◎◇新約聖書からキリスト教を洞察する◇

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1マラナタ
 人間の平等という理念は、人間が皆神の子であるというキリスト教の
信仰を母体とする、と言えるのではないか。
現在この人間平等観は、あらゆる社会的、国際的な組織の根本理念である。

 相対性は絶対性との繋がりを内在する。人間の営みが全て相対的
であるということは、それが無常であることをさすよりは、絶対者と
つながっていることを強調することである。

 さて、無神論者にとっては、人間を絶対化することは閉鎖的自己完成
に通じる。進化の仕上げは、個人にとっても、全体にとっても、自己の
うちに自己を築くことなのである。

 全体主義が潰えても単に数理と相対的価値観に基礎を置くかに見える
絶対性との繋がりを内在しない相対性は、危険な個人主義に陥らないだ
ろうか。我々が、個人の自由に焦点を合わせ、個人を社会的宇宙の中心
としたときは、協働の挫折、戦争と対立、混乱と分裂、浪費、飢え、
病気と死を強調し、しかもなお極端な自由、理想的な個人主義、
自己決定が無批判的に説かれることとなりうる。

 人は社会的結合を第一に欲する生き物。それを失なえば人間性も失う。
絶対性の基礎は数理や相対的価値観のみではなく、質的時間的普遍性が
求められ、それに的確に答えられるものは、神を愛することから生ずる
お互いの愛、つまり“隣人愛”による解決しか残されない。

 キリスト教が聖書からどう導けるのか、洞察する。
 隣人愛とその周辺が少しでも掘り下げられれば嬉しい。
2マラナタ:1999/12/26(日) 12:58
◎三位一体

神がご一体で、しかも父と子と聖霊という、ご3方であるというわけは、
人間の知恵を超える真理ですから、これを悟ることはできません。
しかし、信仰によってある程度までその意味を理解し、それについて
有益な知恵を得ることができます。[カトリック要理改訂版 p59参照]
この点をふまえて、聖書を読んでみると、主イエズスキリストを中心
としたときに三位一体は十分に推察することができます。

●最初に「たとえ」が少ないヨハネ福音書から取り上げてみます。

「もし私を知っていたなら、私の父をも知っているはずである。」8:19

「あなた達は人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』を悟り…」8:28

「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」8:58

「…わたしを通って入るなら、その人は救われる。……」10:9

「『わたしがある』をあなたたちが信じるためである」13:19

「わたしを通ってでなければ、誰も父のもとに行くことはできない。
あなたたちがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。
いや、もう今から父を知っており、また、すでに父を見たのだ」14:6-7

「真理の霊、その方を…」14:17

「父が わたしの名によって お遣わしになる霊、その方 がすべてのこと
をあなたたちに教え、わたしが言ったことをすべて思い出させてくださる。」14:26

「しかし、真理の霊である その方がこられると、真理のあらゆる面で
あなたたちを導いてくださる。…」16:13

 ここまでがヨハネ福音書からの引用です。
3マラナタ:1999/12/26(日) 13:01
●共観福音書にはマタイ福音書の締め括りに次のような言葉があります。

「だから、あなたたちは行ってすべての国の人々を弟子にしなさい。
- 父 と 子 と 聖霊 の御名 に入れる洗礼 を彼らに授け…」28:19

 これらのほかに最後の晩餐の時にイエズスの胸にもたれかかっていた
若い弟子ヨハネが、イエズスについて告白しています。
ヨハネの手紙T5:20-end
「イエズス・キリストこそ真の神であり、永遠の命であります。」と。

 このようにキリストが 神に遣わされた者と我々が信じるときには
『主イエズス・キリスト』 を中心に 「奥義」として三位一体を十分に
汲み取ることが出来ます。
4マラナタ:1999/12/26(日) 13:07
◎洗礼・聖霊の付与

 イエズス様は30才(?)でヨルダン川において洗礼者ヨハネから水で
洗礼を受けられます。 神の霊が鳩のように降ってくるのをごらんに
なります(マタイ3:16 マルコ1:10 ルカ3:22)

 洗礼が大切なことはヨハネ3章5節でイエズス・キリストご自身が
ファリサイ派のニコデモの質問に答えてこう言われます。
「だれでも水と霊とによって生まれなければ、
                神の国に入ることはできない」と。
水の洗礼と聖霊の賜物が共に大切であることはこの言動からも確実だ
と思います。

 キリストが天国のカギを授けたとされる使徒ペトロが次のように述
べています。
「洗礼は肉の汚れを取り除くことではなくて、
      神に正しい良心を願い求めることです。(Tペトロ3:21)」

 聖霊を受けることについては次のようです。
 普通は、使徒や長老の祈りや(時に断食を伴う)按手によって聖霊の
                       付与が行われます。

 使徒言行録19:5-6 テモテT4:14 テモテU1:6
                 などを参照すると良いでしょう。

 しかし、使徒の説教を聴くことで異邦人も聖霊の恵みに満たされます。
                         恵みですね!!
「ペトロがこれらのことをなおも話しつづけていると、御言葉を聞いて
いる一同の上に聖霊が降った。(使徒言行録10:44)」
 ペトロは次のようにも言います。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を
受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受け
ます。(使徒言行録2:38)」
そして実際には洗礼は、聖霊を受ける準備の整った状態であるようです。
「…聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの
名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降ってい
なかったからである。
 ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、
            彼らは聖霊を受けた。(使徒言行録8:15-17)」
5マラナタ:1999/12/26(日) 13:10
「イエス・キリストの名によって洗礼を受け」についてはマタイ福音書
の締め括りをもってイエズスは
「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(マタイ28:19)」
    とご自身で仰っていますから、この言葉に従うことは当然です。

“神に認められた使徒の教えに耳を傾ける”か、
“按手による使徒伝承の儀式を受け入れる”ことが聖霊との関わりをもたらす。
                こうしたことが言えるでしょうか。
●※聖霊との関わりに注意!!
マタイ12:31-32
『だからあなたがたに言っておく。人の犯すどんな罪も冒涜も赦される。しかし、聖霊に対する冒涜は赦されない。また、人の子をあしざまにいう者は赦される。しかし、聖霊をあしざまにいう者は、この世でも後の世でも赦されない。』
マルコ3:28-30
『「…しかし、聖霊に対して冒涜の言葉をはく者は、永遠に赦しが得られず、永遠に罪の責めを負う」こう仰せになったのは、「彼は汚れた霊につかれている」と人々が言ったからである。』
ルカ12:9-10
『しかし、人々の前でわたしを認めない者を、わたしもまた、神の使いたちの前で認めないであろう。また、人の子をあしざまにいう者はすべてゆるされるが、しかし、聖霊を冒涜する者はゆるされない。』

