asahi.comより、「キリスト教聖職者も天地創造説信じず」

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1福音教会員
朝日新聞によると、英国国教会の聖職者(っていうものなの?)へのアンケートによると、
天地創造説を信じると応えたのは3%、アダムとイブの存在については13%、
マリアの処女受胎は75%が信じるとのことです。
そして、聖書を歴史的事実と捕らえるのではなく、象徴的な教えだと受け止めている
とのことです。

聖書第一主義の一福音教会員として、ショックを受けました。
ご存知のように、福音教会では、聖書の言葉1つ1つが神が私たちに下さった
最高の贈り物であり、その一つ一つの無謬性を疑いなく信じています。

同じキリスト教徒として、イエスキリストの救いと聖書を受け入れた者として、
どうしてこんなに違いが生じるのでしょうか?
英国国教会に通われる方、若しくは、立場の近い方々、ご意見を聞かせてください。
また、恥ずかしながら、私はあまり聖書を読みこなしていませんし、神学についても
素人ですので、その当たりのことについては噛み砕いて教えてください。

2理神論研究者のようなもの:1999/12/29(水) 02:27
ロックやヒュームの伝統のある英国は、啓蒙時代から聖書の記述を字義通りには受け入れない。
ケンブリッジ・プラトニストとかの例や伝統もある。清教徒革命と、その後の彼らを考えてもいいだろう。
とにかく、いまさら驚くような事実ではない。英国の教養層は、聖職者も含めて、そんなモンだ昔から。
3名無しさん:1999/12/29(水) 02:42
マリアの処女受胎を信じるアホが75%もいることが信じられん。
素直に考えるならヨセフの父ちゃんに身に覚えがないなら、どっかの別の男とセックスしたに決まってるでしょう。
そういや、宗教画のヨセフの父ちゃんの絵っていつも表情が暗いけど、やっぱり身に覚えがないのにどんどん女房の腹がでかくなるのがショックなんだろうね。
4福音教会員:1999/12/29(水) 02:45
>2
レスありがとうございます。
ちょっと私には聞きなれない言葉が並んでいるのですが、英国国教会とは
昔からそういうところで、今更、驚くことないということなのでしょうか?
とすると、それをセンセーショナルに書きたてる朝日新聞の方がおかしいと
いうことなのですね。

5理神論研究者のようなもの:1999/12/29(水) 03:47
そうですね、いまさらセンセーショナルに書きたてるのも、どうかしてるということです。
英国国教会というより、英国の文化が、と考えたほうがいいでしょう。
アメリカでは、同じ功利主義の伝統があるとはいえ、公立学校で進化論ばかり教えるのはいけない、
創造説も教えろ!なんて、ファナティックな運動が政治問題化したりしますが、英国ではないでしょう?
ある意味、成熟した市民社会の文化ともいえますね。

啓蒙期は、英国を皮切りに独仏と大陸に至るまで、「理性の時代」といえます。
知識人は、字義通りに聖書を理解したのでは、理性的には到底納得できない、と苦悩し、
聖書の記述を理性的に解釈するという、理神論、理性宗教に至るわけです、無神論ではなく。
フランス革命後の宗教のあり方とか調べるとおもしろいですね。

興味があれば、クルージウスや、ヒューム、J.J.ルソー、カント、レッシング、
モーゼス・メンデレスゾーン(あの作曲家の祖父)とかを調べられるとよいかと思います。
まあ、現代日本の良識的教養層(多くはないかも)の宗教観と、はぼ同じとも考えられますけどね。
6現職牧師代理:1999/12/29(水) 12:46
http://iij.asahi.com/1228/news/international28010.html には、
<font size=2 color=green>英国のキリスト教聖職者の大半が、聖書に登場する神の天地創造やアダムとイブの存在に疑念を抱いていることが、BBC放送が実施したアンケートでわかったそれによると、回答した聖職者103人のうち、天地創造説を字義通り信じるのは3人。アダムとイブが実在したと考えるのが13人だった。また、4分の1が聖母マリアの処女受胎は信じないと答えた。
一方、神の世界への影響力や、モーゼの十戒については、ほとんどが信じると回答。聖書の内容を歴史的事実よりも、象徴的な教えとして受け止めていることが明らかになった。
調査は英国国教会、カトリック、メソジストの聖職者のほか、科学者、教育者、政治家ら、知識人層1000人を対象に行われた。教育者の場合、キリストの復活や神の影響力を信じる者が半数を超え、3分の1以上が「天国は実在する」と答えた。

