758 :
料:2015/01/23(金) 17:28:21.11 ID:jr1j0kUs
>>754 > >全ての事象に、“仏性” の輝きがあると言うことです 有事とは「有」と「時」がドッキングした字体ですね。
> だから「ある時は・・・」という意味とは違って、有が現れているそのものが時であると正法眼蔵には記述されとんのです。
> その時とひとつであることを表したのが有事です。 その時を仏というとんのです。
> すなわち仏とは有のことであり、有をもって現成しちょるのです。
> その仏をもって現れちょるのが「時」なのでありんす。つまり時とは仏のことですね。
> 「ある時は・・・」とは有と時がひとつではないですね。これを最初に抑えておくことが肝要であります。
> で有時については、語ちても語ちきれんほどの多くの示唆を含んでおります。
> これだけを研究しただだけでも、そりゃあもう興味が湧いてくること受け合いでありましょう。
> とにかく正法眼蔵を一生かかってでも究考したくなるやもしれません。それほどまでに貴殿の心を揺さぶるのです。
> まあ、これは人にも依りますけどね・・・
道元はいい。お前は幽鬼の住処で生計を立てているのだ。
クソみたいな言句をグダグダ述べる奴は一片もセンスがないwwwww
お前(エゴ)が生き長らえるタメに正法眼蔵がある訳ではない、お前が座するなら禅ではないwwwww
意志薄弱よ、お前は机はいい笑い者だwwwww
759 :
おじゃる:2015/01/23(金) 17:49:02.87 ID:JFFHbxxg
>正法眼蔵は、よく二面性がある、とも言われます
>それをどう読むかは、読む側のスキルが要求される、ということです
仏教 1.0 仏教の遍歴に沿う形で、日本の伝統仏教(中国大乗仏教)
仏教 2.0 90年代後半から顕著に日本に入って来た南方上座部仏教
仏教 3.0 1.0と 2.0両者の問題点を克服しようと努力して現代人に役立つ現代的な仏教のあり方
まず初めに 2.0で。無明と渇愛(タンハー)に依存して
「過去からの心の流れ(心相続)がある!」と掴もうとしている想いがある。として
そして 3.0で。このように掴もうとしている、想いを手放し、想いが落ちて
厚い雲の隙間から
妄想に影響されることのない『あおぞら』を見て触れて知覚して住んで
この『あおぞらから → 変化してゆく雲を観察していく』というような感覚で
この妄想に影響されることのない『あおぞら』の立ち位置から
そして 1.0で。平等性智(びょうどうしょうち)の立ち位置から
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥ける
このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至る。と観察してゆく
760 :
机龍之介@花押:2015/01/23(金) 18:27:33.65 ID:aX2EjTj0
時は有をもって現れていて、その現れているものの外には時はなく、時と有は別ではない。時と有はひとつである。
これを有時というんですが、
実はこれは通常われわれがもつ認識とは違うんですね。
我々は、時と有(現象)は別である、と認識している。
じゃあ我々はどのようにして時の存在を知ることができるのか?いうたら、それは
刻々と変化しながら現れている有によって時は現れている。というふうに認識するらしい。
つまり有(現象)によって時の存在は明らかなのだと思い込む。
だから時の存在を我々は疑わないし、
時の正体を知っている、と思っておったなら、それは違いまっせ。と道元はいうとんのです。
あおぞらと雲の様相において、おじゃる氏は「変化しちょる」と思いこんでるじゃないですか?
だから私は、「それは変化しとるんじゃないでつよ」。と言うたんですよ。
まあ難しい話はこれくらいにしておいて、「有時の巻」は面白いですね。
道元ワールドに嵌っちまいまふよ。
761 :
おじゃる:2015/01/23(金) 18:58:42.20 ID:JFFHbxxg
>我々は、時と有(現象)は別である、と認識している
>じゃあ我々はどのようにして時の存在を知ることができるのか?
まず初めに 2.0で。無明と渇愛(タンハー)に依存して
「過去からの心の流れ(心相続)がある!」と掴もうとしている想いがある。として
そして 3.0で。このように掴もうとしている、想いを手放し、想いが落ちて
厚い雲の隙間から
妄想に影響されることのない『あおぞら』を見て触れて知覚して住んで
この『あおぞらから → 変化してゆく雲を観察していく』というような感覚で
この妄想に影響されることのない『あおぞら』の立ち位置から
そして 1.0で。平等性智(びょうどうしょうち)の立ち位置から
妄想に依存して → 過去に囚われる・未来に囚われる
このような想いを手放し、想いが落ちて
今現在に戻り・今現在に目覚めて。妄執・分別を離れて
“道元禅師の時間”は、時間・存在・光明・自己が、一体のものとなっている。と観察してゆく
762 :
机龍之介@花押:2015/01/23(金) 19:16:41.56 ID:aX2EjTj0
>>761 >「過去からの心の流れ(心相続)がある!」と掴もうとしている想いがある。として
貴殿が書いたその文面そのものが、有と時が乖離している。と道元は言うとんのですよ。
「ある時・・・」は、それは時ではない。
時々刻々と現れてくるものが時の現れであって、そのことを普通人は何も知らない。
知らないから今ある事物とその前の事物が符号しないわけです。
すなわち、それらの事物のいずれもが時の現れであると分からないから符号しない訳です。
符号しないままに「ある時・・・」に囚われる。
ようするにこれを無限に繰り返すことになる。
故に、そこからは解脱はできない。つうことになるんじゃないですか?
