929 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 12:26:35.24 ID:ghKYWdfO
少しでも政権に基づいた生活をするべき。
そこで、世間は正月だといって、おめでたいといい、年賀状などを配り、
正月の食事を差別している。しかし、これらは真理に基づく、正見によると、
少しも、仏教を修する人のこだわることではない。
むしろ、こう言うこだわりを捨てることが仏教にかなう。
俗世に生きるもので、こう言う世間の行事捨てられるなら、捨てるべきである。
930 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 12:35:16.58 ID:ghKYWdfO
しかし、性格者のお言葉をこんな風に書き残すということは、
並大抵の気持ちでは出来なかったろうな。
サンガもまた、清浄にあふれていたから出来たことだ。
931 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 12:55:53.92 ID:p7aCWR5w
明けましておめでとう御座います。
今年も輪廻転生について、いろいろ意見を伺いたいかと思います。
死んだ先のことを考えられるようなら、まだ良いかと思いますね。
世の中には死後どころか、明日のことを考えるだけでも息が詰まる。
今を生きるだけで精一杯な人もいる訳で、
そういう人間からしたら余裕じゃないですか?
今を生きてますか?
932 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 13:18:27.69 ID:fHJ7KYFg
>>900 宝珠さん。その大阪の十字の光はどこで見られるんです?
具体的に住所など知っているんでしたら、教えて頂きたいのですが。
933 :
おじゃる:2014/01/01(水) 13:37:56.74 ID:ZUoMR6iF
934 :
おじゃる:2014/01/01(水) 14:35:33.36 ID:ZUoMR6iF
935 :
明け御眼一在家:2014/01/01(水) 14:40:04.36 ID:pBHIFRXT
>>927 セブン氏
>梵網経で言えば、外道等あらゆる見解が網羅され、如来はそれらを超えている、
>というところが重要なのw 幾つも幾つもあるうちのどれかが重要だという経じゃないのw
>(それは自歓喜経も等誦経も同様だけどw)
>幾つも幾つも併記されている中身の、どれか一つが突出して価値付けられてなんかいないのw
私が指摘したポイントをもう一度整理してみます。
1)釈尊は側近の500人弟子(多分、高弟)に「梵網経」と「沙門果経」とを説かれました。
2)2つの経典に「輪廻」は説かれておりました。
【ネタの意図】
・前スレから釈尊の対機説法の特徴「四悉壇」を度々紹介してきました。
・ある住人から特定の人にだけ説かれた対機説法を一々信じるな、固執するなとの尤もなご意見がありました。
・そこで大勢の(できれば側近達、高弟達)に説かれた経典を長部経典の中から洗い出しました。
・更に知名度の高い経典である「梵網経」と「沙門果経」を選びました。
【考察】
・当時の外道等の見解の中に「輪廻」があったことは「梵網経」で確認されました。
・500人の弟子達に共通に説かれた経典の場合は「四悉壇」をあまり考慮する必要はないかと思料します。
・よって「沙門果経」でも「輪廻」が説かれたのは方便だ、誘引だとの仮設は却下されます。
・もし誘引だとしたら500人の弟子達の全員が大したレベルでなかったことになるからです。
(もし大したことのない弟子達ばかりであれば解脱者も皆無でしょう。)
・また500人弟子に方便や誘引が無用であれば、どうして舎利弗に対して誘引での「自歓喜経」と「等誦経」が起きるでしょうか。
>まだ解らないかなぁ・・・ ┐(;´ー`)┌
折角、新年も議論スレで輪廻しましたので、前世スレよりは深く考えることに心掛けております。 \(^0^)/
936 :
おじゃる:2014/01/01(水) 15:04:54.02 ID:ZUoMR6iF
937 :
おじゃる:2014/01/01(水) 15:48:18.22 ID:ZUoMR6iF
前世は一在家さんの場合は
「自性だから輪廻を繰り返す」と掴み捉えようとする心の働きに固執しようとしているのかも
末那識・我愛は
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける
渇愛(タンハー)によって
何かに対して「ある・ない・肯定・否定」と掴み捉え固執しようとする心の働きが現れる
この深層的な自我心(末那識・我愛)を滅することによって
我々は初めて真の無我行を実践することができる
938 :
おっさん ◆1LJh2BXBow :2014/01/01(水) 15:56:28.62 ID:QEgTc2Dv
おじゃるさん、こんにちわ。
しばらくロムします。
939 :
おじゃる:2014/01/01(水) 16:15:07.23 ID:ZUoMR6iF
940 :
明け御眼一在家:2014/01/01(水) 16:21:28.24 ID:pBHIFRXT
>>935 >・500人の弟子達に共通に説かれた経典の場合は「四悉壇」をあまり考慮する必要はないかと思料します。
【展開】
・逆に釈尊が一人か極少人数に説かれた経典を同じく長部経典の中から洗い出しました。