とあって、


>調査は英国国教会、カトリック、メソジストの聖職者のほか、科学者、教育者、政治家ら、知識人層1000人を対象に行われた。
ってありますが、国教会(実は今は国教会ではなくなりました。)だけでわないのでわ?
7現職牧師代理:1999/12/29(水) 13:09
1さんへ
>聖書第一主義の一福音教会員として、ショックを受けました。
>ご存知のように、福音教会では、聖書の言葉1つ1つが神が私たちに下さった
>最高の贈り物であり、その一つ一つの無謬性を疑いなく信じています。

わたしも、聖書第一主義の一教会員ですし、聖書の言葉は神が私たちに下さった 最高の贈り物であるとおおもいますし信じています。
しかし、聖書の言葉1つ1つが神が私たちに下さった 最高の贈り物であり、その一つ一つの無謬性を疑いなく信じてはいません。
例をあげてお話すると
たとえば、新約聖書の最初には、イエス(もっと厳密に言えば育ての父ヨセ)までの系図がありますが
ルカ二章の系図とは、ヨセフの父からしてもう違っています。ヨセフの父は二人いたと言うことでしょうか?

また、聖餐制定文は多少の違いがありますが、最後の晩餐は2回あったのでしょうか?

旧約ではこの類いがたくさん出てきます。
旧約の創世記の最初の天地創造と二章のアダムとイブのものがたりではものの創造順が違っています。
神は2回天地を創造され、最初のものは忘れたのでしょうか?

もちろん、わたしはそうは思いません。聖書を書いた福音記者も一人の人間、あるいは人間集団であり、
限られた知識・能力で書き、
聖書は聖書各書でそれぞれの矛盾をはらみつつも、全体で、み言葉なのです。

そして、聖書の命じるところに多少の矛盾や時代にそぐわない点があるとしても
聖書全体の命じるところにわたしは生きていく所存です。

英国国教聖職者を含む3教派の英国(多分イングランド人)聖職者がどう考えていらっしゃるか別として
わたしはそう考えますし、別に目新しい考えではないと思っていましたが。

8一聖公会員:1999/12/30(木) 00:20
聖書第一主義の一聖公会の信徒です。
「聖書を歴史的事実と捕らえるのではなく、
象徴的な教えだ・・・」全部が全部ではないですが、
天地創造のされ方ばかりでなく、
詩編に出てくる天動説など、そのような部分もあると思います。
しかしこれは主を信じない理由にはなにもならないと思います。
主はこの象徴の奥に普遍的真理を通していると信じているからです。
天地創造や天動説の一字一句ではなく、聖書全体に流れる、
もっと奥深いものを考えたいです。

ちなみに愛する福音教会員さんは天動説についてもそのまま信じて
おられるのでしょうか?(これは挑戦や興味といったものでは
決してなく、もしレス宜しければご参考程度にお聞かせ頂ければ
幸いです、といった程度のことです(^^)。個人的には福音派からは
学ぶ所も多いと思います。)
9>1:1999/12/30(木) 03:48
>最高の贈り物であり、その一つ一つの無謬性を疑いなく信じています。