ヘブライ6:4-6
『たとえ、人々がひとたびは光に照らされて天の賜物を味わい、聖霊にあずかり、神の良いことばと、来たるべき世の力とを味わっても、堕落するならば、その人々を悔い改めさせることは不可能です。彼らは自分で、神の子をまたもや十字架につけてさらしものにしているからです。』
6マラナタ:1999/12/26(日) 13:18
 聖霊の働きや神の賜物に対して以上のような注意が必要だ。もう一つ、律法の下にあることと真の自由についても考えなければならない。

☆キリストの霊に従うこと。(洞察)

以下[新約聖書 フランシスコ会訳注 サンパウロ]による。

ガラテヤ3:24
「こうして 律法 は、わたしたちが信仰によって正しい者とされる
ように、わたしたちをキリストに導く 養育係(※) となりました。」
※養育係・・・単数形で 律法全体 を示す。

ガラテヤ4:2-4
「父の定めた日までは、後見人や管理人(※)の下にあります。」
※「後見人」「管理人」それぞれ複数で3節の「宇宙の構成にたずさわ
 る諸霊」に符合する

「同様に、わたしたちも子供であったころには、宇宙の構成にたずさわ
る諸霊(※)に、奴隷として仕えさせられていました。」
※「宇宙の構成にたずさわる諸霊」とここに訳出したギリシャ語の句は、
 多様に解釈されている。この述語はコロサイ2:8-20にも見られ、
 また本章9節では「あの無力でなんの助けにもならない『諸霊』」
 という形で出る。本句は前節の「後見人」や「管理人」に符合し、
 またコロサイ2:8-20ではキリストと 対比されていると 考えられ
 るので、「霊的存在者」と解するのは適当と思われる。
7マラナタ:1999/12/26(日) 13:19
コロサイ2:8
「むなしいだましごとにすぎない知恵の操作(※)によって、だれかが
あなたを虜にすることがないように注意していなさい。それは人間の
言い伝えに基づくもの、宇宙の構成にたずさわる諸霊に基づくもので
あって、キリストに基づくものではありません。」
※「知恵の操作」(文字通りには「哲学」)と「宇宙の構成にたずさわ
 る諸霊」(文字通りには「宇宙の構成要素」)の二表現は、おそらく
 偽教師からの教えから採ったものであろう。
 後者については、続く20節とガラテヤ4:3-9参照

コロサイ2:20-23
「あなたがたはキリストとともに、宇宙の構成にたずさわる諸霊にとっ
て死んだものとなったのに、なぜ、この世に結ばれて生きているかの
ように、「つかむな、味わうな、さわるな」という規定にしばられる
のですか。これらは皆、使えば消えてなくなくなってしまうものに
ついての規定であり、人間の定めたきまりと教えによるものです(※)。
このようなことは、礼拝熱心、自己卑下、肉体に対する厳格さを伴う
ので、知恵のあることのように見えますが、実はなんの価値もなく、
「肉」を満足させるだけのことです。」
※「人間の定めたきまりと教え」という表現はイザヤ29:13の表現を
 反映している。同箇所は清浄な食物と不浄な食物に関する旧約の律法
 に、人々が加えた追加規定について述べるもので、マタイ15:9と
 マルコ7:7(なお同19節参照)で引用。

PS:わたしは個人的に「人々が加えた追加規定」にタルムードの
 ミシュナとゲマラを想像してしまう。
 イエズス・キリストを「主」とする観点からはユダヤ教の神観念
 の変遷には警戒する。
8マラナタ:1999/12/26(日) 13:22
◎愛

「文字は人を殺し霊は人を生かす(コリントU3:6)」はキリスト者には
大事な教訓です。しかし、「イエズス・キリストは主である
        (コリントT12:3)」と言えない場合には霊は偽りです。

○わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が… ローマ5:5
○…主イエズス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛…5:30
○また、“霊”に基づくあなたがたの愛… コロサイ1:8

☆「そのおきてとは、わたしたちが神の子イエズス・キリストの名を信じ
ること、また、御命じになったとおり、互いに愛し合うことであります。
おきてを守る人は、神に留まり、神もまた、その人に留まります。
神がわたしたちに留まっておられることをわたしたちが知るのは、神が
賜った聖霊によるのです。」Tヨハネ3:23-24

 「愛」と霊が不可分なことを予想できますが、現代、これほどまでに
分裂してしまったキリスト教諸宗派。 「霊」に生かされることが必要
だとしても、その識別と実践、相互の愛の交わりが問題点です。
9マラナタ:1999/12/26(日) 13:23
●主を愛するということ

 「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい(コリントT16:22)」
ここの「愛」はギリシャ語では主がラザロを「愛」されていたと表現されるものと同様の愛です。
φιλει τον κυριον([フィレイ]友への(深い)愛情 [トン]the [クリオン]主)

 イエズス・キリストがラザロの死に際して激しく憤り、涙したその愛情(ヨハネ11:33-36)
で主を愛することができますように。

 ○αγαπη(アガペー)神の愛、隣人愛
 ○φιλεω(フィレウ)深い(友への)愛情 マタイ10:37etc
 ○φιλανθρωπια(フィランスルピア)神の慈しみの愛 テトス3:4etc
 ○φιλαδελφια(フィラデルフィア)クリスチャンの他者への兄弟愛
                                 ローマ12:10 Tテサロニケ4:9etc
愛の表現が原語には複数ありますが、それぞれみんな大切です。
10マラナタ:1999/12/26(日) 13:26
◎基本のお祈り(聖書記述より)

