ラマナ・マハルシ他[不二一元論]アドヴァイタ総合11
1 :
神も仏も名無しさん:
インド古典のヴェーダやウパニシャッドから発展し
中世のシャンカラ(Adi Shankara 8世紀)が思想と学派をまとめたとされる
インド哲学のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(純粋不二一元論)の分野について
難しい言葉の議論でなく、むしろ瞑想や体験など実践的な視点で
結局‘真我探求’って何?とか、本当に‘梵我一如’(真我実現)を会得できるの?
とかを、初心者〜覚者の分け隔てなく、自由に語りあおうという主旨の
「アドヴァイタ関連・雑談その他なんでもOK」の総合スレです
関連書籍やサイトなど
>>2-10 あたり
前スレ
ラマナ・マハルシ他【不二一元論】アドヴァイタ総合10
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1381858584/
2 :
神も仏も名無しさん:2013/12/08(日) 23:14:34.10 ID:lg6XNmv5
3 :
神も仏も名無しさん:2013/12/08(日) 23:15:52.31 ID:lg6XNmv5
4 :
神も仏も名無しさん:2013/12/08(日) 23:17:17.86 ID:lg6XNmv5
5 :
神も仏も名無しさん:2013/12/09(月) 22:53:02.06 ID:didxorgm
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課
二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
6 :
神も仏も名無しさん:2013/12/10(火) 15:58:28.24 ID:PbPskMp1
保守
7 :
神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 15:55:41.29 ID:56IHrcjE
なんかみょう〜なのに張り付かれてるみたいだけど、阿含宗と関係あるの?
8 :
神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 16:56:44.59 ID:rcNG0F6O
ん?荒ぶる君のこと?
>>5ならどこのスレでも見かけるコピペだけど。
9 :
神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 18:31:25.90 ID:56IHrcjE
「どこでも見かける」wwwww
10 :
神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 18:57:21.19 ID:56IHrcjE
.
ま、このスレには、「阿含宗につて警鐘を鳴らしたい人」 と 「それを打ち消したい人」
がいる事は理解した。
.
ときおりこのスレ目覚めたって人でてくるけど、そうなるともうラマナと同じ境地なんだな。
悟ってるわけでは無いが
現実のこの世は非実在と結構強く確信している
そういうのをキリスト教での永遠のいのちを信じる
信仰というものなんだろうと思う
13 :
神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 23:42:17.83 ID:56IHrcjE
ところでマハリシの本に「瞑想中に現れるラヤ」というのが出てくる。弟子が
私の瞑想には空白が現れます。と言うとマハリシは「それはラヤです。それに
落ち込んではいけません」と言っている。この「ラヤ」とはなんぞや?
瞑想とは「空」なる意識を求めるのではないのか?
過去ログを読み返してみると、今の自分と同じようなこと感じている人が
いることに驚かされる。
当時はほどんど目にも止まらなかったのに。
あの人たちはまだここにいるのかな。
15 :
神も仏も名無しさん:2013/12/11(水) 23:49:37.50 ID:56IHrcjE
再び「私」が現れるなら達成ではありません。「私」が消え去るまでそれを修練しなさい。
なら分かるが、
そこに落ち込んではいけません。
と言うなら、いい「空」と悪い「空」があるのか?
ここがいまだにわからない。
16 :
神も仏も名無しさん:2013/12/12(木) 00:02:53.98 ID:se7FN+xh
ウパデーシャ・サラムにも出てくる
没入には『ラヤ』とナーシャという二つの形がある。たんにラヤに没入しただけのものは蘇生するが、
もしそれが死滅しているならば、蘇生することはない。
空は無ではない、ということかと思う。
18 :
神も仏も名無しさん:2013/12/13(金) 18:24:15.25 ID:0H8IJrlq
単に哲学的解釈の問題か? 無限の「存在」と「無」 仏教とヒンドゥーの違い。
マハリシは別のところで仏教徒に対して「それはまさに『空』であります」
とも言っている。要するに仏教徒・ヒンドゥー教徒それぞれに教えを変えている
部分か… う〜ん… そうかもしれない。それなら気にする必要はないな。
人それぞれ、答えもそれぞれだからある程度、適当に答えてんだと思うよ。
といっても本人にとっての最善であるように心掛けてはいるだろうけど。
「さっきと違うこと言ってる!」どの聖者にもよくある光景
そのよくある光景に躓いて離れていく人もよくいるけど…
所詮は言葉遊びでしかないものに気長に付き合ってくれる優しい聖者たち。
単に言葉の解釈の違いじゃないの?時代でも使われ方違うだろうし。
「あるがまま」とか「空」とか「無」とか・・・
ティク・ナット・ハンが仏陀のアートマン否定は時代背景からきた、当時の宗教のカウンターとして
出た言い回しであって、実際の内容はヒンズーと変わらないみたいなことをいっていた。
そりゃ真理は一つ。言い回しにこだわってたらそれで人生が終わってしまう。
だから実践あるのみなんだよな。
サマタ瞑想ででてくる恍惚の境地は、まだ目前に神を見る、つまり神と自分の二分がまだあるということ。
でも、聖者のなかには、神を見る、恋するために、意識的にその二分の状態にとどまる人もいる。
パウロなんかは、永遠に神と切り離されてもかまわないといっていたし、そもそも
神が自他二分を創造したのだから、それもまたよしといえる。
22 :
神も仏も名無しさん:2013/12/13(金) 23:46:56.17 ID:0H8IJrlq
しかし、この「瞑想中に現れる空白に落ちてはいけません」という言葉は実践してる
人間ほど疑問に思う所でしょ。逆に瞑想を実践していなければどうでもいい。
無は死に等しいから、空を体感し得ないということでは。
瞑想(只管打坐)しているのは、死体ではないから…。
「無」が死んだり生まれたりするかね?
例えていうなら、ですかね。
無は死ぬことさえない。生まれることがないので…。
26 :
神も仏も名無しさん:2013/12/14(土) 18:14:38.85 ID:QNOn665L
ラヤというのはプラクリティラヤとヨーガスートラに記述があるように、
対象としての空白に対する三昧状態だから、
主体としてのアートマンを実現した状態ではない。
対象へ没入するものはそこから必ず戻らざるをえないということです。
憶測の言葉の解釈論より、ちゃんとそういうスートラの記述がスパッとわかりやすいな。
当たり前だけど。
今世で悟るような崇高な魂は、そもそも人間界に生まれてこないんじゃないか。
そんな気がした。
もっと高い次元に生まれてくるんじゃないか。
いくつかの階層に分かれてるんでしょ?
マーヤーが作り出した世界は。
地球に人間として生まれないと悟れない
ということが覚醒の炎(プンジャジ)に書いてあったと思う
知り合いに大病患ってる人がいるんだが人生にあれが待ちうけていると知ってたら
俺は生まれるのいやだなあとおもう。
逆に言えば、人間界だからこそ学ぶようなこともあるんだろうね。
この中で持病で家から出られない人とかいますか?
「1リットルの涙」とか、立ち読みしただけで泣けてくるわ。
こうした気持ちは執着なのかな。
感情を、悟りに生かすってどうしたらいいのだろう。
>>30 出れないことは無いけれど、持病で家に引きこもっています。
33 :
神も仏も名無しさん:2013/12/15(日) 15:14:21.88 ID:h/6iH6S/
人生に学びっで意義付けするのは
自己憐憫だよ
人生の哀れさにせめて意味があるようにと
これは修行だこれは学びだ
これはゲームだこれは幻だって
どれを当て嵌めようと正しくはない
間違ってもないけど
人生は学びのために必要というわけではないが、学べることはある
しかし学ぶために人生を繰り返す必要はない
火に手を入れれば何か学べることがある
しかし何度も火に手を入れる必要も、ましてや先人が火傷すると教えているのなら、火に近づく必要すらない
ってところかね?
35 :
神も仏も名無しさん:2013/12/15(日) 16:15:11.16 ID:6HcueXLk
>>26 なるほど、空白という「対象」がある。ということだね。しかし、まだ分からん
のは、それを修練する事が次へのステップになるのか、それともはじめっから
忌諱すべき状態なのか。ということ。空白という対象でも「没入」したのなら
主体も客体もない。しかし、瞑想を解けば確かに通常状態に戻るでしょう。
これを、「まだまだ」と言われるのは分かる。しかし、「全く誤った方向に
行っている」と言われると困るんじゃなかろうか。ラマナはそう言っている
ように受け取れる。
36 :
神も仏も名無しさん:2013/12/15(日) 16:20:31.01 ID:6HcueXLk
ただし、マハリシが自ら出版した本にはその記述はない。後から出てきた分厚い
本にのみ出てくるものだから、あまり気にする必要はないのかもな。
37 :
神も仏も名無しさん:2013/12/15(日) 16:41:05.80 ID:h/6iH6S/
三昧は薬でも簡単に味わえるけんね
知識化以前の「それ」は知識化するまでもない、ってことか。
体験化には日常や神秘みたいな区別差別もないわな。
確かに、知識の「私」もそこから始まる体験も現れては消えるものだわ。
馬鹿がチンプンカンプンな用語をならべて
何か知っているつもりにだけなら、
馬鹿になれ。
>>31 何かに執着していると思います。
何かに執着しない限り感情は起きません。
感情は真我実現したいという思いに昇華させれば良いと思います。
今日初めて神が自分のハートに宿っているのがわかった
記念カキコ
おめでとう
43 :
神も仏も名無しさん:2013/12/15(日) 21:02:27.16 ID:6HcueXLk
ハートに神。ってどういうことなん?
あれこれ探さなくても、ハートのところにいつも神がいるのがわかった
今までは聖地や自然など、神性の濃そうなとこを探し回ってた
そういう所じゃないとなかなかスピリチュアルな感覚になれなかった
なんでハートなのかは知らない
直感的にわかった
46 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 04:24:01.76 ID:nBxdNs9o
今朝中村元さんの番組をNHKでやってたら、仏教が生き、死に、輪廻する人間の
主体自体が無い。と主張しているという間違った解釈をされ、虚無主義と批判された
時代があったが、そうではない。執着が無いのであって主体はある。
といったような事を言っていた。これは間違いではないのか? 仏陀もマハリシも
文字通り主体が無い。と言っているんだと思うんだが。
47 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 07:34:23.69 ID:ljxurN1x
>>46 ttp://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/61792302.html に詳しい中村先生の自己や非我に関する話がのっています。参考にして下さい。
中村先生は非我と自己の存在の難問を整合性のあるものにするために頑張っていたのだと思います。
倫理的行為の主体をブッダが認めているから、自己の存在を認めている・・・では、非我の教えは
矛盾になるのか・・・彼は「自己でないものを自己とすること」をブッダが否定していると言います。
これはマハルシの見解と同じです。であるから、本当の自己が行為者、主体としていてもいいのだ
と考えているようです。
48 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 07:35:40.81 ID:ljxurN1x
(つづき)
しかし、私の見解では、これは手段と目的の段階の混同により起こった解釈です。あなたの言うとおり、
ブッダもマハルシも主体がないと言っています。倫理的行為を勧めるのは、自我に勧めているのであり、
それは修行の段階の話であり、それにより心の浄化を目指します。この段階では主体である自我がいます。
しかし、目的に達する時、主体は消え、本来の自分が現れます。それは体に制限された主体である
自我ではなく、あらゆる所に行き渡る絶対的意識です。
とはいうものの、私は中村先生は従来の狭い見方を越えた素晴らしい学者であると思っています。
49 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 08:15:10.38 ID:QStNkDr/
中一の頃から元っちのファンだがヨーガスートラもサーンキヤカーリカも完訳してくれてることには脱帽である
>>46 輪廻転生は方便ですから、とりあえず主体があるという設定をとっていると思います。
実際にはそのような主体を捉えることは出来ません。
>>43 精子と卵子が結合した最初の細胞はハートにあって、そこから細胞分裂がはじまり人間になっていく
その最初の細胞に本当の自分、キリストといわれる一点の光りが輝いているということだったかな
まあ、神の子キリストだからこれも過程なんだろうけど
52 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 16:50:36.71 ID:OJO0SnV7
みんな知的にすごいですね!
でもどう考えても主体として考えて主体が2ちゃんやってるようにみえるけど。
知識する知覚器官を主体とするなら、そうだよな。
56 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 19:04:49.40 ID:nBxdNs9o
>>47 >彼は「自己でないものを自己とすること」をブッダが否定していると言います。
>これはマハルシの見解と同じです。
これは違うね。マハルシは明らかに「主体も客体もない。あるように見えるだけ。
それは一種の夢のようなものと見なされるべき」と言っている。中村氏の見解は、
教えを常識的思考に妥協させたもの。本来の仏陀の見解ははるか古代の人物だから
確定はできないかもしれないが。「般若神経」なんか読めば、「全てない」と
明確に言っている。なぜこれを、「いや、ある。執着がないだけ」とひねらなければ
ならないんだ?
中村さんもただの物知りじゃないのか?
勝手に中村さんが悟っていると見るほうがおかしいだろう
58 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 19:32:20.67 ID:ljxurN1x
>>56 主体と客体がマハルシの指摘する「自己でないもの」ですよ。
59 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 19:36:43.83 ID:ljxurN1x
後、般若心経はダイレクトな「ブッダの教え」とは言い難いものですよ。原始仏典
とは違います。
60 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 19:43:59.45 ID:nBxdNs9o
>>58 それを中村さんは「実在する」としてるんでしょ? あるけど執着するな、と。
対してマハリシは「ない」と言っている。「般若神経」がブッタの教えかどうかは
仏教論争とあんま関係ないんでは? 「原始仏典だけが教えで、その他のものを
尊んできた日本の仏教は全て捨てられるべき」と考えているわけではないんでしょ?
61 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 19:48:36.98 ID:ljxurN1x
>>60 考えていませんよ。中村さんの考えについては前に述べました。
62 :
神も仏も名無しさん:2013/12/16(月) 21:31:45.16 ID:nBxdNs9o
ふ〜んあなたも矛盾を感じてるわけね。NHK見た自分としてはさらに明瞭に
矛盾を感じている。
ラマナ関係の本しか読んでない自分は、中村氏の本で勉強しようと思っていたんだが…
やめよ。
なんか君ら、両者ともある・ないの二元論に陥ってないか
聞きかじりだけの人と熟読した人の会話だから、理解のレベルが違ってもしょうがないよ。
読まないうちから解釈論でつっかかっても、噛み合わないのは当たり前だろうし。
中村元氏の探求過程は、知識を洗い流すため知識としてとても素晴らしいと思うよ。
65 :
神も仏も名無しさん:2013/12/17(火) 04:15:21.83 ID:3yLR2J0v
そう? しかし、どのみち全部は読めんな。分厚いのが膨大にある。何がお勧め?
66 :
神も仏も名無しさん:2013/12/17(火) 09:25:01.69 ID:3yLR2J0v
全体を俯瞰できるのがいいな。
67 :
神も仏も名無しさん:2013/12/17(火) 14:45:24.45 ID:jPUBa7Qs
中村元の仏教辞典の原稿紛失のエピソード読めばそのヤバさが分かる
お前らに真似できるかw
読んだ、凄すぎ。もちろん真似できない。
仏典なんて馬鹿な自分には読めないんだ。ほんの一冊か、ほんの一説ずつしか読めない。
69 :
神も仏も名無しさん:2013/12/17(火) 16:58:21.43 ID:SDgnKPmA
とてもまねできそうにない。3万枚紛失されて、怒らないってすごいな。
3枚でも怒る自信がある(笑)。
70 :
神も仏も名無しさん:2013/12/17(火) 18:25:40.15 ID:jPUBa7Qs
71 :
神も仏も名無しさん:2013/12/17(火) 20:44:34.62 ID:3yLR2J0v
辞典じゃ読む気しないなぁ… 「さるでも分かるいんどてつがく」みたいなの
出してないの? 中村せんせ。
仏教は真我を説いてないから、混乱しないように気を付けてくださいね。
仏典を読むことで人格も陶冶されていくものなのかな。
翻訳作業が一つの瞑想だったのかもね。
>>73 概略や簡略でわかるようなものでもないもんね。
荒ぶる自己顕示欲による甘言探しくらいじゃ、なかなかハードルが高いと思うよw
そんな言わんでも
77 :
神も仏も名無しさん:2013/12/17(火) 23:11:20.29 ID:3yLR2J0v
それはどうかな… インド哲学でも仏教でも核心は極めてシンプル。倫理学とか
宇宙論とか組織保護のためのあれやこれやで膨大に膨らんでしまうだけでしょ。
ただし、大衆向けの解説書では教えが大きく変えられちゃう場合が多いよね。
瀬戸内寂聴の仏教解説書みたいな… 現代ではああいうのはかえって大衆に好かれない
と思うんだが…
>>76 自省の意味合いで思ったことだからね。
コレクションのための理論として捉えるなら、自己顕示欲の燃料になるだけで
ファッションと何ら変わらないんじゃないかな。
自分の感受性でいきり立って、自分を満たすために考え込んで、
自分であることに執心してるうちは、どんな知識も単なる重荷になってしまうんじゃないでしょうか。
>>35 仏教だけどブッダの実践心理学シリーズに無を対象とするサマーディと悟りの違いが
けっこう詳しく書いてあるよ
無を対象とするサマーディが悟りの成就に役に立つことはあるけど、
無を対象とするサマーディができなくても悟れるそうな
問題点があるとしたら無を対象とするサマーディに至っても、
それを悟りと勘違いしてはいけないらしいね
サマーディの段階が進んで悟ったと思っても、それで本当に終わりかどうか、
自分に問うように原始仏典にも書いてあるらしい
ラマナはブッダの生まれかわりかも知れませんね
Eテレの「こころの時代」と「ETV特集」は、けっこう見逃せない。
82 :
神も仏も名無しさん:2013/12/18(水) 21:33:22.80 ID:Qd0gwBwu
>>79 なるほど… マハリシの言う「ラヤ」もどうもその辺の問題かもね。「ブッダの実践心理学シリーズ」
読んでみよう。誰の書いた本?
83 :
神も仏も名無しさん:2013/12/18(水) 21:44:34.44 ID:Qd0gwBwu
>>81 NHKは特にそうだと思うんだが、インド哲学をきわめてそこの浅いヒューマニズム
に書き換えてないか? マハリシの言葉なんか、時々ひどく残酷に思えるほど
この世の理をまっすぐに語っている。例えば、「神の中にはいかなる思いもあり
ません」とか、「覚者にとってはこの世界のいかなる生命の損失も関係ありません。
たとえ彼がたまたまそれらを殺しつくしても、かれの純粋な魂には一切傷がつきません」
とか… むろん。そのように一切の嘘なくこの世界を突き詰めているのが魅力だ。
みんな割と真剣なんだな
でもまあ、有限な人生に必ず訪れる死に
方向性は違っても
真理を求めるベクトルが宇宙や粒子や唯物主義でも
みんな真剣なんだなってのは共感してる
色々な人は居るもんな
ただ俺はラマナ好きだけあって
他人とツルんで団体で何かしようとか無い
あまり他人に関心無いんだよなあ
特にインドとか無言の修行だとか言って
素晴らしいグルであっても無記で済ませれるもんな
インドって喋らないで済むから凄いよな
日本の新興宗教の教祖とか喋る喋る
アメリカ人も結果だせ、出せないとお前は駄目だみたいな
何かそういったあせらない無言の凄さみたいなのがわからない
浅はかさみたいなのが馬鹿みたいな新興宗教の事件になるんだよ
何回も何回も生まれ変わるのが当たり前のインドではせっかちにならない土壌なんだろね
インドってそんな国でしたっけ
ラヤの話からのこの話は、なんだか自分の事のような気持ちになってしまう。
見る目がないから、新興宗教には極力関わらないようにしたい。
若くして、死ぬまでに何を本当にしたいかと考えて生きるようにしてきた。
だからラマナにも関心を持てた。
だから悟りを目指すことを始めたけど、今でもまだどこかで生き急いで、焦ってるのかもしれない。
物書きになるような人達は孤高が好きな性分かな。
一人でも平気な人間だけど、宮沢賢治のような生き方、共同体に関わることもありそうな。
でも私は賢治ではないからね。どんな人生になるのかはこれからだよ。
一人言をつぶやきたくなってしまった。
>>82 ヴィパッサナー瞑想とかの初期仏教派のスマナサーラ長老が書いた本ですね
初期仏教の要点をまとめたアビダンマを解説した全8巻で著作というより解説本かな
サマーディや悟りの段階などいろいろ書かれていて実践するときの参考にするにはいいと思います
ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ 全8巻
8巻もあるので本屋で試し読みするか図書館で借りるといいんじゃないでしょうか
元々ハードカバーでしたけど文庫化されてる途中みたいですね
まあ、究極は信じるか信じないかの二択だよ
インドやチベットあたりには世救いに
ブッダや神の化身が現れるのは紀元前からの伝説だし
サイババだって新興宗教でも何でもない
昔から伝わるヒンドゥーインドの伝説だからね
俺はピュアな人間だからその賭けに賭けた
この世界はラマナもそうだが神の化身が説くように非実在だな
会ったことないラマナ・マハルシをそこまで信じてる
だって俺は神を信じてるから
ラマナの言葉を聞いて本当に人生はそうだよなあってつくづく思うよ
子供も年寄りもそんなに変わらないもんな
つくづく悟ったら悪夢見てただけの人生は夢なんだって思うよ
ハッキリ今までの人生で断言できる
この世界は夢の延長だよ
非実在は非実在なのは確かだ
しかし悟りの境地はわからない中途半端な状況
だから生まれ変わるんだけど
おぼろげだけど前世からの連続性も覚えてる
前世からの影響ってどれくらいあるもんなんだろうかな
全く覚えてないことなんだから、影響及ぼされても困るんだが
かといって前世の修行が無に帰すようなことになっても困る
精神世界信じてる時点で前世が大きな影響与えてるんだろうことはわかる
昔から怖い話好きだったし
前世はあるね
それ認めないと行ったこと無いけどインドではそうなんだし
そういった妥協無いと日々の感謝もできない思うわ
何人も人殺した調教失敗したゾウも屠殺されないもんな、インドでは
ゾウに生まれたらカメも同じだけど
人間では味わえないのんびり感あるのとちゃうの?
牛とかものんびりしてるよね
まったく無駄ってわけじゃない
人間の人生はイライラするからな
だからと言って成仏してない霊は勘弁だよな
なにがどうなってあんな状況なの?って思うわ
あんなのなら成仏してカメなりゾウなりのほうがマシだよね
成仏してない霊って我々みたいに殺生してるわけでなし
罪ないんだから年金生活みたいに悠々自適だと思うのだが
寝てるだけなのに悪夢の煩悩に苦しむ我々の世界の延長だよな
思考や執着が次の「状況」を生む。これがカルマ。
>>96 自分が死んでることわかってないこと多いらしい
あと執着からこの世にしがみついてるってのももちろんあるそうだ
最後の審判を待つキリスト教徒の霊や、念仏唱え続ける坊主の霊
後者は念仏唱えてるのに悟れないという思いが執着になってるのではって推測がある
99 :
神も仏も名無しさん:2013/12/20(金) 16:51:54.82 ID:wvO2ShKJ
とりあえずアドヴァイタすれなので、カルマとか前世とかスマナサーラは他でお願いします!!
>>98 自分が死んでることわかってないってのは深いよな
他人から見たら馬鹿みたいな理由でも
成仏してない霊から見たら
他人を脅かしたいわけでも生や神や世界に対して反抗してるわけでもない
ただ状況を理解してないだけ
そういうのは世の中には多いのかもね
我々だって悟れない理由はそんな馬鹿みたいな理由かもなあ
テロリストだって理解してなくて犯罪行ってるかもだし
我々が輪廻する理由もそんな馬鹿みたいな理由かもな
右手無くなった人も右手の先が痒いとか痛いとか言うらしいし
今まであったものがいきなり無くなったら必死に探すのかもな
洞窟に住む魚とか目がないし、その当たり前に慣れたら
視界になんか頼らないからな
他人を殴ったり蹴ったりするのも
神経が繋がってないからだもんな
神経繋がってて蹴って自分も痛かったら蹴るわけないし
まあ、そういうことだわな
そういったことが理解できるってのがある意味で神経繋がってるのに
近い方向性に進化してるってだけだし
103 :
神も仏も名無しさん:2013/12/21(土) 04:19:18.00 ID:/eykENRe
視界の無い人間の気持ちなんか無い人間にしかわかるわけないよ
それを見える人間が少し暗闇を経験してあーだごーだとか
いくら語ってもわからないことはわからんよ
ましてや肉体の無い死後の意識とかわかるわけないよな
しかしそんな思考すら無いのが悟りなんだから
すべては在るがままだ
なるようにしかならない、誰でも時が経てば死んでくからな
105 :
神も仏も名無しさん:2013/12/22(日) 21:57:37.24 ID:0YDHHblC
この中で、一日思いが起こるたびに「この思いは誰に起こっているのか」を実修している人いる?
あるいは、すでに「私」という感覚に常住できている人。
これをやると、なんというか広がりを感じるね。
思いというものは肉体のなかで起こるものだから、それを自分のものだと錯覚してしまうのではないかな。
肉体が本当の自分ではないのならば、肉体のなかで起こる思いすら本当の自分の外にあることになる。
つまり、思いも外界で起こっていることになる。
だが、「肉体は本当の自分ではない」ということをどのように体験するのだろうか。
幽体離脱した幽体が真我というわけでもあるまいし。
おうそうか。想いは内にあるわけじゃなかったんだな。勘違いしてた。
そうか想いも外界にあるってことは、全部外界にしかなかったんだな。
じゃあ自分という者は外界にしかないな。
ラマナは死の瞑想ですよね?