こういう人間が、平気で人を殺すようになるんだよ。
オウムみたいに。
いい歳してるなら、自分の判断力をつけろ!
10まんな@聖公会 1:1999/12/30(木) 08:42
愛する福音教会員さんへ
 おはようございます。聖公会のまんなです。何だかな・・・?です。
 上記の数件の書き込みに対して「聖霊を汚す者は永遠の罪に定められる」
というみ言葉を捧げます。神学や歴史については出尽くしたので少し意見を書きます。
>朝日新聞
 聖公会の女性聖職のときに按手式の説教で「フェミニズム運動ではない」
という主教の説教を聴いているはずなのにフェミニスト学者のコメントを
載せてフェミニズムの提灯持ちのように聖公会を書きたてて。今度は聖書
で・・・。春に教団で商社マンが神学生になったで取り上げていましたね。
別に「召命」を変わりものに書き立てるような・・・。
>聖書第一主義の一福音教会員として、ショックを受けました。
 内部攻撃はやめませんか?一致が大切ではないかと思います。掲示板は
公共性が高いと思います。聖公会は他宗派攻撃はあまりしないのですが、
福音派の一部の兄弟には同じ福音派でありながら攻撃することもあるので
はないでしょうか?さまざまな価値観があるかと思いますが。どうでしょ?
お互いに、みとめ合って主にあって1つなのかと思います。
 処女受胎、復活、Hしたか否か、天地創造などがあったかどうかとか、論じる
よりもそこにある神様への感謝や賛美や栄光を聖霊によって感じることが大切で
はないかと思います。信仰は神秘でもあるのです。
11まんな@聖公会 2:1999/12/30(木) 08:43
愛する福音教会員さんへ 続きです
>その一つ一つの無謬性を疑いなく信じています。
 解釈の勉強は非常に難しいです。福音書で「湖上を歩く」などはその裏
にあるものがありますね。聖書は歴史的背景を含めて全体で捉えることが
大事かと思います。奥にあるもの暗示しているものなどです。進化論も創造
の過程と考えると理解できると10年以上前にFEBCで聞いて高校時代に
納得した記憶もありますし、当時の生物の教師はクリスチャンだったのですが
説明していました。
>どうしてこんなに違いが生じるのでしょうか?
 宗派とは「神の与えた選択肢」だと考えます。そこに生かされる信仰もある
かと思います。宗派を客観的にみるとキリスト教全体が見えてくると思います。
これも全体として捉える1つだと思います。
 愛する兄弟。福音派の兄弟姉妹から聖書や証は学ぶ点が多いです。私は福音派
の教会の説教も好きですし、証もすばらしいです。
 感謝します。
 主にある一致を祈ります
12・・・:1999/12/30(木) 17:55
神は、天と地を創造した。
マリアを処女受胎せしめることなど
造作もない。
13>12:2000/01/01(土) 07:42
はあぁあ?
あれは捕囚期にバビロニア神話との対決の必要上出てきた話でしょう?
だから創世記の頭にはP資料なのよ。
日曜学校入りなおしてね。
14名無しさん:2000/01/02(日) 10:22
15福音教会員:2000/01/04(火) 12:19
聖公会の皆様のご返事に感謝です。

私は主の導きを受け、教会に通い出した時から福音教会にしか通ったことがなく、
他の教会での説教などを聞いたことがないため、井の中の蛙となっていることと思います。
正直なところ、自分の母教会以外の礼拝に出席する必要を感じたことがなく、
神学や教理などの難しいことは良くわからないので、各宗派の違いも良くわかりません。
そのため、いろいろ失礼なことを書き込んだかもしれません。
気を悪くされた方、申し訳ありません。

マタイ福音書とルカ福音書の冒頭に出てくる系譜が違うのは知っていますが、
それそのものを問題と考えたことはありません。というか、聖書をありのまま受け入れる
ことにより、聖書の一節一節が歴史上の事実だということを受け入れ、聖書の一見
矛盾する記述さえも、信仰によって受け入れてしまっているという感じです。
ですから、それらの矛盾点を説明しろといわれても、「良くわからないけど聖書の記述が
正しい」としか答えようがありません。

16福音教会員:2000/01/04(火) 12:20

>現職牧師代理さま、一聖公会員さま、まんな@聖公会さま
挑発的な回答と受け止められてしまうかもしれませんが、主による天地創造や湖上を歩く等について、
全て歴史的な真実だと信じています。また、詩篇の天動説の一節というのはよくわかりません。
勉強不足なもので、教えてください。

>まんな@聖公会さま
他の宗派はよくわかりませんが、ご存知の通り、福音教会の中では
カリズマの考え方の違いで大きく2つに分かれています。
私は異言が現在においても人々に賜物として与えられるものではないと思うのですが、
それが与えられるものとする立場の方々とはなかなかしっくり行かないと聞きます。
(私はカリズマ系の方と話したことがないのでよくわかりませんが)