 奥まった自分の部屋に入って、祈ると父なる神様が叶えてくれる主の祈り。
マタイ6章9-13より[新共同訳]
「天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
  天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください。
  わたしたちも自分に負い目のある人を
  赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
  悪い者から救ってください。」
ルカ11章2-4[新共同訳]
「父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を
  皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないで下さい。」
11マラナタ:1999/12/26(日) 13:27
 聖霊を招いたお祈りはどのようなものか?新約から・・・
 使徒言行録3章6節[但し文章はフランシスコ会訳注新約聖書より]
 ペトロの言行「私には銀も金もない。しかし、私の持っているものをあげよう。ナザレのイエズス・キリストの名によって歩きなさい」
 祈りの形は?使徒言行録4章27節[但し文章はフランシスコ会訳注新約聖書より]
「…事実、ヘロデとポンシオピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注いだ聖なるしもべイエズスに逆らって、この都で徒党を組み、御力と御旨によってあらかじめ定められたことを、ことごとく行いました。主よ、今、彼らの脅迫に目を止めて下さい。そして、あなたのしもべたちに、思い切って大胆にあなたのことばを語らせてください。また、いやしと、しるしと、不思議な事が、あなたの聖なるしもべイエズスの名によって行われるように、あなたの手を伸ばしてください。」
 それぞれ、聖霊によって神が働きを示された場面です。祈るときの心の指針としてください。
PS:
イエズス様は天の国を復活の命になぞらえることがあります。しかし、ルカ17章20節では次のように仰います。
「神の国は目に見えるものとしてくるのではない。また、人々が『見なさい、ここにある』とか、『あそこにある』とか、言えるものでもない。神の国は、実にあなたがたの間にあるのだから」
パウロもローマ14章17節で次のように言います。
「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊によって与えられる正しさ、平和、喜びなのです。」
12でも:1999/12/26(日) 15:35
人間は、平等を嫌う。
13>1:1999/12/26(日) 16:54
イスラム教でも人間の平等は保証されている。
むしろ神と一体になるような特殊な人間を認めない分、
キリスト教より徹底している。
平等原理が世界的に一般化しているのは
近代は欧米中心に国際秩序が形成されたからに過ぎない。
何でもキリスト教の手柄にしないように。
14名無しさん:1999/12/26(日) 17:06
>「愛」と霊が不可分なことを予想できますが、現代、これほどまでに
>分裂してしまったキリスト教諸宗派。 「霊」に生かされることが必要
>だとしても、その識別と実践、相互の愛の交わりが問題点です。

たしかに霊の部分の評価が現代のキリスト教問題の要のひとつである
ような気がするな。
聖霊に対する祈りがないと、キリスト教が個人主義になるおそれが
あるし、聖霊体験を強調しすぎると、カルト的になるおそれがある。
15マラナタ:1999/12/26(日) 17:27
>12
 その通り! 仏教や神道は古くから根付いているが、男尊女卑、
 同○問題などはこれまで厳然として内部に存在した。 その認識は
 それとして、宗教を語ろうという基礎的な問題提起だよ。

>13
 はいはい、確かに一神教の神が世界を引っ張っているとお考えなのですね。
正しいと思われます。 キリスト教は天の父と御子イエズス・キリスト
と聖霊の三位一体を信じます。イエズス・キリストを通して神の御許に
行くという信仰を持っているのです。

 イスラム教はイエズスを神と認めませんが、「神」と言うのはキリス
ト教の「父なる神」と同じ神であると考えられます。ユダヤ教も変遷の
中で変質しているかもしれませんが、もとは同じ「神」を信仰している
のです(私の考えは6.7にある)。 キリスト教の神が・・・という意味で
私の言わんとすることは間違っていないと思います。

>14
 「カルト」と言うのは簡単に言えば、社会の構造に組み込まれた組織
形態を取っているのにもかかわらず、社会を脅かし、有害である場合に
叫ばれる社会的な非難の声でしょうか?
 もしも、家庭や、国家、宗教団体等の複合組織に至るまで完全に構造
化されている側面に触れずに、人間存在に欠かせない人間関係と位置付
けると認識はどう変わるでしょうか。 人間個々は所属宗教団体の種別
によらずそれぞれが自発的に他者と関わりを持って行くでしょう。
 宗教とはそういうものなのです。本質は。。。 ですから、そこには
相対的な価値観で相互の人間を推し量ることでしょう。 しかし、冒頭
にもお書きしましたように、相対的な価値観は絶対的なものに依存する
のです。
 ゆえに、神とつながるものとそれ以外へ赴く人々の営みとに大きく
分かれるのです。

  見直ししません。忙しいので・・乱筆乱文をお許し下さい。
ベースが、社会環境を前提としているというよりも、人類が有する人間存在真理が問題となります。

16さてと:1999/12/26(日) 18:04
平等ではない人間が それぞれ求める神は、おのずと違う
キリスト者ですらそのスタイルからして色んな種類が在る。
キリストは、弟子すらまとめることが出来なかった。
17マラナタ:1999/12/26(日) 19:17
質問よろしいですか?16さん。

16さんが仰るその「スタイル」って、具体的にはどんなことですか?
18マラナタ:1999/12/27(月) 22:27
 チョット一言:
「死は神が人に触れるときに残す印だ」
 キリスト教の信者は、死をこんなニュアンスで捉えているかもしれません。
19マラナタ:1999/12/29(水) 19:13
 洞察の宝庫?!
「知識は人を思いあがらせ、愛は人を造りあげます。自分が何か知って
いると思う人がいても、知っていなければならないようには、まだ知って
いないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人はすでに神から
知られているのです。」Tコリント8:1-3
「たとえ、天にであれ、地にであれ、神々と呼ばれているものがあるに
しても、私たちには、万物の源、父である唯一の神だけがおられ、わたし
たちもこの神へと向かっています。また、わたしたちには万物を存在する
ものとなさった唯一の主イエズス・キリストがおられ、わたしたちもこの
主によって存在しているのです。」Tコリント8:5-6
20マラナタ:1999/12/31(金) 00:22

「あなたたちは聖書を調べている。その中に永遠の命があると、思い
込んでいるからである。だがその聖書は、わたしについて証ししている
のである。
それなのに、あなたたちは、命を得るために、わたしのもとに来よう
とはしない。」ヨハネ福音書5:39-40
21マラナタ:2000/01/02(日) 23:03
 皆さん、明けましておめでとうございます。
ミレニアムですね。 あと1年で21世紀!!
22名無しさん:2000/01/03(月) 00:23
23↑芸?:2000/01/03(月) 01:20
 変態HPをリンクするのは止めましょう。
 こんなHPは無用です。
 こんなでは5年もすると中東の方々や隣の大陸の方々に仕えなければならなくなりますよ。
 内に力をめぐらせて、道理に違わず生きましょうよ ネ!
24マラナタ:2000/01/29(土) 18:12
 聖霊に対する、イメージって言葉にするとどういうものですか?
一般の人は聖霊って聞いてなんだか実感ができたり、理解できたり
するものでしょうか?
25三位いったい?>2:2000/01/29(土) 19:05
>神がご一体で、しかも父と子と聖霊という、ご3方であるという
>わけは、 人間の知恵を超える真理ですから、これを悟ることは
>できません。
わからんのに、どうして理解できるんじゃあ!

