどうなる?」って聞かれたら、「死ぬまでの自分はいい人生を 送ったと胸を張って言い切ることが出来るんなら、明日にはまた誰かの 子として生まれ変われるでしょう」ってだけ言えばいいのにね。 そうじゃない人は、捨て置くしかないね。駄目なものは救えない。 救えないものは救えない、と ちゃんと言わないから滅茶苦茶なことに なるんだと思うけどね。
260 :
新説 :2000/03/02(木) 14:21
>ボノさん >まぁカッコよければいいってもんじゃないような気もするし、呼び方変え >ても、中身が一緒だったらねぇ 中身が一緒なら、わかりやすくて、とっつきやすいものがいいんじゃないの? 同じ内容でも、たとえば、A4のレポートに6ポイントの文字がずらずら 並んでるものよりは、12ポイントの文字で、何枚にも分けたほうが 読みやすいし読もうって気分にもなるし、簡単な気分にもなるでしょう? それを、訳のわからん4文字熟語で言うから、尚いっそう意味不明な ものになる。 4文字熟語は、ヒロミ・ゴーに任せておきゃいいの。 4文字熟語を羅列すると、一見賢そうに見えるけど、噛み砕けばなんて こたーないものだしね。
261 :
新説 :2000/03/02(木) 14:30
>現代語に訳したお経のコーラスを聞いたこと >があるのですが、やっぱり訳さないほうがいいという印象でした。 葬式のときには、訳さないお経がいいね。ただでさえ疲れてるのに、 脳みそがすんなり理解できるものを説教臭くだらだら言われても 疲れが倍増するからね。途中で「嘘こけ!」とか「証明してみろ!」とか 合いの手入れたくなったりしそうだしね。 どうせなら、蚊の鳴くような声より、しっかり腹式呼吸でやって欲しいね。 普段からカラオケで鍛えておいてね! ついでに、コーラスでやるなら、リハーサルくらいしておいて欲しいね。 ちゃんとリハやってない坊主のユニットのお経は聞いてて疲れる&ヘタ。 スピードも違えば音程も違うしね。 あと、専門職でお経歌手やってるんなら、お経は暗記しておいてね。
262 :
>南無さん :2000/03/02(木) 16:46
あんたの試みは見事に成功しているとみえる…。
263 :
新説 :2000/03/02(木) 17:41
>なお、8万の院号も300万の院号も同じです。 これは、違うと思うね。強いて言うなら「文字の数は同じです」じゃないの? 同じ寺で発行されたものが、隣の人は8万円で、自分は300万だとしたら それは「ボラ」れたんだよ。 クドイくらいに言うけどね、寺にはランキングがある。 ホテルの値段が違うのと同じようなもんね。 ユースホステルも、リッツホテルも、部屋にベッドがあって寝止まりする 場所という位置付けにに差はない。が、細かく分ければ、スーペリアから プレジデンシャルスイートまで、部屋にはランキングがある。 同じホテルの同じランキングの部屋に同じ時期に泊まって値段の差があった とすれば、それは問題なんじゃない? リッツに泊まって、「なんでここはユースホステルの値段と違うんだ」 って騒いだところで、お呼びじゃないだけ。「ユースホステルにお泊まり ください」て言われるだけ。 付加価値があるとすれば、ユースホステルでは、いくら払おうとも、 ユースホステルのサービス以上のものは受けられない。が、リッツなら 払っただけのものはあると思うね。文化とか歴史とかサービスとか人脈 とかステイタスとかね。 だから、見分不相応なとこには行っちゃいけないのよ。
264 :
新説 :2000/03/02(木) 17:58
>8万円以上の寄付に対して本山から院号が届きます。 これは、院号1個発行する度に8万円上納しろってことじゃないの? これ、寺のランキングにかかわらず、一律8万?
265 :
名無しさん :2000/03/02(木) 20:09
>クドイくらいに言うけどね、寺にはランキングがある。 在家として、往生するのに、寺のランキング関係ありますか? A寺では往生できるが、B寺では往生できない、といった。
266 :
265は :2000/03/02(木) 20:17
鉄観音昆布茶でした。
267 :
もりぞう :2000/03/02(木) 20:24
あげ 新説さんて偉そうに書いてる割に 文章や言葉づかいがガキっぽいですねぇ。 坊主のことは良く分からんが、人間的には 南無さんのほうが数段深いとみた。 って新説さんごめんなさいね。
でも、こういう人って年を取ったらすばらしい門徒になることが大いんです。 どうしてかというと「悪口?」を言っているように見えるけど、裏を返せばそれだけ関心があるから何です。私はこういう方を何人も見てきました。 一番悪いのは無関心! これだけはお釈迦様でも御教化できないものね。 そういう意味でも新説さん。又書いて下さいね。 ただあまりにも書き込み量が多いので、答える側はとまどうでしょうね。
269 :
新説 :2000/03/02(木) 21:57
>265 >在家として、往生するのに、寺のランキング関係ありますか? >A寺では往生できるが、B寺では往生できない、といった。 往生するのにランキングは全く関係ない。 往生はいつでもどこでも誰とでも出来ると思うけどね。 俺は、意識があって記憶があるうちに、できる限りの楽しいことをして 悔いのない人生を送りたいと思うだけ。 自分で管理できない意識の部分は別にどうなったところでさして気に ならないけどね。 しかし、歴史に名を刻むのであれば、ステイタスを求める。 無駄金は遣いたくない。
270 :
名無しさん :2000/03/03(金) 05:18
>しかし、歴史に名を刻むのであれば、ステイタスを求める。 >無駄金は遣いたくない。 歴史に名を刻むのは現世でそれ相応の事をした人では? いくら名家の子孫でもその人の名前は墓標に刻まれるぐらいだね。
271 :
名前 :2000/03/03(金) 21:10
新説さんは、私の価値観を代弁してくれているように思います。(一部) その価値観を打ち破るものに出会わなければとも思いますが、 安住してしまう私です。今が大切ですもんね。今だけじゃないけど。
272 :
新説 :2000/03/03(金) 23:28
>歴史に名を刻むのは現世でそれ相応の事をした人では? これは、正確に言うのであれば、「世界の歴史の教科書に名を刻む」って ことだよね? そりゃ、それ相応の事をしないと無理でしょう。 ただの歴史に足跡を残すのであれば、生きて死ねばいいだけ。その足跡を どこに残すかってだけね、問題は。もちろん残さなくても全然オッケー だと思うけどね。消滅するってのも悪くない。 >いくら名家の子孫でもその人の名前は墓標に刻まれるぐらいだね。 これを「家の歴史」という。 ついでだから、一ついいことを教えてやろっか? 一つの墓に入れるのは、一世代につき平均2名(夫婦1組ね) 分家は墓を別途建てないといけないんだってさ。 次男は困るね。住む家だけじゃなくて死後の家まで建てなきゃいけない なんて。最後に墓の取り合いする人っているんだとよ。 もし、キミが次男で、長男が墓に無関心だとしたら、これ幸いってことで 早々に相続希望を出して、遺言状に書き加えてもらっておいた方がいいね。 新規で買おうと思うと、葬式代や戒名代なんてノミの毛くらいの値段 だってことになるかもね。 ま、これは都会での話ね。
273 :
&gt :2000/03/05(日) 15:38
238の質問の者です。 どうもありがとうございました。 って、お礼の言葉を残して去ります。
274 :
鉄観音昆布茶 :2000/03/09(木) 22:29
ちょっと荒れたと思ったら下がってますね。残念です。
275 :
名無しさん :2000/03/10(金) 00:03
南無さんも新説さんもどうしたのかな、おもしろくROMさせてもらっていたのに。 きれいごとじゃない話しがおもしろかった。
276 :
通りすがり :2000/03/10(金) 17:07
そういえば、親鸞会のアニメ裁判 は結局無罪になりましたね。 なんでも、本願寺が国家権力におねがいして 事件をでっち上げったというのが いまのところの通説らしいのですが その辺のところどうでしょうか?
277 :
確かに :2000/03/10(金) 18:59
きれいごとじゃないのが、ヨイ。 しかし、お布施で寺が成り立っている以上、 きれいごとが、ツキマトウ…
278 :
南無 :2000/03/11(土) 00:23
久しぶりになってしまいました。 今、辛いです。 雪道の高速でスピンしてクラッシュしちゃいました。廃車です・・・。 どうゆうわけか身体は無傷で。 いい年して飛ばすクセ、なおりません。
279 :
名無しさん :2000/03/11(土) 01:22
ご無事でなによりでした。命あっての物種ですからね。 また再開お願いします。
280 :
南無 :2000/03/11(土) 01:40
>279です。 有り難う御座います。 今までのレス、もう一度読みなおして引っかかる所出してみます。 他にも何かあったらレス頂けたら幸いです。
281 :
鉄観音昆布茶 :2000/03/11(土) 08:21
お大事に。。。。。
282 :
こちらも通りすがり :2000/03/13(月) 01:02
なあるほど >276 おもしろい通説ですね。 >5 >西本願寺に対して行われた親鸞会からの安心論争については >西本願寺が無視した形で現在に至っています。 なんで無視しちゃったのか、ずっと疑問だったんですが、 一緒に考えると、なんか意味深ですね。
283 :
名無しさん :2000/03/17(金) 17:37
あげ
284 :
名無しさん :2000/03/17(金) 17:41
もう一度、問いたい。 現代にお寺は必要なの? 必要だとすれば、どんなサービスが必要とされるの? 結局、結論でてないよなぁ。
285 :
新説 :2000/03/17(金) 20:56
>現代にお寺は必要なの? 特定の人にしか必要ないと思う。 >必要だとすれば、どんなサービスが必要とされるの? 倒産しないことが第一条件。 倒産しないことをベースとして、あとは「歴史の保管所」としての地位 向上を求めたい。 この世に存在するものはすべて構造としてピラミッドになってるからね。
286 :
新説 :2000/03/17(金) 20:58
なんか変だな・・と自分でも思ったのでちょっと訂正。 >倒産しないことが第一条件。 >倒産しないことをベースとして、あとは「歴史の保管所」としての地位 >向上を求めたい。 別に倒産したって構わないといえば構わないな。 吸収合併すりゃいいだけだった。とにかく、まずは数を減らせばいいんだよ。
287 :
南無 :2000/03/18(土) 00:12
本音で言って必要だと思います。 ただし、存在意義が今よりも鮮明に多様化?してゆくという感じを持ってます。 そのことが284で言われるサービスということと関わって行くのですが。 まず、現在でも拝観収入で成り立つ「観光寺院」と修行の場としての位置付けを 持つ「寺」、それに地域密着型のまあまあ適当にというものの三種くらいには分類 出来るでしょう。「寺」とは何か、またどうあるべきかということとは別の問題と して、前の二つは当面は存続可能。存続可能ということは現代社会が必要性を認めて いるということでしょう。やっかいなのは最後のまあまあ適当にという 地域密着型の「寺」でしょう。これは当然、淘汰されてゆきます。 吸収合併あり、自然消滅あり、大手資本の買収あり、でしょうね。
288 :
名無しさん :2000/03/18(土) 17:28
通常葬式で読まれる経典はそもそも死者の供養を 目的として作られたものなのでしょうか?
289 :
名無しさん :2000/03/18(土) 17:34
もしも葬儀によって死者が成仏するのなら輪廻から脱することとなりますが、 なぜその後に『供養』が必要になるのでしょうか? 成仏するのならもはや供養は必要なくなるのでは?
290 :
名無しさん :2000/03/18(土) 17:35
もしも葬儀で成仏しないのであれば、輪廻するわけですから、 先祖供養はその対象がいなくなると思います。 また、 死んでから成仏させられるのならば、生きているうちに修行する意味は はたしてあるのでしょうか?
291 :
新説 :2000/03/18(土) 19:43
供養なんか必要ないと思うね。 ただ、生前の行いを知ってる人が「ひょっとしたらうちのじーさんは 三途の川でまだ石積んでるんじゃないだろうか」って思うからやるんじゃ ないの? 確実に何かに生まれ変わってるって思うんだったら、要らないでしょ、きっと。 でも、仏教の儀式システムはよく出来てると思うけど。 儀式に追われる間に悲しみはやわらぐし、忘れた頃に仕方なくでも思い出す ようにもできてるし。 特に考えなくてすむところを買うけどね。 キリスト教なんかは、10日単位で好きな日に供養を打ち切ればいいらしい (真偽不明)けど、自分で決めるってのもめんどくさいし、早く打ち切ると 不義理な気分になる。でも、長くやりすぎるのも馬鹿みたいな気分になる。 この点、仏教は楽チンね。勝手に時は流れて行くから。
292 :
新説 :2000/03/18(土) 19:45
供養の解釈ってまだ他にもできるといえばできるな・・ 生まれ変わってるとして、同じ世界に存在してるんだけど会えない場合 とかもあるでしょ? 会えたらいいな、って思う人がやるんじゃないの?供養って。 二度と会いたくないヤツの供養だったら、頼まれたってやるもんかい。
293 :
南無 :2000/03/19(日) 01:02
>288〜292です。 「死者の供養」とは何を意味するのかがはっきりしません。 真宗の場合、葬儀では必ず「正信偈」をもちいるのですが、 この内容についてはよく親鸞の信仰告白だと言われ、同時に 我々への呼びかけ、促しであると了解されます。 従って真宗の葬儀は「亡き人を縁としての自身の信仰確認、聞聴の場」 という意味になるでしょう。 生きている者が死者に対し供養が出来て、その延長として死者を成仏 させることも出来るという前提を考え直す必要があると思います。 真宗はこれらが出来ないという立場であり、生きている者から死者へ という方向ではなく、死者の生涯全体から生きている者が学ぶ、或いは 聞くという方向性を持ちます。 他宗派の方の理解もお聞きしたいと思いますので、よかったらレス下さい。
294 :
独峰 不二子 :2000/03/19(日) 03:27
つくづく不思議に思うのは、お釈迦さまが出家されて、仏陀に なられた動機とか、悟られて語ったこととか、亡くなる間際に 言い残したこととかと、全く離れて、坊主商売のあれこれを、 あれこれ語っていることが、ほんとに不思議。 オウム真理教や、自己啓発セミナーやらに、若者がどんどん 流れていってるのに、葬式以外に、社会とあんまり接点もなく、 のほほんと儀式のことなんて、云々してる。 そんなこと、仏陀は決めてないのにさ。金儲けのための 形式云々してて、それでよく、のうのうと生きてられるよ。 つくづく坊主って、訳のわからんムニャムニャ言ってるお経を 良しとしてる、変な商売屋、と。いっぺんお経を現代語 とか、橋本治みたいに桃尻語にしてみて、そこらの若僧にも わかるようにしてほしいな。 こういうの読んでると、つくづく、自然葬(お骨を海とかに撒くやつ) が増えてる理由がわかる気がする。 今更、戒名料とらないとか無くすとか言ってるけど、遅いよ。 欲を捨てよと説く人が、結構欲深いことはもう、周知。
295 :
新説 :2000/03/19(日) 10:29
>294 だから、寺はメンバーズクラブで歴史の保管所としてくらいしか存在意義が 無いって言ってるのよ、俺は。最初からずーっとね。 歴史に固執する名家にしか関係ないのよ、寺ってのは。 元々そうなんじゃなかったっけ? 普通の人が死体を捨ててた時代に金持ちだけ特別扱いしてたわけでしょ? ずっとそうやってりゃ良かったものを、我も我もと庶民が混ざってきただけの話でさ。 庶民なんか混ぜるからこんなことになるんだよ。 関係ない人はオウムにでも行けばいいし、骨は海に撒けばいいの。 ダイヤと同じで、安かったら値打ちなんかないの。 だから、最初に戻るためには寺の数を減らせばいいんだよ。
296 :
名無しさん :2000/03/19(日) 13:09
お経の現代語訳はなされたことがありますよ! でも、信者には「ありがたみがない」と散々で、 結局いまだに「呪文」を大事に使っているわけですね… 桃尻語訳は極端としても(笑 もっと訳文を工夫して馴染みやすくするというのはされてよいと思いますね
297 :
南無 :2000/03/19(日) 18:53
>294です。 >坊主って、訳のわからんムニャムニャ言ってるお経を 良しとしてる、変な商売屋、と。 >いっぺんお経を現代語とか、橋本治みたいに桃尻語にしてみて、そこらの若僧にも >わかるようにしてほしいな 。 宗教や信仰といったものを「わかる」とか「理解する」ことだとは思いません。 現代語訳などはすでに沢山出ています。読んだことありますか? 貴方が自分自身の信仰をお持ちならばこのような言い方はされないと感じます。 理解か゜信仰ならば宗教学者が一番の求道者にならねばなりません。 宗教や信仰とは「生き方」或いは「受け取り方」の問題ではないですか? そのことが端的に表れてくるのが現代社会では「儀式」になっているのではないかと考えます。
298 :
新説 :2000/03/19(日) 22:39
しっかしさーー ケチつけるのが目的ってわけでもないけどさー なんで、南無さんの意見ってのは綺麗事にしか聞こえないんだろうね? そもそもわかりにくいよ。 宗教ってのは、そもそも必要とする人と必要としない人がいるのよ んで、既存仏教ってのは時代の流れにあんまり合ってないわけ 特に年齢ね。自分が明日死ぬなんて思ってない人にとって、必要なのは ブッダがああいったこういったって話じゃなくて、万が一死んだらいくら かかるのかってことなの。 んで、いくら払ったら何を得られるのかってことが興味の対象だと思うけどね 少なくとも俺はそう。
299 :
名無しさん :2000/03/20(月) 01:24
南無さん、お彼岸ですね。 命日がお彼岸の人は、徳の高い人なんですか? また輪廻という考えは獣のものだ、と聞いたこともありますが どうでしょうか。
300 :
駆け出しの同業者=284 :2000/03/20(月) 01:51
ワタクシ、最近まで学生でした。 やはりどう考えても、現代日本の資本主義社会の中では、お寺の存在意義は薄いように思えます。 新説さんのような割り切った主張は、出せませんが、 「歴史の保管所」という意見も、今のニーズを考えれば、わかる気がします。 私は、「御同行・御同朋」(真宗)の名のもとに行われる、 地域密着型の「寺」の活動に魅力を感じません。 なぜなら、寺が地域へ密着するアプローチが、あまりにも中途半端と思えるからです。 そんなことは、福祉関係の企業や公共機関にまかせておけばいいじゃないですか。 お布施の対価として、そんなサービスはいらない。 下に続く。
301 :
駆け出しの同業者 :2000/03/20(月) 01:59
それじゃあ、なにが必要なのかというと、法(教え・哲学)の提供でしょ? また、そうした人生の指針のもとに生活している坊主が、儀式を執行すれば、 檀家も納得するわけでしょ。 しかし、檀家制度、世襲制のために寺院継職を余儀なくされている私自身は、 保証された生活水準のもと、大した生きがいも持てずに、日々の法務をこなす毎日です。 寺を企業に、教えを商品にたとえるなら、私は自社の商品に自信がないのに、 迷いながら売り歩いている営業マンです。 真宗でいうところの、信を得てないままで法務をこなさなければならない。 そこで、南無さんに聞きたいのです。 >宗教や信仰とは「生き方」或いは「受け取り方」の問題ではないですか? (297) もっと詳しく教えてください。 南無さんが、自信を持って奨めている商品(教え)が、 具体的にはどう日常生活に活きてくるのかを。
302 :
エステメリック会 :2000/03/20(月) 02:54
エステメリック会ってこのレスの人で入会してる人、いるんじゃないですか!
303 :
南無 :2000/03/20(月) 03:01
>299です。 命日と人徳との間に関係を見つけることこそ無意味では? 輪廻が生まれ変わりという意味であるなら、私は信じません。 自分は今生だけだと規定しています。ただ私は獣だという 言い方は十二分に成り立ちます。 駆け出しの同業者 さん、「檀家制度、世襲制のために寺院継職を余儀なくされている私」 の中にも貴方自身の「選び」があったでしょ? その自分の選びに対する責任を取るという 努力が坊主の日常になると思います。この部分が新説さんの指摘される「綺麗事にしか聞こえない」 ということに繋がるのではないのかと思います。自社の商品(教え)には自信があるというか、 疑いを持っていません。商品を扱う企業と営業マン(寺と坊主)にはまったく自信がありません。 >信を得てないままで 得ていないという自覚を持っていればいいのではないですか? >具体的にはどう日常生活に活きてくるのか 一言で言ってしまうと自分に対しての「問い返し」です。日々うろうろしながらも、 自分を肯定し切らないという立場を持つことだろうと思います。
304 :
南無 :2000/03/20(月) 03:10
>302です。 すみません、エステメリック会 って何?
305 :
独峰 不二子 :2000/03/20(月) 04:31
294です。はじめまして南無和尚さま >宗教や信仰といったものを「わかる」とか「理解する」ことだとは思いません。 んまく書けなかったけれど、うちん家もお東さんだし、日曜学校も通ってたし、 仏教は小さい時から好きで、たまたま買って読んだ世界教養選集の中の、暁烏先生の 「歎異抄講話」これ読んだ時には、そのムニャ*2お経よりも、信仰についてよく わかったっちうか、共感できました。「身も心もうち任せて安住したもうた。」 な信仰が、しみじみこころに沁みいりました。 >現代語訳などはすでに沢山出ています。読んだことありますか? お葬式に読んでるのがなんていうお経なのか名前さえ知りません。 これを機にして、読んでみたいと思います。教えてくださいませ。 >貴方が自分自身の信仰をお持ちならばこのような言い方はされないと感じます。 信仰って、信じる宗教のこと?わかんない。80%は、仏教徒だとは思いますが、 時々兄弟とケンカしたり、肉食べたりしてる。なおかつ儀式は重んじない派みたい。 >理解か゜信仰ならば宗教学者が一番の求道者にならねばなりません。 ほんとうにそうだと思います。親鸞さんは、道理知識学問を知らざる者の信仰を 説かれた。念仏の他、安住の道なし。なのにどうして南無さんは、儀式なんぞに 価値を見いだして、大層にこういうスレッドたててるの?わからんチンよ私。 >宗教や信仰とは「生き方」或いは「受け取り方」の問題ではないですか? 生き方って、「何を信じてどう生きるか」ってこと? 受け取り方って、「その教義をどう受け取って信じるか」ってこと?
306 :
つづきです。 :2000/03/20(月) 04:35
>そのことが端的に表れてくるのが現代社会では「儀式」になっているのではないかと考えます。 ううーむ。ここらへんが、違うの。どうも「儀式」っていうのが、イコール信仰とは かけ離れた坊主の身スギ世スギの、こじつけでドッチでもエエことやん。って、 思ってしまうし、実際、仏陀、法然、親鸞さんも、儀式なんぞのことで、そんなに 思念はなされてなかったはず。(読んだことないだけかも) 経験の有無に関わらず、幼い子を亡くした母親、理不尽な死を迎えた家族、、、 心の平安とはほど遠い残された人たちの葬儀という儀式で、いったいどんな 残された家族たちに、お話をされているのか、すんごく興味を持ちました。 まぁ、どんな死に方でも、葬式は葬式なんだけれど、天寿まっとう以外ってことで。 門外漢な私ですし、多分に儀式に対する誤解・偏見を持ってるかもしれないですけど、 こういう件での説明だったら、わかるかもしれません。 だいたいで結構ですので、できましたら、よろしくお願い致します。
307 :
つづきです。 :2000/03/20(月) 04:46
長くなってすみません。上のはまぁよしとして、こちらの方が伺いたいことなんです。 >そのことが端的に表れてくるのが現代社会では「儀式」になっているのではないかと考えます。 ううーむ。ここらへんが、どうも。「儀式」っていうのが、イコール信仰とは かけ離れた坊主の身スギ世スギの、こじつけでドッチでもエエことやん。って、 思ってしまうし、実際、仏陀、法然、親鸞さんも、儀式なんぞのことで、そんなに 思念はされてなかったはずとか思ってしまう。でもこれは無知ゆえの誤解かも。 このわたしなんぞでも、分かる話として伺いたいのは、たとえば、 自分の不注意で幼い子を亡くした母親、理不尽な死を迎えた家族、天寿全うとは違う、 残された人たちのいる、葬儀という儀式で、たとえば、いったいどんなお話(法話?) をされるのか、すんごく興味を持ちました。 門外漢な私ですし、多分に儀式に対する誤解・偏見を持ってるかもしれないんだけど、 こういう件でのご説明だったら、わかるかもしれませんので、よろしかったら、 どういうこと考え、どういうこと話されるのか、すこし教えてください。 よろしくお願いします。
308 :
南無 :2000/03/20(月) 11:41
こんにちは。独峰 不二子 さん。 >305.6.7です。 儀式というものが外に表れた形として一番解かりやすいと思い、ベースに するには一番いいと考えました。 >実際、仏陀、法然、親鸞さんも、儀式なんぞのことで、そんなに 思念はされてなかったはずとか思ってしまう。 そうですね。何か情け無いことですが今はそのことばっかりになっちゃって ますね。本当に大切なのは儀式に対しての考え方や姿勢のはずなんですが 深まりが出てきません。例えば葬儀で言いますと社会儀礼になってしまい 「宗教」儀式の意味が失せてしまったと言えるのかも知れません。 自分の不注意で幼い子を亡くした親族の嘆きや悲しみといったものを 宗教が解決する訳ではなく、それは親族が背負うしかありません。 その背負い方が「宗教」の問題になるでしょう。嘆きや悲しみの中で どんな自分が見えてくるのか。 悲しみ一つを考えてみても、私には本当に悲しみきれるのかという疑問 が残ります。オヤジもオフクロも死にましたが、悲しみきれたかということを いまだに引きずってます。私が出会った自分は悲しみきれない中途半端な 私でした。
309 :
名無しさん :2000/03/20(月) 14:37
南無さん お中日のゴールデンタイムにPC遊びしてていいんですか? ほんとにお坊さんなんですか?
310 :
南無 :2000/03/20(月) 21:38
>309です。 ホンとに! お中日のゴールデンタイム、今年は割とヒマです。どうしましょ。 他の坊さん達は皆ご多忙なのかしらん?
311 :
名無しさん :2000/03/20(月) 23:38
宗教って何の為に信じるんですかね。 信じることでなにか変わるのですか? 結局は、現実から逃げる場所でしかないと思うのだが。 あ、それから、南無さんは、なんの為にお坊さんをやってます?
312 :
南無 :2000/03/21(火) 00:54
>311です。 >結局は、現実から逃げる場所でしかないと思うのだが。 そのような貴方の宗教観をとやかく言うつもりはありません。 今までに現実問題の解決をやめてしまい宗教に逃げたか、あるいは そのような人を見てこられたのかもしれませんね。 その人、今どうしてます? 良い顔してます? 宗教によって自分の有り様を見つめるという生き方をしている人が いるということです。貴方の宗教観以外の在り方をまず認めてしまう ことではないでしょうか。 >なんの為にお坊さんをやってます? 以前のレスとダブってきますが、坊主をやるのは直接的には食うためです。 宗教と関わるのは、私なりの「引っ掛かり」があるからです。
313 :
独峰 不二子 :2000/03/21(火) 06:14
南無さん、おはようございます。 レス読んで、南無さんは、寺社出身ではなく 、自ら学校で僧侶の資格を取った、 又はバイトで坊主してる、学生という気が、どうもしましたです。 ま、ともかく、「悲しみきれない自分」に会われた、、、 ということばで、これ以上、問いを発する気は失せ、儀式も経も、 やはり安心への道でなし。ということを再確認いたしました。
314 :
新説 :2000/03/21(火) 11:12
>南無さん >坊主をやるのは直接的には食うためです。 食うために坊主をやるのは本末転倒じゃないの? 食うことが目的になった坊主にありがたみなんかあるのか? だから南無さんの説はどうしても綺麗事にしか聞こえない。 坊主以外に一般社会で通用するような何かのスキルはないんですか? 坊主そのものが宗教に逃げてどうするんですか?
315 :
名無しさん :2000/03/21(火) 11:44
坊さんいなけりゃ誰が葬式の法要するんだ? キチンと法要やってほしいという人も たくさんいるぞ!
316 :
南無 :2000/03/21(火) 17:18
>314です。 新説さん。ここらで一回りした感じがしません? 坊主は職業と認知する。坊主は俗人だと確認するという最初の問題へ。 坊主自体には最初からありがたみなんてないんです。 >313です。 独峰 不二子 さん。まだ勘違いなさってます。 >儀式も経も、やはり安心への道でなし。ということを再確認いたしました。 儀式も経も責任はないんです。それらを取り巻く坊主を中心にした人間の側 に何の真実もないということです。 >寺社出身ではなく 一応私が22代目になるそうで、何故かここに生まれました。
317 :
新説 :2000/03/21(火) 22:51
>南無さん >坊主は職業と認知する。坊主は俗人だと確認するという最初の問題へ。 >坊主自体には最初からありがたみなんてないんです。 これでOKです。 血統としての優位性とメンバーズクラブとしての存在意義をアピールして 存続価値を問うのが正解 お疲れさま
318 :
南本願寺 :2000/03/25(土) 21:01
「大きくて、立派なお寺ですね。」「いえいえ、そんな事ないですよ。」 と言っていたが、近頃は、 「大きくて、立派なお寺ですね。」「はい、(門徒さんの)おかげさまで。」 と、言うようになった。 「お寺は坊主だけのものじゃない。」という風になったらなあとも思うし、 そうじゃないとも思うし。。。 一休さんが、法事のとき、仏壇の前に袈裟だけ置いて、「みんな、拝んだら?」 ということをやってのけたそうです。袈裟を着てるから、大事にしてもらえるんですねえ。 私は、袈裟を着けるとき、着けるようにふるまいたいと思っているのですが。
319 :
南無 :2000/03/26(日) 01:24
>318です。 >袈裟を着けるとき、着けるようにふるまいたいと思っているのですが。 先日、同業者7.8人で話をしていたのですが、我々、坊主の側にある 坊主像といったものの再確認は必要だろうと思います。どんな坊主になろ うとしているのかをハッキリさせぬままに過ごしたように思います。 南本願寺 さんも気ずいていらっしゃると思いますが、教義・教学に忠実 であればあるほど現実社会には受け入れられにくいという一面があります。 ちょっと大げさな、そして極端な言い方ですが、「いい坊さん」などという 評価とは無縁でいたいと思います。サービス業として割り切った所には概ね 「いい坊さん」という評価が付いて来ますから。
320 :
新説 :2000/03/26(日) 02:35
>一休さんが、法事のとき、仏壇の前に袈裟だけ置いて、「みんな、拝んだら?」 >ということをやってのけたそうです この話は俺も聞いたことがあるけど。 一休って野郎はとんだナルシストだと思ったもんよ。 実際、値打ちがあるのは袈裟で、その袈裟にふさわしい人が来るという 前提で、法事を行うわけじゃん?袈裟だけあったって仕方ないし、中身 だけ来たって仕方ないと思うけどね。二個1個で初めて商品。 それを、さも、自分に値打ちがあるような言い方をするなんてどういう ことかと思ったけどね。 いかに一休がすぐれた人間であろうとも、ふんどし一丁で法事に来る くらいなら来ないほうがマシってもんじゃん?さらには、坊主である 必要なんかない。 TPOを無視したような話だと思ったけどね。 ま、坊さんは袈裟を着たときには袈裟にふさわしい行動をするのが 美しいと思うし、商品としての完成度が高いとは思うよ。
321 :
名無しさん :2000/03/26(日) 04:44
俺の爺さんが亡くなった時に、お寺が好意で 「あの方は寺に色々として下さって有り難いと思っているので」と 何て言うんだろう?知らないけど、要するにグレードの高い(?) (こういう言い方嫌だけどね…)葬式をしてくれたんですね。 普段は「死んだ後に家族に面倒かけるなんてアホらしい」とか、 「あんな坊主連中に大金払うのはもっと馬鹿馬鹿しい」とか、思っていたけど ちょっとグラッと来たとともに やっぱり宗教って麻薬なんだなぁ…とも思った アレ見たら「自分もこれやってほしい」とか思うよなぁ… お寺の好意はこりゃもう単純に嬉しかったけどね 俺的には、爺さんの戦友が全国からゾロゾロ集まってきた事の方が感動したけど 身内死んで感動したってのも変だけど、本当にそういう体験はしたな やってよかった葬式ってのは初めてだった。滅多にないだろうなぁ…
322 :
名無しさん :2000/03/26(日) 11:10
新説さんは、キリスト教系でないにしても 仏教をベースにした新興宗教系の匂いがします。 ディベートが好きみたいですし。 南無さんは、しっかりと坊主だと宣言して、その立場から発言しているのに 新説さんは、文句をつけているだけです。 嫉妬や憎しみからスタートした発言はクソです。 新説さんは南無さんにクソをぶつけていい気分かもしれませんが あなた自身もクソまみれです。鏡を見てください。
323 :
あのぉ :2000/03/26(日) 14:19
個人的な印象なんですけど、仏教系の方々って、すぐ排泄物のことを口に出す ような気がするんですが…気のせいでしょうか? 某似非浄土真宗の団体なんて特に(ある掲示板にはそのまんまのハンドルさえあった) 何か仏教とかと、関係あるんでしょうかね? 単なる偶然かと思っていたんですが。こう頻繁だと、 何か因果関係を勘ぐりたくなって来るんですがね…
324 :
名無しさん :2000/03/26(日) 15:15
個人的な話なのですが,うちの菩提寺のご長男さん(お坊さんです)がとても素敵な人で(独身です), 私はひそかに憧れています。 でもうちの親は「お坊さんは同じようにお寺の娘さんをもらったりするから駄目よ。 それにお寺にお嫁に行ったら大変だよ」と言います。 かなわぬ恋なのでしょうか?
真宗ってただの仏教系新興宗教が歴史を得ただけのような感じが する。まぁどの宗教も、もともとは新興宗教だけど。 話は変わるけど 322さんの発言も新説さんに対する憎しみからスタートしてるように 感じる。
326 :
新説 :2000/03/26(日) 17:53
>322 俺はかなりの量の情報提供をしてるつもりだけどね。 明かなデマだって情報が含まれてるって言うのであれば、指摘してみな。 謝罪してやるよ。
327 :
南本願寺 :2000/03/26(日) 20:14
南無さん、「いい坊さん」についてですが、、、、 親鸞様の肖像画をみると、険しい顔をされてます。 「いい坊さん」という感じじゃないですね。宗教家の顔というのは、そうなるのかもしれません。 いい人でいることのほうが、宗教的に生きるより、楽な場合もありますもんね。 僧侶であるというだけなら、「いい坊さん」という世間の評価はいらないと思います。 しかし、住職という立場上(生活の糧にすると言う面で)、「いい坊さん」になることも やむをえないとも考えるのです。 ただ、「お寺さん」は、ある程度守られている存在だと思うので、いい人にならなくても ある程度ゆるされるという状態にあるんじゃないかと感じています。 世間で生きていこうと思ったら、自分の意志に反していい顔をしなければならないこと、 お寺の中よりも案外多いのかもしれません。 世間に甘えてしまわないように、また、宗教家の顔を忘れないように、バランスをとって いかねばならないのでしょうか? 本願寺派には、宗門の基幹運動に、「信心の社会性」「真俗二諦」という思想があります。
328 :
南無 :2000/03/26(日) 23:27
>324です。 ほのぼのした感じです。頑張ってと応援したくなります。 寺からお嫁さんを迎えると寺同士の親戚や繋がりが増え色々と 便利な一面もあることはあるのですが、多分に住職の発想で 若い男性からは出てこない発想でしょう。 私の「奥様」は在家から嫁に来たのですがよく愚痴ってました。 「回りじゅう皆、舅と姑みたい!」ですって。 >327です。 >僧侶であるというだけなら、「いい坊さん」という世間の評価はいらないと思います。 しかし、住職という立場上(生活の糧にすると言う面で)、「いい坊さん」になることも やむをえないとも考えるのです。 実際はこの二つの間で揺れ続け、悩み続けるしかないようですね。 住職に付いて回る責任や義務は結構重たいものがあります。僧籍を持つ だけの坊主であるほうが気楽だろうとは思います。しかし、住職である 前に、坊主である前に、やはり「求道者たらん」とする所に立ちたいと 願っておりますが、それどころか、とんでもない自分にお手上げです。 「信心の社会性」をどのように受け取っていらっしゃいますか?少し 教えて頂ければ幸いです。 >323です。 有漏・無漏という言葉ありますね。 有漏といって、自分の中から漏れてくるもののイメージが排泄物に なっちゃうんでしょうかね。
329 :
南本願寺 :2000/03/27(月) 00:11
「信心の社会性」、大変難しい問題です。 私達の話し合いでも、これという解答のようなものはでてきません。 「信心は心の中の問題だから、念仏者の社会性の方が適切」とか、 「妙好人は、世の中では変わり者のような人も多かった」とか、 論点がずれたり、逃げにいっている話し合いになることも多いです。 ただ、「信心の社会性」を提唱した先生のひとりは、そうとしか表現しようがない と、いわれました。 具体的には、差別の問題や、ヤスクニにはじまる平和の問題がきっかけとなって、 言われ始めたようです。 自分としては、分かりそうになったり、分からなくなったりです。 さて、分かるかどうかというのはおいといて、どう受け取ってるかと言う事ですが、 差別のことや、平和のことで、市民運動のように僧侶がというか私が拳をあげて活動 する姿は想像しにくいのですが(してみたこともあったけど)、そのようなことを 通して自分の信心があきらかになったような気がしたこともありました。 浄土真宗が出家でなく、在家仏教であるということを考えると、 社会の諸問題に目をそむけることなく、「閉ざされた安泰に留まることなく」、 積極的に関わって行く事が同時に念仏が生きてる、自分が生きてるって感じます。 ただ、やっぱり「念仏に生きる」って、難しいと思います。 易行道なんですがねえ。
330 :
南無 :2000/03/27(月) 02:17
信心というか個人の信仰が、何ら社会性を持たないということは有り得ないと 思うんです。たとえば葬式坊主でも葬儀という儀式を通して社会と関連が生ま れるように。それを社会問題と限定して、同和でも靖国でも原発でもいいんですが 信心と言った場合に、何かの社会問題と関わっていなければならないというような ある種の脅迫観念のようなものが一時私の中にありました。けど、しなければならない というのは結局ニセモノですね。社会問題を問うことは大切な事なのですが、自己の 信仰内容の確認は実のところ日常のあらゆる断面で可能だと知ったときにフッと肩の 力が抜けた感じでした。まぁ、それが堕落の一歩だったのかも知れませんが。 真宗と無縁なところで驚くほど真宗的?な生き方をしている人はいくらでもいますね。 なのに自分はなんでこの程度なのかと。愛欲の広海に沈没したまま空が見えません。 >「念仏に生きる」って、難しいと思います 確かにそうですね。今はコチコチに考えず、社会に目を向けたままゆったりとそして どっしりと生きたいと思ってます。
331 :
南本願寺 :2000/03/27(月) 16:46
この掲示板もまた、ネットの中の「社会」だと思うんです。 「社会」というと、すごく広い場所のような気がするんですが、 実はどの社会も限られた枠の中で社会を形成しているように思います。 もちろん、「社会問題」と、いった場合もそうです。 ただ、教団がいままであまりにもそういった社会問題に無関心だったり、 逆に差別を助長するような教学が(「あやまった教学」と言う人もいる) 存在したり、戦時教学なるものもあったようです。 そういった反省をもとに提唱されたのが本派の「基幹運動」だと理解しています。 話もどると、「社会」が限られた枠だと申しましたが、そういったあらゆる 枠を超えて働いてくださる弥陀の本願がある。 枠をうちやぶる働きが如来の光明にはある(破闇) と聞きました。 南無さんのおっしゃるように、「しなければならないというのはニセモノ」 というのは本当に同感です。 拳をあげてたときに感じた「気がする」というのは、やはり自己満足でしか なかったのかもしれません。今となっては違和感もありますが、無駄 でもなかったとも思ってしまう執着心の持ち主が私です。 しかし、信心に社会性があるということは、あらゆる事象と私が無関係ではない と、受け取って行きたいと思っています。 南無さんのをことばかえただけのような気もしますが、とりあえず。
332 :
真宗徒 :2000/03/27(月) 18:26
>真宗ってただの仏教系新興宗教が歴史を得ただけのような感じがする。 これは当たっているかもな。 しかし、その「歴史」ってのも、重みだか重荷だか分かんないようなもんだからなぁ 俺はこれがいいと思っているし、今のところ問題も感じないけどね。 一応ある檀家には属していることになっているんだろうけど、 別に属しているからどうだこうだってこともなければ、 集会もなければ献金もないし。 ちょっと寺の掃除の手伝いとかはするけど、せいぜいそんなもん。 それも小さい頃に寺で遊ばせてくれた礼と思ってやっているだけだし。 その住職も「近所のジジイ」くらいにしか思っていないし。 おっと、独り言が長すぎるか?すまん
333 :
南無 :2000/03/27(月) 19:24
>331です。 >信心に社会性があるということは、あらゆる事象と私が無関係ではない と、受け取って行きたいと思っています。 言われるとおりですね。同感です。ただあらゆる事象について無関心である ことを恐れます。ある講師が「地球の裏側に落ちる針の音にも敏感になれ」 と語っていましたが、なかなか出来ることではありません。暖かい居場所から 立ち上る「決意」だけは細々とでも持ち続けたいと願っております。 変な型にはまらずに色んな坊主の出現に期待してます。色々いると楽しそうです もんね。 >332です。 真宗徒 さん、中々味のある独り言です。 >その住職も「近所のジジイ」くらいにしか思っていない それが一番です。「おい!ジジイ。お茶飲みに来たぞ。」と言ってぜひ 遊びに行って下さい。そのような人間関係の中で >「歴史」ってのも、重みだか重荷だか分かんないようなもんだからなぁ という話が出来れば、良い寺檀関係になってゆくと思います。
334 :
似非坊主に :2000/03/27(月) 19:24
なりたいんですが,何年位したら資格?をもらえますか。
335 :
名無しさん :2000/03/27(月) 20:23
坊主まるもうけ。
336 :
324です :2000/03/29(水) 19:06
328にてお答えくださり,ありがとうございました。 舅姑が本人以外にたくさんいるわけですか。なんとなく想像できるような。 うちの親は「ちゃんとしたとこから(嫁を)もらわないと,檀家がうるさくて大変」と言っています。 私はそういうプレッシャーに弱いほうなので,向いてないかも。 あとキレイ好きというか掃除好きじゃないと駄目なんですか? 私は掃除が嫌いなのですけど。 あー,やっぱ無理かな。
337 :
妙人 :2000/03/31(金) 11:05
うんとこしょっと、あげます。 >336さん 坊守さんも24時間労働体制に近い 状況かも知れませんからね。どうでしょうね? 南無さん、荘厳のお考えを教えてくださいね。 宜しくお願いします。
338 :
こんらん :2000/03/31(金) 13:07
「信は荘厳から」ということばをきいたことがあります。 具体的な形があって、「信」というものを表に出す事が出きるのだと思います。 称名しかり、お仏壇のお給仕しかり。 「お仏飯で育った」といういいまわしもあります。 南無さんではありませんが、口出ししました。
339 :
>335 :2000/03/31(金) 13:56
あなたがそう思うのなら、その坊主になれば。 確か2割は空き寺のはずです。
340 :
南無 :2000/04/01(土) 02:01
>337です。 寺の内陣も在家のお内仏も、浄土荘厳(目に見えない浄土という世界を 仮に形として表してある)という意味ですから、きれいな形を維持して ゆくのは、その前に座る人達がいる以上大切な事ですね。特に寺の場合は。 338でこんらんさんがおっしゃるように「信は荘厳から」とよく言われます というより、よく言います。御門徒に対して。信という自己の精神の部分 が荘厳を通して形になって表れるという意味で。それはそれでいいのですが 一方で別のことも考えています。というのは、真宗の荘厳は天台の荘厳を 踏襲しているということなのですが 親鸞は「十字名号」を本尊としていたと言われていますね。多分当時は その軸だけだった、つまり今のような内陣の形式にはなっていなかっただろう と思うのです。ですからもし新たに内陣を作るのならば、もっとシンプルな ものの方がいいのではと思っています。 ここらへんのことに詳しい方がいらっしゃいましたらお教え下さい。 >339です。 同感!
341 :
名無しさん :2000/04/01(土) 18:41
一向一揆ってカルトが先導した暴動?
342 :
南無 :2000/04/01(土) 20:57
>341です。 体制側からと非体制側からでは見方が違うと思いますが、 >暴動 という表現をされるということは名無しさんは富樫氏の血族の方? 一向一揆の是非は別として、あの時代社会の中で「念仏」によって 人間の連帯が生まれたことは驚嘆すべきことと感じます。 蓮如が広めた真宗がすでに蓮如の手に負えない程に巨大化していた のでしょう。蓮如自身は一向一揆に対し再三自重するように促してますから。
343 :
妙人 :2000/04/03(月) 09:58
こんらんさん・南無さん ご丁寧な お返事 有り難う御座います。 そうですね、師法然聖人も御開山も比叡山出身 ですから、荘厳も天台の影響を受けざるを得な かったことでしょうね。青蓮院の得度等からも 真宗独自の御荘厳の変遷は、現在の、各真宗の 両堂からは、当時の親鸞聖人の御内陣の様式考と どの様に違うのでしょうかね?天台からの影響 を払拭されたのは、蓮如上人からですね? 確かに『信は荘厳より』なのですが、南無さんの シンプルな御内陣のお考えは、門信徒さんや 他仏教各宗派・キリスト教徒の教会の伽藍にも然り、 礼拝する雰囲気・効果を払拭したものとなるかも しれませんね。それは一番大切な御内陣と外陣との 区別を無くした「門法の道場」の、お考えなのでし ょうか?
344 :
南無 :2000/04/03(月) 18:56
>345です。 現在の内陣の形式で私が一番気になるのは、内陣と外陣の区別がそのまま そこに座る坊主の区別に成り易いという点が一つ。 もう一つは、内陣を背景として坊主が御門徒に向かって語るという形式 は、それこそ仏の威光?を背に、高圧的になっているのではという危惧 です。「門法の道場」として限りなく平座の形式がありそうなものなのですが。
345 :
こんらん :2000/04/03(月) 23:14
お内陣に、というか、阿弥陀様に向いてお説教された先生がおられました。 おつとめ、伝道(法話)、称名、みんな仏徳讃嘆だという味わいからだそうです。 人生の方向性が同じ方向を向いてるって感じがしましたが、違和感もありました。
346 :
設計 :2000/04/04(火) 11:06
定められた儀式作法から御内陣・両余間・後堂出仕口からして 外陣(参詣の間)との境界線が無くなる様式は、一般末寺から 変革して良いものと感じています。但し、他の法中さんから、 又は布教師さんからも相当の批判が有るでしょう。如何でしょうか 南無さん。御本山では椅子の使用がようやく許可された程ですから。 高座は、南無さんの御寺の外陣に未だ存在していますか? 説教台とは、全く違うものでしょう。 こんらんさんの違和感は当然だと感じます。私も未だかって、 そのような布教師さんは知りませんでした。その布教師さんは 本堂入口向拝から外陣一番後ろで、御門徒さんと一緒に御内陣に 向かって法話されていたのでしょうか?
347 :
こんらん :2000/04/04(火) 18:08
設計さんへ 調声席のあたりからです。 でも、普段は演台や黒板を使用して、外陣の斜め前あたりで門徒 の方を向いてるみたいですよ。
348 :
設計 :2000/04/04(火) 19:16
こんらんさんへ 通常は外陣正面の左余間の前ですね。 調声席は、どの位置か分かりませんが やっぱり、お説教や法話は、その人から 発せられて、向かい合ってが伝わり易いですね。 お説教や法話がマニュアル化していると言われて いるようですが・・・・・ 南無さん、その点は如何でしょうか?
349 :
南無 :2000/04/04(火) 23:23
>345〜348です。 こんらんさん、設計さんご意見有り難うございます。 私のイメージとしてだけなのですが、現在の内陣の本間だけを残し 両余間を外陣部分の本堂の両側に細長い形で配置すれば、参詣者全て が、現在の内陣にいるような感じになると思いませんか? 現在の内陣出仕は、内陣を降りて本堂外陣両側の両余間へ出仕し、 外陣出仕の助音・他は外陣最前列で参詣者に向いて(本尊に背中を向けて) 着座すると、坊主全員で参詣者を取り囲むような形になるでしょ。 そんな形で全員が唱和すればいいのではと思うのですが。変? 高座については子供の頃使っているのをみましたが、現在は全て説教台 (演台)にマイクです。高座の時は外陣・御代前に置かれていましたが、 説教台になってからは外陣・中尊前になってます。いずれにしろ布教師 が内陣を背にして御門徒に向かい話すのではなく、本堂入口向拝、外陣 一番後ろから御門徒に向かうという位置関係にすれば、布教師は御門徒 越しに本尊に向かって話すことになるので、適当なことが言えなくなる と同時に厳しさが出るのではと思います。 >お説教や法話がマニュアル化している についてですが、最初は模倣からはじまるのは判りますし、許されることと 思います。その範囲のマニュアルはあってもいいと思うのですが、結局 お説教や法話は布教師の頭からの言葉には響きがありません。まだ大学の 講義のほうがいい。どんなことであれ布教師の身体を通した言葉には 響いて来るものがありますね。上手くなくても、下手でも、響きを持つ 言葉には頭が下がります。布教師に一番求められるのは、教学知識よりも 人間的感性ではないかと思ってます。
350 :
ゆうち :2000/04/05(水) 10:52
布教使は、頭を使って話すのでなければ、場所はどこでもいいでしょう。 聞く人が聞きやすい場所がいいでしょうね。 本願寺派では、連続研修会などにおいて、話し合い法座をすすめています。 話し合い法座では、車座になります。 勤行については、調声人は僧侶でなくてもいいのではないかと思います。 外陣中尊前になるでしょうね。みんな同じ方向をむいて。(如来さまを) 結衆や列衆の出勤のある法要においては、内陣はお浄土の荘厳ですので、 出勤僧侶はその自覚のもと出勤、参詣者はその味わいでおつとめというのが 理想的ではないでしょうか。 出勤衣体、寺班、僧班、席次などの問題はありますが。 本派の一僧侶の私見でした。
351 :
南無 :2000/04/05(水) 18:31
>350です。 ゆうちさん、はじめまして。 東では寺格・堂班はなくなったのですが、これらは制度の問題というより 意識の問題で、現実は何も変っていないし以前より意識の底に大事に 温存されてしまったような感じがしています。儀式の在り方、荘厳、 出仕の仕方などなど、結局は個人の自覚になってしまうのは判るのですが 何かもう少しマシな方法がありそうなのではと思ってしまいます。
352 :
ゆうち :2000/04/28(金) 17:52
あった、あった。 どうも、南無さん。 久しぶりに、あげ。
353 :
南無 :2000/04/29(土) 19:10
上がってたんでちょっとビックリしました。 ゆうちさん、こんちは。 何かあ・り・ま・せ・ん?
354 :
名無しさん :2000/05/03(水) 11:05
南無さん 唐突な発言ですが、ご本尊お掛け軸で 御本山授与品お掛け軸は、どうして 高額なのでしょうか?
355 :
南無 :2000/05/04(木) 01:23
>354です。 確かに。本山から下付されるものは単に金額的なことだけで 言うなら五割から十割増しの様に感じますね。 そこにある門首の印の重みなのでしょうか? それを大切にするという感覚は結構、根深いですね。 ただ、その延長で坊主が必要以上に大事にされてもいるんですが。
356 :
ゆうち :2000/05/04(木) 10:35
ご本尊については、本願寺派でも、最近注目されています。 蓮如上人500回遠忌の際、ご門主のご親教で、ご本尊・お仏壇・寺報を 積極的にすすめる願いが話されました。 お仏壇を購入すると、ご本尊がついてくるというのは本末転倒で、 嫁入り道具を買って、お嫁さんがついてくるようなもんだ(笑)との 喩えもありますが、お仏壇はご本尊のいれもので、大切なのは、 ご本尊であるとの認識で考えるとよいのではないでしょうか? 「本当に尊い」とは、どういうことなのか、問われているような気がします。 孔子の論語に「あしたに道を聞かば、ゆうべに死すとも可なり」とあります。 決して裏切らない仏法に出会えば、そのひとのいのちの長い短いに関係なく、 その人は充分に生きたといえるのではないでしょうか。 と、ある本に書いてありました。
357 :
南無 :2000/05/04(木) 19:06
極論になりますが、仏壇自体は無くてもいいと思います。 本尊と三具足があれば十分でしょう。しかしながら私の 近辺の状況は200代で500万から700万位の仏壇 を入れている家が多いですね。確かに立派なもので、それ はそれで結構なのですが、新しい仏壇には生花を入れない。 漆に悪いと言う理由で。もう何が何だか・・・の状況ですね。 「本当に尊いお仏壇」になってます。
358 :
南本願寺 :2000/05/06(土) 09:50
おひさしぶりです。 「仏壇なんていらん」とのスレッドもたってましたが、 「じいちゃん壇」「先祖壇」になってしまっている現状を なんとか考えていきたいと思います。 最近では、「世間壇」「見栄壇」なんかもあったりして。 それに私達がのっかってしまってはまた問題だけど、 そこに依ってるとこもあるしねえ。難しいけどひとつひとつ 考えて行きましょう。 なにかないですかねえ。
359 :
>358 :2000/05/06(土) 12:52
見栄晴
360 :
南無 :2000/05/06(土) 19:33
>358です。 南本願寺 さん、お元気でしたか? >私達がのっかってしまってはまた問題。 おっしゃる通りですね。 阿弥陀仏=本尊・先祖=諸仏という確認というか頷きを どこで確立してゆけるのか、現実は厄介ですね。 最初の取っ掛かりが爺さんや婆さん、親父やオフクロ、 つまり先祖しかないのですが、そこからの展開を 縁のある坊主の責任として荷うという覚悟をしなければ なりませんね。
361 :
MJ12 :2000/05/06(土) 19:39
初めまして、南無さんに一つ質問があります。 仏教界では世間一般でモラルに欠けた僧籍を持っている人には どの様な処罰が下されるのでしょうか?
362 :
名無しさん :2000/05/06(土) 20:01
こんばんは、私は未婚の女性です。 お坊さんと結婚することに憧れています。 どうしたらご縁をつくることができるのでしょうか? また、お坊さんの奥さんというのはお寺においてどのような役割なのでしょうか?
363 :
南無 :2000/05/07(日) 02:04
>361です。 MJ12 さん、こんにちは。 宗派には宗憲(宗派内の憲法)があります。その宗憲に違反している場合 は、違反事実の内容証明を付けて諮問院(宗派内の裁判所)に告発、という ことになると思いますが、世間一般のモラルということならば無理がある ように思われます。 >362です。 >お坊さんと結婚することに憧れています。 本気でお考えならば、京都の本山内に真宗大谷派宗務所というのがあります。 そこの出版部へ連絡を取ってご相談してみてください。宗派の機関誌に 「真宗」という月刊誌があって全国の大谷派寺院に発送されています。 その中で、後継ぎや養子、お嫁さんの募集といった問題を扱っています。 以前のことですが親父とケンカして親父が切れてしまい、その機関誌に 養子に出ますという記事を載せちゃったのですが、全国から7件ほどの 問い合わせがありました。
364 :
名無しさん :2000/05/07(日) 14:35
南無さん、こんにちは。 お坊さんが外国車などの素晴らしい車に乗っていると言うのは、宗憲にかからのですか??? あと、純金のメガネなるものを所有している方も居りますが…
365 :
南無 :2000/05/07(日) 18:34
>364です。 どんな車に乗ってようが、純金のメガネしてようが 競馬に狂ってようが、風俗にハマッテようが関係無しでしょう。 そこらは坊主個人の自覚の問題でどこにも強制力はありません。 そんな感覚の坊主を貴方がどう見るのか、認めるか否かは 貴方の判断一つですね。
366 :
名無しさん :2000/05/09(火) 23:27
浄土真宗では「お布施」をどのように位置づけているのでしょうか。 「雑行」「自力の行」として「振り捨て」なければならないはず だと思うのですが。 もちろん寺院や教団の維持のために必要な費用を門徒が負担すること は当然でしょうが,浄土真宗の教義との整合性はどのようになって いるのかというのが質問の趣意です。
367 :
南無 :2000/05/10(水) 01:47
>366です。 浄土真宗の教義と布施との整合性についてですが、「方便」ということで は答えになりませんか。 366さんは布施を行との前提でのレスのようですが、真宗での行とは唯一 称名念仏(大行)だけでしょう。真宗で執拗に言われる「聴聞・聞法」で さえも行とは呼ばれません。現実社会を娑婆、人間存在を凡夫と見据える ところには「人間社会に真実はない」と言い切ってあると思います。 布施行に色々な意味付けをすることも出来るのでしょうが、真実行では ない以上、仏法者としての慣習や規範といった程度の意味付けが妥当だ と考えます。従って教義との整合性があるというより、不整合性はない と理解します。別の言い方をすると 真宗の教義というのは「教学」の問題、布施というのは「教化」の問題 でしょう。 如何でしょうか。以上、私個人の私見です。
368 :
南本願寺 :2000/05/18(木) 10:31
ふほう、輪袈裟のまま、テレビにでてしまった。
369 :
LadiesRoom :2000/05/18(木) 13:49
質問です。 結局、宗教ってカルトである、ないに関わらず 拠り所のない弱い人間に、いもしない存在を信じ込ませたり、 ありもしない事象をあたかもあったかのように並びたてて お金をせしめてるようにしか思えないのですが。 葬式にお金がかかるのはしょうがないにしても、 なぜ戒名(さも意味ありげに書かれているただの漢字の羅列)や、 卒塔婆(ただの板きれ)にあんなにお金がひつようなのでしょう? きっちりお答えください。納得いくように。
370 :
南無 :2000/05/18(木) 21:18
>368 南本願寺さん、 なんの番組? >369 LadiesRoom さん、はじめまして。 >拠り所のない弱い人間に、いもしない存在を信じ込ませたり、 ありもしない事象をあたかもあったかのように並びたてて 目に見えるもの、実証できるものだけしか信じないということなのでしょうね。 事象を離れて、言葉をイメージしてみて下さい。LadiesRoom さんも御両親から 一度位は「嘘をつくな」と教えられたはずです。如何でしょう。 LadiesRoom さんはその言葉を守ってウソをつかずに今日まで生きられましたか? まず、それは不可能でしょう。もっと言うなら「ウソをつくな」と教えられた 貴方の御両親もウソをついてこられたはずです。ならば 「ウソをつくな」という言葉と、「ウソをつくな」と教えながらウソをつく 御両親と、教えられてもその通り出来ない自分、この三つをどう理解しますか? ここから始めましょう。 >なぜ戒名(さも意味ありげに書かれているただの漢字の羅列)や、 卒塔婆(ただの板きれ)にあんなにお金がひつようなのでしょう? 大谷派の場合ですが法名を受ける帰敬式に10.000円かかります。 それを高いと感じるか、安いと感じるかは貴方の考え方でしょう。 なお大谷派では卒塔婆も位牌も使いませんときっちりお答え致します。
371 :
LadiesRoom :2000/05/19(金) 10:53
>370 「ウソをつくな」という言葉:詭弁。世界の警察を自認してるくせに相変わらず バイオレンスなアメリカのやつらが他国の紛争にちょっかいを出してるみたいなもの。 「ウソつくな」と教えながらウソをつく両親:所詮、親も他人。他人がウソをつく のは至極当たり前。 「ウソ」をつく自分:ウソは必要悪みたいなもの。ウソがない世界なんてできっこ しない。ダライ・ラマだってローマ法王だってウソをついてるはず。ついてないって 言ったらそれがウソ。ヒトは言葉を得て、ウソも覚えた。 以上が私の意見です。 このように、「外堀から攻める」的な話で言葉巧みに勧誘している宗教が 数多くあると思います。 これについてはどのようにおかんがえですか? それと、戒名、卒塔婆の件ですが、これは謝罪いたします。 あなたの宗派はとても良心てきだと思います。 私の家も浄土真宗なんですが、多分宗派が違うのだとおもいます。 菩提寺は、青山にある梅窓院というところ。 先日、祖父が逝去しそのときの戒名の料金がウン十万円。 法事のたびの卒塔婆が1本、1万円以上。 こここそ「坊主まるもうけ」そのものだと思いました。
372 :
南無 :2000/05/20(土) 00:00
>371 「ウソをつくな」ということがそのことだけで終わるのなら、それは道徳でしょう。 「ウソをつくな」という言葉自体は間違いはないでしょう。嘘は結局、人間関係を 壊して行きますから。その言葉の前に立った時、それでも嘘をつかなければならない 自分をどう了解してゆくか、それが宗教的な思索になってゆくと思います。自分の 在り方をどこまでも肯定しないこと、そしてその中に自分への痛みと悲しみという ものを内蔵し続けること、言わばこのことが宗教的歩みになるのだと思いますが 如何でしょう。自分自身を問うということが抜けてしまうと、他人を攻撃する手段 にしかなりません。 宗教とは結局、「生きる」ということの中で具体的な形で問われる事柄でしかない ように感じています。 色々な新興宗教が言葉巧みに勧誘をしている現状が種々の問題を孕んでいることには 同意致します。 >「坊主まるもうけ」そのものだと思いました そのような場合、一度拒否されてみては如何ですか。卒塔婆はいりませんと。 法事についてならば、貴方の納得できる金額を御布施として先に菩提寺の住職 に渡されてみては? 「○円しかありませんが、○回忌の法要をお願いします」と。 出来ないとは言わないと思います。
373 :
これを読め :2000/05/20(土) 03:39
374 :
南無 :2000/05/20(土) 07:07
>373 ???
375 :
ピンポン :2000/05/20(土) 22:37
南無さんの???。よく分かります。 真宗の坊主に創価学会の悪口の記事を読ませても、意図がまったくわかんねぇよ。 ほぅら宗教ってこんなもんだとでもいいたいのか?。
376 :
パン :2000/05/20(土) 22:51
南無さん一生懸命まじめにこたえてますね。 その答えを奇麗ごとなどと罵られながら、よくがんばってますね。 縁無き衆生は度しがたし、知識豊富な人達がふえてきましたなぁ。 そして、宗教も何もかも自分の知識の範囲で結論を出してしまうね。 一文不知がどんなにすばらしい、そして、難しい事か・・・・。
377 :
ポン :2000/05/21(日) 00:18
でも、ここって皆結構まじめだし、現職の坊さんに真正面から質問を投げかけてるね。 中には373みたいなピントはずれもいるけど。
378 :
ピン :2000/05/21(日) 16:28
>377.同感、同感。 ここって皆結構まじめなんですから荒らしちゃダメです。
379 :
南本願寺 :2000/05/21(日) 22:16
>370 町の紹介のような番組で、幼なじみのレポーターと再会するシーンでした。 突然の来訪で、着古した普段着だったので、なにかちゃんとした服装にしなきゃ とさがしたら、ふほう、輪袈裟しかなかったので、着替えてでました。 放映されたのをみたら、着替えシーンはさすがに映ってませんでしたが、 「使用前/使用後」のような感じで編集されてました。見てて面白かったのですが、 ちょっとはずかしかったですね。収録中、「ナンマンダブツ」も出なかったし。 おはずかしいことです。 門徒さんから、「ごいんげさん、見たよ」と、でんわがかかるたび、 「お恥ずかしい事です」と、言ってました。 でも、近所の子が、「見たよ、ちょっとあそぼうや」と、寺を訪ねて くれたのは、うれしかったですね。
380 :
関係ない? :2000/05/22(月) 04:41
381 :
きすけ :2000/05/22(月) 10:39
要するに、教祖や指導者、リーダーが大物である事を好ましく思わない 日本的な考え方だろ。例えば、日本の左翼がいまひとつなのは、リーダーの スキャンダルで内部からのつきあげがあるからじゃないの。 お金と色(色と欲・愛と金)のことで、宗教がとやかく言われるの、うんざり。 しょうがないか。「白雪姫は、王子さまと結婚して幸せにくらしましたとさ」 と、子供の頃から聞かされて、幸せとは、色と欲を満たす事だと植え込まれて きたんだもんね。 織田信長も、色と欲のために相当なことやっとんのとちゃうの。さらに権力への 執着もすごい。 だから、宗教が要るんじゃない?いかがでしょうか。
382 :
ミスタ−カトリック :2000/05/22(月) 11:19
仏教においては、その種々の宗派に従って、この流転の世界が根本的に無常であることが認められ、 人が忠実と信頼の心を持って、あるいは完全な解脱の状態に至る道、あるいは自力または他力によって、 最高の悟りに到達する道が教えられる。これと同じように、世界中に見いだされる 他の諸宗教も、種々の道、すなわち、種々の教義と戒律と儀式を提示する事によって、 いろいろな方法で人間の心の不安を解消しようと努力している。 カトリック教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も排斥しない。 これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。 それらは、教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なっているが、 すべての人を照らす真理の光線を示すこともまれではない。 しかし教会はキリストを告げているし、また絶えず告げなければならない。 「道、真理、生命」(ヨハネ14・6)であるキリストにおいて、 人は宗教生活の充満を見いだし、キリストにおいて神は万物を自分と和睦させた。 従って、カトリック教会は自分の子らに対して、キリスト教の信仰と生活を証明しながら、 賢慮と愛をもって、他の諸宗教の信奉者との話し合いと協力をとおして、 かれらのもとに見いだされる精神的、道徳的富および社会的、文化的価値を認め、 保持し、さらに促進するよう勧告する。 「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(2.キリスト教以外の諸宗教)抜粋 司教パウルス「神のしもべたちのしもべ、聖なる公会議の諸教父とともに、ことを永遠に記念するために」 ロ−マ聖ペトロのかたわらにて 1965年11月18日 カトリック教会の司教パウルス
383 :
南無 :2000/05/23(火) 02:40
>381 やっぱり本来の宗教は支配構造や支配者、権力構造や権力者を否定してゆく一面 を持っていると思います。どこまでも人間存在を相対化し、絶対化を否定して ゆくものですから。本来の宗教というよりも普遍宗教というほうがいい のかもしれません。 逆に支配者や権力者は、自身を絶対化して行くために擬似宗教を必要とします。 このことは幾多の歴史が証明している事柄でしょう。 私達に求められるのはこの擬似宗教を見破る「目」です。私達が欲と二人連れ であればあるほど、この擬似宗教にハマりやすくなって行くようですね。
384 :
きすけ :2000/05/23(火) 17:12
ほんとですね。「クニ」と「国家(権力)」をいっしょにしないように気をつけなければ。 現在の仏教はおおむね、過去の「鎮護国家」を否定していると思いますが。 この辺が、南無さんのおっしゃる<普遍宗教>と<擬似宗教>の差なんでしょうかね。
385 :
南無 :2000/05/23(火) 21:21
>384 >「クニ」と「国家(権力)」をいっしょにしないように まったく同感です。日本において国家が成立したのは明治維新以後だと よく言われますか、確かに維新以前「くに」という言葉には国家という 概念は含まれないと思います。 「貴様、くには何処だ。」 「俺は、土佐のくにだ」 「拙者は、加賀のくにだ」 という具合に「くに」という言葉は概念としてふるさと(故郷)の意味で あったはずです。国家体制や権力構造に永遠や真実などあろうはずが ありません。したがって「鎮護国家」の為の宗教の中に普遍性を求めても 無理というものでしょう。
386 :
この板ビギナー :2000/05/24(水) 00:37
色と金目的で宗教活動やってる教祖は批判されるべきじゃないですか? どうでしょう。 活動した結果、金があつまって色に走ったりするならともかく、はじめから「それ」が目的だったら まずいんじゃないでしょうか。
387 :
名無しさん@1周年 :2000/05/24(水) 03:06
>お金と色(色と欲・愛と金)のことで、宗教がとやかく言われるの、うんざり。 ここがよくわかんなかったんだけど・・・。
388 :
一在家信者 :2000/05/24(水) 19:40
仏教が葬式専門になっているというのは本当にそう思いますけど、 結局のところ、葬式の時にしか仏教と縁が無くなったことが問題だと 思います。僧侶として身を立てるためには、葬式で生活費を稼ぐしか ないわけでしょう? どなたか言われていたけど、本来の仏教の教え は、執着を離れてこの世で極楽の暮らしができるようになることです よね。それに共感して日頃から信者が集まって、お布施をしていれば 葬式にべらぼうな金額を要求する必要もないわけです。 新興宗教の集金力を見ていると、既存仏教だってやる気出せば葬式に 頼らなくても「自立」できると思います。仏教支持者の私としては、 是非「自立」してほしいですよ。南無和尚にエールを送ります。 別に困ってもいないのに、お布施を使って外車を乗り回すような坊さん は論外です。放っておいても地獄行きです。どんなに高位の坊さんでも 例外なしです。私の心の中でお釈迦さんがそう言っている(笑)。
389 :
南無 :2000/05/25(木) 03:14
>386.387 >色と金目的で宗教活動やってる教祖は批判されるべき 色と金目的で坊主やってるのは居るような気がしますね。しかし 教祖となれば意味が違ってくる。現状として「宗教」という言葉 の解釈が広すぎるように思います。欲望というか現世利益を求める ものまでを「宗教」としてしまうのは如何なものでしょう。 「宗教」という以上は普遍的教義を持ち、民族や社会、時代を 超えて公開されたものでなければならないし、それ以外は 「宗教」と呼ぶに値しない。いや「宗教」と呼ぶべきではない と考えます。 >388 新興宗教が持っていて、既成仏教が無くしてしまった魅力とは何でしょうね?
