教えて!お坊さん!

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1神も仏も名無しさん
南無阿弥陀仏って何?
2神も仏も名無しさん:2014/09/07(日) 16:53:59.74 ID:bwVSUJGJ
どういう意味?
3神も仏も名無しさん:2014/09/07(日) 21:54:33.58 ID:uwufONVz
キリスト教やイスラム教ユダヤ教はいつもどこかで争って血を流している印象ですが、
仏教でも武器を持って宗教戦争をしていたりするんですか
チベットぐらい?でもあれチベット仏教で別枠?
4神も仏も名無しさん:2014/09/08(月) 07:53:36.55 ID:2r1tXA37
お坊さん、質問に答えてください。
5神も仏も名無しさん:2014/09/08(月) 11:46:26.43 ID:XQACXJWl
仏性ってなんですか?
6神も仏も名無しさん:2014/09/08(月) 16:39:41.18 ID:Rgq2EUaA
仏性とはエネルギーですか?性質ですか?
気功などでいう気とは違いますか?
7渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/18(木) 12:19:27.34 ID:wsGUI38x
>>1
>南無阿弥陀仏って何?

 坊さんではないが、答えていいか?坊さんからの回答を待っても出てこないぞ。

 南無とは、サンスクリット語で「ナーマス」という。ナーマスとは、感嘆詞だそうだ。インドで
は、「おはよう」「こんにちは」「さようなら」「やあ」「ああ」、こういう意味のことを「ナーマス」
という。
 「おはよう」「こんにちは」とは、どういう意味か。
 「ここでお会いしましたね。ここでお会いしたことをいまここで互いの共通認識にしましょう。
私は貴方に敵意はありません。今後もこれまで変わらぬ心の通ったお付き合いをさせてください」。
おそらくこういう意味のことを一言で言っているんだろう。だから、出会っても挨拶がないと「何
だあいつは!?俺に敵意でもあるんだろうか。おかしな奴だ」と不愉快になる。

 阿弥陀仏の阿は、インドヨーロッパ語の否定形を意味する。英語のunだ。unable,unbalanceな
ど否定の意味がある。mitaは量という意味だ。つまりAmitaは無量という意味になる。
 Amitaとは、もともとは、Amitayus、又はAmitabhaから派生している。Amitayusは限りない命、Amitabha
は限りない光という意味だ。
 かつて釈尊先生は、お弟子さんが壁にぶつかると、困っている足下に智慧の光をともした。する
と、お弟子さんはその壁を破る方法論が見つかり、壁を打破して継続できる命を与えられた。釈尊
先生は、お弟子さんにとって、限りない継続の命を与えてきてくれる先生であり、限りない智慧を
与えてくれる光の先生だった。だからこそ、お弟子さんは釈尊先生を「先生」と呼んだ。阿弥陀と
は「先生」という意味だ。
 仏とは仏陀の省略形であり、仏陀とはbuddha、すぐれた智慧を認識している人、つまり先生とい
う意味だ。
 南無阿弥陀仏とは、「ああ先生」という意味だと考えよう。

 かつて釈尊先生は、入門してきた弟子に対し、世の中に「先生」という存在がいること。自分は
先生であり、自分を先生と呼ぶように教えた。釈尊先生は、釈尊先生を「先生」とよぶ人を自分の
弟子と認識した。釈尊先生は、先生を「先公」「たぬき」「ばか」と呼ぶような人を弟子とは考え
なかった。先生を先生とよぶことが、先生と師弟関係を結ぶ最大のきずなだった。
8渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/18(木) 12:20:24.24 ID:wsGUI38x
 釈尊先生を「先生」と呼ぶことを教わったお弟子さん達は、釈尊先生から様々なことを教わり、
お弟子さん達は釈尊先生を「ああ先生」と、感嘆詞をつけて呼ぶようになった。

 釈尊先生はお弟子さん達にとって、全てを見渡す太陽(大日如来)のような存在だった。太陽の
ような存在は四つに分類できる(金剛界曼荼羅)。それは、人々に宝をもたらす生産者(宝生如来)
であり、人々を教育する教育者(阿弥陀仏)であり、人々の病を治す医師(阿?如来・薬師如来)
であり、人々に安らぎをもたらす休息者(不空成就如来)だった。 阿弥陀仏は、釈尊先生の教師
としての人格を抜き出して独立させて理想化した理想の教師だ。阿弥陀仏を尊ぶ浄土教の本質は
教育学だ。