・事例としては本スレでも度々引用されました「無記」とします。
【ケーススタディ】 「無記」の三経典における説法相手と、その状況と同席した釈尊の弟子。
第六経「マハーリ経」:
説法相手は一部族の主のマハーリ。釈尊が一人で座っていた所にマハーリが訪問し、同席弟子は従者くらい。
第九経「ポッタパーダ経」:
説法相手は異教の行者のポッタパーダ。釈尊が自らポッタパーダを訪問し、同席弟子は従者くらい。
第二十四経「パーティカ経」:
説法相手は遊行者のパーティカ。釈尊が托鉢に行った先なので、同席弟子は従者くらい。
以上から釈尊が「無記」の態度をとられた説法相手は弟子ではなく、同席弟子は従者くらいで、典型的な「四悉壇」のケースに当てはまることが分かります。
過去スレでは幾度も長部経典を引用しましたが、今回の考察は現スレが初出です。。セブン氏ならば保証できるかと存じます。 \(^0^)/
941 :
明け御眼一在家:2014/01/01(水) 16:27:22.10 ID:pBHIFRXT
>>937 おじゃる氏
>「自性だから輪廻を繰り返す」と掴み捉えようとする心の働きに固執しようとしているのかも
さあ、どうでしょう。
「輪廻から解脱するのも自性かな」とか考えております。
換言しますと無自性であれば輪廻も解脱も元々無いし、どうでもよいでしょう。
どうでもよいことを釈尊が500人の高弟たちに説かれる必要も無かったと思料します。
942 :
おじゃる:2014/01/01(水) 16:36:26.25 ID:ZUoMR6iF
>>938 おっさん様へ
縁起一代先生、セブン先生、親切僧先生
「因と縁の依存によって…」
↑ 標準的な教え
− これに対して −
↓ 外道(極悪非道な教え)
私(おじゃる)の場合は
「クンダリニーで解脱せよ」とか逝っちゃってるので
極悪非道な教えであるらしい
前世は一在家さんの場合は
「自性だ!輪廻だ!」
宝珠さんの場合は
「神智学だ!」
943 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 16:39:12.30 ID:w2Cm0Ed2
>>935 >・もし誘引だとしたら500人の弟子達の全員が大したレベルでなかったことになるからです。
その500人とやらは舎利弗が外道時に改宗する時につれて来た連中だろ、お前は本当に頭が弱いな
>・よって「沙門果経」でも「輪廻」が説かれたのは方便だ、誘引だとの仮設は却下されます。
仮設って何だよ?仮説って意味か?
却下はされないよ、「沙門果経」で「輪廻の様なこと」が説かれたのは瞑想修行中の自己内宇宙では可能って意味だから
お前は仏教に身を置かず行もしないから文だけで理解しようとしてて堂々巡りしてるだけ
仏教はなぁアホ在家よ
現象世界(俺らが肉眼で見てる世界)と精神世界(悟り等を認知可能な世界)の区別しないで考えるんだよ
行を行わないお前にはどんなにどんなにどんなに頑張っても理解できないんだよ
それでお前が癇癪起こして仏教批判に走ろうが釈迦批判に走ろうが何にも解決もしない
行が全てなんだよ仏教は、そこに答えがちゃんとある
944 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 16:49:05.40 ID:w2Cm0Ed2
945 :
おじゃる:2014/01/01(水) 16:55:34.41 ID:ZUoMR6iF
>>941 明け御眼(前世は)一在家さんへ
> 「輪廻から解脱するのも自性かな」とか考えております
例えば、サーンキヤの場合は
人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが
ヨーガの技法に依存して
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされ
「輪廻から解脱するのも自性だ」と掴み捉えようとしている想(おも)いも滅する
ヨーガの実践や宗教の各種修行によって穏やかに活性化し始めると
生涯をかけ各チャクラが徐々に開発されていくこととなる
クンダリニー・ヨーガあるいは瞑想などによりクンダリニーが上昇し
それによりサハスラーラが押し開けられればクンダリニー覚醒となる
サハスラーラを完全開放させることになればその人物は解脱に至るが
今世で解脱できる魂は極一部といわれている
【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
頭を裂け落とさせるものである
神のやり方ならば魂は磨かれる、悪魔のやり方ならば魂は腐っていく
何故なら、神は魂の磨かれた姿が魂の健康な姿だと知っているからであり、悪魔は腐った魂が大好物だからである
魂が磨かれているというのは、人格が磨かれているということである。徳の備わった人間性が磨かれているのであれば魂は磨かれている
947 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 17:01:32.91 ID:w2Cm0Ed2
>>945 おじゃる、ヨガは釈尊が採用してない外道の行だ
クンダリニーは根本が怒りのエネルギーだし、その源は性欲に伴う快楽をバネとした破壊と再生だ
美容体操で開発できる事は麻原ですらも実証済みだが、あいつが何したかはご覧の有様だ
ヨガに依らずともちゃんと瞑想の方法は説かれている
美容体操以外の目的でディープなヨガは興味持たんほうがいい
より一層狂うぞ?
