[転載禁止] 仏教議論スレッド 117©2ch.net
1 :
神も仏も名無しさん:
2 :
閻魔大王 :2014/10/26(日) 22:10:25.90 ID:GgfOVsMB
かつての現在が、後に過去として思い出されるのではない。
過去は一度も過去であったことはない。
過去の一部が記憶としてよみがえるのではなく、過去とは現在における記憶である。
記憶とは現在である。したがって、過去とは現在である。
現在は未来と過去と比較してはじめて現在たりうる。
未来は存在していない。
現在のみでは現在を規定できない。
したがって、現在は存在ではない。記憶は錯覚である。
時間は存在しないのである。
モノ・コトは時間的持続のなかにおいてのみ存在たりうる。
時間が存在しないのだから、モノ・コト(有為)は存在しないのである。
有為が存在しないから、無為も存在しない。
空間もモノ・コトだから存在しない。
一切は皆空である。
ゆえに『(ブッダによって)あたかも幻の如く、あたかも夢の如く、あたかも蜃気楼の如くであるとして、
生起(生)が説かれ、持続(住)が説かれ、消滅(滅)が説かれているのである。』(龍樹 中論7-34)
3 :
神も仏も名無しさん:2014/10/26(日) 22:45:19.48 ID:RNcq6o0z
> 過去の一部が記憶としてよみがえるのではなく、過去とは現在における記憶である
例えば仮に
私(ID:RNcq6o0z)の場合は
過去にも我が有り
今、現在も我が有る
この「我が有る」と言うことを
基底(きてい)として
実有・実体として過去が有った
と掴もうとしている想い
我・我所について「ある・ない・肯定・否定」と掴もうとしている想い
何かについて「ある・ない・肯定・否定」と掴もうとしている想い
このような想いは
それ自体の自性で成立しているのではなく
因と縁の双方が相応一致して
この現世に現れ、そして(儚きものとして)
この現世から滅して逝く
_ _ _
基底(きてい)
ある物事の基礎となるもの。物事のおおもとのところ。根底。「―をなす精神」
4 :
神も仏も名無しさん:2014/10/26(日) 23:30:35.23 ID:RNcq6o0z
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html 夢のように、幻影のように
ガンダルヴァの都市のように
生じることと存続すること
そして消滅とが説明されたのである(中論7-34)
ガンダルヴァ
インド神話に登場する空中に住む精霊
有翼で上半身が人間の男、下半身は鳥の姿。飛天
仏教に取り入れられて八部衆となった
漢訳は「乾闥婆(けんだつば)」
_ _ _
「この世俗の世界は実有・実体であるっ!」と掴もうとしている想い
「ガンダルヴァの都市は実在するっ!」と掴もうとしている想い
この『掴もうとしている想い』は
『 掴もうとしている状態にある 』 と言う意味において
わずかな違いも、最も微細な違いすらも存在しない(中論25-19・20の超訳)
5 :
神も仏も名無しさん:2014/10/27(月) 11:53:37.07 ID:fIZPNFWd
6 :
神も仏も名無しさん:2014/10/27(月) 12:49:04.35 ID:fIZPNFWd
7 :
神も仏も名無しさん:2014/10/27(月) 13:36:49.23 ID:fIZPNFWd
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン)と現代
ゲシェ・チェカワ『七事の心の訓練法』
2
諸法は夢の如しと訓練しなさい
道の本体は阿頼耶の自性に置くことです
坐(瞑想のセッション)の間は, 幻術師としてありなさい
与え―受け取る(トンレン)の二つを交互に訓練してください
その二つを, ルン(呼吸)に乗せなさい
3
空性は防御の最上のもの
_ _ _
厚い雲の隙間から
妄想に影響されることのない『あおぞら』を見て触れて知覚して住んで
この『あおぞらから雲を観察していく』というような感覚で
金剛般若経 第二十八章
囚われないもの、それこそが功徳である、それ故に
思いを手放し、そして、思いが落ちて
平等性智(びょうどうしょうち)の立ち位置から
息を吐く時に、自分の幸せを白い光の形で、衆生に与え
息を吸う時には、衆生の苦しみを黒い煙の形で、受け取る
そして功徳を植えて、人徳を具えていく
8 :
神も仏も名無しさん:2014/10/27(月) 14:30:53.79 ID:fIZPNFWd
9 :
晃:2014/10/27(月) 20:31:18.77 ID:6K0vnhRU
【】 近代アドヴァイタ 【】の聖なる言葉
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1410972995/l50 肉を食べれば、暴力的な傾向が育ち、
動物が罹る病気になる。
by ラマナ・マハルシの教え
あなたは動物の意識よりも高いレベルにあるのに、
動物の肉を食べると身体は最も低いレベル、
動物の低いレベルに落ちる。
by 和尚
ラジャスの人々が愛する食物(=肉、魚、タマネギ、ニンニク)とは何か。
苦味や酸味や塩味が強く、熱くて乾いていて、
刺激性が高いばかりに、心身の病の原因となる。
ヨーガ聖典 バガヴァッド・ギーター 第17章より
四つ足の肉を嗜むと、一時は精が付くように思えても、
身体の血が汚れ、やがては筋肉が縮んで病に犯され、
苦しんで早死にしてしまいます。
ホツマツタエ 人の巻より
豚肉や牛肉は多量の尿酸を含んでいるため
人間の健康には有害とされています。
パラマハンサ・ヨガナンダ(著書 人間の永遠の探求より)
11 :
真実の神:2014/11/04(火) 12:14:09.15 ID:8Ki74ZQG
初めて事を成す方が二番煎じでより良いものをなす方が難しい
初めて事を成す人に神は力を与えている
イギリスの産業革命、デカルトの方法序説、デカルトは神学部卒で成績が優秀だったので
神から啓示されたユダヤ伝承のカバラを見せてもらえた、それをもとに方法序説を書いた。近代科学の父
仏教はまやかしの宗教ですやたらと難しいことを言うでも意味は空虚。
悟りをすると言葉にならない悟りを得るとありますね
世界は数学で出来ていると言います、言葉で言い表せないことは数式で言い表せます
世の中に数式や言葉で言い表せないものはありません科学が未発達であったり能力不足でいいあらわせないことは
ありますが。
悟りを得たという人がいますが本当の幸福は得られてないでしょう自尊欲のみ満たされているんじゃありませんか?
神の慈愛でのみ幸福が与えられるのです。
12 :
真実の神:2014/11/04(火) 12:15:03.13 ID:8Ki74ZQG
西洋の文化を取り入れて達成した高度経済成長、西洋の服、西洋由来の合成薬の知識
これらは永遠になくならないでしょう。
映画やアニメでもスーパーマンとか砂の惑星とか風の谷のナウシカなどのキリスト教のメシア思想が見受けられます
経済を神にゆだねているのは経済学の常識、それを否定する共産主義は滅びました。
イスラム教のオイルマネー
幸福を受けるのが当たり前すぎて神に感謝するのを忘れていませんか?
仏教の悟りが盛んな国の国民は幸福を得ているのでしょうか疑問です。
13 :
神も仏も名無しさん:2014/11/04(火) 23:23:40.61 ID:/bpTuh1y
14 :
神も仏も名無しさん:2014/11/05(水) 11:51:14.13 ID:mpWAwAzN
サトヴィックな食物(生野菜、果物)は瞑想を助長しますが、
肉のようなラジャシックな食物(=肉、魚、卵)や
タマシックな食物(加工食品、一晩以上の作り置きの食品)はそれを妨げます。
by ラマナ・マハルシの教え
人間の歯をみればわかるように
生物的には雑食でしょ
肉も野菜も食べるように出来てる
極端なことして得られる結果もあるだろうけど
不自然だ
ミラ・イースのカリカリチューンのような・・・・・
16 :
神も仏も名無しさん:2014/11/06(木) 18:15:21.60 ID:AO0IYwuV
17 :
眼横鼻直 :2014/11/12(水) 09:33:56.32 ID:WVCKy40p
『上堂。山僧、叢林を歴ること多からず、只、是れ等閑に天童先師に見えて、
当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞かれず、使乃ち空手にして郷に還る。
★所以に一毫も仏法なし★
任運に且く時を延ぶるのみなり』(道元 『永平広録』「空手還郷」より)
『万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく★さとりなく、諸仏なく★衆生なく、生なく滅なし。』
『仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。』
(道元 正法眼蔵 現成公案 初段より)
ゆえに→「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、眼横鼻直なり」と換言できる。
庭前柏樹子(趙州)、風吹けば吹け 雨降らば降れ(一休)、
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら 雨を降らせよ(Sn.1-2)
ブッダはいかなる教えも説かなかった(中論25-24)などと同趣旨。
深覚できるものはほとんどいない。
18 :
眼横鼻直 :2014/11/12(水) 10:13:04.66 ID:WVCKy40p
訂正
× などと同趣旨
〇 などと非同非異の如し→即同即異
19 :
15:2014/11/12(水) 18:41:00.21 ID:5CRn7CeL
道元さんはなんか遠くに感じてたけど
なんかお会いしてみたくなったです
やさしい解説本があったら読んでみるかもしれません(^^ゞ
20 :
晃:2014/11/12(水) 18:44:28.07 ID:8p7cbjRl
道元教は道元教
仏教は仏教
21 :
神も仏も名無しさん:2014/11/13(木) 10:22:18.49 ID:4aWS5eS6
17 :眼横鼻直は、また衆生を惑わす悪魔行為を始めたかww
22 :
亮終無限:2014/11/13(木) 10:32:54.07 ID:nh0/merV
ブッダは正理を説き、悟りに到る八正道の教えを説かれています。
眼横鼻直に執着している間は、悟りに縁のないことと知ることです。
http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/090901.html 眼横鼻直
暮れがた、一人の旅人が通りかかった
その鉢植を見て、「この松は本当によく曲りくねっている」と、さらりと一言
それを聞いた一休さん、家から飛び出てきて、その旅人に褒美をあげたという
その旅人だけが松の木をありのままに見たのである
他の人は一休さんの言葉に惑わされてしまった
褒美に目が眩み、無理に松の木をまっすぐ見ようとしたのである
(『大法輪』昭和六十三年二月号、藤原東演「臨済禅僧の名話」参照)
さあ、どうでしょうか
私達は「眼横鼻直」のように、あるがままに受け入れているのでしょうか
他人の意見、自分の主義主張にとらわれて、本当の姿を見失っているのではないでしょうか
眼は横に、鼻は直に、じっくり味わいたい句です
24 :
晃:2014/11/13(木) 18:19:02.50 ID:+xDeYbI6
松の木を眺めることが
仏教の極意とは…限らん気が…
25 :
15:2014/11/13(木) 18:50:20.38 ID:vfDhRe1S
道元の教えは道元の教え
そのとうりですね
仏の教えは仏の教え
そのとうりですね
ただ道元は仏の教えと共に生きたんでしょ
悟ることが出来なくても
仏の教えを参考に良い人生をおくれたらいいんじゃないかと・・・
そんなことを言うわしを仏さんが文句を言うとは思えない
仏さんの言動はいいなあと思いながら生きてくだけの人間に
極意はいらないと思うんだけど
26 :
晃:2014/11/13(木) 18:52:52.09 ID:+xDeYbI6
仏の名前だけ借りて
いい加減なこと言う人多いゾ
27 :
眼直鼻横 :2014/11/13(木) 19:19:54.17 ID:zYOoqIbk
>>23 >私達は「眼横鼻直」のように、あるがままに受け入れているのでしょうか
細川景一も藤原東演もホント絶望的にあかんねw
深覚できるものはほとんどいない。
>深覚できるものはほとんどいない。
そう言う自己顕示欲も涅槃には無用
29 :
眼直鼻横 :2014/11/14(金) 03:09:12.83 ID:Bw5ybbTx
およそ存在(生死)は自分の意志ではない。
人は生前も死後も妄想以外に知らない。
ならば、<今の存在>は自分の意志ではない。
存在は『曰く、不可解』(藤村 操)
藤村は華厳の滝に飛び込んだ。
存在という矛盾に自分の意志を問うた。
しかし、この問いには<自己とは何か>=「自己をならふ」(道元)という問いが抜けている。
絶対的なjust now(即今), just here(即処), just own(即自)の問いがない。
「即」(just)には存在自体がありえない。
存在という矛盾は相殺されている
一切行無常において、「即」(just)自体がありえない。
今・処・自は不立である。 時空際断の如く、である。
ならば、存在には意味・価値・実体はありえない。
苦しみは今・処・自に意味・価値・実体を与えていた自縄自縛の構造によるのである。
ならば絶対的なnot now(非今),not here(非処),not own(非自)⇒<あるがまま>を受けいれるしかない。
非今・非処・非自の如く(勝義) ― 還滅 → 即今・即処・即自(還滅)である
なんらの問題も矛盾もなかったのである。
これが安心である。
そもそも「自分の意思」やら「存在」当の認識それ自体が妄想なのに
何を今更自己顕示欲に駆られる必要が有ろうか
>これが安心である。
安心は安心ではない、それを安心と呼んでいるに過ぎない
細川景一 臨済宗妙心寺派の僧侶
藤原東演 臨済宗妙心寺派布教師会会長
_ _ _
巌頭之感 岩の上で思う
天地は何者にもとらわれず、何んと余裕があることか
今は昔の時代とは、何んと遠くはるかに離れていることか
五尺(1メートル50センチほど)の小さな体でその大きさを測ろうとする
ホレーショの哲学はなんら専門的でも権威のあるものでもない
宇宙の真相はただ一言で言うことが出来る、「不可解である」と
私はこの恨みを胸に持って思い煩い、ついに死ぬ事を決断した
すでにこうして岩の上に立つことになって
私の胸の中には何の不安があるだろうか、なにもないのだ
非常に大きな悲観は、非常に大きい楽観とおなじであることを、始めて知った
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1215120932
「非常に大きな悲観」という想い
「非常に大きな楽観」という想い
「安心である」と掴もうとしている想い
「安心ではない」と掴もうとしている想い
「今この一瞬の刹那に」という想い
「このまま永遠に」という想い
「輪廻にある存在」と掴もうとしている想い
「涅槃」と掴もうとしている想い
この両者の間には 「 掴もうとしている状態にある 」 と言う意味において
わずかな違いも、最も微細な違いすらも存在しない(中論25-19・20の超訳)
>>32 誰が何を言っているとか何を教えているとかも一切関係無い
>>32の内容を行に因って「ああ、そう言う事か」と諒解出来れば
それが解脱なのである
能書きをタラタラ自慢気に書く事が行なのではないし
自尊心の保護に労力を費やしたり自己顕示欲を満たす事が修行なのでも無い
中論はそう言う愚考・愚行すらも無意味だと趣意として言っている
>>32 因みに、そこで書いた事や、何かに書かれていた事が全く無意味だと言う事ではない
悟りに付いて真に正しき事がそこに書かれていたとしても、それは悟りではないのである
空腹の分析をいくら正確に明示されていようとも、書かれている事自体は空腹感なのではない
自らをして実践し体感して初めて「ああ、そう言う事か」となれる
悟り/解脱も同じ事であり、そこに自慢や虚栄の介在できる余地は微塵も無い
35 :
神も仏も名無しさん:2014/11/14(金) 11:30:30.01 ID:cYAgQsep
33 :神も仏も名無しさん:2014/11/14(金) 11:09:35.28 ID:VecumIHA
いいセンスだ。
2ちゃん仏教衰退も虚栄心慢心の輩が大方だからなあw
パーリ仏典、転輪聖王獅子吼経において、人類が悪業によって滅びる様が記載されています
「衆生よ、高貴なる魂をよく聞きなさい。この世の中には多くの悪業がはびこっている。
そして長い時の中で人々は、それを悪業とすら理解できなくなっている。
ただひたすら、地獄、動物、餓鬼といった悲惨な世界へ転生する要素を蓄積するのである。
十の戒めを守るものもなく、そのとき善というものはない。善を行う人などいるはずもない。
世界はまるで家畜のように堕落するのである。そして人間は、お互いに痛烈な反感、
敵意や殺人者の心を表すのである。父母は子供に、子供は父母に、兄弟姉妹は兄弟姉妹に
痛烈な敵意、反感、殺人者の心をあらわすのである。たとえるならば、猟師が獣を見て、
そのような感情を働かせるようなものである。この時、真理を実践するものは軽蔑され、
人を堕落させる職業のものが尊敬される風潮が蔓延する。そしていよいよ恐るべきときが
やってくるのである。7日間、人はお互いを獣として認識し合い、鋭利な武器を手にとって
お互いの生命を奪い合うのである。そして人々の大部分は死に至るのである」
ameblo.jp/manakapua/entry-11246668129.html
散弾銃で父親殺害か 容疑の息子、殺害ほのめかす供述 横浜から遺体運ぶ
sankei.jp.msn.com/affairs/news/140203/crm14020313150009-n1.htm
頭蓋骨割られ、足首も切断、2歳長男を殺したのは34歳父親
sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131024/waf13102407000000-n1.htm
14歳姉が妹をメッタ刺し、「感謝されない」理由に 米イリノイ州
cnn.co.jp/usa/35042979.html
【福岡】喧嘩両成敗!兄弟げんかで2人を逮捕 弟:兄を車で轢き殺そうとする。兄:その車を蹴り壊す
read2ch.net/news/1367902264/
>>36 何を以って悪業と看做すかが抜けている
例えば、被害に遭ってしまう側に悪業が無いと決め付けてしまい
何も悪い事などしてなくとも人類は悪業によって滅ぶ、と早合点してしまっている
顛倒した者にはそれが分らないと言う事だ
高みの説教・判ったつもりの説教・悟ったつもりの説教・善業悪業損得勘定への執着
イスラム原理主義と変わらん
39 :
晃:2014/11/14(金) 16:09:59.41 ID:gzdMWoFm
アラ〜は阿弥陀如来らしいっすね
念仏無間地獄は本当だった…
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
衆生は無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生ずる無明薫習によって
無明の暗闇に覆われて
渇愛によって誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じて
過去からの心の流れ(心相続)によって
種子生現行 阿頼耶識 → 末那識 → 第六意識の流れ
現行薫種子 第六意識 → 末那識 → 阿頼耶識に還元されて
> 地獄、動物、餓鬼といった悲惨な世界へ転生する要素を蓄積して
> 散弾銃で父親殺害(その他、色々な事件の加害者・被害者の関係者なども含めて)
自分だけでもなく
周囲環境だけでもなく
因と縁の双方の縁起によって
この現世に現れて、そして、やがて儚きものとして
この現世から滅して逝く
我愛と、戯論(けろん)と、善悪業によって 『 又、次の、この世の生に戻り来る!』
そう言う嫉妬心も仏道では克服対象
42 :
15:2014/11/14(金) 18:31:28.96 ID:qvg/Q6ld
マホメッドはあの世界に(アラブ!)平和を実現しようともがいた
それは永遠に続く地獄だろうね
でも、実現しようと知恵を絞ったと思う
念仏者はこの世界のおんなじクズを救う教えを
それも全部の教えじゃなくて自分のキャパ分だけの知恵を
いただいたらすぐ、おんなじクズに教えたくて
すぐにこの世界に帰ってくる
永遠の地獄だろうね
でも、おんなじクズが喜んでくれたらしあわせだ
43 :
亮終無限:2014/11/14(金) 18:41:30.90 ID:yWNOAU4Q
>>23 >暮れがた、一人の旅人が通りかかった
>その鉢植を見て、「この松は本当によく曲りくねっている」と、さらりと一言
その旅人だけが松の木をありのままに見たのであるというのは、「この松は本当によく曲りくねっている」と話したこと自体、
普通にあることで、特筆すべきことではないし、その旅人が「ありのまま見た」という意味で悟得したお話ではないと思います。
子供が杖を使って歩いているお婆ちゃんの姿を見て「お婆ちゃんの腰が曲がりすぎている」とありのままに見たことを母親に話す
ことと大差はないと思います。
>私達は「眼横鼻直」のように、あるがままに受け入れているのでしょうか
>他人の意見、自分の主義主張にとらわれて、本当の姿を見失っているのではないでしょうか
>眼は横に、鼻は直に、じっくり味わいたい句です
鉢植を見て、「この松は本当によく曲りくねっている」という旅人は本当の姿を見ているとは到底思えません。
眼は横に、鼻は直に、じっくり味わっても、形而上として本当の姿をありのままに見ることは難しいと思います。
本当の姿をありのままに見(観)るというのは、松の木の仏性の光をありのままに垣間観るということであります。
眼は横に、鼻は直についているお顔を尊顔して、仏性の光をありのままに垣間観るということが、本当の姿をありのままに観る
という意味であります。
本当の姿「一切衆生悉有仏性」の仏性の光をありのままに垣間観ること無くして、形而上として、本当の姿をありのままに観る
とは言わないのであります。
以上が悟得した智慧の一部となります。
44 :
亮終無限:2014/11/14(金) 18:43:34.94 ID:yWNOAU4Q
>>43(続く)
形而下としては、悟りに直接関係ありませんが、この世にあって、艱難辛苦の人生の課題をクリアする智慧としては、悩み解決
のヒントとして、自分のさまざまな艱難辛苦の人生から逃げていては人生の課題は解決できないのであります。
自分に立ち向かうさまざまな艱難辛苦の人生をありのままに見て受け入れ、ガッチリと本腰を入れて立ち向かう自己責任のもと
自助努力の姿勢が、人生の課題として取り組むことになります。
さまざまな艱難辛苦から逃げないで、失敗のなかに心の糧が智慧として乗り越えることができるという意味の「ありのままに見
て受け入れる」という考え方があります。
亮終無限
形而の上下も涅槃には導かないので関係ない
この世界の実際は無音暗闇無味無臭が真実
よって、形而の上下も本来存在しない
それらは六境六根の十二処で作用しているに過ぎない
苦もそこから起こる
阿頼耶識も所詮、心の問題なのではなく、事物の様相そのものとなる
心にそれを探すから分らなくなるのであり、目の前に阿頼耶識は鎮座ましましているのである
涅槃も然り
46 :
神も仏も名無しさん:2014/11/14(金) 19:13:08.95 ID:9bQEAnoa
>>45 真っ暗闇だよね☆この世は
それは別に悲しいことではないと思う
>>46 そうは言っても、華は愛惜に散り、草は棄嫌に生う
48 :
神も仏も名無しさん:2014/11/14(金) 21:34:34.04 ID:9bQEAnoa
49 :
眼直鼻横 :2014/11/14(金) 22:38:52.00 ID:Bw5ybbTx
>>43 >眼は横に、鼻は直についているお顔を尊顔して、仏性の光をありのままに垣間観るということが、本当の姿をありのままに観る
>という意味であります。
釈迦涅槃図は<眼直鼻横>だが、なにか?
>形而上として本当の姿をありのままに見ることは難しいと
全然アカンやんw
一切(相応部35-23)外妄想でしかない。
>仏性の光
『しるべし、無仏性の道取聞取、これ作仏の直道なりといふことを。
しかあれば無仏性の正当恁麼時、すなはち作仏なり。
無仏性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作仏せざるなり。』(道元 正法眼蔵 仏性より)
> 仏性の光をありのままに垣間観るということが、本当の姿をありのままに観る
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf 自由への旅 〜ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図〜 153〜154ページ参照
初心者に対しては、聞くこと、考えることといった全てに、意識的な気づきを入れていくように、教師は指導します
この段階に達しますと、気づきを入れようとした瞬間に、それはもう存在しなくなっている
ですから、あなたはもう気づきを入れることができない
意識的な気づきを入れることは諦めて、ただ気づいたままでいる。深く観察し続けるのです
この段階では、あなたはただ観察し、見ているだけです
もう意識的に気づくことはできないので、気づきを入れることはない
気づきはとても遅いのですが、観察はとても速いからです
この段階では、あなたはただ観察し、見ているだけです
もう意識的に気づくことはできないので、気づきを入れることはない
気づきはとても遅いのですが、観察はとても速いからです
この段階において、瞑想者は非常に明るい 『 光 』 を経験することがありますが
これは心がたいへん集中していることを示すサインですこれらの明るい光は
それぞれ異なった形や色をもつことが有り得ます
たいへん 『 明るい星が現れて、迅速に消えてゆく 』 こともある
視界の一方の端に現れて、それを横切って動き、瞑想者がたいへん興味を惹きつけられてしまうこともあります
明るい光が動いていて、それが月のように、どんどん大きくなってくるのを見ることもある
サマタ瞑想でも、この種の光は経験され得ます。それは集中と、心のエネルギーを示すサインです
>>49 この世界は洩れなく「夢幻泡影の如し」
故に
>一切(相応部35-23)外妄想でしかない。
すらも妄想となる
>>50 ニミッタは足の痺れの様なものだよ
見える光に意味は無いし、集中すれば誰でも見える
そもそも心は存在ではないのでエネルギーなど持っていない
座禅を組めば誰でも足の痺れを経験する
じっと動かず固定されてれば、そりゃ足も痺れてくる
足以外の身体も同じ事、集中が極れば当然身体は固定状態の極みに至る
足の痺れの原理が身体に及んでも不思議は無い
ニミッタはその痺れた現象が視覚に起こっただけの話
道元師はニミッタに頼らず見性している
釈尊もニミッタを重要視して居ない
ニミッタが涅槃引導の要件かどうか、少し考えれば直ぐ分る
53 :
眼直鼻横 :2014/11/15(土) 08:47:56.36 ID:TMslxvCR
>>51 >すらも妄想となる
妄想ではない、
妄想ではないのでもない、 としか言いようがない
あなたには無理です
54 :
晃:2014/11/15(土) 09:10:31.92 ID:98hZH9SZ
どうすりゃいいのさ…
↓
こうすればいいよ←これマジ?
>>50 の続き
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/test/post-122.html ある朝、空海は、行場の「神明窟」で虚空蔵求聞持法の修法に入り虚空蔵菩薩の真言を唱えつづけていた
虚空蔵菩薩
ノウボウ アキャシャギャラバヤ オン マリ キャマリ ボリ ソワカ
虚空蔵尊に帰命したてまつる。オーン。怨敵を打ち滅ぼすものよ。スヴァーハー
するとある瞬間、虚空蔵菩薩の象徴である 『 明けの明星 』 が飛来して、真言を唱える真魚(空海)の口に入った
真魚(空海)という小宇宙(人間)が大宇宙(虚空蔵菩薩という宇宙の仏)と無二一体となったのである
この超常状態を密教では「成就(シッディ)」という
具に言えば
真魚(空海)の誦ずる虚空蔵菩薩の真言のなかに言霊のように内在していた
虚空蔵菩薩が 『 明星の姿となって 』 真魚(空海)の口のなかに顕われたのである
http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-art/cat25/post-50.html 第十章 即身成仏
空海は
『自心の源底を知るものは仏の心を知る。仏の心を知るものは衆生の心を知る
仏の生命を覚り、これと一体化して生きる肉体そのまま で速やかに仏になることができる
それは仏の三密と人間の三業とが不二になる境地である』
と真言宗の即身成仏を説き、一座の天皇と高僧たちの前で
手に印 契を結び、口に真言を唱え、心を仏の三昧に住するという三密行を示し
自身金剛身(大日如来)となり即身成仏の境地に入ってみせ、体から黄金の 『 光 』 を放ちます
56 :
亮終無限:2014/11/15(土) 11:23:52.70 ID:9tbZXaeQ
>>25 >ただ道元は仏の教えと共に生きたんでしょ
>悟ることが出来なくても
>仏の教えを参考に良い人生をおくれたらいいんじゃないかと・・・
>そんなことを言うわしを仏さんが文句を言うとは思えない
>仏さんの言動はいいなあと思いながら生きてくだけの人間に
>極意はいらないと思うんだけど
今世において、悟りの極意に悩むことなく、阿羅漢向の心境で、まだ阿羅漢果の
悟りを開いていなくとも、仏さん(仏陀)を仰ぎ敬い、仏さんの生き方を手本とし、
仏の正しい教えを参考にして生きることは、光明生活の生き方へと向上した魂を、
仏さんは悦ばれていると思います。
>>53 >あなたには無理です
当に「諸法の仏法なる時節」のままだな
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
衆生は無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生ずる無明薫習によって
無明の暗闇に覆われて
渇愛によって誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じて
過去からの心の流れ(心相続)によって
種子生現行 阿頼耶識 → 末那識 → 第六意識の流れ
現行薫種子 第六意識 → 末那識 → 阿頼耶識に還元されて
> 『自意識がある!』という想いは
自分だけでもなく
周囲環境だけでもなく
因と縁の双方の縁起によって
この現世に現れて、そして、やがて儚きものとして
この現世から滅して逝く
>>60 >この現世から滅して逝く
行じて無い君には無理
62 :
15:2014/11/15(土) 19:09:12.59 ID:7rPodkSv
>>55 告白しときます
わしは悪魔がわしの口から入りわしを支配した体験があります
(知識としては大分前から知ってましたが)念仏と出会えた時
わしは悪魔と和解しました
わしは今でも悪魔に操られている精神病患者である可能性は
かなりたかいですorz
素人瞑想はあぶないですね・・・
>>56 ありがとうございます(^^ゞ
> 素人瞑想はあぶないですね・・・
私(ID:IJ5WtcNd)は実践したことがないので、それ故に
自分だけでもなく
周囲環境だけでもなく
因と縁の双方の縁起によって
> 行じて無い君には無理
(「我はある」という想いのある人が
「思いの手放し」を実践したことがないのなら
「思いが落ちる」ことはない)
と言うレスが現れている、と思われる
(私(ID:IJ5WtcNd)の場合は「自分も・周囲環境も・ある」という想いが現れているので…)
64 :
神も仏も名無しさん:2014/11/15(土) 23:16:58.25 ID:nZqMJhR7
ブッダも瞑想中いろんな悪魔が現れたらしい
指導者がいないと危険なのかもしれんな
65 :
晃:2014/11/16(日) 00:04:26.24 ID:5zUSqS4e
指導者が間違ってる場合
多いけどな
66 :
亮終無限:2014/11/16(日) 01:13:35.60 ID:b14vHKDm
>>45 >形而の上下も涅槃には導かないので関係ない
涅槃には有余依涅槃と無余依涅槃があります。
どちらも、形而上のことです。
涅槃とは、阿羅漢果の悟りの心境のことです。
この世で解脱する「有余依涅槃」、あの世に帰還してから解脱する「無余依涅槃」かの違いはありますが、
解脱とは悟りを開くことをいい、涅槃ともいいます。
形而下の我執とらわれた肉体にまつわる保存欲から形而上の精神世界の心の問題を智慧の力で、日々努力
精進するなかに、心の向上をはかり、我欲、物欲から離れ、解脱し自由自在の光に満ちた涅槃の世界に参入
することをいいます。
>この世界の実際は無音暗闇無味無臭が真実
>よって、形而の上下も本来存在しない
>それらは六境六根の十二処で作用しているに過ぎない
>苦もそこから起こる
六境六根の十二処は、悟りの障りである煩悩の根からくるもので、作用として苦はおきますが、悟得の心境
を指すものではありません。
67 :
亮終無限:2014/11/16(日) 01:15:04.17 ID:b14vHKDm
>>66(続く)
>阿頼耶識も所詮、心の問題なのではなく、事物の様相そのものとなる
>心にそれを探すから分らなくなるのであり、目の前に阿頼耶識は鎮座ましましているのである
>涅槃も然り
阿頼耶識の前に末那識の想念帯の穢れは、煩悩等による穢れであり、それが心の問題となって
行くのであります。
心の問題は、心の外の事物の様相ではなく、心の内の問題の煩悩を反省等で克服することで、
清らかな心となり、心の統御維持継続しつつ、利自即利他の精神を持つことで、霊的認識を
持つに到ることを悟りが開くことを意味し、阿頼耶識は、一般的に潜在意識となりますが、
潜在意識の中味は、あの世の魂の乗り舟の霊人の体のことであり、幽体・霊体・光子体の
三つの体が魂の心境の霊的認識の質の変化により、心境が高まれば幽体から霊体、霊体から
形而上の光子体へと変化変転してまいります。
>>66 >涅槃には有余依涅槃と無余依涅槃があります。
>どちらも、形而上のことです。
大間違いです
涅槃は一切の戯論が滅した目出度い境地
形而上・形而下の概念も所詮は戯論です
故に、有余・無余の両涅槃には当たりません
>涅槃とは、阿羅漢果の悟りの心境のことです。
これも間違い
心境は戯論です、夢幻泡影の如しを免れえません
よって、悟りの境地とやらも涅槃に当たりません
残念でした
>>66 >この世で解脱する「有余依涅槃」、あの世に帰還してから解脱する「無余依涅槃」かの違いはありますが、
この世とかあの世とか、邪見以外の何ものでもありません
我々は例え死んでもどこへも行きません
>>67 >心の問題は、心の外の事物の様相ではなく、心の内の問題の煩悩を反省等で克服することで、
心に実体など無く、そもそも心は存在ではないので有る訳ではない
そんな心に内側など有るべくも無い
認識は全て洩れなく妄想なんです、だから夢幻泡影の如しな訳です
まあ分らないでしょうけど
>>67 はあ。
あんた例の大川隆法の愛人?
こりないねえ。
72 :
晃:2014/11/16(日) 10:36:42.25 ID:5zUSqS4e
涅槃は方便っすよ
73 :
亮終無限:2014/11/16(日) 11:06:42.74 ID:b14vHKDm
>>68 >大間違いです
大間違いと断罪されるのは、涅槃の境地にある覚者であることが前提であります。
今だ悟らず、迷盲の中にある方が、大間違いと断罪されるのは大罪にあたる場合も
あります。
>涅槃は一切の戯論が滅した目出度い境地
>形而上・形而下の概念も所詮は戯論です
>故に、有余・無余の両涅槃には当たりません
真理か戯論か否かの分別の無い段階と思います。
よって、涅槃の目出度い境地は無常の妄想の類と思います。
>心境は戯論です、夢幻泡影の如しを免れえません
>よって、悟りの境地とやらも涅槃に当たりません
高次なる悟りの心境を知らない、御仁の経験の心境による、夢幻泡影の如しを免れ
ていない苦界の心境にあるのではありませんか?
75 :
晃:2014/11/16(日) 12:36:10.55 ID:5zUSqS4e
涅槃が目標じゃないよ
77 :
晃:2014/11/16(日) 13:27:12.34 ID:5zUSqS4e
菌類は餓鬼って
中国の天台では分類されてる
>>73 >今だ悟らず、迷盲の中にある方が、大間違いと断罪されるのは大罪にあたる場合もあります。
間違っている、と言われて憤慨した時点でダメなんだよ
間違いは間違い、お前が間違ってるんだから
他人の悟りの真偽は本人以外判別など出来様も無い
その悟りそのものに直接難癖を付けてくる事は愚の骨頂と言わざるを得ない
お前は他人の空腹の真偽を問えるとでも言うのか?他人の便意の真偽を問えるとでも言うのか?
>高次なる悟りの心境を知らない
悟りに高次も低次も無い
と言う事も分かってない訳だから話にならない
79 :
晃:2014/11/16(日) 16:48:05.25 ID:5zUSqS4e
高低あるのに
認識一切を手放した末に高低があるとか妄想が酷過ぎ
81 :
晃:2014/11/16(日) 17:08:10.07 ID:5zUSqS4e
という風に
醜すぎ
と醜美を決めつけるなら
高低を認めてることになる
82 :
晃:2014/11/16(日) 17:09:06.93 ID:5zUSqS4e
自語相違してるなら高低はある
自語相違:約 171,000 件 (0.48 秒)w
日蓮正宗とか創価学会とか顕正会とかかw
84 :
晃:2014/11/16(日) 17:23:49.43 ID:5zUSqS4e
経典から引用したら
自語じゃないっすよ
仏語になる
85 :
晃:2014/11/16(日) 17:24:36.01 ID:5zUSqS4e
黒人ラッパーはすぐ自語に頼る…
86 :
神も仏も名無しさん:2014/11/16(日) 17:54:26.10 ID:gHdwgCug
統合失調でスカトロ趣味なんでしょw
知ってる
88 :
神も仏も名無しさん:2014/11/16(日) 18:03:26.97 ID:gHdwgCug
偉大なる賢者、晃様は、それほどの有名人になってしまっていたとは・・・・w
89 :
15:2014/11/16(日) 18:45:47.93 ID:t/NpKskR
認識はそれぞれの生物が自分の能力に合わせて世界をデータ化した
妄想かもしれませんが
認識を通してしか世界と向き合えませんよね
認識の外にしか世界は無いかもしれませんが
認識こそが世界と向き合う場所なのでは
90 :
晃:2014/11/16(日) 19:10:31.34 ID:5zUSqS4e
なんで糞ほど糞同士
連むのか不思議…
91 :
晃:2014/11/16(日) 19:11:52.68 ID:5zUSqS4e
晃に己が糞認定されてしまっては
もう晃はスカトロが好きってことにしないと
自我を保つことが出来ないらしい…
92 :
晃:2014/11/16(日) 19:12:41.90 ID:5zUSqS4e
中田カスと泥舟に乗ってしまうアホが
けっこう居るってまじ?
>>89 認識を使う側はそれが中心だと、主力なんだとしか考えられない
それはお釈迦様の教えた「顛倒」の範疇に入る
誰が誰に向き合うって?
何かで何かを何かしなくては、と先入観を持っている時点でおこがましいんだよ
因みに、だからと言って認識を大いに使って何が悪いと責めてる訳ではない
仏教の原点は「苦の克服」なのであり、認識の土台とも言える心に全ての原因があるとするのが出発点となる
苦も認識の一つである、認識に実体は無い、だからそもそも実在していないのである
実在して無いのに現実には苦悩し悩まされる、その解決法として仏道では「全て手放せ」と言う
お前らはそれを「嫌だ」と言う、そんな事を強要される言われはないとさえ言う
誰も強要などして居ないのにだ
苦を克服したければそうしろと言うだけの話なのに
顛倒した衆生は必死に喧嘩腰で反論を並べる
嫌なら好きにしてれば良いだけの話なのにである
95 :
晃:2014/11/17(月) 13:48:00.53 ID:NmZXUfwB
反論を述べないと中田カスみたいなアベコベに話すゴミニートのせいで
正義が埋没してしまうことは良くある
96 :
晃:2014/11/17(月) 13:53:55.66 ID:NmZXUfwB
仏教の目標は仏に成るってことで
一生、二生、三生
今世だけじゃなく
来世にチャンスをかける人も中にはいる
97 :
晃:2014/11/17(月) 13:55:57.92 ID:NmZXUfwB
なんか認識がおかしくね…(?)
98 :
15:2014/11/17(月) 17:03:12.12 ID:U69yxxdY
>>93 ケンカ腰になってたとしたらごめん
ただ、実在はしてないかもしれないけど
現象としてたしかにわしは苦悩しています
そしてわしは釈迦の言葉の中にただ手放すだけ以外のものを
感じてしまうのです
それは自分が見たいだけの投影らしいのですが・・
苦を手放すんじゃなくて和解する方法があるかもしれないと思いたいのです
おこがましくてもわしは世界と向き合いたい
妄想の中にも髪の毛一本分ぐらいは世界が混じっていると思うんです
世界に触れたからこその妄想だと思うんです
でなければただの反応機械であるわしにそれは立ち上がってこない
と思うのです
>>98 >苦を手放すんじゃなくて和解する方法があるかもしれないと思いたいのです
思うのは自由さ、それを釈尊は禁じて居ない
「手放す」とは方便に過ぎないんだよ、最初っから手元には何も無いんだから
己の身体や生存寿命すら己のものではない、だから自由になってない
仏や出家修行者は「無一物」と言われるが、それは俺らも実は同じ事
結局は何一つとして手中に収めてなど居ない、にも係わらず「我がもの」だと言い張り思いたがる
手放すと言う方便はその「思いたがり」を止めろって事なのさ
そうすれば己の真に望む事実に到達出来るよ、って話
嫌なら無視すればいい、勿論無視しようとしまいと因果応報さ
好きにしたらいい
100 :
晃:2014/11/17(月) 18:37:53.36 ID:NmZXUfwB
持たざるもの…?
101 :
晃:2014/11/17(月) 18:38:21.51 ID:NmZXUfwB
仏は持ってる
102 :
晃:2014/11/17(月) 18:39:50.80 ID:NmZXUfwB
持っててもドケチ期間もあったらしい…
103 :
15:2014/11/18(火) 18:51:51.99 ID:gNk9shJp
>>98 手に入れようとは思ってないのです(いや、ほんとはうそですね)
ただふれてみたくて、ふれてほしいだけなんです(あながちうそではないのです)
無視することもできずながめてますw
今の課題は、お釈迦様の言ってる苦楽中道と、龍樹の中道を、
どう結びつけるかだな・・・・
ところで、琴の弦の話をしたのは、一説には、スジャータという説もあるらしいね。
乳粥をすすめたのもスジャータ。
中道を示したのもスジャータ。
スジャータって、実はただものじゃないな。
釈迦が悟りを開く物語は、壮大な暗喩になっているんだろ。
105 :
晃:2014/11/19(水) 00:24:21.60 ID:rAiiebJw
中道は空ってのは
中道はツマランって
ことじゃないの…
106 :
晃:2014/11/19(水) 00:26:16.31 ID:rAiiebJw
うわ中途半端つまんね…は
よくある
中道が空ってのはねぇ、悟りの要なんだよ。
別の言い方をすれば、大いなる許しの教え。
この意味分んないだろ?w
今のところ、この意味が分かるのは、オレくらいのもんだな。
108 :
晃:2014/11/19(水) 01:26:04.34 ID:rAiiebJw
つまんね
を知ることは比較的かんたんっすよ
109 :
晃:2014/11/19(水) 01:26:35.98 ID:rAiiebJw
詰まってるな
を教えることは難しい…
知ることをバカにしてはいけない。
知ることとは、方向性の正しさだから。
ようは、暗闇の中で懐中電灯をもって、正しい方向にすすめるかってこと。
ライトを持つことはゴールではないが、ライトがあるからゴールが見える。
今このスレでもどこでも、ライトを持たないやつがウヨウヨいる。
そういうやつは、さんざん迷って、苦行みたいになって、ほうり捨てて、
最終的にはゴールにたどり着けないだろう。
探そうと行動を起こす・考える自分こそがゴールでありスタートである
そう悟るのが仏道なのに、ゴール探したってダメに決まってるさ
>>107 >別の言い方をすれば、大いなる許しの教え。
誰が誰に何を許すって?
許す/許さないでは分別を免れて居ない
故にそれも中道ではない
別の言い方も中道には有りえない
113 :
神も仏も名無しさん:2014/11/19(水) 09:02:11.98 ID:62vJDBLp
おじゃる、もういいから
お前が肉を食いたくても食えない体調なのも分ってるから
八つ当たりするな
115 :
亮終無限:2014/11/19(水) 10:20:01.90 ID:kdHUJAPs
>>111 >探そうと行動を起こす・考える自分こそがゴールでありスタートである
仏道修行も竹の節のように、ゴールが新たなスタートになりますね。
>そう悟るのが仏道なのに、ゴール探したってダメに決まってるさ
ゴールを目標に置き換えても良いと思います。
大目標・中目標・小目標と三つの目標を設定してみてはいかがでしょうか?
何もすべき課題がなく、すべき目標も無く、準備不足でも勇気をもって、まず一歩足を進め
前進してみてはいかがでしょうか?
不動の北極星の星を目指して、自分の歩幅で一歩前進して、平地でも、坂道で
も良いから歩く中に気づきが与えられ、成すべき課題が見えてくるものと思い
ます。
成すべき課題に取り組むべく、また一歩前進してはいかがでしょうか?
足を止めたいときは足を止めて、あたりの景色を見、今まで気づかなかった足元
の小さな草花やぶつかりながら歩く蟻達に目を止めることもあると思います。
116 :
亮終無限:2014/11/19(水) 10:21:35.73 ID:kdHUJAPs
>>115(続く)
小さな草花の屈託のない笑顔で迎えてくれていることに気づかされます。
蟻たちは、ぶつかりながら自分の身の丈以上の大きなものを担いで、いそいそと
忙しそうに歩いている姿を見る時、過去の忙しそうに歩く自分を想起するときに、
反省の二文字が浮かんでまいります。
休んでいた腰をあげて、また勇気を持って一歩前進することであります。
足を一歩前進する中にも、足を止める中にも、心の内の利他の課題と取組ながら、
気づきと反省の繰り返しのなかに、北極星へ到る努力精進の悟りの道の過程に、
悟りにつながる仏性顕現の幸福の宝物が見え隠れしてまいります。
117 :
神も仏も名無しさん:2014/11/19(水) 10:21:37.39 ID:7DIeZ5tp
>>107(XDhyC2l6)
>今のところ、この意味が分かるのは、オレくらいのもんだな。
意味だとか分かるとかが問題にさえなりようがないのに、
「オレくらいのもんだな」とは・・・w
漫画ですな。
>>115,116
提案を出すことにより相手より優位だったと錯覚させる手法が姑息
お前は「釈迦に説法」と言う諺も知らんのか?
