1 :
神も仏も名無しさん:
2 :
ノスタルジア:2014/05/20(火) 07:42:39.73 ID:Uq9ruG3J
>>1-999 オール・F・ゴール
仏教議論スレッド100 記念碑 ばんばん!!
3 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 10:43:42.43 ID:Y+pNW2zv
4 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 10:44:00.80 ID:0RtU6bsA
5 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 11:18:21.25 ID:QIw1JURf
6 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 11:31:25.88 ID:hZKPa56a
ケイティペリーのロアーのプロモーションビデオが
悟りを上手く表現している。
自然条件や妄想に怯える姿が通常の私達そのもの。
悟り後は解放感に満ち溢れる。
悪(五感による恐怖と妄想による怯え)に打ち勝つだけで悟れる。
7 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 11:41:47.66 ID:hZKPa56a
前スレのカーラーマ経
人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文、神の啓示などに頼ってはいけない、
古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない、
自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない、
経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない、
人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない、
自分の見解に合っているからというようなことだけで納得してはいけない、
説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない、
説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、
>これらは、人間が元から持っている「信じる」と言う行為そのものを全否定している
>仏道はこれを用いないのである、人間以外の一切に、信用や信仰など有り得ない
そして人間以外の一切とは運命です。
8 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 11:49:55.32 ID:hZKPa56a
ウダーナヴァルガのギルギット写本も運命論そのものを語っている。
ウダーナFの最後のからだ(samucchraya)は極めて正しい
表現とは思われるが、輪廻とは全くの無関係。
おおかた、最後のからだ(samucchraya)という表現そのものが
誤解を生んだものと思われる。
9 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 12:08:13.92 ID:hZKPa56a
めんどくさいので最終奥義を引っ張り出します。
私は鳥に巣立ちに解脱を見ます。
巣の中のぬくぬくとした環境が私達の居場所なのです。
涅槃作用があり解脱感とともに鳥は巣から飛びたつことができるのです。
それは、遥か昔に私達が置き去りにし忘れてしまった機能なのです。
つまりは野生動物で独り立ちした状態は全て悟った後の状態といえます。
ただし、涅槃、悟り、解脱と仏性は別物です。
仏性とは抑制機能なので野生動物に仏性ありや?と問われるならば、
無いと答えるのが正解です。
11 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 12:21:06.25 ID:00osSke7
自分の中に世界はある!
12 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 12:37:18.08 ID:IsLywUlk
>>10 >仏性とは抑制機能なので
何故抑制するのか?生存のために必要なものは、一切抑制してはならない。
本来的に動物である人間の本質が歪められてしまう。肉体を離れた精神性
の遊戯が、精神にとって最も有害。
13 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 12:56:42.58 ID:IsLywUlk
>>10 >仏性とは抑制機能なので
一体誰が、そんなアホなことを言ったのか。名を挙げよ。
>>13 とりあえず巣から飛びたてば自然と理解できます。
仏教とは抑制機能と解脱がごっちゃになっている故に
わかりにくい側面があります。
一体誰が?といった妄想は捨てて下さい。
> ウダーナFの最後のからだ(samucchraya)は極めて正しい
「〔これがもはや輪廻しない〕最後のからだ」というものが
どういうものなのか? わからないけど
もう少しだけ詳しく ↓ 貼り付けさせて頂きます
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf 迷妄を性質として壊滅するもの
その〔ようなもの〕を離れることは
思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり
形成作用の寂滅であり
縁起したものを離れ(出離して)
udana-F (verse) Udanavarga 26.28,Pali Dhammapada 351
究極に到達し、恐れるものなく、驕慢もなく
後悔もなく、生存の矢を断ち切った人、彼にとっては
〔これがもはや輪廻しない〕最後のからだ(samucchraya)である
>>15 解脱の特徴として脱皮感を思わせるようなビリビリ感が解放感とともに
丸2日は持続します。
18 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 13:15:53.41 ID:IsLywUlk
>>14 >とりあえず巣から飛びたてば自然と理解できます。
仏性は、出生の瞬間からある。そこから「飛び立っては」ならない
のである。勘違いも甚だしい。
19 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 13:20:20.54 ID:IsLywUlk
>>15 小乗仏典は、釈迦の論理矛盾、勘違い、誤りの塊だから、引用してはならない。
日本の仏教は、大乗仏教である。
>>17 ID:hZKPa56a さんへ
私は実践したことがないので、わからないけど
ID:hZKPa56a さんは、解脱への実践をしたことが、あるんですか?
