仏教議論スレ 81

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169神も仏も名無しさん
>>143
わたしも道元さんの門下ではありません。道元禅師も筏のひとつとする一介の仏法フリーターです。
聖典の真筆真贋研究なんて興味がありません。
ブッダはじめ優れた先達者のテキストには俗物弟子のアホ改鋳の手が入っているだろうからです。
そうでなければ固定仏教教団として成立し難いからです。
阿含経も臨済録(臨済宗)も同じです。
 
私はSn.908のスピリットで、大疑団→正確な如理作意→自己咀嚼・自得→相対思考の昇華・離脱→【般若門】へという【一切門】に忠実なだけです。
仏法を自家薬籠中のコトとすることだけです。

12巻本『正法眼蔵』と72巻本に視点の相違はあっても、勝義中道を観定める道元自身は一貫していたと見ます。
道元流の対機説法と見るべきです(中論18-6参照)。

結論として、12巻本『正法眼蔵』第8「三時業」の業報論に染まっておられるお方には、水野氏の視点がいいと思います。
『★しかしこれは前述のように、仏教にとってはあくまでも初歩的な通俗説であって、極めて低い教えにすぎず、*←12巻本
 ★業報説からさらに進んで仏教独自の四諦や縁起の説に向かうべきものである。*←75巻本』(>>141

12巻本『正法眼蔵』第8「三時業」は在家やアホ弟子向けの特に【一切門】における叩き台です。
超克すべき一切外の見です。

道元禅師の心中を自分なりに解すると、 *有時とは存在現象そのものです(正法眼蔵 有時)
☆<世俗>有時⇔無時  <勝義>非有時非無時(如)  <還滅>即有時即無時(三時を現在の一 瞬に摂しきたる:道元)
ここにおいては世俗一切外妄想として『三時業』は語れても、一切内(四法印)に三時業の侵入の余地はありません。
この道元のニュアンスを汲み取れないところがアホのアホたるゆえんです。
如理作意無能者なのです。