先ず、出来た奴なら「コテハンを名乗らない」
無我故に
119 :
晃:2014/11/19(水) 11:40:06.21 ID:rAiiebJw
無我なら書き込んではいけない…
120 :
晃:2014/11/19(水) 11:41:06.60 ID:rAiiebJw
ってなりませんか?
つきつめると
121 :
神も仏も名無しさん:2014/11/19(水) 12:07:04.33 ID:62vJDBLp
牛肉・豚肉、鶏肉などを毎日100グラム以上食べる男性は、
それ未満の男性に比べて大腸がんの一つの結腸がんの発症リスクが44%増える。
(記事 日本経済新聞)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2800H_Y1A121C1CR0000/?dg=1 【韓国】大腸がん発症率、韓国人男性がアジア1位
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1315020991/ ■ なぜ韓国人男性の間で急増しているのか
大腸がんは、食文化や生活習慣が直接関係する代表的ながんだ。
韓国人男性の 高い飲酒・喫煙率、頻繁な宴会による肉の摂取、運動不足、
度な業務によるストレスなどが重なって「大腸がんの津波」を
引き起こしている、というのが医療専門家の分析だ。
-------------------------------------------------------------
肉を食べれば暴力的な傾向が育ち、動物が罹る病気になる。
唐辛子を避け、塩やタマネギ、ワイン(酒)を避け
睡眠薬(薬)などを摂取してはいけません。
by ラマナ・マハルシの教え
------------------------------------------
112 「酒、肉に荒み、財を浪費する女、
またはこのような男に、実権 を託すならば、
これは破滅への門である。
by ゴータマ・ブッダ(上座部仏教経典 スッタニパータ より)
「ブッダのことば」スッタニパータ (岩波文庫) 中村元 訳
122 :
神も仏も名無しさん:2014/11/19(水) 15:54:28.77 ID:7DIeZ5tp
>>118 >提案を出すことにより相手より優位だったと錯覚させる手法が姑息
あなたの心相そのままではないですかw
>無我故に
これを世俗では狸の尻尾と申します。
123 :
15:2014/11/19(水) 17:36:03.45 ID:T0nZEBwB
>>121 ひつこく言うけど(笑)
自分の歯を見ればわかると思う
犬歯なんかが発達してたらそこそこ肉食える人だと思う
ご先祖の種類で(ネアンデルタールその他いろいろ混じってるらしい)
腸の長さとか違うよ
>>122 尻尾が出ようがなんだろうが、実際に於いて因果応報により正しくない道になるお前には変わりが無い
俺は正しくない事を言っているかもしれない、それは認めよう
しかし、他に答えも見当たらないので間違いでもない
実に正誤はいつまでも明らかには成らないが
少なくともお前の様な虚栄を俺は抱いて居ない
ただ、何も問題が無かった道を示しているに過ぎない
仏が示す本当に正しい事とは「涅槃」以外に無い
故に、本当に正しい行いとは「涅槃に向かう事」以外に有り得ない
しかして涅槃とは、「何も無く、何も無いと言う感覚や思いすらも無い事」と般若心経にすら出ている
顛倒した衆生にはそんな簡単な事も理解出来ない
どうせ分らないからこそ罵倒される
それが判ってて敢えて道を説くのが慈悲となる
126 :
晃:2014/11/19(水) 18:01:59.17 ID:rAiiebJw
涅槃は方便って書いてんのに
じゃあはやく涅槃して死んでくれよ
手本見せて…
>>111 あらら〜、そんな基本的なことは、百も承知で知ってんのよ。
それをあえて言ってる。
世俗諦として。
それから、ゴール探さないんだったら、いつまで経っても悟りは手に入らない。
自然に待つしかない。
どうしても、意図的な意思は排除できないのよ。
しかし、その意図的な意思が、可能な限り、自然に近い状態になるのが理想。
意図的意思を徹底的に排除しようとしたら、方向性もくそもなくなるし、
そもそも悟り云々も無くなる。
ただ苦しんで、ただ死ぬだけ。
そういうのじゃ、ただの勘違いなんだな。
>>112 おしいな。 まだ深いところが分かってないな。
分別を停止させるのは何かっていうと、それは許しなんだよ。
>>117 おもしろいね、
仏教の間違った方向性に、言葉を越える、分別を超える、というところを、
そのまま行動に表そうとするやつがいる。
言葉を越える、分別を超える、というのは、悟った人が教示するための言い方なのに、
それを悟りもしないヤツが、なんにも考えようとしないで、頭で理解する努力もしないで、
ただ教示的な言い方の真似をしてる。
言語を越えるとか、分別を超えるとか、それは最終段階の結果論なんだよ。
そこに至るために道を誤りたくなかったら、真剣に熟考しないといけない。
言葉や分別は関係ないんだ〜、じゃ、それじゃただの怠惰だ。
そういう人は何も得ることが出来ないだろう。
130 :
晃:2014/11/19(水) 18:37:23.16 ID:rAiiebJw
悟ってないから
苦しみを苦しみと知らないで
アホな行動するんだろう
131 :
晃:2014/11/19(水) 18:39:02.28 ID:rAiiebJw
そっちは違うよと
教えてやるのは慈悲で
教えないのは黙殺で無慈悲っすね
>>127 >いつまで経っても悟りは手に入らない。
悟りは手に入れる事など出来はしない、と言う事こそが悟りなんだが?
>>128 分別は停止などしない
お前が自分の主張を止められないのが証拠
無分別とは分別の停止などでは決して無い
>>129 >そういう人は何も得ることが出来ないだろう。
仏道に得るものなど何も無い
得ようとするから一切行苦となる訳で
>>132 だから〜、そこに至るには、道筋があるわけよ。
言語を越えるとか、分別を越えるとか、それをそのまますぐに出したらダメなんだよ。
そこに至る道筋を理解しなきゃ。
悟った人の真似事をしたってダメ。
日常生活は常に分別にまみれてるわけよ。
自分にとってネガティブな事象に、常に捉われて、苦しんでる。
そういう日常の分別をそのままやっといて、議論のときだけ言語を超えてとか、
分別を超えてとか、言ったって、まったく意味がない。
>>133 無分別と分別の停止は、まったく同じ意味ね。
>>134 そこだよ
では、それをどう道筋を立てる? 立ててる?
まさか、道筋も立てないで、なんの論理もなくて、
得るものが無いなんて、言ってるんじゃないだろうな?
得るものなどない、という理屈が分からない。
分からないくせに、そういうことを言う・・・
分からないから道筋も立てられない。
仏道に得るものはない、ということが、いつまで経っても体得できない。
>>135 >だから〜、そこに至るには、道筋があるわけよ。
道筋なら経が示している、それで十分
>>136 同じではない、同じなら雑念など有り得ないので道理に反する
>>137 道筋は経が示している
それ以外に道筋など有り得ない
お前の御託よりも約2500年の実績がある
>>137 >得るものなどない、という理屈が分からない。
>分からないくせに、そういうことを言う・・・
それを分ると言い切る奴が一番インチキなんだが?
無いものが見えるのは病気だ
140 :
神も仏も名無しさん:2014/11/20(木) 07:53:32.92 ID:YQVt2ouB
得るもの?あるよ
得るものがないのに究極の真理な訳ないだろ
141 :
神も仏も名無しさん:2014/11/20(木) 08:11:14.20 ID:YQVt2ouB
分別は停止する。無分別と同じ。
許し?まぁ神の許しだな。免許みたいなもんだ。
142 :
神も仏も名無しさん:2014/11/20(木) 08:15:39.23 ID:YQVt2ouB
言葉を超える?超えない。言葉は関係がないというだけ。
言葉に囚われる者は絶対に間違いなく悟れない。
つまり、言葉に囚われる者のみ言葉を超える必要性がある。
143 :
神も仏も名無しさん:2014/11/20(木) 08:17:42.48 ID:YQVt2ouB
あと仏教に拘るやつね。絶対に間違いなく悟れない。
仏教は仏教ではない、それを仏教と称しているに過ぎない
如来まします仏の教示以外に真理に至れる教説が有るなら開示すべき
>得るものがないのに究極の真理な訳ないだろ
↑
愚の骨頂
146 :
晃:2014/11/20(木) 09:41:27.39 ID:1i6pB/Ys
仏が教えたら
それは仏教じゃないすか…
何言ってんだ
147 :
晃:2014/11/20(木) 09:42:32.49 ID:1i6pB/Ys
要するに仏に
成りすましていい加減なこと
言ってる奴が多すぎて
それを仏教とは言えんよってことだよな
148 :
晃:2014/11/20(木) 09:45:16.15 ID:1i6pB/Ys
仏の本心は法華経にあるって
>>138 1.はぁ・・・ 経が示してる・・・ どう?
どういう風に示してる?
2.広い意味では雑念もそのままで無分別だ。
そこが非常に重要。段階的になってる。
この段階的になってるというのが、多くの勘違いを生む。
おまえさんはここが分からないで、無分別を語ってるから、
無分別の本当の意味を理解できないんだよ。
3.ww だからぁ〜、その道筋を示せよ。 ここに説明してみろ。
経が道筋を示してるけど、それが分からないだろ?
こっちは経の示す道筋の話をしてる。
何も自分の道筋じゃないんだよ。
>>139 無いものって・・w
自分で白状してるじゃんw
経の示す道筋道筋と言いながら、その道筋は、無いもの、なんだw
だから理解も出来ないのに無分別を語り、道筋を聞かれると、無い、というわけだw
それは、無いもの、なんじゃなくて、理解できないだけだろ。
>>149 >2.広い意味では雑念もそのままで無分別だ。
大間違い
思念一切は極論すれば全て妄想
妄想は我執に因って起こる
我執は無我に対する無知によって量を増やす
>3.ww だからぁ〜、その道筋を示せよ。 ここに説明してみろ。
説明は経がしている
何の経かを俺から聞き出そうとするなら無駄
お前は俺の弟子ではないのだからな
その道の者なら知ってて当たり前の事をお前は他人に言いふらしてるに過ぎない
だから愚の骨頂だと言われる
>>150 道筋は経で示されている
成果は「不立文字教外別伝」
こんなのはイロハのイの字に相当する初歩の話だ
理解出来て無いのはお前の方だろ
153 :
神も仏も名無しさん:2014/11/20(木) 13:11:49.64 ID:V26U6ZJt
>>151 化け狸の尻尾が出まくりですなw
ボロ将棋、岡目八目、雪隠詰めに気がつかず。
>>153 それはどうかな?
策士、策に溺れるとも言うw
155 :
神も仏も名無しさん:2014/11/20(木) 15:18:12.97 ID:YQVt2ouB
>>146 仏とは聖者でもある。聖者が教えれば聖教。聖教新聞。
>>151 単に知らないから愚の骨頂とかクソボケた痴呆症
究極の真理とは究極の価値ということだ。
一つでも下回るものがない。
そんな感覚を常時得ることを言う。
>>155 >究極の真理とは究極の価値ということだ。
創価学会みたいな事を言うんだなw
価値も所詮は戯論に過ぎない
よって涅槃に役立たない
お前は相手に「知らない知らない」と言うが
ではお前は何を知っていると言うのかな?
経に依れば「知る」とは「知らない」と異ならないとある
それが何故かを分かってるなら「知る・知らない」に依る必要など無い
お前には無理な気がするな
気がするだけかも知れんが
157 :
晃:2014/11/20(木) 16:12:42.98 ID:1i6pB/Ys
すると
聖教新聞の記者が聖者ということで
いいのか?
158 :
晃:2014/11/20(木) 16:13:18.46 ID:1i6pB/Ys
聖教新聞と経典の勝劣に
迷ってはいかんと思うけど…
>>152 それはおまえさんが言うことではない。
悟った師家が、弟子を導くために使う言葉だ。
弟子がただ目前のことになりきるために、修行中に弟子を
導くための言葉。
目前のことにも入りきらず、日々日常の出来事に我執を生じさせてるヤツが、
こういう言葉を師家きどりで言うもんじゃない。
だいたい、言語的解釈をしてはいけないというのは、何も悟りに対してだけではなく、
日常のあらゆる面で、ということだ。
日常生活で日々捉われを生じさせて苦楽に苦しんでるヤツが、ドヤ顔で
「不立文字教外別伝」などというもんじゃない。
>>151 2.分かんないかなぁ〜〜。
思念、妄想そのものが問題なんじゃないんだよ。
その奥にある、それをそれ、たらしめてるものが問題なんだよ。
おまえが思念、妄想を問題視している以上、それを排除しようとして、
さらに混迷を深めるだろうな。
というか、おまえの場合、すべては無だ、言語無しだ、と言って、
自分の頭の悪さで理解できないものを、そういう言葉で誤魔化して、
そもそも悟りの追求自体をしてないだろうな。
てか、出来ない。
3.最近は気をつけるようにしてるよ。
誰でも構わず法を説いてはいけない。豚に真珠となるからだ。
逆に批判のための道具にしちゃう。
説く場所、説く相手を、気をつけないといけない。
頭の悪いやつほど、低レベルの主張に拘って、決して自分を曲げようとしない。
そういうやつは、一生井の中から出れない。
161 :
神も仏も名無しさん:2014/11/20(木) 18:23:29.29 ID:YQVt2ouB
>>156 その知るとは情報のことだ。頭でないといってるだけだ。
俺が何を知ってるかを知るのは無理だ。頭でなく、情報でないからだ。
>>158 聖教新聞というのはタチの悪いジョークというかタチの悪い商売だが、
言いたいのは仏とは、聖者であり、覚者であり、賢者であり、預言者だ。
つまり仏とは言葉上のものであり、真実を表わさない。
これが、仏教が悟れない理由。
>>159 >日常生活で日々捉われを生じさせて苦楽に苦しんでるヤツが、ドヤ顔で
>「不立文字教外別伝」などというもんじゃない。
自己紹介は不要だぞ?
>おまえが思念、妄想を問題視している以上、それを排除しようとして、
問題にしようがしまいが、排除など出来はしない
>というか、おまえの場合、すべては無だ、言語無しだ、と言って、
無と言われる事がそんなにお嫌いか?
お前の名前は何と言う?親につけてもらったそれではない
お前の実体たるそれの名前だ、全てを知ってるなら言えるであろう?
>頭の悪いやつほど、低レベルの主張に拘って、決して自分を曲げようとしない。
頭の良し悪しなども価値と同じで戯論に過ぎない
何をか言わんかやである
>>161 >言いたいのは仏とは、聖者であり、覚者であり、賢者であり、預言者だ。
>つまり仏とは言葉上のものであり、真実を表わさない。
>つまり仏とは言葉上のものであり、真実を表わさない。
>つまり仏とは言葉上のものであり、真実を表わさない。
>つまり仏とは言葉上のものであり、真実を表わさない。
結局お前も無に同意する事になる
如何なる方法を以ってしても変容しないそれ
悟りとか涅槃とか仏意とか色々言われるそれ
永遠不滅にしてどこにも存在しないそれ
お前がバカでないなら気付くであろう?
戯論寂滅故の涅槃には戯論が入り込めない
それでも「それ」はずっと有り続け、存在としては有り得ない
不生不滅不常不断不一不異不去不来のそれ
それこそが悟りなんだがな
164 :
神も仏も名無しさん:2014/11/20(木) 18:36:47.56 ID:YQVt2ouB
>>163 単に情報でないの一言だな。
問題は君がそれを得たかどうかだけ。
いらんことは、書かんでいい。
>>164 得る事など出来はしない
全て解け尽くす、ただそれだけ
それが何か?
>>164 先ずお前、その虚栄心と尊大な自尊心を捨てたほうが身の為かと思われる
相手より知ってて何の得があろう、相手より勝ってて何が良かろう
それらを好む行為と意思を仏道修行は抑制する筈だが
お見受けする所、全然出来て無い様に見える
>>162 1.「不立文字教外別伝」という時は、自分がそれを体得してて、
弟子を悟りに導くための方向性を示唆することだ。
自分が行き先を知ってて、道順を示すことと同じ。
教示を垂れるということは、まず、自分が理解してるってことが、
絶対前提条件だ。
理解もしていないのに、教示を垂れてはいけない。
それじゃただの格好つけ、真似事だ。
2.排除できないものを、なぜ問題視するのか?
意味不明ではないか。
3.だからさあ、なぜそうなのか? ・・てことなのさ。
4.これは重症だな。
なんでもかんでも言語道断。なんでもかんでも価値判断無用。
では、なぜ言語道断? なぜ価値判断無用?
説明できないだろ? 分からないで言ってんのよ。
168 :
神も仏も名無しさん:2014/11/20(木) 19:18:48.08 ID:YQVt2ouB
じゃ、溶けてないな。だから、いらんことを書く。
169 :
晃:2014/11/20(木) 20:01:43.88 ID:1i6pB/Ys
不立文字教外別伝←これを
書いた時点で文字を使ったことになり
自語相違に陥るっていうのが模範解答らしい
170 :
晃:2014/11/20(木) 20:02:43.27 ID:1i6pB/Ys
つまり仏の教えは
逆説的に経典に依らないとあり得ない
ということで禅宗ほど胡散臭い宗派はない
ということになる
171 :
神も仏も名無しさん:2014/11/20(木) 20:06:33.07 ID:YQVt2ouB
>>166 と、虚栄心と尊大な自尊心が言ってるわけだな。
だから無理だと説く。
>>167 >理解もしていないのに、教示を垂れてはいけない。
何を根拠にして相手を否定してる?
相手が体得できてようが居まいが関係ない話だろ
仏法に絶対など無い、絶対論を掲げるのは外道だ
>それじゃただの格好つけ、真似事だ
その憤りこそ仏道に反してる
ID:JFopX3sG
ID:YQVt2ouB
「お前如きが悟ったフリして知ったか言うな」と言う嫉妬心が良く観えるよ
分った人ならこれらに明確に答えてみてくれ
「無とは有るのか無いのか?」
「涅槃とは何か?」
逃げたら終わりねw
多分お前ら、プライド高いから絶対正しく答えられないよ
そう言う意味では絶対は有るのかもなw
174 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 06:12:17.94 ID:5Z+I/stB
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ 釈迦は無や涅槃に関して質問されると完全に沈黙して
/ 人 Y ハァ 説法会が成立しなかった。だからこの質問は禁止されていた。
\/し'(_)
175 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 06:15:17.63 ID:xq+vutSW
>>172 まぁ知らない者は答えられない、知っている者は答えられるというだけ。
無というのは無我の通りの認識をいう。認識が無い、故に無い。
そもそも無いから無であって、実は何を言ってるんだ?レベル。
ニルヴァーナね。これも無我の境地をいう。何も無いとは違う。
要は太陽とか月とか既知のものは存在しない。全てが有るともいえる。
176 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 06:20:25.69 ID:xq+vutSW
>>174 まぁ言えばそれこそ既知外扱いされるのは明白だ。
現実で言えるわけがない。
177 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 06:22:26.82 ID:xq+vutSW
えっと俺はID:YQVt2ouB の聖教新聞の方ね
178 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 06:27:20.25 ID:5Z+I/stB
>>176 >
>>174 > まぁ言えばそれこそ既知外扱いされるのは明白だ。
> 現実で言えるわけがない。
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ 釈迦は非常に誠実だった、ゆえに彼は沈黙で無や涅槃に関して答えていた。
/ 人 Y ハァ それに答えるためには時間が停止するほどの深い沈黙しか方法が無かったからだ。
\/し'(_)
179 :
晃:2014/11/21(金) 06:52:21.00 ID:ezTJzUwI
涅槃経を開けばいい
もう仏は既に説いてる(°⊆°)
180 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 07:26:12.09 ID:xq+vutSW
妄想情報と妄想乙
181 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 07:52:50.54 ID:xq+vutSW
1・10
しかして、水と地と火と風が依って立たざる所、そこに、星々は輝かず、
日は輝かず、そこに、月は輝かず、そこに、闇は見出されない。
そして、自己を知った牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の知慧〕によって
婆羅門と〔成る〕とき、しかして、〔彼は〕形態(色)と形態なきもの(無色)から、
楽と苦から、解脱する。
感じとしてはこれが正解。嘘は書かれていない。
182 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 08:42:11.40 ID:5Z+I/stB
>>179 > 涅槃経を開けばいい
> もう仏は既に説いてる(°⊆°)
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ くり返すが釈迦は涅槃について全く語っていなかった。
/ 人 Y ハァ 「涅槃とはどんな所なんですか?」と問われるたびに
\/し'(_) 釈迦は深い禅定に入ってしまった。だから涅槃の質問は禁止事項となっていた。
183 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 08:43:52.93 ID:xq+vutSW
>>182 妄想でないならソースどぞ
妄想ならソースいらん
184 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 08:52:28.96 ID:5Z+I/stB
>>183 >
>>182 > 妄想でないならソースどぞ
> 妄想ならソースいらん
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ 悪魔の証明知ってる?
/ 人 Y ハァ
\/し'(_)
185 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 09:27:47.75 ID:xq+vutSW
>>184 ど・こ・か・ら・その情報を引っ張ってきたかと聞いているだけだ。
つまり、事実でないことを事実のように言うなと言ってるだけ。
186 :
晃:2014/11/21(金) 09:36:58.17 ID:ezTJzUwI
涅槃のことは涅槃経に書いてる
バカは読めない
187 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 10:00:42.56 ID:xq+vutSW
読むものじゃないw
188 :
晃:2014/11/21(金) 10:18:07.21 ID:ezTJzUwI
読めないことを棚に上げて
バカにする似非仏教外道多すぎ
>>175 答えを出した根性は認めるよ
でも仏道に於いてそれは正解じゃない
そんな答えの仕方では「隻手音声」も答えられないでしょ
>>174 それも間違いだな
釈尊が答えなかったのは
・世界の永遠性の有無
・世界の有限性の有無
・世界の果ての有無
・輪廻転生の有無
・生命と身体の同別如何
・如来の死後の存続性の有無
・如来の死後の存在性の有無
これらが釈尊が沈黙した所謂「無記」である
無に付いてはナーガールジュナですら解答しているし
ニルヴァーナに付いては事ある毎に釈尊は言及して経典に残されている
嘘は良くないな、イエスですら嘘は言わなかったのだから
>>184 涅槃(ニルヴァーナ)は語ってたさ
一番身近な経典だと般若心経にも書かれてる
これがニルヴァーナだと言ってないだけでね
書き直し、何かダブってたすまん
・世界の永遠性の有無
・世界の有限性の有無
・生命と身体の同別如何
・如来の死後の存続性の有無
・如来の死後の存在性の有無
これが所謂釈尊が沈黙した「十無記」というやつ
答えなかった最大の理由は「邪見」になるから
分らなかった、と良く言われるが、強ちそれも間違いではない
ただ、何をどう分らなかったのか、を答えられなければ間違いとなる
最大のヒントなんで良く吟味してくれ
釈尊がアドバイス出したり教導する時には実はある共通点が必ずある
逆に、釈尊が無記を決め込む時にもある共通点が必ずある
それに気付けた人、気付いた人が所謂世間で言う「悟れた人」だと言える
みんながんばれ
未来のことだから。
未来というのは存在せず、わかりえない。
釈尊は未来のこととか過去のこととかを理由に説く説かないを行って居ない
残念でした
これはある。とかこれはない。と言ってしまうと
修行途上の弟子たちに、見解に対する執着を起こさせるから。
悟りたいの?
悟ってどうするの?
功名心や虚栄心とは無縁の、純粋な悟りへの欲求は
決して恥ずかしいことじゃ無いし、最後に残された欲求なんだよ
その欲求を満たす事と引き換えに、その他の欲求を全て手放すんだから
誇って良い事なんだ、その覚悟はみなさんお有りかな?
簡単に悟れる訳じゃないんだけど、そんなに難しい訳でもない
しかし、悟ったからと言って自慢できる訳でもない
明かしても罵倒しかされないしね
一般衆生は全員想いが顛倒してるので、本当に正しい事が何なのか分らない
だから、未経験・未体験の様な事を言われても「こいつおかしい」としか思えない
また、自分の想定していた「真理」っぽい事と全然違う事を聴くと
顛倒してる衆生は殊更に烈火の如く拒絶する
故に罵倒は余儀なくされる
その覚悟はお有りかな?
自分が生まれてこれた理由や、生きる理由が明らかになるのは確かに魅力かもしれない
自分の前世や他人の前世が明らかになるのも魅力かもしれない
でも誰も信じてはくれない、殆ど自分にしか分らない
そう言う孤独を本当にお望みだろうか?
四顛倒に例外は無い、そこで悟りを啓くんだから孤独になるのは当然
お覚悟がお有りかな?
198 :
晃:2014/11/21(金) 14:46:39.25 ID:ezTJzUwI
もっと簡単な方法で
悟れるのがいいな
先日こう言う人が居た
「悟りへの欲求も満たしたいが、その他の欲求も満たしたい」
それに対する答えを出来ないで居たのでお答えする
悟ってから満たせば良い
悟っても今までの生活は大して変わらないから大丈夫
ただ、無茶はしなくなるだけ、地味に生きようとするから
当初の欲求がその後も残ってるかは分らない
しかし、仏道修行に於いて言うならば
>悟りへの欲求も満たしたいが、その他の欲求も満たしたい
は無理で、必ず修行中は悟るまでトレードオフとなる
仏道はそもそも苦悩を克服したいから入るのであり
苦悩のエンジンは煩悩であり、煩悩の燃料が欲求なのである
その欲求を制せねば苦は静かに成らないので、どうしても
悟る為には他の欲求を何とかせねば立ち行かないのである
悟りへの欲求こそが唯一仏道では通用する欲求となり
その他の欲求は悟りへの道を阻害する欲求となるので両立出来ない
悟りへの欲求を満たすと、欲求自体が崩壊する
逆だと欲求が増大する、だから両立出来ないのである
煩悩の火を吹き消せ、とは仏の謹言なのだから間違いは無いのでもある
>>199 その覚悟が本物なら自分で方法を見つけられてる筈なんだよ
もともと仏道に対して必死なんだからね
未経験であっても、悟りのことや仏教のこと、釈迦牟尼世尊の事なんかを調べたでしょ?
調べた限りの全ての事を行える訳じゃないけど
家でも実現可能な部分を真似してみたかい?
釈尊は真似する対象すら居なかった初代の人だから、その生い立ちは真似出来ないけど
何をどうしてどうなったかまでなら可能だから既成仏教教団は今でも成り立っている訳で
教団の中で悟った訳じゃ無い釈尊が「自力上等」の証人なんだよ
釈尊は菩提樹の下で何をしたかな?
お粥を食ったとかスジャータがどうのは単に仕切りなおし程度の認識で良い
その後、河で身体を清めて菩提樹の下に行って何をしたか
それやればいいだけなんだよ
>>172 ってか、おまえバカだろ?w
気持ち悪いわ〜。
だいたい、おまえ、師家きどりのカルトなのよ。
それも、仏教の意味さえ知らない。
バカが無用な混乱を避けるための十無記と、実践的な不立文字を
一緒にしちゃってる。
それで、無記、不立文字なら、自分は一切分かりません、っていうかと思ったら、
いろいろ御託を並べてやがんの。
つまり、自分は体験的に知っているが、それは言葉に出来ないし、してはならない、
ってことを暗にいいたいわけなんだな。
これじゃただのカルトじゃん。
仏教じゃないわ、そんなの。
自分で勝手に宗教作れよ。
具体的には菩提樹の下で釈尊は、仕切りなおした瞑想を行ったんだが
そのやり方は「大念住経(大念処経)」と言う長部経典に明かされている
全ての仏教教団の行わせる修行方法も、大体これをアレンジして用いている
基本は
姿勢・呼吸・意識
を正しく調える事に徹する
経典は長いけど、言いたい事はたったそれだけだったりする
俺は布施で飯食うプロじゃないんで要点しか言わない
プロはおまんまのネタなので要点は言わない
願わくば全ての人に正しき道を、が俺の真の狙い
法華経方便品(長経)で舎利佛の三度の請願に釈尊が答えようとした時の
所を辞した増上慢の衆生の一例
>>202
>>172 ってか、こういうヤツに長々と付き合った
オレがバカだったわ。
まず、おまえは、「なぜ不立文字なのか?」「なぜ無記でなければいけないのか?」
ちゃんと説明しろ。
説明も出来ないのに師家きどりで能書き垂れてるなよ。
それから、
>>189「隻手音声」の公案の意味も書いとけ。
自分の頭では理解出来ないものに対しては、無記、不立文字w
そこを自分の妄想でいかようにも塗り固めてるわけだ。
まさにカルトだな。
>>204 >なぜ不立文字なのか?
空腹感を文字に書いて、果たしてそれは実なる空腹かな?
如何なる実感も文字に表して直接他者に渡す事など出来ない
だから不立文字なんだが
>なぜ無記でなければいけないのか?
十無記で問われた事は全て有無である
有無とは認識於ける判別であり、認識とは心の作用である
心の作用とは思いの事であり、思いは妄想と異ならない
如何なる思いも妄想だと分れば、有無なる判別も妄想となる
であれば、妄想で有るとか無いとか判じても詮無き事になる
だから十無記だったんだよ
邪見とは何を以って邪見と言うか、もう一度浚った方が良いかと思われる
62見と言う見解が梵網経に説かれてるので参考までに
>>204 >「隻手音声」の公案の意味も書いとけ。
これは臨済宗の許可を取ってないのでお楽しみに取って置くといい
全て分かればそれも当然分るから
但し、プライドのめっちゃ高い奴には絶対に正答が言えない、とだけ書いとくw
207 :
晃:2014/11/21(金) 16:32:17.26 ID:ezTJzUwI
文字使っちゃいかんよ
申し訳ないが禅宗はインターネットはNG
208 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 16:33:34.37 ID:2+sMRuv4
>>189 仏道においての正解だ。だから
>>181が正解と解る。
>>181だけが正解でもないし、俺は結構細部にわたり見た方だから
嘘、嘘でないはしっかり解る。
隻手音声については、そんなものは無い。ただ、既知以外の音というものはある。
解答はこれ以外には無い。
十無記に関しては、解らないが正解。故に意味がないともいえる。
そこをやっちゃったら迷う、負担にもなるとは確実に言える。
209 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 16:58:33.95 ID:2+sMRuv4
楽と苦から、解脱するってのも確かに正解だが、これについては
苦笑い的なものがある。
確かにそりゃそうなんだけどねwということで、
悟ってからが本当のスタートという面がある。まぁ受けては立つ。
210 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 17:17:34.00 ID:2+sMRuv4
結局、業とは何かについては、心の荷物ということだ。
これが、現実、実際の荷物に変換される。
だから、あれやこれやでバタバタしている人ってのは実際、
それだけ心に荷物を抱えてるってことになる。
だから、心に荷物をしょいこむなとなるのが欲望や十無記に関して言えること。
これは、例えば長文連投なんかにも言えるけど、正直それだけじゃ、
実際問題軽すぎるんだよね。もっと現実の中で立ちまわらけりゃならない。
>>208 >水と地と火と風が依って立たざる所
これが何の事か実感できなければ分った事にならんかもね
>隻手音声については、そんなものは無い。
って言っちゃダメでしょw 有る無しの極論は中道に反するから
>十無記に関しては、解らないが正解。
解らないを解っちゃったらそれは解ったの?解らないの?
>>209 苦は一先ずおいといて、楽とは何さ?楽とは何のことかな?
それが分らなければ苦楽の解明とはならない
>>210 >業とは何かについては、心の荷物ということだ。
心は物質ではないので重荷とかを本来問えない
逆だよ、身体のお荷物なのが「心」
それが分れば「有余涅槃」
212 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 17:42:53.43 ID:2+sMRuv4
だから苦というか体を痛めつける必要性は全くないけど、
もっといえるのが楽をするなということ。
これは徹底したニート批判、現実逃避型人間批判にもなる。
こればっかりは譲れないものがある。
別に働けという意味でもないけど、人間というのは食う、寝る、動くから成る。
あくまで食う、寝る、遊ぶではない。遊ぶがそっくり業になる。
>>181 この世界に於いて「水と地と火と風が依って立たざる所」とはどこの事か
因みに涅槃は「水と地と火と風が依って立たざる所」の逆であると言える
>>212 楽の解明になってないお?
楽とは何かを問われている
214 :
横から失礼:2014/11/21(金) 17:48:34.04 ID:/w2pCWuX
>>202 > だいたい、おまえ、師家きどりのカルトなのよ。
>それも、仏教の意味さえ知らない。
かなり鋭い。俺が言いたい事全部言ってくれたw
>>172も間違ってはいないが、所詮、覚者たちの言葉の受け売りであり、
そんなのは覚者たちの教えが書かれた本を読めばたくさん書かれている。
>>172が何か悟り的な体験をしていたとしても発言を見る限り
誰からの印可ももらってない独りよがりのものだろう。
そういう生悟りの人間ほど師家きどりをしたがる。
虚栄心ゆえにね。本当に悟った人間なら虚栄心どころか、
何かをしたいという衝動すら破壊されてしまうわけだから、
ここで雄弁に語っている時点でニセモノ確定だろう。
215 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 17:52:22.09 ID:2+sMRuv4
>>211 水と地と火と風が依って立たざる所 というのは既知のものという意味。
隻手音声というものは無いものは無い。有るというなら幻聴ですと即答。
解らないを解るでおk。
楽とは怠惰と説く。
心の荷物に関しては、解脱前というのは心というものは無い。だから無視しておk。
身体でない、意識でないを徹底しろ。
>>214 >誰からの印可ももらってない独りよがりのものだろう。
君は自身の空腹を印可されなきゃ空腹にならないのか?
そんな印可とか釈尊は教えたかね?
聖者の中には印可を突き返して好き勝手に生きた人だって居るのに
誰かに認められなきゃ実感足り得ないとか、有り得ない話でしょうに
217 :
横から失礼:2014/11/21(金) 17:57:49.87 ID:/w2pCWuX
>>216 「悟り」はそれほど慎重に扱うべきってこと。
生悟りの人間ほど厄介な人間はいないと思うよ。
それっぽい事を語って語ってる本人は悟ってない。
それゆえに無知な人間を惑わせ、誤った方向に導きかねない。
麻原なんかがいい例だろう。
218 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 17:59:42.61 ID:2+sMRuv4
誰かの認可?そんなものはいらんで一蹴。俺がそいつを裁いてやるよ。
>>215 >水と地と火と風が依って立たざる所 というのは既知のものという意味。
地水火風はこの世界に於ける四大元素の古代の言い回しでしょ
それに依らずに成り立つ場所って分からないのかい?身近なのに
本来は場所って概念に無いから気付けないのも無理ないけどね
>隻手音声というものは無いものは無い。有るというなら幻聴ですと即答。
有無で答えたら中道違背なんだって、白隠師は中道厳守の人だったんだよ?
だから言ったでしょ? プライドがめっちゃ高い人には正答出来ないってw
>楽とは怠惰と説く。
じゃ安楽なんて怠慢の極みって事で釈尊は邪師と看做す訳だね?
斬新な見解をありがとう
>>217 釈尊は如何なる仏から印可を受けたのかな?
221 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 18:04:58.20 ID:2+sMRuv4
>>219 下から、
怠惰でないものが、安楽と説く。
中道なんてものは無い!即答だ。
ああすまん。既知でないが正解だ。
222 :
横から失礼:2014/11/21(金) 18:10:53.77 ID:/w2pCWuX
>>220 釈尊は仏であり、最高の悟りを得た人。
対して俺らはその釈尊と同じ悟りを目指す者であり、
悟りの段階にも高い低いがあり、自分がどの段階にいるかは
自分ではなかなか解らない。ゆえに師の指導が必要であり、
軽々しく「俺は釈尊と同じ悟りを得たから印可を受けずとも良い」
などと語ってはいけないし思ってもいけない。
誰からの印可も受けず釈尊と同じ悟りを得たなどと思うものがいるなら
それは増上慢以外の何者でもない。
と俺は思う。
>>221 >怠惰でないものが、安楽と説く。
怠けて居ない事が安楽なのか、釈尊のそれとは違うね
>中道なんてものは無い!即答だ。
増上慢は直ぐ極論で答えたがる良い例だね
釈尊はそんな事教えてないでしょ
>既知でないが正解だ。
水と地と火と風が依って立たざる所は君も良く知っている、つまり既知だよ
>>222 ゆえに師の指導が必要であり、
軽々しく「俺は釈尊と同じ悟りを得たから印可を受けずとも良い」
などと語ってはいけないし思ってもいけない。
誰が決めたの?
それは誰の教えなの?
釈尊はそんな事教えて居ないよね
本当にその通りなら全員釈尊に印可してもらわねば適わない事になる
そんな教えはどこにも無いでしょ
225 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 18:15:10.98 ID:2+sMRuv4
>>223 下から
悟っていない者にとり既知でない。
増上慢も無いで即答。
想像でものを言うなで一蹴。
226 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 18:18:05.58 ID:2+sMRuv4
>>224 まず、釈迦から離れろ。架空の人物に等しい。
>>225 >悟っていない者にとり既知でない。
君は自分の意識を無視するつもりか
だからダメなんだよ
>増上慢も無いで即答。
中道は有無に依らない見解のことだよ
>想像でものを言うなで一蹴。
般若心経位は直ぐ読めるよね?
何が一番真の安楽か書いてあるよ?
228 :
横から失礼:2014/11/21(金) 18:20:14.53 ID:/w2pCWuX
>>224 >本当にその通りなら全員釈尊に印可してもらわねば適わない事になる
誰も釈尊に印可してもらわなければいけないとはいってないけど?
>>226 ハイ、釈尊否定したら仏教は成り立ちませんからw
これ以上の議論は無駄かな
230 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 18:23:56.47 ID:2+sMRuv4
>>227 下から
想像でものをいうな。
想像でものをいうな。
俺にとってはもちろん既知。君はそうでない。
だから、全部空想、妄想でものを語る。
>>228 君のお師匠さんが悟ってるって何で判別するの?
そのお師匠さんは誰の教えを学んで成り立ったの?
仏弟子は現代まで全員、悉く釈尊から始まる仏教教義を学んで成り立ってるんだよ?
もしそうじゃないなら、それは外道だ
232 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 18:26:09.11 ID:2+sMRuv4
233 :
横から失礼:2014/11/21(金) 18:28:29.41 ID:/w2pCWuX
>>227 ちょっと質問。
悟りの体験とは「体験できるもの」か「体験すらないもの」か?
つまり、悟りの体験をしている最中に「体験している」と覚知できるものか。
それとも、体験している最中は体験しているという感覚すらないが、
体験から出た後、至福なり感動なりが沸き起こってくるものか?
それとも至福、感動すらないのか?
>>232 じゃ最後にお答え頂こうか聖者さん
無分別とはどう言う境地だい?
目あるものは来たって見よ、で示していただこうか
正しく示せなきゃお前こそインチキと言わざるを得ない
235 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 18:29:17.76 ID:2+sMRuv4
ジャイナ教は外道でなく、ヒンズー教は外道でなく、仏教こそが外道と説く。
共通するものは外道でない。
236 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 18:35:17.35 ID:2+sMRuv4
>>234 とりあえず、私は誰?から始まる。自己認識というものが消え失せる。
そこには物というものが一切無い。物認識も一切消え失せる。
認識自体が消えるわけでなく、認識そのものが、ただ、ただ広いとしか形容できない。
これを自由を得るともいう。
237 :
横から失礼:2014/11/21(金) 18:38:15.42 ID:/w2pCWuX
>>236 つまり、絶対的一者とか自他不二とかそういう感覚かな?
238 :
横から失礼:2014/11/21(金) 18:39:19.78 ID:/w2pCWuX
っていうか、誰が発言してるのかわかりづらいな。
>>233 詳しく言うなら「悟り」と言う直接の体験など存在しない
体験と言えどもそれは過程に過ぎず、最終的には
自己の緊縛一切が解き尽くされる
謎が解明するって事、例えばあらゆる宗教の正邪とは何だったかとか
自分の前世や他人の前世についての謎が解明するとか
そもそも仏道は何の為にあって何の為に行うのかも完全に分かる
経典などの相当難しかった部分とかもスラっと分かる
一見喜ばしい事なのにね
本当に喜ばしいのは、顛倒した人々に罵倒されて始めて立証される
人間の感受から起こす行動など実は三種しかない
好きか嫌いか無関心だ
俺が取るに足らない事を本当に言ってるならスルーしまくるのが本当な筈
心の何かに触れた者は俺の書き込みに対して「好きか嫌い」のどちらかの挙動を示さざるを得ない
まあ大抵は嫌いなんだろうけどw
240 :
横から失礼:2014/11/21(金) 18:43:07.06 ID:/w2pCWuX
>>239 一つ聞くが、
ID:2+sMRuv4と同じ人?
241 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 18:43:32.32 ID:2+sMRuv4
>>237 絶対的一まではいいとして、者は居ない。一は集合体。
自他不二は正解だろう。
243 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 18:56:24.88 ID:2+sMRuv4
最後に一つ
例えばの
>>235でジャイナ教、ヒンズー教を知れという意味ではないが、
無分別の境地というのは、それをやろうとする、意識的に分別しないを
浸透させていこうとする者にしか訪れない。
244 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 19:00:24.33 ID:/w2pCWuX
>>241 たしかに、全てが一つなら「者」すら存在しないからね。
ただそれは言葉遊びでしかない。
>>239 どのような体験だったかを問うてる。
それと、「自己の緊縛一切が解き尽くされる」とは、
知的、論理的にってこと?
それとも、知識や論理を介さずとも、瞬間的、感覚的に「解き尽くされる」って事?
245 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 19:04:40.85 ID:2+sMRuv4
>>244 見る、聞くはあるし、思考系統の存続もある。
あとは感覚だ。感覚要素が極めて大きく、感覚ばかりといってもいい。
>>244 >どのような体験だったかを問うてる。
いくら「どんな味だったか」を尋ねてみても、実際に自分で食さねば意味無いでしょ
聞かれた所で「うまかったよ」としか言い様が無い
それ以上知りたきゃ実践以外に無く、方法は経典にある通り
一般論的なレビューも経典にはある
おおちゃくが一番良くないんじゃないかな
247 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 19:10:19.77 ID:2+sMRuv4
瞬間に関しては、瞬間でもない。自我が消える自体で感覚では30秒から一分。ゆっくり溶け消える。
トータル的には割りと長い。感覚では10分程度。
248 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 19:14:29.85 ID:/w2pCWuX
>>224 >誰が決めたの?
>それは誰の教えなの?
> 釈尊はそんな事教えて居ないよね
>本当にその通りなら全員釈尊に印可してもらわねば適わない事になる
>そんな教えはどこにも無いでしょ
悟ってないのに「自身が仏陀である」とか「究極の覚りを得た」とか言うのは
波羅夷罪の大妄語戒に反するからね。
まともな仏教徒なら軽々しく悟ったなどとは言わないし思わない。
>>246 いや、色々な覚者の「悟りの体験」を読んだけど、
各々それなりに体験を語ってるよ。
その体験においてどのような感覚を味わったとかね。
語れないのは何も体験していないか、
していたとしてもその体験が悟りであるという自信・確信がないか
のどちらかでは?