>>107 そもそも内外って発想が「自分=肉体」ということを基準にしているよね。
それはヴィパッサナーで気づきやすくなるよ。座ってじっくり肉体の感覚を対象化してみる・・・。
思考や感情と同じく対象化できる。「対象化できるものは自分ではない」というわけで。
それに、働いてたり考えてたりすると、肉体のこと忘れてる。その間肉体は存在してないも同様だから、それ考えると、肉体も絶対ではないね。
なんにせよ、肉体、思考、感情って、そこにあってもたいてい、その存在を意識してない。
あ、こう考えてた、と気づくことはめったにない。
それがエックハルト・トールのいう「無意識状態」「機能不全状態」。
感情、思考、そして身体も、気づきの光に当てる(対象化する)っていう、仏教の手法は
それが自分ではない、ということを体感するのに、理にかなったものだと思うな。
肉体も感情も思考も、一歩引いて眺めてみることができる。
感情も思考も、起こるがままに起こっている。過去のカルマによって起こる自然現象。
それに執しなければ、自然に流れていく。
セドナメソッドだと、その感情・思考への執着を手放す(「LET IT GO」「LET IT BE」)することによって
感情や思考との結びつきをといて、そこに残ったのが本当のセルフということになるけど、
あのやり方で結構一時的にも目覚めまで行く人も多いみたいだね。
開発者がラマナ・マハルシの影響受けてるらしいから、もっともなことかもしれないが。
>>105 行動者の源を気にするようにはしてる
これをしてこれをしないという選択をしているのは何者なのか
思いはどこからくるのか
たぶん肉体が思っているのだろう。
本当の自分はなにも思っていない。
だろうは意見であり思考である
うまい具合によいコメントが立て続けにくるのは何?
>>112 この世のほとんどの人がそれをやっていないし、やろうと思っても忘れてしまうし、激しい感情に対しては修養なしでは困難だ。
修養=自然に流れていくのを、ただ眺めていること
この簡単なことでいいの? 他の人の意見も参考にしたいな。
いいもわるいもない 困難にしているのは思考だ
全てと同化して、思考も感情も消してしまうのです。
肉体に自他の境界線を置かないようにするのです。
121 :
神も仏も名無しさん:2013/12/23(月) 08:27:48.57 ID:clRy2s+L
>>118 マハルシのすすめる方法ではないですよ。セドナとかヴィパッサナーというのですかね。
>>120 肉体だと考えるのを止めればいいですか。
それで無心で踊ってればいいのか。
>>122 何故踊る必要があるのですか?
何のために踊るのですか?
だって肉体に自他の境界線を置かなくなったら
その場が踊ってるように思えたから。
125 :
神も仏も名無しさん:2013/12/23(月) 15:45:26.09 ID:8np35QgR
観察するってどうなんだろうね。
観察するから自我や肉体、思考、感情が出現するんじゃないかな。
つまり、観察と観察される対象はセットなのではないかな。
逆に観察しない、なにもしないということをしてみたいね、私としては。
観察しなければ、その対象も生じない。
観察しない、なにもしないことで、この世界の全ての現象に一切関知しない(なにもしていない)真我に出会えるんじゃないかな。
>>124 その場とも同化してしまうのです。
踊るものも、それを思うものも消すのです。
それでもあなたは踊りますか?
>>125 まず真我を達観し、それから観察しているものが真我に溶け込めば、真我実現です。
128 :
神も仏も名無しさん:2013/12/23(月) 16:14:46.29 ID:8np35QgR
というか、肉体に踊らされてるのが私らでしょ。
観察して自我と出会っているということは、その観察しているものは自我と同レベルということなんじゃないかな。
そうであれば観察しているもののレベルが問題なのか、それとも観察そのものが問題なのかということになると思うんだけれども、私は観察そのものを問題にしたいね。
>>128 肉体というより欲望です。
欲望には必ず対象がありますから、その対象と同化して消してしまうのです。
で、観察しない、なにもしないことでなにもしないもの(真我)と出会えると思いたい。
でも、肉体や思考、感情は観察しないことを許さないよね。
逆に観察するようにできている。目を開けば外界の風景は映るわけで。
ではどうすればいいかということなんだけれども、能動的に見ることを放棄して受身的に、受動的に見るようにすればいいのではないか。
観察しない、なにもしないといっても、肉体に住まう我々が実際にできることはこの程度だろう。
でも、どちらが正しいということはないと思う。
それぞれがそれぞれの道を行けばいい。
実際、真我というものはなにかしているんだろうか。
なにかをしているのならばなにをしているんだろう。
マハルシはこのことについてなにか言っていますか?
詳しい方がいたら教えていただければ幸いです。
134 :
神も仏も名無しさん:2013/12/23(月) 17:20:21.10 ID:wj35iv0V
>>133 すべてが真我であると言われていると思いますが、「何かしている」という言いかた
が正しいのか微妙ですね。真我があるから、世界の活動が起こるみたいな表現もみかけます。
全世界の活動の源みたいな。
悟りにしても真我にしても、なんらかの概念を持つことが、
空になることを妨害しているのではないかと思うよ。
「見るもの(主体)」と「見られるもの(現象)」の分離がない状態が、
もともとこの世界全員のスタンダードな位置であって、
主客が分離してしまったのは、
神が創造主であるという「宗教的な知識」の影響でしょう。
我々は、もともと「真我」いがいの何者でもないのだが、
悟りだの真我だのという「宗教的な教え」があることによって、
もともとある「真我」に落ち着くのではなく、
自我が仮想した「真我」になるように努力しているという状態。
私やあなたという言葉も、宗教的な知識ですか?
138 :
神も仏も名無しさん:2013/12/26(木) 22:24:44.09 ID:pnW5EKeV
kimahaMcatvamitizabdaudarmakavatiivijJaanane?
目覚めっていうのにも程度はあるのかな。
たとえば、ちょっと目覚めている人、ある程度目覚めている人、かなり目覚めている人、みたいな。
神谷美恵子とかフランクルなんか、そういう人なんじゃなかろうか。
我々の周りにもいるような。
こだわりや自己顕示欲の少ないひとは、それだけエゴが少ない、現象世界のあれこれに執着がないわけだから・・・
140 :
神も仏も名無しさん:2013/12/28(土) 03:27:52.63 ID:y2Z+Smxt
ヒンドゥーの最高聖典である「マハーバーラタ」ではまた聖者のイメージが全く
違うのが面白い。あの物語は完全に「戦士の価値観」で、放棄は不可能である。
という思想、現実世界で戦う人間の価値観で貫かれている。侍宗教だな。
俺は好きな価値観だ。
洞窟の魚は目が無いのも居るから
誰だって生まれたては考えたりしないけど
それが当たり前になると視覚や思考に頼ってしまう
ただ在るとは視覚や思考にも頼らない境地なんだろな
暗闇で退化して目が最初から無い状態ってのは深いよ
いかに我々がカルマというか
神から与えられたものに頼って生きてるか?って考えさせられる
まあヘレンケラーの自伝読むとけっこう普通の子供だったけど
パンとか食ってたみたいだしな
おとな〜しい犬とか悟りに近いかも知れない
そりゃ人間の価値観では計れないしわからんよ
犬が自由への欲望を持つことはない。
教祖や宗教にはまっている人間と同じく、誰かの後ろを追いかけるだけだ。
147 :
神も仏も名無しさん:2013/12/31(火) 13:02:40.95 ID:WLYS3Ocw
『ラマナ・マハルシの伝記―賢者の軌跡』
動物たちの章に高貴な魂の動物達がたくさん出てくるよ。
ラマナは動物が真我実現するのは非常に稀なことだがあるって言ってる。
アシュラムの牝牛は臨終の際にラマナに看取られて
ラマナがモクシャしたって、宣言してる。
聖者が動物に生まれ変わることがあると言ってる。
アシュラムに来る動物達も恩寵を受けてる。
個人的には動物は自由を愛してると思ってる。
あなたは、
聖者が動物に生まれ変わることがあると観念をさらに増やしただけだ。
動物がどうであるとか考えてもしょうがねえしな。
150 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 13:37:49.79 ID:QEgTc2Dv
>>148 その通りだよ。本で読んだ観念だからね。
>>148 ところで貴方はそうやって批判してまで、
犬が自由への欲望を持つことはないという観念を持ち続けるつもりか?
151 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 13:47:23.83 ID:QEgTc2Dv
>>148 聖者が動物に生まれ変わることがあると観念をさらに増やしただけだ。
と思うのなら、もうラマナマハルシのスレに居る必要もないだろう。
彼の語った言葉に耳を塞いで観念をさらに増ないようにしていないのは滑稽でしょう。
お前の方が滑稽だってことに早く気付けよw
153 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 14:07:20.95 ID:QEgTc2Dv
そうでしょうね。
>お前の方が滑稽だってことに早く気付けよw
これについてもっと詳しく教えてもらえますか?
154 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 14:08:39.34 ID:QEgTc2Dv
上等のやり口、期待してます。楽しみだ。
155 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 14:23:40.47 ID:QEgTc2Dv
なんだレス来ないじゃん。もういいよ。
そういう所だよw
みんながずっと2chに張り付いてるとでも思ってるのか?
157 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 14:32:54.46 ID:QEgTc2Dv
そういう所だよw
ずっとって言ってるだろ
159 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 14:55:52.97 ID:QEgTc2Dv
>お前の方が滑稽だってことに早く気付けよw
これについてもっと詳しく教えてもらえますか?
他人がどう思ってもそいつの勝手だって事に気づけ無い所とか
こうやってしつこく絡んでくる所だな
161 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 15:24:26.48 ID:QEgTc2Dv
それが
>>151に対する結論ですね。
上等のやり口、期待してました。
だからそういう所もなw
俺は
>>148じゃねえから
それと他人に期待するんじゃねえよw
ようするにお前は、自分の書き込みに意見されたのが悔しかっただけだろ
お前こそこのスレに最もふさわしくない性格の持ち主だって事に早く気付けなw
163 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 15:35:58.59 ID:QEgTc2Dv
『自分の書き込みに意見されたのが悔しかっただけだろ 』
そんなことは知らされるまでもなくわかっていることですが。
それだけのことですか。
>それと他人に期待するんじゃねえよw
そうですね。期待を持った私が間違ってましたね。
>他人がどう思ってもそいつの勝手だって事に気づけ無い所とか
そうですね。期待するのも勝手ですよね。
>こうやってしつこく絡んでくる所だな
そうですね。あなたがいたから絡むことができました。
>お前こそこのスレに最もふさわしくない性格の持ち主だって事に早く気付けなw
そうですね。気づくことは大切なんですね。
164 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 15:37:56.56 ID:QEgTc2Dv
上等のやり口を期待した私が間違っていました。
これがラマナ・マハルシ本を読んでる人の書き込みですw
166 :
神も仏も名無しさん:2014/01/01(水) 16:31:32.39 ID:uCP+a+f6
>>163 スルースキルを磨く必要がありますよ(笑)。悟っている動物がいるのは不思議ですよね。
まあ、人間も動物ですけどね。
167 :
神も仏も名無しさん:2014/01/02(木) 00:24:08.83 ID:mSRPvb8J
まあ目の前に犬がいてそれについての話ならともかく、妄想、概念の犬の話しても。
狗子仏性
ある僧が、趙州(じょうしゅう)和尚に尋ねた。
「犬にも、仏性(仏の性質)がありますか?」
「ない」
「なぜないのですか?」
「自分に仏性があることを知らないからだ」
これは禅の公案だけど、ご存知の通り、公案は模範解答ではなく、その場その瞬間で
生まれる活きた問いだから、当然その場によって答えもやりとりも変わってくる。ような気がする。
168 :
神も仏も名無しさん:2014/01/02(木) 00:26:14.44 ID:mSRPvb8J
ちなみに
>>148のレスはなんかただの悪趣味のような。
わざわざ掲示板にこないで息だけしてろといいたくなるなW
>>167 これつまり、仏性の自覚無い者は、人間だろうと犬だろうと同じ立ち位置ってことだよね?
形は関係なくて、心の問題ってことで
まあ、このスレ的に言えば「山河草木悉皆成仏といえど、“私は誰”と問えるのは人間だけ、
犬も一般的な人間も、普段は感情と一体になって行動するからエゴのとりこ、
真我を志向することもない」ってのも言えばいえるんだろうけど
考えるだけ無駄って気もする。
私は身体であるというのがアドヴァイタでは思い込みなんだから
よくその言葉の意味考えてみたら
地球の話をしてると思ったら銀河以外の別惑星の話みたいな
ちょっと普通とかなり違うなとは思うよ
とりあえず日々思い込みの連続だし
自分は世界のこと知ってるようで何にも知らないんだなとは感じてる
ワイングラスの中の液体を前にして、ワインの歴史を語り合うけど、中身は薄口醤油みたいな感じ?
173 :
神も仏も名無しさん:2014/01/02(木) 13:19:16.02 ID:MrDciKd6
クリシュナムルティが知らない世界に入りなさいとか言ってたな
自分が知ってるとは偽りであると
知らないから知ることができると
クリシュナムルティって何か美味しそうな名前だよな
176 :
175:2014/01/03(金) 10:20:11.70 ID:c1W868T9
>注釈なしの英訳だけはPDFが下のサイトにある。
>
http://www.estudantedavedanta.net/ ASTAVAKRA SAMHITAの二つ目のリンクの下のやつね。
>ASTAVAKRA SAMHITA (ASTAVAKRA GITA) - Traduzido por Swami Nityaswarupananda Colocado em 24/02/08.
175さんって海外に住んでた事があるんですか?
もしよかったら、初心者が英語が読めるようになるオススメの手順を教えてください。
スレチだろうw
>>177 海外に住んでたことはないです。
中学から高校で習う英文法と英単語、英熟語をまず習得して、
それから基本的な英文構造の理解・蓄積に大学受験用の参考書である
研究社の「英文解釈教室」の例文を何度か回したのち、辞書を片手に
読みたいものを読んでいけば、多少語順や形が違うものに出会ったとしても、
大半の英文は形もすんなりつかめ、意味も素直に理解できると思います。
英文法の教科書やその応用形である「英文解釈教室」で習得する
文法・構造的な要素は動かせない土台として、実際の読書で、
英文を目にしてその場で形がとれるようにしっかり固めておいた方が
いいと思いますが、語彙に関しては、〜高校で習う単語約3000語、
熟語約1000語の基本・頻出語を身に着けておけば、あとはその都度辞書を
引くことにより対応できます。新しい単語や熟語でも本の内容にとって
重要なものや、著者が好んで使う表現は何度も繰り返し出てくるので、
読んでいるうちに自然と覚える単語や熟語も少ないないと思います。
>研究社の「英文解釈教室」
普段読んでいる英文が多分違うんだろうと思いますが、
「今となっては古い本」「(受験や普段の読書で)こんな英文出ないよ」
といった声も一部にありますが、不二一元論のジャンルに属す
インド人が書いた英文(思考展開)や精神世界に関連するドイツ人が書いた英文、
英米の古典的名著をさほど苦労なく読むには、不可欠の著名な一冊だと思います。
181 :
177:2014/01/03(金) 21:38:55.01 ID:4AMo9SLW
175さん
丁寧な回答ありがとうございます!
すごく参考になりました。
海外に住んでいたことがなくても、そんなにすごいなんで励みになります。
どうもありがとうございました!
178さん
言われてみれば確かにそうでした。
以後、気をつけます!
マハルシのいう「真我」って生命、いのちのことだと思うんだよな。
結局は、我々を生かしているの、これに気付くことが悟りではないのか。
だが、マハルシが生命について一切触れていないのなら、私の方向性とマハルシのそれとは別ということになる。
以下は推論です。
「私」とは、肉体に従たるものだと思う。
肉体の個々の細胞、DNAに生命が与えられていて、この個々の細胞、DNAの総意が「私」だ。
「私」には肉体を守る役割が期待されているのだが、この「私」は肉体を介してしか生命と繋がってはいない。
悟りは直接的には肉体に起こるものではないか。つまり、肉体が悟るのではないか。
そして、「私」はそれを肉体を通して受け取るのではないか。
だが、肉体が悟るのではないな。
肉片に生命はない。肉片はただの肉の塊だ。
生命と肉体は、言ってみれば電気と懐中電灯のようなものか。
懐中電灯は電気がなければなんの役にもたたない。
「私」は懐中電灯から発せられる光とでもいったところか。
だとすれば、「私」こそ電気の発現、生命の具現化したものだ。
ということで、ますますマハルシから遠ざかってしまった。
体験したら良いのでは?
187 :
神も仏も名無しさん:2014/01/04(土) 01:05:02.45 ID:kMUWDr4e
さすがにこのスレでも肉体が悟るなんていう馬鹿はいないと思うよ
マハルシなんかを絶対視する必要はないと思う。
悟りとは、自分の生まれ持った性格や育った環境も含めて、自分にとって自然な状態の事を言うのだと思う。
マハルシが仮に現代日本に生まれていたら、山に引きこもる事はなかったと思う。
当時のインドだったから、それが自然だったんだろう。
マハルシは「私」と繰り返していれば悟れると言ったらしいが、それより「自分らしさ」とは何かとか考えた方がやりやすい気がする。
「俺らしい」と繰り返していたら、自分の生まれ持った性格も、環境に影響を受けた部分もすべてを含めて俺らしいのだと今の所思う。
>さすがにこのスレでも
ワラタ
>>188 特定作業じゃないと思うよ。むしろ特定解除の流れ。
左脳派も宗教に興味あるんだな
俺は完全なる右脳派だから
本当にもうザックリしたインド人的な感性が理解できるが
まあ誰でも必ず死ぬし強制参加な部分はあるわな
未だに右脳とか左脳とか言ってる奴がこのスレでも居るんだな。
右脳左脳あるじゃん?
例えば外国人は日本人みたいに空耳あまり無いし
DNAも日本の地域によって縄文系とか違うし
ID:RJhOAJefの「だよな」レスの毎回の連投を読むたびに、
物事を定義づけたい左脳派のかただな、と感じていた。
えっ?連投ってほど最近書き込みしてないけどな?
蛇みたいにしつこいねキモいわ
俺は右脳派だから名無しの他人なんかどうでもいいけどな
その時のその時で生きてるからさ
それが普通だと思うけど?
名無しの他人が気になるようでは悟りは遠いんじゃないか?
>例えば外国人は日本人みたいに空耳あまり無いし
>DNAも日本の地域によって縄文系とか違うし
右脳派・左脳派がそもそも根拠が無いんだけど、仮にあったとしても
上記のコメもトンチンカンなんだよね。
これだと外国人と日本人は全体がどちらか一方に偏らないといけないし
DNAが地域で偏ったら、その地域はみんなどちらかに偏らなくちゃ成らない。
今までの書き込みとかは知らないが、凄く思い込みの激しい人なんだとは思う。
どう考えても脳には個人差あるだろ
アインシュタインみたいな天才や
素晴らしい音楽作曲する人居るし
それが右脳派か左脳派か詳しくは知らないが
みんな機械みたいに一緒だとか極端すぎるぞ?
ようするに俺は最初から感性とかの個人差はあるよって
ザックリしたこと言いたかっただけで
そんな専門的な事を話し合おうとか無かったんだけどな
だってそんなこと学者じゃ無いんだから
話し合う必要ないじゃんよ?そんなスレでも無いしな
思い込み激しいとか言うがそんな気概もあるわけないし
何となくだからザックリインド人の感性だと言ってるわけだし
大体が常識的に脳波調べる機械とか俺が持ってるわけ無いだろ?
そんなに名無しのカキコで深く突っ込まれるとは思わなかったわ
あなたはそんな特殊な機械扱う人の脳に詳しい専門家か何かか知らないけどさ
いやいや、言ってることがおかしいって指摘してるだけだよ。
右脳とか左脳とかそういうのに絡めるのがおかしいし、その後にあなたが
あげた例もトンチンカンだと言ってるだけ。
全然深くも何とも無い普通の突っ込みなのにを、それを大げさに捉えて
言い訳の連投しちゃう所も思い込みが激しい証拠だよ。
いやいや、俺がトンチンカンだったらどうだって言うんだ?
そんな書き込み2ちゃんねるには普通にあるし
むしろ何であなたはそんなにスルー耐性が低いんだ?
異常に食ってかかられる理由が意味がわからないんだが?
他人なんだよ?俺とあんたは?
2chって自分の意見を書き込む所だろ。
おかしな書き込み見つけたら、それはおかしいんじゃ無いかって
書き込んだだけで、何で異常扱いされなきゃ成らないんだ?
あんた頭大丈夫か?
だから右脳とか左脳とか
そんな専門的な内容語りたいなら
他の板に行けばいいだろ?
俺は宗教的な観点でのインド的な感性な話をしてたわけだが?
そういったスレだし
その話を持ちだしたのはあんただろ。
本当に頭大丈夫か?
常識の範囲内で
そんな最先端な医学でも解明されてないこと断言するわけないじゃん?
あくまでも大きくは脳には個人差あるんじゃないか?みたいな1意見だよ
繰り返すがそんな学者みたいなこと話しあってどうすんの?スレチだし
191 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2014/01/04(土) 13:33:23.36 ID:RJhOAJef [1/8]
>左脳派も宗教に興味あるんだな
>俺は完全なる右脳派だから
193 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2014/01/04(土) 14:18:58.17 ID:RJhOAJef [2/8]
>右脳左脳あるじゃん?
196 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2014/01/04(土) 15:01:21.65 ID:RJhOAJef [3/8]
>俺は右脳派だから名無しの他人なんかどうでもいいけどな
自分から右脳・左脳の話を始めて、初めのうちはこれだけ拘ってたのに
他人のせいにするんじゃ無いよ。
俺はあんたの書き込みがおかしいと指摘してるだけで、専門的な事を
話し合うつもりなんてこれっぽっちも無い。
俺の指摘も、小学生でも分かるような論理でしか書いてないだろ。
あんたが悟りとか言ってるのが信じられないわ。
だからここは宗教的なことを語り合うスレなんだよ
俺の発言が医の世界ではどんな意味かなんか二の次なんだよ
俺もそのつもりで書き込みしてるしな
あんた空気読めないなあ
だから、その宗教的な事を語り合うスレに右脳・左脳の話を
持ち込んだのはあんたなの。
仮にも悟りを語ってる人が、空気読めないとか書き込んで恥ずかしくないの?
210 :
188:2014/01/04(土) 17:28:00.77 ID:hNbmeI+e
>>190 悟りを開いた人は、特に何も考えずベストな選択ができるんだろうけど、それまでは繰り返しの決まった作業は大事だと思う。
なんか殺伐としてるね。
俺はイライラした時に、そういう自分に「俺らしい」とか「マイクオリティ」「悪い事じゃない」と自分に繰り返し投げかけるようにしてる。
それである程度気持ちが平安になるには、本当は小さな事でイライラしている自分は、自分らしくないのだとどこかで分かっているからだと思う。
それが真我とか内なる神とかいう力の働きなのだろうと思う。
自分で言うとうさん臭くなるが。
あと、自分が認められたいとか力を誇示したいとかいう気持ちはなるべく抑えるようにしてる。
そういう気持ちが自分を苦しめている事に、最近やっと気づきはじめた。
俺もインド哲学には興味がないのでスレチかもしれないが、真我とか心の平安とかある程度真面目に語り合える場を探している。
インド哲学に興味がない人が、どうやってこのスレに辿り着いたの?
212 :
188:2014/01/05(日) 17:46:39.50 ID:AthWo3rM
>>221 繰り返しになるけど、悟りとか真我には興味がある。
ただ、悟った人はどうだか知らないけど、人間だれしもどこかでごまかしながら生きていて、別にそれでいいんじゃないかと思ってる。
以前悟りという概念にこだわり過ぎてて「すべてが自我なんじゃないか」と思って不健全な思考に陥ってる時に、このスレで「こだわりを無くす事なんじゃないか?」と言われて気づかされたので、またこのスレでお世話になろうかと思って。
個人的には悟りどうこうよりも、精神的に健康になりたいだけなんだ。
輪廻転生とか考えると、複雑過ぎて混乱するだけだ。俺は。
どうやってここに辿り着いたのか聞いただけなのに
返事はしないで、自分語りはじめてどうした?
214 :
188:2014/01/05(日) 21:15:34.69 ID:AthWo3rM
>>213 それは悪かった。
ここに辿りついた理由は、また自分語りになるけど、精神の平安とか人生の目的とかまあそんなものを求めて、悟りという物に興味を持ってて、
そしたらマハルシ、ニサルガダッタなんかに行きあたって、以前ここでお世話になった事があるのでまた来た。
しかし、こんな事本当に聞きたいのか?
>個人的には悟りどうこうよりも、精神的に健康になりたいだけなんだ。
この気持ちはわかるな。
これも個人的意見だけど、宗教に興味のない人でも、
一足飛びに悟りを目指す(頓悟)ではなく、
誰もが段階的に成長することで少しづつこだわりを減らしていく(漸悟)の
道を歩んでいると思う。
人生における苦しさや問題に直面して、エゴの縮小や、
自我の死を繰り返し体験してね。
スコット・ベックの「愛と心理療法」という本を読むと、
問題に直面する→鬱になる→今までの人生地図の書き換えが起こる→成長する
というような発達プロセスが感動的に描かれて、すごく面白いよ。
この人も印哲やってたみたいだし、単純にすごく面白いから、精神的成長のモデルに興味ある人はおすすめ。
>>214 単純に興味が無いのに、ここに書き込みしてるのが不思議だっただけだよ。
元々インド哲学に興味が無かったが悟り等に関心を持ち、紆余曲折を経て
ここの存在を知り、一時期このスレを覗いたり書き込んだりしてた時期があった。
これなら興味が無いどころか、興味津々だと思うけど。
218 :
神も仏も名無しさん:2014/01/06(月) 18:46:45.97 ID:ZreKFDoG
正直毎度英語の文献紹介する長文の人ウザいんだけど
英語の文献紹介、大歓迎でーす♪
あと、英語が興味のない人は、そういう情報はスルーすればいいだけなのに。
220 :
神も仏も名無しさん:2014/01/06(月) 22:19:46.84 ID:ZreKFDoG
誰も英語文献に対してレスしてないのに
この手のこと言うとなぜかこういうコメあんだよな
自己中心的なのは自我としてお互い仕方ないことなんだが
いい加減スレ的に必要かどうか考えて欲しいんだけど
このスレその時の自分の頭の中にあるもん出す人多すぎでしょ
英語読む気力はないが、詳しい人が紹介してくれるのは
うれしいな。目覚めに近い人がたくさん生まれるのは自分のためにもなる。
独特独自の真我解釈をえんえん語られるほうがうざい
222 :
神も仏も名無しさん:2014/01/06(月) 22:21:12.58 ID:ZreKFDoG
何でもかんでも出すんではなく
普通は相手にとってどれほど有用かとか
考えて出すもんじゃないか?