「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じ
ないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話している
のではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられる
のである。」(ヨハネ14/10)
これのどこが、一致しておるというのかね?


26マラナタ:2000/01/29(土) 19:48
>25
 ワカランから理解できませんよね。

 私は、神の渇きと自分の渇きは一致しているんだ。
それに従った業を行っている。という意味ではないか?
と推測するんですが・・・
   どうなんでしょうね・・・。
 
27マラナタ:2000/01/29(土) 19:52
 まあ・・・“信じる”って何でしょうね?
2825:2000/01/29(土) 19:54
>まあ・・・“信じる”って何でしょうね?

信じられないものもあるってことさ。
29名無しさん:2000/02/09(水) 09:11
信じるは信じる以外の何物でもない
30名無しさん:2000/02/09(水) 17:41
>信じるは信じる以外の何物でもない
世の中、信じられるものばかりじゃあないから、信じるということが
強調されるのさ。
31現職牧師代理:2000/02/10(木) 17:54
>30さん
世の中、信じられるものばかりじゃあないから、信じる信じないの判定をする理性が必要です。
誰かどこか別のところで、ニーバーの祈りを引用していますね。

あれをもじって言えば、信じていいものと信じてはいけないものの区別をする理性をお与えください、と言うところでしょうか。
3230>31:2000/02/10(木) 19:17
>誰かどこか別のところで、ニーバーの祈りを引用していますね。
なんじゃあ、それ? どうでもいいけど。
>信じる信じないの判定をする理性が必要です。
だから、キリスト教徒にならない人が沢山いるんだろう。

どうせ、教会解釈以外は話すな、と言いたいのは、分かってるよ。
だったら、こんなところで、宣教するなよ。
33現職牧師代理:2000/02/10(木) 20:49
>30様
何かお気に召さなかったようですね。
>どうせ、教会解釈以外は話すな、と言いたいのは、分かってるよ。
そうは書いてませんが、どうしてそうお考えになられたのですか?
ところで、教派が乱立していて、その教派ごとに解釈があります。
あなたのお考えになる教会解釈とはいかなるものかお教え願えれば、
少しは対話も可能かとは思いますが、いかがなものなのでしょう。

>だったら、こんなところで、宣教するなよ。
ここで宣教しようとはおもっていません。
ですが、ご忠告どおり、本業にいそしむ事にします。
こんな時間ではありますが。

では ごきげんよう。
34名無しさん:2000/02/10(木) 20:54
牧師とは、自分自身の世俗的な生活を向上させる
一つの方法として、信者の信仰生活の管理を買って出る男。
下駄履きの生活者である。
3532>33:2000/02/10(木) 21:45
>>どうせ、教会解釈以外は話すな、と言いたいのは、分かってるよ。
>そうは書いてませんが、どうしてそうお考えになられたのですか?
負けそうになると、私と話すなと、裏から圧力がかかるのだ(笑)。
>その教派ごとに解釈があります。
その通りなのだが。どこも同じさ。経験上。
36教会解釈:2000/02/10(木) 23:51
負けたときの言い訳さ。奴ら、いつも負けるから。
37マラナタ:2000/02/17(木) 23:48
 何で、“神様”が必要なのかね?
我々が“渇く”から? 「渇きの満たし方」がキーワードなのかな?
 考えのある方がおられましたら、レス下さい!では。
38趙雲:2000/02/18(金) 05:58
そのまえに。
マラナタさん、もうここには来ないかと思って
勝手に1を転載してしまいました。コメントくれると嬉しいです。
http://www17.big.or.jp/~amezo_/religion/000215022253.html
3936>37:2000/02/19(土) 08:32
「神様」が、聖書などのいう、造物主とか創造神の類をいう
のならいない。しかし、「聖霊」は、経験上いる。

>何で、“神様”が必要なのかね?
前者の「神様」なら、いないし、必要ない。
しかし、後者の「聖霊」は、いるんだから、しかたない。
ということですな。


 
40「聖霊」は、いるんだから、しかたない。 :2000/03/09(木) 13:46
「聖霊」は、いるんだから、しかたないって?
41聖書ファン:2000/03/09(木) 14:57
(ひとりごと)イエス・キリストの教えってこんなにややこしかったんだろうか。
「あなたの神を愛しなさい」、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」
これだけだと思ってた。

目からうろこじゃなくて、目玉が落ちましたよ、私は。
42聖書ファン:2000/03/09(木) 15:05
マラナタさんの結構な神学講義も結構だが、全然心に響いてこないね。
結局、一般の人がキリスト教に対して持っている閉鎖性などの偏見を増長するだけの
結果に終わっているのがなんとも残念です。

くどくど説明が必要な真理などないと私は思います。それは偽物の証拠。
言い訳でも、隠し立てする人ほど雄弁になりますからね。
437の7倍:2000/03/09(木) 17:45
おや、ここにも来たか。「聖書について教えてくださいませ
んか。」のスレッドではどうも。
マラナタさんに、文句つけたのは私です。
44聖書ファン:2000/03/09(木) 19:06
>7の7倍様

お邪魔しています(笑)。所詮はさすらい人なので、そんなに
お手間は取らせません(笑)。
45名無しさん:2000/03/09(木) 19:37
人間(隣人)は、平等だと思っているの?
お互いそう思っていてもどこかで優位に
立っているつもりでいるのが本当で、またそうでなければ
世の中うまくいかない。
467の7倍>42:2000/03/09(木) 20:10
>結局、一般の人がキリスト教に対して持っている閉鎖性など
>の偏見を増長するだけの 結果に終わっているのがなんとも
>残念です。

キリスト教徒が一般の人に対して持っている閉鎖性など
の偏見や増長が、これでは、解消されないというのも、
残念ですな。
477の7倍>40:2000/03/09(木) 20:13
あんた、聖霊に会ったことないのか、残念だな。
とはいえ、これを分かるようにせよと言われても、できないのが
残念。霊は吹きたいところに吹くのだ。
48聖書ファン:2000/03/15(水) 09:34
>46

おおせの通りです。
49ジョン・ドウ:2000/03/15(水) 10:42
>2
>この点をふまえて、聖書を読んでみると、主イエズスキリストを中心
>としたときに三位一体は十分に推察することができます。
それは三位一体をはじめにありきとしているから「推察できる」などと
言えるのではないかね。