> 解脱の特徴として脱皮感を思わせるようなビリビリ感が解放感とともに丸2日は持続します
(とりあえず仮に「ID:hZKPa56a さんの場合は」という意味で)了解です
22 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 14:18:11.06 ID:siB4Syfk
アホが解脱した悟ったていうのはもういいわ
俺が五日以内に見性してみせるから楽しみに待ってろ
>>22 ID:siB4Syfk さんへ
何を見性してみせてくれるのか? わからないけど楽しみに待ってます
四如意足(四神足)によって現れる(とされている)神通力とかを楽しみに待ってます
24 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 14:34:59.16 ID:voqbYSku
僧雲門に問う、「如何なるかこれ法身?」
門云く、「六不収(りっぷしゅう)。」
上のそっけないほど簡単な問答に出てくる六とは六根・六識を指すと言われている。
従って、「六不収(りっぷしゅう)。」とは法身は六根・六識には収めきれない
(六根・六識だけでは説明できない)という意味であることが分かる。
>>24 ID:voqbYSku さんへ
例えば
六根・六識、以外では、何がありますか?
ご教示、願います
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6299/repo1.htm 上座部である部派仏教徒の一部は
析色入空により、実体我の存在は否定するけれども
三科の分類である五蘊(色・受・想・行・識)
十二処(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根処と色・声・香・味・触・法の六境処)
十八界(六根処と六境処のほかに眼・耳・鼻・舌・身・意の六識を加えたもの)
などの法は存在するという「我空法有」を主張し、そしてその法は現在だけでなく
過去にも未来にも三世にわたって常恒であるという説一切有部の
「三世実有法体恒有」の思想を展開させた
これに対し
大衆部は「現在実有過末無体」を唱えた
現在の一刹那のみが実有であって、過去と未来は実有はないとするのである
26 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 15:04:49.89 ID:voqbYSku
>例えば
>六根・六識、以外では、何がありますか?
>ご教示、願います
末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)
27 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 15:15:26.38 ID:0MhkYmeh
>>24 >僧雲門に問う、「如何なるかこれ法身?」
『法身』などという混ぜるな危険を侵犯した妄想には応えようがない。
経験主義的検証不能の事柄は実践仏道においてはガラクタ概念として無視するのが当然だ。
問答無用、
無視(無記)である。
29 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 15:36:31.79 ID:uQ/ONA8i
>>25 路傍の石ころに十二処は有り得ない
法身とは法体そのものを言うのであり
法体とは、諸法実相である限りこの世界そのものの事である(不一不異)
30 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 16:05:04.29 ID:QIw1JURf
前スレより。
998:神も仏も名無しさん2014/05/20(火) 10:02:35.20 ID:QIw1JURf (7)
>>997 > ア ホ ? w w w、死んだら終わりやん(大爆笑)
「私」も「あなた」も死んだら終わりですよ。ただの構成要素の有機物です。脳も死んだら脳の作用であるところの意識も消滅するでしょう。
ですが、我々を構成している「成分」は残りますよね、たんぱく質や水分や何かとして。それらは分解され形を変えて何か別のものに再構成される、それが輪廻。
そういう風に世界の存在は繋がっていて、たまたま現在その世界の一部が「私」や「あなた」という現象を構成しているけれど、大局的に見るとそれは世界の一部であって世界から区分できるものではない。
それが存在論としての無分別。
また、「あなた」という存在は「あなた以外」との区別のもとに認識されるのであって、例えば「2ちゃんねらー」と括ったときには「2ちゃんねらー/非2ちゃんねらー」という区別においては「あなた」という個は消える。
それが認識論としての無分別。
だから「私」や「あなた」が「無我」なんです。死んだら終わり、というミクロ視点をマクロで見た時には生きるも死ぬも無い、ただ世界が様相を変えているだけ、それが不生不滅なわけです。
> 仏教って只の『苦を無くそう人生論』やん。
そうでしょう。苦悩から逃れたいからどうしたらいいの?という問いに対する「『仏』陀の『教』え」ですよ。
31 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 16:09:22.43 ID:QIw1JURf
前スレより。
999:にしてつ ◆oZtcZx4E.M 2014/05/20(火) 10:04:40.69 ID:QIw1JURf (7)
> それに涅槃や縁起は科学で証明されていないから形而上の理論体系だ。
涅槃は、ある特定の心理状態を形而下にそう名付けただけのことで、形而上のことではないよ。