390 :
388>南無和尚 :2000/05/25(木) 08:41
言葉は悪いですけど、「原理主義的な迫力・熱狂」だと思います。 あるいは、「汗と泥にまみれた信仰」とも言えるかもしれない。 喩えは悪いですが、詐欺で捕まった「法の華」だって、自己暗示に よって問題解決できた人が何人かいると思うのです。私の知り合い にもかなり詐欺っぽいという噂のつきまとう教団にはいった人が いますけど、朝に夕にと骨身を削って奉仕に励んでいて、南無和尚 のお言葉を借りれば「いい顔になった」。宗教で人が変わった、と いうのが一番の証だと思うのです。 信仰宗教が活発なのは、現代人の問題を解決してくれそうなものを 持っていることだと思います。時々、それが大風呂敷になって詐欺 事件にもつながるのですけど。既成宗教は常識家ばかりで、良心的 と言えばそうでしょうけど、頼りがいがないように思います。 何だか平穏無事な生活送っている人達が、道楽で宗教やっている人 ばかり...(失礼な表現、お許しください)。これはキリスト教も 同じです。自分の外側にしっかり垣根を作って、社会の不幸が及ば ない安全地帯で信心している。泥まみれの自分が入るには、門前が あまりに清潔すぎる。 善人善女だけで信仰やっていては駄目だと思います。蓮の花は泥から 咲くと言いますが、既成宗教はその泥(あるいは泥まみれになると いう覚悟)が欠乏しています。
391 :
きすけ :2000/05/25(木) 16:41
>390 同感。 法の華が、金銭のトラブルで訴えられているのが、脱会者が金銭への執着を 離れるという救いを得られなかったということが感じられるのです。 金を積んで救いを求めて、救われなかったと言って、「金を返せ」と言う。 どこまでも、金(欲)を離れられない人間のおぞましさを感じますね。 >387 「色と金のことで、宗教がとやかく言われるの、うんざり」 と言うのは、なんだか、宗教団体の表面的なところだけで、その教義や、教祖の資質 が判断されてしまうのが、残念なのです。 吉本隆明さんが、麻原しょうこうの宗教カリスマ性を評価しただけで、部外者達の 「オウム憎し」の感情論からの非難をこうむっていましたが、一億総評論家というか、 一億総検察官といった風潮はおそろしいですね。 「サリンを撒くなんて,人間として許せない」と、テレビで唇をふるわせて のたまわっているあんた。あんたが他人事を批評していちばん金もらっとんのやろが。 宗教ってやっぱりそんなにはれがましいことではなくって、恥ずかしい、情けない、 泥々のもんなんでしょうね。 生きるって、手を汚す事だから。生きるって、他のいのちをうばうことだから。
392 :
390>きすけ様 :2000/05/25(木) 20:09
>脱会者が金銭への執着を 離れるという救いを得られなかった >ということが感じられるのです。金を積んで救いを求めて、救わ >れなかったと言って、「金を返せ」と言う その通りですよね。私は同じような問題に出くわす度に、張本人は 御利益を期待した自分なのになあ、と思います。それが理解できない 内は、真の仏教の教えはおろか、「騙した騙された」地獄からいつまで も脱却できないと思います。その仕組みに目覚めさせることが既存宗教 の使命なのに、全く機能していないですよね。まるで御利益信仰の後押 しをしているようにさえ見える。だから、国民からも愛想を尽かされる。
393 :
きすけ :2000/05/25(木) 23:48
本当の救いがどこにあるか、宗教ってやっぱり最終的には、人と人ではなくって、 神様とか、仏さまが相手になるんだと思う。 そう言う意味で、「絶対孤独」のときに、宗教に出会えると思う。 仏教にも「独生、独死、独去、独来」という言葉がある。 お坊さん、ホントの教えを説いてください。そのような場が、あってもオープン じゃないです。
394 :
名無しさん@1周年 :2000/05/26(金) 01:40
生きるってうんこすること。おしっこすること。 天地万物から少しづつ、命をわけてもらうこと。 無理、無駄、むら、危険 を無くそうよね、せめて・・・
395 :
この板ビギナー :2000/05/27(土) 20:34
なるほど、信じる者は、救われるということですね。それは確かに大きな効能でしょうね。 でもやっぱり、だまされて信じ込まされるのはイヤです、私は。 信じるにあたいすることを、やってもらいたいものですね。
396 :
一在家信者>395 :2000/05/29(月) 09:15
それには、まず宗教者の経済的独立でしょう。神道では葬式ができない から、仏教寺院と比較して経営がものすごく苦しくて、言葉は悪いが、 国の補助金で飼われているようなものだそうです。こんな状態で宗教的な 真理など探究できないと思うのです。同様に、巨大教団の傘下にある 寺院も、いわば「支店」で、本店の経営者に全然頭が上がらない。 どうせ儲からないのなら、と「犯罪」に走ったのが信仰宗教の詐欺ビジ ネスでしょう。問題の根本にあるのは、宗教世界の「雇用確保」の問題 なのです。 今のようないびつな構造では、大なり小なり宗教に「騙される」という 問題は避けて通れないです。厳密に言えば、供養料の中にお坊さんの 生活費が加わることですら「騙されている」と感じる人もいるでしょう。 お坊さんも、食っていくためにはしかたがないのに。 ひとつの例ですが、今の少年犯罪の増加に対して、お坊さんがストップを かけられるかどうかが一つの試金石になると思います。青少年の更正など、 社会的な貢献のあった寺院に功績金をあげてもいいじゃありませんか。 総本山ではなく、在家信者や社会の方を向いたお坊さんが、安心して暮ら せる経済システムを確立することが大切だと思います。
397 :
こんらん :2000/05/29(月) 11:40
久しぶりに書き込みます。 そして、少子化、高齢化社会への対応も期待されるが、これは、ビジネスになる 可能性があるので、ちょっと、宗教団体が行うのも、よほどきちんとしなければ、 間違うような気もします。 現在も、多くの特老が宗教法人との関わりをもってますが、一部、ほんの一部、 補助金の悪用(というか私物化)などの問題をもってるとこもあるようですね。 幼稚園などは、仏教系より、キリスト教系のほうが人気があるので、寺の幼稚園 は、園児募集に苦労してるようですね。 昔は寺の日曜学校がどこでもあったのですが、今は激減してますし、仏教青年会 なんて、さらに少ない。ほとんど寺の息子、娘といった状態じゃないでしょうか。 (私は元日校生) 法事や葬式もひとつのご縁と考えるならば、儀式の荘厳さと共に、仏教を伝える 場として、僧侶も参列者も受け取れるようになればと思います。
398 :
一在家信者>397 :2000/05/29(月) 12:56
>幼稚園などは、仏教系より、キリスト教系のほうが人気があるので、 >寺の幼稚園は、園児募集に苦労してるようですね。 これは、皇室が一貫してキリスト教系で子女を育てるという風習 を取り続けていることが大いに働いていると思います。皇室の半分位 はカトリック教徒だという記事を読んだことがあります。 単に、ミーハーな親たちの「皇室ブランド」志向のせいでは?
399 :
名無しさん :2000/05/29(月) 16:49
あの世に救いを求めるのが、宗教 この世の戯言などどうでも良い。
400 :
南無 :2000/05/30(火) 18:22
久しぶりになりました。 >399 「あの世」とはどんな世? 何をイメージしていらっしゃるのでしょう? >397.398 明治になるまでは皇室は仏教徒だったでしょ。 私自身は天皇制に疑問を持っていますので「皇室ブランド」という感覚 がもう一つ解かりません。 >390 一在家信者 さんのご指摘は的をえたものと感じます。 たとえば東(大谷派)の場合ですが、地域によっての寺院数のばらつきに 大きなものがあります。大谷派寺院の少ない地域に寺を移転するとか、 新寺建立をするとかがほとんどない現状です。 特に大都市近辺なのですが、同じ宗派内の寺の新規参入を拒むのは 誰でもない同じ宗派内の既存寺院だという事実です。 何よりもまず開かれるべき教団・寺院というものが逆に根深い 封建体質を強く内存させているということです。 教団や組織といったものに多くは期待していません。 結局は個人、私の所での自覚を深めて行くしかないようです。
401 :
名無しさん@1周年 :2000/05/31(水) 17:06
age_lu
402 :
名無しさん@1周年 :2000/05/31(水) 17:08
____ / - - \ / // ⌒ ⌒ヽ| | ノノ/从从 ) ) _ ヽ (从σ σ | |Σ◎\ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ `λ " ヮ 人 O ̄ ̄ < 世の中、生臭い坊主ばかりでやんなっちゃうわ。 / ` ☆´ ヽ// \__________ | \/^(⊃/ | // ) //⊂) /^⌒^⌒//^\ /^ ^/ ^^ // ^\ / ^^ / ^^ // ^^ ^\ /\/\/\//^\/\/\/\/\ ゚/ / / / / / /\/\/ (___/(___/
403 :
名無しさん@1周年 :2000/05/31(水) 18:55
Λ凸Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ( ´∀`)< モナー法王を敬うが良いぞよ、下僕ども /( ▽ ) | / | | |\ \__________ ∠_(__)_)_ゞ
404 :
名無しさん@1周年 :2000/05/31(水) 21:34
_'、(ノ@`-、 / .レ/ 、_/@` '``''''\\ / //@` ; '@`;('从ハ从l、| .| / / ~/~ ハ´O .´O`l ミ / ∠_ (ハ、'' ヮ"ノハ|./ `、Σ __@` / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ο ξ ̄`┐-勹/ `、ζ ̄ ̄ ̄ / < はにゃ〜ん 。 0 。 .ゝ__<_ノ / `、ζ ` 、-<~ | だからAge! ◯ 。 。 0。 ο ο/~ / ; υ_ζ ` 、>─ `` \___________ 。 _ -─ ' /| ! ハ、ξヾ、、ζ`` ◯ 。 ο 。 / ;--── 'ο | ' / 。 \ ` ─- __ 0 ο 0 // 爪ト` 0 /'√lT ヘ へ 、 0 ` ─- _ `− 、.. ο ◯ @`−、 lヽ\__/ y 。八 ハ ハ ̄~\ <)))≡≡`、._._.ト'≡≡≡≡≡≡≡≡0((☆)) \ `、 ` ' __ノ ο \ \  ̄\ `.- ' \ \ \ ─- \ \ \_ \\ .0 \ \/~) \ 0 ─- _ \_ο \l~~`、) \ \ ◯  ̄ ─- _\__ \_ Ч`(_ノ⌒)┌┐  ̄\ ~\_  ̄ \__ \ \_ L'| `~l'(_ \ ノ ̄~l \ \__ ─ ─- |@`、@`、@`、@`、@`.| |\ノ'~`−、\_几_/ ̄〉 \ \_  ̄ ̄  ̄ ̄\__&☆==|. | \ (___ \. \  ̄\ `l`'`'`'`'|.| \ 〉 \ ──- \ | |\ \(__ \ \. \ _ ̄ ̄  ̄\ \ | .| . ̄\ \) \ \ __ ─- | | | \ \ \__ノ~~〉 \ \  ̄ ̄ ̄ \____ | `| | \ _/ 〈 \ \ \ ._____ -─ |<. | | _/ \_______/ / \__/ ̄\ \  ̄ ̄〉 _ | >| | \ >-─ / \ 卜 〉  ̄)- @` -─ @`|<. |.| |\ ─ \ _/ / \.ノ | 〈
405 :
現職僧侶 :2000/05/31(水) 22:16
はじめまして。昨日この掲示板見つけて一晩で一気に読みました。眠い眠い…。 自分も西本願寺の僧侶をしているものですが、 南無さんの意見、なかなかためになります。 僧侶の職業化などは、自分も考えていたことなので、 同じことを考えておられた方がいて、少しうれしく思います。 それにしても、さまざまなツッコミに冷静に答えていかれる南無さんに 頭の下がる思いです。 自分なぞ、時々「そりゃ違うだろ!」と怒りのレスを書きそうになりました(笑) まだまだ人間小さいです…。 それにしても眠い…。また来ます。
406 :
現職牧師代理 :2000/06/01(木) 07:52
>幼稚園などは、仏教系より、キリスト教系のほうが人気があるので、 >寺の幼稚園は、園児募集に苦労してるようですね。 あ、キリスト教の幼稚園も片っ端からブッ潰れてます。 キリスト教では、 キリスト教系より、仏教系のほうが地元では信用があるので、 といわれてます。結局子供が少なくなったのと、専業に比べて気合いが違うのを そういってるんですかねー。
407 :
名無しさん@1周年 :2000/06/01(木) 08:16
age
408 :
名無しさん@1周年 :2000/06/01(木) 10:09
_ -――- _ / \ 』/ /l] 己己 [lヽ』 _ |』』 / ⌒⌒ ゝ |』 (O) (》 / ( ヘ )) )/ ))|) //|| / ̄ ̄ ̄ ̄ | | | ( l l )ノノ // || < ageる!! v ミ ///// // || \____ ヽ _´ イフヽ、〃〃 || / | T / / \゚;クフ ⊥ / | |ー_/ / ^ ヽ ○ / 〉 ヽ / 〈 | § / | 非 / | ∞
409 :
こんらん :2000/06/01(木) 10:33
>406 知りませんでした。失礼しました。ただ、家の周りでは、キリスト教系の 小中高一貫教育の学園があり、そこの入試対策なども手伝って、キリスト 教系の幼稚園の願書配布時には、前日の夜から行列が出来ていると言う事 です。また、モンテソーリとかいう、縦割り自由保育のようなことも、行 っているところが人気高いようですね。 専業のところは、やはりおっしゃるとおり、気合いがちがいますよね。 (仏教系幼稚園卒園児)
410 :
>400 :2000/06/01(木) 14:50
>私自身は天皇制に疑問を持っていますので「皇室ブランド」という感覚 >がもう一つ解かりません。 皇室ブランドを理解できないということは、本山ブランドも理解できないということである。 それであれば、宗門の看板をはずし、独立ブランドとして単立新興宗教法人を設立するべき。 そのとき、ブランドの値打ちを痛感することでしょう。
411 :
南無 :2000/06/01(木) 21:44
>410です。 貴方は興隆議員団関係の方ですか? 教団内での盲目的な「本山ブランド」信仰が幾多の弊害を生み出してきたという 実感も反省もない言葉ですね。 宗門とか教団とか、ブランド化すべきものではないでしょ。貴方との認識の違い は大きいようです。 ごめんなさい。もし貴方が右翼系もしくは皇室擁護派の方なら論旨がズレてますが。 関連して別のことをお聞きしたいので、またレス下さい。 遅れましたが 現職僧侶 さん、こんにちは!
412 :
>408 :2000/06/01(木) 23:48
さくらちゃんはモナー教のとこが似合うな。
413 :
現職牧師代理 :2000/06/02(金) 00:03
>409 はぁ、おっしゃる通りです。 うちのほうは私が赴任する前に市内に仏教系の大学の付属幼稚園が出来てうちの幼稚園がつぶれました。 すっかり幼稚園ネタになってしまいましたが、私の経験では地道に人間を育てるよりも、 「英会話やってます」「鼓笛隊で練習させます」みたいな、具体的なセールスポイントが必要みたいです。 人間が育つ上で3歳から英語が話せてどうするんだ、オイ (-_-;)
414 :
名無しさん@1周年 :2000/06/02(金) 00:33
都内の場合には、キリスト教系のいわゆる名門幼稚園には、異常にひとが 集まります。有名な神社仏閣の子供まで通ったりしています。 そういえば右翼の親玉の息子が小学校の時に一緒でした。天皇陛下万歳!の ヤツなのに、なかなかたいした度量の親です。見聞を広めるため、大嫌いな キリスト教系学校に親が押しこんだとか、のたまっておりましたが、ほんとの ところはわかりません。まあ普通の仏教徒がキリスト教系学校に子供を通わせる のはわかるのですが、僧侶とか神主が子供をそういうところに通わせて 心配じゃないのですかね。
415 :
>411 :2000/06/02(金) 00:49
>教団内での盲目的な「本山ブランド」信仰が幾多の弊害を生み出してきたという >実感も反省もない言葉ですね。 >宗門とか教団とか、ブランド化すべきものではないでしょ 権威=信用=ブランドみたいなもんでしょ? 1において、ご自分がお書きになった宣伝文句を読み返してみては? わざわざ、真宗大谷派(お東)と書いた理由が不明。 で、いつ本山ブランドをはずして、「元」真宗大谷派(お東)にするんですか? でも、ブランドを否定するわけですから、「元」としてでも看板をつけるのも おかしな話ですね。
416 :
南無 :2000/06/02(金) 01:40
>415です。 真宗大谷派(お東)というのに権威あります? 真宗大谷派(お東)というのに信用あります? あるとお感じでしたら、お礼でもいわなくちゃなりませんね。 私が真宗大谷派(お東)と書いた理由は所属及び身元をハッキリさせるためで それ以上でもそれ以下でもありません。 自分が所属している宗門はブランド化しちゃいかんと感じます。
417 :
>416 :2000/06/02(金) 02:20
>私が真宗大谷派(お東)と書いた理由は所属及び身元をハッキリさせるためで >それ以上でもそれ以下でもありません。 なぜ真宗南無派では駄目なんですか? 真宗大谷派で修行の後、既存の体制に疑問を持ったため離籍ののち単立、 真宗南無派を設立。 でしたら、まだ矛盾点は少ないと思いますが・・ それでも、「真宗大谷派にて修行」というのは、ブランドを利用したことになりますね。 真宗大谷派と書くことにより「身元がハッキリ」するという論理そのものが、既に 本山ブランドを肯定してるということなのでは? ブランドというのは、己がブランドと名乗ったからそうなるものではありませんね。 歴史と信用の積み重ねがブランドです。 仏教をベースとした新興宗教法人を設立し、自分の実力だけで信徒を集め、運営に 成功しているという人に限って、ブランド否定をする権利があると思いますよ。 ま、それでも最終的にそれはブランドになるわけですけど。 あなたの論理は、一言で言えば、「負け犬の遠吠え」です。 選択肢は二つに一つ。新興宗教法人の設立、もしくは、本山の運営役員になることですね。 根本から変えたいのであれば、自分がトップに立ったあとにやったらいいでしょう。 どちらも出来ないくせにここで愚痴るとはみっともないですね。
418 :
>417 :2000/06/02(金) 02:27
うち、実家が四国で、真言宗のなんとかって寺の檀家なんですが 真宗大谷派って真言宗の中の大谷派って意味ですか??
419 :
>416 :2000/06/02(金) 02:35
皇室や本山ってのは、そのものに近い人を権威付けするために存在する。 重要なのは、そのもの本体は、変化しないこと。さらに、権威を維持すること。 それによって、シャワー式に権威に与れる人々が発生する。それが信用及び存在意義。 あ法の華の教祖を見れば、いかに庶民が権威に弱いかわかるでしょう。 世界的に権威のある人と撮った2ショット写真は、教祖の信用に大きく貢献しましたよね。 人間なんて所詮はそんなものです。 ナニナニに近い、よって、自分もそれに準ずるくらい偉い、という論法ですね。 あなたのお寺の開山理由も所詮はそんなものだったことでしょう。皇室と縁戚関係に ある立派なお寺の分派だから信用しても大丈夫とか。 本山、及びブランドを否定するということは、自分の存在そのものを否定している ことに気付いた方がいいのでは? 否定するならするで、さっさと宗門の看板をはずしなさい。 どうせできないしやる気もないでしょ?
420 :
>418 :2000/06/02(金) 02:37
>真宗大谷派って真言宗の中の大谷派って意味ですか?? 浄土真宗大谷派ってことでしょ?
421 :
名無しさん@1周年 :2000/06/02(金) 02:47
>417 南無さんが身元をはっきりさせるためと言ったのは、自分が日本人と言うのとおんなじじゃないでしょうか? あなたの理論だと、名前のついているものはすべてブランドになると言っているようにも思えるんですが? なんだかお互い、あいての言葉尻捕まえて話してるような気が・・・。 >418 浄土真宗の大谷派です。
422 :
現職僧侶 :2000/06/02(金) 02:52
あの、南無さんが言いたいのは、ブランドブランドって言ってむやみに名前だけでありがたがるのをやめてほしいと言うことじゃないですか? ちがうかな?
423 :
南無 :2000/06/02(金) 03:03
415で権威=信用=ブランド。 417で歴史と信用の積み重ねがブランド、と規定されてますが、 これらの中で私が真宗大谷派にかんじるのは歴史だけですね。 >皇室と縁戚関係にある立派なお寺の分派だから信用しても大丈夫とか。 皇室と縁戚関係にあると立派なお寺だという発想が解かりません。 人間的自立ということは一人で立ち、歩めるということ、何かの権威を 後ろ盾として必要とすることではないでしょう。 したがって真宗大谷派という名乗りは自立した主体的求道者の集団という 意味であって欲しいと願いますね。
424 :
南無 :2000/06/02(金) 03:08
名無しさん@1周年 さん、現職僧侶 さん、助けて頂きまして ありがとう。 どうも私は思慮も浅く、文章力もないもので・・。
425 :
現職僧侶 :2000/06/02(金) 03:16
>南無さん いえいえ。 南無さんの話はかなりわかりやすくて現職坊主としても、再勉強になります。 今度一杯飲みますか?←こういうこというとまたツッコまれるかも(笑)ツッコまないでね。
426 :
横レス(哲学徒=パンタカ) :2000/06/02(金) 06:37
>417、419 >歴史と信用の積み重ねがブランドです。 宗教の教義における哲理の側面の重要性は、世界宗教なら当然で、 仏教でも三宝のひとつに「ダルマ(法)」がありますね。 しかし、しばしば見失いがちですが、宗教では「共同性」もそれに劣らず大切ですよね。 仏教では「サンガ(僧)」になるのでしょうか?信仰者のあつまり、のことですね。 キリスト教でも「アガペー(愛)」を大切にするように、仏教でも「慈悲」、 信仰者同士が苦しみも喜びも悲しみも、自分のことのうように分かち合うこと(Compassion)を 大切にしようとする共同性のことです。 これは、まさに宗教の本質にかかわりますね、現実に存在する「共同体」としての宗教団として。 re-ligion(宗教)の語源が、再び(re)本来の関係に結び付ける(ligio)という説があるように、 長い歴史を背景とした、本来の「共同性」を取り戻そうとする心情に、宗教の本質が見て取れるわけです。 そこには、「自分は何者で、何故ここにいて、何処から来て、何処に行くのか」という 人間にとって根源的問いが横たわっている事は言うまでもありません。 歴史と信用の積み重ねが、一方で権威主義を生み、権力権勢の維持拡大に利用されるのも事実ですが、 そこにばかり目を奪われてしまうのは、まさに自分が現実をそのようにしか見られず接しられないことの 裏返しでもあるでしょう。それが「ブランド」としか捉えられないのは、自分の卑しさの証でもあると思います。 人々が命を賭してまで信仰してきたという歴史の重みは、宗教の共同性の本質のひとうを構成するものです。 「ブランド」などといって安易に否定できるようなものでは決してないと思います。 (もちろん、その共同体の構成員が、権威主義に堕した集団を改革しようと批判したり再結集するのも大切です。 宗教改革や鎌倉新仏教は、その良い例ですね。常にそのような批判的動きが内部にないと、これまたその宗教団の共同性は死んでしまうでしょうから。
427 :
age :2000/06/02(金) 12:05
/ _ ( /⌒ / ⊃ \ γ \( - 、 / ̄ ̄ ヽ、 ) /γ_ ⌒ ⌒ \ ヽ ) / ̄ ̄ ヽ、/ 〜 // __ ⌒\ \ ヽ / / γ / ヽ ヽ/ / / / / / / / / | / / 〆 ( / 〈 〈〈 〈 〈 _ ノノ | / / ./ ( `| @` - 、 TTヽ | / / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ γ⊂⊃ __  ̄O/ / / < はにゃ〜ん、まだねむいよ〜 / 从\_ ト ) ノ /@` / \__________ /´ ̄ ̄ ̄ ̄ //⌒\ ん / / ( | | 」// / ヽ ゝ ヽ ヘ 」 / / \  ̄ ̄ ̄|☆V ☆/ ヽJ \ / |/ \/ /
428 :
名無しさん@1周年 :2000/06/02(金) 13:23
_ @` '⌒ ⌒\ \\ ノ// ヘヘ、 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ '(○) |||)、 < 宗教滅びよ!! ' 'へ゛ーノ \______ ( ヽ\_ _ | \___《_) |__| |_|_|_|_|ゝ _ ∧ ∧ ハニャーン |__| \\ ドカッ / ( ゚Д゚) | | \\_〜′/U U |__| 彡\/ UU | \
429 :
ゴンベ :2000/06/02(金) 13:54
スレッド内容から外れますが 南無さん 真宗大谷派の住職として 浄土真宗東本願寺派を如何お考えでしょうか?
430 :
こんらん :2000/06/02(金) 14:39
私の場合、たまたま子供の頃から色んな意味でそばにあったお寺さんが、 浄土真宗本願寺派(お西)だったのが、親鸞聖人との関わり始めでした。 遠くにあったものを、名前や教義などで選んで関わっているのではありません。 ただ、「変だ」とか「まちがっとる」とかは、そんなに思ったことないので、 今まで続いています。
431 :
>421 :2000/06/02(金) 15:21
>南無さんが身元をはっきりさせるためと言ったのは、自分が日本人と言うのとおんなじじゃないでしょうか? そうだと仮定しましょう。 で、南無和尚は、自分は日本人だといいつつ、日本人を否定するわけですね。 じゃ、日本人じゃなくなるしかないでしょう。 ですから、あなたはいつ日本人をやめるんですか?と聞いているわけですが。 もしくは、日本人という集合体そのものを否定し、改革を希望するのであれば、 具体的にどうするつもりなのかを問うています。 どうやら、何らヴィジョンは無いようですね。 結果として、南無和尚の言い分はただの愚痴。 愚痴ってる自分を正当化するためにあがいてるだけです。 いわば、日本人パスポートを所有し、日本人であることの恩恵は利用するけれども、 日本人をやめるつもりもなければ、自分が旗揚げして改革する実力も無いにも かかわらず、組織について語るとは自己過信もはなはだしいところ。
432 :
>423 :2000/06/02(金) 15:28
>人間的自立ということは一人で立ち、歩めるということ、何かの権威を >後ろ盾として必要とすることではないでしょう。 ですから、いつ本山ブランド看板をはずすのですか? 権威の恩恵に与っておきながら、その権威は不要のものだと言い放ったわけですから、 いつまでもブランドを利用しつづけるのはおかしな話になってしまいますね。 あなたが現職の坊主として生計を維持できているのは、元々の土壌があったからでしょう? 実力でなったわけではありませんよね。 実力が問われるのは、本山の運営役員以上です。 最末端に位置しておきながら、あたかも発言権があるかのような錯覚を一般人に 与えるのは、いわば詐欺です。 本山のお偉いさんに会うときには、頭を地べたにすりつけんばかりにコビを売る タイプですね。 ま、そもそもそういう人達に会うチャンスなんかないでしょうけど。
433 :
> :2000/06/02(金) 15:34
しかし・・浄土真宗という宗派はおもしろいように分派を繰り返しますけど、 これは、教義そのものに難有りなのではないかと疑わずにいられませんね。
434 :
業者 :2000/06/02(金) 16:42
>431&432さん 南無さんが身元をはっきりさせるためと言ったのは、 最低限ここの掲示板での、自己紹介と感じませんか? 真宗大谷派も、ご存じのない方もいらっしゃるかも 知れませんよね。 仮定に関してのコメントは421 さんの感じる言葉尻の虚しいものだと感じますが、、。 御本山には総務等、各宗務所の部署があります。又、 全国に別院・教務所もあります。アメリカ・ブラジル等 海外にも別院・開教部署もありますよ。輪番・所長・部長 お偉いさんなんでしょか?そう感じる人は、人です。 貴方が御本山の御偉いさんと称する方は、どの方 でしょうかね。営利団体では無いのですから、 末寺の住職がコビ等を売る世界じゃ無いですよ。 末寺は、支店とは違います。 コビを売り何も利益等ありませんから。
435 :
業者 :2000/06/02(金) 16:55
>433さん 真宗十派 何も面白いように分派を していませんよ。繰り返していませんよ。 っと、浄土真宗東本願寺派の設立は、 教義とは全く無関係です。
436 :
眉山 :2000/06/02(金) 19:38
>434 僕もそう思うんですよ。 真宗大谷派って名前はどっかで見たかもしれないけど (お東)っていい方ははじめて知ったし。 真宗大谷派と聴いて見てる人が「おお、あの真宗大谷派の!ありがたや・・・」 なんて思うと思っている人の方がどうかしてますよね。 南無さん、はじめて書き込みます。 なんか南無さんの発言を読んでほっとしたってのが これまでの感想です。がんばってください。
437 :
名無しさん@1周年 :2000/06/02(金) 20:17
油DE揚げる
438 :
>434 :2000/06/02(金) 22:55
>南無さんが身元をはっきりさせるためと言ったのは、 >最低限ここの掲示板での、自己紹介と感じませんか? ブランドを否定する人間が、なぜに所属先を自己紹介に使ったのかが疑問だと言ってる んですよ。 別に、ただの僧侶でいいじゃないんですか?わざわざ所属先なんか書かなくたって。 自分の所属先にプライドを持てないくせに、その所属先を書くのはなぜかってこと。 いわば、会社の名刺を配りながら会社の悪口を言ってるようなものです。 さっさとやめたらいいじゃないですか? >御本山には総務等、各宗務所の部署があります。 さらに上もあるでしょうに。 >末寺の住職がコビ等を売る世界じゃ無いですよ。 >末寺は、支店とは違います。 >コビを売り何も利益等ありませんから。 だから、末寺を名乗るのをやめたらいいんじゃないですか? なぜやめないのかを問うています。 全く利害関係が発生しないのであれば、やめたらいいと思いますけど。
439 :
>436 :2000/06/03(土) 00:21
>真宗大谷派と聴いて見てる人が「おお、あの真宗大谷派の!ありがたや・・・」 >なんて思うと思っている人の方がどうかしてますよね。 どうかしてる人がこのスレッド前半にいくばくかいるようですよ。 ありがたがってた人いませんでしたっけ? 南無和尚のしていることは、発言権無しの雑魚にもかかわらず、真宗大谷派を語る 内部告発なわけで、真宗大谷派の権威を傷つけています。 だから、早々に看板をはずすことをご提案申し上げています。 で、いつはずすんですか? 破門されるまで粘ります? もしくは破門できるもんならやってみろ、と開き直りつつ看板を利用します?
440 :
南無 :2000/06/03(土) 00:25
>431.432.438です。 教団あるいは宗門というものは、組織それ自身や貴方の言う本山のお偉いさんが 「尊さ」や「権力」を持つ訳ではないでしょう。それらに依存する人間の集団に なってしまえば、それこそ本山のお偉いさんが絶対者になってしまう。つまりは カルト教団です。大谷派の宗憲には「同朋社会の顕現」という表現が使われて います。まず個々の自立(真宗的には信心の確立)あるいは自立しようという決意 が求められ、そのような同じ朋がらの集団の名として真宗大谷派という名乗りが あるのでしょう。尊ぶべきことは組織ではなく、教義であり、教義に依って 生きようとする姿勢です。まぁ現実は娑婆ですから色々な選択肢が出てくるでしょう。 独立するのも結構、留まるもの結構。どこを向いて歩むかでしょ。 何を選び取るかでしょ。私は宗門のブランド化を選ばないということです。 そうゆう者までを包括して現在の大谷派が成り立っているということです。 ある種、健全な在り方だろうと思いますけど。 ガチガチに二元的になる必要はないと思いますが。「踏ん張る」という言葉、 勿論私を筆頭に大谷派の坊主が受け止めなければならないのではと思います。
441 :
>440 :2000/06/03(土) 00:43
権力に守られている立場(しかも実感無し)ならではの意見ですね。 上の方で、8万円払うと院号が本山からもらえるとかなんとか書いてましたね。 これ、おかしいんじゃないですか? なぜ、あなたの寺で、あなたの権限によって院号を発行できないんでしょう? 8万円がなぜ本山に行かねばならないんですか? 本山に権威が無いというのであれば、本山を維持する必要もなければ、8万円払う 必要なんかそもそも無いはずです。 宗費とかもあるんじゃないですか?すなわち看板利用代。ロイヤリティですね。 こういうのだって、払う必要無いと思いますけど? そしたら、その分お安く院号を提供できるんじゃないんですか?
442 :
>440 :2000/06/03(土) 00:52
>教団あるいは宗門というものは、組織それ自身や貴方の言う本山のお偉いさんが >「尊さ」や「権力」を持つ訳ではないでしょう。 この意見は、寺院名を名乗った上で直訴してみたらどうですか? しないとすればなぜ? まさか、自分はリスクを負いたくないけれども、あなたの意見に煽動されたどこかの あほうが代わりにやってくれるのを待ってるわけでもないんでしょう?
443 :
>441 :2000/06/03(土) 01:05
あっははは! バカじゃねえの、こいつ。 寺を小売の流通業者かサービス業者かなんかと思い込んでやがる。 こんな連中が、金払うだけ払って、期待してた御利益が得られなけりゃ、 詐欺だ云々、とかいって逆恨み、で、また別の業者=新興宗教に鞍替え。 ま、金に執着しかしない亡者って自覚が無いだけか、ふふふ。
444 :
>442 :2000/06/03(土) 01:11
やってるじゃん、大谷派はいつも、内部でゴタゴタ。 伝統教団じゃ、一番やってんじゃないの、内部での改革運動を。 終戦直後GHQが直接はいってないんで、ずっと改革遅れてたって事情もあるだろうけど。 ま、こんなとこで名乗って批判しても、効果なんて考えられないし、 そんな、つまんないことやるほどバカじゃないいてことさ、南無さんは。
445 :
>443,444 :2000/06/03(土) 01:18
あんたに聞いたんじゃないって。 それともなに?あんた南無なわけ? かもね。
446 :
>443@`444 :2000/06/03(土) 01:31
しかしまぁ・・・あきれるね。 自己正当化するためには何でもありってやつ?
447 :
南無 :2000/06/03(土) 01:44
>441.442です。 貴方の仰る「本山の権威」「権力」とは何でしょう? >寺院名を名乗った上で直訴。 やっぱズレてますね。 お偉いさんのトップを宗務総長としても総長が貴方のいう 権威・権力を持ってると勘違いするほど、大谷派は腐ってませんね。
448 :
>445 :2000/06/03(土) 01:53
ははは、わるい、わるい。 バカなこと書いてるの見たんで、思わずカキコしちゃったんだよ。 ごめんな、南無さん引き出して、イジメたいだけだったんだね。 そんな卑しい根性に配慮できなくて、さ。 ふふふ!
449 :
>438 :2000/06/03(土) 04:46
>ブランドを否定する人間が、なぜに所属先を自己紹介に使ったのかが疑問だと言ってる んですよ。 >別に、ただの僧侶でいいじゃないんですか?わざわざ所属先なんか書かなくたって 最初の書きこみで南無さんが言ってるのは、お東の檀家さんで儀式の事がわからずに困っている人などの質問を受けるという意味でしょう? だったら所属先を明記するのは当然で、単なる自己紹介としてみたほうがいいでしょう。 あとあなたのレスを見ていると、あなたのほうがみょうに本山なんかをブランド視しているように見えるんですが。 そういうのをやめてもらいたいと南無さんは言ってるんではないっすか?
450 :
名無しさん@1周年 :2000/06/03(土) 07:35
141、142は粘着質のバカということで決定。 よほど恨みがあるんだろうね。おーこわ。
451 :
名無しさん@1周年 :2000/06/03(土) 12:29
age_lu
452 :
>449 :2000/06/03(土) 13:32
>最初の書きこみで南無さんが言ってるのは、お東の檀家さんで儀式の事がわからずに困っている人などの質問を受けるという意味でしょう? だったら儀式に関するもの以外の質問には答えるべきではなかったのでは? 宗派を代表するかのような書き方に違和感を覚えますね。 それをやりたいのであれば、最低限寺院名は書くべき。
453 :
>447 :2000/06/03(土) 13:40
>お偉いさんのトップを宗務総長としても総長が貴方のいう >権威・権力を持ってると勘違いするほど、大谷派は腐ってませんね。 だから、声を大にして寺院名を名乗った上で、少なくとも宗務総長には何の存在価値も 無く、実力も権力も無い、と本人の目の前で叫んだらいいじゃないですか? あなた一個人の意見にもかかわらず、なぜ集合体である「大谷派は」という言い方を するんですか? あなたに宗派を代表して語る権利は無いはずです。 とにかく、一人芝居はやめなさい。
454 :
449 :2000/06/03(土) 13:48
>452 べつに宗派を代表するかのようには書いてないでしょう? それに寺院名を書くべきって、書くと直接誹謗中傷をいいにいっちゃう人とかもでるかもしれないじゃないですか。 個人の情報はある程度守られるのがネットの常識でしょう? そんな事言い出すならなら、あなたも個人情報公開するべきでは?
455 :
名無しさん@1周年 :2000/06/03(土) 16:51
はにゃーんだから、age!!
456 :
南無 :2000/06/03(土) 18:24
>452.453です。 最初の方(25)で お断りしておきますが、このスレッド全体が私個人の私見ですので宗派とは 関係がありませんので悪しからず。 とことわった筈ですし、またことわらなくても私が宗派を代表していると考える のは思いっきり不自然、不可解です。あなただけだろうと思います。 >少なくとも宗務総長には何の存在価値も 無く、実力も権力も無い、と本人の目の前で叫んだらいいじゃないですか? 貴方の日本語と私の日本語が違うのかもしれませんね。 存在価値が無いと言ってはいないはずですが、総長という職権についた実務 は多忙だろうと思いますし、代表権や決定権は大きな意味を持ちますね。 しかし、それは人に付いたものではないということです。 それと「発言権」とか「語る権利」とか言われてますが、そんなもの権利が 必要なのですか?「同朋公儀」と言う言葉知ってます?
457 :
名無しさん@1周年 :2000/06/03(土) 20:24
そうそう、25でたしかにそうことわってますよね。
458 :
名無しさん@1周年 :2000/06/03(土) 20:30
453ってほんと粘着質。怖い。
459 :
>454 :2000/06/04(日) 02:31
>454 >べつに宗派を代表するかのようには書いてないでしょう? 440において >「踏ん張る」という言葉、勿論私を筆頭に大谷派の坊主が受け止めなければならないのではと思います。 と語ってますけど? この書き方おかしくありません?自分のことを坊主呼ばわりするのは結構ですが、 その他を含めて「大谷派の坊主」という表現は上に立つ人が遣う表現でしょう。 さらには、 >真宗大谷派(お東)というのに権威あります? >真宗大谷派(お東)というのに信用あります? >あるとお感じでしたら、お礼でもいわなくちゃなりませんね。 これらも、組織中枢に位置する人が遣う表現です。権威を真っ向から否定するあなたは 何様?ですね。 まさに、権力に守られている実感の乏しい最末端ならではの表現。 >それに寺院名を書くべきって、書くと直接誹謗中傷をいいにいっちゃう人とかもでるかもしれないじゃないですか。 そりゃいるでしょうね。そういうリスクを負わずして体制に刃向かう事自体おかしくありません? >個人の情報はある程度守られるのがネットの常識でしょう? 常識なんかじゃありませんよ。個人情報は守られるものではなく、自分で守るものです。 どこかで何かが漏れてたとすれば、自己責任です。 >そんな事言い出すならなら、あなたも個人情報公開するべきでは? 私は匿名で体制批判なんかしていませんよ。
460 :
名無しさん@1周年 :2000/06/04(日) 02:33
ここは荒らしちゃだめだって。 煽りもだめ。
461 :
>456 :2000/06/04(日) 02:40
>お断りしておきますが、このスレッド全体が私個人の私見ですので宗派とは >関係がありませんので悪しからず。 宗派に属していることをうたいつつ、宗派の既存のマニュアルに沿った教育を受けた にもかかわらず、批判するときには、「断り書きがあるから、何を言っても許される」 という論理を展開するわけですか。 随分とご都合主義のようですね。 >代表権や決定権は大きな意味を持ちますね。 >しかし、それは人に付いたものではないということです。 人に付いたものですよ。じゃないと選ばれる理由が無いじゃないですか。 >それと「発言権」とか「語る権利」とか言われてますが、そんなもの権利が >必要なのですか? 必要ですよ。体制を批判するならね。 体制に立ち向かうときには、自分のすべてを投げ出すくらいの心意気でやってもらわ ないとね。 いいように中傷された方はたまったものじゃないでしょうしね。 それも内部告発を演じた形でね。
462 :
名無しさん@1周年 :2000/06/04(日) 02:41
みなさーん。459は無視してOK みなさーん。459は無視してOK みなさーん。459は無視してOK みなさーん。459は無視してOK
463 :
> :2000/06/04(日) 02:45
で、なんで看板をはずさないのかという質問と、8万円払ってまで権威の無い本山から わざわざ院号をもらうのかの質問には答えないわけですね。
464 :
名無しさん@1周年 :2000/06/04(日) 02:46
461も同様。461も同様。461も同様。
465 :
>462 :2000/06/04(日) 02:48
別に無視してもかまいませんよ。 答えられるわけないんですから。 まともに答えたら南無寺の存在意義が根底から揺らぐわけですから(爆笑)
466 :
> :2000/06/04(日) 02:50
真宗南無派を設立するのが先か、ホームレスになって職安に行くのが先かが見物ですね。 では、これにて失礼。
467 :
名無しさん@1周年 :2000/06/04(日) 03:36
南無氏にから見ついてる奴うぜえよ。 >体制に立ち向かうときには、自分のすべてを投げ出すくらいの心意気でやってもらわ >ないとね。 自分の主義を人に押し付けるなよ。 だれもお前になんか賛同してないぞ
468 :
>467 :2000/06/04(日) 03:53
きっとサビシイんじゃない?現実社会じゃ誰にも相手して貰えなくて。 で、せめて、南無さんに優しく諭して貰いたいんだよ。 自分の意見が絶対正しいように思い込んでるトコ見ると、 そんなパラノイア君としか思えませんな。 こんな迷える人にも応えていかなくちゃいけないなんて、宗教家もタイヘンだな、ふふふ。
469 :
名無しさん@1周年 :2000/06/04(日) 08:04
アチャーという感じですが気を取り直して >463です。 「なんで看板をはずさないのかという問題」と 「8万円払ってまで権威の無い本山からわざわざ院号をもらうのかという問題」ですね。 まず、なんで看板をはずさないのかという問題については、いままでのレスの中で 触れて来たつもりなのですが、まとめてみますと 大谷派という宗門(教団でもいいですが)に愛着はあります。生まれて以来ご縁の あったとこですから。その大谷派という宗門に「尊さ」も感じます。両堂に入った 折りなどは特にそうですね。何が尊いのかと言うなら、その両堂(建物という意味 ではなく、それらに代表される教えに帰する姿勢)を中心にして、それこそ無数の 名も無き念仏者・妙好人達の存在に対してです。明治の初めまでに東本願寺は何度か 火災で両堂を焼失していますが、焼失の度に以前よりも大きな両堂を再建して来た 歴史がありますね。それらは法に目覚め、法に生き、仏法相続を願い、我々に伝えて くれたものでしょう。宗門の権威付けの為ではないでしょうし、ましてや法主・門主 の権威付け、或いは総長の権力強化のためではありません。宗門に権威付けは無用です。 宗門の尊さ(大谷派に限らず、本願寺派をはじめとしてすべての宗派もそうですが) は、そうした名も無き念仏者・妙好人達を生み出して来たという事実にこそあるのでは ないですか?また、それだけが宗門の存在意義なのでしょう。そうした宗門である ために坊主(僧籍を持つ者)が御門徒と対峙?して「踏ん張って」いるのでしょう。 つぎに8万円払ってまで権威の無い本山からわざわざ院号をもらうのかという問題 ですが、貴方は「8万円払って本山から院号を買う」ように思ってません? 院号も収骨も「相続講」の章典ですよ。 >465です。 >まともに答えたら南無寺の存在意義が根底から揺らぐ 寺の存在と住職の存在を混同してますね。どんな住職のいる寺でも 寺自体の存在意義は何ら変りません。
470 :
南無 :2000/06/04(日) 08:07
すみません。469は私です。 ネームわすれました。ごめんなさい。
471 :
名無しさん@1周年 :2000/06/04(日) 08:13
ちょっと聞きたいんだけど、 1にあったような「儀式全般に対する質問」って どの程度考慮してます? 仏教の「儀式」なんて自分が死んだときくらいしか 思いつかないんだけど
472 :
南無 :2000/06/04(日) 08:25
>471です。 >どの程度考慮してます? この意味がもう一つはっきりわかりませんが、仏事全体を考えて 頂いて結構です。葬儀もそうですが、年忌法要や月参り、 また寺でやっている行事、あれ、何やってるのって具合に。 現実的には何しなくちゃいけないのとか、どうやって やるのとかの方が多いかもしれませんが。
473 :
現職僧侶 :2000/06/04(日) 19:26
あらー、ちょっと見ない間に大変でしたね南無さん。 がんばってください。応援してます。
474 :
デイトレダー :2000/06/04(日) 22:31
いつもは、株式板、ちくり板、アナウンサー板に参加していますが はじめてここに来ました。 なんか現実味ないように思います。 私にとって一番の思い出は、講義中騒いでいた私たちに 『君たちには信心がない』と激怒されチョークを投げられた 松原祐善先生でした。 ほんとみんな信心がないなあ。
475 :
名無しさん@1周年 :2000/06/05(月) 11:15
age_lu!!
476 :
名無しさん@1周年 :2000/06/05(月) 14:22
南無さんが発言する度に、真宗大谷派のイメージはよくなってるように思う。 南無さんに色々言うひとは、寺を捨てろとか宗門を捨てろと言う前に 「自分も真宗大谷派の坊主だけれども、南無さんと違って これこれこういうふうに考えている。」 というふうに議論すべきなんじゃないのかな。 本山独裁と抑圧される末寺ってイメージが浮かんでくる。
477 :
名無しさん@1周年 :2000/06/05(月) 14:26
絡んでる人って、意外にもそこのところを計算した上でやってそう 実は頭いいのか?
478 :
現職僧侶 :2000/06/05(月) 14:33
あのー、末寺が必ずしも抑圧されてるわけじゃ無いですよ。 自房はお西ですけど、末寺一つ一つが本山の代表でもあるわけですし、本山は要は末寺一つ一つの集合体みたいなもんですよ。 そりゃ教団の統一という意味では本山は大きな役割を持っていますけど、結局末寺が無かったら本山も成り立ちませんよ。 確かに本山のやり方でここはおかしいというところもありますが、少しづつ、ほんとに少しづつではありますが改正されていってることも事実です。
479 :
名無しさん@1周年 :2000/06/05(月) 14:35
>477 ただの仏教オタクでしょう。
480 :
南無 :2000/06/06(火) 00:41
ゴンベさん、遅くなりましたが >429です。 >浄土真宗東本願寺派を如何お考えでしょうか? このことについては幾つか感じることがありますが東本願寺派成立までの事柄 として2つ。東本願寺派成立後の事柄として1つだけ感想を述べます。 まず、東本願寺派成立までを考えた時、一番に思われるのは大谷戦争とまで 言われた紛争は一般に言われる大谷家VS内局という構図ではなく、実際は 四男氏VS内局という構図だったのだろうということだす。前門主と共に 四男氏は東本願寺の大谷派からの独立を画策しましたが、当時より他の 兄弟方の考え方や行動はほとんど伝わっては来ませんでした。つまり各人 がバラバラだったという印象です。現在につながるその後の方向は 長男氏は東本願寺派への分派。 二男氏は東本願寺維持財団理事長への執着。 三男氏が現門主という経緯ですが、末っ子に翻弄されたという感想です。 つぎに、あの一連の事件の中で全国の大谷派末寺の内、200以上の末寺 が大谷派からの独立の道を選びました。(その全てが東本願寺派では ありません)宗門全体の大きな問題であったのですが、実際には 宗門内の坊主世界の問題にしかならなかったのではないかということです。 宗門は坊主だけのものではなく、御門徒全体を包括したものであるはずなのに 実際には大多数の御門徒が外に置かれたままだったと思います。 独立を選んだ末寺に置いても、独立という決定に御門徒全体の総意の確認が なされていたのか否か、甚だ疑問です。 最後に東本願寺派成立後の事柄として思うことは、分派した以上は教法の聞信 に精進して頂きたいと願うだけです。ある種身軽な動きが出来るのでしょうから 独自な展開を期待したいと思います。
481 :
名無しさん@1周年 :2000/06/06(火) 02:59
揚げだ揚げ!!
482 :
すけきよ :2000/06/06(火) 15:03
>474 デイトレダーさま 他人の信心があるとかないとか、余計なお世話。 ちょっと自分が優れてると思ってしまうと、そんな事言い出すんだよね。 研修会なんかで、「(私は聴聞しているから大丈夫ですが、)聞かない人は 救われるんでしょうか?」とか、質問する人いるでしょう。 「他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。 よくよくこころうべきものなり。」 あ、自分か。
483 :
デイトレダー :2000/06/06(火) 16:16
>484 みんなとは私を含めてみんなです。 ほんと信心がないんです。
484 :
業者 :2000/06/06(火) 16:44
南無さん いつも ご苦労様です ゴンベこと業者でした。浄土真宗東本願寺派に関しまして よい意見を有り難う御座います。 各 中○新聞他等の記事より、とても、参考になります。 独立寺院も地域によって、様々な、お考えを持っていらっしゃいますね。 独立した寺院へも、ですが。 独自な展開を私も期待しています。 合掌
485 :
名無しさん@1周年 :2000/06/06(火) 23:14
age_ru
486 :
名無しさん@1周年 :2000/06/07(水) 05:04
南無阿弥陀仏
487 :
名無しさん@1周年 :2000/06/07(水) 23:12
age!!
488 :
すけきよ :2000/06/08(木) 19:41
信心の有無については、自分で判断しかねるというところでしょうか。 信心=無疑とすると、有無は言えない。
489 :
ゆうち :2000/06/08(木) 20:05
信心に形があると考えると、自力になってしまうんでしょうね。 無疑=信心というのが、それを表していると思います。
490 :
親鸞会系元信者 :2000/06/10(土) 10:30
掲げる!!
491 :
名無しさん@1周年 :2000/06/10(土) 22:01
南無阿弥陀仏氏ね
492 :
名無しさん@1周年 :2000/06/11(日) 12:21
揚げる!!
493 :
名無しさん@1周年 :2000/06/11(日) 17:01
となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして もとい となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだぶつ てか
494 :
名無しさん@1周年 :2000/06/12(月) 11:04
/ _ ( /⌒ / ⊃ \ γ \( - 、 / ̄ ̄ ヽ、 ) /γ_ ⌒ ⌒ \ ヽ ) / ̄ ̄ ヽ、/ 〜 // __ ⌒\ \ ヽ / / γ / ヽ ヽ/ / / / / / / / / | / / 〆 ( / 〈 〈〈 〈 〈 _ ノノ | / / ./ ( `| @` - 、 TTヽ | / / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ γ⊂⊃ __  ̄O/ / / < はにゃ〜ん、まだねむいよ〜 / 从\_ ト ) ノ /@` / \__________ /´ ̄ ̄ ̄ ̄ //⌒\ ん / / ( | | 」// / ヽ ゝ ヽ ヘ 」 / / \  ̄ ̄ ̄|☆V ☆/ ヽJ \ / |/ \/ /
495 :
名無しさん@1周年 :2000/06/15(木) 02:20
南無さん、こんにちわ。まだいらっしゃいますか? 情けない質問なんですが、お坊さんの呼び方についてです。 私はどの宗教にも属してしないので特に疎いようです。 お坊さんと呼ぶことにも、なにかしら躊躇があります。 特にお坊さんに呼びかけるときには困ります。 お寺持ちだと分かっていれば「御住職」と呼べますし 年配の方でしたら「老師」とお呼びするのですが、 そうでない方には呼びかけすらできません。 何が正しくて何が誤り、といったたぐいのものではないのでしょうが 気になっています。 私が現在している呼びかけの適否(?)やご感想も含めて 御教授お願いします。
496 :
>495 :2000/06/15(木) 05:32
南無さんではありませんが、参考までに。 私の地方の浄土真宗のお寺の住職さんには、 御院家(ごいんげ)と呼んでいます。 お参りに来てくれるお坊さんは、具体的にXXさんと、名前を呼ぶか、 そこのお寺の名前で、△△寺さん、とか呼んでます。 学校や福祉の現場では、XX先生、と呼んでます。商売人さんもそうみたいですね。 あと、えらい高僧には和上(わじょう)と呼んでいるようです。 ちなみに、和尚(おしょう)と呼んでいるのは見た事無いです。 ちかくに禅宗のお寺が無いせいでしょうか。 とにかく地方や宗派によって違うようなので、 周りの人が、どう呼んでるかに合わせるのが一番だと思います。 私の場合、宗派など何もわからないときには、XX先生、か、ただ、先生、と呼んでいます。
497 :
現職僧侶 :2000/06/15(木) 08:58
>495 ウチの親父は「おっ様」って呼ばれてます。「和尚様」がなまったものでしょう。 ちなみに私は「若様」です(笑) こっぱずかしい〜。
498 :
495 :2000/06/16(金) 01:42
>496さん 早々の御返答ありがとうございます。 「御院家」という言葉ははじめて聞きました。他の宗派の方にも通じるのでしょうか? また、お寺持ちでないお坊さんにはもちいないものでしょうか? 私はお坊さんのお名前を知らない場合が多く、××さんとか××先生という 呼びかけは難しいです。 「先生」というのは、あるお坊さんが他のお坊さんをそう呼んでいるのを 聞いたことはあるのですが、僧侶でもない私が「先生」と呼ぶのはどうか、 という気がしていました。 (この感じを分かって頂けますでしょうか?たとえば私が何らかの修行を していれば、自信をもって「先生」と呼べる、ということです) そうですか。「先生」とお呼びしてとくにおかしくはないのですね。
499 :
495 :2000/06/16(金) 01:49
>497 現職僧侶 さん そーか。「若様」があったか。 実はお坊さん呼びかけるのに最初に悩んだのはこれが原因なんです。 仏教徒でもない私がお坊さんに興味を抱くようになったのは、ある出会いが あったからです。そのお坊さんは由緒ある高名なお寺の御住職だったのですが 全然堅苦しくなく、とても気さくでした。当時、血気盛んであったであろう私の 不躾な質問にも、納得のいく説明を下さいました。 それからお坊さんに対して尊敬の念を抱くようになったのです。 私の悩みのはじまりは、その御住職の息子さんをどう呼べばいいのか、 ということでした。(もちろん、息子さんもお坊さんです) そのお寺の他のお坊さんが「若」と呼んでいるのを聞いていたのですが、 さすがに私は「若」とは呼べず、結局お話し出来ずじまいで残念でした。 それが原因だったのです。 ちなみに、私が「老師」ということばを使うのは、 その御住職のことを他の宗派のお坊さんが「老師」と呼んでおられたからです。 それで私は、「老師」というのは宗派を超えて使えることばだ、と勝手に解釈して 使っております。こんな解釈で良いのでしょうか?
500 :
現職僧侶 :2000/06/16(金) 12:51
>495さん 気軽に「若様」って呼べばいいと思いますよ。 ただ私の場合、近所のスーパーとかでも「若さん」と呼ばれているんで、ちょっと恥ずかしくはありますが…。 「老師」はいい呼び方ですね。べつにどこの宗派ってわけでもないですから。 でも、ぶっちゃけて言えば、呼び方はなんでも言いと思いますよ。 言われた本人もそんなに気にするわけでもないと思いますから。 自分はまだ27歳と若輩ものではありますが、あなたの出会われた「老師」のような僧侶になれるように頑張りたいです。 まだまだできてなくて、よくカチンときて檀家さんと討論のようになることもあり、反省することもしばしばです。いかんいかん…。
501 :
名無しさん@1周年 :2000/06/16(金) 16:22
「方丈さま」って言うのを聞いたことがあるけど、あれも呼び方の一つだろうか。
502 :
寺院関係者 :2000/06/16(金) 17:25
495さん 「院家」は、真宗では寺院の格式を示します。 真宗以外では、昔、貴族が出家された寺院や、門跡 に付随する寺院を表するものかと。『御』は、必要 無いかと思います。(私見です) 住職・寺族の呼び方は、地方によって色々ですね。 ゆっぱり、なかなか呼び方は難しいです。が、 率直に聞かれたら、きっと何々と呼んでと良いよ と言われると思います。 501さん 方丈さまは、禅宗の寺院の僧侶への呼び方です。 もともと、住寺の部屋等を示すことから、変わった んでしょうね。 南無さん お元気でしょうか?
503 :
名無しさん@1周年 :2000/06/17(土) 10:40
ここは荒らしちゃだめだって。 煽りもだめ。
504 :
名無しさん@1周年 :2000/06/17(土) 16:03
age
505 :
名無しさん@1周年 :2000/06/18(日) 14:04
揚げ!!
506 :
職業 その他 :2000/06/18(日) 18:24
私も大谷派の坊主です。いろんな質問、意見があり、うらやましく思います。 皆さんはどうして近くのお寺さんに聞かれないのですか。多くの僧はこういう 会話を願っています。質問があればいくらでもしゃべります(もっとも南無さ んのように上手ではないですが)。信用していないのでしょうか。たとえば 墓について、真宗ではこうですよ、と言えば、しかし石屋さんはこうだと 言ってましたよ、と私よりも石屋さんの言葉を信じます。なぜでしょう。 ちなみに、妻の兄夫婦はPL、叔父一家は真如苑の熱心な信者です。
507 :
南無 :2000/06/19(月) 00:26
何だか久しぶりになってしまいました。 皆さん、お元気ですか? 職業 その他 さん。こんにちは。 >皆さんはどうして近くのお寺さんに聞かれないのですか やはり既成仏教が「風景」でしかないということでしょう。 山があり、川が流れ、寺があるというただそれだけ。本気で宗教を求める 場所という認識がなくなってしまっているのでしょうし、その原因の一つ は長い間の坊主の私生活にあると思います。信頼を失った坊主に何も 求められないのは当然の結果として受け止め、さぁ、これから どうするかが問題です。ハァーッ、という気分。
508 :
名無しさん@1周年 :2000/06/19(月) 07:32
山には登ることも、川には手を入れることも出来ます。 街中の寺院は城塞のように入る事を拒んでいるよう私にはみえます。
509 :
南無 :2000/06/19(月) 19:01
>508です。 権威主義とか貴族化とか格式とかいった言葉で批判されることは多いのですが、 >寺院は城塞のように入る事を拒んでいる というのは、寺院というよりその中の坊主が自らの選びで人間関係を閉ざすと いうニュアンスか強く、非常に厳しい言葉だと感じます。 開かれてますよ、誰でもどうぞという建前とは違い、高い所から見下す如く 或いは、斜に構えて鼻で笑っているという風なのでしょうかね? 入っちゃうと以外と気楽な人が多いんですけどね。
510 :
南本願寺 :2000/06/19(月) 21:04
うちの寺には、子どもがよく来ます。 そのうち、子ども会をつくって、寺の境内でみんながかくれんぼとか できるようにしたいのですが。 子ども会では、お金や物をあまり使わない遊びをしたいと考え、 現在考案中です。じゃんけん陣地取りのようなものを考えているのですが、 私達がこどものころおこなっていたものを、現代風にアレンジする 必要が感じられ、近所のお寺さんや、幼稚園、子ども達に話を聞いている ところです。
511 :
名無しさん :2000/06/19(月) 21:21
南無さん。途中からですみません。 あみださんはいるのですか。 なむあみだぶつとはどういう意味ですか。
512 :
名無しさん :2000/06/19(月) 21:22
511つづき。 あみださんとはお釈迦さんのことですか。
513 :
名無しさん :2000/06/20(火) 01:41
何だ、返事ないや。いちおうあげとこう。
514 :
南無 :2000/06/20(火) 02:56
>511.512.513です。 23のレスをお読み下さい。補足として 南無阿弥陀仏とは「阿弥陀仏に南無する」という意味になるでしょう。 もう少し言うならば、阿弥陀仏の立てた本願を私自身の「願い」で あったと頷き、選び取る生き方を始めるということになると思います。 >510、南本願寺 さん。 私も夏休みに一週間だけ日曜学校のようなものをやっているのですが、 子供と遊ぶというのはもーっ大変です。 でも最初の子供達が今では大学生になってます。すれ違っても挨拶して くれるのは嬉しいことて゜す。
515 :
開教者の長男 :2000/06/20(火) 05:08
はじめまして。 基本的に大谷派の法名は「釋○○」の3文字(増えても「○○院」の院号)なので、 うちの親父が昔地元のヤクザ組長の葬式をあげたときに 後で「金が足りんから文字数少ないんか!」と因縁つけられたけど、 親父は組事務所に行って金額と法名は関係ない、もしご不満ならお布施はお返ししますと 説明したら理解してもらえたらしい。 よって法名に優劣なし。すくなくともうちでは。
516 :
511 :2000/06/21(水) 00:41
南無さんありがとうございました。 >極楽浄土も阿弥陀さまもあるとお答えします。 >死んでから行く極楽浄土や地獄ではないということです。 >生きている現実世界を極楽浄土という言葉で >阿弥陀さまに >何処かにいる訳ではありません。それはよく >「働き」という言葉で言われます。 >気ずかせてくれた >アイツが阿弥陀さまの意味を持つ
517 :
名無しさん :2000/06/21(水) 00:43
↑今日は遅いので、明日考えてみます。 ちゃんと考えます。
518 :
名無しさん@1周年 :2000/06/21(水) 09:46
稚児って坊主の男色相手だよ 幼児の性虐待が行われていたんですよね 松本ちずおと変わらないじゃん
519 :
古池や :2000/06/21(水) 10:28
俳句の巨匠、松尾芭蕉も現代なら幼児虐待で逮捕か・・・
520 :
名無しさん@1周年 :2000/06/23(金) 09:58
あげーん
521 :
名無しさん@1周年 :2000/06/23(金) 13:06
あげいん
522 :
生臭い¥5さま :2000/06/23(金) 23:47
南無さん、こんにちは。 私も四〇代半ばの真宗大谷派の末寺の住職です。 “同業者”っていうとまた揚げ足を取られますが、同じ宗派の僧侶として、苦労・努力されているのがよくわかります。 揚げ足取り、言いがかり、難癖、嫌がらせ・・・いろいろありますが、ヤクザといえば裏社会に生きる悪い奴というレッテルが貼られるように、僧侶・住職といえば世間の常識では宗教家を名乗る詐欺師的ないかがわしい奴という先入観があるのでしょう。 残念ながら、私の日々のあり方は、釈尊・親鸞の名を語りながら、釈尊・親鸞の教えに反する宗教的活動を行っているというのが実態です。 取り敢えず・・・。
523 :
名無しさん :2000/06/23(金) 23:53
>516 これだと別にあみださまでなくても良いような。 坊さんも必要ないですね。
524 :
ゆうち :2000/06/25(日) 07:44
久しぶりに書き込みます。523の名無しさんへ。 働きを、この凡夫の身に感じるために、はたらきがあみださまになったのです。 それを方便法身といいます。 遠藤周作さんは、『神と私』のなかで、「神は存在ではなく、働きである」と、 おっしゃっています。 親鸞聖人は、和讃のなかで、「摂取して 捨てざれば 阿弥陀と名づけたてまつる」 と、おっしゃっています。 つまり、その働きをわたしたちが理解というか、意識するためには、目に見えず、 形もないもの(法性法身)が、声(念仏)になるとか、本尊(仏像など)の姿を とることが、必要なのです。 坊さんが、なぜ必要なのかは、また勉強します。
525 :
名無しさん :2000/06/25(日) 08:03
>524 さん それでは、遠藤さんの言う神とあみださまは同一ですか。 なにかこのスレッド全体がふに落ちないのです。 むかしというか、さいきんというか、3度ほど詐欺に会ったことが あるのですが、同じ感じがします。話の内容にボーとしてしまって 相手が何を言っているのかわからない。ちゃんとした人がちゃんと しゃべっているのだから、→→自分の頭がどうかなったのか、急に なにも理解できなくなった、という印象を受けたのです。 一回は借金詐欺(とりこみ詐欺)、二回目は水と浄水機、三回目は 節電の機械です。 真理をストレートに語れば、話は、もっと単純になるはずだと思い ます。
526 :
名無しさん :2000/06/25(日) 08:10
阿弥陀さんの話って、1000年も前から続いているから 伝統仏教みたいだけれど、実は、壮大な詐欺じゃないの。 死んだら極楽へ行けますといっていながら、死んだら 何も有りません。実際の極楽浄土などありません。 ダチのかけてくれたやさしい言葉が、あみださんです。 それじゃあ、みんなで、「ありがたやぶし」「だいじょぶだぶし」 を歌ったらいいんじゃない。志村さんにたのんで。 10年前に志村けんの「だいじょーぶだー」がはやって、 あれを唱えながら入試を受けたやつはみんな滑ったよ。勉強しないと だいじょーぶじゃない。やっぱり。
527 :
名無しさん :2000/06/25(日) 08:18
阿弥陀さんなんてどこにもいませんといわれたら 信じて死んだ人はどうなるのだ。 古くは(古いですが)根来衆、雑賀衆、石山本願寺に立てこもり 弥陀の浄土を信じて死んでいったのでしょう。(このあたり不確か) やい、蓮如、光佐、責任をとれ。 近頃でも五木ひろゆきとか、ナベサダなども、お浄土、お浄土 と言っているぞ。せめて、浄土は西といっても地球は丸いので どこまでも西なので、ヒマラヤのある所に有る、シャンバラの 近く、くらいには言ってほしい。それとも、どこかのお寺で 死んだ人のお骨の粉を固めて、阿弥陀像を作り、その上に また死んだ人の、お骨を塗りつけていくらしいが、その、人骨の 粉でできた、阿弥陀像がミクロの浄土なのか?適当な仏教では 手のひらの広さでも宇宙なのでしょう、と、あさから、思わぬ 興奮。選挙言ってこよう。
528 :
名無しさん :2000/06/25(日) 08:21
偽のあみだ信仰、逝ってよし。 本物のあみだ信仰とはなにか?
529 :
生臭い¥5さま :2000/06/25(日) 11:26
“阿弥陀とはどういう存在か、浄土とはいかなるところか”それをテーマに釈尊によって大無量壽経・観無量壽経・阿弥陀経という浄土三部経が説かれ、親鸞聖人は教行信証という4巻の書を書かれました。 その長い丁寧な教えを読んででさえ我々には理解しがたいものを、掲示板というインスタントな説明、議論で、あるとかないとか、本物だ偽者だと短絡的に結論づけるのはそもそも不可能だと思います。 とても良い、大切なテーマだと思いますが、掲示板で論ずるにはテーマが大き過ぎると思います。
530 :
渡海 難 :2000/06/25(日) 12:36
生臭い¥5さまへ。 できない。できない。じゃ何も生まれないでしょ。他人にできないことに挑戦し、やり遂 げていくのがプロでしょう。阿弥陀でも、浄土でも聞いて上げるから、書き込んでみなさい よ。坊さんはプロじゃないのか。 掲示板で論ずるにはテーマが大き過ぎるなんてことは、猿でも言える(猿は無理かな?天 才猿の愛ちゃんなら言うだろう)。掲示板なんていう素晴らしい場所で自分の信念が言えな いなら、坊さんなんかやめなさいよ。
531 :
焼香 :2000/06/25(日) 14:25
釈尊が身をもって体験された悟りの境地、あるいは真理そのものは、 無色透明というか、空であると。しかし、空は、通常の二元論的な 分別思考を超越しているので、われわれ凡夫には直接とりつくシマ もないんだよね。そこで、空は空のままでいいんだけど、そこから 逆に着色していって、仮に真理そのものを色形を持った仏陀と見なすと。 しかし、釈尊は亡くなられたわけだ。二千年以上前に、インドで。 そこで、仏陀の説かれた悟りあるいは真理を、永遠の生命と宇宙 規模の救済活動という、より大乗的な理念に拡大して、それを仮に 「アミダ」と名付け、そのアミダ世界を極楽浄土と名付けるんだね。 こうして、ゼロの状態である空を、積極的にプラスに表現すること によって凡夫の信を呼び覚ますと。また、南無阿弥陀仏というのは 「阿弥陀如来に帰依しますよ」という意味があるわけだけれど、 それを一生懸命唱えることによって信を培い、否定的要素によって 薫習されてきたアラヤ識を清浄に転換させて、真理の流れに入って行くと。 もちろん、本来の仏教は、心の内側の仏性を開発することにあるわけだけど、 そのような形で具体的な、エネルギーのこもったものに対して崇拝する というのは、インド仏教の常識です。
532 :
南無 :2000/06/25(日) 14:34
> 渡海 難 様。 まず、仏教というのは教典の理解ではなく、教典に依る自己の生き方の決定だろうと 考えます。その立場から私なりに申し上げますと、浄土とは世界観です。 全ての衆生を内蔵した自己として如何なる世界を求めるのか。その真に求めるべき 世界が浄土として説かれて来ます。浄土は仏の世界ですから迷いや苦を離れた世界 と言えるでしょう。そこから色々な理解が生まれて来ます。しかし、私は簡単に 「共生する世界」だと理解します。全ての命がその尊厳性において平等に開かれ、輝き 共に生きられる世界です。しかし、私達が今、生きている現実世界は浄土ではありません。 仏教では浄土に対して「娑婆」という言葉で教えられます。種々の問題を抱え行き詰まった 現代社会こそ、その「娑婆」の姿を如実に表しているのでしょう。 現実を生きる私達には今この社会しかありません。その社会を「娑婆」のままでよしとして 生きるのか、「娑婆」を超えて行く生き方、つまり「浄土」を求めるという生き方を選ぶ のかが別れ道になってゆきます。私は、「娑婆」の中に埋没したままを良しとは思いませんし 積極的に「浄土」を求めるというひたむきさにも欠ける愚か者ですが、人に見せられない様な ドロドロした想いを抱え、「娑婆」という言葉で教えられる現実社会の無明性を知らせて くれたもの、それを「阿弥陀」と呼ぶのだと理解しています。
533 :
名無しさん@1周年 :2000/06/25(日) 15:20
>生臭い¥5さま 阿弥陀仏とはどんな仏か、南無阿弥陀仏とはどういう意味か、極楽は本当に あるのか、 こういうことをわかりやすく教えてもらいたいとみんな思っているのに、 >長い丁寧な教えを読んででさえ我々には理解しがたい とか >掲示板で論ずるにはテーマが大き過ぎる などというのは逃げているように感じるし、無責任である。それだったら 坊さんなんか必要ないと言われてもしかたあるまい。
534 :
533 :2000/06/25(日) 15:25
530さんと同じことを言ってしまった。ごめんなさい でも、「何故、南無妙法蓮華経を唱える教団は人気があるのか」という スレッドで、自信もって意見を言う人に比べると、弱々しい感じがしま すね。
535 :
渡海 難 :2000/06/25(日) 16:03
焼香さん、南無さん、あなた方はお坊さんですか。 真理・無色透明・空・二元論・真理・永遠の生命・宇宙規模の救済活動・…、 浄土・世界観・全ての衆生・内蔵・自己・…、 ちんぷんかんぷん宇宙人の寝言、呪文の羅列。何が言いたいのか、何のことだかさっぱりわかりません。 プロだと言うならもっと肩の力を抜きなさい(プロじゃ無いかも知れないけれど)。呪文 を使わず、少なくとも日本人相手で相手に分かる日本語で語ってみてくださいな。
536 :
南無 :2000/06/25(日) 16:41
>535です。 532ではわかりませんか? もう少し違う言葉で考えてみます。
537 :
名無しさん :2000/06/25(日) 19:25
>>“阿弥陀とはどういう存在か、浄土とはいかなるところか” >>それをテーマに釈尊によって大無量壽経・観無量壽経・阿弥陀経という >>浄土三部経が説かれ、親鸞聖人は教行信証という4巻の書を書かれました。 釈尊は浄土三部経なんて書いていないよ。現代人の常識。 ここが壮大な詐欺事件のはじまり。 親鸞聖人は詐欺事件の被害者の会会長。 わたしは2chは卒業しますので。他の方フォローお願いします。 申し訳ありません。
538 :
大天使長ミカエル :2000/06/25(日) 19:47
(\ \\ (\\ \\\ (\\\\ (\\\\\ \\ ||| ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ | ⊂⊃  ̄ ̄( ̄ ̄//// ̄\ ∧ ∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄(//// ̄\\( ゜Д゜) < 氏ねやカス共 コラァ!! ".;": (/(/// ̄(つ つ \_____________ ".;": (/(/| \\ .;".;": ..;".;;: (/((/ ∧|\\ .;".;": ..;.;".; .;".;": .. ; ∪ ∪ \\ .;".;": ..;.;". .;".;" .;".; \\ ゴ オ ォ ォ …… ! ! \\ ;": ..;.;".;": .;".;": _.;.;__ \\ ド カ ァ ン ! .;".;": ..;.;".; ζ /_.;_/| .;".;"_ \\ .;".;.;".;": .;".;": ..;.;".;": ;:'.;| ΓΓ | |;":从へ_/| \\.;".;"_.;__..: 从へ从へへ从 ; ζ | Γ从 | |;:.. |从Γ | | \\ ∠___/| ( ⌒( ⌒ ) ζ | 从Γ | |.:;. |从Γζ.;"._ \\|ΓΓΓ| | ( ⌒ ⌒ ⌒ ); | ΓΓ | |.;;::|ΓΓ | | ( 从へ;: |从ΓΓ| | Σ( ⌒( ⌒ ) ζ ( ( ) )⌒ ) ( 从へ从)_.;;:.;|Γ从Γ| | ( (( ( ⌒ )) ) 从 Σ( ⌒( 从へ从) ∠___/| Σ (( ( ⌒ )) ) )(( ⌒ ().;".;:;|ΓΓΓ| | (( ⌒ ( ( ) )⌒ );:; ".;" ;Γ
539 :
名無しさん@1周年 :2000/06/25(日) 20:19
>538 わははははは! 力作ですね。
540 :
名無しさん :2000/06/25(日) 21:31
>538 傑作。阿弥陀さんよりずっといい。 ナムダイテインチヤウ、ナムダイテンシチヤウ。 気づかせてくれてありがとう。
541 :
名無しさん@1周年 :2000/06/25(日) 21:35
>氏ねやカス共 コラァ!! ゴ オ ォ ォ …… ! ! ド カ ァ ン ! けっきょくオウム的発想の勝利。
542 :
ゆうち :2000/06/25(日) 21:52
仏教−仏(釈迦)の教え 教主 仏についての教え 内容 (私が)成仏(仏になる)教え 目的 仏の実在性について、釈迦を仏とすると、歴史上実在したと、歴史学の上で証明 出来ると思う。 内容、目的については、私が仏になれなければ、どこかに仏がいても意味ないし、 私が仏になった時点で証明できる。 アミダブツの実在の証明は、自分でするべきものではないかと思います。 さて、たくさんの方が、宗教のためにいのちを落としました。念仏のために、 お浄土をおもって。それが、詐欺と思う人もいるようです。 でも、命がけで守ろうとするもの、命ととっかえにしてもいいものに 出会った彼らの生き方はすばらしいと思う。 どんなに長生きしても、どんなに金をもうけたとしても、どんなにえらくなっても、 そんなものに出会えなければ、虚しいと思う。何十年かでそのひとのいのちは終わ ってしまうから。だから、死んだら「無」になる。 だから、いのちととっかえに、極楽浄土に生まれ、仏になり、永遠のいのち(無量寿) となることを願う生き方が、念仏を称えることによって、実現するのだと理解します。 「南無」−帰依します。信順します。仰ぎます。 「阿弥陀仏」−永遠のいのちと限りないひかり(智慧)と深い慈悲を。 自分のいのちより尊い(本尊)に出会いたい。それが、教えを聞く(求道)ことでしょう。 自分が聞かなかったら、いくらえらい坊さんが(いたとして)説いても、意味なし。 しかし、今、求める人より、きちんと説く人が少ないのでしょうかね。 そこで、彼らが命がけで守ってくれたものを、むしばんだり、浪費したり、自分たち だけの楽しみに使ったり、欲を満たすために使ったりすることは、重い罪です。 お経の中にも、不浄説法は地獄に落ちるたねになるといわれているようです。 僧侶の努力が足りないのでしょう。
543 :
>540 :2000/06/25(日) 21:57
そういう、気に入らないもんは排除、楽しみだけを取りだし、 悲しみをさけ、他人の悲しみにも共感せず、 ただ、今だけ、自分だけの考えが、 今のひどい世の中をつくっとるんだろうが。 宗教的感性の低下した世の中。五濁の悪世だ。
544 :
>543 :2000/06/25(日) 21:59
だから、われわれ凡人には見えないものが、 経典に説かれているのでしょうか?