249 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 19:15:24.41 ID:2+sMRuv4
ただ、アトラクション的には弱い。
何やら得体の知れない凄いものという発想はしなくていい。
250 :
晃:2014/11/21(金) 19:19:17.51 ID:ezTJzUwI
仏から我々は妙法蓮華経を前世で授与されてる
らしいっすよ
251 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 19:24:17.74 ID:2+sMRuv4
以上が涅槃に関する見解。
解脱はこの後に訪れる。解脱が全てといっていいぐらいのものだ。
法華経勧持品十三にこうある
諸の無智の人 悪口罵詈等し
及び刀杖を加うる者あらん 我等皆当に忍ぶべし
悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に
未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
或は阿練若に 納衣にして空閑に在って
自ら真の道を行ずと謂うて 人間を軽賎する者あらん
利養に貧著するが故に 白衣のために法を説いて
世に恭敬せらるること 六通の羅漢の如くならん
是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い
名を阿練若に仮つて 好んで我等が過を出さん
而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は
利養を貧るを為ての故に 外道の論議を説く
自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑す
名聞を求むるを為ての故に 分別して是の経を説くと
常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に
国王大臣 婆羅門居士
及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて
是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん
是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん
当にお説の通りかなとw
253 :
晃:2014/11/21(金) 19:35:52.53 ID:ezTJzUwI
これ誓願したインド人は
却下されたらしいっすよ
我々は運が良かった…
254 :
晃:2014/11/21(金) 19:36:22.43 ID:ezTJzUwI
これって上記の法華経迹門の
ことね
255 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 19:39:35.09 ID:2+sMRuv4
仏教が外道であり、邪見と説く。現存仏教のことね。
それに固執するあまり、未だ迷妄が晴らされることは有り得ない。
さて、これを内道ととるか外道と取るかご自由に。
外道、内道というのはあくまで認識の固執性のことだ。
256 :
15:2014/11/21(金) 20:51:19.27 ID:jEQlcwlN
師匠の受け売りを書いてみる
釈迦の出した結論は釈迦のもであり、釈迦のものでしかない
我々はその方法(結論よりは方法を)を参考にしかできない
自分の結論を出さないといけない
らしいw
257 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 21:06:38.93 ID:5Z+I/stB
>>189 >
>>174 > これらが釈尊が沈黙した所謂「無記」である
> 無に付いてはナーガールジュナですら解答しているし
> ニルヴァーナに付いては事ある毎に釈尊は言及して経典に残されている
>
> 嘘は良くないな、イエスですら嘘は言わなかったのだから
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ もし無や涅槃が言葉で表現可能なら
/ 人 Y ハァ それは無や涅槃ではない。初めと終わりがある有限のものには言葉で表現可能だが
\/し'(_) 初めも終わりももたない無限のことについては深い沈黙でしか答えることがではない。
>>256 なるほど。
お釈迦様は、方法をお説きになりました。
アーナーパーナサティ、四念処、四如意足など。
アーナーパーナサティは、禅宗でも数息観として取り入れられていますね。
259 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 21:30:20.27 ID:2+sMRuv4
>>256 いいこと言うね。その通りだ。試行錯誤してみることだ。
仏道というのは、頭でなく、知識でなく、言葉でなく、文字でない。
さりとて沈黙というわけでもない。
260 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 21:37:32.54 ID:2+sMRuv4
数息観というのは方法論としては、むしろいい部類だ。
一つ確実にいえるのは、何をやるにしても、言葉、意味、やり方といったものには
あまり拘らないことだ。
261 :
神も仏も名無しさん:2014/11/21(金) 22:31:16.56 ID:4TqSYX6R
>>252 晃の野郎は法華経と違うことばかりしてるんですね
262 :
晃:2014/11/21(金) 22:39:35.70 ID:ezTJzUwI
一生成仏しましょうね
263 :
横から失礼:2014/11/22(土) 07:21:34.98 ID:WzW8DnbW
>>52 >ニミッタはその痺れた現象が視覚に起こっただけの話
>道元師はニミッタに頼らず見性している
>釈尊もニミッタを重要視して居ない
ニミッタを利用し修行を行う分別説部の流れを汲む一派はミャンマーに存在するが、
ニミッタを利用し四禅の状態に入ることでいわゆる三明や九次第定からの解脱等、
修行により仏典に書かれているそのままの成果が得られている事実からみても、
ニミッタを利用する行法を侮ってはいけない。
真言宗の月輪観や阿字観も二ミッタの一種だろう。
264 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 07:32:19.35 ID:fqNz+cBt
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ 修行を積めば積むほど悟りは遠のく。
/ 人 Y ハァ なぜなら修行を積むほど我が強くなってしまうから。
\/し'(_)
265 :
横から失礼:2014/11/22(土) 08:03:21.32 ID:WzW8DnbW
>>264 そう、だからこそ
修行という内省化のプロセスの中でとりわけ起こりやすい「個我の妄想的極大化」、
つまり“個人の頭の中だけの満足”というソリプシズムの陥穽を避けることが重要な課題になる。
そのためには師の存在、つまり、
「悟り」にあたって外部からの認証は絶対不可欠なのであって、
修行僧自ら「悟り」を口にすることは厳に慎むべき事である。
(この辺は禅に限らず、正法眼蔵「四禅比丘」などに釈存在世時の話が記述される)
266 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 09:23:00.94 ID:dZKz6iqB
だから言ってるだろ、頭じゃないって
他人の干渉なんざ吹き飛ぶわ
267 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 09:33:33.12 ID:dZKz6iqB
修行とは、肉体及び精神の鍛練をいう。
鍛錬なくして、余裕なし。理解なし。安心なし。
>>257 全然センス無いな君は
>もし無や涅槃が言葉で表現可能なら
表現不可能なのは無や涅槃の実態そのものであり
説明として無や涅槃は仏典で幾度となく説かれている
経典が説けないのはそれそのものの実態なのであり
説明してはいけないとは仏は教えず、何度もされている
>>264 自分を忘れる修行をしてて自我が強くなるならそれは外道
そんな修行を仏は一度も奨励して居ない
ここで気付ける事は、
無や涅槃や或いは無我は相当目の上のタンコブと感じる外道が居るって事
271 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 09:45:09.24 ID:dZKz6iqB
自分を忘れる修行というものは無い。
自我とは拘りのことである。
身心脱落は我を離れる行、つまり自分を忘れた状態に至る行に異ならない
273 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 09:54:53.87 ID:dZKz6iqB
それで苦を滅せるかな?
274 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 09:57:40.96 ID:dZKz6iqB
仏教の目的というのはあくまで苦滅。これを外れるものは外道。
どうしてそう思うんだ?
やってないのか?
276 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 09:59:24.25 ID:dZKz6iqB
身心脱落というのは、やろうとしなくても苦滅と同時に自然となる。
273 名前:神も仏も名無しさん [] 投稿日:2014/11/22(土) 09:54:53.87 ID:dZKz6iqB
それで苦を滅せるかな?
276 名前:神も仏も名無しさん [] 投稿日:2014/11/22(土) 09:59:24.25 ID:dZKz6iqB
身心脱落というのは、やろうとしなくても苦滅と同時に自然となる。
推して知るべしか
278 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:01:25.88 ID:fqNz+cBt
>>269 >
>>264 > 自分を忘れる修行をしてて自我が強くなるならそれは外道
> そんな修行を仏は一度も奨励して居ない
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ 自我を忘れたり無くす「努力」そのものが自我の正体だった。
/ 人 Y ハァ だからその「努力」をすればするほど自我は強まり悟りは遠のく。
\/し'(_) 釈迦が大悟した時一般大衆に法を説くのを断念したのは事実だった。
279 :
横から失礼:2014/11/22(土) 10:04:47.01 ID:WzW8DnbW
>>273 いくら我を忘れる状態に溶ける体験をしようが、
苦を感じる原因である心の傾向を打ち壊さない限りはダメだろう。
結局はそこに尽きる。
重要なのは一時の無我の体験ではなく、無我に溶け切りそのものになること。
そこで初めて解脱となり、苦の完全克服となる。
>>278 >自我を忘れたり無くす「努力」そのものが自我の正体だった。
煩悩即菩提
自我を払う為に我執の力を使うのは仏の所作と異ならない
仏は、矛盾を用いて無矛盾を説き教えた
仏教のイロハなんだが、外道はそれも知らんか、さもありなん
281 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:08:34.11 ID:dZKz6iqB
自我というのは拘りのことであり、苦のことだ。
苦も拘りも消さずに自我が消えるわけがない。
282 :
横から失礼:2014/11/22(土) 10:08:38.24 ID:WzW8DnbW
無我に溶ける体験は悟りの体験に違いないが、
その体験からでた後、変わらずに心が働き続けるなら
それは解脱ではない。
悟りと解脱は同じではない。
>>279 無我の体験?
我々はもとより無我なのだよ
ただ、そのままでは四顛倒なので分かってないだけ
お前も仏道修行者じゃないのか
284 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:10:25.67 ID:dZKz6iqB
解脱が何か知ってるなら言ってみな。
285 :
横から失礼:2014/11/22(土) 10:12:25.47 ID:WzW8DnbW
>>283 我執から他を批判したくなるのもわかるが
その心こそ克服すべきものなんじゃないのか?
>>282 大間違い
>その体験からでた後、変わらずに心が働き続けるなら
仮に心が動いたとしてもそれは縁起に於いて道理に即した自然の現象
解脱した人もこの世界の道理を離れて生きる事は適わず
仏ですら仏法を離れて生きる事など出来はしない
仏法は道理の異名である
>>284 仏の境地の内容などわかりません
あなたが知ってるならどうか教えてくださいw
>>285 おまえがなw
288 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:15:34.65 ID:1n9XZX6x
認識とは字ずらを追って暗記し得られるようなものではない。
我を克服するには宇宙を超えた全の認識が必要。
物質を超えた世界の構成要素と置き換えてもよい。
まず般若を身につけることが君には可能か?
さかしそこはほんの入口にすぎない。
289 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:18:10.37 ID:fqNz+cBt
>>280 >
>>278 > 煩悩即菩提
> 自我を払う為に我執の力を使うのは仏の所作と異ならない
> 仏は、矛盾を用いて無矛盾を説き教えた
>
> 仏教のイロハなんだが、外道はそれも知らんか、さもありなん
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ 釈迦は自我を払ったり無くしたりしていなかった。
/ 人 Y ハァ 自我は肉体同様にそのままであり、それでも釈迦は悟った。
\/し'(_) 釈迦は自我を払ったり無くしたのではなく自我を超えたのだった。
釈迦が悟った後に肉体は無くなっただろうか? それと同じように
自我もそのままだった。
外道の言う般若は分からんな
仏道で言う般若なら身に付ける付けないは関係ないし
291 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:19:38.88 ID:dZKz6iqB
解脱が何かも言えずに偉そうなことを言う。
残るのは偉そうだけ。
苦だから偉そうなことをいう。
>>289 >釈迦が悟った後に肉体は無くなっただろうか? それと同じように自我もそのままだった。
俺はずっとそう言い続けて来てるよ
解脱は変身ではないので超人に変わる訳じゃない
293 :
横から失礼:2014/11/22(土) 10:21:07.37 ID:WzW8DnbW
すまん。誰が誰かわからない。
>>291 じゃあ何ですか?
解脱って何ですか?w
事細かに説明願おうか
解脱の前に、楽とは何かを説明してみようか?
どうぞ
295 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:23:06.49 ID:dZKz6iqB
苦と拘りというものを離れるなら仏道でなく、邪道&外道。
296 :
横から失礼:2014/11/22(土) 10:23:06.76 ID:WzW8DnbW
>>292 悟りに溶けた状態では、個という意識はなくなり、
ありてある実在のみが存在する。
従って、自我はなくなり自我から発生する苦もなくなる。
297 :
横から失礼:2014/11/22(土) 10:25:12.11 ID:WzW8DnbW
物質的肉体ではなく意識が本質と考えるなら、
意識から発生する肉体や自我や心がマヤカシだとわかるだろう。
覚者はそれしか言っていない。
298 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:25:58.27 ID:1n9XZX6x
解脱は般若の次なる段階の教え。
般若の心境に至れない者には無縁の長物。
グノーシスと同じやね。
299 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:26:16.78 ID:fqNz+cBt
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ 自我は無くなるものではなく「超える」「離れる」ものである
/ 人 Y ハァ
\/し'(_)
いいですか皆さん
仏道ってのは自分の勝手で行じさせて頂くものなんですよ
他人様にそれで得た知識をひけらかす為に行うんじゃないです
○○も知らない癖にとか、○○は知ってるかとか
そんな事はどうでも良いんです
悟りは自分にしか分かりません
他人がそれを推し量ることなど不可能なんです
なのに、どうして成果を自慢したがる輩が居るんでしょうか?
我執を克服出来て無いからでしょう
推して知るべしな訳です
301 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:28:59.12 ID:dZKz6iqB
>>294 涅槃に至れば、自然と解る。
涅槃の説明は既にした。
ここに至れねば偉そうに語れることは何もない。
303 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:31:29.59 ID:dZKz6iqB
だって仏だものw
お後が宜しい様でw
305 :
横から失礼:2014/11/22(土) 10:36:06.40 ID:WzW8DnbW
解脱を語る前にまず輪廻から語らなくてはならない。
輪廻とは、死後の生まれ変わりという現象を一般には指すが、
それだけではなく、刹那的な心の移り変わりも輪廻という。
むしろその心の移り変わりこそ重要で、その心の傾向を破壊しない限り、
物質的肉体の輪廻転生も存在する。
心が絶えず移り変わる傾向を破壊して初めて解脱となる。
その方法論として此縁性縁起がある。
306 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:38:41.64 ID:1n9XZX6x
解脱の次は法身やね。
仏教も出家にはじまる必要な者が必要な時に手にする認識。
時期にない者には無縁の長物、偉そうとかは関係ないと思う。
赤ちゃんに仏教は必要ないのと同じ。
307 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:40:02.18 ID:dZKz6iqB
まぁジョークだが、
自我とは苦であり拘りのことだ。
これをやるのがとにかく一番早い。
むしろ、これをはずれるなら釈迦仏教でない。
308 :
横から失礼:2014/11/22(土) 10:48:25.54 ID:WzW8DnbW
>>288 >我を克服するには宇宙を超えた全の認識が必要。
いいとこ突くね。
宇宙はどこにあるのか、我はどこにあるのかを考えれば自然と解るよね。
>>305 輪廻と涅槃は異ならない
涅槃は解脱/悟達の異名でもある
言葉の原意としては、輪廻は移ろい行くことその事を言っている
だから滅後の如何も輪廻を言うし、心の動向も輪廻を言う
輪廻するには縁起が不可欠で、ある意味不二法門の域を出ない
心とは電球や照明器具から発する光の様なもので、器具の寿命がくれば
その器具の発する光は終わる
人の心も、生前は如何様にも変じて輪廻していたにも関わらず
命終を迎えるとその一切の心の活動は終焉を迎える
一生以外に心は輪廻出来ないのである
我々が久遠から未来際まで携える元来の輪廻とは
肉体側の事である
釈尊が衆生に四顛倒を教えそれを正せれば常楽我浄だと教えたのもこれである
物質は永遠なのである、そして我々の肉体はその永遠なる材料によって出来ているのである
四顛倒の衆はこれを見誤る、とは仏の謹言である
310 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:48:42.17 ID:1n9XZX6x
だから重要なのは必要な者が必要な時に手にとりやすい、手にしやすい仏教のありかたではなかろうか
311 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 10:49:59.04 ID:dZKz6iqB
何が一体苦なのか。何に一体拘っているのか。
それは一人一人で違う。
輪廻的なものもあるだろうが、輪廻自体は考えなくていい。
312 :
横から失礼:2014/11/22(土) 10:53:27.92 ID:WzW8DnbW
>>309 物質にこだわっている限りは唯識も禅も理解できないと思うが?
>>312 自慢のための理解なら不要だから良いのでは?
心象と物質と、先にこの世界に居たのはどちらかな?
それだけでも明らかだろうに
無我とは何か、もう一度お浚いした方が良いかと
314 :
横から失礼:2014/11/22(土) 11:03:58.82 ID:WzW8DnbW
>>313 じゃあ、「この世界」を認識してるのは何?
315 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 11:04:30.73 ID:dZKz6iqB
仏教知識に拘る根底には何があるのだろうか。
おそらくは人より秀でたい偉そうにしたいというのがあるだろう。
根底には必ず劣等感というものが潜んでいる。
おそらくそこが苦の根源だ。劣ってないと自ら知る必要があるだろう。
この部分自体を叩かない限り何も解決しない。
316 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 11:05:37.13 ID:1n9XZX6x
解脱の段階では意識せずともおのずと物質との縁は切れる。
その道にない者が無理に物質欲を絶つのは本末転倒だと思う。
まずは般若の心境の理解が先だと思う。
>>314 肉体の作用
お前はお前の意識と身体と、どちらが先に作られたのかな?
そんな事考えた事も無かっただろ
318 :
横から失礼:2014/11/22(土) 11:08:34.98 ID:WzW8DnbW
319 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 11:08:44.08 ID:dZKz6iqB
どうも頭に拘りすぎのきらいがある。
劣等感は頭の良さに関することだ。
学歴または成績だろう。
法華経勧持品十三
諸の無智の人 悪口罵詈等し
及び刀杖を加うる者あらん 我等皆当に忍ぶべし
悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に
未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
或は阿練若に 納衣にして空閑に在って
自ら真の道を行ずと謂うて 人間を軽賎する者あらん
利養に貧著するが故に 白衣のために法を説いて
世に恭敬せらるること 六通の羅漢の如くならん
是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い
名を阿練若に仮つて 好んで我等が過を出さん
而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は
利養を貧るを為ての故に 外道の論議を説く
自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑す
名聞を求むるを為ての故に 分別して是の経を説くと
常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に
国王大臣 婆羅門居士
及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて
是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん
321 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 11:14:29.33 ID:1n9XZX6x
君は赤ちゃんに向かって乳を吸うなと言えるかね?
不必要な解脱を他人に強いることなかれ。
ものごとには順序と段階があり、それはあるいみ必然として起こる。
322 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 11:19:55.69 ID:dZKz6iqB
つまり優秀な人間に対してのコンプレックスというものがある。
だから、釈迦とか誰々という有名人に自己をなぞらえて賛美する傾向がうかがえる。
これは他人の罵倒にも代替えされる。これは自己保身がうかがえる。
他者否定により、自己の安定を計りたいのだ。
一時的には他者否定により解決されるが、根本の劣等感が未解決のままなので、
同じことを輪廻する構造ができあがってしまっている。
323 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 11:27:14.00 ID:1n9XZX6x
魂の理解はある時期になされます。
それまでは秘密に閉ざされている知識。
324 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 11:35:44.39 ID:dZKz6iqB
解決策は優秀な人間という錯覚を解くというのがあるが、これは今さら無理だ。
残るは馬鹿になる、つまりいらぬプライドを捨てるしか残されていない。
これが、君にできるかな?
325 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 11:41:43.27 ID:1n9XZX6x
323>
誤)知識 → 正)認識
326 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 11:55:06.76 ID:dZKz6iqB
君の場合は、この部分というものが突出しているから、
ここを叩くだけで大きく悟りに前進するはずだ。
突出しているだけに困難かもだが、効果はかなりでかいとみた。
327 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 15:57:34.43 ID:KBKuoDw3
>>dZKz6iqB
>つまり優秀な人間に対してのコンプレックスというものがある。
>解決策は優秀な人間という錯覚を解くというのがあるが、これは今さら無理だ。
的確な自己分析だなw
328 :
佐藤光:2014/11/22(土) 16:35:12.93 ID:vfZERSiW
いつもいつでも功徳積むなんて和尚はどこにも無いけど(沙羅双樹!)
329 :
15:2014/11/22(土) 18:21:47.67 ID:VPqrCLUd
仮に魂というモノがあったとして
わしは多分、魂で動く肉体だ
わしが終わるときわしは終わり
魂とやらはわしをはぐくみ
成長してどっかへ行ってしまうんかもしれない
わしはこの刹那をあいしたいなあ
330 :
神も仏も名無しさん:2014/11/22(土) 21:55:55.04 ID:VHxmuIy8
魂はないと思うぞ
あるのは今の思い
331 :
凡夫:2014/11/22(土) 22:45:04.29 ID:JRAHSd2D
たしかに思いも変化するからなあ
魂ってなんだろうな
332 :
神も仏も名無しさん:2014/11/23(日) 11:05:32.62 ID:c7Pp9Osy
魂ね。それはある。
ただ、それが具体的に何というのは俺も解らん。
それは所謂、真我でなければ我でもない。
意識体みたいなもんだと思う。
333 :
神も仏も名無しさん:2014/11/23(日) 11:21:25.81 ID:c7Pp9Osy
真我というのは不変をいう。厳密には我ではない。
魂も不変物だろうという、これは予測。
我は変化し、不変物ではない。
五感の感覚と意識に於ける思いは全て妄想
人の思考は全て妄想
例外は無い
人は妄想以外の思いは絶対に抱けず、この世界の人の干渉は全て妄想で成り立っている
貶し文句としての妄想なのではなく、人の思いは実に例外無く全員妄想なのである
妄想で苦しみ、妄想で楽しんでいる
仏道はこれに気付く事によって抜苦与楽を完成させるのである
仏教経典も仏道修行も2ちゃんねるもこの書き込みも全て妄想で成り立っている
勿論、お前らの御託一切も妄想なのである
その妄想を「ああ、一切は妄想だったんだな」と気付けた時こそが解脱である
自分の前世の事も他人の前世の事も一切の苦楽迷妄の事もその時全て明らかになるのである(三明智)
一切妄想を気付けたからと言って、妄想から足を洗う訳ではない
身体が寿命を迎えるまではこの妄想の中に生きるのである
我々は生きている限り妄想から出る事は出来ない
仏道修行の畢竟は、自己に起こっている妄想を客観視する事である
抜苦与楽はそれで起こる
仏教に於ける解脱・悟りのシステムとは簡単なことである
パチンコに溺れるものが絶対にパチンコに負けない方法と同じ
そう、パチンコを止めれば善いのである、少なくとも絶対に負け無くなる
それに気付けば一つの悟りなのである
では、人の苦・行いはどうか
行いは苦を必ず伴うのである
であれば、行わなければ良いだけなのである
いきなり全部を止めればそれは大問題になる
一つ一つ、事を荒立てずに止めていくのである
嘘か本当かは行ってみれば良く分かる
行いを止めると言う実証は座禅だけで丸分かりである
座禅以外の行為を止めている、と座禅中に気付けた奴は
直ぐ解脱できるだろう
>>334 客観視出来ても一瞬なんだよね。
人間だから。
てか、本当に悟ったとかいう人がいたら人間じゃないw
人間が悟れるなら宗教なんていらなくなるし。
337 :
神も仏も名無しさん:2014/11/24(月) 09:46:42.96 ID:JxHKS3Tq
>>334 >仏道修行の畢竟は、自己に起こっている妄想を客観視する事である
>抜苦与楽はそれで起こる
こんなことを言っているようでは・・
自称で、坐禅してもこの体たらくだから、狐狸庵閑話w
338 :
横から失礼:2014/11/24(月) 11:16:27.67 ID:+VvHShhQ
>>337 >仏道修行の畢竟は、自己に起こっている妄想を客観視する事である
>抜苦与楽はそれで起こる
これはどう言うことかというと、
例えるなら、自己の本質はスクリーン(一なる意識)であり、
妄想(肉体、世界、心などそこに顕現している個)はスクリーンに投影された物でしかない。
通常我々は、そのスクリーンに投影された妄想と自己を同一視するため、
そのスクリーン上で起こる様々な現象に悩んだり苦しんだりしている。
これがいわゆる顛倒であり、自己の本質であるスクリーンになり切らない限り
永遠に生死を超えて苦しむことになる。
それを止める方法が「観察」であり、妄想を観察できているということはすでに
スクリーン側の視点に自己が立っているということ。
ということは、投影された妄想をその視点からただ観察し、惑わされることはなくなる
ということ。
339 :
横から失礼:2014/11/24(月) 11:27:26.29 ID:+VvHShhQ
ただ勘違いしてはいけないのは、自己の本質に一時的になったからと言っても、
それはある種の悟りではあるが解脱ではないということだろう。
禅の見性はその自己の本質であるスクリーン(一なるもの)
に溶ける体験を一時的にすることで自己の本質を垣間見る段階だろう。
その後、悟後の修行を積むことで、一なるものに溶け込んで行くプロセスを踏み
解脱となる。
四向四果もそんな感じかな。
340 :
神も仏も名無しさん:2014/11/24(月) 11:40:47.68 ID:JxHKS3Tq
>>339 >自己の本質はスクリーン(一なる意識)であり、
>一なるものに溶け込んで行くプロセスを踏み 解脱となる。
おやおや、シャンカラまがいのヒンドゥ教パクリのお方ですか?w
だから臨済も空海も狐狸庵閑話w
仏法には、本質なるもの、一なるものはありえない。
341 :
神も仏も名無しさん:2014/11/24(月) 11:44:10.54 ID:KMeOOihf
生きているうちに神社の狛犬のア・ウンの意味が解っただけで、私は満足です。
342 :
横から失礼:2014/11/24(月) 12:22:04.72 ID:+VvHShhQ
>>340 じゃあ「一なるもの」を超えた境地として「一なるものすらない消滅の境地」
でも設定しようかw
これで満足かな?
343 :
神も仏も名無しさん:2014/11/24(月) 12:54:51.55 ID:jJ/51WkA
まずは出家からです。
でも、多くの人は頭をまるめて寺へ入ることが出家だと思いこんでいる。
本来の出家を行ってはじめて次の段階の解脱があるのです。
344 :
横から失礼:2014/11/24(月) 13:02:42.78 ID:+VvHShhQ
完全に「鑑賞者」になると個は存在せず
全体の一部としてあるがままに作用しているに過ぎない事が解るが
ただ、「個は存在しない」と認識しているものがまだあるわけで、
そこが最大の問題。
345 :
横から失礼:2014/11/24(月) 13:03:56.92 ID:+VvHShhQ
鑑賞者×
観照者⚪︎
346 :
横から失礼:2014/11/24(月) 13:14:35.07 ID:+VvHShhQ
そこを「無」と表現するか「有」と表現するか
言葉の違いでしかないだろう。
>>344 >「個は存在しない」と認識しているものがまだある
と、大いなる個が観ているだけだから矛盾は無い
不一不異なんであって個別の義すら意味を成さない
>>346 仏はそれを空と表現したまで
仏道に於いて「本質など有り得ない」とは良く言われること
これは理論上の結論に過ぎず、理論とは所詮妄想の賜物に過ぎない
妄想に本質など有り得ないのである
言葉の上に於ける本質は、もとより妄想なので確かに有り得ないが
実際に於いてそれを完全否定してしまうと、四顛倒を払った先に於ける常楽我浄をも否定することになる
とするならば、事実と違う妄言を以って否定したことになりそれは邪見となるのである
邪見は心に於ける妄想の賜物である
仏は心で物事を判じなかったのである
我々はともすると、人間で居られる期間とその実感に固執し
実感から妄想する永遠性の様なものに固執してしまう
人間で居られる期間など限られていて、誰でもそのうち必ず死ぬのである
それを惜しむが故に「魂は永遠だ」などと妄想する
人間で居られる期間に固執するあまり、前後際断して考えてしまい
我らの本当の寿命を想像すら出来ないのである
我々は人間である以前に宇宙自体の物質に異ならず
この身がどんなに焼かれようと、どんなに磨り潰されようと
どんなに気化されようと、忽然と消滅する事は無いのである
水を沸騰させ続けるとお湯となり目減りしていく
しかし、水としては量を減らして居るが水が消滅した訳ではなく
水蒸気として別の場所へ移動したに過ぎないのである
我々の体も同じ事である、焼かれても消えたりなどしない
骨となり灰となりガスとなって、縁に従い場所を変え
縁に従って能力を変え姿を買え機能して、また変じていくのである
故に、仏はこの世界の真の姿は常楽我浄だと言うのである
我々は普通、それを想像でしか思えないので、仏は妄想を捨てよと言い
妄想を捨てられないならそれは邪見だと言うのである
仏道修行はその顛倒した邪見を離れられる唯一の手段なのである
350 :
横から失礼:2014/11/24(月) 15:20:34.97 ID:+VvHShhQ
>>349 では「大いなる個」が「小さな個」を超えるものであるなら、
小さな個である肉体意識や肉体、それに伴う世界が滅んでも
大いなる個は存在していなくてはならないのだけども、その矛盾はOK?
つまり、物質的肉体やそれに付随する世界滅んで終わりなら
「大いなる個」と「小さな個」の間に矛盾が生じてしまう。
351 :
横から失礼:2014/11/24(月) 15:25:26.33 ID:+VvHShhQ
つまり、この作られし世界全体である「小さな個」が終わっても
ただ在り、ただ観察する「大いなる個」は存続するはずではないか?と。
そうでなければ「大いなる個」が「父母未生以前における本来の面目」たり得ない。
352 :
神も仏も名無しさん:2014/11/24(月) 15:36:08.69 ID:vDg20jeq
釈迦が実際に説いたことと、現代日本の各仏教宗派の教義とでは、違うというか別物のような感じがするが、どうなんでしょうか。
>>350 >では「大いなる個」が「小さな個」を超えるものであるなら
大は小を兼ねるの大小を言ったのではない、「大いなる個」とは全体の事である
観察したがる気持ちも解るが、俯瞰視する観察の事ではない、悟りの事だ
我々の身体が六十兆もの細胞によって成り立つように、宇宙全体も無数の個によって
宇宙たらしめている、その全体中の一部としての我らを悟るのである
人間とそれ以外を切り離して考えたがる気持ちも解るが、そもそも我々は
単立で生きている訳ではなく、あらゆる縁起の影響で人間として個たらしめている
それらの観察眼も所詮は妄想なのだが、我々は妄想を用いねば会話も成り立たない
だから混乱しやすい
>この作られし世界全体である「小さな個」が終わっても
誰も作ってないし、何も終わらない
終わると看做しているのは我々の勝手な妄想で
人間で居る時間には限りがあれども、宇宙の一物質である時間は終わらないのだ
ずっと変容して有り続ける、只、それが人間では無いと言うだけの話
人はそれを惜しむ故に妄想で永遠性を考え、人としての生まれ変わりしか思いつけない
そんなものは存在し無いのである
人で居られるこの時こそがセレモニーだったに過ぎず、次に人になるセレモニーはいつなのか不明なのである
ただし、二度とない訳でもない
354 :
横から失礼:2014/11/24(月) 16:35:12.93 ID:+VvHShhQ
>>353 >我々の身体が六十兆もの細胞によって成り立つように、宇宙全体も無数の個によって
>宇宙たらしめている、その全体中の一部としての我らを悟るのである
ではその「宇宙」が存在するのはどこだろうか?
「小さな個」たる肉体の認識の中に存在するのではないだろうか。
つまり君が「全体」と呼んでいるものは「小さな個」の認識の中の出来事ではないだろうか?
対して「大いなる個」は確固たる実感を持って確信される。
この違いが解るだろうか?
355 :
横から失礼:2014/11/24(月) 16:40:37.06 ID:+VvHShhQ
>>353 >>この作られし世界全体である「小さな個」が終わっても
まぁ、「大いなる個」の視点からは、
最初から「小さな個」など始まってもいないし終わってもいないのだが。
しかし、「小さな個」でそのことを認識している限りはそれに気づくことは
ないだろう。
>>354 そもそも認識からして妄想なのだから存在も妄想なのである
宇宙がどこかと尋ねられれば、科学的な認識における知識上のそこの事だとしか言えない
仏道に於ける解釈でそれを言え、となれば「わからない」としか言えない
路傍の石に宇宙の場所などと言う認識は無いのがデフォなのであり
それを妄想に妄想を重ねて見つけたと称しているのが人間の知識と言う名の妄想なのである
確信も妄想である、人間生活に於いてのそれは重要だろうが
苦を遠離する為の涅槃道を目指す仏道に於いては役立たないのである
357 :
横から失礼:2014/11/24(月) 16:53:25.98 ID:+VvHShhQ
>>355 そうやって答えを探し続けているから見つからないのだよ
認識が妄想である以上、認識すると言う事は当てに出来ない
認識が当てに出来ない以上、確信など信用出来ないのである
仏曰く「この世界は夢幻泡影の如し」とはそう言う意味なのである
359 :
神も仏も名無しさん:2014/11/24(月) 16:57:29.42 ID:JxHKS3Tq
>>348 >理論上の結論に過ぎず、理論とは所詮妄想の賜物に過ぎない
>実際に於いてそれを完全否定してしまうと、四顛倒を払った先に於ける常楽我浄をも否定することになる
>とするならば、事実と違う妄言を以って否定したことになりそれは邪見となるのである
文章全体が、まったくの支離滅裂、ハチャメチャ、ナンセンスです。
言語自体が矛盾を回避できないからな
矛盾を用いて無矛盾を説明しても、相手が理解出来るとは限らない
361 :
神も仏も名無しさん:2014/11/24(月) 17:05:44.14 ID:JxHKS3Tq
>>360 >矛盾を用いて無矛盾を説明しても
あなたのは矛盾を用いて矛盾を説明しているにすぎない。
>>361 矛盾も妄想なのだよ
この世界には人の思い以外に矛盾など無い
その人の思いが作り上げた文字や言語を使ったところで
真実をそっくり譲り渡す事など出来はしない
そもそも書き込みもお前のそれも妄想なのだからね
嫉妬は妄想の言い訳である
俺の取るに足らない愚昧な文章にケチをつけた奴は
己に負けてる事を痛感すべし
己の琴線に触れてしまい、言わざるを得ない衝動に負けたのである
俺はそれを好意的に受け取って、お前らの慈悲なんだと妄想して受け答えしているに過ぎない
ありがたい事さ
364 :
神も仏も名無しさん:2014/11/24(月) 17:29:46.08 ID:JxHKS3Tq
>>363 あなたが本当に「常楽我浄」wとやらにあるつもりなら、
どうぞご勝手に。
>>364 自分は違うとお前は思うわけだね?
人に拘るから諸行無常なのであり、人への拘りを離れれば我々は個別ではなく不滅なのだよ
それが分からないならば、簡単な食物連鎖すらも認められない非科学的な認識と言わざるを得ない
表面上は認めてる風なのだろう、しかしそれを単なる物理現象としてしか考え及んで居ない
この世界は実に、人の思いからすれば残酷なのであり非情なのであり、そして物理現象そのものしか有り得ない
人の思いこそ単なる妄想に過ぎず、宇宙の運行には屁の突っ張りにもなって居ないのが現実なのである
顛倒した考察ではそれが理解出来ないのである、それは理解しようと、または反論しようと画策するから分からないのである
涅槃は一切の戯論が滅した静寂の境地である
有情が生まれる前の宇宙のどこに妄想など有っただろうか
妄想は不浄である、何故なら浄・不浄を思うからである
有情が生まれる前に浄/不浄などどこにあっただろう
苦/楽も然り、常/無常も然り、我/無我も然りである
これら有無は心情によって成り立つ妄想に過ぎない
366 :
神も仏も名無しさん:2014/11/24(月) 18:28:28.31 ID:JxHKS3Tq
>>365 やっぱり「常楽我浄」思考形式のままw
どうぞご勝手に沈んでいてください。
ちなみに、縁起の一切現実(時空因果関係)はなんらの「妄想」ではない。
367 :
15:2014/11/24(月) 19:12:06.04 ID:cGQK9d2t
妄想と妄想がふれあうことに、わしはとても喜びをかんじる
妄想がどこまでみごとに進化していくのかたのしみだけどね
矛盾や躓きは人が成長するために分りやすく立ちあらわれてくれてる
んだと思う
要約するとわしは女が好きだorz
仏教とは阿吽(オーム)を知ること
阿吽は始まりであり終わりを知ること
すなわちアルファでありオメガであるヤーヴェを
知ること
観音とは観+音が示すように音を観る事
音とはドレミファソラシド
ドレミファソラシドの由来はヨハネ讃歌という賛美歌
ドレミファソラシドのドの由来はドミナス
つまり創造主。ドで始まりドで終る音を観る事
は観音菩薩の境地であり同時にヨハネの洗礼でもある
あなた方が閻魔大王と呼ぶ者は
セツの子孫でありダビデの子孫である
ユダ族の王、処女から産まれるエンマヌエル大王である
彼はイエス・キリストである。
あなた方が裁かれるのはエデンを流刑され
地獄で罪を反省しない罪人の子孫だからである
その罪とは衣(子供)を作り子供(衣)を売り買いし
自分の呪いと刑罰肩代わりさせようとした罪である
衣(子供)の魂(ソースコード)をクラウドサーバー
で売買し、子宮という3Dプリンタで出力する
この違法取引の全てに関わった者はIPを開示され
刑務所行きになる。
神々とともに裁かれるが良い
ガフの部屋は永劫に閉ざされる
>>366 >縁起の一切現実(時空因果関係)はなんらの「妄想」ではない。
それを脳と目、視覚と意識を用いずにどうして知れよう
「妄想である」と言う事実を認めねば透過出来ない現実を
どうして知る事など出来よう
時空因果関係と言えども己の思い込んだ妄想に過ぎず
一切現実と言えども、どの六根を通しても妄想を免れない
妄想を認められないものを仏は愚かだと戒めたのに
仏は教えた筈である
この世界は夢幻泡影の如しと思え、と
372 :
神も仏も名無しさん:2014/11/25(火) 08:33:11.48 ID:zGikaRMs
>>371 >「妄想である」と言う事実を認めねば透過出来ない現実
空見(龍樹 中論13-8、24-11・12)でしかない。
「混ぜるな!危険」と何度指摘してきたことやら。
龍樹 中論24-18が妄想にしか見えないのだろうw
一代にも指摘したが、これではオウムを批判できない。
仏法が仏道そのものである以上、仮観の機能をスポイルしていいわけがない。
龍樹 中論を深覚できていないのだ。
>この世界は夢幻泡影の如しと思え、と
⇒
>>2 要するに、なぜ比喩表現なのかが直覚できていない成りすましでしかないからだ。
以上
373 :
神も仏も名無しさん:2014/11/25(火) 08:44:21.04 ID:XezeiEqi
なんで妄想とか言うといったら、事実性認識というものを損なうからだ。
騙し騙されるという構造がそこにはある。
374 :
神も仏も名無しさん:2014/11/25(火) 08:47:33.25 ID:XezeiEqi
悟って何かあるか?といったら何も無い。
これは、別に普通という意味。
375 :
神も仏も名無しさん:2014/11/25(火) 09:07:04.66 ID:XezeiEqi
なにが言いたいかというと、悟りというのは妄想だ。宗教も妄想だ。
これは悟りというものが無いというのでなく、別に普通が真相ということ。
つまり、民族主義、選民思想、或は宗教のために人が死ぬとかありえない程の
妄想ということだ。
376 :
神も仏も名無しさん:2014/11/25(火) 09:10:59.11 ID:7HbhVWD/
「イム」教
377 :
神も仏も名無しさん:2014/11/25(火) 09:23:22.40 ID:XezeiEqi
例えば仏像。これは石です。木です。金属です。
それ以上の価値というものはありません。
例えば、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経は気やすめ以上の価値はありません。
例えば、般若心経。価値以前に意味不明です。
>>372 閻魔、お前の屁理屈は良くわかってるよ
しかしお前が何を言おうが、一切の経も一切の論も妄想
お前のその書き込みも俺のこの書き込みも妄想
龍樹も釈尊の教説も使ったのは全て妄想なんだよ
仏は妄想を用いて真実を教えたに過ぎない
仏道は理屈じゃない、だから行為が必須となる
妄想じゃ無いなら行為は不要でお前の理屈だけで全員解脱だ
言葉や理屈は人の思いの産物である、思いは須らく妄想に過ぎない
379 :
神も仏も名無しさん:2014/11/25(火) 09:35:42.60 ID:XezeiEqi
思いは妄想ではない。想いは想い。妄想は別物だ。
何やら凄いものとか、特別なものとか、そういう想いというのは妄想ということだ。
380 :
神も仏も名無しさん:2014/11/25(火) 10:18:26.91 ID:zGikaRMs
>>378 >妄想じゃ無いなら行為は不要でお前の理屈だけで全員解脱だ
>仏は妄想を用いて真実を教えたに過ぎない
あなたには仏法は無理だからあきらめたほうがいい。
空見(龍樹 中論13-8、24-11・12)でしかない。
一切を幻影(妄想:マーヤー माया Māyā )そのものとするシャンカラ的不二一元論に堕落している。
臨済・空海以来、この類の成りすまし外道どもが「仏教」界wにはびこっているのが現状だ。
要するに、中論18-7が直覚・深覚・領解(体得)できないのだ。
『不完全に見られた空は智慧のにぶいものどもを害する。
それゆえに、(一切は空であるという)その法が智慧の鈍いものどもによって間違って領解されることを慮って、
その教えを説示しようとするブッダのこころは、押し止められた。』(中論24-11・12)
龍樹のいうブッダの躊躇は相応部6に描かれている。
勝手に沈んでいたらいいw
381 :
神も仏も名無しさん:2014/11/25(火) 10:39:28.59 ID:zGikaRMs
>>378 >妄想じゃ無いなら行為は不要でお前の理屈だけで全員解脱だ
ホントやっぱり、成りすましはダメだな。
妄想じゃ無いから行為(仏道の相即的実践)は必要で、
『お前の理屈だけで全員解脱だ』ということはありえない。
一切が幻影(妄想:マーヤー माया Māyā )そのものならば、
他の信仰宗教と同じく、
幻影(妄想:マーヤー माया Māyā )と信じる『お前の理屈だけで全員解脱だ』ということになる。
いっていることがハチャメチャなんだよw
>>380 成りすましはお前だ
諸の無智の人 悪口罵詈等し
及び刀杖を加うる者あらん 我等皆当に忍ぶべし
悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に
未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
或は阿練若に 納衣にして空閑に在って
自ら真の道を行ずと謂うて 人間を軽賎する者あらん
利養に貧著するが故に 白衣のために法を説いて
世に恭敬せらるること 六通の羅漢の如くならん
是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い
名を阿練若に仮つて 好んで我等が過を出さん
而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は
利養を貧るを為ての故に 外道の論議を説く
自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑す
名聞を求むるを為ての故に 分別して是の経を説くと
常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に
国王大臣 婆羅門居士
及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて
是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん
>>381 一切の行為を止めるのが仏道の行為だ
一切の思念を止めるのも仏道の行為だ
何故止める?、座禅中は経典を読まない、何故読まない?
一切が妄想だから思念を止め、妄想のままの行為を仏道で排他して止める
お前が気付かなかったのが悪い
一切は妄想なのであり、妄想を現実だと思っている事こそが顛倒の元凶なのだよ
だから仏道はその他の行為を止め、思念をも止めさせる
それでも気付けなかったのがお前、って事だ
仏法は無理だからあきらめたほうがいい、とは俺は言わんよ
しかし、何年やってるのか知らんがお前は本当にセンスないな
中論18
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
ニルヴァーナ=涅槃には戯論=妄想を持ち込めない
385 :
神も仏も名無しさん:2014/11/25(火) 11:27:05.44 ID:zGikaRMs
>>382>>383 >是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん
これって、あんたのことだよw
仏道でヒンドゥのシャンカラ的不二一元論は『外道の論議』そのものだ。
ちなみに、法華経も日蓮も立正安国論もナンセンス成りすまし「仏教」でしかない。
>一切の行為を止めるのが仏道の行為だ
(1)坐水月道場
(2)★修空華万行
(1)のみが仏道というなら、山に籠もって娑婆には出ないことです。
精神病院のナマポ聖者は社会の迷惑です。
道元さんの現成公案初段にも、この事情は明らかです。
では修空華万行に出かけます。
>>385 >精神病院のナマポ聖者は社会の迷惑です。
先ず、仏道を重んじる者なら釈尊に倣ってそんな侮蔑は吐かない
何故なら、自分も来た道だからであり、痛みを分かる人だからである
それが出来て無いものに「修空華万行」など馬の耳に念仏の如しなのである
>仏道でヒンドゥのシャンカラ的不二一元論は『外道の論議』そのものだ
それはお前の勝手な妄想に過ぎない
涅槃に不二一元論は通じない、一切の戯論が滅する故に
お前、相当外道の知識が大好きと見えるな
そんなに知識自慢したいならパーピマンとでもやってればいい
仏道は生き様全てが仏道なのはもとより
この霞んだ世界に「敢えて」坐って道場と為す
>>385 >法華経も日蓮も立正安国論もナンセンス成りすまし「仏教」でしかない。
なぜここに日蓮が出てくるのか不思議
何かトラウマでも抱えてるのだろうか
法華経だろうと般若心経だろうと法句経だろうと経集だろうと
仏のみ教えに殉じた先達が伝えた仏言に変わりはない
これを否定するものは釈尊の謹言を破るものであり仏意を謗るものと言わざるを得ない
八万法蔵は全て、薬局の薬箱全部に相当し、一つも否定出来ないのである
それが分からない生半可なものは安易に経を謗るのである
因みに道元師は法華経の、書に於いては善き読者、経に於いては類稀なる実践者のお一人であったと言う
正伝の仏法実践者は経を釈尊の謹言と観て選ばないのである
故に、座禅道場に阿弥陀如来がおわすのも曹洞宗なら不思議ではない事である
389 :
横から失礼:2014/11/25(火) 18:03:15.43 ID:8VNVSAMC
対人論証とか愚の骨頂
閻魔の常套手段だな
391 :
15:2014/11/25(火) 20:29:05.38 ID:GwO7sY/c
>>372 夢幻泡影の如し
美しいこの世界を、そのようにしか見ることが出来ない自分
そんな自分を嘆いた言葉なんかもしれませんね
しじんきどりしつれいでしたorz
>>391 >美しいこの世界を、そのようにしか見ることが出来ない自分
そうではない
美しかろうがなんだろうが、対象を見ているのは目であり
目は対象そのものではない、目が無ければ対象は見る事が出来ない
どんなに対象が美しくとも、それを見ているのは目なのであり目の部分に対象がある訳ではない
対象を目を使わずに見る事は出来ない
我々は対象を直接感受する事は出来ない、必ず感官を用いて見るなり嗅ぐなりをせねば成らない
例えば、オカズを箸やスプーンで取る時、行儀の良し悪しは一旦置いておくとして
箸を端折って手づかみでとって頬張る事は可能であり、しかし「見る」には、目を端折って手づかみする事は出来ない
目以外の感官も同じことで、必ず感官と言う「箸」を用いねば受ける事が出来ない
美しいものを見たとき、目にその像が結像して美しいものを見た、と感受する
しかし、目玉の中にはその美しい像の実体は存在して居ないので
必ず対象から受ける「幻の結像」を見るのである
他の感官も同じ事になるので例外は無い
これが夢幻泡影の意味のあらましである
我々は一つも対象の実体に触れる事等は出来ないのである
そんな事を露とも知らない衆生を、釈尊は「顛倒の衆」と言ったのである
393 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 01:09:57.26 ID:lH6buhl/
>>392 要は一切合切が自身の内で起こっているに過ぎないということ。
つまりは、釈尊も糞も関係がないということだ。解るかな?