縁起は存在や現象の関係性であり、形而下の仕組みのことであって、これも形而上のことではないよ。
> ※縁起は仏教徒としての信抜きには(信解でなくては)理解不能だ。
こういう「盲信無くして理解は不能」という神秘主義的な態度が、今日の仏教徒どもの怠惰や退行を招いたのだと自覚した方が仏教徒のためでしょうね。
> もう一度言う。お前が形而下のみが確かであり、形而上は全て妄想と言うのだから
> 先に言った説明責任を果たせよ。人類の真善美に関わる学問やその指向の全て代わりとなるものを
形而上が妄想であることは、「形而上の存在が確認できない」ことを論拠にしている。
それに対してあなたが「形而上の存在がある」と主張するならば、その立証責任はあなたに生じる。
(「立証責任」、「悪魔の証明」、「検証と反証の非対称」、「反証主義」)
再度いうが
「『あなたが、形而上の存在を主張するならば』立証責任はあなたに生じる」
恥の上塗りや幼稚な糊塗抜きで逃げずにレスしてくださいよ。
ではお願いします。
「形而上の存在があると主張するならばその証明を」
逃げないでね。
32 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:12:01.00 ID:siB4Syfk
私」も「あなた」も死んだら終わりですよ
断見に囚われたアホが偉そうに仏教を語るのはじつに滑稽だね
33 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:12:18.27 ID:uQ/ONA8i
>>30 >それが存在論としての無分別。
大間違い
無分別に存在論は無い
34 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:19:36.14 ID:uQ/ONA8i
>>32 お前も断見を間違えている
俺・お前は死ねば人として終わるのは当たり前
人としては終わるが、それは心と言う概念上の思いが
肉体依存の何ものでもない限り、終わって当たり前なのである
しかし、肉体は物質的成分の塊なので、腐敗や焼却などの効果や行為を以ってしても
変異は起こせども一向に無くなったりなどしないのである
焼けばガス・灰・骨になるのであり、それは無くなった訳ではない
この世界には物質的に忽然と消滅出来るものなど一つも無いのである
必ず何がしかの形に変異して変異して変異して、残り続ける
それをして「諸行無常」とも言うのである
35 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:21:07.34 ID:siB4Syfk
36 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 16:22:33.03 ID:QIw1JURf
前スレより。
465:神も仏も名無しさん2014/05/16(金) 09:08:48.39 ID:CW8BnKQI (26)
>>462 人間も動物も、畢竟は物理的な機構つまり機械です。
思考というのは有機的な機械が演算しているにすぎないわけです。
プログラムに従って情報を処理し演算し機構を作動させるその過程が思考です。
そういった形而下の機械が為す演算において、形而下の何らかの理由で(あるいはエラーで)、我々は形而上の世界を妄想するだけで、
そのことは、実際に形而上の世界が存在することの担保にはなり得ません。
37 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 16:23:46.89 ID:QIw1JURf
前スレより。
666:神も仏も名無しさん2014/05/17(土) 16:31:42.42 ID:2Ivc5jlN (9)
例えば運動には実体があるでしょうか。
現実に即しているか現実から離れているか、という言い方の方が的確だと思います。勿論、前者が形而下で後者が形而上です。
そして現実から離れているならば現実の諸行無常の様相によって形而上が左右されることはない、そういう現実を超越したものが形而上というわけです。
現実と関わって生じたり変化したりするものは、運動であれ意識であれ何であれ形而下のものということになります。
形而上のものとは例えば、時代や種や年齢や性別や立場などの形而下の諸条件にかかわらない「正しさ」とか「美しさ」とかそういったもののことです。
38 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:25:52.90 ID:uQ/ONA8i
>>35 真実の話はお前の様な増上慢には聞き入れ難い
とは経典にも明らかに説かれている
釈尊はそれを説く事を躊躇した位だ
お前みたいなバカには理解出来ないからってな
39 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 16:26:26.56 ID:QIw1JURf
前スレより。
878:神も仏も名無しさん2014/05/19(月) 10:39:23.20 ID:rGH50Dx3 (18)
> 無形文化財は、形がないのに文化と認められているのだよ。
> 例えば和食もね。
> これが形而上だ。
違いますね。
[和食のイデアなりエイドスなりが、「『ある』のを人が『見付けた』」]というのが形而上的な見方。
対して形而下的には[和食という定義を人が『作った(意味付けた)』]と見ます。当然、人が作る(意味付ける)前に和食というイデアなりエイドスなりは『無い』わけです。
「形而上の世界にあるものを見付けてくる」とするのが形而上学の認識論。
「形而下の世界に主体が対象を意味付ける」とするのが形而下の認識論。
わかりますか?