545 :
南本願寺 :2000/06/25(日) 22:30
阿弥陀如来の実在性を疑っている方々へ 皆さんは、本当は、阿弥陀如来を信じてらっしゃるんですね。 だけど、それがちゃんと証明されないところに葛藤してらっし ゃるのではないでしょうか。 だから、坊さんに「阿弥陀如来はいない」とか、「ここにいる」 とか、はっきりさせてもらいたいのではないでしょうか。 徹底した無神論者は、信仰のひとだとも思います。 否定しても否定しても逃げられない。だから、徹底しようとする。 「神は死んだ」と言ったのは、ニーチェだったですかね。彼も 信仰の人で、救われたのだと思います。 「摂−ニグルモノヲオワエトルナリ」 ここに来てらっしゃる方々は、宗教についてまじめに考えてら っしゃる人ばかりだと思います。だから、私もここに来て勇気 づけられるのだと思います。 南無さんに導かれて、いっしょに救われていくんですね。ありがとう。
546 :
焼香 :2000/06/25(日) 22:32
仏法の肝要ぎりぎりのところを説こうとすれば、あなた達にはとりつくしまもないんですよ。 それを凡人にも分かるように、凡人でもブッダに至る段階の最初のステージに入れるように いろいろな表現で説かれたと。理解できないなら、それは魂がその段階に至っていないという ことだけど、それは別に構わない。修行すれば、いずれ明らかになることだから。そういう人 には、まあとにかく修行しなさいと。そうして頭だけではわからないことを体験してみなさいと。 難しい話はそれからでも遅くはありませんね。
547 :
南無 :2000/06/26(月) 02:09
>537です。 529で「浄土三部経が説かれ」と言われています。釈尊が浄土三部経を書いたとは 書いてありませんのでご注意を。 542で ゆうち さんの言われる >命がけで守ろうとするもの、命ととっかえにしてもいいものに出会った彼らの 生き方はすばらしいと思う というご意見に賛同致します。現在の私達には「命がけで守る」ものはおろか、 損してでもしなければならないことすら見えないのではないでしょうか? >545です。 >南無さんに導かれて 南本願寺さん、 とんでもありません。一緒に迷っているだけです。 > 渡海 難 様。 阿弥陀経に「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」という有名な一節が あります。阿弥陀経自体、浄土を説いたお経なのですけれど、浄土という世界 は青光、黄光、赤光、白光であると説かれます。ここで問題なのは「光」つまり 光る、輝くということです。自分が自分として輝くように生きられる世界、 それが浄土なのでしょう。それに対し現実世界は色を問題にする世界です。 青色を富者、黄色を若者、赤色を健康、白色を名誉としましょう。 娑婆もしくは穢土と言われる現実世界に生きる私達は、若く・元気で・金も名誉も あるという条件が満たされた時に輝くような自分を自覚するのでしょう。 ならば、年を取り、病気になり、貧乏で、地位もない自分は否定するしかありません。 条件(つまりは色のことです)ばかりを求める限り、輝くような生き方は成立しません。 なぜなら、私達の言う条件とは無常であり、相対的であるからです。今の自分の色を 自分の個性としてまず受け入れ、別の色への変化が個々の努力になり、自分で頑張る 以外方法はありません。しかし、一番大切なことは今の色で「輝く」ことであり、 今を生き生きと生きることのはずです。浄土とはどのような色であっても「共に輝ける 世界」として教えられているのではないですか?
548 :
渡海 難 :2000/06/26(月) 10:01
545さん >皆さんは、本当は、阿弥陀如来を信じてらっしゃるんですね。 皆さんとは、一体誰に向かって言っているんですか。「阿弥陀如来を信じてらっしゃる」 なんて勝手に思いこまないでくださいな。信じているかも知れないし、信じてないかも知れ ない。仮に信じていても、貴方の信じ方とは180度違うかも知れない。信じてらっしゃる んですねなんて、勝手に思いこんで同意を求めてくるのは失礼千万な話じゃありませんか。 >それがちゃんと証明されないところに葛藤してらっし ゃるのではないでしょうか。 だれも葛藤なんかしてないでしょ。勝手に決めないで下さいな。 >だから、坊さんに「阿弥陀如来はいない」とか、「ここにいる」とか、はっきりさせても らいたいのではないでしょうか。 阿弥陀如来はいないと思うからいないと言っているだけでしょう。 >徹底した無神論者は、信仰のひとだとも思います。 思うのは勝手だけど、難しいことを言われても分かりません。 >否定しても否定しても逃げられない。だから、徹底しようとする。 誰も逃げていないでしょう。誰かが逃げているんですか。 >「神は死んだ」と言ったのは、ニーチェだったですかね。 貴方が知らないことを他の人が知っているわけがない。 >彼も信仰の人で、救われたのだと思います。 不確実なことは言わないでくださいな。 >「摂−ニグルモノヲオワエトルナリ」 呪文を称えないでくださいな。 >ここに来てらっしゃる方々は、宗教についてまじめに考えてら っしゃる人ばかりだと思い ます。 インターネットは不特定多数が見ています。まじめに考えてら っしゃる人もいるでしょ うし、そうで無い人もいるでしょう。自分勝手な想像はしなでくださいな。 >南無さんに導かれて、いっしょに救われていくんですね。ありがとう。 意味不明、気味の悪い呪文を吐くから坊さんは嫌われる。
549 :
渡海 難 :2000/06/26(月) 10:04
焼香さん 何がいいたいのか、全くもってちんぷんかんぷんざんすよ。
550 :
渡海 難 :2000/06/26(月) 10:15
南無さんへ >釈尊が浄土三部経を書いたとは 書いてありませんのでご注意を。 537 さんの場合、浄土三部経を釈迦は説いてないと言いたいんでしょう。浄土三部経の成 立は紀元前後でしょ。釈迦が肉声で説いた教えは法句経が一番近いんじゃないかという原始 仏教学者の発言を踏まえた発言なんでしょう。仏教を専門にしてない人の発言は、揚げ足を 取るのでなく、真意をくみ取ってあげるのがプロでしょうな。 釈尊が浄土三部経を説いたというなら、原始仏教学者の文献学的・科学的な根拠ある発言 との整合性をはっきり主張すべきでしょう。「釈尊が浄土三部経を書いたとは 書いてあり ませんのでご注意を」などは、野次馬と同じだ。 >南本願寺さん、とんでもありません。一緒に迷っているだけです。 二人で仲良しクラブでも作りますか。 >阿弥陀経に「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」という有名な一節が あります。 全く存知ません。ウタダ・ヒカルの歌なら有名だけど、阿弥陀経の一節が有名だなんて聞 いたことがない。 >浄土という世界は青光、黄光、赤光、白光であると説かれます。 全く知りません。そんなことが何か関係するんですか。 >ここで問題なのは「光」つまり光る、輝くということです。 どうしてそんなことが問題になるんですか。誰が問題にするんですか。 >自分が自分として輝くように生きられる世界、それが浄土なのでしょう。 自信のない、不確実なことは言いっこなしにしましょうや。聞いている方が嫌になる。 >それに対し現実世界は色を問題にする世界です。 勝手な価値観を押しつけないでくださいな。「現実世界は色を問題にする」など、全く意 味が不明です。相手を威圧する呪文の一つなんでしょうかねー。 >娑婆もしくは穢土と言われる現実世界に生きる私達は、 「娑婆・穢土」、意味不明の呪文を持ち出さないでくださいな。 >若く・元気で・金も名誉もあるという条件が満たされた時に輝くような自分を自覚するの でしょう。 貴方の勝手な想像でしょう。若く・元気で・金も名誉もあっても、しぼんで自殺してい く人はたくさんいます。老いて、無名で貧しい人でも、輝いている人はいるでしょう。貴方 が世間を知らないだけでしょう。坊さんならば、他人に分かる話をしてくださいな。 >条件(つまりは色のことです)ばかりを求める限り、輝くような生き方は成立しません。 条件がどうして色なんですか。意味不明の呪文は使いっこ無しにしましょうや。 若者達が、経済的利益、地位、名誉を求めて冒険に夢中になって挑戦していくことは極め て健康なことでしょう。金もいらん、名誉もいらん、地位もいらんと、欲を捨てればこれこ そ心の健康を害した問題児なんじゃないですか。貴方自身は、金も、地位も、名誉もいらな い人なんですか。貴方はかなり退廃的なご立派な方のようですね。 かといって、輝やかなければいけないと言われたらまたまた窮屈な話ざんすよね。他人の 事はほっといてくださいな。 >なぜなら、私達の言う条件とは無常であり、相対的であるからです。 ?? 無常が何か悪いんですか? 相対的が悪いんですか? 金も名誉も地位もないから こそ、若者はそれを求めるんでしょ。 >今の自分の色を自分の個性としてまず受け入れ、別の色への変化が個々の努力になり、自 分で頑張る以外方法はありません。 ちんぷんかんぷん。宇宙人の寝言。 >しかし、一番大切なことは今の色で「輝く」ことであり、今を生き生きと生きることのは ずです。浄土とはどのような色であっても「共に輝ける 世界」として教えられているので はないですか? ちんぷんかんぷん。宇宙人の寝言。日本人にわかる言葉で話してくださいな。勝手な価値 観を演説されても分かりません。
551 :
ききろ :2000/06/26(月) 11:49
渡海 難さん あなた、親鸞会の掲示板か、親鸞会脱会者の掲示板で見かけましたよ。 かなり、仏教用語詳しいじゃないですか。なにしらばっくれていちゃも んつけてるの。 さて、言葉がわかるとか、わからないとかどうのとか言ってるけど、 「ネットワーク」だの「ハードウェア」だの「コンセンサス」だの、 過去、この国で使用されてなかったことばを使いまくっている方々が 沢山いる現代。また、辞典、用語集、書籍もかなり自由に手に入る 現代。「言葉が難しい」「分からない」。アホか。 簡単に答えをもとめる風潮が、考えない人を作り、洗脳され、学問を 衰退させ、文化を失い、目に見えるものや科学のみをたてに、想像力 や共感する力をなくし、悲しみや苦しみを排除し、楽しみや欲望の満 足のみを追求する人間を作り出している。 他者の悲しみ、痛みに共感できなければ、真の平和はない。 それを解決するのが宗教的世界観(ここでは浄土観)であるのに、三世 (過去世、現世、来世)を否定し、目の前の欲望のみを求め、増大しよ うとする。それが娑婆。 わかりやすさっていうのは、人間の(というか、私の)願い(つまり欲) に合ってるというだけで、そんなんじゃ自分は変わらない。つまり救わ れない。 わかりにくい、というか、わからない(不可思議)ことを、イメージ、 想像させてくれるのが、宗教であり、浄土の荘厳であり、阿弥陀仏で あり、神であり、仏であり、地獄でしょう。 あなた、あまりにもえらすぎるんだよ。答えだけを求めて、その課程を 無視する。マークシート世代だね。 想像力と感情の豊かさをとりもどそうよ。
552 :
名無しさん :2000/06/26(月) 12:54
>550さん、 よく言ってくれました。ただの書きまちがです。 仏陀はどの経典だって書いたりしていないのです。 みんな仏陀の言葉をおぼえて唱えていたのです。 仏陀ご在世には、あみだのあの字もなかったのです。 書きまちがいとわかりながらそれで済ますのが、詐欺事件です。
553 :
ゆうたろ :2000/06/26(月) 15:41
>552 >渡海 難 それがどうしたの。あんたの悩みなの?詐欺にあったの? 身近な人が詐欺にあってるの? 宗教と現実問題がかみ合ってないよ。 >南本願寺さん 浄土とやらで、みんなでまた議論しますか、死んだあと。 「あの子をこうやって救おうと思うが。」 「だめだめ、それは科学的じゃないよ。よし、俺が出て行って、 姿を見せてやろう。」「姿を見せずにすくうのがわれわれだろう。」 「時代遅れだぜ」「大体あいつは欲が深い@`どうしようもないんや」 「でも、見捨てないのが、われわれだろう」 なんてね。
554 :
南本願寺 :2000/06/26(月) 15:51
>渡海難さん なんか、言われてますね。文章の曖昧さや、断定的なのは、私の想像で 言ってるだけだからです。なぜならば、ここに登場する方のこと、何も 知らないからです。 ただ、わざわざ日に何度もこの掲示板をのぞいてい る人の気持ちを考えると、ここに集まっては、自分の宗教観、悩み、 疑問をぶつけ合っているように思うのです。 ただの観念の遊戯ではないように思います。その背景にある、僧侶への 不信、宗教へのいらだち、自分自身の価値観など。 そう言った意味で、議論の深まりを期待します。ただの言い合いになら ないように。 >ゆうたろさん ホントに浄土まで議論をもちこせるといいね。
555 :
名無しさん@1周年 :2000/06/26(月) 20:15
以前、市仏教会での標語が「おかげさまでと生かされて、ありがとうと 生きぬこう」でした。南無阿弥陀仏とはこういう意味なのだと思いました。 仏のおかげ、つまり様々な因縁の中で生かされている。そのことを喜び、 生きる力が与えられる。極楽は生きていくエネルギーのわき出る源泉だ、 という言葉をどこかで読みました。 これでも悪くはないと思うのですが、懺悔(申し訳ない)がこの標語では ないこと、そして、なぜ南無阿弥陀仏という言葉でなければならないのか、 題目などとはどう違うのか、南無阿弥陀仏は呪文ではない、ということなどが はっきりしないことが問題と思います。 「何故、南無妙法蓮華経を唱える教団は人気があるのか」というスレッドに 「南無観世音菩薩や南無遍照金剛や南無阿弥陀仏はいくら唱えてもムダ。 何故ならそれらは架空の仏や菩薩、人間に対する南無(帰命)だからです。 妙法蓮華経とは釈迦の悟った究極の真理そのものを指すのであるから、 その唱題の力は我々の無意識を改良するものがある。 だからこれほど南無妙法蓮華経を唱える教団が人気があるわけ。」 という発言があります。法華経を神秘化するので納得はできませんが、 南無阿弥陀仏は南無妙法蓮華経などとはどう違うのでしょうか。 教えていただければ幸いです。
556 :
焼香 :2000/06/26(月) 21:49
わたしが何を言いたいのか、まったくちんぷんかんぷんだと。 それほどまでに、煩悩によって智慧の眼けがれ、情報によって自分自身を 見失ってしまったと。それはそれでしかたがない。しかしたった今そのこと に気がついたなら、今からでもすべてを改められます。 釈迦牟尼仏は自分の教えを何一つ理解できない、愚かなチューリパンタカに 対して、ただ一つ、掃除をするということを授けた。そしてチューリパンタカ はくる日もくる日も掃き清めて、やがて悟りの一つを得たと。 このことから考えると、貴方も一つの縁ある行に、全力でうち込むのがよい。 すでに貴方は真宗の人が始めたスレッドに、興味を持って何度も書き込んでいると。 それは貴方は気づいていないかもしれないが、貴方自身の心がそれを求めているの かも知れませんよ。
557 :
南無 :2000/06/26(月) 23:19
>555です。 >「おかげさまでと生かされて、ありがとうと生きぬこう」 この言葉の「おかげさま」という言葉に懺悔を感じます。 真宗では慙愧ですが、信心は機・法の二種深信として説かれます。 この機の深信こそ慙愧・懺悔を内蔵しています。機の自覚は 一言で言うと「申し訳ない」という感覚でしょうし、申し訳ない 私に救わずにおかないという本願が響いたとき、「おかげさま」 と安心出来る世界が開けてくるのではないでしょうか。その方法 として唯一「称名念仏」が教えられるのです。 >妙法蓮華経とは釈迦の悟った究極の真理 確かに法華経は釈尊の説いた最高の真理だと言われます。大切なのは それが「私」にとって救いになるかどうかです。最高の真理がそのまま 「私」にとってのBESTになればいいのですが、そうならない所に人間の 厄介さがあります。つまりは自分をどう規定するのか、或いは自分の 内実をどう受け取るのかということになります。罪悪深重の凡夫である と了解された自分には大無量寿経に説かれる本願の一乗性(南無阿弥陀仏) に依るしかないということです。南無妙法蓮華経を否定する訳ではなく、 私には縁が無いということです。
558 :
名無しさん@1周年 :2000/06/27(火) 03:05
比較論からは信仰は生まれない。それは宗教学の領域。 信仰とは一つを選ぶこと、一つを選ぶとは他を捨てること。 その視点が抜けてしまうとただのオタクになってしまう。
559 :
南本願寺 :2000/06/27(火) 08:16
>558 そうですね。山に登る道は、沢山あるけれども、自分が登るのは たった一つの道ですもんね。 そして、どの道が私に登れる道か、経験者や、案内人、 地図をたよりに選び、登るんでしょうね。 比較論は、山に登る前の話。
560 :
名無しさん :2000/06/27(火) 09:24
>556 支離滅裂、詐欺まがいの言葉を羅列して 「わからん」といった聞き手には、 寺の掃除をしろ、無料で、というテクニックを 普段から使っているのですね。
561 :
名無しさん :2000/06/27(火) 09:28
>559 山に登る道はたくさんあるけれど、 途中で途切れれている、迷路地獄行きの道もある。 あみだの道は、ハイウエー。西のほうの空中高く 聳え立っているが、途中で途切れている。 あみださなんてどこにもいないよ。落ちるだけ。
562 :
通行人 :2000/06/27(火) 09:53
>561 あんた苦労してるんだねえ 可愛そうに
563 :
名無しさん@1周年 :2000/06/27(火) 10:14
>561 アンタが本当に >あみだの道は、ハイウエー。西のほうの空中高く 聳え立っているが、途中で途切れている。 あみださなんてどこにもいないよ。落ちるだけ。 との経験を持ってるなら是非に語るべき。 そうでないとあんたは嘘吐きになってしまう。
564 :
南無 :2000/06/27(火) 10:31
>560です。 >寺の掃除をしろ、無料で、というテクニック ??? 御門徒が自ら維持している寺の掃除、その他の世話をすることは ある意味当たり前のことと思いますが。 坊主がそのような御門徒に依存するというのは論外ですけど。
565 :
渡海 難 :2000/06/27(火) 10:40
名無しさん1 >南無阿弥陀仏は南無妙法蓮華経などとはどう違うのでしょうか。 私はこう考えております。南無というのは、感嘆詞だろうと。阿弥陀仏は「先生」という意 味だろうと。 かつて釈尊先生は祇園精舎で多くの賢人、哲人を育てました。祇園精舎には多くの人々が入 学してきました。祇園精舎で釈尊先生は、「先生」と呼ばれました。先生は、新入生に言いま した。「私がここの先生です。私を先生と呼んでください」と。生徒達は、そのとき始めて、 先生というものの存在を知り、先生と呼ばれる人がいることを知りました。 祇園精舎でもお弟子さん達は、先生の真意が分からないときがしばしばあったと思います。 そのときは、泣き、怒り、絶望し、そしてまた、真意が分かると、笑い、歓喜しました。先生 は懐の広い人だったようです。泣き、怒り、絶望しているとき、生徒達は、他の人から離れ、 一人どこかに座って姿勢を正し、呼吸を整えて「先生、ああ先生」という言葉を口の中で何時 間も、何時間もくり返し念じたものなんでしょう。 気持ちが落ち着いてくるとやがて先生の真意が見えてくる。先生の真意が見えてくると、先 生の大きさ、すごさに思わず驚愕するということもあったんでしょう。そんなときは心の底か ら思わず「ああ先生」という叫びをあげる生徒もいたことでしょう。釈尊尊先生は、自らを「先 生」と名乗ることで、「先生」という言葉に、自らが伝えたい真意を込めたのだと思います。 先生は、生徒が困っていると歩むべき道に知識の光を照らしました。生徒が絶望してこれ以 上続けられないと思い込んでいると、継続の道、継続の命を示しました。先生は、生徒にとっ て無限の光の人、無限の命の人だったんだろうと思います。無限の光を無碍光と言います。無 限の命を無量寿と言います。インドの言葉でアミターユス、アミターパというそうです。阿弥 陀仏はアミターユス、アミターパの音を写したと言われています。 釈尊先生は三千年昔の方です。それでは、釈尊先生はもういないのでしょうか。例えば、一 輪の花に絵画の神髄を教わっている画家がいます。一輪の花に、生命の起源を教わっている科 学者がいます。画家に絵画の神髄を説こうとしているのは誰ですか。科学者に生命の起源を説 いているのは誰ですか。いずれも花に宿る真理でしょう。 絵画を究めようとしていけば多くの困難があるでしょう。生命の起源を究めようとしていけ ば多くの困難があるでしょう。そうした困難を敢えて克服させ、夢中にさせ、やがては彼らに 絵画の神髄を開き、あるいは生命の起源を開き、真理を究めた人という栄誉を与えようとして いるのは誰ですか。花に宿る真理でしょう。 真理には意思があります。真理には行動があります。意思と行動があれば、それは人格です。 その意思は、三千年昔の釈尊先生の意思にそっくりじゃないか。その行動は、三千年昔の釈尊 先生の意思にそっくりじゃないか。浄土教に生きる私達は、そう教わって来ました。 真理を先生と仰ごう。阿難尊者、舎利弗尊者、迦葉尊者達が、釈尊先生を生涯、「先生、あ あ先生」と仰いだように、私達は真理を先生と仰ぎ、「先生、ああ先生、阿弥陀仏、南無阿弥 陀仏」と念じることを教わってきました。 真理は、花に宿ります。学問に宿ります。友の言葉に宿ります。バスを乗っ取り、ナイフを 突きつけて絶叫する少年の言葉にも宿っているのかも知れません。 あらゆるものが仏、先生であるなどと、自分の心が納得しないことは言いません。一つでも 二つでもいい。親でもいい、友人でもいい、自分の学業でもいい、人生の大問題でもいい、一 つでもふたつでもいいから、仮に先生と名付けてみなさいよ。仮だから、嘘っこでいいんです。 真理だなんて思う必要はない。先生とは仮の名前です。仮の名前だから何につけてもいい。相 手に了解を取る必要もない。自分一人になったとき、相手に分からないように「先生」と名前 を付け、姿勢を正し呼吸を整え、「先生、ああ先生、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、念じ てみなさいよ。嘘っこでいいからやってみなさいよ。いままで見えなかったものが見えてくる。 見えなかった世界が見えてくる。素晴らしい世界が開かれてくる。 私達、浄土真宗に立つ者は、無名流刑の転落僧、愚禿親鸞からそう教わってきたのです。
566 :
渡海 難 :2000/06/27(火) 10:41
名無しさん2 南無妙法蓮華経について 経典の名を唱えるという行為は、浄土教の伝統の中にあったようです。 観無量寿経の下品上品段というところがあります。そこに「大乗十二部経の首題の名字を讃 えるに遇わん。かくのごときの諸経の名を聞くをもってのゆえに、千劫の極重の悪業を除却す」 とあります。ところが、同じ箇所に、「南無阿弥陀仏を称えると五十億劫の生死の罪を除く」 とあります。 お経のタイトル名を念じるという行為は、浄土教が起源でしょう。ところが、唱題と念仏に は差を設けている。「ああ、素晴らしいご本」と口にくり返すより、具体的な人、具体的な困 難を対象とし、「ああ先生」と直接念じる方がインパクトがあると思ったのでしょう。直接念 じる方がインパクトがある、私はそう思っています。
567 :
名無しさん :2000/06/27(火) 11:00
あなた達の書いていることを箇条書きに直して みなさい。支離滅裂じゃあないか。
568 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/06/27(火) 11:13
揚げ!!
569 :
555 :2000/06/27(火) 11:48
渡海難さん、説得力ある説明ありがとうございます。しかし550でのいちゃもんは 理解できません。もっともその前の南無さんの547が、いつもに比べていささか 分かりにくいとは思いますが。 ついでにもう一つ疑問。源空和讃では、上皇や貴族が法然の信者となったと自慢し、 曇鸞和讃では、魏の天子が尊んだと、権威にこびているようなところ。 あるいは、源信和讃や源空和讃で転生が事実であるように書いているところ。 法然が釈尊の説法を聞いたと自ら言ったとか書いてあります。これらをどう解釈 したもんでしょうか。 >567 どういうふうに支離滅裂なのでしょうか。
570 :
名無しさん :2000/06/27(火) 17:25
>569 >3.ちなみに親鸞・蓮如の真筆と言われるものは見たことあるけど、 >足跡っていうのはみたことないヨ。 これはあしあとではなく、そくせき。冗談?
571 :
名無しさん :2000/06/27(火) 17:28
>9. >前世とか輪廻転生とかは元々インドの民族信仰(釈迦以前からの)で >純粋な仏教思想ではないと思います。 これは間違い、輪廻とか前世は仏教の基本思想。信じるかどうかは別として。
572 :
名無しさん :2000/06/27(火) 17:32
>9・ >命の連続性は否定出来ないでしょう。 >色々な生命の歴史がこれからの 生命の歴史へと続いてゆくこと 意味不明。種としての生命なのか、個人の生命なのか。 質問;南無さん自身の生命の連続について問う。
573 :
名無しさん :2000/06/27(火) 17:36
>555さん、南無さん、どんなに支離滅裂か 書いていきましょう。 まず、570.571.572から。お答えを。
574 :
名無しさん :2000/06/27(火) 17:38
確かあみださんの前世は、ほうぞう?菩薩? 阿弥陀経には嘘が書いているわけ?
575 :
南無 :2000/06/27(火) 18:17
>570 まあこれはいいでしょう。冗談ですから。 ただ冗談の感覚がずれてると厄介ですね。 へたな冗談書けなくなっちゃう。 >571 釈尊は死後の世界が在るという意味で来世を説いてはいないでしょう? >572 前にも書きましたが私自身の命は今世のみと了解します。 連続性を持つ「いのち」とはそのまま「いのちの総体」と 受け取っています。 何度も書いていることなのですが、一番大切なことは 来世の有無ではなく、来世を肯定した場合と否定した 場合の「生き方の質」ということです。 来世があろうとなかろうとどっちでもいいんですよ。 仏教に出会った貴方がそこからどんな生き方を求め 選んだのかが問われるべきで、そのことが抜けた 論議は学問として学者にまかせればいいでしょう。 貴方は輪廻から何を感じとられたのでしょうか。 >547 法蔵菩薩が阿弥陀仏に成る、その一点にあるのは 本願成就ということ。大無量寿経に説かれてます。 大事なのは成就したということ。完成してるんです。 一切の衆生が浄土に生まれたらいいな、ではなく 生まれることが出来るんです。貴方も私も生まれる ことの出来る浄土がすでに開かれてあるということです。 このことを自分の生活実感の中でどう実感し受け取る ことが出来るか。難しいですね。
576 :
名無しさん@1周年 :2000/06/27(火) 19:46
輪廻転生については釈尊がどのように考えていたのか、学者によって意見が 異なるようです。大谷大学のA教授が釈尊は輪廻を説かなかったと論文の中で 書いているのを、B教授がそれは間違いだと言っていました。親鸞の和讃の 中にも転生(生まれ変わりではありません)を言っていますから、確かに 支離滅裂と言われても仕方ない点もあると思います。 「輪廻転生など有り得ない 」というスレッド(恥ずかしながらリンクの しかたが分からないので誰か教えて下さい)では議論が伯仲。 私は叫素という人の意見になるほどと思っています。 「 仏教で輪廻転生が語られるのはただの喩え話です。 輪廻は「真理」でも なんでもなく、当時の「常識」です。昔の仏教者はその蒙昧な「常識」を 喩え話として用いて「真実」を語った。そのあたりのことが分からない アホたれが、アホたれを騙して宗教やっとるんだ」「嘘を言って騙して いたのではない。わざわざ、「輪廻転生は存在する」と主張しなくても みんな迷信として輪廻転生を信じておったわけだ。その迷信を利用して 「真実」を語ったわけなのだ」 輪廻という考え方の枠組みを利用して、それを超える教えを釈尊は説いた ということでしょう。輪廻を否定はしないが肯定はしないということだろうと 思います。しかし単なる生まれ変わりではないことは言うまでもありません。 自分なりに教えを通して輪廻や死後をどう考える必要があると思います.
577 :
名無しさん :2000/06/27(火) 20:16
>575 長文ごまかし文ではなく。 あなたは、どこからきて、どこへ行くのか。を聞いている。 >来世があろうとなかろうとどっちでもいいんですよ。 これじゃあ答えになっていないでしょう。
578 :
名無しさん :2000/06/27(火) 20:17
輪廻や来世は迷信、というのが本願寺の公式見解ですか?
579 :
名無しさん :2000/06/27(火) 20:28
>570 冗談としたら、あまりにも質の悪い冗談ですね。 まじめに質問している方を、そらして、茶化し ているのですから。
580 :
名無しさん :2000/06/27(火) 20:29
再度 質問;南無さん自身の生命の連続について問う。
581 :
名無しさん :2000/06/27(火) 20:31
そらし、ごまかし、逆質問などは不要。
582 :
渡海 難 :2000/06/27(火) 21:08
569さんその1 >550でのいちゃもんは理解できません。 プロの方とお見受けすれば、在家から見て期待は大きいし、評価も厳しくなるでしょう(笑)。 しっかりしてほしいんだよという意味だと思ってください。 >源空和讃では、上皇や貴族が法然の信者となったと自慢 仏教は、それを説くことが出来る者を限定しています。例えば、禅宗では老師という認可を 受けないと、教理を説くことは許されない。天台宗でも同じでしょう。本来、法然上人は律師 という地位にあり、当然、仏教教理を説く資格はあったと考えます。ところが、法然上人はそ の後流刑となり、僧籍を剥奪された。そうなると、法然上人の説いた教えの正当性が問題にな る。法然上人を流罪とし、僧籍を剥奪したのは朝廷政府でしょう。そこで剥奪した朝廷重臣達 でさえ法然上人の教えには敬服していたという主張をすることで、その正当性の回復の主張を していると解することはできませんか。 仏教教理を説く資格を問題にすると、親鸞の場合、僧でもないし、まして高僧でもない。唯 一、法然から眼をかけてもらっていたということだけでしょう。ところが、特に関東のお弟子 さん達は法然と言っても殆ど知らない。結局、関東のお弟子さん達に法然上人の人となりを知 って貰う必要があった。そういうことで、あいう和讃を作っていると考えてもいいんじゃない か。そんな風に思います。 >曇鸞和讃では、魏の天子が尊んだと、権威にこびているようなところ。 曇鸞和讃で大事なのは「鸞菩薩とぞ礼しける」だと思います。これは正信偈でもうたわれて います。私はこれは親鸞思想の重要なところだろうと思います。 曇鸞さんには、古来、曇鸞大師という尊称を送っています。世親、龍樹には菩薩という称号 を送っています。そのため、例えば山辺習学・赤沼智善の教行信証講義では、行巻の解説中、 世親・龍樹を論文として括り、曇鸞以下を支那の師釈として括っています。世親と曇鸞を別々 の枠に入れています。こういう括り方はだめだぞと言っているんでしょう。つまりあの和讃は、 曇鸞は菩薩であるということを主張し、龍樹・世親・曇鸞は思想上、一体で考えて欲しいとい うことなんでしょう。少なくとも、世親と曇鸞とを切り離し、別枠にしてはいけないという主 張なんだと私は考えています。
583 :
渡海 難 :2000/06/27(火) 21:09
569さんその2 >源信和讃や源空和讃で転生が事実であるように書いている 輪廻転生の問題は、浄土教では重要な論点になると思います。 仏教は、働きを意思と行動で認識します。意思と行動があれば人格です。 裁判所の傍聴席に座っていた人が被告に向かっていきなり「お前はケダモノだ」と叫んだと します。これはおかしいでしょうか。被告は人間なんです。ところが、被害者が犯人を「お前 はケダモノだ」と叫んでも、誰もおかしいとは思わない。なぜでしょう。被害者にとっては、 犯人は人間でなく、ケダモノなんでしょう。 ケダモノの心でケダモノの行為をするものは、人間の仮面をかぶっていてもケダモノです。 鬼の心で鬼の行為をする者は、人間の仮面をかぶっていても鬼です。人は、無知を原因にある ときは鬼になり、無知を原因にあるときはケダモノとなり、無知を原因にあるときは有頂天に なり、無知を原因に地獄にも堕ちます。そのたびに、人には新たな意思と行動が生まれ、やが て衰退し、やがて挫折し、新たな意思と行動が始まります。生死、生死をくり返します。これ を輪廻転生です。 肉体の生死は、無数の生死のなかの一例に過ぎないと考えるべきでしょう。人は無限の昔か ら無限の未来に向かって新たな生死・生死をくり返すそんな存在として観念できるでしょう。 仏の心で仏の行動をする者を仏と言います。親鸞は和讃で、世々に「善導いでたまいと」う たいます。善導のすごさは、善導以後、善導を慕う者の中から多くの哲人賢人を輩出させたこ とでした。彼らは、善導の心を自らの心とし、善導の行動と同じ行動を自らの行動とし、善導 と同じ様な業績を残しました。 「本師源空の本地をば 世俗のひとびとあいつたえ 綽和尚と称せしめ あるいは善 導としめしけり」。親鸞は法然(源空)に善導の再来を目撃したということでしょう。 「源信和尚ののたまわく われこれ故仏とあらわれて 化縁すでにつきぬれば 本土 にかえるとしめしけり」これも同様の路線で考えていっていい。源信の意思に、過去の賢人哲 人と同じ意思を認めたのでしょう。源信の行動に、過去の賢人哲人の行動と同じ行動を親鸞は 認めたのでしょう。 >法然が釈尊の説法を聞いた 釈尊の説法を聞いたとは、釈尊の説法を直接聞いた人と同じ心で同じ行動をしていたという 意味で考えればいいでしょう。しかし、この問題はもう少し深いんです。法然の和讃の問題は、 更に思想の正当性という問題がからみます。 親鸞・法然思想は、常にその正当性が問題になります。流罪という過去が絡むからです。流 罪という過去は、法然・親鸞から僧籍を剥奪しています。僧籍がないと言うことは、仏教を語 る資格がないと言うことです。親鸞は、法然を何としても有資格者にしたいんでしょう。無資 格者と言うことでは余りに痛ましい。そこで、法然と言う人は、釈尊の説法を直接聞いた人と 同じ心で同じ行動をしていたと主張し、善導大師とも同じであると主張してその有資格性を強 調しているんでしょう。 なお、法然の有資格性は現代では解消していると考えます。法然上人は亡くなると、やがて 朝廷から大師号を送られ、その伝統は歴代天皇に代々受け継がれていきます。完全に名誉回復 していると考えます。しかし、親鸞在世中は、なお名誉回復前だったということも考慮すべき でしょう。
584 :
南無 :2000/06/27(火) 21:52
>577 >どこからきて、どこへ行くのか 浄土から浄土への生を願う。 >来世があるかないか 来世をないと自己規定し生きることを選ぶ >580 南無自身の生命は今生限りと自覚。
585 :
名無しさん :2000/06/27(火) 23:16
>584 南無さんありがとうございました。 輪廻転生されて、ついには阿弥陀様になられた阿弥陀如来の本願。 私の名を唱えれば、来世では浄土で成仏させてやるぞ、という 教えの、、 その、教えの坊様が、来世はない、極楽は無い、輪廻は迷信である と言いきられたのには驚きましたが、、 親鸞上人をはじめとする、多くの信者さんたちの残した、身を切る ような言葉を玩味しながら生きていくというのが、現代真宗のあり 方なのでしょう。 来世、生命、極楽、浄土、輪廻、そのような言葉は現実遊離と排除 しながら。(地上のこと以外を考えるのが、宗教だと思いますが) そして、そのような質問には、A教授はこういった、B教授は こう言ったと言を左右にするのでしょう。 先人の残した、きらめくような言葉を玩味しながら、本願誇りに 陥らず、釈尊のことも忘れずに、正しい暮らしをしていただきたい ものです。せめて、八正道でもさいようされてはとも、思うのですが、 先人の言葉を玩味しているうちに、そう言う暮らしになるのでしょう。 通りすがりのもので、失礼いたしました。合掌。 追伸ですが、輪廻、来世の否定が現代的とは考えないほうが良いと 思います。2600年の昔から、その断見は一番大衆に受け入れられや すい言葉だったのです。大衆迎合にならないように。
586 :
生臭い¥5さま :2000/06/28(水) 00:06
皆さんの書き込みを読ませていただいて勉強させていただいています。 皆さんがよく勉強されていることに敬服すると同時に自分の不勉強さに赤面しています。 ただ、異論・反論・批判は結構だと思うのですが、突然乱入して罵るだけ罵って帰ってしまうような発言が気になります。 そう思うのは、私が若者の議論について行けないオジサンだからでしょうか・・・?
587 :
名無しさん :2000/06/28(水) 01:14
それは、ここにくると 真宗坊主の欺瞞と、真宗門徒の自己欺瞞に吐き気がするからですよ。 この板、ウソで固まっている。
588 :
名無しさん :2000/06/28(水) 01:16
自分をだまして信心してどうなるの。 これ以上いると身が穢れる。
589 :
569@`576その他 :2000/06/28(水) 09:39
罵る人もいろいろ考え勉強しているようですね。参考になります。 輪廻や来世については死んだ後のことだから分からないというのが答でしょうが、立花隆が「臨死体験」の最後に 「体験者の取材をどんどんつづけ、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐くなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなった。 死にゆくプロセスを通過した先がどうなっているか。現実体験説のいうように、その先に素晴らしい死後の世界があるというなら、もちろんそれはそれで結構な話である。しかし、脳内現象説のいうように、その先がいっさい無になり、自己が完全に消滅してしまうというのも、それはそれでさっぱりしていいなと思っている。 どちらが正しいかは、そのときのお楽しみとしてとっておき、それまでは、むしろ、いかにしてよりよく生きるかにエネルギーを使ったほうが利口だと思うようになったのである。 「死ぬのが恐くなくなった」ということ以外に、もう一つ、臨死体験者たちが異口同音にいうことがある。それは、「臨死体験をしてから、生きるということをとても大切にするようになった。よりよく生きようと思うようになった」ということである。死後の世界の素晴らしさを体験した人は、生きるより死ぬほうがいいと考えるようになるのではないかと思われるかもしれないが、実際には、逆なのである。みんなよりよく生きることへの意欲がわいてくるのである。それは、なぜか。体験者にいわせると、「いずれ死ぬときは死ぬ。生きることは生きている間にしかできない。生きている間は、生きている間にしかできないことを、思いっきりしておきたい」と考えるようになるからであるという。」 と書いている。私自身の死についてならこれで納得できるとは思う。 しかし家族の死ならそうはいかない。娘(小3)が死んだなら、再び遇う世界としての死後の世界を望むだろうと思う。
590 :
569@`576その他 :2000/06/28(水) 09:43
再び質問。真宗は釈迦弥陀の二尊教なのだから、南無阿弥陀仏と南無釈迦牟尼仏の二本立てになるのではないかと思いもするのですが。
591 :
名無しさん :2000/06/28(水) 09:53
>真宗は釈迦弥陀の二尊教 ああ、そうなんだ、知らなかった。 そうでなければ仏教とは言えませんね。
592 :
569 :2000/06/28(水) 12:50
582の渡海難さんのお話ですが、法然や曇鸞を権威づけるために権威を利用したというようにも受け取ることができると思います。どうも親鸞にはそのあたりきわどいところがあるんじゃないですか。 また法然の和讃に「本師源空のたまわく」「源空みずからのたまわく」と、生まれ変わりをしたと法然自身が言ったように受け取れるのがありますね。法然が死んだとき親鸞は関東にいたのだから、こんなことを直接聞いたわけではないのですが、知らないものが読むと、親鸞もその場にいたように思うでしょう。その他「光明紫雲のごとく」「異香みぎりに瑛好す」など、源空和讃はどうもしっくりこないものを感じます。
593 :
南本願寺 :2000/06/28(水) 13:51
「釈迦弥陀は 慈悲の父母」と、親鸞聖人の和讃にありますね。 弥陀−救い主 釈迦−教主 ととらえ、真宗においては、法名に「釈」の文字を いただいて、お釈迦様の弟子のなのりをします。(仏弟子) 救い主が阿弥陀様なので、称えるのは「南無阿弥陀仏」です。
594 :
渡海 難 :2000/06/28(水) 18:47
592さん >どうも親鸞にはそのあたりきわどいところがあるんじゃないですか。 私は考えたこともなかった論点です。参考になります。勉強になります。確かに親鸞には きわどいところがあるのかも知れないですね。 基本的には、親鸞は無資格者ですからね。当時の仏教の常識で考えれば、親鸞は仏教を説 く資格がない。唯一の根拠は、自分は法然から眼をかけて貰えた人物、事実上認可を受けて いたも同然だと言う、自分だけが納得する論理に依っていたわけです。歎異抄の「弟子一人 も持たず」とはそういう意味でしょう。ところが、関東ではその法然の名すら、人々は知ら ない。唯一の救いは、聞き手がただ純情だったということかも知れない(笑)。 関東の人に向かったときは、かなりはったりを使ったかも知れないですね。都払いの処分 が終わると、親鸞は直ちに京都に帰る。これも、何かのジレンマの中の複雑な思いが遠因の 一つにあったのかも知れないですね。 浄土教の輪廻転生思想は、十二因縁の法理に基づくものであることは、私は間違いないと 思うんですよ。人には霊魂があって、それがふわふわと浮遊していくなんていう話じゃない。 人は、愚かさを原因に生死生死をくり返す。人間の仮面をかぶっていても、ときにはケダモ ノになり、鬼になり、有頂天になったかと思ったら地獄で塗炭の苦しみを受ける。そんな存 在なんだ。そんな確信に依拠するものでしょう。生死生死の原因となる愚かさは、肉体の誕 生で始まったものではなく、肉体の死で終わるものじゃない。無限の過去から、無限の未来 に突き抜けていくそんな存在として評価できる。だからこそ、我々は、無限の昔から生死生 死をくり返してきたし、無限の未来の未来に向かって生死生死をくり返していく。そんなも のと観念できる。そういう考えなんでしょう。しかし、源空和讃はそうした仏教の根本原理 とは別の論理を使っているかも知れないですね。 源空の人となりは、説法者としての親鸞の立場を左右しかねない。親鸞が関東で土着の人 に説くときは、対機説法と割り切って、かなりきわどいことも言ってたかも知れませんね。
595 :
お願い :2000/06/28(水) 22:43
ここは「心と宗教」版です オカルト系または心ない方は来ないで下さい。
596 :
名無しさん :2000/06/28(水) 22:45
>595 警告、多重かきこです。
597 :
生臭い¥5さま :2000/06/28(水) 23:13
> 親鸞・法然思想は、常にその正当性が問題になります。 > 流罪という過去が絡むからです。 > 流罪という過去は、法然・親鸞から僧籍を剥奪しています。 > 僧籍がないと言うことは、仏教を語る資格がないと言うことです。 親鸞聖人は、 官僧(国家資格としての僧侶)の身分(綽空)をはく奪され、 俗人の藤井善信として越後へ流罪になりましたが、 国家権力(国立寺院である延暦寺・興福寺)に専修念仏を非難されて、 念仏停止を迫られたからといって、 法然・親鸞の思想が、釈尊の教えに反し、 仏教ではない(仏教を語る資格がない)ということにはならないと思います。 真理・真実であるかないかは、 国家権力に認定されたものであるか、 そうでないかということと無関係だと思います。
598 :
生臭い¥5さま :2000/06/28(水) 23:41
> 法然や曇鸞を権威づけるために権威を利用したというようにも受け取ることができると思います。 > どうも親鸞にはそのあたりきわどいところがあるんじゃないですか あなたたちが言われるように、 親鸞聖人が権力・権威志向の強い方だったのなら、 比叡山(今なら東大の印哲か京大の仏教学)というエリート学僧の立場を自ら捨てて山を下りることはなかったのではないでしょうか?
599 :
生臭い¥5さま :2000/06/29(木) 00:00
> プロの方とお見受けすれば、在家から見て期待は大きいし、評価も厳しくなるでしょう(笑)。 > 僧籍がないと言うことは、仏教を語る資格がないと言うことです。 ご自分の発言が矛盾しているとは思われませんか?
600 :
生臭い¥5さま :2000/06/29(木) 00:42
> 自分だけが納得する論理に依っていたわけです。 > 歎異抄の「弟子一人も持たず」とはそういう意味でしょう。 「弟子一人も持たず」とは、 親鸞聖人が信じ、伝える絶対他力の信心の教えは、 法然や親鸞といった個人の思想・信条を語るものではなく、 阿弥陀如来よりたまわりたる信心を伝えるものであり、 自分を縁として阿弥陀如来に帰依する人があっても、 それは親鸞個人の弟子ではなく、仏弟子であるという意味でしょう。
601 :
生臭い¥5さま :2000/06/29(木) 01:26
渡海 難さんは、“在家”と名乗られているわりには仏教・親鸞思想にたいへん詳しい知識をお持ちのようですが、 かなり強い反親鸞的な信条をお持ちのようで、尚且つやたらと国家権力・権威にこだわりをもっていらっしゃるようです。 まさかと思うのですが、国家神道の復活を願う右翼の方ですか? 違うとすれば、どのような宗教的・思想的信条をお持ちの方なのでしょう。 誠にぶしつけで失礼な質問だと思いますが、とても知りたいです。
602 :
お寿司食べたい :2000/06/29(木) 11:27
難しいお話の途中で、すみません。 なんだか南無さんに対してのバッシング的意見を読んでいて、痛くなっちゃったので…… 南無さんへ あなたは、とってもいいお坊さんですね。俗人だとか、お金がどうとか、そんなのどうでもいい. 南無さんがこういうスレッドを立ててくれて、インターネットを通じて(思えばすごい時代!) 一般の人とお坊さんがかかわる機会を作ってくれたって事がすごくうれしい。 お坊さんってお経読んだりするのも仕事でしょうけど、ほんとは南無さんのように、悩みを聞いたり 質問に答えたりして、世間の人とお寺の関わりを保っていくのが仕事だと、私は思うんです. お坊さんが聖人でなきゃいけないなんて思わないし、何もかも悟りきった聖人に私のくだらない悩みを 分かってもらえるとも思わない. 他の人にとってどうなのか分からないけど、私にとっての「いいお坊さん」っていうのは、 フレキシブルな考え方のできる人で、自分の経験を通して人の痛みや悩みを分かってあげられる人だとおもう。… つづく――――
603 :
お寿司食べたい :2000/06/29(木) 11:50
さっきのつづきです! 南無さんは、正直に人の質問に答えてくれるし、本当なら直接お坊さんに聞けないような質問にまで 答えてくれてる. そういう、誠意のあるお坊さんに対してひどいこといったりする人がいるのが 信じられない. 私は、今、東南アジアのある国(国民のほとんどがカトリック)にすんでいて、時々宗教 について考えさせられる事があるんですけど、南無さんの話を聞くと、自分なりの宗教感を持つ事ができ そうな気がしてきました. できれば、南無さんのようなおぼうさんに相談したい事がたくさんある.... 残念ながら、周りにそんな人はいないんですが. まとまりませんが、南無さん、応援してます! これからも、「自分」をたいせつにしながら、「おぼうさん」を がんばってください!
604 :
渡海 難 :2000/06/29(木) 13:51
生臭い¥5さまさんへ1 >俗人の藤井善信として越後へ流罪になりました 藤井善信という名は返上し、宗祖は流罪以後、愚禿親鸞と名乗りました。藤井善信として流罪になった のではありません。 >仏教ではない(仏教を語る資格がない)ということにはならないと思います。 仏教ではないということと、仏教を語る資格がないということは意味が違うと考えています。 鎌倉時代の価値観で仏教を語る資格がなかったということは、平成の現代の価値観で仏教を語 る資格がないということではありません。仏教を語る資格がないということは、あくまで時代 性、社会性、形式性の問題です。 十七条の憲法は、篤く三宝を敬えと言います。これは仏教の根本原理でしょう。三宝とは仏 ・法・僧をいいます。当時、僧籍認証権は朝廷政府が握っていました。武家時代になっても、 僧籍認証権は朝廷政府の専管事項でした。朝廷政府が僧籍を剥奪すれば、僧は僧としての資格 を失います。民衆に仏教を説くのは僧の独占行為でした。鑑真和上を招いたのも、我が国に正 式の戒律を移入し、正しい僧のみに説法行為を独占させ、国内に魔道・外道が蔓延することを 防ぎ、もって鎮護国家を図ろうとしたからでしょう。 親鸞は、承元の法難で僧籍を失います。その後親鸞が僧籍を回復したという証拠はありませ ん。僧籍の無い者が説く仏法は、その内容はいざしらず、少なくとも仏法としての形式的条件 を当時の価値観では満たしていなかったと私は考えているのです。 御伝抄が、親鸞伝記に日本神話を持ち出し、天津小屋根尊を持ち出し、聖徳太子に礼拝させ、 観音菩薩に夢告させているというのも、当時、親鸞の承継者達が正当性の主張する上での苦肉 の策だったと私は考えています。 くり返します。仏教を語る資格がないとはあくまで形式的な問題です。説いた内容が仏教で あるかどうかという問題ではありません。ただ、その主張が時代を飛び越えて余りに破天荒で あればあるほど、内容性より形式的正当性が問題になるということはある。私はそう思います。 >国家権力に認定されたものであるか、そうでないかということと無関係だと思います。 僧籍認証権は、当時、朝廷政府が握っていました。朝廷政府が認証を否認すれば僧は僧とし ての根拠を失います。国家権力による認定は重要な問題です。 現代でも、国家が医師資格を剥奪すれば、医師は医師でなくなります。いくら能力のある人 でも、無資格診療は医療行為と言えません。 しかしながら、無資格行為でも、その内容が正しければ、五百年、千年たっとき、あの人は 素晴らしい治療師だったと社会は受け入れ入れるでしょう。五百年、千年経過すれば社会から 受け入れられるとしても、だからといって、五百年、千年前の治療行為が有資格診療に遡及す るわけではありません。 五百年、千年後、それを正当な行為と受け入れるかどうか。これは、形式性の吟味ではありません。内容についての厳しい批判的に吟味に耐えられるかどうかをもって判断すべき事柄で しょう。
605 :
渡海 難 :2000/06/29(木) 13:52
生臭い¥5さまさんへ2 >親鸞聖人が権力・権威志向の強い方だったのなら 権力・権威志向の強い方かどうか、私は直接お会いしたことがないので分かりません。 「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止 せざらしめんと欲す」れば、目的達成のため、権力と戦うこともあり、逆に権力を利用するこ ともあったでしょうね。 「田舎の人々の、文字の心も知らず、浅ましき、愚痴極まりなきゆえに、易く心得させんと て、同じ事を取り返し、取り返し」言うこともあったでしょう。一時的に、やや遠回りのこと を説くこともあったでしょうね。 「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止 せざらしめんと」することは犠牲にして、反権力の主張を貫くということはなかったでしょう。 >ご自分の発言が矛盾しているとは思われませんか? ?? どこが? 渡海難は資格で仏教を説いていると思っているんですか。私は資格なんかありませんよ。お 前は資格がないんだから、形式的要件を欠く以上、お前の話は仏教でないという人がいるかも しれない。そういう人がいても構いませんよ。私は、言いたいことを言うのであって、それが 仏教という枠にはまるかどうかなんてことは、関係ありませんからね。 >親鸞個人の弟子ではなく、仏弟子であるという意味でしょう。 ああ、そういう意味ですか。貴方の仰っている意味はよく分かりませんが、いろいろな考え があってもいいんじゃないですか。 >名乗られているわりには仏教・親鸞思想にたいへん詳しい知識をお持ちのようです お恥ずかしい限りです。わたしは善悪のふたつ総じて存知しない者ざんす。皮肉を仰ってい るつもりかも知れませんが、最近の坊さんは、贅沢にあぐらをかいて、本当に勉強しなくなっ たということを言っているのかも知れませんね。 >国家神道の復活を願う右翼の方ですか? えっ (*_*) !? >どのような宗教的・思想的信条をお持ちの方なのでしょう。 貴方は思想分類学でもご専門の方でいらっしゃいますか。分類学で他人をはからないでくださいな。私は渡海 難流の宗教的・思想的信条をお持ちの方ざんす。 >誠にぶしつけで失礼な質問だと思いますが、とても知りたいです。 一生懸命知ろうとしてくださるのは嬉しいですね。ただ、思想分類枠ではなく、生きた心に 触れて欲しいですね。
606 :
渡海 難 :2000/06/29(木) 13:54
お寿司食べたいさんへ あなたはお坊さんと見ると、お心が優しくなる方のようですね。 南無さんも、お心の優しいいい方なんでしょうね
607 :
592その他 :2000/06/29(木) 20:05
>593 南本願寺さん 屁理屈を言うようですが、釈尊よ、教えをいただいてありがとうございます、も南無阿弥陀仏なのでしょうか。と言うのも、真宗では二尊教と言いながら釈尊像がないし、仏教徒ならば報恩講より涅槃会の方が重いのではないかと思うからです。 >594 渡海難さん 親鸞に既成教団、学僧に対しての顔と、田舎の人々に対しての顔があるという、二面性については分かるのですが、親鸞の本音はどこにあるのか興味があります。 「教行信証」に「主上臣下、法に背き義に違し」と書き、善導和讃の「本願毀滅のともがら」とは「河田光夫著作集」を読まなくても後鳥羽上皇のことだろうと想像させます。しかし源空和讃に「承久の太上法皇は」と後鳥羽上皇の権威を借りています。もっともこの和讃を書いた頃には後鳥羽上皇は隠岐で死んでいるのですから、権威があるかどうかは分かりませんが。 死後のこともそうで、自分が先に死んで浄土で待っていようと思っていたのに、と手紙に書いたり、還相回向でも自分が死んだ後に衆生済度をするとしか読めない箇所があります。 本当に死んだ後に再会できると信じていたのか、そうならばどのようなイメージを持っていたのか、親鸞の本音を聞きたいものです。 >598 生臭い¥5さま 寺川先生の話ですが、親鸞が比叡山から下りたのは性の問題よりも権力の問題だとそうです。と言うのも、親鸞は下級貴族の出ですから比叡山で出世できない。その悩みの方が性よりも大きいのではないか、という説です。権力志向はあったと思います。
608 :
職業 その他 :2000/06/29(木) 20:16
>602 お寿司食べたい さん 私も坊主ですが、門徒さんからの質問や意見は聞きたいのですが、なかなかそういう機会はないのです。以前にも書きましたが、おそらく坊主を信頼していないのだろうと思います。しかし新興宗教には信頼する。それが私には理解できません。 「立正佼成会と創価学会」というスレッド、現在この下にあるのですが、えるもという人が祖母が立正佼成会の会員で苦しい思いをしたことを言っているのです。それに対して、立正佼成会の人の言うことは私に言わせれば無茶苦茶。 立正佼成会に限りません。他の新興宗教のスレッドを読めば、信心が足りない、あなたは知らないだろうが因縁というものがあるんだ、それはあなたが教えを理解してないからだ、などとほざいています。 苦しみを共有しようとはしていない。苦しみを抱えている人が新興宗教に行くのは分かるとして、どうしてそういう言葉に納得するのでしょうか。 このスレッドを読む人は何らかの形で真宗に接している人でしょうから、言う必要のないことですが、新興宗教を尋ねる前に近くのお寺で相談してもらいたいものだと思います。
609 :
生臭い¥5さま :2000/06/30(金) 00:12
>607 すみません、勉強不足で分からないので教えてください。 >性の問題 とはどういう意味でしょう?