この人kindleだのの情報を書いたりうざいんだよ
お前のレスが誰に必要とされてるか説明して見てくんない。
224 :
神も仏も名無しさん:2014/01/06(月) 22:22:56.85 ID:ZreKFDoG
そこらの判断しないところが嫌に鼻につくというか
自分はインドにもいたしゴッドマンもペンギンブックスで読んでるから
英語は読めるけど長文でここで紹介しようとは思えない
英語読めるなら外国のサイトでも何でも情報収集できるわけで
225 :
神も仏も名無しさん:2014/01/06(月) 22:26:59.54 ID:ZreKFDoG
情報の重要度とか活用される可能性考えて紹介して欲しいんだよね
まあ深呼吸して落ち着け。
俺は普通に
>>216は親切な人だと思ったけどな。
ただ自分のテーマでない話の流れだからスルーしてたけど、
「ぜんぶオラの気に入るテーマじゃなきゃヤダ!鼻につくもん!」
ってのは、いささかワガママだとおもうぞ。
まあ印象は人それぞれ。216が排斥されるようなら、ちょっと強引だと思うけどな。
227 :
神も仏も名無しさん:2014/01/06(月) 22:30:18.35 ID:ZreKFDoG
>>226 まぁ自分は情報は切り捨てていくタイプで
積み上げていくタイプ広がっていくのは好きではないのはあるかもね
スレ的にも知識を増やしていくような方向の誘導は好きではないというのもある
この人瑣末なことを紹介しすぎるのよ
それはあんたのこだわりで、それを他人に投影しちゃいかんだろ。
インドに行ってペンギンブックスよんで2ちゃんまで来てる積極派に
これ以上の知識は要らないかもしれないけどさ、
掲示板に来れば自分の気に入らないことだってあるよ。
自分のこだわりを投影してるってことに気づいたら良かったんじゃないの。
このこだわりは誰が・・・っつって。
誰もが同じところにこだわってるわけじゃないってのが、君のこだわりの君のこだわりたる証左だよ。
はたからみりゃ異様に見えるよ。この人なんでこんなところにひっかかってんだろうって。
瑣末でいらつくってのも君にとって瑣末であってさ、いいじゃないの、別に。
229 :
神も仏も名無しさん:2014/01/06(月) 22:43:24.83 ID:ZreKFDoG
>>228 上げ足取るようだが投影?は仕方ないんだよ
それはみんながしていること
自我の知識は偏っていてその限られた知識でもってすべての事象を判断するのだから
230 :
神も仏も名無しさん:2014/01/06(月) 22:53:30.13 ID:ZreKFDoG
まぁこのぐらい騒いで英語文献貼る人の自我が少し変化してくれればそれでいいよ
俺が頑ななようにこの人も頑なに貼るんだよww
言うなりゃそれが彼のこだわりなんだろう
231 :
216:2014/01/06(月) 23:58:49.11 ID:FEST4XZf
>>230 英語読めるんだったらレビューだけでもちょっと目を通せば
どんな内容かわかると思うよ。特に
>>216は
>>212の引用部分だけでなく、
>>210などにも目を通して、それを受けて書きたいと思って書いた。
>>175のA Guide to The Present Momentは
レビューの38人目までオール5つ星評価の本で、
誰が読んでも現実的な問題の小さくない部分の解決に道をつけてくれる本だと
思っているのとその日ゼロ円だったので書きました。気軽に書きました。
Astavakra Samhitaのリンクは前にも書いたけど、
不二一元論にも触れないととその時は感じてついでで書いたと思います。
一元論なので、英語にはこだわりはないです。
私はあなたであなたは私で、全体の神芝居のひとつの歯車(登場人物)として存在し、
上の本もこの機に読む運命にあった人は読むだろう程度の認識です。
日本語の本を普段から読んでいて日本語のいい本を知っていれば、
それも書いたかもしれません。
232 :
188:2014/01/07(火) 00:19:40.43 ID:fPK/JQA1
>>215 「愛と心理療法」という本は初めて知った。
機会があれば読んでみたいと思う。
ラメッシの本は少し読んだが、全て「プログラミング」という言葉で片付けられてて、あまり参考にならなかった。
『覚醒の炎』は結構興味深く読んだ。
英語の文献を紹介するのは、本当に俺の事を心配してくれているならありがたい事だ。
それとも他の欲望があるのかは、文面からでは判断できない。
ただ、一般的な日本人で英語の文献を読める人がどれだけいるかは考えているのだろうか?
俺は読めないし、大多数が読めないと思う。
233 :
188:2014/01/07(火) 00:22:34.41 ID:fPK/JQA1
悟り系の本を読んで、「悟りとはこういうものだ」というイメージとか知識がついても、具体的にどうすれば悟れるのかが書かれている本がない。
突発的に悟った人は、説明できなくて仕方ないんだろうけど。
今までで1番よかったのはレナード・ジェイコブソンの『「今、この瞬間」への旅』という本で、いくつかテクニックが紹介されてる。
俺が続けてるのは、一人で部屋にいる時に、思った事を口に出して呟くというもの。
自分の思考をいくらかは客観的に見れるようになると思うけど、いつもは出来ないし、限界を感じてる。
お経みたいに、何かの言葉を繰り返して入れば、精神が平安になるような言葉があればいいんだけど。
もういろいろ詰んでるので、神様を信じて心が安定するならそれでいいんだけど、神とはなにかもよくわからない。
もう言葉で戯れてる余裕はないので、具体的なテクニックがあれば教えて欲しい。
長くなって申し訳ない。
具体的なテクニックね・・・
俺は哲学板のシュタイナースレとか読んでる。906,907なんかは
俺のレスなんだけど。内面が変われば外界も変わるんだろうかな。
>>233 考えがある時には苦しむ。考えのない時には苦しまない。
意識は考えのない時には平安でありそれが本来の姿。
これがすべて。
後はその考えをどう扱うか?でいろんな方法がある。
本を読んでいればいくつかは知っているはず。
ラマナであれば自己探求であったり、考えのない瞬間に気づいてその時間を長くしていくこと。
「詰んでいる」と言うが実際「詰んでいる」と思っている時間はほんの短い時間で
後の時間はそんなことこれっぽっちも思っていないわけだ。そこに気づく。
自我を完全に黙らせることは難しいけど息継ぎぐらいにはなるよ。
まぁ一番の障害は悟ったら人生うまく行くとか思っていることだろうね。
この考え、期待かな?欲望かな?これが一番強いな。
俺は英語読めないし、読みたくもないとすら思ってるが、
情報書いてくれる人の書き込みは気になったことがないぞ
何かしら鼻につくところがあったんだろうが、俺には全くわからん
前世の因縁が関係しているに違いない
そんな訳ねえだろ
ただ単に自分が気に入らないことするなっていう我儘な性格なんだろ
まぁこのぐらい騒いで前世は関係ないっていう人の自我が少し変化してくれればそれでいいよ
俺が頑ななようにこの人も頑なに前世無視なんだよww
言うなりゃそれが彼のこだわりなんだろう
こういうことですか?
何の話してんだよ
やるべきことをやる!
2chの実態はHDDに記録された磁気データであるが、
ネットを介して個人のコンピューターの記憶装置に複製され
専用ブラウザによってNGワード処理されたパラレル2chを
モニターに投影し、我々はそれを観測する
243 :
188:2014/01/09(木) 23:41:26.98 ID:HYfbXxy/
>>234 シュタイナーの本は『神秘学概論』だけ頑張って読んだ事があるけど、今は見えない世界の事は距離を置いてる。
ありがとう。
>>235 トールの言ってる事は何となくわかるんだけど、具体的にどうすればいいのかよくわからない。
でもありがとう。
>>236 息継ぎも大事だと思うけど、今は現実逃避しないで、しっかり現実を見つめる事が大事なんだと思う。
あとフワフワと考えるのではなくてしっかり考えるよう心掛けてる。
正確には、「しっかり考える」というよりも、「湧いた思考をしっかり把握する」という事な気もしてきたが。
悟りと言っても、ただ自分にとって最もバランスの取れた状態になるだけで、今は奇跡的な事は期待してない。
ただ自分の中で最高のパフォーマンスができるのかなと思ってる。
>>241 精神世界の本を読んで、よく「〜すべきという考えは適切ではない」と書かれていて、確かにそうかもしれないけど、それに囚われていた。
言葉に正確さを求めすぎるとそれに囚われてしまう。
「〜すべき」とは思わないけど、自分で「〜しないと」と思ったら、それを素直に受け入れていこうと思う。
244 :
神も仏も名無しさん:2014/01/10(金) 00:33:38.02 ID:F4XeDfiB
それじゃ自分の周辺をウロウロするだけでなんにもならないよ
なぜ私とは何か問わないのか?なぜ自分を知ろうと思わないのか?
自分という幻想を知ることだけが開放だよ
で、自分は何だった?
246 :
神も仏も名無しさん:2014/01/11(土) 23:39:22.97 ID:6Ki2RMdb
「真我」という実在しない概念に振り回されてはいないかね。
「真我とはなにか、真我とはなにか」という真我へのこだわりが実は悟りを妨げてはいないだろうか。
247 :
神も仏も名無しさん:2014/01/12(日) 23:34:02.18 ID:OVT7A4o3
>>243 乞食やタバコ屋の隠居爺の言うこと聞いて
最高のパフォーマンスを発揮しようと目論んでいるなら
大きな考え違いをしていると思うが
まぁ昔から宗教にある覚者スーパーマン幻想だな
あらゆる執着から開放されれば、それだけでスーパーマンだろう
75: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 21:59:11.36 ID:a+CGzkEN0
自我を観察しようとしているものも結局自我なんじゃないかと疑ってしまって堂々巡りになる
78: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2012/10/06(土) 22:01:23.50 ID:QUfJ51I00
>>75 自我を観察してる自分てのは1元的にしか体験できない
あとから思い返したりできないんだ
体験そのものだから
言葉にした瞬間それは思考の産物になる
−−−−−
この辺りとか
そんなもんはとっくに知ってるわ
ラマナは言葉の無い言葉、という例えを使ってるね。
私の場合思考は瞑想中でも音として流れているけど、
感覚器官の刺激から一切離れた状態が
純粋意識なんだろうね。
感覚が無くなったら死人だよ
死人になる瞑想をすれば良い。
なら死ねばいいだろ
それでは真我に出会えない。
そんなの死んでみないと分からないだろう
死ぬとは真我に成る事であり、真我に出会うには生きていなくては。
真我って出会うものなのか?
無駄なことしないで出会い系にでも登録しとけば出会えるかもよ。
まあでもここで語るのは息抜きとしていいとして、瞑想は必要じゃないかな
261 :
神も仏も名無しさん:2014/01/14(火) 14:41:05.15 ID:SQfnE/No
絶えず流れている心のなかのブツブツつぶやき声。
自分は一体、このブツブツを話しているのか、それとも聞いているのか?って考えてた
Think と Feel ですね。
大事なのは、Don't think. Feel. です。
>>262 ゴエンカさんの本に、意識に現れた荒いはっきりとわかる肉体の感覚だけでなく、
訓練により集中力を研ぎ澄ませて意識にはっきりと現れない微細な肉体の感覚をも知覚し、それにも反応しないように集中力と平静さを強化していこうみたいなことが
書いてあったよ。
壊れたレコードは鳴らしっぱなしにせず、針を外してやるも大切なんじゃ?
改行忘れと、(針を外してやる)「こと」が抜けてました。
死のうとすることそのものが自我の行いだよ
>>262 ハッとさせられた。
仕事の段取りや明日の予定を決めたりとかみたいに、目的を持った思考もあるけれど、
それ以外はほとんどとりとめのない思考に翻弄されてる。
それらは考えようとして考えてるわけじゃない。
いつのまにか意識に上がってきて頭の中を占領する。
まるで自動おしゃべり機だよね。
たぶん人は、静けさが怖いのかもしれない。
いったい、話してるのは誰で、聞いてるのは誰なんだろうか。
それは誰でも一番初めに疑問に思うことだよね。
だけどその原因を突き止めてそこから抜け出すのが一番大変なのかもね。
269 :
神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 21:35:22.03 ID:4WeN/iiP
このスレの人は和尚とかクリシュナムルティは読むの?
270 :
神も仏も名無しさん:2014/01/16(木) 23:28:58.07 ID:4WeN/iiP
「ラジニーシは、頭または心の機械的な動きや条件付けに縛られた「マインド」(mind)からの
解放と意識の「目覚め」(awakening)を説き、「瞑想」(meditation)の道を示した」
ウィキからだけど、まあこれがどの宗教でも主眼だね
>>269 自分は読んだことない。
ウパニシャッドやシャンカラの本(Crest Jewel of Discrimination)、
astavakra samhitaなどの不二一元論の土台になる本と、
サイババ、ラメッシ、マハラジ、マハルシをかじる程度。
あとは、仏教になるけど、アーナパーナサティとヴィパッサナーに
それぞれ関連した経典の解説本と、それらの実践の土台や基本になる
教えや説明の書かれた本やサイトを読み始めた程度。
和尚は読み物として面白いが、組織宗教として活動していたことが自分にとっては魅力に欠いた。
クリシュナムルティも読み物としては面白いが、人格的には俗物だったようだ。
俗物がいいことを言っても自分の心には響かない。
アーシュラムやサンガって組織宗教なんか。
実際に目が無いからな
洞窟の魚には
最初から目が無いなら
視力には頼らんからな
我々の常識や当たり前には他者と比較して
目がないから不自由で不幸が前提だからなあ
悟ることには更に身体が無いんだから我々の常識や当たり前とは別世界だよ
真理を組織化するって無理だと思うんだよね。
どうせ人を集めるのなら真理を体現した集団であって欲しいね。
でも、そんな組織宗教はないよね。
>>262 どちらでもないのだろう。
つぶやいているのは自我で、それを聞いているのも自我だと思うよ。
マハルシのいう真我は、つぶやきとは無関係だ。
結局、自分の周りで起こっていることはただ起こっているだけだと(頭では)分かってから、なにをしても詰まらなくなってしまった。
この世界は詰まらない世界だ。
だが、自分は悟ったわけではない。
「俺は一体どうすればいいんだ」と問うても「どうもしなくてよい」というのが答えだとわかっている。
わかってはいても、葛藤は止まない。
つまらないと感じているのも自我
どうもしなくて良いと一人合点してるのも自我
葛藤してるのも自我
わかっているつもりなのも自我
なんというか自我の中で堂々巡りしてるだけなんだから
「ただ起こってるだけ」みたいなクソ概念捨ててみてはいかが。その分自我が縮小するかもね。
見慣れた日常も
俺は隅から隅まで世界を把握してるとか
自信持っても
やれDNAとか粒子とか顔出すと
何それ?になるからな
悟りとはそんな別世界の話だから
神の意思だから受け入れるしかないな
おそらく世界は人間が想像してるより
遥かに複雑複雑
一見に人間から見て理不尽に見えることでも
神から見たら正しいらしい
悟りたいならそれらを受け入れるしか前進はないよな
真我から見れば、物事はただ起こっているだけではないのかね。
自我から見ればそうではないだろうけど。
真我からすれば いわゆる「善」も「悪」も関係ないんだよ、きっと。
そうだとすれば、真我は人智を超えてるわな。
真我を前にすれば、それに気づいた自我は途方にくれるしかないわ。
自我は真我にはなれないんだよな。
だとしたら、真我を実現するのは誰なの?
自我が真我になるわけじゃないと思うな。
多分、自我が自我だと思ってるものの本質は、真我なんだよ。
最初から真我だけがあるんだ。
よくわからないが本当の自分を知ることがアドヴァイタでは真我らしい
そんな疑問を持つ自体が自分のことをわかってない知ってないらしいな
>277
ラマナの教えの根幹を成す真我探究、いわゆるヴィチャーラ。
それをいつやるか?
今でしょ。
誰にとっての葛藤か?を意識してみればいい。はず。
集中してる時己を忘れてる忘我の状態が悟りの状態に近いと言うが
自分の行動全てに気づいて居て己を忘れる瞬間が無いのも
悟ってるという事なんじゃない?
悟りというのは二元論なのでよくわかりませんが、
瞑想していても集中していても日常生活にもどっても
同じ意識状態が保てることなんじゃないかな。
この世になんら影響を受ける必要がないことを知っている
地球上すべての人間の感じていることを自分そのものとして知ることができる
これが日常らしい
自由自在という真我の特徴のある程度の部分を顕しているけど、所詮は顕れているものだから真我そのものではない
真我は姿形に属するものではないから、あえて形として例えるとしたら大宇宙そのもの、そのすべてが私となるかも知れない
よくわからんが
あなたとわたしはひとつであるとか
別世界の話をしてるのは確かだな
必死に蓄えた貯蓄を泥棒に盗られるとか
そういった生きててどうしようもない暗黒面が起こるのは
シャンカラいわくブラフマンを理解してないらしいから
この道を目指すなら一線超えないと理解できない何かはあるよ
>>286 その単純なことが、このスレじゃ話題にもならないんだよな。
哲学論議に終始して、自我の中でぐるぐる真我とはなにか推論してるだけで。
自我の中でいくら真我とは?と考えて答えを出したつもりでも、それは
ただの概念、絵に描いたもちだよ。
象がどんなものかしりたかったら、象がいるところに
電車なり徒歩なりで向かっていけばいいのに、
「色はねずみ色らしいぞ」「鼻が長いらしい」「牙が生えているらしい」
「皮膚はざらざらしてる」「おっぱいがたくさんある」
こうした情報をあつめて、画用紙に絵を描いたら、そこそこ似てるものが
描けるかもしれないし、めちゃくちゃなものになるかもしれない。
いずれにせよ、それは「紙切れ」であって象ではない。
真我には電車でも徒歩でも行けないけどな
ラマナは、突発事故で悟りに遭遇したから、
自分に起きた現象の機序を理解出来ていない
だから他人を導くことは、そもそも無理なのだ
出来ないのに、欧米から聖者観光に来た連中から話すことを要請され、
それで、各種のヒンズー経典を一夜漬けで覚えこみ、
そこから引用してお茶を濁すなど、哀れな存在だった
ラマナとの対話1巻を立ち読みしたところ、ホームレスやってる兄弟だか姉妹の話が出てくる箇所がありました
しかし実際に買って読んでみたら見つかりません
どなたかその話が載ってるページをご存じでしたら教えてください
>>295 その本の日本語版持ってないですが、英語のKindle版を検索したところ、
1938年1月31日のTalk449に売春で生計を立てている姉妹についての
記述みたいなものはありますよ。
>>291 要するにこのスレにはあなたの気にくわない人がたくさんいる、ということでしょうか。
>>296 どうもありがとうございます
ただ、対話449は2巻掲載になります
1巻しか発売されてなかった頃に読んだ記憶があるので、載ってるのは1巻だと思うのですが・・・
ホームレスについてだと確信してるわけじゃないので、とりあえずもう一度最初から読み直してみます
299 :
188:2014/01/20(月) 00:28:21.03 ID:BKzvlmMK
真我と神は同じものなんじゃないのか?
「言葉では言い表せない」と心の底から理解するまで、考えるしかないのかもしれない。
スーフィーの話で「神を求めて旅に出た男は、神のようになって帰って来た」という話が好きだ。
真我がアートマンならアートマン=ブラフマンなんだから当然の話しだよ
>>297 いや、別にぜんぜん。
なんか僕のレスが気に食わなかったみたいですみません。
>>300 自分がそう感じたのか?
自分が思った事を正確に話さないのは、自分をも混乱させると思う。
>>301 無駄に謝る必要なんてありませんよ。
自我ありきで何かを考える方がよほど堂々巡りなのでは、と思いまして。
悟るまでは自我ありきだよ。そこ勘違いするとまずいね。
ふむ。
自我探しに終始することと言った方がよかったかもしれません。
勘違いがもたらす「まずさ」とは、そういう仕組みがある、ということでしょうか?
想像なのか実体験なのか。
そんなこと考えるのやめてたまには「こう考えてる私は誰か」やりなよ。
そう書いてる自分は誰かはしてるのか?
してるのは誰か
如!
真我が実現するまでは苦しみも悩みもある。
満足するまではヴィチャーラを続けるべきだろう。
真我を実現する、と言う場合、実現されるのは自我にとってであり、
真我そのものは最初から存在しているため、何も実現されることはない。
つまり、自我は錯誤を抱えているため、真我がわからない。
その錯誤を破壊する手段がヴィチャーラなのだ(´・_・`)
自我は悟れない。背中のかゆみが悟れないように。
何か突き詰めたら真我ってビックバンとか
そういった人知の及ばない未知の何ものかと変わらないな
生きてて全然すべては等しく感じないけどな
>312
そりゃあにいさんヴィチャーラが足りませんぜ。
色々と悟りには足りないんだろね
実感として広大な宇宙の小さな星の小さな自分て実感しかない
夜空の星とか見ててもメチャ距離遠いんだろなあ〜って
あれと俺が等しい存在とか
他人に聞かれたら引かれまくるだろうなあ〜って感じだな
あの星とお前は等しいは無いだろう?とか説教されそうだわ
>悟り
意識してどうこうなるものではなく
頭で知的に考えつくしてどうこうなるものでもなく、
あるとき突然純粋意識を覆っていた雲間が晴れて起こるって聞くから、
過去の経験や現在、将来の体験に光を当てて、
真理とは本当だったと心の奥底で実感を持ってひとつずつ気づくことによって
自然な心の変容とその積み重ねを待つしかないんじゃないかな。
今世かもしれないし、来世かもしれないし、
もしかしたら転生自体ないのかもしれないけど。
悟っても悟らなくても私の本質がブラフマンなら、
凡人と覚者の違いはなく、悟りを求める心は自我の自己満足や自己主張の類。
まわりとうまくいかず、社会とうまくいかず、その原因に気づきたい、
自分のいいところも悪いところもありのままに気づき、
少しでもまわりと円滑な関係(憎んだり喧嘩を売ったりしないという意味で)を
築きくことが終点ならまた違うのだろうけど。
>>315 ほぼ同意。
自分の精神に問題を抱えていて、それをどうにかするために悟りたいと思ってる人以外は、偽物だと思う。
普通に暮らせてるのに悟りがどうこう言ってる人は、ただの自己満足にしか思えない。
苦しいから心の平安を求めるしかないんだよ。
「悟り」っていう言葉も特別な感じがしてよくないと思うけど。
単純に「心の平安」とかでいいんじゃないか?
誰しもが精神的な問題を抱えてるだろ。
幸せそうに見える人でも内情は本人にしか分からない。
人は、信じることしかできないんだって。
正しいとか、正しくないってことは、人間にとっては、
信じてる、信じてない、好き、嫌い、という感情の問題なんだって。
だって、地球がどんな形か、誰も本当に自分の目で見たわけじゃない。
1+1=2だって、本当にこの世の全ての物質で試して、
そう言っているわけじゃない。
でも、私たちはその正しさを主張する。何でか。
多分、そこに、納得があるから。正しい、という感情が生じるから。
知識と、納得は、別物だと思う。
納得だけするっていうのも危ういものだ。これは正しい、と言って、
誰にも理解できないことを主張する人ならば、精神病院に沢山いる。
知識だけでも、上手くない。生きていない知識は、応用することができない、
再利用されることがない。尋ねられれば答えられる。
けれど、知識そのものが能動的に作用してくれない。
多分、ヴィチャーラは納得を掘り下げている。
ラマナは論理も十分示してくれている。後はそれに体験を注ぐだけだ。
何で信じることしか出来ないんだ?
>319
何かひとつでも、本当に証明できることがある?
理解は経験に依存する。経験を削ぎ落としていったら、玉ねぎの皮のように、中心はない。
世の中で確からしいと言われている事だって、他の仮説に比べたら、より多くの経験の中で矛盾しなかったというだけに過ぎない。
教科書は真実じゃない。真実そのものはあるけれど、私たち人間が、真実を自分の頭脳の中に閉じ込めることはできない。
人間は、ただ自分の頭脳の中に真実をなぞっている。コインの上に紙をおいて、鉛筆でその紙をこすると、コインそっくりの絵柄が浮き出てくる。けれど、紙はコインそのものになるわけじゃない。ちょうどそのように。
信じるという行為も要らないんじゃないの?
精神病院に沢山いるとな
精神病院に沢山いそうな感じじゃなくて、いるんだな?