40 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:29:49.81 ID:uQ/ONA8i
無分別に形而の上下も有り得ない
いつまで形而の上下の話を引っ張る積もりなんだか
41 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:36:37.58 ID:aNIoWIzf
>>40 形而下(何らかの物があるか、ないか)には分別は不要。五感の知覚のみ。
形而上は、分別の塊。
宗教は、分別の塊。
42 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:39:42.00 ID:siB4Syfk
馬鹿は自分が馬鹿であることを理解できないから馬鹿なのである
43 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:40:34.85 ID:uQ/ONA8i
>>41 五感も知覚も分別しなくては識別にならない
よってこれも分別以外の何ものでもない
お前は仏教の言う無分別が何だか解ってない
だからダメなんだよ
44 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 16:42:21.00 ID:QIw1JURf
前スレより。
914:神も仏も名無しさん2014/05/19(月) 17:01:57.64 ID:rGH50Dx3 (18)
>>901 > もとより生死自体が人間の考え出した概念に過ぎない
> この世界のどこに生死など有り得ようか
生死は我々の時々の状態を指して、ある状態を生と呼び、ある状態を死と呼んでいるだけのことですから、
現象としてあるといえばあります。
ただ生死も私も机も象も、それは人間が対象を意味付けたり定義したりして形而下において分類しているだけで、
形而上に「生とはこういうものだ」とか「ウナギとはこういうものだ」というお手本がアプリオリに存在し、それに照らして「ああ、これはウナギなんだな」と認識するのではない。
形而下においてアポステリオリに我々がこしらえた定義にしたがって「これはウナギ、これはアナゴ」と分類しているにすぎない。それが形而下の認識論です。
これは、仏教の無分別という考え方と非常にシンクロしています。
「私」というものは「私以外のものとの差違」によって「私以外のもの」と区別(分別)されている、というわけです。
形而上に「私」が自性としてイデアなりエイドスなりとして「ありてある」のではなく、形而下での様々な分類の仕方によって概念が生じたり滅したりするわけです。
45 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:52:31.12 ID:uQ/ONA8i
>>44 涅槃に形而の上下は存在しない
西洋哲学信者にこれは理解出来ない
現にお前が理解出来てない
一切の戯論が無条件で寂滅する、それが涅槃なのであり、涅槃には涅槃すら寂滅する
お前の目の前のどっかにある筆記具も、既に涅槃に住している
だが、お前に筆記具は見えても、それが涅槃に住してる事が解らない
それが西洋哲学かぶれの限界
46 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 16:58:14.29 ID:aNIoWIzf
>>43 >五感も知覚も分別しなくては識別にならない
何らかの物質(何でもよい)が「実在するか否か」は、五感の知覚のみに
より、分別を要しない。知覚した物質が「何であるか」は、専ら、「共同体
に置ける合意に記憶」により、己の分別ではない。
ここを誤解するから、混乱が生じている。六処の「意」が、五感の一部で
あることを理解しない故である。
47 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 16:58:27.90 ID:QIw1JURf
>>33 > 無分別に存在論は無い
形而下の存在において個々の事象は繋がっている、それを我々の都合で切り取って分類しているに過ぎないということ。
>>34 同意。
>>40 無分別に形而上・形而下の別が無いのではなく、
・形而上が存在しないがゆえに
・形而下が無分別
なんだよ。もとより分別は形而上という妄想により生じるということで。
48 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:02:49.57 ID:voqbYSku
仰山が洪恩に尋ねた、「仏性(本来の自己)とは何ですか?」
洪恩は答えた、「譬えてみるとここに一つの家があるとしよう。その家には六つの窓があって、その中に猿が一匹居る。