610 :
生臭い¥5さま :2000/06/30(金) 00:26
)604 605 渡海 難さん 申し訳ありませんが、もう一度ご自分の書き込みと私の書き込み、そしてご自分の書き込みを読み返していただけませんか。 論点が噛み合っていませんよ。 論点がずれていては議論になりません。
611 :
生臭い¥5さま :2000/06/30(金) 00:32
↑ すみません、書き漏らしました。 渡海 難さん あなたは自己矛盾しています。 ご自分の発言を、その後の私の発言に対する反論の形式で、自らの発言を否定しています。 よくお考えください。
612 :
607 :2000/06/30(金) 08:24
>生臭い¥5さまが >親鸞聖人が権力・権威志向の強い方だったのなら、 比叡山(今なら東大の印哲か京大の仏教学)というエリート学僧の立場を自ら捨てて山を下りることはなかったのではないでしょうか? と書いていますね。なぜ親鸞が比叡山を下りたかというと、性の悩みから、すなわち性欲を持て余していたから、というのが理由の一つだとされています。 しかし性欲の問題よりも権力欲の方が強いのではないかというのが、寺川先生の話でした。親鸞は下級貴族の出身ですから、比叡山において出世できない。もちろん座主になどなれない。自分よりも年下なのに家柄がいいだけで高いくらいにのぼる者がいる。名聞ですね。そんな悩みもあったということです。 もちろんそんな権力志向をいつまでも持ちつづけたとわけではないのは言うまでもありません。それどころか貴族、高位の僧などこそが悪人だと言っているわけですから。このあたりは「河田光夫著作集」の受け売りです。 といってもそうした人々を視野に入れていないわけではなく、「教行信証」を漢文で書いたのは彼らに読ませようとしたからでしょう。 それと、親鸞が死後のことを本当はどのように考えていたか、あなたはどう思われますか。
613 :
生臭い¥5さま :2000/06/30(金) 09:25
> 612 よくわかりました。ありがとうございます。 そうすると、 > 法然や曇鸞を権威づけるために権威を利用 という説は正しいと思われますか? > 親鸞が死後のことを本当はどのように考えていたか、あなたはどう思われますか。 私には理解できない展開でとまどっています。 素直に、 不勉強なのでお答えできません。 私自身は、私を産み出してくれた無限の宇宙的な生命の真理の世界、 生命の源の世界に帰っていく、溶け込んで一体となるということが 死んでいくということだと現在は思っています。 “親鸞が死後のことを本当はどのように考えていたか” どうぞご教授ください。
614 :
渡海 難 :2000/06/30(金) 09:36
607さま
>親鸞に既成教団、学僧に対しての顔と、田舎の人々に対しての顔があるという、二面性については分かるのですが、親鸞の本音はどこにあるのか興味があります。
我々から考えると二面性ですが、はたして親鸞が「二」という意識を持っていたかどうか
は大いに疑問だと思います。
田舎の人々に「易く心得させ」ることができなければ、原理原則的な仏教の高等な真理な
どは絵に描いた餅でしょう。易く心得させたからといって仏教の真理を忘れていれば、これ
また外道ということになります。矛盾するものが、本当は矛盾しないで一体化して躍動して
いると考えた方がいいでしょう。固定的に仏教の真理はこれだと決めつけない方がいいかも
知れませんね。
>本当に死んだ後に再会できると信じていたのか、そうならばどのようなイメージを持って
いたのか、親鸞の本音を聞きたいものです。
親鸞の本音は親鸞に聞かないと分からないでしょうね(笑)。でも、親鸞の原理原則的な
死生観は、決して難しいことは言ってないと思いますよ。
生と死の関係は非常に面白いんですよ。生老病死という概念で捉えると、これは一体のも
のなんですね。人は、あるときはケダモノの心でケダモノの行為をするケダモノとなる。次
の瞬間、有頂天の心で有頂天の行為をして有頂天になる。仮に人間の仮面をかぶっていても
の話ですよ。
現代の我々は、人間のお面をかぶってさえいれば人間だと思う。お面が壊れると人間じゃ
ないと考える。仏教はそうじゃない。人間の心で人間の行為をしてこそ、人間と言える。人
はたえず変化する。ケダモノから鬼になり、有頂天になったり、地獄に堕ちたりする。その
たびに新たな意思と行動が生まれ、やがて衰え、挫折し、新たな意思と行動を開始する。無
知を原因に生死生死をくり返す。十二因縁の法理では、最初に無明があって、最後が生・老
病・死となる。十二因縁の生老病死は迷いとも言う。迷いとして捉えた生と死は本質的に一
体不可分のものでしょう。
一方で、生と死とは対立的概念で捉えられる。死は生の結果であり、生は死の原因である
という考え方です。生あるものは必ず死がある。死があったものは生がある。これは真実の
論理です。縁が介在する余地はない。真実の因果論は、観念論、評価論に変えることができ
ます。因は結果で評価され、結果は原因を通じて観念されます。生は死で評価され、死は生
を通じて観念されます。
親鸞の生死観は、生死一体の概念と対立的概念の二つの観点で捉えていく必要があるわけ
です。本来、仏教は迷いを生・老病・死として捉え、その原因である無明を克服することで
迷いを断とうとしてきました。これに対し、親鸞は生と死を対立させ、生と死を真実の論理
で分断し、生と死の間の因果で捉えなおすことを通じ、仏教の根元的なテーマと取り組みま
す。
ここは、これだけでは話が分からないと思います。私のホームページの掲示板に来てくだ
さる方がいれば、その方に続きをお話ししたいと思います。
浄土通信
http://www3.justnet.ne.jp/~katasi-park/
615 :
渡海 難 :2000/06/30(金) 09:38
生臭い¥5さまさん >論点が噛み合っていませんよ。論点がずれていては議論になりません。 そうですか。論点が噛み合ってないですか(笑)。論点がずれているように貴方には思えるんですね(笑)。 >ご自分の書き込みと私の書き込み、そしてご自分の書き込みを読み返していただけません か。 数度読み返しておりますので。この長さの文章なら、もう十分かと思います(笑)。 >論点が噛み合っていませんよ。 特定のどなかたと特に議論しようとは思っていませんので、ご心配ご無用と思います。 >あなたは自己矛盾しています。ご自分の発言を、その後の私の発言に対する反論の形式で、 自らの発言を否定しています。 そうですか。自己矛盾していますか(笑)。 如来の御心に良しと思し召す程に知り通したらばこそ、良きを知りたるにてもあらめ。如 来の悪しと思し召しす程に知り通したらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめど、煩悩具 足の凡夫、火宅無常の世界は、万ずのこと、皆もって、空言、戯言、真あること無きに、た だ念仏のみぞ真にておわします。 温かいご指摘感謝します(笑)。 なお、生臭い¥5さまの場合、貴方の方から相手にもう少し具体的に話を発信するともっ と話が通じやすくなるかも知れませんね。(笑)
616 :
お寿司食べたい :2000/06/30(金) 11:04
608さんへ お坊さんを信用してないって訳ではないと思います.(少なくとも私の場合は)ただ、あまりお話したり する機会がないだけで…… 父のお墓のあるお寺の住職さんは、父が亡くなった時にいろいろ相談にのってくれたり、 実家の近くに用事があったときには、「その後の様子はどうですか?」と様子を見に来てくれた事も ありました.大変な事が重なっていた時の事なのでとてもうれしく感じたのを覚えてます. 最近は日本に帰っていないので、お墓参りにお寺に行くこともなくなってしまっているんですが、 帰国したときには、お墓参りついでに住職さんと、少しお話しようかなと思ってます.(この住職さん、 話好きの、なかなかお茶目なおじちゃんです)
617 :
607など :2000/06/30(金) 12:31
死んだらどうなるかについて、親鸞は本音のところでどう考えていたか、ということは還相回向とも関係し、大切な問題だと思います。 しかしあんまり難しい話になるのは、南無さんがこのスレッドを立てた気持ちと違ってくるので、止めといた方がいいでしょう。確かに荒らしているのかもしれません。
618 :
生臭い¥5さま :2000/06/30(金) 12:48
> 613 > > 法然や曇鸞を権威づけるために権威を利用 > という説は正しいと思われますか? 失礼しました。 あなたは、592@`569さんだから、言い出しっぺさんなんですねぇ。 大ボケでした。
619 :
ん :2000/06/30(金) 17:06
620 :
名無しさん@1周年 :2000/06/30(金) 21:33
オウムの林被告が死刑になりました。大谷派では死刑廃止ということだそうですが、多くの人は死刑は当然と考えていると思います。どうなのですか。
621 :
生臭い¥5さま :2000/07/01(土) 09:05
622 :
渡海 難 :2000/07/01(土) 09:52
大谷派どうこうでなく、620さん、あなたはどう思いますか。わたしは一市民として死刑は当然と思いますけどね。 私は、一人の大人として責任を感じます。林被告ぐらいの年齢にの人になるとこちらの責任意識は希薄になるんですが(笑)、一番若い井上被告などに対しては、年齢差から責任を感じます。 「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え」。かつて私に仏教を教えてくれた坊さんは、当時、四,五十代でした。今、私は丁度その年なんですよ。重さを感じます。一日早く仏教に目覚めた者は、一日後れている者を導かなければいけない。オウムの人は、それなりに正しい仏教を求めているんでしょう。むずむざ麻原某という詐欺師の生け贄にしてしまった。悔しいですよ(笑)。 インターネットの中だけですが、私は、昨年の11月頃からしばらく親鸞会を相手にしてきました。昨年の12月中旬ごろを境に、親鸞会会員のインターネット上のトーンが変わってたのを感じます。親鸞会会員の主張に矛盾点があることは、インターネット上ではある程度クリヤーになって常識化してきた感じがしていると私は思っています。私のホームページには関連の書き込みもあるし、親鸞会関係の掲示板にも、幾つか残っています。ハンドルネーム、デカルトさんが孤軍奮闘で反親鸞会の主張を掲げたハトの会のころの雰囲気とは大いに違います。 仏教を知りたいという人には、老婆心ながら私にはお伝えしたいものがある。親鸞会とオウムとは同列だとは言いません。親鸞会は親鸞を名乗っている。親鸞会の会員、元会員というと、その多くが仏教の学習会に通っていたころの昔の私の年齢なんですね。親鸞会の会員、元会員には、必死に仏教の集まりに通っていた昔の自分を私は感じる。二十代、三十代の人にはきちんんと伝えていかなければいけない。今後、第二,第三の林被告や井上被告を出してはいけない。私は責任を感じます。 生臭い¥5さまさんへ >掲載されています。 どこですか。探し増したが見つかりません。タイトルは何になっていますか。
623 :
生臭い¥5さま :2000/07/01(土) 10:07
> 621@`622 すみません、案内不足でした。 “新着情報”をクリックしてください。 「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明」という記事があると思います。
624 :
南無 :2000/07/01(土) 15:53
死刑制度について 2年前になりますが、結婚し養子に入った夫が妻と義父を殺害するという 事件が近所で起こりました。三回忌が終わったのですが、最初からずっと お参りをしています。残されたのは70歳に近い義母と5歳の息子です。 今は地裁で公判中です。検察からは死刑の求刑がされていますが、判例 にてらして無期懲役だろうという風評です。単純に感じていることだけを 書き出してみます。 1.加害者の人権のみが守られ被害者・遺族の人権が無視されてる 2.遺族に対する配慮やアフタ−ケアがどこからもなされない 3.裁く側も裁かれる側も命の尊厳においては同じということ 4.事件には必ず背景(縁)があるということ 5.責任を取るということは何を意味するのか 6.少年法も含め今の刑法と遺族の心情とのギャップ などを感じていますが、自分の中での矛盾点も多く整理しきれていません。 ただ、基本的には死刑制度には反対です。他に方法はいくらもあるだろう と思います。
625 :
職業 その他 :2000/07/01(土) 21:01
>南無さんへ >1.、加害者の人権のみが守られ被害者・遺族の人権が無視されてる これはよく言われることてすが、私にはよく意味が分かりません。というのも被害者や遺族の人権を無視しているのはマスコミであり、好奇心いっぱいの我々です。そのくせ被害者の人権云々とご立派なことを言っているようにしか思えません。どちらの人権も大切だと思います。 浅野健一「犯罪報道の犯罪」(?)で加害者、被害者の匿名報道をと言っています。大賛成です。なぜ被害者の名前や顔写真を載せなければならないのでしょうか。なぜ被害者の生活や家族関係など微にいり細にわたって報道しなければならないのでしょうか。加害者についても同様です。いくら許せない奴でも家族がいます。家族までなぜつらい思いをしなければならないのでしょうか。加害者、被害者どちらの人権も大切にしなければならないと思います。しかし現実にはどちらの人権も無視されているように思います。 2,3,4,5については全く同感。 >6.、少年法も含め今の刑法と遺族の心情とのギャップ これについては非常に難しいのですが、坂上香「癒しと和解の旅」岩波書店、という本があります。これはアメリカで死刑囚の家族と、家族を殺された遺族が死刑制度の廃止運動を共にしているグループについて書かれた本です。その中に、「許しの中に癒しがある」(正確ではありません)ということを言った遺族がいます。 我々でも怒りが怒りを生むことはよく知っています。現実にそんな簡単なものではないことは言うまでもありません。しかし仏教徒としては、その本に登場する遺族のあり方に学ぶべきだと思います。
626 :
620 :2000/07/01(土) 21:11
>渡海さん オウムの林被告については、そうした状況の中ではやむを得ない行動ではないかと思います。もちろんそれで罪が許されるわけではないのですが。戦争の最中での犯罪と似ていると思います。 しかし栃木のリンチ殺人事件などは、加害者がどう考えているのか、もうこいつらどうしようもないんじゃないか、とも思います。死刑にでもならなければ自分の罪を自覚できないんじゃないですか。 しかし女子高生コンクリート詰め殺人事件の副主犯格のBは少年院で罪の重さのため精神に異常をきたしたということです。弁護をした伊藤芳朗「少年Aの告白」に書いてあります。あるいは阪神大震災によって戦争中の人殺しを思い出し、悪夢に苦しんでいる人の話をどこかで読みました。 人間には可能性があると信じたいです。
627 :
渡海 難 :2000/07/01(土) 23:54
>人間には可能性があると信じたいです。 どんな人間にも可能性がある。死刑はその可能性を抹殺することであり、可能性を抹殺することは国家でも許されない。626さんの考えはそういうことなんでしょう。 死刑は現行法では殺人犯罪以外には適用されません。犯罪行為には、犯人に自らの命をもって贖わせる以外に償いようがないものもある。私はそう思うんですよ。 副主犯格のBは少年院で罪の重さのため精神に異常をきたしたそうですね。私もどこだったかのホームページで見ました。罪の重さのため、精神に異常をきたすような人には、むしろ国家の名をもって死刑を与えてあげることの方が思いやりかも知れない。そんな気がします。一定の犯罪行為をすれば死刑を与えられるというのは、本来なら償う方法が無い者に国家が人間らしい窮極の償い方を用意しているということで、それを受けるのも犯罪を犯した者のひとつの権利であるという考えはできないでしょうか。 確かに死刑廃止論には強力な根拠があります。元最高裁判事で刑法学者の団藤さんなどが言ってます。冤罪という可能性がある限り、死刑は廃止しなければいけない、と。団藤さんはそう言う。この主張は非常に思い主張だと思う。明治以降だって、冤罪で死刑になった人の数などは計りようがない。帝銀事件の平沢貞通さんなどは、冤罪の可能性が極めて高い。しかし、冤罪をつくってはいけないということと、死刑を廃止するというのは問題が別のような気がするんです。死刑を廃止すれば冤罪があってもいいと言うことにはなりませんからね。 社会にはルールがある。ルール違反は、相当の弾劾をもって臨まなければいけない。社会には多くの人が生きている。死刑をもって弾劾しなければ社会的コンセンサスが得られないルール違反はあると思う。死刑が相当かどうかというのは、宗教的な観点で考える問題じゃない。阿弥陀仏とコンセンサスを取る問題じゃない。被害者の心情にも合致する線で、社会的コンセンサスを元に人間が決めなければいけない。死刑という選択肢を選らばなければ社会的コンセンサスが得られない犯罪形式はある。私はそう思うんですよ。 私は、今の処罰体系は緩すぎると思う。栃木のリンチ殺人事件などで犯人は死刑にならなかった。栃木の事件の被害者の両親は、テレビでしか知らないけれど非常に立派な方のようだ。今後、加害者が出所するときは通知が被害者又はその家族の元に行くらしい。栃木の事件では万一にもそんなことは無いと思うけれど、今のような緩い処罰体系では、被害者が出所後の人を待ち伏せて復讐するという手段に出る可能性も今後はあると思う。 被害者側が出所後の加害者に復讐を図ったら、加害者被害者の立場が逆転する。そういう場合、社会は果たして復讐者を正当に処罰できるんでしょうか。加害者への処罰が緩すぎたんだという世論になったらどうなるんでしょう。裁判官はどう裁くんでしょうか。その被害者が返り打ちに遭ったらどうなるんでしょう。犯人(被告)に人間としての可能性があるかぎり、その可能性を国家が奪うのは良くないという正義論だけでは、社会の健全な秩序は保てない問題があると思うんですよ。 日本を復讐社会にしてはいけない。復讐社会にしないためにも、私は死刑制度というのはあって当然だと思う。これは宗教的正義の問題ではない。社会秩序の問題でしょう。宗教は、死刑相当の犯罪者から安易に死刑を受ける権利を奪うんじゃなく、そこでこそ生死を超えた救いを説くべきでしょう。生死を超えた救いこそ、私は仏教の得意分野だと思うんですよ。
628 :
名無しさん@1周年 :2000/07/03(月) 18:09
みんなの書き込みが止まっちゃたのかしら。どうしたんだろうね。 お坊さんとはお葬式以外の話をするというのは失礼なことなのかしら。「生死を超えた救い」という言葉で、お坊さんも黙っちゃったのかしら。こんな言葉が出たくらいで何も言えなくなっちゃうんだったら、親鸞会の会員の方がずっと立派だね。親鸞会批判の種をまいてきた渡海 難が言うのはおかしいかもしれないけれど、彼らはこういうことでは非常に一生懸命考えてるよ。勉強もしている。2chの余所の板では親鸞会の会員は可哀想にぼろくそに言われているけど。ぼろくそに言われるべき相手が間違ってるんじゃないかしら。
629 :
渡海 難 :2000/07/03(月) 18:12
名前を書き忘れました。628は、渡海 難の書き込みです。
630 :
名無しさん@1周年 :2000/07/03(月) 18:15
そうですか、ぼろくそに言われるべき相手が間違ってるんじゃないかしら、とあなたは思うんですね
631 :
渡海 難 :2000/07/03(月) 20:46
はい。その通りです (゚゚)(。。)(゚゚)(。。)ウンウン。 630さん。あなたはそうは思わないですか。真宗のお坊さんは大事な勉強をしてないんじゃないか。親鸞会の会員さんの方が勉強してるんじゃないないか。私はそんな気になってきました。630さん。貴方はどう思いますか。
632 :
生臭い¥5さま :2000/07/03(月) 22:01
お釈迦さんが関わるなと言われたお葬式をいかにも自分たちの専門職であるかのように勤め、もっともらしく先祖供養をして、確かに堕落した今日の僧侶の実態です。 しかし、死刑の問題提起に対してコメントが無いからといって、それを理由に勉強不足だとここぞとばかりにボロクソに批判するのは筋違いだと思います。 コメントが無いことが、何も考えていないことの証明にはなりません。真剣に考えているからこそ軽々しくコメントできないこともあります。 栃木のリンチ殺人事件などで犯人は死刑にならず、無期懲役だったかと思います。 その判決に対して、被害者のお父さんが、 死刑にならなくてよかった。犯人はこれから自分の犯した罪、自分が奪った息子の命の重さを感じて、罪の償いをしながらしっかりと生きていって欲しい・・・。 というような内容のコメント(正確ではないと思う)をテレビでしていたと思います。 立派なお父さんだと思いました。 復讐・仇討ちを願う遺族ばかりではないのですよ。 人が人を裁くということは難しいです。 少年法で保護された未成年者が凶悪な犯罪を起こす今日ではなおさらです。 批判すべき時にはガンガン批判していただくことは大歓迎ですが、 今回の批判は素直には聞けませんでした。 それに、“一生懸命考えてるよ。勉強もしている。” 一生懸命考えて、勉強しているから正しいとは限りません。 オームの奴らだって、彼らなりに一生懸命考えて、勉強してたかもしれないよ。
633 :
渡海 難 :2000/07/04(火) 08:32
> それを理由に勉強不足だとここぞとばかりにボロクソに批判するのは筋違いだと思います。 ここぞとばかりに批判したつもりはないんですけどね。そう受け取られちゃったみたい? (^_^ゞ ぽりぽり。 >コメントが無いことが、何も考えていないことの証明にはなりません。真剣に考えているからこそ軽々しくコメントできないこともあります。 それはそうだ。それはそうだ。 (゚゚)(。。)(゚゚)(。。)ウンウン >…というような内容のコメントをテレビでしていたと思います。 私と記憶が違うようです。遺族の言葉に、死刑を期待していた発言があった記憶があります。主犯の子の陳述発言に憤慨していた報道もあったと記憶しています。 「一日も早く罪を償って出所し、被害者の分も長生きしたい」。主犯格の少年はそんなことを言っていた。報道の信憑性、正確性の問題があるんだけど、この報道が事実なら、八つ裂きにしてやらなくちゃいかんという感情が私などには起きてくる。誤報ならマスコミの責任は実に大きい。 >復讐・仇討ちを願う遺族ばかりではないのですよ。 立派なお父さんだということと、復讐したいと思うと言うこととは別のことと思います。一人息子を殺されたら、犯人を殺してやりたくなるのは人として極めて自然な感情でしょう。犯罪被害者のつらさは、犯罪被害を受けたということだけではない。復讐を国家が禁止しているということも加わってると思う。死んだ被害者になりかわって遺族などが犯人を火あぶり・釜ゆでにしてやりたいと思う気持ちを起こすことは、私は当然だと思う。そんなこと考えてはいけないという人がいれば、いけないという人の方がおかしい。血も涙もない人だと思う。ニュースを見ただけでも殺してやりたい思いを持つことは、私にもありますからね。被害に遭ったのに、水に流して忘れましたなどという人がいれば、それこそ私はおかしいと思う。その場合には、犯人は別にいるんじゃないかと疑うべきでしょ。水に流して忘れましょうと言った人間こそ真犯人じゃないかと思ったりする(笑)。 私は復讐を推奨しているんじゃない。犯罪被害者の自然な感情の存在を美談で消し去るのはいけないと言いたい。犯罪被害者のほとんどは、できれば復讐・仇討ちしたいと思ってると思う。死刑でも物足りない。火あぶり逆さ吊り、ノコギリ引きでもまだ気が済まないと思っている被害者は多いでしょう。復讐したいと思う被害者はいないという判断は、99.9パーセントの犯罪被害者の心を不用意に逆なでる恐れがあると私は思う。 刑罰は、被害者の自然な復讐感情を理性で抑制させられる程度の応報刑であるべきでしょう。何でもかんでも厳罰がいいということじゃない。被害者の応報感情とバランスする量刑でないといけない。被害者には、復讐、仇討ちができない悔しさがあるという事実を忘れてはいけない。少年法で保護された未成年者が凶悪な犯罪を起こすという現実を見れば、大人同様の応報刑を科す余地は十分あると思う。少年であるということと、死刑にしないということはイコールにはならないと思う。人間として可能性があるということと、死刑にしないということはイコールにはならないと思う。 >人が人を裁くということは難しいです。 私は裁判官じゃないので分かりませんが、私にもその辺は容易に推測できるように思います。 >少年法で保護された未成年者が凶悪な犯罪を起こす今日ではなおさらです。 そうそう。今はこれが重要な問題です。 >今回の批判は素直には聞けませんでした。 反応があってこちらはホットしました。感謝します。ここまで言っても反応が無かったら矛先の最終処分をどうしたらいいのかと、実は心配してたんですよ(笑)。
634 :
職業 その他 :2000/07/04(火) 17:24
名前は面倒なので今後その他にします。 「阿含宗という宗教」というスレッドで、供養は霊魂に対するものではない、ということをあれこれ書いて疲れたので休憩している内に、このスレッドがあっという間に下の方になりました。 死刑については考えているのですが、話が長くなりすぎるし、それでは読む方も大変だし、イヤだろうし。遠慮していたということもあります。 冤罪について渡海氏が書かれていましたので、これについて。 「ハリケーン」という映画がいま上映されています。プロボクシングのチャンピョンが殺人の罪で逮捕。無罪を主張したが、仮釈放なしの終身刑。獄中で書いた自伝を読んだ人たちの活躍で再審無罪となる。という映画です。 3人を殺したとされたわけですから、今なら死刑。死刑が執行されれば無罪が証明されることもなかった。やはり冤罪は怖い。「死刑囚からあなたへ」インパクト出版 これは死刑囚18名の文集です。この中に冤罪を主張する人もおり、説得力があります。 もう一つ、被害者にとって見れば、加害者を殺したくなるのはどんな犯罪でも同じ。レイプされた女性は加害者のチンポを切り取りたくなるでしょう。だから復讐国家にならないために死刑は必要という考えはちょっとおかしい。 B・モリソン「少年たちの迷宮」文芸春秋 これはイギリスで11歳の少年二人が3歳の男の子を殺した事件について書かれたものですが、その最後のあたりに、被害者やその家族が加害者を許せないのは当然だが、第3者である我々はもっと寛容であってもいいのではないか、という言葉があります。 坂上香「癒しと和解の旅」岩波書店を読んで下さいな。 栃木県のリンチ殺人事件のことですが、私の子供が加害者なら死刑の判決が下ることを願うでしょう。 長くならないようにと思いながら、長くなりました。死刑についてはまだまだ書くことはあります。
635 :
渡海 難 :2000/07/05(水) 08:28
成り行きから考えると、反論しなきゃいかんのかなー。難しいんだよねー。 死刑制度の問題というのは、維持すべきと考える人と廃止すべきと考える人とでは、どうしても一致できない部分があると思う。あると思う。割り切れないからねー。 冤罪というものは、数学的確率論で幾ばくかの可能性が避けられない。そうであるなら、死刑制度はあってはならないという主張は、確かに重い主張だと思います。死刑囚として服役され、再審で無実が晴れた方が、死刑廃止運動を行っている。彼らの前で死刑存続論を主張することは、僕の場合もいささかためらう。ところが、命をもってしか贖えない犯罪というのはある。ある特定の悲劇的な犯罪を犯した者には、死の選択を与えるべきだと思う。ちなみにその他さんは、なんとか真理教の麻原某も死刑にすべきじゃないと思いますか。 死刑が無くなれば、麻原某でも最高は無期懲役となる(死刑が廃止になると終身刑という制度ができるかもしれないけれどね)。無期懲役となると、最高15年ぐらいで仮釈放になる。冤罪の可能性があるといえば、例の麻原某も数学的確率論で言えば冤罪の可能性もゼロではない。冤罪の可能性があるといえば麻原某も死刑にすべきじゃないということになる。 死刑制度を認めるか否かと言う問題は、一人の人の中でも揺れる。その他さんでも、「私の子供が加害者なら死刑の判決が下ることを願うでしょう」という。2・2が4のような合理的な意見などは出ない。ちなみに渡海ならどうか。私の子供が加害者なら、冤罪の可能性がゼロでない以上、いくらなんでも私は死刑は望まない(笑)。 身勝手かなー。難しい。難しいんじゃ。 (-_-;)。
636 :
その他 :2000/07/05(水) 22:10
ニカラグアでは最高刑が懲役30年だそうです。死刑のない国は忘れたが、とにかく多い。麻原でも死刑にすべきではないと思います。きれいごとかもしれないが、罪の重さを自覚してもらいたいものです。 『歎異抄』を引用してあれこれ言うことはできますが、それは単なる理論ですから、また今度のお楽しみに。 私が当事者だったら、という立場で語るならば、 「私の子供が加害者なら死刑の判決が下ることを願うでしょう」というのは責任をどのように負うかということです。清沢満之の「わが信念」でしたか、すべては如来さんが責任を負ってくれるから楽だ、とかいう言葉がありますね。これはすべて如来にまかせる、はからいを離れる、ということだろうと思うのですが、現実の生活の中で責任をどうするか。はっきり言ってよく分からない。子供の死刑を願うことは責任逃れですけどね。 逆に自分の子供が殺されたらどうか。犯人を許せるような人間になりたい。これこそきれいごとか。 何度も言いますが、坂上香「癒しと和解の旅」岩波書店 を読んで下さい。以前、門徒さんにこの本を紹介した文章を配ったのですが、それがなくなり残念。 それはともかく愚痴ですが、これ以外の他のスレッドであれこれ書き込みをして時間がない。本を読む時間が全くない。馬鹿(と言っては失礼ですが)を相手にするのですから疲れます。 阿含宗、真光、立正佼成会、輪廻はあるか、真如苑、その他。口をはさみすぎですね。助けて下さればありがたいです。
637 :
渡海 難 :2000/07/06(木) 09:14
ははは。貴方は相当に正義感の強いお方のようだ。貴方の正義感は買いだ。! 私は自分が貴方よりもへそ曲がりだと知りました(笑)。 >助けて下さればありがたいです。 手の施しようがない。機を見てお助けするときもあるかも知れませんが、崖から落ちそうになっていたら落ちる方に足を引っ張るかも知れない(笑)。 貴方は叩かれても倒れない、死んでも死なないお方のようだから、多分、大丈夫でしょう。まあ、頑張ってくださいな。(笑)
638 :
名無し :2000/07/06(木) 11:01
人間は、簡単に罪を償えるほど器用じゃないです。 いくら説得しても無理な人間は、世の中に存在します。 私もそういう人種。 人によって時間が経つと、すぐにそのことを忘れてしまいます。 特に嫌な事。 だから、同じことを繰り返す。
639 :
名無しさん@1周年 :2000/07/07(金) 09:17
おはようございます。 おかげさまで、すね。宗教論は無視します。 ごめんなさい。 さて、真宗大谷派 東本願寺で、牡丹紋が ありますよね。南無さん、正式な牡丹紋は ご存じでしょうか?抱き牡丹でも、様々で すね。八藤紋も然りです。 正式な紋は、気にされませんか?寺格の 廃止に伴い、紋も、自由になり、あれこれ さがしていますが、どうも、正式だと言う 紋が、御本山でも微妙に違っていますので どうでしょうか?
640 :
その他 :2000/07/07(金) 20:02
阿含宗のではもぐらたたきという名前で、水子供養などにいちゃもんをつけていたのですが疲れました。親鸞が論争を誡めたのももっともと思いました。 立正佼成会や世界真光文明教団の人は真面目なようです。疑問を持って悩んでいる様子。先祖供養をすれば死者が成仏して幸せになる、とか、手かざしで魂を清めることにより世界が平和になるなど、まともな頭の持ち主ならおかしいと思うのは当然でしょう。だったら、ナマンダブと唱えれば死んで極楽に行くことができるも似たり寄ったりと言われそうですね。 信者の家庭の育ち、疑うことなく集会等に参加していたわけですから、教えに疑問を感じても否定はできない。そんなことをすれば家族(信仰仲間も含む)をなくすことになります。 スレッドの信者の発言はもっともなようで、しかしどこか違うような気がするのです。どう反論したらいいのか分からないのですが。彼らの発言のどこに問題があるか誰か教えて下されば感謝です。
641 :
名無しさん@1周年 :2000/07/07(金) 21:11
先祖供養をする人たちに対して 「あなたは頭がおかしいの?死者を供養しても、成仏なんてしませんよ。 そんなことはお釈迦様は説いてませんよ。」 とはっきり言う声が、一般の人からもっとあがるようになれば、伝統宗派の僧侶も、 葬式仏教や先祖供養に堕落した姿勢を変えざるをえないと思う。
642 :
名無しさん@1周年 :2000/07/07(金) 21:18
西本願寺の紋は下がり藤だと思っていたら、あれは大谷光瑞が九条家の女と結婚したとき、九条家の人たちの法被や道具に下がり藤の紋を付けいているのを見て、かっこいいと採り入れたそうだ。 東本願寺も同じで近衛家の紋を使っている。 これはあまりにも権威に弱いことを証明しているわけで、このことに対する批判がどうして起きないのだろうか。
643 :
渡海 難 :2000/07/08(土) 10:07
その他さんへ 万一、浄土真宗で武装して駒を進めるつもりでいたら勝負にならんでしょう。 ナマンダブと唱えれば死んで極楽に行くことができる。この主張の背後には本当は大きな哲学がある。それを知らないと、ナマンダブの教えも滑稽極まりない主張になる。水子供養・先祖供養などは、起源を求めれば、浄土教思想をいい加減に理解した浄土真宗の暗部などから生まれた思想が形を変えたものなんでしょう。 現代のおかしな新興宗教は、浄土真宗の闇部と同根なんでしょう。だからこそ、現代の新興宗教と大差ない思想を抱いている浄土真宗の門徒は腐るほどいる。彼らは今でも浄土真宗の暗部を形成している。ナマンダブの教えを知らない人が浄土真宗で武装したつもりで駒を進めると、逆襲を受けてたじたじになる。 もぐらたたきも必要かも知れないけれど、モグラなどは太陽が正しく射せば、叩かなくても自ずから土中に戻る。ライオンが吠えれば他のケモノは自ずから姿を隠す。獅子吼という。栴檀の根芽が生長すれば林を改変してあまねくみな香美になる。 社会に無数のインチキ宗教が蔓延していてもいい。だめと言ってもしょうがない。我々が正しい浄土真宗を誤解なく正しく学んでいくことが先でしょう。
644 :
騒動宗他力本願寺淫乱上人(爆) :2000/07/08(土) 11:30
アハハ、クサレ大乗仏教がトボケタ口きいてんじゃねえよ!(爆)
645 :
渡海 難 :2000/07/08(土) 12:10
アハハ、クサレ騒動宗他力本願寺淫乱上人ごときがトボケタ口きいてんじゃねえよ!(爆笑)
646 :
騒動宗他力本願寺淫乱上人(爆) :2000/07/08(土) 13:47
アハハ、テメエんところのお祖師さまがギャグのネタにされても なにも言い返せないクズ門徒ごときがトボケタ口きいてんじゃねえよ!(爆笑)
647 :
騒動宗他力本願寺淫乱上人(爆) :2000/07/08(土) 13:50
法蔵菩薩さまはバッタモンです。
648 :
騒動宗他力本願寺淫乱上人(爆) :2000/07/08(土) 13:52
阿弥陀如来さまはバッタモンです。
649 :
騒動宗他力本願寺淫乱上人(爆) :2000/07/08(土) 13:53
クサレ騒動宗他力本願寺淫乱上人さまはバッタモンです。
650 :
騒動宗他力本願寺淫乱上人(爆) :2000/07/08(土) 13:55
よって浄土真宗門徒さま方はバッタモンです。
651 :
騒動宗他力本願寺淫乱上人(爆) :2000/07/08(土) 13:58
結論―よって 渡海 難 はバッタモンです。(激爆)
652 :
騒動宗他力本願寺淫乱上人(爆) :2000/07/08(土) 14:00
もぐらたたきさんもね(ウフッ)
653 :
名無しさん@1周年 :2000/07/08(土) 14:04
いい加減にしねえか!腐れ坊主ども!お前等の存在 そのものが悪なのだ。
654 :
名無しさん@1周年 :2000/07/08(土) 14:25
腐れ坊主どもは逝って良し!
655 :
渡海 難 :2000/07/08(土) 15:19
アハハ、テメエ本人がギャグのネタにされても まともにろくすっぽ言い返せないクズ淫乱上人ごときがトボケタ口きいてんじゃねぇ! 淫乱上人はバッタモンです。自分自身で自分のことをバッタモンとバカにするバッタモンはもっとバッタモンです(激爆)。 渡海 難は坊主じゃねぇんだぞ(怒)。 いい加減にしねぇか!腐れ上人め!お前の存在そのものが社会悪なのだ(激爆笑)。 腐れ上人はくたばって良し!
656 :
名無しさん@1周年 :2000/07/08(土) 16:27
カンパ集まってる?
657 :
お寿司食べたい :2000/07/08(土) 16:31
…………なんか、気分悪くなってきた。悪いものでも食べかかなぁ?
658 :
南本願寺 :2000/07/08(土) 16:44
南無帰依仏−釈迦如来 南無帰依法−阿弥陀如来 南無帰依僧−僧伽(法を聞くものの集まり) さて、死刑のことですが、加害者が、被害者のケアのために参加できる発想を する事が大切なように思います。どうやってつぐなうのか。 現代日本はおおむね、加害者社会であるという見方をします。 差別問題も、戦争・平和問題も、環境問題も、被害者の視点に立ったもののみかた をしなければ、解決しません。 法律は、加害者(世間で勝ってる人)が作るので、どうしても、被害者の視点に 欠けるのでしょう。 悲しむ力(慈悲)を説かねばなりませんね。
659 :
渡海 難 :2000/07/08(土) 17:02
656さんへ。僕への質問?同じ様な心配してくれた人がいたけど、その件はyosiさんのホームページで探してね。なんか書いてある。 657さんへ。お寿司の食べ過ぎじゃぁないの。あれは胃にもたれるよ。早い内に薬飲んだ方がいいかもしれない。なんとか印の牛乳飲んじゃだめだよ。こわいからね(*^_^*)
660 :
その他 :2000/07/08(土) 18:04
>643の渡海さんの言うように、相手を言い負かしたい、知識をひけらかしたいという気持ちは強いですね。 騒動宗他力本願寺淫乱上人(爆) も阿含宗のスレッドでバカにしたから来たのでしょうか。 反省します。
661 :
お寿司食べたい :2000/07/08(土) 18:57
渡海さん へへへへへ!!!
662 :
名無しさん@1周年 :2000/07/10(月) 08:38
age
663 :
名無しさん@1周年 :2000/07/10(月) 09:09
おはようございます。 おかげさまで 本日も はい おかげさまです。 南無さん お忙しいのでは?
664 :
名無しさん@1周年 :2000/07/10(月) 09:34
>663 おはようございます。 おかげさまで 本日も はい おかげさまです。 南無さん お忙しいのでは? ともだちいないの?(笑)
665 :
生臭い¥5さま :2000/07/13(木) 12:19
皆さんお盆で忙しいんですかね。 私は、過疎の田舎暮らしですから、七月のお盆は全く関係ありません。 暇なので、今夜は吉田拓郎コンサート“夏とキミと冷やしタヌキ”に行ってきます。 私も冷やしタヌキが大好きです。 吉田拓郎が好きなのはどうも冷やしタヌキうどんみたいですが、 私は冷やしソバが大好きです。 おいしいソバはつめたくして食べるにかぎります。
666 :
その他 :2000/07/13(木) 19:17
他のスレッドを読んで思うことですが、霊魂を恐れる気持ちが強いですね。 これは私には理解できにくいことです。私がたまたま寺で育ったからなのかもしれませんが。 供養、慰霊をすることで単純に安心しているようです。単純に、という言い方は無神経かもしれませんが。 霊の障りが恐いからその教団を辞めることができないとか、お守りを一日中つけているとか。 不成仏霊を供養によって成仏させることができるなら、生きている者を供養することで成仏させてほしいものですが、こんな質問には答はかえってきません。 一般の方は霊についてどのように思われているのでしょうか。率直なご意見を聞きたいのですが。
667 :
名無しさん@1周年 :2000/07/13(木) 19:55
阿弥陀如来さまは偶像以外の何物でもありませんから、 いくら信仰しても無駄でしょう。生きていようが死んでいようが 誰一人成仏できません。なんの力も無い。 阿弥陀如来さまを信心なさっている僧侶及び門徒の みなさんは、現代社会の諸の問題に対して 全くの無力・無策・無能・低脳です。 彼らが諸悪の根源です。
668 :
渡海 難 :2000/07/13(木) 20:46
>667さんへ こんにちは。(*^_^*)
669 :
名無しさん :2000/07/13(木) 22:49
↑いまの時間は夜。 挨拶は「今晩は」
670 :
生臭い¥5さま :2000/07/13(木) 23:59
> 667さん > 阿弥陀如来さまは偶像以外の何物でもありませんから、 > いくら信仰しても無駄でしょう。 > 生きていようが死んでいようが誰一人成仏できません。 > なんの力も無い。 意味が分からないので詳しく教えてください。
671 :
名無しさん :2000/07/14(金) 00:28
阿弥陀さんって偶像なんですか?初めて聞きました。
672 :
渡海 難 :2000/07/14(金) 08:46
671さんへ >阿弥陀さんって偶像なんですか。 阿弥陀仏というのは号なんです。親鸞は嘉号と言ってます。嘉とは素晴らしいという意味です。つまり素晴らしい名前という意味です。名詞と言っていいでしょう。 阿弥陀仏なんて、何だっていいんです。何を阿弥陀仏と呼称してもいいんです。自分が好きなものを命名してみてください。花でも、石でも、友人でも、勉学でも、自分の事業でも、何だっていいんです。花は偶像ですか。偶像じゃありませんよ。花は花なんですよ。石が偶像ですか。石は石なんですよ。お寺では木っ端に人形を刻み、阿弥陀様とかご本尊様とか呼ぶでしょう。紙に阿弥陀仏と書いたものをぶら下げて「これが阿弥陀様です」と言うでしょう。考えてみりゃおかしな話です。阿弥陀仏なんて何だっていいんですよ。 何だっていいんです。どんなものでもいいんです。身の回りのもの一つでも、二つでも、三つでも、阿弥陀仏と嘘っこで名前を付けてみようじゃありませんか。名付けたら念じてみようじゃありませんか。貴方は大無量寿経に書かれているあの阿弥陀仏先生ですね、と。大無量寿経とは阿弥陀物語が書かれている本の名前です。阿弥陀物語のモデルは釈尊先生です。ですから、「貴方は大無量寿経に書かれているあの阿弥陀仏先生ですね」、と、念じるということは、「貴方は大無量寿経に書かれているあの阿弥陀仏先生ですね」、と、念じることと同じことなんです。釈尊先生は三千年昔の人だから、なかなかイメージがつかめない。だから、イメージがつかみやすいように大無量寿経というお経が書かれたわけですよ。 嘘っこでいいんですよ。阿弥陀仏と名付けたものを「阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ああ先生」と嘘っこでいいから念じてみなさいよ、今まで見えなかった物が見えてくる。素晴らしい世界が開かれてくるでしょう。親鸞はそう提案しているし、僕ら親鸞に学ぶ者は親鸞のそんな提案に賛同してきたんです。 阿弥陀さんの実体は僕は知りませんよ。でも、僕らが信じている阿弥陀さんは偶像じゃない。それは名詞なんですよ。
673 :
渡海 難 (^^ゞ :2000/07/14(金) 17:34
なんか文章が変ね(苦笑)。 以下の箇所は間違いです 「ですから、「貴方は大無量寿経に書かれているあの阿弥陀仏先生ですね」、と、念じるということは、「貴方は大無量寿経に書かれているあの阿弥陀仏先生ですね」、と、念じることと同じことなんです。」 正しくは 「ですから、「貴方は大無量寿経に書かれているあの阿弥陀仏先生ですね」、と、念じるということは、「貴方は釈尊先生ですね」、と、念じることと同じことなんです。」
674 :
生臭い¥5さま :2000/07/14(金) 21:10
> 672 渡海 難さん > 何だっていいんです。どんなものでもいいんです。 っていうより、私の周りのすべてが阿弥陀仏だと思っています。 > 阿弥陀仏先生、釈尊先生 釈尊先生は、何となくイメージ通りだけど、 阿弥陀仏先生はちょっと違うかな? って思う。 阿弥陀さんはもっと温かい存在だと思います。 理屈はともかく、私は自分が先生って呼ばれるのが大嫌いです。 売り込みたいギラギラした心がまる見えのセールスが、 もみ手をしながら、しつこい作り笑いで呼びかけてくるのが決まって「先生」です。 政治家じゃあるまいし、先生ってさえ呼んでおけば、 舞い上がって喜ぶとでも思っているのかと、 逆に自分がひどく軽蔑されて馬鹿にされているようで腹が立ちます。 「先生はご在宅ですか」という電話に対しては、 本人である私が出ても留守だと断ることに決めています。 単なる言い回しのせいかもしれませんが、 > 花は花なんですよ。石は石なんですよ。 という言葉がちょっと気になります。 まぁ、細かいことはともかく、 “偶像”には、エッ!っと驚いたけど、 渡海 難さん のイメージは、共感できます。
675 :
名無しさん :2000/07/14(金) 22:24
花は花。 石は石。 偶像は偶像。 結局、自分たちで認めたようなものじゃん! よく自分の書いた文章詠み直してみな。
676 :
南本願寺 :2000/07/14(金) 22:39
阿弥陀仏の存在性について論議する事自体、評論になる気がします。 実践の場合、不可思議ですから、思うことも、議論する事も、 すべからず。ということでしょう。 「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀先生」「釈迦先生」だと「思う」とか、 「偶像と決める」とか、自力的。人間のまなこで不可思議の世界を 押し測っている印象を受けます。 お叱りを受けるようなことしか書けませんが、念仏を称えるのみです。 念仏者は世間的にクズだとかいう言葉もありましたが、そうかもしれ ません。生産性でみてみると、役に立たない集団かもしれません。 けれど、「努力する」「頑張る」って、何に向かってするのか? そうしてきた結果、この世がどうなってしまったか、どうなってい くのか、心配です。 念仏の教えを伝え、広めようとただ念仏するのみです。 ナモアミダブツ。
677 :
南本願寺 :2000/07/14(金) 22:44
すいません。ここは、議論の場でしたね。 水を差すようなことを書いてしまいました。 しかし、私が成仏するとかしないとか、あの人は成仏したとか しないとか、私が考える前に、すでに阿弥陀さまは、結果をだして いらっしゃるのではないでしょうか。 「兄貴、大丈夫か?」「庄松、おまえはどうだ」 「わしゃ知らん。あれに聞け。」(阿弥陀如来を指差して) と言われた庄松同行の言葉が印象に残ります。 合 掌
678 :
ちゃらんぽらん :2000/07/15(土) 11:55
あげ。
679 :
渡海 難 :2000/07/15(土) 19:18
「生臭い¥5さま」さんへ >っていうより、私の周りのすべてが阿弥陀仏だと思っています。 そうですか。私の場合、阿弥陀仏だなんて、何一つ思えてないですよ(笑)。 >阿弥陀仏先生はちょっと違うかな? って思う。阿弥陀さんはもっと温かい存在だと思います。 阿弥陀仏のモデルは釈迦でしょう。釈迦は祇園精舎と竹林精舎をつくった。極楽浄土のイメージは祇園精舎そのものじゃないですか。阿弥陀経の設定日時は、祇園精舎完成の晩のような感じがある。完成したばかりの祇園精舎を描写しているんでしょう。 阿弥陀の阿とは、インドヨーロッパ語の否定辞だどうです。英語のunと語源は同じだそうです。阿弥陀は、限りなき命の仏、限りなき光の仏という意味です。 教師は未熟な生徒が迷っていると、迷いを晴らす正しい智恵を与えます。前途に絶望していても正しい智恵が与えられると、更に進んでいける継続の命が与えられます。釈尊先生は、生徒に絶えず智恵と命を与えてくれる人であり、智恵と命を与えてくれる人であるからこそ、先生と仰がれました。阿弥陀とは、教育者の働きそのものを意味する先生という意味であろうと考えます。 仏陀とは、智恵の深い人。智恵を認識している人。つまり先生という意味です。阿弥陀仏とは、まさに先生という意味以外の何者でもないと私は考えております。 >理屈はともかく、私は自分が先生って呼ばれるのが大嫌いです。 現代では先生って呼ばれて喜ぶのはバカだけと言いますからね(笑) >売り込みたいギラギラした心がまる見えのセールスが、もみ手をしながら、しつこい作り笑いで呼びかけてくるのが決まって「先生」です。 日本語の「先生」には、安っぽいイメージがありますね<困ったもんだ>(笑) >単なる言い回しのせいかもしれませんが、 なるほど(笑) >>花は花なんですよ。石は石なんですよ。 >という言葉がちょっと気になります。 そうですか。ものの見方、考え方の切り口、感性を感じ取って欲しいですね。僕は複眼的にものごとを見ようと提唱しています(種本は、お文です。王道と仏道の考えです)。通常の常識的なものの見方と、宗教的なものの見方、一見矛盾するようだけど、この両方を併せ持っていることが大事なんだと。 一方を他方で駆逐しちゃいけないと思うんです。駆逐すると視点は単眼になります。単眼では物事の距離判断を間違います。物事の前後判断を見間違います。 人生の中で、99%は常識的なものの見方で十分でしょう。そんなときは、宗教的なものの見方は腹に据えておく。常識的なものの見方で用が済まない1%の世界に立たされたとき、とっておきの予備的なものの見方を持ち出して危機の脱出を計る。予備的なものの見方を持ち出すときも、常識的なものの見方は、腹の中に据えておく。 花は花、石は石というのは常識的なものの見方です。こういう常識的なものの見方を忘れてはいけない。常識的な見方を大事にしながら、それだけじゃなく、「先生と言う名を付けて見よう」という考え方も忘れないでおこうというんです。複眼的な見方を忘れないようにしよう。そう提案するんですよ。 >“偶像”には、エッ!っと驚いたけど、渡海 難さん のイメージは、共感できます。 うれしいです。
680 :
渡海 難 :2000/07/15(土) 19:19
675さんへ >認めたようなもの 何を認めてないように感じていましたか。 今回何を認めたように感じましたか。
681 :
渡海 難 :2000/07/15(土) 19:24
676南本願寺さんへ
>阿弥陀仏の存在性について論議する事自体、評論になる気がします。
評論になったら何がどういけないんですか。都合がわるいんですか。評論になっちゃいけないなら、プロの底力をもって、評論にしないで明らかにしてくださいな。
>実践の場合、不可思議ですから、思うことも、議論する事も、すべからず。ということでしょう。
「すべからず」とはどういう意味ですか。「すべからず」とは「してはいけない」という日本語でしょうか。
不可思議とはどういう意味ですか。不可思議の意味を明らかにしてください。ちんぷんかんぷんで、私にはさっぱり分かりません。「不可思議ですから、思うことも、議論する事も、すべからず。ということ」とは、評論ではないんですか。「すべからず」で済むのなら、小学生でも言えることでしょう。プロなら、小学生では言えない大人の話を他人に分かるようにしてくださいな。
>「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀先生」「釈迦先生」だと「思う」とか、
「思う」のが嫌なら、嫌だと言う人がそう思わなければいいだけじゃないですか。
>「偶像と決める」とか、自力的。人間のまなこで不可思議の世界を押し測っている印象を受けます。
差し障りがありますか。?
>お叱りを受けるようなことしか書けませんが、念仏を称えるのみです。
貴方がプロなら、もっと正々堂々としましょうよ。最初から腰を引いて防衛戦を張るような話はなしにしましょうよ。
南本願寺さんは在家の方ですか。アマチュアの方ですか。在家の方ならこれで十分でしょう。プロなら、誤解無く自らの信心の立場を明確に説明伝達できるようになりましょう。貴方が言うようなことは、小学生でも言えることですよ。
http://mentai.2ch.net/psy/index2.htmlの972 番さんのような言葉にも至心に耳を傾けてくださいよ。
教行信証の末尾を引用します。
「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。」
前に生まれていても居眠りしていて後を導けない者、後に生まれているのに、居眠りして前を訪えない者。いずれも坊さんの資格はないと言うべきでしょう。
親鸞会が拡大し、多くの若者が泣いています。それは南本願寺さんあなた一人の責任とは言いませんよ。貴方のような方が無作為の片棒を担いできたんでしょう。
>念仏者は世間的にクズだとかいう言葉もありましたが、そうかもしれません。生産性でみてみると、役に立たない集団かもしれません。
そうかもしれませんなどと、遠慮会釈無く勝手に自分以外の人まで含めないでくださいな。こちらにはプライドもあるんですよ(笑)
>けれど、「努力する」「頑張る」って、何に向かってするのか?そうしてきた結果、この世がどうなってしまったか、どうなっていくのか、心配です。
議論の相手は誰ですか。相手の見える話をしてください。
>念仏の教えを伝え、広めようとただ念仏するのみです。ナモアミダブツ。
「念仏の教えを伝え、広めようと」本気で考えてるようには私には感じられません。
>しかし、私が成仏するとかしないとか、あの人は成仏したとかしないとか、私が考える前に、すでに阿弥陀さまは、結果をだしていらっしゃるのではないでしょうか。
どのように出しているんですか。
>「兄貴、大丈夫か?」「庄松、おまえはどうだ」「わしゃ知らん。あれに聞け。」(阿弥陀如来を指差して)と言われた庄松同行の言葉が印象に残ります。
どこかの名作漫画絵本のお話でしょうか。お年はおいくつのお方でいらっしゃいますか。話の次元がずれてますね。インターネットを使えるなら、早く大人になってくださいな。
682 :
渡海 難 :2000/07/15(土) 19:31
683 :
その他 :2000/07/15(土) 20:28
>南本願寺さんへ >「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀先生」「釈迦先生」だと「思う」とか、 >「偶像と決める」とか、自力的。人間のまなこで不可思議の世界を >押し測っている印象を受けます。 >お叱りを受けるようなことしか書けませんが、念仏を称えるのみです。 南本願寺さんが僧侶か在家信者か知りませんが、きれいごとはやめてほしいです。 他のスレッドの新興宗教の優等生的信者の発言と同じです。謙虚なふりして、実は傲慢。疑問に対しては、すぐそれは自力だとか責める。 親鸞のように、実は私もそうだったんだ、という立場から出発してもらいたいものです。 >念仏を称えるのみです あなたはそんなにありがたい人なのですか。 もっともそういうありがたい話しかしない布教師は結構いますけどね。 ついでに南本願寺さんに>658に対する質問 >南無帰依仏−釈迦如来 >南無帰依法−阿弥陀如来 >南無帰依僧−僧伽(法を聞くものの集まり) ならば、南無阿弥陀仏よりも、それを含む南無三宝の方がいいのでしょうか。 >さて、死刑のことですが、加害者が、被害者のケアのために参加できる発想を >する事が大切なように思います。どうやってつぐなうのか。 これには全く賛成ですが、 >現代日本はおおむね、加害者社会であるという見方をします。 >差別問題も、戦争・平和問題も、環境問題も、被害者の視点に立ったもののみかた >をしなければ、解決しません。 >法律は、加害者(世間で勝ってる人)が作るので、どうしても、被害者の視点に >欠けるのでしょう。 >悲しむ力(慈悲)を説かねばなりませんね。 ところがここになると、自分が加害者の立場に立っていた、あるい立つかもしれないという視点がないように思います。つまり、善人となって裁く。 阿闍世の苦悩を忘れてはいませんか。 などと私も裁いているわけですが。
684 :
渡海 難 :2000/07/16(日) 10:21
南本願寺さんへ ご紹介したURLの972番は御覧になりましたか。 南本願寺さんひとりをやり玉に上げるのは気の毒ですが、老婆心ながら申し上げたい。どうぞ、どうぞ大人の考え方をもってください。 子供の考えと大人の考えとの違いは何だと思いますか。大人は論理を飛ばさないんです。 「阿弥陀仏の存在性について論議する事自体、評論になる気がします。」 ここの記述について検討してみましょう。 貴方の冒頭の論述には、「阿弥陀仏の存在性について論議する事自体、評論になる」という命題と、「自分はそういう気がする」という命題、二つが表明されていますね。 「阿弥陀仏の存在性について論議する事自体、評論になる」という命題を出すことは自由なんですよ。決しておかしなことじゃない。その場合、「何故か」という理由についての検討が貴方の中でなされていますか。命題を主張する場合でも、「何故か」という理由について必ずしも併記しない場合はある。ところが、読み手と認識を共有できていない命題の場合は、共有できるところまでかみ砕いた説明が必要なんですよ。「阿弥陀仏の存在性について論議する事自体、評論になる」などとは、普通の人は考えていません。評論することは悪いこと。そんな風には思っていませんよ。宗教評論家という存在は世の中にはたくさんいるんですからね。価値観は共有できていない場合には、読み手の認識レベルを意識し、読み手と価値観の共有化を計りながら話を進めるのが原則です。これは子供にはできません。「自分はそういう気がする」というなら、「気がする」根拠を明確化しなさい。それでなければ、負け犬の捨てぜりふと同じだ。 >「兄貴、大丈夫か?」「庄松、おまえはどうだ」 貴方は児童文学者ですか。児童文学者なら、「お母さんと一緒によむ仲良し良い子の名作アニメ」のような本もたくさん読むんでしょう。読めば感動も覚える。それ自体は悪い事じゃない。ただ、自分が読んだ本は世界中の人誰もが読んでいて、自分と同じように感動していると思うのは子供ですよ。子供は、大人が知らない話を前触れもなくいきなり持ち出してくる。子供は自分の世界が唯一の世界だと思っている。他人は違った価値観を持っていることを知らないものですよ。 自分の認識は、必ずしも他人は共有していません。昨日、自分が感動した名作アニメの話をするなら、内容を知らない人の存在を意識しながら分かりやすく話をする。「庄松同行の言葉が印象に残ります。」なんて話をいきなり出さないんですよ。いきなり出してそれで終わらさないことが大事なんです。手続きをかけましょう。 どこそこの何々出版社というところが、「お母さんと一緒の名作アニメ何某」という素晴らしい本を出しています。著者はなにがしという人で、云々…。ストーリーがこうで、その主張はこうこう、こうなっています。云々…。どこそこの場面で庄松同行という人が登場します。庄松同行という人の設定は、云々…。そこで兄貴という人物が登場します。兄貴という人物の設定は、云々…。両者の中で次のような会話がされます。云々、云々…。その後、ストーリーにはこんな展開があます。云々、云々…。 著者はこの本の中で次のようなメッセージを送っています。云々…。著者はこう言うことが言いたいようです。すなわち、云々…。著者のメッセージの…というところは、…という矛盾があって自分は賛成できない。ところが、…というところには、…という理由で非常に共鳴を感じています。 こんなふうな展開が必要なんですよ。ひとつひとつ認識を読み手と着実に共有化していくことが大事なんです。「不可思議ですから、思うことも、議論する事も、すべからず」なんてこんな大馬鹿を言うのは、もう金輪際やめなさいよ(笑)。恥ずかしいことですよ。きちんと自分の意志、考えを言葉で伝達することに心がけなさい。もう、体は大きいんでしょう(笑)。 他人が「自分はこう思う」というのは勝手なんですよ。他人が何を思っていても、嫌なら自分はそう思わなければいいわけですからね。 お母さんと一緒によむ良い子のための名作アニメのような本の一節をいきなり話題に出してくるのは、これは小学生の論理です。 坊さんの中のごく一部でしょうね。でも、単数じゃないようですよ。大学を卒業しても依然として小学生のような考え方をしている人が、大きなお寺で坊さん業をしている。「念仏の教えを伝え、広めようと」立派なことを言う。確かに言うことは立派だけど、恥ずかしいですよね。そういう人には、972番さんのような告発もあまり意味がないんでしょうね。 南本願寺さん。これは、この掲示板だけの話じゃないですよ。貴方の人生一般に関係しているんでしょう。本当にしっかりしてくださいよ!。
685 :
生臭い¥5さま :2000/07/16(日) 18:05
「真理は人間の思考や言葉を超越したもの」だから お前たちの安っぽい理屈で無駄な議論をするな、 浄土の教えが安っぽくなるとおっしゃりたいのでしょうか? でも、683で“その他”さんが書いているように、 “阿弥陀の浄土の教えは正しいんだから、理解しようとせずに、 疑わずに、ただひたすら信じて念仏をしなさい。 人間界を超越した不可思議なる浄土、仏の世界のことを 我々人間ごときが考えて語ってはいけない” では、いかがわしい新興宗教と同じですよ。 “盲信しなさい”とあなたはおっしゃっていますよ。 あなたのおっしゃっていることからすると、 お寺でのお説教も無駄、大学の仏教学の講義も無駄、研修会で座談会をすることも無駄、 もっといえば、教行信証も御文も人間の屁理屈だから無駄だとなっていまうのではないでしょうか? 究極的にはそうかもしれませんが、私たちはそんなレベルではないでしょう。 あなたのように一緒に考えようとせずに、 単にありがたがっているようでは、 旧仏教が葬式仏教徒なじられ、坊主の堕落を指摘されてもしかたないと思います。 最初の書き込みで自己紹介したかと思いますが、 そういう私も40代半ばの真宗大谷派の田舎坊主のひとりです。
686 :
生臭い¥5さま :2000/07/16(日) 18:16
↑ 誤:葬式仏教徒 正:葬式仏教と 失礼しました。
687 :
南本願寺 :2000/07/16(日) 21:03
いろいろと、反響がありますね。 評論については、別に悪いとは思っていません。ただ、実践とは必ずしも一致 しないということが言いたかったのです。そして、ここが評論の場でもあるこ とを認めます。 宗教は、知性でも感情でもなく、感性の問題だと捉えています。 その点、私は感情にかたよったところが「児童アニメ」との批評をいただいた のでしょう。 またつづきは後日。 「南無三宝」については、「なむさん」でもいいんでしょうね。ただ、 「南無阿弥陀仏」という
688 :
南本願寺 :2000/07/17(月) 07:48
いろいろとご指導、ありがとうございます。 気が付いたら、仏様と一緒の生活というか、自分の生活実感の上に阿弥陀さまが いらっしゃったので、論理の飛躍もあるのでしょう。 苦労して、道をもとめて、勉強して、出会ったものではなかったので、そのように なってしまったのだと思います。 ただ、やはり、宗教は感性の問題であるということは、あると思います。 私は、太陽が東から昇って西に沈むというところで生きています。 地球の自転を意識しているわけではないのです。その生活実感を大切にしながら、 その事実を知性でもあきらかにできるようにして行く事が、プロであり、 知識から真実に触れる事もできることを認めていく必要も感じました。
689 :
渡海 難 :2000/07/17(月) 08:41
>その生活実感を大切にしながら、その事実を知性でもあきらかにできるようにして行く事が、プロであり、知識から真実に触れる事もできることを認めていく必要も感じました。 嬉しいです。
690 :
渡海 難 :2000/07/21(金) 10:32
ハエたたきさん応援歌ぁ〜。 がんばれ、がんばれ、ハエたたきさん。がんばれ、がんばれ、ハエたたきさん。 ふれー、ふれー、ハエたたきさん。ふれー、ふれー、ハエたたきさん。 <ちと、はしゃぎすぎ?わり〜、わり〜。 m(_ _)m>ごめんなさい
691 :
その他 :2000/07/21(金) 20:39
>687南本願寺さんへ >「南無三宝」については、「なむさん」でもいいんでしょうね。 などとは言わないで下さいな。 大阪教区教化センターの教化パンフからの引用です。 「南無阿弥陀仏を展開すれば三帰依文になるといえましょう。 真宗門徒において「仏に帰依(帰命)する」とは、阿弥陀仏に帰依することであり、「法に帰依する」とは、よき人の仰せに帰依することであり、「僧に帰依する」とは、聞法の道場に集う人びとはもちろん、道場を荘厳する全体に帰依するということであろうと思われます」
692 :
生臭い¥5さま :2000/07/21(金) 21:33
どうしたんでしょう。 なんだか静かになっちゃいましたねぇ〜。 少し前に、“先生”って呼ばれるのが大っ嫌いだって書いたけど、 浄土真宗の僧侶が“プロ”っていうことにも疑問があるのですよ。 釈尊や親鷲聖人の教えの大きなテーマは、“いかに生きるか”ということですよね? “生きる”ことにプロもアマもありませんよね。 そして、浄土真宗には特別な修行なんて必要ありませんよね。 本来、浄土真宗にプロの宗教家は存在しないはずだと思います。 門信徒の人たちが、自分たちはアマチュアで、 私たち僧侶をプロの専門家であり、 自分たちより一段高いところに存在する人たちだという意識、 そんな門信徒の人たちの誤解の上にぬくぬくとしていた 僧侶である私のあり方が今問われているのではないかと思います。 私は、僧侶は門信徒より一段高いところに位置するプロだという捨てて、 “御同朋、御同行”という言葉を改めて噛み締めてみなければならないのではないでしょうか?
693 :
生臭い¥5さま :2000/07/21(金) 21:34
↑ 続き 葬式仏教だと批判される仏教・僧侶ですが、 葬式(儀式)すらまともにできていないのが実態でしょう。 葬式仏教のプロは、葬儀屋さんでしょう。 僧侶は葬儀屋さんかご門徒に雇われたタレントで、 葬式の勤行(お勤め)は、焼香のBGMでしかありません。 僧侶は、葬式仏教の指導者でもなければ、 主役でもなくなりつつあるのではないでしょうか? それはそうですよね。 寺の住職といいながら、 学校の先生や役場の職員が本職のアルバイト僧侶や、 意味も分からずにお経や正信偈を唱えるだけのインスタント僧侶だらけなんですから。 そりゃ、坊主だって食べなければ生きていけません。 お寺の維持にだってお金が掛かります。 私だって、お金が欲しい! でも、このままでいいのか、 このままで浄土真宗に将来はあるのか?って危機感も感じます。
694 :
生臭い¥5さま :2000/07/21(金) 21:34
↑ 続き 過去のレスでもどなたかが書かれていたようだけど、 一般の方も、宗教、寺、坊主を選んで欲しいと思います。 法外なお布施や寄付を要求されても、 カルト宗教まがいの先祖の霊魂や墓を人質に脅されて、 本家・親戚や村(町内)の隣人にも説得されて、 先祖代々の寺だからと、影で愚痴を言いながらも、渋々言いなりになってしまう。 それが、堕落したエセ坊主をぶくぶくと太らせているんです。 過激だ、言い過ぎだとお叱りを受けるかもしれませんが、 真宗大谷派の中年田舎坊主の正直な気持ちです。
695 :
生臭い¥5さま :2000/07/21(金) 21:37
↑ ありゃりゃ。 あまり静かだから、話題提供しようと思って、 エディタで下書きしてる間に “その他”さんが真っ当なレスを付けていたんですね。 そんなら、よけいなこと書かなきゃよかった。 反省。 (;^^)
696 :
生臭い¥5さま :2000/07/22(土) 17:59
> 693 追加 今日の午後、お文の学習会に出かけてきました。 法話(講話)の中で講師の先生が、 “年忌仏教といわれたものですが、最近では、食事仏教になってしまって、 法事を勤める目的も、法事の主な行事も、 お経の後の食事になってしまっています。” という余談をされました。 年忌って、1周忌とか3回忌とかって法事のことですけど、 平たく言えば先祖供養ですよね。 でもその先祖供養すら、主役は食事になってしまっていますよね。 食事の時間に合わせて、法要の開始時間が決められて、 時には、料理屋さんの都合で日程が決められてしまいます。 ちょっとした地方都市でも、 法要を料理屋さんの仏壇を借りて済ませてしまうという、 お経は食事の前のセレモニーですね。 子孫が集まって仲良く会食をすることが先祖供養かもしれませんね。 そういう法話をする僧侶もいます。
697 :
その他 :2000/07/22(土) 19:45
私は葬式仏教はまことに結構なことだと思います。 なぜなら、なぜインド仏教は滅びたか、中国では習俗に堕したか、韓国ではキリスト教徒が多いか。 なぜならそれらの国では葬式を僧侶がしないからです。 タイなど葬式を僧侶がしません。僧侶以外の在家信者は仏になるのが目的ではなく、天に生まれるのが目的です。 日本でも葬式を僧侶がするようになったのは鎌倉時代以降だそうです。仏教が民衆のものになったのは鎌倉新仏教からだというのは歴史の時間に習われたでしょうが、いろんな人物が登場したことだけでなく、葬式を僧侶がするようになったということも大きい要素を占めていると思います。 これは何を言いたいかというと、僧は普通の人々の救いなど眼中にないということです。それが葬式を僧侶がすることによって、人々の苦しみ悲しみを初めて知ったからではないでしょうか。また一般の人も仏教に触れる機会を得ることができたのでしょう。 たしかに葬式が企業、商売の枠に組み入れられ、僧は生活の手段としていることは否定できない事実です。だからといって、葬式仏教としてすべてを否定してしまうと、日本でも仏教がなくなり、普通の人の救いの道が消えてしまうこともありうるのではないでしょうか。
698 :
生臭い¥5さま :2000/07/22(土) 22:34
> 697 どうも、文章力がなくて、誤解されてしまったようです。 葬式仏教だと批判される日本仏教ですが、 お葬式や年忌法要を通じて寺や住職・僧侶との繋がりが生まれ、 永代・祠堂経法要(寺で定例行事として勤められる門信徒の合同 法要)や報恩講などが勤められ、 多くの門信徒が寺に集まって、法話(説教)を聞き、信心を確認 したのでしょう。 地域にあっても、お講やお座と呼ばれる法座(法話・説教を聞く 会)が開かれました。 それぞれの家庭にあっても、 お祖父さんお祖母さんの、朝夕のお内仏(仏壇)での正信偈のお 勤め、念仏の心(信心)が、子や孫に受け継がれてきたのではな いかと思います。 極端に言えば、住職や僧侶が信心や念仏を知らなくとも、生活習 慣として、当たり前のこととして、それぞれの家庭や地域で、信 心・念仏が脈々と受け継がれてきたのではないでしょうか? しかし、現代の社会は、かつての家庭や地域が崩壊し、家庭内で 信心・念仏が受け伝えられることは困難になりました。 私の住む地方は典型的な過疎・高齢化地域ですが、報恩講・祠堂 経などの法座を開いても参詣者が激減していっているというのが 悩みです。 青壮年は仕事に追われ、休日は家庭サービスに忙しく、老人は、 病院と福祉施設の送迎つきのデイサービスに忙しく、寺参りどこ ろではありません。 僧侶も先に書いたように、葬式、法事以外はサラリーマン稼業に 忙しくて、寺はホッタラカシ。 もしくは、都市部で、葬儀屋と提携したBGMとして読経するだ けのインスタントor商売坊主が大はやりなのではないでしょう か? どんどん寺でも地域でも法座が開かれなくなり、法話を聞き、念 仏する姿が見られなくなっていきます。 このままでいいのだろうか?と私は思うのです。 もっと言えば、長男は高校3年生、受験生ですが、息子に寺を継 がないか、僧侶にならないかと・・・、迷っています。
699 :
生臭い¥5さま :2000/07/22(土) 22:41
↑ ちょっと一言が抜けていました。 要するに、葬式仏教ですらなくなってしまおうとしている 現状のままでいいのだろうかと言いたかったのです。
700 :
南無 :2000/07/23(日) 16:01
皆様お久しぶりです。とにかくお元気そうでナニヨリです。
701 :
ハエたたき :2000/07/23(日) 16:17
> 700 南無さん、こんにちは。 出てきたら、ちゃんとコメントしなきゃだめですよ。
702 :
南無 :2000/07/23(日) 16:43
>701です。 はい。ごもっとも。 久しぶりなので先ずはゆっくりと皆様のレスを読ませて頂いて・・・
703 :
その他 :2000/07/24(月) 18:16
>698 言われるとおりで、葬式仏教ではなく、仏教が消えて葬式になっているのが問題です。
704 :
南無 :2000/07/24(月) 22:25
>703・他です。 最近、私の地域ではJAが葬祭業に参入しています。先日通夜の後にそのJAの 葬儀担当の課長と話をしていたのですが、やはり辞令一本で翌日から現場に出て いるそうです。仏教儀式としての葬儀の在り方などはどこからも誰からも教えら れてはいません。その事に彼ら自身少々の疑問と不安を持っているようです。 機会を作って彼等と勉強会をするという約束をしています。
このスレを読ませてもらった。 坊主の中にも、俺らと同じ悩みや苦を持つ凡夫がいるってもわかった。 葬式のBGM歌手として坊主のあり方に疑問を持ち悩んでいる坊主がいるってものわかった。 あの世で幸せになることを偉そうに言う坊主じゃなくて、現世でいかにして(仏のようになる)生き方をしていくかを考えている坊主がいるってもわかった。 また、新興宗教の悪口を言う(ツーか良いところを見ようとせず、悪いところばっか見ている)坊主もいるってのもわかった。(藁 で、質問だ。(俺からのこの質問は、このスレを立ち上げた南無氏だけなく、生臭い¥5さま氏、その他氏、他の坊主にも答えて貰いたいだが) 今までのこのスレで述べてきた思想をどうして葬式、逮夜、年忌の時等にいわねぇんだ? オタクら浄土真宗系の坊主は。(このスレのオタクらは、個人的には言っているかもしれねぇがよ) 俺は、何時も年忌や逮夜などに出ていて思うんだが、坊主から聞かされてる説教は、この世を迷い無くいかにして生きていくかつーよな、仏教のそもそもの思想(釈迦が説いたとされる思想)じゃなくて、 「あの世(極楽浄土)にいかれてきっと成仏されていますよ」とか、 「この方(亡くなられた方)の霊は、今頃、阿弥陀さまに導かれ、○○されております」とか、 「今回の法要は、……な意義があり、……云々」とか ばっかなんだよな。なんか、何時も抽象的な話が多いぜ。 も一つ、オタクら浄土真宗系の坊主は、仏(神)、霊魂、極楽浄土(あの世)の“存在”を信じているのか? それと、魂の輪廻転生についても聞かしてくれたし。 「大乗仏教(または浄土真宗)はそのようなもの(思想)になっている」つーよな解答はさけてくれよな。 ※乱暴な言葉遣いで、気を悪くしているかもしれねぇが、 無視論者という奴はこういうキャラなので、ご了承願いたし。
706 :
無視論者 :2000/07/25(火) 03:40
>南無氏(704) >仏教儀式としての葬儀の在り方などはどこからも誰からも教えら >れてはいません。その事に彼ら自身少々の疑問と不安を持っているようです。 >機会を作って彼等と勉強会をするという約束をしています。 改めて、確認するが、これは、仏教儀式としても葬式つまり葬式仏教を肯定いるつーことか。
707 :
南無 :2000/07/25(火) 04:19
とりあえず>705.706の私の答えです。 仏=信じる 霊魂=信じない 極楽浄土=信じる(ただしあの世と限定せず、今、求めるべきものとして) 魂の輪廻転生=信じない 葬式仏教を肯定=坊主が関わる葬儀・葬式は仏教儀式である。 葬儀・葬式しかしない坊主や既成仏教に対する 批判として葬式仏教という言葉を用いる。 仏教に基づいて葬儀・葬式という儀式が行われるべき。 以上が取り急ぎの答えです。
708 :
名無しさん@1周年 :2000/07/25(火) 05:39
えー、よくわからないんですが、 私が思うに日本の仏教が衰退した原因の一つに 「世襲制」というのはありませんか? 本来「宗教」っていうのは世襲じゃあり得ないですから。 仏陀が自分の子供に教えを次がせた、なんて話も聞いたことがありませんし。 私は、日本の仏教が葬式仏教に陥った最大の理由は意外とそこらへんにあると 思っていますが、いかがでしょう?
709 :
ハエたたき :2000/07/25(火) 13:30
>705 無視論者 さん >仏(神)、霊魂、極楽浄土(あの世)の“存在”を信じているのか? >それと、魂の輪廻転生についても聞かしてくれたし。 それぞれの言葉(用語)の意味が、無視論者と私が共通であるかどうかが問題です。 私は、私を産み出してくれた宇宙的な生命の源そのものを阿弥陀仏とイメージしていま す。真宗大谷派じゃなくて、真光さんみたいですが、阿弥陀仏という具体的な形や人格 は想定していません。 霊魂というと、水子霊や先祖霊、怨霊・怨念という、恨み、妬み、怒り、僻み・・・そのよ うな私たちが持つどろどろとした心が、死後の世界でパワーアップされて残り続けると いうイメージの霊の存在は信じていません。 死後の世界として地獄があったり、極楽があったり・・・というイメージでの極楽浄土は信 じてはいません。私が生かされている世界を、私の欲望(迷いの心)の眼ではなく、純 粋な欲望のない心で見ることができれば、極楽浄土(阿弥陀仏)に生まれ変わることが できるのではないかと想像しています。でも、私には自分の心(欲望、感情)を滅し去 ることはできません。死んでいくということは、体も生命を失った単なる死体になりま すが、おどろおどろしい私の心(欲望、感情)も消え去るので、自動的に浄土へ帰って いくのだと思っています。 魂の輪廻転生は、魂という言葉と輪廻転生という2つの言葉が使われていて、とても難 しいです。 唐突ですが、私は、輪廻転生とは、“影響を与える”とか“影響が残る”という意味で はないかと思っています。 私のこのレスも、無視論者さんはじめ、不特定多数の方が読まれて、それぞれ愚かな奴 だとか、変な奴だとか、生臭坊主だとか・・・、色々な思い・感想を持たれるでしょう。私 のこのレスが、多少なりとも世の中に影響を与え、私の行為の影響が残るのでしょう。 それが魂の輪廻転生ではないかと思います。 非難轟々のレスがつきそうですが、私の素直で正直な考えです。
710 :
南無 :2000/07/25(火) 14:54
>705の中心問題である >今までのこのスレで述べてきた思想をどうして葬式、逮夜、 年忌の時等にいわねぇんだ? についての私見。 先ず第一に言えなかった時代が長かったということ、幕藩体制化から 皇国史観下の帝国主義の時代は、時代に反論できない坊主の責任も含め 異質なもの変質したものになっていた所が多いのだろうと思います。 ただしそのような時代の中でも輝くような人々も輩出してはいましたが。 第二に特に戦後ですが坊主側の反省・門徒側の自覚が欠落したままで 現在まで来ているということ。第三に708でも世襲制について触れられて いますが、自覚的に動き始めた坊主に立ちはだかるのはまず同業の坊主 であることからも知られるように、依然と封建制・寺檀制・世襲制あるいは 権威主義といったものから自由に成り切っていないということ。第四には 貴方のような求め方をする人自体がすでに少数派になっているということ だろうと思います。需要の見えないところに供給がなされない、供給のない ところからは需要が生まれないという悪循環から抜けられないということ でしょう。しかし、本当に供給できるのかという坊主の資質も問題ですが。
711 :
名無しさん :2000/07/25(火) 15:16
>710 重い、重すぎる。
712 :
その他 :2000/07/25(火) 16:28
>705無視論者さんへ こういう質問をお待ちしておりました。大変うれしく思います。 >坊主から聞かされてる説教は、この世を迷い無くいかにして生きていくかつーよな、 >仏教のそもそもの思想(釈迦が説いたとされる思想)じゃなくて、 >「あの世(極楽浄土)にいかれてきっと成仏されていますよ」とか、 >「この方(亡くなられた方)の霊は、今頃、阿弥陀さまに導かれ、○○されております」>とか、 こういう法話をする坊主には、それはおかしいのではと質問をされたらどうですか。たいていの坊主は門徒さんからの質問を待っているのですから。 問題は機嫌が悪くなる坊主もいるでしょう。とりあえずは軽蔑してやって下さい。 >「今回の法要は、……な意義があり、……云々」とか >なんか、何時も抽象的な話が多いぜ。 私もおそらくこういった話をしているのでしょうが、こんな話では駄目なのでしょうか。どういう話を聞きたいのですか。これは真剣な質問です。 それと他の質問は、他の方と似たり寄ったりです。 仏は信じますが、神は信じません。 なぜなら神とは私の思いです。仏は私の思いを破るはたらきです。
713 :
その他 :2000/07/25(火) 16:37
>708さんへ 寺院の世襲制についての言い訳です。 寺に生まれたから仕方なく継いでいる坊主は多いです。それで寺が存続する。 過疎地でも寺が続いていくのはそのためです。世襲制でなければ、過疎地などの収入の少ない寺院は後継者がなくて廃寺になるでしょう。 実際、曹洞宗では多くの寺院が無住のままだということです。昔だったら農家の次男三男などが口減らしのために寺に小僧としてやられたのですが、現在ではそういうことはほとんどありません。その結果、寺の後継者不足となるわけです。 と言いましても、教団のトップの世襲制については問題があることは言うまでもありません。教団の私有化になるわけですから。
714 :
生臭い¥5さま :2000/07/25(火) 18:05
別スレッドでの、無視論者さんのレスです。 あまりに鋭いツッコミで、思わず笑ってしまいました。 無視論者さんに無断で転載します。 私は、一般の方々が坊主を見透かしているということに、僧侶は自覚すべきだと思いました。 >物理板からの転載 >====================================== >葬式の時、坊さんが、 >「49日を過ぎると故人の霊はまた新しい命に生まれ変わって転生するんですよ。」 >と言っておきながら、毎年毎年 >「お盆には故人の霊が帰ってきますから。」 >なぞと言って金を取るとは何事か!