道元流に言うならば。
つうか、中論においても三時については詳しい記述があるはずですが・・・
まあ、こういう難しい話は、一長一短です。
余計にアタマが混乱する場合もある。つうことですね。
では、おやすみ。
763 :
おじゃる:2015/01/23(金) 20:25:33.16 ID:JFFHbxxg
(「仮設としての」という意味で、とりあえず仮に)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
衆生は無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生ずる無明薫習によって
無明の暗闇に覆われて
渇愛に依存して掴んで離さないような固執も生じ
「過去からの心の流れ(心相続)がある!」と掴もうとしている想いに依存して
人には、その人それぞれの「自我がある!」と掴もうとしている想いに依存して
それ故に「有と時が乖離している」という果報が現れる
これを対処する為に
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm 曹洞宗の僧侶 内山興正 思い手放し
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
764 :
机龍之介@花押:2015/01/24(土) 08:41:36.74 ID:rKwpiS3N
> ところが今
>その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
>何ものをもつかまないでいることです
例えばですけど、人が掃除をする場合は綺麗になる状態を想定して雑巾掛けしますね。
つまり人間つうのは目的意識をもって行動します。
心は既に目的意識に向いているんじゃないでつか?
これは有と時が乖離してます。
通常日常における人間生活ってのは、これがアタリマエなんです。
まあ禅というのはアタリマエであることから既に疑をもつことからが第一歩なんですけどね。
禅語で「脚下照顧」というのがあります。
これはよく禅寺の玄関口に看板がぶらさげられていて、「下足をちゃんと揃えろ」とも読める訳ですけど、
いやいや、実はもっと深い意味を見逃したらあかんですね。
話を元に戻すけど、有時を解釈することでも何でもそうなんですけど、先ずは脚下照顧なんですよ。
本来の自分とは何なのか?これがありませんと、どんな教書。論書であっても自分の心に届くことはないです。
曹洞宗の僧侶は何を言わんとしてるのか?
それは先ずもって脚下照顧でありませんと・・・あかんかと思いますね。
765 :
おじゃる:2015/01/24(土) 09:51:14.05 ID:5fykzjkC
766 :
机龍之介@花押:2015/01/24(土) 12:27:26.09 ID:rKwpiS3N
>(過去とか未来についてなどの想いを手放し、想いを落とし、そして、今現在に戻って・今現在に目覚めて)
想いを手放すとか、想いを落とすとか、貴殿はこれをどういう意味で書いてるかというと、
作為的に、そして手放すよう努力したい、とかですね。
今までの文面を解釈しますと。
だからこういった目的意識そのものが有事とは合い入れない。つうことですね。
有事とは、そういった想いそのものの無意味を信解了解するを前提とし、
その結果として無為における「手放し」のことですから、
つまり想いの脱落、そのものの位相を道元は心身脱落と正法眼蔵に記しておる訳です。
ようするに、努力する、目的意識をもつ、そのものはむしろ無くていい訳で、
この修行が例えば静中禅・動中禅(作務)になる訳です。
人間は目的意識をもち努力することは日常生活ではアタリマエですけど、
何の目的意識もせず、何の努力もせず、これが禅定ですから、
観行ばかりでなく、止行も学ぶと有事についても理解が深まるやにおもいます。
もしこのことに関心があればの話ですけど、
しかしこういう話に関心がある御仁はおそらくあまりいないでしょう?
もし関心があれば、話は尽きることなし、それは湧きいずる泉の如しです。
たぶん深い話になっていきまふね。
767 :
おじゃる:2015/01/24(土) 12:54:26.23 ID:5fykzjkC
「仏教誕生の地である」とされている、その当時のネパールでは
「前世から現世へと輪廻を繰り返している!」という考えが定着していたので
とりあえず一応、そのような考えを、仮に認めて、さらにその理解のうえで
プドガラ
補特伽羅
人格的主体を意味する
部派仏教時代の概念で,多くの部派ではこれの実在を認めなかったが
輪廻を説く以上は中心的主体なしには理解が困難であった
このため若干の部派では,伝統的な無我説の立場を保持しつつも
なんらかの中心的主体を想定して
「人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる」と導いて
「その苦しみから抜け出すことが解脱であり、輪廻からの解脱を目指す」と導いてゆく
768 :
机龍之介@花押:2015/01/24(土) 13:03:13.34 ID:rKwpiS3N
>これは、「自分自身を顧みることを忘れないように」ということです
顧みるとは、今現在の状態です。
例えば祖師西来意は、今の自分の状態のことですね。
今あることは、今から別にあるものではないので、今ある庭前柏樹子と一体の自分を言うとんのです。
つまり西来意は自分と天然自然とまったく「別にある時」ではない。つうことです。
この「時」を道元は仏というとんのです。
現成してあらわれる。つうことですね。
祖師西来意も落ち武者も全く同じということですよ。
現成しちょる訳ですからね。その現成そのもんが、道元が言うとんのは公案だ。つうことですね。
だから「現成公案」というんじゃないですか?
さてさて、落ち武者の幽霊が公案だと??
