1 :
神も仏も名無しさん :
2014/07/09(水) 00:03:09.05 ID:QdUbX5jo
2 :
神も仏も名無しさん :2014/07/09(水) 00:21:12.99 ID:+oOvsmOt
板リロードするか検索してからにしようなw
>>1 ま、DATに落ちなければ、ここを108ということで。 >>ALL
(或るいは、保守してもよし、DATに落として機が来たら新たに建てるもよしw)
3 :
神も仏も名無しさん :2014/07/09(水) 23:09:21.00 ID:7qyCOxos
イリ ノリ,, メ _,,,,,,,,,,,,,,,,,,,_ .K メ i 7 .K r‐ 、 ヨ .y -一 ー- !, f' | | /⌒〉 r! .!. ィtァ tァx .!.\ |" | /`' / . !,Y f ! |- | /丶/ 新しいスレッドにピースを。 . ] 、.`ー' ., .├'_ ,|_..._レ'、.._/ . !,  ̄ ̄ .ハ/_,| ,.ィ⌒ヽ j゙~~~| ./ゝ, ,ノ i ノ ,.ィ'"て) /`〉 |___|/. i`゙'''''''''"´ / ( /`' ,. イ/ 、,/ ||n ヽxxxxxx/`二〔| / ( ヽ,イ ( こ) i xxxx/ 丶 `´ノ
4 :
神も仏も名無しさん :2014/07/10(木) 07:47:53.22 ID:NOEniMp+
5 :
神も仏も名無しさん :2014/07/10(木) 07:50:11.14 ID:NOEniMp+
仏教議論スレ107 と 仏教議論スレッド107は別のスレという事で 進んでもいいんじゃないの
6 :
神も仏も名無しさん :2014/07/10(木) 09:03:34.49 ID:NOEniMp+
@ 【心の統一、観照】 その時、慈氏(彌勒)菩薩は釈尊に問う。 慈氏 「世尊よ、心を統一して、正しい観察をしてゆく[=奢摩他毘鉢舍那サマタ・ヴィパシュヤナ/止観する]には、何に依って、また如何様な境界にいるべきありましょうか」 世尊 「仏の大乗の教えを拠り所とし、仏の正覚を目的とする境界にいるならば、自然に心の統一を得て、正しい観察を保っていくことが出来る」 慈氏 「世尊よ、しからば、世尊は私たちの眼や心の上に現われる対象について、『認識の上の対象』と、『超認識の上の対象』と、『真如』と、『真如の活動』との四つをお説きになりましたが、心の統一と、正しい観察とを得るには、この何れを対境とすべきでありますか」 世尊 『慈氏よ、心の統一を計る、即ち禅定は、超認識による対象を対象とし、正しい観察、即ち観照(の智慧)は、認識による対象を対象とし、また真如と、真如の活動に対しては、禅定と観照とともにそれを対象とする」 慈氏 「世尊よ、仏の道に向う者は、
7 :
神も仏も名無しさん :2014/07/10(木) 11:28:51.81 ID:NOEniMp+
ダビデ・六区フェラ親分の先代であるネルソン・六区フェラの右腕だったおっさんで、 アメリカ外交戦略ほとんどを操っていたヘンリー・キッシンジャーというズラ老害ユダヤ人↓ 【戦争犯罪人キッシンジャー容疑者と対決 人口削減論】 【アーロン・ルッソは殺されたのか?】 【「ロックフェラーの友は、911を事前に予告した」 アーロン・ルッソ (1 of 2)】 【「ロックフェラーの友は、911を事前に予告した」 アーロン・ルッソ (2 of 2)】 【当たらない予想屋:元米国務長官ヘンリー・キッシンジャー】
8 :
神も仏も名無しさん :2014/07/12(土) 19:03:24.77 ID:SEvlRaDf
最近、フロイトの「モーセと一神教」を読んだが、 けっこう重い読後感であった。フロイトが全力で神と戦っているではないか。 しかも、精神分析では、納得できる解読ができないことを認めている。 少なくてもフロイトは、ユダヤの一神教を説明できないことに戸惑っている。 神がいるのかいないのか。晩年のフロイトがここで立ち往生している。 この話は、仏教に関係ないのではなく、仏教のまさに核心のテーマである。 神がいるなら、仏教はゴミクズであり、仏教の悟りなどありえない。 無神論者のフロイトが、神がいるかもしれない、と迷っているのである。 この本はまさしく、ユダヤ人フロイトの遺言であると感じた。