この猿を東の窓から『猿さん、』と呼ぶと、その猿は『うん、うん』と言って返事する。他の窓から呼んでも同じことで、
六窓倶(とも)に喚(よ)べば倶(とも)に応(こた)うである。こんなものだ。」
仰山は、「御垂誡誠にありがとうございます」とお礼を言って、次ぎのように尋ねた。
「お話の趣、一一承知しましたが、未だお尋ねしたいことがあります。
内の猿めがくたびれて睡っている時、外の猿めが何とかして相見したいと申しましたら、どういうことになりましょうか?」
こう問われて洪恩は小僧の仰山の質問がなかなか核心をついたものであるのに驚き、この小僧(仰山)はただものではないと気づいた。
そこで洪恩はうれしくなって、自分が坐っていた縄床から下りて仰山の手を取って一さし舞い出した。
そうして言った、「お猿さん、おまえとの相見はもう済んだよ」。
49 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:04:28.56 ID:aNIoWIzf
>>43 今まで誰も見たことのない物質を見た場合、その「実在」は判るが、
それが「何であるか」は判らない。「意」の働きも無効である。
従って、「実在・非実在」の判断は、五感の知覚のみにより、分別を
要しない。
50 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:05:23.39 ID:uQ/ONA8i
>>47 >・形而上が存在しないがゆえに
>・形而下が無分別
>なんだよ。もとより分別は形而上という妄想により生じるということで。
そうではない、無分別の境地とは涅槃の境地の事なので
形而と言う概念そのものが存在しないんだよ
もとから無いのに有ると言ったり思ったりしてただけの話
一切皆空とか畢竟空と言うのも、全ての認識は妄想だっただけの事を言ってる
我々が言葉を操って色々言うのも戯論に過ぎない
だから、例えば道元師などは「修証一如」と言った訳で
戯論を重ねて愚考を展開しても境地を知る事は出来ないが
修行を行い続けるその行為そのものが畢竟空と合致した、言語を超えた悟りである
と教えている
無分別には言葉も無い
だから勝義も語れない訳で
51 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 17:10:58.44 ID:QIw1JURf
>>43 > 五感も知覚も分別しなくては識別にならない
> よってこれも分別以外の何ものでもない
五感は知覚神経への刺激。そこに意味付けをするのが分別。
その意味付け(分別)は形而下においてその時々に恣意的に為されるだけであり、
形而上に分別すべき理由がアプリオリにあるわけではない。
>>41 しかしながら、そういったアプリオリな分別の根拠が形而上にあると妄想する人がいる。その意味では、つまり
・(恣意的に分別が為されるとしても)本来形而下は無分別であり、
・形而上に分別の根拠を妄想する人がいる
という意味では
>>41に同意。
52 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:13:41.47 ID:uQ/ONA8i
>>49 >それが「何であるか」は判らない
判らないと言う分別をしている
無分別に「判る・判らない」の二項相対も有り得ない
もっと言えば、五感の知覚の有無も二項相対(感受した・しない)なので
無分別には有り得ない
53 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:15:23.26 ID:aNIoWIzf
>>50 >無分別には言葉も無い
>だから勝義も語れない訳で
対象が「具象物(実在)」であれば語れるな。言語とは、具象物を指示する
「記号」に過ぎないのだから。具象物を指示しない「観念語」は、その解釈は
百人百様だから、そもそも伝達の機能を果たしえないのである。
54 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:16:23.99 ID:uQ/ONA8i
>>51 如何なるを以って形而上下なるか
これを思料分別を以って伺い知ろうと躍起になる姿は最早仏法者のそれではない
無分別とは出世間の境地なので、思料分別では知り得ない
無分別には「無分別」という言葉、表現すら不可。
言葉で表現する事自体が分別である。
無分別を何かしら表現した刹那に無分別ではなくなる。
つまり無分別は表現不可能なもの。
無分別とさえ言えないものを何と表現して説明するのか?www
56 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:18:52.93 ID:uQ/ONA8i
>>53 >対象が「具象物(実在)」であれば語れるな。
路傍の石ころがお前の名を呼ぶのか?石ころがお前に愚痴でもこぼしたか?