まあ落ち着いて拙者の文面を読んだら、それは既に祖師西来意であることにお気付きなさるだろうよ。
769 :
机龍之介@花押:2015/01/24(土) 14:40:04.91 ID:rKwpiS3N
>>767 そこに書かれた文面は、全てが百丈野狐に帰属するから、私はコメントは遠慮しますけど、
公案というのもやはり有時ですね。
「時」で捉え方も随分と違ってくる。
で最終的には殆ど言葉もいらなくなる。倶胝竪指。
でおじゃる氏は無限ループを繰り返す訳ですが、
考えてみれば、人生というのは無限ループなんですね。
だから無始であって無終。それを輪廻というなら、それもひとつの考えなんでしょ?
考えは色々あっていい。また考えは輪廻する。
770 :
おじゃる:2015/01/24(土) 14:44:30.71 ID:5fykzjkC
邪見の党侶(ともがら)には善悪の分別の意味を理解することが出来ない。と導いている
http://teishoin.net/sutra/501.html 修証義(しゅしょうぎ)曹洞宗 貞昌院
祖師の西来(せいらい)
今の世に因果を知らず、業報(ごっぽう)を明らめず、三世(さんぜ)を知らず
現代において、因果の道理を知らず、善悪の業(おこない)にはかならず善悪の報いがあることをはっきりさせず
善悪を弁(わき)まえざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず
現世があれば過去世もあり、未来世もあるということを知らず、善とは何か、悪とはなにかという(邪見の党侶は)分別もない
大凡(おおよそ)因果の道理歴然(れきねん)として私なし
間違った見(かんがえ)の人々が多いのです。そういう人々の群(なかま)になってはなりません。すべて因あれば果ありという
造悪(ぞうあく)の者は堕ち、修善(しゅぜん)の者は陞(のぼ)る
実際のすじ道は歴然とあらわれていて、人間の自分勝手は全く通用しないのです
毫釐(ごうり)もたがわざるなり
悪を造るものは、悪い境遇に落ちていき、善事修(つと)める者は良い境遇になってゆき、毫釐でついたほどのくるいもありません
若し因果亡(ぼうじて)虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず
もし因もなく、果もなく、なんにもないということになったら、諸仏がこの世に出現されるということもなく
祖師の西来(せいらい)あるべからず
菩提達磨尊者がインドから遥々中国まで来て仏法を伝えて下さるということもあるはずがないのです
771 :
机龍之介@花押:2015/01/24(土) 15:03:22.10 ID:rKwpiS3N
>>770 正法眼蔵は二面性がありまして、まったく逆なことが書かれていたりします。
ですからその二面性についても了解する必要性はありますね。
>「ああ、なるほどこういうことなのか」。と「真理の世界」とか「仏」とかの受け止め方も違ってきます。
>だからそこが道元の二面性ですよね。
>>757
772 :
机龍之介@花押:2015/01/24(土) 15:17:32.94 ID:rKwpiS3N
>若し因果亡(ぼうじて)虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず
> もし因もなく、果もなく、なんにもないということになったら、諸仏がこの世に出現されるということもなく
これはあくまでもビギナー向けですので、割愛して下さい。
因果については百丈野狐が正解です。
773 :
おじゃる:2015/01/24(土) 15:55:00.63 ID:5fykzjkC
http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%BF%BC%BF%AE%B0%F8%B2%CC A道元禅師は『正法眼蔵』「大修行」巻、及び「深信因果」巻にて 『 百丈野狐話 』 について提唱されている
そこで、因果をどのように捉えるかで、両巻の見解は真っ向から相反することとなった
まず、「大修行」巻では、大修行の漢が
… … …
なのものにも囚われることなく植えさせて頂く功徳によって
想いを手放し、想いが落ちて
厚い雲の隙間から
妄想に影響されることのない『あおぞら』を見て触れて知覚して住んで
この妄想に影響されることのない『あおぞら』の立ち位置から
平等性智(びょうどうしょうち)の立ち位置から
… … …
因果を超越し、不落因果・不昧因果ともに因果歴然の事実となる
因果の道理を明らかにしない者は、撥無因果の誤りを犯しているのであり
それは不落因果の道理と不昧因果の道理を混同しているからである
その例として、
当時の中国禅の実情を大慧宗杲を批判し、また「三教一致」を説くものを批判している
そして、永嘉玄覚などを採り上げて
不昧因果としての因果歴然の事実を明らかにした者を讃歎し
修因感果の道理を信じて、成仏を信ずるべきであるとするのである
774 :
机龍之介@花押:2015/01/24(土) 16:50:41.42 ID:rKwpiS3N
>>773 如来は主客一如なのだ。よって天然自然・自己・時は三つで
ひとつなのだ。主客分離はない。
それ故に、自己から過ぎ去る有などあるはずもないのだ。不去不来ともいう。
自己の対象の中に、その対象以外の一切の有は入っているのだ。
しかしながら凡夫においては、そうは思わないのが通例なのだ。
凡夫は有時といわれると、「ある時は・・・」という具合に認識するのだ。
「ある時はこうであって、そして今はこうなのだ」というふうにだ。
それは「ある時と今を別々に思っている」からなのだ。
「ある時」と「今」は天地ほどの隔たりがあるとおもうのである。
しかし如来(仏に目覚めた者)においては、自己と有と時は乖離しないのだ。
よって当然に因果の理法解釈も、如来と凡夫では違ってアタリマエなのだ。
如来は不落因果ではない。つまり因果に落ちるも落ちないもないのだ。二項は対立しないということだ。
よって因果は不昧する以外にない。つうことで不昧因果でいいんじゃないですか?