9 :
神も仏も名無しさん :2014/07/12(土) 19:58:27.17 ID:SEvlRaDf
フロイトの推理を箇条書きにしておこう。 @ モーセはエジプト人。← モーセという名がエジプト語。 割礼はもともとエジプト人の習慣であり、ユダヤにはない。 A エジプト第十八王朝のファラオ、イクナートンは、アートン教なる 一神教を創設したが、その教えは彼の死で消滅する。 B そこの高官がモーセであり、モーセはアートン教の後継者として ユダヤ人を選び、彼の部下レビ人と共にユダヤ人を解放する。 C その後、モーセの峻厳な教えに反発したユダヤ人によってモーセは 殺害されてしまう。〜 ホセア書、出エジプト記(金の子牛)など参照。 D ユダヤ人はモーセの教えをいったんは捨てる。しかし再び一神教に 回帰する。なぜ回帰するのか。フロイトはそれを問題にする。
ユダヤ人の「モーセ殺害」はその後、抑圧され忘却される。 しかし抑圧されたものは、やがて神経症的に回帰せざるを得ない。 それがユダヤ教である、とフロイトは解釈しようとする。 だがそこに、精神分析的解釈を超えるものがあることに気づいて動揺する。 いくら迫害されてもユダヤ教を捨てないからである。 フロイトは、国家が滅びても、神を信じることをやめないことに、 もっと別の原理が働いてる可能性を直感したのである。 神がいるかもしれない、という迷いが、老いた無神論者に襲い掛かった。 しかしもはや、老いた自分にはこの問題を解決できないから、 遺言としてこの問題を後世に委ねたのである。
フロイトは、宗教を父親殺しに由来する強迫神経症だと考えた。 しかし、モーセを追求する中で、モーセの教えが超自我の働きをしている ことに気がついた。それが超自我ならフロイトの仮説は崩れてしまう。 もともと超自我は、エスの快感原則を自主規制する、心的な機能である。 その機能は、最終的にはエスの快感原則に奉仕することを目的にする。 あくまでも自分のために自主規制するわけである。 ところが、モーセの教えは超自我の定義さえ簡単に超えて行く。 自分の命、国家の興亡よりも、モーセの教えに従うことを求めるからだ。 フロイトはそこに、強迫神経症では割り切れないものを感じとった。 神はいるのかもしれない、という慄きと共に。
フロイトとは逆に、神がいると仮定してモーセの十戒を考えてみよう。 @「あなたは、わたしのほかに、ほかの神がみがあってはならない。」 これは唯一神宣言であり、多神教の否定である。 A「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」 ここで神は、この世の存在ではなく、物質ではないことを宣言している。 物質でないだけでなく、神は光でもなく、人間の精神でもない。 カトリックは、偶像崇拝を容認するために、この戒めを削除した (TT)
B「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。 主はみだりに唱える者を罰さずにはおかない。」 これは他力ではなく自力のすすめである。御利益宗教の否定である。 C「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。・・・」 ここは旧約聖書の天地創造がベースにある。神は大地や生き物や人間を造る。 しかしこの話は、神をどかせば、単なる唯物論に他ならないではないか。 唯一神と唯物論とが表と裏になって合体している。ヒンドゥー教に似ている。 神がいなければ・・・単なる唯物論でしかない。 神がいるのかいないのか。モーセ教にはそれが問われている。
14 :
神も仏も名無しさん :2014/07/15(火) 06:12:59.15 ID:x0JgEG1U