948 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 17:02:14.78 ID:p7aCWR5w
>>934おじゃる氏
>ID:1zG6yPjk さんは、机先生かしら? おじゃる?
いかにも拙者は机龍之介であります。
過去には2チャンネルガイドでも紹介されたのですが、現在はこうして忍びの身で書いております。
>落武者の霊を見た → オカルト的なものに興味を持つ
> → 密教 → 瑜伽師地論(ゆがしじろん) → 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
> → 根本仏典 → 中論 → 般若経
そうでありますか。大変参考になります。
実は私が最初に死後の世界に興味が湧いたのは、中学生の頃に読んだキューブラー・ロス博士の「死の瞬間」でした。
臨死体験については、ロス以外にも多く図書館にありましたから、別の著書も読みあさりましたね。
しかし研究を重ねいくと、どうも臨死においては脳が攪乱起こすらしい。という学説も出てきした。
この脳の攪乱というのは、私も実体験がありますものですから、やはり信憑性があるんじゃないですか?
幽霊はでますね。
私が見た幽霊は、路上で立つ幽霊でした。男女は判明できませんけど。
これは車を運転している時で、幽霊も目撃しても、どこかで幻覚の自覚もあって、そんなには驚かない。
ようは、幽霊も目撃しても”自己分析が出来るかどうか”が関係するんじゃないですか?
(この時は睡魔に襲われましたから、幽霊は出やすくなります)
幽霊は出ても、そこに存在している訳ではなくて、幽霊は自分の心が作り出すもの。
かように机龍之介は結論を導いたのであります。
949 :
おじゃる:2014/01/01(水) 17:09:31.61 ID:ZUoMR6iF
> おじゃる
> クンダリニーじゃアンタの望むものは解決しないよ
私(おじゃる)の場合は
実践した事がないので、本当か?どうか?わからないけど
ヨーガの技法に依存して
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
クンダリニーが上昇し
それによりサハスラーラが押し開けられ
サハスラーラを完全開放させ
無明(頭)を裂け落とさせるものである
無明滅 → 行滅 → 識滅させて「解脱すれば仏だ」と言う事に、気づくまでは、気づくことは難しい
実践した事はないけど↑興味はある
950 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 17:16:55.51 ID:w2Cm0Ed2
>>949 >無明滅 → 行滅 → 識滅させて「解脱すれば仏だ」と言う事に、気づくまでは、気づくことは難しい
ヨガで上記に至るには先ず柔軟な身体能力が要求される、つまり柔らかい身体作りが前提で必須
仏教ならそんなものは殆ど要らない、仏典の通り行ずればいいだけだ
興味本位でヨガやって狂った連中がオウムだと知れ
仏教は基本的にヨガはやらない(瑜伽行唯識学派は外道)
951 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 17:21:48.80 ID:w2Cm0Ed2
苦楽中道を説いたのが釈迦の教えなのであり仏教だと知れ
ヨガは苦行に属す
952 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 17:23:39.45 ID:p7aCWR5w
>>936おじゃる氏
>苦集滅道
> 止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)
> 無我・縁起・空の観察に依存して
>無明滅 → 行滅 → 識滅させて「解脱すれば仏だ」と言う事に
>気づくまでは、気づくことは難しい
苦集滅道とは、順観して、そして逆観したら良い。つうことですから、
幽霊の出る原因を探し出せば宜しいんじゃないですか?