715 :
ゆうち :2000/07/25(火) 19:21
久しぶりに書き込みます。 夏休みになると、寺では、子どもの行事がたくさん行われます。 キャンプや、きもだめし、花火大会、盆踊り。 楽しみですねえ。 もっと、楽しんでお寺に行ける、というか、お寺に行ってよかったと 思えるような、そんな場所であればいいと思っています。 夏
716 :
生臭い¥5さま :2000/07/25(火) 23:16
> 705、706 無視論者さん >仏教儀式としても葬式つまり葬式仏教を肯定いるつーことか。 >今までのこのスレで述べてきた思想をどうして葬式、逮夜、 >年忌の時等にいわねぇんだ? 実は、私の地域もこれまで造花屋さんはあっても、葬儀屋もし くは葬儀屋もどきのない地域で、葬儀壇(斎壇)は市が所有し、 それを借りて、町内会や親戚・友人・知人で手作りの葬式をし てきたのですが、JAの合併により、南無さんのところのよう にJAが葬儀やもどきのことをするようになりました。 商業ベースで葬儀のあり方が変化していきます。 そこで私の地域でも、“真宗門徒としての葬儀”というマニュ アルを作ろうということになり、現在、委員会を組織して、検 討中です。
717 :
生臭い¥5さま :2000/07/25(火) 23:18
↑ 続き 無視論者さんは、葬式仏教を肯定するのかと、おっしゃりたい ことは十分理解できます。 しかし、突然、葬式は仏教の仕事ではない、死んだ人より生き た人といってみたところで、どうにもならないでしょう。 門徒の人達は、葬式をしないと宣言した私の寺を離脱して、周 辺の寺へ移って葬式をするだけです。 それならば、儀式・形・形式から浄土真宗の教えを知ってもら いたい、浄土真宗の教えに触れるきっかけになって欲しいとい うのが願いです。 寺や自宅を会場としての葬儀、法要なら法話のできる雰囲気が ありますが、セレモニーセンターや料理屋さんを利用した場で は、内容を問う前に話しすらできる雰囲気ではないというのが 実情です。もちろん、私の話が人をひきつける内容ではないと いう原因はあります。 だからといって、不甲斐ない堕落したとても僧侶であるとはい いがたい私の姿を肯定するつもりはありませんし、現実を言い 訳に甘えていいはずがありません。批判されてしかるべきです。
718 :
南無 :2000/07/26(水) 07:10
前から気になっていたことなのですが、僧侶の方々にお尋ね致します。 教義と無縁な行事・習慣といったものを地域の一住人として、また一人の親 としてどのように線引きをなさっていますか? 例えば、盆踊り・雛祭り・お祭り・厄年など。
719 :
名無しさん@1周年 :2000/07/26(水) 09:22
上記の質問事項に便乗させて頂きます。 さて、位牌の寛容は、教義と反しますが 地域性にもよるのですが、僧侶の皆様 どのように、お考えでしょうか? 真宗の僧侶の皆様へ。
720 :
その他 :2000/07/26(水) 10:20
神=霊 といえると思うのですが、 霊=暴力団 でもあると思います。 暴力団は恐いが、かといって無視もできない。あたらずさわらず。しかし、コネがあれば何かの時に役立つこともある。が、へたに頼ると腐れ縁となってしまい困ることになる。生活を左右されかねない。 霊=冥衆(見えない鬼神) 暴力団=顕衆(見える鬼神) もう一つ 暴力団=水戸黄門 どちらも力でもって人を言いなりにさせる 水戸黄門は神としてまつられているのでは。 やはりたよるべきは仏です。
721 :
南無 :2000/07/27(木) 00:01
>719です。 位牌についてですが私の地域においての所有率というか使用率は四割程度と思います。 そのほとんどが「繰り出し位牌」で一名一名の位牌を作るということはありません。 どちらにしても位牌ではなく法名軸を作るよう話をしています。私が位牌をお内仏 から出してしまうのは簡単なことなのですが、時間がかかっても家族の手で位牌を 下ろすような決断をしてもらうよう心がけているつもりです。 >720です。 おもしろいお話です。 やはりたのむべには仏です。
722 :
南無 :2000/07/27(木) 00:05
×やはりたのむべには仏です。 ○やはりたのむべきは仏です。 すみません。間違えました。
723 :
無視論者 :2000/07/27(木) 01:52
>南無氏、生臭い¥5さま氏、その他氏 俺からの質問への解答をたまわり、感謝する。 オタクら浄土真宗系の坊主は、神や霊の存在は信じなくても、 仏の存在を信じているつーことはわかった。 (まぁ、オタクら坊主にとっては、阿弥陀仏に頼り救って貰う つー念仏(思想)の根拠が、仏が存在しないと揺らぐわけだ) 俺は、別スレに書いてるとおり、庭野教に属する自称仏教徒の 端くれであるが、神、仏、霊魂、あの世の存在は信じてねぇんだな。 つーか、そんなものは無いと思っている。 神仏、霊魂、あの世(天国や地獄)というものは、 人間が宗教という思想で作り出した概念・幻影である。 つー事が、神仏、霊魂、あの世(天国や地獄)らがないと思わせる 根拠であるからだ。で、魂の輪廻転生ってのも無い(あり得ない) と考え、俺は否定している(ただし、心の状態としては六道輪廻す る(している)事は否定していない)。 ※上記にあげた仏とは、釈迦如来、阿弥陀如来等の諸仏の総称の意。 同じく神とは、仏教以外の宗教で述べられる神の総称の意。
724 :
生臭い¥5さま :2000/07/27(木) 11:07
>723 無視論者 さん > 仏の存在 批判覚悟で言い切ってしまえば、 私は、 宇宙そのものを阿弥陀仏だと考えています。 宇宙の創造主としての仏や神、 宇宙を離れた独立した存在としての阿弥陀仏を想定してはいません。 > 阿弥陀仏に頼り救って貰うつー念仏 これも批判覚悟ですが、 私は、 私が阿弥陀さんに頼って救って貰うのではなく、 すでに私は救われてしまっているのだと思います。 しかし、私は愚かなので救われているという自覚が持てずに迷っています。 阿弥陀仏がいるとか、いないとか、 私が救われるとか、救われないとか、 霊魂があるとか、ないとか、 神仏がいるとか、いないとか、 あの世があるとか、ないとか・・・、 そんなことが問題ではないのだと思います。 私が救われている私であるという自覚が持てるか、持てないか、 私が救われている私だと自覚が持てないのは、私の何が妨げとなっているのか、 一言で言えば、私の心のあり方が問われているのだと思います。
725 :
生臭い¥5さま :2000/07/27(木) 11:08
↑続き しつこいですが、 浄土真宗ばかりではなく、仏教は、 神仏、霊魂、あの世(天国や地獄)といった私を離れた外界に存在するものを 問題にしているのではなくて、 “お前はどうなんだ”と私のあり方が問われているのだと思います。 もっとしつこいですが、 >神仏、霊魂、あの世(天国や地獄)らがない のではなくて、仏教の問題にすらなっていない、 どうでもいいことなんだと思います。
726 :
名無しさん :2000/07/27(木) 11:38
>724 > 阿弥陀仏がいるとか、いないとか、 私が救われるとか、救われないとか、 霊魂があるとか、ないとか、 神仏がいるとか、いないとか、 あの世があるとか、ないとか・・・、 そんなことが問題ではないのだと思います。 だったら寺建てるなよ、坊主を職業にするなよ、 お布施を求めるなよ、 「そんなことが問題じゃない」んだったらな!
727 :
名無しさん :2000/07/27(木) 11:43
詐欺商法はいますぐやめなさい。
728 :
名無しさん :2000/07/27(木) 11:46
1)阿弥陀仏がいるとか、いないとか、 2)私が救われるとか、救われないとか、 霊魂があるとか、ないとか、 神仏がいるとか、いないとか、 あの世があるとか、ないとか・・・、 1)2)は分けて考えたほうが良い。 1)は「ない」に決まっている。 2)は「無記」の高度な問題。
729 :
名無しさん :2000/07/27(木) 12:02
>728 1)は「ない」に決まっている。 信じるひとのこころのなかに、ってやつですね。 だったら寺は必要無いでしょう、信じるひとがこころのなかで 念じていれば十分。坊主も要らぬ。お布施もやらんでいい。
730 :
名無しさん :2000/07/27(木) 12:06
>729さん、 阿弥陀さんも浄土もないといったのは(728) ただの通行人です。 そうですよ、坊主も寺も必要ないです。念仏寺はね。 あれはカルトです。
731 :
名無しさん :2000/07/27(木) 12:07
2)は「無記」の高度な問題。 哲学したいのならますます余計なものは 削ぎ落とさなくちゃね!!!(爆)
732 :
名無しさん :2000/07/27(木) 12:10
>そうですよ、坊主も寺も必要ないです。念仏寺はね。 あれはカルトです。 その通り!!!
733 :
名無しさん :2000/07/27(木) 12:49
阿弥陀さんや浄土は無記でも何でもない。 「ない物はない」ただそれだけ。 それと念仏坊主に質問しちゃだめですよ。 信じられないほど支離滅裂の長文が帰ってくるだけ。 だましのテクニックだね。 真宗学校はこれを教えているわけだね。
734 :
生臭い¥5さま :2000/07/27(木) 13:20
↑ 私の責任ですかね。 質問でも、疑問でも、異論でも、反論でもない単なる罵声軍団がやって来てしまいましたね。 とても残念です。 申し訳ありません。
735 :
名無しさん :2000/07/27(木) 13:34
>734 仏教ではね「なまぐさ」が一番忌避されることなのですよ。 その最も忌避され嫌悪される言葉をハンドルに持つと言う ことは、仏教が分かっていない証拠。 そんな者の意見は聞かなくて言い。四捨五入で十分と言う ことです。 真宗系の坊主の言うことなんて聞き流せば良いの。仏教の 仮面をかぶった詐欺師なんだから。 「仏教じゃない、カルトです」で十分。法論に値せず。
736 :
名無しさん :2000/07/27(木) 14:16
「なまぐさ」の意味はね。 僧侶の形(なり)をして、僧侶でない生活をする者。 贅沢な食べ物、住居、衣服、蓄え。妻子。 僧侶の形をして、供養を受けながら、一般人の生活を する者。人々から憎まれるとあります。 戒を守らず供養を受ければ、人々から憎まれるのです。 現に真宗坊主などは憎まれているでしょう。
737 :
南無 :2000/07/27(木) 15:00
>726〜733・735・736の名無しさん 貴方は二律論がお好きなようですね。仏がいない=寺はいらない式の考え方は 少々幼稚すぎませんか? 724・725で言われている生臭い¥5さま 氏の真意をくむという読み方をしてみて 下さい。 >736 僧侶は隠遁者でなれけばならんという意味? 僧侶の生活と僧侶でないものの生活というの、説明してもらいましょうか。
738 :
名無しさん :2000/07/27(木) 15:10
>735 >僧侶は隠遁者でなれけばならんという意味? おまえ、坊主が一般人にそんなこと聞いてどうなるの。 頭、大丈夫?比丘には比丘の生活があるでしょう。 まあ、真宗は仏教でないといえばそれまでだが。 そうなら、自らを仏教であると僭称するなよな。
739 :
名無しさん :2000/07/27(木) 15:12
僧侶ってのは 「自らを仏陀の教えに従って律しているもの」でしょう。 真宗坊主が僧侶なんて言葉を使うな。
740 :
名無しさん :2000/07/27(木) 15:13
「質問をもって回答とする」 これも真宗坊主の詐欺手口かい?
741 :
名無しさん :2000/07/27(木) 15:14
詐欺手口 1)二つの回答を並べ、両者を行き来する。 2)支離滅裂の長文でごまかす。 3)逆質問で質問を封じる。
742 :
名無しさん :2000/07/27(木) 15:22
ここまで、汚いやつは一般人にも少ないね。
743 :
南無 :2000/07/27(木) 17:21
>739、名無しさん 。 端的に言いますと「律する」という了解の違いです。 >740 私はこのスレッドの最初から「坊主は俗人」との意見を述べて きたのですが、「生活」という所では何も変らないということです。 >741 質問を封じる気はありません。まぁ無視することはありますけど。 私自身は極力、長文を避けてるつもりなのですが。 というより長文能力がない。 >742 正解。確かに私は綺麗ではないし汚いものです。その通り!
744 :
無視論者 :2000/07/27(木) 20:20
>生臭い¥5さま(725) (“さま”つー敬称がついているので、これからは敬称を省く) >浄土真宗ばかりではなく、仏教は、 >神仏、霊魂、あの世(天国や地獄)といった私を離れた外界に存在するものを >問題にしているのではなくて、 >“お前はどうなんだ”と私のあり方が問われているのだと思います。 あんた、浄土真宗系の坊主やってるわりには矛盾しているぜ。 もっと勉強した方がいいんじゃないのか? 仏教は一番大きく分けて何がある? (新旧とかじゃねぇぞ) なら、あんたが坊主やってる浄土真宗は、何仏教だぁ? (その仏教が仏教の全てだと思ってるんじゃねぇよな? まさか、浄土真宗が仏教の神髄(釈迦一番云いたかった事) と思ってるんじゃねぇよな?) で、盂蘭盆の事はわかるよな? なら、盂蘭盆(経)には何が出てくる? (↑これが無けりゃぁ、坊主の稼ぎ時の盆の存在意義が無くなるからよぉ)
745 :
名無しさん :2000/07/27(木) 20:31
南無さん >正解。確かに私は綺麗ではないし汚いものです。その通り! >正解。確かに私は綺麗ではないし汚いものです。その通り! >正解。確かに私は綺麗ではないし汚いものです。その通り! >正解。確かに私は綺麗ではないし汚いものです。その通り! 端的なご解答ありがとうございました。合掌せず。
746 :
アガペ〜 :2000/07/27(木) 21:06
なんでみなさんそんな偉そうに聞いてるんですか? そんなに怒らせたいんですか? このスレッドをちょくちょく見てる者ですが、あなた方はかなり失礼なのでは? 2chだからって訳ではなく、もう少し人に質問するのですからそれなりの礼があるんじゃないですか? それだけです。 スレに関係ないことでした。 失礼します。m(__)m
747 :
名無しさん :2000/07/27(木) 21:34
↑こいつは当スレッド関係者。 さもなきゃああんたが書きこみしてるスレッド教えてくれよ。 これからすぐに遊びにいくからよ!(爆)
748 :
名無しさん :2000/07/27(木) 21:57
>746さん、 な〜んでか? 僧の形をして、贅沢な暮らしをするものは 民衆から憎まれるからです。憎悪される。
749 :
ハエたたき :2000/07/27(木) 22:00
> 744 無視論者さん > 盂蘭盆の事はわかるよな? なら、盂蘭盆(経)には何が出てくる? すみません、意味がよくわかりませんので、もう少し説明していただけますか? 勉強不足なものですから、すみません。 =================================== あなたは本当に無視論者さんですか? 同一人物とは、信じられないレスに思えたのですが・・・。
750 :
名無しさん :2000/07/27(木) 22:25
>749 みなさん、再確認しておきますが、ハエタタキサンは 真宗のれっきとした坊主です。一般人とは違います。 >変な奴だとか、生臭坊主だとか・・・、色々な思い・感想を持たれるでしょう。 とご自分でも言っているように「生臭坊主」です。
751 :
名無しさん :2000/07/27(木) 22:33
>750 ハエタタキは他の板では一般人を装って、とぼけながら 書き込みをしています。
752 :
名無しさん :2000/07/27(木) 22:39
>750 ハエタタキは他の板では一般人を装って、とぼけながら 書き込みをしています。 うわあ、最低の奴だな!
753 :
↑ :2000/07/27(木) 23:58
人の揚げ足ばっか取ってないで、自分の主張の展開をしなさい! 意味わかるでしょ。もうちょっと大人になってね!
754 :
名無しさん@1周年 :2000/07/28(金) 02:59
84 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/07/27(木) 09:37 >82 >実は私も、浄土宗の教義にはかねてより疑問があり、 >これは本来の仏教ではないんじゃないか? 浄土宗は仏教じゃないの。それを何とかつじつまを合わせよう としたのが、一遍や親鸞じゃ。 彼らは、浄土三部教を「仏説」だと信じておったのじゃ。いまじゃ だれもそんなこと信じてないわな。
755 :
名無しさん@1周年 :2000/07/28(金) 07:06
>浄土宗は仏教じゃないの。 これはどう言う意味なのですか?
756 :
名無しさん :2000/07/28(金) 09:29
>755 浄土宗は仏、法、僧 に帰依していないでしょう。 だから仏教じゃないの。 仏はゴータマブッダ、 法はゴータマブッダの教えた言葉、 僧は、ゴータマブッダの 教えた言葉を守っている比丘と比丘尼、およびその集まり。 浄土宗にはどれ一つもないでしょう?
757 :
名無しさん@1周年 :2000/07/28(金) 12:30
>仏はゴータマブッダ、 法はゴータマブッダの教えた言葉、 僧は、ゴータマブッダの 教えた言葉を守っている比丘と比丘尼、およびその集まり。 なるほど、なるほど。では >仏はゴータマブッダ、 だけと限定するなら、諸仏というもの全てが否定されるのでしょうか。 >法はゴータマブッダの教えた言葉 インド・中国・日本で高僧と言われている方々の「論・訳」は無意味と? 法とは釈尊の直説であるか否かより、釈尊の真意を伝えるもので あるか否かではないのでしょうか? >僧は、ゴータマブッダの 教えた言葉を守っている比丘と比丘尼、およびその集まり ゴータマブッダの教えた言葉とは何を指すのかはっきりしません。詳しい 説明をお願い致します。
758 :
名無しさん :2000/07/28(金) 12:33
>757 >浄土宗にはどれ一つもないでしょう? 自分で考えたら分かるでしょう。考えなくても分かるか。 世間もみんな知っているし。
759 :
名無しさん :2000/07/28(金) 12:35
浄土宗の皆さん。 「私は今日よりゴータマブッダに帰依します」 といって御覧なさいよ。言えますか? 信者にそう指導できますか?
760 :
名無しさん@1周年 :2000/07/28(金) 12:38
>758.759 757の回答になってないのですが・・・
761 :
名無しさん :2000/07/28(金) 13:34
>760さん話を元に戻します。 >>浄土宗は仏教じゃないの。 >これはどう言う意味なのですか? >浄土宗は仏、法、僧 に帰依していないでしょう。 >だから仏教じゃないの。 浄土宗の皆さん。 >「私は今日よりゴータマブッダに帰依します」 >といって御覧なさいよ。言えますか? >信者にそう指導できますか? まず最初にゴータマブッダに帰依できますか? そうでなければ仏教ではない。にせ仏教。
762 :
名無しさん :2000/07/28(金) 13:36
仏教の基礎は「三宝への帰依」 阿弥陀信仰は仏教じゃないの。
763 :
ゆうち :2000/07/28(金) 15:07
>762さんへ 法然上人たちは、専修念仏ということで弾圧を受けました。 当時、念仏は、比叡山の中でもみとめられたものでしたが、 念仏ひとつというのが弾圧を受けたのだと聞きました。 浄土真宗では、「三帰依文」を読みます。 つまり、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」 また、「ブッダーンサラナーンガッチャーミー、ダンマーンサラナーン ガッチャーミー、サンガーンサラナーンガッチャーミー」も歌います。 その、仏、法、僧(三宝)の意味合いが、一般的ではないという事でし ょうか?
764 :
ゆうち :2000/07/28(金) 15:12
浄土真宗では、お釈迦さまが、阿弥陀仏をお褒めになったと理解してい ます。 『仏説阿弥陀経』のなかの、「シャリホツよ、私のように阿弥陀仏を讃 嘆している仏さまは、六方(東西南北上下)にガンジス川の砂の数ほど いらっしゃるのですよ。」とのお釈迦さまのお言葉によります。
765 :
名無しさん :2000/07/28(金) 15:49
ゆうちさんこんにちは。 >『仏説阿弥陀経』のなかの、「シャリホツよ、私のように阿弥陀仏を讃 >嘆している仏さまは、六方(東西南北上下)にガンジス川の砂の数ほど >いらっしゃるのですよ。」とのお釈迦さまのお言葉によります。 この、お釈迦様が2600年前にインドの大地を説法しながら 歩まれたお釈迦様かどうかです。それと、その、その言葉が、 その時に本当に語られたかどうかが問題なのです。 もし、あなたがお釈迦様で、2600年前にインドに生まれ 法を説いた。そのあと、100年、数百年、千年と過ぎて、 自分では言った事のない教えが広がり出した。その千年も経っ て作られた偽物の教えを学んだ人達に、ブッダンサラナンガ ッチャーミと唱えられて嬉しいですか?もっと勉強して、本当 のゴータマの教えは何なのかちゃんと知ってほしいと思いませ んか? 現代では浄土三部経などの浄土の教えは仏説ではないと言うのが 常識になっています。真宗の僧侶はご存知のはずです。 もう一度お確かめになってください。
766 :
名無しさん :2000/07/28(金) 16:02
>764 ゆうちさん、ダンマンサラナンガッチャーミと唱えるのであれば ゴータマブッダの言葉がパーリ語で残されています。それを勉強 しないとだめです。日本語にも翻訳されています。ダンマは浄土 三部経の中には有ません。仏教を基に作られたお経ですから少々 は紛れ込んでいますが、体系的にはまったくの別物です。
767 :
名無しさん :2000/07/28(金) 16:05
また世俗の暮らしをする人々はサンガサラナンガッチャーミ と帰依される対象ではありません。仏陀の教えを守って、 ちゃんとした規範の中で修行している人のみが、帰依と供養の 対象になります。
768 :
名無しさん :2000/07/28(金) 16:07
ゆうちさん、ブッダ、ダルマ、サンガについて あなたの僧侶に尋ねてみてください。ちゃんとした 返事が返ってくれば、その人は僧侶かもしれません。 ごまかしであれば、にせ僧侶です。 このスレッドででもいいんじゃありませんか。
769 :
名無しさん :2000/07/28(金) 16:11
ゆうちさん、あなたの ブッダーンサラナーンガッチャーミー ダンマーンサラナーン ガッチャーミー サンガーンサラナーンガッチャーミー が本物になりますよう。 ブッダの言葉には阿弥陀のあの字もありません。合掌。
770 :
名無しさん :2000/07/28(金) 18:15
数珠のゴムが切れそうなんですけど 新しいゴムと変えていいんでしょうか。 修学旅行のときに買ったブレスレットみたいな数珠で 香木でできてるやつなんですけど。
771 :
名無しさん :2000/07/28(金) 18:46
>770 これ、これ、このコメント。カトリックと似ているねえ。
772 :
770 :2000/07/28(金) 19:51
マジ、聞きたいんです。 かなりお気に入りのものなので。 アクセサリー感覚で身につけてはいるんですけど、 身を守ってくれそうだから、いつもつけてるんです。
773 :
名無しさん :2000/07/28(金) 20:00
まったくのアクセサリーですから、ゴムは変えても言いと思い ますよ。身を守ってくれると思うのは良いことだと思います。 変えて言い理由は、土産物屋で売るものにはお御霊は入ってい ないと思うからです。 からかいかと思いました、失礼しました。
774 :
770 :2000/07/28(金) 21:16
>773 助言ありがとうございはす。 さっそく取り換えてみようと思います。
775 :
その他 :2000/07/28(金) 22:22
>705の無視論者さんの >今までのこのスレで述べてきた思想をどうして葬式、逮夜、年忌の時等にいわねぇんだ?という質問について、 相手によって話を変えます。誤解されることが多いからです。それは>726以降を読めば理解してもらえるでしょう。 話を変えると言っても、いい加減なことを言うわけではもちろんありません。ここだけはきちんとするという一線はあります。 それと、どういう法話を聞きたいですか、という質問に答えて下さい。冷やかしではありません。
776 :
その他 :2000/07/28(金) 22:23
>756 >仏はゴータマブッダ、 >法はゴータマブッダの教えた言葉、 >僧は、ゴータマブッダの教えた言葉を守っている比丘と比丘尼、およびその集まり。 >浄土宗にはどれ一つもないでしょう? では現在の日本でどの宗派がそうだといえるのですか。 >767 >また世俗の暮らしをする人々はサンガサラナンガッチャーミと >帰依される対象ではありません。仏陀の教えを守って、 >ちゃんとした規範の中で修行している人のみが、 >帰依と供養の対象になります。 サンガとは僧侶個人のことではなく、教団のことでしょう。また、あなたの言うとおりだとして、現在の日本で帰依と供養の対象となる僧侶がいますか。 >761 >まず最初にゴータマブッダに帰依できますか? >そうでなければ仏教ではない。にせ仏教。 どうしてできないなどと考えているのですか 。頭から決めつけないで下さい >762 >仏教の基礎は「三宝への帰依」 真宗の三帰依についての解釈は>691を読んで下さい >765 >現代では浄土三部経などの浄土の教えは仏説ではないと言うのが常識になっています。 歴史上の釈尊が、という意味ならその通り。それは浄土三部経だけではなく阿含経もそうだというのも常識です。なにせ文字で伝えられるようになったのは仏滅後500年ですからね。
777 :
その他 :2000/07/28(金) 22:28
今、下には「阿含宗という宗教2」というスレッドがあり、499が三帰依について書いています。 このスレッドでも三帰依をどうのこうのという人がいますが、どうも似ているようです。 結局、阿含宗の信者が書いているのでしょうか。 となると、桐山が供養されるにふさわしい僧ということですか。
778 :
南無 :2000/07/29(土) 03:36
久しぶりに飲んで帰り少々酔っ払っていますが、昨日からのレスを読ませて頂きました。 >754.756.758.759.761.762.765の名無しさん。 貴方の主張は浄土教が仏教ではないという主張で、その根拠は浄土三部経など浄土の教えは 仏説ではないということですね。 浄土三部経が釈尊の直説でないということが貴方自身の生き方に何か関わっているのでしょうか? 名無しさんは「自分は釈尊の直説である○○経に依ってこのような生き方を確立した、もしくは 模索している。そこから見ると浄土三部経に依るということの問題点はここだ」という展開を なさって下さい。教典のどれとどれが直説で、どれとどれが偽物だというようなことを議論する 知識も力も私は持ち合わせてはおりません。しかし浄土三部経が釈尊の直説でないということと、 浄土三部経が釈尊の説いた法を伝えているか否かは別の問題でしょう。浄土教に縁あるものにとって それが貴方からまた世間から仏教であることを認められるか否かは問題ではないのです。 浄土三部経に依って初めて自身の無明性を照らし出され、そこから真に人間としての自覚的生き方を 求めるという方向性に頷いたということなんです。現に浄土三部経に依って生きようとする人達がいる ということなのです。またそのような人間の歴史があるということなんです。 貴方が浄土教を仏教ではないと否定することはいい、しかし浄土三部経によって自分自身を問う、 あるいは人間存在を問うという事を否定するのは「おこがましい」ことです。貴方の言葉は仏弟子の 言葉とは思えない。仏教学者の言葉です。
779 :
名無しさん@1周年 :2000/07/29(土) 08:39
>浄土三部経が釈尊の直説でないということが貴方自身の生き方に 何か関わっているのでしょうか? とうとう認めちゃいましたね、チャン・チャン!(爆)
780 :
生臭い¥5さま :2000/07/29(土) 09:52
大乗のお経は、お釈迦さんの言葉ではない、という非難はずっと昔からあるようです。 しかし、お経であるかないかという定義はかなり難しいです。 お経が仏教にとって大切だというのは、それが、単に、お釈迦さんという一人の人物の教 えを記録しているということによるのではなく、「さとった人」が語った「さとった内 容」と「さとりいにたる方法」を盛り込んでいるということによるからです。 当たり前ですが、「さとった人」というのは、「仏」のことです。 お釈迦さんは、「仏」に違いありませんが、「仏」はお釈迦さんだけではありません。 お釈迦さんと同じ境地に達したと自他共に認める人は、すべて「仏」ということになりま す。 したがって、そういう仏の語った言葉は、お釈迦さんの教えの流れを汲むもの、お釈迦さ んの教えの表現(内容は同じ)を変えたものとして、じゅうぶんに「お経」の資格を持つ ものといえます。 大乗のお経も、釈尊の教えを伝えるお経です。
781 :
生臭い¥5さま :2000/07/29(土) 10:04
拠り所にしているお経が、お経であるかどうか、正しく仏・釈尊の教えを伝えるものであ るかどうかも重要な問題でしょう。 しかし、せっかくお経を読ませていただきながら、お経に説かれている教えを正しく読み 取ることができずに、仏・釈尊の教えとは違った自己流の考えを仏法だと勘違いすること は、もっと大きな問題ではないかと思います。 もちろん、愚かな私のことですが・・・。
782 :
名無しさん@一周年 :2000/07/29(土) 10:08
「阿弥陀仏の名前を唱えると極楽往生できる」 こういう教えは、仏陀の教えのどこを探してもないのです。 仏陀の言葉に「あみだぶつ」という文字は出てきません。
783 :
名無しさん@一周年 :2000/07/29(土) 10:21
浄土宗の信者は純情なものですよね。 なかには本気で阿弥陀さんを信じている方がいる。 子供はサンタクロースとかミッキーマウスを信じても おかしくないですが。 阿弥陀さんなんて「おはなし」。 早く信者に告白して楽になりなさい。ずっと騙してま したって。僧侶は阿弥陀物語なんて嘘っぱちだと前か ら知っているのだから。 親鸞上人などは本気で仏説だと信じていたのですよ。 あなたちは因果な商売だねえ。信者を騙して地獄に落ちる。
784 :
名無しさん@一周年 :2000/07/29(土) 10:27
浄土宗のお坊さんに質問です。 どのくらいの方が阿弥陀仏と極楽の存在を信じていますか? 1)僧侶では 2)信徒では
785 :
名無しさん@一周年 :2000/07/29(土) 10:29
私の予想 1) 0% 2)10% もう一つ予想、たぶんあなた達は本当のことは答えない。
786 :
名無しさん@一周年 :2000/07/29(土) 10:35
>780 >大乗のお経も、釈尊の教えを伝えるお経です。 「も」と言うことはほかにもあるんですか。
>786 小乗仏教のお経
788 :
名無しさん :2000/07/29(土) 12:31
原始経典ともいいます。
789 :
無限 :2000/07/29(土) 12:35
>787 どんなお経がありますか。阿弥陀さんのことは 書いていないのですか。
790 :
無限 :2000/07/29(土) 12:37
僧侶の方にお聞きしますが、どうして 法華経には阿弥陀仏のことが書いていないのですか。 それとも法華経にも阿弥陀仏のことは書いてあるの でしょうか。
791 :
無限 :2000/07/29(土) 12:37
法華経も阿弥陀経もどちらも大乗仏教ですか? 法華経が小乗ですか???
792 :
その他 :2000/07/29(土) 13:15
>718の南無さん 七五三には困りました。着物を妻の実家からもらったんですが、神社に参るわけには行かない。家で着ただけでどこにも行きませんでした。 習俗と宗教の線引きは難しいですね。 戦没者慰霊法要に参ってくれと町から頼まれた場合どうするか。これはもっと難しい問題でしょう。 >719さん 位牌については、おりがあった時に、位牌よりも過去帳の方が便利ですよ、と言います。 位牌が仏壇の正面に置かれていたら、横の方に置くように言います。そして機会があれば、位牌の意味を説明します。
793 :
その他 :2000/07/29(土) 13:16
>726 だったら寺建てるなよ、坊主を職業にするなよ、お布施を求めるなよ、 >729 だったら寺は必要無いでしょう、信じるひとがこころのなかで 念じていれば十分。坊主も要らぬ。お布施もやらんでいい。 真宗の寺や僧のあり方にたいていの者は悩んでいます。だったら寺から出ろと言われるでしょうが、それだけの勇気はないし、無責任でもあります。真宗における寺院論、僧侶論について考えがおありでしたら、もう少し優しい言葉で教えて下さい。
794 :
その他 :2000/07/29(土) 13:16
>733 阿弥陀さんや浄土は無記でも何でもない。「ない物はない」ただそれだけ。 阿弥陀仏を実体的なものが実在するのだと言えば、そんなものはない、と言えます。しかし、ないというのも間違い。じゃあ阿弥陀仏とは何なのか、ということは次とも関係します。 >756 仏はゴータマブッダ あなた達は 仏=ゴータマブッダ すなわち歴史上の釈尊だけが仏だという解釈のようです。だから >765 現代では浄土三部経などの浄土の教えは仏説ではないと言うのが 常識になっています。 という大乗非仏説論を言われるのでしょう。 >782 仏陀の言葉に「あみだぶつ」という文字は出てきません。 という仏陀もそうでしょう。 仏とは何か。釈尊在世中は仏とは釈尊のことでした。その後の仏陀論の変遷などよくご存じのようだし、長々と難しいことを書くのも読みづらいので、おなじみ中村元「仏教語大辞典」から「ブッダ」の項を引用します。 「覚めた人。さとれる者。もとは、釈尊をゴータマ・ブッダと称した呼称であったが、後には広くさとった人一般に用いられるようになった。大乗仏教では、もろもろの命の根源としての永遠な、無量の命のことをいい、この命を自分の命として生きる者をまたブッタとよんでいる。すなわち、もとは真理に目覚めた人一般をさしたものが、大乗仏教では阿弥陀仏・薬師仏などのように多数の仏が立てられている」 とあります。 どうも大乗を仏教とは認めないらしいあなた達には意味のない言葉の羅列かもしれません。 大乗仏教の創始者たちは釈尊が本当に言いたかったことは何かということを深く突きつめていったわけです。釈尊が直接に話した内容ではないと頭から大乗仏教を否定するのではなく、大乗仏教で主張されていることに耳を傾け、そして批判すべきではないでしょうか。
>無限氏 >どんなお経がありますか。 どんなお経があるかは、手元の資料に載っていないのでわからねぇ。 >法華経も阿弥陀経もどちらも大乗仏教ですか? 法華経も阿弥陀教(浄土教)も大乗仏教だ。
796 :
その他 :2000/07/29(土) 13:30
名無しさんたち(ひとりかもしれませんが) >776 での私の質問に答えて下さい。
797 :
その他 :2000/07/29(土) 13:30
>阿弥陀さんなんて「おはなし」 その通り、しかし「おはなし」だから嘘というわけではない。「おはなし」でなければ伝わらない真実もある。 「も」と書いたから、また何か言われますかね。 >どのくらいの方が阿弥陀仏と極楽の存在を信じていますか? 実体的な存在としての阿弥陀仏および極楽の存在は信じていない。このことについては過去のレスを読めば南無さんや生臭い¥5さまがちゃんと書いている。 >もう一つ予想、たぶんあなた達は本当のことは答えない。 きちんと読まずに思い込みだけで適当なことを言う。こうしたことを釈尊は否定されたのでは。 匿名だからといって無責任に言葉を垂れ流していいというものではない。こうした論争を釈尊はしないようにと誡められたが、あなた達は答えなければ答えられないからだと言うし、答えれば言葉じりをとらえるし、こちらから質問したら答えないし。仏弟子とは思われない態度ではないですか。 無限さん 原始仏典には阿弥陀仏のことは書かれていません。 法華経には阿弥陀仏のことは書かれていません。 法華経も阿弥陀経も大乗仏典です。
798 :
名無しさん@1周年 :2000/07/29(土) 14:12
>その他さん >大乗仏教の創始者たちは釈尊が本当に言いたかったことは何かということを深く突きつめていったわけです 「大乗仏教の創始者たち」っていったい誰なんですか? 私のような仏教に関して無知な一般人にもわかるようにご説明くだされば 幸いです。よろしくお願いします。
799 :
自動カキコできるようになったぞ :2000/07/29(土) 14:13
致死は恋す賀来 組以下名乗りトス蒲池 かなにリス生手漉き苦 子非手寸名の員水戸
800 :
名無しさん@一周年 :2000/07/29(土) 14:22
>794 さん、それで、あなた達は仏陀釈尊を捨てたのですか? 阿弥陀の教えと仏陀釈尊の教えはずいぶん異なりますし、 矛盾しますが、どちらをとるのですか。 あっちでもない、こっちでもない、というわけには行か ないと思いますが。 仏陀の教えは自分でつんだ業は自分が受け取る。 阿弥陀の教えは、自分でつんだ業も阿弥陀さんが引き受けてくださる。 ずいぶん楽な教えですが、仏陀はそんなことはないと言っている。 たとえ阿弥陀信仰が偽物でも、仏陀の教えと変わらないのであれば まだしも、180度違う教えではどうにもならないではないですか。
801 :
自動カキコ :2000/07/29(土) 14:23
以下古希地位に釜混み 雲井か似リスニス 子非地と寸の酢人ね 非濃いとか名のイヤ
802 :
¥5さま :2000/07/29(土) 16:43
インド大乗仏教の3人の大思想家を紹介します。 ナーガルジュナ(龍樹:リュウジュ) 150〜250年頃の人と推定されている。 南インドのバラモンの出身で、 最初小乗仏教を学んだが、のちに大乗仏教に転向し、 中観思想(空)を論じて大乗の父といわれています。 アサンガ(無着:ムチャク) 390〜480年頃の人と推定されている。 北インドのガンダーラ国のプルシャプラ(現ペシャワール)の出身。 最初は、小乗仏教で出家したが、大乗に転じた人。 『摂大乗論:ショウダイジョウロン』などの著作があります。 唯識仏教を組織的に完成させた人といわれています。 ヴァスバンドゥ(世親:セシン・天親:テンジン) 無着の弟と伝えられている。 最初は小乗仏教の学者で、 『倶舎論:クシャロン』を書き大乗仏教を激しく攻撃していたが、 兄の無着に諌められて大乗仏教に転向した。 『唯識二十論』『唯識三十頌』『中辺分別論』などの著作があり、 唯識仏教を大成させた人です。 って、紹介しても・・・、ですよね。
803 :
¥5さま :2000/07/29(土) 17:24
原始仏教聖典=阿含経(総称) 主な大乗経典 小品般若経、大品般若経、大般若経、般若心経、金剛経 維摩経(ユイマギョウ)、華厳経(ケゴンギョウ)、 大無量寿経(ダイムリョウジュキョウ)、阿弥陀経(アミダキョウ)、観無量寿経(カンムリョウジュキョウ) 法華経(ホケキョウ) 涅槃経(ネハンギョウ)、楞伽経(リョウガキョウ)、勝鬘経(ショウマンギョウ)、解深密教(ゲジンミッキョウ) 大集経(ダイジツキョウ)、地蔵十輪経(ジゾウジュウリンキョウ) など
804 :
名無しさん@1周年 :2000/07/29(土) 17:43
>オマンコ臭い¥5さま 懇切丁寧なご教示、有難う御座いました。心より感謝申し上げます。 さて、そうするとわたくしのような素人にはよくわからないことは、 浄土三部経が釈尊の直説で無いとすると、どこのどなたが 説かれたのか、がわからないのですが。 >802でご紹介くださったナーガルジュナでしょうか? あるいはアサンガでしょうか?? はたまたヴァスバンドゥ??? で、これらのインド大乗仏教の3人の大思想家の思想が、 真宗の世にも尊い御坊様方及び信心厚い門徒の皆様の 日々の信仰生活にどのようなかたちで反映されているのでしょうか???? 『摂大乗論:ショウダイジョウロン』『唯識二十論』『唯識三十頌』『中辺分別論』 などの解説をオマンコ臭い¥5さまご自身檀家の皆さんに zなさっておられるのでしょうか?????
805 :
南無 :2000/07/30(日) 08:23
>792のその他 さん。 私の近所に「忠魂碑」があって毎年お盆に戦没者慰霊祭があるんです。前は郷友会の 主催でしたが、今は敬老会の主催になってます。以前からの習慣で地区の神社と寺が 一年交代で勤めていたのですけど、十年程前、靖国問題を話して以来、寺の方は首を きられてしまい神社さんの専属行事化してしまいました。
806 :
名無しさん :2000/07/30(日) 15:29
もぐらたたき=ハエたたき=その他 の発言引用 >> 640 名前: その他 投稿日: 2000/07/07(金) 20:02 阿含宗のではもぐらたたきという名前で、水子供養などにいちゃもんをつけていたのですが疲れました。親鸞が論争を誡めたのももっともと思いました。 立正佼成会や世界真光文明教団の人は真面目なようです。疑問を持って悩んでいる様子。先祖供養をすれば死者が成仏して幸せになる、とか、手かざしで魂を清めることにより世界が平和になるなど、まともな頭の持ち主ならおかしいと思うのは当然でしょう。だったら、ナマンダブと唱えれば死んで極楽に行くことができるも似たり寄ったりと言われそうですね。 信者の家庭の育ち、疑うことなく集会等に参加していたわけですから、教えに疑問を感じても否定はできない。そんなことをすれば家族(信仰仲間も含む)をなくすことになります。 スレッドの信者の発言はもっともなようで、しかしどこか違うような気がするのです。どう反論したらいいのか分からないのですが。彼らの発言のどこに問題があるか誰か教えて下されば感謝です。
807 :
名無しさん :2000/07/30(日) 15:32
>だったら、ナマンダブと唱えれば死んで極楽に行くことができるも >似たり寄ったりと言われそうですね。 これが南無さんの本音ね。素直な言い発言ですね。 >阿含宗のではもぐらたたきという名前で、水子供養などにいちゃもん >をつけていたのですが疲れました。 これが南無さんの裏の顔
808 :
名無しさん :2000/07/30(日) 15:33
南無さん=ハエたたきは、否定してもいいよ。 証拠は有るから。後で出すからね。
809 :
名無しさん :2000/07/30(日) 15:38
最初のコメントが抜けていました。 「もぐらたたき=ハエたたき=その他=南無」です。
810 :
名無しさん :2000/07/30(日) 15:44
>803 名前変えたの?
811 :
南無 :2000/07/30(日) 16:19
>807.808.809です。 何かメチャクチャになってきましたね。 私は南無で、もぐらたたき=ハエたたき=その他=南無ではありません。 もぐらたたき=ハエたたき=その他については知りません。 けど、最近はつまんないですね。
812 :
その他 :2000/07/30(日) 16:48
>798 「大乗仏教の創始者たち」っていったい誰なんですか? 分かっていません。 >800 阿弥陀の教えと仏陀釈尊の教えはずいぶん異なりますし、 矛盾しますが、どちらをとるのですか。 そうは思いません。また阿含経の中でも矛盾する言説はあります。それは釈尊が対機説法をしたからです。だからこそ釈尊の真意は何かを尋ねて大乗仏教が起こったのです。 >804 浄土三部経が釈尊の直説で無いとすると、どこのどなたが 説かれたのか、がわからないのですが。 分かりません。 阿含経も釈尊の直説ではありません。なぜなら釈尊入滅後500年間は、釈尊の言葉を口伝えしていたのです。その後、文字として書かれたわけです。したがって、釈尊の言葉を記憶していた人たち自身の考えなどが混じっていることは当然考えられます。 たとえばシュリーパンタカの話は知っているでしょう。釈尊が「ちりを払え」と言いなさいと教えたことはいいとして、パンタカがその言葉を何をしながら言ったか、経典によって異なります。箒で掃除をしながらか、砧で布をたたきながらか。 他にもこういった例はあるでしょう。 >807 だったら、ナマンダブと唱えれば死んで極楽に行くことができるも 似たり寄ったりと言われそうですね。 これは南無さんではなくその他の発言です。こういう誤解をされているということです。 たまたまですが、二葉憲香(龍谷大学元学長)「親鸞 仏教無我伝承の実現」永田文昌堂 という本を読んでいるとこです。その中に次の文章があります。 「やがて死んだらお浄土へ阿弥陀さんがつれていくんだと思っているとすれば、これは仏教ではありません」 「阿弥陀さまがどこかにいらっしゃると信じておられる方がありますか。またどこかに、お浄土という世界があるとお考えになっていらっしゃいますか。本当に信じていらっしゃるとすれば不思議な方々です」 どうもあなた達は真宗を誤解されているようで、これを機会に真宗を学んでもらえたらと思います。 >809 「もぐらたたき=ハエたたき=その他=南無」です。 同一人物だと思われるのは光栄ですが、残念ながら違います。しかし同じ真宗の坊主ですから似たようなことを書くのは当然でしょう。 人のことを詮索するよりも、名無しのままで悪態をつく自分はどんな人間なのか考えないのですか。 こちらは質問にはきちんと答えているつもりです。しかしこちらの質問には答えず、人物の中傷をする。せめて自分の立場でも明らかにしてもらいたいものです。
813 :
阿修羅のカキコ :2000/07/30(日) 16:50
師は御子地霊ニスコ 居すら故知御子 地酢セミ師は曾スレ の日持ち制すらの ライスの木の葉混み
814 :
¥5さま :2000/07/30(日) 16:56
780 に関連して 仏教のお経は、お釈迦さんの言葉を記録したもの、という考えがあります。 しかし、実際には776で その他さんが レスされているように、どんなに古いお経でも、 お釈迦さんが亡くなられてから何百年も経ってから書き記されたものなのです。 古い時代、一般にインド人は、文字を使うことがありませんでした。 すべて、暗唱にたよっていたのです。 仏教も同じで、お経の編集は、お坊さんたちが集まって、あるお坊さんが暗唱するのを、 他のお坊さんたちが聞いてチェックすることでした。 最初の編集会議は、お釈迦さんが亡くなって間もない時に行われましたが、それにしても、 お経は、お釈迦さんの全く知らないところで編纂されたのです。 お釈迦さんの直接の弟子が暗唱したといいましても、あくまでも、それは、そのお弟子さ んの耳と頭を経由したものですから、そのお弟子さんの考え、理解力によって、大なり小 なり、ゆがみが生じます。 お釈迦さんの語録としてのお経が、人から人へ口伝えに、時々編纂会議を経ては伝承され、 数百年もの間、代替わりを繰り返し、様々な地域へ伝えられていくと、ふくらませたり、 削ったりという手が加えられて、ゆがみが大きなものとなっていって、極端なものは内容 が矛盾するお経、ほとんど同じだけれども一部が違うお経、一部は同じだけれどもほとん ど違うお経などが、さまざまあらわれるようになりました。
815 :
¥5さま :2000/07/30(日) 16:57
水野弘元博士『経典−その成立と展開』によれば、 「原始経典の中には、仏滅後になってから、仏の遺弟たちによって説かれたものもかなり あります。 これらは仏滅直後の第一結集では誦出されなかったものであるのに、どうしてそれらが現 存経典の中に含まれているかといえば、おそらく第二回以後の結集で、経典として誦出さ れたものと思われます」と書かれています。 つまり、阿含経典のうちには、後世につくられた経典も多数あるのです。 確かに、阿含経典には、間違いなく釈尊その人が説かれたであろうと断定されていること ばの数々が含まれていることは間違いないと思います。 しかし、阿含経典の全ての作者が釈尊であるかといえば、そうとはいえない。 原始仏典も大乗仏典も、作者は誰か?といわれれば、インド地方の仏教者たちとしかいえ ないと思います。
816 :
¥5さま :2000/07/30(日) 17:11
> 811 南無さん > けど、最近はつまんないですね。 意味のない誹謗中傷は無視して、読み飛ばしましょう。 正常な意見、真っ当な質問のみ続けましょう。
817 :
名無しさん :2000/07/30(日) 21:23
>811 南無さん、あなた一度名前を間違えてコメントしてますよ。
818 :
名無しさん :2000/07/30(日) 21:25
くさい五円さん、それでは、もしあななたが 仏陀釈尊の本当の言葉を知りたかったら何を読みますか? 何を調べますか?
819 :
名無しさん :2000/07/30(日) 21:27
>814,815 くさい五円さん そのような近代文献学を無視したような虚偽のコメントは 見苦しいですよ。
820 :
名無しさん@1周年 :2000/07/30(日) 21:39
>その他 さん 「やがて死んだらお浄土へ阿弥陀さんがつれていくんだと思っているとすれば、これは仏教ではありません」 「阿弥陀さまがどこかにいらっしゃると信じておられる方がありますか。またどこかに、お浄土という世界があるとお考えになっていらっしゃいますか。本当に信じていらっしゃるとすれば不思議な方々です」 なるほど、いろいろ勉強のなります。 さて質問ですが、こういった見解は浄土真宗の僧侶共通のものでしょうか? なおかつ、門徒の方々にこのような見解にもとずいた法話なり 教化なりが為されているのでしょうか??
821 :
名無しさん :2000/07/30(日) 21:56
過去ログです。 700 名前: 南無 投稿日: 2000/07/23(日) 16:01 皆様お久しぶりです。とにかくお元気そうでナニヨリです。 701 名前: ハエたたき 投稿日: 2000/07/23(日) 16:17 > 700 南無さん、こんにちは。 出てきたら、ちゃんとコメントしなきゃだめですよ。 702 名前: 南無 投稿日: 2000/07/23(日) 16:43 >701です。 はい。ごもっとも。 久しぶりなので先ずはゆっくりと皆様のレスを読ませて頂いて・・・ 私の見落としかもしれませんが、ハエタタキは、このスレッドで 初めて場面です。700続いたスレッドで初めての書き方でしょ うか。南無さんとハエタタキサンは昔からの知り合いか、同一人物 としか思えないでは有りませんか。 みなさん、どうおもわれますか??
822 :
名無しさん :2000/07/30(日) 22:04
みなさん、720と722を見てください。 720その他の文章を 722南無が書き間違い訂正をしています。
823 :
名無しさん :2000/07/30(日) 22:15
↑これは、私の早とちりでした。
824 :
名無しさん :2000/07/31(月) 11:03
南無とその他の名前間違いをもう一つ見つけました。 また、他のスレッドで、ハエタタキが南無さんしか 使わない語句を見つけました。ますます確信しています。 ハエタタキは3日間留守だそうです。7.31日から 3日間。南無さんはどうでしょうか?偽南無さんが出てくるかな?
825 :
南無 :2000/07/31(月) 14:36
>824です。 私は7.31日から3日間、留守にする予定はありません。 >南無さんしか使わない語句 南無語でもあります?
826 :
名無しさん :2000/07/31(月) 14:43
>825 あ!やっぱり、にせ南無出現だ。 何かコメント書いてごらんよ。
827 :
名無しさん :2000/07/31(月) 15:30
>825 みなさん825ってすごく不自然な文章ですねえ。 にせ南無さん、どこが不自然かわかりますか?
828 :
その他 :2000/07/31(月) 17:10
名無しさんたち。どうして南無とハエタタキとその他が同一人物がどうかというつまらないことばかりに関心があるのですが。それより私の質問に答えてほしいものです。 それとも答えられないから、そんなつまらないことでいちゃもんをつけようというのですか。 >南無さんしか使わない語句を見つけました。 こんなに詳しく調べるというのはよっぽど暇なんでしょうね。 >820 門徒の方々にこのような見解にもとずいた法話なり 教化なりが為されているのでしょうか?? あなた達のような人がいるので、誤解されないように言い方には気をつけて話をします。
829 :
その他 :2000/07/31(月) 17:11
いろんなスレッドを読んでつくづく思うのですが、真宗は本当にまともだなと思います。 もちろん教団には問題が山積みしていますし、坊主だって「坊主丸もうけ」そのままの人物もいます。 しかし真宗の教えは名無しさんたちの非難にもびくともしない。私のような勉強不足の者でも容易に反論できます。 まさに真実の宗教だということがわかり、名無しさんたちの非難には感謝します。 ただ南無とハエタタキとその他が同一人物
830 :
その他 :2000/07/31(月) 17:12
最後が切れたのでつづき ただ南無とハエタタキとその他が同一人物がどうかとか、そんなくだらないことに無駄な時間を使わないでほしいものです。
831 :
名無しさん@1周年 :2000/07/31(月) 17:13
坊主、丸儲け!
832 :
寺院関係 :2000/07/31(月) 18:39
>その他さん >坊主だって「坊主丸もうけ」そのままの人物もいます。 上記の発言は、誤解を招くような印象を受けますよ。 坊主は、やっぱり皆、丸儲けなんだと。 ハンドルネームの追求は、時間の無駄かも知れませんが 名無しさん達も、これまで固執する程、無明の中に いるのかも知れませんね。『勤苦六年』と比較すれば 虚しい行為に違い在りません。けれども、それだけ 言葉を読んでいることに、無駄な時間では無いと 私は感じます。人生、無駄な時間も在ると私は肯定します。 但し、掲示板の特色として、扇情的な言葉を投稿することは、 無駄なことだと私は思います。 ところで話題は変わりますが、スレッドに寺院は 城塞の如しとの印象を持たれている人も多いはずです。 率直な疑問ですが、もしも悩む青年が、門前に来て 城塞とは違いますが、お寺に足を運ぶのでしょうか。 仏青は、少なくなっていませんか?南無さん、他 ご住職。。 時代時代で要求される間題が異なりますので当然 答えも違いますが、永遠の課題のような気かしています。 難解な言葉よりも、本来は、道場へ来て、ゆっくり対話する そんな場面が少ない現状かと端から見ていて感じます。 脈絡のない文で、失礼しました。
833 :
名無しさん :2000/07/31(月) 19:06
>830さん、 ハエタタキさんがあちこちで書き散らしているのが原因ですね。 まず、その他=もぐらたたき、はご本人が書いています。640 また、もぐらたたき=ハエタタキは、両者が同じ文章を書いている ことで判明してしまっています。ですから、 ハエタタキ=もぐらたたき=その他 は現在旅行中です。 したがって、828,829,830は「にせその他」です。 また、これらは「にせ南無」でもあります。文面からして真宗坊主です。 820は私ではありません。 真宗の現役の坊主が、あちこちで身分を偽って書き込みしている のが問題だし、袈裟をつけていない時の本音をぼろぼろと 垂れ流しているのです。 ずいぶんな本音ですねえ。興味深い話です。袈裟をつけている時の 嘘っぱちがよくわかります。日本中に舞台裏が見えたわけですね。 しかも身元も割れているし。
834 :
名無しさん@1周年 :2000/07/31(月) 19:42
真宗の高徳なる僧侶の皆様、820さんの質問に対する お答えがなされていないようですよ。 820 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/30(日) 21:39 >その他 さん 「やがて死んだらお浄土へ阿弥陀さんがつれていくんだと思っているとすれば、これは仏教ではありません」 「阿弥陀さまがどこかにいらっしゃると信じておられる方がありますか。またどこかに、お浄土という世界があるとお考えになっていらっしゃいますか。本当に信じていらっしゃるとすれば不思議な方々です」 なるほど、いろいろ勉強のなります。 さて質問ですが、こういった見解は浄土真宗の僧侶共通のものでしょうか? なおかつ、門徒の方々にこのような見解にもとずいた法話なり 教化なりが為されているのでしょうか??
835 :
名無しさん@1周年 :2000/07/31(月) 20:52
>828 >あなた達のような人がいるので、誤解されないように言い方には気をつけて話をします。 ということは、 >「やがて死んだらお浄土へ阿弥陀さんがつれていくんだと思っているとすれば、これは仏教ではありません」 「阿弥陀さまがどこかにいらっしゃると信じておられる方がありますか。またどこかに、お浄土という世界があるとお考えになっていらっしゃいますか。本当に信じていらっしゃるとすれば不思議な方々です」 という発言は、その場しのぎに本から引用したものに すぎないのでしょうか?そう解釈しても構いませんか? >しかし真宗の教えは名無しさんたちの非難にもびくともしない。私のような勉強不足の者でも容易に反論できます。 まさに真実の宗教だということがわかり、名無しさんたちの非難には感謝します。 あの〜〜(~o~)(~o~)(~o~) あなたたちの発言って、いわゆる「言い逃げ」「話のすり替え」 ばかりなんですけどお〜〜〜!!!(爆)
836 :
名無しさん :2000/07/31(月) 21:47
南無さん、コメントお願いします。短文じゃだめですよ。
837 :
渡海 難 :2000/07/31(月) 23:20
あーぁっ、じれったい。 自分たちはハンドルネームの使えずに、南無はだれ、ハエたたきは誰だなんて言っているアホーは相手にするなー。 坊さん達あのね。<こう一括して言っちゃいけないのかも知れないけれど、頼りないねー、坊さんって。> 坊さんの話は、ものすごく通じにくいのよ。分かりますか。 あのねー。原因はいろいろあると思うけど、話を否定形で言うだけじゃ相手は分からないの。 「やがて死んだらお浄土へ阿弥陀さんがつれていくんだと思っているとすれば、これは仏教ではありません」 これは仏教ではありませんなら、仏教でなくはない仏教を明らかにしなさいよ。何々じゃないなんてことは、餓鬼でも言えるのよ。何々じゃないというのら、何なのさ。その何なのさをはっきり言いなさいよ。 「本当に信じていらっしゃるとすれば不思議な方々です」 馬鹿言っているんじゃないの。じゃ、不思議じゃ無い人は何をどう信じているのよ。これを言いなさいよ。はっきりと。 不思議な人は世の中にわんさかいますよ。わんさかいる人を相手にあなたは不思議な人ですと言う人ほど世の中に不思議な人はいないわな。自分の不思議さを棚に上げて他人を不思議なんて言うもんじゃないでしょう。 話がじれったいのよ。話で相手にしびれ切らしちゃだめよ。自分の確信を肯定系で言いなさい。 言えなかったら、金輪際、坊主顔すんなー。 「どうもあなた達は真宗を誤解されているようで、これを機会に真宗を学んでもらえたらと思います。 冗談じゃーない。仏教を知らない人に向かって話を否定形で煙に巻くんじゃなく、クリヤーに肯定系で言えるように、いまこの場で勉強しなさいよ。
838 :
名無しさん :2000/07/31(月) 23:32
>837 渡海さん この文の中に何一つ肯定形のものなんてないじゃないの? なにか肯定系でしゃべって御覧なさいよ。
839 :
chalk :2000/07/31(月) 23:35
>837 わはは! 貴方の言う通りだと思うな、坊さん達みんな貴方のようになったら妙な宗教にはまる人少しは減るだろう。
840 :
判定 :2000/07/31(月) 23:43
>838 すり替えテクニック禁止です。(837はあなたの相手ではありません)
841 :
南無 :2000/08/01(火) 03:38
>「やがて死んだらお浄土へ阿弥陀さんがつれていくんだと思っているとすれば、これは仏教ではありません」 「阿弥陀さまがどこかにいらっしゃると信じておられる方がありますか。またどこかに、お浄土という世界が あるとお考えになっていらっしゃいますか。本当に信じていらっしゃるとすれば不思議な方々です」 このレスは元々812でその他さんが二葉憲香(龍谷大学元学長)著「親鸞 仏教無我伝承の実現」永田文昌堂 という本から抜粋されたものですね。私はこの本は持っていませんし読んでいませんので上記の言葉のみについて 私見を述べます。 1.人間の死を浄土に帰ったのだと受け取るという浄土観 2.人間が、もっとはっきり言い切るなら私が、今求めるべき世界としての浄土観 この二つが私にとっての「浄土」です。 また阿弥陀仏とは浄土を示し、浄土に生きるということを私に頷かせてくれる「働き」です。 したがって「やがて死んだらお浄土へ阿弥陀さんがつれていく」という表現は個人的には 好きではありませんが、可能な表現だろうと思います。私流に表すならば 「死んでからは浄土に行けるのだから、今を安心して生きろ。そして生きてあることの中で 浄土を求めつづけろ」と言うでしょう。 次に >お浄土という世界があるとお考えになっていらっしゃいますか。本当に信じて いらっしゃるとすれば不思議な方々です という部分についてですが、以前に書いたレスの表現を使いますが 浄土とは私にとって「命の尊厳性において平等に開かれ、共生する世界」という意味 です。三次元的に別の空間に存在するものという認識はありません。どこまでも自分 自身の中に求めてゆくものです。 そして834で言われる >さて質問ですが、こういった見解は浄土真宗の僧侶共通のものでしょうか? なおかつ、門徒の方々にこのような見解にもとずいた法話なり 教化なりが為されているのでしょうか? についてですが、はっきり言ってわかりません。 私の実感としては「浄土真宗の僧侶共通のもの」にはなっていない感じがします。 「法話なり教化」とは基本的に寺檀制度のもと、住職が自坊のご門徒に対し行われる ため、その寺の住職の受け取りがそのまま法話なり教化に表れるものと考えます。
842 :
名無しさん@1周年 :2000/08/01(火) 05:44
>780 >大乗のお経は、お釈迦さんの言葉ではない、という非難はずっと昔から >あるようです。 お釈迦様は、久遠の昔に悟りを成就されて以来今日まで、さまざまな「方便」を使って 衆生の救済につとめておられます。いわゆる「歴史上の釈迦の誕生から涅槃まで」もそ のような方便の一つです。文献学的に見て、あるお経の成立がいわゆる「歴史上の釈迦」 の没後か否かという問題は、信仰者にとって仏説としての確信になんら影響はありません。 >780 >しかし、お経であるかないかという定義はかなり難しいです。 きわめて明瞭な仏説の定義 仏説の定義 「四無礙を備えている勝者の教説」 四無礙とは何か (1)「意義があること」 (2)「法を備えていること」 (3)「煩悩を尽すもの」 (4)「涅槃の利楽を説示するもの」 仏教の信者にとっての仏説の基準は、いわゆる「歴史上の釈尊の存命時期に成立していたか 否か」とは別のところにあります。
843 :
名無しさん :2000/08/01(火) 10:27
>841@`842 名無しさん@1周年 さん こんな話し、仏陀釈尊が聞いたらどう思うだろう。 「俺は一生かけて、そんな話したんじゃないよ。」て言うだろうね。 真宗はこんなごまかしばかりにエネルギーを使ってんだね。 仏陀釈尊が語りもしていないことを、どう言い換えたって詐欺は詐欺だよ。
844 :
南無 :2000/08/01(火) 10:52
>843です。 「真宗は仏教にあらず」という言い方は、真宗肯定派からも真宗否定派 からも可能な表現でしょう。貴方のいう仏教という枠組みの中にあるのか ないのかは、さほど重要な事柄だとは思えません。 「詐欺」だと思えば近づかないのが一番です。ただ貴方の中で何か 引っ掛かりを持っているからこそ、スレッド読んだりレス書いたりなさるのでしょう。 だったら先ずは坊主と関わりを持たず、色々な書籍で勉強なさっては?
845 :
名無しさん@1周年 :2000/08/01(火) 10:59
私は10年くらい前に辞めた元組み手です。 辞めた時、引き留めとかイヤガラセみたいなのは一切無かったです、アッサリしたものでした、 その点は感謝してます。(まぁ、大して活動もしてなかったのですが。) 私はいろいろと教義や教団の歴史、背景等について興味や疑問が多かったため幹部や導士の方に いろいろと突っ込んだり、真光誌のバックナンバーを漁って読んだりしてましたが、 そういう事してると疎んじられる空気みたいなのがありました。(それも辞めた理由のひとつ。) そういう暇があったら、手かざしやお導きをしろっていう感じでしたかね。 もちろん、手かざしも結構やった方だと思います。 でも、人相手より物や食品に対してが多かったかなぁ(笑)。 手かざしやったり受けたりしてると、実際温度変化のようなものを感じる人は 結構多い?と思いますが、私も熱のようなものは感じる体質?でした。 よく突き抜ける想念で手をかざせって教えられてましたが、実際そのとおりで、 自分の体になんか手かざしする時でも、突きぬけるイメージを持つ持たないでは、 体の中まで暖まるか皮膚だけ熱っぽくなるかの違いは確かにありました。 もちろん、かざす手のひらの丁度たなごころの当たりも熱を持ちます。 意識して光を出そうと思った瞬間から熱を感じます。 でも実際、温度計で測ったわけではないので、熱を持つような感じはあっても 温度上昇は無いのかも知れません。でも、そんなに不思議な感じでもないです。 で、なんで辞めた奴が手かざしの宣伝なんかしてんだコノヤローと言われそうなので、 書いちゃいますと、実は辞めて10年経った今でも手かざしやってます。(^^; あくまで個人利用の範囲内で、ちょっとお腹痛くなった時とか歯が痛いとかに 自分にやってます。他人には一切やってませんけど。 で、以前同様、実際効きますので、ホント助かってます。(笑) もちろん、辞めた時に御み霊は返上してますし、それ以来祈り言とか「極微〜とか」 唱えた事は一度もありませんし、お額には恐くてやってません。(祈り言集も返してしまったし。) しかし、御み霊無いのになんででしょうね? (^^; 辞めて一ヶ月くらいは手かざしは全くしなかったのですが、やはりクセで 自分にかざしたりすると、熱も感じるし効果もある事がわかったので、 初めは多少罪悪感を持ってましたが、これまでずっと体が痛い時等に手かざしはやってきました。 もちろん教団入る前から私にそんな能力があったわけではありませんし、 熱を感じるようになったのも、御み霊もらって気がついたらでしたので(入って約1年後)、 どうやら知らない間に「気」を放つ能力を真光でトレーニングしていたのかと自分で納得しています。 私は別に真光の批判、宣伝どちらもするつもりはありません。 自分の実体験を書いてみようとフト思ったただけですので、 実際辞めた方や手かざし・「気」等に詳しい人へ、もし参考になればと思っています。 ただお浄め御礼10年分納めろというのは勘弁してください。(貧乏ですので。) (参考にはならないか・・・、でも本当に、少々の事では病院いかなくて済んでます。(^^; )
846 :
名無しさん :2000/08/01(火) 11:03
>844 さん、自分でスレッドを立てておいて公開して、かかわりを持つな ということはないでしょう。 そして、散々、仏陀釈尊の大事な教えを破壊するような発言を 繰り返している。反論があって当然でしょう。 仏陀釈尊の教えが仏教です。仏陀はあみださんのことは語っていません。 「阿弥陀教は仏教」ではありません。これは、ここを読んでいる 人に伝える必要があるのです。
847 :
845 :2000/08/01(火) 11:06
>845 すみません、スレッド間違えました。 大変、申し訳ないです。。。
848 :
名無しさん :2000/08/01(火) 11:07
845はスレッド間違い?? 阿弥陀教はあみだのおしえと言う意味です。
849 :
名無しさん :2000/08/01(火) 11:13
阿弥陀仏も浄土も架空の存在です。 仏陀釈尊はそのようなことは一切語っていません。 子供から大人になる時に、サンタクロースやミッキーマウスの 「しくみ」に目覚めるように、阿弥陀仏の「しくみ」から 目覚めてください。 僧侶はそれを知りながら家元制度を守るために嘘をつき続けて いるのです。手が込んだ嘘です。
850 :
南無 :2000/08/01(火) 12:16
また前の所に逆戻りという感じ。
851 :
南無 :2000/08/01(火) 12:20
>846です。 >自分でスレッドを立てておいて公開して、かかわりを持つな ということはないでしょう 関わりを持たないでといったのは、貴方の生活の場面でという意味ですよ。 スレッド上のことなら始めから無視します。
852 :
名無しさん@1周年 :2000/08/01(火) 12:20
能書きたれても、坊主、丸儲け!
853 :
名無しさん :2000/08/01(火) 12:52
>850 >また前の所に逆戻りという感じ。 と言うことはあなたのコメントは無価値だと言うこと。 カルト顔負けの言辞を弄さず、単純に、仏陀は何を語っ たのか。阿弥陀の教えは説いたのかと言う原点に戻るべき。 あなたの無意味な長文を、ゴータマブッダに聞かせられ ますか?これがゴータマの教えですよって。
854 :
寺院関係 :2000/08/01(火) 14:16
>849さん 玄奘三蔵&慈恩太師の大昔に、弥勒信仰の 思想状況下を持たれているのでしょうかね。 何を基準にされて、お釈迦様は言葉を語っていないと 断言できるのか、私には、さっぱり分かりません。 善導大師の著作を読まれて反論なのかも知れませんが、 それならば宗教学や文献学の学徒として追求されれば 良いでしょう。ここで手が込んだ嘘と言われても 浄土宗・真宗は、びくともしませんよ。 信仰は自由です。貴方が嘘と明言する架空の存在に、 貴方の生活や信仰に何ら悪影響を受けているのですか? 無関係ならば固執する必要は無いでしょう。それこそ 生きてゆく今の貴方にとっては、時間の無駄でしょう。 さて現役のご住職へ、お尋ねしたかったことは、 初参式以降、若年層が実際、昔と比べて お寺に来ている現状は、如何ですか? とある別院の報恩講も年々 お参り来る人が減少している事実があります。 コミュニケーションとして、お寺では催し物を 行っていらっしゃいますが・例 カラオケ大会等ですね。 しかし、どうも若者を対象とした寺との付き合いが 少なくなっていませんか?方法論の一つとして サイトでは限界があります。言葉の乱舞になりかねません。 お寺に若者が来る機会って、やっぱり難しいことでしょうか?
855 :
名無しさん :2000/08/01(火) 14:30
>854さん >玄奘三蔵&慈恩太師の大昔に、弥勒信仰の >思想状況下を持たれているのでしょうかね。 >何を基準にされて、お釈迦様は言葉を語っていないと >断言できるのか、私には、さっぱり分かりません。 これって何ですか?いったんなんの文章? 一体何を書いているの説明してみなさいよ。 どなたかこの文章の意味がわかりますか?? いつもこういう事をやっているわけね。 ここまで悪どいとは、思って、、いたけどね。
856 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 14:45
841さんへ 1.人間の死を浄土に帰ったのだと受け取るという浄土観 2.人間が、もっとはっきり言い切るなら私が、今求めるべき世界としての浄土観 この二つが私にとっての「浄土」です。 1.貴方にとっての浄土という言葉の説明は、浄土という言葉を使わないで説明してくださいな。「人間の死を浄土に帰ったのだと受け取るという浄土観」と聞いても意味がさっぱり分かりません。 浄土観とはなんですか。浄土と浄土観とは、概念は同じですか違いますか 。 2.浄土を示し、浄土に生きるということを私に頷かせてくれる「働き」とは、どのようにして存在しているものなんですか。それはどのように働いているんですか。 3.「今を安心して生きろ。そして生きてあることの中で浄土を求めつづけろ」とは、誰がどこで言っているんですか。私は聞いた覚えはありません。誰か聞いた人がいるんですか。 阿弥陀様が夢枕にでも立ちましたかな。 4.命の尊厳性において平等に開かれ、共生する世界という意味です。 平易な表現で言ってくださいな。まず、主語を明らかにしてください。 命・尊厳・平等・開かれる・共生・世界。どれもこれも、一見平易、考えだすとちんぷんかんぷん、宇宙人の寝言。余りに難解です。
857 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 14:47
842さん >お釈迦様は、久遠の昔に悟りを成就されて以来今日まで、さまざまな「方便」を使って衆生の救済につとめておられます。いわゆる「歴史上の釈迦の誕生から涅槃まで」もそのような方便の一つです。文献学的に見て、あるお経の成立がいわゆる「歴史上の釈迦」の没後か否かという問題は、信仰者にとって仏説としての確信になんら影響はありません。 仰っている意味がちんぷんかんぷんです。 「久遠の昔に悟りを成就されて」さっぱり分かりません。<1億年昔は人類も誕生していなかった。> 「方便」という言葉の意味もわかりません。 お釈迦様が衆生の救済につとめたのは方便なら、政治家が政治活動を行うのも方便なんでしょうか。新聞学的に見ると、森総理は沖縄でサミットの議長を努めたそうです。記事は、サミット前に書かれたサミット後に書かれたかは、国民にとって、購読者にとって問題ではないでしょう。 森総理は沖縄でサミットの議長を努めたのは、方便だったのでしょうか。それとも真実だったのでしょうか。 >…という問題は、信仰者にとって仏説としての確信になんら影響はありません。 信仰者にとって仏説としての確信に影響を与える問題を肯定形の文章で表現してくださいな。 >「意義があること」「法を備えていること」「煩悩を尽すもの」「涅槃の利楽を説示するもの」 ??? 全くもってちんぷんかんぷん ??? 意義?? 法を備える?? 煩悩を尽す?? 涅槃?? 利楽を説示?? だれか意味の分かる人いますか〜? 名乗り出てくださーい。 ねーぇ、もっと血の通った分かりやすい言い方はないの? こんなことは、大谷大学が龍谷大学の坊主の卵に言ってやってくださいな。 >別のところにあります。 別の所ってどこ? 隠さないでくださいな。
858 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 14:48
844さんへ >坊主と関わりを持たず、色々な書籍で勉強なさっては? 坊さんは何のために存在するの。単なる葬式下請け業なら、社会の粗大ゴミだ。
859 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 14:48
846さんへ 「自分でスレッドを立てておいて公開して、かかわりを持つなということはないでしょう。」 同感です。 >仏陀はあみださんのことは語っていません。 これはどうしてそんなことが言えるの
860 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 14:49
849さんへ >阿弥陀仏も浄土も架空の存在です。 そうですね。 >仏陀釈尊はそのようなことは一切語っていません。 阿弥陀仏の話には創作した人がいたわけだ(誰か知らんが。もしかすると龍樹当たりは一枚噛んでいるかもしれんな)。 創作した高僧達は、仏陀釈尊の正当な後継者達だったと思いますよ。 阿弥陀仏を創作するには、歴史上の高僧達にはそれだけのその必要性があったのでしょう。阿弥陀仏を創作することで始めて容易に伝わりうるようになった釈迦の思想の実質的な部分があったのではないでしょうか。 阿弥陀仏は両親がいます。出自は国王です。この辺は釈迦の伝説をそのまま継承しています。ところが結婚して子供がいたとか、出家して家族を捨てたとか、従兄弟に提婆という極悪人がいたとかいう話は、阿弥陀仏には付属していません(多分。 学者じゃなんで、広く経典を読んでないんです (^^ゞポリポリ。 多分付属させてないでしょう)。 阿弥陀話では、釈迦の伝記の組み替え、焼き直しを行っています。生(なま)の釈迦そのものでは、話が生々しすぎて都合の悪い面もあるんでしょう。(話にくい面があったんでしょう)。それを通じやすくするという意味を、私は阿弥陀話に感じます。 架空だから嘘であるということではないでしょう。絶対に。桃太郎伝説、浦島伝説はすべて架空ですが、架空の話は必ず裏があります。阿弥陀仏伝説の真意を探っていきたいですね。桃太郎伝説、浦島伝説は童話ですが、阿弥陀仏伝説は童話ではありません。童話ではなくても、類似の文学的手法、表現手法は使っているでしょう。
861 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 14:50
851さんへ >スレッド上のことなら始めから無視します。 無視します?