>322
誰にも理解されない確信を抱えて、
自分の身を守るための幻想を育てる。
人は幻想の内容ばかり取り扱って、
その人の確信には目を向けない。
精神障害とか精神病というのも、
ものの見方のひとつに過ぎない。
真理はあらゆる経路から現れる。
それは医学的な見識に依存するものではないだろう。
>>323 だから何?精神病院に沢山いるんだな?沢山いそうな感じじゃなくて。
おいおい、怖いな。なんでそんなに詰め寄るんだよ。
宗教では想いみたいなのスゴく大事らしい
大人から見たらガラクタでも
子供から見たら宝ものや黄金みたいなおもちゃが正しいみたいな
神がそう定めたなら仕方ないな
327 :
神も仏も名無しさん:2014/01/24(金) 23:23:25.52 ID:18F1Gb0H
金や女や名声への思いとか
それは欲なんじゃないかな
結果は同じでも損得抜きで
立場忘れて女に対するストーカーチックな行為は欲は無い見たいな
あの人が見たいなのがよく新聞に載ってるけど
まあ俺が判断することじゃないから
ストーカーされる側はかなわんよね
自爆テロみたいなのも損得抜きとは言えるよね
エーリッヒフロムは「愛する能力にはナルシズムの克服が重要」という。
人格的成長が必要ってことだろうけど、
こういう実用的な本ないかな。このスレで聴くのはスレチガイかもしれないが、
詳しい人いるかと思って。
ラマナの本も、究極の到達場所かもしれないけど、
まずは切符の買い方を知りたい・・・
>>326 こどものときはものを直接見るが、
成長するにつれてまわりや社会から植えつけられ
自分の中に定着した、ものに対する概念だけを見るようになる。
上の方にある「苦しみ」の多くもそういったものが生む。
自分の中に定着した概念や価値観、自分/他人、正しい/正しくない、良い/悪い
といった相対性や規範が、ものを直接見なくしたり、自分の心を苦しめる。
「人を裁けば裁かれる」とはそういうこと。
>>329 加藤諦三の本がそういうことについてはわかりやすい
332 :
神も仏も名無しさん:2014/01/25(土) 07:14:44.40 ID:HK6XG7Fx
>>329 エーリッヒ・フロムはよく読みましたね。あの人は晩年に禅とかヨーガをしてたと思います。
愛が「太陽」としたら、それを妨げるナルチシズムとかが「雲」。雲を払えば、愛が自動的に
現れてくるんじゃないでしょうか。雲を払う方法は1つの思いに集中することです。ヨーガなら
呼吸瞑想とか、ジャパとかですね。宗教的修練の中で伝統的なものはそれなりに何でも有効だと
思いますよ。
ちなみにマハルシは上の説明のように切符の買い方も教えてますよ。
なるほど、ラマナも考えてみれば、盛んに切符の買い方も説いてくれていますね。
「ラマナマハリシの教え」にも。
呼吸瞑想か。定期的に時間をとってやってみようかな。
加藤泰三も批判されたり、下に見るようなむきもあるが、一人の人間が内面的苦難と真摯に向き合った
苦闘の歴史とみれば、俺なんかは仰ぎ見るべきたいした人物だと思う。
>雲を払う方法は1つの思いに集中することです。
なんかもう自分のええかっこしいや次々わいてくる軽蔑、自己防衛などの気持ちに
万策尽きて、神に祈ることがあり、そのときは一瞬ほっとするなぁ・・
聴いてくれているのだろうか。また、少しは手助けしてくれる気があるのだろうかな・・・
>加藤泰三も批判されたり
宗教関連のスレではってことね。この人もナルシシズムに苦しめられた先達として
自分は尊敬してるし、とても参考にもなる。
連投すみません、人生苦しいことばかりでなぁ・・・
336 :
神も仏も名無しさん:2014/01/25(土) 12:03:25.18 ID:HK6XG7Fx
>>334、335
自分の無力を感じて、神に祈ることは、まぎれもない「委ね」の修練ですね。
この場合、「1つの思い」は神への祈りです。
宗教の世界では、苦しみはそんなにネガティブに捉えられてません。苦しみが
あるからあなたの神の祈りがあり、聖者とのつながりができるのではありませんか。
なんてちょっと偉そうに言ってみました。少しは慰めになるでしょうか。
そうだなあ
神って凄いもんな
例えそれが天罰でも
広大な宇宙の小さい星の小さな自分に
いちいち構ってくれるのが凄いなって思うよ
>>336 ありがとうございます。委ねの修練励まされる言葉だ。
ラマナも、ヨガナンダになぜ苦しみが?ときかれて、それが神のやり方なのです、
と言ってましたね。
正直、神を愛するより不満しかいえませんが、ヨブという先達もいることだし・・・
神が道をつけてくれることを信じていきます。
大切なもの、捨てたくないものが無い状況って、一般的には不幸な状況だけど、悟ることに関しては理想的ではあるな
わざわざ雑念を避けるために山ごもりしなくても、暖房の効いた室内で瞑想できる
340 :
神も仏も名無しさん:2014/01/27(月) 20:02:46.81 ID:+RB+XpsO
大切なものも捨てたくないものもないのに
悟りが欲しくて瞑想するっておかしい気がするが
心は澄み切ってないのか?
澄んできているけど、まだ澄み切っていない、という話だろうね。
いずれ、いずれ。
我々の本質は形の無い霊だから
洞窟の目のない魚が視覚に頼らないように
強盗に財産を盗られても殴られても
唯物的な理由に囚われないようにが
神がわざわざ世界を作った理由というか
それが魂の成長らしい
地球にプランクトンしか居なかった時代
人間みたいに高等な生物なんか居なかったから
どんな感じだったんだろな
すべての生き物は夢なのか現実なのかわからないふわふわ漂う一生だったのだろう
夢と現実の違いって、不思議だね。
科学的にも証明されてるからね
大昔の時代の化石とか残ってるし
過去に人類の居なかった時代は確かにあった
我々の現実と呼ばれてる世界は高等な知能と五感で成立してる
そして深い眠りでは原始的な脳も眠るから世界は存在しない
ラマナの本だと、悟っても意識は存在するとか言ってなかったっけ。
それが目覚めた眠りとそうでない通常の眠りの違いとか。
仮に悟るのが目覚めた眠りでも五感には頼ってないから我々には未知の世界だよ
どんな感じなのかさっぱりわからない
意識があっても五感には頼ってないとか経験したこと無いしわからないね
いや、五感に頼ってないのか?無理だろ
349 :
神も仏も名無しさん:2014/01/30(木) 07:05:14.30 ID:YaJnPOtL
五感に頼ってるのが今の認識で、世界を見ている自分がいる。
五感に頼らない認識(アパロークシャ)が、真理の実現。と言われているようですね。
なるほど、五感を使わないとか想像もできないな。
同時代人で、目覚めている人というと誰がいるだろう?
ラマナや鈴木大拙はいいけどやはり読むと硬く感じる。
アジャシャンティとか、名前は聞くけどどうなんでしょうね。
アジャシャンティの「あなたの世界の終わり」はよかった
目覚めについて書かれた本は多いが、目覚めの後について詳しく書かれた本は珍しいので気に入ってる。
ラマナの発言は、自分の経験から述べたこと以外に、
ヒンズーの伝統や経典の言句を述べている部分が多い
そこが、鈴木大拙と異なる点だ
ラマナの本は、いわばガラクタでいっぱいのおもちゃ箱で、
底のほうにほんの少し、価値あるものがある
ゴミと真珠の区別がつかなくてラマナの本の内容全部を盲信すれば、
迷いが増えるだけだろう
353 :
神も仏も名無しさん:2014/01/31(金) 10:45:34.14 ID:J3TNO9yT
ラマナの本は真珠の中でもオールAランクの花玉真珠みたいですが、とてもお安く買えます。
彼の経験に一致する部分を聖典から引用しているとは思わないのかなあ。
本人の言葉も重いんだろうけど、
本人がこれを読めと勧めている聖典(ashtavakra gita/astavakra samhita)
を読んで、対話に出てこない部分を知ることも大切なんじゃないかな。
読書自体が瞑想なり、コンパスや地図の代わりをする。
357 :
神も仏も名無しさん:2014/01/31(金) 17:32:32.89 ID:J3TNO9yT
私は、「マハルシ ⇒ 聖典 ⇒ マハルシ」 という過程をたどってますね。
聖典好きなら、yoga vasisthaとかもお勧め。鬼のように長いうえ、アドヴァイタ120%。
358 :
神も仏も名無しさん:2014/01/31(金) 21:09:57.90 ID:/Iuny84O
ラマナも鈴木大拙も悟ってるんだろうけど、発言に触れた印象はだいぶ違うね。
個人差というより、地域や持っている文化の差かな。
359 :
神も仏も名無しさん:2014/01/31(金) 21:11:17.81 ID:/Iuny84O
ユングはどちらも関心持ってたみたいだね。禅、アドヴァイタ、チベット仏教、易。
易もなかなか面白くて好きだな。やってると自我が薄れる気がする。
突き詰めたら悟りは
ダークマターやらビックバンや宇宙の果てみたいな
そんな訳わからないものとまったく変わらない
目覚めた五感や身体に頼らない眠りとかまるで意味わからんわ
ラマナも自分のドッペルゲンガーが現れたとか聞いても普通に答えてたし
そういった人の価値観では理解しがたい訳わからんものだよ
一方で、柳は緑、花は紅という、ごくごく当たり前の世界という。
>>359 河合隼雄氏の著書をいくつか読んでみて考えたことだけど、
自我意識と無意識の境界として顕在化するのが感情で、感情をはさんで
無意識側にある領域がいわゆるコンプレックスなんだろう。
自我とはつまり感情=コンプレックスによって限定される主体意識で、
コンプレックスをカルマと言い換えてもさしつかえないのかな、と思った。
まあ結局は自分自身の感情を大事にしつつ、広大無辺な自己を体験していかなければ、
経典や教えを鵜呑みにしてそれを行動に移すのはけっこう危ういと思うよ。
コンプレックスなんて全然意識の範疇だろうw
何言ってんだよw
364 :
【大吉】 :2014/02/01(土) 00:18:45.02 ID:FevM1bLW
今年中にグルに会えるかどうか占
>>363 そりゃ意識の範囲だろうさ
コンプレックスとして顕在化できればそうだろうけど、
言語化できない、抑圧してると気づくことすらできない領域だって時にはあるでしょ。
>>362 その河合さんの本を読んだら、「同じパターンを繰り返す」人に
ついて書かれてた。たとえば、同じ事故に何度もあう人。同じような犯罪に何度もあう人。
ケースによっては、親から子へ引き継がれることもあるという。
河合さんによると、たとえば戦争体験にあって、それを体験として受け止めきれないと、
同じ夢を繰り返し見るとのことだが、それと同じことが現実にも起こっているのではないかと。
また別のトラウマ心理学の本にも、ある種の経験に対して同じ逃避防衛的な反応でしか対応できず、
その経験を昇華できない場合、同じパターンを繰り返すとか。
卑近な例で言えば、DV男の面倒を見ることによって自己価値を確認する、自己蔑視女性とかね。
まあ、こういうのは、瞑想してると結構日常でもわかることで、「ああ、俺また同じような
自己防衛してるなぁ」と思うと、その自己防衛自体との同一化から離れて、客観的に対処できるようになる。
ラマナの言う「感情は私ではない」というね。
だから、意識化されないコンプレックスをカルマといってもあながち間違いじゃないと思うよ。
というわけで、執着を手放さない限り、何度も生を繰り返すことになる。
同じパターンを繰り返すことのメタファーとして輪廻というのかもしれない。
まあ手放すほどによい状況へステップアップしていくんだろうけど。
だから、悟りへの工程に現世利益もある。
だが、ほとんどの人には執着やコンプレックスがあって、それと自己を同一視している。
「金さえあれば」とか「愛する人がいれば」とか、外的な何かに対するね。
これが自我であって、これから離れたものとなれば、輪廻はもう起こらない。
368 :
【中吉】 :2014/02/01(土) 03:53:17.97 ID:FevM1bLW
ニサルガダッタ・マハラジ「私は在る」I AM THAT
また販売され始めたんだね
>>367 コンプレックス領域と主体意識の統合をうまくこなせれば、
手放しと言うか、執着も自然となくなるんだろうね。
まあ、主体意識も執着も仮初めの物語とか言っちゃうと
元も子もなくなるけどねw
370 :
神も仏も名無しさん:2014/02/01(土) 10:03:36.85 ID:ZBCVdL5D
ラマナが言ってた瞑想法ってラマナ独自のもの?
瞑想にも色々流派があるみたいだけど、ラマナは特別何系がいいとか言ってないよね?
ラマナは往相は知っていても、還相は知らない
色即是空は知っていても、空即是色は知らない
ウパニシャッドは知っていても、大乗経典は知らない
アルハットであってもボーディーサットヴァじゃない
372 :
神も仏も名無しさん:2014/02/01(土) 11:06:51.11 ID:1u2Nfp0P
>>370 古くからあり、独自でもありますね。「私は誰か」に焦点を集中したのは、ラマナの独自の特色だと思います。
ラマナは何系がいいとか言わないですね。
373 :
神も仏も名無しさん:2014/02/01(土) 11:16:20.87 ID:hwPqD3Lc
>>371 ラマナのことも仏教のことも本当は詳しく知らないんだけど、
どうしても表面的には俺も同じ感想を持ってしまうな。
ボーディサットヴァとアルハットの違いってなんだろうか。
前者より、後者のほうが格上に見えてしまう。でも、大乗思想だと、前者の境地のほうが上なんだよね。
>>372 古くからあるってことは名前のついてる瞑想法?
どういう風に呼ばれてるの?
375 :
神も仏も名無しさん:2014/02/01(土) 12:07:55.41 ID:1u2Nfp0P
>>375 サンクス
Wikipediaにばっちり書いてあるんだな
ユングは晩年近くになって、凍った道で激しく転倒し、命にかかわるような大怪我をした。
それがきっかけなのか、若い頃からのオカルト傾向を、もはや周囲に隠さなくなった。
それまではひたすら、自分は「正統な科学者である」と見なされたかったらしい。
時代も、ユングに味方をした。西洋では、東洋の精神性にたいしての関心が急速に高まっており
ユングは一躍「東洋の精神性についての権威」「西洋の賢者」などと目されるようになった。
ユングは亡くなる前年、哲学者で禅者でもある久松真一を自邸に招き、対談した。
この対談は、あまり上手く噛み合わなかったといわれている。
その場に同席した久松の弟子がいうには、久松の投げかけた問いにたいして、ユングは答えに窮し
結果、ユングは自説にたいする「囚われ」から、ある意味で「超越」ができたのではないかと。
視覚とかもただ与えられて見えるが進化での始まりで
根本的には科学では解明されてないような
不可知なことなのにそのことをあまり疑問に感じる人なんか
居ないからなあ
そういった思い込みとか我々の世界はその連続ばかりだとは思う
379 :
神も仏も名無しさん:2014/02/02(日) 06:59:41.50 ID:CRCCPshA
>>378 眼の誕生という本があって、ちゃんと科学的に考察されてはいる
だからそれが思い込みなんだって
粒子が何なのかわかってないのに
根本的なことは何もわかってないよ
根本的には科学では解明されていないが、科学者の中にも不可知なことについて疑問に感じてる人がいるよってことで、本の紹介をしただけ
自分が「見ている」ということを誰も証明できないという見解については俺も同意している
宇宙の広がりが限界に達したら
原子の結び付きが緩くなって世界は滅びるとか何とか
NHKでも真面目に議論しているが
ラマナいわくそんなものは最初から無いらしい
イエスも言ってたし神に出来ないことは無いと
どちらを信じるかはあなたしだいって訳だよね
相変わらず意味のない書き込みだな
聖書に書いてあるように本当に水がワインに変わったりするなら
そんなこと起こり得るなら
40億年前の事なんか誰も知らないから
科学者の言うもっともなことも推測でしか無いからね
ラマナやアドヴァイタでいってるこの世はマーヤーっていうのは、それとちょっと違う気がする。
少なくとも悟るまでは目で見る世界は現実だし歴史も事実。もちろん把握できる限り、という条件付でね。
>>381でいってる「わかってない」とか「思い込み」とかいう思考法自体が
科学的現世的思考法で、その枠組みの内側で考える以上、科学は正しいんだよ。
悟りって言うのは、そういう思考法そのものを離れた世界。
うーむ、そうかも
何か暗闇で蛇とロープを見間違え
悟るとロープとわかりはするが
我々の現実であるロープである世界は在り続けると
そういうことは言ってたね
それはカルマなんだとか言ってた
アドヴァイタはカルマを否定してないもんな
悟ってない我々にとっては暗闇のロープや蛇は実在で在り続ける
カルマ内で生きる限りは確かに科学は正しいかもね
まあ、驚くべきは、いわゆる神も、我々と同じくらいの実在性をもつ、と
ラマナが言っていること。そしてその神は、「角を持ったうさぎ」みたいな
人の中での想像上のものじゃなく、神として当然人の知恵を凌駕している、と。
しかし悟りを開くと、それすらなくなる。なぜなら、自我がなくなるから対象もなくなるみたいな。
一方で、ラーマクリシュナは、真我=神は、我々に対して、ふさわしい形で現れる、
まるで乳飲み子には乳飲み子にふさわしく料理された形で食材が形を変えるように、と。
だから悟りを開くまでは、二元性の世界の中で、対象化された神を崇拝し、実在する科学や歴史で遊ぶのもいいと思う。
アドヴァイタってカルマを否定して無いから
カルマを否定してないのに全ては一元で神であるってのは
矛盾してるよね
我々にとっては世界は二元で実在で現実でそれがカルマなんだから
キリスト教でも罪の無いのは父と子と聖霊だけだし
宗教ってのは境界線超えた向こう側だから理解は人の価値感では難しい
運命を受け入れる というのは、
運命を受け入れて苦しみに身を任せる のではなくて、
運命を受け入れて、苦しみを避ける ということでもある
というインスピレーションを受けた
あまり居心地の良くない床屋に行こうとしていたが、
運命を受け入れるのであれば、他の床屋を選択する自分という運命も受け入れればいい
床屋なんてどこでもいいのだ
わざわざ居心地のよくない床屋にいくことはない
そこへ行かなければいけない、そこで苦しみを味わい、可能であれば困難を乗り越えなければならないという無意識下の執着があった
このインスピレーションは、自分の現状況のみに通用する超個人的なものだけど、一応書いておく
床屋に行くのが運命とどんな関係が有るんだよw
>>391 まあ、自分に対する定義づけの問題だよね。
人の定義には自由とか権利とか運命とかいろいろあるけどね。
ラマナ・マハルシの後を追いかけても誰も彼の説く悟りを得ることはできないだろう。
彼の説く「真我」という観念が我々の現実とかけ離れて完全に宙に浮いてしまっている。
彼を追いかけても結局は真我論に落ち着いてしまう。
他人と議論をしようが独りで悟りを目指そうが、行き着くところは同じだ。
何が言いたいかよく分からないな
ラマナの真我探求で結果が出せないのは
君にラマナのような特別な才能がないから。
誰しもが天才に生まれるわけじゃない。
先天的に自己の本質が浄化されていないと
生きたグルなしで、真我探求を頼りに真我の実現をすることはできない。
だからといってラマナの真我探求が間違っているわけでもない。
そもそもラマナの本は言行録で、ラマナが目の前にいて
アルナーチャラという聖地にいることが前提での発言だから。
ハタヨーガやクンダリーニヨーガで準備を整えるなり
聖地を巡ったりグルを探して本質を浄化してもらわないと
他の哲学と同じく言葉遊びで終わるよ。
またアドヴァイタで無理だと感じるのなら
原始仏教や禅、仙道やチベット密教などの別の方法論を求めるのもいいと思う。
どこに縁があるかは人によるから、最初とまったく異なる場所にたどり着く
こともあると思うよ。
これは体験談だけど。
何事も御心のままにだから
もうロムだけだったんだけどたまにはね。
浄化というと大層なことのように聞こえる
実際にやることは、執着や観念を見つけて落としていく、
あるいはそれがやりやすい状況にすることじゃなかろうか
日本に居ても良い師が見つかればできることだと思う
必要なのは才能なのかヨーガなのかグル探しなのか聖地めぐりなのか
方法論探しなのか、それとも先天的な本質浄化なのか、それとも御心のままなのかはっきりしろ!
頭でっかちだからこんなごちゃごちゃするんだよw
御心のままと理解はしてもまだまだ難しい。
死ぬほど働くでもなく死ぬほど遊ぶでもなく、
ただ死ぬほど休みましょう^^
御心について考えている。
種火と炎について。
炎が起きたあとで、種火が燃えるか燃えないかということを気にする必要はない。どうであれ炎の中で、種火は燃えるだろう。
種火は燃える。それが自ら燃えているのか、それとも炎によって燃やされているのか。
炎が起きた後ではどうでも良いことだ。
どちらでも良い。このどちらでも良いという信頼、明け渡しが、生に対して全体的になることが重要なのかもしれない。
それは苦痛ではなく安らぎであるはずだ。この不信、苦痛という不信が生まれるというあたり、私はまだ完全ではないのだろう。
下手な考え休みに似たり、ということわざがありますが、
考えることより休むことの方がはるかに重要なことです^^
死ぬほど休んでみましょう^^
なんて静かな夜なのだろう。
なんてきれいなな女なのだろう。
御心のまま、他力本願、何もしない、観照、などなどの意味は、頭を休めることか。
感情思考のみならず、いっそのこと主体意識も休ませましょう^^
>>406 あなたの言っていることは無意味だ。
ジニャーニは、考えるからだ。ジニャーニの本質とはその思考であり、思考こそ彼らのカルマだ。彼らは疑いによってこそ疑い得ぬ真理に辿り着く。
ジニャーニにとって、思考とは辿り着かないことによってはじめて道となる道である。
あなたの言う休みは、思考とは全く別の道だ。ラマナの足元に居る人々に対して、ラマナの方法を否定するのは無礼ではないか。
>>407 起きてるあいだのお楽しみは邪魔しませんよ^^
愛も憎しみも喜びも悲しみ安らぎも苦しみも入り込む余地がないくらい
死ぬほど休みましょう^^
>>408 思考こそ無為であり、安らぎに至る道である。
無理をして休むということをする必要はない。
思考してりるなら無為ではないだろう
訂正 思考しているなら無為ではないだろう
>>409 ええ、起きてるときは起きていましょう^^
寝ているときは寝ていましょう^^
休んでみることに道は要りませんので^^
>>412 無意味です。
起きているときは起きていましょう。
寝ているときは寝ていましょう。
歩いているときは歩きましょう。
考えているときは考えましょう。
あなたが何も言わずとも、それはそのように行われる。
あなたの言葉には何の意味もない。
>>413 意味を差し挟む余地のないくらい、死ぬほど休んでみましょう^^
>>415 あらゆるものごとを断固拒否しながら、死ぬほど休んでください^^
>>416 死ぬほど休んでくださいと言い続けながら、絶対に休まないでください。
ちょっと違うかな。
死ぬほど休んでくださいと言い続けながら、絶対に誰も休ませないでください。
まずは休むことに徹してみましょう^^
その上で、見聞きしたことを知ってみましょう^^
意図するしないに関わらず、物事は自動的に展開する
意図した場合は、意図して行ったという確信が残り、
意図していない場合は物事が展開していることに気付かない
のではとさっき思った
緑茶を飲もうか紅茶を飲もうか考えながら洗い物をして、
すべての洗い物が終わってから、この食器油汚れ酷かったけどちゃんと洗ったか?と気が付いた
ちゃんと洗っていたわけで、意図してちゃんと洗っても、意図せずちゃんと洗っても結果は同じだった
なんか最近は仕事が忙しくて宗教そっちのけだが
世俗にドッポリ漬かってたら客体と主体あるねえ
すべては一つなんだとかどえらい物を俺も信じてるなあって
しみじみ感じる
特に今の時期なんか寒いし孤独が身に染みるわ
それが煩悩で二元でカルマなんだとか言われても
実際に他人だね
轢かれてる猫とかよく救急車のサイレン聞こえるが
やっぱり他者だからそこまで同情も痛みもわからない
主体と客体やっぱりあるねえ
主体意識はあるけど、客体意識ってあるのかな?
最初から猫や牛に生まれてたら
人間みたいに一日ただ働きをさせられても
損とか得とか考えないんだよな
ただ主人に撫でられたらそれで満足だみたいな
人生はそんな二元の思い込みばかりだから
悟るってのはそんな身体や五感に頼らないカルマを超えた境地なんだってのは少しは感じる
>>398 ハタヨーガやクンダリーニヨーガを修練すると瞑想の補助になります。
サットグルや聖地は自己の本質を浄化してくれます。
悟りの方法論については個人の縁ですから選べません。
仙道でも原始仏教でもアドヴァイタでも肉体が消失するまでは同様
そこから先が異なりますが悟りという点では同じこと。
先天的な本質の浄化は生まれ持った才能ですから
大方の人には関係ありません。
生きた人間のグルなしに真我を実現するラマナのようなごく一部の聖者だけです。
御心のままには瞑想の極意といいますか
心を静めて「私はだれか」と心中にて問うと
自我が中心に鎮まっていきます。
そこで自己の本質に対して「御心のままに」というかゆだねると
肉体の感覚が消えていくとともに自我が無くなって瞑想が成立します。
飲酒した場合のみ書き込むのでこれくらいで。
正直言って瞑想に関しての基礎的な学問が無い人に説明するのはめんどくさいです。
本を読む必要がないのはグルの前に座れる幸運な人だけですから
そうでないならもっと勉強しなさいな。
全ての方法は悟りへの一つながりですが、
個人の生まれた土地や学べる方法で重要度が異なってきます。
聖者の教え方が人によって変化していることを考えてみては。
あと語尾にwをつけるのは若人らしくて結構です。
若い人が瞑想を真面目に修練するのは良いことですから。
歳をとっているのに草を生やしているなら
もっと真面目に瞑想したほうがいいですよ。
飲酒してる奴が偉そうにw
いやいや、飲酒が悪っていうのは少し浅い考えじゃない?
だってラマナだって植物の命を絶って自分の命を繋いでたわけでしょ?
もちろん酒は飲まないに越したことはない。植物も殺さないに越したことはない。
でも、それが悟りに絶対必要な条件かというと、そうではないと思うんだな。
>>425 文章が下手だったから突っ込んだだけで、なんか答えてもらいたいとも
思ってなかったのでびっくりしました。
下手な文章だから、才能がすべて、と言ってるのかと思いまして。
そうじゃないなら内容的には同意です。っていうか、はじめから書くなって感じだなぁ。
もう返事はいらないですから、酒でも水道水でも好きなもの飲んでいてください。
あとあんまり飲みながらイライラすると健康に悪いですよw
おっと、こんな掲示板での語尾に目くじら立てないでね。
>>428 飲酒してる時しか書かないってことは、酒の勢い借りないと書き込み出来ないのか
普段は自分を律してるんだか何だか知らんけどそれを破って書いてる訳だろ。
どっちにしろ悟りを目指してるなら駄目じゃんw
客体意識と同化することなんて無理だし、客体意識を主体意識のように「在る」とは証明できないもんね。
なるほど、主体も客体もないわけだわww
悟りの道っていうのは、悟りをババと例えるなら、
ババのないババ抜きをやってるみたいなもんなんだろうな。それも一人きりで。
最後の最後にババ(真我)のみが残ると思いきや、実は何も残らなかったという、
プレイヤー(主体)と手札のトランプ(客体)、手札を場に全て捨てちゃったらプレイヤーもいなくなっちゃった、みたいなw
でもきっと、手札のペアを場に捨てずに抱え込んだまま「トランプこそが私(主体)だった」とそこで探求が終わっちゃったりとか、
ババ抜きでは飽き足らず今度は手札で7並べ始めちゃったりとかしてるんだろうなww
意識はある。主体意識、客体意識は無い。ヴィチャーラをちゃんとすればそれはわかる。
問題は、エゴが真我に対して抱く恐れをどう処理するかということかもしれない。エゴは消えたくない。死にたくない。失いたくない。
そのエゴに対して言ってやれることがあるとすれば、真実を基準に生きるものは錯誤を基準に生きるものよりも確実で実り豊かだ、ということだろう。
エゴはあらゆる観念の前提になっている。その錯誤が取り去られるのは、確かに容易なことではない。
主体客体はないけどエゴはあるの?
実り豊かだ、って錯誤してるのがエゴってこと?