簡単なことを難しく考える必要性はない。
北条時頼も幽霊が出るらしく、困ってしまって
道元に「幽霊を退治してもらいたい」。と懇願したらしい。
実は幽霊は退治できんのですよ。
退治(つまり幽霊と対立)しちゃ〜あかんです。
幽霊を受け入れる。つまり幽霊と一体になる。
仏教は一如の法門ですから、対立しては迷うだけかと思います。
953 :
おじゃる:2014/01/01(水) 17:24:30.16 ID:ZUoMR6iF
> 幽霊は自分の心が作り出すもの
私(おじゃる)の場合は
中観自立・有相唯識の段階なので
因と縁の依存によって
仮設としての(と言う意味で)
とりあえず仮に
「末那識・我愛が現れている」とします
意識、自覚的意識
六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である
また前五識と意識を合わせて六識または現行(げんぎょう)という
その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が想定されており
寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる
熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという
さらにその下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり
この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し
他の識と相互作用して我々が
「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている
954 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 17:30:56.22 ID:w2Cm0Ed2
>>953 あんたさあ、それ具体的にはどうやってんの?
ちょっと普段のやってる方法を具体的に書いてみてくれる?
955 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 17:42:04.68 ID:w2Cm0Ed2
おじゃる、あんたの宗教観ってのは結局読書が基本で
論破目的の自己顕示道具に過ぎないんじゃないのか?
だからあんたの仏教論には行による体験論が無いんだろ
大乗仏教ですらそれが一番駄目な事だと教えてんのに駄目道まっしぐらじゃん
956 :
おじゃる:2014/01/01(水) 17:46:14.86 ID:ZUoMR6iF
> 苦集滅道とは、順観して、そして逆観したら良い
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html 無知(無明)の暗闇に覆われて人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った三種類の行為を行う(カルマを積む)
三つの行為とは、身体的な行為、言葉による行為、そして心による行為である
渇愛によって
何かに対して「ある・ない・肯定・否定」と掴み捉えようとする心の働きが現れる
渇愛を滅させて
無明滅 → 行滅 → 識滅は
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである
957 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 17:49:27.14 ID:w2Cm0Ed2
>>956 >止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである
コピペすんでも間違えちゃだめだろ、改ざんか?
なんかあんたもアホ在家や宝珠と同じ底意地の悪さを感じるよ
958 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 17:54:22.27 ID:p7aCWR5w
>>953おじゃる氏
昔は脳科学が発展してなかったものですから、いろいろ諸説は出やすいですが、
近年、電磁波が脳の信号を誤作動しやすい。というのが分かってきました。
例えば、携帯のアンテナとか鉄塔とかも電磁波は出ている。
自然界でいえば、花崗岩は磁気を放出しやすいですから
磁気が乱れやすくて、脳の信号に誤作動を起こしやすい。
磁気にはあまり関係なくて、誤作動起こしやすい人間も当然いる訳です。
こういう連中は幻覚や幻聴は日常的に襲いますね。
健常者だからといって、幻覚や幻聴はありますよ。
先入感が強いと起こりやすい。というか・・・
(つづく)
959 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 17:55:29.79 ID:p7aCWR5w
(つづき)
私が小学生の時に、路上でテキヤが商売してましてね。
「不思議な覗き筒」を100円くらいだったか?販売してまして、
試しにこの筒で手を見ると、あら不思議、骨まで見えちゃう。
これは一種の集団催眠で、その時は骨まで見えるんですよ。
しかし後になって、そのカラクリが分かってくる。
子供は一度騙されて、そして利口になるんですよ。
授業料として100円じゃ安いじゃないですか?
はて、その筒には何のカラクリがあったのか?
筒に鳥の羽を付けてたんですね。これで骨まで見える。
何を言いたいのか?ってたら、つまり「先入感」ですよ。
960 :
おじゃる:2014/01/01(水) 17:57:42.33 ID:ZUoMR6iF
> 仏教論には行による体験論が無いんだろ
落武者の霊を見た → オカルト的なものに興味を持つ
→ 密教 → 瑜伽師地論(ゆがしじろん) → 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
→ 根本仏典 → 中論 → 般若経
「落武者の霊を見た」と言う体験はある
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)の実践をした事はない
実践をした事はないけど、興味があるので
唯識派の重要な文献
瑜伽師地論(ゆがしじろん)
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)とかを教学として勉強している
961 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 18:12:05.12 ID:p7aCWR5w
>>956おじゃる氏
>第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
十二因縁・十二縁起をそんなに難しく考えることはないですよ。
簡単に十二に解説しただけの話ですから。
いわゆる初心者向けです。
貴殿はあまり考え過ぎるのと違いますか?
