無論、先祖崇拝はよろしい〜ですよ。
私も先祖崇拝で仏壇も設けて線香を上げて拝んでいます。
しかし、それは仏教とは無関係w
54 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/02/22(日) 23:13:33.33 ID:NB0Q1i9o
>>52 だから、布教する相手がそういうパラダイムなのに全否定したら取っ掛かりもクソも無いだろうが。
花は紅柳は緑って見えてるのに、そんなのは見かけだけで花に色なんか無いって言ってたらバカでしか無いだろ。(笑)
「布教」というのが駄目w
何で布教せねばならないのか?
その精神はイスラム国と同じで糞ww
周りを巻き込んで不幸の連鎖を引き起こすのが「布教」だw
想いを手放し、想いが落ちて
執着を手放し、執着が落ちて
菩提薩埵として般若智を得て自由無碍界に到ることになります
菩薩(ぼさつ)
菩提薩埵の略。悟りを求める人
仏の位の次にあり、悟りを求め、衆生を救うために多くの修行を重ねる者
元来は釈迦の前生時代の称で
大乗仏教がおこると、将来仏になる者の意で用いられるようになった
57 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/02/22(日) 23:34:54.63 ID:NB0Q1i9o
>>55 君の考える「布教をしない仏教」なんてのは存在してません。(笑)
(^。^)「僕の考えた仏教」の話なら、そう書いてね?(笑)
「布教をしない仏教」ではなく「布教をしない宗教」だろうw
仏教を宗教と考えるのならば、そうであろう。
仏教を哲学と考える人間もいるわけで、そのような人間に対して布教云々というのは無駄w
59 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/02/22(日) 23:53:41.39 ID:NB0Q1i9o
>>58 だから、「僕の考えた仏教」の話はもういいっちゅーに。(笑)
(^。^)ヤソスレに戻れよ、ご隠居さん。(笑)
私は「紐」で隠居氏ではないw
そもそも仏教を固定的に捉えているのは私かアナタか?w
私は先祖崇拝もOKだが仏教ではない〜とは言っても否定はしていない。
アンタは我こそは仏教理解者でお前は駄目と声高に叫んでいるなw
それで良いのか?w
61 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/02/23(月) 00:02:14.37 ID:zcFpWxrm
>>60 失礼、ご隠居さんのしっぽの方でしたか。(笑)
(^。^)増殖しない菌類は存在しないし、布教しない仏教も存在しないよね?(笑)
承狂さんへ
紐君の場合は
中観自立(中観帰謬)も
有相唯識(無相唯識)も勉強したことがないようなので
それ故に
(「仮設としての」という意味で、とりあえず仮に)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識(あらやしき)を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
衆生は無明を持っていて真如に薫習し、その薫習によって妄心を生ずる無明薫習に依存して
無明の暗闇に覆われて
渇愛に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じて
「霊は現れ(滅し)ている!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている人もいる
このような人々に合わせて(←四悉檀の世界悉檀)
その相手の精神的能力や性質などに応じてそれにふさわしい手段で説法する対機説法などを
紐君の場合は理解することが出来ないらしい
(それ故に「(中論とか唯識なども)教学として勉強することも必要でしょ?」という意味です!)