394 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 01:23:20.79 ID:lH6buhl/
この構造というものは、もちろん我というものではない。
つまり一切合切が我とは無縁ということだ。これを、ただ有るという。
構造により導き出される法則というものがある。
釈迦のいう法とは法則のことだ。
例えば、苦しみというものは愛しいものが縁として起こる。
故に、愛しいものが無ければ苦しみは無い。とか。
395 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 01:33:57.36 ID:lH6buhl/
この、愛しいものの言い換えが拘りとか執着というものだが、
愛しい者、物とした方が根源的で適切だろう。
396 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 01:42:18.76 ID:lH6buhl/
つまり元々の仏教の縁起論というものは、根を断てば縁起しないと
いう法則性に基づくものだ。縁起というのは、どちらかと言えば悪者になる。
ID:lH6buhl/
それも違うな
一切合切が関係ない訳ではない
関係を持っているから現象は起こり、現象するから目に見える
糞はお前の腹から出るのであり、その責任はお前にある
全てが妄想の中の出来事と言えども、その妄想は現実なのである
妄想だからと言って責任を逃れる術は現存しない
苦しみは我執に於ける渇愛により起こる
愛しいものがなくとも苦は起こる、例えば病苦・老苦・怨憎会苦など
398 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 02:09:12.65 ID:lH6buhl/
だから縁を切るとか縁を断つという。
これが縁起の正しい使い方。
病苦に関しては自己愛的なものもあるが、基本的には関係がない。
老苦は自己愛。怨憎会苦についても同様。
399 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 02:32:44.71 ID:lH6buhl/
ただ有るものに対して、例えばそれが無くなったといって嘆き悲しむ。
それを錯覚、洗脳、虚妄を嘆き悲しむという。
事実は現実になく脳裏に存在するということだ。
それは単に一時的なもので常ではない。無常ということだ。
つまり、無常というのも、どちらかというと悪者。
こういうことも解らずに仏教やってますというのは、ちょっと違う。
そうかそうか、ではおやすみ
401 :
横から失礼:2014/11/26(水) 06:36:46.63 ID:Y3DC5Quz
>>394 >つまり元々の仏教の縁起論というものは、根を断てば縁起しないと
>いう法則性に基づくものだ。縁起というのは、どちらかと言えば悪者になる。
そう。
苦しみ原因となるもの一切を厭離、遮断し次の再生の因を作らない。
それが正しい此縁性縁起の用い方である。
そのためには絶え間ない「観察」が必要となる。
しかし、正しい観察をするには心が静まっていなければならない。
そこで用いるのが「戒」と「サマタ瞑想」であろう。
戒と心を落ち着かせる瞑想により煩悩を極力静めることが肝心となる。
現世・過去生において悪因を積んだ者には、功徳を積む善行が必要となる。
過去に作った悪業により次から次へと災難が降りかかっては修行どころではないからだ。
402 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 08:36:06.04 ID:lH6buhl/
例えばが、オレオレ詐欺。これは息子可愛さ一身のパニックから起こる。
或は、支払せねば逮捕されてしまうという架空請求詐欺は我が身可愛さからなる。
これを防ぐのは冷静な判断力というのもあるが、他者との連携も必要と見る。
独断に陥ってしまったらパニックの言いなりになってしまうからだ。
解らない、判別がつきにくいことは他者に相談というのは有りだろう。
パニックに陥らないことも秘訣といえ、愛しい者、物を作らないというのが、
決め手になるだろう。何故なら、そうでなければ冷静な判断ができるからだ。
書かれている戒に関しては言い換えで節度といえるが、犯罪被害、或は加担という
観点からみればイスラム教徒のような独断性を生み出すとも考えられる。
つまり戒を理由もなく盲信してしまうというのは危険な行為とも言える。
サマタ瞑想に関しては止観のほうかな。
言えることは、気付きを持つように心掛けることが、冷静な判断力と
ひらめきという引き出しを活用しやすいとは言えるだろう。
403 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 10:33:48.44 ID:/xPfKyTK
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ 悟れば過去世の因果から離脱する。
/ 人 Y ハァ しかし過去世の因果から離脱する努力は悟りを遠ざけてしまう。
\/し'(_)
404 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 11:13:42.66 ID:lH6buhl/
提婆達多が釈迦に提唱した「五事の戒律」というものがある。
1.人里離れた森林に住し、村邑に入れば罪となす。
2.乞食(托鉢)をして、家人から招待されて家に入れば罪となす。
3.ボロボロの糞掃衣(ふんぞうえ)を着て、俗人の着物を着れば罪となす。
4.樹下に座して瞑想すべきで、屋内に入れば罪となす。
5.魚肉、乳酪、塩を食さず。もし食したら罪となす。
釈迦の思想というものは現代人をも凌駕する部分があるのは確かなものであるが、
対して提婆達多の思想というものがこれである。
この落差というものは信じ難いほどに大きいといえ、後世の創作かもしれない。
しかし、人というものは、これほどまでに馬鹿なのだともいえる。
405 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 11:24:41.14 ID:/xPfKyTK
/\ \
__/ / ̄/
/\ _\/ /_\
/ / ̄ ∧_∧
\/__(;・ ∀・) 目あるものは読みなさい。
/ と ノ ハァ 釈迦は哲学を語ったかもしれないが
/ 人 Y ハァ 思想は語っていなかった。思想とは社会や国の秩序を考えること。
\/し'(_) 釈迦は社会や国のことなどあるがままに任せていた。
406 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 11:36:55.23 ID:lH6buhl/
思想とは思う、想う。つまり思索のことである。
哲学とは自己哲学の通り思索のことである。学問や、社会秩序一般は関係がない。
407 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 11:46:04.82 ID:lH6buhl/
努力が嫌いな者がいるようだが、努力のない所というのは
現状維持に留まる。もしくは退廃に繋がる。
これは、いずれもが進歩が無いということを指す。
進歩がないということは、悟りに達する道理、法則性を無視するものである。
それは一般仏教論の語る提婆達多のような、マジですか?レベルの人間を
輩出することになる。
悪い行いは実らない、悪い願いはかなわない。
野生的な感情で行動や発言をするべきではない。
理性や正義の心に基づいてすべきである。
それらは煩悩から離れた行動や発言である。
言葉は平和的な剣である、しかし慎重につかわなければならない。
言葉で人を傷つけてしまうこともあり(いじめ)
言葉で幸せをもたらすこともできるからである。
409 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 12:17:37.00 ID:lH6buhl/
言葉自体に囚われる者は言葉を特別なものと見なす。
事実は言葉でなく、責められていること自体への反発である。
しかし、責めている気は毛頭なく、事実を言っているに過ぎないが事実である。
甘言というものがあり、これは詐欺的手法によく使われる手法である。
おめでとうございます。あなただけが当選しました。とか、
当たり前のことをつらつら言い、最後に嘘を言ったり、入会の勧めとかの
架空請求をしたりする。ある種族、血族、民族だけが、といった甘言もある。
これらは全て詐欺である。一部が破綻すれば、全部が破綻するようなものである。
甘言というものには常にこのトリックが使われる。
タダより高いものはないというのは、詐欺に対する皮肉である。
どうでもいい
411 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 13:41:31.73 ID:lH6buhl/
>>410 熱情ある者に、瞑想する婆羅門(ブッダ)に、まさに、諸々の法(もの・こと)が明らかに成るとき
(諸々の法が生じては滅する、まさにその、あるがままのあり方が明らかに成るとき)、
しかして、彼の、諸々の疑惑は、全てが消え去る
――諸々の縁の滅尽を知ったがゆえに(因によって法が消滅する道理、つまりは、縁起の法を知った)。
あらゆる事柄がある程度、どうでもいいというのは事実だ。
これにもう一つ加わらなければならないものがある。
それが最初に書いてある熱情というものだ。
何故に情熱でないかは疑問だが、意味は同じだ。
真実に対する情熱といっていいだろう。
412 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 17:13:17.42 ID:GTkEl5Wj
おもいっきり、ウソを撒き散らしている成りすましが多いなw
413 :
15:2014/11/26(水) 18:17:10.61 ID:lXWALZa/
>>392 わしらの認識能力にみあった情報量にまでおとしてくれて
その対象はわしらの認識まで訪れてくれた
とは言えんだろうか
仏は報仏としてはじめて我々の認識に訪れてくれるらしいけど
報仏は妄想ですか
そのものでないものは偽物ですか?
わしらのとこまで下りてきてくれた本物だと思いたい
414 :
横から失礼:2014/11/26(水) 19:10:37.92 ID:Y3DC5Quz
>>414 その先入観が自分の解脱を妨げるんだよ
全ての先入観を捨てないと彼岸に辿り着けない
悟りは、成果として何かを得るのではなく
何も得る事が無くなり、何も得られるものなど無い
と気付いた時に成る
何も得ないのだから先入観も邪魔なのである
「こんな感じが悟り」とか「こうなったら仏」とか
そんなものは一切通用しない
それらは全て先入観であり思い込みに過ぎない
成りすましが云々と言ってる御仁は嫉妬で相手を判じてるに過ぎない
本当なら、他者の悟りなど推し量れず、垂れ流す間違いにだけ指摘をするものである
間違いを正すことと、悟った悟ってないは別の話なのであり
間違えてるから悟ってない、と言う判別こそ大間違いなのである
公案のどれを引いても、間違えたから悟りではないとは教えて居ない
また、間違えたから悟れない、とも教えて居ない
間違いは誰にもあり、仏と言えども間違うことはあるのである
釈尊でさえ、末期は食事を間違えてお亡くなりに成っている
どこぞの御仁は「仏は仏法を離れている」と呪く
仏と言えども人間なのであり、仏法を離れたら道理に反し
それは人ではないので、人を導く道など教えられなかった事になる
そんな生半可な道理は存在しない
418 :
横から失礼:2014/11/26(水) 20:06:09.45 ID:Y3DC5Quz
>>416 >悟りは、成果として何かを得るのではなく
>何も得る事が無くなり、何も得られるものなど無い
>と気付いた時に成る
つまり、「誰が得るのか?」と。
「得る人間など最初からいなかったじゃないか!」と。
そして最初から「それそのもの」であったということかな?
419 :
横から失礼:2014/11/26(水) 20:07:52.31 ID:Y3DC5Quz
じゃあここで会話していること自体「それそのもの」ではないから、
真理すら説くのをやめないとね。
>>419 嫉妬は良くないな
喋りたい奴は喋ってれば良いだけ
誰も阻止する権利は無い
421 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:00:44.01 ID:lH6buhl/
実際問題、熱意というものと、ある程度のいいかげんさみたいなものがないと
肩の力が抜けてこないというのがある。
肩維持張って道理を説く人というのは、実際いくらでもいる。
こういう人は熱意はあっても、いいかげんさみたいなものがないから
細かいことに割りと必死になる傾向をもつ。
傾向として、そういう人は人の悪口をいいまくる傾向を持つ。
だから、仏教で人の悪口をいうなという論理が成り立つ。
それが実際に秩序を乱す害悪になるからだ。秩序を乱すために道理を
説いている人ということになる。
422 :
晃:2014/11/26(水) 23:01:34.92 ID:tkUqFEdd
こうなったら仏って
経にあるよ
423 :
晃:2014/11/26(水) 23:03:27.36 ID:tkUqFEdd
間違ってるものは正しいものを憎み
正しいものは間違ってるものを憎み…
これはもうどうしようもないと涅槃経にもある
格差社会で現代もまわってる
424 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:12:09.18 ID:lH6buhl/
色即是空、空即是色という言葉がある。
体は虚妄であり、虚妄とは体ということだ。
言い換えれば、我々は体について何も知らないということに他ならない。
これが体法則というものに繋がっていく。
しっかり食って、しっかり寝て、しっかり動いて、しっかり考えて、
こういうことをやってれば体法則には適う。
425 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:16:55.64 ID:GTkEl5Wj
>>424 >色即是空、空即是色という言葉がある。
>体は虚妄であり、虚妄とは体ということだ。
全身これ真性成りすましですなwwww
426 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:24:06.11 ID:GTkEl5Wj
「体は虚妄であり、虚妄とは体ということ」なら、
不殺生戒は成立しない。
裏打ち資料を出そうか?
なんでここまでバカに成れるのかw
成りすましは実に罪深い。
これではオウム批判は不可能だ。
成りすましはオウムそのものだからだ。
427 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:26:24.83 ID:lH6buhl/
428 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:32:10.48 ID:lH6buhl/
例えを出そう。大リーグで中4日登板というのがある。
実際問題、これで腕が壊れてしまうという現象が多くある。
だから最低でも5日は空けましょうが正解となる。
これは、体というものを知らない。即ち無明だからに他ならない。
しかし、それが絶対というわけでもない。
連投というものは効くし、4日連続連投というのもある。
瞬間的にはそれでもいいということだ。
いずれにせよ、体の状態というものがある。
自己には解りにくく、他者にはそれ以上に解りにくいものだ。
429 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:44:11.28 ID:lH6buhl/
裏打ち資料はまだか?
確たる根拠もなく人を批判する。これを悪口という。
なんでここまで馬鹿になれるのか。
それをそっくり、お前に返そう。
430 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:52:01.12 ID:GTkEl5Wj
>>427 >裏打ち資料出してみな
根本は「体は虚妄であり、虚妄とは体ということ」即ち、マーヤ(幻影、虚妄、妄想)観にある。
(幻影、虚妄、妄想)観においては<不殺生戒>は成立しない。
従って、平気で殺人(ポア)を教唆する。
曰く、
・タントラ・ヴァジラヤーナ最高の教え (麻原彰晃の世界―THE説法)
これはURLが長すぎて、掲載できない。各自ググってくれw
・密教タントラ・ヴァジラヤーナ(秘密金剛乗) 五仏の法則(真言宗の金剛経などにも見られる教えだ)であって、【五戒】そのものの正面からの破壊である。これを反仏教と言わずになんというのだ!
(1)金剛の一族に属するものは★殺生を行うべきである。 ⇔ 不殺生戒
(2)剣の一族に属するものは★真実でない言葉を語るべきである。 ⇔ 不妄語戒
(3)宝珠の一族に属するものは★他のものの財産を盗むべきである。 ⇔ 不偸盗戒
(4)蓮華の一族に属するものは★他のものの配偶者を盗むべきである。 ⇔ 不邪淫戒
(5)宝輪の一族に属するものは★酒と諸仏の明かり(五肉と五甘露)と ⇔ 不飲酒戒
あらゆる良き対象によるべきである。
“鉞の一族”に属するものは、最低のカーストに属する女性の最も汚い部分をあざけるべきではない。
あなたはこの身と富とを命あるもののために捧げるべきである。
あなたは自分本位にそれを持つべきでない。
ああ、良き一族に属する子よ。
勝者は、あなたはこれによって仏陀になるであろう。
そうでなければ無数の劫をへても仏陀にはなれないであろう。
431 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:55:25.13 ID:GTkEl5Wj
どこの反仏法の馬鹿坊主が書いたのか知らないが、真言密教の中心経典「理趣経」に以下のようなアサハラが泣いて喜ぶ以下のような、大日如来というバケモノが説いたというカタチで、邪悪な文言・寝言が書き連ねてある。ポアの思想である。
いずれも、「体は虚妄であり、虚妄とは体ということ」即ち、マーヤ(幻影、虚妄、妄想)観にもとずいている。
・ 二段 (覚証の法門) 大日如来の巻より
金剛手 若有聞此 四出生法 讀誦受持 設使現行 無量重罪
必能超越 一切惡趣 乃至當坐 菩提道場 速能剋證 無上正覺
( # 金剛手菩薩よ。もしあなたたちがこの四つの悟りを生み出す法を聞いて、これを読み誦え、身に保ち持っていたならば、
★たとえ今ここで数えきれない重い罪をなしたとしても、必ず一切の地獄に墮ちるという報いを超えて、そのままで無上正等覚(さとり)を証することであろう。)
・ 三段 (降伏の法門) 降三世明王の巻より
金剛手 若有聞 此理趣受持 讀誦 設害三皆 一切有情 不墮惡趣
爲調伏故 疾證無上 正等菩提
(# 金剛手菩薩よ。もしあなたたちがこの「悪にその性なし」という理趣を聞いて、これを読み誦え、身に保ち持っていたならば、
★たとえ三界の一切の生き物を殺したとしても、決して悪の報いを受けて地獄に墮ちることはない。それどころか悪しきものを調伏(うちなび)かしたことの果報を得て、速やかに無上正等覚(さとり)を証することであろう。)
432 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:57:37.50 ID:GTkEl5Wj
433 :
神も仏も名無しさん:2014/11/26(水) 23:58:24.54 ID:lH6buhl/
>>430 違う。体のことを知らないが根本だ。
平気で殺人を教唆するのもこれがあるからだ。
平気で殺人を教唆する者は、まずお前が殺されろとなる。
たったこれだけで、平気で殺人という論理は破綻する。
434 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:11:50.70 ID:qxRukxJd
ちょっと、サービス
『@心の境地(対象)が滅するとき、言語(論理)の対象も滅する。
Aその法相は、不生不滅(の如く)であり、実にニルヴァーナの如くである。』(龍樹 中論18-7 閻魔大王 訳)
Sn.1072を受けた龍樹のこの簡単なしかし超重要な偈は、凡人には難解(なはず)だ。
実は、表面的には@とAは矛盾する。
@は「至滅」だが、Aは「不(≒非)滅」だ。
相が異なるのである。
しかし法相としては矛盾を問えない。
直覚するしかないのだ。
これが直覚できなければ、仏法は無理だ。
上記を踏まえて、以下
435 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:13:04.13 ID:v8LI9AVG
まず、 ID:GTkEl5Wjは俺の言いたいことが理解できていない。
実際問題、熱意というものと、ある程度のいいかげんさみたいなものがないと
肩の力が抜けてこないというのがある。
これが根本の問題定義である。これがないと身心脱落というものは起こり得ない
といっているのだ。肩の力も抜けない者が悟れるわけがないということ。
即ち、根本から目をそらし、別の問題というものを捏造し、勝手に自己解釈し、
勝手に人を批判、即ち悪口を言うという構造がそこにはある。
436 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:13:56.90 ID:qxRukxJd
>>386 >それはお前の勝手な妄想に過ぎない
単なる感情的反発に過ぎず、妄想と断定する何の根拠もない。
せめて「ウパデーシャ・サーハスリー」とか「バガヴァッド・ギーター」 (岩波文庫)ぐらいマトモに読んでから、文句をいいなw
437 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:15:43.66 ID:qxRukxJd
>>387>>388 >仏のみ教えに殉じた先達が伝えた仏言に変わりはない
>これを否定するものは釈尊の謹言を破るものであり仏意を謗るものと言わざるを得ない
>経を釈尊の謹言と観て選ばないのである
こんな博物館行きの化石(すべての経は釈尊の直説)信仰主義には呆れる。
文献学無視の宮元啓一の無批判丸呑み「仏典原理主義」とどっこいどっこいなアホぶりだなw
法華経はブッダ没後、500年以上たってからの成立だし、
『無量義経』にいたっては紀元500年頃の中国での偽経だということが確立している。
信じるものは救われないw
438 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:19:01.95 ID:qxRukxJd
>>387>>388 アホケキョー!w
「仏教」の勝手信仰はともかく、仏法はあきらめたほうがいい。
「一切」(相応部35-23)外フィクション・信仰・★真正妄想★でしかない。
筏の喩えの法門(金剛般若経6、中部22)ではない。
相応部35-70によって経験主義的に証明せよ。
ブッダが法華経的バケモノであることを直ちに実証せよ。
俺様への信仰第一主義を説くタマネギ<法華経>ごときが、「信仰を捨てよ」(相応部6-2、Sn.1146)とどう整合性があるのか、
他の信仰宗教同様のエゴイスティックなご都合主義との非難は免れない。
南無妙法蓮華経であろうが、南無阿弥陀仏であろうが、omであろうが、呪文のたぐいであり、
呪文・呪術・読経・祭祀・運命判断・胡麻焚き・まじない・除霊・供養・祈祷・祈願・バケモノ信仰・葬式供犠など、
すべての神秘的な力に預かろうとする信仰宗教的行為が<釈迦仏教>と整合性があることを証明せよ。
できなければ<成りすましインチキ「ブッキョー」w>との非難を甘受しなければならない。
>因みに道元師は法華経の、書に於いては善き読者、経に於いては類稀なる実践者のお一人であったと言う
俺は壮年期の駿馬時代の道元が示唆した仏法にしか興味はない。白隠にも同様だ。
駄馬やロバには興味がない。
初期仏教原理厨と日蓮厨の争いかW
440 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:25:35.92 ID:qxRukxJd
>>396 >つまり元々の仏教の縁起論というものは、根を断てば縁起しないと
>いう法則性に基づくものだ。縁起というのは、どちらかと言えば悪者になる。
全然アカンやん。
全身これ「成りすまし」二項相対主義丸出しだなw
仏法のゲシュタルトは、言語で示唆するなら、<機能的には縁起、内容的には空>の如くだ。
ゆえに無常≒無我≒縁起≒空≒中道≒時空際断の如くと、示唆できる。
縁起撥無は一切外妄想であり、仏法ではない。
仏法の基盤はあくまで『縁起の直接現実』であり、これの直覚を「縁起の現観」(悟り)という。
★しかし、『縁起の直接現実』は対象化不立だから(中論18-7参照)、「縁起の現観」(悟り)も不立のはずだ。
★完全にパラドックスであり、ここが突破すべき<(無門)関>であるゆえんだ。
導師としてできるのはここまでだ。
あとは自力で突破するしかない。
>根を断てば縁起しないという法則性
縁起しないなら何なんですか?
神智学の宝珠愚者好みの超越世界でも妄想するのか?
大日如来とか、阿弥陀如来とか、ブラフマンとかが昼寝とかウンコでもしているというのか?w
バケモノ仏陀が口から火を吹いて、スーパーマンよろしく空を飛んでいるのかw
仏法は、信仰宗教だの、ニューエージだの、スピリチュアリズムなどという縁起撥無の「一切外妄想信仰主義」ではない。
441 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:27:42.78 ID:v8LI9AVG
架空の存在の中に真実というものはない。
真実というものは体に潜んでいる。
誰が、何を、どうした。
こういったものは自己の体にとり、一切関係ないことだ。
これで架空の存在になれるはずもない。
架空は架空。実際でないということだ。
442 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:29:18.19 ID:qxRukxJd
昨日、本日と実に娑婆世界はハードワークであった。
眠い、アホ相手に遊んでられんわw
寝る。
443 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:31:43.93 ID:v8LI9AVG
>>440 熱情ある者に、瞑想する婆羅門(ブッダ)に、まさに、諸々の法(もの・こと)が明らかに成るとき
(諸々の法が生じては滅する、まさにその、あるがままのあり方が明らかに成るとき)、
しかして、彼の、諸々の疑惑は、全てが消え去る
――諸々の縁の滅尽を知ったがゆえに(因によって法が消滅する道理、つまりは、縁起の法を知った)。
君は縁の滅尽というものが理解できてない。
これが、仏法であり、君が思っている仏法は反仏法だ。
噴飯してる自分自身を照らす鏡はないものか
445 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:44:09.77 ID:v8LI9AVG
何も知らないものに教えるのはしんどいな。
間違った観念というものを手放そうとしない者は、まぁ無理だ。
傾向として、情報の言いなりになる。
大リーグの喩えでいうと、何も知らないまま中4日登板を繰り返し、
腕を壊すという事態になる。
それは、肩意地張って道理を説き、人に悪口を繰り返すという構造と
何も変わらないと俺は言っているのだ。
折伏しても誰もついてこねーっすよ
なぜなら見てるほうはおまえ能書きよりも
おまえのすがたそのものを観てるからだ
447 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 00:55:46.70 ID:v8LI9AVG
それは架空だ。
俺は無理、無駄というものを説いているに過ぎず、
それが理解できないと、肩の力は抜けませんよといっているに過ぎない。
まぁ、無理、無駄にしがみつく馬鹿には、こういうことは理解できない。
448 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 01:05:55.57 ID:v8LI9AVG
解るかな?体の酷使、頭の酷使、或はその逆、そういうことをやってると
体の機能というものは正常に作動しませんよということだ。
449 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 01:54:22.79 ID:v8LI9AVG
つまり悟りとは正常の極地みたいな状態をいう。要は体の活性化だ。
この逆の異常の極地というものとは違うということだ。
必要以上に、仏教がどーたらこーたらというのは、異常の極地に向かっているということだ。
だから、俺は喩えとして実際の事象を用いて説明することができる。
異常の極地に向かう者には、こういったことは至難の業となる。
450 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 01:58:33.14 ID:r9teJ3HE
451 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 02:02:45.70 ID:v8LI9AVG
>>450 それは君自分に言ってるのか?ギャグか?
452 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 02:09:02.55 ID:v8LI9AVG
別に夜寝るルールというものはない。
しかし、睡眠時間についてはルールがありそうだ。
一日に5,6時間の睡眠では情緒不安定になるだろう。
7時間でも短い。精神に及ぼす観点から見ると8時間以上が適正だろう。
453 :
神も仏も名無しさん:2014/11/27(木) 02:24:02.16 ID:2uX4duzc
健康第一!
454 :
横から失礼:2014/11/27(木) 07:45:32.98 ID:JGvLdv/4
>>449 >つまり悟りとは正常の極地みたいな状態をいう。要は体の活性化だ。
悟りとはこういうことかも↓
「菩提には木はない 澄み切った鏡も台ではない 本当は一切のものは無なのに 埃は何に止まるのか」
(六祖慧能・宝法壇経)
455 :
横から失礼:2014/11/27(木) 08:04:51.24 ID:JGvLdv/4
>>440 >縁起しないなら何なんですか?
>神智学の宝珠愚者好みの超越世界でも妄想するのか?
超越世界はアタマの中にしかない。
真実は「ありのまま」であるが、
しかし、その「ありのまま」に気づくには「己は肉体である。」という
意識があってもいいのだろうか?
まぁ、実際の話、有ると思ってるだけで無いという部分はあるし、
無いと思ってるというだけで有るという部分もある。
その有るとは体や意識のことで、これは無に等しいと見る見ないは
人によるだろう。
世の問題で経済云々の話というのがあるが、無駄使いの部分というのが
実は非常に大きい。
坊さんとか墓石、仏壇。こういったものは実は一切いらない。
こういう関連は不労所得といってよく、プロレタリアートが汗水たらして
働いた金が回っているといっていい。悪徳商法で詐欺と言っていいだろう。
これは無いのに有ると思っているから、こういう事態が発生する。
世の中というのは、こんなのばっかりだ。
あーもったいなーという部分を改善すれば、それだけ手持ち金というものには
余裕がでてくる。不労所得に金を回さないだけで済むことだ。
釈迦仏教教団というのは食べ物のみ他人から貰っていたという構造だが、
究極的には自給自足で事足りるということを示唆している。
即ち、金は一銭もかからん。
これをそっくり真似はキツイものがあるが、応用というものはできると思う。
例えば、絵画に数十億円とか、は?である。
世の中にはワクチン数百円で子供の命が助かるという話もある。
絵画には興行的な意味というのもあるだろうが、所詮は落書きである。
素晴らしいとか凄いとかいう意味あいというものは、そこに一切無い。
だから、ボランティアとか、そういうことをしろという話ではない。
こういう錯誤的勘違いというものを個々の人間がしなければ、
ワクチン接種料が子供にも回ってくるかもしれないというお話。
例えば、車である。売る側は、お、をつけてお車という。
お車じゃねーよというのが実際だ。
俺自身が車に600万以上払ってきた実績があり、あーもったいなが感想。
個人生活費10万として5年分である。
車は必需品だが明らかに生活費数年分はドブに捨てた勘定になる。
車を買い替える際は一考あれ。
これとは逆発想というものがある。それが原発問題だ。
コストが抑えられればいい。それ自体が錯誤である。
有るものはあくまで体であり、意識だ。
言い換えれば、命あっての物種である。
漏れれば生態系に影響を与えるような危なっかしい物は
無い方がいいに決まっている。推進派は原発横に家を構えて
欲しいものである。
>>436 >せめて「ウパデーシャ・サーハスリー」とか「バガヴァッド・ギーター」 (岩波文庫)ぐらいマトモに読んでから、文句をいいなw
そんなものは不要
無駄な知識は涅槃に導かない
涅槃に理論など無いのだから
>>437 >すべての経は釈尊の直説
そんな事を考えてる奴はお前くらいだろう
だから否定に走る
全ての経は釈尊の「教えたかった事」を受け継いで解説されてるに過ぎない
それを誤読して「釈尊の直説」と言ってるなどと相手を軽賎したがる
誰が直説などと言ってるだろうか
全てお前の勝手な妄想である
463 :
神も仏も名無しさん:2014/11/28(金) 08:16:03.71 ID:Aa+Srrri
>>443>>461>>462 >君は縁の滅尽というものが理解できてない。
>諸々の法(もの・こと)が明らかに成るとき
やはり全身これ「成りすまし」だとしか言いようがないなw
ヒントは既に提示済み(
>>440)。
これでダメなんだから、あきらめたほうがいい。
無門和尚は『逢人且説三分 未可全施一片』(無門関33)という。
アッサジの言葉を聞いて走り出したサリープッタのように(律蔵 大品1)、
鞭影を見て走り出す良馬(無門関32)はここにはいないのだろう。
無門関2とか32なんて、とてもとても無理w
>そんなものは不要
『そんなもの』的外道思考を知らないから、
『そんなもの』に陥っているのだ(
>>430)。
Sn.やSUをみればわかるように、ブッダはヴェーダ聖典や六師外道をすべて学ばれている。
1を知って10を知るどころか、マイナスになるのだから、話にならない。
オワリだ。
縁起の直観ねw
そんなめんどくさいものがあると思う?
以上
無常≒無我≒縁起≒空≒中道≒時空際断
ちょっと、これやってみようか。時空要塞マクロスはどうでもいいとして。
まず、無常。これは現実の現象をいう。常なるものなど何もない。当然だ。
で、無我。これは涅槃をいう。認識分別のない様をいう。或は業の尽きた状態。
で、縁起。これは作用みたいなもんだ。十二支縁起の通り。
で、空。別名虚妄。無でなく、実際でない様をいう。
で、中道。苦行否定が根本。まぁそんな感じ。
この通り、全部違う。イコールでなければニヤーでもない。
これを見て、成り済ましと思うなら別にどうぞ。
まぁ解る人にしか解らんから、どうでもいいっちゃどうでもいい。
467 :
神も仏も名無しさん:2014/11/28(金) 11:32:56.21 ID:ELeVyMfY
>無門和尚は『逢人且説三分 未可全施一片』(無門関33)という。
アッサジの言葉を聞いて走り出したサリープッタのように(律蔵 大品1)、
鞭影を見て走り出す良馬(無門関32)はここにはいないのだろう。
無門関2とか32なんて、とてもとても無理w
また、トンデモ・ハッタリ禅をやりだしたのかww
468 :
神も仏も名無しさん:2014/11/28(金) 15:57:19.49 ID:xc4lPM0y
幸福の科学さいこー
469 :
自民では公明が連立なので憲法改正は無理記憶喪失:2014/11/28(金) 20:18:58.30 ID:ygiVzlVU
自民では公明が連立なので憲法改正は無理記憶喪失
次世代・田母神氏「自公を分離させる」 出馬会見詳報
http://www.sankei.com/politics/news/141128/plt1411280049-n1.html そのために【憲法を改正】し、日本を取り戻すことが必要だし、集団的自衛権の公使を容認することも必要だと考える
「しかし、自公連立政権の中で、公明党はこれら安倍総理がやろうとしていることに基本的にみんな反対だ。 だから安倍首相が頑張っても、
【『≪今の自公連立政権では日本を取り戻すことは無理】』≫
↑ここ重要テストにでます記憶喪失さん分かりましたね?
なのではないかと私は思っている。
したがって、自民党の右側にしっかりと柱を立てて「安倍首相、もっとしっかりやってくれ」という健全野党ができ、
次世代の党が勢力を拡大して自公分離ができて、いわゆる保守の連合が成立するようになって初めて、
日本を取り戻すことができるのではないかと思う」
470 :
神も仏も名無しさん:2014/11/28(金) 21:04:14.40 ID:rcFrR1f8
>>469 【ネトウヨその傾向と対策#300】
憲法改正について法学会では、仮に手続をきちんと踏んでも憲法の
「同一性」を損なうような改正は許されないとする「憲法改正限界
論」が通説となっています。ググってみてください、それでも納得
出来なければ君の大学の教員に訊いてみてください、それでも納得
出来なければ天皇陛下に直接会って訊いてみてください。ok
ちなみに改正不可能とされるものは
・国民主権
・基本的人権の尊重
・平和主義
であるとされています。 ok
471 :
自民では公明が連立なので憲法改正は無理記憶喪失:2014/11/28(金) 21:06:16.22 ID:ygiVzlVU
>>470 じゃ次世代の党が100%間違ってるってわけ?
次世代・田母神氏「自公を分離させる」 出馬会見詳報
http://www.sankei.com/politics/news/141128/plt1411280049-n1.html そのために【憲法を改正】し、日本を取り戻すことが必要だし、集団的自衛権の公使を容認することも必要だと考える
「しかし、自公連立政権の中で、公明党はこれら安倍総理がやろうとしていることに基本的にみんな反対だ。 だから安倍首相が頑張っても、
【『≪今の自公連立政権では日本を取り戻すことは無理】』≫
↑ここ重要テストにでます記憶喪失さん分かりましたね?
なのではないかと私は思っている。
したがって、自民党の右側にしっかりと柱を立てて「安倍首相、もっとしっかりやってくれ」という健全野党ができ、
次世代の党が勢力を拡大して自公分離ができて、いわゆる保守の連合が成立するようになって初めて、
日本を取り戻すことができるのではないかと思う」
>>463 >仏法のゲシュタルトは、言語で示唆するなら、<機能的には縁起、内容的には空>の如くだ。
>ゆえに無常≒無我≒縁起≒空≒中道≒時空際断の如くと、示唆できる。
その理屈は何の役にも立たない
涅槃に全く導かない
成りすましはお前だな
座禅教室で何を学んでんだか知らんが
そんな屁理屈を仏道は同意しない
お前に仏道は無理だな
無駄ではないと思うが、今のままでは無理だ
>>463 >Sn.やSUをみればわかるように、ブッダはヴェーダ聖典や六師外道をすべて学ばれている。
最初は外道を頼ったのだから知っては居てもそれに頼っては居ない
少なくとも、解脱すれば全ての宗教の弱点が仏道では観える様になる
お前にはそれが無いから御託を並べ自己主張に明け暮れる
その主張は涅槃にまったく導かない
閻魔、仏道の畢竟は智慧だが、それは知識や思考ではどうにもならん
お前は自分の知恵に溺れて居るに過ぎない
智慧ではなく「知恵」にだ
だからダメなんだよ
例えば釈尊は、ある外道の師のもとを訪れた時に
師から「修行によって天界の境を得られ、それによって楽を得る」と聞く
その時釈尊は何を考えたかな?
「天界がもし無くなればその楽も無くなる、それでは所詮無上とは言い切れない」
と結論した筈だ
そう言う経緯を経て釈尊が至った無上の境が、今に伝わる仏道の畢竟なんだよ
お前の屁理屈如きで壊れたり揺らいだりする様なものではない
幾らお前が邪心を以って挑んでも「無理」なんだよ
長いことお前を見てきたが、ますますお前はおじゃるに似てきてるな
476 :
晃:2014/11/29(土) 00:09:08.97 ID:toAFEbch
おじゃるは
超強力(東大仏教)吸引力の
スッタニパータに吸引されてしまった
所依の法が変だとおかしくなる
因みに、閻魔が良く好んで書く「仏法のゲシュタルト」
こう書くと格好良く見えるだろうが、何て事はない
早い話が「仏法の大意」を遠回しに言いたいだけで
臨済師が三回引っ叩かれたそれを「俺は知っているのだ」と言いたいだけなのである
だから何だ?って話w
閻魔よ、仏法の大意は言葉/言語に固定して語ったらダメなんだよ
だから黄檗師は語らなかった訳で、これが不立文字教外別伝の極みなんだよ
バカだなぁお前
479 :
晃:2014/11/29(土) 00:33:10.96 ID:toAFEbch
不立文字←これさぁ…
不立文字なら書き込むなっ
しゃべるなっ 文字使うなっ
と言われたら「ぐぬぬ…」ってなる
480 :
晃:2014/11/29(土) 00:34:00.11 ID:toAFEbch
不立文字教外別伝は外道
散々他人を小馬鹿にしてきた自称智者の閻魔は
その類稀なる浅知恵で以ってそろそろ「隻手音声」の
回答を書いてみたらどうだ?
見事正解出来たらお前を認めてやるぞ?
何だかんだ屁理屈並べてノラリクラリ逃げるんだろうがな
スパっと一言だ
お前みたいな自尊心が須弥山より高いバカには絶対にその一言の答えが言えないそうだがな
楽しみだ
482 :
晃:2014/11/29(土) 07:03:18.11 ID:toAFEbch
いうほど公案か?
人生というものは、苦労して、苦労して、苦労して、結果、無い。
隻手音声?そんなものは、端から無い。
484 :
晃:2014/11/29(土) 07:55:27.42 ID:toAFEbch
↑それは糞人生歩んできた
個人的な日記で一般論化するな
有ると思うな、思えば負けよ。
>>484 誰でもだ。死んだ人というのは総じてそんなもんだ。
487 :
晃:2014/11/29(土) 07:59:04.82 ID:toAFEbch
誰がいうんだそれ
いう人が負けてるならスルーして問題ない
488 :
晃:2014/11/29(土) 08:01:13.43 ID:toAFEbch
歳取るほど
格差は広がるばかりってマジ?
489 :
神も仏も名無しさん:2014/11/29(土) 13:21:26.79 ID:pBKBstI5
478 :神も仏も名無しさん:2014/11/29(土) 00:29:54.69 ID:lbxG/t4C
閻魔よ、仏法の大意は言葉/言語に固定して語ったらダメなんだよ
だから黄檗師は語らなかった訳で、これが不立文字教外別伝の極みなんだよ
バカだなぁお前
閻魔のハッタリ禅の虐待よろしく頼むw
>>483 「無い」とは「有る」事と大局に於いて異ならない
それが何故だか判らないなら落第
>>490 異なる。無いとは虚偽、有るとは正解ということ。
そんなこともわからない君が落第云々いうのは、おまぬけな話。
もうちょっと解り易く書いてやろう。
例えば、禅というものは存在しない。
誰かが勝手に始めたもので、禅とはこうだというものが無い。
虚偽として存在があれど、意味が、無い。
公案とは大喜利と説く。
「山田君、座布団全部持ってけ!」
意味が、無い
>>491 教えて欲しい時は「どうか教えてください」と頼めよ
>異なる。無いとは虚偽、有るとは正解ということ。
例えば、ある事物を目で見ようと行為して、対象を見て「見えた」と認識し、それが「有る」と認識し諒解する
逆に、ある事物を目で見ようと行為して、対象を見て「見あたらない」と認識し、それが「無い」と認識し諒解する
お前は仏教どころか哲学自体に才能ないな
>>492 もうちょっと解り易く書いてやろう
思索や判断も認識も「心で思う」事によって成り立ち行為出来る
有は認識であり無も認識である
認識は心に於ける所作に異ならず、有も無も思いの上の判断に他ならない
判断は分別に他ならず、分別は我執より起こらざるを得ない
お解かりかな?
事物の実相としての有無ではなく、人間感覚の有無の方を仏道では問題にする
これが愚人には中々理解出来ない
事物が実際に於いて有ろうが無かろうが、例えばメンヘラならアベコベに考える事もあるし
常人にとっての死苦もうつ病患者には極楽至極と為り得る
感覚などは結局曖昧なもので絶対ではない
それを弁える方法を身に付けるのが仏道であり、故に人間感覚の有無を問題にするのである
ぶっちゃけ、事物の実際における有無はこの場合なんでも良いのである
497 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 08:29:28.31 ID:QgAdO90t
>>495 お前なぁ…
下らないことに意味は無いと言ってるんだよ
座布団もってけの意味わかる?
いいか?虚妄とは認識だ。認識が有る無いというのは全然意味がないということだ。
生きてるんだから、認識はあって当たり前だ。いいか?解る?当たり前。
認識自体はどうでもいいの。
その認識の内容を問うのが、仏道ということよ。
498 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 08:44:32.60 ID:QgAdO90t
言ってることが全く変。
>判断は分別に他ならず、分別は我執より起こらざるを得ない
例えば、うんこしたいと思ったとする。トイレに行こうと判断する。
これは分別であり、我執である。
この論理の、ど・こ・に・問題があるんですか?ということだ。
問題は分別そのものにあるのでなく、分別の内容にあるということだ。
499 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 08:54:46.04 ID:QgAdO90t
毒矢の喩えの話を理解できるまで、読み返せ。
それが仏道というものだ。
>>497 >その認識の内容を問うのが、仏道ということよ。
だから事物の実相としての有無ではなく、人間感覚の有無の方を仏道では問題にすると言っている
>例えば、うんこしたいと思ったとする。トイレに行こうと判断する。
>これは分別であり、我執である。この論理の、ど・こ・に・問題があるんですか?ということだ。
何故トイレに行くのかな?
垂れ流したら不浄極まりないからではないのかな?
その時点で浄/不浄を分別している訳で、釈尊はそれを「不浄」と言っているんだよ
分別が悪い、などとは言っていない
浄/不浄をもたて分ける分別は結局苦楽の元だと教える
この分別が悪くてあの分別は良い、などとも言わない
分別そのものが悪いなどとは一言も言ってない
肝心なのはその一切の分別から解脱の道を探し当てろ、と言う事なんだよ
自尊心と自意識の尊重しか出来ないといつまでも堂々巡りで悟れないよ
>>499 七仏通戒偈で言う「善い事」と「悪い事」が何の事か判るまで
口を出さないほうが恥じかかずにすむよ?
一体何が「善い事」で「正しいおこない」なのかな?
502 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 09:01:49.14 ID:QgAdO90t
>>500 感覚ね。
例えば、ウンコしてスッキリしました。
この感覚の、ど。こ。に。問題があるんですか?ということだ。
応用が全く効かないのか?
トイレに行かず、垂れ流しでは気持ち悪いだろ。
これを苦という。
トイレに行くことを苦を離れるという。
503 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 09:05:15.67 ID:QgAdO90t
>>501 例えば、目の前で子供が川で溺れています。
あなたは、飛び込みませんか?
こういうことを言う。
あなたは素通りしますか?ならばこれを悪という。」
本当に悟りたい・解脱したいならちゃんと座禅して雑念を止めるといい
座禅を解けばまた雑念は起き始めるけど、それでいいんだ
座禅して雑念を止める訓練を繰り返していくと無駄な思念が減ってくる
一度雑念を止めると、暫くは鐘の音の余韻の如くに雑念の収まった状態が続きやすくなる
その状態を利用して、道元師が教えるように「涅槃を解明(証す)」するんだ
涅槃が何の事かがハッキリ分ったらその時、今までの一切の苦悩(無明)が解明される
嘘じゃないからひたすら挑戦してみれ
涅槃は輪廻と異ならない、と龍樹は言う
縁起は涅槃とも輪廻とも異ならない、とは仏の謹言
それがどう言う意味だかがハッキリ分れば解脱だ
>>503 仏が言う善い事とは「涅槃に良く導く事」だよ
悪い事とは「涅槃への道に関係ない事」だよ
道徳的良し悪しは言ってない
仏が教える「善い事」をしていれば心が浄らかになると教えてる
今度はこれだ、「何を以って浄らかなのか」
涅槃が浄らかだと教えてるんだよ
仏は嘘は言ってない
506 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 09:22:17.79 ID:QgAdO90t
>>504 俺は涅槃が何かしってるし、解脱が何かも知っている。
竜樹のそれは臨死体験で、ある意味涅槃で輪廻的なものだが、
それは解脱ではない。本当の涅槃とはギーターにある、
クリシュナの姿のような根源的なものだ。
こちらの涅槃を体験すれば自然と解脱する。
これはジャイナ教のモークシャと全く同じものだ。
508 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 10:17:48.76 ID:vPSZYGfd
>>506 461 :神も仏も名無しさん:2014/11/28(金) 00:33:29.48 ID:q+GlaycA
>>436 >せめて「ウパデーシャ・サーハスリー」とか「バガヴァッド・ギーター」 (岩波文庫)ぐらいマトモに読んでから、文句をいいなw
そんなものは不要
無駄な知識は涅槃に導かない
涅槃に理論など無いのだから
ww
509 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 11:46:29.27 ID:QgAdO90t
>>507 外道というものが存在すると思ってるんだな。
では、内道とは具体的に何?いいか、具体的にだぞ。
これが言えないならば、お前が外道だ。
510 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 11:49:46.81 ID:QgAdO90t
>>508 何が正解、不正解か知らなきゃ涅槃には到達できない。
当たり前のことだ。
毒矢の喩えを100万回読め。それが、仏道だ。
511 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 12:07:04.32 ID:QgAdO90t
人間性の欠如というものは、涅槃に至れないのは当たり前のことだが、
それ以前に不満因子というものを、かなり体内に蓄積していると推察できる。
これは生きているうちから、いいことは何もないという証明でもある。
これを単に残念な人間という。
即ち、苦があるから人間性というものを否定できるのであり、
苦がなければ
>>503なんか言うまでもないような当たり前のことだ。
これができない。それを即ち、我執の塊という。
>>509 仏の教え、これが所謂内道
これ以外に無いがあるのか、愚昧も程ほどにな
>>510 毒矢の例え以前に、お前はそもそも仏の言う善悪とは何かを知らなかったではないか
それ故に何を以って内道と言うのかさえも知らない
そんな偏った知識では毒矢の例えも減った暮れも無く、その真意も分らないんじゃないのか?