そんなに考えたら心が病んでしまいます。
生きるには、余計なことを考えないことと・・・
考えなければならないこと。
これの分別が必要かと思います。
962 :
おじゃる:2014/01/01(水) 18:15:13.33 ID:ZUoMR6iF
> コピペすんでも間違えちゃだめだろ、改ざんか?
> なんかあんたもアホ在家や宝珠と同じ底意地の悪さを感じるよ
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二)の考察
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html 11.
無知(無明)が止まると
行為(諸行)は生じなくなるだろう
無知の停止は
瞑想と知恵(智)を通して生じるのである
11.意訳
(存在を実体としてとらえ、自己に執着するような)無知が取り除かれると
(カルマを蓄積する)行為は行われなくな(り、蓄積も行われなくなり
また、輪廻の中の者としての人間も生まれなくな)るだろう
そのような無知の停止は瞑想実践による(空性の)知恵を通して獲得されるのである
瞑想によってこそ無知が停止するとナーガールジュナ自身がはっきり述べている点でこれは大変重要な発言である
「事象は概念に依存的して生じる」という第六・表面意識の理解だけでは悟りへ至るのに足りないのである
963 :
おじゃる:2014/01/01(水) 18:30:35.51 ID:ZUoMR6iF
>>962 の続き
龍樹(りゅうじゅ)
南インドのビダルバの出身のバラモンと伝えられ、幼い頃から多くの学問に通じた
小乗の仏典をわずか 90 日で読破した龍樹は
更なる経典を求めヒマラヤ山中の老比丘からいくらかの大乗仏典を授けられた
龍樹は神通力を以って神々と悪魔(阿修羅)の戦闘の様子を王に見せた
龍樹(りゅうじゅ)は
非想非非想処
四如意足(四神足)四つの自在力
想受滅
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)の実践などによって
神通力を具現化させたかも
964 :
おじゃる:2014/01/01(水) 18:47:58.92 ID:ZUoMR6iF
965 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 18:49:57.18 ID:pBHIFRXT
>>943 >その500人とやらは舎利弗が外道時に改宗する時につれて来た連中だろ、お前は本当に頭が弱いな
自称「頭の良い」貴方は何を根拠にそう判断されましたか。
(wiki「阿羅漢」)
仏陀に常に付き添った500人の弟子、または仏滅後の結集(けつじゅう、仏典編集)に集まった弟子を
「五百羅漢」と称して尊崇・敬愛することも盛んにおこなわれてきた。
>行が全てなんだよ仏教は、そこに答えがちゃんとある
私が説いたのではなく長部経典に「500人の弟子」が説かれておりますので、混ぜないようにお願いします。
966 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 19:33:33.43 ID:p7aCWR5w
>>864 >第六・表面意識の理解だけでは悟りへ至る事は出来ない
そうでしたか?
あまり考え過ぎると心が病んでしまいます。
つうか、心が病んでくると思考が極端に偏る。
私は臨死体験とかも興味がありますが、最近は精神病とかも興味がありますね。
実は精神病と宗教は関係があります。
統合失調症(精神分裂病)は、自己分析が出来ないのかと思ってましたが、
実は出来るんじゃないか?ってのも研究してみようかと思います。
で、最近の研究では、統合失調症の方は、書き込みを見てると
何となく病気なのでは?が判断がつくようになりました。
貴殿は、精神病と、そうでない御仁は何となく判断できますか?
967 :
異類中行:2014/01/01(水) 19:35:52.25 ID:8PpE3NEQ
>>924(アホ)
>閻魔大王もパーピマン(悪魔)も形而学上なのに。。
今年も、相変わらずアホかw
形而上ではなく、説話物語、フィクション。
一切外(相応部35-23)であることには変わりがない。
『閻魔大王、天下無敵』(
>>923)もアホでは解せない。
>>965(アホ)
>私が説いたのではなく長部経典に「500人の弟子」が説かれておりますので
異類中行(
>>918)、ウンコ回虫に仏法のおのずからなる体得あり。
『三世諸佛不知有
ウンコ回虫却知有』(閻魔)
時間概念で語られる<三世諸佛>(般若心経)ごときが、なんぼのもんじゃい!