このように解説する以外にない。あくまでも世俗諦の範疇ですがね。
775 :
おじゃる:2015/01/24(土) 17:25:31.46 ID:5fykzjkC
http://mat☆ome.naver.jp/odai/2135502678433462301
【オカルト】被災地の噂〜東日本大震災〜更新日: 2014年10月17日
東日本大震災は
2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波
及びその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である
東北関東大震災や東北大震災という名称を用いることもある
名取市閖上地区
夜になると大勢の人たちが走って行く足音が聞こえる
見える人は姿も見えるらしい
今年の6月頃の話
_ _ _
時間に余裕がある時に↓podcast法話を聴いてみて
http://www.onedhamma.com/?p=4996 14/12/14 どんなに惨めな最後でも、青空の中だから
1時間9分以降位の所から↑被災者の方の、お話し
災害などで被災にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げるとともに
亡くなられた方やそのご家族にはお悔やみを申し上げます
また、一日も早く復旧を果たされることをお祈りすると同時に
皆様が平穏な日々を取り戻せるよう お祈り申し上げます
776 :
料:2015/01/24(土) 17:41:36.09 ID:hagBA11t
>>机
机、宗教板は辞めたんじゃなかったのか?
みっともないお子様だなwwwww
732: 神も仏も名無しさん [] 2014/10/16(木) 08:27:45.13 ID:wg1tWDZJ
>>727 >もうここコテ外れた時点で終わりだ
いやそれ以前に、キチと遭遇してからもう俺の宗教板はすべて終わった
このスレは俺が立てたから、勿体ないので使ってるだけw
(略)
777 :
料:2015/01/24(土) 18:00:09.65 ID:hagBA11t
も、も、もしかして机龍之介は意志薄弱ですか?
740: 神も仏も名無しさん [] 2014/11/21(金) 07:46:51.48 ID:yEKDH0Xo
(略)
そんな訳で、趣味の合う御仁達と某掲示板で情報交換してます。
勿論のこと、こういった掲示板では個人の人格攻撃は全くありません。
和気あいあいで書き込みしてます。
皆様も、もう宗教板から足を洗って、自分の趣味に合ったサイトを見つけて
そして自分の人生を楽しんだらどうですか?
宗教板を離れたら・・・その良さが分かります。
宗教板を離れられない。つうことでしたら、それが根本的な迷いかもしれませんです。
どうですか?
<机龍之介>
・*.†終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、
あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。使徒2:15
(小)アジア・(中)南米・アフリカ、中国、中東・・広がりゆくイエスキリストによる奇跡と救いのみわざ..
医学で説明の出来ない奇跡の数々..ろう、盲、マヒ,ガン,精神病、難病、様々な病気からの癒しと解放、魂の救い。
世界のプロテスタント人口8億のうちおよそ6億人がこの事を認めて信じている--。
日本の教会では現在8000件に1000件がこの事を受け入れている--
https://www.youtube.com/watch?v=Ppk1uoy-OdA&index=11&list=UUhIdLlwVNwTwF2lswUnIhJg ~渇く者は来なさい。命の水が欲しい者はそれをただで受けなさい 黙示録22:17~
(世界でキリスト教主流の派の聖霊派で起きている事です。統一教会やモルモン教・エホバの証人、新興宗教等と関係ありません。)◇
779 :
おじゃる:2015/01/25(日) 00:31:15.81 ID:HPp29KbU
http://www.joganji.com/teratayori/ 「主客一如」
普通一般的に
主観と客観は、相容れない対立の世界と考えがちです。禅では、同じものと捉えます
「語言三昧を離却しての一句」には
… … …
妄執・分別を離れて
なのものにも囚われることなく植えさせて頂く功徳によって
想いを手放し、想いが落ちて
厚い雲の隙間から
妄想に影響されることのない『あおぞら』を見て触れて知覚して住んで
この妄想に影響されることのない『あおぞら』の立ち位置から
平等性智(びょうどうしょうち)の立ち位置から
… … …
人と比べて嫉妬したりしない
そのままの自分に満足した自分が最低条件として必要だという事になりそうです
意見の相違には、利害関係が絡む事が多いので
単純ではないのですが基本的に「主客一如」と言う事を心に留めておきたいですね
宮本武蔵は
畑を耕している老人のクワからの殺気で飛び跳ねたけれど
尋ねてみたら、自分の殺気がクワに跳ね返って居たと知らされた
780 :
机龍之介@花押:2015/01/25(日) 08:22:54.40 ID:LzqumJSJ
>主観と客観は、相容れない対立の世界と考えがちです。禅では、同じものと捉えます
ええ、正にそうであります。
祖師西来意の公案は、天然自然(柏樹子)と自己と達磨菩提の合一を言い表しておるんですね。
今ここに達磨菩提との巡り合いそれこそが庭前柏樹子であります。
これが正法眼蔵における有時ですね。
巡り合い→→つまり仏との出会いのことであります。
それが時であり、時は仏なりと正法眼蔵には記述がある訳です。