例えば、一言で唯物論と吐き捨てる輩は多いが 唯物論の何が悪いのか、物に良し悪しなど無いのであり 良い悪いを決めているのは人の心の判断である その判断を良くも悪くも除外して考察する事の何が悪いと言うのか 先入観と固執に塗れているからこその即物観の排斥なのだろうから 悪しく見るべきは唯心的視点だとも言え、仏教では唯心にも唯物にも因らず観る これを中道と言い、中観と言う
神がいないなら唯物論が正しいだろう。 しかし、神がいるなら、唯物論は間違っていることになる。 だから最初に、神がいるのか否かを知る必要がある。 神を知る? どうやって知る? フロイトのユダヤ教研究を参考に、 それを模索しているのです。
モーセは、BC1230年に、ユダヤの民を引き連れてエジプトから脱出。 BC1020年、サウルのイスラエル統一王国が成立する。 1004〜965年がダビデ王、965〜932年がソロモン王。 BC932年、ユダ王国とイスラエル王国に分裂する。 BC722年、アッシリアによってイスラエル王国が滅亡する。 BC586年 新バビロニアによってユダ王国が滅亡する。→ バビロン幽囚 北のイスラエル王国が滅亡する前後から、各地に預言者たちが出現した。 かれらは、偶像崇拝が国家的な災厄をもたらした原因だと考え、 偶像崇拝の禁止をしきりに説いた。 旧約の預言書は「メシア思想」と「偶像崇拝の禁止」に要約される。
偶像崇拝の禁止はモーセの十戒である。預言者たちはそれを、 ユダヤ民族を救済する決定打として取り上げる。民族滅亡の危機なのに、 ピントはずれも甚だしいではないか。いったいなぜ? 偶像崇拝の禁止が唯一神宗教の核心だからではないだろうか。 偶像崇拝の禁止は、神がこの世のものでないことを宣言するばかりでなく、 神を知る方法を教えているとも考えられる。 神は精神でも物質でもない。だから神と出会うには、 自分の精神性も物質性も徹底的に否定しなければならないことになる。 大軍を前にして、かりに神を知ってどうなる? エジプト脱出のような「神風」が吹く。
18 :
神も仏も名無しさん :2014/07/15(火) 18:18:15.43 ID:rBQjAAOR
神などへの信仰は心の所作に過ぎないでしょ 心に実体は無いでしょ 神は妄想って事でしょ、実際居ない
20 :
Y.S.P :2014/07/15(火) 20:58:57.23 ID:U1fDiMt5
神は物質でも精神でもない。神を探そうとするなら、 自分の身体から離れ、自分の心からも離れなければならない。 これは全面的な自己否定だが、そんなことはできないと言うなかれ。 これしかないのだから、こうする以外にない。 しかし、自分から自己否定を望む人間はいないから、 運命によって自己否定を強いられ、それはようやく達成される。 そうやって完全に自己否定できれば、神との出会いが実現するだろう。 神に出会えないのは、苦労が足りないからである。 この苦労は「苦集滅道」の苦と同じ。
21 :
Y.S.P :2014/07/15(火) 21:19:20.19 ID:U1fDiMt5
フロイトの場合、心のメカニズム(エス・超自我・自我)が、 自分の利益を追求するために活動している。 フロイトは、人間をエゴイズムの塊であると観察していた。 自己否定の真逆、自己肯定である。 すべての人間がエゴイズムの塊でしかないなら、 人間は皆、最終的には自分のことしか考えない孤独な存在である。 パウロはこれを原罪だと言っている。 ひょっとしてフロイトは、神に出会ったのだろうか。 フロイトの理論は、神と出会ってもおかしくないほど熟している。 エス・超自我・自我は、エゴイズムのメカニズムである。
22 :
神も仏も名無しさん :2014/07/16(水) 02:29:07.83 ID:OKhwge6t
>>20 >自分の身体から離れ、自分の心からも離れなければならない
その状態に仮になったとしたなら、既に概念が存在しない
どうやって神を知ろうか、神が知れねばどこに神などあろうか
否定すべき自己なるものも、そもそも実体など無い事を愚者は知らない
人は必ず死期を迎えるのである、自己たる実体がもし仮に有ったのなら
死など有り得ないのである、また、自己は無い訳でもないのである