50名無しさん:2000/03/16(木) 18:31
お前んとこは謝罪しないのか?
51名無しさん:2000/03/16(木) 19:07
プロテスタントも、謝罪しろ!
52名無しさん:2000/03/16(木) 19:15
>お前んとこは謝罪しないのか?
??。1はカトリックじゃないのか?
53>52:2000/03/16(木) 19:29
50は、笑い者、決定!
5450じゃない:2000/03/16(木) 19:33
どっちもキリスト教。
55名無しさん:2000/03/16(木) 19:48
「ジョン・ドウ 」氏は、モルモン教か?
56名無しさん:2000/03/17(金) 01:28
  Λ_Λ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ( ´∀`)< どーせエバホとか何か言う
 (    ) │ 輸血拒否教団の信者なんだろ>49
 | | |  \__________
 (__)_)
57マラナタ:2000/04/15(土) 02:06
>38
 仰るbbsでの内容が高度なので、これまでこのトビについての返答を
保留しておりました。様子を見ながら調子の良いときに、お尋ねの件に
ついては回答するつもりです。では、そういうことでお願いします。

>all
 いろいろとレス下さって感謝します。
>39
 聖霊についての経験上の確信が39さんにおありならば、
差し支えなければどういうことかお話願えませんか?

>聖書ファンさん
 イエズスが仰ることは、聖書ファンさんが言うとおりで大変単純だと
思います。しかし、現実には「愛する」ということは難しい。

>7の7倍
 文句をつけて下さった方ですか?結構なことです。これからもよろしく。

>49
 三位一体を始めにありきとしているというよりは、
イエズスの言葉を受けて洗礼を授けることの真骨頂として、
マタイ28章19節を読むと、神は三位一体だという表現が
妥当なのかとおもいますが、ジョン・ドウさんはこの箇所を
どのようにとらえておられるのですか?


煽りその他を含めて、みなさんレスどうもありがとうございました。

58聖書ファン:2000/04/18(火) 16:56
このスレッドでは、聖職者の方が叩かれているみたいで気の毒
なんですけど...。

聖霊と聖職者の関係って、どう教えられていますか? そもそも、
聖職者って聖書のなかに登場するんでしょうか? 聖霊だけが
あれば、全部足りるんじゃないかという気がするんですけど。
それも、別に教会の中にひしめき合って集まらないでも、ひとり
ひとりに聖霊が遣わされるというのでいけませんか? 神様から
の産地直送ではいかんですか(笑)。聖書には、二人イエスの
ことを話す人がいれば、私はすぐに飛んでいく(?)という宣言
がありましたね。

私は何度か葬儀などでミサに出席しましたが、今の教会では、
あまりに聖職者の権限が強すぎるように思います。あのキンキラ
キンの法衣(カトリックだけかな?)なども、私は大嫌いです。
訳の分からないラテン語の呪文も。教会ぐるみでイエスから遠
ざかっているように見えますね。

そもそも、説教という言葉が嫌いです。自分の失敗談なら、もっと
真剣になって信者が耳を傾けると思う。それでこそ、信者の役に
立つんじゃないでしょうか。今の聖職者は「偉すぎ」ます。
その真似をして、信者までが仏頂面(これは暴言でした!!!失礼)。

(毎度、ぶしつけな内容でごめんなさいね)
59マラナタ:2000/04/18(火) 19:40
>58
 「聖職者」は使徒の協力者、後継者として按手と祈りによって任務を
ゆだねられ、その遂行を助ける聖霊の恵みを受けます。もちろんだから
といって司教、司祭がもはや弱く欠点の多い人間ではなくなったという
意味ではなく、超人ではありません。しかし、それにも関わらず、
キリストは彼らに自分の言葉と心、自分の聖体、自分の赦しを任せたの
です。【キリスト教とは何か 女子パウロ会 参照p89】
使徒、長老(長老団)、教師、預言者、などは新約聖書中にでてまいります。
聖霊の与える賜物に応じてそれぞれの役割を担って活躍しているだろう
様子が伺えます。

>マタイ18:20 二人または三人がわたしの名によって“集まるところ”には、
                 わたしもその中にいるのである。」
ここは、話すではなくて「集まるところ」であることが重要だとおもいます。
信徒同士の関わりや、公には「教会」がその場にふさわしいのだと思います。

 後半の聖書ファンさんのお考えやお気持ちについては、私は私の感情的な
受け取り方を言わせてもらいます。私はそれほど聖職者の方々に威圧感や
威張っている雰囲気は感じません。教会の儀式的な雰囲気はお好きでないようです
が、神と出会う場として考えるならば、そんな見た目や形式はさして問題
にならないと思う次第です。
60聖書ファン>59:2000/04/18(火) 19:58
さっそくのRESをどうもありがとうございます。

ということは、聖霊は信者に直接ではなくて、聖職者に恵みを
与えるということですか?

>ここは、話すではなくて「集まるところ」であることが重要だ
とおもいます。

これは私の記憶違いでした。ただ、「集まる」即、教会になるん
でしょうかね。二人でもいいんでしょう? たとえば、マラナタ
さんと私がネット上で真剣に議論していたら、イエスは傍に来て
見守っておられるのではないでしょうか。たとえばですが、この
スレッドも「教会」とは言えませんか? 聖体拝領や説教はない
けど、イエスの真の教えを知ろうという情熱は、決して遜色ない
と思うのですが。

>神と出会う場として考えるならば、そんな見た目や形式はさして
問題 にならないと思う次第です。

だからこそ、逆に「教会」という建物の中でなくて、ネットでも
いいと思うのですよ。 私は、この瞬間にもイエスが傍らにおられ
ると信じていますよ。
61マラナタ:2000/04/18(火) 20:14
うーん。ネットというのはあくまでも文字の世界ですよ。
文字ではなく霊が人を生かすのです。それはパウロも注意を
促しているところです。
Uコリ3:6神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に
仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。
愛するとは、人に指示したりすることよりも、敵対関係にあるサマリア人を
介抱するように、隣人に接することであったり、とにかく動作に起因して
います。
 水で洗うこと。手で頭に触れること。共同の食事をすること。などは全て
動作と交流体験でしかありません。それらに加えて、福音にもとづく言葉が
加わるのです。それが本来の姿で、必要なのは“集まるところ”となる
のでしょうね。私は、聖書からそう理解していますが、実際には今は
そうなっていないのです。あしからず。