862 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 14:50
852さんへ >能書きたれても、坊主、丸儲け! あまり話を飛ばすなや。そっちに話題が流れるかもしれんが、今はそんなことが問題になってないでしょう。 坊主、丸儲けに腹が立つなら、別のスレッドを作れやな。ただ、みんなが書き込まないとすぐに沈没するぞ。
863 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 14:51
853さんへ >あなたの無意味な長文を、ゴータマブッダに聞かせられますか?これがゴータマの教えですよって。 ゴータマブッダの名を出すのは早すぎるだろ。あんただってゴータマブッダの考えが何かは分かってないんだから。
864 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 15:09
854さん >浄土宗・真宗は、びくともしませんよ。 浄土宗・真宗は、びくともしなくても、貴方はびくともしているんじゃないの? 「玄奘三蔵&慈恩太師の大昔に、弥勒信仰の思想状況下を持たれているのでしょうかね。」なんてどういう意味ですか。こんな話はどこから飛んでくるわけ? 849さんは玄奘三蔵&慈恩太師の大昔の話をしていたの?849さんは素人さんですよ。854さんはかりそめにもプロでしょう。「寺院関係 」と名乗っているところから類推して。 素人さんを相手にするときは、何を言ってきても、専門家は相手が分かるレベルで話しなさいよ。相手をビックリさせ、お前は何にも知らんのだろうと恫喝している印象がありますよ。854さん、貴方が素人にびくついてどうするの? >私には、さっぱり分かりません。 さっぱり分かりませんなら、貴方は何が分かっているんですか。分かっていることを素人に話して上げなさいよ。 >お寺に若者が来る機会って、やっぱり難しいことでしょうか? 若者に来て欲しいと思うなら。もう少し若者の言葉に傾けられる耳が貴方に必要でしょうね。
865 :
名無しさん :2000/08/01(火) 15:14
>863 ゴータマブッダの教えは、自分の業は自分で背負えです。 阿弥陀の教えは、お前の業を阿弥陀が背負ってやるぞです。 180度違うでしょう。罪障消滅の大安売り。本当ならいい けどね。 身の回りのものすべて阿弥陀仏なんてのは、浄土三部経にも ありませんよ。
866 :
名無しさん :2000/08/01(火) 15:36
今の念仏寺でカラオケなんかしたくないですよ。 仲間と楽しく遊ぶから楽しいんですよ。 本当の教えだと老若男女が集まるの。集まっている 人達を見ればその教えの程度がわかる。
867 :
名無しさん :2000/08/01(火) 16:49
>864 >相手をビックリさせ、お前は何にも知らんのだろうと恫喝 >している印象がありますよ。 恫喝のテクニックですね。それはわかりましたが、もう少し 文脈をつないでほしいですね。これを口頭でやると、皆さん 口アングリで、意見封じには良いのでしょうね。 ただ、だれも尊敬しませんけどね。陰であの坊主の言うことは わけがわからん、相手にするなと言われていますよ。
868 :
その他 :2000/08/01(火) 20:30
>820さん >852 能書きたれても、坊主、丸儲け! を読みましたか。言葉に気をつけなければならないのは本当でしょう。 >832 と >寺院関係さん ごもっともな話です。いつかテレビにでていた僧が、寺の敷居をいかに削って低くするかが一番の問題なんだ、と言っていましたが本当にもっともだと思います。どうしたらいいかわかりません。住職の魅力だと思うのですが、私のような人間には無理です。どうしたらいいかアイデアがあれば教えていただきたいです。 >833 ハエタタキ=もぐらたたき=その他 は現在旅行中です。 なんべん違うと言えばわかるのか。その他は旅行中ではない。 >したがって、828,829,830は「にせその他」です。 こういう無意味な詮索はやめてくれ。あなた達はそんなに暇で寂しい人間なのですか。
869 :
その他 :2000/08/01(火) 20:30
>833 真宗の現役の坊主が、あちこちで身分を偽って書き込みしているのが問題だし ではあなたの身分はなんですか。2チャンネルに限らず、こうした掲示板は匿名だからこそ本音で語れるわけでしょう。あなたもその恩恵にあずかっているじゃないですか。それなのに人の非難ばかり。真宗の教えについての批判なら答えますが、単なる自分の欲求不満の解消なら、もっと違うことをしたらどうですか。 十悪の一つに悪口がありますが、名無しさんたちは荒々しい言い方ですね。 >袈裟をつけていない時の本音をぼろぼろと垂れ流しているのです。 おそらく真宗の坊主と接触がなく、思い込みで言っているだけでしょう。真宗の坊主と門徒さんとのつながりはそんな浅はかなものではありません。 >834のこたえは >828にしています。しかるに >その場しのぎに本から引用したものにすぎないのでしょうか? >そう解釈しても構いませんか? げんにあなたたちは私の言うことを少しも理解しようとしていない。私はあなた達がもっと相手の言うことをきちんと聞く人だと思っていたが、そうではないようだ。 >835 あなたたちの発言って、いわゆる「言い逃げ」「話のすり替え」 ばかりなんですけどお〜〜〜!!!(爆) どこがそうなのか教えてほしい。それより私の質問に少しも答えないあなた達の方が 「言い逃げ」「話のすり替え」ばかりとは思わないのか。
870 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 20:32
>865さん 自分の業は自分で背負えは、阿弥陀にもあるでしょう。お前の業を阿弥陀が背負うは、ゴータマブッダの教えにもあるでしょう。 阿弥陀のモデルは釈迦ですからね。釈迦にないと言えば、阿弥陀にない。釈迦にあるといえば阿弥陀にもある。同体の大悲。一仏の所化は一切仏の所化。一切仏の所化は一仏の所化(こんな事書くと、難しいと怒られるかな。諸仏の教えは本質的に共通という意味じゃ)。 > 身の回りのものすべて阿弥陀仏なんてのは、浄土三部経にもありませんよ。 これはその通り。 主張者の真意は知らないけれど、文字としては確かに無いわいな。真意は主張者にしか分からない。他人にはさっぱり分からない。
871 :
その他 :2000/08/01(火) 20:32
>841の南無さん 確かに二葉憲香の引用は誤解されても仕方のないことでした。837の渡海さんにも言いたいことですが、名無しさんたちが「親鸞 仏教無我伝承の実現」を読んでもらえたらという気持ちから引用しました。甘い考えのようですね。 その本は「阿含経」に 「色等は無常なり、無常なるものは苦なり、苦なるものは我なり」 とあり、「無常,苦、非我」が仏教の基本的立場であり、それを親鸞の教えと結びつけているわけです。一読をお勧めします。 >846 仏陀釈尊の教えが仏教です。仏陀はあみださんのことは語っていません。 ではあなたの考えている仏陀釈尊の教えとはなんですか。坊主のくせしてそんなこともわからないのか、などと言わないで下さいね。 >865 ゴータマブッダの教えは、自分の業は自分で背負えです。 あなたの言う業とはどういう意味ですか。というのも業を変な意味に使う人が多いもんですから。
872 :
名無しさん@1周年 :2000/08/01(火) 20:59
>その他さん、869 >834のこたえは >828にしています。しかるに >その場しのぎに本から引用したものにすぎないのでしょうか? >そう解釈しても構いませんか? >げんにあなたたちは私の言うことを少しも理解しようとしていない。 私はあなた達がもっと相手の言うことをきちんと聞く人だと思っていたが、 そうではないようだ。 >828 >820 門徒の方々にこのような見解にもとずいた法話なり 教化なりが為されているのでしょうか?? >あなた達のような人がいるので、誤解されないように言い方には気をつけて 話をします。 これをもって我々の世間一般の常識では 「話のすり替え」「言い逃げ」と 言うんですよ、貴方達の社会ではこれが 「一般常識」なのかも知れませんがね。 >835 あなたたちの発言って、いわゆる「言い逃げ」「話のすり替え」 ばかりなんですけどお〜〜〜!!!(爆) 835さんの指摘、至極当然なもののように 見受けられますが? >どこがそうなのか教えてほしい。それより私の質問に少しも答えない あなた達の方が 「言い逃げ」「話のすり替え」ばかりとは思わないのか。 冒頭にこのスレッドをたてた方の発言、 >真宗大谷派(お東)に僧籍を持ってます。儀式全般の質問に 出来る限りお答え致します。どうですか? の趣旨にのっとって、真宗の御坊様方におかれましては、 我々在家のものたちに有意義なかたちでのお話をしていただきたいものです。
873 :
その他 :2000/08/01(火) 21:22
>872 どこが「言い逃げ」「話のすり替え」なのか教えて下さいと言っているんですが。 名無しさんこそ質問をしても答えない。「言い逃げ」「話のすり替え」ばかりのように思うのですが。 もっとも、答えられないような気がしますが。 ひょっとしたら、真宗の教えはどうもまともなようだ、学んでみてもいいかも、しかしそれではプライドが許さない、 ということで、親に反抗するように、つまらないこと文句ばかり言っているのかもしれませんね。 有意義な形でお話をしたいと思いますので、どこがどう分からないか、きちんと言って下さい。
874 :
名無しさん :2000/08/01(火) 21:27
>869 僧侶が一般人を装ったり、また他の宗教の信者、もと信者を よそおうことは恥ずかしいことだと思いますよ。 「心と宗教」板の「僧侶」ならね。
875 :
名無しさん :2000/08/01(火) 21:34
>868 それでは、もぐらたたき=その他 はどうですか。640に 書いていますよ。 > 640 名前: その他 投稿日: 2000/07/07(金) 20:02 阿含宗のではもぐらたたきという名前で、水子供養などにいちゃもん をつけていたのですが疲れました。親鸞が論争を誡めたのももっとも と思いました。 立正佼成会や世界真光文明教団の人は真面目なようです。疑問を持っ て悩んでいる様子。先祖供養をすれば死者が成仏して幸せになる、と か、手かざしで魂を清めることにより世界が平和になるなど、まとも な頭の持ち主ならおかしいと思うのは当然でしょう。だったら、ナマ ンダブと唱えれば死んで極楽に行くことができるも似たり寄ったりと 言われそうですね > その他がもぐらたたきという名で、元信者を騙りいちゃもんをつけて いた。それでは、あなたがもぐらたたきですか?? 世界真光文明教団で書き込みをしていたのはハエタタキですよ。 ハエタタキはもぐらたたきと全く同じ文章を書いている。 それでは、あなたは、ハエタタキですか?
876 :
名無しさん@1周年 :2000/08/01(火) 21:34
誤解されないように話すと言う事は理解されないように話すと言う事です。 無記名掲示板なのにそこまで気を使う。何か恐い事でもあるのですか? あっ!そうか。誰かが検閲してるんでしょ。それじゃ、しかたないですな。 宗教ってやっぱり不自由〜〜〜〜
877 :
名無しさん :2000/08/01(火) 21:38
>870渡海さん、 ご自分でもお分かりだと思うのですが、阿弥陀の名号を 唱えれば、極楽に往生するという考え方は、ゴウタマブッダ にはないですよ。
878 :
名無しさん :2000/08/01(火) 21:39
>871 逆質問で論点をずらすのはやめなさい。
879 :
名無しさん :2000/08/01(火) 21:45
その他=もぐらたたきさん >640です。 >まとも >な頭の持ち主ならおかしいと思うのは当然でしょう。だったら、ナマ >ンダブと唱えれば死んで極楽に行くことができるも似たり寄ったりと >言われそうですね 私も全くあなたの意見に賛成です。真宗の僧侶の言葉とは思えませんねえ。
880 :
その他 :2000/08/01(火) 21:51
>875 元信者を騙りいちゃもんをつけていた。 もと信者などといった覚えはない。真宗の坊主であることを黙っていたのが悪いのなら、 あなたもどういう人物か言ったらどうですか。 >876 誤解されないように話すと言う事は理解されないように話すと言う事です。 全然違う。日本語が理解できないし、わざと誤解ばかりする人間にどう言うように話したらいいのかと悩んでしまいます。 >無記名掲示板なのにそこまで気を使う。何か恐い事でもあるのですか? そちらこそ名無しのままでいるのは何か恐ろしいことがあるのですか。 >878 逆質問で論点をずらすのはやめなさい。 こちらが言いたいことです。釈尊の教えにしろ業という意味にしろ、名無しさんの考えていることと私の思っていることと違うようだから、確認しているわけで、論点をずらしているわけではない。 この質問に答えてもらえれば、名無しさんの質問にも答えることができることは理解できるでしょう。それでもやっぱり誤解しますか。 今まで何度も質問しても答がない。あなた達の言いたいことがよく分からないから質問しているわけだから。
881 :
名無しさん@1周年 :2000/08/01(火) 21:54
ようするにその他さんは >>820 門徒の方々にこのような見解にもとずいた法話なり 教化なりが為されているのでしょうか?? >あなた達のような人がいるので、誤解されないように言い方には気をつけて 話をします。 の発言が、「言い逃げ」「話のすり替え」だと、気がつかない、 意識されておられない、というわけですね!ただ単に イエス・ノ―で答えれば、それで済むものを・・・。 やはり貴方達は我々世間一般の常識の通じない世界に 住んでおられるようですね。 >ひょっとしたら、真宗の教えはどうもまともなようだ、学んでみてもいいかも、しかしそれではプライドが許さない、 ということで、親に反抗するように、つまらないこと文句ばかり言っているのかもしれませんね。 貴方は本当におめでたいおひとだ、一連の書きこみを読んで、 真宗の僧侶のみなさんのご意見に共感された若者が、 果たしてどれだけいるのでしょうかねえ???
882 :
その他 :2000/08/01(火) 21:56
>879 その後に渡海さんが書かれたように、本願を信じ念仏をもうさば仏になるという教えには深い意味があります。 表面的に受け取れば誤解される、ということです。 じゃあどういうことかを知りたければ、前に紹介した二葉憲香の本など読んで下さい。 真宗の教えを知る気もなく文句をつけるのは、あなたたちこそたたかれるべきハエでしょう。
883 :
その他 :2000/08/01(火) 22:02
>881 イエスかノーで答えると、イエス。釈尊ではないが対機説法で話します。 これくらい読みとれませんか。 人とのつき合いがないから人の言うことが理解できないのではないかと思ってしまいます。 >一連の書きこみを読んで、真宗の僧侶のみなさんの >ご意見に共感された若者が、果たしてどれだけいる >のでしょうかねえ??? それはあなたにも分からないでしょう。 それよりも私の質問にどうか答えて下さい。
884 :
名無しさん :2000/08/01(火) 22:04
>882その他さん >その他=もぐらたたきさん >640です。 >まとも >な頭の持ち主ならおかしいと思うのは当然でしょう。だったら、ナマ >ンダブと唱えれば死んで極楽に行くことができるも似たり寄ったりと >言われそうですね これはあなたの文章ですよ。
885 :
名無しさん :2000/08/01(火) 22:09
いまどき、「まともな頭の持ち主なら」 「ナマンダブと唱えれば死んで極楽に行くことができる」 なんて思えないのですが、その他=ハエタタキ=もぐらたたき=南無 さんいかがですか? 「 」内は「その他」の発言です。
886 :
名無しさん :2000/08/01(火) 22:10
↑二葉さんの本を読めなんていわないでね。
887 :
名無しさん@1周年 :2000/08/01(火) 22:11
>880 ここは2ちゃんだぞ! 名無しがいやだったらヤフーにでも逝けや。 状況判断が出来ない、お・ば・か・さ・ん♪
888 :
傍観者 :2000/08/01(火) 22:30
どうもみなさんの書きこみを拝見させていただいて、意思の疎通がうまく いっていないようなんですが、、、、、。 一例、、、 883 名前: その他 投稿日: 2000/08/01(火) 22:02 >881 イエスかノーで答えると、イエス。釈尊ではないが対機説法で話します。 これくらい読みとれませんか。 人とのつき合いがないから人の言うことが理解できないのではないかと思ってしまいます。 普段その他さんと顔をつき合わせている周囲のものであれば、あうんの 呼吸であなたのお考えを汲み取りもするでしょうが、 ここはネット上の掲示板です。誰にでもわかる明確な表現・言葉が この場において選択され、投稿が行われなければ,なにをどう語ろうが 全くの無効です。ましてやこのスレッドを読んでいる不特定多数の 人々は、あなたの檀家ではありません。 >881 >一連の書きこみを読んで、真宗の僧侶のみなさんの >ご意見に共感された若者が、果たしてどれだけいる >のでしょうかねえ??? 、、、現状では、かなり厳しいのではないでしょうか、プロの 僧侶のみなさまが、2ちゃんねるユ―ザ―に対して、届く言葉を、 どうやら持ち合わせていないように、 お見受けいたしますが、、、、、。
889 :
名無しさん :2000/08/01(火) 22:41
/へ / / ιへ \/// // ヽ ξ彡彡彡从 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ((¢σ σξ) < ナンマンダブ、極楽、極楽、 )))ξ" ー 人(( \__________/ ((/⌒ - - ⌒\ | 、 /⌒\⌒\\ | |( / \ ⊂) / / )/ \/\ \ / / ( |!\/\/\ ⊂__/ \___ノ___ノ\○\○\ \___)\___)
890 :
名無しさん :2000/08/01(火) 22:44
882、その他 >じゃあどういうことかを知りたければ、前に紹介した二葉憲香の 本など読んで下さい。 その思想の内容を仏教に対して多少なりとも興味や関心をもっている ものに合点がいくように説明するのが、専門家のお仕事なんではないのかな? 違いますか?
891 :
名無しさん :2000/08/01(火) 22:50
>890 そうだよね、そう思うよ。普段からその本でごまかしているのが 見え見え。
892 :
>880 :2000/08/01(火) 22:53
誰でも本人にたどり着けるのは、渡海教祖だけだな。アホな奴! 誤解されないように話す。渡海教祖の言う否定的ってやつか。 理解してほしい事を貴方の心で、貴方の言葉で話してください。 10人に誤解されても、1人ぐらいは解ってくれるぞ。 それで満足しましょう。 注意力散漫? >無記名掲示板なのにそこまで気を使う。何か恐い事でもあるのですか? そちらこそ名無しのままでいるのは何か恐ろしいことがあるのですか。 >878 逆質問で論点をずらすのはやめなさい。 こちらが言いたいことです。
893 :
名無しさん :2000/08/01(火) 22:58
しかし、真宗坊主よりは、渡海氏の方が ずっとましだな。新興宗教がはやるわけだ。
894 :
名無しさん@1周年 :2000/08/01(火) 22:59
/へ / / ιへ \/// // ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ ξ彡彡彡从 /ああやめて、エロ坊主、 ((¢σ σξ) < コ―マンナメないでええ! )))ξ" ー 人(( \__________/ ((/⌒ - - ⌒\ | 、 /⌒\⌒\\ | |( / \ ⊂) / / )/ \/\ \ / / ( |!\/\/\ ⊂__/ \___ノ___ノ\○\○\ \___)\___)
895 :
名無しさん@1周年 :2000/08/01(火) 23:01
↑ズレてんがな。
896 :
名無しさん :2000/08/01(火) 23:02
プロレスで言うと、対決をする気がないんだね。 「場外乱闘」にもっていく。挙句の果てに「場外乱闘はやめなさい」 と来る。 「>878 逆質問で論点をずらすのはやめなさい。 こちらが言いたいことです。」 これがそうだよ。 「場外乱闘はやめなさい。」「おまえが場外だろう」 阿弥陀さんや極楽なんて絵空事なんだから「場外」しか ないわな。
897 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 23:04
877さん >唱えれば、極楽に往生するという考え方は、ゴウタマブッダにはないですよ。 あれっ?。そうですか。 あのね。念仏というのは仏を念じるということなのよ。お釈迦様は、祇園精舎にお弟子さんが入学してくると、自分を先生と呼ぶように教えたと思うんです。小学校でも、一年生が入ってくると、担任の先生は「は〜ぃ。私がこの教室の先生で〜す。みなさんは私を先生と呼んでください」と言うでしょう。同じことが祇園精舎でもあったはずなのよ。堅苦しい学校の規則(戒律)を渡す前に、先生は自己紹介し、自分(お釈迦様)を先生と呼ぶように教えたでしょう。 物理的に祇園精舎の門をくぐればお釈迦様の弟子になると言うことではなかったでしょう。お釈迦様を先生と呼んで、人々は始めてお釈迦様のお弟子さんになった。お弟子さん達は、お釈迦様を「先生」と呼ぶことで仏弟子になった。仏道修行者の仲間に入った。 仏を念じると極楽に往生する。極楽とは仏の世界です。仏と価値観を共通する世界です。画家の集まりを画壇といいます。作家の集まりを文壇といいます。書家の集まりを書壇といいます。念仏すると極楽に往生するとは、念仏すると仏道修行者の仲間に入るということでしょう。 先生を先生と呼ぶことは祇園精舎の仲間に加わること。これがゴウタマブッダの教えにありませんか?
898 :
渡海 難 :2000/08/01(火) 23:11
897 「仏を念じるということ」→「仏の名を念じ称えるということ」
899 :
触媒 :2000/08/02(水) 01:06
今日はサーバーが不調みたいだ。もう寝よ。 渡海さんまたね〜〜〜
900 :
南無 :2000/08/02(水) 02:05
>888です。 >僧侶のみなさまが、2ちゃんねるユ―ザ―に対して、届く言葉を、 >どうやら持ち合わせていないように、 >お見受けいたしますが、、、、、。 確かに私の言葉は何も響くものがないのかもしれません。資質不足・勉強不足・また 感性の鈍化など色々な問題もあるでしょう。しかし、名無しさん達の主張は「浄土 教は仏説ではないから仏教ではない」という所から前に進んでいない。色々な人達が それこそ書籍の引用をしたり、自分の言葉で語ってきた。伝わらない事の語る側の 責任は確かに重い。けれど聞き手・読み手側に責任無しとは言えない。その他さんなどの レスに対して直接返信なされていない。逆質問はするなと閉ざしてしまってる。 互いに質問し合い、答え合ってこそ深まって行くのではないですか? 言葉じりを取るだけで答えない、それで逆質問はするなと言われてる。 ネットの上とかの以前の問題として会話をするという姿勢とは思われません。 ここにくることの目的は否定を重ねることではなく、確認を重ねることのはずです。
901 :
名無しさん@1周年 :2000/08/02(水) 02:59
>南無さん 何か大変ですね…お気の毒です… 端から見ていると、酔っぱらいかヤクザに絡まれているようにも見えますが 希有な「まともな」コテハンとして、へこたれずに頑張って下さい 少なくとも私は、怠け者の真宗徒ですが、応援しております (でもそれは南無さんや真宗一般を全肯定するということを全く意味しません かつては私も結構書き込んでいましたが、こうなってからは覗くだけです 久々に書きました)
902 :
名無しさん@1周年 :2000/08/02(水) 07:19
私はよく「ああグル」とか「グル、ラム・ダス、グル」とか言ったり思ったり することがあるんですが、これも念仏なんでしょうかね。 きのうは夕立がグルでした。イライラ気分が落ち着かずに歩いていたら、 急に降ってきて頭から服の中までびしょぬれ。そのまま雨の中をずんずん 歩いていたら、さーっと上がって雲から晴れ間が。二羽の小鳥がくるくる 回りながらそっちの方へ飛んでいきました。するとなぜだろう。さっきまで 不安とイライラでいっぱいだった心は不思議に落ち着いている。 「グル、すべてがグル」とこう思いましたね。
903 :
名無しさん :2000/08/02(水) 10:09
>897.989渡海さん 釈迦牟尼仏と 阿弥陀仏を 混ぜてますね。 故意かどうかしらないけれど。 釈迦牟尼仏にご挨拶をして、その語ったところを学び始める。 それと、阿弥陀仏の名前を唱えるだけ。釈迦牟尼世尊の教えは 学ばない、というのは大違いですね。
904 :
名無しさん :2000/08/02(水) 10:11
↑ 897,898でした。 「仏を念じるということ」→「仏の名を念じ称えるということ」 これはごまかし。 「仏を念じるということ」→「阿弥陀仏の名を念じ称えるということ」 でしょう?浄土教では。
905 :
名無しさん :2000/08/02(水) 10:19
>901さん >何か大変ですね…お気の毒です… >端から見ていると、酔っぱらいか >ヤクザに絡まれているようにも見えますが そうですね、仏陀の言葉に「僧のなりをして供養を受け 普通の生活をするものは人々から憎まれると」言う意味の 言葉があります。これからも真宗僧侶は人々から憎まれ 絡まれるでしょうね。ネットの現象は実社会へと広がっ て行くでしょう。みんながひそかに思っていたことが確認 され出しますからね。 ああ、空念仏だったんだとか、BGMだったんだとか。 僧侶としての修行をしていない人にお経を読んでもらっても なんにもならない。僧侶自らそう言ってんだもんね。
906 :
名無しさん@1周年 :2000/08/02(水) 11:26
何がどうあれ、坊主丸儲け!
907 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 13:11
>名無しさん達の主張は「浄土教は仏説ではないから仏教ではない」という所から前に進んでいない。 何かいけないことなの? > その他さんなどのレスに対して直接返信なされていない。逆質問はするなと閉ざしてしまってる。 あ〜ぁ、分かってない。分かってない。あんた、2chで何がしたいの?相手を議論でうち負かしたい? 南無さん。あなたは2chでは坊さんという衣を付けてるのよ。心と宗教という掲示板で坊さんという衣を付ければ、立派に専門家宣言でしょう。 坊さんという衣を付けても、音楽とか、スポーツの掲示板ならいいのよ。坊さん以外の人と同じように扱われますよ。でも、心と宗教じゃ違うのよ。スポーツの掲示板なら、例えばプロ野球の選手が書き込みすればその重さは他の人と違うでしょ。音楽の掲示板なら、音楽会社の社長ともなると、その重さは他の人と違うんですよ。 「私は坊さんという衣を付けます。自分を他の人と同じに扱ってください」と言っても、それは通じない。貴方は、坊さんとしての自覚が無いの?。それならそれで、最初から坊さんなんて格好するなー。坊さんという衣を付けるなら、プロらしく振る舞いなさいよ。 「聞き手・読み手側に責任無しとは言えない」とプロが素人に向かって責任転嫁してどうするの? 「逆質問はするなと閉ざしてしまってる」。何、これ? 素人とプロが混在するところでは、プロの落ち度はプロの責任、素人の落ち度もプロの責任。それが嫌なら、プロなんかやめちゃいなさい。 プロが素人に質問するときは、返答を期待しちゃだめ。素人とはレベルが違うの。返答しないのが素人の返答なのよ。返答できないのは、相手が自己矛盾しているとき。相手が自己矛盾していることを、言外に悟らせるのがプロの仕事。「直接返信なされていない」なんて、素人相手に文句言ってどうすンの?。 >互いに質問し合い、答え合ってこそ深まって行くのではないですか? 馬鹿を言うのはやめなさいよー。素人という立場ならこれでいいんですよ。その代わり、最初から坊主顔なんか、スンナー。 >ネットの上とかの以前の問題として会話をするという姿勢とは思われません。ここにくることの目的は否定を重ねることではなく、確認を重ねることのはずです。 目的論を説教してどうするの? 貴方の場合、坊さんの格好で人前に出るのは、十年から十五年、早すぎるわー。 インターネットという広い世界に来るんなら、ハンドルネームは、当分の間、「名無しさん@1周年」にしなさいよ。宗教素人1年生という立場で参加し直したらどうですか。貴方が宗教を語るのは、十年から十五年、早すぎる。坊さんの衣を脱いで、他の人の話に耳を傾けなさい。そうすれば、期待を込めて、十年後には少しは宗教というものが分かってくるでしょう。
908 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 13:13
901さん >何か大変ですね…お気の毒です… ぜんぜん大変じゃないですよ。プロ宣言してたら当たり前でしょう。プロ意識がなさ過ぎるんじゃないの?
909 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 13:14
903 >釈迦牟尼仏と 阿弥陀仏を 混ぜてますね。故意かどうかしらないけれど。 本質的に同じだと思ってますよ。お寺に行ってごらんなさい。阿弥陀仏像は縮れ毛のインド人でしょう。あのモデルはだれですか。お釈迦様でしょう。 故意でもなんでもありません。当たり前のことでしょう。 >釈迦牟尼仏にご挨拶をして、その語ったところを学び始める。それと、阿弥陀仏の名前を唱えるだけ。釈迦牟尼世尊の教えは学ばない、というのは大違いですね。 そうですか?。 阿弥陀仏の教えって、お釈迦様の教えをそのままシフトしているんですよ。釈迦牟尼世尊の教えは学ばないということがあれば、阿弥陀仏の教えも学ばないということですよ。阿弥陀仏の教えを学ぶということは、釈迦牟尼世尊の教えを学ぶと言うことですよ。 釈迦牟尼世尊の教えは学ばない、とは何を指して言っていますか?
910 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 13:15
904さんへ >これはごまかし。 ごまかしは酷いなー 「仏を念じるということは阿弥陀仏の名を念じ称えるということ」と言ってもいいでしょう。ぼくもそのつもりで書いたんだけど、仏を念じるとは仏一般を念じることと解しても間違いじゃないでしょう。 僕らの先輩達がどのあたりから「浄土教」を意識したか知らないけど、龍樹の易行本でではたくさんの仏の名を称えている。 龍樹は浄土の人かどうかの判定は難しい。親鸞は浄土教の始祖の一人にしている。親鸞の思想で言えば、龍樹は浄土の人であり、それは阿弥陀仏だけでなくたくさんの仏さんの名前を称えている。 大無量壽経では、去来現の仏、仏と仏と念じたまうと出てくる。お釈迦様は無数の仏達を念じていた。浄土教はお釈迦様のそんな姿勢に自らの学ぶべきものの対象を求めている。 阿弥陀仏でないとごまかしというのは、ちと酷い。
911 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 13:17
905さん >空念仏だったんだとか、BGMだったんだとか。僧侶としての修行をしていない人にお経を読んでもらってもなんにもならない。僧侶自らそう言ってんだもんね。 何か都合が悪い?
912 :
名無しさん :2000/08/02(水) 14:10
>渡海さん 仏教には、弥陀の本願と言う考え方はないのです。 仏陀が教えた在家の修行法はご存知ですか?
913 :
名無しさん :2000/08/02(水) 14:12
にせ南無=にせその他さん。迫力ないねえ。 もうすぐ本物が返ってくるからね。本物はねちっこいよ。 ハエタタキ=もぐらたたき=その他=南無
914 :
その他 :2000/08/02(水) 16:18
地獄は言葉が通じ合わない世界 という言葉があるが、まさにそんな状況ですね。 いくらプロ野球の選手でもボールを投げてくれなくてはホームランは打てませんよ、渡海さん。 >1411 名前: 亀 投稿日: 2000/07/28(金) 21:55 >この人もなかなかいいこと言ってるな。 この後にモグラたたきの言葉が紹介されています。 ハエタタキやモグラたたきの言うことはもっともだと感じている人もいるわけですよ。 同じことばかりを名無しが言っているから、こちらも同じことの繰り返しになり名無しも面白くないでしょう。 違った意見や質問があれば答えることにしましょう。
915 :
名無しさん :2000/08/02(水) 16:21
>914 どのスレッドですか? もう少し引用しないと説得力がないねえ。 どうせくだらないことを書いてんだろうけど。
916 :
その他 :2000/08/02(水) 16:32
真如苑のスレッド。阿含宗のスレッドに書いたものを、ハエタタキを叩くというスレッドにコピーし、それをさらにコピーしたのだと思う。 ハエタタキのスレッドでも、いいこと言っている、と書いてあった。 もっとも阿含宗の信者にとってはいいこと書いてあるとは思わないかもしれませんが。 世界真光のスレッドでもハエタタキのことをほめていた。
917 :
名無しさん :2000/08/02(水) 16:33
>以下引用 1411 名前: 亀 投稿日: 2000/07/28(金) 21:55 この人もなかなかいいこと言ってるな。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 死者に対する供養を言う人は死者を仏として供養しているのではない。 死者を霊、それも迷ったり祟ったりする霊として考えている。だから 死者が迷わないよう祟らないようにと供養している。どこかいいとこ ろへ行ってもらいたい、自分の罪を消したい。そう思っている。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− もぐらたたき 語録 そして供養することによって何らかの御利益があることを期待する。 だから供養力とは供養することによって御利益が得られる可能性が 強力だという意味だろう。こんなことを言うと、御利益なんか考えて いませんとすぐに答える人が多い。それは自分の心が見えてないだけだ。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 死者に対する供養を言う人は死者を仏として供養しているのではない。 死者を霊、それも迷ったり祟ったりする霊として考えている。だから 死者が迷わないよう祟らないようにと供養している。どこかいいとこ ろへ行ってもらいたい、自分の罪を消したい。そう思っている。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− もぐらたたき 語録 そして供養することによって何らかの御利益があることを期待する。 だから供養力とは供養することによって御利益が得られる可能性が 強力だという意味だろう。こんなことを言うと、御利益なんか考えて いませんとすぐに答える人が多い。それは自分の心が見えてないだけだ。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− もぐらたたき 語録 供養とは本来、三宝に対して供養をする。私の迷いを気づかしめ、私の 歩むべき道を示された仏に供養をするのである。つまり供養する心の根 本には感謝、喜びがある。 当然、何らかの見返りを期待するものではない。供養したのだから死者 がいいところに行っただろうとか、私は善根を積んだとかいうのも見返 りである。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− もぐらたたき 語録 流産した胎児を仏として拝んでいるか、感謝しているか。そうではなく 、胎児を救うべき存在を考えていないか。迷っているのは私であり、 救われるべきは自分自身である。なのに私が何かしないと死者は迷いっ ぱなしになる、苦しみっぱなしになる、と考えている。 そして私はできると考えている。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− もぐらたたき 語録 これは無知であり、傲慢である。それを無明と言う。無明から覚めれ ば死者を仏としていただくことができよう。先祖供養や水子供養をし たら幸せになるなどという自分中心の考えを転じなければ、無明から 覚めることはない。 決して供養=慰霊ではないのだが、日本人の大部分はそう思っている だろう。既成教団もそれで食っているわけだからどうしようもないの だが。
918 :
名無しさん :2000/08/02(水) 19:05
亀さんがもぐらたたきさんの文章を引用しているのですが、 難解ですね。批判している文章の前半がないですから。 「以下のことは間違っている。」が抜けているんですね。 本人以外にこんな引用はできないでしょう。 死者や水子の供養には意味がない。 供養することによる自己満足にも意味がない。 供養=慰霊ではない。 しかし日本人の大部分はそう思っている。 既成教団もそれで食っている。 それで?? 坊さんがこのように思っている? それじゃあ信徒はどうしたら言いの?
919 :
名無しさん :2000/08/02(水) 19:07
>916 その他=もぐらたたきだよ。あなたがもぐらたたきじゃないの。 間違っているよ?
920 :
南無 :2000/08/02(水) 19:14
>907 渡海 難 さん。 坊主=プロ。そうですね。確かに。 ただ、私はプロが全てエ−スで4番打者だとは思ってません。現実、坊主の中にも色々います。それこそ一生懸命「教学」を勉強しているのもいる。原発反対のハチマキを 締めて、発電所の前で座りこみをしているのもいる。被差別部落の中で生活し、身を切るような差別の現実に身悶えしているのもいる。「大谷声明」にこだわってというか、 声明を守って、代々努力を続けてる人達がいる。無農薬の米作りに賛同し、田植え・稲刈りをボランティアでやってるのもいる。廃村になった村に移転して「炭焼き」を しながら「教学」と向かい合っているのもいる。私はその全てを「坊主=プロ」失格だとは思いません。「教学」の理解の程度も違う、受け取りも違う、それでもいいでしょう。 要は、親鸞の教えに聞いて行こうとする姿勢一つではないのですか。坊主には多かれ少なかれ「現場」があります。その「現場」を抱えて、その「現場」の中で自分の未熟さや 無明性を噛み締めながら、少しでも現実に流されまいともがいているんです。貴方の「坊主=プロ」の基準に合わないのはよくわかりました。それでも坊主なんです。 「坊主=プロ」このことの貴方の基準は貴方の基準でしかない。それを絶対化すべきではない。
921 :
南無 :2000/08/02(水) 19:39
これまでの展開の中で私がやっと気付いたことなのですが、以前のレス(390)で新興宗教にあって既成仏教にないものは何だろうか、ということに >言葉は悪いですけど、「原理主義的な迫力・熱狂」だと思います。 あるいは、「汗と泥にまみれた信仰」とも言えるかもしれない。 というレスを頂いておりました。このことがずっと気になっていたのですが、坊主である我々がいままで、最近登場の「名無し」さん達と接点を絶って来ていた のだなと感じております。よくも悪くも私達の「現場」は真宗を肯定された「現場」でしかなかったのですね。否定されている所に出て行く必要も感じず、今日 まで来たのならやはり「井の中の蛙」といわれても仕方ありません。「名無し」さん達のお陰で気付かせて頂きました。これからどうすればいいのかを考えて みなければ なりません。とにもかくにも今やっとそのことが実感されました。
922 :
名無しさん@1周年 :2000/08/02(水) 19:49
921 名前: 南無 投稿日: 2000/08/02(水) 19:39 これまでの展開の中で私がやっと気付いたことなのですが、以前のレス(390)で新興宗教にあって既成仏教にないものは何だろうか、ということに >言葉は悪いですけど、「原理主義的な迫力・熱狂」だと思います。 あるいは、「汗と泥にまみれた信仰」とも言えるかもしれない。 これ、渡海 難 さんの事を指して言われてるんですよね?
923 :
名無しさん :2000/08/02(水) 20:06
>820、南無さん >貴方の「坊主=プロ」の基準に合わないのはよくわかりました。それでも坊主なんです。 「坊主=プロ」このことの貴方の基準は貴方の基準でしかない。それを絶対化すべきではない。 渡海 難 さんの真宗僧侶評を僕なりに解釈しますと、 自分自身がよう消化しきれていない赤の他人の仏教学者の言葉を この場において書きこんでも、書きこみした本人が未理解であったならば、 素人が読んでもサッパリ理解出来ないでしょう、本当にそのお説を 坊主本人が理解しているのなら、誰にでもわかるように 理路整然と説けるでしょう、それが出来なければ この公共の掲示板でプロを名乗る資格はありませんよ、 という至極ごもっともな意見だと、私はおもいますが・・・・・。 こんな当たり前な意見にも、異論がおありなのかな? よう解らん。
924 :
南無 :2000/08/02(水) 20:35
>922です。 >原理主義的な迫力・熱狂 私自身の真宗との関わりの中で「迫力・熱狂」があるのかということで 自分への問いです。他の人のことではありません。
925 :
南無 :2000/08/02(水) 20:48
>923です。 >自分自身がよう消化しきれていない赤の他人の仏教学者の言葉を この場において書きこんでも、書きこみした本人が未理解であったならば、 素人が読んでもサッパリ理解出来ないでしょう、本当にそのお説を 坊主本人が理解しているのなら、誰にでもわかるように 理路整然と説けるでしょう これはごもっともです。 >誰にでもわかるように理路整然と説けるでしょう、それが出来なければ この公共の掲示板でプロを名乗る資格はありません このことに対し実際には色々いるよと申し上げているのです。 理路整然と説けるということだけが坊主の資格になるなら、違うのではないかと言っているのです。
926 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 20:55
912さん >仏教には、弥陀の本願と言う考え方はないのです。 弥陀の本願という言葉は歎異抄に出てきます。でもあれは不正確です。正確には法蔵菩薩の本願なんです。法蔵菩薩とは、阿弥陀仏の前身の名です。本願は、大乗の修業に入るにあたって修行者が立てる誓いです。 本願という言葉を使ったのは法然上人が最初じゃないかしら(違っている可能性あり)。法然の言葉に王本願という言葉で出てくる。汎仏教的には誓願という。本願とは、法蔵菩薩の誓願のことです。 誓願は仏教全体に一般的な概念です。禅宗でも、入門時には四弘誓願というものを立てる。釈迦は五百大願というものをたてているそうです。 法蔵菩薩の誓願は、釈迦が教育事業を自らのライフワークと定め、竹林精舎、祇園精舎の建設に乗り出すときの決意表明をモデルとし、それを箇条書きに再構築したものでしょう。 >仏陀が教えた在家の修行法はご存知ですか? 釈迦仏教にあって、阿弥陀仏仏教にない在家の修行法?
927 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 20:58
914さん >地獄は言葉が通じ合わない世界という言葉があるが、まさにそんな状況ですね。 まあ、悲観しなさんな。地獄ではないから言葉は通じる(笑)。 >いくらプロ野球の選手でもボールを投げてくれなくてはホームランは打てません。 ホームランを狙うばかりがプロじゃない。ゴロでもバントでもプロは打つ。 ホームランを打てる球がきても、プロはあえてバントにするときもある。見逃すときもある。 打てる球がくるまで貝のように待つのもプロの腕。 真宗の坊さんがこれだけ叩かれるのも、逆を言えばハエたたきさんや、モグラたたきさんの勲功でしょう(笑)。僕は親鸞会には向かうけど、他の宗教には向かわない。攻め口を探すのがしんどい。 他人の土俵でも相手と戦えるのがプロでしょう。僕は真似できない(笑)。ハエたたきさんやモグラたたきさんの勇気は評価しましょう。 今、坊さん達がここで叩かれているのは一種の勲章だ(笑)。他人の土俵にあれだけ攻めていって、いろんな人からおべんちゃら言われていたらどうなりますか。変なもんでしょ。
928 :
名無しさん@1周年 :2000/08/02(水) 21:34
>渡海 難 >坊さん達がここで叩かれているのは一種の勲章だ(笑)。 お坊さんって、本来、われわれ凡夫に智慧の灯明を灯してくれ、 尊敬される、しかれどもそれに慢心を起こさない、 誠に尊ぶべき(それゆえに托鉢行が成り立つ)存在なのではないのですか? >坊さん達がここで叩かれているのは一種の勲章だ なんて言葉を目にしたら、私は「あほう!」という言葉しか見つかりません。
929 :
名無しさん@1周年 :2000/08/02(水) 21:50
荒れてるねえ。仲良くしろってほとけさんもいってただろ? 仲良くしようや。
930 :
その他 :2000/08/02(水) 21:57
>927 渡海さん ホームランをねらっているわけではありません。 こちらからボールを投げても投げ返さず、 早くボールを投げろとばかり言われている気がします。 それは渡海さんも同じで、本当にあなたは方便の意味を知らないのですか。 確かに南無さんの言葉は難しいところもありますが、 言わんとしていることを理解しようせず、言葉じりをとらえて非難するのは、 渡海さんも名無したちと同じです。 >918 阿含宗のスレッド、2ではなく前の方、を探して読んでほしい。 この程度の文章で難解なら、桐山の本など少しも分からないだろうね。 死者供養と仏教との関係については、 阿含宗のスレッドで多くの意見が出ている。 阿含宗の批判している者すべてが南無=もぐらたたき=ハエタタキなどとは思わないでしょう。 その他=亀と思っているのかな。
931 :
名無しさん@1周年 :2000/08/02(水) 22:32
925@`南無さん >理路整然と説けるということだけが坊主の資格になるなら、違うのではないかと言っているのです。 いいえとんでもない、この公共の場においては 「理路整然と説けるということだけが坊主の資格になる」のですよ。 またしても真宗クソッタレ坊主の十八番、 「話のすり替え」「言い逃げ」ですか?(爆) >このことに対し実際には色々いるよと申し上げているのです。 そんなのは貴方達の御都合話にすぎません。
932 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 22:32
920さん >「坊主=プロ」このことの貴方の基準は貴方の基準でしかない。それを絶対化すべきではない。 その通りでしょうね。気持ちは伝わる気がします。推移を見させてください。
933 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 22:33
925さん >理路整然と説けるということだけが坊主の資格になるなら、違うのではないかと言っているのです。 仰りたいことは分かる気がします。
934 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 22:35
928さん >お坊さんって、本来、われわれ凡夫に智慧の灯明を灯してくれ、尊敬される、しかれどもそれに慢心を起こさない、誠に尊ぶべき(それゆえに托鉢行が成り立つ)存在なのではないのですか? 絵に描いた聖人君子みたいなことを要求したら可哀想でしょう。坊さんだって殴られれば腫れ上がる。切られれば血も出る生身の人間なんですからね(笑)。我々と同じなんですよ。それでも貴方は坊さんに聖人君子を求めますか? >なんて言葉を目にしたら、私は「あほう!」という言葉しか見つかりません。 あほうは、お互い様なんですよ。
935 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 22:36
929さん 雨降って地は固まるんです(笑)
936 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 22:36
930さん >早くボールを投げろとばかり言われている気がします。 そうですか。 >それは渡海さんも同じで、本当にあなたは方便の意味を知らないのですか。 方便の意味をもっと分かって欲しいということなんでしょうね。 >渡海さんも名無したちと同じです。 そうですか。
937 :
名無しさん :2000/08/02(水) 23:09
>926 渡海さん、何かいているかわからないよ。 まあ、どうでも良いけどね。 本気であんたとやりあうほどは、時間がないから。 阿弥陀さんなんていう、釈迦をモデルにして 作った「リカちゃん人形」は早く捨てなさいね。 法蔵菩薩と阿弥陀仏のお話は、仏陀をモデルに作った 作り話だと信者の方に教えてあげてね。ついでに、教 えもずいぶん改変している。教えが同じなら、阿弥陀 仏を創作する必要はなかったのだからね。 これからは「南無リカちゃん人形」って拝んだら。
938 :
渡海 難 :2000/08/02(水) 23:49
937さんへ どうでも良いことだから分からないんでしょう。 期待はずれがあったみたいね。 弥陀の本願が仏陀の教えにあると知ってがっかりした? まあ、あんまり我流で仏教思想を作りなさんな。 先人はアンタより百倍も千倍も深く考えているんだから。 釈迦をモデルすればできるものはリカちゃん人形なの?玩具メーカーの開発担当が聞いたら、さぞビックリするでしょう。 奇想天外な貴方の考えそうなことね。
939 :
1たす1は2 :2000/08/03(木) 01:54
>950(???) 数学の場合は基礎から積み上げていかないと、急に複素数や空間等について理解する事はできん。宗教も 基礎から積み上げないと理解できない部分はあるじゃろ。数学は四則計算ができれば人生なんとかなる。宗教はそうはいかんぞ!大多数の人は釈迦の到達点とは言わんが、親鸞の到達したあたりまで、難しい事ぬきで行きたがるのじゃ。数学に近道は必要無いし、又そんなものは無い。宗教は近道が必ず必要なのじゃ、まあなかには遠回りの道、たどりつけそうも無い道を選ぶ人もいるだろうが、宗教に対する姿勢の違いと言う事じゃな。近道しか知らない坊主は困り者だが、遠回りの道ばっかり教える坊主も良い坊主とは言えんぞ。 渡海君のはどんな道かな・・・・
940 :
渡海 難 :2000/08/03(木) 08:58
>939 日本語は、相手の名に付ける敬称の選択で親密度、攻撃度、尊敬度が測られます。私は見ず知らずの人から「渡海君」と呼ばれる筋合いは無いと思いますが、貴方は私とどういうご関係の方ですか。 私はプライドのある人間です。貴方は私が昔世話になった方でしょうか。もしそうなら、相当ご年輩の方でしょうね。 「>950(???)」 これは何を意味する記号でしょうか。 「遠回りの道ばっかり教える坊主も良い坊主とは言えんぞ。」 この言葉は貴方に返しましょう。私はあなたが坊主かどうか知りませんが、奥歯にものの挟まった表現をする方は困り者ですな。 >渡海君のはどんな道かな 渡海君のを聞きたいなら、まず自分の道はどのような道か明らかにすべきでしょう。それが順序でしょう。 私は、2chでも少なからず自分の見解の立場は幾度か明らかにしてきています。それを見てあなたはどう思いましたか。奥歯にものを挟めるんじゃなく、自分の立場を明確にすべきでしょう。 >「数学に近道は必要無いし、又そんなものは無い」 >「遠回りの道ばっかり教える坊主も良い坊主とは言えん」 何が仰りたいのかよく分かりませんね。こんなことを言っていたらどこにもたどり着けんでしょうな。「たどりつけそうも無い道を選ぶ人もいるだろうが、宗教に対する姿勢の違いと言う事じゃな。」この言葉もこの場で貴方に返しましょう。
941 :
渡海 難 :2000/08/03(木) 09:18
>940 以下の文は無視してください。 当方に誤解がありました。 m(_ _)m >「数学に近道は必要無いし、又そんなものは無い」 >「遠回りの道ばっかり教える坊主も良い坊主とは言えん」 何が仰りたいのかよく分かりませんね。こんなことを言っていたらど こにもたどり着けんでしょうな。「たどりつけそうも無い道を選ぶ人も いるだろうが、宗教に対する姿勢の違いと言う事じゃな。」この言葉も この場で貴方に返しましょう。
942 :
名無しさん :2000/08/03(木) 09:47
>938渡海さん、 別に分からないわけじゃあないのですよ。時間が無駄で馬鹿馬鹿しいと思うだけ。 >909渡海さん >阿弥陀仏の教えって、お釈迦様の教えをそのままシフトしているん >ですよ。釈迦牟尼世尊の教えは学ばないということがあれば、 >阿弥陀仏の教えも学ばないということですよ。阿弥陀仏の教えを学 >ぶということは、釈迦牟尼世尊の教えを学ぶと言うことですよ。 >釈迦牟尼世尊の教えは学ばない、とは何を指して言っていますか? これはまったくの間違いです。在家に対する阿弥陀仏の教えと 釈迦牟尼世尊の教えはまったく違います。出家に対する阿弥陀仏 の教えはないと言って良いでしょう。現に浄土教の出家は出家では ないでしょう。 まず、プロ?の渡海さん。 在家に対する阿弥陀仏の教えと釈迦牟尼世尊の教えはまったく 違います。どのように違うか述べてみてください。
943 :
南無 :2000/08/03(木) 11:37
「念仏申す私」が社会とどう関わってゆくのかという事を「信心の社会性」とでも言えるのでは ないかと思います。社会との関わりという「社会性」は、個人の経験や思想、状況や立場といった事柄 から出発するものであることは間違いないと思いますが、その内容に普遍性があるなら、いずれ個人性を 超えた広がりを持つものと思います。例として名前を使わせて頂いて申し訳ないのですが、渡海 難 さんの 場合、親鸞会と関わるということが彼の社会性の特色になっています。原因となる何かしらの出発点があった ろうと思いますが、私が詮索すべきことではありません。ならば坊主の社会性とは何かを考えた場合、その多く は既存の寺檀関係の中での仏事(葬儀・法要・などなど)執行という事(それに付随した法話も含め)だけに 埋没している現状があると思われます。本来、衣をつけた坊主と衣を脱いだ個人という二つの信仰があるわけではないでしょう。 坊主として期待される信仰を持っているような言行を身につけるという事の中で、自己の問題として深めて行かねば ならない「信心の確立」という基本作業がどのような形で継続され、社会性を持っているのかという問題です。 坊主としての社会性(あくまで個人のレベルのこととして)が、儀式執行だけに留まるものなら全肯定されるようなものではない という葛藤が私の中にあります。水平社宣言を書いた西光万吉や、いみじくも同朋新聞8月号に書かれている大逆事件に連座した 高木顕明といった人々に魅力を感じてきましたが、十数年、坊主をしてきた事から生まれてくる「焦り」なのかも知れません。 また一方で、念仏者とはある種、人格者であるという思いも捨て切れないでおります。皆様如何お感じでしょう?
944 :
名無しさん :2000/08/03(木) 13:11
>943 南無さん 真宗僧侶、仏教者として何をなすべきか。 念仏者として本来は「念仏」を唱えるだけで何もしなくても良い わけでしょう。しかしやはり何か足らないものを感じている。 そこで、三宝への帰依や、菩薩行がででくるのでしょう。 社会活動は菩薩行ですよね。 三宝への帰依文は読まれているようですが、本当に帰依され ているのかどうかは分かりませんね。 つぎには仏教徒として仏陀への理の供養というのがあります ね。正しい教えを広める。特に僧侶の場合はその使命が強い でしょう。 現代の仏教学を勉強されているわけだから、「念仏」だけでは 仏教とは言えない、三宝への帰依と菩薩行が必要、と言うこと はご存知でしょう。また、それだけしかできない僧侶は、実は 出家ではなく在家信徒であると認識されていると思うのです。 よき家庭人であるように心がけること。普段の業務を心をこめて 行うこと。このような事を信徒や、同僚に教えていくべきでしょ うね。 そして、いずれは、阿弥陀様よりも仏陀釈尊のほうがずっと大切 なんだという認識に移行すべきでしょう。 まとめ、 「念仏だけでは不充分。三宝に帰依する。菩薩行が必要。」 真宗僧侶は在家信徒であると認識して、よき家庭人とり、 日常の業務を心をこめて行う。 「 」内を信徒に広める。阿弥陀さんは、仏陀の代理であ ることを忘れない。仏陀の教法を学ぶ。仏陀を信仰の中心に 位置付ける。
945 :
その他 :2000/08/03(木) 15:10
死んだら極楽に往生するとか、念仏さえ称えれば救われるというのが、真宗の教えであると思っている人は多いようです。しかしそれは中途半端な理解であり、誤解を生じます。実際それだけならいくら南無阿弥陀仏と称えてもありがたくもなければ、救われたという喜びもないでしょう。 南無阿弥陀仏とはどういう意味か、南無阿弥陀仏を称えるとはどういうことなのか、を知らずに念仏するのでは、呪文を唱えているのと変わりません。 では南無阿弥陀仏とは何かというと、阿弥陀如来の名号つまり名前です。 名には「名づける」と「名のる」という意味があります。 親が子供に名前をつける時、こういう人間になってもらいたいという親の願いがあり、その願いを名前にこめて命名します。同じように南無阿弥陀仏には仏の願いがこめられています。 仏の願いとは何かというと本願ということです。本願とは、法蔵菩薩が四十八の願いを立て、浄土を建立し、阿弥陀仏となったという話が「無量寿経」に説かれてありますが、四十八の願いが本願です。 どんな願いなのかおおざっぱに言うと、一切の衆生が救われない限り私は仏にならない、という願です。すべての人とともに生きるんだ、どんな人も決して見捨てないんだ、というのが仏の本願です。苦しみ悲しむ人がいたら苦しみ悲しみを共にするんだ、どんな悪人でもどうしようもないからとあきらめることはしないんだ。 このように摂取不捨、すべての人をおさめとって捨てない、共に生きたいということが仏の願いであり、その願いが南無阿弥陀仏という名号にこめられているのです。 次に名のるということですが、お前は誰か、と尋ねられたら、私は○○だ、と名前を名のります。名前を名のることで、私はこういう者だと宣言しているわけです。 同じように、我々が名号、仏の名を称えることは、私は仏の願いを私の願いとして生きていく者だ、すべてのものと共に生きる者だ、と名のりをあげることです。 また信心ということは、私がいて、阿弥陀如来がいて、そして私が阿弥陀如来を信じる、ということではありません。信心とは阿弥陀如来の心を私の心としていただいたということです。 ですから信心をいただくことと、念仏を申すこととは別なことではありません。 ところが、仏の願いを私の願いとし、共に生きたい、真実に生きたいという願いを持ちながらも、現実の生活の中では自分中心で生きています。 私の心とは、自分中心でしか考えられない心、自分は常に正しいんだという心、自分が自分がという我執の心です。その時々の都合でころころ変わる私の心だから、厭なこと、しんどいこと、損なこと、などはしたくない。嫌いな人とは一緒にいたくない。面倒な目にあいたくない。 すべての人と共に生きるんだ、悲しむ人がいたらそばにいるんだ、悪人でも見捨てないんだ、という仏の願いを私の願いとしますと名のりながら、実際は選び、捨てているわけです。仏の願いに背いているわけです。 つまり悪人といっても誰かよその人の話ではなく、私自身のことなのです。しかるに仏の願いに背いている私でも仏は見捨てることがない。救われるはずのない私が救われる。そこにありがたいという喜びがあるわけです。 阿弥陀如来の心をいただくことによって転じられていくのです。
946 :
その他 :2000/08/03(木) 15:11
自分は自分の力で生きているんだ、人の力なんか借りていない、一人で生きているんだ、という心は、自分さえ幸せになればいい、自分さえ傷つかなければいい、という心を生みます。 しかし縁起、すべての物事は関係しあっているのですから、それは間違いです。他と無関係に私が存在することなどありえません。お互い関係しあいながら生きているのです。ですから、人に迷惑をかけなければ何をしてもかまわない、とよく言いますが、迷惑をかけずに生きることは不可能です。迷惑をかけなければ生きていけないのが人間です。それに気づけば頭が下がるでしょう。 一人で生きているのではない、、すべてのものと共に生きている、ということは事実です。私がそのようにするということではありません。その事実に目覚めるかどうかです。
947 :
その他 :2000/08/03(木) 15:12
真宗では死んでから極楽に往生するとは説きません。信心をいただいたその時に往生が定まります。といっても、この身は娑婆にあるわけだし、煩悩まみれであることは変わりません。とても往生が定まったから仏なんだとは言えません。 しかし「こころは浄土にあそぶなり」という和讃にあるように、心に浄土が開かれるのです。となりますと、死んでから浄土に往生するかどうかはもはや問題になりません。 そうなると極楽浄土とは死後の理想郷でないと理解してもらえるでしょう。浄土とは娑婆世界や罪悪深重の私を照らす光であり、苦悩の現実を生き抜くエネルギーの泉であり、未来に向かってうながし動かすはたらきです。極楽は目的地ではなく、今を生きる出発点です。 浄土は広、開、明といった漢字で表されます。心に浄土が開かれるとはどうなることかと言えば、広、開、明ということです。 たとえば相手の立場に立って、広い視野でものごとを見ることができるようになる。 もしも自分がそうなったら、と考えれば、死刑囚などを一方的に非難できないし、ホームレスを切り捨てることもできないでしょう。 「どんなことでもいつ自分の身に降りかかるかわからない。だから、お互いさまの気持ちで助け合おう」 「自分がこうしてなんとか生活できるのも、ある意味では自分の力ではなく、まったく偶然に与えられた力によるものです。それをあたかも自分だけの力で今があるかのごとく考えるのは、思い上がりというものでしょう。そして、いつ自分の環境が変化し、人の助けがいるようになるかわからないのが今の社会です。 社会というものはお互い助け合いながら存在しています。人の能力はそれぞれであり、一人ですべてができるわけではありません。みんな自分の足りない部分を他の人から助けてもらって生きているのです。人の助けがなければ、どんなにお金があっても生きていけません。 人と違うことを喜び、自分と違う人を素直に尊敬することができれば、また違った生き方が見えてきます」 伊藤真「憲法のことが面白いほどわかる本」中経出版 からの引用ですが、このほんは真宗の教えとは無関係とは思えないものの見方を教えてくれます。読んでみて下さい。
948 :
その他 :2000/08/03(木) 15:13
阿弥陀如来をたのむということは自分の業を阿弥陀如来にまかせることだ、というだけではこれまた誤解を生みます。業とは行為ということです。自分の行ったこと、および行為の結果は善悪にかかわらず自分で引き受ける、関係ないと逃げない、自業自得の道理にうなずく。阿弥陀如来をたのむとはそういうことです。 もちろん人間ですから責任逃れをしたいし、言い訳を言いたい。それは仕方のないことですが、そういう自分を慙愧、はじる。それも阿弥陀如来のはたらきです。 たとえば麻原は阿含宗の信者だったことがある、だから私には責任がある、と名のることは南無阿弥陀仏と称えることを具体的に表すことだと思います。 布施ですが、僧侶個人にもらうのではなく仏法に対していただくのだと理解しています。 法事の最初に表白文を読みます。それには 「本日ここに 釈○○の○回忌にあたり 有縁のひとびと相寄り集い 亡きひとを偲びつつ 如来のみおしに遇いたてまつる」 という言葉がありますが、これが法事の意義です。 亡くなった人を思い、そのことを通して仏の教えを聞いていく。ということは亡くなった人が仏として私にはたらいているということです。 死んだ人のためにお経をあげればそれでいい、というのでは、私と無関係な儀式にしかすぎませんし、法事をすることで何らかの利益を期待するのは自分勝手だとしか言いようがありません。
949 :
その他 :2000/08/03(木) 15:39
>928 >お坊さんって、本来、われわれ凡夫に智慧の灯明を灯してくれ、 >尊敬される、しかれどもそれに慢心を起こさない、 >誠に尊ぶべき(それゆえに托鉢行が成り立つ)存在なのではないのですか? どうも僧侶とは完全無欠の存在だという誤解をされているようです。そんな人間はそれこそ仏陀です。前にも書きましたが、そんなお坊さんをご存じなのでしょうか。 それと真宗の僧侶とは門徒さんと共に歩む同行同朋であり、寺の住職は寺を守っていく人だと思います。そんなの僧侶とは言えないとおっしゃるならそれで結構です。 >937 >法蔵菩薩と阿弥陀仏のお話は、仏陀をモデルに作った >作り話だと信者の方に教えてあげてね。 曽我量深「親鸞の仏教史観」に、釈尊は阿弥陀の法を悟ったのだと、書いてあります。それは歴史的事実ではないと言われるでしょうが、宗教的真実だと曽我量深は言っています。 前にも書きましたが、釈尊の真意は何か、釈尊の悟りの内容は何か、ということは定説がありません。縁起、無我、などと言われています。小乗は経典の言葉を文字通り受け取っていたのですが、大乗仏教ははたして釈尊が本当に説きたかったことは何かを考えていったのです。 真宗ではそう考える。あなたはそう思わない。そういうことです。 作り話といえばそれまでですが、そこにとどまらないものがあるからこそ、浄土信仰がずっと続いてきたわけです。 >944 >社会活動は菩薩行ですよね。 ボランティアしている人は菩薩でしょうか。菩薩行とはその程度のものではないと思います。ジャータカを読んでも菩薩の道は厳しいものだと思いますけどね。 944さんにお願いですが、あなたも菩薩の一人として悪口雑言の名無しさんにそんな言葉遣いはすべきではないと教えてやって下さい。それも仏陀への理の供養になるのでは。 それと三宝に帰依することを繰り返し言われますが、帰依するということは具体的に言うとどういうことだと思っているのでしょうか。逆質問ばかりすると怒られそうですが。
950 :
渡海 難 :2000/08/03(木) 16:04
(-。-;) DARENI YOMASETAI NO DARO YARE YARE KOREDAKARA BOUSAN HA HANATUMAMINI NARU AITENI TSUJIRU KOTOBA HA NAIRASII NE UCHUJIN NO RAKUGAKIYORI TACHIGA WARUI. GUGE.
951 :
名無しさん@1周年 :2000/08/03(木) 17:35
↑これの方が誰に読ませたいのか解らないけど
952 :
名無しさん :2000/08/03(木) 17:41
>945〜949 その他=蝿叩き=南無さん 帰ってこられたようですね。 にせ南無さん、にせその他さん、こういう風に粘着質なのが 本物の特徴です。 その他さん、長すぎます。too long. 読んでません。だれも こんなの読まないよね。
953 :
名無しさん :2000/08/03(木) 17:46
>950渡海さん。 翻訳します。 「誰に読ませいたいのだろう。やれやれこれだから坊さんは 鼻つまみになる。相手に通じる言葉はないらしいね。 宇宙人の落書きより性質が悪い。グゲ。」 本当に私もこのとおりだと思いますよ。945〜949は 読んでないものね。性格(たち)が悪すぎる。これが文章 だからまだいいよ。説法でこんなのやられたらたまらんね。 オレだったら席をはずすけどね。たまらんねえ。
954 :
ハエたたき :2000/08/03(木) 18:05
> 952 > その他=蝿叩き=南無さん 私にすれば、とても光栄な勘違いですが、全くデタラメな勘違いです。 それに、こんな詮索、当たったにしても意味ないでしょう。
955 :
名無しさん :2000/08/03(木) 18:34
> 953 > 945〜949は読んでないものね。 これは違うんじゃないの? 短文しか読めないというのと、意味が分からないというのは、次元が違います。 分からなかったら、ここが分からないと指摘したらいががですか? 用語解説を依頼するとか・・・。
956 :
名無しさん :2000/08/03(木) 18:39
>950 渡海 難 さん あなたは、自分が絶対的に正しいかのように色々評論しているけど、あなたのことばだって私らからすれば50歩100歩。 ましてや、ローマ字だけのレスなんていやらし〜〜。 批判するなら、きっちり批判すれば?
957 :
渡海 難 :2000/08/03(木) 19:38
956 >あなたは、自分が絶対的に正しいかのように色々評論しているけど、あなたのことばだって私らからすれば50歩100歩。 (^^ゞ ぽりぽり。50歩100歩? 済みませんね m(_ _)m >ましてや、ローマ字だけのレスなんていやらし〜〜。批判するなら、きっちり批判すれば? いやらし〜〜? 申し訳ありません m(_ _)m 自分だけの独り言が、ぽろりとインターネット漏れ出ました。お目汚しをして申し訳ありませんでした。以後、漏洩がないように、管理に気を付けます。 <(_ _)>
958 :
名無しさん@1周年 :2000/08/03(木) 19:43
948、その他 >布施ですが、僧侶個人にもらうのではなく仏法に対していただくのだと理解しています。 しかし実際のところ、あなた様がいただいたお布施は誰のフトコロに 収まるわけでしょうか?(笑) あなたが仏法なんでしょうか?そうであるならばまだ意味は通じます けどね。とんでもない勘違いの可能性のほうがか・な・り高いんじゃないっすか?(激爆) >949どうも僧侶とは完全無欠の存在だという誤解をされている ようです。そんな人間はそれこそ仏陀です。前にも書きましたが、 そんなお坊さんをご存じなのでしょうか。 だから葬式仏教もオーケーってわけですね、これぞ御都合主義の極致!!!
959 :
名無しさん :2000/08/03(木) 19:48
>955 どうせ本質的なことなんて書いてないんですよ。 詐欺のテクニックなの、長文でごまかすのは。 真理は、短文の箇条書きで書けるの。
960 :
名無しさん :2000/08/03(木) 20:08
>954 質問です。 >死んだら極楽に往生するとか、 念仏さえ称えれば救われるというのが、 真宗の教えであると思っている人は多いようです。 しかしそれは中途半端な理解であり、誤解を生じます。 実際それだけならいくら南無阿弥陀仏と称えてもありがたくもなければ、 救われたという喜びもないでしょう。 まず、この文章が分からない。 「死んだら極楽に往生するとか、念仏さえ称えれば救われるというのが、 真宗の教えであると思っている人がある」 この「 」内を、肯定しているのか否定しているのか?ご解答を。
961 :
名無しさん :2000/08/03(木) 20:10
↑>945、954ハエタタキサンに質問です。
962 :
名無しさん :2000/08/03(木) 20:14
>渡海さん 浄土教の在家信徒への教えと、釈迦牟尼世尊の在家信徒への教えの 違いを問う。
963 :
名無しさん :2000/08/03(木) 20:18
960です。 >945のその他さんだったですね。簡略にね。 長文の分析に長文の解答をつけると、どんどん 分量が膨れ上がって収拾がつかないよ。簡略に!
964 :
名無しさん :2000/08/03(木) 20:22
あなたは私の婚約者だと思っているようですが、 それは中途半端な理解であり誤解を生じます。 実際それだけならば、いくら結婚の用意をした って楽しくも嬉しくもないでしょう。もっと いろいろないい話があるんですよ。
965 :
名無しさん :2000/08/03(木) 20:23
>964 結婚するのかしないのか、どちらなの?
966 :
渡海 難 :2000/08/03(木) 20:38
962さん あなたは942さんですか。 時間が無駄で馬鹿馬鹿しいと仰っていたので遠慮していたんですよ。時間は無駄じゃないんですか。 >これはまったくの間違いです。在家に対する阿弥陀仏の教えと 釈迦牟尼世尊の教えはまったく違います。 どのように違いますか? >出家に対する阿弥陀仏の教えはないと言って良いでしょう。 そうですか?はて? >現に浄土教の出家は出家ではないでしょう。 現代の浄土宗、浄土真宗だけを見て言っていますか。例えば興福寺、東大寺あたりで伝わっている浄土教も含めて言っていますか。どの範囲が浄土教なんでしょうか。 わたしは、蓮如以後の本願寺を中心にした現代の浄土真宗だけが浄土教だとは思っていないんですよ。 >まず、プロ?の渡海さん。 在家ですが、2chにくるとセミプロっぽくなっちゃってますか? > どのように違うか述べてみてください。 不思議な質問をする人だ。まったく違うと言っているのは貴方だから、貴方が述べるべきでしょう。私は実質的な違いはないという立場なんですからね。
967 :
名無しさん :2000/08/03(木) 20:50
> 959 > どうせ本質的なことなんて書いてないんですよ。 > 詐欺のテクニックなの、長文でごまかすのは。 > 真理は、短文の箇条書きで書けるの。 それはあなたの勝手な決めつけではないですか? お経にだって長いものもあれば、短いものもあるでしょう? キリスト教の聖書やイスラム聖典だって同様ではないのですか?