>>511 >即ち、苦があるから人間性というものを否定できるのであり、
それも妄想に過ぎない
苦とは存在ではないので、どこにも実在しない
お前は「苦があるから」と妄想しているに過ぎない
お前は苦と我執とを分離して妄想し、涅槃を場所か何かかと勘違いしてる
それも妄想に過ぎない
>>509 >これ以外に無いがあるのか、愚昧も程ほどにな
訂正
これ以外に何があるのか、愚昧も程ほどに
>>510 毒矢の例えをお前が言ったので、それに因んで
あれこれ思索するのはやめよう、釈尊もいくつかの外道を行ってみて結論には至れなかった
だから、あれこれ思索するのを止め、それまでの一切の行や教えを止めて
静かに菩提樹下にて坐り、黙りこくったのである
物理的に言うなら、座禅以外の人的行為を止め、座禅に徹する以外の一切の思念を止めたのである
そうして彼岸に至って解脱できた訳である
例えばこのスレの外道様達は、外道一筋な訳ではなく良く分んないから見栄え的に選んでる程度であり
あわよくば仏門を標榜する者どもに論戦を挑んで、論破してやろうと画策してるに過ぎない
論破の目的も、単に自分に理解出来得る言葉で仏教を語ってくれない事からの腹いせ程度でしかない
彼らも一度は真似事程度に座禅位はした筈であり、それでも確信に至れなかったのは他でも無い
「座禅してみたけど何も起こらないし何も分らないじゃないか」
と言う実感に気付けなかったので拗れてしまったのである
仏はそれが最大の答えだと気付けたんだよ
勿論、仏道修行完成者は軒並み全員それに至ることは言うまでも無い
例えば、仏教に帰依するとは釈尊の教えに沿ってみると看做して構わない
現代的な大乗教の教団的な解釈だと「信」が重要で疑っては成らないとさえ言う
しかし、釈尊の教えはもっと現実的なのであり、その精神は「来たって、これを見よ」と
直ぐ様その答えを拝めるのである
そこに行い以外の原則や規定は無く、例え信じきって行っても、疑って行っても
同じ結果を拝めるのが釈尊の教えなのである
信も疑も思いでしか無く、思いは我執の賜物に過ぎない
問題定義としてそれを問う事はあっても、それ自体が答えなのでも無い
だから、釈尊の「来たって、これを見よ」に信疑は問わないのである
来たってこれを見よ、の一例として
「座禅してみたけど何も起こらないし何も分らないじゃないか」
は般若心経にもある真の安楽と符合する
座禅に徹してみるだけで、般若心経の真髄を観た事となる
理解はまた別の話ではあるが
人前でうんこすることを不潔であると思うことが不浄なの?
絶対違うと思うけどもしそうなら釈迦はばか(そんなわけねえよ)
人を不快にすることを平気な人を釈迦は諭すと思うよ
大乗の信は疑いの心さえ仏様からの頂き物として
大事に考えていくモノだよ
517 :
神も仏も名無しさん:2014/12/01(月) 23:42:25.08 ID:AcUlBMio
>>471 >
>>470 > じゃ次世代の党が100%間違ってるってわけ?
はい、彼らのような輩を「反体制派」といいます。
>>516 浄/不浄を知って分別する事が不浄なんだよ
真に浄らかなら浄不浄の概念すらない
>>516 快/不快を知って分別するから不快なんだよ
真に快いなら快不快の分別概念すらない
信/不信を知って分別するから不信なんだよ
真に信たるなら信不信の分別概念すらない
これらの二項対立なる分別は全て思いに於いて起こる
思いは我執に依って思念される
我執は好きなものしか選ばない、よって自己に自在たれば良く
自在ならぬものは全て苦と感じる
520 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 08:40:11.35 ID:QzlUbcHd
苦が存在しないねw確かに俺には存在しない。
しかし、お前には存在する。実際の物質の話だ。
それを有るという。
521 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 08:44:47.13 ID:QzlUbcHd
善悪ねw
悪とは我による働きをいう。
善とは、それと対になるものだ。
明確な規定というものは存在しない。
それぞれの存在に対する働きをいう。
解った?
522 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 08:46:30.08 ID:QzlUbcHd
つまり、実際に存在するから、妄想でない。
これは、お前なんかにゃ解らん。
そもそも、お前に存在してないんだからな。
つまり、お前にとっては妄想だ。
523 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 09:46:09.87 ID:QzlUbcHd
つまり俺の言は全て悪と対になる事実というのが根本だ。
つまり、この事実に反する言というのは、全て悪からなる。
だから、イエスの、
あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。
それ以上に出ることは、悪から来るのである。
という教えというのがある。
覚者は多くいたし、今も多くいるだろうが、イエス、釈迦、ヴァルダマーナ、サーリプッタ
この4人は絶対のガチだ。例えば、イエスは仏だ。
524 :
516:2014/12/02(火) 16:41:19.79 ID:Wfcjy3wK
>>518 真に清らかなもの、快いもの、はひつようですか?
認識を追い詰めるためのツールであって生活にはいらないような気が
また、知恵無きものが分らないものを考えていくことが信だと思うのです
真なる信などというものはあり得ないと思うのです
>>524 >真に清らかなもの、快いもの、はひつようですか?
必要だから君はその質問をせざるを得なかったんだよ
君が認識として要不要を意識せずとも、行為として真偽を問うからには上記は必須となる
>真なる信などというものはあり得ないと思うのです
と言う事は「真なる信などというものはあり得る」事と異ならない事になる
信は存在ではないので有る訳ではない、事物としては存在しない
それをわざわざ「無い」と妄言を吐くなら、もともと有り得ないのだから「有る」と嘯いても同じこととなる
お解かりだろうか
我々はお互いに妄言しか言えず、妄想しか思えないのである
有るとか無いとか言い張るのも所詮妄想妄言に過ぎないのである
維摩経と言う経典で、維摩居士が「仏法の究極とは何か」を尋ねられて沈黙で返したのも
理由はそう言うことなのである
526 :
516:2014/12/02(火) 18:48:50.24 ID:Wfcjy3wK
言い方を変えますね
真でなくても、清らかに思えるものが好きです
真でなくても、快いものが好きです
信ずるという行為は存在すると思います
妄想とは妄想でしょうか?(バカな質問ですねw)
妄想妄言とわかるほどの知恵が我々にはあるんでしょうか?
>>526 >妄想妄言とわかるほどの知恵が我々にはあるんでしょうか?
言い方を変えられる知恵
好きだと思う妄想
そもそも
>信ずるという行為は存在すると思います
と言う思い
そしてこの返信
全て妄想の産物
528 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 22:49:42.80 ID:D58Wa3s+
.
皆さん、ホント笑うしかないんですが、
成りすまし化け狐にだまされないようにしませうw
>維摩居士が「仏法の究極とは何か」を尋ねられて沈黙で返したのも
この平気で書いた問題設定自体がバカの骨頂なんだから、オハナシになりませ〜〜〜んw
これを突き詰めれば龍樹 中論の批判的検討になるのだが、バカはそこまで至りついていないwww
インチキ誤達者が未達者を誤道に導くのは犯罪的諸行です!
論外。
529 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 23:20:09.28 ID:QzlUbcHd
究極の仏法ね
苦の断滅だ。的自体は割りと広い。
沈黙がどーたらならば、釈迦は仏法を解かない。
毒矢の喩えとは、経典にあるヤツだぞ。
毒矢がどーたらこーたらでなく、
毒矢を抜くのがあくまで目的ということだ。
当たり前の話。この苦は世間苦でなく、個人苦だ。
530 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 23:25:09.85 ID:D58Wa3s+
>>529 >毒矢
お前に刺さっている『毒矢』を先ず抜いてから、御託を抜かせw
531 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 23:32:17.36 ID:QzlUbcHd
例えば、無分別、無所有というのは苦の断滅のためのツールであり、
目的ではない。当たり前の話だ。妄想がどーたらの話もこれに順ずる。
532 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 23:33:45.93 ID:QzlUbcHd
>>530 とっくに抜いている。お前が抜けてないだけという話。
>>528 お前は何で
>皆さん
と同意・共感を集おうとするんだ?
お前はお前の話す言葉、お前の書く言葉、お前の思い一切が
まるで妄想ではないと思ってる如きだな
言葉は誰の発したものでもお前の好きな「一切外妄想」を免れない
思いも、直覚以外の思念思考はお前の大好きな「一切外妄想」を免れない
故に、維摩の一黙、雷の如しな訳だよ
534 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 23:50:48.30 ID:QzlUbcHd
取り敢えず、苦の断滅というものを妄想と捉えるならば
釈迦の説いたショートカット仏法は初手から破綻する。
苦とは実際に有るもの、存在するものだ。
解脱しないと、これは絶対に解らない部分だから、
この部分というのは信じるしかないだろう。
もし、信じないなら仏教とか時間の無駄になるだけだから
やめた方がいい。
>>534 楽とは何かを知りなさい
その上で、苦とは何かを極めなさい
話はそれからですよ
536 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 23:56:41.07 ID:QzlUbcHd
>>535 違う。楽というものは抜きだ。苦にしか目的はない。
だ・か・ら、苦が解かれる。お前は何も解ってないという証拠だ。
537 :
神も仏も名無しさん:2014/12/02(火) 23:59:31.38 ID:QzlUbcHd
× 解かれる ○ 説かれる
>>536 >違う。楽というものは抜きだ。苦にしか目的はない。
理由は?
539 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 00:09:33.77 ID:SHGHBBms
>>538 苦というものが実際に存在するからだ。
真の楽というものは苦が尽きなきゃ現れない。
即ち、楽とは存在しないものということだ。
>>539 >苦というものが実際に存在するからだ。
どこに?
541 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 00:23:25.22 ID:SHGHBBms
>>540 それについては不明。瞑想時に見るもので実際の位置は解らない。
予測では視床下部付近。
>>541 ほう、つまり閻魔曰くの「インチキ」と言う事になるな
解脱者の筈なのに苦の何たるかが説明出来ないんじゃダメだろ
苦も解明出来て無いのに何を解脱したと言えるのか
543 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 00:29:09.07 ID:SHGHBBms
>>542 苦とは物質で何かではない。苦を我ともいう。
それは物質についた単に名だ。
苦の解明ね。毒矢の喩えを1000万回読め。
>>543 >苦を我ともいう。
ほう、では存在しないんだな?
仏は無我を教えた訳でw
545 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 00:33:50.87 ID:SHGHBBms
業=苦だ。
釈迦仏法のショートカット法の意味はここにある。
我というのは、即ち考えない方がいいかもしれない。
苦は物質だというのは初耳です。
凝り固まりになって苦になるという意味ですかね。
其の凝り固まりの基が「我」という解釈しましたが。
>>545 >業=苦だ。
ほう、つまり業=我ともなるのかw
では業も存在しない訳だ
仏は無我を教えた訳だしなww
大丈夫か?
全然辻褄が合ってないなお前のぶっぽーはww
548 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 00:36:29.13 ID:SHGHBBms
>>544 我は存在する。これが尽きた状態が無我だ。
我と苦は同じものだ。文章読める?
>>548 釈尊は衆生は四顛倒に陥っていると最初に正したんだが?
四顛倒とは「常楽我浄」をこの世界の常だと夢見ている誤りの事だ
その誤りに対して釈尊が正した教えが「無常 苦 無我 不浄」だ
我が有ると今考えてるそれこそが誤りなんだよ
確かに苦を感じるとき、必ず我がありますね。
551 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 00:50:12.31 ID:SHGHBBms
>>549 正解は、無常 苦 我 不浄だ。逆は常、楽、無我、淨だ。
>>550 それを妄想と言う訳だよ
妄想ではないと言い切れる証拠がどこにも無い
妄想と妄想ではないとするものとの境もハッキリしない
仏が教える一切とは、「六根」に受けたる六境よりの情報のみで
そこに分別思念を加えたら全て妄想となる
閻魔の言う「一切外妄想」はこれに当たる
>>551 三法印すら守れないものを外道と言わざるを得ない
554 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 00:52:03.81 ID:SHGHBBms
>>554 三法印すら知らないのは如何なものか
このスレとか2ちゃんの大半の連中は「我は有る」と言いたがる
知らないで言うんだから罪は無いし、言うだけなら何も問題には成らない
しかし、無我を認められないなら苦滅など以ての外、と言わざるを得ない
556 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 00:59:27.10 ID:SHGHBBms
「我は有る」と言いたがる人数が多いほど、釈尊が放った四顛倒の正しさが証明される
>>556 お前は
>>543で「苦=我」だと言っている
三法印に反してるから関係ないでは済まされない
559 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 01:04:08.20 ID:SHGHBBms
ID:SHGHBBms氏の言いたいことは、
我をなくさない限り、苦はなくならないということだと解釈しました。
ID:+Zuo7ENV氏の言わんとしていることも理解できます。
世俗諦と勝義諦の違いではないでしょうか?
562 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 01:13:07.63 ID:sbDA4B80
法然によると人は永遠に生死の旅をしていくらしい
二種廻向
>>560 >世俗諦と勝義諦の違いではないでしょうか?
世俗諦と勝義諦とには諦に違いなど無い
世俗諦は解法そのものしか示せず、勝義諦は解そのものだからそもそも示せない
世俗諦には必ず勝義諦が包含され、勝義諦の包含無き世俗諦は為し得ない
例えば
示せる人の姿そのものが世俗諦なのであり
生きてる事そのものが勝義諦と例えられる
勝義諦たる生き様をそっくり見せてみろと言われても
見せられるのは全て姿形の世俗諦でしか為し得ない
564 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 01:22:33.42 ID:SHGHBBms
俺は実質を言っている。妄想は言わん。
我は存在する。存在するが虚構ということだ。だから消滅する。
消滅したら無我だ。即ち、消滅しないうちは無我ではない。
これは論理でも妄想でもなく、実際、実質の話だ。
>>560 逆。苦をなくさない限り、我はなくならないということだ。
我を無くそうとするより、苦を無くそうとした方が遥かに簡単、ということだ。
我というのは抵抗勢力だからだ。まぁ、あなた方のことだ。
>>564 >>逆。苦をなくさない限り、我はなくならないということだ。
ご指摘、ありがとうございます。
>>564 言ってる事が滅茶苦茶だな
が、楽しければそれはそれで日々是好日
>>565 そのなるほどがいつまで持続できるか楽しみですよ
妙法蓮華経方便品では、真実を聞く前に増上慢の徒が
一斉に立ち去っています
自分の意に反する真実を聞くに堪えなかったと言う訳です
真実は先入観を軽く裏切るものです
それに堪えられない人を増上慢と言います
568 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 01:42:36.58 ID:SHGHBBms
>>567 それが我だ。すぐ話をすり変えようとする。
そこに苦があるからだ。
滅茶苦茶は偽情報に対して滅茶苦茶ということだろ。
それは滅茶苦茶ではない。
569 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 01:52:56.08 ID:SHGHBBms
妙法蓮華経方便品ね。そんなものは捨て置け。それが仏法だ。
ダニアの話の応用もできんのか。
つまりダニアの話は真実の情報、妙法蓮華経方便品は偽情報だ。
>>569 では、スッタニパータは偽ではないと言う証拠は?
また、法華経が偽だと言う証拠は?
それらの真偽を問う為の根拠はどこに有りますか?
571 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 02:12:40.85 ID:SHGHBBms
>>570 証拠は俺w
捨て置け、捨て置け、離れろ、拘るな、執着するな、無所有、云々あるだろ。
こっちが真実。逆は偽。
まぁ信じた末に何か有る。或は何も無い。どちらを取るかは君の自由だ。
>>571 ほう、お前は仏だと抜かすか
おめでたいなw
573 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 02:18:13.12 ID:TFQZKib0
信じる者にとって
それが真実さ
クリスチャンにイエスが生き返った証拠をだせと同じ
574 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 02:19:01.26 ID:SHGHBBms
仏とは覚者だ。覚者とは人間だ。
どこが、どうおめでたい?
>>574 何を以って仏と称せるか否か
これも明らかに出来ずに自らを仏と言えばそれが詐称
>>574 もう一つ
仏ならその縁起も明らかにせねばならない
師拳は有り得ないのだからな
いいか?
我々仏道修行者は「南無仏、南無法、南無僧」と三宝に帰依し奉る
だから「私は仏だ」と言われれば、それが真ならその人は師と成り得る訳だ
お前から見れば相手は命賭けて来る訳であり
滅多な詐称は命取りの行為だぞ?
578 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 02:41:46.30 ID:SHGHBBms
>>575 解脱。これは解脱した本人でないと自覚できない。他覚は存在しない。
言説からの推論しかできない。
>>576 縁起ね。これは智慧のことだ。智慧がどーたら、縁起がどーたらはどうでもいい、
苦を消滅させろ。俺が言いたいのはこれだけだ。あとは超どうでもいい話。
>>577 俺は嘘を言ってないから全然平気。
お前は地獄に落ちる心配をした方がいい。
580 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 02:51:37.65 ID:SHGHBBms
>>579 不明。別次元、別世界、考え方はいろいろ有る。魂の上昇、下降も関係してくるのは確か。
死後にそれは訪れるは共通認識。
旧約とか新約のマタイとかスッタニパータの共通部分は真実と捉えて構わん。
ID:SHGHBBmsはTKさんですか?
583 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 07:59:34.97 ID:SHGHBBms
>>582 空想でなく、旧約、新約、仏教経典にもちゃんと書いてある。
別に信じる信じないはお前の自由。
ただ、お前が今のままなら間違いなく100%地獄に落ちる。
仏とは何度でもいうが覚者のことだ。
故にモーゼもイエスも老子もソクラテスも仏だ。
584 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 08:21:04.58 ID:SHGHBBms
何度でも言うが、俺のは空想でも妄想でもない。
頭は一切関係がない。
お前のはどこまでいっても頭が作りだす空想か妄想だ。
585 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 08:51:47.27 ID:OFpB94d0
自称解脱者が我執むき出しだなw
その心情たるや愚か!
586 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 08:53:02.16 ID:SHGHBBms
ダンテスダイジっぽい覚者ですね。
588 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 09:21:51.05 ID:SHGHBBms
釈迦直系だが?
老師とかキリストの話が出てきたので。。
590 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 09:39:45.38 ID:kqFXrGii
591 :
しんでれら:2014/12/03(水) 09:45:15.94 ID:3ibJZB3f
極道の真髄は道の極みですよね!
ヤクザとは全く異なります。
君もイエスや釈迦様と同じ道、通路(産道)を通りましたか?
592 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 10:25:59.73 ID:KvSQXIKa
>>583 元々は閻魔大王、牛頭、馬頭などの古代インドの民間信仰である死後の世界の思想が、中国に伝播して道教などと混交して、仏教伝来の際に日本に伝えられた。
そのため元来インド仏教には無かった閻魔大王を頂点とする官僚制度などが付け加えられた。その後、浄土思想の隆盛とともに地獄思想は広まり、民間信仰として定着した。
大乗仏教が発展すると、地獄は死後に赴く世界と見なされるようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%8D%84_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29 だそうだよ
釈尊直系を言うなら地獄は説けないな
釈尊の教えの傾向は「悪い事したら罰がある」ではなく
「悪い中からどの様にして這い出すか」なのであり
入道以前を最悪の状況と看做して修行に入る
故に、釈尊自体は罰だの地獄行きだのを説いていない
そもそも説く必要が無かったからな
593 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 10:32:59.00 ID:OFpB94d0
>>583 >故にモーゼもイエスも老子もソクラテスも仏だ。
また成りすましがボロを出す。
『一切(相応部35-23)外』戯論主義の外道ばかりだw
仏法覚者ではない。
ちなみに、彼らに<神>とか<イデア>の存在の経験的証明(相応部35-70)を問えばいい。
仏法には無我にて候
594 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 10:41:52.37 ID:izWbjoZL
595 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 10:53:14.78 ID:uZ0NR+RW
>>593 >ちなみに、彼らに<神>とか<イデア>の存在の経験的証明(相応部35-70)を問えばいい。
それに何の意味があるのかな?
自語によって破滅するのは発言者なのであり
疑義があるなら質問すればよいだけで、意味無く敢えて問う必要は無い
仏法者が神やイデアの証明にムキになる方がちょっと心配かと思われる
596 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 11:17:15.73 ID:uZ0NR+RW
閻魔よ、成りすまし成り済ましとお前は言うが
お前の通う座禅セミナーに行けば成り済ましでは無くなるのかな?
そうであるなら、人類救済の為にも是非、そのセミナーを開示すべきかと思われる
個人的には、宗派宗門を嫌うお前が座禅セミナーとか、臍で茶が沸くネタに感じるがな
ハッタリ禅の極みはやはりセミナーなのかのう
597 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 11:22:03.64 ID:3ibJZB3f
591>>
訂正
イエスや釈迦様と共に同様の道
598 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 11:35:08.79 ID:OFpB94d0
>>595 >それに何の意味があるのかな?
再度、仏法には無我にて候(蓮如)
>座禅セミナー
釜ヶ崎道場には寡聞にして坐禅セミナーはない。
そんなものに通ったこともない。通う必要もない。
ままごと遊びは無用
釜ヶ崎には、閻魔大王どころか、もっと凄い阿修羅氏がいる。
酔いどれ菩薩も一杯いる。
素晴らしい道場だ。
599 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 11:39:05.23 ID:OFpB94d0
600 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 11:41:43.06 ID:+l6MEk42
>>598 あいりん地区で何やってんの?日雇い労働?
601 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 11:44:58.75 ID:+l6MEk42
>>598 >仏法には無我にて候
なら無分別だし、それは如来の境地だから一切問えないでしょ
矛盾してるね君
602 :
神も仏も名無しさん:2014/12/03(水) 12:07:06.32 ID:+l6MEk42
閻魔、独善は良くないんだよ、それは仏道の真逆に値する
釜ヶ崎でどんな偉業をしててもだ、それが世界の全てではない
お前は良く「○○を透過」と連呼していたが、お前自身が仏法を透過出来て居ない
何故なら
ここが、このスレ自体もが釜ヶ崎であると気付けて居ないからだ
馬祖道一師に倣うなら、自分が位置する「いま、ここ」が全て道場であり
それは三界全てに亘る
お前はお前の心すら浄土に出来て居ない
だからダメなんだよ
臨済将軍は同門の出家僧に厳しかったのであり、在家に激は飛ばして居ない
お前の激には慈しみが無い、ただの真似事に過ぎないからだ
そんなんだからハッタリ禅のままなのさ
603 :
しんでれら:2014/12/03(水) 12:30:52.41 ID:HLEnK8qX
佐々木小次郎はなぜ宮本武蔵に負けたの?
仏教や聖書にその答えがあると言う人もいます
605 :
516:2014/12/03(水) 18:53:46.83 ID:kyN+HsMA
>>527 妄想しているにしてもその行為は行為としてあるんでは
そして妄想は否定されるものですか?
妄想としてあるわしは
妄想を自覚してそれでも妄想するしかないんでは
わしのような愚か者には真実ではわしを真実へと導けないのでは?
方便、化仏からしか向かえないのでは?
釜ヶ崎かあ。。
道民にとっては、未知の世界だわ。
>>605 思い全てが妄想、と言うのは常人の常なのであり
それが悪い・行けないと言っている訳では無いんだよ
中々、自分の考えや思いが実は妄想だなんて普通は理解出来ないし
ちゃんと考えてる筈なのに故無く非難されている、と思ってしまう
仏は一切が苦の原因だと教えている訳で
「君たちの考えは全て妄想なのだ」と言われただけでも非難されてると感じ苦を生ずる
つまり、如何にして苦を遠離するか、と思い巡らせた時点で既に苦を生じている
ここで気付かないだろうか、妄想は苦を生じるのである
妄想が悪い訳でも行けない訳でもないけど、苦を生じさせてしまうのである
苦は縁起して生じる訳で、対象があって主体が状況に応じて苦を生じる
対象だけあっても主体がなければ苦は起こらないのである、無関心なんだからね
対象に主体が関心をもって状況に応じて苦を生じる
つまり、ぶっちゃけて言うなら、妄想が苦を起こすのであり、苦とは妄想の一つだと言える訳
だから俺は現代的な言い回しとして妄想を問題にしてる訳
一切戯論が滅する目出度き涅槃に一切外妄想は入れないんだよ
苦を何とかしたいなら、出来るだけ妄想を止めるべきって事になる
その第一が、雑念をしっかり止める、となるのさ
608 :
神も仏も名無しさん:2014/12/04(木) 11:11:49.68 ID:Ef4OW/HJ
相変わらず成りすましペンキ屋は誤説を撒き散らしている。
レスごとにボロが出る。
>なら無分別だし、それは如来の境地だから一切問えないでしょ
「一切」法無我は如理作意分別だ。
縁起だから無常であり、無常だから無我であり、無我だから時空際断の如き空であり、
その様相は実に即ち中道にある。
成りすましには無理だ。
>あいりん地区で何やってんの?日雇い労働?
ノーコメント
>お前自身が仏法を透過出来て居ない
だから成りすましはペンキ屋だと言われる。
自分が勝手に塗った色を批判してオナニーしているのはマンガだな。
コメントするにも値せず。
>自分の考えや思いが実は妄想だなんて
これ自体が外道妄想だ。
仏法を直覚できていない。
一切如理作意分別は妄想ではない。
成りすましには無理だ。
成りすましペンキ屋は誤説を撒き散らすな!
609 :
神も仏も名無しさん:2014/12/04(木) 15:21:32.94 ID:ev+7he2Y
方法論ばかり言って、全く結果というものを知らない雑魚ども
お前は地獄に必ず落ちる
610 :
神も仏も名無しさん:2014/12/04(木) 15:27:21.10 ID:ev+7he2Y
そもそも迷い無き者はダラダラ文章を書かない。
スパッと結論を出す。
経典なども引き合いに出さない。
必要ないからだ。
そうでないくせに、偽りを語る者は必然的に地獄に落ちる。
611 :
神も仏も名無しさん:2014/12/04(木) 15:29:43.42 ID:ev+7he2Y
我の無い者が神の代弁をしてやろう。
悔い改めない限り、お前は必ず地獄に落とす!
612 :
516:2014/12/04(木) 18:31:50.30 ID:9v9eL0Mo
妄想について考えた
人間は多面的であり、時間的であり、多層的なんだと思うんだけど
その一面、一時、一層をしか見れてないだけで、たしかにそれそのものを
見ることはできないけど妄想というほどではないと思う
自分勝手にデフォルメするにしてもそれなりの真実を(偏った相だとしても)
表してるんだと思うのです
(ゴッホの絵とかw)
夜中に目が覚めた時に、目をつぶって静かにしていると
いろんなものが見えてくるよ。
リアルでは見ることはない不思議な流動的な画像が。
画家もそういうの見てるんじゃないかな?
>>608 >「一切」法無我は如理作意分別だ。
大間違い、分別したら如理作意にならない
現実在りのままが如実知見であり、それを直覚した状態を如理作意って言うんだよ
で、そう言う理屈を説明しているこの現状も既に一切外妄想
つまり
>縁起だから無常であり、無常だから無我であり、無我だから時空際断の如き空であり、
>その様相は実に即ち中道にある。
とお前が説明しているそれも一切外妄想なのであり、如理作意には当たらない
全然ダメだな閻魔、進歩してない
いいか閻魔?
如理作意ってのは、六根の内の眼耳鼻舌身で検知された情報が
意根で映像・音声・匂い・味・接触それぞれであると認識されたその状態を言うのであって
だから云々、と分別思考された時点で如理作意ではなくなる
しかも、耳で聞こえたとか目に見えたとか、耳だの目だのと識別された時点でも分別なので
それらの分類すらもせず、受けたそのままを意根が受ける、それが如理作意と言うんだよ
如実知見=如理作意でなければ、お前の言う分別が起こってそれは如理作意に成らない
道元師はそれをちゃんと教えてるだろ?
聞こえるままに、香るままに、見えるままに、何も意識しない
これ以外に如理作意するのは外道以外に有り得ないと言わざるを得ないな
仏が教える如理とは何か、果たして理の如きとは一体何なのか
何を以って仏の言う理と言うのか
仏が理を教える限りに於いては、般若心経で言う「真の安楽」以外に無い
真の安楽が分っていれば仏が言う如理作意にも迷う訳が無い
如実知見とは三界で起こっている事そのままの様相の事を言う
如理作意とはその様相を我が身が受け取った内観そのものを言う
だから如実知見=如理作意なのであり、これらは一体不二なのである
文字や言葉、例えば閻魔の説明や俺の戯言ですらも何故妄想なのか
我々が目に文字を見る、それは映像なのでありそれ以外の何ものでもない
その映像から一度、意味を汲み取ろう・読み取ろうと「作意」した時点で
それは全部妄想となり、その汲み取ろうとした作意は一切外の妄想になってしまう
この世界には一つも「意味」と呼べるものは本来存在し無いのであり
それでも意味を付けてしまうのが人の「思い=作意」となる
庭前の柏樹子に意味など無いのである
勿論、祖師西来意も同じである
あるのは意味ではなく、あくまでも「縁起」に過ぎない
縁起に人の思いや考えなど有り得ないのである
閻魔やその他が仏道で失敗している理由は
意味を探しているからに他ならない
意味への拘りを捨てれば到彼岸は間違いないと言える
意味への拘り(意味を知ろうとする作用)=行な
つまり、行滅するが故に・・・ 無明が滅するんだよ
無明とは「わからない事」そのものの事に他ならず、煩悩の根本であり
人は分らないから分ろうと意味を探して迷いの行を起こす
無明によりて行起こり、と言うのもそう言うことなのさ
エンマ大王ってのは旧約聖書に予言されている
ユダ族のメシアであるエンマヌエルのことだぜ
このエンマヌエルは処女から産まれると予言されている
だからキリスト教徒はイエスキリストをエンマヌエルと
結びつけて考える。
日本人ならここまで言えばバカでもわかるだろ?
イエスキリストこそ最後の審判
つまり地獄の沙汰(サタン)を下す
エンマヌエル(閻魔大王)だって。
仏教における檀家とはダン族の家ということ
つまりもともと仏教徒はイスラエルの民であったわけである
ゆえに北イスラエル派の彼らは南ユダ族のメシアである
エンマヌエルつまり閻魔大王に裁かれることにビビって
本気で最後の審判から逃げ出すために修行を死ぬ気でしていた
わけである。
さて残念なことにもうタイムリミットである
いまから修行しても助からんよ
622 :
神も仏も名無しさん:2014/12/05(金) 10:14:48.12 ID:q9pGI7av
>>611 >我の無い者が神の代弁をしてやろう。
>悔い改めない限り、お前は必ず地獄に落とす!
おやおや、成りすましが外道である本性(一切外妄想主義)を丸出しにしたねえw
俺様は、閻魔大王なんだぞ!(爆笑
『比丘たちよ。もしある人が質問されて、矛盾して答え、他の方に話題をそらし、
不機嫌になって敵意を示し不信をあらわにするならば、
このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。』(増支部3-67-4)
>>608は一片の変更の必要もない。
623 :
神も仏も名無しさん:2014/12/05(金) 10:18:55.82 ID:q9pGI7av
神という一切外妄想主義の代弁者にも慈悲でサービスしてやろうw
仏教議論スレッド96
901 :神も仏も名無しさん:2014/04/22(火) 09:57:20.68 ID:yC/ZDNY/
閻魔とほら吹き如来とは、どう違うのか?
★要するにほら吹き如来は,二項相対分別相の『如理作意』の未透過領域でしかなく(⇒
>>798←
>>806で批判)、
非相対無分別相の『般若智』にまで至りついていない(⇒
>>805)。
ほら吹き如来は、二項相対対象化思考の如理作意をもって、「〜を」という対象化前提の『悟り』と誤解しているのである。
未達者である。それで『悟った』気分でいるのだから、噴飯モノの裸の王様であるw
ほら吹き如来が『悟りなる事の“意味”を知りました』(
>>798)などという中部2(一切煩悩経)は
http://d.hatena.ne.jp/pali/20100118/p1の引き写しだが(引用するなら引用先を明示せよ!)、
上記訳の『如理作意(▼根源▼からの作意)と非理作意(▼根源▼からでない作意)』のカッコ書き注訳(根源)はいかにも誤解を招く悪い訳だ。
かつてから閻魔もこの訳には???だった。
仏法に根源なるものはありえないからである。
>>806のように素直に『yoniso (ヨーニソ)如“理” manasikara(マナシカーラ)作“意”』と受け止めればいいのだ。
“理”=相対の分別論理、理論 、 “意”=相対分別の「想い」、思考。
このように★如理作意は、あくまで二項相対分別相の領域についての教え【一切門】だ。
【般若門】ではない。
>>622 >比丘たちよ。もしある人が質問されて、矛盾して答え、他の方に話題をそらし、
>不機嫌になって敵意を示し不信をあらわにするならば、
>このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。(増支部3-67-4)
熨斗紙付けてお前にお返しするよ
他の方に話題をそらし、不機嫌になって敵意を露にしている
それはお前だろ、第一 ID:ev+7he2Yは俺じゃない
怒り心頭血迷って区別も付かんかw
>>623 それらの意味付けも一切外妄想に他ならない
>仏法に根源なるものはありえないからである
仏法に無いのは根源ではない、本質だ、その否定も仮に過ぎない
根源も本質も本性も完全否定したなら涅槃も否定することになる
それは破仏法と言わざるを得ない
正しく理に叶った思考であれば、新しい煩悩は現れないし、現れた煩悩は消えていく
何を以って仏の教える正しい理たるか、証涅槃以外に何が有ろうか
その理に於いては意に分別など有り得ないんだよ、涅槃には戯論も妄想も有り得ないんだからな
閻魔よ、釈尊と言えども生前は普通に人間だったんだよ
人間である以上、俺らとは何も変わらない、故に俺ら同様
発する言葉も思いもその意味も全て漏れなく妄想だったんだよ
人間は妄想を交わさねばコミュニケーションが成り立たない
その仏の言葉たる妄想の中の無上の妄想=理が涅槃なんだよ
仏は矛盾を用いて無矛盾を教えるとは良く聞く言葉だ
この世界に於いて、人の思いや言葉以外に矛盾など無い
何故矛盾か、如実知見に「意味」を探し付けたがるから矛盾なんだよ
俺はそれを妄想だと言っている
この世界は須らく夢幻泡影の如し、この言葉に嘘は無かったと言うだけの話さ
思いや言葉に二つの相がある(矛盾?)ならそれは良くできたモノなんじゃないかと
わしも「如し」であり断定でない所にかんじいります
釈尊は仏様なんだが、仏は釈尊だけではない
山川草木一切衆生悉有仏性であり森羅万象全てが仏の当体だからだ
動物以外の仏性は俺らに直接何も教えちゃくれない
人間以外の動物も、直接言葉では何も教えちゃくれない
同じ様に、釈迦牟尼仏も本当は何も教えてくれてない、それは龍樹尊者の言ってる通り
では、仏教は誰が何の目的で残し伝えられてきたのか
その答えは法華経如来寿量品の中にモロ書きされている
仏は涅槃に住しているので八不の如く何も語らないし何も妄想しない
仏道は仏の示した道であるが、語ったのは仏ではないんだよ、じゃ誰か
仏道を行うその人が語り残し続けてくれたんだよ
その証拠たる仏意の言葉がこれだ
「我本行菩薩道(我れもと、菩薩の道を行じ)」
仏に成る為の行為たる仏道を行うのは仏ではない
戯論自在妄想自在方便自在の菩薩が仏道を教え残し伝えてきたんだよ
釈尊も説教する時は菩薩道だったのさ
仏教板発祥の在家とバカラスを責任もって引き取ってもらえませんか?
キリスト教議論スレがオカルト板に堕されて困るw
629 :
516:2014/12/05(金) 22:26:41.35 ID:a+Iu8hG6
>>613 壁の染みや山を、見えてるとおりに描けたらなあwと
よくおもいます(笑)
630 :
記憶喪失した男:2014/12/06(土) 20:53:39.68 ID:5RaT25je
国立遺伝学研究所・研究集会
DNAから見た日本列島人の地域的多様性を生み出した要因をさぐる
http://www.saitou-naruya-laboratory.org/meetings/NIG_meeting_Dec21&22_0014.html 日時:14年12月20日(土)午後 および 12月21日(日)終日
場所:遺伝研(国立遺伝学研究所)講堂
使用言語:日本語
参加費:無料
<講演予定者(五十音順)、講演タイトル、講演予定日>
井ノ上逸朗(遺伝研 人類遺伝研究部門 教授) 講演タイトル:アトピー性皮膚炎感受性遺伝子であるフィラグリンの比較ゲノムと自然選択の可能性 (12/21)
植田信太郎(東京大学 理学系研究科 教授) 講演タイトル:古代DNA情報を如何に抽出するか (12/20)
片山一道(京都大学 理学部 名誉教授) 講演タイトル:身体史観でたどる日本人の多様性と地域性 (12/20)
鬼頭宏(上智大学経済学部 教授) 講演タイトル:歴史人口学からみた地域性:世帯構造を中心に (12/20)
木部暢子(国立国語研究所 教授) 講演タイトル:琉球語の親族名称・呼称 (12/21)
木村亮介(琉球大学 医学部 准教授) 講演タイトル:ゲノムから琉球列島の先史と集団構造を考える (12/21)
斎藤成也(遺伝研 集団遺伝研究部門 教授) 講演タイトル:DNAデータから提唱するヤマト人の内なる二重構造モデル (12/20)
佐藤洋一郎(京都産業大学 教授) 講演タイトル:日本列島および周辺地域のイネの開花時期の多様性 (12/20)
篠田謙一(国立科学博物館 人類研究部 部長) 講演タイトル:日本列島集団の形成史を考察する視点 (12/20)
新谷尚紀(國學院大学 文学部 教授) 講演タイトル:未定 (12/21)
高橋篤(国立循環器病研究センター研究所) 講演タイトル:一塩基多型(SNPs) からみる日本人集団構造 (12/20)
徳永勝士(東京大学 医学系研究科 教授) 講演タイトル:疾患感受性・薬剤応答性遺伝子の探索:日本人の研究からわかったこと (12/21)
春成秀爾(国立歴史民俗博物館 名誉教授) 講演タイトル:抜歯風習からみた人の移動 (12/21)
ホイットマン・ジョン(国立国語研究所 教授) 講演タイトル:未定 (12/20)
宮本一夫(九州大学 人文科学研究院 教授) 講演タイトル:古日本語と古韓国語に関する考古学的解釈 (12/21)
631 :
記憶喪失した男:2014/12/06(土) 20:54:32.21 ID:5RaT25je
本研究集会の目的
近年急速に進展しつつあるヒトゲノム内のDNA個体差の研究は、
人類集団の古い遺伝子交流の層を掘り起こしつつあります。
日本列島への古い移住の層(旧石器時代から縄文時代にかけてと考えられる)と
新しい移住の層(弥生時代以降と考えられる)の違いは、
斎藤成也・徳永勝士・尾本惠市らが2012年に発表した
ヤポネシア3集団(アイヌ人、本土人、琉球人)のDNA多型を解析した論文で明らかにしました。
また、東北地方人の独自性は理化学研究所が2008年に発表した論文で示されています。
さらに、現在斎藤の研究室では出雲人のDNA解析を進めていますが、意外な結果を得ています。
ヤポネシア人自身が残してきた最古の記録である記紀神話と関連する可能性が予想されます。
そこで、ヤポネシアを中心としたヒトゲノムの遺伝的多様性を調べている研究者と、
ヤポネシア人のさまざまな側面(言語学、考古学、民俗学、人口学、古代史学など)の
歴史を研究している専門家が一同に会して、これらDNA解析の結果をおおいに議論することにより、
神話まで射程に含めた「DNA歴史学」の確立をめざします。
>さらに、現在斎藤の研究室では出雲人のDNA解析を進めていますが、意外な結果を得ています。
>神話まで射程に含めた「DNA歴史学」の確立をめざします。
632 :
横から失礼:2014/12/06(土) 21:23:44.45 ID:cvhF5nMs
>>618 そう。
物事はすでに初めから解決済みであり、解決していないことなど最初から何もない。
解決していないと思い込むのは人間の分別に原因があり、
分別がなければ煩悩や苦しみも最初から存在しない。
なぜなら世の中の真実は「ありのままがありのまましてるだけ」だからだ。
ありのままの物事にあーだこーだ意味を付け、物事をややこしくしているのは他でもない
分別しようとする心である。
「分別以前」には苦しみは初めから存在しない。
633 :
横から失礼:2014/12/06(土) 21:33:25.83 ID:cvhF5nMs
ゆえに「ありのまま」である真実を悟った者の生き方、
思考はかなりシンプルなのである。悟った者は哲学的議論など好まない。
答えはただただ「ありのまま」だからだ。
「ありのまま」には議論すべき物事、
論破すべき相手などは最初から存在していないのである。
>>621 面白い話しだな。
そういう話をオカルト板では求めてるんだよ。
そういう話はオカルト板では、中の上以上だな。
むこうでそういう話をたくさん聞きたいものだ。
>>633 ありのままに反論できたら、スゴイだろうな。
>>632,633 「釈迦に説法」はご法度
分った事を分ってるものに語って言い聞かせようとするのは愚の骨頂である
相手が「分っている」と思ってそれをするならそれは単なる確認となり
お前は優位に立ちたかった野望が脆くも崩れ去る
また、相手が「分っていない」と思って知ったかぶったのなら言うまでも無い
お前自身が何も分かってない事の証左となる
賢人なら張り合う必要など無い事を自ら吐露してるのだから
示しを付けるは自明のりであろう
>>632,633
>「分別以前」には苦しみは初めから存在しない。
これを言った以上、お前は俺の書き込みに対して憤ったレスは許されない事になる
自分の意見に対して不如意故の憤りなど苦が無いなら有り得ないのだからなw
637 :
横から失礼:2014/12/07(日) 06:35:54.51 ID:o00j/Ofs
>>635 >お前は優位に立ちたかった野望が脆くも崩れ去る
すまん、何を言ってるのかわからないw
ただ「ありのまま」しか存在し得ないことに同意したつもりなんだが。
優位に立ちたいとかそういうものではないから。
>また、相手が「分っていない」と思って知ったかぶったのなら言うまでも無い
ありのままくらい誰でもわかるシンプルなものだろう。
ただ、「超越世界」とか「超能力」などの「ありのまま以上」を求め出すゆえに
苦しみが生まれるということだろう。
638 :
横から失礼:2014/12/07(日) 06:57:45.72 ID:o00j/Ofs
例えば、両手を「パンッ!」と強く鳴らした時、
そのもの自体はただの「パンッ!」という音以外の何物でもないのだが、
その音に対し人間の心は「ウルサイ」だのなんだの分別を加えたがる。
その分別こそ苦の原因であり、それ以前のただそのものである音には
苦しみなど付着していなかった。
そういう、とてもシンプルな苦の発生のメカニズムである。
簡単に言えば、苦しいと思うから苦しいのである。
じゃあナイフでおまえの目を刺してえぐりとってやろうか?
