仏教議論スレ 82

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933おじゃる
 
>>811 ID:1zG6yPjk さんへ
> おじゃる氏は、落ち武者の霊を信じていて

落武者の霊を見た → オカルト的なものに興味を持つ
 → 密教 → 瑜伽師地論(ゆがしじろん) → 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
 → 根本仏典 → 中論 → 般若経

魔のJR中央線 自殺霊の撮影で判明したこと/斎藤斎霊
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DVD NHKスペシャル チベット死者の書 [形式: DVD]
<映像特典>《Disc2》
ダライ・ラマ 単独インタビュー(1993年2月ダラムサラにて)
「チベット仏教の叡智を語る。―瞑想・死・輪廻転生・日本人へのメッセージ―」
約60分/音声:英語/字幕:日本語/片面1層
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ダライ・ラマの「中論」講義 第18・24・26章
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934おじゃる:2014/01/01(水) 14:35:33.36 ID:ZUoMR6iF
 
ID:1zG6yPjk さんは、机先生かしら? おじゃる?

>>933 の続き

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
プルシャは
プラクリティから様々な原理が展開してゆくことを観察するのみで
プルシャそれ自体は変化することがない、とする
人はプラクリティから展開した理性、自我意識などを主体であると思い込む錯覚に陥っているが
本来の自我であるプルシャに目覚めることで解脱が果たされるとしている
サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている

(これに対して)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
釈迦は
それ自体の自性ではなく
因と縁の依存によって
五蘊の仮和合の
仮設としての
仮りに現れている状態であるからこそ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

苦集滅道に依存して 「 我・我所を滅させる事が出来る 」 と

衆生の人達の為に、仮名の空を以って説いた
935明け御眼一在家:2014/01/01(水) 14:40:04.36 ID:pBHIFRXT
>>927 セブン氏
>梵網経で言えば、外道等あらゆる見解が網羅され、如来はそれらを超えている、
>というところが重要なのw 幾つも幾つもあるうちのどれかが重要だという経じゃないのw
>(それは自歓喜経も等誦経も同様だけどw)
>幾つも幾つも併記されている中身の、どれか一つが突出して価値付けられてなんかいないのw

私が指摘したポイントをもう一度整理してみます。
1)釈尊は側近の500人弟子(多分、高弟)に「梵網経」と「沙門果経」とを説かれました。
2)2つの経典に「輪廻」は説かれておりました。

【ネタの意図】
・前スレから釈尊の対機説法の特徴「四悉壇」を度々紹介してきました。
・ある住人から特定の人にだけ説かれた対機説法を一々信じるな、固執するなとの尤もなご意見がありました。
・そこで大勢の(できれば側近達、高弟達)に説かれた経典を長部経典の中から洗い出しました。
・更に知名度の高い経典である「梵網経」と「沙門果経」を選びました。

【考察】
・当時の外道等の見解の中に「輪廻」があったことは「梵網経」で確認されました。
・500人の弟子達に共通に説かれた経典の場合は「四悉壇」をあまり考慮する必要はないかと思料します。
・よって「沙門果経」でも「輪廻」が説かれたのは方便だ、誘引だとの仮設は却下されます。
・もし誘引だとしたら500人の弟子達の全員が大したレベルでなかったことになるからです。
(もし大したことのない弟子達ばかりであれば解脱者も皆無でしょう。)
・また500人弟子に方便や誘引が無用であれば、どうして舎利弗に対して誘引での「自歓喜経」と「等誦経」が起きるでしょうか。

>まだ解らないかなぁ・・・ ┐(;´ー`)┌

折角、新年も議論スレで輪廻しましたので、前世スレよりは深く考えることに心掛けております。 \(^0^)/
936おじゃる:2014/01/01(水) 15:04:54.02 ID:ZUoMR6iF
 
ID:1zG6yPjk さん(たぶん机先生)へ

>>933 >>934 の続き

般若経の解説
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html

世尊の時代、人々は
善行に励み、永遠ばかりを探してきた
だから、凝り固まり、ありのままに変化を見ることに慣れていない
無我を、縁起を、空を見ることがうまくない

苦集滅道
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)
無我・縁起・空の観察に依存して

無明滅 → 行滅 → 識滅させて「解脱すれば仏だ」と言う事に

気づくまでは、気づくことは難しい

http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空經