>435
あなたが主体だと思っているものがエゴだ。エゴにとっては主体も客体もある。
実り豊かということについては、誰にとっての豊かさなのかを考えねばならない。エゴにとっての豊かさは錯誤に基づくものであり、真我にとっての豊かさと同じではない。
もちろん実際には、真我は完全であるが故に、何かを豊かだとか貧しいと思うことはない。重要なのは、あなたを捉えているエゴに対して、本当の豊かさとは何かを教えるということだ。その時、エゴは豊かになるというよりも、安らかになる。
>>436 エゴがエゴに錯誤を教えるとな?
というよりも単なる器官の作用なら教えるというよりは訓練、練習だよね。スポーツと一緒で。
狂い咲きの桜に錯誤していることを教えてやれば狂い咲きは治るのかな?
冥王星やら火星やらの衛星写真見て
地球のように地平線もあって
しかし生命は住めないような乾燥した無人の大地が
星によっては地球以上の大きさで広がって
あそこまでに行くまでに膨大な時間が費やさないといけないし
あんなのと俺は一つなのか?とか考えたら
本当に俺はとんでもないもの信じてるなあとか考えてしまうが
シャンカラやイエスやラマナは確かに悟り人だし
無想の神を信じるしかないよなあ
>437
エゴはただ学ぶ。教えるのは真我であるグルの役割だ。そして真我とあなたが同一であるとき、あなたはグルとしては教え、エゴとしては学ぶ。
武道や芸能において達人になった人々ならば、重要なのは訓練であることがはっきりとわかるだろう。それは最初は筋肉の訓練であり、次は神経の訓練であり、次いで全体的生命としての訓練があり、最終的には世界調和に対する訓練に至る。
狂い咲きの桜に対してであっても、もしあなたが桜に対して教えを施す適切な手段、訓練の方法を知っていれば、それは治る。
宇宙人というか他星の生命は真面目な科学者も
おそらく居るんじゃないか?とかマジで可能性ありうる
とか言ってたが
会ったことない他星の生命体
ようするにUFOに乗った宇宙人に会ったとして
まったく他人の他星の生命体に
あんたと本当は俺は一つなんだとかカミングアウトしたら
宇宙人もドン引きでするかも知れんな
>440
ワンネスとは真我にとってのものであって、あるエゴが別のエゴに対して「私とあなたはひとつだ」と言うのはおかしい。
この私とそのあなたはひとつの同一の基盤の上に成り立っているというだけで、決して同じものであるわけではない。
それは、一人の人間が操る二体の指人形が「お前は俺じゃないか」と話し合うように、人形の視点から言えば間違ったことだ。
エゴが真我との同一性を訴えることは妥当だけれど、エゴが別のエゴに対して同一性を訴えることは、相手のエゴにとって自意識の侵害と受け取られて当然だ。
>>439 なるほど。一人でいるのが淋しいから、トランプにババ抜きを教えたがるのがエゴってことね。
>442
その通り。ババ抜きをしようがしまいが、最初からカードは全て揃っている。
>>443 場に捨てとけ、って話だよな。わざわざ抱え込むなって。
ラマナってみんなが食料とか差し出して
教えを乞いたいと望まれるからこの世に居たけど
仮に砂漠地帯のような不毛の無人の大地に居たなら
深い瞑想に入ってさっさとこの世を去っていたのかな
徹底的に休んでみて感じたこと
なんか「私」って概念をコミュニティに依存させすぎちゃってるよねぇ。感じ方とか考え方とか…
↓
コミュニティを世界に変えてみると、感情でも思考でも世界(客体)に依存させてないと成り立たないよね…
↓
依存させてるも何も、世界の一部分なんじゃねーかそれらは…
↓
じゃあ、自分の身体含めた世界を意識してんのは何よ…
↓
私も世界もどこで起こってんのよ…
↓
(スクリーン…)
↓
スクリーン!?
↓
ここまできた。いらっとすることや、思い浮かぶたびに凹まされてた記憶やら感情やらの
重さをあまり感じなくなってきた。というか煩わされる感じが消えた。
まあ、酒が良くないものだってことはひしひしと感じるな・・・この人見てると
28 名前: 神も仏も名無しさん [sage] 投稿日: 2013/05/22(水) 22:51:32.18 ID:0tb2qohK
酒飲んでの発言だから日本語おかしくてもかんべんな。
飲酒を禁じているのはインド系宗教だけで
中華の丹道や日本の神仙道は飲酒しても問題ないから
酒飲んでるので間違ってるとか言うなよ
でラマナやイエスのような無師独悟で悟れる聖人は天才だ。
このスレでオタオタしている俺や君とは異なる。
シャカは悟りの寸前まで色々な仙人に弟子入りして
最後の詰めのところだけ、菩提樹の下で自力で行った。
あけわたすとして、いったい何にあけわたすの。
その結果として何が起きるのか考えているの。
先人の文献や体験から勉強したほうがいいよ。
543 名前: 神も仏も名無しさん [sage] 投稿日: 2013/10/02(水) 01:28:13.64 ID:msP2yEhH
まあどうでもいいや。
各人がつきたいグルについてやりたいように修行すればいいさ。
御心のままにだから好きにしろ。
このスレには酒を飲まない限りは
書き込まないからね。
酒飲んでるからダウトという人がまれにいるけれど
中華の神仙道や日本の神道では
学んでいる人が酒を飲むのは通常だよ。
448 :
神も仏も名無しさん:2014/02/14(金) 00:13:42.70 ID:cVaprxk+
538 名前: 神も仏も名無しさん [sage] 投稿日: 2013/10/02(水) 00:53:12.52 ID:msP2yEhH
悟った後に
その体験と必要な技術を伝えろ。
できない奴の妄想はいらないから。
545 名前: 神も仏も名無しさん [sage] 投稿日: 2013/10/02(水) 01:32:58.57 ID:msP2yEhH
失礼。
肉食や飲酒をやめることが助けになるのは
の間違いでした。
正直ふくいち産のセシウムと酒毒が回ってきているので
しばらく書き込みをやめます。
マジごめんなさい。
>>447 その人が何かを飲んでるところを見て、飲んでるものを味見してみて、
自分で酒だとわかったなんなら、それでいいと思う。
酒に罪はないと思う。
というか、ものそれそのものには何の罪も悪い属性もない。
イエスが「口から入るもので人を汚すものはなにもない」と言ったのは、たぶんそのことではないか。
ただ数ヶ月の間をおいて、ハンで押したように細部にわたって同じテーマを同じ態度で語るのは、
「普段から常にその考えが頭の中で渦巻いていた」からなのか、それとも「酒を飲んだから抑えていたその考えが顔をだした」からなのか。
その点だけは興味深い。後者ならまあ酒に飲まれてるわけだから、控えたほうがいいね。
でも、上の人はちがうだろう。
アルコールが精神に及ぼす作用そのものに罪はなくそれに影響されるかされないかは当事者次第だが、
「修行、瞑想、勉強、生活態度」に厳しいタイプの方だから、酒を飲んでも飲まれるなんてことはないだろう。
よく飲みにいくと、十八番のテーマを同じ口調で細部まで同じことを
演説し始める会社員がいる。「飲んでいるからかんべんな」みたいな。じゃあ飲むなよとも思わなくはない。だが彼は違う。
自分の飲酒を語る際に神仙思想を引き合いに出すほどだから、酒に飲まれているわけではないのは、確かなことだ。
もっともたちの悪い酔っ払いほど、自分は自分の酔いに自覚的だといいがちだが・・・
これはたちの悪い自称求道者ほど、自分は自分の思考や行動に自覚的だというのと似ている。
「御心のままにだからいわないつもりだったけど・・・」
と、思考や行動を管理下に置けているということをアピールしつつ実際は!みたいな。おっと、誰かみたいだね。
俺の目には会社員のオヤジが酔った時だけ普段の身の丈を忘れて壮大なことを語りだす醜態と
同レベルに見えちゃったのは、修行が足りないからかもしれないですね。
・・・つーか、本音を言おうか、あんた知識や修行体験と同一化してるだけでいっこも「御心のままに」できてないんだから、
いちいち「御心」で自分だけ許してないで、一からやり直せや!
事故などで記憶喪失になってから元に戻ったとき、その記憶喪失中の記憶がないということがあるそうだが、
じゃあそのとき「私」を動かしていたのは誰なんだろうか?
オカルト的には誰かが乗り移ってるとか、深層心理の人格が出てるとかになるんだろうけど、
アドヴァイタ的にはどういう回答になるの?
>>451 上書き保存がうまく機能してなかった。
他の部分はそれなりに機能してた。
>451
いや、オカルト的に言っても記憶の連続性と人格は直接関係ないと思うよ(´・_・`)
首都圏を襲ったこの歴史的豪雪の中、吉祥寺で修道会をやるのだという。
先日の大宮での勉強会が大雪のために中止になったため、経済的に困窮しているということだろう。
交通機関もまだ満足に稼働していない中、どれだけの人が集まるのかな?
すべてはみこころのまま、とか何とか、普段は涼しい顔で言っておきながら、なんともあこぎだね。
一人一万円の参加費でほんの数時間しゃべれば、普段ならそれだけで数十万の稼ぎになる。
神の名を語る悟りビジネス。やれやれ。
>>455 wordで文章を書いてたけど自動保存ができてなかったので
メモリがとんだら書いた文章が全部消えた。
屁が出た。
フルーティーな匂いがした。
覚醒したな。
458 :
神も仏も名無しさん:2014/02/17(月) 12:21:26.87 ID:hI5V860l
ヴィヴェーカーナンダの立派さは異常。
弟子を見ればその師がわかるというが・・・
459 :
神も仏も名無しさん:2014/02/18(火) 20:52:11.30 ID:QBVVsglJ
神が全てをやっているんだから、
失敗は無しな。
何が問題なのですか?
ラーマクリシュナもラマナもラメッシも同じことを言っている。
悟り人の視線ではそうなんだろなあ
俺はエゴ神から見て悪しき自我があるから不平不満ばかりだが
釈迦は自己の観察を徹底しろと2500年も前に説いたから驚くよ
自分より上位に何かを置いて、アレもダメこれもダメってやってんのもエゴだし、
喜びとか幸せもエゴでしょ。
感情の起伏があくまで仕組みに過ぎないとなれば、自己観察も雲を眺めるのも
何ら違いはないんじゃないかな。
エゴって捉え方もちょっとどうかなと思う。
>461
アメリカ人が研究を重ねて、宇宙でも使えるボールペンを開発。
一方、ロシア人はただ単にエンピツを使った。
っていう有名なジョークを思い出したよ。
問題はボールペンを開発するのにお金がどれだけ掛かったかってことだな。
463 :
神も仏も名無しさん:2014/02/21(金) 16:19:42.14 ID:dkuUKJxu
dat落ち回避
ヴィヴェーカーナンダはもしかしてバセドー氏病?
西川きよし病
ヴィヴェーカーナンダは、若い頃からけっこう重い糖尿病を患っていたらしい。
467 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 00:00:49.26 ID:PoAdLHBS
思考と距離を置くとか、思考している私に気づくとか言うことを、いろんな人が言っている。
それを試しているうちに、ほんの少しだけそれが身についたけど、
なんか「だから何?」と思ってしまうなぁ。
それより外的なあれこれが現実に自分にとって慰めになるし、そのあれこれが
手に入らないと、やっぱり寂しいし苦しい。
468 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 00:02:44.09 ID:JeWAHsbK
誰にも今の苦しみを話す相手がいないし、神に語りかけても返事もない。
「ここにいる」とも言ってくれない。ほんとにいるかどうかさえ教えてもくれない。
ただ苦しいだけ。
何かを成し遂げるのに膨大な時間がかかるとか思い込みだからね
イエスいわく神殿を三日で建てる
ラマナいわく悟るのは一瞬
実際に死なんか一瞬の出来ごとだから
高い所から足を踏み外せば死んでしまう
だから今しか無いんだよ
ただ今しか無いしそれが在るがままなんだよな
そこには理屈や哲学や理論も無いし思考すらも無い
俺たちにとっては思考すら無い今が一番正しい
実際神に語りかけたら、なんかリアクションあんのかね?
それは、君の内面に変化が起きるんだ!君も神の一部だから!みたいな心理テクニックの話?
話しかけてもノーリアクション、無愛想で無関心で慈悲も能も気の効いた気遣いも
できない神さま、聴いてますか?返事もできない?する気もない?俺みたいなもんには資格もない?
そっちからはきてくれないんだね。山ほどの信心か、星の数ほどの修行か、耐え切れないほどの苦しみがないと
存在も確かめられない神様ってハードル高いんですね。
何かを成し遂げたから得られる何かを求める自体が
エゴの思い込みだよ
一瞬一瞬の今だけが本当のリアルだと思うよ
今しか無いが本当正しいよ
>>470 でも私を真面目に探してみると、見つからないよ。
473 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 06:25:53.27 ID:9+7dXLTP
[砂の上の足跡」
ある晩、男が夢をみていた。
夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。
どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。 ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。
474 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 06:29:59.78 ID:9+7dXLTP
人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。
すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。
しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。
すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。
475 :
神も仏も名無しさん:2014/02/25(火) 07:03:38.30 ID:9+7dXLTP
「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。
しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。
私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」
神は答えられた。 「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。
あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」
>470
このイメージが役に立つかどうかわからないけど。
人差し指を一本伸ばして、それが一人の人間だと想像する。
そして、その人間が今、あなたに向かって「なんで俺なんか作ったんだ!」と文句を言う。
実際に、それが本当に生きた人格であるかのように想像して、その状況を試してほしい。
続きの言葉が思い浮かぶようなら、可能な限り思い浮かべて、指人形から自分へと、文句や問いかけを言い連ねてみてほしい。
その問いかけに対して、あなたはどう答える?
親指スターウォーズのステマ
神が自分に都合よく行動すると思ってる人って頭おかしいよね。
神を信じてるのに、神の行動にイチャモン付ける事がどういう事か分かってないw
そもそもジニャーニは神を信じないからなぁ。
信心というやつは、ジニャーニにとっては疑いに違い。それは要するに、知性と真実への献身なんだけど。
疑いに違い、じゃなくて疑いに近い、でした。
[砂の上の足跡」のたとえはいいな。古今東西そうしたテーマはあるんだね。
>>476俺なら「無力で申し訳ない」というかも
不二一元というのは単なる哲学、頭の体操では無く事実そのものと信じて
昔から瞑想や探求を続けてきた。
でも、どうしても自我を超える事ができない。
自分の肉体も含めて、世界が蜃気楼のように実体の無いものと認識され始めると
途端に、自我を失う気が狂いそうな死の恐怖に襲われて、それを超える事ができない。
同時に、自分は進むべき方向を間違えているのではないか?これは単なる心の病、
進む先に有るのは狂気に過ぎないのではないか?という激しい疑問が沸き起こる。
不二一元などというのは知を終わらせる為の方便に過ぎないのではないかとさえ思う。
たくさんの疑いが沸き起こって、信じていた物事が根底から揺らぐ。
もう本当に何も分からない。
師もいない、特定の団体にも属してしない、誰も道の途中の事は教えてくれない。
インドの賢者などと言われる人はヨーガ行者のように証を見せたりもしない。
もう何を信じて進めば良いかさえも分からない。
不二一元のヴェーダンタよりも、永遠なる神が確かに存在するという
ヨーガ行者の奉じるサーンキヤのほうが正しいのではないかとも思う。
これは個人的な願望でもあるけれども、どんなに不二一元の哲学を信じようとも
祈らずにはいられない。
真実はどうあれ、たった一人で道の果てまで歩み通す事は不可能と感じる。
そもそも悟りは突き詰めたらビッグバンとかダークマターとか
ブラックホールとか宇宙の果てとかそんな訳わからないもんだからね
夢の中の自分はこの世に居ながらドッペルゲンガーみたく
夢の中では実在してるし
実際にラマナやイエスの分身を見た人が居るらしいし
そういった人知を越えた訳わからないものを
少々の一回限りの人生で悟ろうとか無理ある
人は何回も何回も生まれかわるらしい
悟りといわれてる境地が本当にあるならば
そりゃ忌憚の無い客観的に考えてみて当たり前というか有り得るだろうね
進む方向は合っているが、単純に自我の未成熟、離欲の欠如からくる恐怖なのか、
進むべき方向がそもそも間違っている事からくる直感的恐怖なのか、
それだけでも知りたい。
アドヴァイタを信じるなら
俺たちはとんでもないものを相手にしてるなと
理解するべきだよ
イエスは死んだ後に生き返ったらしいが
そういった科学者や医者がひっくり返るような
人知を超えたとんでもない境地だと思うよ
神と等しく同一なら広大な宇宙すら味方なんだから
そういったことすら余裕でありうる
宇宙の神秘である悟りの境地の観点から見たら
エゴある人間で居続けるなら猿やチンパンジーとそんなには変わらないってことだよね
横からすまんが、なにか壮大な概念を抱え込んでないか?
「とんでもないもの」「わけわからないもの」
それが足かせにならなきゃいいが。枠組みをはずしてるつもりで。
>>482 俺も紙一枚隔てた世界へ行くことへの恐怖がある
まだこの世界が好きなんだろうと思う
好きでも嫌いでもない、通り過ぎる物だという認識になればいいのだろうか
>>482 大丈夫。君という主体意識がなくなっても、君の体は主体意識があるかのように振る舞うから。
>>488 それもそうだね
本当の自分すら知らないんだから困る
自分のことすらわかってないとか話にならないよ
この世界を好きでいて良いと思う。
私たちはマーヤーと呼ばれるものだから。
その本質はブラフマンでも、今は夢を見ている。
でも、いつかはこの一過性の現象世界から目を覚ましてしまうだろう。
それはきっと避けられないこと。だから、今はこのままでいい。
あなたが作ったこの世界を、好きでいて良い。
いつか目が覚めてしまう、その日まで。
493 :
神も仏も名無しさん:2014/02/27(木) 08:22:42.29 ID:fDk1k8n+
>>482 どんな瞑想してるんですか。
>不二一元のヴェーダンタよりも、永遠なる神が確かに存在するという
ヨーガ行者の奉じるサーンキヤのほうが正しいのではないかとも思う。
ヴェーダーンタでは、ブラフマン=アートマンが「永遠の神」ですよ。違いはないです。
>>493 内面に感じる光、これを心に映るアートマンの反映ではないかと観じて、それに集中したり
自分というものを構成している要素に集中して、自己ではないと識別していったり
誰に習ったとかではないので様々です
サーンキヤではプルシャは無限の数が存在するけれども、
その中で、ただ一つ特別なプルシャが存在すると主張しているはず
私は無限なる神の一分枝かもしれないけれど、私=無限なる神ではないですよ
その辺りがヴェーダンタとは違うのかと
自我が、目の前の世界が実際に存在する事を前提として構築されているために
リアルな認識として、その前提が根本から消える事態に恐怖を感じるのは仕方無い。
でも、それが本当に正しい道なのか全く確信が持てない。
欲が大きい為に失う恐怖は極端に大きく、完全な確信が持てないから恐怖に対峙する事もできない。
これが自分の現実、どうしようもない。
自性と真我は違うのね。同じことかと思ってたわ。
欲が大きいと信じているのは誰か
恐怖を感じているのは誰か
っていうと、それらも自我であって、
自我を超えようとしていても、その欲が大きいとかっていう部分に対しては、
これが私なのだ(だから超えられなくてもしかたない)
という引っかかりが起きてるのでは
>>494 私の自我、という捉え方が…
無自性である自我というユニットも世界とは不可分であるのなら、
世界が「世界は無い」と言うのは世界の働きによるものでしかない。
498 :
神も仏も名無しさん:2014/02/28(金) 05:56:13.42 ID:+yxE8+3+
>>494 難しそうな瞑想ですね。ラマナ・マハルシの方法を試してみたらどうでしょうか。もっと簡単だと思います。
ヴェーダーンタにも「神」と呼ばれるものがいるということが言いたかっただけです。サンキーヤはプルシャが
最終的に神に溶け込まないのでしょうか。あまり詳しくないので。
自我が消えてなくなるのが怖いというのは、なにか無みたいなのを想像しているのでしょうか。
「我々が眠る時、自我は一時的になくなりますが、誰も怖がりません。だから、なぜ自我がなく
なるのを怖がるのですか」、みたいな話をマハルシがしていました。
虚偽の「私」がなくなれば、真実の「私」が現れるので、心配ないと思いますよ。
>「我々が眠る時、自我は一時的になくなりますが、誰も怖がりません。だから、なぜ自我がなく
>なるのを怖がるのですか」
この例え、たまにみるけど、俺は十分怖いんだが・・・今日から意識不明の植物状態になれといわれたらやはり怖い
植物状態に成って家族に迷惑掛けるのが嫌だと言うなら分かる。
ただ、死んだり植物状態に成る事自体は、本人には認識出来ない事だから
恐れる事は無いと思うな。
>>499 眠るまでだからね。
眠った後も自意識が永遠に働き続けるというのなら、そっちの方が怖いと思うけど。
私という想念が消えたり現れたりするもので本当によかったよw
植物状態になっても意識ははっきりしているLocked in syndromeという状態になることもあるので、
意識不明になって眠っているのなら、そちらのほうが幸運だとは思う
しかし、ラマナは通常の眠りと覚醒した眠りの違いについて、
後者には意識がある、と言っていた。「ラマナ・マハルシの教え」のQ&Aで。
意識はあっても自我はない、それが目覚めと認識してたけどね。
色んな意見をもらって考えるに、自我が私だという根深い信が問題なのかなと思いました。
なんというか頭の中の思考と現実の経験は、やはり全くの別物ですよ。
例えば、親しい人を失えば悲しみがおこり、中には自殺してしまう人までいる。
拘禁反応なんていう言葉がありますが、凶悪な殺人を犯すような人間でさえも
刑務所に閉じ込められるだけで頭がおかしくなる。
なぜ、こういう事が起こるかといえば、自我そのものが目の前の現実との関係性から
構築されているからなんですよね。
通常は想像したり、考えたりするだけで自殺したり、頭がおかしくなったりはしない。
けれども、現実にほんの少し世界との関係性が変化するだけでも、こういう事が起きる。
現実の、リアリティそのものの転換って、それ以上のショックが起こります。
自我の前提そのものが消えかかる時に、
ハイそうですかと、明け渡すことには、なかなかならないですよw
それができるのって、貴方は一時間後に死にますと宣告されて、
分かりましたって、ニッコリと微笑みながら、受け入れられる人だと思う。
だから悟りとは光子みたいに同時に2か所にドッペルゲンガー現れたり訳わからんものだと思う
この世では寝てるだけでも夢の中では別世界に居るみたいな
それが夢を見させる主体も客体も無いのが本当の自分で
その自分すら知らないのが悟りなんだから
更に訳わからんが信じるしかないのが信仰
>>504 そら目の前の現実と自我は分け隔てることのできないひとつのものだから、
そういう「私」としての想念の中に自性を見ることができないわけで。
「私は誰か」とは想念が起こるたびに行う無自性の確認でもあるんじゃないのかな。
>505
確かに、信仰であろうと学問であろうと、信心をあてにしないとどうもならんという部分はあるね。そんなの無駄と言われたらそれまでだし。
ヴィチャーラは真実へ突き進む勇気、真実への絶対的信頼がないと、最後まで進み切れないのかもしれない。
燃えている炎の中に飛び込めば悟りが開けるよ、と言われて、はいそうですかと炎の中に入っていく人はなかなか居ないよね。
じゃあどうすればいいかというと、まずは真実への信頼を養う必要があるね。
龍神スレがあるね。この板。
雷神スレは?
510 :
【末吉】 :2014/03/01(土) 19:09:53.56 ID:WodMcQoU
もうすぐグルに会えますように
511 :
神も仏も名無しさん:2014/03/02(日) 00:18:10.22 ID:Sh+GD9mH
意識とは真我が表面化したものだ。
意識が岩盤のような自我を突き抜けて自己の核心に到達したときに真我と出会う。
そのとき、自己に内も外もないことに気づくだろう。
岩盤のような自我と言いつつ、実は岩盤のような私。
眠ったら消える岩盤。どこにあるの?
意識が真我と出会ったあとで後ろを振り向いたとき、岩盤は実はなかったということに気づく。
それまでは強固な岩盤があるように見えていた。
すべては自作自演だったのだ。
自作も自演もできない私。
何を考え何を感じようが、私ではない。意識の私などない。
自意識が自作自演をしているのだ。
自意識が自我というストーリーを抱えている。
これが岩盤なのだ。
だが、同時に自意識は真我と出会える。
真我と出会ったとき、自作自演は終わる。
ただあるがままにあるものを自作自演と見做しているのは誰か。
あるがままをまるで私の仕事のように言いふらしているのは誰か。
どこにいる?何と出会えるのか?
真我と「あるがまま」とは同義だ。
真我と出会えば、そこに「あるがまま」がある。
「私は誰か」という問いにより自我の岩盤が掘削される。
掘削し続ければ真我と出会えるが、これは簡単なことではない。
だが、真我と出会えばあなたは自由になれる。
本来の場所に帰ったのだ。
そことは何処なのか?そこへ向かおうとしているのは誰か?
その誰かはどこにいるのか?
問い続けるがよい。
問い続ければ真我と出会えるであろう。
いつかは誰も気づくはず
天国・地獄のある処
すべては夢が作り出す
地上の舞台の幻世界
今までも自我の掘削などという、するべきことなど何もなかった。
これからも、するべきことなど何もない。
あるがままにあり、何もしていなかった。
問いたければ問えばよい。
なにもしないのならばなにもしなければよい。
真我と出会うのに決まった道はない。
真我と出会う道など、どこにもなかった。
出会う者、出会おうとする者は、どこにもいなかった。
今、あなたは問いを手放した。
だが、私は問い続けるだろう。
「私は誰か」と。
え?無自性に主体はないよ。誰なんていないんだよw
悟りは一瞬にして起こるというのは本当のようだ。
今夜のこの短い時間に問いを捨て真我を実現した方がいる。
この場に居合わせた私は幸運であった。
言葉遊びが大好きなようだ
>>526 無自性って、よく分からないけど仏教の言葉かな?
空というものだろうか?
インド哲学は空ではないよ。
ブラフマンはサット・チット・アーナンダといわれている。
それは実在そのもの。
仏教のいう空というのは
世界とそれを作り出す心そのものの事を指しているのではないかな?