皆様にお聞きしたいのですが、求道中から「聖書の記述を象徴的なものと捉えてはいけない」と
教えられてきました。(私はその言葉もそのまま受け入れました)
これは福音教会独特のものなのでしょうか?
私が求道中に米国や韓国にいたときに通った教会は、必ずしも福音教会ではなかったのですが
長老教会やメソジスト教会など)、聖書の記述は象徴的なものではなく事実なのだと教えられて
きました。
私が知りたいのは、どちらが信仰として正しいかというものなのではなく、なぜそのような
違いが生じるかということです。それが宗派の違いというものなのでしょうか?

この、福音教会しか知らない井の中の蛙に、少しばかり教えてください。
17現職牧師代理:2000/01/04(火) 20:30
>私が知りたいのは、どちらが信仰として正しいかというものなのではなく、なぜそのような
>違いが生じるかということです。それが宗派の違いというものなのでしょうか?


人間の限られた理性で福音(という人間以上のもの)を理解しようとして、
福音理解がお互いに不幸な事に違ってしまい、
さらに不幸にもその違いがどうしても譲れなかった、
ということではないでしょうか?


その前の文に対しては以前の書き込みでお答えしていると思います。
18現職牧師代理:2000/01/05(水) 07:38
訂正します。

×その前の文に対しては以前の書き込みでお答えしていると思います。
○その他の福音教会員ッんの書き込みに対しては以前のわたしなり他のかたなりの書き込みでお答えしていると思います。
19まんな@聖公会 :2000/01/06(木) 16:58
>福音教会員さま
 「宗派の壁」は「霊の壁」です。これを打ち破らない限りはキリスト教の拡大を
妨げている一因です。宗派意識を強く持ちすぎることは「独善」「排他」「排除」
というようになるかと思います。福音派である以前に主にあるクリスチャンである
ことを意識できるような霊的な成長がお互いにできますように。アーメン

 宗派は再三申しているとおり利権や独善をはらむ可能性があります。それが進みすぎた
場合は「異端」「カルト」などになります。お互いにいいところを吸収し、違いを認めあ
って受けるものも賜物だと感じています。
 では
20Hiroshi:2000/01/07(金) 22:21
福音教会員さんwrote:
私が知りたいのは、どちらが信仰として正しいかというものなのではなく、なぜそのような
違いが生じるかということです。それが宗派の違いというものなのでしょうか?

本当に大切な指摘であると思います。聖書はキリスト教会の「正典」、
すなわちその「信仰と生活との基準」たる権威を持つものですが、
その権威が解釈された時、初めて権威としての力を発揮することが
出来ると思います。ところが「福音教会員」さんが指摘されるごとく、
同じ聖書を解釈する段階で解釈が分かれるのはなぜか、と言う問題こそ
真剣に考えられるべき問題と私も思います。聖書の旧約部分を正典と
するユダヤ教や啓蒙の書とするイスラム教が解釈の相違でイエス様を
キリストと認識しないのも聖書(旧約)の解釈の違いから生ずるもの
であると思います。キリスト者の間でも同じ聖書の上に立ちながら
とんでもない差異が発生します。