正法眼蔵も非常に抽象的文面になってますが、つまり仏というのは如来のことで
如来は主客一如ですから、平等一枚の勝義諦のことですね。
つまり仏というのは相のことであって、有時とはこのことを記述したものです。
ですから、何が有事であって、なにがそうでないのか、を詳しく記述したのが「有時に巻」ですね。
正法眼蔵は、在家向けに書かれている箇所もあれば、こういったアカデミックな記述もある訳ですから。
それを了解して解き明かしていけたなら、その魅力も百倍です。
だがしかし、それは余ほどの好奇心なりがありませんと飽きてくるやもしれません。
だからどうしたって菩提心がありませんと先に進めません。
まあ、おじゃる氏はそういう面においては研究熱心ですから、
私もこうしてレスポンスできる訳です。
781 :
神も仏も名無しさん:2015/01/25(日) 09:53:54.95 ID:UIZr3qe0
熱心なヤツには前言を翻す訳かwwwww
恥ずかしい限り。
732: 神も仏も名無しさん [] 2014/10/16(木) 08:27:45.13 ID:wg1tWDZJ
>>727 >もうここコテ外れた時点で終わりだ
いやそれ以前に、キチと遭遇してからもう俺の宗教板はすべて終わった
このスレは俺が立てたから、勿体ないので使ってるだけw
(略)
782 :
神も仏も名無しさん:2015/01/25(日) 10:06:08.63 ID:UIZr3qe0
>>780 > >主観と客観は、相容れない対立の世界と考えがちです。禅では、同じものと捉えます ええ、正にそうであります。
> 祖師西来意の公案は、天然自然(柏樹子)と自己と達磨菩提の合一を言い表しておるんですね。
> 今ここに達磨菩提との巡り合いそれこそが庭前柏樹子であります。
そんなちゃちい解説を施して悦に入っている事自体が、理解が達していない証左である。
古人が不適切に法を説けば、数十日、口に塩を含んだ清廉さ等分からないだろう。
【達磨、東土に来たらず、二祖西天に往かず】=趙州栢樹だとは分かるまい。
分かるというならその軽薄で薄汚れた口を閉じる事だ。
> これが正法眼蔵における有時ですね。 巡り合い→→つまり仏との出会いのことであります。
> それが時であり、時は仏なりと正法眼蔵には記述がある訳です。正法眼蔵も非常に抽象的文面になってますが、つまり仏というのは如来のことで
> 如来は主客一如ですから、平等一枚の勝義諦のことですね。つまり仏というのは相のことであって、有時とはこのことを記述したものです。
> ですから、何が有事であって、なにがそうでないのか、を詳しく記述したのが「有時に巻」ですね。
> 正法眼蔵は、在家向けに書かれている箇所もあれば、こういったアカデミックな記述もある訳ですから。
> それを了解して解き明かしていけたなら、その魅力も百倍です。
> だがしかし、それは余ほどの好奇心なりがありませんと飽きてくるやもしれません。だからどうしたって菩提心がありませんと先に進めません。
下らない。
菩提心がありゃ、そんなちまちました学習に堪えられないだろうさ。
お前は終生、口頭禅だ。
783 :
おじゃる:2015/01/25(日) 11:35:00.89 ID:HPp29KbU
http://www.saikoji.net/houwa/houwa0607.html 隻手音声(せきしゅおんじょう)
… … …
妄執・分別から離れて
なにものにも囚われることなく植えさせて頂く功徳によって
想いを手放し、想いが落ちて
厚い雲の隙間から
妄想に影響されることのない『あおぞら』を見て触れて知覚して住んで
この妄想に影響されることのない『あおぞら』の立ち位置から
平等性智(びょうどうしょうち)の立ち位置から
… … …
般若心経の
不生不滅。不垢不浄。不増不減。無眼耳鼻舌身意
の意味は一切の対立観念の無い完全無分別の世界を言っている
物を見るのは「眼」で、音を聞くのは「耳」で、臭いを嗅ぐのは「鼻」で、味覚は「舌」で、暑いとか寒いとかは「身」で感じる
といったこの常識観念はすべて「分別妄想」である!と観察してゆく
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明知が(菩提分法などへの)信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである
1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、『この世界すべては空性に依存している!』と観察してゆく
784 :
机龍之介@花押:2015/01/25(日) 17:57:28.99 ID:LzqumJSJ
我々が見ている世界、我々が世界と思っているもの、それ即ち他ならぬ「我々のあらわれ」。
またあらわれである様々な現象・存在はつまり時ということですね。
つまり自己と時はひとつであるが故に、同時発心・同心発時であります。
自己が発心する、その発心は時とは別ではないってこってす。
時は発する心でありそれは別々ではないってこってす。
常識的認識においては、発心し修行し成道するという具合に時間的経過があるように思うのだが、
発心・修行・成道は時のあらわれにおいては全くひとつである。ってことなります。
小学4年生の時に幽霊を目撃した時と、今のおじゃる氏は別々ではなくて、ひとつであり時間経過はない。
「ある時は・・・」と「今」においては、全くの隔たりどころか、全く同一である。ってことです。
しかし常識的認識においては、小学4年生と今の自分が別である。という認識は普通です。
では何故にこうも「有時の巻」において道元はトンデモ論じみた事を書いたんでしょう?