自性で検索すると、プラクリティの和訳と出てきたりするし、
何にせよインド哲学で仏教用語を使うとかなり混乱すると思う。
>>531 混乱させちゃった?ごめんね。
まあ、定義と用語があるから混乱しちゃうんだよね。
これまで私だと定義付けていたものが非実在だった、という理解は共通してんだろね。
意識って何なんだろね?
たぶん本当に自分のことすらよく解らずに死んでいくんだろなって気はする
神が用意したものに抗うなってことなのかな?
その流れに抗うのがエゴで
宇宙にあるワームホールは飛び込まないと行き先はどこなのかわからかない一方通行らしい
行き先は天国だと信じるしかないね
なんだろう、俺の死のイメージというのは、なべの中で沸騰した泡が、はじけて消えるようなもので、
また同じ場所に同じ泡が生まれる。それが永遠に繰り返される。だから、それは輪廻なんだけど、
それは泡に自分のアイデンティティーを感じてるからであって、自分の本質が泡ではなく、お湯のほうだと悟れば、
もうどんなに泡が生まれて消えようとそれは輪廻ではなくなる。
そして、なべの中では繰り返し泡が生まれて消えるけど、お湯の量は変わらず、不生不滅、永遠の命は変わらない。
時間も幻想で、相変わらず、なべはそのまま静か。
まあティク・ナット・ハンの本だかに書いてあったようなことだけど。
心ってあれか、主体と客体の隙間とか、原因と結果の隙間とか、とにかくいろんな隙間を解釈して
定義づけるために考えられた概念か。
今ひらめいた。
いまの自分とは、大元から投射された一つの考え(試み)で、そのことが自覚できない内は何度でも違う考えを試そうとする
あるいはもう試されているので、スライドするように次の(別の)考えの結果を「見る」ことになる
生まれ変わりが繰り返されるというのはこういうことだ
って思いました
私と世界が分かれた隙間、つまり心は単なるアイデアだったんだな。
>537
心が隙間っていうのは面白い見方だね。その通りだと思う。
わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
本当の自分すら解らず死んでいく気がするが
たぶんそれで死んだら動物とそんなに変わらないんだろな
悟りとはは宇宙の神秘だから
何回も輪廻せんとわからないよなあ
プランクトンみたいな単細胞生物は宇宙のあちこちに
居る可能性が在るらしいし
プランクトンよりは我々は少なくとも悟ってるだろうから
それで良いとしないといけないな
人生に妥協は必要
>540
プランクトンより悟ってる?そうなのかな?俺はそうは思わないな。
変な例えかもしれないけど、人間とプランクトンの違いは、オーケストラの演奏と独奏の違いみたいなものだと思う。
独奏にも合奏にも、整って美しい音楽や、滅茶苦茶でまとまりのない音楽がある。
ラマナは悟った牛が居たって話をしてるし。
ラマナの教えは深遠だけど、深遠すぎて触れにくい部分があると思う。
それで、何がそこまでの道を補完してくれるかなと考えると、同じジニャーニであるクリシュナムルティの教えが適切だと思う。例えば欲望をいかに扱うかという問題について、クリシュナムルティはこう述べている。
「欲望の理解−抑圧ではなく、理解−がなければ、人は決して適応や恐怖から自由になることはできないでしょう。あなたが何かを抑圧するとき、何が起こるかご存知でしょう。あなたのハートが駄目になるのです!あなたは修行僧、僧侶や尼僧を見たことがありますか?
〜中略〜
彼らはいつ果てるともなく愛について語ります。そして内部では彼らは(抑えつけられた欲望で)沸き立っているのです。彼らの欲望は決して満たされず、理解されることはありません」
多分、ラマナは到達点を厳然と示している。クリシュナムルティは、赤子に歩き方を教えている。そういう違いだと思う。
クリシュナムルティが嫌いな人がいたらごめんなさいね。
>>542 エゴあるいはカルマへのアプローチ、意識できる自己と意識していない自己の境界をコンプレックスという側面から
説明している感じになるのかな。
意識を分割すること自体、見て見ぬふりをしていることにつながるのだろうけれど、
論理を梯子にして見て見ぬふりをやめるという遠回りなアプローチよりも、もっと直接的な
アプローチがあることを示唆しているということでしょうかね。
アプローチをしないことがアプローチである、みたいなw
「自己の成長」という義務を一旦脇に置いてみる、ということかな。
「私」を規定し、行為・活動をその規定元に還元する働きによって「私」を拡大させてゆく取り組みと
「意識」の同一化を外してみる、みたいな。
身体を私と見做す、ってのは、単に意識に上りやすい現象ってことなんだろうね。
一日前からインフルエンザのような症状が出ているんだけど、
頭痛、吐き気、腹痛、関節痛、だるさ、熱っぽさを感じてはいるが、精神的にはなぜか落ち着いてしまってる。
いつもなら、身体の感覚に精神が引きずられてしまい、身体をどうにかしようと真っ向勝負で苦しんでる感じなんだけど、
今回はやたらと精神が明瞭というか、ちっとも苦にならなくてちょっと不思議w
本当によりよく考えてみたら意識って何なんだろな
おでこのメガネや燈台下暗しみたいな
ありふれた日常だからいまいち考えないけど
本当の自分すらよくわからずに死んでいく輪廻とか
もしそうならばみじめな人生かもね
うーん
問題の起こったコンピュータが問題を解決しようと計算を繰り返したら問題はなくなるのか?
おかしくなったコンピュータでいくらやったところで複雑にするだけ
無駄だと思うが
にしてもお前ら諦めないよね
どうにかこうにか仕組みを解明して自分を良い状態にしようと頑張っている
それはエゴそのもの
生きてたら重力とかあるから逆らったら重たいし
悟ったらそんなものからも開放されるなら
本当の意識=真我には形無いことになるね
自由なんだけどその自由には気付いてないみたいな感じなのかなあ
>>548 まったくそうだよね
目覚めた眠りとか
我々の日常の常識とは別世界の話をしてると思う
絶対に諦めるべきではない
刺さったトゲを抜く為には、もう一つのトゲを使う必要がある
しかし、トゲを抜いた後には、もう一つのトゲも捨て去られる、という話を聞いた事がある
心を超える為には、心の働きが必要なのだ
いきなり、そのように認識してもいないのに、アートマン以外の何者も存在しない、などと言う事はできない。
それは他人を偽り、自分自身をも偽る事だ
心を奮い立たせて、アートマンを探求するサムスカーラを作り出さねばならない
諦めるべきだとか、あるがままだ、などと言って、タマスと、グナを超越した状態を混同すべきではない
>>548 その点はそうだね。
進歩したい成長したいって欲求が当たり前にあることには気づきにくい。
>>550 んでも、日常生活を送っているあなたの体だって、他からの影響をまったく遮断してしまったら
絶対に存在できないでしょ。
554 :
神も仏も名無しさん:2014/03/05(水) 00:35:29.01 ID:MVex4rvv
>>551 ラマナもプンジャジもそれ言ってるよね。
梵我一如っていうのは、エゴが、動かすことのできない確信に辿り着くことなんだろうね。
そのときは、真我についてもう何の疑いもない。疑いを持つことができない。だってそうなんだもん、っていう。
じゃあ確信ってなんだろう?それは何でできてる?どんな構造をしてる?
556 :
神も仏も名無しさん:2014/03/05(水) 06:49:12.03 ID:aCCfQCcg
>>555 いわゆるヨガ行者のいう宇宙意識っていうのかな
昔はそういうのに憧れていた
でも海外で薬物やったりした人の話なんかを聞くと
宇宙から世界を見ていたとか、同じような事を言うんだよね
信仰も持たず、哲学にも興味が無いような人が
自分は瞑想や探求を続けて、
薬物で簡単に得られるような経験を探し求めているんだろうか?
いや、瞑想で得られる経験と薬物で得られる経験は別なのだ
などと、当時は疑問に思いつつも、そのように自分に言い聞かせたりもした
でも、それを見出せば全てが終わるところの自己の真実
それをラマナは言っているような気がしてならない
>557
薬物で、悟りにかなり近い感覚を経験する人は居ると思う。でもそれは永続しないし、他人に説明することもできない。自分自身の感性とさえ調和しない。結局は異物なのだから。
とは言え、薬物がもたらす統合失調状態は、悟りというものの核心にかなり迫っていると思う。
Inessと統合というものの関係は非常に深い、ような気がする。
>>558 思うに、いわゆる宇宙意識などという事が言われはじめたのは最近のこと
人類が宇宙というものを認識し始めてからじゃないかな
そうでなければ、聖典に物理的宇宙についても詳細な記述が残っていると思う
つまり、それは、その人が最も好ましいと感じる姿で現れたアートマンなのでは
物理的にしか物事を経験し得ない状態よりは遥かに高い境地には違いないだろうけれども
ラマナはそういう事は一切言わないので、昔は少し懐疑的な見方をしていたけれど
結局は自分自身がそういう派手な事を求めていたに過ぎないのかなと思ったりもする
でもきっとそれは素晴らしい体験なのだろうし、やはり憧れは残っている
それ自体、自我を作り出す欲望なのだろうけれど・・
カルマがあるから重たい物を持ったら重たい不自由があるなら
カルマって一体何なんだろね?
意識は何なのか?ってのと同じくらい身近なのに(謎)な存在
しかもそんなのの本質を知らず解らず
私は死んでいくんだろなあ〜ってのは何となく予想できるから困る
ラーマクリシュナが、よりによって
カーリーを拝んでいたのが、いかにも神の遊びだな。
ただ勤めることになったのが、カーリー寺院だっただけの話だけど。
熊は交尾したいから子連れの雌熊の子供を襲って殺すらしいが
自分が何してるかもわかってないそれが罪それがカルマなら
その連鎖からの開放は容易じゃないから困る
ただイエスは行いや律法ではない信仰こそ大事なのだと説いたのだから
最悪の行動をしながらも思いや意識はそれだけ大事なんだろう
薬物で簡単に悟りに近い経験をしたのか、
それともその人にいいカルマがあったから、
その瞬間に薬物を使って悟りに近い経験をすることになっていたのか。
でも薬をやめたら、元のしょーもない人間に戻るだけだしな。
>562
現代の日本に生まれたって言うだけでも相当なカルマだよね。
ラマナは草一本手折るのも許さなかったっていうけど、それを聞くと自分のカルマの重さは途方もないように感じる。
相変わらず肉は食べたい。でも、ちょっとだけ迷う部分もある。食べ物を買う度に、肉食をやめれば世界の食糧問題が解決する、という話が頭をよぎる。
肉を食べたいというのも本心だし、肉を食べなければ誰かを幸せにできるかもという期待も本心だ。
このバランスが良い方に変わっていく要因があるとしたら、やっぱり信仰なのかな。
>564
で、しょーもない人間でいることに耐えられなくなって、薬を求める。薬の中には充実があるから、いつまでもそこにいたいと思ってしまう・・・恐ろしいな。
567 :
神も仏も名無しさん:2014/03/06(木) 09:45:42.79 ID:oS+R1Uui
どんな体験にも始まりがあり終わりがある
始まりがあり終わりがあるいかなる体験も最後のものではない
体験する者は誰なのか
表層・深層を問わず体験したいという欲望が完全に終わらなくてはならない
顕現するものも非顕現のものも対象である限りそれらは欲望の対象であり、プラクリティである
プラクリティを見るものがプルシャでありアートマンである
派手であれ地味であれ超越的であれ内在的であれプラクリティを
見たい体験したい知りたいという思いがある限り、人はマーヤーの虜なのである
体験を終わらせるのが瞑想であって超越を体験する瞑想はその過程の一部分である
薬物やらずに悟りとはこういうものかと実感できる経験したことがあるので、
薬物に頼ってそれを得るのは、薬物がないと悟れないという状況を引き起こしたり、
薬物中毒=悟り中毒(悟りたいという執着)に陥る危険を増すだけだと思う
ついでに薬物で一時的な悟りが体験できるようになったら、誰も永続する悟りを求めなくなるのではとも思う
それは、精神安定剤を使って一時的に他人に優しくなるのに似てる
>568
薬で悟りに近づいた人に、永続する悟りという発想はなさそうだ。
調和から目を覚ませば、渇いてひりひりする地獄が待っている。
だから何度でも、一時的な悟りを繰り返し体験しようとする。例え身体や社会性が滅んでも。
ただそれって、ヨーギとか禅者についても同じ問題があるのかもしれないけど。
感受の感と受を分けてみると、無自覚かつ散漫な受が意識されるね。
阿 呆
なぜ憎しみを広げる必要があるのかわからない。何故だろう?本当に無意味なことだ。
やはり、人間は何か根本的な欠陥を抱えているのだろうか。
それは誰を基準に完璧といってるの?
単に「人間には成長の余地がある」とでも言えばいいじゃん。
>573
そう言っても良いね。なんとなく、人間が持つ自意識というものの(相対的な)奇妙さ、奇抜さを強調してみたくなったんだよ。
何のために?
>575
エゴの軋轢を解消する道を模索するため。
意味の、前提となる主体、を、あえて想定するなら。
エゴとエゴの軋轢ですわな
578 :
神も仏も名無しさん:2014/03/09(日) 23:45:39.92 ID:sMbd+LMF
薬物で悟れるはずがない。悟りとは脳の機能を限りなく0に近づけるもの。
対して薬物は脳のホルモンに近い化学物質を入れる事によって意識を拡大
するもの。薬物で悟ったなんぞと言っているのはただの「妄想」
579 :
神も仏も名無しさん:2014/03/09(日) 23:48:08.87 ID:sMbd+LMF
ここも、数年前までは面白かったが、最近妙な連中が入り込んでもうだめだね。
薬物での悟りなんぞがまじめに語られるようじゃぁ…
サイケデリックバンドでもやったら?
>578
真我は拡大しない。意識は拡大しない。薬物によって変化するのは"自己"という認識の枠組みだ。
意識そのものは常にある。貴方がそれを認識していようといまいと。
薬物で悟りが実現するかどうかは、悟りというものをどう定義するかによる。ラマナは、呼吸法や瞑想による忘我は一時的なもので完全ではないと言っている。
それと同じように、薬物による自己概念の崩壊も、一時的なもので完全ではない。
目覚めているときの意識、自己という意識のまとまりに真理を包含させることでしか、永続する悟りに辿り着くことはできない。
あなたは到達可能な最高地点を悟りと呼んでいる。私は他の手段でも体験可能な忘我も含めて悟りと呼んでいる。
ここに認識の相違が生まれる。別にあなたの考えも私の考えも、そう変わりはしない。
581 :
神も仏も名無しさん:2014/03/10(月) 01:27:29.01 ID:qxbfbSfZ
全然違う。薬物の使用は犯罪であり、肉体を破壊する。そんな「忘我」が悟り
なら、毎日の睡眠も悟りだなぁww 「悟り」の定義にはまだ微妙な範囲がある
としても、それは、少なくとも人間にとって価値のあるもの。反社会的でない
ものであるべきだ。薬物による「気の迷い」は悟りへの契機どころか、人を間逆
の方向、破滅へと導く。その証拠におまいの言葉はわけが分からんwww
おまいはただのいんちき詐欺師にすぎない。
メルセデスベンツの広告で
瞑想してる坊さんの周りでベンツ走らせて脳波が乱れるってのがあったが
本当にこの手のもんてなんの役に立つのか分からん
事故でおかしくなったラマナ以外でありえるのかね
そもそもラマナは努力したわけじゃないし教えることも道筋を示すこともできないんだよな
>581
つまりあなたは、悟りは「人間にとって」価値あるもので、社会的であるべきだと思うわけだ。しかもそれは犯罪ではなく、肉体を破壊することもない、と。
人間とは何か?
社会とは何か?
犯罪かそうでないかは誰が決めるのか?
肉体の健康とは何か?
これらは皆作られたものの見方で、固定観念としてあなたの思考に定着している。
悟りが「どうあるべきか」ということを考えているとき、あなたは悟りのなんたるかを知っているわけではなく、自分自身でそれを規定しているのだ。それでは真実が見えない。
悟りとは世界調和の問題で、人間という生物学的定義に該当する物体がどう生存すべきかというような問題では決してない。
そして、あなたが指摘しているとおり、眠りの状態と梵我一如には確かにある類似性がある。
目覚めと眠り、そして悟り。これらの類似性は、機械と猿のどちらがより人間に似ているかということと同じで、ある点では目覚めのほうがより悟りに近く、ある点では眠りの方がより悟りに近い。
ついでに教えておくと、あなたは薬物というキーワードにあまりにも過敏に反応しすぎている。
私自身、薬物では完全な悟りに至ることがないということははっきり言っているし、誰かに薬物の使用を勧めているわけでもない。
>582
ラマナが独特なのは、彼が解法を知らずに答えを知ったことで、却って彼が答えから解法を逆算するようになったことだろう。
だから、教える相手の知識量や状況に応じて、ラマナの説明は異なっている。
数学から話さなければならない相手もいれば、算数から話さなければならない相手、文字の読み書きから話さなければならない相手もいる。
悟りに意味があるかという問題は、時計やカレンダーに意味があるかないかという問題と同じだ。
真実はある。時間は流れる。それを認識するべきかそうでないかは、その人の感性による。
>草一本手折るのも許さなかった
それでも飯って70歳まで長生きしてる
若い頃は飢えを凌ぐため、アルナチュラ周辺の村々を
必死に托鉢していた時期もある
まあ、破滅的な方法は論外だわな。
無駄に行間空けるのも勘弁だけど。
ラマナよ
オマエは自分の褌一本すら作り出せない
食べ物も住いも寝床も、水さえも、
すべて他の存在がオマエに与えてくれた物だ
重々無尽、相即相入、円融無碍
>585、587
正確に書くならば、ラマナは、自分に捧げるために人々が花を手折るのを、許さなかった。
このスレッドに来るような人は知ってることだろうと思ったから、端折って書いてしまった。私の思い違いだね。
殺生を否定することと、無益な殺生を否定することではとても大きな差がある。それはあなたが仏教徒ならわかるよね。
589 :
神も仏も名無しさん:2014/03/10(月) 18:31:47.22 ID:AzQFzXzj
>589
ゴルフ歴みたいに言いますね。長くないですよ。
591 :
神も仏も名無しさん:2014/03/10(月) 20:31:50.10 ID:yehAo3lb
>>590 そうですか。
そういえば、薬といってもインドではアーユルヴェーダにある厳密な方法で作られるようですから、
日本の繁華街で売ってるのを飲んでも、よくないかもしれませんね。クスリはリスクですよ。
592 :
神も仏も名無しさん:2014/03/10(月) 20:36:56.16 ID:yehAo3lb
ああ、もちろんあなたが勧めてるわけではないですが、話のついでとして触れました。
薬にも色々種類がありますからね。
ちょうど、事故にも色々種類があるように。
なんか酔ってるときにしか来ないクンがきてそうなムード
ていうか薬使うにしろ瞑想するにしろ、なにか到達した境地があったとして、
その境地すら「ただの体験」に過ぎないんじゃないの?
ハワイにしろドヤ街にしろ、どちらも「体験」に過ぎないという点では同じ。
ハワイに永住できたら幸せだけど、誰もがそれはできないし、それができても悟りとは言わない。
環境がハワイでもドヤ街でも、体験は自分ではないんだから、それを眺めるだけだと。
神から見たら広い宇宙ですら戯れならば
そんな宇宙より遥かに凄い究極の真理を悟った人が
ラマナだったなら凄すぎるよね
>>595 >>ハワイにしろドヤ街にしろ、どちらも「体験」に過ぎないという点では同じ。
本当にその境地に至ったなら悟りは自然と訪れるのではないかな
もはや完全に自我を超えてる
>596
別にすごくない。
もう少し立体的に見れないだろうか?2次元では途方もないと思えることも、3次元では簡単に解決することがある。
例えば、一枚の紙にマジックで2つの点を打つ。この2つの点を、間に線を引かずに繋げるにはどうしたら良いか?
これは悟りとは何の関係もない知的課題だけど、何かの参考になるかもしれないから考えてみると良い。
>>597 ハワイもドヤ街も違いはあるけど、
違いようがないことって何よ?ということだろうね。
クスリクスリっていうけど食べ物でも飲み物でも身体に入れるという意味ではクスリと同じ
もちろんクスリを擁護じゃなくて食べ物でも飲み物でもクスリと 同じようにきちんとしたほうがいいと思う
アルコールだのカフェインだの刺激物だのはまんまクスリみたいなもんだし
別に完全に心身に悪影響を与えないクスリがあるなら、それを
使ったっていいと思うが、それで得た体験は定着しない、一過性のものではないかな。
河合隼雄はそれを「サイトシーイング(観光)みたいなもの」と言っていた。
瞑想、修行による悟り体験にしても、その一瞥が人間を変えることもあれば、それがかえって執着を
呼び自我を強固にしてしまうこともある。「俺は悟ったんだしね、なに言ってもお前らとは違う」
という人がこの板にもたくさんいる。変な教祖もそうでしょう。
チベット仏教の僧が、「境地ですら過ぎ行く“体験”に過ぎない」といっていた。
その点、浄土宗の妙公人なんて、本人は悪のまま、でも大きな何かに救われているという。
地獄でそのまま浄土、とか。煩悩は湧き出てるが、そこにアイデンティティをおかず、
自分は神に救われているほうの自分、みたいな・・・
というのも全て憶測だけどね。
憶測かよ!って悟るまではみんなそうだろうなw
>>601 >>瞑想、修行による悟り体験にしても、その一瞥が人間を変えることもあれば、それがかえって執着を
>>呼び自我を強固にしてしまうこともある。「俺は悟ったんだしね、なに言ってもお前らとは違う」
>>という人がこの板にもたくさんいる。変な教祖もそうでしょう。
それは本当にそう思う
完全に同意
オウムの麻原も、どうして自分が解脱したと分かるのか?といった質問に対して
「瞑想中にたくさんの仏様が降りてきて祝福されたからだ」とか言ってたみたいだけど
たぶん完全に嘘ではないんだろうなぁ、と思う
そんな体験があれば、麻原ほど行動力が無くても、舞い上がって
誰かに吹聴したり、誰かに持ち上げられたりしようものなら、
グルを自称して、誰かの師になってしまったりするんだろうなぁ
麻原だけじゃなくて、TVを賑わした自称グルとかもいるよね
たぶん、そういった人も何がしかの真実に近い体験は本当にあったんだろうね
結果的に、自我を強固にして身の破滅につながったけど
霊的なうぬぼれって気付きにくいし、本当に恐いなと思う
人殺しを示唆した時点で周りは気づくけどな
周りじゃなくて自分自身で気付きにくいって事だよ
>>604 たぶん人殺しを示唆「された側」にも何がしかの「体験」はあったのでは。
だとしたら、教祖や教団で共有した「共同幻想」から逃れるのは、内部にあって難しいだろうね。
>>605 以前、新聞で読んだんだけど、オウム脱会者を受け入れてる寺があって、
そこの僧侶も、修行中に見性した経験があった。それで、「自分は悟った」と
うぬぼれていたら、先輩僧侶にボコボコに鼻っ柱を折られたそう。
「だけど、それだけインパクトのある体験だった。麻原もそういう体験を
したのでは。だとしたら自分が悟ったと勘違いしても無理ないですね」
とはその僧侶の弁。
たしかユング心理学で神秘体験後に自分が何かえらくなったように感じるのを「自我肥大」とか
定義つけてた。
アジャシャンティって人が「大いなる恩寵に包まれて」って本で覚醒後のあり方を書いてるらしいけど、
チベット仏教や禅なんか、けっこう慎重に覚醒体験と悟りをあつかってるんだよね
なにをいってるかわからないインドの爺さんを、お前らよくここまで持ち上げられるよな。
このじいさんは「悟った」のか?
俺はそうは思わないな。
少し言葉が過ぎたとは思うが、私はマハルシを信奉せず彼のあとを追う気もない。
「悟り」とは極めて個人的なものであって、誰も他人にそれを広められるものではない。
いくら彼のあとを追ったところであなた方は悟らない。
悟った人は「私は悟った」とは言わない。ただ静かにこの世界から消えるだけだ。
マハルシが悟ったのかどうかは知らないが、彼が仮に悟っていたとしてもそれは彼自身のことであって、我々にはなんの関係もないことだ。
>607
物理学者にとってアインシュタインは偉大な人物だけど、
一般人からしたらただの気が狂ったわけわからんおっさんだ。
あなたはもう少し、自分の執着の構造に気付いた方が良い。
葛藤は、二つのエネルギーの間で生まれる。
あなたにはラマナの言う事が解からなくて悔しいという気持ちと、
ラマナのように超越的な理解にまで至りたいという矛盾した気持ちがある。
その葛藤から、「欲しくても手の届かないブドウを、どうせ酸っぱくて
まずいはずと決めつけるキツネ」のような心が生まれる。
多分、自分を律するために、習慣的に自分の弱みを否定して
覆い隠してきたんだろう。眼を開いて、それを受け入れるべきだ。
強い部分も弱い部分も、全てあなたなんだよ。
この世界、この時空にたった一度だけ生まれた、唯一の、大事なあなただ。
私には悔しいという気持ちはない。
冷静に見てみると、マハルシのしたことは「真我」という観念を信奉者たちに提供し、当時の信奉者たちとともにこの観念を強化しただけだ。
何言ってるかわからないとか言うが
ラマナは沈黙の聖者と呼ばれてて本当にあまり喋らなかったらしいが
何年にも渡る語録集を読んだ者はそんな印象を持つのも無理ないかもね
>610
>私には悔しいという気持ちはない。
ならそんなわけわからん爺さんのことはほっとけ。
それとも、その爺さんの周りに人が集まってるのが気に食わない?
仲間に入りたいの?
あなた方はそろそろハッキリと自覚すべきだ。
なにをしても仕方がないし、なにを語っても仕方がない。なにを考えても仕方がないということを。
なにをいっているかわからないインドのじいさんの話をなんとかわかろうと無理な努力をしているのがあなた方なのだ。
あなた方はそろそろその不毛さに気づくべきだ。
マハルシが本当に沈黙の聖者であったのならば、本当になにも一言も語るべきではなかった。
そうであれば、我々はそこになんらかのものを汲み取る余地もあっただろう。
余計なことを語ったことで、彼はあなた方をミスリードしてしまった。
いかにも、何をしても仕方がない。当然だ。それこそ真実だ。
それで、何であなたは、そんな自明のことを敢えて宣言したいんだ?