21Hiroshi:2000/01/07(金) 22:22
〔続き)
例えば、ある人は「人間は一度
キリストを信じ、新生を味わせられれば、決して罪を犯さなくなる」
と主張し、他の人は「人間はどんなにキリストを信じても、この地上
に生きている間は、罪から脱却する事は絶対出来ない」と主張します。
この差異がどうして生ずるのかと言うと、決して両者とも勝手な事を
主張しているのではなく、それぞれ聖書のみ言葉に立っていると思います。
前者は「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内に
あるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことはできません」
(1ヨハネ 3:9 新共同訳)に根拠を置き、後者は「内なる人としては
神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心の
法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが
分かります。」(ロマ 7:22−23)、さらに「罪が増したところには
恵みはいっそう満ち溢れました」(ロマ 5:20)に根拠を置くのです。
この種の解釈の相違は、それぞれ都合の良い聖句のみを抽出させて、そこに
神学的論争が起こり、さらにそれが発達すると教会が分裂して、多くの
教派が生ずる原因になったのが歴史であると思います。
22Hiroshi:2000/01/07(金) 22:23
〔続き)
例えば、ある人は「人間は一度
キリストを信じ、新生を味わせられれば、決して罪を犯さなくなる」
と主張し、他の人は「人間はどんなにキリストを信じても、この地上
に生きている間は、罪から脱却する事は絶対出来ない」と主張します。
この差異がどうして生ずるのかと言うと、決して両者とも勝手な事を
主張しているのではなく、それぞれ聖書のみ言葉に立っていると思います。
前者は「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内に
あるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことはできません」
(1ヨハネ 3:9 新共同訳)に根拠を置き、後者は「内なる人としては
神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心の
法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが
分かります。」(ロマ 7:22−23)、さらに「罪が増したところには
恵みはいっそう満ち溢れました」(ロマ 5:20)に根拠を置くのです。
この種の解釈の相違は、それぞれ都合の良い聖句のみを抽出させて、そこに
神学的論争が起こり、さらにそれが発達すると教会が分裂して、多くの
教派が生ずる原因になったのが歴史であると思います。
23Hiroshi:2000/01/07(金) 22:24
〔続き)
例えば、ある人は「人間は一度
キリストを信じ、新生を味わせられれば、決して罪を犯さなくなる」
と主張し、他の人は「人間はどんなにキリストを信じても、この地上
に生きている間は、罪から脱却する事は絶対出来ない」と主張します。
この差異がどうして生ずるのかと言うと、決して両者とも勝手な事を
主張しているのではなく、それぞれ聖書のみ言葉に立っていると思います。
前者は「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内に
あるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことはできません」
(1ヨハネ 3:9 新共同訳)に根拠を置き、後者は「内なる人としては
神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心の
法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが
分かります。」(ロマ 7:22−23)、さらに「罪が増したところには
恵みはいっそう満ち溢れました」(ロマ 5:20)に根拠を置くのです。
この種の解釈の相違は、それぞれ都合の良い聖句のみを抽出させて、そこに
神学的論争が起こり、さらにそれが発達すると教会が分裂して、多くの
教派が生ずる原因になったのが歴史であると思います。
24:2000/01/07(金) 22:25
〔続き)
例えば、ある人は「人間は一度
キリストを信じ、新生を味わせられれば、決して罪を犯さなくなる」
と主張し、他の人は「人間はどんなにキリストを信じても、この地上
に生きている間は、罪から脱却する事は絶対出来ない」と主張します。
この差異がどうして生ずるのかと言うと、決して両者とも勝手な事を
主張しているのではなく、それぞれ聖書のみ言葉に立っていると思います。
前者は「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内に
あるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことはできません」
(1ヨハネ 3:9 新共同訳)に根拠を置き、後者は「内なる人としては
神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心の
法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが
分かります。」(ロマ 7:22−23)、さらに「罪が増したところには
恵みはいっそう満ち溢れました」(ロマ 5:20)に根拠を置くのです。
この種の解釈の相違は、それぞれ都合の良い聖句のみを抽出させて、そこに
神学的論争が起こり、さらにそれが発達すると教会が分裂して、多くの
教派が生ずる原因になったのが歴史であると思います。
25:2000/01/07(金) 23:58
何でこんなに難しく書くの?
26
すみません。何度もrepeatしてしまいました。
要するに聖書解釈がだれがなんの権威でするのかが問われなければならないと
思います。例えばローマ教会は聖書解釈を含む教会の権威を教皇に代表される
首位権的(prematial)側面と、司教団的(collegial)側面
に置きます。プロテスタントは個人的(personal)側面と教派的(synodical)
側面に置きます。したがってプロテスタント各派の主張を見るといずれも聖書の一部のみに立脚し
その一面のみを力説しているように見うけられますが、これを比較してどれが正しい、誤りと判断
することは極めて困難であると思います。ただその相違を認め合うか、それとも自分たちの解釈に
力ずくでも従わせようとするか、の違いがあると思います。