こうして正法眼蔵を参究する切っ掛けもできるようです。
それは人にもよりますけど、
まあ、幽霊についても実はここらあたりにその考える切っ掛けがあるんじゃないですか?
貴殿においても、けして通り過ぎる訳にはいかんでしょ?
「我々のあらわれ」なのになぜ我々の思い通りにならない
我々以外のナニカが介在しているからだ
人それを神という
786 :
神も仏も名無しさん:2015/01/25(日) 20:16:26.15 ID:UIZr3qe0
>>784 再三、食言行為を常習する者に菩提心・宗教道理はおろか、マトモな倫理などあるハズがない。
当然、道元を云々する資格無など無い。
人生の蹉跌を味わい、闇に脚を取られ苦悶に呻吟する『机』の反リアリティー観念遊戯に過ぎない。
787 :
おじゃる:2015/01/26(月) 00:13:09.35 ID:Pt9yRCzF
788 :
おじゃる:2015/01/26(月) 00:48:49.43 ID:Pt9yRCzF
789 :
おじゃる:2015/01/26(月) 01:25:50.69 ID:Pt9yRCzF
http://mindfulness.jp/ma-therapy/newtherapy/ch1-act.htm 第1章 アクセプタンス・コミットメント・セラピーと新しい行動療法
… … …
妄執・分別(・「判断してる」ということ)から離れて
妄想に影響されることのない『あおぞら』の立ち位置から
平等性智(びょうどうしょうち)の立ち位置から
妄想に依存して、過去とか未来などへの想いが現れ(滅し)ているので
それ故に
過去とか未来などへの想いを手放し、想いが落ちて
今この現在に戻って来て・今この現在に目覚めて、そして
… … …
アクセプタンス=
与えられているもの(感情、思考、症状、身体感覚など)
「今、ここ」で経験しているものを、判断を介さず受け取ること
コミットメント=
具体的なホームワークや行動的エクササイズを使って
価値の沿った(障害からの回復に)効果のある行動をする
マインドフルネス=
「マインドフルネスの状態とは
「ある特定の仕方で注意を払うこと、つまり、目的にそって、当該時点において、無評価的に注意を払うこと」
を含むものである」
「アクセプタンスを行うためには、当然、注意を向け続けること
判断を避ける(あるいは素早くそれを解き放つ)こと
さらに覚醒の程度に気を配ることなどに対して、マインドフルネスに関わる必要がある」
790 :
おじゃる:2015/01/26(月) 02:08:57.96 ID:Pt9yRCzF
非想非非想処も超えて → 想滅定、そして → 四念処
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
四念処(四念住)を実践するように「自灯明・法灯明」の教えを説いた
http://www.ningenzen.org/gakudoudai1.htm 道元禅師 学道用心集 四念処
身念処
一般に自分の身はあくまで清浄であると思い
不浄に気づいていないその顛倒を改めて、不浄と観察してゆく
受念処
わたし達の欲望が満たされて、楽を得たと思っている顛倒を改めて
『受蘊などの依存によって現れ(滅し)ている → すべての想いは苦である!』
と観察することによって本来の実相を取り戻すことです
心念処
わたし達の心や、世間の有為の事柄は全て無常で、生滅し転変しているのに
それを常住不変であるかのように顛倒して観ている誤りを
本来の真実の姿に戻して観察してゆく
法念処
この世の万法は皆、本来無我であるのに、わたし達は「我」を立て
それに固執し、恰も「我」が実在しているかのように考え、顛倒しているのを正して
無我であると観察してゆく
791 :
おじゃる:2015/01/26(月) 02:49:19.04 ID:Pt9yRCzF
>>790 の続き
http://www.ningenzen.org/gakudoudai1.htm 道元禅師 学道用心集 講話 本文の第1章
この第一段は、菩提心を発すのには先ず
『世間のことの全ては畢竟(至極当然なものとして)生滅してゆく無常なものであること』
をしっかりと観ずべきであると説かれたものです
ここで「竜樹祖師いわく」とありますが
この方はインドの二世紀の十四代の祖師で、大乗仏教の教学の体系を樹立された方です
第一の説示は、その竜樹師の書かれた『大智度論』という書の中の『菩提分法』に即して述べられているものです
『菩提分法』とは、涅槃の覚(さとり)の理想境に達するために修すべき道行のことです
「念処」とは「心の持ち方」の意で、これが「身・受・心・法」の四つの領域に分けられ「四念処」と謂われます
本文で道元禅師が
『竜樹祖師いわく、ただ世間の生滅無常を観ずる心も、また菩提心と名づく』と言われているのは
この中の『心念処』を指されたものです
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1483660814 空海「弁顕密二教論」の中で『菩提分法是れ法宝なり』
道元禅師「正法眼蔵」の第六十で
『菩提分法、即ち仏祖の眼晴鼻穴、皮肉骨髄、手足面目なり。仏祖一枚、これを菩提分法と参学しきたれり』
792 :
おじゃる:2015/01/26(月) 03:20:01.78 ID:Pt9yRCzF
793 :
おじゃる:2015/01/26(月) 05:57:21.56 ID:Pt9yRCzF
794 :
タロウ:2015/01/26(月) 07:46:49.45 ID:5HkO3te2
自己肥大し、幻想的なセルフイメージしか持てない中毒者、机。
宗教擬きを論じ続ける恐ろしい依存性wwwww
宗教板をどうしても辞める事が出来ないらしいwwwww
740 神も仏も名無しさん [] 2014/11/21(金) 07:46:51.48 ID:yEKDH0Xo
(略)
そんな訳で、趣味の合う御仁達と某掲示板で情報交換してます。
勿論のこと、こういった掲示板では個人の人格攻撃は全くありません。
和気あいあいで書き込みしてます。
皆様も、もう宗教板から足を洗って、自分の趣味に合ったサイトを見つけて
そして自分の人生を楽しんだらどうですか?