もし仮に自己が無いなら、これもまた死など有り得ないのである
神に惹かれる愚か者は有無の概念の上にしか自己なるものを思えない
自己は有ると思ったり、自己など無いと思ったり、これらしか想起出来ない
概念外に神が居るのだと豪語するものも居るが、概念外では人にそもそも
認知出来ない矛盾が起こる、どうやって知りえたのか
神など所詮概念に過ぎず実在しない、実在しないからこそ永遠なのである
この理屈が愚者には理解出来ない
神は妄想に過ぎない
23 :
Y.S.P :2014/07/16(水) 06:07:13.02 ID:ERsK/u8v
神と出会い、神を知ることができれば、 倫理・道徳規定である十戒の第五から第十は自然にできるようになる。 モーセ教、十戒の核心は第二「偶像崇拝の禁止」にある。これによって、 第一「唯一神信仰」、第三「自力信仰」が必然的に浮上してくる。 第一から第三までが、モーセ教の、絶対に譲れない生命線なのである。 キリスト教をこの視点から見れば、キリスト教は 三位一体(神・イエス・聖霊)を掲げる三神教であり、カトリックはイエスの 磔刑像、プロテスタントは十字架を崇拝している偶像教であり、イエスによる 救済を中心にした他力信仰になっている。 もはやモーセ教ではなく、一神教を名乗るニセモノとしかいえないだろう。
24 :
Y.S.P :2014/07/16(水) 06:45:20.54 ID:ERsK/u8v
旧約の「メシア思想」は、もともとはダビデのような王、 地上の王がイメージされていた。ユダヤ人はこの世の救済を望んでいた。 それをあの世の話にしてしまったのが、パウロに他ならない。 イエスはあの世で神の権限を代行する「神の子」にされる。 この話のテーマは、神を亡き者にしようという、神殺しの企みである。 そのうえ神の子も、パンとブドウ酒にして食べてしまう。 実に完全な神殺しではないか。 キリスト教は、キリスト教ではなく、パウロ教と言うべきものである。 しっかし、グロテスクなものを構想したものである (^^)
25 :
Y.S.P :2014/07/16(水) 07:06:12.50 ID:ERsK/u8v
>>22 人間はこの世という物質世界を生きている。
神がいるとしたら、物質世界を超えたところにいるだろう。
この違いを最初に区別し理解しよう。
神はいるとかいないとか、実体はあるとかないとか、
そういったことをいくら論じ合っても、結論が出てこないのではないか。
体験したことがないなら、断定することもやめた方がいい。
わからないことはわからないと言おう。知らないことは知らないと言おう。
その代わり粘り強く考え続けよう。
神はいるのかいないのか、実体はあるのかないのかと。
26 :
H・N・K :2014/07/16(水) 07:46:18.74 ID:HsFjbLK8
略して、変なのが来たw
27 :
Y.S.P :2014/07/16(水) 12:33:16.94 ID:+8CpHsKN
NHKの回し者かw
28 :
Y.S.P :2014/07/16(水) 13:29:40.03 ID:+8CpHsKN
フロイトは、キリスト教の欧州を前提に、 ユダヤ人が嫌われるのは罪を認めないからだろうと推測する。 しかしこれは違う。社会の権威を認めないから嫌われる。 かれらはモーセ教を信じるが、集団や組織の指導者を信じない。 だから集団や組織の指導者から嫌われる。ユダヤ人の側に問題があるから、 世界中、どこへ行っても嫌われる。 福音書によって、ユダヤ人がイエスを迫害したと思い込んでいる社会より、 そうでない社会の方がユダヤ人に寛容であることは確かであろう。 しかし問題は、かれらが社会の権威を認めないことにある。
29 :
Y.S.P :2014/07/16(水) 19:59:56.72 ID:b5arjsV9
社会の権威を認めない性格は、父親不在の家庭から生まれる。 幼い頃に父親に従属する訓練を受けないと、社会の権威に違和感を覚え、 知らず知らずに距離を置くようになる。 こういった性格なら当然、いかなる集団や組織にいても目をつけられ、 ユダヤ人のような茨の道を歩むことになる。自分の欠点がわかっていても、 どうすることもできない。無理をすればウソっぽくなる。 かれらは、苦労するために生まれてきたようなものである。 集団や組織の中で徐々に追い込まれてしまう。 だがしかし、その苦労こそが神との出会いに欠かせないのである。