ありのままに指されて目玉をえぐりとられてみろよ
痛いとか言ったらおまえはただの凡夫な
中国版でカットされたサンスクリット版般若心経の後述
>ガテ ガテ パラガテ パラサンガテ ボディ スヴァハ。
>シャリプトラよ、このように、深淵なる悟りに到る叡智は実践すべきである。
>
>そのとき、仏陀は瞑想から目覚めて立ち上がられ、聖なる観世音にして菩薩に言われました。
>よく語った。完璧なり。高いカーストの息子らよ、まさにかくの如し。
>高貴なる息子らよ、まさにかくの如く、深遠なる悟りに到る叡智は実践すべきなり。
>如来ら、阿羅漢らの心も喜びに満ちるであろう。
>こう仏陀が言われたとき、祝福されるべきシャリプトラ、聖なる観音菩薩、全世界の神々、人々、阿修羅ら、乾闥婆らも大歓喜しました。
これ完全に今でいう公開チャネリングだし、高次から降りてきたからなのか観音に対しても上から目線、
王子なのに国を滅ぼし。弟子には殺人犯も。
こりゃ今だったらネットで大叩きだわ。
いやこれ、仏陀をdisっているわけではなく、現代チャネラーを仏教観で叩いてる人らへの皮肉ね。
イエスの時代もそうだったけど亡くなった預言者は権威化されても今生きてる人には完全性を求めて厳しいのよね。
> 波羅蜜
布施波羅蜜 - 檀那(だんな、ダーナ)は、分け与えること。財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である
持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、シーラ)は、戒律を守ること
忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと
精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、ヴィーリヤ)は、努力すること
禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること
智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧
前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される
方便波羅蜜 - 烏波野(ウパーヤ、うはや、日本語訳:方便)は、巧みな手段で衆生を教導し、益すること
六波羅蜜の行によって集めたる善根を有情に廻向せしめて彼と共に無上菩提を求むる廻向方便善巧、一切有情を済度する抜済方便善巧の2種類を修行する
願波羅蜜 - 波羅尼陀那(プラニダーナ、はらにだな、日本語訳:願)は
彼岸すなわち仏の理想世界に到達せんと立願すること。今日ではこれらすべての修行を完成せんと願う希望をいう。求菩提願・利他楽顔の2つを修行する
力波羅蜜 - 波羅(バラ、はら、日本語訳:力)は
一義に一切の異論及び諸魔衆の壊すことなきをいい、また一義に十力の行のうち、思擇力・修習力の2つを修行する
智波羅蜜 - 智(ジュニャーナ、日本語訳:智)は
万法の実相を如実に了知する智慧は生死の此岸を渡りて、涅槃の彼岸に到る船筏の如く、受用法楽智・成熟有情智の2つを修行する
>>631 待っております(^^ゞ
ありのままに苦を生じて
ありのままに誓願をたてる
のがありのままなんでは?
無分別に智はあるんですか
ただの虚無では
645 :
644:2014/12/07(日) 22:35:58.92 ID:dBiIQMJn
無分別智はAIが実現してしまうと思う
でも願いを含まない智はなんなんでしょうか?
うつくしい詩句でといた釈迦
せかいをうつくしいといった釈迦
専門用語を知らないと非難するのは仏道ですか?
>>645 >無分別智はAIが実現してしまうと思う
AIが無分別に至れたらそれは「ノーインデクシング」であり何も語らず何も機能し無くなる
AIが完全に実現出来るなら無分別を悟るのも不可能ではない
>うつくしい詩句でといた釈迦
>せかいをうつくしいといった釈迦
美しい詩句は妄想をふんだんに使っただけ
世界は何て美しいか、と「言った」のも「感じた」のも妄想
凡そ人の感性は須らく妄想に過ぎず、人以外にこの妄想は存在しない
だから世界は美しいのである
例えば、人以外にこの世界の一部や全部に対して愚痴を言うものがいるだろう
人以外のこの世界に愚痴など存在しないのにだ
汚しているのはいつも人間の「思い」なのだ
お前の釈尊への先入観も汚れに過ぎず、それは妄想に過ぎないのである
>>644 >無分別に智はあるんですか
>ただの虚無では
智とは存在しない、何故なら存在ではないからである
虚無は己の思いに描く勝手な妄想に過ぎない
無は否定出来ないのに「虚しい」と思えてしまう
それが妄想なのである
黄檗三打、と言う有名な公案があります
興味ある人はググれば直ぐ見つかるので読んでみたら良いかと思います
仏法の大意は何ですか?と質問したら引っ叩かれると言うアレです
臨済師は都合三回、黄檗師に質問して三回引っ叩かれます
黄檗師の引っ叩いた行為を我々に当てはめると
座禅する事が仏法の大意の質問となり、数息観あたりを実行するのが引っ叩く事に相当します
あとは実践してみるだけです
何も変わらないじゃないか、何も分らないじゃないか
とお嘆きの人は般若門のドまん前に突っ立ってると言えます
あとは受け入れ入るだけです
649 :
神も仏も名無しさん:2014/12/08(月) 07:28:57.12 ID:GPtmvn7N
ゴエンカ師による教えは、もちろん仏教の教義に違いありませんが、
ヴィパッサナー瞑想テクニックの伝授という位置づけなので、
宗教の壁を超えてキリスト教、ヒンズー教、イスラム教等の信者にも
広く門戸を開放しています。
ヴィパッサナー10日間コースのメニューは、
4時に起床して、4時半から21時までの間に約10時間瞑想を行います。
食事は、菜食で1日2回です。また、10日間を通して、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「聖なる沈黙」を守らなければなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本ヴィパッサナー協会
http://www.jp.dhamma.org/Dhamma-Bhanu-Open-House.1489.0.html?&L=12
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/603/1/rd-bn-ky%20031%20020.pdf 訂正→ 今生においては財物のによってとり囲んで、善をなさしめることが利益である
_ _ _
> 専門用語を知らないと非難するのは仏道ですか?
専門用語が、わからないと、経典・論書・解説書の意味が、わからないと思うけど?
バラモン(ヒンドゥー)
根本仏典
般若経
中論
唯識(瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき))
密教
↑専門用語が、わからなくて理解できますか?
_ _ _
ダルマについてのブッダの教えは
世俗諦(せぞくたい)と勝義諦(しょうぎたい)に基づいている(中論:24-8)
世俗諦(せぞくたい)の段階としての理解することなしに、勝義諦(しょうぎたい)は説き得ない
勝義諦(しょうぎたい)の段階としての理解することなしに、解脱(涅槃)は達成され得ない(中論:24-10)
>>650 世俗諦に段階などない
同じく、勝義諦にも段階など無い
世俗諦には必ず勝義が含まれ、勝義諦はあらゆる世俗義諦を包摂する
それぞれは同軸時空上に同時に位置する故に段階など無いのである
>>650 もう一つ、
仏教を仏教として捉えてる輩には仏道は所詮「他者から教わるもの」として見てしまう
それはそれで間違いではないものの、そんなものは極一部の事柄しか分らない稚拙な学問に成り得る
釈尊は専門用語を誰から教わって仏道を説き示したので有ろうか?
釈尊が他者から教わったものは往々にして外道の用語しか教わっていなかった筈であり
それでは仏道は説けないと言う矛盾に気付かないだろうか
仏道に専門用語など本来存在せず
そもそもこの世界の全てのもの・ことの用語や名称など
須らく仮設に過ぎないのである
それを「決まっている」と強弁するなら外道を出でる事は出来ず
当然それでは涅槃にも至れないのである
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。
究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。(中論24-10)
世俗表現に依存せねば究極の真理は説けないとは、必ず世俗表現を理解できていなければ成らない事では無い
依存するとは必ず用いる訳ではなく、用いない事も依存に当たるのである
勝義諦は中身が無い故に言葉に出来ないのであり、世俗諦を以ってそれは説き得る、とは限らない
究極に真理を尋ねられて維摩居士は何と答えたであろうか
654 :
644:2014/12/08(月) 17:13:49.32 ID:Z/KjWy42
>>647 いくらも理解できないけどorz
わしは妄想を愛してるようです
穢れのままにわしはうつくしさに惹かれて生きていきます
生物はすべて快と不快を感じていると思います
愚痴は自分の世界に快を増やしたい生物の本質であり
生きていくヒントだと思うのです
黄檗三打
解りませんでしたw
解ろうとして読み込むのも違う気がして逃げました(藁)
三打ではすまないとおもうんですが
この世界にひっぱたかれたり頭をなでられたりして
いこうとおもいます
m(__)m
>>654 そんなヘタレでは仏教に首を突っ込む意味が無い
その立ち居地のままでは自分流の自意識を自己中心で観ていたいと我侭を言ってるだけに過ぎない
その趣向は何ら非難される言われは勿論無いが、それでは何の為に仏教に首を突っ込むのか
甚だ疑問しか残らない
そして
>わしは妄想を愛してるようです
>穢れのままにわしはうつくしさに惹かれて生きていきます
それは全く戯れのままではなく、愛でも無く美しくも無いのである
この世界では甘えて生きるものには容赦無く残酷である
と言うのを身で知っていると思われるが如何か
その艱難を打破出来得る唯一無二の方法が仏道だと
身で鋭く感じ取ったから首を突っ込んだのでは無かろうか
理解出来ないのは自己中心的な自意識が邪魔をしているからで
仏はそれを「増上慢」と戒めている
>>654 >この世界にひっぱたかれたり頭をなでられたりして
>いこうとおもいます
この世界の真に慈悲に満ちた容赦の無さは
そんな甘っちょろいものではない
快/不快は、感じてくれるだけまだマシなのであり
普通は無関心となる
言われてるうちが花なんだと早く気付くべきかと苦言を呈しておく
657 :
神も仏も名無しさん:2014/12/08(月) 23:59:43.98 ID:ltpEaM1V
ほんと、サルのオナニーだなw
658 :
横から失礼:2014/12/09(火) 06:28:14.40 ID:UenHuMU1
>ほんと、サルのオナニーだなw
651-656がサルのオナニーだというのには同意。
悟りにそのような論理はむしろ邪魔になる。
仏法を聞き、行ずるのみなのだから。
659 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2014/12/09(火) 07:27:20.51 ID:HgaVdkkf
バカカルトスレでも「サルのオナニー」って繰り返してる基地外信者がいるけど、流行ってんの?(笑)
(^。^)そういえば、朝鮮人もよくそんな事言うらしいね。(笑)
仏像盗む位だからなぁw
661 :
神も仏も名無しさん:2014/12/09(火) 10:56:36.45 ID:G5//NIVb
>>651>>653 >勝義諦(中論24-8)
>世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。
究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。(中論24-10)
この二つの偈は、龍樹の「非理作意」(つまり失敗偈)なんだが、
サルのオナニー程度では無理だ。
662 :
神も仏も名無しさん:2014/12/09(火) 17:50:51.71 ID:hvOGbHjV
663 :
神も仏も名無しさん:2014/12/09(火) 17:54:55.99 ID:hvOGbHjV
閻魔って日本人じゃなかったんだな
道理で通じない訳だ
>>661 一切煩悩経15-2
比丘たちよ、非理作意者(根源より作意しない者)には、未だ生じていない諸々の煩悩が生じ、
生起した諸々の煩悩は増大します。
しかし、実に、如理作意者(根源より作意する者)には、未だ生じていない諸々の煩悩は生じず、
生起した諸々の煩悩は断ぜられます。
これを踏まえて
会話や伝書や身振り手振り(世俗の表現)に依存しないでは、「維摩の一黙」を説くことはできない。
「維摩の一黙」が意味不明(究極の真理に到達しない)ならば、「無分別」を理解(体得)することはできない。(中論24-10)
閻魔は涅槃が何かに到達出来て無い、だから批判に走る
閻魔は如理に於ける「理」が何のことか分かってない、だから嫉妬する
閻魔は悟りを得たくて仕方ないゲス野郎に過ぎない
しかも自力で得られて居ないヘタレ野郎に過ぎない
涅槃は場所ではないので、涅槃へ到達と言ってもそこへ行くと言う訳ではない
我々は常に涅槃の中に居て、そこから一歩も外へ踏み出す事も踏み出した事もない
しかし、涅槃は一切の戯論妄想をも許されないので、涅槃を念じている限りは到達出来ない
涅槃は理解するしかなく、現実なのだが手に取ることも出来ない
手に取れないのに既に居て、既に居るのに遥か彼方の如くなのである
遥か彼方の如くなのに手中に常にある、それが涅槃である
身近こそが遥か彼方の如き事を凡夫は中々理解出来ない
故に、縁無き衆生は度し難く、人である限り度し難いのである
涅槃は輪廻と異ならず、輪廻は縁起と異ならない
つまり、涅槃も縁起しているのであり、輪廻しているのである
閻魔には無理
因みに涅槃は四徳そのものなので勘違いされぬ様に
人は人に於いて妄想戯論を離れられないから四顛倒なのであり
四顛倒故に仏は衆生に「無常苦無我不浄」を知れと正されたのである
しかし、宇宙全体そのままは、人の思いの如何に因らず常に既に涅槃なのである
それが仏の教える四徳なのであり、所謂「常楽我浄」なのである
常楽我浄はそのまま涅槃なのである
668 :
644:2014/12/09(火) 19:05:56.26 ID:QMIIwl8y
>>656 気遣いもうしわけないです
確かに残酷だし切ないですね
そしてわしは、あまったれたまま
ここに立って伏し目がちに辺りを見渡し
おそるおそる歩いていこうかと思ってます
予測されてるとおり現実社会でのわしは
無視されるかあざ笑われるような存在です
それでもわしは自分の感覚をだいじにしつつ
そのくせ仏法をちょこっと参考にしたりして
ここにとどまろうかなwとか思ってます
669 :
横から失礼:2014/12/09(火) 19:07:29.24 ID:UenHuMU1
涅槃はゼロでありゼロは無限も意味する。
つまり「私」という活動が究極的にゼロになった地点であり、
どこかに探しに行かなくてもすでにあったと。
670 :
横から失礼:2014/12/09(火) 19:12:11.35 ID:UenHuMU1
そして世界には「私」の介在する余地など最初から無く、
ただ縁起のみがある。
「ゼロ」を悟ったとき、「私」が消え世界をすべて受け入れる。
そのとき苦は消滅している。
苦とは「私」が世界と分離し生じるからだ。
元々「私」と世界は一体であるのに。
>>668 ちょこっとと言わず、大いに活用して自由にしたら良いかと思う
道元師でも他の導師でも言ってるが、仏道は行いそれ自体が到達でもあるとさえ言う
自分の行いを遮って仏道の所作をねじ込むのだから言わずもがななのである
日常生活から見るなら、仏道修行の各所作は非日常的とも言える
俺の戯言に直せば、日常は妄想なので
妄想生活を涅槃道への所作で遮って正して進むのだから悪くなる訳が無いのである
そして君は留まる必要も場所も無いのである
どこに居ても「いま・ここ」な訳で常に同行二人であり続けるのだからね
>>669 涅槃が分らねば悟れない
涅槃はゼロではない
「私」なるものもゼロになどならない
既にあれども、どこにもない
>>670 >「ゼロ」を悟ったとき、
も妄想を出でない
>「私」が消え世界をすべて受け入れる。
私なるものも消えない、最初から無いのに消え様が無い
>元々「私」と世界は一体であるのに。
であれば、私なるものが無いのだから世界も実在し無い事になる
ではお前は誰なのか?
無いのは実在なる「私」なのであり、世界は実在しているのである
「私」なるものは実在しないが、自己は確かにある
だから思えるのだし書き込めるのである
「私」なるものは実在しないので消し様も無いのである
673 :
横から失礼:2014/12/09(火) 19:46:15.75 ID:UenHuMU1
>>672 ここでの「私」は世界の活動と分離して自己が存在すると思い込む意識という意味ね。
実は自己は世界の活動そのものであるのに、
あたかも世界から独立して自分は存在すると思い込むから、
思い通りにならないという苦しみが発生する。
674 :
横から失礼:2014/12/09(火) 19:54:54.43 ID:UenHuMU1
>「私」なるものは実在しないが、自己は確かにある
>だから思えるのだし書き込めるのである
悟っても喜怒哀楽や体の働きは当然ながら存在する。
しかし、悟るとそれらの活動もありのままの公の世界の現象としての活動であると受け入れるため、
それらに対し執著や苦しみを生むことは無い。
675 :
横から失礼:2014/12/09(火) 20:19:52.04 ID:UenHuMU1
>仏道は行いそれ自体が到達でもあるとさえ言う
仏道はそれ自体、非思量で行うものだから、
その時点であるがまま、いまここという「ゼロ」を正受している。
ゆえに到達であると。
>>673-675 では仏が言う涅槃とは具体的にどう言う事かな?
これを分らずして悟り云々言うならただの知ったかぶりに過ぎんぞ?
お主はまだ分かって無いんじゃなかったかな
八万法蔵と言われる仏の謹言も、結局は己身の苦の解決に帰結する
苦を遠離したりするには煩悩を滅尽せねば成り立たない
煩悩を滅尽するには、その根本たる己身の無明を解明せねば煩悩滅尽には至れない
無明の解明とは、即ち涅槃の解明の事と異ならない
つまり、仏たる悟りや解脱とは、無明の我が身に於ける解明=涅槃の我が身に於ける証明に他ならないのである
本当に悟りたいなら、来る日も来る日も涅槃とは何かと我が身に引き当てて探せばいい
釈尊の時はその涅槃すら分からず、煩悩の根本が無明と言う事すら確信無いままの
イノベーターだった故に大変だったのであると推察できる
我々は恵まれている事を感謝して、大いに涅槃を現じてみればいい
因みに、解脱とは涅槃を解明できたその時その瞬間からなのだが
解脱の暁には経典の通り、三明も明らかになる
所謂三明とは
宿命通・天眼通・漏尽通
の三つである
通とは通力の事であるが、別に超能力等の事では無い
それらが解明できる智慧が備わると言う事である
一般的には三明の示す各内容は永遠の謎等と思われている事である
故に、それが分かるとなれば、口にすればたちまち例外無く狂人扱いなのは言うまでも無い
見方を変えれば有難く無いこれらは、解脱に於いて必須の智慧なのであり
熨斗紙を付けて丁重にお返しする事も出来ない
これらが明らかになるが故に、八万法蔵悉くは嘘偽りが無かったと分かるのである
これが解脱に対するレビューとなる
679 :
横から失礼:2014/12/10(水) 04:03:41.66 ID:bABuuFtW
>>676 涅槃とは観念的な「いまここ」ではない真の「いまここ」であり、
何もない、空っぽである。そして空っぽすら無い。しかし全てがあると言っていい。
なぜそうなるのか?まず、なぜ空っぽなのか、それは、認識が及ばないからだ。
認識が生まれてしまった時点でそれは過去のものとなり「いまここ」とはならない。
涅槃とは認識の根源であるため、根源が根源自体を認識することは出来ず、
ゆえに何もない、空っぽである。
そして涅槃は究極の根源「いまここ」であるゆえに実は
「私」のいる世界そのものが涅槃の現れである。
>>679 その理屈からどうやって天眼通・宿命通に繋げるんだ?
>>679 まずまずだな。
で、あなたは輪廻転生をどう思う?
人の死後については?
たま〜に、空の解釈は合っていても、
現象的な世界での、輪廻とか、死後の世界を否定するやからがいる。
空ゆえに無いのだ、じゃなくて、そもそも現象的にも存在しないと言い張る。
あなたはどっちだ?
>>681 いや、全然だがな
矛盾だらけだと気付けない時点で無理だろ
それと
>死後の世界
これはダメだ
自分が死んでも世界が無くなる訳じゃないので死後の世界などと言う言い回しは
自己中心的な見解に過ぎない
>>679 >認識が及ばないからだ。
その考えは捨てた方がいいな
及ぶ及ばないではない、認識自体が妄想に過ぎず
思いは全て妄想で、仏はそれを戯論だと教えたんだから
及ぶ及ばないではないんだよ
涅槃を己身に引き当てて分かってないものに解脱など有り得ないのである
解脱してないなら三明も明らかではない、故に無明も不明のままなのである
それを解脱だと言う事は出来ない
仏道に於いて畢竟では輪廻を否定しない
しかし、転生には同意しない
想いは妄想、これもう戯論。
真と妄想を区別するのが識別作用と言う想いだから。
循環論法。
>>679 センスあるが最後だけダウト。
その私が判断する、記述するから過去に成り下がる。
>>685 ○○だから、などと言う中学生のような主張も不要
お前は戯論とは何かを分かってないから理屈を付けてしまうのである
涅槃に持ち込めない一切のものが戯論であり妄想なのである
それが分からないからこそのそのお前の御託なのである
>>686 お前も思いがあるから、になっとるな。
涅槃に持ち込もうというのも当然思いだわな。
思いがいけないという思い。
小学生にも見破られるお粗末さ。
本当に悟りたいのなら、同意や賛同を乞うな
認めてもらおうなどと妄想しては成らない
もし他者をして賛意を表したいなら黙ればいいのである
黙して語らない事が最高の賛意となる
愚か者にはそれが分からないのである
>>687 馬鹿だな、仏・如来は語らないのだから
今思い、今語る俺は仏でも如来でもないんだよ
仏や如来は身分や姿形ではない
故に俺を貶したところで仏や涅槃や悟りを貶したことには成らないのだよ
俺の書いてるのもお前のそれ同様、戯論妄想に過ぎないんだからな
>>689 何いってんだ?
おとすも何もてめえが駄目だといっとろうが。
仏教のブのじもないてめえな。
>>690 言葉が既にダメだな
何故憤るのか
悟りたいならその起伏の激しい感情を先ず自制せねばダメだろう
文字文化であるこの掲示板で、敢えて暴言を吐く労力に乾杯したい
>>692 つまり、俺とお前は立ち居地が同じなのだ、と豪語したい訳だね?
そんなんだからダメなんだろうに
相手を否定したがってるのに、立ち居地は同じだ、お前は偉そうにするなと
その拘りが全てをダメにしてる事に早く気づければ良いな
まだ当分無理そうだがw
>>692 もう一つ、
>たかが言葉だけで他人の感情まで妄想しちまう
たかが言葉と軽んずる事無かれ
お前はその言葉と言う妄想無しに如何なる自己主張をも適わないのだから
相当重要なのだと肝に命じた方が良い
仏も言葉を軽んずる事は無かったんだよ
695 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 06:49:21.35 ID:nW1km5ya
>>693 言ってる側から自分でやってりゃ世話ねえな
>>694 高々妄想の指摘にお釈迦様まで持ち出しての自己弁護
おそれいるな
696 :
横から失礼:2014/12/10(水) 06:57:48.03 ID:bABuuFtW
さっき投稿したと思ったけど投稿されてなかったようだからもう一度。
>>681 >たま〜に、空の解釈は合っていても、
>現象的な世界での、輪廻とか、死後の世界を否定するやからがいる。
現象的な意味合いでの輪廻は当然存在するよ。
過去の聖者方の中にもそれを否定する人は一人もいない。
そしてその輪廻はなぜ起こるか、それは世界と分離して「個」が存在すると思い込み、
「個」を形成しようとする「根源的無知」があるからだ。
それを仏教では無明と言う。
そのあると思い込んでいる「個」に関連づけられて全ての苦しみは発生する。
勝義諦と世俗諦を瞬時に直感的に理解できるかどうか。
頭で考えて、理解できる人ならこのスレにもおられますね。
二諦に拘ってる者が居るが、拘ってる限りは二諦は分からないし
二諦が分からない以上、涅槃が分からない事になる
勝義諦はこれこれこうだ、それは世俗諦だ、と
そんなところで迷ってるものは、まるで石ころの気持ちが理解出来てしまう狂人の如しなのである
>>696 >そしてその輪廻はなぜ起こるか、それは世界と分離して「個」が存在すると思い込み、
それ自体が思い込みに過ぎず、勝手に拵えた妄想に過ぎない
輪廻はなぜ起こるか→麻の目方が三斤(庭前の柏樹子でも可)
根源的無知が無明なのか?
個を形成しようとするから無明なのか?
仏道の見解ではそれを「不一不異」と結論するからどちらでも正しくないな
700 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 11:29:33.65 ID:4rmJmfgT
>輪廻はなぜ起こるか→麻の目方が三斤(庭前の柏樹子でも可)
なんだ、そのヘンテコな知ったかぶり爆笑禅語録使用はwww
オナニーが気持ちいのかwww?
>>700 その先入観を排せないものに仏道の何が分かるのか甚だ疑問を禁じえない
このスレには「眼横鼻直」の名言に、「身体を横たえれば眼直鼻横だ」などと言う爆笑ヘンテコとんち馬鹿も居る
無明とは無明であることが分からない事だよ
無明を突き止められたらそれが涅槃と言う事
つまり逆に言うなら、涅槃が分からないから無明なのである
涅槃を知ったかすると怒られちゃうから、せめて誰も知らないだろう無明で
知ったかさせてもらおう、などと言う姑息な魂胆は通用しないのである
生死即涅槃は厳格なのであり
それが厳格なるが故に煩悩即菩提も厳格なのである
この二つは縁起と空の如く、一つの事柄をそれぞれ別の視点で言ってるに過ぎない
つまりは無明と涅槃も同じく不二と言えるのである
704 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 13:22:54.59 ID:ytrl4JZl
>>703 >無明
十二支縁起論で起発点(根源)と位置付けられている(『生』以前の)『無明』の存在を
経験的に証明(相応部35-23)してください。
>>704 >十二支縁起論で起発点(根源)と位置付けられている(『生』以前の)『無明』の存在を
先ず、無明は存在ではない
そして、覚えてるか否かに依らず問わず、お前はいつからがお前か
学識的知識に於いて言うならば、精子がお前か?卵子がお前か?
その精子も卵子も両親が摂取した養分より作られた訳だが、その何れがお前だ?
その観点で言うならば、お前はいつ生まれたと言えるのか
それが分からないから無明なのだよ
お前は無明を克服できずに未だに知ったかぶってるに過ぎない
706 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 14:07:13.29 ID:ytrl4JZl
>>665 中論18-7『心の境地(対象)が滅するときには、言語の対象も滅する。
その法相は不生不滅(の如く)であり、じつにニルヴァーナの如くである。』(閻魔 訳)
>涅槃が何か
還滅相『心(無我)と心の作用(慶安寂静)』(相応部35-23)
>如理に於ける「理」
間接縁起の法「理」=(一切)時空因果関係(相応部35-23)、その知覚を如実知見という。
>悟り
心の境地(対象)が滅するいわゆる悟りなるものは非有非無の如し
その般若智直覚を(直接)縁起の現観という。
>自力で得られて居ない
「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」(金剛般若経18)
時空一切は、般若智で無意味・無分別・無実体・空の如くゆえ、
自力、他力を問わず、得べくもなく、執着すべくもなく、識り得べくもない。
ゆえに、仏法不可得。
空苦集滅道 涅槃寂静
合掌
合掌
707 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 14:11:42.95 ID:ytrl4JZl
>>705 十二支縁起論 <無明〜生>を経験主義的(相応部35-23・70)に証明せよ。
>>706 >中論18-7『心の境地(対象)が滅するときには、言語の対象も滅する。
精子や卵子に言語も対象と言う観念も無い、そもそも心なる妄想も両者には最初から有り得ない
>その法相は不生不滅(の如く)であり、じつにニルヴァーナの如くである。』(閻魔 迷訳)
物理的に精子は作られ卵子も作られたに過ぎず、誰の思惑もなくただ、庭前の柏樹子の如くと異ならない
>還滅相『心(無我)と心の作用(慶安寂静)』(相応部35-23)
無我自身に作用など無い、有ると決めるのは妄想に過ぎない
妄想がそれを言うならその限りではない
>間接縁起の法「理」=(一切)時空因果関係(相応部35-23)、その知覚を如実知見という。
如実知見に分別は無い、この無いは非有非無の如し
よって、如理作意にも分別は無い、分別したら如理に当たらず
>心の境地(対象)が滅するいわゆる悟りなるものは非有非無の如し
心の境地は滅しない、何故なら心こそが妄想に過ぎないからである
般若はそのまま智なのであり、般若智は分別に過ぎない、智慧が智慧を観るとはこれ如何に
>「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」(金剛般若経18)
現在有体過末無体を今は議論して居ない
戯論に逃げるべからず
>>707 お前は俺の弟子ではない
他家の箸の上げ下ろしを如何する必要はない
分からないから教えてくれ、というなら吝かではない
710 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 14:29:49.82 ID:ytrl4JZl
>>708 >最初から有り得ない
相対分別判断でしかない。非如理作意。
>物理的に精子は作られ卵子も作られたに過ぎず
相対分別判断でしかない。如理作意。
>無我自身に作用など無い、有ると決めるのは妄想に過ぎない
還滅相。 最初からボタンを掛け間違っている。
>如実知見に分別は無い、
分別そのものだ。分別なくして世俗相では存在はありえない。
>心の境地は滅しない、何故なら心こそが妄想に過ぎないからである
分別読解力に欠陥がある。
>戯論
勝義は戯論ではない。
>>710 その屁理屈を果たして釈尊は悟っただろうか?
お前は大事なものを見逃してるんだよ
712 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 14:33:57.15 ID:ytrl4JZl
>>709 仏教「教典」は『他家』らしい。
逃げとして下手糞だw
十二因縁がおぼつかないものに仏道の何が分かるのか
甚だ疑問である
閻魔は未だに輪廻がわからず、生・老死と続く十二因縁をオカルトだと断じ続けている
発想が貧困ゆえに仕方ないのだろう
十二因縁は無明によりてと続くが、ぶっちゃけて言うなら
十一部+無明なのであり、無明にその他が含まれていると見れるのである
つまり、無明以外も全部迷いから起こる更なる迷いなのであり
生・老死も迷いに過ぎないので、無明が滅すれば生・老死の迷いも結果的には滅する
と分析的に悟る手法に過ぎない
と閻魔は未だに気付けないのである
気の毒だと思う
714 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 14:40:20.29 ID:ytrl4JZl
>>711 >その屁理屈を果たして釈尊は悟っただろうか?
やはり、【般若門】透過は至難の道なのか。
仏法は、ブッダ初転法輪での中道・四聖諦八正道に尽きるのだが。
如実知見=如理作意とやらwは【一切門】だ。
サルには無理か。
ちなみに前出した一切煩悩経(中部2)の根本的趣旨は、
【一切門】での<八正道>の「正見解」と「正思惟」によって、
【般若門】への「預流果」へ至ることができることが(いささかクドいが)明快に示唆されている。
曰く、
『〈 これは苦である 〉 と正しく思惟(如理作意)する。
〈 これは苦の生起である 〉 と正しく思惟する。
〈 これは苦の滅尽である 〉 と正しく思惟する。
〈 これは苦の滅尽に至る道である 〉 と正しく思惟する。』
もちろん上記は【一切門】八正道だ。
>>714 八正道と言えども結局は正見に帰結する
正見出来ねばその他は成り立たない
この場合の見は「眼で見る」だけに留まらない
あらゆる見解の事に相当する
では何を以って「正しい」とするか
涅槃に良く導く事柄以外に仏は何か教えたとでも言いたいかな?
七仏が教え続けたものをよもや知らん訳でもあるまい
>>714 何を以って一切門と称するのか
何を以って般若門と称するのか
何を以って還滅門と称するのか
自称「サルのオナニー」はもう良いから、第三者にも分かる平易な言葉で書くべき
お前にしか分からない呪文を釈尊は禁じたはずである
717 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 15:00:18.23 ID:ytrl4JZl
>>715 >では何を以って「正しい」とするか
般若智無(空)分別に<正⇔誤>は非有非無の如く、
>七仏が教え続けたものをよもや知らん訳でもあるまい
統覚還滅(即有即無)にて 即善即悪、即浄即濁の善・浄を説く
閻魔よ、過去世から続く無明云々、と言う言質にお前は捉われて入るんだよ
無明がそもそも分からないから過去世云々と書かれていると脊髄反射の如くに
オカルトだ、と断見してしまう
そうではない、十二因縁はあらゆる迷いを論理的に解釈して反芻する為の手法に過ぎない
お前がオカルトだと感じた書き方のテキストは、オカルトが迷いの骨目だったのだろうよ
だからそう書かざるを得なかったと温情的に見てやれなきゃ仏弟子とは言えないぞ?
お前が慈悲の無い奴だと俺が断じるのもそう言う理由だ
もう少し穏やかにならなきゃ釈尊にも申し訳なかろうに
釈尊は外道にも優しかったんだぜ
>>717 >般若智無(空)分別に<正⇔誤>は非有非無の如く、
>統覚還滅(即有即無)にて 即善即悪、即浄即濁の善・浄を説く
現代文で宜しく
密教の真言講義じゃないんだから
現代日本人には意味不明
平易な言葉で書けないならお前はそれを理解出来て無い
平易に書くのが面倒だと言うならお前は無慈悲な自意識過剰に過ぎない
そう言うのは仏法者に向いてない
見栄とハッタリの為に法を説くのは白衣の為に法を説くのと異ならない
720 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 15:11:18.49 ID:ytrl4JZl
>>716 >何を以って一切門と称するのか
仏法は菩提心凡夫(菩提心門透過者)のためにある。
『縁起しているもの、
(1)それをわれわれは「空」と説く。←般若門
(2)しかし、それは更に相対(相待)の「仮設」でもある。←一切門
(3)それは、じつは即「中道」にあるのである。←還滅門』(龍樹 中論24-18 閻魔 訳)
>>720 >仏法は菩提心凡夫(菩提心門透過者)のためにある。
仏法は道理を説いてるに過ぎず、仏法と言うものは存在して無い
つまり、仏法は誰の為に有る訳でもない、仏法は存在ではないので有ると言う訳でもない
それは道理が誰のためにあるのでもないのと異ならず
道理がどこにあると特定出来ない事とも異ならない
>>720 >(1)それをわれわれは「空」と説く。←般若門
>(2)しかし、それは更に相対(相待)の「仮設」でもある。←一切門
>(3)それは、じつは即「中道」にあるのである。←還滅門』(龍樹 中論24-18 閻魔 訳)
ぶっちゃけ全部閻魔の妄想に過ぎない
閻魔はその妄想を理解して欲しいのか否か
723 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 15:23:45.41 ID:ytrl4JZl
>>719 >平易な言葉で書けないならお前はそれを理解出来て無い
理解できないことを書いているのだから、
理解できなくてあたりまえだ。
解りやすく書いたから解るわけではない。
かえって、誤解する。
たとえば
<平常心是道>(南泉)という解りやすい言葉を
般若智直覚できた趙州はここにはいない。
<七仏通誡偈>という解りやすい言葉を
般若智直覚できる者は少ない。
725 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 15:31:23.75 ID:ytrl4JZl
>>722 >全部閻魔の妄想に過ぎない
<妄想⇔真想>の相対に捉われているから、【一切門】透過ができない。
727 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 15:35:04.50 ID:ytrl4JZl
>>724 対象化可立の一切門は理解できる。
対象化不立の般若門は理解できない。
728 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 15:36:49.54 ID:ytrl4JZl
>>726 >お前は透過出来てるのか?
コメント不能
730 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 15:39:58.96 ID:ytrl4JZl
>>729 >涅槃じゃその両者も戯論な訳だが?
戯論という観念があるかぎり、涅槃寂静ではない。
>>728 妄想だからコメント出来ないんだよ
いい加減自分の妄想に気付け、そう言う病気じゃないんならな
涅槃以外は全部妄想なんだよ
俺らはその涅槃の中で妄想を用いねば生活出来ないから
いつまでたっても浄土にならないってだけの話
涅槃こそが如実知見そのままの世界なのであり
それを悟るそのものが如理作意に他ならないんだよ
理の如くんばあらゆる戯論も滅する究極の理なんだからな
そんな究極的理なんか、涅槃以外にどんな理があると言うのか
>>730 涅槃寂静と言う観念がある限り、涅槃寂静など有り得ない
733 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 15:59:37.52 ID:ytrl4JZl
>>731 >涅槃以外は全部妄想なんだよ
>涅槃こそが如実知見そのままの世界なのであり
>それを悟るそのものが如理作意に他ならないんだよ
『しかし、それは更に相対(相待)の「仮設」でもある。←一切門 』
龍樹が中論7-34でなぜ<比喩で示唆>せざるを得ないのかが直覚できていない。
二項相対には実存苦の超克はない。
第一義空経さえ直覚できていない。
やはり徒労だったなw
止めだ。
『わたしがいま証得したこの法は、はなはだ深く、観難く、悟りがたく、
微妙にして★思念の領域を超え、甚妙にして、賢者のみよく智るべきものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・
かかる人々には、この<縁起の理>観がたくこの<涅槃の理>は悟り難いであろう。
もしわたしが法を説いたとしても、人々はわたしのいうところを了解せず、
わたしはただ疲労困憊するのみであろう』(相応部6-1)
閻魔
何とか門はもう卒業してもっと現実的に仏道修行に励んだほうがいい
涅槃はそんなに難しい事じゃ無い、たどり着くのが中々厳しいってだけ
目の前にゴロゴロしてたのに気付いてないだけなんだよ
馬祖師も結局は教学を捨てたんだろ
お前もそろそろ教学を捨てたらいい
時期が来てる事をいい加減悟るべき
>>733 >わたしがいま証得したこの法は、はなはだ深く、観難く、悟りがたく、
>微妙にして★思念の領域を超え、甚妙にして、賢者のみよく智るべきものである。
今更持ってくるのかw
甚深微妙の法なら散々俺が言ってたろうよ
俺はそれで所願満足出来たんだからな
736 :
神も仏も名無しさん:2014/12/10(水) 16:09:37.41 ID:ytrl4JZl
>>735 どうぞ、妄想の如く勝手にサルのオナニーをやっててくださいw
>>733 >やはり徒労だったなw
これは良くないな
お前は仏法者の端くれじゃ無いのか?
何故そんなに自己中心的なんだ?
俺がお前の考える通りの人間だったとしてもだ
お前が書いた事が徒労である筈がなかろう?
論破できないから徒労なのか?
少なくともお前は仏弟子の端くれとして法を存分に説き
公衆の面前に晒せたんであろう?
自己中は如何よ自己中は
>>736 そんな趣味の悪い妄想に耽るんじゃない
お前はサルのオナニーしか語彙が無いのか
>>696 限りなくオレの意見に近い・・・ というか、
ほぼ同じだな。
さあ、では、修行の方法はどうする?
どう考える?
どういう方向性が間違ってて、どういう方向性が正しいと思う?
そこまで同じかな。
>>682 >自分が死んでも世界が無くなる訳じゃないので死後の世界などと言う言い回しは
>自己中心的な見解に過ぎない
これはどういう意味だろ?
自分は無くなるけど、自分以外の世界はそのまま残存するってこと?
オレの言ってるのは、死んだその人の世界のこと。
あなたはどう考えているんだろ?
死んだ後、その人の我が無くなると考えてる?
もし、死後に我が無くなるんなら、それがそのまま、涅槃になる。
つまり、涅槃を目指して修行しなくても、死ねば涅槃に入れるってことになる。
そうすると、教えが矛盾するよね。
もし、死んだら我が無くなるんなら、それが涅槃だから、自殺を説かないといけない。
741 :
横から失礼:2014/12/10(水) 19:06:55.56 ID:bABuuFtW
>>739 >どういう方向性が間違ってて、どういう方向性が正しいと思う?
何かを為そうとする方向性が間違いで、
「もう既にそうなっている事実」に全てを預けるのが正しいと思う。
世の中の実態は、既に全てがそうなっていて、自己の介在する余地は元々無い訳だから。
そうすれば、ありのままが見えてくると思うし、かなり楽になる。
修行方法は、禅でも念仏でも自分に合ったやり方でいいと思う。
742 :
おじゃる:2014/12/10(水) 21:20:19.69 ID:w3ZT1GIZ
743 :
おじゃる:2014/12/10(水) 21:40:52.40 ID:w3ZT1GIZ
> おじゃるは
> 超強力(東大仏教)吸引力の
> スッタニパータに吸引されてしまった
> 所依の法が変だとおかしくなる
スッタニパータ
セイロン(スリランカ)に伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録された経典です
最初期に編纂された最古の仏典のひとつとされ、対応する漢訳は一部を除いて存在しない
(第4章『八つの詩句』/支謙訳:仏説義足経)現代では日本語訳として『南伝大蔵経』の中におさめられている
ただし、『スッタニパータ』の中にも、新旧の編纂のあとが見られ
パーリ語の文法に対応しない東部マガダ語とみられる用語が含まれていることから仏典の中でも最古層に位置づけられている
『スッタニパータ』の第4章と第5章のそれぞれに大義釈と小義釈が存在することから
この部分がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている
http://www.j-theravada.net/2-thera.html 仏教は、今からおよそ2550年前、お釈迦様(釈迦牟尼仏陀)によって啓かれ
時代の流れとともに、さまざまな流派に分かれて全世界へと広がってゆきました
中国・チベット・朝鮮半島や日本には
お釈迦様の死後数百年経って成立した北伝の仏教(いわゆる大乗仏教)が伝えられました
一方
スリランカ・タイ・ミャンマーなどの出家教団によって継承されている南伝の仏教をテーラワーダ仏教と呼びます
(他に初期仏教・上座仏教・上座部仏教、根本仏教・原始仏教などとも云われます)
テーラワーダ仏教は、お釈迦様の時代から完全に近い形で残されたパーリ語経典に基づいて
多くの比丘(釈尊の教えを実践し、修行した出家僧)と在家信者たちの努力により
二千五百年間の長きにわたって実践され受け継がれてきたお釈迦様の根本の教えなのです
744 :
おじゃる:2014/12/10(水) 22:14:02.73 ID:w3ZT1GIZ
>>742 なぜ、破滅への門であったとしても、焼肉を食べたいのか? その理由は
(「仮設としての」という意味で、とりあえず仮に)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
衆生は無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習によって
無明の暗闇に覆われて
渇愛によって誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じて
「過去からの心の流れ(心相続)がある!」と掴もうとしている想いに依存して
「あの時に食べた、キムチ、焼肉が旨かったので、又、次にも旨い、キムチ、焼肉を食べたい」と掴もうとしている想いが
この現世に現れ、そして、やがて儚きものとして
この現世から滅して逝く
因と縁の双方の縁起に依存して、現れ、そして滅して逝くので
自分だけではない
周囲環境だけでもない
と知覚して住むことである
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757 大念住経(大念処経)
>>741 スキの無いほど俺と全く同じだなw
さて、そうなると、全く関係ないんなら、全く何もしなくたっていい、
ってところに導かれるんだけど、
それだったら、普通の一般生活と同じだよね。
教えの真理にだんだん近づいていくと、必ずこの命題にぶち当たる。
さて、これをどう乗り越えるか・・・・
うっすらとだが、道筋は見えてる。
ここを解決するには、もう少し時間がかかりそうだ。
おそらく、ここに道筋を付けるのは難しいよ。
たぶん、あなたでも分かってないだろう。
オレはこういうのは得意なんだ。
さて、どっちが早いか・・
健闘を祈るよ。
おそらく、もう時間が無いぞ。
佛は一仏乗を人々に説き、仏道へと導きます。(仏は涅槃を証した人、その人が行うのは涅槃引導)
諸佛の法も全て、一仏乗に導く為の法なのです。(一仏乗は仏の境地=涅槃に至って平安を得る事)
そしてこの妙法を聞く者は、すべて佛の智慧を得ることができるのです。(妙法=甚深微妙なる仏の法、仏の智慧は真の平安の事)
私は、人々が、欲や執着心にとらわれていることを知っており、それに従って法を説きます。(三毒に合わせた薬を用いて聞く耳を持たせる)
佛は、五濁の悪世に出現するのです。(この世は例えるなら公衆便所)
この時の人々は苦しみが多く、貪の心をもって悪行を行ないます。(自分の思いに任せて好き勝手に生きてるのが現世の状況)
また、虚妄の法を信じて、捨てることはありません。(自分勝手に決めた不文律を振り回して間違いを認めようとしない)
このような人は導き難がたいのです。(真に正しい事が分かっても、自分勝手を全否定されてしまうので怖くて聞く事すら出来ない)
それゆえ、佛は譬喩を用いて、多くの法を説くのです。(どんなに臭くても便所掃除は大事で誰かが行わねばならない)
もし、私の弟子の中で、自らが声聞・縁覚であると思っている者は、佛弟子ではありません。(お釈迦様の弟子に勝手気ままな不文律を決め込むものは認められない)
自らの悟のみを求め、すべての人々を救う心を求めない者は、増上慢なのです。(自分は一人だけで生きてなく、縁起に照らせば全員を引導せねば全てが立ち行かない)
正直に言うなら、仏道は来るとこまで来ると世の中の全員がバカに見える
お釈迦様は四顛倒とかお洒落な事で衆生に示されたが、それだって見方を変えるなら
お前ら全員バカだ、と言われてる事になる
バカ過ぎるからそれに気づけない
便所掃除なんて面倒臭いし、臭いし汚いし頭おかしい話の通じない手前勝手ばっかだから
嫌過ぎるのを極める、しかし、冷静になって考えるならそれも実は元来た道なのであり
嘗ては自分もその臭くて小汚い奴等の一員だったのである
一風呂浴びて折角綺麗になった訳だが
先達がそうしたように自分も糞斯きヘラの如く、不浄を払う身に向うのである
いくら自分が身の安全に重々気を付けていても、無茶な考えで行為する阿呆どもから
飛び火を貰わない保証などどこにも無いのだから仕方ない
ならば、涅槃を知らしめ、可能な限り全員を無茶しない人に戻していかねば成らない
公衆便所掃除は正直大変なのである
748 :
神も仏も名無しさん:2014/12/11(木) 09:29:09.78 ID:r1LvgLjn
>>741 >「もう既にそうなっている事実」に全てを預けるのが正しいと思う。
『師問南泉 離四句絶百非外 請師道 泉便帰方丈。
師云 這老和尚 毎常口吧吧地 及其問著 一言不措。
侍者云 莫道和尚無語好。師便打一掌。』(趙州録9)
<「もう既にそうなっている事実」に全てを預けるのが正しい>は四句の範囲だ。
『離四句絶百非外』ではない。
749 :
神も仏も名無しさん:2014/12/11(木) 09:35:24.87 ID:r1LvgLjn
>>741 >「もう既にそうなっている事実」に全てを預けるのが正しいと思う。
これは良寛の<随縁且従容>に似て非なる境地だ。
750 :
神も仏も名無しさん:2014/12/11(木) 10:00:10.33 ID:r1LvgLjn
我生何処来、
去而何処之、
独坐蓬窓下、
兀兀静尋思、
尋思不知始、
焉能知其終、
現在亦復然、
展転総是空、
空中且有我、
況有是與非、
不知容些子、
★ 随縁且従容。
⇒
>>2参照
三乗十二分教は皆な是れ不浄を拭う故紙
イスラム協力機構みたいに仏教協力機構つくろうぞ
753 :
記憶喪失した男:2014/12/11(木) 15:42:43.39 ID:W7kmZo1T
「バガバッド・ギーター」をアマゾンに注文したぜよ。
短いからすぐ読み終わるだろう。
少しづつ、おれも読んでいくぜえ。
>>744 肉を好きな沖縄人は健康なんだよ
そして
菜食主義者は早死にだよ
生き物として不自然
ただ
根菜を主食としたタイプの祖先もいたらしい
あごがでかくて臼歯が発達
その血を受け継いだら
肉は少ない方が良いだろね
現生人類は一種類ではない
ホモサピエンスに取り込まれる形で絶滅した
色々な種類がいるんだよ
佛是如何、糞斯箆是佛也。
涅槃境是如何、路傍石是涅槃境也。
莫妄想、莫戯論。
756 :
記憶喪失した男:2014/12/12(金) 14:10:25.10 ID:+jWGEI81
同和問題は2007年に解決していたらしい。
エタ、ヒニンは武士の子孫で決定らしい。
758 :
記憶喪失した男:2014/12/12(金) 19:05:17.69 ID:+jWGEI81
「バガヴァッド・ギーター」
54位/192作品。翻訳小説
やはり、実際に読んでみなければわからない。これはカーストの義務を示した書でも、ヨーガの奥義を書いた本でもなんでもない。
成立は一世紀頃だといわれるが、まちがいなく一神教を書き表した書である。
クリシュナが汎神論における一神教の神に当たる。
クリシュナは、 万物の主であり、過去、現在、未来の万物を知っていて、
ヴィシュヌであり、シヴァであり、ヤマであり、
この世界の父であり、母であり、配置者であり、祖父であり、最初の本源であるようだ。
キリスト教の影響があるのか、つまり、現代のことばでいえば、
全知全能であり、万物の主であり、世界の創造主であり、汎神であるようだ。
永遠でもあるようだ。
グノーシス思想が当時盛んだったはずであり、その関係がインドに及んだのか、インド独自のものなのか知らないが、
インドにおける一神教クリシュナについて書かれた聖典である。
759 :
神も仏も名無しさん:2014/12/13(土) 00:56:02.63 ID:hQNUNw/J
>>758 だからあ〜 岩波文庫のかどうか、聞いてんだろ!