617 :
神も仏も名無しさん:2014/03/12(水) 06:04:37.80 ID:FaA6sSzz
聖者に信が湧くのも、善行のおかげのようですよ。そういう人はラッキーですね。
ところで、沈黙の聖者と言われているのは、心が真我に溶け込んでいることを意味してるのですよ。
それが本当の沈黙で、言葉をしゃべるかどうかの問題でなくて。もちろん、マハルシは余計な話はしま
せんでしたが。
歴史的に聖者として不朽の名声があるシャンカラも「何を言ってるか分からない」ことを言ってるんですけどね。
>>614 何かをしている主体がある、と思ってなきゃそんなことには気づけないだろうし、
またそれを言わなきゃ気がすみそうもないんだろうね。
まあそれが私なんだろうけどね。
何を言ってるかわからないのは我々が未熟なだけで
ラマナはシャンカラの言いたかったことをよく理解してたようだけど
>619
多分、617は「あのシャンカラだって宗教的な知識の無い一般人には何を言っているかわからない人物じゃん」って言ってるんだと思うよ。
621 :
神も仏も名無しさん:2014/03/13(木) 07:06:39.47 ID:spFp6Yip
理論は分かっても実践出来ないとかも有るからね。
知識はあっても応用力が無いとか判断力が低いって人も大勢居るし
ゴルフとかも理屈は分かってても体がその通り動くわけじゃ無いから
ある程度からは上達しないんだしさ。
頭で解ってるだけじゃ、どんな道にも通じないよ。
『チベット死者の書』を英語に翻訳したエヴァンス・ヴェンツは、チベット人のガイド
カジ・ダワ・サムドップの協力によって、それを成し遂げた。しかし、アレクサンドラ
デビッドニール夫人によると、カジ・ダワ・サムドップは、たしかに英語はできるものの
チベットの文化や宗教のことは何も知らない、それどころか、たんにオカルト・パワーを
欲していただけの俗物なのだという。後にエヴァンス・ヴェンツは、インドを訪れた際、ある
聖者を訪ね、自らの翻訳の間違いを指摘してもらった。その聖者とは、パラマハンサ・ヨガナンダの
師であるスリ・ユクテスワである。デビッドニール夫人は、チベットで実際に尼僧として
十数年を過ごし、西洋人として、しかも女性としては初めて(先代)ダライラマの友人として
迎えられた。帰国後は、上流階級出身の東洋の宗教の第一人者として知られ、天寿を全うした。
フランスでの彼女の葬儀に参列し弔辞を述べたのは、若き日の現ダライラマである。
そのデビッドニール夫人は「チベットでも、ニセモノがホンモノのような顔をして
幅をきかせている。しかもうっかりすると、ごくわずかなホンモノをも見過ごしてしまう。
ホンモノがわざとニセモノを装って、私のような探求者を追い払ったりするからだ」
スポーツに喩えるのはわかりやすい
確かに理論だけで理解できるなら
不特定多数が野球でイチローレベルになれるし
まあ、そういうことだよね
そして、思考にもスポーツと同じような特性がある。
脳の中の神経回路同士の接続は、使用頻度や
信号の強度に応じて強化されたり萎縮して消滅したりする。
神経回路の組み替えによって連鎖的に矛盾や葛藤が解消される
状態になったとき、アハ体験(ある著名な心理療法家は
これをミニ・サトリと呼ぶ)が生じる。
純粋な目で見る訓練を続けると、こうした体験の頻度が増えていき、
脳内の現実認識の構造が徐々に純粋な見解に満たされていく。
同時に、事物を見る姿勢自体も、この”気付きを作るプロセス(智慧)”に
慣れていく。
ジニャーニを導いてくれるのは、
この”気付きの解放感”なのだと思う。
ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガとは、知識によって自由に至る道である。
(中略)この真実を常に瞑想し、魂にその真の本性を悟らせるように努めるのが
このヨーガの唯一の行法である。これは最高の行法であるが、非常に困難である。
たいていの場合は、それを知的に把握するに留まり、実現に至る者はごくわずかである。
“幻影(マーヤー)の背後に、真の実在があると悟れ”というのが、このヨーガの
基本的立場である。しかし、知的論証だけでは、空虚な議論の果てしない網の中に
絡みこまれてしまう危険がある。したがって、並行してラージャ・ヨーガを行い
内的体験を実践的に深めるなど、他のヨーガの助けを借りることが必要である。
『普遍宗教への階梯 スワミ・ヴィヴェカーナンダ講演集』
「私は、人類に○○しないと悟れない」と催眠術をかけたんだ。
正直、ここまで催眠状態になると思わなかったんだよ。( ̄◇ ̄;)エッ
『アイ・アム・マジシャン』
そうか。悟りとは、存在に対する納得、生に対する納得、自己に対する納得なんだ。
存在は欠如を生む。私たちは太極図の辺縁の位置に属している。何事かが存在するとき、そこには欠如を埋めるための作用、つまり不満が同時に働いており、納得、安心感を求めて存在を動かしている。
個我は、港を求めてさまよう船だ。だから悟りという概念に惹かれている。それは、人生の中でどんな大艦隊を組織しても得ることができない。個我は休む場所、旅立つ基盤、足の下にいつも存在する地面を求めている。
それが、つまり、自身及び世界の存在に対する確証が得られないという不安こそが、どんな人であれ悟りという概念に無意識に惹かれていく理由なんだな。
ではこの不安を、私はどう扱っていくべきなのだろう。
アドヴァイタ的には
港で黙って休んでないで悟りはどこにあるの?とさまよい出てるのが
個我なんだけど
頭良さそうだから分かると思うけど
黙っている時=港にいる状態
書き込んだ文章=港からさまよい出た考え
不二一元論の徒は神に祈りますか?
>629
個我から解放されて何を見た?
私には、自分の中の70億の
他の個我が、遠い星のように
不吉に輝いているのが見えたよ。
>>630 ラーマクリシュナは瞑想の高い境地の中で
女神カーリーを直接見るという見神体験を重ねていた
そこへ、トータプリというアドヴァイタを奉じる僧侶が訪れた
彼もまた非常に高い境地に達していて、
瞑想の中でブラフマンの認識に達していたという
そこで、カーリー女神を礼拝し続けるラーマクリシュナにアドヴァイタを教え
ラーマクリシュナもついに「私」と「神」という二元論を超え、
不二一元の境地に達したといわれる。
トータプリは神聖な火だといって、いつも火を絶やす事なく持ち歩いていた
ある時、誤ってその火を消してしまった人がおり、トータプリはこれに大変腹を立てた
それを見たラーマクリシュナは
「あなたはいつも全てはブラフマンだと言っているが、
火を消したその人もまたブラフマンではないか」と言ったという。
このエピソードから、「私」という想いがホンの一かけらでも残っている間は
私はブラフマンだ、などというのは正しくない、
「私」という想いがどうしても去らない間は、その「私」を神様にお仕えする「私」として
残しておきなさい、といった事を周りの人に教えたという。
まあ、俺も死んだらスイッチ切れたロボットみたいに動かなくなって
生きてる間は与えられた五感に意識は頼るし
視覚とか100%与えられたもので今もカキコしてるし
実際に広大な宇宙から見たら小さい星の何十億人も居る中の発言力ないたった一人だし
ラマナとか悟りとか大きいことに興味持ってる割には
他人から見て本当に平凡な人生で終わりそうな気はする
本当の自分も知らないままスイッチの切れたロボットみたいにある日動かなくなるんだろな
最近深夜に地震が起こってマジビビった
悟りも何も無いドーンときて潰れて死ぬかオモタ
>634
死ぬの怖い?
あるお医者さんが、死と深い眠りは体験的には同じものって言ってたよ。
それから、医師が下す”死亡”の判定は、肉体の連動的機能が停止した時間であって
個人としての死は、医師の言う”死”よりずっと前に訪れるんだ、とも。
死ぬような大怪我をしたときは、普通、痛覚は反応しないらしい。
そして、そういう場合は意識レベルが急激低下して朦朧状態になるから、
自分の置かれている状況に気付くこともない。
死はまさしく覚めない眠りなんだろうね、個人にとっては。
臨死体験をした事ある人なら分かるだろうけど、
死ぬ間際にはもう痛みとか苦しみは無いよ。
和尚ラジニーシは、講話のなかで様々なスピリチュアル・マスターを槍玉にあげて
辛辣に皮肉っていた(特にクリシュナムルティを)。彼らのもとを訪ねて、結局
得るところなく戻ってきた人にたいしては、同情の意を表したりもした。しかし
「ラマナ・マハルシのもとを訪ねて、得るところなく戻ってきた人がいたとしたら
それは、その人のほうに問題があるのだ」
ものを捨てるのではなく、
自分の自己を捨てなさい。
そうすれば、
ものは自然に離れてゆく。
私が存在しなければ、
いかに家を所有できよう?
私が存在しなければ、
いかに子どもを所有できよう?
私が存在しなければ、
所有することは不可能だ。
所有するものは誰もいない。
その違いを見なさい。
Osho - Take It Easy
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
言葉は、その場、その場で変わるものです
他者への言及は遊びも入っています
本質を見抜きましょう
和尚ラジニーシは、クリシュナムルティのことを「覚者」だと認めてはいるようだが
「彼は説明しすぎるのだ、彼がすさまじくインテリ受けするのはそのためだ」
クリシュナムルティ自身が名乗っていたわけではないが、「世界教師」という
呼ばれ方にも思うところがあったのか。道元禅師に関する本の中でラジニーシは
「師」と「教師」の違いを、上手く表現している。それによれば、たしかに
たとえばラマナは「師」、クリシュナムルティは「教師」という感じはする。
>クリシュナムルティもラマナも同じように「役立たず」と評した、と書かれてるよ。
あの和尚なら「私の話すことは、もっと役にたたないよ」とか言いそうw
>641
ラジニーシの本質は、燃え尽くす炎のような反逆精神なのだと思う。だから、燃やしても燃え尽きることのないものの周りで遊んでいることがある。
結構、好きというか、尊敬してたんじゃないかって気がするよ、ラマナやクリシュナムルティのことも。
死ぬ前のじわじわ煮立てられるような苦しみに腹が立つ
怖いのではなく、腹が立つというのが適切だ
俺は呼吸器系の持病があるから、苦しくて、それでも生きているから腹が立つ
まぁ宗教自体世間じゃ時代遅れの役立たずだからねぇ
観光と冠婚葬祭、詐欺で食ってるようなもん
OSHOにしたところでアニメ好きがその作品に入れ込んでるのと何ら変わらんよね
嵌っている間はやることあって充実してる
結局それだけ
にしても燃え尽くす炎やら反逆やらリアルで言ったら引かれそうな言葉使いますな
語彙でどの程度本を読んでいるか判定できそう
とりあえず手を挟んだりしたら痛いってことだよ
医者も行為がどれだけ博愛主義で正しくても
手術される側は痛いからやだ
何かカルマか何か知らないがようする痛いのは嫌だってことだよね
それがエゴなんだっていえばエゴなんだろう
そうやって、一生「酸っぱいブドウ」を作り続けていくのか?
「好き」と「信じる」と「理解」、それぞれがどんなに似通ったものか考えたことはあるか?
ラマナは、「痛いのは嫌だ」という現実を無視することは勧めていない。
「痛いのが嫌なのは誰か」と問う事と、「真我が痛いのを嫌がるわけがない」と念じることの違いがわかるか?
なぜあなたはラマナに興味を持った?
あなたの中の何がそうさせた?
648 :
sage:2014/03/17(月) 20:48:19.77 ID:qFbsRLB5
>>643 真理に関わってしまったのだから、実在に意識を向け、やるべきことをやるしかない
実在、神を意識し続ける、もともと完全、いまも完全、ずっと完全で在り続ける自分を意識する
いろいろあるから、自分に合いそうなものをやればいい
真理の道を歩もうとすると突然、身内が倒れたり、なにもかもうまくいかなくなったりするが、それでも実在に意識を向け続ける者、神はそういう者にだけ救いの手を差し延べるというドSっぷりらしい
苦しみ続けるのが嫌なら前に進むしかない
それでも苦しみ続けたまま死ぬかも知れないが、進むしかない
>>645 昔、TVで見たんだけど、
世の中には生まれつき痛覚が全く無いという奇病が有るらしい
痛みとか、痛みに対する恐怖が全く無いから、
子供の時とか、家の二階から飛び降りて遊んで、体中骨折して
血まみれの状態で、楽しそうに笑ってたりしてたらしい。
酷い虫歯になっても全く気付かないし、
酷い腫瘍が進行していても骨折しても分からない。
肉体の限界とか、肉体を労わるという事が全く理解できないから、
普通に生活するのも危険が一杯で大変らしい。
痛い思いするたびに、なんで痛みなんて感覚があるのかなって思うけど
こういうの見ると、肉体を適切に維持管理する為には必要な感覚なんだなと思うよ。
それでいて、限界を超える痛みに襲われたり、そうなりそうな時は、
意識から肉体を切り離してしまうんだから、浅はかな自我の考えは及ばないような
叡智が働いているとしか思えないよね。
>>648 神は人間が苦しむ事など望んでいないと思うけど
ラーマクリシュナの言葉で、
なぜ私は神を見ることができないのでしょうか?という質問に対し
「お前達は金と女の為なら、バケツ一杯ほどの涙も流すくせに、
神を求めて一粒の涙でも流した事があるのか?」
って答えてたけど、正にこれだと思う。
たまたま、どうしようもない絶望に襲われて、その時はじめて
世俗の楽しみを全て投げ捨てて、真剣に心の底から神に祈り、救いを求める
で、それ以外の時はといえば、世俗の楽しみを追いかけて、それに救いを求めているのだから
ラーマクリシュナの本を読んでたら、マントラの重要性に気づかされた。
おまいらはやってるの?どのマントラがおすすめよ。
俺は、ハレクリシュナマントラで行こうと思っている。
ただその本(不滅の言葉)には詳しいやり方は書いていなかったorz
「南無阿弥陀仏」が非常に優れたマントラだ。
653 :
神も仏も名無しさん:2014/03/19(水) 08:39:21.59 ID:DaapIFDv
654 :
神も仏も名無しさん:2014/03/19(水) 21:19:43.38 ID:DaapIFDv
>>653 巨木の中で、なにも食わず瞑想してた少年の後日談は
続いてるんだな。しかも仏教の金剛経系だったのね。
ビジュアル的には申し分ないな。
ラマナは眠らなかったみたいだけど、悟りに近づくと睡眠時間も減っていくの?
それとも瞑想が睡眠の代わりになるの?
外国で眠らない人がいて、テレビで紹介されてたけど、細かいマイクロスリープはとってるという結論だった
657 :
神も仏も名無しさん:2014/03/20(木) 15:05:06.22 ID:rYtHrtyH
658 :
神も仏も名無しさん:2014/03/21(金) 09:05:58.02 ID:t3K+3kEe
>>656 ラマナは寝ますし、夢も見ますよ。ご本人がそう言ってます。
659 :
ほうねんさん:2014/03/22(土) 00:11:29.56 ID:MU8njOED
人間は悟れない。苦しんで死ぬ。
輪廻してまた苦しんで生きる。
それを哀れに思った法蔵比丘が請願した。
全ての人を苦しみから救う為に私は修行する。
全ての人が助からない限り、私は仏にならない。
法蔵比丘は請願を実現した。阿弥陀仏となった。
南無阿弥陀仏と唱えるものは全て救いとるという仏となった。
660 :
ほうねんさん:2014/03/22(土) 00:20:51.48 ID:MU8njOED
結局人間が苦しいのは、散漫し荒れ狂う心があるからだ。
これを無くすことはできるかもしれないができないかもしれない。
よって船たる不安定な自己は港を目指して一心に進めば良い。
その際の塔柱がマントラでもなんでもいいが、そのうちの一つが
南無阿弥陀仏という念仏だ。
なんか、意識の持ち方で、外界の現象が変わってくるってことあるのかな?
自分のテーマになるような出来事が起こるみたいなことが。
単純に「意識が変わる」→「態度が変わる」→「人に好かれる」
みたいな明確な因果関係ではなく、
人を成長させたり、恩寵と思えるようなことが。
おれはある瞑想したらありえないほどリアルなテーマが立て続けに起こったことがある・・・
662 :
ほうねんさん:2014/03/22(土) 00:27:56.93 ID:MU8njOED
すいません
塔柱は間違い
灯柱
が正しい。
あなたは誰かと問うのは、あなたは船でいずれ沈む不安定な存在だから
港を目指しなさいということに等しい。
港を目指しなさいと言われても具体的行動に落とし込まなければ意味がない。
凡人が瞑想しても悪くなる可能性もある。
そこでマントラの出番だ。
船が港を目指す際の灯柱が、マントラであり、なんでもいいが
たとえば、南無阿弥陀仏だ。
別になんでも良い。
引き寄せの法則というのも眉唾だが、ある種のPTSDが特定の
人間関係を繰り返させるということがあることは知られているから、
執着を手放すと現象も変わるのかなぁ
マントラは、ひそひそ話みたいな息だけの音でも
効果は変わりませんか?
あまり声で出せない住宅環境なもので。
665 :
神も仏も名無しさん:2014/03/22(土) 05:11:48.71 ID:2XOeqkrz
>>664 むしろ、マハルシによれば、大声より、ひそひそのほうがよく、ひそひそより
心の中で声に出さずにする方が優れているみたいですよ。ただし、その順に
難しくなるかもしれません。
音自体が脳に響くのが重要だから声に出した方が良いという人も居るな。
オームは意識を無限に拡大させていくマントラだそうだ
両手で軽く耳を閉ざしてオームを唱えればその響きを自分自身で感じやすい
心の中で唱えるジャパがアジャパと言って最良のものです。
プンジャジは覚醒前には呼吸にあわせて一日5万回マントを唱えていたといいます。
心の中でも粗大に大きく全世界に反響するように唱えたり、微細に唱えたりとか色々やり方があるでしょう。
自分のその時の環境や心持ちにしたがって歌ったり微細にしたりそれほどこだわる必要はないと思います。
へえ、一日は86,400秒だから「オーム」でもちゃんと唱えると2秒位掛かるから
5万回だと24時間唱えても不可能なんだけど。
しかも呼吸に合わせて1回ずつなら呼吸し過ぎだろう。
そういうのは鵜呑みにしないで、自分なりに検証してみてから書き込もうな。
670 :
神も仏も名無しさん:2014/03/22(土) 12:38:05.99 ID:70uS4kpN
オームナマハシヴァーヤでも1時間で一万回唱えられます。
修練あるのみです。
そういう疑いがあなたの行動を阻害するんです。
よく外でハラ壊して漏らしそうな時に神に祈るってネタがあるけど
そんなことあるわけねーよ笑って馬鹿にしてたら
ある日買い物帰りの際に腹痛に見舞われて必死でチャリ漕いで帰った
ああいう時ってホントに神に祈るんだな…
どうした?5万回が1万回に減ってるぞw
俺は虚空蔵菩薩真言なら、三ヶ月間一日5000回以上唱えてた時期ならあるぞ。
ごめんごめん一時間で1万回かw
だとしても1回0.36秒でオームナマハシヴァーヤって唱えなくちゃ成らないな。
そんないい加減な唱え方で良いのかよw
なんというか日本人の俺がオームとか少し違和感があるんだよな。
クリシュナムルティは、コカコーラでも同じ、と言っていたが、要するに
日常のあれこれ、思考の渦や罠から離れて純粋な意識になるということなのだろうけど。
そういえば創価学会の知り合いが、体調崩したときにお題目を何時間も唱えてたら
よくなったといっていた。
体調や環境を良くも悪くもするのは思考(執着)と。
QEとか流行ってるけど、思考と距離を置ければおのずから
治癒がはじまる、調和が整うという。
>>670 ちょっといい争いになると
すぐに化けの皮剥がれちゃって保身に汲々って
間違えましたとか言いすぎましたでいいじゃん
悟り目指す人は偉くなりたい人謝れない人多いですよw
呼吸に合わせてつーのは、ゆったりとした腹式呼吸をしながらって意味だろきっと。
短いマントラを頭の中で繰り返せば1回1秒もかからんから一応5万回は可能だと思うよ。
念のためおれは668じゃないけど。
呼吸に合わせるにそんな意味は無いと思うが
マジで言ってる?
ちょっとびっくりしたわ
「呼吸をしながら」って意味に十分取れるだろ。
言外の勝手な解釈する人と話してもなぁ
呼吸はいつでもしてるだろ
呼吸を止めてマントラを唱えるなんて話の流れを受けてなら
ありうるかもしれないが普通は合わせると言ったなら合わせるんだよ
いつもしてる呼吸をわざわざ「呼吸に合わせて」って書いてあるんだから
このスレ見るぐらいの人間なら「腹式呼吸」ぐらい解釈してもバチは当たらんよ。
言葉尻の揚げ足とって争ってるのはどうかしてるぞ。
マントラの知識ないのか?
呼気に合わせて唱えるとかってのはよくあるマントラジャパの方法であって
「呼吸に合わせる」が腹式呼吸をしろなんてことはない
と言うか本当に668と別人か?
おかしな言い逃れを繰り返す人が複数いるのか?
だから「呼吸しながら」にとればいいだろ。
それが瞑想とかに関連してるなら腹式呼吸と解釈可能だろ。
5万回唱えるのは普通に考えたらゆったりとした呼吸で早いマントラのやり方じゃないと出来ないんだからそう解釈すればいい。
俺は別にプンジャジに義理もなければ信仰もないからな
彼の言葉の辻褄を合わせるためのお前の解釈は
マントラジャパ少し知ってたらとても不自然だよ
5万回ってのはてきとうな数字
多いって意味ぐらいとでも言ったほうがまだ可能性高い
「オーム」というのは瞑想が深まると内からその響きが伝わってらしい
その単語の存在を知っていなくても、創造の根源との一体感が深まれば内から聞こえてくるものだそうだ
以前にNHKの放送だったと思うけど、日本の密教でもオームを唱えていた
キリスト教では「アーメン」と祈る
普通のマントラ瞑想、真言瞑想は一呼吸のうちに出来るだけ多くのマントラとなえるでしょ。
私も普段は一呼吸で数多くマントラを頭の中で唱えてる。
覚醒するような人、本気でやってる人は5万回は不可能じゃないと思う。
・どちらかと言えばマントラジャパの方が特種だと思う。
たしかに668の言い回しが悪かったのだろうが、
必要以上に668に噛みつくことは無いと思う。
俺は別に噛み付いてるわけじゃないよ。
短いのでもそれくらいの時間は掛かると数字として示しただけ。
俺も一日に虚空蔵菩薩真言を一万回近く唱えた事あるしね。
その時は一息で10回以上は軽く唱えてたと思うし、やり方も色々あるんだろうけど
呼吸に合わせてというのとは違ったね。
インドのマントラってガーヤトリー・マントラみたいな音楽的なイメージ有るしさ。
最初のレスで書いたように短いマントラなら1回1秒以下でいける。
「オーム」は伸ばし音が入ってるからたしかに時間かかる。
それだけ。
>>686 呼気で5回とか回数決めれば同じリズムになって呼吸と合う(同調する、制御する)ことにはなるが
ヒンドゥでそんなやり方自分は聞いたことないわ
例えばソーハムなどはソーで吸ってハムで吐き、一呼吸で一回
呼吸と合わせる場合はこの手のやり方じゃないかなぁ
つか考えると普通は回数覚えてるはずないんだよね
言葉通り5万回やったならカウンターカチカチやりながらか数珠くりながらで
それに呼吸も合わせて5万回本当にやったなら
とんでもなく忙しいことになる
とんでもなく忙して考える暇をなくすのだろう
マントラを使う理由って雑念をなるべくわかせないようにするためじゃなかったっけ?
サムスカーラを神聖なものとする為じゃないかな?
ヴィヴェーカーナンダ注釈のヨーガスートラおすすめ
ラージャヨーガの巻末に収録されてるよ
ここには熟練のヨギがたくさんいそうですね。
ちなみに、法然上人は一日に6万回の念仏をしてたってね。
真言に集中してたら数かぞえなくね?
