1 :
はあ〜:
メル友に失礼なことを書かれたので、抗議メールを送ったら、
キチンと謝ってきたのはいいけれど、その人がカトリック信者なので、
「主よ、告解します。私の〇〇〇〇(私の名)様に取った言動をどうか許し給え。
そして、二人の間の溝を取り除き給え。
父と子と聖霊の御名によって、アーメン†」
の一文も付いてきた。
これって、キリスト教に縁遠いと完全に引いてしまう。
なんで、同じくらいキリストに謝るの?
なんで、私に許してもらうために、キリストに頼むの?
私に誠心誠意謝ったら、済むことじゃない?
キリスト教って、自分は努力しない依存教に見える。
それにメールに書かなくてもいいでしょ。
これがカトリック信者の一般的な行動なのかな。
キリスト教が嫌いな偏見?を持ちそうなので、どなたか解説してください。
2 :
一般的ではないヨ。それは:2000/01/02(日) 01:59
告解は、教会で行う神父様を通じての「秘蹟」の一つで、罪の赦しの形態。
人に赦しを願うことと「告解」とを混同してしまっているということだと思う。
あるいは、少し手紙の上のことなのでひょうきんに振舞ったというか、ふざけたのかもしれない。
その人には、「告解」なんて書いてあるから引いちゃった。って言ってあげれば喜ぶんじやないかな?
クリスチャンは、手紙のやり取りは初めに「前略」「拝啓」などを用いずに、「主の平和!」とか「主の平安!」という挨拶をする。
結びの用語は特に決まっていない。聖書の一節を引用して神様の祝福を願う一文を添えることもある。
3 :
怒れる者:2000/01/02(日) 03:22
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教といった、契約関係に基づく一神教では、究極的に
人を赦したり罰したりするのは神だけです。だから、人に赦しを願うのと同等以上に、
神にも赦しを乞わねばならない。例えて言いますと、仕事上のトラブルがあった場合、
相手に謝ると同時に、相手の上司にも詫びを入れなければならないのと同じ事です。
せっかくなので理論的な事を述べてみましたが、2さんのおっしゃる事が正論です。
キリスト教徒以外にに出された詫び状に「主よ、赦して下さい」などと書いてあれば、
そりゃ誰だって引きます。
神に対して赦しを乞うという事は、寝る前の祈りの時にでも、ひっそりと行えば良いの
です。と言うか、人前で行うべきものではありません。
4 :
名無しさん:2000/01/02(日) 10:21
5 :
とろろ:2000/01/02(日) 20:39
キリスト教って、自分は努力しない依存教に見える
6 :
>5さん:2000/01/02(日) 21:07
とりあえず、自分が頑張らないと、神様も頑張ってくれないそうです。。
結果だけが神任せというのが教えらしいですが。
7 :
ととろ:2000/01/02(日) 21:07
>キリスト教って、自分は努力しない依存教に見える
盲目的なクリスチャンなら、他人にこう言う印象を与えがちなのか、キリスト教のネガティブな一面。
これに比べ、現世不定的なのが仏教徒。
8 :
困ったときの神頼み:2000/01/02(日) 21:11
というのは、誰でもあるんじゃないでしょうか?
が、それってこそっとするほうが効くんじゃないかなぁ?
(自分の勝手な思いこみ)
9 :
はあ〜:2000/01/03(月) 01:23
皆さん、どうもありがとう。
今まで特別の感情はなかったのに、おかげでキリスト教を偏見で嫌いにはならなくて済みそうです。
心で、神頼みするのはいいけれど、メールに書くのは、クリスチャンでも変だということもわかりました。
それに依存教に見えるのがネガティブな一面なら、まあ私にはキリストマインドは認めても合わないみたい〜。
しかし、2さんの言うように、本当にメールは「主の平安」から始まってました。
無知な私は、「平安京がどうしたの?」と思ってました。
これも相手かまわずに書いていいのかな?
10 :
キリシタン:2000/01/04(火) 13:05
書いていいか悪いかはともかく、信者じゃない人にはわたしは基本的には書きません。
だって、引いちゃうでしょやっぱ。
その人のためにはいつもお祈りしてるけど、相手を不必要にびびらしたくありません。
11 :
名無しさん:2000/01/04(火) 15:06
カトリックだけど、たしかに信仰をこれ見よがしに誇るひともいる。
しかしそれはプロテスタントにもいるし、キリスト教じゃなくても
いるんじゃない?
カトリックだからと一くくりにはできないのでは?
12 :
公会系クリスチャン:
あいてを選んで書くかかどうかを決めるのはその個人の問題で、
教会がそれを書けとか書くなとか指導はしていないと思います。
>キリスト教って、自分は努力しない依存教に見える
自分が努力しなけりゃ何もできないよ。
でもたまにラッキーってとき(奇蹟の賜物という)もあるけどね。
神様と共にいるということは、
依存することというよりは神の子になるといった感じでしょうか。
でもキリスト教の慣習のない人にそれを書けば誤解するでしょうね。