760 :
記憶喪失した男:2014/12/13(土) 11:38:54.42 ID:he115QMr
761 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 15:41:38.06 ID:Ncr8gm2H
>>758 >「バガヴァッド・ギーター」
仏法的には、検証不能の「一切外」(相応部35-23・70)の形而上学的物語(狭義の戯論)でしかない。
一切外「無記」(中部63)。
まさにナンセンス物語だ。
『わたしは何ゆえに説かないのか。
じつにそれらは、道理の把握に役立たず、
厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立たないからである。』(中部63)
しかし、アホ仏教には(無意識のうちに?)梵我一如論に侵食された連中も多い。
とくに、サーンキヤにおける知性(ブッディ)2-11〜38の<人間の個我=アートマンの不生不滅>を説き(2-16・20・30)、
カーストの義務を果せ!と説き、殺人をそそのかすところなど、
オウム信者をはじめ、キリスト教・イスラム教などの一切外信者は共感感涙する者が多いだろう。
相対分別思考のままでしかないのである。
しかし古代インドで、アーリア民族の侵略支配体制確立のための階級支配(カースト)を
正当化するための「神話」をでっち上げ捏造する政治的必要性があった(4-13)歴史的事実を忘れてはないない。
その最高のエピゴーネンがヤージュニャヴァルキア(梵我一如論)であり、シャンカラ(ブラフマン不二一元論)だった。
まさに「バガヴァッド・ギーター」は「信仰」宗教書であると同時に政治的謀略文書だったのである。
762 :
記憶喪失した男:2014/12/13(土) 16:55:14.27 ID:he115QMr
>>761 おれは政治的謀略文書だとはまったく思わないな。
これはインド発祥の一神教、汎神論の聖典だ。
クリシュナが人気あるのもわかるというものだ。
これは仏教の要素もとりいれているが、クリシュナが人気でるのも仕方ないと思った。
こんな神話が日本にもほしかったが、まあ、現在進行形で作られてるゲーム、漫画で充分だろう。
>>761 ブッダは信仰を捨てろと言われたんでしょうか
それとも信仰を持つなと言われたのでしょうか?
もし捨てろ
ならまず持ってることが前提なんだと思うのです
全ての人の思考形態が信仰にすぎないと言われたんだと思ったのです
自分の思考形態が信仰にすぎないことを知れ
といわれたのだと取ったのですが
もってないものは捨てれないし
まず持たなくては捨てられない
とまで言われたんだと思ったのですが
m(__)m
765 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/13(土) 19:20:59.39 ID:zaCr4823
766 :
探しなさい:2014/12/13(土) 19:25:26.13 ID:+7WVUqj/
インドでは、カーストを認めないと正統派になれないというのがミソw
シヴァ派もビシュヌ派も正統派だね。
767 :
記憶喪失した男:2014/12/13(土) 19:50:37.28 ID:he115QMr
井筒俊彦の「意識と本質」を注文したぜえ。
明日、届くから読むぜえ。
768 :
如実知見:2014/12/13(土) 23:07:33.38 ID:QInGOD2n
ブラフマンとかアートマンとか仏性とかキリスト意識とか、
そんなんに拘っていたら真理は決して見えない。
真理は一元論だとか不二だとか、そのような作られたものではないからである。
>>768 そう言う「俺はちゃんと分かってんだぜ」的な独断も捨てないと真理には辿り着けない
>真理は一元論だとか不二だとか、そのような作られたものではないからである。
真理は真理に非ず、それを真理と名付くる
>>766 カーストもシヴァ派もビシュヌ派も人の妄想に過ぎず戯論に過ぎない
それらでは涅槃に導けないので七仏通戒偈にすら反する邪見となる
771 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2014/12/14(日) 10:52:57.23 ID:W2/KHqYx
>>763 >ブッダは信仰を捨てろと言われたんでしょうか
『まこと熱意をこめて思惟する聖者に / かの万法のあらわとなれるとき
かれの疑惑はことごとく消え去った / 縁起の法を智れるがゆえであった』(ウダーナ1)
仏法の仏法たる所以が縁起にあるならば、★縁起撥無の『信仰を捨てよ!』(相応部6-1、Sn.1146)は当然です。
原初の初転法輪での四諦「八正道」には<正信仰>なるものはありませんし、
また、仏法は「筏の喩えの法門」(金剛般若経6、中部22)ですから、
到彼岸のあかつきには法(dharma)さえも捨てよ!の教えが「信仰」ではありえません。
>自分の思考形態が信仰にすぎないことを知れ
『自分の思考形態』とかが
(1)如理作意(中部2)ならば、「一切」(相応部35-23)縁起=時空因果関係を正確に見るそのものであって、
(2)経験主義的検証性を無視した縁起撥無の「一切外」(相応部35-70参照)=非理作意の『信仰』ではありません。
772 :
763:2014/12/14(日) 19:00:25.86 ID:TVUJ6M/h
>>771 捨てるためには持たなければならない、と思うのです
捨てたからには持っていた、と思うのです
ブッダもまたかつて持っていたのでしょうか
で、ぼくは、捨てるためにもまず持ちなさい
もしくは、持っていることを自覚しなさい
と言ってるんかな、と思ったのです
経験主義的検証性 は経験主義的であり、経験的であって本質ではないので
それを用いることは信仰だと思うのです(どうしてもいったん思考停止を
含んでしまうと思うのです)
経験主義的検証性の先のわからないところ、が信仰だと思うのです
書いてて思ったんですが僕のいうところの信仰は世間が言う信仰ではなく
ただの「意志」とか「好み」とかなのかもしれませんね
773 :
記憶喪失した男:2014/12/14(日) 23:29:56.15 ID:/IeIVPIo
井筒俊彦「意思と本質」119ページまで。読んだ。
仏教の無我は、道教の坤の卦だという説がたいそう面白かった。
とすると、無我、坤の卦、宇宙、悪は、死の世界であり、
煩悩、陽の気、海、正義は、命の世界である。
海しかないところに海神の男女が島を作ったという日本神話から、
男女ともに、命の神として、敵対する死の神を出して神話を書こうと思う。
774 :
如実知見:2014/12/15(月) 01:10:03.10 ID:UUFoK0d7
>>769 真理は、<心がなくなった心>である。
それをわたしは真理と名付ける。
775 :
記憶喪失した男:2014/12/15(月) 01:37:34.56 ID:kcYHraoy
776 :
記憶喪失した男:2014/12/15(月) 08:31:37.91 ID:kcYHraoy
海の歌と宇宙の歌
始めに死があった。そこに海が生まれた。死は宇宙であり、海を包み込むほどに大きかった。
死は海より桁違いの大きさを持っており、死は海より絶対的に強かった。
海は死の世界に作られたもので、死にかけていく運命にある。これを一切皆苦という。
宇宙に海が浮かんでいた。海しかないところに海神の男女が具現化して、海を矛で泥をこねて島を作った。
この島をオノコロ島と呼び、泥はやがて海に散って日本列島になり、雲に散っては高天原になり、泥から人が生まれた。
死は仏教の無我であり、無我は宇宙との合一であり、人は死んで意識を失えば無我となり宇宙の神に帰る。
海は煩悩を起こし、煩悩は命の世界の泡であり、自分自身の執着を見つけることが人生の目的である。
道教に太極両儀四象八卦とあるが、八卦のうち、陰の気の暗くたまった坤の気が死の宇宙を表す。
乾坤のうち、天も宇宙であり死であり、大地も陰の暗くたまった死の土地である。
陽の気が海の作り出した命の気だが、陽気で笑いつづけていられる時は海の神のご機嫌が良いのだろう。
死の神は悪であるが、死の神は宇宙であるので、命の神、正義の神である海より強い。
人はよく悪の強さにたぶらかされて、悪を頼みに横暴をふるうが、死の神である宇宙の強さに頼っているのである。
人は海であり、人の神は命の神である海である。海は正義である。正義は、少しずつ宇宙に逆らい富を積み重ねていく労働であり、働くものに幸あれ。
777 :
記憶喪失した男:2014/12/15(月) 08:32:38.78 ID:kcYHraoy
万物の創造主である神は、死の神であるが、海を作ったことは全知全能の神にとってみれば知っていたことである。
神は、全知全能であり、万物の創造主であり、天地の所有者であり、寛大で慈悲深い。
神が全知全能であるのは、命が苦しんで生きていくことと矛盾する。この全知全能の力は海であり、矛盾が死である。
天は宇宙であり、死の世界である。大地は道教の説明にあるとおり死の要素である。
神が寛大で慈悲深いとは、そう伝え聞くものの、海の大きさに比べて宇宙がどれくらい大きいのかを知れば、命が死に対してどれだけ敗勢でいるかは明白である。
奇跡とは、確率ゼロパーセントの出来事が起きることであるが、もちろん、統計学上それはありえることである。
今までに起きなかったことが一回起きてしまうことはありえないことではない。
これを奇跡と呼ぶが、奇跡をよりどころに現実を運営するのはまちがっている。
死後の世界は存在しない。断見が正しいのである。
パラダイスとは、古代シリアの「王室の庭園」のことであり、全裸の男女が踊り狂っている場所ではない。
肉の神は、死後に干渉しない。死後に肉があるというのは、迷信である。臨死体験をした者たちの語る死後の住人はほとんどが服を着ている。
死後の世界に布はない。布をともなった肉の復活もない。死後に霊として復活することもない。
神は自分に似せて人間を作ったというが、人間は男女で対にできている。
ならば、神にも対がいるはずであるが、神の対は経典である。この「海の歌と宇宙の歌」である。
人は生まれながらに半身をもち、自分の対となる半身を探すけれど、
それは、海が空の向こうに進出することであり、具体的には、宇宙飛行士の体を借りて海が死の土地である宇宙に行くことである。
すべては一つの光に始まり、一つの光に帰り終わるというが、それは光が死の神が海に差しのばした手であり、死の神の優しさが光である。
了
記憶、そう言うのは思考盗聴のスレでやれ
779 :
神も仏も名無しさん:2014/12/15(月) 10:31:31.09 ID:Ml+XPoKk
>>772 >捨てるためには持たなければならない、と思うのです
>経験主義的検証性の先のわからないところ、が信仰だと思うのです
>経験的であって本質ではないのでそれを用いることは信仰だと思うのです
論旨がいまいち意味不明なのですが、
だったら、あなたの『本質』とやらの「想い(Sn.1072)」を放下しないで執着して、
「恁麼(いんも)ならば則ち担取し去れ」(趙州)
涅槃に於いては経験主義的検証性と言う概念がそもそも有り得ない
その概念に固執してしまうのが人間の思惑なのであり
その思惑こそが「有余」と気付ければ悟りなのである
生・老死や過去世から続くと称する無明とやらも
所詮は思惑なのであり惑いなのであり迷いに過ぎない
蛍光灯の発する光がその蛍光灯一代限りの光なのと同じ様に
人の抱ける思惑も所詮その人一代限りなのであり
それが永遠に続くと考える事は迷いなのである
そんなものは有り得ないと至れるなら過去世以来の無明も有り得ない事になる
何を惑う必要など有ろうか
逆に、私は今世限りで輪廻などない、と考えるのも中道に反し断見となる
断見が正しいなら薪を燃やしても灰は存在しない事になり
人が死んでも拾う骨が有り得ない事になるのである
閻魔が良く引き合いに出す「縁起の現観」
彼はこれの意味を本当に知っているのだろうか
それは何だと尋ねられれば一言、「いま、ここ」以外に無い
この世界は全て洩れなく縁起に因って成り立っていて
「いま、ここ」とは縁起そのものと言わざるを得ないのである
具体的には、今・こことは刹那瞬を言い、言った時点でもう過去に成っている
この刹那瞬こそ縁起そのものなのであり、我々が感じる時間の流れも
縁起所以の野生動物的実感なのである、ある意味妄想なのだがここではそうしておく
とかく愚者は、「死んだあとの事など死んでみなくちゃわからん」と言う
それは思惑としてそう妄想しているに過ぎず、実際に我々は
毎日数兆もの死亡と出生を体験しているのである
それは刹那瞬たる今、ここで起きていて縁起しているのである
782 :
記憶喪失した男:2014/12/15(月) 14:27:30.52 ID:kcYHraoy
井筒俊彦「意思と本質」196ページまで。読んだ。
魂魄の魂が陽気で天に昇るのはいいけど、魄が肉体を表すってまちがってるだろ?
魂魄は、どちらもたましいで、肉体も陰陽があれば、精神も陰陽があるんだよ。
原典を読んで確認しないとわからないけど、井筒俊彦は魂魄はまちがってると思うぞ。
魂魄が書いてある書籍って何?
783 :
神も仏も名無しさん:2014/12/15(月) 15:41:49.07 ID:zeps3KfD
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、
此が滅すれば彼が滅す」
全ての集約がこれ。つまり、滅す。
此れ、彼というものには特定の意味はない。
エサとか燃料といった見解でも別に構わないだろう。
滅すということは、実際に滅するものが有るということであり、
知覚できるものというのは過言ではない。
上記の短文が仏教の真髄であり、あれやこれやは要しない。
あれやこれやといったものは、彼や此れに該当する。
>>783 >滅すということは、実際に滅するものが有るということであり、
そうではない
滅すると観念しているのは既に概念であり分別である
分別は名色なのであり、それは識によって起こる
識が起こらねば滅不滅の念すら余地がないので有る無しすら問えない
この世界には一つとして有る/無しを問えるものなど存在して居ない
それを有る/無しと観念識別しているのは人の思惑に過ぎず
それは総じて妄想に過ぎない
785 :
神も仏も名無しさん:2014/12/15(月) 16:36:30.08 ID:zeps3KfD
>>784 それは、君の妄想。
ハッキリ、克明に、しっかりと滅すと書いてある。
知覚抜きに滅すは、語られるはずもないということ。
これが、仏教であり、君の仏教は仏教でない。議論にも値しない。
>>785 >ハッキリ、克明に、しっかりと滅すと書いてある。
確かめもせずに鵜呑みにする事を仏は同意していないし教えていない
判断基準を自分に置き、その対象としては何も存在しない事を諒解するのが仏教である
その観点で言うなら経典も鵜呑みにする限りは妄想に過ぎない
787 :
神も仏も名無しさん:2014/12/15(月) 16:49:56.67 ID:zeps3KfD
>>786 それは君の妄想。
仏教は経典の通り。此れ彼滅すを信じないなら、経典の何も信じなくていいことになる。
いずれにせよ、それは仏教ではない。で、君はこれを否定して何を信じたいの?
信じたいものがあるから否定がある。信じたいものがないなら否定はない。
>>785 ひょっとして十二因縁すら理解して居ないのかな?
これが理解できてなきゃそれを実行する術すらない事になる
縁起を語るものがそれでは何を語るのか甚だ疑問を禁じえない
>>787 経典に悟りは無い
書いてある事を鵜呑みにする事を仏は同意しない
俺らが書く文字、語る言葉、思惑は全て妄想である
我々は妄想を用いねば意思疎通が出来ない
妄想を妄想だと断じたところで詮無きこと
そして、仏道は信じてから行うが疑っても行える
故に信じているとは限らないし、畢竟に於いては信不信も問えない
>>787 >仏教は経典の通り。
>いずれにせよ、それは仏教ではない。
創価学会等の御すがり信心こそ仏教ではない
790 :
神も仏も名無しさん:2014/12/15(月) 17:02:13.50 ID:zeps3KfD
>>788 それは君の妄想。十二因縁なんか面倒くさくしただけのもの。
根本は此れ彼滅す。これだけでいい。
燃料、エサは以上でいい。
>>790 >面倒くさくしただけのもの。
この発想を仏は同意していない
八万法蔵はお前とその眷属が理解出来ないから飽和したのである
己が解らないからと言って退けてしまうのは増上慢に過ぎない
そう言う身勝手を克服出来て居ないで何をか言わんかやである
792 :
772:2014/12/15(月) 17:08:30.87 ID:h7asp+Rk
>>779 もうしわけないです
本質というものはとらえられないと思ってます
かなりの確率で、こうである
としか言えない
しかしそれを用いてしか対象をとらえられない
その不確かな中でそれでも意志し、対話するのは
一端決めつける信仰的態度なんだと思ったのです
で、これは否定じゃなくて
そんな信仰的態度は大事なモノなんじゃないかな
と言いたかったのです
それでも支離滅裂ですねm(__)m
793 :
神も仏も名無しさん:2014/12/15(月) 17:09:56.54 ID:zeps3KfD
事実は俺が書いたから君が書いた。俺が書かなきゃ君は書かない。
俺が書くことで、それに対する反応があり、
俺が書くのを止めれば、それについての反応はピタリと止む。
つまり、単なる事実だ。
そして最終的には滅す。
だから、燃料投下もこれまでにする。
794 :
神も仏も名無しさん:2014/12/15(月) 17:14:52.88 ID:zUHG3hiS
此れあれば彼ありは間違い
本当は「此れあれば此れあり」でしかもそれすら方便だと言う
縁起空はそんなに単純じゃないし人智を簡単に凌駕してる
此れ彼だと前後際断じゃないからな
前後際断を無視した見解が間違った縁起観
一般的にはこっちしか広まってない
796 :
神も仏も名無しさん:2014/12/16(火) 19:31:33.90 ID:Xs56ynv+
ブッダは霊的能力がないのを悟られないように言葉にふせんをはったそうです。
797 :
神も仏も名無しさん:2014/12/16(火) 20:42:38.20 ID:NbkeWRqM
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、
此が滅すれば彼が滅す」
此れ彼に特定の意味が無いと書いたのは、例えば楽が無ければ苦はない。
楽しいが無ければ、楽しくないはない。面白いが無ければ、面白くないは無い。
生が無ければ、死は無いといった二項対立の片側が無ければ、もう片方も無いといった
実際の心理現象を指す。これは完全な無ということでなく、減退傾向を指す。
実質的には、此れ彼でなく、此れ此れでもちろん正解。
これは無相という価値観に順ずるというのは言うまでもなく、
即ち、偉いもなければ、尊いも無い。凄いも無いという意味合いとなる。
これが仏教が虚無的と言われる所以であるが、事実とか、実相というものは
無相に近いというのは疑いもない現実ということであり、実は虚無でもなんでもない。
例えば、人間は糞の塊という表現も、実相の一側面を指している。
798 :
神も仏も名無しさん:2014/12/16(火) 21:35:00.97 ID:NbkeWRqM
つまり、実相を追及する程に当然カースト批判というものはでてくる。
誰もカーストというものを知らないならば、それは存在しないからだ。
当然、生まれは関係がない。関係してくるのは情報と、それに伴う感覚のみとなる。
即ちこれが正義とか平等というものに、形を変えて語られることになるが、
何のことは無い、それは実相のことなのである。
799 :
神も仏も名無しさん:2014/12/17(水) 10:15:16.70 ID:wbig1puB
>>796>>797 >実際の心理現象を指す。これは完全な無ということでなく、減退傾向を指す。
>何のことは無い、それは実相のことなのである。
しょせん、二項相対思考の範疇でしかない。
「恁麼(いんも)ならば則ち担取し去れ」(趙州)
800 :
神も仏も名無しさん:2014/12/17(水) 13:14:16.55 ID:vVdxb+by
偉いもなければ、凄いもない、尊いもない、
それは即ち、所詮でもなく、当然、二項というわけでもない。
それらは単に実相から見たズレのことである。
だれが、どうたら。それは、実相かもしれぬが、凄い、偉い、尊い、しょせん等が
入れば実相とかけ離れていく。
それらは陰毛だから則ち担取し去れ、ということである。
>>799 バカの一つ覚えを連呼して無いで、言うなら担ぐものを示してやれ
802 :
神も仏も名無しさん:2014/12/17(水) 17:26:51.83 ID:wbig1puB
>>800>>801 >実相
諸法は実相に非ず
>担ぐもの
仏法という「想い」
『しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり』(道元 正法眼蔵 現成公案 初段より)
筏の喩えの法門 Sn.21.1072,金剛般若経6、中部22
>>802 言ってる傍から自分で担いでいるだろバカ
教外別伝なんじゃないのか?
それらの文字に依って固執してる時点でお前こそ
恁麼ならば則ち担取し去れ
804 :
神も仏も名無しさん:2014/12/17(水) 18:03:39.72 ID:wbig1puB
>>803 このスレには、厳陽にさえも及ばないものばかりかw
仏法という「想い」 を厳陽は担取している。
趙州はその厳陽の仏法への執着という『想い』を問題にしている。
<『想い』からの解脱における解脱>(Sn.1072)=「放下著」(筏の喩えの法門)ではない。
>>804 >このスレには、厳陽にさえも及ばないものばかりかw
及ぶ必要がどこにある?
所詮物まねに過ぎず成り済ましに過ぎない
>>804 お前のは単に指一本を真似してるだけに過ぎないんだよ
ぶった切られたくなかったらちゃんと経典の如く修行しろ
807 :
神も仏も名無しさん:2014/12/18(木) 00:40:48.62 ID:Dp2HQOhq
ホント、情けないね、この体たらくはw
じつをいうと、「臨済宗」なるものの『宗祖』wである「臨済」も、臨済録では厳陽程度でしかない。
倶胝和尚の一指を切断できぬ臨済かぶれ如きに用はない。
倶胝もしょせん厳陽・臨済程度でしかないということだ。
『諸法実相』を標榜する日本「仏教」って、素人相手のこけおどしでしかないw
「非実相非虚相の如く」を透過できていないその他大勢の成りすましピエロはじつに哀れというしかない。
隣にいるスケベ菩薩は、「なんでもええねん!」を喚いておりますw
まあ、おきばりやすw
808 :
神も仏も名無しさん:2014/12/18(木) 11:12:29.32 ID:Gxq3MSgp
神の深遠な思考は人間にははかることはできません。
ヨハネの默示録に命の書に書かれている者は終わりの時において復活し勝利を得る(永遠の命を得る)
とあります。輪廻転生はあるのです。魂は無限です。魂を持たない人もいると聖書にはかかれています。
そのような人は一回きりの人生でおわるのかもしれません。
ブッダは死人を生き返らしてくれという依頼に条件をつけました。結局死人を生き返らすことは出来ませんでした。
神でもないのにブッダにそのような能力があるはずありません。無理な注文だったのでしょう。
イエスは無条件で死人を生き返らしたり病人を癒すことができました。
イエスこそ神ですキリスト教でそういうことになっています。
809 :
神も仏も名無しさん:2014/12/18(木) 11:30:48.47 ID:Gxq3MSgp
父なる神やイエスの言葉によってキリスト教社会は皆力を合わせて便利で幸福をもたらす高度な文明
を築くことができました。その言葉がなければ達成できなかったでしょう。
今当たり前のことになっていることが昔は当たり前でなかった。今あなたが使っているパソコン
も日本製であってもアメリカ起源です。一番初めに事を成す方がそれをみならって
より良いものを作るより難しいことです。新興国また日本も西洋の優れた文明
を取り入れて先進国に仲間入りしたりその真っ只中にいるくにがおおいです。
その延長線上に神の国天国があるのだろうと私は思います。
だそうです
キリスト教ってバカでしょ?
811 :
神も仏も名無しさん:2014/12/18(木) 12:34:20.10 ID:VnJtRDQP
閻魔&一代のハッタリ禅で衆生を惑わす悪魔スレと化して居やがるww
まったくw
知ったかぶりの猿芝居は臭くてたまらんわww
正直俺もそう思う
少なくとも仏道に身を置くものが先達を軽んじるばかりか人を軽賎するなど言語道断
阿弥陀如来は自分の領地たる極楽浄土が浄土故に、やる事ないからこの穢土の手伝いをしてる訳で
浄土なれば仏も智者もやる事が無い、不浄のこの世界故に智者が役に立つ理屈がまだ理解出来て無い
自慢のため・自尊心満足のために知識をひけらかすなど仏道ではご法度だろう
813 :
神も仏も名無しさん:2014/12/18(木) 23:20:01.68 ID:Dp2HQOhq
>>812 >阿弥陀如来は自分の領地たる極楽浄土が浄土故に、やる事ないからこの穢土の手伝いをしてる訳で
経験的に証明してごらんw
814 :
神も仏も名無しさん:2014/12/18(木) 23:23:06.98 ID:Dp2HQOhq
>>812 >阿弥陀如来は自分の領地たる極楽浄土が浄土故に、やる事ないからこの穢土の手伝いをしてる訳で
小保方のSTAP細胞と同レベルなら、それなりのまがいモンということでw
815 :
神も仏も名無しさん:2014/12/18(木) 23:27:41.80 ID:Dp2HQOhq
>>811 >知ったかぶりの猿芝居は臭くてたまらんわww
おやおやw
貴殿は何を「知って」おられるので?
>> ID:Dp2HQOhq
嫉妬故に遂に狂ったか
若しくは元々狂ってたのか
お前の言う仏法とやらは経験的な証明が絶対なのだな
なら、涅槃を経験的に証明して見せよ
果たして証明できるそれを涅槃と言えるかどうか
答えを先に書いておこう
経験とは認識に過ぎない
凡そ認識に値する全てのもの・ことは妄想に過ぎない
妄想は、一切の戯論寂滅なる涅槃に有り得ない
故に、涅槃は認識できず証明出来ない
悟りは知識ではない、ましてや認識でもない
だから知ったかぶりは知りたがり、未だ得ざるを知ったかぶる
法華経観持品の偈文の通り
愚人はこう言うだろう
「認識出来ないものを知りえることなど出来ない」
知れる事が人の認識や知覚の全てである、と先入観を持っているからそう思ってしまう
だから悟れないんだよ
悟りは知る必要など微塵もない
知れるものなど何一つないのが悟りなんだからな
悟れないで嫉妬に狂うものが必ず行う所業は
衆人を軽賎し、先達を軽賎する事
これに尽きる
今一歩理解に苦しいものに一言付け加えておく
何故涅槃は証明出来ないか
涅槃が証明出来ないのは悟りも証明出来ない事と同義なのだが
それらが証明出来ない所以は「悪魔の証明」と異ならないからである
証明できたら「それ」はそれでは無くなってしまうのである
ただ、智者のみぞ知る法、それが悟りであり涅槃なのである
閻魔如き浅学が語れるのは精々「想いが滅する」程度までであり
それが具体的にどう言う状態を言うのかまでは言及出来ない
当たり前である
悟りを証せるのは自分自身だけなのだから
他人が他人の証得を証せたりしたらそれこそオカルトなのである
仏道はそれを領解しないし同意しない
820 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 01:03:52.65 ID:TyAF9pfM
>>816-
>>818 ホント、知的健忘症=認知症患者とは対話不能だなw
すべて如理作意で<示唆>済み。
趣旨は道元 正法眼蔵 現成公案 初段に目次的に尽くされている。
それを、アホにも敷衍しているに過ぎないのだが、
二代目ペンキ屋には自己塗りペンキに惑わされて
勝義透過者ならごく当然のことを直覚できないからヒステリー状態なだけだw
趙州曰く、
問い、「知解を離れたもの(般若智を得た人とは、どんな人ですか。」
師、「なんの話をしているのだ。」(趙州録 第五十二段)
821 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 01:22:23.86 ID:TyAF9pfM
>>819 相変わらず、ぜんぜんアカンなあw
「悟り」なんかに拘っているのは、
「仏教」趣味者レベルだヨンw
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html 放棄されないもの(無棄)
達成されないもの(無得)
根絶されないもの(不断)
永遠でないもの(不常)
生じていないもの(不生)
消滅していないもの(不滅)
涅槃はこのような言い方で表現される(中論25-3)
もし涅槃が存在でないなら
どうしてそれがまったく存在しないものであることがあり得るだろうか
涅槃が存在でない場合
それはまったく存在しないものでもあり得ないのである(中論25-7)
もし涅槃が存在でないなら
涅槃はどのように非依存的であり得るというのだろうか
非依存的であるものは何であれ
まったく存在しないものではない(中論25-8)
やって来て、また去るものは
依存的で変化するものである
依存的でなく変化しないもの
それこそが涅槃として説かれたものである(中論25-9)
師は生成と消滅の放棄を説かれたしたがって、涅槃は
存在でも、まったく存在しないものでもないというのが正しい(中論25-10)
>>822 涅槃は存在しないわけでも存在するわけでもない
涅槃は存在ではない、涅槃はこの世界の道理そのまま故に輪廻と少しも異ならない
それは単に人間の知覚に通常では捉えることが出来ないだけなのである
お前は何故それを自分の言葉で語らないのか
先師と言えども他人であり、お前は自覚からの自己の言葉ではなく
他人の言葉を鵜呑みにしそのまま書いてるに過ぎず、仏道はそれを同意しない
自らが言葉を誤る事がそんなに怖いか?
仏道修行者ならその畏怖も克服できてる筈だがな
>>820 >勝義透過者ならごく当然のことを直覚できないからヒステリー状態なだけだw
自己紹介乙
そして
>趙州曰く、
>問い、「知解を離れたもの(般若智を得た人とは、どんな人ですか。」
>師、「なんの話をしているのだ。」(趙州録 第五十二段)
質問自体が妄想
一切妄想を用いねば人は会話すら成り立たない
お前は何故臨済師が黄檗師に三度も叩かれ気付けず
大愚師にどやされ何が気付けたのか
今一度浚うべき
閻魔がおじゃるの如くコピペと勝手定型文に走るのは滑稽
827 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 08:45:11.03 ID:zh5DeQ6N
悟達者が獲得すると言う三明はオカルトか否か語れ
> お前は何故それを自分の言葉で語らないのか
(「仮設としての」という意味で、とりあえず仮に)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生ずる無明薫習によって
無明の暗闇に覆われて
その者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為・言葉による行為・心による行為を行う(カルマを積む)
渇愛によって、誤ったあり方を、掴んで離さないような固執も生じて
「過去からの、心の流れ(心相続)がある!」と掴もうとしている想いに依存して
私(ID:9m3ZM5Uk)の場合は
「小学4年生の頃に、落武者の霊を見たのだ!」と掴もうとしている想いが、今でも心相続しているので
それ故に、「自分の言葉で語らない」と言うことであるらしい
(私(ID:9m3ZM5Uk)は実践したことがないからこそ)
瑜伽(ヨーガ)などの実践の中で体験を得て教理にまとめたと思われる
経典・論書・解説書などを参照させて頂きます
閻魔とおじゃるが互いに不可侵である件
語るって写経する事じゃないと思うよ
833 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 10:08:43.50 ID:TyAF9pfM
>>825 >質問自体が妄想
>一切妄想を用いねば人は会話すら成り立たない
「一切」(相応部35-23)は妄想ではない。
根本的なところが「理解(如理作意)」できていない。
「理」とは縁起の間接現実=時空因果関係をいう。
>お前は何故臨済師が黄檗師に三度も叩かれ気付けず
>大愚師にどやされ何が気付けたのか
師、「なんの話をしているのだ。」(趙州録 第五十二段)w
右手がおじゃる、左手が閻魔
>>833 >根本的なところが「理解(如理作意)」できていない。
熨斗紙付けてお返しする
如理作意は意図して行うものではない
必ず成って居ても通常は感知できて居ないだけだ
根本を間違えてるのは言ってる傍のお前に過ぎない
悟りを「気付き」と言うのも通常は見過ごされてきたことに
気付くからだ
やり直しw
> 右手がおじゃる、左手が閻魔
(閻魔先生が中観帰謬を体感会得しているのか?どうか?わからないけど)
例えば仮に、「私(ID:9m3ZM5Uk)が自立派」で、「閻魔先生は帰謬(きびゅう)派?」
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B チベット・ゲルク派
自立派は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
− これに対して −
帰謬論証派は、そのような自相を、世俗の次元でも否定します
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13 「有相唯識派」は、認識は対象の形相を有していると考えます
ディグナーガ(陳那、5-6C)、ダルマパーラ(護法、6C):『成唯識論』、ダルマキールティ(法称、7C)らが主な論者です
玄奘以降の中国・日本の法相宗は、この系統です
一方
「無相唯識派」は、認識は対象の形相を有していないと考えます
スティラマティ(安慧、5-6C)が主な論者です
彼は、アサンガ、ヴァスバンドゥ兄弟が究極的には「識」の実体性を否定したことを受け継ぎ、かつ、如来蔵思想の影響を強く受けました
また、その後、「無相唯識派」は「中観自立論証派」の影響を受け、シャーンタラクシタが「瑜伽行中観派」を形成し、カマラシーラらに受け継がれます
この二人はチベットでも活躍します
837 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 11:40:23.84 ID:uH9Ei7+W
何の話をしてるのかな?
838 :
如実知見:2014/12/19(金) 14:43:39.03 ID:/LT1SOKM
仏教とは止観である。
止とは、対象(世界)と一体になる行である。念仏やクンダリニーが止にあたる。
観とは、対象(世界・苦)と離れる行である。四念処(不浄観、無常観)が観にあたる。
前者は、三明以外で後者で三明を得る。
どちらも欠けてはいけない、というのがブッダの教えである。
これは身を持って実証済みである。
839 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 15:44:06.09 ID:sBFBuQpQ
>>838 観行で三明を得る?
では瓦を礫で擦れば鏡になってしまうな
それではまるで成仏する為に座禅を行うようなもので
牛車の車輪に鞭を振るっても車は進まんと思うぞ?
840 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 15:47:05.04 ID:sBFBuQpQ
>>838 時に、
>これは身を持って実証済みである。
ならば我々の命終と輪廻との関係を説明してみてくれ
841 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 16:29:48.30 ID:dIVf7dFp
観行はヴィパッサナーオタ達にも誤解されている訳だが
観察して認識したらそれは分別なのであり、観察して結果分別に至る事に集中するのは
紛れも無く止行に他ならないのである
本来観行は、対象を観察した時に、その結論として「これは無常である・これは無我である」と観て
対象に対する執着が寂滅して行かねば観行として意味を成さない
そうなってない観行モドキでどうして三明を証得出来ようか
甚だ疑問を禁じえない
執着が寂滅出来ずにどうして漏尽通に至れよう
842 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 17:58:40.74 ID:F7dOtAUV
神を否定する仏教は宗教ではない。ブッダは煩悩から解放された
涅槃の境地に至るための実践の道を教えたのみである。
843 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 18:12:03.12 ID:Txu67bO6
ブッダは神を否定などして居ない
神を信じるものを四顛倒と正したに過ぎない
つまり、神や神を信じるものを否定したのではなく
同意しないだけである
信は思いであり、神はその信により作られ守られている
それを否定しても、否定する思いは無くならない故に神も無くならない
それ故にブッダは神と神を信じるものとを否定しなかったのである
勿論肯定などもして居ない事は言うまでも無い
あくまでも同意していないのである
まあそんなこと一言も言ってないけどな
845 :
神も仏も名無しさん:2014/12/19(金) 18:29:49.69 ID:Txu67bO6
不立文字教外別伝なのでこればかりは仕方ない
経典や論述は道筋に過ぎないので、目的地の実際は書かれていない
それを確かめるのはあくまでも己自身の修行にしか方法は無く
例えば信を折るのも己身にしか折る術がない
「汝の信仰を捨てよ」とはブッダの言葉
これは先入観も固執も信仰に他ならない事を意味する
ブッダを含め、他者から「信仰を捨てよ」と言われて「はい、わかりました」と聞き入れられるものは殆ど居ない
(「仮設としての」という意味で、とりあえず仮に)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生ずる無明薫習によって
無明の暗闇に覆われて
渇愛によって、掴んで離さないような固執も生じて
「過去からの、心の流れ(心相続)がある!」と掴もうとしている想いに依存して
「自分もある・周囲環境もある・因と縁の双方の縁起の相応一致もある!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので
それ故に
『ブッダを含め、他者から「信仰を捨てよ」と言われて「はい、わかりました」と聞き入れられるものは殆ど居ない』
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
頭を裂け落とさせるものである
1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ
そうすれば死を乗り越えることができるであろう
このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない
848 :
神も仏も名無しさん:2014/12/20(土) 11:48:56.78 ID:GETZYWii
現代の物理学では宇宙は様々な素粒子によって成り立っているということになっています。
よって釈迦の空の理論は間違えであると言えます。
>>849 おじゃる、良いんだよ
否定論に異議を申し立てる事に釈尊は同意しないんだから
否定論者に異議を良い、否定に否定を重ねても仏法的には意味が無い
否定したい人は否定してれば良いのさ
という信仰をしてるのさ
852 :
神も仏も名無しさん:2014/12/21(日) 09:39:44.54 ID:ZUWkaerS
>>848-
>>851 師、「なんの話をしているのだ。」(趙州録 第五十二段)
853 :
神も仏も名無しさん:2014/12/21(日) 11:16:35.92 ID:ZUWkaerS
『舉趙州示衆云。
至道無難。唯嫌揀擇。纔有語言。是揀擇是明白。老僧不在明白裏。是汝還護惜也無。
時有僧問。既不在明白裏。護惜箇什麼。
州云。★我亦不知★
僧云。和尚既不知。為什麼卻道不在明白裏。
州云。問事即得。禮拜了退。』(『碧巌録』2)
要するに、<至道無難 唯嫌揀択>さえ揀択だから非道なのである。
問うこと(如理作意・如実知見)に留まること自体がナンセンス(仏法センスがない)なのだ。
趙州が、<矛盾なきをあえて矛盾の裏に示唆している>ことの論理矛盾に捉われてしまっている。
『我亦不知』という明快な揀択放棄の境地すら揀択で受け止めているようでは、もう何を言っても遣っても無駄である。
観念の業火に油を注ぐだけだ。
趙州が『問事即得 禮拜了退』と匙を投げるのは当然だろう。
アホ相手に、俺も匙を投げた。
854 :
神も仏も名無しさん:2014/12/21(日) 11:45:47.26 ID:ZUWkaerS
『問 至道無難 唯嫌揀択。 如何得不揀択。
師云、 天上天下唯我独尊。
云、此猶是揀択。
師云、田庫奴 什麼處是揀擇』(趙州録405)
趙州は『天上天下唯我独尊』は揀擇ではないという。
当然だろう。
閻魔はドグマに拘り過ぎ
少し語録から離れて自分で語れ
語録を盾に語れとは語録は教えて居ない
悟りを自分の言葉で説明出来ない閻魔は悟れて居ない
語録や経典に依存しなければ語れないのは誤謬を指摘されるのが怖いからである
そんな畏怖も克服出来て居ないで、態度だけやおら大きいのは言うまでも無い
これだ
法華経勧持品第十三の二十行の偈
諸の無智の人 悪口罵詈等し
及び刀杖を加うる者あらん 我等皆当に忍ぶべし
悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に
未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん
或は阿練若に 納衣にして空閑に在って
自ら真の道を行ずと謂うて 人間を軽賎する者あらん
利養に貧著するが故に 白衣のために法を説いて
世に恭敬せらるること 六通の羅漢の如くならん
是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い
名を阿練若に仮つて 好んで我等が過を出さん
而も是の如き言を作さん 此の諸の比丘等は
利養を貧るを為ての故に 外道の論議を説く
自ら此の経典を作って 世間の人を誑惑す
名聞を求むるを為ての故に 分別して是の経を説くと
常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に
国王大臣 婆羅門居士
及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて
是れ邪見の人 外道の論議を説くと謂わん
因みに、「この経」の意味は法華経のことではない
経とは言葉と言う意味であり、経典で「この経」と言えば
「釈尊の教え」=仏道そのものの事となる
「この経」を「法華経」と読むのは法華衆の悪癖であり誤謬である
閻魔の場合、何が一番だめかと言うと
例えば悟りを言葉で説明する事は確かにナンセンスなのであり
正確に言うなら悟りは言葉で説明など出来ないのは本当の話なのである
奴の場合、それを逆手にとって「誰も説明出来ないはずなのだから悟達を自称してもバレない」
と踏んでいる事が一番ダメなのである
説明出来ないのは悟りの内容なのであって
悟りの様相は既に様々な経典に説明済みなのである
なので、嘘を言ってもバレるし、詐称してもバレるのである
閻魔が悟れて居ない大きな理由は、輪廻が理解出来て居ない事が一番大きい
彼は自称「成った人」を気取っては居るが、諸行無常・諸法無我しか理解出来て居ない
だから、人が何故生まれ、何故死ぬのかを悟達出来て居ない
これは業報輪廻が理解出来て居ないからなのであり
業報輪廻が理解出来て無いなら、当然縁起も涅槃も分かって居ないことになる
それは「いま、ここ」が分かって居ないと言う事なのであり
つまり、現在有体過末無体も不生不滅不常不断不一不異不出不来も分かっておらず
結局それだと「縁起の現観」など出来て居ない事となる
だから他人を馬鹿にするのである
859 :
神も仏も名無しさん:2014/12/21(日) 16:15:29.55 ID:ZUWkaerS
>>855-
>>858 是揀擇是明白。
★老僧不在明白裏。
我亦不知。
問事即得。
禮拜了退。
860 :
神も仏も名無しさん:2014/12/21(日) 16:38:27.72 ID:ZUWkaerS
『問 至道無難 唯嫌揀択。 如何得不揀択。
師云、 天上天下唯我独尊。
云、此猶是揀択。
師云、田庫奴 什麼處是揀擇』(趙州録405)
趙州はみずから『不在明白裏(悟りのうちにはいない)』という。
当然だろう。
閻魔も当然『『不在明白裏』だ。
その趙州が『天上天下唯我独尊』は揀擇ではないという。
当然だが、なぜ揀擇ではないのか、応えられるものに応えてもらおう。
>>855-
>>858 この体たらくだ。
やはり無駄だったな。
<『我亦不知』という明快な揀択放棄の境地すら揀択で受け止めているようでは、もう何を言っても遣っても無駄である。
観念の業火に油を注ぐだけだ。
趙州が『問事即得 禮拜了退』と匙を投げるのは当然だろう。>
閻魔、仏はな
匙なんか投げないんだよ
凡夫なら匙を投げてしまう事を悟って分かってるんだからな
お前は本当にバカな奴だな
糞カキべらが匙を投げるか否か
良く考えろ?