ああ〜 降三世明王様 降三世明王様 降三世明王様
969 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 19:55:56.79 ID:pBHIFRXT
>>967 >異類中行(
>>918)、ウンコ回虫に仏法のおのずからなる体得あり。
利口な貴方よりもアホな私の方がよく知っている、という意味でしたか。恐縮です。
970 :
コレ悟りかよ!?w:2014/01/01(水) 21:58:29.61 ID:iYwSV0Hc
十二因縁・十二縁起は、なぜ輪廻するかの説明なんですね。
無明とは輪廻を理解できない馬鹿のことでしょ。
輪廻を理解すれば生も老いも死も無くなる。
つまり永遠にこのまま存在し続ける。二度と生まれないし死なない。
ここでのポイントは生と死の否定であり、輪廻の否定では無いということでしょう。
971 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 22:03:20.88 ID:ghKYWdfO
972 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 22:06:31.88 ID:kgi3JS7c
何度も輪廻してたら輪廻のことなんかわすれんじゃないの。
発心正しからざれば萬行虚しく施す。
974 :
神も仏も名無しさん:2014/01/02(木) 00:27:52.34 ID:KSz9VFK2
>>972 >何度も輪廻してたら輪廻のことなんかわすれんじゃないの。
釈尊が説かれた「入胎の法」によれば、菩薩以外は入胎〜出胎までの間に前世を忘れるという法があるそうです。
長部経典の「自歓喜経」と「等誦経」にて釈尊が説かれた法として舎利弗が整理しております。
本スレでも瞑想中に前世を幾つも想起したがどれもこれもブラックだったという住人がおられましたが、
多分そうだと思います。大半は娑婆と地獄との間を輪廻しておりますでしょう。
(再提)
★日蓮
「四条金吾殿御消息」
日蓮過去に妻子、所領、眷属等の故に身命を捨てし所いく幾そばく許かありけむ。或は山にすて、海にすて、或は河、或はいそ等、路のほとりか。
然れども法華経のゆへ、題目の難にあらざれば、捨てし身も蒙る難等も成仏のためならず。
★空海
「秘蔵宝鑰」
三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず、生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。
>>935 >おせちの重箱を見ながら、
>数の子を好きな人が「おせちでは数の子が最も重要だ!」と言い、
>なますを好きな人が「おせちではなますが最も重要だ!」と言ってるようなもの
≪さほど重要出ないこと【だけを】ピックアップして≫
≪自分の考えと重ね合わせ≫
≪さも、自分の考え 「重要である」「支持されている」「主要事案、中心事案である」 かの如く印象付ける≫
ところが、 【姑息】で【狡猾】で【醜悪】だっつってんのw ( ゚听)、
976 :
一字抜けた:2014/01/02(木) 00:54:21.40 ID:KD7tbJ28
>>975 ≪さも、自分の考えが 「重要である」「支持されている」「主要事案、中心事案である」 かの如く印象付ける≫
>>935 >私が指摘したポイント
>>925と違うじゃないかwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>935 > 1)釈尊は側近の500人弟子(多分、高弟)に「梵網経」と「沙門果経」とを説かれました。
> 2)2つの経典に「輪廻」は説かれておりました。
>>925 >ポイントは62の見解の中には輪廻のことが度々含まれておりましたし、
>六神通にも輪廻を想起する宿住通等が含まれていたことです。
→ 1)62の見解の中に輪廻のことが含まれている
→ 2)六神通に、輪廻を想起する宿住通がある
> 1)釈尊は側近の500人弟子(多分、高弟)に「梵網経」と「沙門果経」とを説かれた
> 1)62の見解の中に輪廻のことが含まれている
> 2)2つの経典に「輪廻」は説かれておりました。
> 2)六神通に、輪廻を想起する宿住通がある
んと、性根が腐った野郎だわ・・
978 :
神も仏も名無しさん:
>>960 >瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)とかを教学として勉強している
>教学として勉強している
>教学として勉強している
>瑜伽行唯識
瑜伽行ですから行じ無ければ空論に過ぎません
瑜伽行を愚弄するのもいい加減にしてください
瑜伽行も行が第一なのであり、精神障害から出る妄想と一緒にしないでください
>瞑想と知恵(智)を通して生じるのである
行の効果を知らないからそう言う文を鵜呑みにしてしまうんですよ
仏教でも瞑想修行の”行”を進める事で瞑想と知恵(智)を通して生じるのです
瞑想修行で得られる効果が第一に瞑想・第二に瞑想からの智慧なんです
そこで得られる智慧を通して、止められた無知の道理が理解できるんです
これらは行じ無ければ理解できないし、本当かどうかも文章からでは眉唾と談じられるほど胡散臭いものなんですよ
故に行が第一と言うのであり冷やかし立ち読みはご法度なんです