石ころと人間は”違う”、と思ったらそれが分別なのである
57 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:19:35.27 ID:tfrvU4R3
違う。
無分別には言葉がある。
物事が分かっていないので、形而上や形而下という概念に
振り回されるのだよ。
君は食事をした、妻は、君や子供たちが元気が出るようにと、
草や魚をそのままテーブルに置かないの。
料理して、美しい器に盛り付け、君たちを元気づけるの。
そのまま食さなければならないことも、もちろんあるだろう。
が、そのまま食すことと、料理することはケンカなどしないの。
形而下と形而上は、分裂していない人間ならば平気なのだよ。
王子であっても乞食であっても、平気だというのと似ている。
君たちの情弱から形而上や形而下を語るでない。
58 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:20:18.99 ID:uQ/ONA8i
>>55 負け惜しみ乙www
お前見たいなのは必ずそうやって不可知論に逃げるんだw
59 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:20:59.16 ID:siB4Syfk
無分別ってのは自分の好き嫌いで判断を下さないってこと
お前ら難しく考えすぎなんだよ馬鹿
無分別とは〜と何かしら語れば既に分別ww
こんな簡単な理屈も分からない人間は益々無分別なんて語れないなあw
だから無分別になんて意味は無いんですよ。意味があるのは分別。無分別を語る奴は全部偽者。
61 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:24:24.90 ID:aNIoWIzf
>>52 最低限、何らかの物質が「あるか、ないか」を知らなければ、人間は
一瞬も生存できない。目の前の大地が実在しなければ、一瞬にして奈落
の底である。分別もへちまもない。従って、五感の知覚による「有無」
の感受は、分別ではなく、生存そのものである。
62 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:24:36.77 ID:uQ/ONA8i
>>60 >無分別を語る奴は全部偽者。
本物の証明よろしく
63 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:27:51.55 ID:uQ/ONA8i
鈴木大拙は無分別の分別と言って説明した。
無分別の分別? ハァ? なんだそりゃ? 無分別なのか分別なのか
言っている本人も何が言いたいのか分からなくなっての喘ぎでしかない。
だから私の中では鈴木大拙も偽者。
65 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:31:01.85 ID:uQ/ONA8i
>>64 お前みたいなそう言うカタルシスを貪る奴が一番ダメだと思うよ
66 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:32:16.58 ID:aNIoWIzf
67 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:39:16.71 ID:siB4Syfk
>>64 日常において分別があるのは当然だろう
分別は良くないといって味噌と糞を一緒にするのか?