宗教板を離れたら・・・その良さが分かります。
宗教板を離れられない。つうことでしたら、それが根本的な迷いかもしれませんです。
どうですか?
<机龍之介>
795 :
神も仏も名無しさん:2015/01/26(月) 07:49:16.98 ID:fsQBR3pB
クフフ自演障害だって
796 :
机龍之介@花押:2015/01/26(月) 08:05:43.73 ID:jIsOXd+/
正法眼蔵における「有時の巻」は、道元ワールドのクライマックスなのであります。
この有事なくして正法眼蔵は、あたかもクリープを入れないコーヒーを飲むようなもんです。
もうお分かりかと思うのですが、コーヒーというのはクリープがあってこそのコーヒーである訳です。
例えばですが、一休は「闇夜のカラスの鳴き声」で悟ったとされてます。
これもやはり有事に関係してますですね。
カァ〜〜だけでは何やら認識することは難しいのですが、
それがカラスであることを認識するのは、子供の頃の記憶の発心ですね。
子供の頃の一休と、今の一休の同時発心・同心発時なのであります。
これで一休は悟ったのであります。
例えばですが、おじゃる氏は小学4年生の頃の自分の記憶が何度も何度も再生される。
ということを掲示板に書いておるようですけど、
これは「闇夜のカラス」と、話はまったく類似性があることが分かるかとおもいます。
人間ですから、一休もおじゃる氏も変わりはありません。基本的にはそうであります。
では何が違うかと言いますと、有と時の認識の相違やに思います。
こんな訳で私は有時の重要性をここで指摘したのであります。
またこの続きは暇なときに・・・・
797 :
神も仏も名無しさん:2015/01/26(月) 08:53:43.63 ID:5HkO3te2
【机龍之介が信用の置けない理由】
(1)前言を容易に翻す。厨房。
(2)悟りを開いた風に見せる。ファッションとしての禅。
(3)自己陶酔でしか喋れない。
(4)師家気取り、禅師が行う様な指導紛いの事をする。禅では論外。
(5)恰も、万引き常習犯の様な場当たり的な弁解しか出来ない。常に、机のエゴを満たす恣意である。
798 :
机龍之介@花押:2015/01/26(月) 09:59:13.37 ID:jIsOXd+/
通常において認識というのは時と有(現象)は別であると思い込んでる。
それは仏的認識ではないと道元は言うておるようです。
いわゆる有事とは、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。であるからして
「丈六金身これ時なり、時なるがゆえに時の荘厳光明あり」といわれる。丈六の金身の仏像は時とは別ではない。
それまさに時そのものである。ということですので、これを前提といたしまして・・・
「今の十二時に学ぶべし」と結んでいる。
十二時というのは現代における二十四時間のことです。
つまり我々の生きている二十四時間という生活の中に、あらゆる現象(有)は、それが一切の時のあらわれ有時である。と帰結しているのであります。
だからそれは、日常(二十四時間)において学べ。ということを主張しておるようです。
まあ私はここまで書いていて、道元は非常に親切丁寧に説明してますよね。
そういった印象をもちました。
つまり人間の認識論にまで言及してるのが凄いとおもいましたよ。
799 :
神も仏も名無しさん:2015/01/26(月) 13:49:43.17 ID:5HkO3te2
机龍之介、菽麦を弁ぜず。
道理も知らない愚昧な机は禅書を読む事で禅とは真逆の方向へ向かっている。
机龍之介は虚栄心の塊である。
800 :
机龍之介@花押:2015/01/26(月) 13:52:35.00 ID:jIsOXd+/
>>787 >
http://soto-tokai.net/cgi-bin/kotoba.cgi?page=43&bl=0 >正法眼蔵有時の巻より 曹洞宗東海管区教化センター
>同時発心・同心発時
このURLからの抜粋ですが
>又一方、時は去来などしないとも説かれています。これは一時が一切時を包含し即今の一大事因縁であり、われすでにあり、時さるべからずであります。
>道元さまは時は去来の相の肯定も否定もされませんでした。それはどちらにしても結論がおなじであるからであります。
これが重要ですよね。百丈野狐にも関連しますし、
また心相続の是非や輪廻転生にも、あらゆるお題に関連する禅においてのクライマックスです。
つまりですね、有事というのは
>それはどちらにしても結論がおなじであるからであります。
これに帰結しますね。結論が同じ(それが仏です)、それが如であり有時である訳です。
では何故に結論が同じなのか?これが非常に関心があるところです。その話は後ほど
暇なときに・・・
801 :
正理会:2015/01/26(月) 13:56:54.34 ID:Oapg//fm
「日蓮大聖人様は偉大なり
日蓮大聖人様以外に仏なし
末法の御本仏は日蓮大聖人様、ただおひとりです。
中杉博士は、現代の最高指導者です。