62聖書ファン:2000/04/18(火) 20:44
引用されている句の「文字」とは、形骸化したユダヤ教の戒律、
「霊」とは、隣人愛のことだと思います。イエスが何に対して
戦い、何が重要だと説いたかを見れば、このように解釈するべき
でしょう。

さて、「愛する」は当然に隣人愛の実践だから、「霊」に関連する
ことと見なせますが、「水で洗うこと。手で頭に触れること。
共同の食事をすること。」というのはどうでしょうか?
ただ、「愛をこめて」やったとしても、隣人愛には関係ないこと
で、「霊」に関係することにはなり得ないと思うのです。いくら
福音書の事跡をひいて聖化しても変わりません。

空腹で死にかけている人には、最後の秘蹟ではなくて、パンを
上げるのが「隣人愛」です。重い荷物を持っている人の額に
聖水をかけて、ラテン語の呪文を唱えるのでなくて、荷物を分担
してあげるのが「隣人愛」です。

教会人は、あふれんばかりの愛でもって、信者達に聖体拝領を
サービスしますが、戦争で殺し合う人にも、飢えて死ぬ人にも
見向きもしませんね(中には身を楯にしてがんばられる方も
いらっしゃりますが、一般的にはそれが実状でしょう)。

イエスだって、「身をもって」十字架上の死を遂げたのです。
身代わりの藁人形に息を吹きかけて、「見よ、これは私の身代わり
である。これを十字架につけたことは、すなわち私自身が命を
捧げたのである」という誤魔化しをされたなら、誰もキリスト教
など信仰しないでしょう。でも、世の聖職者は似たようなレベル
の誤魔化しをやっていますよ。そこには「隣人愛」のかけらも
存在しない。それこそ、パウロの言う「文字」で、殺すものです。
63マラナタ:2000/04/19(水) 00:53
投稿どうもありがとうございます。
私の指摘が、間違ってあなたの躓きになるのは避けたいので、
ここで私の書き込みはやめることにします。
今日のところは休みます。
64聖書ファン:2000/04/19(水) 09:23
あ、しまった。「三位一体」のスレッドで書き残したことを
簡単に書かせていただきます。

私は、イエスの果たした役目は、「外」(形式的な戒律や儀式、
種々雑多な神学)でなくて、「内」(神への愛と隣人への愛から
現れる慈愛の実践)が大切だということを、ユダヤ人達に示す
ことだったと思っています。「あなた方は、墓石のようである」
など、このことを端的に示しています。

俗っぽく言えば、「口先ばかりでなく、行動で真心を見せてみ
ろ」ということです。

戒律も儀式も神学も、神を「外」に求めることから必要になって
きます。この時、人間は無力で何の努力もできません。神の
慈悲の来るのをひたすら待つのみです。

私は禅の経験もありますので、直感的に神は「内」にあると
確信しています。そして、人間が生まれつき持つ「仏性」
(キリスト教では隣人愛)を目覚めさせることで、神に近づく
ことができると思っています。その時、「外」のことなどすべて
意味のないものになります。

マラナタと私の差は、まさに「外」と「内」の差だと気づきました。
65聖書ファン:2000/04/19(水) 09:35
すみません。マラナタさん、と敬称を付け忘れてしまいました。
お詫びいたします。
66マラナタ:2000/04/20(木) 03:30
敬称は気にしないで下さい。返事は、あらためて今日の夜にでも・・
では。
67マラナタ:2000/04/21(金) 00:05
 まず、61の内容に訂正があります。
>敵対関係にあるサマリア人を介抱するように
については逆をイエズスは仰って、隣人愛を促しておられました。
参考ルカ10:33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、
そばに来ると、その人を見て憐れに思い、

>62
 アガペーと霊の関係は密接なようですが、霊が隣人愛とイコールではなく、
霊の賜物としては様々な種類を挙げる聖書箇所がありますよ。

12:2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、
   ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを
                  覚えているでしょう。
12:3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、
   だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、
    また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは
                        言えないのです。
12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさる
                          のは同じ神です。
68マラナタ:2000/04/21(金) 00:07
12:8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
12:9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
69マラナタ:2000/04/21(金) 00:17
以上は、Tコリントからの引用です。

>64
 内側に湧く力を大切にすることが大事なんですよね。
その方向が真理の把握であったり、隣人愛であるならば
喜ばしいことです。聖書ファンさんがイエズス様を主と
仰ぎ、賜物を通じて隣人愛を実践されるようになることを
お祈りいたします。
70アトムの騎士:2000/04/21(金) 09:42
マラナタさん、どうもありがとうございます。

でも、悪いですけど、私はパウロの言葉を全面的に信じる気に
はなれません。「聖餐」の所で突っ込むのを控えましたが、
マタイもマルコも「聖餐を記念として行え」という言葉は残して
いません。どなたかが指摘されたように、パウロがでっちあげ
た儀式である可能性が否定できません。

私はパウロは信仰に対する情熱の固まりのような、霊的にすぐ
れた人だと思いますが、魂を救うのはあくまでイエスの教え、
イエスの言葉(=神の言葉)です。そこにパウロであろうと、
ただの人間の介在を許しません。神の契約は、神の全権大使で
あるイエスの宣言のみで十分です。

イエスの教えを純粋に受け入れるためには、一度カトリック教会
もそれに反対する教会派も、すべて消し去って、赤子の心に
戻って読むべきだと思われませんか? パウロの言葉を信じるの
は躓きの一歩だと私は思います。
71アトムの騎士(続き):2000/04/21(金) 11:29
あっ、HNを間違えてしまった。実は、聖書ファン=アトムの騎士
です(神道系スレッドでは専らこちらです)。

具体的な内容についてですが、

まず、
>霊の賜物としては様々な種類を挙げる聖書箇所
についての記述は正しいと思います。しかし、それでは不十分
です。

聖書には随所に「悪霊」が登場しますね。神道で交霊する時にも
当然、「悪霊」を見分ける必要があり、「審神(さにわ)」が
行われるのが常識です。「悪霊」の多くは、善霊であるかのよう
に表面をつくろい、邪悪な本心を隠すのが常です。ですから、
すべての霊的現象を受け入れるのは、あまりに危険な行為です。

これには実例を上げましょう。世界で聖母マリアの出現が報告
されていますね。私も少し調べたことがあり、聖ベルナデッタ
が目撃した聖母はブロンド、青い瞳です。同様に、ワルトルタ
女史がビジョンで見た聖母の姿も同じです(両方とも、バチカン
が公認しているはずです)。

