仏教議論スレッド91

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146パーピマン ◆hVgvvzQ7pw
⑵ これに対する解説として、元来、多く語られてきたことは、
@「自らの見解が「言葉によって説くことが不可能であること」による沈黙」
 (すなわち言語表現を超越した高次のもの)
A言語表現の不完全さの表明
と説明されてきました。  これは、まさに文殊菩薩が端的に『言葉でもって』
指摘したことです。 対して、『維摩は同じことをより端的に』「沈黙」をもって
示した。・・・・・このような解説がなされてきました。
しかし、本当にそうなのでしょうか?

私の見解は違います。
維摩の問いに対して自己の見解を述べた時点で、もうそれは
「対象を立てた」ことになります。その見解が、どのように素晴らしいものでも
それは所詮、「二項の思考」なのです。
維摩が言いたかったことは、ただ一つ。 この三十二人の菩薩も含めて、
全ての衆生が「無明という病」にかかっている。
(ちなみに、この経では維摩が病にかかっていて、それを菩薩が見舞う・・という
設定になっていますwww  その辺も洒落ているところですがww)