30 :
Y.S.P :2014/07/16(水) 20:24:17.05 ID:b5arjsV9
釈迦もイエスもムハンマドも不幸な育ち方をしている。 法然も道元も幼いころから僧坊生活である。苦労すれば必ず宗教家になれる わけではないが、苦労しなければ宗教家にはなれない。 こういった事情から、苦労の果てに「神」がいるらしいことに気づく。 苦労に苦労を重ね、自己否定を身につけ、自分を完全に否定しつくすこと によって、神との出会いが実現するのである。 ユダヤ教でも、わけあって神に捧げられた子供、ナジル人がいる。 かれらの間から優秀な宗教家が誕生したことは間違いない。 不幸な子供たちが宗教を支えているのだ。
31 :
Y.S.P :2014/07/16(水) 20:57:42.67 ID:b5arjsV9
ユダヤ人の場合は、モーセ教が父親不在を演出する。 モーセ教を信じる家庭では、実際の父親よりも「神」の権威が上位である。 実質的な父親は「神」だが、その「神」に姿も形もない。 つまりモーセ教は、信者の家庭を父親不在の状態にしてしまう。 これがモーセ教である。ここで父親不在なのは、 ユダヤ人家庭であり、ユダヤ民族全体が父親不在に遭遇することになる。 こうして、父親不在の子供が不幸になるように、ユダヤ民族全体が不幸に なって行く。これが神に選ばれる意味である。 ユダヤ民族は、神に出会うために苦労に苦労を重ねているのである。 それが嫌ならモーセ教を捨てればいい。それなのに捨てない。 神の手答えを感じているからに他ならない。
32 :
Y.S.P :2014/07/16(水) 22:05:06.98 ID:Bo8kS3H8
父親不在で苦しんでいる時に使うのが、 釈迦の、四諦八正道、縁起の理法、六支縁起などね
33 :
晃 :2014/07/16(水) 22:29:14.68 ID:Ra+NwnTI
題目の補助としては いいとおもう
表と裏はどちらが優れているわけでもない 何があってもなくてもどうでもいい 何が妄想であっても構わない 好みだ
35 :
晃 :2014/07/16(水) 23:11:31.08 ID:Ra+NwnTI
じゃ…何言われてもそれを 受け入れると?やだなぁそれ
36 :
晃 :2014/07/16(水) 23:29:39.41 ID:Ra+NwnTI
分別は勝劣
37 :
神も仏も名無しさん :2014/07/16(水) 23:39:14.17 ID:1RCyNiT8
「モーセと一神教」において、優れた臨床精神医学者であるフロイトは、 「ユダヤ教は、精神病の症状以外の何物でもない」と「診断」している。 この診断は、キリスト教にも、「より強い理由で」当然に当てはまる。
38 :
晃 :2014/07/16(水) 23:41:23.83 ID:Ra+NwnTI
フロイトは全てを性欲を根元におくけど そそる場合とそそらない場合があると知れば 如是相を如是性の前に置く法華経の方が合理的
39 :
神も仏も名無しさん :2014/07/17(木) 00:04:51.63 ID:RT9DwqKp
>>38 相手次第で、皆そそる。さもなけれは、久遠実成の本仏(種属としての
人間の生命)は存在し得ない。どうするのか?w
一切そそらない場合は、「性欲異常」として、精神医学による治療の
対象となる。
40 :
晃 :2014/07/17(木) 00:07:47.27 ID:l8ZZU7U1
41 :
神も仏も名無しさん :
2014/07/17(木) 03:17:23.43 ID:i+D08sXX >>25 「神」とは概念に過ぎない、概念は思いによって構築されている
思いは一切に支えられ、一切とは眼耳鼻舌身意が色声香味触法として受けるこれらを一切と言う
この一切以外に世界との繋がりを持てないのが人間である
どこに神などあろうか