でも、おかしくありませんか?マリアはユダヤ人女性です。
ブロンドに青い目なんてあり得ない話ですよ。どうも、この
マリア像はヨーロッパで信仰されてきたものを「何者か」が
流用し、出現させたものと推測されるのです。私の調べた限り、
審神も十分には行われなかったようです。

では、改めて伺いますが、カトリックで信仰されている聖母
は本当に本物であるという確信をお持ちですか?
72聖書ファン:2000/04/21(金) 12:10
関連記事です。

古代ユダヤ人はセム系民族で、
「ノアの子セムの子孫と伝説される人種。オリエンタリーデ
に属し、波状黒色毛、黄かっ色の皮膚、直状狭鼻を特徴とする」
(世界大百科事典、「セム系諸族」)
73ヒットラー:2000/04/21(金) 21:14
イエスの父親はローマ軍ガリア部隊の
ケルト人、母親は植民ポリスのギリシャ人、
つまりイエスはユダヤなどでは断じてない!
アーリア人故に高貴な人格だったのじゃ。
ユダヤ(ヘブライ)、フェニキア(レバノン)、
シリア(アラム)、エドムなど狡猾なセム人種どもに
高貴純粋な精神など有るわけがなかろうに。
74マラナタ:2000/04/22(土) 00:07
 聖書ファンさんは、典型的なファリサイ派やサドカイ派になってはいませんか?

マタイによる福音書
16:9 まだ、分からないのか。覚えていないのか。
      パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。
16:10 また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。
16:11 パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。
     ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」

 イエズス様が、パンの奇跡をなさったのに、用意されているパンを口に
しないようではダメではありませんか?
 パウロは、使徒ペトロやヨハネからイエズスの言行について直接聞かされ
ている人間です。パウロが各教会に知らせる手紙に、イエズスご自身の言葉を
書き換えて信徒に伝えていることなどあり得ません。自分の見解を、神に
召しだされた者として意見を言うときには次のようにパウロは言及します。

Tコリント7:25 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けて
    はいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、
                        意見を述べます。

などが、その例です。
 また、あなたが仰っていた福音書を元にしたイエズスの理解を曲げて、
ルカの福音書は信じないと言うのではあなたの言っていることの根拠が
崩れてしまいます、お気を付けて。 
75マラナタ:2000/04/22(土) 00:41
神道については、私は、個人的に大嫌いですし、これっぽっちも
信じてはおりません。

 まだ、わたしが小学生の頃に、神社にいるおじさんは、子供達を
集めては、いやらしい話をしたり、人の秘密をばらしたり、境内の
物置のビデオで不健全なビデオを小中学生に見せたり、高学年の
女子に性的いたずらをしていたり、お金を渡して自分の気に入った子
を神社にだまして連れてこさせたり・・・話し出すと切り
がないほどゲスなオヤジでした。
 神社にはいやな印象と思い出がありますね。

 神道は、外国人籍を拒否しますよね。仏教や神道は古来から日本に
根付いていたのでしょうが、過去ログにも書きましたように、男尊女卑
や○和問題を解決することはなかったのではないかと思います。
 あえて、効用があったとすれば天皇制が国民を結束させていたこと
と精神面においての下支えの側面ですか。これは西欧文化の取り込み
に際しても一足飛びにその精神を無視した非人間的な社会システムに
してしまう危険を和らげてきたものと考えております。
 申し訳ありませんが、神道の存在は、私は個人としては大嫌いです
ので・・・。無視はしませんが、決して個人的に取り込むことは
いたしません。
                     あしからず。
76マラナタ:2000/04/22(土) 01:12
>では、改めて伺いますが、カトリックで信仰されている聖母
>は本当に本物であるという確信をお持ちですか?

 これについては、私自身、静観しているところです。お答えを
控えさせていただきます。
77文革急進派:2000/04/22(土) 02:23
私はキリスト教徒ではないが、
我が国では神道と仏教はおよそ最悪の
宗教だ。
牧師・司祭は投獄程度だが、
神官(神主)と仏僧に命は無い。
78マラナタ:2000/04/22(土) 10:55
>聖書ファンさん
 今更お尋ねするのも気が引けますが、
64で仰っている
「あなた方は、墓石のようである」とは、聖書の言葉でしょうか?
探しても見あたらないので、聖書が違うのだと思います。
よろしかったら、その箇所を教えて下さい。

79マラナタ:2000/04/23(日) 06:54
 私には、「石」という用語はマイナスイメージではなく、次のような
使われ方に親近感があります。
Tペトロ
2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、
          神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられ
   るようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的な
         いけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊い
      かなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、
                   決して失望することはない。」
2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないもの
  ですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/
                これが隅の親石となった」のであり、
2:8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を
  信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から
                      定められているのです。
80聖書ファン>マラナタさん:2000/04/24(月) 09:08
遅RESでどうもすみません。

神道については、どなたかも言っておられましたが、堕落の
一途を辿っており、肝心の鎮魂帰神ですら形式化してしまって
いるのが現状です。どんな宗教世界でも、本物はごく僅かの
人によって継承されているのみのようです。

同じキリスト教関連の霊能者の方が、マラナタさんのお気に
召すかもしれませんね。18世紀の偉大な科学者であった
スウェデンボルグのことはご存じでしょうか? 彼は鎮魂
帰神の北欧版とでもいうような方法で、生きたまま霊界へ
行き、そこで見聞きしたことを「霊界日記」に書き残して
います。

彼は同時に「真のキリスト教」などの神学的著作も著して
いますが、こちらが彼が異端審問にかけられる際の自己弁護
のために書かれ、差し障りない内容になっている(当時の教会
人からすれば、これだけで異端性は十分だったでしょうが)
のに対し、「霊界日記」では教会のあり方をあからさまに否定
する内容が書かれています。例えば、聖パウロは天国でなくて
当初は地獄に落とされていた...。フランシスコザビエルも
ルターもダビデも...。

これがすべて彼ひとりの妄想だと片づけるのは簡単ですが、
しっかりと吟味しないで否定するのは「目あれど見ない」人
と同じですよ。
81聖書ファン>マラナタさん:2000/04/24(月) 09:38
(続き)

「墓石」に関する聖句、先ほど探しましたが見つかりません。
多分、パリサイ人を相手にイエスが言われた言葉で、
「あなたは外面ばかり浄めて内面は汚いままだ。表面はきれい
だが、内部に死体の汚れでいっぱいの墓(石)のようだ」
という趣旨の聖句です。

>イエズス様が、パンの奇跡をなさったのに、用意されて
>いるパンを口に しないようではダメではありませんか?