仏教(宗教)は増殖する糞な病原菌という主張かw
確かにそのとおりw
要は受ける人間次第で、阿呆ならば阿呆なりに受けるだけ。
それを、「こういう見方もありますよ〜」と言っても聞く耳持たず〜ではねえww
唯識を勉強すれば「我癡・我見・我慢・我愛が睡眠中でも深層において働き続け〜」を
避けることが出来て〜というのが、そもそも阿呆w
仏教は唯識にあらず、虚無にあらず、唯物にあらず、唯心にあらず〜
教学第一のおじゃるなど一辺死なないと分からないだろう。
65 :
承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/02/23(月) 00:21:34.61 ID:zcFpWxrm
>>62 晩酌しながらの書き込みは止めましょう。(笑)
(^。^)てか、寝ろ。(笑)
>>66 そう信じているのなら、それで良いでしょう。
では輪廻から解脱出来るように励んで生きてくださいな。
>輪廻から解脱
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4333017777 釈尊の教えを聴いても、その本当の意味を理解せず、煩悩の我執(慢)を起こして、悟りをひらくことが出来ない
この煩悩の我執があるために、死んだときに、この陰、つまり現世の五陰(五蘊のこと)が消滅しても新たな陰が生じてその存在を受け継ぐ(相続する)のである
それだから、釈尊はそういう弟子に対し、死んで身心が消滅しても、この者は彼の所に、こういう者となって生まれてゆく、と説くのである
− これに対して −
釈尊の弟子の中でも、よく修行して、諸々の煩悩を断った者は、亡くなって五陰が消滅すると、もうこれを相続し受け継ぐ新たな陰が無いから、次の生を引く因縁がない
だから、こういう弟子には再生すると言わないのである
中論觀涅槃品第二十五
諸の因縁を、受けるが故に、生死の中で輪転する
如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する
− これを対処する為に −
中論觀法品第十八
八聖道分を修習して、我・我所を滅する因縁の故に、無我・無我所を得て、智慧を決定する
(色受想行識の想を滅させる為の)滅尽定を以って、第一と為し、終に、無余涅槃に帰する
中論觀涅槃品第二十五
諸の因縁を、受けなければ、是を、涅槃と名づける
如実に、顛倒を知るが故に、則ち、復た、五受陰に因っては、生死を往来しない
無性の、五陰は、復た、相続しないが故に、説いて、涅槃と名づける
ハイハイw
輪廻大いに結構w
例えゴキブリに生まれ変わろうが何ら文句は無いw
要は生き様の問題に過ぎないのをアレコレ紐を付けたがるから困ったものだw
だから私のネームが「紐」なんだがw
輪廻で前世と今世と来世を繋ぐ紐を想定する阿呆w
そんなものは仏教では否定もしていないが肯定もしていない。
勝手に肯定路線で仏教語るのは阿呆w →おじゃる、お前の事だよw
「輪廻している!」と掴もうとしている想いも
人には、その人それぞれの「自我がある!」と掴もうとしている紐君も
「掴もうとしている状態である」という意味において
両者の間にはわずかな違いも
最も微細な違いすらも存在しない
(訳文の正確さを犠牲にしてでも分かりやすさを優先させた中論25-19・20)
それ故に
「輪廻している。と掴もうとしている想いがアホである!」とするなら
「人には、その人それぞれの自我がある。と掴もうとしている紐君の想いもアホである!」ということになります
中観自立(中観帰謬)も
有相唯識(無相唯識)も勉強したことがないと思われる紐君には意味が理解できないかも
☆「掴もうとしている想い」と「精神的な便秘」について!
「この現世において過去からの心の流れ(心相続)がある!」と掴もうとしている想いに依存して
「人には、その人それぞれの自我がある!」と掴もうとしている想いの依存によって
精神的なものに影響を与え精神的な便秘になる場合もあるかも
弛緩性便秘
食物繊維の摂取不足、運動不足、加齢、経産婦、臥床者などによる便秘
痙攣性便秘
精神的ストレス、過敏性大腸炎症候群(過敏性腸症候群)、自律神経失調などによる便秘
直腸便秘
多忙、環境の変化、プライバシーの欠如、疼痛、不規則な生活などによる便秘
↓アニメで「臨死の世界に、想いを置き忘れて来てしまった!」という物語り
世紀末オカルト学院 3 DVD貸出開始日:2010/11/24
成瀬こずえ(花澤香菜)は、今日もオカルト街道まっしぐら
錆びないスプーンに心霊写真、ツチノコ、宇宙人、ポルターガイスト!?
いつか私も見てみたい―学院でただ一人、オカルト現象を目にしたことがないこずえは心に誓う
そして、臨死体験の実験モニターに立候補して
そして、臨死の世界に
目で見たり、触れて感じたりすることのできないオカルト的なものに対する
想いを置き忘れて来てしまった
http://anitown.web.fc2.com/content/occult-academy.html 第5話 夏のこずえ
第6話 文明の道程
73 :
正理会:2015/02/23(月) 14:38:39.02 ID:6E0znwHT
77 :
紐:2015/02/28(土) 15:32:35.88 ID:QS7DiHWw
「正しい」などと言えば何を基準に正しい正しくないを分けるのか?と突っ込まれるだろうから
この言葉はあえて使わずに、人としての望ましい生き方や在り方について考え実践する。
輪廻転生やオカルトなどはそれに比べればとるに足らない狭小なテーマでしかない。
そのようなものは物好きな阿呆だけが首を突っ込むものだよ、おじゃる君w
「人としての望ましい生き方や在り方」こそが仏教で言う「法」だ。
法灯明の法がこれだ。
これはすなわち自らを頼ることになるので自灯明に等しい。
79 :
123:2015/02/28(土) 16:29:47.69 ID:mr2AvaiI
78.
