仏教議論スレッド91

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148パーピマン ◆hVgvvzQ7pw
⑶この「無明という病」は、我々が通常、世俗で行う「二項思考」・・・・すなわち
対象をたてることを意味します。 それこそが、根本の病であって、それを抜け出さない
ことには、どうしようもありませんよ。
「維摩の問いを認識対象として捉え、それぞれが見解を述べる。」・・・・・これは
その回答がどんなに素晴らしいものであろうと「戯論」以外の何ものでもないのですよ。

・・・・・・維摩の言いたかったことは上記のようなことだと思われます。
すなわち出来うることは、「拈華微笑」以外にはないでしょう。


「仏陀の沈黙」も同様であると、私は考えるのですが。
「Aであるのか? Aでないのか?」に対して「どちらでもない」と答えるのが「無記」
ではないのです。  ⇒「そのような問いを立てる時点でもうダメなんです。」
そのような、問いに対して回答を立てることは、もう言語によって対象を切り取って
しまってるわけです。  その「言語による規定化、定形化、対象化」を止めること
が、すなわち、「戯論寂滅」となるわけです。