968 :
マイコンOK :2000/08/03(木) 21:30
人は多くの人と関わりあって生きている。 自分1人では生きていけない。 人に迷惑をかけてはいけない。 自分の行動の責任は自分が負う。 945〜949から宗教がらみの説明をはぶくと、このようになります。これ社会生活の基本ですな。 これをなかなか解ってくれない人達を指導するために必要にせまられて生まれてきたのが、法律(法律までいかない常識も含む)だと私は思っています。 法律の力のおよばない領域を指導するのが宗教の役目ではないでしょうか?人を殺してはいけない(なぜ?)盗んではいけない(なぜ?)・・・してはいけない(なぜ?)・・・しなさい(なぜ?)、このような(なぜ?)が真剣な問掛けであればあるほど、宗教の役割は大切なものになると思います。 頂上の見えない宗教の学びの山を登りながら、答を探していかねばなりません。その答をしっかり伝える為にはお坊さんへの信頼が不可欠でしょう。信頼させるにはマインドコントロールの技術も必要になってくるでしょう。 ホント!お坊さんは大変です。
969 :
名無しさん :2000/08/03(木) 22:10
若い皆さん。無意味な言葉の羅列に惑わされないでね。 一行一行、確かめて読んでいけば分かるから。 真宗坊主や渡海の発言には、一行一行に、意味のすり替え があるからね。たとえば、無量寿経に書いていれば真実な のかどうなのかを全く検証せずに、このありがたい言葉は 無量寿経にかかれていますとやるわけだ。ありがたい!と 思わないようにね。無量寿経から検証しないといけない。 一文一文解きほぐすように虚偽を検証していかないとなら ない。それに対する返答もまた長文になる。それも一文一文 ほぐして行かなくてはならない。そうしているうちにコメントは 天文学的な分量になる。そこで、嫌になるのを待つわけだね。 議論の泥沼に持ち込むのだ。 対応するには唯一つの言葉。 「真理は一行で語られる」 もうひとつ。 「阿弥陀さんなんてどこにもいない。浄土なんてどこにもない」 「ブッダは阿弥陀仏も浄土も説いていない」 終わり。
970 :
\5さま :2000/08/03(木) 22:37
堂々巡りをしているように思えます。 過去レスをまとめてアップします。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 仏教のお経は、お釈迦さんの言葉を記録したもの、という考えが あります。 しかし、実際にはどんなに古いお経でも、 お釈迦さ んが亡くなられてから何百年も経ってから書き記されたものなの です。 古い時代、一般にインド人は、文字を使うことがありま せんでした。 すべて、暗唱にたよっていたのです。 仏教も同じで、お経の編集は、お坊さんたちが集まって、あるお 坊さんが暗唱するのを、他のお坊さんたちが聞いてチェックする ことでした。 最初の編集会議は、お釈迦さんが亡くなって間も ない時に行われましたが、それにしても、 お経は、お釈迦さん の全く知らないところで編纂されたのです。 お釈迦さんの直接 の弟子が暗唱したといいましても、あくまでも、それは、そのお 弟子さ んの耳と頭を経由したものですから、そのお弟子さんの 考え、理解力によって、大なり小 なり、ゆがみが生じます。 お釈迦さんの語録としてのお経が、人から人へ口伝えに、時々編 纂会議を経ては伝承され、 数百年もの間、代替わりを繰り返し、 様々な地域へ伝えられていくと、ふくらませたり、 削ったりと いう手が加えられて、ゆがみが大きなものとなっていって、極端 なものは内容 が矛盾するお経、ほとんど同じだけれども一部が 違うお経、一部は同じだけれどもほとん ど違うお経などが、さ まざまあらわれるようになりました。 水野弘元博士『経典−その成立と展開』によれば、 「原始経典の中には、仏滅後になってから、仏の遺弟たちによって説かれたものもかなり あります。 これらは仏滅直後の第一結集では誦出されなかったものであるのに、どうしてそれらが現 存経典の中に含まれているかといえば、おそらく第二回以後の結集で、経典として誦出さ れたものと思われます」と書かれています。 つまり、阿含経典のうちには、後世につくられた経典も多数あるのです。 確かに、阿含経典には、間違いなく釈尊その人が説かれたであろ うと断定されていることばの数々が含まれていることは間違いな いと思います。 しかし、阿含経典の全ての作者が釈尊であるか といえば、そうとはいえない。 大乗のお経は、お釈迦さんの言葉ではない、という非難はずっと 昔からあるようです。 お経が仏教にとって大切だというのは、 それが、単に、お釈迦さんという一人の人物の教 えを記録して いるということによるのではなく、「さとった人」が語った「さ とった内 容」と「さとりにいたる方法」を盛り込んでいるとい うことによるからです。 当たり前ですが、「さとった人」とい うのは、「仏」のことです。 お釈迦さんは、「仏」に違いあり ませんが、「仏」はお釈迦さんだけではありません。 お釈迦さ んと同じ境地に達したと自他共に認める人は、すべて「仏」とい うことになりま す。 したがって、そういう仏の語った言葉は、 お釈迦さんの教えの流れを汲むもの、お釈迦さ んの教えの表現 (内容は同じ)を変えたものとして、じゅうぶんに「お経」の資 格を持つ ものといえます。 大乗のお経も、釈尊の教えを伝えるお経です。
971 :
名無しさん@1周年 :2000/08/03(木) 22:50
オマンコ臭い \5さま は大乗仏教成立の真相を必死になって 隠そうとなさってますね、これ即ち詐欺行為!!!(爆)
972 :
名無しさん@1周年 :2000/08/03(木) 22:54
おまんこにいれたい!!
973 :
名無しさん@1周年 :2000/08/03(木) 23:11
けつのあなにいれたい!!
974 :
ハエたたき :2000/08/03(木) 23:12
> 971@`972 あなたたち、相手を間違えていませんか? 阿含宗スレッドに戻りなさい。 待っていますよ。
975 :
名無しさん@1周年 :2000/08/03(木) 23:16
ヒステリー起こしちゃいかんぞよ! ハエたたきさん。
976 :
「立正佼成会と創価学会」からのコピペ :2000/08/03(木) 23:38
ハエたたき僧侶、こんなところで油売ってないで、答えてあげなさいな。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 名前: ハエたたき 投稿日: 2000/08/03(木) 21:11 > 411 正義の味方ウルトラマン さん > それは、無理でしょう、だって目に見えない世界を説いてお金儲けをしている、ところだもん。 おっしゃりたいことはよくわかるのですが、 “目に見えない世界を説いてお金儲けをしている” という説明は、説得力に欠けるし、揚げ足取りされますよ。 宗教、哲学というものは、そもそも目に見えない心をテーマにしているのです。 同じ見えないものでも、先祖や水子など、自分以外の霊魂(心)を取扱い品目にしている という指摘をされたかったのでしょうが・・・。 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/08/03(木) 22:22 >412 ハエたたきさん >“目に見えない世界を説いてお金儲けをしている” >という説明は、説得力に欠けるし、揚げ足取りされますよ。 以下の発言と食い違いが見られるように思います。 名前: はえたたき 投稿日: 2000/07/02(日) 23:27 残念なことに、現在の日本のありさまを見ると、 お坊さんの仕事といえば、 お葬式とかそのたぐいの、 死んだ人を相手にすることばかりのような気がします。 先祖供養の専門家がお坊さんであるかのようです。 さらにお寺の収益向上、 平たく言えば、金儲けのために、 水子のタタリがどうのこうのといって、 水子供養をあおるお寺が増えているようです。 まことに商魂たくましいかぎりです。 だから、現在のお坊さんたちやお寺は、 “葬式仏教”と批判をされるのでしょう。 批判されて当然です。 いくら生きるため、生活のためと言い訳をしたところで、 たとえ後ろめたい思いをかかえながらといえども、 お釈迦さんやそれぞれの宗派の開祖の教えに反した 堕落した生活をしていることは事実ですから・・・。
977 :
渡海 難 :2000/08/04(金) 00:44
「立正佼成会と創価学会」からのコピペさんへ 何が問題になっているんですか。 「以下の発言と食い違いが見られるように思います。」というのが問題なんですか。 どこがどういう風に食い違いがっているのか教えてもらえませんか。
978 :
ハエたたき :2000/08/04(金) 10:57
> 976 977 渡海 難さんが先にレスを付けてくださいましたが、 同様のレスを付けさせて貰いました。 取り敢えず、ご報告まで
979 :
その他 :2000/08/04(金) 16:44
南無さんへ 今日、和田稠先生のお話を聞きました。自分のモノサシが通用しなくなれば、それを捨てて新しいモノサシを使えばいいものを、自分のモノサシを握りしめ、それを守るために仏法を使っている、という話を聞きながら、南無さんの921の発言を思い出しました。 名無しさんばかりでなく門徒さんにも私の言葉は通じていないのかもしれませんね。そして通じないのは私が悪いのではなく、きちんと聞こうとしないからだなどと思ってしまいます。 坊主丸もうけ 私がこの言葉から想像するのは次のような坊主です。 ・水子供養で金儲けする坊主 ・先祖の霊が迷っているから供養しましょうと言う坊主 このように仏法を金儲けの手段にする人間のことを言っています。
980 :
その他 :2000/08/04(金) 16:45
行について 教えに従って行を修することによって仏になることが仏道の基本です。しかし修行すること仏になる人がはたしてどれだけいるでしょうか。 麻原は最終解脱者と称し、大川は釈尊の生まれ変わりと言っています。彼らを本当に仏陀だと思いますか。 彼らのことはおいとくとして、以前、求菩提山で密閉した洞窟に一週間こもるという行をした人が、信者の女性を強姦したとして逮捕されたことがありました。 行をすれば人格が向上したり、仏に近づくというものでもないようです。オウムの元出家信者たちが言っていますが、出家すると世間の人を下に見てしまうようになるそうです。 行を積むにつれて、我が増長していっているわけです。 それに対して、比叡山で千日回峰行を行った酒井師は、行をすればするほど自分のいたらなさがわかる、一生、行です、ということを言われています。 真摯に自分を省みれば、なんとかできると思っていたが何もできない自分であった、仏の境界から遠く離れた私であったと、気づかされるのでしょう。 なんのために行をするのかというと、自分のありのままの姿、身の事実を知るためではないでしょうか。すなわち罪悪深重煩悩熾盛の凡夫ということです。その事実に目覚め、頭が下がることは、同時に我にとらわれなくなることでもあると思います。 私がいて仏がいて、そして私が仏を信じる、というのではないと書きました。私が信じる、ということは、私というものがあるわけで、これは我を立てているのです。そういう我をそのままにした信心では、仏を信じているのではなく私を信じているというべきです。行によって我が増長されるのと一緒です。 社会活動と菩薩行について 釈尊が社会活動をされたかどうか知りませんが、行基や空海のように橋を架けため池を作り、あるいは飢饉の際に食べ物を施し、病人の手当をする。まことに立派な行いです。 しかしそれらは本来政治の仕事だと思います。 河上肇が「貧乏物語」で、貧乏を解消するためには社会の変革、経済や組織の改造と個人の変革が車の両輪とならなければならない、と言っています。社会の変革は政治の仕事であり、個人の変革は教育の仕事である。そして個人の改革、人心の改造の方が根本的だと言っています。 「もし社会のすべての人々がその心がけを一変しうるならば、社会組織は全然今日のままにしておいても、問題はすぐにも解決されてしまうのである。その心がけとは各個人が無用の贅沢をやめるという事ただそれだけの事である」 マルキストの河上はその後「貧乏物語」を否定しましたが、個人の変革が社会の変革をうながすというのは、もっともな意見だと思います。そして宗教とは社会を変革するものでなく、個人にはたらきかけるものだと思います。 もちろん社会活動をするなとか、意味がない、などと言うつもりはさらさらありません。仏法のはたらきによって、自ずとそうした活動を行うようになるのではないかと思います。 ただそれが菩薩行だというのは賛成できません。私は社会活動をしているのだ、菩薩行だ、という増上慢になってしまいませんか。
981 :
その他 :2000/08/04(金) 17:39
長文だと読みにくいし、読みたくないのはわかります。 しかし、南無阿弥陀仏とはどういう意味かを959が言うように短文で語れば、わからない部分がでてくるし、誤解を受けやすい。再度、説明しなくてはならない。結局、長文になりますね。 >958 布施のことが心配なら、あなたの家のお寺さんへ行って、布施はどのようにされていますか、とお聞き下さい。 >949どうも僧侶とは完全無欠の存在だという誤解をされている >ようです。そんな人間はそれこそ仏陀です。前にも書きましたが、 >そんなお坊さんをご存じなのでしょうか。 >だから葬式仏教もオーケーってわけですね、 だから葬式仏教もオーケーだとは書いていませんが。よく意味が分かりません。 現代の日本に戒律をきちんと守っている僧侶はいくらもいないと思います。そういう時代においてどういう教えならば救われるのかを考える必要があるでしょう。 葬式仏教については、以前書きました。読んで下さい。葬式に仏教がなくなっているということが問題なのです。
982 :
その他 :2000/08/04(金) 17:40
>960 >「死んだら極楽に往生するとか、念仏さえ称えれば救われるというのが、 >真宗の教えであると思っている人がある」 >この「 」内を、肯定しているのか否定しているのか?ご解答を。 肯定でも否定でもない、と答えたら怒られそうですね。その説明をするとまた長くなるのですが。 「 」内だけでは言葉が足りない、ということです。中途半端な理解である、ということです。 それと、一つの概念に執着するのは我執だということです。しかし、我々はついとらわれてしまう。「 」内のこともそれにとらわれてはいけません。 念仏を称えることが出発ですが、それにとらわれると、念仏さえ称えればそれでいいとなる。それでは、蛙が鳴くのと変わらないと道元も言っているそうです。 南無阿弥陀仏とは何か、念仏を称えるとはどういうことか、を知らなければなりません。しかし理解したらそれでいいというわけでもありません。知識をえたにすぎないからです。得た知識にとらわれて分かったような気になります。それでは少しも分かったことになりません。 真宗も仏教ですから、とらわれから離れる、ということが一番なのです。 ますますわからない、と言われそうですね。
983 :
その他 :2000/08/04(金) 17:41
>968 >人に迷惑をかけてはいけない。 これは言っていません。人に迷惑をかけなければ生きていけないのが人間だと言っています。 人を殺してはいけない。全くもっともです。しかし殺そうとは思わなくても条件が整えば人を殺すこともあるでしょう。オウムの殺人犯なんか他人事ではないですよね。 してはならないことでもついしてしまう。同じ失敗を何度も繰り返してしまう。それが人間の現実の姿なわけです。どうにもならない自分という立場に立って、ではどういう道があるだろうかを考えてもいいのでは。 >969 >「真理は一行で語られる」 一行どころか一言で語ろうとしてついには気が狂った、という小説があったように思います。 真宗の教えを一行で語れば、南無阿弥陀仏、でいいのですが、それではだめでしょうから、 「本願を信じ念仏を申さば仏になる」 でしょう。もちろん他の言い方もあります。もっともこれはどういう意味かを説明すれば長くなりますけれど。 1,「阿弥陀さんなんてどこにもいない。浄土なんてどこにもない」 2、「ブッダは阿弥陀仏も浄土も説いていない」 ということですが、 1については、どこかに実在しているといえば嘘になります。じゃあ何かということは、南無さんたちも以前に書かれていますし、私も947に書きました。 2については、歴史上の釈尊はそうですが、ブッダを歴史上の釈尊に限定しなければ、仏陀は阿弥陀仏も浄土も説いています。 >大乗仏教成立の真相を必死になって隠そうとなさってますね だれも隠そうとはしていないでしょう。それともあっと驚く真相があるのですか。 >976 >金儲けのために、水子のタタリがどうのこうのといって、 >水子供養をあおるお寺が増えているようです。 こういう寺とは阿含宗を始めとする真宗以外の宗派の寺です。真宗寺院で水子供養する寺がどれだけあるでしょうか。
984 :
佐田和成@本物 :2000/08/04(金) 17:42
坊主丸儲けとは、税金を払わない門宗を言います。
985 :
渡海 難 :2000/08/04(金) 18:47
Guge.Mada mega samenai de tsuzuite irunda (>_<) Hayaku ohirakini naranaikana.
986 :
その他 :2000/08/04(金) 18:54
>969 >無量寿経に書いていれば真実なのかどうなのかを全く検証せずに、 >このありがたい言葉は無量寿経にかかれていますとやるわけだ。 >ありがたい!と 思わないようにね。無量寿経から検証しないといけない。 まことにごもっともなご意見です。 検証して問題点があれば教えて下さい。
987 :
その他 :2000/08/04(金) 18:59
>984 税金を払わないとはどういうことでしょうか。 布施収入に税金がかからないことを言っているのでしょうか。 真宗に限らないわけで、それについてなら政治のスレッドで問題にすべきだろうと思います。 >985 あなたも長文の難しいレスをしています。 自分の意見ならいいわけで、人の意見など聞きたくないということでしょうか。 あなたに対する非難にそうかもしれないという気は起きないのですか。
988 :
渡海 難 :2000/08/04(金) 19:56
Iyahaya nanto ittra iindro. Iu kotoba ga nai. Koko de wa kai ni narou.
989 :
名無しさん@1周年 :2000/08/04(金) 20:15
>その他さん 983での”南無阿弥陀仏、でいいのですが”の部分についてですが、貴方は確かに 南無阿弥陀仏に関して、多くの知識を持ち、深く考察されていることでしょう。そこで質問させて頂きます。 南無阿弥陀仏しか知らない人の南無阿弥陀仏と貴方の南無阿弥陀仏、もちろん仏への念仏と言う意味あいにおいてですが、なんらかの違いがあるのでしょうか?
990 :
南無 :2000/08/04(金) 22:48
>944です。名無しさんの >念仏だけでは不充分 これは名無しさんの理解されている仏教には値しないという意味ですね。 それでいいのではないでしょうか?別に不都合は無いと思います。 名無しさんの仏教は釈尊と同じくまたは釈尊に近づくもの、自分が仏になること(成仏)を 目的としていらっしゃるのでしょう。釈尊ご自身が対機説法をなさっていたということは、 釈尊ご自身が人間の能力の差を認識されていたということですね。従って成仏してゆく方法 を説きながら、そのことが不可能な人間の事も同時に視野に入れておられた。ならばそうした 自分の能力で成仏することの出来ない人間は見捨てられたのでしょうか?そうではないでしょう。 能力のない人間に「念仏一つ」と道を示して下さったのだ、と釈尊の教えを受け取ってきたのが 浄土教の歴史だと言えるのではないでしょうか。それは名無しさんにとって無用の道かもしれない。 仏教と認めるに値しない道かもしれない。しかし、その道においてのみ、人間に生まれたことを 喜び、生きていることを見つめることが初めて出来たという人々の歴史が事実あるのです。 >979 その他さん。 和田稠先生には長い間、お会いしていませんが、お元気とのこと風の噂でお聞きしております。 私は先日、宮城 先生にお会いしておりました。 >989です。 その他さん ではありませんが、お許し下さい。 >南無阿弥陀仏しか知らない人 この言葉の意味がはっきりいたしません。意味がズレてしまうかも知れませんか、 南無阿弥陀仏は一つでしょう。南無阿弥陀仏に色々ある訳ではない。南無阿弥陀仏を 申す私達の側に色々な理解が出てくる、勝手に色々に理解するということでしょう。 南無阿弥陀仏(念仏)を申すことが現世利益を求めるものならば、真宗で教えられる 念仏とは違うということです。先祖供養・水子供養が、自分への災いを除き幸福を もたらすものと期待しているならば、先祖・水子に名を借りた自身の欲望の追求です。
991 :
名無しさん :2000/08/05(土) 09:04
yousuruni@`kokonikakikomisiterubousanntachiha@` jibunnosyozokusiterusyuuhawomamorunoni seiiltupainandane!
992 :
名無しさん :2000/08/05(土) 09:16
ブッダの言葉 スッタニパータ 岩波文庫に載っています。 質問に対する、長たらしい言葉、逆質問は虚偽であると知れ。 ブッダの真理の言葉は、簡明直裁である。 スッタニパータやや後半。ある人々が真理を求めて、各宗派を 遍歴する場面です。 真宗が私たちに伝える言葉は、ブッダの真理ではないようですね。
993 :
名無しさん@1周年 :2000/08/05(土) 09:58
ブッタの真理より、親鸞上人の真理ならばいいのです。
994 :
佐田和成@本物 :2000/08/05(土) 10:22
宗教法人税に感しては、坊さんの協会や団体或は影響力のある 個人坊主が一言「寺社に対する世論が今と昔では違い、我々も 税免除の項をいくつか返上しよう」言えばいい。 政治のせいにする事は無い!
995 :
ニセその他 :2000/08/05(土) 13:57
>989 南無阿弥陀仏を自分なりに受けとめますと、いろんな表現で言えると思います。それが違っているから間違いだとは言えないと思います。 ただ多くの人は南無阿弥陀仏を呪文のように考えているのではないでしょうか。また極楽とは死後の理想郷のように。これは間違いです。 >991 おっしゃるとおり、教団とか自分の立場を守るために汲々としています。 >992 確かに長文になってしまうのは私の能力不足です。 できましたら法句経の何番か教えてもらえないでしょうか。 >994 影響力のない個人坊主はどうしたらいいでしょう。
996 :
>995 :2000/08/05(土) 15:08
法句経は、ダンマパダ(Dhammapada@`真理のことば)。
997 :
名無しさん :2000/08/05(土) 15:36
真理の言葉、スッタニパータ。前から2/3のあたり。 数頁にわたるお話。
998 :
>496 :2000/08/05(土) 15:37
法句経のパーリー文ダンマ・パダ 或いはウダナーヴルガの中村元の 現代語訳か? 漢訳の法句経(2巻)か? パーリー経蔵の第二経の何章なのか? パーリ語原本かい?英訳・独語訳かい? 引用しないとワカランよ。
999 :
>997 :2000/08/05(土) 15:39
間違えた、すまん>496 同じ質問>997
1000 :
名無しA :2000/08/05(土) 15:43
スッタ・ニパータって韻文詩の五章の 何処?
1001 :
名無しさん@1周年 :2000/08/05(土) 16:21
ウメボシクッテスッパマン
1002 :
¥5さま :2000/08/05(土) 16:26
何が問題なのか、私にはよくわからない難しい議論になってしまっているようですね。 ピンとはずれかもしれませんが、仏陀・釈尊の教え、目標を一言で言えば、 さとって、解脱して、涅槃(ねはん)に入ることを最終目標としているのでしょう。 「さとり」とは、わたしの苦しみのもとである、私たち自身の心の奥底にある迷いをふっ きることでしょう。 その定義にあてはまるものは仏教だし、定義からはずれるものは外道でしょう。
1003 :
名無しさん :2000/08/05(土) 16:32
>998 スッタニパータというのはね 「8回で唱えられるべき分量の経典」、短いの。 知ったかぶりしている暇があったら、ぱらぱらとめくれば 分かるでしょう。ダンマパダじゃないよ。
1004 :
帯に短し、たすきに長し :2000/08/05(土) 17:41
>短文好きの皆様 質問に対する、長たらしい言葉、逆質問は虚偽であると知れ。 この文章はスパッと言い切った小気味よい文章です。 確かに虚偽を示す必要条件の一つではあります。 しかしこの文章だけを抜き出してここに示す場合には、少し言葉が不足していると思います。 下記のように示すべきではないでしょうか。 質問に対する、必要以上に長たらしい言葉、質問に答えずに返す逆質問は虚偽であると知れ。
1005 :
>1002 :2000/08/05(土) 18:16
初期仏教経典 阿含経 南伝 相応部経典 四三、三四、涅槃 かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジエータ(祇陀)林なるアナータピンディカ (給弧独)の園にましました。 その時、世尊は、比丘たちに告げて、つぎのように仰せられた。 「比丘たちよ、わたしは、汝らのために、涅槃と涅槃にいたる道を説こうと思う。よく聞くがよい。 比丘たちよ、では、涅槃とは何であろうか。比丘たちよ、貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊 滅、これを称して涅槃というのである。 比丘たちよ、また、涅槃にいたる道とは何であろうか。比丘たちよ、ここに比丘があって、遠 離により、離貪により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して、正見を修め育てる。また、遠 離により、……正思を修め育てる。……正語を修め育てる。……正業を修め育てる。……正命を 修め育てる。……正精進を修め育てる。……正念を修め育てる。……正定を修め育てる。比丘た ちよ、これを称して涅槃にいたる道というのである。 比丘たちよ、このようにして、わたしは、汝らのために、涅槃を説き、涅槃にいたる道を説い た。 比丘たちよ、およそ、弟子のさいわいを願い、慈しみある師が、慈しみをもって、弟子たちの ために為すべきことは、わたしはすべて、これを汝らのために為した。 比丘たちよ、ここに樹下がある。ここに空屋がある。思索するがよい。放逸であってはならぬ。 後日に悔いることなかれ。これが、汝らに与えるわたしの教誡である」
1006 :
>1002 :2000/08/05(土) 18:18
初期仏教経典 阿含経 南伝 相応部経典 四五、八、分別 かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータビンディカ (給孤独)の園にましました。その時、世尊は、もろもろの比丘たちに告げていった。 「比丘たちよ、いまわたしは汝らのために聖なる八支の道を説こうと思う。ひとつ、それを汝ら のために分析してみようと思う。よく注意して聞くがよろしい。そして、よくよく考えてみるが よろしい。では、わたしは説こう」 「大徳よ、かしこまりました」 と、彼ら比丘たちは世尊にこたえた。世尊は説いていった。 「比丘たちよ、いかなるをか聖なる八支の道というのであろうか。いわく、正見・正思・正語・ 正業・正命・正精進・正念・正定である。 比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦 の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。 比丘たちよ、これを名づけて正見というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正思というのであろうか。比丘たちよ、迷いの世間を離れたいと思 うこと、悪意を抱くことから免れたいと思うこと、他者を害することなからんと思うことがそれ である。比丘たちよ、これを名づけて正思というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正語というのであろうか。比丘たちよ、偽りの言葉を離れること、 中傷する言葉を離れること、そ悪な言葉を離れること、および雑穢なる言葉を離れることがそれ である。比丘たちよ、これを名づけて正語というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正業というのであろうか。比丘たちよ、殺生を離れること、与えら れざるを取らどること、清浄ならぬ行為を離れることがそれである。比丘たちよ、これを名づけ て正業というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正命というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の聖なる弟子が あり、よこしまの生き方を断って、正しい出家の法をまもって生きる。比丘たちよ、その時、こ れを名づけて正命というのである。 比丘たちよ、いかなるをか正精進というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があり、 いまだ生ぜざる悪しきことは生ぜざらしめんと志を起して、ただひたすらに、つとめ励み、心を 振い起して努力をする。あるいは、すでに生じた悪しきことを断とうとして志を起し、ただひた すらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいは、いまだ生ぜざる善きことを生ぜし めんがために志を起し、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。あるいはま た、すでに生じた善きことを住せしめ、忘れず、ますます修習して、全きにいたらしめたいと志 をたてて、ただひたすらに、つとめ励み、心を振い起して努力をする。比丘たちよ、その時、こ れを名づけて正精進というのである。
1007 :
>1002 :2000/08/05(土) 18:19
比丘たちよ、いかなるをか正念というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、 わが身において身というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、 それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。また、わが感覚において感覚というも のをこまかく観察する。熱心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪 りと憂いとを調伏して住する。あるいは、わが心において心というものをこまかく観察する。熱 心に、よく気をつけ、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住す る。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心に、よく気をつ け、心をこめて観察し、それによってこの世間の貪りと憂いとを調伏して住する。比丘たちよ、 この時これを名づけて正念というのである。 比丘たちよ、では、いかなるをか正定というのであろうか。比丘たちよ、ここに一人の比丘が あって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、なお対象に心をひかれながら も、それより離れることに喜びと楽しみを感ずる境地にいたる。これを初禅を具足して住すると いう。だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内浄らかにして心は一向となり、も はやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じたる喜びと楽しみのみの境地にいた る。これを第二禅を具足して住するという。さらに彼は、その喜びをもまた離れるがゆえに、い まや彼は、内心平等にして執著なく、ただ念があり、慧があり、楽しみがあるのみの境地にいた る。これを、もろもろの聖者たちは、捨あり、念ありて、楽住するという。これを第三禅を具足 して住するというのである。さらにまた彼は、楽をも苦をも断ずる。さきには、すでに喜びをも 憂いをも滅したのであるから、いまや彼は、不苦・不楽にして、ただ、捨あり、念ありて、清浄 なる境地にいたる。これを第四禅を具足して住するという。もろもろの比丘たちよ、これを名づ けて正定というのである」
1008 :
名無しA :2000/08/05(土) 18:26
あっちゃあ。よー分からなくて、ごめんなさいな。 >998さん。 原始教典派ですか。(そんな派は日本仏教界には無いですが) 真宗とは違うのだったら、真理の違いで、もう それで完結しているはずだよね。 >992さんとも同じ人かな、違ったら、ごめんなさい。 宗派って、バラモン教等のことなんかなぁ? けれど、言いたいことは、釈尊の言葉であっても 限りなく近いかもしれない教典だけれどね、 >質問に対する、長たらしい言葉、逆質問は虚偽であると知れ。 >ブッダの真理の言葉は、簡明直裁である。 これは、その他さんや南無さんへの批判で使われているならば 仏教なり仏説の引用こそ \5さんが、書いている通り外道の使い方ではないのかなと、 僕は思うよ。 真宗に対抗して、或いは、現職僧侶に対抗して何を 「わたしたち」って、書かれているのでしょうか。 対抗するならば、現実の日本仏教界で対立されれば どうでしょうか。 「わたしたち」=「真宗の言葉は仏説ではない」派 ならば、それは、それで完結しているのだから、 992さん無意味な時間 ここで費やしても不毛じゃないのかなあ。 ところで、現職僧侶や真宗の坊主とか、多く書かれているけれど 実際に会い、喋ったことって、あるのだろうか。 また、こう書けば、会う必要も無いとのレス来るだろうな。 一生懸命に、その他住職さん、南無さんって、真摯に書いて いる きもち って、どこから わいてくる のか 僕は、その点を看ているよ。
1009 :
小笠原流見習い :2000/08/05(土) 18:33
>1005、1006、1007 こりゃ大変だ、箸の使い方、尻のふき方まで指導されそう。
1010 :
名無しさん :2000/08/05(土) 18:37
>ところで、現職僧侶や真宗の坊主とか、多く書かれているけれど >実際に会い、喋ったことって、あるのだろうか。 992です。ぜひお会いしたいのですが、オフ会の企画をお願いします。 1005とは別人です。
1011 :
渡海 難 :2000/08/05(土) 19:00
Bun no nagasa nado wa doudemo ii hanashi nanosa. Nagai bundemo aiteno kokorowo uteba@` kanketsu da to itte moraeru no sa. Nagai bun wo kaite@` nagasugiru to iwarereba honto wa nagasano mondaizya nai no sa . Naiyo ga nai. Kokoro ni hibikanakatta to iu koto sa. Bousan wa kotoba ga inochi. Kotoba de syobu suru no sa. Kotoba de sikkaku to iu koto dakeno hanasidaro. Dohyo ni agaru maeni okyakusan kara reddo kahdo wo tsukitsuke rarete irunosa. Wakaranai no kana.
1012 :
ニセその他 :2000/08/05(土) 19:30
和田先生の寺では毎年、夏期講習をしているそうです。 ある時の参加者に、洗礼を受けるべきか悩んでいたキリスト教徒がいて、講習の最後に、洗礼を受ける決心がつきました、と言って帰ったそうです。 また、金光教の信者は金光教の機関誌に、真宗の教えを聞いてオヤガミ(?)様のお言葉がよく分かるようになりました、これからも真宗の話を聞いていこうと思います、と書いたそうです。 私の2チャンネルにおける行状を省みて、恥ずかしくなりました。
1013 :
名無しA :2000/08/05(土) 19:31
ふう、992さん。1005さん別人なのですね。 僕の書き込み失礼あったら、憤慨されていたら すいません。 オフ会の提案ですが、南無さんや、その他さん、 \5さん、南本願寺さん等、一連の現役真宗僧侶さん達 の寺院も教区は違うと思うので、なかなか難しいでしょうね。 僕が、勧めるのも何だけれど、992さんの近くには真宗の寺院は 在りませんか?今、お盆前で、みなさん、お忙しいけれど、 今、922さんが思っていることを、電話でも良いからアポを とってみませんか。その寺院の応対次第では、それこそ とんでもない哀しい結果にもなるけれど、、、、、、、。 ここに書いていらっしゃる真摯な現役僧侶さんの方が圧倒的に 多いと思う。如何ですか?南無さん方 ご住職。別院や教務所へ行けなんて、仰有らないでしょう。 南無さん、その他さん。 名無しさんって、あまりにも多いので、誰が 誰か、さっぱりワカランよーになって、よく、これだけ、 皆さんにレス返していらっしゃいますね。僕は、何が 何だか、誰って、文脈や文章で検討付けろと批判は あると思うけれど、読んでいて、頭の中パニックです。 いわゆる名無しさん行たちへの正直な僕の感想です。 まあ、僕がアホと、自分で称します。 そんなアホな僕の提案ですが、せめて、 僕が、名無Aとしたように、なんか、ハンドルネーム 付けた方が、やっぱり、分かり易いと僕は思うけれど みんな、どうなんだろう? それとカキコも自由だけれど、ローマ字は、失礼だと 僕は、このスレッドでは感じる。 そして、何回も繰り返すが、仏法の こころ が 無ければ、南無さんや、その他さんなんか、こんなに 一生懸命書かない。 その点に、なんで、みな分からないのかと、僕は 不思議に感じます。
1014 :
ニセその他 :2000/08/05(土) 19:45
>1011 中学の頃、オールナイトニッポンを聞きたくて、眠いのを我慢しながらラジオを聴いていました。 オールナイトニッポンの前に、たぶんYMCAの提供の番組があり、最初に河内桃子さんが、 「心に愛がなければどんな言葉も相手の胸に響かない、聖パウロの言葉より」 と言っていたのを思い出しました。 私と同年輩の人なら、そうそう、と言うでしょう。 個人的な思い出話でごめんなさい。 それと、前に三帰依文についてあれこれ言われていたけれど、確かにおっしゃるとおりだと思う。 三宝に帰依すると言いながら、やっぱり自分をたのんでいることには間違いない。
1015 :
ニセその他 :2000/08/05(土) 20:05
>南無さんへ 私の市では以前、戦没者追悼法要を護国神社でやっていました。神社の境内で仏式の法要をするのはけしからんという神社本庁のクレームで、西本願寺別院でするようになりました。 私も護国神社なんかでするとはと思っていたのですが、異宗教間の交流という意味では悪くないような気が最近はします。 どんなもんでしょうか。
1016 :
名無しさん :2000/08/05(土) 21:20
992です、内容がだいぶ違ってました。訂正します。 スッタニパータ 第三 大いなる章 六、サビア (六師外道は) しかるにかれらは遍歴の行者サビアに質問されても、満足に答えることが できなかった。そうして、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわにしたのみならず、 返って遍歴の行者サビアに反問した。 (ブッダは) 510 511師は答えた「略、あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に 答えましょう。 「順次に、適切に、明確に」ですね。合掌。
1017 :
思い出 :2000/08/05(土) 21:29
妹の嫁ぎ先で法事があり、わしも行ったのだ。真宗の僧侶が来ておって、自作の”解る真宗”みたいな物を配って、色々と話をしてくれた。なかなか熱心なお坊さんだな、経を唱えるだけより、退屈しないなと思ったのですが、退屈させない神髄を法事の日の夜に見せてくれたのです。 夜に妹から電話がありました。あの坊さんから電話がかかってきて、(貴方は失礼な人です言いたくないですが、あの金額はなんですか。良く考えなさい)こう言って電話を切ったと言うのです。”失礼なのはどっちよ”妹は怒っておりました。 妹の名誉の為に言っときますが、一般的な金額を渡しておりました。 その後どうなったかは実話につき省略です。
1018 :
名無しさん@1周年 :2000/08/05(土) 22:25
>1017 「思い出」さん。それはあなた自身が,宗教を只のサービス業のごとく考えているからの怒りなんです。 たしかに,いろいろ問題もありましょうが,少なくともあなたなんかよりはるかに真剣に「宗教」と付き合っている人間(僧侶)について,そんな言いざましかできないあなたは哀れです。 「無縁の衆生」・・・
1019 :
名無しさん@1周年 :2000/08/05(土) 22:32
↑ 付け加え。 生死出離の道を2500年間ひたすら模索してきた仏教徒を愚弄する「思い出」とやら,自分で自分の死を始末できるものならやってみろ!!! 自分の死を覚悟の上で,そんなカキコをしているんなら,貴様の死生観を言ってみろ!!!
1020 :
南無 :2000/08/05(土) 22:35
>1013 名無しA さん、こんばんわ。 正直なところ名無しさんついては識別できてません。まぁそれでもいいかと。 HN付けてもらうほうが解かりやすいのは勿論です。1010でも提案のオフ会 ですが・・。坊主は二日以降の予定が解からないですから、そこら辺の事情を ご理解頂かないとお約束が難しい? >1015です。 自坊で毎年慎ましく「戦没者追悼法要」(一座)を勤めてます。ですから忠魂碑のほうは 神主さんにお任せです。 「異宗教間の交流」これは今後大切になってゆくと思います。各宗教間でクロスオ−バ− する部分と出来ない部分の確認がなされた上で、何ができるのかという視座は重要になる と考えます。異宗教間の交流は内的には他の宗教批判ではなく、自らの信仰の確認という 意味であり、外的には対社会、対世間への啓蒙ということにでもなるのでしょうか。 例えば「戦争犠牲者」の方々に対する受け取り方が神道と仏教が違うとしても、 戦争はしてはならない(反戦)という立場には共に立っていけるという事として。 けど、大きなこと言う前に、真宗十派の中でまず考えてみるべきだと言われそうですね。 私の教区内での大谷派と本派の交流といえばゴルフのコンペだけです。何か情けない。 >1017です。 何と申し上げてよいのやら・・・。
1021 :
南無 :2000/08/05(土) 22:43
>1018.1019 >真剣に「宗教」と付き合っている人間 >生死出離の道を2500年間ひたすら模索してきた仏教徒 以上の人間は「布施」強要してもいいということには絶対ならない。
1022 :
思い出 :2000/08/05(土) 22:58
>1018、1019 ははは、1018、1019が真宗の坊さんなら面白いんだけどな〜〜〜 まあ無さそうだな。 死生観?覚悟なんか無くても人は死にます。自分の死を始末できなくても人は死にます。 そのうち恐くてたまらなくなったら、宗教にすがる予定です。
1024 :
思い出 :2000/08/05(土) 23:13
> 南無さん 何と申し上げてよいのやら・・・。というほどの事では無いのです。 少しだけ話しますと、家の格が云々と言う事のようでありました。 別に悪い人ではないのです。南無さんはどう思われるか解りませんが、本当に心から格から言って金額が先祖に対して失礼だと思っていたようです。
1025 :
ニセその他 :2000/08/06(日) 07:17
布施収入に法人税がかかり、固定資産税や相続税を払うとなると、おそらく多くの寺院は維持できなくてつぶれると思います。 駐車場や借家などからの収入にかかる税金は一般に比べて安い。これは一般と同じ税率にすべきだと思います。 しかし、私の住んでいる市などは真宗寺院は境内が狭いのですが、他宗派寺院は広くて駐車場で儲けています。 宗教法人と税については他のスレッドを立てて論じたらどうでしょう。
1026 :
渡海 難 :2000/08/06(日) 08:42
1024さんへ。 >金額が先祖に対して失礼だと思っていたようです。 お寺さんの受取金額は、お檀家の先祖の格に従って決まるんですか。どちらの迷信地方のお話ですか。 お檀家の先祖が偉いさんだと、御子孫はずっとお寺さんに高額のお布施を払わないといけないのでしょうか。お檀家の先祖がお粗末だと、御子孫はずっとお寺さんに対し肩身が狭いということにもなるのでしょうか。おかしな話です。お寺さんがいただくお布施は、ユーザーさんに提供した言葉の対価であるべきでしょう。御先祖さんの格に従うというのは筋が違うと思いますよ。 パン屋さんは、お客さんにパンを提供し、ユーザーさんに喜んでもらって代金をいただく。魚屋さんは、、お客さんに魚を提供し、ユーザーさんに喜んでもらって代金をいただく。お寺さんは、心を打つ言葉を提供し、ユーザーさんに喜んでもらって代金(お布施)をいただくのが原則でしょう。 お布施は、心霊的葬儀の執行手数料ではない。水子の呪術的供養手数料でもない。相手に提供した言葉の代価でなければいけない。お寺さんがお葬式をするのもいい。水子供養するのもいい。人が亡くなって嘆き悲しんでいる人がいる。流産して嘆き悲しんでいる女性がいる。「人には霊魂なんかありません。人は死ねばゴミになります。空気と水になって消えて行くんですよ。あははははー」なんて言えば、相手は悲しみを倍加する。気持ちに整理がつかない。悲しんでいる人には、悲しみの気持に整理が付くように、あるいは人生に区切りが付くように、特別な演出をして上げることは、坊さんとして決して恥じる行為じゃない。ただし、そうした執行行為は、言葉で勝負するという基盤の延長上にあるべきものでしょう。言葉は、葬式の付属物じゃない。葬式セレモニーこそ、提供する言葉の付属物であるべきでしょう。 悲しんでいる人が、気持ちの上で整理が付いて、新たな人生に踏み出して行けるなら「亡くなったご主人はこれで御浄土に行かれましたよ」と言って上げることも、カウンセリングの一貫として意味がある。死んだご主人の魂が御浄土に行ったかどうかなどは、本当は誰にも分からない。そんなことよりも、遺族が嘆き悲しみ、気持ちに整理が付かないでいれば、そちらが問題。遺族が悲しみに整理が付けば、死んだご主人が地獄に行っても、極楽に行っていてもいい。遺族に気持ちの整理を与える目的で、「霊魂がお浄土に行かれましたよ」というのは、遺族(ユーザー)に対する心理治療学的な提供手法の一つとして妥当なものでしょう。 「亡くなったご主人はこれで御浄土に行かれましたよ」と言っていいか悪いかは、要は結果判断になる。遺族の気持ちに整理が付いて意欲的に人生に歩み出せるようになれば成功。その言葉によって、遺族がお寺さんにますます多額のお金を払わなければならなくなっていけば、それは失敗と言っていい。浄土は実在するかどうかという哲学的な議論とは別次元の問題です。 お寺さんは言葉が勝負。言葉で勝負する。自分の環境下で身動きできなくなっている人に言葉を提供し、心を揺り動かし、喜んでもらってお金を貰う。心を打つ言葉を提供するのがお坊さんの仕事。心を打つ言葉を提供しないでお金を貰う坊さんは、商品を与えないで代金を取る詐欺師と同じ。お檀家の先祖の格という幻に吸い付いて、その子孫からお金を搾り取るのが仕事だと思っている坊さんは、詐欺師と言っていい。 パン屋さんはパンが商品。魚屋さんは魚が商品。代金は一つ一つの商品を提供するたびに貰う。商品をお客さんに投げつけるパン屋さんはいない。魚屋さんはいない。売り言葉に買い言葉で、商品を投げつけるお寺さんは商売人失格。言葉を提供し、提供した言葉で喜んで貰えないお寺さんは、失格なんですよ。 パンの中には、甘いパンもあれば堅いパンもある。堅いパンは、口の中に長く含んでいるとおいしくなる。言葉の中には優しい言葉もあれば苦い言葉もある。受け取った瞬間は喜んで貰えなくても、しばらくして相手の心に染み渡り、喜んで貰えるようになる商品を提供できれば、それが芸術的プロの商品でしょう。腕のいい職人は、経済的な儲けを度外視しても芸術的なプロの商品に磨きをかける。 売り言葉に買い言葉。お寺さんに言葉をかけたら買い言葉が戻ってきた。お客さんが更に憤慨し、憤慨しっぱなしになったら、そんな言葉は商品ではない。パン屋からパンを受け取り、下痢を起こしてそのままユーザーが死んでしまえば、商品ではない。お寺さんは言葉が商品。相手の心を打つ商品、エンドユーザに喜んで貰える商品を提供してお金を貰う。元気を与えあるいは気持ちに整理を与えることでお布施(代金)をいただく。 ご先祖の格でお金を要求するお寺とは、二度とつきあうべきじゃないでしょう。
1027 :
ハエたたき :2000/08/06(日) 09:40
> 1024 思い出さん > 本当に心から格から言って金額が先祖に対して失礼だと思っていたようです。 言葉巧みな僧侶の、自分の醜い心をごまかすための言い訳だと思います。 浄土の教え、親鸞の教えからそんな言葉は出てこないと思います。 私も1円でも多くお金が欲しいけれども、そんな僧侶とは付き合いたくない。
1028 :
名無しさん :2000/08/06(日) 10:25
>1027 ハエタタキさん、 >私も1円でも多くお金が欲しいけれども これは僧侶が言うべき言葉では有りません。貪欲の肯定になります。 「わたしは生活に必要な(最小限の)お金はほしいですけど」と言うべきです。
1029 :
思い出 :2000/08/06(日) 11:07
>1026さん 先祖の格では無くて妹の嫁ぎ先が田舎の資産家なのです。 そこの親が法事の時に渡していた金額より少なかったと言う事みたいです。 一応事前に金額のお伺いをすると、いくらでも良いですよと言ったみたいです。 まだ金額をはっきり言う坊さんの方がビジネスライクでましと言う事ですね。 ただその寺との対応は私がとやかく言う事はできません。 嫁ぎ先の考える事でしょう。おそらく変わらないと思いますが。
1030 :
ニセその他 :2000/08/06(日) 15:19
名無しさんからの書き込みが減りましたね。なんだかさみしいです。 私は頭が悪いものだから、二、三日しないと質問の答が思い浮かばないのです。 盆のこととか、極楽のこととか、書きたいことが沢山あるのですが、それらの質問は過去のお話になって、今さら書くのも変ですね。 名無しさん、どんどん意見を言って下さい。私もあれこれ考えるので勉強になります。
1031 :
渡海 難 :2000/08/06(日) 15:39
1029さんへ 実際にはもっといろいろな事情があるんでしょう。 インターネットで書けることはごく一部です。断片的になります。貴方が書いたことが全てとは思いません。こちらも書いてないことは聞きただしません。インターネットは書きたい奴が好き勝手なことを無責任に書いている。何か気になさったら、気にしない方がいいでしょう。 普段、頻繁に書き込んでいる人は、自分に反対するような意見が書き込まれている場合、反論しておかないと気がすまない。実際の事情はどうでも、文字面では反論だけしておくということはあると思います。
1032 :
名無しさん@1周年 :2000/08/06(日) 18:20
渡海さんへ、ハエたたきスレッドからの引用。 >>スッタニパータ 510 511師(仏陀)は答えた 「略、あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に 答えましょう。」 >どうも、渡海さんの言葉は長々しくて、適切でもないし >明確ではないような気がします。 教えを語る人の言葉としては不適切ではありませんか? もう少し整理できると思うのですが。1026は10行以内に まとまるでしょう。「教えを語る人」でなければそんな事は言 いませんが。「惑わす人」にならないようにね。
1033 :
渡海 難 :2000/08/06(日) 18:59
>もう少し整理できると思うのです (^^ゞ いやはや。 4行に整理します。 「お寺さんは言葉が商品。 相手の心を打つ商品、エンドユーザに喜んで貰える商品を提供してお金を貰う。 元気を与えあるいは気持ちに整理を与えることでお布施(代金)をいただく。 ご先祖の格でお金を要求するお寺とは、二度とつきあうべきじゃないでしょう。」 いかがでしょうか?
1034 :
名無しさん@1周年 :2000/08/06(日) 20:43
>1033渡海さんありがとうございます。 こんな素直なお坊さんは珍しい?ですね。好感が持てますね。 1)お寺さんは言葉が商品 →お寺さんは真実が商品。 2)相手の心を打つ商品、エンドユーザに喜んで貰える商品を 提供して →真実と慈悲しか、心を打つものはない 3)お布施は代金じゃない。信者が僧侶に供養して福徳をいただく ためのもの。 4)お金を要求するお寺;なんて言葉の矛盾。お布施は托鉢と同じ なのだから、黙っていただくもの。お礼も挨拶も文句もなし。 こう整理してみましたが、どう思われますか?
1035 :
名無しさん :2000/08/06(日) 21:13
>1034さん しかし慈悲って言葉良いですね。愛は難しい。 今さっき親に電話したけどね、気分悪かった。 実の親にも愛は持てないわ。慈悲ならなんとか 持てるけどね。
1036 :
名無しさん :2000/08/06(日) 21:14
愛と慈悲の違いについて。お坊さんがおられるようなので 教えてください。渡海さんもおねがいします。
1037 :
名無しさん@1周年 :2000/08/06(日) 21:23
慈悲?モ人間が持つのはあわれみ。仏が持つと愛。
1038 :
ニセその他 :2000/08/07(月) 13:15
>渡海さん >お寺さんは言葉が商品 ということが、坊主は上手な話をするのが仕事、という意味なら違うと思います。 大学の時、真宗の僧は人を救うとか説教するとかが仕事でない。お経を読むのが仕事だと言われました。その時は反発を感じました。 しかし、話をするプロになってはいけない、アマであるべきだと思います。
1039 :
ニセその他 :2000/08/07(月) 13:17
中村元「仏教語大辞典」を見れば、愛とは 「B愛執、執着すること、愛着すること C広くは煩悩を意味し、狭く貪欲と同じに用いられる。渇愛。 渇きに喩えられる盲目的な衝動。妄執。満足するまでやまない激しい欲望」 G愛好する H性愛。性的本能の衝動 I妻が夫を愛すること J子に対する愛 N慈悲に同じ」 とあり、解説に 「仏教者にとって、愛は憎しみと背中合わせであり,いかなる愛もその中に憎しみを可能性として蔵していると考えられていた。愛が深ければ深いほど憎しみの可能性も大きくなる。それは愛が本質的に自己を愛することを中心としているからである。 この苦悩の中から、呻きとしての「悲」(あわれみ)が生まれてくる。自己の呻きを知る者は、他人の苦悩にも共感できるし、苦悩するすべてのものへの親近感、友情ををもつようになる。これらが「慈」である。友ということばからつくられた。この慈悲が愛に代わってすすめられ、慈悲の究極として、無縁の大悲、つまりわたしが、だれに、どれだけのことを、という三つの条件を全く意識しないで、他者をしあわせにする無条件の大きな愛が説かれるようになった」(ところどころ省略しています)
1040 :
¥5さま :2000/08/07(月) 14:29
仏教用語としての「愛」は、love(ラヴ:慈愛、敬愛)ではないよ うです。 あえて英語にすると、egocentric(エゴセントリック:自己中心主 義)のようです。 渇愛(かつあい):渇きにも似た人間の愛着心 お互いに恋する心がつのればつのるほど苦しみが大きくなります。 欲しいものがあって、それが手に入らなければ、愛着、欲望の度合 いによってさらに苦しみが増します。 また、逆に、手に入れると、愛するものを「自分のもの」として、 永遠に繋ぎ止めておきたいという愛着、欲望に苦しまなければなり ません。
1041 :
¥5さま :2000/08/07(月) 14:30
慈悲 慈:友人、仲間、味方、真実の友情、 すべての人々に友情・思いやりの心を持つこと 悲:嘆き悲しむ、あわれみ、同情、呻き 慈悲:生きとし生けるものに対するいつくしみ、あわれみの情。 苦しみ悩むすべての人を救いとらんとする仏の心そのもの、 仏教そのもの 特定の人間に対してではなく、すべての人々=人類=仲間に対して 友情を持ち、仲間の苦しみの呻き声に共感することが、慈悲という ことではないでしょうか。
1042 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 14:37
税金払わず 丸儲け!
1043 :
¥5さま名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 14:57
> 1042 あれあれ、『阿含宗という宗教3』という新築のおうちに引っ越したら迷子さんになっちゃったかな? さぁさぁ、おばちゃんと一緒におかあさんのところへ帰ろうね。
1044 :
名無しさん :2000/08/07(月) 15:35
愛と慈悲の違いって、キリストの愛と、仏陀の慈悲の 違いって何だろうと思ったのです。 キリストの愛の国では、子供達がゴミの山に埋もれ死んでいる。 仏陀の慈悲の国では、困っている子供がいたらさりげなく助け ましたよね。(このごろはどうかな?)
1045 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 15:53
クラブでレミーを追加した 誰かと思えば くそ坊主!
1046 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 15:58
ごまかして 詠んで 貰った御布施も ごまかそう!
1047 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 16:00
1頁 抜かした御経も 盆供養!
1048 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 16:03
まんだら絵 坊主の口には まんこの毛!
1049 :
渡海 難 :2000/08/07(月) 16:11
1034さん >お寺さんは言葉が商品 →お寺さんは真実が商品。 坊さんでない僕が言うのはおこがましいけど、真実が商品と言われるとお寺さんは困るだろう。提供しようとする物が真実かどうかをたえずチェックしなければいけないなんてなると、お寺さんは手も足もでなくなる。真実かどうかなんて、分からないことが多い。 >相手の心を打つ商品、エンドユーザに喜んで貰える商品を提供して→真実と慈悲しか、心を打つものはない 嘘やはったり、希望的観測、妄想が相手の心を打つときもある。癌患者に、癌であると真実を伝えるべきか、癌じゃないと嘘を言うべきか、迷うことがあるだろう。癌じゃないと嘘を伝えたことが後で悔やまれ、自分には慈悲のかけらもない人間だったと思えることもあるだろう。 坊さんの言葉は、嘘やはったり、希望的観測、妄想であっちゃいけないけれど、ユーザーが喜ばない商品はいくら提供してもお金は貰えない。布施は所有権の移転を伴う。両者の合意が必要だ。喜んで貰えなければ、お金は受け取れないでしょ。 >お布施は代金じゃない。信者が僧侶に供養して福徳をいただくためのもの。 供養って何? 福徳って何? >お礼も挨拶も文句もなし。 これじゃ、人間関係は壊れちゃう。坊さんだって人間だろう。
1050 :
渡海 難 :2000/08/07(月) 16:14
1036さんへ >愛と慈悲の違いについて 難しい質問には答えられません。わかりません。 (^^ゞ
1051 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 16:18
愛と慈悲 説きに出かける ソープの夜!
1052 :
渡海 難 :2000/08/07(月) 16:20
1038さんへ >坊主は上手な話をするのが仕事、という意味 「坊主は上手な話をするのが仕事」だなんて誰かが言っているんですか。論点を変えるのはやめましょう。 >話をするプロになってはいけない、アマであるべきだと思います。 坊さんが話をするプロになると都合が悪いんですか。
1053 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 16:25
ソープの夜 これも修行さ 観音様!
1054 :
¥5さま :2000/08/07(月) 17:02
> 1044 > 愛と慈悲の違いって、キリストの愛と、仏陀の慈悲の > 違いって何だろうと思ったのです。 それは、キリスト教の方に“愛”についてお訪ねください
1055 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 17:07
キリスト教 坊主が羨む クリトリス!
私のところの信者がご無礼ばかりして申し訳ありません。
1057 :
直感 :2000/08/07(月) 18:04
渡海 難さんが持っているのが愛。(大きさは不明) 南無さんが持っているのが慈悲の一部。(人間は全部は持てないはず)
1058 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 18:08
それも愛 これも愛 みんな愛 きっと愛!
1059 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 18:13
> 一文のヒトへ。あんたは、知り合いの坊主の息子の 女遊びがゆるせん!と言っていたやつじゃろう。 おまえも同類じゃのう。
1060 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 18:19
>1059 推測も 女も当たらん クソ坊主!
1061 :
渡海 難 :2000/08/07(月) 18:21
>直感 渡海が吐くのが毒舌。 南無さんが持っているのが優しさ。
1062 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 18:24
>1054 坊主のテキストの暗記はできるが、考える力は ないようじゃね。
1063 :
名無しさん@1周年 :2000/08/07(月) 18:26
>1049渡海さん これを読んであんたが坊主でないことはよく分かった。 ただのおっちゃんじゃ。 >1050渡海さん 考える力もつけないとだめじゃ。
1064 :
直感 :2000/08/07(月) 18:33
> 渡海 難さん でもやっぱり愛は持っていると思う。 慈悲にしても愛にしても自分自身で持っていると宣言するものではないですね。
1065 :
渡海 難 :2000/08/07(月) 18:34
>ただのおっちゃんじゃ。 ただのおっちゃんじゃないと思っていたの? (+_+) ただのおっちゃんじゃなければ何? >考える力もつけないとだめじゃ。 アホはアホなりにこれで十分さ。
>ただのおっちゃんじゃないと思っていたの? (+_+) ただのおっちゃんじゃなければ何? クソジジイ、基地害、妄想の塊 >>考える力もつけないとだめじゃ。 > アホはアホなりにこれで十分さ。 あるわけないでしょう。
1067 :
渡海 難 :2000/08/07(月) 19:17
>クソジジイ、基地害、妄想の塊 あるわけないでしょう。 (>。<@`) あちゃ!!
1068 :
名無しさん :2000/08/07(月) 21:52
これは親鸞会荒らし?
1069 :
南無 :2000/08/08(火) 02:49
皆さんの「愛と慈悲」についてのレスを読んで、私自身の感じをあえて書きますと 「仏の慈悲」と「人間の愛」の違いを一言で言うなら「一貫性」ではないでしょうか。 歎異抄の四条で言われる「すえとおる」ということなのですが、異性間の愛情も家族愛 も自然愛も全てそうなのですが、自分の愛情なんて「すえとおらない」という思いが 逆に今の執着を深めてしまうという悪循環?から抜けられません。
1070 :
名無しさん :2000/08/08(火) 07:19
>1069 「すえとおる」「一貫性」ってどういう意味ですか?
1071 :
名無しさん@1周年 :2000/08/08(火) 07:27
>1069 何かいてるの、大丈夫? このての問題は、まるっきりわからんようだね。 0点。
1072 :
名無しさん@1周年 :2000/08/08(火) 09:23
>1069 南無さん、坊さんなら十二因縁、習ったでしょう。無明から始まり、 途中に「取、執着、愛着」があるぶんね。自己の存在そのものである と言っても良いその愛と、有る意味で自己否定であるキリストの愛や、 仏教の慈悲を混同してどうなるの? ある意味で自己否定して他者を助ける、キリストの愛と、仏陀の慈悲 とはどう違うのかと言う質問なの。愛着(あいじゃく)とは別のお話し。
1073 :
名無しさん :2000/08/08(火) 10:18
>1069 南無さん 自分の日常用語で書き直してみてください。
1074 :
名無しA :2000/08/08(火) 10:21
>1042さん >税金払わず 丸儲け←宗教法人は公益事業だけど、納税義務有り。 では、具体的に税金払わず儲けている具体例を書いてね。 >1025ニセその他さん >固定資産税や相続税を払うとなると、おそらく多くの寺院は維持 =出来ませんね。過疎で兼業されている住職も多いですね。 >他宗派寺院は広くて駐車場で儲けています。 宗教法人の収益事業で駐車場経営って、そんなに儲かるのですか? >宗教法人と税については他のスレッドを立てて論じたらどうでしょう その通りですね。公認会計士により税務処理を委託されている寺院は 近年多いのではないでしょうか。多岐に渡る宗教法人の運営で税務署が 目を光らせているけれど、昔は、よかったと煩瑣な書類に悩まされている ご住職の声を良く聞きます。って、書いたら昔は、丸儲けしたと思わないでね。 檀家数が60人程度の老住職の感想です。だって、一般企業と同じ性格の書類の 常備の義務付けが、宗教法人にも課せられているから。 お寺さんの商品発想に関しては、僕はプロアマとか色々と読みましたが 僕は、一般社会的な『商品』と代替語で、皆に分かり易く書かれているのが 渡海さんの、考えの言葉でしょう。レス不要です。渡海さん。 僕は、こころの需要と供給に商品としての発想は無いです。端的に言えば 欲しい商品が、無ければ買わない・代金など当然支払わない。但し、寺院の 檀家は、強制的に欲しい商品を購入されている図式は、全ての寺院には 当てはまらない。もし該当するようでしたら檀家を止めればよい。こんな 僕の考えです。 >愛と慈悲の違いって、キリストの愛と、仏陀の慈悲の >違いって何だろうと思ったのです。 めっちゃめっちゃ、難しい。上記は、愛と慈悲の違い? キリスト教に聞けばって書いてありましたが、それは さみしい言葉だなあと僕は感じましたよ。>\5さん。 個人的な意見として、人って様々な欲求があり欲望の ままに生きて虚しさを感じない人もいる。 虚しいと感じる人もいる。慈悲と愛に関して明確な 区分を宗教観の違いで論じることは無いものだと僕は 感じます。 >1071さん、点数付けるって、僕は、問題でなく永遠の 人間の課題と思うよ。キリストの持つ愛と、釈尊の持つ慈悲は 言葉でなく、きっと同じだと思います。って、何処がって? 僕には、分かりません。唯、みんなが分かっていれば 宗教なんて必要のない現実の世かも知れませんね。 南無さん・真宗ご住職さまへ 真宗のお盆と他仏教宗派のお盆の違い、お教え下さいませ。 いきなり、質問申し訳ないです。なんか、今ひとつわからないのです。 宜しくお願いします。
1075 :
名無しさん@1周年 :2000/08/08(火) 12:07
前の路地 網をかければ 坊主の大漁
1076 :
名無しさん@1周年 :2000/08/08(火) 12:34
>1075 坊主は今がかきいれどきだからね
1077 :
名無しさん@1周年 :2000/08/08(火) 13:55
>1074さん、点数について。 取、執着、愛着、としての愛。煩悩の根っこの愛。(根本じゃないよ。 根本は無明だからね)。その愛と。自己を否定し、自己を制限して 他者に向かうキリストの愛や仏陀の慈悲。この「エゴ」と「エゴの 否定または制限」を混同しているんだから、そう言われても仕方が ないと思う。だだ出勤前で急いでたので、はずみで0点と書いてし まったことは失礼だったと反省している。 一日考えて、自分なりの答えが出た。 「情けは人のためならず」だね。他者に対する慈悲は、ひいては 自分やわが子に返ってくるんだと言う智慧が仏教にはある。 キリストの愛には、盲目の自己犠牲しかない。だから「情けは 人のためならず」といってさりげなく周りの人を助ける仏教徒と、 博愛だチャリティーだ何だと騒ぎながら、意外と二重人格である クリスチャン(日本人だけ?)の差ができるんだね。 この回答は100点満点で5点くらいでしょうか。みなさん、 一緒に考えていただいて感謝しています。1071は手が滑って しまって申し訳ありませんでした。
1078 :
南無 :2000/08/08(火) 14:47
>1071.1072.1074です。 失礼致しました。キリストの愛と、仏陀の慈悲でしたか。1069はトンチンカンでしたね。 まぁ、無視して下さい。 >1070・1073です。 「すえとおる」「一貫性」は徹底する、持ち続けるということでいいのではないですか。「見捨てない」と言ってもいい。 私の持てる愛情なんて条件が変ればいつ無くなるか判らない程度のものだということです。 自分では自分の愛情に責任を持ちたいと願っているのですが、そのことの確信がどこにもない。 本質的には無責任きわまりない愛情の持ち方なのだけれど、今の条件で成り立っている愛情で あればあるほど、私の想いとしては逆に大切にしたいという形で固執してしまうということです。 1071.1072の名無しさん@1周年 さんからは無駄な0点のレスなんてつけるなと叱られそうですが、それでも書きます。 近所のお婆さんなのですがパ−キンソン氏病で自宅療養をしていました。医師からは病気の進行を遅めるためにも、極力 自分で動きなさいと言われていたのです。そのお婆さんが自宅のお風呂で転び、頭を強打し亡くなりました。その後納骨 までの49日間は自宅に骨壇が作ってあるのですが、そこのお父さんが時々コップ酒を一杯持ってチビチビ飲みながらじっと うつむいて骨壇の前に座っている姿を見かけました。49日法要が終わってそこのお父さんが私に話したことは「なんでもう少し 母親に優しくできなかったのか」という一言でした。彼は医師の言葉通り、すこしでも動ける母親であって欲しいとの思いから 時間が掛かってもいいからと極力手助けをしないで見守っているという姿勢を通していたのですが、不慮の事故ということもあり 自分の接し方を後悔しているのです。母親に対し「すまなかった」という思いを抱え骨壇の前に座っていたのでしょう。生前の 母親との関係は誰よりも彼が知っていますし、母親の愛情の深さを彼自身が一番よく知っているのです。にもかかわらず自分は 最後、母親に対して何もしてやれなかった、いや、何もしてやらなかったという後悔なのですね。母親が彼にかけた愛情は生前も 死後も変らずに一つのものでしかないのですが、生前のものは「愛」、愛情をかける側も愛情を受ける側も「愛」を挟んで色々な 期待や思い入れを孕んでいます。しかし死別したあとになってしまうと同じ「母親からの愛情」なのだけれど「質」が変る。つまり彼の 受け取り方が変る。「愛」を挟んで色々な期待や思い入れの入り込む余地がなくなってしまう。のみならず、母親のかけてくれた愛情の 姿や形ではなく、愛情をかけてくれたことの真意が問題になる、愛情を持つということの在り方全体が問われるということだろうと思います。 生前かけてもらったのは「母親からの愛情」でした。しかし死別して彼が感じ取っている内容は「母親の慈悲」だと言えると思います。 キリストの愛と比較する力量を私は持ち合わせません。
1079 :
名無しさん@1周年 :2000/08/08(火) 15:09
坊主が屏風に上手に尼さんのまんこをかいた。
1080 :
¥5さま :2000/08/08(火) 15:31
> 1074 名無しAさん > キリスト教に聞けばって書いてありましたが、それは > さみしい言葉だなあと僕は感じましたよ。>\5さん。 申し訳ありませんが、私の言葉足らずと、あなたの読み違えでしょう。 > それは、キリスト教の方に“愛”についてお訪ねください 私は、到らない言葉ですが、仏教の“慈悲”についてお答えしたつもりです。 キリスト教の方に“愛”について質問されれば、おわかりになるのではないでしょうかと いうつもりでした。 私のキリスト教に対する勉強不足を指摘されているのなら、私は素直に不勉強を謝ります。 申し訳ありませんでした。
1081 :
名無しさん@1周年 :2000/08/08(火) 17:23
>1078 南無さん、みなさん、コメントありがとうございました。 まあここに来たのは、ハエたたきさんがあまりに他教団を叩きます ので、それでは、と言うことできたのですが。お坊様にも物事をま じめに考える方がいらっしゃるのだと安心しました。いろいろ教え ていただいて感謝しております。新興(新しい教団)だと、他教団 を侮ることの無きよう、ハエさんに、もしメールなどご存知でした らお伝え願いたいと思います。もし今度こられるのであれば僧侶で あるとぜひ名乗っていただきたいものですね。新興の教団とて教理 教論には確たる物を持っています。お相手出来たのが私達のような 宗祖に比べてノミ程度の、末端のへっぽこ信者で申し訳無かったの です。(なお、一行分を入れていますのは私達ではありません。私達 はそのようなレベルのものではありません)。合掌。
1082 :
¥5さま :2000/08/08(火) 17:26
> 1074 名無しAさん > 真宗のお盆と他仏教宗派のお盆の違い、お教え下さいませ。 私は他の宗派のことはわかりません。 いや、浄土真宗のこともたいして・・・。 真宗門徒的お盆は、お育ていただいた亡き肉親や恩師のご恩をしのび、いま私たちが生か されている生命の尊さをかみしめ、私の生活が、育てていただいたご恩に報いる日暮らし であるかどうかを反省し、生きる心がまえを新たにするきっかけではないかと思います。
1083 :
名無しA :2000/08/08(火) 20:26
¥5さまへ >1044さんへのレスで、 僕の個人的主観でした。僕は、仏教の慈悲に関しては、ニセその他さんや ¥5さまの言葉を読んでいました。勉強不足を僕は指摘する意図は、 さらさらないので、こちらこそ、言葉不足で、すいませんでした。 言葉って、難しいですね。愛にしても仏教やキリスト教も一体 僕は、過去に誰が『愛』って翻訳したのか?印です。 1077さんの自己への答えも僕自身への心の問いかけになります。 また、南無さんの1078は、繰り返し読み返しています。 僕は、言葉の体得って難しいなあと率直な気持ちです。 1082の\5さま お盆に関してレスありがとうございました。 少し分からない点は、盆踊りです。盆踊りは、各宗派のみならず、 町内会でも行われています。この点、どんな意味合いがあるのでしょうか。 変な質問で、申し訳ないです。
1084 :
ニセその他 :2000/08/08(火) 21:09
>1942 >税金払わず 丸儲け! 南無さんも書いていますが、よく誤解をされているので少し説明します。 布施収入は寺の収入となります。その中から住職や坊守は給料をもらいます。その給料によって税金を払います。寺の金ですから、住職が勝手に使うわけではありません。 特に最近は税務署が厳しいので、どこの寺でも布施を自分勝手に使ってはいないでしょう。 ただ自動車などは必要経費となりますから、一般の人よりは楽な点はあります。 >1044 >愛と慈悲の違いって、キリストの愛と、仏陀の慈悲の >違いって何だろうと思ったのです その違いはよく分かりません。 話は違うかもしれませんが、キリスト教の地獄と仏教の地獄とは違います。 キリスト教の地獄はそこに堕ちると永遠にそこにとどまります。地獄から出ることはありえません。そうなると救われないわけです。 仏教で言う地獄とはキリスト教の煉獄と似ているかもしれません。煉獄はやはり苦しみの世界ですが、いつかそこからでる可能性があります。 仏教の場合、永遠に地獄に堕ちるということはありません。六道の一つであり、天や人と同じ迷いの世界です。 第一、キリスト教の場合、地獄に堕とすのは神ですが、仏が地獄に堕とすわけではありません。 つまり仏の慈悲とは決して見捨てない、ということだと思います。南無さんの言うように、すえとおりたる、ということは、あきらめない、見捨てない、最後までつき合う、ということだと思います。
1085 :
ニセその他 :2000/08/08(火) 21:12
>1052 >坊さんが話をするプロになると都合が悪いんですか。 都合が悪いということでなく、自分の身の事実を自分の言葉で語る、それはアマだと思います。 自分の信じてもいないこと、うなずけてもいないこと、人の喜ぶこと、などをありがたく話すのはプロです。 人の悪口ですが、瀬戸内寂聴はプロだと思います。 もちろんアマでも話上手な方がいいことは言うまでもありません。 >キリスト教 坊主が羨む クリトリス! >ソープの夜 これも修行さ 観音様! >愛と慈悲 説きに出かける ソープの夜! >まんだら絵 坊主の口には まんこの毛! >1頁 抜かした御経も 盆供養! >推測も 女も当たらん クソ坊主! すべて575。すごい才能だと感心しました。字余りのもいくらかあって、それを書いた名無しさんはもう少し頑張って下さい。 愛と慈悲。 愛は見返りを求める。憎しみを伴う。 慈悲はそれがない。 >1077 >「情けは人のためならず」 これは見返りを期待することだから慈悲とは言えないと思います。 >名無しAさん >宗教法人の収益事業で駐車場経営って、そんなに儲かるのですか? わたしの聞いた話を言えば、あっと言われるでしょう。 もっともその収入を何に使うか、公明正大か、ということが問題でして、収入が多いからけしからんというのはおかしいと思います。 >真宗のお盆と他仏教宗派のお盆の違い、お教え下さいませ。 おそらく、真宗以外のお盆は、目蓮尊者とお母さんの話から、施餓鬼、餓鬼に堕ちている先祖に施す、という意味、それと、先祖の霊が帰ってくるという祖霊信仰だと思います。 真宗の場合、948でも書きましたが、法事に読む表白文に 「本日ここに 釈○○の○回忌にあたり 有縁のひとびと相寄り集い 亡きひとを偲びつつ 如来のみおしに遇いたてまつる」 という言葉がありますが、これが法事の意義であり、お盆や彼岸の意義です。 つまり、先祖を偲ぶことを通して私自身が仏様の教えに出遇うということです。 それと盂蘭盆の意味は倒懸、人が死んで逆さに吊られているということなのですが、それにからめて、顛倒、迷っている見方、誤った考え方、道理に背く逆さまなあり方、に気づくといった観点から話をすることもあります。 またまたの長文でごめんなさい。
1086 :
¥5さま :2000/08/08(火) 22:42
> 1083 名無しA さん 1082の説明を読み返してみると、分かったようで分からないので書き換えてみ ます。 お育ていただいた亡き肉親や恩師のご恩に感謝し、いま私が生かされている生 命の尊さをかみしめ、育てていただいたご恩に報いるよう、一生懸命生かさせ ていただきますという決意を新たにする機会が真宗的お盆だと思います。 なんだか卒業式の答辞みたいで、チンケですね。
1087 :
創価原理主義者 :2000/08/08(火) 23:03
糞坊主って本当に糞が付いてるんですか?