人生論をやめて、仏教に入れ。
無 というよりは
〜ではない ということなんじゃないかなあと思います
〜である と、限定するよりも
はるかに自由なんだと思います
〜ではない と、言われたところ以外はすべて可能性なんだと思うのです
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識(あらやしき)を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
衆生は無始からの無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して
無明の暗闇に覆われて
渇愛に依存して誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じて
過去からの「心の流れ(心相続)がある!」と掴もうとしている想いに依存して
人には、その人それぞれの「自我がある!」と掴もうとしている想いに依存して
>「輪廻転生やオカルトなどはそれに比べればとるに足らない狭小なテーマでしかない!」
と掴もうとしている紐君の想いは
それ自体の自性だけで成立しているのではなく
自分だけではなく、周囲環境だけでもなく
因と縁の双方の縁起に依存して
六大(地・水・火・風・空・識)に依存して
仮設としての色受想行識が
仮設としての『紐君という』名称と形態が仮に
この現世に現れ
そして、やがて、儚(はかな)きものとして
この現世から → 六大(地・水・火・風・空・識)に還元して逝く
そりゃ逝くだろうねえw
逝かない生物はいない。
他に依存しない生物もいない。
もちつもたれつ「人としての望ましい生き方や在り方について考え実践する」事が肝要。
我
バラモン教(ヒンドゥー教)の概念で、アートマン(梵我)、「自己」
この語が生命存在について、その本質、実体、魂を意味するようになった
我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである
− これに対して −
釈迦は
バラモン教(ヒンドゥー教)などの実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
色受想行識の仮和合したものなので
(「仮設としての」という意味で)我も我所も、仮りの存在である。と説いた
(「変化していくものは実有・実体ではなく仮に現れ(滅し)ている」という意味です)
無我
「我」に対する否定を表し、文字通りには「我ならざるもの」という意味である
「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる
一方で、あらゆるものを非我(我ではない)とすると、どこにも我を見出すことはなく
必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので
非我と無我は同じことを指しており
非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる
>他に依存しない生物もいない。もちつもたれつ
因と縁の双方の縁起に依存して
「我もある!我所もある!」と掴もうとしている、想いを手放し、想いが落ちて
厚い雲の隙間から
妄想に影響されることのない「あおぞら」を見て触れて知覚して住んで
この「あおぞらから → 変化していく雲を観察していく」というような感覚で
この妄想に影響されることのない「あおぞら」の立ち位置から
平等性智(びょうどうしょうち)の立ち位置から
六大(地・水・火・風・空・識)から
この現世に現れ
そして、やがて、儚(はかな)きものとして
この現世から → 六大(地・水・火・風・空・識)に還元して逝く
この想いは「自分だけではない、周囲環境だけでもない」と知覚して住むことである
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757 大念住経(大念処経)
心は「自分でもない、自分のものでもない」と知覚して住むことである
教学にしがみついていては何も得られない。
教学を離れて見えるものも有るw
中村元先生の「自己の探求」青土社定価1800円(税別)でも読むべきだな。
中村先生の本は全て分かりやすいので良いと思いますよ。
訳が厳密ではないとの批判もありますが、学者としては文句の付けようの無い方です。
91 :
123:2015/03/01(日) 19:40:13.73 ID:fNFO9vUz
自我は変化しないが、
自我の思想が変化するだけである。
↓こんな感じかしら?
サーンキヤの場合
精神原理である、プルシャは永遠に変化することのない実体である
>自我は変化しない
_ _ _
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
>自我の思想が変化してゆく
94 :
123:2015/03/03(火) 17:49:26.47 ID:EdFkZBZY
92.
学者様の見解は未消化。不明。
風に旗が動く。
否、風が動くのだ。
否、観察者の心が動くのだ。
そこでは、動かない心が問題となる。
それは風などの物理現象に支配されない心であることになる。
死んだら無限に何も考えれない。
あa1も無い。死後の世界は何も
無い。死んだら怖い感覚も無い。
しかし死ぬ瞬間だけ怖い。脳が脳
が動かないと知覚出来ない。
だから皆、諸説を唱えるが期待する
ものは何も無い。
96 :
123:2015/03/03(火) 21:15:41.16 ID:YAQ38B+n
95.