 遣唐使の時代、日本は大陸から文化を取り入れた。そのとき最も重視したのが教育学だ。国のト
ップつまり、天皇・貴族が無知蒙昧では困る。そこで教育を重視し、教育者を育てることが急務だ
った。そこで、日本はいち早く教育学つまり浄土教を取り入れたんだ。

 かつて、釈尊先生のお弟子さん達は、物事の解決にあたり八正道を教わり、正定の実践を指導さ
れた。つまり禅定だ。結跏趺坐、半跏趺坐を組んで呼吸を整える。そんなとき、先生の名を呼んで
呼吸を整えた。先生の名は先生という。先生に感嘆詞を付け、ああ先生と口に名を呼びながらゆっ
くり呼吸を整えた。「南無阿弥陀仏」と称えながら、呼吸を整え、深い禅定を経験して物事を正確
に判断する手法を学んだんだ。

 阿弥陀仏は自分の名を称える者を、自分と同じ認識界に招き入れると誓っている。釈尊先生は、
自分を先生と呼ぶ者は、自分達の学習の世界の一員と認識して招き入れると誓っていたんだ。浄土
教はこういう考えから南無阿弥陀仏と称える称名念仏という禅定実践を開いてきている。
9渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2014/09/18(木) 13:06:07.52 ID:wsGUI38x
>>3
> キリスト教やイスラム教ユダヤ教はいつもどこかで争って血を流している印象ですが、仏教で
も武器を持って宗教戦争をしていたりするんですかチベットぐらい?でもあれチベット仏教で別
枠?

 具体的に経典で戦争について触れているものを見たことがない。僕はアマチュアだから、仏教
研究の環境は貧弱だ。たぶん、戦争について触れている経典はあるだろう。聖徳太子が仏教を移
入したのは、おそらく政治と軍略に関するすぐれた書物があったからだろうと思う。四天王寺は
戦争の寺院だ。

 みんな想像ばかりで申し訳ない。不動明王は、大日如来とカニシカ王とがダブった姿だろうと
思う。カニシカ王はインド征服王だった。

 仏教は戦争を嫌い・悲しむ。しかし、決して反戦ではない。仏教は疫病は悲しいことだが仏教
は反疫病ではない。疫病と闘うが、疫病から逃げない。風水害は悲しいことだが、反風水害では
ない。風水害と闘うが、風水害から逃げない。
 侵略者が攻めてくれば、侵略者からは逃げない。侵略者は恐ろしいが侵略者とは闘う。「五濁」
という概念の中で、劫濁という概念がある。これは時代の汚れ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪
が増大することをいう。戦争は、飢饉や疫病と同じ扱いだ。

 戦争は殺し合いだ。仏教は人々に殺し合いを禁止している。しかし、仏教が説くその教えは人
間を相手にする。仏教は人間の中から阿修羅という別の概念を独立させている。人間は自分の意
思で行動する。阿修羅は、特定の顔がない。顔は意思を表す。つまり特定の自己の意思がない。
阿修羅は、天(為政者)の意思で組織的に動く。軍人・兵隊は自己の意思で動くのではなく、天
の命令で動く。
 天(為政者)も時に人の顔を持つ。阿修羅も時に人間の顔を持つ。人間の顔を持ったときには
人として仏法を説く相手になる。しかし、人の顔から天の顔、あるいは阿修羅の顔になったとき、
仏法の対象から外れる。国家全体に責任をもって国政を動かす天、侵略者に立ち向かう阿修羅に
は、殺すなかれという教えは停止する。僕はそう思う。

 なおこの主張は、仏典を探して確認する必要のある仮説です。
10たかひと:2014/09/19(金) 14:41:33.23 ID:bUYyTsNb
11神も仏も名無しさん
今日100均行ったの。園芸コーナーの横がボードで仕切られた事務所で、パートのおばちゃんが、もっと年上の
パートのおばちゃんに怒鳴り散らしててさ。
すみません、気をつけますので→どう気をつけるんですか?すみませんで何に対してですか?私に謝られても困るんですよ、
そこまで言わないと解らないですかー
って、もう言葉尻掴んで八つ当たりみたいなことしてて。婆も昔そうやってパートで苛められて泣いて帰ったの思い出してさ、
支柱が立てかけてある所にnで両手突っ込んでガラガラ言わせてやったわ
聞こえてるって分かったのか小声になってた