68 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 17:42:05.40 ID:QIw1JURf
>>45 > 涅槃に形而の上下は存在しない
それはそもそも形而上が存在せず、涅槃が形而下のものであるから
涅槃に形而上が無いというだけのことだよ。
> 西洋哲学信者にこれは理解出来ない
そういう神秘主義的な態度だから西洋哲学に遅れを取るのですよ。
> 一切の戯論が無条件で寂滅する、それが涅槃なのであり、涅槃には涅槃すら寂滅する
涅槃とは形而下に対して形而上的な妄想をやめること、ともいえる。事物の意味付けは単に恣意的なものに過ぎず、形而上も形而上における本質としての分別基準などもそもそも存在しない、という無分別の精神的境地。
> お前の目の前のどっかにある筆記具も、既に涅槃に住している
> だが、お前に筆記具は見えても、それが涅槃に住してる事が解らない
筆記具が筆記具としての意味を持つのか、背中を掻くための物としての意味を持つのかはその時々に観察者が意味付けるだけである、というのが筆記具についての無分別。その意味では、筆記具が涅槃にある、ということは言えるだろうね。
69 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 17:43:19.32 ID:dU12itBj
無分別が何のことか知りたい奴は座禅しろ座禅
身心脱落と道元さんは教えてる
身と心や自と他などの区別を文字通り脱落させる(取り払う)
これは無分別そのものの事で、それを体験するのが座禅だ
70 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 18:05:22.14 ID:QIw1JURf
>>50 > そうではない、無分別の境地とは涅槃の境地の事なので
> 形而と言う概念そのものが存在しないんだよ
いや、だから、形而上妄想患者が形而上妄想から離れて無分別の境地に至る、ということをいってるのであって、
その意味で、涅槃は形而上妄想(分別)から離れたところ、すなわち無分別(形而下)の境地なんだよ。
確かに、形而下という概念は形而上に対して用いられるから、形而上が無ければ形而下という分別も無い、ということは言えるけれど、
涅槃でないところ(形而上妄想を持つ者)に対して涅槃を説明するには、形而上妄想に対して便宜上「涅槃は形而上でなく形而下」ということは可能だろう。
> 一切皆空とか畢竟空と言うのも、全ての認識は妄想だっただけの事を言ってる
それは形而上妄想に取りつかれた妄想狂に対して、「形而上はありませんよ」という説明をしているだけで、つまり私が論じていることと同じです。
> 無分別には言葉も無い
涅槃には意味付けというものが無くなる、という意味で言葉が不要になるとしても
> だから勝義も語れない訳で
涅槃に至る過程においては(非涅槃の視点からは)「涅槃とは形而上妄想から離れたところ」と言えるわけで、その意味で「涅槃は形而下のもの」と言えるでしょう。
71 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 18:11:08.77 ID:00osSke7
身と心が何から脱落するん?
72 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 18:14:51.95 ID:00osSke7
すべての認識が妄想だったら不死身になったりもできたりするん?
73 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 18:15:22.64 ID:siB4Syfk
>>70 しかし良くそれだけ中身の無いことをグダグダと書き込めるね君
74 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 18:19:47.57 ID:dU12itBj
>>70 形而上を「存在しない」と認めたなら形而下も有り得ない事になる
何か拘って居たいようだが、いい加減認めろ
上が無いなら下も無いんだよ、そこに留まる事が既に分別だと言われてる
相対対立を離れた先に答えがある
因みにそこで言う「無い」は、「存在しない」の無いではなく
対立概念として成立しない、の無いだ
>>71 区別や分別
75 :
にしてつ ◆oZtcZx4E.M :2014/05/20(火) 18:20:09.38 ID:QIw1JURf
>>54 > 如何なるを以って形而上下なるか
> これを思料分別を以って伺い知ろうと躍起になる姿は最早仏法者のそれではない
そういう神秘主義的な態度だから(略)
> 無分別とは出世間の境地なので、思料分別では知り得ない
釈迦は方法論を言語で説いたわけでしょう。
76 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 18:22:49.88 ID:aNIoWIzf
>>70 「涅槃は形而上でなく形而下」という言葉は面白い。つまり「形而下
(生存の現場)」における分別は、もはや分別ではなく、生存そのもの
であるということ。即ち「悟り」である。
77 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 18:28:18.96 ID:dU12itBj
>>75 >そういう神秘主義的な態度だから(略)
釈尊の教説は神秘主義だと思ってるのか?
>釈迦は方法論を言語で説いたわけでしょう。
八万四千法蔵とも言われてるが、方法は端的に言えば「禅定三昧」
果報は「智慧による解脱」に尽きる
要するに、座禅して智慧使って悟れ、と言う事
78 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 18:29:57.60 ID:dU12itBj
>>76 それ、現世涅槃論って言う邪見の一つだから
それじゃちっとも仏教の目標達成に至れてない
79 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 18:39:52.91 ID:tfrvU4R3
>>70 違う。
>その意味で、涅槃は形而上妄想(分別)から離れたところ、すなわち無分別(形而下)の境地なんだよ。
形而上と形而上は分裂を示しているのではないのだよ。
君が分裂しているから、解釈を捻じ曲げるのだよ。
無分別の境地(形而下)というのは、前レスでも言ったが、
そんなものは、境地ではなく、徒歩の人なら当たり前、
問題外、知っているのだよ。
君が分裂して分からなくなってしまっているのだよ。
形而下に感動するなよ(笑)。
80 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 18:42:01.47 ID:aNIoWIzf
>>78 「仏教の目標達成」って一体何?生存に無関係なそのような目的を設定
することこそ、分別、我欲の典型であり、無我や悟りとは程遠い。
無我(悟り)は、我(生命)を精一杯生き、文字通り「我を忘れる」こと
によってのみ、初めて達成される。
「求めよ、さらば与えられん」というイエスの言葉は誤り。道元は、
「悟ろうとすると悟れない。悟ったと思う者は悟っていない」と言って
いる。
81 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 18:52:19.15 ID:aNIoWIzf
>>78 >それ、現世涅槃論って言う邪見の一つだから
大乗仏教の中心教義は、「煩悩即菩提」「生死(現世)即涅槃」なのだが。
君はどこの国の仏教徒?「生」を否定する釈迦仏教こそ、人間界(生存
共同体)では邪教である。
82 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 19:03:17.13 ID:dU12itBj
>>80 >「仏教の目標達成」って一体何?