中杉博士より法を教わらない限りは仏になること、また幸福になることはできません。
個人の無明の闇を晴らし、日本の闇を晴らし、全世界の闇を晴らしていきましょう。
それが正理会の使命です。」
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
802 :
机龍之介@花押:2015/01/26(月) 15:38:02.14 ID:jIsOXd+/
よく掲示板などで釈尊は歴史的に実存したのか云々の議論がなされますけど、
でこのことは馬祖の時代にすでにありまして、馬祖は「超時空的実存そのものである有時が釈尊をして揚眉瞬目せしめたのだ」。
ということで、つまり有時が揚眉瞬目と現成したのだ。という意味あいに伺えます。
その馬祖教説を一歩徹底して解説したのが「有事の巻」とされてます。
で道元は、釈尊揚眉瞬目せしめないものも有時である。と、いちおう前提をもちまして
さらに揚眉瞬目を是(祖師西来意である)とするも有時であり、不是(祖師西来意でない)とするのも有時であるという。
これはどういうことかというと、凡夫は揚眉瞬目=祖師西来意と誤解してしまうのであるが、その誤解をこう説くことにより、その誤解を払うのである。
せしめるも、せしめないも、是も、不是も、一切は有時により成立しているのであり、だから有時にはせしめるも、せしめないも、
是も、不是もありはしない。一切は有時の現成なのだ。そしてその有時こそは祖師西来意(禅の奥義そのもの)である。
と、このように「有時の巻」には書かれています。
この拙者の書き込みが
>>800に続きます。
803 :
おじゃる:2015/01/26(月) 19:38:40.43 ID:Pt9yRCzF
無明と渇愛(タンハー)に依存して
妄執・分別に依存して
過去とか未来などに囚われる想いが現れる
このような想いを手放し、想いが落ちて
なにものにも囚われることなく植えさせて頂く功徳によって
今現在に戻り・今現在に目覚めて
この妄想に影響されることのない『あおぞら』の立ち位置から
平等性智(びょうどうしょうち)の立ち位置から
『すべて一切は仏の現成のことである』と観察してゆく
https://sites.google.com/site/takesikeda/iyg 道元『正法眼蔵』の有時の巻の参究
道元はさまざまな文章技巧を凝らして有時の語を「ある時は〜」ではなく「うじ」と読ませるようにしてきた
あらゆる現象、あらゆる事物は有時である。一切は有時である。一切は時そのもののあらわれである
永遠常住の時そのものは有とあらわれて、有のほかに時はない
有は時そのもののあらわれ、すなわち時そのものの仮のあらわれであり、その仮のあらわれのほかに時というものはない
時も有も仮のあらわれ(如)をおいてほかにない
有時とは如なのだ
一切は有時の現成であるが、それは別言すると 『 すべて一切は仏の現成のことである 』
有時とは仏なのだ
そして仏とは如なのだ。如来なのだ
804 :
机龍之介@花押:2015/01/27(火) 07:49:24.00 ID:M6/7GYL4
>>803 >有時とは如なのだ
そうであります、ひとことで言うなら仏教における根本法理は「如」に尽きるのであります。
如なくして仏教を語ちることはもはや、お露さんなき牡丹灯籠を語ちるようなものです。
お露さんがありまして、そして牡丹灯篭のクライマックスを演出できるのであります。
牡丹灯籠は創作のもですが、よくできた作品かと思います。
女の情念の凄まじさと、それに翻弄される色男をモチーフにしたものでありますが、
色恋沙汰も結局は人の業であります。
お露さんも落ち武者も本質的には何も差異はないのです。
有時が現成していることであります。
この現成を道元は仏様である。とこう申しておる訳です。
映画・禅では、北条時頼が毎夜怨霊に苦しめられているので道元に救ってほしい、と訴えるシーンがあります。
ここで道元は心のあらわれ(有時)を時頼に説いてます。
つまりその怨霊そのものが仏のあらわれである。とこう言うておるのです。
これが「如」なのであります。
805 :
神も仏も名無しさん:2015/02/01(日) 06:15:47.44 ID:sBeD5Njp
806 :
机龍之介@花押:2015/02/05(木) 12:10:45.23 ID:oiv4gnLg
>>805 おやおや、拙者が来ないあいだにこんなもん貼りおって(苦笑
で社団法人の洗心会がどうかなされましたか?
拙者はあまりこういうもんは関心がないですね(苦笑
つうか、
そのうち拙者が気に入った動画でもあったら、また紹介しますね。
暇なときに・・・
動画つうてもミュージックなんですが(苦笑
807 :
机龍之介@花押:
ちなみに本日の昼食はチャルメラですね。
五袋入って300〜400円の例のやつですよ。しょうゆ味です。
拙者はたまにチャルメラが食いたくなるのです。
皆様も、菜食主義とか肉食主義とか囚われずに、好きなもん食ったらいいがな。
そういうことです。
食えるだけで人間、ありがたい、つうことかとおもいます。