死んだら、ではなくして、
すでに死んでいるからして、問題提起が違うことになる。
生きてるときの心配は人生論である。
それは宗教とならいものである。
97 :
おじゃる:2015/03/04(水) 15:47:09.66 ID:T6vrNj6U
[DVD] NHKスペシャル チベット死者の書 <映像特典>《Disc2》
ダライ・ラマ 単独インタビュー(1993年2月ダラムサラにて)
↓ダライ・ラマからの、お言葉
止(サマタ禅定)で心を安定させて、心を研ぎ澄まし分析の対象、瞑想の対象を理解できるようにして
この止の禅定力によって
観(ヴィパッサナー智慧)へ進めていく
山奥などで瞑想している行者たちに
短期間で精神的な進歩など期待しないように助言しています
最終的には悟りの境地に至るという
目的を明確に抱き日々の修行体験を積んでいくのです
(チベットの場合は)
顕教があり(教学として勉強して)
それを基盤に
密教(教学として勉強して、そして実践)の伝統があります
初めのうちは
空性への理解や慈しみ哀れみの感情も貧弱なままですが
次第にそうした体験は深まっていき
(過去とか未来などへの、想いを手放し、想いが落ちて、妄執・分別を離れて)
例えば「善と悪」とか「精神と物体」などの二元論的世界観が消滅するまでに至ります
98 :
おじゃる:2015/03/04(水) 16:52:57.76 ID:T6vrNj6U
[DVD] NHKスペシャル チベット死者の書 <映像特典>《Disc2》
ダライ・ラマ 単独インタビュー(1993年2月ダラムサラにて)
>>97 の続き
無上ヨーガタントラでは心を三つに分類しています
例えば、今このように対話している間も
粗いレベルの心を体験しています
今の、この状態では、五感の感覚器官が機能している状態です(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)
夢の状態にあるとき、これとは別の、深いレベルの心が立ちのぼります
この夢の状態にあるときでは感覚器官は機能していません
夢すら見ないもっと深いレベルの心もあります
気絶して(一時的に呼吸が止まって)も、このレベルの心を体験しています
死ぬ時に最も深いレベルの心を体験します
(チベットの場合の)
密教ではこの基準で、異なるレベルの心を分類しています
例えば仮に
この深いレベルの心を(意図的に)活性化できたら
極めて強力な効果を心に及ぼすと説かれています
99 :
おじゃる:2015/03/04(水) 17:39:26.14 ID:T6vrNj6U
[DVD] NHKスペシャル チベット死者の書 <映像特典>《Disc2》
ダライ・ラマ 単独インタビュー(1993年2月ダラムサラにて)
>>97 >>98 の続き
(チベットの場合)
無上ヨーガタントラには
粗いレベルの心を意図して停止させ
微細な心を活性化させる観察法があります
最も微細な心を、智慧に変容させるのです
(チベットの場合は)
(「仮設としての」という意味で)
「心の連続性を(仮に)ある」とします
「前世と現世の間に(シパ)バルドゥが(仮に)ある」とします
前世から現世へと連続(異蘊相続)している、微細な身という形です
この微細な身をバルドゥと呼ぶのです
バルドゥも(仮に)本性の一部とみなされてます
死んで(シパ)バルドゥの状態になると
色々な幻影などが現れて様々な感情を体験します
その時に混乱することなく
心を鮮明(清明?)に保つことが出来れば、とても助けになります
例えば、この幻影などの正体を知り
それに対応した(チベットの)密教の修行法のひとつです
100 :
おじゃる:2015/03/10(火) 12:04:16.38 ID:9veOn2Rf
チベット仏教は仏教あらずw
仏教は精神衰弱などの精神病の治療法にあらずw
我こう思う〜で十分。おじゃるの「〜こう思う」には賛同しない。
おじゃるの個人的興味のコピペに興味が無い。
仏教は生き方について反省を促すもので、唯識にあらず、唯物にあらず、唯心にあらず、虚無にあらず、
唯識で留まっている人間に興味は無い。
102 :
おじゃる: