つ聖句の読み方・解釈について@新旧聖書 その2

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285神も仏も名無しさん:2014/02/24(月) 03:26:50.22 ID:pDpAfXAM
>>276
新世界訳―エホバの証人の聖書
http://biblia.holy.jp/

>>89
http://biblia.holy.jp/21-ec-12-07.html

聖書の寓話表現(たとえ)をどう読むか
http://biblia.holy.jp/40-mt-25-46.html
286ダニエル ◆o31oshrvYE :2014/02/26(水) 22:47:37.55 ID:TLGptJy0
>>280 さん
>ダニエルみたいに、ヒッキーになって1万時間も読んでいる暇はないんだからw

ちなみに、1万時間というのは、「1万時間の法則」ということが存在して
なんでも1流になるためにはそれ位の時間が必要だ、ということです。

僕自身も、おそらくですが、まだ7千時間くらいしか聖書を読んでいないので
まだ1流の域には達していないものと思われます。
287ダニエル ◆o31oshrvYE :2014/02/26(水) 22:51:36.21 ID:TLGptJy0
イチローがバッティングの練習に1万時間を費やすのは
お金の見返りがあるのだから問題ないでしょう。

でも僕が1万時間聖書に費やしても、お金の見返りはありません。
何か他のことを仕事にして生活しなければならないのです。

でも、まあ何とかなるだろう、神が何とかしてくださるだろう、と
思って生きています。
288ダニエル ◆o31oshrvYE :2014/02/26(水) 22:52:31.63 ID:TLGptJy0
聖書と聖句についてのご質問をお受けしております。
289神も仏も名無しさん:2014/02/26(水) 23:59:47.84 ID:GEE6EH/5
イエスの言葉、聖書の真の理解者はイエス自身が指定しているんだから、

それ以外の凡人が何万回聖書を読んでも、とても真理には辿り着けないさ。
290神も仏も名無しさん:2014/02/27(木) 00:31:44.17 ID:+5J9Zvtz
そもそもダニエルさんは、もう一つのスレの

265
>創世記
 ・万物は1万年以内に創り始められた
      ^^^^^^^
 ・6日間で全てを創り出した
  ^^^^
 1万年より古い発掘は腐るほどあるし、1万光年以上離れた天体観測と
も矛盾するし、人間と猿の特徴を併せ持ったラマピテクス、アウストラロ
ピテクスの骨が発掘されているという事実は進化論が正しいこと示してい
る。
 「創世記」はデタラメなファンタジーであり「聖書」や「神」を信じる
ことなど滑稽でバカげている。

の質問?暴言?に答えてないじゃん。
言われっぱなしじゃん。

反論できないの?
だからスルーしているんでしょ。

でもこれは聖書の「時間に関する規定」の基礎、原則なんだよ。

じゃあ、千年王国の千年もちょうど千年間だと考えているの?
この謎を解く聖句があるでしょ。
291神も仏も名無しさん:2014/02/27(木) 00:43:14.66 ID:+5J9Zvtz
夜も遅いし、その聖句だけは教えてあげるね。

>3:8愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
 
有名な聖句だもんね。
聖書を何千回も読んでいるのならば、この聖句がどの書にあるのかは解るよね。
292ダニエル ◆o31oshrvYE :2014/02/27(木) 09:35:18.79 ID:RlpBXsRE
>>289
>それ以外の凡人が何万回聖書を読んでも、とても真理には辿り着けないさ。

そのように思ってしまう気持ちもわかりますが、とにかくやってみてください。
チャレンジしない人生なんてつまらないですよ。
293神も仏も名無しさん:2014/02/27(木) 09:46:15.86 ID:+5J9Zvtz
そもそもダニエルさんは「神の7千年計画」って解るの?

>>290
で書いた人に対して、
「聖書というのは、たとえ、比喩、暗喩、象徴で書かれてあるから、実際の年数とは違うんですよ。
聖書では、全ての時間を7千年間に喩えて書いてあるのです」

って説明できないの?
それとも、この考え方自体を知らないとか?
294ダニエル ◆o31oshrvYE :2014/02/27(木) 10:18:15.93 ID:YNs7P/Ej
聖書と聖句についてのご質問をお受けしています。
295神も仏も名無しさん:2014/03/27(木) 02:50:15.52 ID:Mn7PLvz1
>>294
> 聖書と聖句についてのご質問をお受けしています。

……真夜中の街に、ぽつんと灯りがついている小さな家みたいです。
夜ここにくるとなんか安心します。
   
296神も仏も名無しさん:2014/04/09(水) 14:31:00.88 ID:pcXBQIpN
イエスにバプテスマを施したヨハネは、
「らくだの皮衣を着、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物」
とする人物でした。
粗末な服装をし、粗末な食事をして荒野を徘徊し、「悔改めよ!」と叫ぶ人でした。

想像するに、洗礼者ヨハネはとても高貴な人物には見えません。
もし、私がその時代に生きていたなら、私は彼を見て、
「彼は荒野で変なことを叫んでいる頭のおかしい人だ」
と思ったことでしょう。
297神も仏も名無しさん:2014/04/09(水) 15:44:24.74 ID:cELMDdkb
どう感じるかは自由だ 好きにしろ
298296:2014/04/09(水) 15:49:24.33 ID:pcXBQIpN
同じように、もし、主が今まさに私の傍らに立っていたとしても、
私はそれに気づかないかもしれません。
それどころか、
「おい、そこの浮浪者。俺の周りをうろうろしてんじゃねぇよ。
臭いし汚いし迷惑なんだよ。二度とここへ来るな。今度来たら警察呼ぶからな」
と言って彼を去らせようとするでしょう。
299296:2014/04/09(水) 23:40:29.63 ID:pcXBQIpN
そしてしばらくした後に、私は洗礼者ヨハネのことを思い出して、
「ああ、偉大な人よ!あなたはどこへ行ってしまわれたのですか。
どうかここへお戻りになってください。私はあなたに罪の許しを請う者です」
と言うでしょう。
私は後悔から来る責め苦を、その報いとして受けなければなりません。
300296:2014/04/09(水) 23:52:33.13 ID:pcXBQIpN
主の臨在もまた、そのようなものになるでしょう。
主がいつ来るのかを知ることは、あまり重要なことではありません。
それは盗人が押し入るように、思わぬ時に来るからです(マタイ24:43,44)。
重要なのは、主がいつ来てもいいように、常に用意をしておくことではないでしょうか(マタイ25:13)。
301神も仏も名無しさん:2014/04/11(金) 04:04:20.21 ID:pr8JPDHk
旧約の主は厳父のようです。
主はご自分の民に律法をお与えになりました。
ところが、偉大な指導者も、王も、賢者も、その律法を守ることができませんでした。

主はそのとがを厳しく責められます。

【イスラエルの民に対して】
『この悪い世代の人々のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、
ひとりもないであろう。(申命記1:35)

【ダビデに対して】
あなたがわたしを軽んじてヘテ人ウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、
剣はいつまでもあなたの家を離れないであろう』。(サムエルU12:10)

主は達成できそうにないノルマを部下に課し、部下を激しく叱責する上司に似ています。
パワハラで訴えることもできません。主は裁き主だからです。
302神も仏も名無しさん:2014/04/11(金) 04:17:12.33 ID:pr8JPDHk
対して、イエスは慈母のようです。
売春婦を許し、病人を癒やし、災いを鎮められたからです。

【売春婦に対して】
……わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない(ヨハネ8:11)

【体がまひした者を癒やす】
しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、
中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。(ルカ5:24)

旧約を読んだ後に新約を読むと、
「いや〜、救われるな〜」という気分になれます。
そこでは私たちの罪は許され、負うべき荷は軽くされているのです(マタイ11:30)。
イエスが私たちの罪を引き受け、身代わりの犠牲となられたからです(マタイ20:28)。

これは責任能力のない子どもの代わりに、その親が責任を取ることと似ています。
こうしてイエスは私たちを罪から救われ、人としての完全な手本を示されました。
303神も仏も名無しさん:2014/04/28(月) 23:04:48.37 ID:yMFGr2yY
人は善行を積むことによって永遠の命を得るのではありません。
永遠の命は善行の報酬ではないのです。
というのも、神は世を深く愛してご自分の独り子を与え、だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで、
永遠の命を持てるようにされたからです。(ヨハネ3:16)

赤子が乳を求めているのにそれを与えない母親がいるでしょうか。
母は子を愛して乳を無償で与えるのであり、
神は人を愛して永遠の命を無償でお与えになるのです。

人は母から生まれるならば母の愛を、
神から生まれるならば神の愛を受けるのです。
304神も仏も名無しさん:2014/04/29(火) 01:11:44.12 ID:YWsOo3/0
善行によって救いに至るなどど考えてはなりません。
それはわたしたちがその善行によって誇ることがないようにするためです。

報酬のために善行を行う者が、隣人に愛を示すことは難しいでしょう。
愛は無償だからです。
しかし無償で得たものを無償で与えることはたやすいのです。(マタイ10:8)
305神も仏も名無しさん:2014/04/29(火) 07:03:30.20 ID:QaibtvMz
難しい。。。
306神も仏も名無しさん:2014/04/29(火) 22:25:49.84 ID:YWsOo3/0
人は愛が無償であることを知りながら、それでもなお愛を示そうとする存在であることを認めること、
これがすなわち信仰の告白です。
行いはそれが形となって現れたものです。

もしその目に割礼があるならば、行いは信仰が着ている服であることがわかるでしょう。
裸を見られることがあってはなりません。
だからわたしたちは服によって、それを注意深く隠すのです。

しかし隠すならば、それは必ず明らかになるでしょう。(ルカ8:17)
307神も仏も名無しさん:2014/05/04(日) 20:40:50.50 ID:oLRrkLvB
初めからあり、そこから出るものは霊です。
すなわち、人の内に初めからあり、その口から出ることばは霊です。

霊は存在の本質であり、人の霊はことばとともにあります。
ことばが見えないからといって、それを信じず、否認することがあってはなりません。
自らの霊を滅ぼし、それをゲヘナに投げ込むことがないようにするためです。

ことばを信じて主を呼び求める者に、神はご自分の栄光を現されます。
ことばは父なる神とともにおり、
神はことばにより、すべてのものを創造された方だからです。(ヨハネ1:1)
308神も仏も名無しさん:2014/05/06(火) 20:03:57.24 ID:iDHh3+VD
質問します。
主イエス・キリストは言われました。

「昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。」(マタイ5:33,34)

しかし、人はいたるところで誓いの言葉を述べています。
教会で結婚式を挙げるとき、夫婦となる男女は神父の前で愛を誓います。
スポーツの開会式や入社式、政治の場や法廷などでも誓いの言葉が述べられています。

大勢の人達の前で誓いの言葉を述べるのは良いことだと、多くの人たちが信じています。
それなのに主が私たちに対して「(神にさえ)誓ってはならない」と言われるのはなぜでしょうか?
309カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/06(火) 23:45:30.08 ID:OcXp3AHL
>>308
人の心は無常だ。イエスにたとえ死ぬようなことがあってもついていきますといったペトロは、イエスが
捕らえられたとき、一夜にしてあんな男は知らないと言った。

天地は過ぎ去る。あなた方は天に誓ってはならない。なぜならそこは無常だからである。地に誓っては
ならない。そこは無常だからである。またエルサレムに誓ってもならない。そこもまた無常だからだ。
あなた方の心が無常であるように。あなた方はただ是であるなら是。非であるなら非とだけいえばいい。

結婚式で永遠の愛を誓う人は数多くいれど、別れるカップルはいくらでもいる。人の心とは無常なのだ。
恒常普遍なものではない。なのに誓いを立てるということはすべて偽りである。ただ是なら是。非なら非と
だけいえばいい。そういうこと。
310カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/06(火) 23:49:48.34 ID:OcXp3AHL
>>307
あなたいいですね。>>306もあなたでしょ?できればコテハンつけてほしいところです。
311神も仏も名無しさん:2014/05/07(水) 20:31:36.03 ID:Nklktm3r
>>309
ありがとうございます。
「無常」という言葉は、日本人にはなじみ深いものですね。

そういえば主は、祈るときは会堂や大通りの角ではなく、
隠れてひそかに祈るように、とも言われました。(マタイ6:5,6)

主はもしかすると、大勢の人たちの前で、見栄を張ることを戒められたのかもしれません。
312カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/09(金) 09:28:31.28 ID:3X4ond9t
右の手のすることを左の手に知らせるな。偽善者よ。善行を行うとき、地上の報いを求めて行うな。
地上での報いを受ければ、せっかくできたその財産はそこで使ってしまい、あなたは貧困のままである。
どんなに地上で善い報いを受け、地位や名誉、富を手に入れようとも、それらのものはいずれ朽ち果てるし、
死によって、最後には全て失ってしまう。貴方が求める者なら、善行は隠れたとこれでやりなさい。
そうすれば地上での報いはなくとも、天に富を積むことになり朽ちない永遠の宝をあなたは見出し
手にするだろう。地上の報いを求めずに人知れずあなたが行う善行は、たとえ地上の者が知らなくとも
天の父は見て下さり、報いて下さる。
313カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/09(金) 09:57:22.05 ID:3X4ond9t
>>311
真理は一つだ。生まれた場所、時代、話す相手などにより表現の違いはあれど、本物の宗教家の話す
教義の本質は同じもの。あなたのいうマタイの聖句。

>また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って
>祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 〜マタイ6.5

とあるように報いを受けてしまっているとあるでしょ。そこはね、カルマの法を言ってるんですよ。ただ地上で
報いを受けることに対しては否定的でしょ。善い行いをすれば、善い果報として得られるがそれらを地上で求めて
得られても、地上での報いはいずれ朽ち果て全て失ってしまうものだから価値がない。そうじゃなく善行を
行うのなら地上での果報を求めず人知れずやりなさい。そうすれば天の父はそれを見て下さり天の父が報いて
下さるという教えを当時の偽善に満ちたファリサイ派だかの、お偉い聖職者を皮肉って話したものなんだ。
ゆえにこう続く。

>あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、
>隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 〜マタイ6.6

この教えは施しを与えるのなら、体の不自由な者など、あなたにお返しのできない人達にしてあげなさいの教えにも
繋がる。つまり、人になにかをしてあげるとき、見返りを求めてやるなということ。見返りを求めて施しをするなら偽善者
であり、その善行の報いは地上で受けてしまうことになる。見返りを求めず、また得られないであろう相手に施しを
与えてやれば、地上での報いはなくとも天に富を積むことになり、天の父が報いてくださる。そこに朽ちない永遠の宝はあり、
あなた方の心(エルサレム)もある。そういうこと。
314神も仏も名無しさん:2014/05/09(金) 22:14:13.30 ID:JuCGKUFl
>>313
>真理は一つだ。

同意します。
そして同時に、真理は豊かなもの、多面的なものです。
1つの福音のために、4つの福音書が書かれたからです。

キリスト教は世界で最も信じられている宗教であり、聖書は世界で最も読まれている本です。
そしてクリスチャンは、その信仰において、世界で最も分裂した存在です。(ルカ12:51)
315カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/10(土) 10:20:50.50 ID:DTMV7mzo
>>314
>イエスは言われた。わたしは世界に火を投じた。そして、見よ。それがそれを燃えたたすまで、
>わたしはそれを見守っているのだ。まことに、人々はわたしが世界に平和をもたらすために来たのだと考えている。
>しかし、彼らはわたしが地上に不和、火、剣、戦争をもたらすために来たことを認識していない。まことに、
>ある家に5人いれば、3人はふたりに、ふたりは3人に、父は息子に、息子は父に対立するであろう。そして、
>彼らはひとりで立つであろう。〜トマス

イエスは当時のユダヤ人達に新しい教えを広めて分裂させた。福音書はイエスの弟子達が書いた物。その彼らが
このような事を書く。彼らの残したキリスト教が後世分裂するのは折込積み。ゆえに同じ教えから解釈の異なる
複数の福音書が残された。そしてパウロの書簡。それにより信仰義認などというイエスの教えに背く教義のキリスト教も生まれた。
神との新しい契約の新約とは、後の世にこの地上に神の王国を築くということ。その時代に真理は明かされ、キリスト教に
限らず、ばらばらになった真理の教えは一つに統一される。ゆえに対立の後、彼らは一人で立つだろうとなる。
316カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/10(土) 10:37:38.68 ID:DTMV7mzo
>パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
>イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、
>また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを
>知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。 邪悪で不義な時代は、しるしを求める。
>しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して
>立ち去られた。 〜マタイ

邪悪で不義である今の時代では真理は明かされない。不義の今の時代で明かされても受け入れる人はほとんど
いないからだ。我々は精神的にまだまだ未熟だ。ゆえにもっと学ばなければならない。真理が明かされる前に次に用意された
戦争により大規模な粛清が行われる。そして人々はエゴイズムのもたらす悲惨な結末を目にし、新しい価値観を
切望し、精神的に成熟するだろう。その時に真理は明かされ、人々はそれを受け入れる。一神教が分裂し争うのは
全て仕組まれたこと。それは我々の救いの為の神の計画でもある。
317カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/12(月) 01:00:32.60 ID:1CGqMHc9
>>316
不毛の土地で種を撒いても収穫は少ないのはわかっているが、暇だし酔ってるんで書こう。
そこのヨナの聖句の部分。空の模様ってあんだろ。そのあと時のしるしと続くわけだ。
キリスト教のシンボルに魚があるだろ。空の模様とは、歳差運動による今は魚座の時代のことをさす。
始まりは二千年前頃だからイエスの誕生と重なる。ヨナのしるしとは聖書に親しむ人ならよく御存知だと思うが
ヨナは三日三晩魚の腹にいて三日後に吐き出された物語は三日後に復活したイエスの復活物語の雛形とされている。
つまり不義の今の時代。歳差運動でさす星座の魚座の今の時代の間は、真理は新約聖書に書かれている
イエスが十字架に貼り付けられ三日後に復活して弟子の前に現れぺちゃくちゃくっちゃべる御伽噺しか、しるし
として表されないということなんだ。新約聖書は肝心な真理は全て御伽噺の喩えで隠されている。
世界は7という数字を元に廻っている。ユダヤ暦は日没から一日の始まりだから、最後の晩餐は日没後の金曜日の始まり
に行われ(第六の日)、金曜日の日中に十字架に架けられ、日が暮れた土曜日の安息日(第七の日)に葬られた。
そして日が変わった日曜日に復活した。それは金曜日から数えて三日後であり。前の創造初めから数えて第八の日であり、週の初めの
第一の日でもある。永遠の命はそこにある。意味は、わかる人だけわかればいい。新約聖書のイエスの復活物語は
創造の秘密を喩えた御伽噺である。不義に満ちた今の時代には真理はこのような御伽噺の喩えでしか明かされないという
話なわけだ。天の模様。魚がキーワードの新約聖書のヨナの話は面白いよ。ちゅうかキリスト教は本当に面白い。
真理がパズルのように散りばめられている。そのパズルを解き明かす人は本当に少ない。
318カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/12(月) 01:09:49.77 ID:1CGqMHc9
新約聖書は肝心な真理の部分は全て御伽噺の喩えで書かれている。
真理を喩えでしか書かれていない聖書を今のキリスト教徒に与えられた。
なぜ真理を喩えでしか書かれていない聖書をキリスト教徒に与えられたか、聖書に書かれている
イエスの言葉から君らキリスト教徒はよく考えたほうがいい。君らは聞こえる耳がありながら聞こえず、
見える目がありながら見えない。今の時代にキリストが再臨したとして、彼が話す真理の言葉を
最も聞かないのが今のキリスト教徒であるから。特に信仰義認の人達。君らにとって
本物のキリストの言葉は到底受け入れられないだろう。
319カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/12(月) 01:28:17.70 ID:1CGqMHc9
ま、祭差運動の指す十二星座に合わせて時代を築くなんてのは、何者かが画を描いてやってるてことだけどね。。

八は復活と神を表す数字。それは創造神を表す数字。空という文字を分解すると、
神を表す数字の八と工。工とは工具や大工などに使われるように、何かを造るのに使われる字。
復活と神を表す八と工とう文字の組み合わせは創造神を表す。ウ冠は住まいを表す。
ゼロに一(創造神)が住まう。それが空という字になる。わかったか?アホ仏教徒。ま、君らはメクラだからせいぜい
滅びの道を歩んでくれたまえ。
320神も仏も名無しさん:2014/05/12(月) 01:29:00.13 ID:jbgi22wQ
こうした分裂は、私たち自身の内にもあるのではないでしょうか。
しかし、主が人の内にあるものを、あおり分けられます。(ルカ3:16,17)

今日、聖書の解釈をめぐる分裂はありますが、
それでもなお、多くの人たちが聖書に関心を寄せ、
主から直接、そのことばを聞こうとしています。

私たちは、その思いの中にある、ごくわずかなものを分かち合うことができます。
321神も仏も名無しさん:2014/05/12(月) 01:58:58.39 ID:wNSx1X4r
天のしるし ヨベルの年 掲挙 選別 義人救出 最後の審判
322カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/12(月) 02:01:53.04 ID:1CGqMHc9
>>320
分裂は僕にもあるでしょうね。僕は悪い存在です。だから今ここにいる。
多く与えられたものは多くを求められる。僕には知恵を与えられたが、認識までは与えられない。
なぜなら今の僕のままでは認識を与えられたら裁きは大きいからです。修行とは自分の心を制すること。
それはとても難しい。あなたは認識を得るために祈っていますか?あなたにとって救いのメソッドとは?
僕はその救いのメソッドを知っている。ゆえに今の僕では救われない絶望を感じている。
ただ、こんな僕でも、光は見せていただいた。あの光はゴールではないが、いよいよ自分の命が終わるとき
また見るような気がする。
323神も仏も名無しさん:2014/05/12(月) 19:05:44.49 ID:jbgi22wQ
>あなたは認識を得るために祈っていますか?

否と答えます。
天の父は自制しておられます。

初穂としてとられなかった私のような者でさえ、
裸や義について、また人の子イエスの名については思うところがあるのです。

しかし、黙して示されるもの、それは来るべき影ですが、
これについてはなにも語られないでしょう。
それは聖なるものだからです。
324カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/13(火) 11:21:12.42 ID:RQfv4zZW
>>323
神の名をみだりにとなえてはならないの旧約聖書の言葉は我々を無知のまま置く為に書かれた言葉。
人をエデンの園に追い出しそこに再び入らないようにしておかれたケルビムと回る炎の剣とは神の言葉=聖書と、
その乗り物ケルビム=宗教。聖書は肝心なことは全て御伽噺にして喩えられている。人々はこの迷信を信じさせる
ことによって真理の知恵から遠ざけられ永遠の命を得られないようにさせられている。不義の時代では真理は
喩えで隠されている。真理の知恵とは命の木の実。それは言葉によって成される。識別する知恵である言葉は
人を殺したが、言葉による知恵により人は再び一つとなり生かされる。人の子は父の名を明かしに
我々の前に使わされた。その名を信じる人は救われるだろう。我々は自分自身を知れば知られる。だが自分自身を
知らなければ全てにおいて欠けている。その報いは死である。
325カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/13(火) 11:24:13.27 ID:RQfv4zZW
父の名は「私」じゃないよ。それはエゴだから。エゴは人を殺す元凶だ。
父の名はエゴだと言ってる人は、よっぽどご自身のエゴを愛していらっしゃるのでしょう。
326カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2014/05/13(火) 12:11:32.43 ID:RQfv4zZW
>>323
>しかし、黙して示されるもの、それは来るべき影ですが、
>これについてはなにも語られないでしょう。
>それは聖なるものだからです。

7は聖なる数字。でもそこ、光がなければ何も無いよ。たしかにそこ、沈黙の世界だけどね。愚かな仏教徒は
意味もわからずそこしか目指していない。復活が無ければそれはただの滅びである。闇は光に打ち勝たず、光は
闇の中で輝く。そして闇は光で隠される。
327神も仏も名無しさん:2014/05/13(火) 19:59:25.92 ID:25Fy3oHX
「ある」ものを「ない」と言えば、人はそれを探さず、ついに見出すことがありません。
しかし、「ある」ものが「ない」ならば、人はそれを探すのです。

人は失くしたものを探し求め、それが見つかったときに喜びます。(ルカ15:32)
これが祈りです。

私に時を与えてくれた人に感謝します。
また、私に場を与えてくれた人にはありがとうと言います。
主イエス・キリストの名においてあるものをあるとされる方が、
あなたがたと共におられますように。
328神も仏も名無しさん:2014/05/18(日) 09:51:54.40 ID:eEs/gLuF
タニンって何ですかね。
329神も仏も名無しさん:2014/06/12(木) 04:54:36.75 ID:u4eV3xLS
ダニエルさん、こちらのスレで質問させていただきました。そのせつはありがとうございました。
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/psy/1400385868/300

ほんとうは、だれでもみられるところには書きたくないし、
ダニエルさんに直接お礼もうしあげたいのですが。でも
できないので、申し訳ありませんが、こちらに書かせていただきます。

わたしは、幼児洗礼ですが、育ったのはキリスト教の家ではありませんでした。
日曜学校も行っていません。
十代の頃、洗礼をうけた教会からお誘いをいただきましたが、
もうその年になると、カトリックの教義・聖書はなかなか受け入れられませんでした。

別の幼児洗礼の人が、「聖書を読んだら強迫神経症になる」といって、
さっさと離れていきました。わたしもそうでしたが、堅信だけは、とおもいました。
そのうち、いろいろなことを知れば知るほど、かえって信じることが難しくなりました。
カテキズムが頭に入らないのは、苦痛で、拒否してしまうのだとおもいます。
330神も仏も名無しさん:2014/06/12(木) 04:56:50.03 ID:u4eV3xLS
現実との折り合いのつけかたがわからず、もう精神的には壊れていました。
聖書が恐怖で、キリスト教否定のブログ、本 
特に、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」が癒しでした。
でも無神論は困るので、聖書とその本を一緒においていました。
一般の人が、聖書に深入りするのは、精神を病んでしまうもの、
でなければ、棄教してしまうもの、とおもっていました。

そんなときに、ダニエルさんのスレに行ったとき、
「こんな方がいらっしゃる、すごい 」とおもいました。
ぜひ、おはなしをお聞きしたい。
聖書関連のところはみたくないときでも、ダニエルさんのスレは魅力的でした。

「聖書を読むことは楽しい」 初めて聞いたような気がします。

正直いって、いまは、まだ、カトリックの教義は受け入れられないけれど、
時期がきたら、来るかこないかはわからないけでど、受け入れられるでしょう。

しかし、幼児洗礼をうけていなければ、出会えなかった、ありがたい方がたいへん多いです。
ダニエルさんもそういうなかの おひとりです。 ダニエルさん、ありがとうございました。
331ダニエル ◆o31oshrvYE :2014/06/14(土) 01:44:09.02 ID:zw5nZu12
>>330 さん
>わたしは、幼児洗礼ですが、育ったのはキリスト教の家ではありませんでした。
>日曜学校も行っていません。

なんだか複雑だったようですね。
僕は「聖書を根底から学ぶスレ」にずっと張り付いていますから
もし気が向いたら、暇でやることないときにでも見に来てください。

更新してないけどブログもあるので、そこからメールも受け付けてます。
http://daniele.hatenablog.com/
332神も仏も名無しさん:2014/06/14(土) 09:03:04.09 ID:Ti0hyfN2
>>331
ダニエルさん、  >>330 です。
「めちゃええことが書かれている」レス めちゃ感激!なレス 
ほんとうにありがとうございました。

個人的なことなので、メールでお返事したいのですが、
今使っているPCは、メールが使えないので(自分のPCではありません)、
こちらに書かせていただきます。

ご心配おかけしてしまったようで、すみません。べつに複雑な事情はないんです。
(親戚のなかでも)片親だけが熱心なカトリック教徒、その子供が小さいうちに親が帰天、
そうすると、日本ではキリスト教ではない家が多いので、
キリスト教にはあまり縁がなくなってしまうのですが、そういうことです。
幼児洗礼だけは早く受けさせてもらっていたので、よかったです。
それで、いま ダニエルさんから、 こんな めちゃステキな レスがもらえました。
333神も仏も名無しさん:2014/06/14(土) 09:05:17.10 ID:Ti0hyfN2
>>331
20年以上前になりますが、洗礼を受けた教会を訪ねたとき、
神父様が喜んでくださって、「いつでも電話してくださいね」とメモに電話番号を書いてわたしてくださいました。
ダニエルさんのブログのリンクを貼ってくださっているのをみて、そのときのことを思い出しました。

その神父様も帰天なさいました。
あとで、入院した信徒さんには病院にホスチアを届けてくださる神父さまだった、と聞きました。
まだまだいっぱい話はあるんですけど、陽気な外国人神父さまでした。
日本のカトリック教会もかわってしまったみたいですね。

ダニエルさんのスレは、みられるときはいつもみています。じつはかくれファンでした。
わたしは、コメントできるほどではありませんが、「いっちょかみ」はするかも…です。
334ダニエル ◆o31oshrvYE
>>333
>神父様が喜んでくださって、「いつでも電話してくださいね」とメモに電話番号を書いてわたしてくださいました。
>その神父様も帰天なさいました。
>入院した信徒さんには病院にホスチアを届けてくださる神父さまだった、と聞きました。

いい神父様ですね。
「いつでも電話してくださいね」と言ってくれたけど、
今では、もう死んでしまわれたんですね。

どんなことにも締め切りみたいなものがあるんだなあと
読ませていただいて思いました。