涅槃を身で証して一切の煩悩を克服する事
>我を忘れる
誰の説だそれw
無我は「我などどこにもない」と言う事だよ
「我」、要するに「我執」が妄想だと気付く事が悟りの一つだ
忘れる事じゃ無い
83 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 19:08:50.05 ID:dU12itBj
>>81 >「煩悩即菩提」「生死(現世)即涅槃」なのだが。
先ず菩提とは即ち悟りの事、一切の苦悩の原因が煩悩に有ると気付く事が即ち菩提(悟り)となる
次に涅槃も即ち悟りの事、生死を憂う事は迷いなのであり、その憂いも結局は煩悩が原因だと気付けば
即ち涅槃(悟り)となる
生死にわざわざ括弧結んで現世付け無くとも、生死自体が概念なので現世にしか有り得ない
84 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 19:12:32.79 ID:aNIoWIzf
>>82 煩悩とは、状況に応じて肉体(生命)を維持するために発動される、
不可欠な心的作用。煩悩をなくしたら、「死」という最大の苦に至る。
「我などどこにもない」と言いながらあたりを見渡しているのは、釈迦の
我w。釈迦の幼稚な初歩的論理矛盾と勘違いは、滑稽極まりない。
85 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 19:15:02.48 ID:dU12itBj
86 :
神も仏も名無しさん:2014/05/20(火) 19:24:05.27 ID:tfrvU4R3
>>80 違う
>「仏教の目標達成」って一体何?生存に無関係なそのような目的を設定
>することこそ、分別、我欲の典型であり、無我や悟りとは程遠い。
君の知能が低いから分別し、我欲しているのだ。
説明するのには、仕方がないことがあるだろうが。
形而上とか形而下とか、リンゴとかみかんとか言わなくてならないことが
あるだろうが。
しかしだ、何を言わんとしているのか分かるんだよ、低能でなければな。
君は、一言で言うなら、そういう意味でもまったく無明。
自覚できないだろう、これを無明というのだよ。
>無我(悟り)は、我(生命)を精一杯生き、文字通り「我を忘れる」こと
>によってのみ、初めて達成される。
忘我か、ある意味賛同はするが、何度もいうが丁寧であれ。
つまりな、アホが忘我したならアホなことをやらかすのだよ(笑)
87 :
神も仏も名無しさん:
>「求めよ、さらば与えられん」というイエスの言葉は誤り。道元は、
>「悟ろうとすると悟れない。悟ったと思う者は悟っていない」と言って
>いる。
これは神を求めよ、神(父)はご存じだ。
君が手を伸ばす事をいつでも待って、そして君が手を伸ばす前から
神は手を伸ばしている。
といった、君の捻じ曲げと違うはなしであり、
欲を現わした言葉ではない。
(私は所謂キリスト教の信者ではないが、そしてとりわけ教養があるわけでもないが、
翻訳の問題もあるのかもしれないが、
君のような読解は、どうして、そんなにも汚らしいのだ。
君の汚らしさを説明すれば、
知能が低いのにいいがかりを付けることにおいては、知能が高い。
つまり、君が邪悪であることに知能が高く、
清浄であることに低能でなければ、誤解され易い翻訳に左右されない。