考えるんじゃない、感じるんじゃない
864 :
神も仏も名無しさん:2014/12/22(月) 11:38:14.70 ID:OWuAtbse
阿部将英=あべ頌詠
エデンの樹
包茎
詐欺
投資
コスモ大和スターアベニューファーストウィング806
これらの検索キーワードを
組み合わせてググれ
865 :
神も仏も名無しさん:2014/12/22(月) 14:47:35.93 ID:DGeeAveL
866 :
神も仏も名無しさん:2014/12/22(月) 18:53:27.33 ID:YC/ak2r4
867 :
記憶喪失した男:2014/12/22(月) 20:38:02.60 ID:T17TBwg5
南直哉の「善の根拠」を今、読んでるけど、
この本、すごいぞ。すごい良いぞ。最先端仏教を知りたければ必読だ。
868 :
記憶喪失した男:2014/12/22(月) 20:54:44.52 ID:T17TBwg5
南直哉の「善の根拠」、本当にすごい。
胎児への生命工学を、胎児は、親にとってその所有権において借りている状態にあると説く。
不倫がいけないのは、家族を発明したからだと説く。
すばらしすぎる。
869 :
神も仏も名無しさん:2014/12/22(月) 21:04:33.97 ID:l5jObKj/
文字に一喜一憂
870 :
記憶喪失した男:2014/12/22(月) 21:42:41.47 ID:T17TBwg5
「善の根拠」 南直哉
5位/494作品。日本語小説。
必読の名著である。
退治に対する生命工学を、退治に対する親の所有権は「借りている」状態にあると説く。
不倫がいけないのは、家族を発明したのだと説く。
曹洞宗の僧侶の書いた本であるから、根拠とする出典を仏教に求めたり、道元の「正法眼蔵」に求めたりするが、
一神教に対する知識もおさえており、
現代に生きるものは、キリスト教もイスラム教も仏教も存在することを知っているのだから、
自分で宗教を選んだはずだというようなことが書いてある。
五十年後まで読み継がれるべき名著であり、南直哉は場合によっては聖人に列せられてもおかしくない哲学者である。
現代仏教の最先端はここに確立した。
現代哲学の教えがここに書いてある。
871 :
神も仏も名無しさん:2014/12/22(月) 22:53:44.36 ID:DtyzTw13
>>870 もう南直哉程度は、この仏教議論スレッド117では解決済み。
もっとも、宣伝 乙!
872 :
記憶喪失した男:2014/12/22(月) 23:09:54.51 ID:T17TBwg5
南直哉の「善の根拠」は、
独我論ではなく、自己と他者が存在するためには、他者の自我を認めねばならず、
善悪とはその他者に対する自己に課せられる義務により生じるとしている。
このアイデアが、ヴォネガットの「チャンピオンたちの朝食」によるのか、
おれの「論破されるへげぞ」だったかなんだかの掌編を根拠にするのかはわからない。
チンパンジーやクジラは四歳児の知能をもつとしている。
しかし、四歳児に刑法は問えない。
だから、善を幼児には親が貸し与えているのだとしている。
そして、それをもって、チンパンジーやクジラの人権を禁止している。
まあ、これが、一神教では神に与えられて善悪が決まるが、
仏教は、縁起、自己と他者の関係性から生まれるとしている。
だから、仏教なんだけど。
一神教の神には、仏教では無常が相当するとしている。
決定論の否定ってのは、
釈尊が説いた「因果応報により、殺人や盗みが起きるのなら、前によるものの執する人々には
なされるべきことがならない。これではいけない」みたいな仏典を根拠に否定していた。
善悪の根拠は自我以外に有り得ない
思いを省いたとしたなら、そもそもこの世界に善悪が無い
善悪が有り得ない素の世界には、仏が教え続けてきた真の善が蔓延り遍満し満ちている
それは思えば思うほど遠のき近づけない
この世界には、思いを離れれば離れるほどに仏の教えたかった世界があり
それは信じれば信じるほどに遠のいていき、神なる幻が強化されていく
神を信じる限り神は無くならず、仏の言わんとしていた世界は遠のいていく
神は信仰により守られ、神を信じるものたちによって涅槃は忘れ去られていく
神は涅槃を破れないと言うのにも関わらずにだ
人は、その持てる思いを以って四苦八苦の解決に神を作り出した
名を付け作用を割り当て耐え忍ぶことを見出し覚えた
それは信じる事によって実現可能な処世術に過ぎない
仏は苦悩に苦悩を重ねて、苦悩の根源を所謂「我思う、ゆえに我あり」にあることを突き止めた
人の思う我は人以外に持ち得ず、その他の生類でも人ほどの我思うを持ち得ない
そしてこの世界・全宇宙の運行に「思う我」はそもそも存在しない事をも仏は突き止めたのである
四苦八苦は人の思い・我が選び出し作っているに過ぎず、それは神をも想像により創造してしまう位
強敵であった訳である
話を戻すなら、善悪の根拠はこうして自我=思い以外に有り得ないとなるのである
875 :
記憶喪失した男:2014/12/23(火) 09:48:29.38 ID:I2qM4pcA
>>873-874 少なくても、それよりは南直哉の方がありがたい教えであるように思えるね。
あなたのいってることは南直哉の「善の根拠」にも書いてあるが、
結局、涅槃が何かわからない、涅槃では善も悪もないようだと書いてある。
だから、仏教を正しく教えてもらおうという人には興味ないかもしれないが、
大切な教えを哲学として研鑽している人には参考になると思う。
少なくても、仏典に書いてあるからダメとか、ヴァチカンで決まったからダメとかじゃ、
納得する現代人はいないでしょ。
「酒を飲んではならない」という項目では、別に酒飲むことを禁じていない書きっぷりだよ。
876 :
神も仏も名無しさん:2014/12/23(火) 12:27:22.43 ID:zg69Wodg
>>875 南直哉も、観念の業火に焼かれているだけさw
問事即得<揀擇>
禮拜了退
877 :
神も仏も名無しさん:2014/12/23(火) 12:40:34.16 ID:zg69Wodg
>>872 >独我論ではなく、自己と他者が存在するためには、他者の自我を認めねばならず、
>善悪とはその他者に対する自己に課せられる義務により生じるとしている。
『問 至道無難 唯嫌揀択。 如何得不揀択。
師云、 天上天下唯我独尊。
云、此猶是揀択。
師云、田庫奴 什麼處是揀擇』(趙州録405)
趙州は『天上天下唯我独尊』は揀擇ではないという。
当然だが、なぜ揀擇ではないのか、応えられるものなら応えてもらおう。
すくなくとも観念の業火に焼かれた南直哉には無理だ。
878 :
記憶喪失した男:2014/12/23(火) 12:56:50.15 ID:I2qM4pcA
>>877 「揀擇」の意味がわからんが、ググったら、王が妾を選ぶ儀式とあったぞ。
天上天下唯我独尊ってのは、中国で成立したことばだが、
天上天下唯我独尊が妾を選ぶ儀式を行わないというのは、
「善の根拠」によれば、家族という発明品を守るためであるな。
南直哉はちゃんと答えている。
南直哉の「善の根拠」は、法学に詳しい人に確認してほしいのだが、
おそらく、現代最先端法学理論を参考に作られている。
超州録を根拠に下世話な話で煙にまこうといったって、世の中、そんなあまくはないよ。
879 :
記憶喪失した男:2014/12/23(火) 13:17:20.88 ID:I2qM4pcA
そんな禅問答やるより、
まずは「碧巌録」をわかりやすい日本語訳にしてくれませんかね。
「大正蔵経」や「南伝蔵経」はまだ漢文ですから、
早く日本語訳を無料で配布してくれませんかね。
世の中広いですから、読めるなら読んでやろうってやつはいっぱいいると思いますから。
880 :
記憶喪失した男:2014/12/23(火) 13:17:55.77 ID:I2qM4pcA
そんな禅問答やるより、
まずは「碧巌録」をわかりやすい日本語訳にしてくれませんかね。
「大正蔵経」や「南伝蔵経」はまだ漢文ですから、
早く日本語訳を無料で配布してくれませんかね。
世の中広いですから、読めるなら読んでやろうってやつはいっぱいいると思いますから。
881 :
記憶喪失した男:2014/12/23(火) 13:19:58.00 ID:I2qM4pcA
壁厳録は、ああ、「国訳一切経」ではすでに日本語訳されているのですね。
「国訳一切経」の無料公開が早く待たれるところですねえ。
882 :
神も仏も名無しさん:2014/12/23(火) 13:42:40.92 ID:zg69Wodg
883 :
記憶喪失した男:2014/12/23(火) 14:10:21.91 ID:I2qM4pcA
>>882 ありがとございます。
しかし、漢字が難しくて意味がわからない。
解説してくれ。
884 :
神も仏も名無しさん:2014/12/23(火) 16:00:31.76 ID:zg69Wodg
>>883 『問事即得(揀択)』、問うこと(如理作意・如実知見)に留まること自体がナンセンス(仏法センスがない)だから、
解説はしない。
ただ、現代日本語に迷訳しておく。
未だ仏法=仏道を透過する前には、仏法はまるで銀山鉄壁のように立ちはだかっていた。
透過してみると、自己(観念)が元々その鉄壁銀山であったのだ。
それはどういうことなのかと問う人があれば、彼に対して答える。
もし、仏法をあらわに気づくきっかけがあり、そのきっかけで(万法を)直覚できれば、
急所を押さえ、凡⇔聖、迷⇔悟の分別(揀擇)を通さないからこそ、分不相応ではないのだと。
もし未だそうでないならば、(下記の)古人の行動に参究せよ。
『質問します。「仏法に達するのはなにも難しいことはない。ただ選り好みを嫌うだけだ」といいます。
選り好みをしないとはどういうことでしょうか?」
趙州和尚は言った、「天上天下唯我独尊ということだ」
僧が言う。「天上天下唯我独尊は、まだ選り好みですよ」
趙州和尚は言った。「この田舎者めが! どこに選り好みがあるというのか」
僧に返す言葉はなかった。 』
(趙州の境地は)深い海に似て、また山のように堅固だ。
(この僧は)猛風に立ち向かって行く蚊やアブ(虻)のようにすぐ吹き飛ばされてしまう。
また、オケラやアリが鉄柱(趙州)に噛みついても歯が立たない。
いくら選り好みで問うても、軒に当たる布製の太鼓のようなもので、一向に音が出ない。
以上
885 :
神も仏も名無しさん:2014/12/23(火) 16:23:52.84 ID:zg69Wodg
×急所を押さえ、凡⇔聖、迷⇔悟の分別(揀擇)を通さないからこそ、分不相応ではないのだと。
〇凡⇔聖、迷⇔悟の分別(揀擇)を通さないという急所を押さえるからこそ、分不相応ではないのだと。
886 :
記憶喪失した男:2014/12/23(火) 19:08:28.86 ID:I2qM4pcA
>>884 ありがとございます。
しかし、全知や真理に対する狂信のことばですね、これは。
現実的に生きる上で役に立つ善とは、不可知論であり、かつ、人間関係により成り立つものです。
>>886 へげぞ、お前は確か例の病を抱えていただろう
その病のままに仏教の最も難解とされる境地は腑に落ちないと思われる
人間関係だろうと不可知論だろうと、所詮そんなものは思いの上に構築された概念に過ぎず
その概念を用いずに捨て去る所に仏教の仏教たる真価がある
仏の教える「真なる善」とはお前が想定するそれではない
簡単に言うなら「仏道修行」を行う事が善となり、「涅槃に導く一切行」こそが仏曰くの真なる善となる
それ以外は残念だが悪行と看做され煩悩苦に喘ぐ以外に果報は無い
そう言う意味で語録を示してくれた閻魔は正しいと言えるし
「我思う、故に我あり」を病ゆえに透過するのが厳しいお前には
ちと難しいと思われる
作品の肥やしとして首を突っ込むには荷が重過ぎると苦言を呈しておくよ
止めるつもりはないがね
AC/DCゆうつべ視て興奮して酔っぱらったわしはつぶやく
今ここ
などというが
今ここのわしは
悟ってなどおらん
なら
悟ってないわしが
悟ってないまま生きる
それがすべてなんだろう
酒飲んで抜いて泣いて生きるぜ
おうよ!!
わしは思考停止の信仰者だ(`・ω・´)
あり?
削除された?
酔っぱらいすぎて確認してなかたのか?
え〜屑ども(・ω・)ノ
てめーらはAC/DCではたらんから
Slayerをとりあえず聴いとけ
この世界を愛してる者の叫びぐらい聞いとけ
890 :
記憶喪失した男:2014/12/24(水) 17:13:43.25 ID:uO/NZC1w
>>887 そんなの狂信者だよ。
キリスト教への狂信者は笑われてるけど、仏教への狂信者も充分、バカにされて糾弾されるべきだとぼくは思うね。
892 :
神も仏も名無しさん:2014/12/25(木) 23:09:18.58 ID:i3B7lSZE
>>890 >仏教への狂信
仏教への狂信はありえても、
<仏法>への狂信はありえない。
問事即得<揀擇>
>>892 そうだな
しかし狂信でも妄信でも有り得ない訳じゃない
例えば対象が仏法であろうと、自己に於ける道理の基準点が狂っていたならどうか
統合失調などは仏法と言う道理が既に狂って捉えられてしまっている訳で
それは経典を誤解してたり教えを誤解してたりを通り越し
我が身に知見出来る全てが狂っている事になる
傍から見れば行為や考えが変だなとと見えても、当人にとってはそれが正常かも知れない
仏法は狂うことなど有り得ないのだが、受け手が狂っていたなら
当人にとっては仏法が狂って見える、道理故にな
仏教は世界宗教な訳で、あらゆる事象は現成公案なのだから
四角四面では語れないと俺は思う
>>893 仮にだけど、世界中の人が主観が狂うような病に侵されているとしたら、
誰一人として正しい仏法を認識出来ない道理ってことだよね
895 :
神も仏も名無しさん:2014/12/29(月) 03:03:51.80 ID:wCv6zWY+
<釈迦の驚くべき肉食の未来予言>
肉食は「驕り」を生じさせる。驕りから、過剰な物欲の思考が生じる。
驕りが「貪欲」を生み出すのだ。その理由からも、肉を食らうべきではない。
貪欲は人を惑わせる。儲けのために生き物が殺され、
肉を得るために対価が払われる。
それらは双方ともに法界の摂理に外れる。
それらにより、人は自ら、自らを不幸にする。
「三種の制限の付いた浄肉は、食べても支障が無い」と言われているが、
実は「三種の浄肉」なるものは存在しない。 それゆえに肉を食さず。
ところが世の理論家たちは、この道理に気が付かない。
彼らは己の推理し得る範疇だけしか承認しないからだ。
未来の世になり、彼ら理論家は、「肉食は適当である」と論ずるだろう。
菩薩は衆生(すべての生命)を己の身に同じくする。
菩薩は衆生(すべての生命)を我が子と想う。
それゆえに、まさに一切の肉を食さず。
by ゴータマ・ブッダ(仏教経典 楞伽経より)
>>888 抜くのはやめたほうがいいです。
菩提心を捨てることになるのです。
ちんけなものに、慈悲の種子を浪費するのは自虐的です。
>>894 例えばそう言う状態にあったとしても
この世界には絶対に狂わないものがある
有り触れてるので見過ごしてるだけでね
それこそが仏の用いる正しさの物差しなのであり
仏法の骨格とも本質とも言える
仏法に本質など無いって怒る人が居るけどね
答え言いながら怒っちゃダメだと思う
>>897 ちなみにあなたの言う仏っていうのは、どの仏さんのことなの?
>>898 人としては教え主である釈尊
法としては遠塵離垢・甚深微妙の理法
凡そ仏教徒ならそれ以外は外道となる
900 :
888:2014/12/30(火) 21:10:45.56 ID:GxOeLQSX
>>896 あんなくるったものに返信、ありがとうございます^^;
ぬかないとおこりっぽくなるというのもおおきなりゆう(藁
縁起の理は不変の実体なのか?
縁起しているものではなく、縁起自体の如実
仏教は一貫して縁起の理をつらぬく訳だが、究極にはそれ自体も捨てる?
>>901 「縁起」と言う作用自体は不変であるが実体ではない
何故なら縁起は存在ではない為、「有る」と言える姿を持たない
そして、縁起の作用自体は不変でも、縁起する以上不変ではない
「縁起をも捨てる」とは、「縁起してる」と言う考察や思念・想像・妄想を捨てると言う意味である
縁起自体を捨てる事など出来はしない
呼吸は縁起しているのであり、血流は縁起しているのであり、新陳代謝は縁起しているのである
これらを逃れる術は無い
しかし、感覚や思念や思考や妄想を捨てる方法はある
無いとか信じられないと思わせている事こそが先入観や見過ごしなどの
増上慢なのである
人はその慢によって相当損をしているのである
>>901 縁起の理が絶対ということはないけど、仏教の大前提ではある
もし縁起自体が変化するなら、世界が成り立たないか、他の法則で支えられる必要が出てくる
その場合は別の説を主張するということで、必然的に別の宗教になる
>>903 縁起の理は縁起の理に非ず、それを縁起の理と名付く
その縁起の理は「非絶対非非絶対」である
905 :
記憶喪失した男:2015/01/02(金) 13:55:42.92 ID:+N1K3tS2
南直哉の「善の根拠」では、
自己の他に他者を想定できて初めて善悪が生まれるとしている。
で、思ったんだけど、この他者ってのは、空想上の存在に対しても成立するなあと思った。
南直哉は、チンパンジーやクジラの知能は四歳児であり、刑法を問える年齢にないとしている。
だから、南直哉にとっては、チンパンジーやクジラ、四歳児以前の子供は善悪に関わらないことになる。
だが、もし、精霊とか妖怪とか悪魔とか天使とか神とかの他者を想定できた場合、
それらに対する義務と罰が善悪として成立することになる。
へげぞ、想定とは思いに定めてるに過ぎない
それは妄想と大差ない
統失は自我に対しての執着を客観視し難いだろ?
だから、気付けない事が多い
善も根拠も概念に過ぎず、概念は思いに過ぎない
仮に文字に固定して定めたとしても、また文字から拾って
意味を考え思う
それは妄想と大差ない
妄想と指摘されて悪く考えてはいけない
考えは全て妄想なのだから逃れられず
この指摘すらも妄想と大差ないのだから
統失の帳(とばり)を払いたければ妄想を捨てればいい
それが出来れば本来の面目に適うことも可能となる
907 :
記憶喪失した男:2015/01/04(日) 13:02:58.94 ID:Dk1tLpJR
>>906 統失が客観視しづらいということはない。
無我に対する狂信があなたにはあるね。
神を使って進化論を否定するのと変わらない愚かな考え方だよ。
908 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 16:03:56.02 ID:JdJ0PJUM
あのね、仏道修行者が人間のできている老人とかに敵うわけがないの
自分は預流の者だから聖者であるとか勘違いしないで
格の違いをしりなさい。
909 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 16:56:20.86 ID:JdJ0PJUM
よくみなせえ ここにいるのは私を含め、ただのサイコパスと人間の中間
ぐらいのものしかいないじゃろう。
910 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 16:58:07.84 ID:JdJ0PJUM
心の澄んだものが来るわけがないのじゃ
汚らわしい!!!
911 :
記憶喪失した男:2015/01/04(日) 16:58:24.08 ID:Dk1tLpJR
>>908 誰がおれを聖者だといってるんだ。
聖者なんかお断りだ。
勝手に想像して文句言うな。
912 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 17:27:48.57 ID:JdJ0PJUM
そのとおりですね。反省します シュン・・・
913 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 17:36:01.56 ID:JdJ0PJUM
観察していくうちに私はただのサイコパスだってことにきづいたんだ
けっこういるね 絶対に100人に一人とかそんなレベルじゃない。
愛着をなくせばただのサイコパスだよ〜〜だまされないでね
みなさん
914 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 18:16:04.56 ID:JdJ0PJUM
なんでお寺のお坊さんは欲をなくす修行をしてるのに
あんなに気に満ちてニコニコピンピンしてるんですかね
欲がなくなればなくなるほど善が芽生えるとか生きるのが楽になるとか
ウソをばらまいてるね そんなことはあり得ない
実践してみろ 後悔するぞ
915 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 18:20:07.26 ID:JdJ0PJUM
自分がなくなるんじゃなくて自分への関心がなくなるんだよ
ただそれだけ 枯れて死んでいくビジョンだけが見えるだろう
涅槃は約束されない 絶対に
916 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 18:26:17.62 ID:JdJ0PJUM
最後だ 絶対にだまされるな
約束はいらないわ
果たされないことなど大嫌いなの
918 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 19:28:12.53 ID:JdJ0PJUM
うそつきね 私は へへ
919 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 19:29:12.61 ID:JdJ0PJUM
あんた人間じゃないね 何者なんだろう
920 :
神も仏も名無しさん:2015/01/04(日) 19:44:28.07 ID:4ZbnlT4y
本能ですよ
>>907 無我は狂信など不可能
信じられる根本も無き故が無我なのだからね
悟りを別名「諦」とも言うが、これは諦めるとも読める
必死になって求め続けて結局何も無かったと言う諦め
これがある意味悟りなのである
諦められないから迷うのである
統失が統失を諦めたら最早健常と何が違うのか
あとは暴走的行為を現代の薬効で抑えてもらえば
卑下するものは何も無いと俺は思う
922 :
神も仏も名無しさん:2015/01/06(火) 11:12:53.07 ID:tzKc8EGl
923 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 08:40:27.46 ID:fpkbXn1l
>>915 >自分がなくなるんじゃなくて自分への関心がなくなるんだよ
ちゃうよ。
自分なんて元々無かった事が解るんだよ。
我々が「自分」だと思っているものをよーく観察すれば明らかだよ。
自分って実は「自分という塊」があるんじゃなくて、
縁に触れて起こった認識によってポッと出ては消えまたポッと出ては消えているだけのもの。
その出ては消え出ては消える点を線で結びつけて「これが自分」とか「これが世界」などの
実体という塊を作り出しそれらに執着するのが我々凡夫というやつなのでは?
真実は縁によって発生しているだけ。それが縁起であり無我であり無常であり空。
縁起=無我=無常=空。
>>923 自分も縁起して成り立っている事をお忘れなく
縁起と言う現象しているのが世界なら
己の身体も縁起と言う現象によって成り立っているのである
故に、無我の理解は一大事なれど、それはそこで終わりなのではなく
無我を理解するまでに至れた我執を起こしていた当体の問題が
そこにはまだ残っているのであると老婆心
我執は無根拠且つ無体では絶対に起こらないのであり
無我は無体の事を言っている訳では決して無いのである
あなかしこ
925 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 09:02:17.32 ID:fpkbXn1l
>>921 >諦められないから迷うのである
一番大きな諦めは自分を諦めること。
そうすると自分など無く、ただただ縁に触れて起こっているだけの世界が元々
あった事に気づく。
その世界を仏とも言う。(ただ世界や仏という実体があるわけではない)
要は、世界を眺める視点が変わるだけの話なんだろうな。
自分=世界=仏という感じに。
>>925 >そうすると自分など無く、ただただ縁に触れて起こっているだけの世界が元々あった事に気づく。
そうであるなら誰が気付いていると言えるのか
その理屈のまま鵜呑みでは気付く観察者が蔑ろのままであり
それではちっとも悟りに成らないと言えよう
927 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 09:10:09.15 ID:fpkbXn1l
>>924 >己の身体も縁起と言う現象によって成り立っているのである
縁でしかない故に己の身体なんて最初から無いんだけどね。
映像が身体なのか?匂いが身体なのか?味が身体なのか?
実はそれらを統合して身体という実体を我々が思い描いているだけであり、
その思い描いた身体を自分であると思い込む。
それがそもそもの間違い。
>>927 >縁でしかない故に己の身体なんて最初から無いんだけどね。
もしそうであるならどうしてその書き込みが出来よう
>その思い描いた身体を自分であると思い込む。
何が思い込みを起こしているのか
もう一息足りないと思われる
道は間違って居ない、が予断は辞せない
身体と心の隷属関係を逆にして考えてみると或いは解るかも知れない
929 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 09:16:45.74 ID:fpkbXn1l
>>926 >そうであるなら誰が気付いていると言えるのか
>その理屈のまま鵜呑みでは気付く観察者が蔑ろのままであり
観察者という実体などないよ。
個別に眼耳鼻舌身意と呼ばれるそのものへの縁によってそれらが起こっているに過ぎない。
それらは完全に別個のものだ。
930 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 09:19:44.40 ID:fpkbXn1l
>>928 >その思い描いた身体を自分であると思い込む。
>何が思い込みを起こしているのか
>もう一息足りないと思われる
もしや脳がそれらに気づいていると言いたいのかな?
脳ですら観察される者でしかないよ。
>>929 >それらは完全に別個のものだ。
残念、遠退いてしまった
仏の悟りし境地は「出世間無分別」の涅槃である
それは龍樹尊者曰くの
「不生不滅不常不断不一不異不去不来」と全く異ならない
あなかしこ
932 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 09:25:07.63 ID:fpkbXn1l
>>928 >身体と心の隷属関係を逆にして考えてみると或いは解るかも知れない
身体も心も観察される者。
どちらも主体ではないよ。
>>930 涅槃とは何かを考えよう
ただ考えても定まらないから坐禅して雑念を極限まで少なくしてから
良く涅槃に付いて考えよう
ググって資料集めて、必死に涅槃に付いて考えよう
はっきり解った時、同時に無明も解け三明も解る
934 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 09:28:18.17 ID:fpkbXn1l
>>931 ひとつこれらについて
>>931さんの見解を聞いてみたい。
見解を解りやすく述べていただけると有難い。
>>932 >身体も心も観察される者。
誰が観察してるのかな?
その矛盾を解決できなきゃそのままじゃ邪見だよ
>>934 考察を行っている「私」なるものが無我によって妄想であるとあなたは考え至れた
しかし、考え至ったその当体(つまり観察者たる自己)をそのままでは無下に否定してしまうのでもある
観察者が居ないなら観察は成り立たない、故に矛盾してしまう
我々は人間と言う現象に過ぎず、端的に言うなら宇宙全体のなかの現象物質の一つに過ぎないのである
そして、その物質が思い妄想しているこの「考え」も、観察しているんだという「思念」も
漏れなく全て身体によって起きている現象に過ぎず、それは全て妄想なのである(この書き込みすらも漏れない)
身体は縁起現象して成り立っていて、消耗と生成をくり返し、限度を迎えたらこの状態のままではなくなるのである
それらの現象の一貫の中に於ける「思念・思考」に過ぎないのである
身体の現象が限度を向かえれば、その思念は跡形も無く消えるのである
蛍光管が寿命を迎えたら発する光を失うが如く、とそれは同じことなのである
937 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 09:39:58.90 ID:fpkbXn1l
938 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 09:40:50.40 ID:fpkbXn1l
>>938 では釈尊が教えた「涅槃」とは何のことか
それが解ければ無明も解け三明が解る
940 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 09:47:35.04 ID:fpkbXn1l
>>936 >我々は人間と言う現象に過ぎず、端的に言うなら宇宙全体のなかの現象物質の一つに過ぎないのである
>そして、その物質が思い妄想しているこの「考え」も、観察しているんだという「思念」も
>漏れなく全て身体によって起きている現象に過ぎず、それは全て妄想なのである(この書き込みすらも漏れない)
それ全部
>>936さんの思考の中の出来事だよ。
>>940 それが何か?
人は妄想しなければ言葉を交わせず
受けては妄想せねば意味を汲み取れない
何か問題でも有るかな?
仏は何も説いていないし妄想をしないのである
では経典なる教えは誰が最初に説き、誰がどの様にして書いたのか
妄想をちょっとでも用いたら仏と言えどもそれは仏ではないだけ事なのである
釈尊は仏であられたが、教えるときは妄想を免れ得ないので仏ではなく
それは菩薩の行為に過ぎなかっただけなのである
仏は一度成ったら戻らない、とは先入観に過ぎず、先入観も妄想に過ぎないのである
妄想しようがしまいが、それでも仏が敢えて教えてくれた涅槃は永遠なのである
あなかしこあなかしこ
943 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 10:03:51.44 ID:fpkbXn1l
>>941さんの中ではまだ世界と自分が分離しているように思うがどうだろう?
坐禅により「考えを落とす」とか「考えに囚われない」ようにする意味を考えたほうがいい。
実物を知るためでしょ?
>>942 ふざけたいなら勝手にどうぞとしか言いようが無い。
ではそろそろこの辺で。。
>>943 >ふざけたいなら勝手にどうぞとしか言いようが無い。
残念
そのままでは題目念仏阿字観坐禅やらの専修修行とか
宗派全体の存在意義とか問題が山積してて混乱するだろう
もう少しなんだがな
>坐禅により「考えを落とす」とか「考えに囚われない」ようにする意味を考えたほうがいい。
>実物を知るためでしょ?
自分と言う実物を解らないものに何の実物が解ると言えようか
「知る」も妄想を免れ得ないと言うのに
945 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 10:27:27.24 ID:fpkbXn1l
>>944 >自分と言う実物を解らないものに何の実物が解ると言えようか
老婆心ながらもう一言。
その
>>944さんの言う実物がこれ
>>936じゃあなぁ。。
もう少しって
>>944さんはこれで悟った気でいるのかな?
もうちょい追求したほうがいいと思うよ。
>>943 > 941さんの中ではまだ世界と自分が分離しているように思うがどうだろう?
俺個人の見解では「路端の石ころ」と「自分自身」と言う存在各々に
本質的な違いなど無いと至った
947 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 10:29:41.73 ID:fpkbXn1l
「世の中に雪ほど黒いものはない」のだから。
>>945 >もうちょい追求したほうがいいと思うよ。
自分を相手より優位であると画策するのは邪見に他ならない
それは涅槃に導かない
>>947 この世界の真実は暗闇であるのに黒いとはこれ如何に
950 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 10:40:32.97 ID:fpkbXn1l
>>948 >自分を相手より優位であると画策するのは邪見に他ならない
>それは涅槃に導かない
その言葉はそのままお返しします。
>>949 >この世界の真実は暗闇であるのに黒いとはこれ如何に
言葉の意味を捉えちゃダメね。。
>>945 >>950 >もう少しって
>>944さんはこれで悟った気でいるのかな?
お題
どうなれば「悟った」と言い得るのか
昔から「無学」とは言うが、学べる事が無いとは
仏道に於いてどうなれば言う事が出来るか
印可云々も関係無く、そんなのはレッテル貼りに過ぎない空言である
自己満の極みたる「無学」の象徴、悟りの自認とは何か
何が解れば悟りなのか
>>945は答えてみると良い
涅槃を解る以外に何があるのか楽しみだわいw
952 :
神も仏も名無しさん:2015/01/12(月) 11:06:19.98 ID:fpkbXn1l
>>951 >昔から「無学」とは言うが、学べる事が無いとは
「学ぶ」とはどこまで行っても思考の世界だからでしょう。
>何が解れば悟りなのか
自己でしょう
単純な対立かな・・w
双方ともに、勝義「空」は共通していて、
何がしかも実体・主体たるもの無し―故に、仏も教えも悟りも無し、と。
ただ、そこで
一方は、世俗に於いて法を説いた如来がいて、実践する凡夫・比丘がいて、
そういう世俗の存在はあると言い
一方は、世俗だろうが何だろうが、そこにはいかなる人物も存在しない、と・・。
諸縁の結び目たる五蘊存在のブッダが法を説き、
諸縁の結び目たる五蘊存在の衆生が、発心し修行し成道する、
で問題解決のような気がするがなぁ・・。
どの意味で、でおこを探しても我は無い、と。
最後一行SとDのタイプミスw
>その意味で、どこを探しても我は無い、と。
勝義諦ってよく生悟りの温床になるよね
本来的には一番最後に到達、理解するはずだが、初禅に到達しているかも怪しい連中に限って…
世俗は視覚優位
勝義は触覚優位
957 :
神も仏も名無しさん:2015/01/13(火) 08:45:56.22 ID:R8ATaN34
>>952 >自己でしょう
自己が解れば無明が解明出来て涅槃が証せるのかな?
もしそうであるならご自分の言葉を以ってご説明願いたい
958 :
神も仏も名無しさん:2015/01/13(火) 13:01:56.76 ID:N0CkYMNA
●ウ・ジャナカ・セヤドー(=菜食主義)
ミャンマー政府より上座部仏教瞑想最高指導者として
アッガーマハ・カンマターナなどいくつもの称号を授与
マハーシセヤドーのもとでヴィパッサナー冥想の修行を積む。
●タマニャーサヤドゥ(=菜食主義者)
上座部仏教最高指導者。仏教徒が八割を占める同国に於いて、
タマニャーサヤドゥ僧侶は多大な影響力を 持つ。
ビルマ軍政府も彼には手が 出せない。
・六年間の軟禁状態から解放されたノー ベル平和賞受賞者・
アウンサンスーチー氏 は一九九六年七月、首都を出るのを軍部に
許可された のは、唯一、タマニャー僧正を 訪問する時だけであった
●S.N. ゴエンカ(=菜食主義者)
上座部仏教のヴィッパッサナー瞑想最高指導者
ゴエンカ氏はパドマ賞をインド大統領から2012年に授与されました。
パドマ賞は、インド政府が民間人を対象とした賞の中でも最も栄誉ある賞です。
インド、カナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、
フランス、イギリス、日本、スリランカ、タイ、ミャンマー、
ネパールなどの国では、ゴエンカ氏の指導に基づき、瞑想センターが設立された。
959 :
神も仏も名無しさん:2015/01/13(火) 13:05:47.96 ID:5fF+LSI2
禅における悟り(解脱)は煩悩がなくなり人に迷惑をかけなくなり人格者となり
人に好印象や特に幸福を与えられるようになったら完了なのではないですか?
インターネットの普及に貢献したビルゲイツやIPS細胞を発見した山中伸弥教授
が、釈迦が求めた世界を救う仏ではないでしょうか、しかし両者とも仏教における
苦行や修行をけいけんしていませんが。
ビルゲイツや山中教授は前世において悟りや苦行をしたのでしょうか?
悟りを得たものは来世において人を幸福にする仏となるのでしょうか?
世の中は人々の協調によって成り立っているのでその総体が仏と言えるのではないですか?
コンピュータが人工頭脳のほとけでしょうか?
960 :
神も仏も名無しさん:2015/01/13(火) 17:58:26.90 ID:5fF+LSI2
未来の話ですが
アメリカで脳で想起したものを映像化できる技術が発明されましたが
悟りの瞬間をドライブレコーダーのように捉えることができるでしょうか
夢の共有は早く実現してもらいたいです楽しみがまたひとつできます。
961 :
神も仏も名無しさん:2015/01/13(火) 18:19:46.50 ID:5fF+LSI2
言葉にできないことを想起して相手に伝えることもできるようになるかもしれません。
962 :
神も仏も名無しさん:2015/01/14(水) 03:10:22.67 ID:yXYvvZIE
つまり、何の苦労も無く他人の褌で悟りたい訳か
悟りを目指す間の苦労全部が悟りなのにそれは嫌だと分別する
それだと多分、映像だけいきなり見せられても「黄檗三打」を読む如くにチンプンカンプンだろうな
963 :
神も仏も名無しさん:2015/01/16(金) 01:14:49.04 ID:WSb1389f
刻々と移り変わる我を見るものは意識活動でしょう。
この意識活動が迷って煩悩を発しているのが苦しみでしょう。
この苦しみから救われるには、分別を捨てることであるというわけだ。
分別とは対立する概念である。
そうして仏の世界に帰依するために座禅やら念仏があるわけです。
帰依してしまえば、それは、涅槃寂静で、悟ったかどうかは、問題ない。
とか?
964 :
神も仏も名無しさん:2015/01/16(金) 05:52:52.21 ID:0AhimJJ8
>>963 >そうして仏の世界に帰依するために座禅やら念仏があるわけです。
帰依する対象は世界ではなく、仏と法と仏法を伝えてくれた有志(僧)に対して帰依するんだよ
仏法を伝えてくれた有志とは正教師も反面教師もともに区別無い、つまりあらゆる人々となる
悉有仏性だからね、仏性ある限り全ては教師たりえて、本来そこに何故はない
上記を三宝と言うんだが
現実的に言うなら「仏・法・経」と現代では言えるかもしれない
昔は経典が無い時代あり、有っても識字率の低さから読める人は限られていた
だから「仏・法・僧(僧侶・比丘衆・教団)」でなければ入門も入道も不可能に近かった
そんな訳で、現代で三宝を立てるとすれば「お釈迦様の教え」が最も近道なので
「釈尊(仏)・全理法(法)・経(僧)」がもっとも無駄が無いと言える
>帰依してしまえば、それは、涅槃寂静で、悟ったかどうかは、問題ない。
行為としては間違って居ないが、まだ涅槃とは何か?何故寂静と言えるのかの疑問が残っている
それ故にそのままでは寂静にならず所願満足にならないだろう
仏陀=豚でありシヴァ神=柴犬である。
お前達は豚と柴犬が食べようとしているコオロギである
バーカ
967 :
記憶喪失した男:2015/01/27(火) 18:44:10.48 ID:TBnf80Op
968 :
神も仏も名無しさん:2015/01/28(水) 00:53:51.61 ID:+KMPu6IQ
969 :
記憶喪失した男:2015/02/04(水) 22:15:32.72 ID:QD+qKhuL
970 :
記憶喪失した男:2015/02/14(土) 13:54:32.21 ID:qekuVnyR
この世界を滅ぼしてしまうほどに
また、ぼくは考えていた。哲学的命題というやつだ。
「幸せが絶対評価だった場合、我々はみんな縄文人より遥かに幸せに暮らしている。
だが、幸せが相対評価だった場合、ぼくは縄文人より惨めな生き物だ。
幸せが相対評価として存在するのなら、文明とは何だ? 何のために文明は存在するんだ」
それに対して、千秋が答えた。
「ええ、幸せは絶対評価なんじゃないのかな。絶対にわたしたち、縄文人よりは幸せだよ」
ぼくは千秋に激しくくってかかる。
「だが、恋愛は相対評価だ。恋愛は平等には人を幸せにはしない。恋愛によって人が進化するかぎり、
ぼくらキモブサは常に縄文人より不幸せに生きざるをえないんだ。
それも、きみのようなキモブサを恋愛対象として見ない不誠実な女性たちがいるからなんだ。
キモブサはなぜいつの時代も幸せになれないんだ」
「だって、文明って相対評価によって競争するから発展していくんでしょ。
絶対評価で幸せを測ったら、どこかの時点で文明は進歩するのをやめて満足してしまうと思うんだけど。
つまり、文明が競争原理をもつためには相対評価でなければいけないのよ」
「なるほど。恋愛が相対評価であるのは、生物が進化してきた根源の原理に基づくものだというわけか。
有性生殖が始まって以来、ぼくたちキモブサは常に競争原理を憎んできた。
ぼくたちキモブサは、いつの時代にも生まれてきて、そして幸せになれずに死んでいく。
ならばいっそ、世界を滅ぼしてしまってもかまわないんじゃないかと思えてくるくらいの絶望がぼくたちキモブサの心には棲みついている」
「そんな。世界を滅ぼすなんて」
「いいや、命が存在するのは奇跡だ。それは、幸せを相対評価によって測る現代文明が、
恋愛によって運営されているからなんだ。文明が恋愛によって運営されるかぎり、
いつかぼくたちキモブサの恨みによって、人類の文明は滅びてしまうだろう。
それくらいにキモブサの力は強く、キモブサは何度でも報われない人生を生きるために生まれてくる。
ぼくたちキモブサは、この世界など滅んだ方がよいのではないかと真剣に考える。
それは、幸せが絶対評価ではなく、相対評価だからなんだ。忘れてくれるな、ぼくというキモブサがいたことを」
971 :
記憶喪失した男:2015/02/15(日) 15:59:12.55 ID:H3dHd4Us
木の下の学校
あるところにかわいい女の子がいた。いとわれである。いとわれは学校の先生に嫌われ、虐められていた。
学級の仲間も先生にならっていとわれを虐めた。いとわれは学校で虐められて辛くなり、学校へ行きたくなくなってしまった。
そこで、いとわれは校長先生にお願いした。校長先生は、それなら町外れの学校へ通いなさいといってくれた。
いとわれが町外れの学校へ行ってみると、そこには大きな木が一本目印に立っていた。
その木の下に学校はあった。木の下の学校へ入ってみると、見たこともないような摩訶不思議な幻惑怪奇な建物であった。
壁は動き、同じ学級の生徒たちは人外の化け物たちで、動物、植物、いろんな種類の生き物が喋って騒いでいた。
とても、とても楽しい学校だった。授業は魔法の授業で、魔法について勉強した。
人間なのはいとわれともう一人の男の子がいるだけだった。男の子は必死に魔法の勉強をしていたけど、
彼のことを人外の生徒たちは「彼はこの国の王子さまなのだよ」といっていた。王子さまと一年間ずっと魔法の勉強をした。
とてもとても楽しかった。いとわれは、三月、目が覚めると、気が付いた。これは幻覚だ。
魔法の学校なんてあるわけない。わたしは幻覚を見ていたんだ。わたしは妄想を見ていたんだ。
そして、いとわれは町外れの木に向かって走り出した。学校は本当にあるのだろうか。
なかったらどうしよう。そんな学校があるわけがない。全部、幻覚だったんだ。
そしたら、町外れに一本の木が立っていて、その下には学校はなかった。ただ野原だった。
だけど、王子さまはいて、いとわれを待っていた。王子さまと木だけは、ちゃんと現実に存在したのだった。
売れそうじゃん
SNSで絵師に絵を描いてもらえよ、ただで
973 :
神も仏も名無しさん:2015/02/16(月) 16:51:31.51 ID:cAEIsEQO
他人に認めて欲しいのと絵をタダで付けて欲しい訳だな
974 :
記憶喪失した男:2015/02/18(水) 22:55:15.46 ID:WE4zhTkN
400年間でたった一人の琉球王の子孫が50万人にも増えた。
これが沖縄の史実である。
琉球大学の遺伝学研究所も認めるところである。
島国という特殊な日本、その中でもさらに島国な特殊な沖縄を題材にとって、
神話、言語、遺伝子、文化風俗産業、幸福度などを調べてみるのも面白い研究かもしれない。
一方、イエスの遺伝子は残らなかった。
生きるとはどういうことか。
975 :
記憶喪失した男:2015/02/21(土) 14:36:28.77 ID:bE2NlOKI
>>974 400年じゃなくて800年だった。
純愛もの三作目ができたぞ。感想くれ。
愛のない恋人
──もし愛というものが存在しなかったら、ぼくたちの関係は何と呼ばれるものなのだろう。
ぼくと彼女は一緒に住んでいる。ぼくの働いた給料で彼女は暮らしている。
ぼくと彼女の出会いは難しいものだった。二十代の時、友だちがサーフィンで死んだのだ。
海難事故だった。彼女は、サーフィンで死んだ友だちをもつぼくが格好いいといって、ぼくと付き合い始めた。
ぼくは彼女ができて喜んでいたけど、やはり、死んだ友だちに後ろめたさを感じていた。
「恋人としてではなく、同居人として一緒に住まないか」
そうぼくは彼女に申し入れた。だから、ぼくと彼女は恋人ではない。同居人だ。
ぼくと彼女は一緒にご飯を食べ、談笑し、交尾する。それでも、ぼくと彼女は恋人ではないことになっている。
ぼくと彼女は結婚している。式は挙げずに入籍だけした。
ぼくがいる。彼女がいる。二人して座っている。愛というものはぼくと彼女の間には存在しないことになっている。
ぼくは浮気をしたことがないし、彼女もおそらく浮気をしたことは一回もない。
それでも、ぼくたちは恋人じゃない。ただの友だちだ。
もし、愛というものが存在しないのなら、ぼくたちの関係は何と呼ばれるものなのだろう。
友だちが死んだから付き合い始めたつがい。友だちが死ぬと、ぼくに恋人ができるのか。
そんなこと、ぼくは認めなかった。そして、彼女もそれを理解して、ぼくたちは恋人ではなく、
結婚して、一緒に暮らしている。幸せだ。ぼくたちの間に愛はない。
だが、どこまでもお互いを愛おしく思っている。感謝している。尊敬している。必要としている。
ぼくたちは、お互いの心の隙間を埋める大切なひと欠片だ。だけど、ぼくたちは恋人じゃない。
ぼくたちの間には愛はないことになっている。こんなぼくらの関係は何と呼ばれるものなのだろうか。
ぼくは彼女の唇にキスをした。
身内の葬式の恥なんだけれど
死に装束の、頭につける三角形のヤツ、つけ忘れた
どうすりゃいいんだろ
977 :
神も仏も名無しさん:2015/02/22(日) 02:11:20.93 ID:StKN/TwC
感謝です。
マジで。
978 :
神も仏も名無しさん:2015/02/23(月) 12:01:53.01 ID:hdat5f3Q
てす