私はさきほどから、こっそりと先に頬張らせていただいて
いますよ(笑)。

私にとって、パンの奇跡とは、一人の隣人愛によって何千
人もの人が隣人愛に目覚める、という象徴的な出来事をも
意味しているからです。赤子ならわかるはずです。お腹の
減っている人に、なけなしのパンを分け与えるのが隣人愛
です。パンが聖別していようが、カビが少々生えて居ろう
が関係ない。

私は自分の経験から断言できます。自分の生活の中で、
自分流の隣人愛を実践すれば、その日から世界が変わり
ます。人間を変えるのは隣人愛の実践だけです。

飢えている人には、自分なりにパンを分け与えるように
努力することです。全部上げる必要などない。半分なら
半分、皮だけなら皮だけでもいい。大事なことは、心の
底から望んで隣人愛を実践することです。それが、
やがて自分が飢えてでも全部分け与える大きな隣人愛の
実践につながります。

交通費をかけてミサを受けにいく位なら、全部貧しい人
に恵んで上げた方が、お互いの魂の向上に役立ちます。

墓石を千回磨くよりも、墓の中身を1回掃除した方が衛生
的です。
82聖書ファン:2000/04/25(火) 08:59
なぜ私がミサを目の敵にするか、というと、祈りもミサも教会
の中でしか行わないからです。人間には内的人間(本音の部分、
我欲や悪への衝動に満ちている部分)と外的人間(建前の部分、
社会的評判や宗教道徳上の要請から、模範として振る舞う部分)
の2面があります。内的人間は「魂」、外的人間は肉体に伴う
表面的意識とも言えると思います。

教会で祈ったり、ミサを受けたりする時、人は教会人としての
自分を演じます(外的人間)。ところが、一歩教会を出て
世俗生活に戻れば、たちまちに内的人間が息を吹き返します。
死後、残るのは内的人間だけなので、いくら教会で慈善事業を
しようと、それが世間体とか教会から指導されているから、と
いう表面的な理由でなされる限り、外的人間を飾るにすぎず、
内的人間が永遠の生命を受けるかどうかとは何ら関係のない
ものになります。
よって、イエスは「右手でなしたことを左手にも教える
な」と言われたのです。誰も見ていないところで発揮される
自主的な隣人愛こそが本物だからです。

内的人間が浄められた人は、本音が隣人愛になっています。
教会でなくても、その人は四六時中祈っています。為す行為
はことごとく、真心からの隣人愛がこもっています。

墓の喩えなどで、私が言いたいのはこういうことです。
(とは言っても、スウェデンボルグの受け売りです 笑)
83聖書ファン(ことアトムの騎士):2000/04/26(水) 10:15
今朝、あるBBSでこの問題に関連する投稿をしていますので、
もしご興味がある方が(万が一)居られたら、ご覧ください。
(「またまた神慮論」、「解説大サービス」)

http://www.tcup5.com/502/susanou.html
84マラナタ:2000/04/26(水) 22:30
 PCが不調で画面が乱れてフリーズしやすくなっています。
レスが遅れて申し訳ない。
 スウェデンボルグは、宗教宗派によらず、独自にイエズスキリストを
信仰していたようです。これが、私は不味いと感じる。直感的なのですが・・・
わたしは、聖霊と愛は不可分なことは聖書を読むとパウロの書簡の中には
随所に現れるので明白だと思っております。そして、どうして聖霊が降った
んだろうと、わたしは素朴に聖書から調べてみました。2通りの聖霊の降臨が
聖書には記載されていると見ています。使徒の説教を聞いている人々に
突如訪れる霊体験の場合と使徒や長老(長老団)から按手によって付与される
ものがその2つです。
 いずれにせよ、肉体的ではないにせよ、聖霊は伝えられ、記憶され、伝承
されるもののように私は感じております。この点は、キリストを信じる者に
とって無視できない事柄であると思います。

マタイ23:27律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
白く塗った墓に似ているからだ。
 聖書ファンさんが仰ったのは多分この部分でしょう。この点は聖職者であれば、
注意しなければいけないところですね。仰りたいことがわかりました。

>祈りもミサも教会 の中でしか行わないからです。
 この部分は、誤解があると思います。キリスト教徒はミサや礼拝以外にもお祈りは
していると思います。
>内的人間が浄められた人は、本音が隣人愛になっています
>教会でなくても、その人は四六時中祈っています。
 こうした隣人愛が、勝手な思いこみからでなく、自然になされるのであれば
すばらしいことだと思います。

 聖書を満たしていないのか行き過ぎなのかはわかりませんが、
キリスト教会とミサ・礼拝の否定、父と子と聖霊による使徒継承の洗礼
や堅信の否定は同意しかねます。しかし、聖書ファンさんが最後の方で
仰る隣人愛のあり方については、共感するものがあります。

 今後、頻繁にここを覗けなくなります。なるべく見るようにしますが
週1−2回のレスになるかもしれません。よろしくお願いします。  
85聖書ファン:2000/04/27(木) 11:57
マラナタさま

私の書き方が乱暴だったもので、だいぶん誤解を招いてしまった
ようです。これは一方的に私の不徳のいたりです。

私は
>キリスト教会とミサ・礼拝の否定、父と子と聖霊による
>使徒継承の洗礼 や堅信の否定

まで徹底しておりません。スウェデンボルグは、反対に
ミサや洗礼の重要性を強調しています。イエスがやれと
命じたことから、優先してなすべきだ、という視点で議論
を押しまくったため、結果的に行きすぎた表現になって
しまったことをお詫びいたします。

>キリスト教徒はミサや礼拝以外にもお祈りはしていると
>思います。

それが本当であれば、素晴らしいことですね。

>こうした隣人愛が、勝手な思いこみからでなく、自然に
>なされるのであれば すばらしいことだと思います。

そうですね。私はまず、これを目標にしたいと思います。

>今後、頻繁にここを覗けなくなります。

私も、書きたいことは書き尽くしましたので、これが最後
のレスになるかもしれません。本当にありがとうございま
した。マラナタさまに神様のご加護がありますように。
86マラナタ
どうもレスありがとうございました。
聖書ファンさんも、神に導かれておられますように!
いつか、洗礼をお受けになられ、ご活躍されることをお祈りいたします。