1088 :
¥5さま :2000/08/08(火) 23:17
> 1083 名無しA さん 過去レスにも触れたかと思いますが、 先日のお文学習会の講師の先生は史学・民俗学が専門の先生でした。 お話しの中で、盆踊りも出て来ました。 それによると、 真宗では永代経・祠堂経という法座がお寺で開かれるのですが、 昔はそれが1ヶ月単位で開かれていました。 真宗門徒が寺へ集まって、お説教を聞いては、その後でお寺の前で踊りを踊っ たそうです。 1つのお寺で1ヶ月の法座が終了すると、また他のお寺で1ヶ月の法座が開か れ、毎日、法座が開かれた寺の前で踊りが踊られたということです。 農作業をほったらかしては、法座に出かけて歓喜の踊りを踊る真宗門徒は、守 護や地頭から大変嫌われたそうです。 お盆でなくても、年がら年中盆踊りを踊っていた、というお話しでした。 仏陀の教えを聞いた歓喜の踊りが盆踊りのようですが、ただそれだけです。 何も答えにならなくてごめんなさい。
1089 :
無視論者 :2000/08/08(火) 23:45
>ただ自動車などは必要経費となりますから ほぉ、なるほどな。 必要経費となる自動車が、黒ぬりのベンツ等の高級外車であったりするわけだ。 ところで、坊主以外の者に訊くが、 黒塗りのベンツ&スキンヘッド&雪駄履き で、何をイメージするかな?
1090 :
名無しさん@1周年 :2000/08/09(水) 00:59
>1089 知り合いの坊主でボルボのエステートに乗ってるのがいる。 年に何回か海外旅行へ行く。ちょっと男前。なんとなく腹がたつ。
1091 :
税ム関係 :2000/08/09(水) 01:07
>必要経費となる自動車が、黒ぬりのベンツ等の高級外車であったりするわけだ。 これは、一般企業にも言えることですが、 宗教法人等、公益法人においても、 その団体の規模、社会的地位等から判断して、 社用車、公用車等が、そこの業務に必要なものかどうか、 個別に判断して、必要経費として認めるかどうか判断します。 指摘のセンチュリーやベンツ等の高級乗用車は、 本部本山や、よほどの大規模寺院で無い限り、認めません。 スポーツカーやRV等も同様です。 団体名の表示等を求める場合もあります。(公私を明確にするため) 社会的批判が強いため、医療法人や、宗教法人を含む公益法人については、 経費の認定は、中小企業等に比べると、相当厳しいものとなってます。 (小さな宗教法人職員で、高級車の場合、ほぼ個人資産です。) 税収不足の近年、課税ベースをできるだけ広くしようというのが、 税務当局の基本姿勢です。 (医療、宗教は、たたけばそれなりにホコリが出ますし、 中小営利法人のように、修正申告の際にゴネたりしないので非常に楽です。 世論の応援をもらうための、「脱税」の「統計上の」数字も獲得しやすいです(笑))
1092 :
七使さん :2000/08/09(水) 01:17
こんな坊主も居ますよ>ALL 私の知り合いで(知り合いとゆう言葉を出すのも口に出すのも汚らわしいが) 凄まじい破戒坊主が居ます。この坊主は26歳でとある寺の跡取り息子で兄弟 は居ない。でこいつは、どうせ恋愛結婚は出来ない(こいつの親が地元の有力 者の娘を見合い結婚であてがうから)から、自由な間に(こいつは地方からと ある大学に通う為に一人暮らしをしてる)さんざんぱら、女を喰って面白い青 春を過ごすと語っています。で、こいつは某HPのチャットルームで女喰いま くり状態です。こんな目障りな破戒坊主を逝かす方法は無いモンですかね?
1093 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 09:46
1078さんへ >私の持てる愛情なんて条件が変ればいつ無くなるか判らない程度のものだということです。 ここは分かります。 >自分では自分の愛情に責任を持ちたいと願っているのですが、そのことの確信がどこにもない。 「自分では自分の愛情に責任を持ちたいと願っている」。しかし、「自分は愛情に責任を持てているという自信が自分にもてない。」ということでしょうか。坊さんは言葉を大切にしてください。「どこ」という言葉は不正確です。「自分に」と書くべきでしょう。言葉が命と思ってくださいな。 >本質的には無責任きわまりない愛情の持ち方なのだけれど、今の条件で成り立っている愛情であればあるほど、私の想いとしては逆に大切にしたいという形で固執してしまうということです。 「今の条件で成り立っている愛情」?? 「今の条件で成り立っている愛情であればあるほど」?? 「私の想いとしては逆に大切にしたいという形で固執してしまう」?? 「大切にしたい」は「固執」なんですか? 済みませんが、日本人に分かる言葉で書いていただけませんか? >生前かけてもらったのは「母親からの愛情」でした。しかし死別して彼が感じ取っている内容は「母親の慈悲」だと言えると思います。 深い問題があるのかも知れませんね。別に無いのかもしれない。何かに飛躍やこじつけがあるようにも感じる。深い問題を提起しているようにも感じる。
1094 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 09:48
1081さんへ >ハエたたきさんがあまりに他教団を叩きますので、それでは、と言うことできたのですが。お坊様にも物事をまじめに考える方がいらっしゃるのだと安心しました。 ハエたたきさんは物事をまじめに考えてない方のようですか。この掲示板でご本人を名指し、質問状を出した方がよいかも知れませんよ。
1095 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 09:49
1084さん >第一、キリスト教の場合、地獄に堕とすのは神ですが、仏が地獄に堕とすわけではありません。つまり仏の慈悲とは決して見捨てない、ということだと思います。南無さんの言うように、すえとおりたる、ということは、あきらめない、見捨てない、最後までつき合う、ということだと思います。 何が言いたいんでしょうね。
1096 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 09:53
1085さんへ >自分の身の事実を自分の言葉で語る、それはアマだと思います。自分の信じてもいないこと、うなずけてもいないこと、人の喜ぶこと、などをありがたく話すのはプロです。 プロというものに対して偏見のある方のようですね。うなずけてもいないこと、人の喜ぶこと、などをありがたく話すのは詐欺師です。プロじゃない。貴方はプロを詐欺師と同じと思いますか 貴方のいる世界は、プロが必要ない世界なんでしょう。面倒臭いこと、しんどいことは責任を持って引き受ける人がいない。プロの存在しない世界はリーダーがいない。烏合の衆。まことにもって、程度が低い。いいことをしても悪いことをしても、なにかにつけ、ひとつひとつひとつに社会からは馬鹿にされる。ここのスレッドを見てるとよく分かる。まことにもって、まともなプロがほとんどいない。 >瀬戸内寂聴はプロだと思います。 これは瀬戸内さんを誉めているの?けなしているの?それともヤキモチを焼いてるの。 貴方は坊さん?私は瀬戸内さんをよく知らないけれど、いろいろ活躍されている方のようですね。あの人の半分で十分でしょう。あなたも少し努力してみたらいかがでしょうか。 >慈悲はそれがない。 要するに、絵に描いた餅かいな。 >これが法事の意義であり、お盆や彼岸の意義です。 葬式とは魂が入ってない儀式のようじゃ。
1097 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 09:54
1086さんへ >なんだか卒業式の答辞みたいで、チンケですね。 血も涙も通ってないということですね。
1098 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 09:56
1087さんへ >糞坊主って本当に糞が付いてるんですか? 「糞坊主って」いうのはね、糞坊主という言葉を発する人が食べるカレーライス、糞坊主という言葉を発する人が食べるみそ汁、糞坊主という言葉を発する人が口に含んで歯で噛んでいるもの、それらがみんな、お坊さんが排泄したウンコだということなんですよ。貴方の食べる物が、お坊さんのくさーいウンコだということです。分かりましたか。
1099 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 09:58
名無しさん@1周年さんへ >坊主が屏風に上手に尼さんのまんこをかいた。 あんたの坊主嫌いは分かったよ。 坊主のどこが嫌い? すけべだからか? アンタは坊主を無視できんお人らしい。目の上のたんこぶかいな。目の上のたんこぶには、聖人君子であって欲しいのか?たんこぶ付けてる自分の顔を鏡でみなさいよ。
1100 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 10:31
>1085,1096 自分は仏教のプロ、浄土真宗のプロ、念仏のプロじゃと自分で名乗る方、出てきてくださ〜い。 世界中に一人もいないんですかー?。 お〜い!。 プロは必要ないと言って、インターネットを通じ、2chで全世界に向けて浄土真宗が馬鹿にされておりますぞー。 それでもいいんですかー。
1101 :
¥5さま :2000/08/09(水) 10:47
> 1097 渡海さん > 血も涙も通ってないということですね そうですか、自分の言葉で、わかりやすくと考えたのですが、あさはかでしたね。 私の素直な思いを書いたのですから、私はその程度のものです。 それにしても、渡海さんもかなりの「坊主嫌い」か「坊主憎い」ですね。 真宗大谷派か所属の僧侶に嫌な思いをされたことがあるのですか? かなり言葉にトゲを感じるのですが、思い過ごしでしょうか。
1102 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 12:31
1101さんへ >私はその程度のものです。 その程度のものなんでしょう。分かりました。 「卒業式の答辞」なんて自嘲しないで他人に言える言葉を考えるべきでした。わかりやすくより、そちらの方が本質的でしょう。 言葉のプロとして他人に堂々と言える言葉が見つからないなら、血も涙も通ってないと言われてもしょうがないでしょう。くやしかったら、もっと頑張ってくださいな。 >それにしても、渡海さんもかなりの「坊主嫌い」か「坊主憎い」ですね。 坊さんは尊敬しています。 >かなり言葉にトゲを感じるのですが、 トゲは刺されないように用心すればいい。外から刺したトゲは抜けますが、内部から生じた膿は命取りになります。仏教の命取りは、社会の命取りです。 >思い過ごしでしょうか。 思い過ごしでしょう。
1103 :
七使さん :2000/08/09(水) 12:44
>1099 >坊主のどこが嫌い? すけべだからか? そら、すけべでしょう。なってたってそのすけべな輩を知ってるしね。 その件で俺は1092で上げてるし。その輩はこの間戦没者慰霊祭で 読経を上げたなんてほざいてる。戦没者の方からみれば自分の欲求に 赴くままに生きてる輩に読経を上げられても迷惑千万だと思うしね。 徳度もへったくれもないわ。ほんまに。
1104 :
名無しA :2000/08/09(水) 13:01
一般的な「お盆」と言う意識は祖霊崇拝と民間習俗が日本に根付いたものなんですね。 真宗以外の お盆の意識は、圧倒的に祖霊なり餓鬼等の迎えて送りだす感じでしょう。 盆踊りに対して1088の\5さんの言葉で理解できました。真宗のお盆に関しも、1085の ニセその他さん、お答え有り難う御座いました。つまらん質問ですがニセその他さんって その他さんとは別人?なのですか。レス全部読めば分かるはずなんですが、、、、。 宗教法人で駐車場業の収益事業を行っている寺院を僕は知っています。15台位ですかね。 権利金又は保証金と賃貸料*車台数が、とても多いのですね。 >収入が多いからけしからんというのはおかしいと思います。これって、僕へ?誤解です。 けしからんなんて、僕は思っていません。けしからんのは、駐車業を宗教法人が営み、その 収益が、寺院の護寺や、将来的な構想計画等を目的としている以外に使途不明金になると けしからんどころか、法的に事業停止になりますから。僕の言葉足らずで、すいませんでした。 みんな、なにやら誤解しているのは、宗教法人の代表役員=住職も一般企業と同じ、 宗教法人より給与の支払いがあり、源泉徴収は行うし、当然納税義務がある。 宗教活動を行っているから、非課税にならんものです。 従って、高級車も宗教法人所有車でなく、住職・収入を得た個人所有車に 本当は、なるんだけれども。お寺も様々で、単純に考えて、檀家廻りをする時に 小回りの利く自動車が便利なはず。 まあ、色々な寺院が多いから、なんともコメントしにくいです。>無視論者さん。 黒塗りのベンツ&スキンヘッド&雪駄履きって、ヤ○ザを僕は、イメージします。 >七使さん 寺の跡取り息子か、、。見合いして、相手が、お断り申し上げますと、きっぱり 言われたら、良いね。 現実に、寺族でも、離婚するケースが多くなったと僕は端から見ていて感じます。
1105 :
ニセその他 :2000/08/09(水) 13:20
名無しさんから、ニセその他と言われたので、その他を改めてニセその他にしました。 皆さんの地方では初盆、新盆をされますか。 私の住む地方でも初盆だから参ってくれなどと言われます。 真宗では初盆といっても特別なことをするわけではないらしいです(違っていたらごめんなさい)。それなのになぜ初盆を気にするか。 初盆は日本人の霊魂観とケガレを厭う感情からきていると思います。 死んで間もない霊は死のケガレがついている。だから祟ることがあるので、きちんとお祀りをしなければならない。お祀りすることで次第に清められ、ついには先祖霊と一体化して個性はなくなる。その期間は地方によって異なるが、大体33年です。 ケガレのついた死んで間もない霊と、清められている先祖霊とを一緒にお祀りすると、ケガレを嫌う先祖霊は怒って祟る。 そんなわけで死んで間もない霊と先祖霊とは別々にお祀りしなければならない。 ということで初盆には特別なお祀りをしなければならない。こういうことだと思います。 私は機会があればこういった話をするのですが、どうも理解してもらえないような気がします。 多くの人は盆にはなくなった人が帰ってくると思い、死者のためにお経を読んだり墓参りをしています。 真宗では霊ということは言わないんだ、お経を読むのは死んだ人を縁として私が教えを聞かせてもらうんだ、などと言いますと、不審そうな顔をされます。 霊を恐れ、霊にとらわれていることは、宗教の大きな問題であり、霊を恐れないためには霊とは何かを学ぶのが一番だと思うのですが。
1106 :
¥5さま :2000/08/09(水) 14:45
> 1102 渡海さん > 言葉のプロとして他人に堂々と言える言葉が見つからないなら イエイエ、渡海さんはどう思われたか知りませんが、私は書き込みをし たということは、堂々かどうかは別として、間違っているとは思っ ていませんよ。 私流の表現だと思っています。 > くやしかったら、もっと頑張ってくださいな。 全く悔しくないですが、勉強するように心がけます。
1107 :
名無しさん@1周年 :2000/08/09(水) 14:51
お盆大好き 稼ぎどき。
1108 :
ニセその他 :2000/08/09(水) 16:11
>1095 キリスト教は選別をする。 仏の慈悲は摂取不捨である。 ということを言いたかったのです。やっぱりわからんと言われそうですな。 それと中学の国語の教科書に、母の愛は無償の愛である、とかいう話が載っていました。たしか作者は丸岡という人。 無償ということは見返りを求めないということだから、作者にとって愛と慈悲は同じなのかもしれません。 もっとも母親の愛は無償の愛とは言い切れないと思いますけど。
1109 :
名無しさん@1周年 :2000/08/09(水) 16:38
托鉢僧 お米もらわず おめこする。
1110 :
ニセその他 :2000/08/09(水) 16:49
渡海さんはプロということを強調されますが、プロとはどのようなものと考えておられるのでしょう。 以前、名無しさんの書き込みに、僧侶とは供養を受けるにふさわしい人、といった意見がありました。 それならば応供、つまり仏ではないかと思いましたが、 渡海さんの言われるのも、名無しさんの意見と似ているように思います。 僧=プロと言われ、プロ=仏とまではいかなくとも、仏に近い者、仏への途上にある、凡夫とは優れた者、ということでしょうか。
1111 :
¥5さま :2000/08/09(水) 17:19
↑ 私も教えてほしい。
1112 :
¥5さま :2000/08/09(水) 17:54
> 1105 その他さん 私の寺の門徒さんも、初盆だから参ってくれと、いわれます。 その門徒さんの気持ちは、 @住職(私)が忙しくお参りをこなすことが嫌いなことを知っていて、 今年は新盆だから(特別なんだから)お参りしてほしいという住職への説得の意味。 A今年は新盆で、親戚の手前もあるからお参りしてもらうけれども、 来年からはしないよという確認。 というところではないかと思っています。 > 真宗では霊ということは言わないんだ、 > お経を読むのは死んだ人を縁として私が教えを聞かせてもらうんだ 私の地域は、圧倒的に浄土真宗門徒の多い地域で、お寺参りをしてお説教を聞く習慣がか ろうじて残っていますから、まだそのような話は通用します。 でも、それもいつまで・・・、という危機感はあります。
1113 :
無視論者 :2000/08/09(水) 18:57
>名無しA氏 >黒塗りのベンツ&スキンヘッド&雪駄履きって、ヤ○ザを僕は、イメージします。 やっぱり、そうか。だいたいヤ○ザをイメージするよな。 ヤ○ザの様をした坊主もいるんだよな。 俺が直接見たことはないが、先日FMラジオを聴いていたら、 ヤ○ザの様な坊主に出くわした つー リスナーからの投書があったんで、質問してみたつーわけだ。
1114 :
山崎次郎 :2000/08/09(水) 19:05
1115 :
名無しさん@1周年 :2000/08/09(水) 19:55
プロなら素人にごたごた言われる事はありません。 ただ宗教でごたごた言わさないようにするには、マイコンしっかりかけるしかないです。 宗教のプロ、信仰のプロ、坊主のプロ、信者のプロ。 プロの宗教、プロの信仰、プロの坊主、プロの信者。 さあどれがプロじゃ!
1116 :
名無しさん@1周年 :2000/08/09(水) 20:03
「プロフェッショナル」とは そのなりわいに依りて、生計を維持している事をいいます。
1117 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 20:27
1105さんへ >先祖霊は怒って祟る…ということで初盆には特別なお祀りをしなければならない。 あんたは桐山さんの阿含宗がお似合いじゃ。 五濁増のしるしには この世の道俗尽く 外儀は仏教の姿にて 内心外道を帰敬せり 悲しきかなやこのごろの 和国の道俗皆共に 仏教の威儀を基として 天地の鬼神を尊敬す
1118 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 20:28
1106さんへ >間違っているとは思っていません(>1106)が、 >あさはかでした(>1101) これだから坊さんの言葉は意味不明。つっぱたり妥協したり。 >私流の表現だと思っています。 私流の表現じゃ、お客さんは喜んでくれません。理解もしてくれません。お客さんに理解してもらえてなくてお金を取れば、クソ坊主と言われる。恨みも買う。憎まれもする。¥5さまだけの問題じゃない。 >全く悔しくないです そうですか。 少しは悔しいという思いを持って貰えれば嬉しかったんですがね。 >勉強するように心がけます はて、どんな勉強なさるつもりか。期待をもたずに見守りましょう。
1119 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 20:30
1108さんへ >やっぱりわからんと言われそうですな。 そうですね。何が言いたいのか、さっぱり分かりませんね。
1120 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 20:31
1110さんへ >渡海さんはプロということを強調されますが、 別に強調しているつもりはありません。常識的なことを言ってるつもりです。 >プロとはどのようなものと考えておられるのでしょう。 プロとは何か。取り急ぎ、その定義を用意してみました。 社会的需用者に自らが選択した一定の役務又は役務から生じさせた物品を継続的に提供し、需用者に満足をもたらし、提供の代替として提供物と社会的経済的に均衡する一定の対価を得る者(広義)。 一定の対価を得ることをもって、自らの生計を維持し、生計の維持を窮極の担保として社会的責任の一部を背負う者(狭義)。 >名無しさんの書き込みに、僧侶とは供養を受けるにふさわしい人、といった意見がありました。それならば応供、つまり仏ではないかと思いましたが、渡海さんの言われるのも、名無しさんの意見と似ているように思います。 ちんぷんかんぷんです。さっぱり分かりません。 >僧=プロと言われ、プロ=仏とまではいかなくとも、仏に近い者、仏への途上にある、凡夫とは優れた者、ということでしょうか。 ちんぷんかんぷんです。さっぱり分かりません。
1121 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 20:33
1111さんへ >↑私も教えてほしい。 自分の意志を相手に分かるように伝えようとしない。貴方の悪い癖だ。これでは相手が一瞬何のことだか分からなかった。
1122 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 20:33
1113さんへ >ヤ○ザの様な坊主に出くわした つーリスナーからの投書があったんで、質問してみたつーわけだ。 当てにならん。伝聞の伝聞かいな。
1123 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 20:59
1114さんへ
>邪教を広めるのは今日限りやめろ!
なるほど。これはいい意見だ。
>邪教は信じた人の人生も常識も道理も破壊する。
確かにその恐れはあるわいなー。
>お前ら一体何人の人生を破壊したんだ?
お前らとは誰のこと?アンタがお前らと呼んでいる二人称の相手は、何人の人生を破壊したの?言ってみて。
間違った数字は言わないでね。正確に教えてね。それともこれは言いがかり?
>お前らのやっていることは、廃人製造業なんだよ!
製造された廃人がどこかにいるわけ?
>オレはここにいるぞ!
あなた、廃人さん
>宗教論争掲示板
http://www.jade.dti.ne.jp/~syukyo/frame.html URLは正確に書いてね。NOT FOUND だよ。
1124 :
ニセその他 :2000/08/09(水) 21:28
988 名前: 渡海 難 投稿日: 2000/08/04(金) 19:56 Iyahaya nanto ittra iindro. Iu kotoba ga nai. Koko de wa kai ni narou. ということでしたが、貝になって24時間後に 1011 名前: 渡海 難 投稿日: 2000/08/05(土) 19:00 Bun no nagasa nado wa doudemo ii hanashi nanosa. と再びいやらしくローマ字で書く。 あなたも長文の分からない文章を書くが Nagai bundemo aiteno kokorowo uteba@` kanketsu da to itte moraeru no sa. とおっしゃるような相手の心を打つ言葉をご自分でも書いて下さいよ。プロの定義はさっぱりわからない。プロ失格の坊主のためにわかりやすく。 ああまた渡海難が訳の分からないいちゃもんをつけているなとしか思われないような文章は書かないで下さい。 自分は在家だから何を書いてもかまわない。お前はプロだから何を言われても当然だと考えているのですか。 それと1117で >先祖霊は怒って祟る…ということで初盆には特別なお祀りをしなければならない。 あんたは桐山さんの阿含宗がお似合いじゃ と書いているが、誰が霊が祟るなど言っているんだ。それくらいのことが分からないのか。そういう霊信仰が日本人にはある、と言っているのだ。誰もそれがもっともだなどとは言っていない。 人の言うことは理解したくない、何か文句をつけなければ、という人間がいるが、あなたもその口でしょう。 また貝になってもらっても結構です。1日で口を開けるような貝にはならないで下さいね。 どうせ、意味がわからない、プロらしくしろ、といった反論しかできないでしょうけど。
1125 :
渡海 難 :2000/08/09(水) 22:20
1124 >とおっしゃるような相手の心を打つ言葉をご自分でも書いて下さいよ。 すぐ打つ心もある。なかなか打たぬ心もある。心を打つか打たぬかは、言葉を発する側と、受ける側の共同作業じゃ。打つまでに時間がかかる心もある。とかく苦い薬は嫌われる。 「お前の文章を今日読だぞ。おれは今日、心を打たなかった」こう言った人は貴方が初めてじゃ。こういう人は何を読んでも心を打つことがないじゃろう。 >プロの定義はさっぱりわからない。プロ失格の坊主のためにわかりやすく。 そうですか。5回、10回と読んでみてください。それで分からなければ分からないでしょうがないでしょう。プロとは何か、そんなことを坊さんがいまごろ在家に聞いてどうすんの?プロの坊主とは何か。貴方の回りの親切なプロの坊さんに聞いてくださいな。 >ああまた渡海難が訳の分からないいちゃもんをつけているなとしか思われないような文章は書かないで下さい。 いちゃもんと言われたら、しょうがないですね。 >自分は在家だから何を書いてもかまわない。お前はプロだから何を言われても当然だと考えているのですか。 そんなことはありませんよ。 >誰もそれがもっともだなどとは言っていない。 それでは貴方の書き方が悪いんでしょう。自分の文章を誤解されたら、どこで誤解を生んだのか、誤解した読み手に向けて腹を立てるんじゃなく、書いた自分の非力を反省しなさいな。 それがもっともだなどとは言ってなければそれでよござんす。 「霊信仰が日本人にはある」。それならば何がどうなる、と貴方は言っているんですか。 >霊を恐れないためには霊とは何かを学ぶのが一番だと思うのですが。 霊とは何か。貴方が学んだことを書けば、誤解はなかったかもしれませんね。霊とは何ですか。 >どうせ、意味がわからない、プロらしくしろ、といった反論しかできないでしょうけど。 やれやれ、お気に召さなかったようですね。
1126 :
ニセその他 :2000/08/10(木) 08:04
自分の読解力のなさを棚に上げ、わからない、ちんぷんかんぷんと言い、わからない文章を書くお前が非力だ、わかるような文章を書けと言い、 人から自分の文章を批判されると、わかるまで何回も読めとは、自分勝手ではないか。 そういう自己中心でしか考えられないのを悪と言うのではないか。 霊とは自分の思いだと以前書いた。学んだことを書いた。 最初から文句をつけようと待ちかまえている人間にどういうふうに説明しようと無意味を言うことをあなたに教えられた。
1127 :
¥5さま :2000/08/10(木) 09:54
渡海さん お経や律・論は、私たちには難解な文章です。でも、難解だからダメではありません。 私たちはどんなに頑張っても自分の思慮分別を通した言葉しか発することができません。 また、自分の思慮分別を通してしか言葉を理解することができません。 わかったと思っても、わからないと思っても、そう思う自分の勘違いかもしれません。 あなたは大変よく仏教・親鸞思想について勉強なさっておいでると思います。 でも、大変失礼ながら、あなたの書き込みを読ませていただいていると、 あなたは、坊主を非難して、または、やり込めることによって、自分が坊主より勉強して いて、知識があるということを認めてもらいたいという気持ちが強いように感じます。 せっかく勉強されて知識が豊富なのですから、筋道を立てて批判されたほうがお互いのた めになると思います。
1128 :
名無しさん@1周年 :2000/08/10(木) 11:59
以前2ちゃんねる用語や多分単なるタイプミスや変換ミスに一々 「学校行ってる?」だの「そんなこと言うあなたが精神障害」だの言っていたのに 自分が同じようなミスしたときには 「単なるタイプミスです」 そういう人なんだから
1129 :
渡海 難 :2000/08/10(木) 15:38
1126さんへ (1) >自分の読解力のなさを棚に上げ、わからない、ちんぷんかんぷんと言い、 これからはできるだけ、どうしてちんぷんかんぷんなのか、原因と思うあたりも申し上げましょう。量的にも増えそうですので、軒並みちんぷんかんぷんな文の場合、その全てについて理由が付けられるとは思いません。 >わからない文章を書くお前が非力だ、わかるような文章を書けと言い、人から自分の文章を批判されると、わかるまで何回も読めとは、自分勝手ではないか。 プロとはどういうものかなど、お子さま向けのお易しい言葉でこちらが貴方にご教授するなどは、社会的におこがましい失礼なことと思います。いいですか、こちらが平易にお教えするなどはおこがましいことと思っておりますよ。 「自分の信じてもいないこと、うなずけてもいないこと、人の喜ぶこと、などをありがたく話すのはプロ」と貴方が書いた<1096>ので、プロをこんな風に思っている人は重症だと思い、おこがましくも定義だけは書かせていただきました。 長い文ではありません。子供でなければ、あの程度の文の読解力はお持ちと存じます。時間をかけてお読みください。基本的な経済原則、社会原則を常識的に考慮して書いたつもりです。「自分の信じてもいないこと、うなずけてもいないこと、人の喜ぶこと、などをありがたく話す」のはプロじゃない。こういう主張だけ分かってほしいと思います。 それともあなたはまだ、「自分の信じてもいないこと、うなずけてもいないこと、人の喜ぶこと、などをありがたく話すのはプロ」と思っていますか? 「自分の信じてもいないこと、うなずけてもいないこと、人の喜ぶこと、などをありがたく話すのはプロ」じゃないと分かれば、これ以上のことは、私に聞くより、気心の知れた貴方の回りのお坊さんに教わった方がいいでしょう。貴方の回りには多分プロの方もいるでしょう。いないとは思いません。 >そういう自己中心でしか考えられないのを悪と言うのではないか。 自己中心かどうかは存じません。悪かどうかは、他人様がご自由にご判断ください。私は善悪の二つ、総じて存じておりません。
1130 :
渡海 難 :2000/08/10(木) 15:39
1126さんへ (2) >霊とは自分の思いだと以前書いた。学んだことを書いた。 そうですか。貴方が書いたことは存じませんでした。自分がこんな掲示板で、書いたものは全て他人が読んでくれているはずだとお思いですか。読んでくれていて当たり前だとお思いですか。自己中心は悪だというのが、貴方のお考えでしたよね。 「霊とは自分の思い」なんですね。死んで間もない方への思いと先祖への思いとは、別々にお祀りしなければならない。初盆には特別なお祀りをしなければならない。貴方のお考えは、こういうことでしょうか。死んで間もない方への思いと、先祖への思いとは、どうして別々にお祀りしなければならないのでしょう。ケガレのついた死んで間もない方への思いと、清められている先祖への思いとを一緒にお祀りすると、ケガレを嫌う清められているはずの先祖への思いは怒って祟る。 ちんぷんかんぷんなのは、私の読解力の問題でしょうか。清められているはずの先祖への思いが祟る。一体、どういうことなんでしょうね。私にはこれを理解する読解力はありません。 別々にお祀りしようが、一緒に祀ろうが、仮に祀らなくても、基本的にはどってことないんでしょ。祟るなんてことはないんでしょう。どうですか。我が家などは、先祖代々で東京住まい。お盆なんかはしたことがない。先祖への思いが祟りをおこしたなんてことは、百年以上、一度も聞いたことがありません。 お盆というのは人寄せパンダと同じ。人気取りでしょ。地元商店街の花火大会と同じ。近在の人々に、お寺さんの存在が忘れられないようにするための、デモンストレーションなんでしょう。デモンストレーションがいかんとは私は言いませんよ。お寺には経営もある。難しく言う必要はない。愛されるお寺のためのデモンストレーションだと言うんなら、私の考えと一致点が見えてくる。霊の話を絡めなさんな。霊の話を言うから、怪談めいたおどろおどろしい話になってくる。貴方が霊の話を絡めたのは、読み手の読解力を試すためだったんですか。 それでも渡海 難という人物は、最初から文句をつけようと待ちかまえている人間に見えますか。 「死んで間もない霊と先祖霊とは別々にお祀りしなければならない。ということで初盆には特別なお祀りをしなければならない。こういうことだと思います。」あなたはここで文章を切って段落を終えている<1105>。 続けて、「私は機会があればこういった話をする」<1105>。こういった話とはどういった話ですか。「初盆には特別なお祀りをしなければならない」という意味だと思いますよ。こんな文を書けば、読み手は貴方の真意を読み違えてもしょうがないんじゃないですか。 「死んで間もない霊と先祖霊とは別々にお祀りしなければならない」「初盆には特別なお祀りをしなければならない」。 貴方はこういうふに思っている人だ。貴方のことを誰もがそう思うでしょう。違いますか。最初から文句をつけようと待ちかまえている人間でなくても、読み違えてもしょうがないでしょう。読解力の問題ですか。 >私は機会があればこういった話をするのですが、どうも理解してもらえないような気がします<1105>。 読み手の読解力を試してやろう。理解力を試してやろう。そんな風に思っているんだとしたら、誰にも理解して貰えないでしょう。貴方の言うことがちんぷんかんぷんの理由です。 >最初から文句をつけようと待ちかまえている人間 こんな風に思われては、とても残念です。
1131 :
渡海 難 :2000/08/10(木) 15:43
1127さんへ >お経や律・論は、私たちには難解な文章です。でも、難解だからダメではありません。 律・論には難解な文もあるでしょう。易しい文章もあるでしょう。律・論は難解だからダメなんて誰かが言いましたか?もともと、律・論の話などは誰もしてないでしょう。 「<律・論について>他人より勉強していて、知識があるということを認めてもらいたいという気持ちが強いのではありませんか。せっかく勉強されて知識が豊富なのですから、<律・論>に向けて議論を飛ばさず、筋道を立てたほうがお互いのためになると思います。 >私たちはどんなに頑張っても自分の思慮分別を通した言葉しか発することができません。 本当にそうですね。議論を飛ばさず、筋道を立ていきましょう。 >また、自分の思慮分別を通してしか言葉を理解することができません。わかったと思っても、わからないと思っても、そう思う自分の勘違いかもしれません。 だからこそ、多くの人は様々な社会的場面でご苦労され、努力もされている。ご苦労され、努力もされていることで進歩がある。それが尊い。社会的場面で様々に苦労を重ね、そして努力していく。それがプロでしょう。貴方は、ご苦労、ご努力を重ねていらっしゃいますか。苦労や努力を重ねることは悪いことだなどと、おかしな考えに染まっていませんか。 >あなたは大変よく仏教・親鸞思想について勉強なさっておいでると思います。 どのように思うのも貴方の勝手ですが、昔のお坊さんは私の百倍も千倍も勉強なさっていたでしょう。私のはいわば道楽、余興です。本当のことは何も分かっておりません。 お坊さんから「仏教・親鸞思想について勉強なさっておいでると」いわれると恥ずかしい。貴方の本心ですか。「一体坊さん達は、道楽、余興半分の在家を捕まえて」何を言っておるのかと、程度を疑いたくなりますよ。道楽、余興の人間をつかまえて「大変よく仏教・親鸞思想について勉強なさっておいでると思」うなら、貴方はもっともっとお勉強なさってくださいな。貴方はお坊さんなんでしょう。 >坊主を非難して、または、やり込めることによって、自分が坊主より勉強していて、知識があるということを認めてもらいたいという気持ちが強いように感じます。 「お経や律・論は、私たちには難解な文章です。でも、難解だからダメではありません。…私たちはどんなに頑張っても自分の思慮分別を通した言葉しか発することができません」などと、議論になってもいないところを引き合いにして来ないでくださいな。私は律・論などは知りません。貴方に言葉を返します。あなたは律・論までご存知のようじゃ。お偉いお坊さんのようじゃ。「律・論を知らない在家を非難して、または、やり込めることによって、自分が在家より勉強していて、知識があるということを認めてもらいたいという気持ちが強いように感じます。」 >せっかく勉強されて知識が豊富なのですから、筋道を立てて批判されたほうがお互いのためになると思います。 折角の貴重な御批判ですが、貴方に返しておきましょう。
1132 :
渡海 難 :2000/08/10(木) 15:44
1128さんへ >自分が同じようなミスしたときには「単なるタイプミスです」そういう人なんだから タイプミスなら「単なるタイプミスです」と言えばいいんじゃないですか。 単なるタイプミスでないものを「単なるタイプミスです」とは言ってないでしょう。 「単なるタイプミス」を私が批判の対象にしていますか。もしそういことがあればお知らせ願えませんか。失礼をお詫びいたします。 >多分単なるタイプミスや変換ミスに 自分が自信のもてないことで、相手を批判するもんじゃないでしょう。
1133 :
渡海 難 :2000/08/10(木) 16:14
ニセその他さんへ 確認です。 >そんなわけで死んで間もない霊と先祖霊とは別々にお祀りしなければならない。ということで初盆には特別なお祀りをしなければならない。こういうことだと思います。 >私は機会があればこういった話をするのです。 「初盆には特別なお祀りをしなければならない」 冗談でもこういった話なんか、仏教を知らない人にしてないでしょうね。 もし貴方が真宗の坊さんで、仮にもこんな馬鹿なことを吹聴していたら、親鸞の教義に対する重大な挑戦だと思いますよ。これはインチキ宗教でしょ。
1134 :
名無しさん@1周年 :2000/08/10(木) 16:22
行ってた大学が、真宗大谷派でした。 講堂のステージ中央にはでっかい親鸞がいました。(石塔ですけど) 年に一度、11月になんとか会という宗教行事があって それに出席しないと、実技2単位が取れないというバカバカしさでした。 いやいや出てましたけど。(2単位落とせないし) 宗教がお金出して学校作るのはいいです。 行事もいいです。 でも、強制的に行事に出席させて、出ないと単位が取れないというのは ものすごくどうかと思います。 横やりでした。
1135 :
渡海 難 :2000/08/10(木) 16:41
>1133 (追加) 失礼な詮索であればお詫びします。
1136 :
名無しさん@1周年 :2000/08/10(木) 17:52
>1126、1127 とうとう堪忍袋の緒がゆるんできたと言うところでしょうか? 本来レスしないで無視しても良い書き込みにまでていねいにレスをつけるのを 我慢強いのかなあと思っていました。 宗教も知識は必要でしょうが、それを誇示したり、相手を言いまかすために使うのは、ほとんどの場合、信仰とは無関係ではないでしょうか。 どんな宗教も維持する為に組織化されます。そこに・・・長くなりそうなのでやめます。
1137 :
名無しさん@1周年 :2000/08/10(木) 18:12
坊主には、どういう戒律があるのだろうか?
1138 :
名無しさん :2000/08/10(木) 19:26
> 1136 無益な議論だと思いますので、止めます。
1139 :
¥5さま :2000/08/10(木) 19:29
↑ > 1138 は私のレスです。
1140 :
1136 :2000/08/10(木) 19:32
>1138 正しい
1141 :
¥5さま :2000/08/10(木) 19:47
> 1134 > 強制的に行事に出席させて、出ないと単位が取れないというのは > ものすごくどうかと思います。 私も、宗教行事に強制というのは間違っていると思います。 たとえそれが真宗大谷派の学校でも。
1142 :
¥5さま :2000/08/10(木) 20:04
> 1113 >黒塗りのベンツ&スキンヘッド&雪駄履きって、 @ある新税に反対する某都市の仏教界の方々がTVニュースの画面に映ったことが あります。 法衣ではなく平服だったと記憶しているのですが、思わず「ガラ悪ぅ〜」って感 想を口走ったことがあります。 私もあんな風に見えるのかとゾッとしました。 A町内の青年部で旅行をした時のこと。 あるひなびた温泉旅館に到着しようとした時、 「○○さん、俺達は○○さんを知っているからいいけど、 知らない人が見ると、ものすご〜く怖い人に見えるから、 お願いだからサングラスだけははずしたほうがいいよ」 って言われてしまいました。 ちなみに私はスキンヘッドではなく、スポーツカット(角刈り)程度です。
1143 :
ニセその他 :2000/08/10(木) 20:36
坊主丸もうけについて他宗を批判したり、生活できないと言い訳を言ったりしましたが、お金のことについて本音では言いにくいものです。 都会の寺なら、坊主丸もうけという傾向があることは間違いないと思います。 今月の同朋新聞に高木顕明について書かれていますが、高木顕明のような活動をしているかどうか。恥じ入るばかりです。
1144 :
ニセその他 :2000/08/10(木) 20:53
>1130 もう返事はするまいとおもっていたのですが、誤解がひどいので書きます。 >「霊とは自分の思い」なんですね。死んで間もない方への思いと先祖への思いとは、 >別々にお祀りしなければならない。初盆には特別なお祀りをしなければならない。 >貴方のお考えは、こういうことでしょうか。 私がそういう考えだとは言っていない。そういう霊魂観を日本人はもっている、と言っています。 そうした霊魂観を乗り越えなければならない、そのためには霊とは何かを学ばなければならない、と言っています。 私も一応は真宗の坊主ですから、霊がどうのこうのと脅すようなことは決して言いません。 霊にとらわれないように、と言います。 日本人の霊魂観については柳田国男、折口信夫、五来重を読んで下さい。 彼らの説をいかに乗り越えるか。 阿満利麿の本はこれをテーマにしていますから面白い。 本を読めと言えば、また言い逃れだと言うでしょうけど。 渡海難は人の言うことを理解しようとしないとの思いは深まるばかりです。 プロだからと言いながら、自分は在家信者だということを隠れ蓑にして甘えているのではないですか。
1145 :
渡海 難 :2000/08/10(木) 22:32
1144さんへ >そういう霊魂観を日本人はもっている、と言っています。 そうですか。素人にはよく分かりません。興味もありません。 >そうした霊魂観を乗り越えなければならない、そのためには霊とは何かを学ばなければならない、と言っています。 あまりよく分かりませんが、そういうことですか。霊とは何かを学ぶ勉強会のようなことをお盆行事としてお宅のお寺ではなさっているのでしょうか。 >私も一応は真宗の坊主ですから、霊がどうのこうのと脅すようなことは決して言いません。 浄土真宗の平均的な坊さんは、みんな常識の分かった方ばかりでしょう。 >霊にとらわれないように、と言います。 そうですか。 >日本人の霊魂観については柳田国男、折口信夫、五来重を読んで下さい。彼らの説をいかに乗り越えるか。 霊には興味がありません。 >阿満利麿の本はこれをテーマにしていますから面白い。 そうですか。私は霊には興味がありません。 >本を読めと言えば、また言い逃れだと言うでしょうけど。 そんなことは言いませんよ。でもこれは貴方がいうように言い逃れなんですか? >渡海難は人の言うことを理解しようとしないとの思いは深まるばかりです。 そうですか。残念ですね。 >プロだからと言いながら、自分は在家信者だということを隠れ蓑にして甘えているのではないですか。 どのように甘えていると思えますか?
1146 :
名無しさん@1周年 :2000/08/11(金) 00:42
渡海難は人の言うことを理解しながら誤解しているのであります。理解していないと、 あれだけの誤解はできません、もちろん反論もできません。
1147 :
名無しさん@1周年 :2000/08/11(金) 10:48
今朝着た 袈裟脱ぎ チンポ出す
1148 :
¥5さま :2000/08/11(金) 12:39
> 1146 きっとあなたはすごくいい人なんでしょうね。
1149 :
ニセその他 :2000/08/11(金) 15:10
最近、暴力団の組長が死んで、毎日のように組員が墓参りに来ます。 彼らは黒塗りのベンツ&スキンヘッド&雪駄履きではありません。 しかし、原色の派手な服、でかい態度(わざとらしく大声で話し高笑いする、ところかまわず駐車するなど)で存在を誇示しています。 ちなみに私は天然スキンヘッド(横山ノックのような髪型)です。
1150 :
ニセその他 :2000/08/11(金) 15:11
阿満利麿を知らない人のために紹介すると、西本願寺の末寺の長男として生まれ、NHKのディレクターとして「宗教の時間」など担当。現在、明治学院大学教授。 「中世の真実」のあとがきにこんなことが書いてあります。 「ある檀家の夫人が、先祖の命日に僧を招いて法要を営むのは、それをしないとキショク(気持ち)がわるいからだと話すのを耳にした。キショクがわるい?! 一体、キショクがわるいとはどんな世界をさすのか。それと親鸞の思想とはどんな関係にあるのか。キショクがわるいと言い放つ精神を迷信や呪術という言葉で片づけてよいのか。もし、私が寺の跡を継ぐとしたら、それは、人々のキショクをわるくしないために生きていくことになるのか。」(ちんぷんかんぷんな人は阿満利麿に質問して下さい) わたしは門徒さんから、お経をあげてもらうとなんかスーとしたような気持ちになります、と何度か言われたことがあります。 お経を読むことでキショクのわるいのがスーとするんでしょう。 キショクわるくさせるものが霊だと言ってもいいと思います。キショクわるくさせるものが実際にあるわけではない。ただその人があると思っているにすぎない。 霊とはそんな思いにすぎない、しかし日本人はこういう霊魂観を持ており、霊を恐れているんだ、ときちんと説明すれば、なんだ、そんなことなのかと思って、キショクがわるくなくなるのではと私は考えていたのですが、そうはいきません。 理解してもらえていないようです。逆に霊について説明すればますます気にする人もいます。 どうしたもんでしょう。
1151 :
名無しさん@1周年 :2000/08/11(金) 16:09
寸経に 寸志を渡し フクレ面
1152 :
名無しさん@1周年 :2000/08/11(金) 16:10
はげ頭 縦線引いたら チンポ面
1153 :
名無しさん@1周年 :2000/08/11(金) 18:08
俗ずれした破壊坊主こあいこあい
1154 :
南無 :2000/08/11(金) 18:11
>1150ニセその他 さん。 やっぱり人間は死ぬと全てがなくなるというものに耐えられないものがあるのでしょうね。 実体の確認なしで、判ったことしとして、あるものとして「霊」を立てておく。そうすれば 自分が死んでも何かしら残ると安心するのだけど、他の人達のものまで残ってるとなると 実は厄介。色々な形で不安のタネ。 つまりは生きる事の目的としての自分の行き先をハッキリさせる以外に方法はないと思われます。 真宗では「往生浄土」なのですが、ヒンズ−教やイスラム教などはどうなっているのかな? 念仏=正念、正念とは「正しい信念」であるというのは、平野修先生の言葉です。 浄土往生を願い続けるという信念を持って生きるという以外「霊の呪縛」からの解放はない?
1155 :
渡海 難 :2000/08/11(金) 20:28
1103さん あんたにレス入れるの忘れてたわー >戦没者の方からみれば自分の欲求に赴くままに生きてる輩に読経を上げられても迷惑千万だと思うしね。徳度もへったくれもないわ。ほんまに。 自分の欲求に赴くままに生きてる輩に読経を上げられて迷惑なら、戦没者は、どんな輩に読経を上げられると嬉しいの。 世の中にはどうしようもない坊主はおるじゃろう。聖人君子のような坊主もおる。聖人君子のような坊様から読経を上げられると戦没者は喜ぶんか?。馬鹿馬鹿しい話とはアンタ、思わんのか。 戦没者と言えば、十代後半から、五十代の人ぐらいじゃろ。たった一つの命を戦争で奪われた人々が、読経で喜ぶと思うか。読経ひとつで喜ばないなら、読経ひとつで迷惑千万と思うわけでも無いじゃろう。 聖人君子のような坊主と言っても、一皮むけばアンタと同じ程度のすけべじゃぞ。どうしようもない坊主もすけべなら、聖人君子のような坊主もすけべじゃぞ。こっちのすけべはあかんが、あっちのすけべならいい。そんなこと誰かが言うのか。 読経は誰の為にあげておるのか知っとるか。すけべ坊主、クソ坊主が読経をすれば、死んだ人になにかが届くのか。あ〜、アホらしい。読経は生きている人のために上げるもんなんじゃ。生き残った人が心に整理を付け、堅実な道を歩めるよう、生き残った人に向け、死者へのこだわりの気持ちに整理をつけて貰うのが目的じゃ。 戦没者の方からみればなどと、そんなことはアンタの心配することじゃ無い。 自分の欲求に赴くままに生きてる輩に読経を上げられちゃ自分が迷惑千万じゃと、生きとる人が思ったら、生きてる人が首にすればいい。死んだ人のことを心配することはない。ただ、そんな坊主じゃ迷惑千万だと言って首をすげ替えても、次に来る坊主もアンタと同じ程度のスケベじゃぞ。クソ坊主じゃぞ。 スケベ坊主、クソ坊主じゃ嫌じゃと言うんなら、アンタは自分の顔とキンタマを、鏡に映して見てみんさい。自分がどんなスケべか、よく見んさいよ。 戦没者は読経で喜ぶか。坊主に読経されたって、戦没者はちっとも嬉しくないぞ。、馬鹿な戦争を二度と起こさぬよう、今のワシらが選挙と言論で政治を正しく監視していってこそ、死んだ人は喜んでくれるもんなんじゃ。誰が読経してくれたかなんかじゃ無いんだぞ。
1156 :
ニセその他 :2000/08/11(金) 20:33
ヘザー・ウッド「インド、大いなる母」という小説に書いてあったのですが、 「ムスリムは死者は同じ体でどこかへ行くと考えている」 ということを聞いたヒンズー教徒の女性は、 「人間はずっと同じ体でいなきゃいけない」ことを怖ろしいと考える。 「いつまでもいまのままでいるなんてこと」、「私は変わりたい」。「いつかはこんなおでぶちゃんじゃなくなるかもしれなでしょう?」と笑う。 輪廻を信じるヒンズー教徒は、人生を何度も繰り返すうちにいつかよりよい人生をおくることができるようになるという可能性を信じている。 イスラム教徒は1回限りの人生であり、今抱えている苦しみ悩みが死後の世界でもそのまま続くのだ、とヒンズー教徒は考えている、ということだと思います。 そうしたヒンズー教徒の考えは日本人にとって理解しやすいと思います。
1157 :
¥5さま :2000/08/11(金) 21:01
夜遅くに近くの人が尋ねて来て、 「○○家のじいちゃんが、ばあちゃんの幽霊が出てくると言って騒い で、家族が困り果てているからちょっと来てくれないか」 と言われたことがあります。 行ってみると、じいちゃん(70歳くらい)は、母ちゃんが来ている、 母ちゃんがいると言って錯乱状態でした。 奥さん(60歳過ぎ)が亡くなって、中陰壇がありました。 じいちゃんの話を聞くと、 “自分が奥さんに甘えて、家のことも店(花屋さん)も奥さん任せにし たから、奥さんは疲れ果てて死んでしまった。 奥さんは、自分がこき使ったことを恨んでいる。” と言うのです。 自分がぐうたら亭主で、奥さんに少しもやさしくしてあげられなかっ たことを悔いているんですね。
1158 :
¥5さま :2000/08/11(金) 21:02
私は、じいちゃんと話をしながら、働き者でやさしい在りし日の奥さ んの姿を思い出して貰って、 私は一生懸命お経を読むから、じいちゃんは一生懸命奥さんに自分の 気持ちを伝えて、謝りましょう、 奥さんはきっと恨んでなんかいないよと笑顔で答えてくれるはずだと 言って、お経をあげさせて貰いました。 じいちゃんは少し落ち着いたようでしたが、私はそこまでです。 私の寺のご門徒ではなかったので、門徒寺の先輩に電話して事情を話 し、後は先輩にお任せしました。
1159 :
渡海 難 :2000/08/12(土) 00:41
1103さんへ(続き) 1157,1158を読んだか。分かりやすい話じゃ。 ワシは¥5さまさんが聖人君子かスケベ坊主か知らんぞ。面識はないからな。面識無い人をどうこう言おうとは思わん。でもな、読経の名宛人(読み書きかせ対象者)ははっきりしておるじゃろ。これが浄土真宗の読経じゃ。 読経の読み聞かせ人は、この場合、じいちゃんじゃ。読経には聞かせる相手の心を落ち着かせる心的作用がある。別に、呪術的なものじゃない。無論、万能薬でもない。週刊誌や新聞がいくら分かりやすいと言っても、そんなもん読んでも、深い意識での気持ちの整理はつかんのじゃ。 お経を読みきかせると、不思議と気持ちに整理が付いてくる。仏教は、そういう心理的作用の存在に気が付いてきていた。 ¥5さまさんがスケベ坊主だと言う訳じゃないぞ。ワシには面識がない。ただ、仮にスケベ坊主が読んでも、お経を読むとそういう作用が出る。だから、読経はスケベ坊主がやってもいいんじゃ。 わかったかな?
1160 :
¥3さま :2000/08/12(土) 01:07
女を見ると抱き締めたい、一回いや何回もお願いしたい。私は普通の男です。 お願いするのは良いけれど、許可無くやるのは犯罪者。ああこりゃこりゃ! いかん何を言いたいのか、わからんようになって来た。そうだ!スケべについて語るのじゃ。 学校の先生はスケべだ、坊主はスケべだ、医者はスケべだ、そうじゃないかと思っておった。 大工はスケべだ、八百屋はスケべだ、運転手はスケべだ、それがどうした。 職業にレッテル貼るのはやめましょう。人間にレッテル貼るのはやめましょう。 たかがネットの掲示板、楽しく書き込みいたしまよう。
1161 :
七使さん :2000/08/12(土) 03:37
渡海さんへ NO.1 レス有り難うございました。頂きましたレスについて思う所が有りますので記述しておきます。 >戦没者の方からみれば自分の欲求に赴くままに生きてる輩に読経を上げられても迷惑千万だと思うしね。徳度もへったくれもないわ。ほんまに。 >自分の欲求に赴くままに生きてる輩に読経を上げられて迷惑なら、戦没者は、どんな輩>に読経を上げられると嬉しいの。 >世の中にはどうしようもない坊主はおるじゃろう。聖人君子のような坊主もおる。聖人>君子のような坊様から読経を上げられると戦没者は喜ぶんか?。馬鹿馬鹿しい話とはア>ンタ、思わんのか。 少なくとも僕は思いませんね。そもそも僧侶とは精進潔斎を励み、人々から尊ばれる人ではないのですか? 渡海さんの話からいきますと、こうも考えられますよね。 世の中にはどうしようもないない教師はいるだろう。聖人君子の様な教師もいる。聖人君子の様な教師から教えを受けると生徒は喜ぶのか?馬鹿馬鹿しい話とは貴方、思いませんか。 今の例えからいくと、少なくとも聖人君子の教師(坊主)から教え(読経)を受けた方が 数段、人の為になると思いますが? >戦没者と言えば、十代後半から、五十代の人ぐらいじゃろ。たった一つの命を戦争で奪>われた人々が、読経で喜ぶと思うか。読経ひとつで喜ばないなら、読経ひとつで迷惑千>万と思うわけでも無いじゃろう。 少なくとも僕自身がその立場になった場合、そうとは思えませんが? たった一つの命を愚かな戦争で奪われたという所は同意出来ますが、それゆえ亡くなられた戦没者の方々には現世に対する筆舌し難い執着が有るのではないですか?迫り来る死の瞬間をその目で焼き付け、生きながら紅蓮の炎に身を焼かれていく。そんな非現実的な事態に直面し自分が生きてきた・生きてゆく時間に強制的に幕を下ろされた方々に対して慰めの意味を持つのがお経じゃないですか?僕はお経というのはこの世に存在するありとあらゆる森羅万象の理を示している文書・教えと思っていますが?また僕がもし、その様な事態に追い込まれ、その命が尽きるとなった場合、決して現世への執着を断ち切り、その流れに身を任せてとは絶対に考えもしないし思わないでしょう。
1162 :
七使さん :2000/08/12(土) 03:37
渡海さんへ NO.2 (続き) レス有り難うございました。頂きましたレスについて思う所が有りますので記述しておきます。 >聖人君子のような坊主と言っても、一皮むけばアンタと同じ程度のすけべじゃぞ。どう>しようもない坊主もすけべなら、聖人君子のような坊主もすけべじゃぞ。こっちのすけ>べはあかんが、あっちのすけべならいい。そんなこと誰かが言うのか。 じゃあ、永平寺・延暦寺・高野山・湯殿三山で厳しい修行を積まれている僧侶の方はどうなのでしょう?彼の方々はかつて仏陀が沙羅双樹の下で悟りを開いた様に、その高みを目指して修行されている方々は?その方々は現世に蔓延するしがらみを絶ちきる為に厳しい 修行をしておられるのでは?渡海さんの発言からすると、これを真っ向から否定されている気がしますが?それにこっちのすけべはあかんが、あっちのすけべならいい。この部分については僕が上記に上げた様に教師と言い換えれば当てはまるのではないのですか? また、亡くなられた方々の現世への執着を考えれば(非業の最期を遂げれば当然かと思いますが)同じ経を上げて貰えるならば得の高い僧侶に上げて頂くのは当然かと思います。 少なくとも僕は渡海さんの様に仏教知識は殆ど有りませんが、実生活に当てはめると全くの詭弁にしか思えませんが? >読経は誰の為にあげておるのか知っとるか。すけべ坊主、クソ坊主が読経をすれば、死>んだ人になにかが届くのか。あ〜、アホらしい。読経は生きている人のために上げるも>んなんじゃ。生き残った人が心に整理を付け、堅実な道を歩めるよう、生き残った人に>向け、死者へのこだわりの気持ちに整理をつけて貰うのが目的じゃ。 これも僕は疑問に思いますが?現実に生きる人に対しての気持ちの整理で有るならば、何故、仏教には輪廻転生の考えが有るのでしょう?生きている人のみを対象とするので有れば来世なぞ存在しない。人間は死ねば土に帰るだけと教えれば気持ちの整理なぞ簡単につくでしょうに。般若心経の「色即是空 空即是色」は有は無になり、また無は有になる。 つまり物事は必ず循環し巡り巡っていくのではないのですか?その為には現世に生きる生者・常世に居る亡者双方に対する教えを読み上げるのが読経と思いますが?
1163 :
七使さん :2000/08/12(土) 03:38
渡海さんへ NO.3 (続き) レス有り難うございました。頂きましたレスについて思う所が有りますので記述しておきます。 >戦没者の方からみればなどと、そんなことはアンタの心配することじゃ無い。 >自分の欲求に赴くままに生きてる輩に読経を上げられちゃ自分が迷惑千万じゃと、生き>とる人が思ったら、生きてる人が首にすればいい。死んだ人のことを心配することはな>い。 果たしてそうでしょうか?自分の一族郎党に戦争による理不尽極まりない非業の死を遂げた人間が居れば少なくとも現世での悲惨な最期に執着する事なく、来世で暮らして欲しい と思うのは当然ではないのですか?また死んだ人の事を心配する事はないと仰っておられますが、これは本末転倒ではないですか?死者を弔う事を否定しても言い訳ですね? またその否定により今迄の仏事は行わなくても良い、それこそ読経すらしなくて良い。 こうなると、死者を火葬して墓所に葬る事無く、死者はその屍を死んだ場所で野ざらし、そして朽ちて行くまま時を待つ。またその屍が朽ちても誰も骨を拾わなくても良いとゆう 事ですね。 まさに壮観な光景ですな。何時から日本はチベットや中米・南米の鳥葬を信仰する事になったのでしょう?(まあ、鳥葬云々そのものは否定しませんが、アレはアレで鳥が天空に座します神々に死者の魂を連れていくと考えられていますからね) >ただ、そんな坊主じゃ迷惑千万だと言って首をすげ替えても、次に来る坊主もアンタと>同じ程度のスケベじゃぞ。クソ坊主じゃぞ。 これも上記に上げた疑問と同じですね。 >スケベ坊主、クソ坊主じゃ嫌じゃと言うんなら、アンタは自分の顔とキンタマを、鏡に>映つして見てみんさい。自分がどんなスケべか、よく見んさいよ。 少なくとも僕は僧侶ではないし、僧侶になるつもりも毛頭無いですが?ですから自分自身 どれ程、世俗の垢にまみれ・現世に狂おしいまでの執着を持っている事を否定しませんしね。また自分自身がその様な存在故に、自分よりも高位な方に弔って貰うのは当然じゃないですか?少なくとも僧侶とゆう肩書きを持つ以上、そのルールに則った生き方をせねば ならないと思いますが?あと、渡海さんのこの書き方でいけば自称僧侶で自分で営業し 顧客をつかんで経を上げ金銭を貰っても良い訳ですよね。同じスケベでしたら僧侶も一般人も変わりないとの事ですし。
1164 :
七使さん :2000/08/12(土) 03:39
渡海さんへ NO.4 (続き) レス有り難うございました。頂きましたレスについて思う所が有りますので記述しておきます。 >戦没者は読経で喜ぶか。坊主に読経されたって、戦没者はちっとも嬉しくないぞ。、 少なくとも目には見えない世界の事ですから、最大限好意的に解釈をしても良いのではないですか?それとも渡海さんの目には読経を読まれると、怒髪天を突く程の怒りを持った 戦没者の姿がしかと、確かに、確実に見えるとゆうのでしたら話は別ですが。 >馬鹿な戦争を二度と起こさぬよう、今のワシらが選挙と言論で政治を正しく監視してい>ってこそ、 これには全く同意しますね。 >死んだ人は喜んでくれるもんなんじゃ。 >誰が読経してくれたかなんかじゃ無いんだぞ。 じゃあ、結論としては僧侶は要らないって事ですよね。僧侶が要らないって事は仏教はこの世に存在しないって事ですよね?
1165 :
名無しさん@1周年 :2000/08/12(土) 12:12
酒を飲むため遊ぶため 稼ぎ時だよ 盆供養
1166 :
名無しさん@1周年 :2000/08/12(土) 14:14
>1164 というよりも、浄土真宗のような宗派の場合、僧侶の存在自体が まるっきり無意味なんだね。「同行同朋」なんて体の良い言葉を 述べられるが、やってることといえば在家の門徒からの搾取でしょうが? 以前、現代における僧侶のありかた、寺院のありかたを 素人さんに逆質問してたスコバカヘタレ坊主がいたが、あんなのは どうしようもないね。よく恥ずかしくも無くあんなトボケタ口が利けるよな。 浄土真宗の僧侶?(オマエらが勝手にそう思いこんでいるだけで、実際は俗人以下の 人間のクズの集まりにすぎんのだがな)は全員、還俗しなさい。 浄土真宗の寺は全てぶっ潰して更地にせえ! そして散骨指定地として国民に提供するのだ!!うわははははは!!! これぞまさしく「同行同朋」の精神に叶う、真の宗教たる 浄土真宗の偉大なる仏教者の皆様方が 現代において為さなければならない 最重要、かつ緊急を要する案件だと思われます。 是非、御検討のほどを、もっともわたくしなどが 申すまでも無く、すでに実行段階にあるのでしょうが。(笑)
1167 :
小学生のお父さん :2000/08/12(土) 14:28
> 1166 長さがあるけれども内容のない、何ら根拠のない説得力のない批判ですが、 あなたはひょっとして、最近売り出し中のようちえんじのおかあさんですか? もう少し坊さんがドキッとするような批判をしてくださいね。 これじゃ、盆あけの坊さんに無視されるだけです。 次回頑張りましょう。
1168 :
名無しさん :2000/08/12(土) 15:26
↑図星なんでまともに答えられないでやんの! 低脳坊主の本領発揮だな!!!(激爆)
1169 :
名無しさん :2000/08/12(土) 15:32
まっ、坊主もオマンコすりゃあ低脳児ができるだろうから、 「小学生のお父さん」にもなるわな!(嘲笑)
1170 :
渡海 難 :2000/08/12(土) 18:45
1161さん >少なくとも僕は思いませんね。そもそも僧侶とは精進潔斎を励み、人々から尊ばれる人ではないのですか? それはあなたの個人的な好みの問題じゃろ。 >少なくとも聖人君子の教師(坊主)から教え(読経)を受けた方が数段、人の為になると思いますが? 誰が? 人の為になる主体は、誰ですか? >少なくとも僕自身がその立場になった場合、そうとは思えませんが? それは、今生きているからそう思うんじゃろ。来年の自分の気持ちもどうなっているか分からんのに、死んだら自分はこう思うなんて、そんな話を真に受ける人がいると思いますか。 >筆舌し難い執着が有るのではないですか? あるかもしれん。無いかも知れんじゃないか。自分の不確かな予想で別の人を批判するもんじゃない。 >慰めの意味を持つのがお経じゃないですか? お経なんかで慰めになるとは、到底思えんがなー。 >森羅万象の理を示している文書・教えと思っていますが? お経を読んでから仰ってくださいな。 仮に森羅万象の理を示している文書だったとしても、死んだ人が、森羅万象論にご趣味があるとは、到底思えんがなー。森羅万象の理を示している文書を読むと、死んだ人がどうして慰められるんかいのー? 森羅万象についてなら、生きている人より、死んだ人の方が詳しいんじゃないかい。少なくともワシらは死後の世界を知らんからのー。 >その流れに身を任せてとは絶対に考えもしないし思わないでしょう。 どうぞ御勝手に。そんなことは、死んでから考えなさいよ。死んだら森羅万象の理を示している文書を読んで聞かせて貰うと、おなたはお嬉しくなる?。 あーぁ、馬鹿馬鹿しい。 生きている時には見向きもしなかった森羅万象の話が、死ぬと急に好きなる? あーぁ、馬鹿馬鹿しい。
1171 :
渡海 難 :2000/08/12(土) 18:47
1162さんへ >じゃあ、永平寺・延暦寺・高野山・湯殿三山で厳しい修行を積まれている僧侶の方はどうなのでしょう? それじゃ、あんた聞いてみなさいよ。永平寺・延暦寺・高野山・湯殿三山で、厳しい修行を積んだ坊様に、「それでアンタはスケベーじゃなくなりましたかいのー」、と。 「もちろんですよ。私はスケベ根性などは微塵もなくなりました」などと言う坊主がいりゃあ、それがホントのスケベ坊主じゃ。 >彼の方々はかつて仏陀が沙羅双樹の下で悟りを開いた様に、その高みを目指して修行されている方々は?その方々は現世に蔓延するしがらみを絶ちきる為に厳しい修行をしておられるのでは? そんなもんが断ち切れると思っているんですか? >この部分については僕が上記に上げた様に教師と言い換えれば当てはまるのではないのですか? どのように当てはまるんですか? >また、亡くなられた方々の現世への執着を考えれば(非業の最期を遂げれば当然かと思いますが)同じ経を上げて貰えるならば得の高い僧侶に上げて頂くのは当然かと思います。 徳とは一体何ですか。 >実生活に当てはめると全くの詭弁にしか思えませんが? 私には、貴方の言葉が詭弁にしか思えません。 フッー。(*_*) あー疲れた。 輪廻転生からのレスは後ほど。 オーイ。坊さん達や。実にいい質問じゃなー!
1172 :
ニセその他 :2000/08/12(土) 19:45
>以前、現代における僧侶のありかた、寺院のありかたを >素人さんに逆質問してたスコバカヘタレ坊主がいたが、あんなのは >どうしようもないね。よく恥ずかしくも無くあんなトボケタ口が利けるよな。 真宗寺院は門徒さんとご一緒に歩むものですから、素人さんに質問することは当然のことだと思います。 真宗だけではありません。寺院は開かれたものです。 素人さんを無視して僧だけで自己満足している寺院こそ恥ずかしいと思います。 こうしたらどうかというご意見があれば、どうぞお願いします。 こうしたご意見を無視することはありません。
1173 :
触媒 :2000/08/12(土) 19:46
> 渡海 難さん 立派な本堂で上手な読経を聞くと、なぜか心がその時だけとは言え癒されたような気がするのは 読経の正しい効果と言う事ですね。キリスト教の聖歌とか、黒人霊歌と同じようなものと考えていいわけでしょうか。
1174 :
七使さん :2000/08/12(土) 20:20
渡海さんへ いや、実に興味深いレス頂きまして有り難うございます。 頂きましたご意見は実に興味深く思いますよ。 もし、あれだったお会いして直接お話ししませんか? 実際に生で会ってお話を伺えると、より一層色々なお話が お聞き出来るかと思いますので
1175 :
ニセその他 :2000/08/12(土) 20:30
>七使さん >非業の死を遂げた人間が居れば少なくとも現世での悲惨な最期に >執着する事なく、来世で暮らして欲しいと思うのは当然ではないのですか? 非業の死を遂げた人間が現世での悲惨な最期に執着するというのは、日本人の持つ霊魂観からきています。 折口信夫は、霊魂に三種あると言っています。 @純化した先祖霊。 Aまだ死の穢れがついている死んで間もない霊。 Bほとんど浮かぶことのない霊。 Bは不完全な死、中絶した生(横死・不慮の死・呪われた死など)の場合です。そういう死に方だと迷える魂・移動できぬ魂になります。戦死者はこれに属すると思います。 死に際が気になるのもそのためです。死んだ時に苦しまなかったとか、死に顔が安らかだったと。それはBではなくAだと思って安心したいからです。七転八倒しながら死んだりすれば、霊は迷うかもしれないわけですから。 インチキ宗教は先祖の中に自殺した者がいるとか、ここでむかし死んだ者がいるとか言って脅します。これも同じことです。 戦死された方々が、私は家族のため、国のために死ぬことができたのだから満足だ、ということならば、靖国神社にお祀りして魂を鎮めたり霊を慰めるする必要はないわけです。 しかし亡くなられた人たちはともかく、生きている我々はそうは思っていません。戦死された方はこの世に思いを残しているだろう、苦しんで死んだのでは、心残りがあったのでは、死にたくなかったのではと思っています。 そうだったら戦死者の霊魂は迷っているかもしれない、祟りをしたり災いをする霊にならないように神として祀ることで、慰め鎮めなければ。こう我々は思ってしまいます。 非業の死を遂げた人間が執着していると思っているのは私です。そんな私の思いをひるがえさなければ、それこそ死んだ人は私にとっていつまでも迷い続ける霊魂になります。 亡くなった人を私にとっての仏だと言いきれるようになりたいものです。 >鳥葬云々そのものは否定しませんが、アレはアレで鳥が天空に座します神々に >死者の魂を連れていくと考えられていますからね アレは肉体を鳥に布施しているのです。 >死者を弔う事を否定しても言い訳ですね? このことについては、さらに長くなるのでまた今度。
1176 :
名無しさん :2000/08/12(土) 21:40
>1175、 ニセその他 >亡くなった人を私にとっての仏だと言いきれるようになりたいものです。 これはまた、いまだかつて聴いたことの無い珍説ですね(笑) 浄土真宗では、亡くなられた人は全て釈迦牟尼仏と等しい仏陀と 言い切れる、そのような教義があるのですね。その理屈でいくと このスレッドで >素人さんを無視して僧だけで自己満足している レスを付けまくっている公衆掲示板マスターベーション坊主も、 >亡くなった人を私にとっての仏だと言いきれる ような存在になるわけですね?どうせ、あの世に話をもっていくしか ないのだろうけどね。 このスレッド読んで感じるのは、浄土真宗も近代仏教学や 近代合理主義の洗礼を受けたのだけれども、 それらの矛先を自宗に向けるといろいろ都合の悪い部分が 出てくるんで、昔ながらの阿弥陀さんのお伽話やら, 葬式の必然性の是非を真正面から問うことはしないわけね。 そうであるならば、近代合理主義とはもっとも縁遠い宗教が 「浄土真宗」ということになりますね。(笑)
1177 :
カトリック信者 :2000/08/12(土) 21:45
はじめまして。最初は無視していたのですが、長い間、続いているので 読ませていただきましたが、なかなか面白いですね。カトリックの神父 さんやプロテスタントの牧師さんでも、これぐらい開けっぴろげで書い てもいいのにな、と思いました。減るもんじゃないしねぇ。
1178 :
名無しさん@1周年 :2000/08/12(土) 22:47
>1177 どうなんでしょうね、カトリックの神父 さんやプロテスタントの牧師さんでも、 ここに書きこみしてる粗大ゴミ寄生虫自称僧侶(?)連中ほど 腐った連中をさがすのは、かなり難事業なのでは???(爆)
1179 :
名無しさん@1周年 :
2000/08/13(日) 03:54 神父さんや牧師さんとかは信仰厚きためプロと なるひとが多いとおもうが、 坊主は家の家業だったとか、檀家がうるさかったとか、 しかたなくなる奴が多いとおもう。 心から自分の宗派を信じている奴って少ないんじゃないの? 生活の為の職業なんだよな、だから宗派批判とかは 営業妨害という感覚で反論したりしているんだと思う。