まぁどうでもいいけど。俺はジャパとかしないし。
数は1回にどれくらい掛かるかが分かれば唱えてた時間で計算できるだろ。
一日1000回以上を日課としてるなら、逆算してその時間を作るようにするのが普通だし。
インドで数なんて形容詞みたいなもん。
「五万」は「すっげえ回数」と読み、「一劫」は「もうむっちゃめっさ気の遠くなる時間」と読む。
インド人に関しては、確かにそんな感じだと思うな
ただインド人で普通に学校に通えた人が計算に強いのも確かなので
宗教的な事以外に当てはまるとも言えないけどね。
>>697 いや、それはイメージであって
大規模なヴェーダの祭式などでは、きちんと数万回とか、
定められた回数唱えたりするよ。
ワンセンテンスの文言ではなくて、相当な長文だったりするので、
数万回といった回数だと数日に分けて唱えたりする。
実際そんなアバウトだったら、2千年以上にもわたって、
口伝で正確に残ったりしていないよ。
まぁまぁ。千回読もうが一億回読もうが、
そんなのはどうでも良いことじゃねーか。
トランス状態に成る為にはマントラは長い時間読まないと成らない。
それが悟る為に必要かどうかは分からないが、気持ち良いし
チャクラが開いたりもした。
ただそれが自分にどう影響してるのかは未だに分からないw
読むじゃ無くて唱える。
つーかやり方の議論してもなあ
「正しい本の読み方」なんかを議論して、俺が正しいお前は間違ってるとか言っても意味がない。
大事なのはその中身なんだから、斜め読み、つまみ読みでもいいから
熱意を持って本開けばその分内容は自分のものになると思うんだが・・・
絶対的な苦悩に陥ってる人が神に向かって叫べば、それが一回でも無駄ではないだろ。
ラーマクリシュナなんかは「キチガイと呼ばれるまで
神を求めてみろ」と言ったそうだけど、そういう熱意が大事なんだろう。
706 :
ほうねんさん:2014/03/23(日) 19:54:46.81 ID:sCTO6qGF
白隠の弟子の中に、非常にケチで金儲けに汚いとの名を取った 老人を父とする者があった。孝行息子の弟子は何とかして父を仏道に向はしめんと思って, 白隠に頼んだ。
白隠は、一回の念仏をしたら一文やろう、十回の念仏は十文に値し、百回は百文となる。日日之をつとめて,自分の許へ來るなら、この契約にて金を払うだろうと言えと述べた。
老人はそれは容易な金儲けの方法あると思い、毎日その日課を終えると、金を貰うため白隠を尋ねた。老人はこれが楽しみで毎日欠かさず念仏をやった。
707 :
ほうねんさん:2014/03/23(日) 19:57:01.95 ID:sCTO6qGF
暫くすると白隠のところに来なくなった。白隠は息子を呼んでどんな様子か、聞いた。ところが、不思議なことが起きた。
それは、老人は念仏そのものに非常な関心を覚えるようになって、一念一文の契約を忘れてしまった。
708 :
ほうねんさん:2014/03/23(日) 20:00:05.18 ID:sCTO6qGF
しかし、これが白隠の狙ったところであった。息子に命じて,老人は何等の干渉をせずにおく ことにした。老人はそのままに念仏を繰り返した。
一週間ほどた つと,老人自身が白隠のところへやって来た。今回は何百文・何千文の請求ではなくして、いくらの金銭にも換へられぬ心の喜びを,老獪な白隠に告げんがための訪問であっ た。老人は実に念仏三昧を發得したのである。
鈴木大拙『禅と念仏の心理学的基礎』,『鈴木大拙全集』第四巻
残念なことに現在そんな話に感銘受けるのは子供ぐらいのものでして
実際そんなに効果あれば猿のように中毒になるでしょ
念仏唱えて気持ちいいはずの坊主が外で豪遊する現実を見なさいよ
心が静まり、清らかになれば、
自己の本性であるアーナンダが現れる
この事を分かり易く教える良い話だと思うけどな
>>709 坊さん偉いって話じゃないと思うよ。念仏がすごいとかでもないだろう。
無論、改心した爺さんえらい、ってことでもない。
マントラにそこまでの効果があるますかいな?と言ってるんだけどね
まあ、しててもしてなくても効果は望めるんじゃないですかね。
した方がマシでもしない方がマシでもなくてw
>>709 そう。それはある。
インチキスピリチュアルティーチャーや、
金儲け欲望丸出し宗教家もマントラをたっぷり唱えているんだろうな。
マントラを唱えても、正しい心と行動がなきゃ
なんにもならないと言うことだろうね。
でもラマナ、ラーマクリシュナをはじめ
みんな勧めているし、良いことなのは間違いない。
自分に良いことがあってから言え
日常のあれこれ、自己中心的な妄念から離れ、高いものに
心を置くと普通に安らぐだろ。
チベット仏教の話。
ある老婆が、旅に出た息子に、亡くなった聖人の歯をもらってきて欲しいといった。
息子は約束を忘れ、帰りに拾った犬の歯を、老母にプレゼントした。
老母は犬の歯をありがたがり、一心不乱に犬の歯を崇拝した。
老母がなくなる間際、犬の歯がまばゆく輝き始め、老母を極楽に導いたという。
信心がダイジだって話だね。
>>650の話とか。
オレは苦痛のあまり神に祈るときがあり、そのときは本当に楽になる。
「良いことなのは間違いない」という人のほうが素直だと思う。
でも、世俗の希望を断ち切るほどには苦しんでないから、神を求めない信心薄きものなんだろうなぁ・・
瞑想で体調がよくなったってのならある
ある調査によると、満員電車内で腹を下したサラリーマンが神に祈る確立は120%
まず漏れないように神に祈る人が100%
漏らしたことがバレないように神に祈る人が20%
白隠の話とか、いい話なんだけど、みんな今イチ分かってないんじゃない?
わかってないかも。深い解釈があるなら聴きたい。教えてくれ。
>719
いや、俺は正直白隠の話も>716も良い話だと思うぞ。
でもこの話が表しているのはジャパが有効かどうかではないな。
徒然草に同じような一節がある。
>狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
>悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
>驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
>偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。
浅ましい理由からでも優れた人の行いを真剣に見習うなら、
その浅ましさもいずれ消え去って優れた人のようになるのだ、
ということだね。
イワシの頭も信心から、とよく馬鹿にされるが、
本当の信心さえありゃイワシだって神の祝福をもたらすのだろう。
重要なのは対象ではなく、信心の強さの方なのだから。
でも臨済宗の白隠が南無阿弥陀仏を勧めるとも思えないけどね
白隠や古くは一休もそんな宗派にはこだわらない人だった
そのソースをくれ
オラテガマ読め。
あるいは本屋で白隠の本かうか図書館で借りるかネットで白隠 念仏 禅浄でググルか。
普通の日本仏教史的な知識だろ。
726 :
ほうねんさん:2014/03/24(月) 02:08:16.86 ID:mt6L6XHB
すいません。
玄侑宗久さんの「自燈明」知的生き方文庫を立ち読みしたら
この白隠禅師の話があったので、ググってここに記載しました。
阿弥陀に特に意味はないと思います。
ナム=帰命(帰依・敬礼・拠りどころ)
ア=無(後の、量を否定している・量と併せて無限)
ミタ=量(量ること)
アーバ(アーユス)=光(寿・いのち)
ブッダ=釈尊・覚り・真理・如(如が来るから如来)
帰命=拠り所とすること
無量寿=無限のいのち(何時でも)
無量光=遮るもののない光(何処でも、であり、智慧と慈悲でもある)
如来=如(釈尊の覚り・真理・法)が来ること
私は、何時でも何処でも私のところに届いている法を拠りどころとします
くらいの大雑把に捉えていただくといいかなと思います。
常識なのかw
読んでみるよ
728 :
ほうねんさん:2014/03/24(月) 02:10:43.21 ID:mt6L6XHB
マントラはなんでもいいというつもりです。
自分の好きなものでいいと思います。
白隠くらいになるともう近代の人だから、念仏とか禅とかの
思想も相当咀嚼されてるわけで。共通点なんかもある程度は検証されてる時代だと思う。
まあおれも詳しくはないけど。
それより鎌倉時代の
日蓮、法然、道元が、カルマ、ジャパ、ディナーニャというものを至上において
実践していたのが興味深い。当人たちは我こそはということでお互いを否定する様相が
あったがそれぞれインドの聖人が行う道を図らずして日本化して切り開いたパイオニアだね。
話ばかりで証はない宗教ってSTAP細胞のようだな
業、カルマについてのみなさんの見解を知りたいね。
まず私の考えを先に言うと、
業というと過去の言動が将来に影響するということだと一般に理解されていると思うんだけれども、
私は過去、現在、未来の全ての業が今、ここに凝縮されて存在すると思うんだ。
そうであるとすれば、我々がこの世界で活動することの意味って一体何なんだと。
こういうことを考えている。
業は悟りの邪魔をしているのだろうか。
なにもしなければ悟れるのだろうか。
しかし、この世界に生きていればなにもせずにいることは不可能だ。
アシュターヴァクラ・ギーターでも読め
>>732 私は過去、現在、未来の全ての業が今、ここに凝縮されて存在すると思うんだ。
これは具体的にはどういうことなんだろ?
抽象的すぎて分かんない
>>735 輪廻転生というものを肯定するとして、過去生、今生、未来生というものがあって、
業というものは過去生や今生における過去の行いが今生における将来や未来生に影響すると一般に理解されていると思うんだけれども、
未来生というものも実は今、自分のなかに内在しているのではなかろうかと。
そして、実は未来生も現在の自分の行いを規定してはいまいかと。こういうことです。
>>736 今一つ分んないんだけど、業というのは、一般的には、過去の行いが録音機に録音されるように、
蓄積され、それがグルグル回りながた出てくるっていう感じだよね。
阿頼耶識っていうのは、その業が蓄積されるところなんだろうか?
自分の中に内在されていると言えば、阿頼耶識は常に自分の心の奥深くにあるわけだから、
自分存在の中に全ての業が詰まってるとも言えるし、
あなたの言うのは、そういう録音されたものじゃないってこと?
>>737 将来の行いも実は録音されているのではないかということです。
実のところ、私は非常に困っているんです。
真我は実現できないし、かといってこの世界でどう生きたところで死ぬときには全て手放すことになる。
かといって、なにもしないというわけにもいかない。
善因善果、悪因悪果であるのなら、私のような善行に興味のない人間はなにもできなくなってしまう。
>>738 「袖摺り合うも、多少の縁」ということがあるよね?
つまり、袖を摺り合うほんの些細なことでも、縁がある・・・ 業があるってこと。
これはどういうことかというと、今我々が一挙手一投足、ここで私があなたにレスしてるのも、
自分の一つ一つの今の行動、思考も、そのすべてに業が関与してるってこと。
また、そこに自分の反応もプラスされる、ということもあるみたい。
プラスされる反応は業じゃないのか、新たな業が作り出されるのか、イマイチ分かりにくいんだけど、
まず、業によって自分の全ての一挙手一投足が回転してて、その業に対してのリアクションが、
また次の業になる。
例えば、「悲しい思いをする」という業があったとして、あるときその業が出てきて、
悲しい思いをしたとする。
その時、その思いに対して思考が掴んでしまった場合・・・・ その思いに捉われてしまった場合、
またその思いが業として録音されることになる・・・
そして、その業を放さない限り、延々と録音、再生を繰り返すことになり、
いつまでたっても業の輪廻が終わらない・・・
だいたい業の考え方って、こういう感じじゃないかな?
一つの業の思いが出たとき、その思いをありのままに流すというか、捉われないとき、
業はそのまま消えていく。
しかし、大抵の人はその思いを掴んでしまい、また同じような思いを録音をする。
ただ、それと同時に、「全ては決まっている、あなたここで悩むのも、苦しむのも、悟りを開く時期も、すべては決まっている」という言い方をよく聞くよね。
そういう意味では、どういうリアクションをとるかも含めて、ありとあらゆることが
決まっていると言えるかもしれない。
ただ、もしかしたら、「いつ悟るか」ということ、あるいは、「どういうリアクションをとるか」
ということは、「業」というより、そこを越えたところかもしれない。
例えば、世界は時間が流れて変化しているように感じるが、実はもうすで結論は出てて、
それは業というより、未来の決定事項を、追体験するようなものなかのかもしれない。
ラマナはヒンドゥには自由意志という言葉はないと言ってるのは知ってるのか?
全ては神の意志といってるのは知っているのか?
録音はされていないが決まったように運行する
何もそれは宗教に頼らずとも科学が法則を発見利用していることからも明らかだろう
法則に従って運行する
コンロにかけた薬缶の水はお湯になり金星にはならない
まぁ困るなら一生困る困ると言えばいい
なにもしないことはできないのだろう?
ここに書き込んだように勝手に何かするさ
俺のアドバイスとすれば全部忘れちまえ
それを知っているから困ってるんだ
宗教関係の本を全部捨てて頭の中から消え去るまで
なんか他のことでも詰め込みな
真我だのカルマだの知らんでそんなことで困っているやつを俺は知らん
>>739 ああ、なるほど、その辺は浄土系の担当になるよね。
こういう話だったと思うけど・・・
ある時親鸞は弟子に向かってこう言った。
「お前は私の言うことは何でも聞くか}
「はい、どのようなことでもやります。」
「だったら、今すぐ人を殺して来い」
「師匠、それは出来ません。」と。
人はありとあらゆることが業に左右されてる。
人を殺さないものは、どんなに悪事をやったって、人を殺さない。
人を殺す業を持っているものは、どんなに善行をやってても、人を殺す。
極端に言えば、こういうことだと思う。
浄土系の教えって、こういう業は相手にしないで、思いが捉われない方向へ振る・・・
つまり、念仏、信一本に持っていく。
業は出てくるかしょうがない。
座禅のとき、雑念が出てくるのはしょうがない。
雑念を消そう消そうとすればするほど、思考がかき回されるため、いっそう雑念が消えなくなる。
ただ雑念をあるがままにして、座という型に意識が収まっていく・・・
念仏や信、座の型に意識が統一していれば、業の思いが出てきても、それに捉われることがない。
リアクションが無くなる。
もともと業っていうのは、善因でも悪因でも、悟り(思考を越えた世界)には関係ないんだよ。
それは蓮の花が泥に汚れないで綺麗に咲いている、という、仏教の表現に現れてるだろ。
良い業が出ようと、悪い業が出ようと、それがただありのままに通過するというか、
ありのままに受け入れられるほど、自分の思考が捉われない状態・・・・ そこを目指すのが、悟りでしょ。
>739
あなたは少しずつ歩いている。少しずつ良くなっている。
少なくとも、自分が「困っている」ということは解かるようになった。
>死ぬときには全て手放すことになる。
恐らくあなたは気付いていないけれど、この考えは実はとても独特だ。
こうした発想は、あなたが無意識のうちに、自分の本質を何かしらの
”物質”と密接に結びつけていることから生じている。
あなたは、瞬間の中にある物質の形式ではなく、
連続する時間の流れの中にだけ表現され得る
”機能”や”システム”の形を認知できるようにならねばならない。
それが業を理解するために必要な知識だ。
植物が育ち、花が咲き、種子が残り、それが地に落ちて
また新しい生命になる。
では植物の本質は、どの段階にあるのだろう?
花か?種子か?あるいはその中間か。
種子とは、単なる小さな物質なのだろうか?
その中に眠っているのはただの細胞なのだろうか?それとも
時間の流れの中に表現される、何か別のエネルギーなのだろうか?
カルマっていうものが何なのか、ヨーガスートラが詳しいと思う
ヴィヴェーカーナンダ注釈のものは秀逸
カルマ(行為)は習慣を作り、習慣は自我を作る
自我は思いを作り、思いはカルマを作る
そして、「真の私」、アートマンが遍在である以上、
他人に対して行った事は、自分自身に行った事に他ならないのだと思う
だから、過去に他者に対して行った行為も受け取る
こういう事だと思う
ヴィヴェーカーナンダは、
「我々があるところの一切のものは習慣の結果である」と言ってるけれども
「習慣にすぎないなら我々はいつでも、それを作る事も壊す事もできる」とも言ってる
本当にそれをしようとすれば、離欲と無執着が必要だろうけれども
まああれだな。
「私」を探求するのもいいけど、「私」と今より少しだけ緩やかに付き合うことだな。
ここまでは欲、ここから先は無欲
ここまでは執着、ここから先は無執着
みたいな基準があるわけでもないしな。
>746
>「習慣にすぎないなら我々はいつでも、それを作る事も壊す事もできる」とも言ってる
これは誤解されやすそうだね。
多分、理解の途中の人に向けて言ったこととかなんだろうけど。
個我自体が習慣だというのに、それが習慣を作ったり、壊したりというのは
本当はできないよね。
不二一元論では作る主体と作られる対象とは別れない。
それは同じくブラフマンの変容性によるもので、
私たちの習慣はただ形を変えることはあるけれど、
作られたり壊されたりすることはない。
作った、壊した、と考えるのが個我の性質だろう。
そういう見方が止んだり浮かんだり、ってことだと思うわ。個我という概念も含めて。
>>748 一部分だけを抜き出したから誤解されたかな
ヴィヴェーカーナンダは、習慣というものについて、
サムスカーラの総計という説明をしてる。
前提として、我々の見る世界というのは、チッタがヴリッティ(形)をとったものであって
ヴリッティが消えた後に残るものがサムスカーラだという説明なんだよね。
これはヨーガスートラの注解だから、プルシャとプラクリティが有る事を認めるし
もちろん、世界の前提であるチッタもプラクリティの一部として認める。
だから、まずはプルシャの自覚、独立を求めるのがヨーガスートラ。
それすらも超えて、プルシャもプラクリティもともにブラフマンだというのは
途方も無い高みにある境地だと思う。
うーむ。そうか。
ヨーガスートラって読んだことないんだよな。
ちゃんと勉強しておかないとな。
でも、聞きかじった程度での印象だと、
ヨーガスートラの最終目標は梵我一如なのかと思ってたよ。
>それすらも超えて、プルシャもプラクリティもともにブラフマンだというのは
>途方も無い高みにある境地だと思う。
どうだろう?でもそれが真実だよね?
マハルシが語った。
「自由意志と運命は常に存在しています。
運命とは過去の行為の結果であり、それは身体に関わっています。
身体がその運命に沿うように行為させなさい。
なぜあなたがそれを心配するのですか?なぜそれに注意を払うのですか?
自由意志と運命は身体が存続するかぎり続くでしょう。
しかしジニャーナはその両方を超越するのです。真我は知識と無知を超えています。
もし何かが起こるならとするなら、それは過去の行為の結果として、
あるいは神の意思として、あるいはその他の要因から起こるのです」
753 :
トム:2014/03/26(水) 04:06:13.33 ID:ixYKnSx+
微笑
>>751 プルシャとプラクリティって、火と燃える性質、
砂糖とその甘さ、という関係と同じで、全く同一の存在なのだとも言われてるよね。
でもヴィヴェーカーナンダもラマナも全く同じ事を言ってるんだよ。
チッタがヴリッティをとるのを強い集中力で抑制する時、サマーディに入るといわれる
そのサマーディは、あらゆる力をもたらすかもしれないけれど、決して自由をもたらさないという。
なぜなら、集中の対象という一つの波によって、一時的に他の波が抑えられているに過ぎないから。
それとは別に真に自由をもたらす、もう一つのサマーディがあるとヴィヴェーカーナンダは言う。
ヨーガスートラ注解から、そのまま引用すると、
「心それ自身を瞑想し、思いがおこるやいなやそれをのぞき、いかなる思いが心に入ることも許さず、
こうしてそれを完全な真空状態にするのである。ほんとうにこれをすることができたとき、まさにその瞬間に、
われわれは解脱をとげるであろう。」
でもこの「思い」っていうのは、ラマナが訪問者に
「もし世界が思いであるなら、バガヴァーンの思いによって、世界を良いものに変えて下さい」
と、言われた時、ラマナは「あなたの言うバガヴァーンも単なる思いに過ぎないのです」と答えてたように
明らかに、単なる頭の中の考えや、思いなどではなく、
チッタに起こるヴリッティやサムスカーラを指して言っていると自分は思うんだよね。
だから単なる知的理解や、頭を空っぽにするといった次元の話ではなく、
瞑想する事が必要なのだと思う。
まあ仏教の瞑想でも思考を観察する、距離を置くといってるね。
その観察してるのはだれか、とか。
距離を置けるということは、思考は自分ではない。この修練をつづけなさい、みたいに。
ソギャルリンポツェのチベット生と死の書って本に書いてあった。
最近流行のQEとかセドナメソッドなんか、スピリチュアルコーナーに
置いてあったりするが中身は手軽な瞑想法だよ。ダグラス・ハーディングの「頭のない方法」とか、
まあ呼び方は違っても形は同じだね。
ヴィヴェーカーナンダはわからないけど、
ラマナの言うヴィチャーラの先にある悟りというのは、
知的理解を基盤にしていると思う。
結局、知的理解という血管に集中力という血液が
満たされなきゃいけないから、瞑想は役に立つだろうけど・・・
瞑想が必要かというと、そうでもないかな。
757 :
ほうねんさん:2014/03/28(金) 20:04:27.23 ID:OZk9i24M
言いたいのは決定論ですよね。
けっていろん【決定論】とは。意味や解説。哲学で、一切の事象、特に自由と考えられている人間の意志やそれに基づく行為は、何らかの原因によってあらかじめ全面的に決定されているとする説。必然論。デターミニズム。→偶然論
758 :
ほうねんさん:2014/03/28(金) 20:07:35.22 ID:OZk9i24M
>>732 決定論とは自然や歴史の諸現象の生起は,外的な原因(神・自然・因果性・社会関係など)によって究極的に規定されているとする考え。人間の意志・責任や行為の意義については否定的になる傾向がみられる。必然論。
759 :
ほうねんさん:2014/03/28(金) 20:36:12.95 ID:OZk9i24M
760 :
神も仏も名無しさん:2014/03/28(金) 22:59:19.00 ID:u3s/ziqr
シュリークリシュナは答えました。
まず楽な姿勢で座り、体をまっすぐに保ち、手を膝の上に置き、目線を鼻先に向けよ。
霊的神経の浄化の為にプラーナーヤーマを実践し、次に外に向かおうとする心と感覚を忍耐強く内におさめよ。
プラーナーヤーマを行いながら聖なるオームを瞑想し、心の内で鐘が鳴り響くようにオームを唱えよ。
このようにオームと一つにとなったプラーナーヤーマを10回ずつ、
毎日三度実践せよ。そうすれば速やかにプラーナを制御できるだろう。
それからハートに蓮華の花を瞑想せよ。
花は俯いていてスシュムナー管がそれを貫いていると想え。
瞑想するにつれて花は上を向き、いっぱいに開くと考えよ。
そして花の中心に太陽をイメージし、太陽の内に月を、月の内に火をそれぞれイメージせよ。
次に心を集中して火のうちにあなたのイシュタの慈悲深い御姿を観想せよ。
イシュタは究極の原因であり、宇宙は彼のうちに存在し、
また宇宙は彼より展開すると瞑想せよ。
761 :
神も仏も名無しさん:2014/03/28(金) 23:01:47.77 ID:u3s/ziqr
最後に自己と神は一つであると瞑想せよ。神は至福に充ちた一なる存在であり、
そして私はその一なる存在である。このように心を瞑想に集中させると人は自己のうちに私だけを見、また衆生の自己なる私のうちに自己を見る。
これはつまり光と光の結合である。
シュリーマッド・バーガヴァタム
ラマナは流れてる川の風景も
刻一刻と変化してて同じ風景だと感じるのは
思い込みだと言ってた
悟りには思考も無くて今しか無いのだろう
我があるからエゴがあるから
川が流れてる平和な風景も同じだと思い込むらしいが
実際は同じでは無いし今しか無い
過去も未来も無い我が無かったら今しか無い
せやな
刻一刻と変化する川の流れさえも同じ風景だと決め付ける私とは誰か?
その自己の観察に関しては仏教もアドヴァイタも変わらない
とにかく一気に悟ろうとか考えず地道に行くしかない
悟りには時間がかかる。
例えるなら、私たちは湖から海まで川をひく。
論理は水路のようなもの。
実感は水のようなもの。
両方揃って知識になる。両方揃って川ができる。
水路を作りながら少しずつ水の流れる量を増やすか、
水を一気に溢れさせて流れを修正していくか。
いずれにせよ、どちらか片方では未完成だ。
どっちも十分にしようと思えば、それなりに時間がかかる。
不二一元って、金儲けの為のニューエイジ的な本の格好のネタになってるけど、
まずは、ぜひシャンカラ自身の著作を読むべき。
岩波文庫から出版されてる「ウパデーシャサーハスリー」がオススメ
不二一元という事を思惟するにあたって、おおよそ疑問に思うような事は
シャンカラ自身によって説かれているし、
識別の方法として、パリサンキヤーナ念想という方法も勧められている。
スピリチュアルティーチャー(笑)は、
たいていインドの知識をパクッテるよな。
しかし欲望まみれと言うね。
引き寄せの法則とか。
最も問題なのはね。
知識によってお金を稼ごうとする人ではなくて、
知識によってエゴを膨らまそうとする人なんだ。
そうした人にとって、真実とは、自分に由来する
ものでなくてはならない。
おかしなことだ。こんなにありふれている真実、
どこにでもある真実というものを、自分の名のもとに
独占したい、自分の口以外の場所から語られることが、
我慢ならないのだ。
そしてそうした人の言葉と現実認識は、
当然のように真実から遠ざかっていく。
エゴという錯誤に根付いて考え、語るならね。
結局それは、宗教でなくても同じなのだ。
なんだかんだ言って、自分ひとりを富ませたいという
心を持ったひとたちは居る。
まあ放っておくことだ。
彼らに関われば自分のエゴが強化される。
自分のエゴが本当に抑えられ消失しているなら
道を正すこともできるかもしれないが。
その仙人みたいな語り口調って素なの?それともいつか膨らんだ自己イメージかな。
すまん、なんかラマナの本の語り口が賢者っぽいのは翻訳だから
当然かなと思うんだけど、日本人がなにもスピリチュアル本の
翻訳口調みたいな語り方で話さなくてもと思ってしまった。
うん、そうやな…。
良いか?兄ちゃん。
ワイが何かを人に伝えなあかんと思うやろ?
すると記憶の中でこうパーっと
連想的に思い浮かぶことがあるわけや。
キラキラーっとな。
その周辺に格納されている言語記憶の
連想の順番によって、
自然にこうした語調が生成されるわけや。
それをまぁ変えたければ変えることもできる。
わけやけど、いちいち気にすんのもなんか
億劫なことやと思わへん?
まぁ場所によっては喋り方選ぶけどな、俺も。
自分を肥え太らせるものはさまざま。
774 :
ほうねんさん:2014/03/31(月) 01:52:28.39 ID:pSQT0G1n
エゴがない人間なんて日本にはいないんじゃないかな。
少なくとも私はエゴまみれ。
775 :
ほうねんさん:2014/03/31(月) 01:53:51.64 ID:pSQT0G1n
悟りを得たいというのもエゴの一つ。
776 :
ほうねんさん:2014/03/31(月) 01:55:49.67 ID:pSQT0G1n
エゴを観察するもう一人の架空の自分も更なる虚構のエゴ。
阿弥陀や仏を騙るエゴ。
親鸞はそこまで進んだ。
>>776 でどう決着をつけたんだ?
そこで終わり?
力という誤解。
沈黙に勝るものなし。
779 :
ほうねんさん:2014/03/31(月) 08:49:45.18 ID:4IRyUcw9
他人のエゴを指摘するエゴを指摘するエゴを指摘するエエゴエゴエゴ…。
結論
人間は悟れない
念仏を唱えて浄土で悟り、悟ったのち現世に戻って世の中の苦しみを
減らすお手伝いをする
という物語を創った
>779
それはねぇ、「私とは何か」を考えなきゃいけないところで
「私はどこにいるのか」を考えちゃったんだね。
これでなければあれなはず、
あれでもなければそれなはず。
ちがうんだなぁ。
”私”なんて居ないんだよ。
まぁ騙されたと思って、「私って何?」と
もそっと考えてみなさいよ。
決めつけたり論理で組み伏せたりしないでさ。
積み木で遊ぶ子供みたいにそれをやってごらん。
そうしたらまあ、悟りなんてことは何の問題でもなくなるさ。
誰が悟ろうが悟るまいが、ね。
あぁ、そうそう。
これだ、これだってやっちゃダメなんだ。
どっちかっていうと、これでもなーい、
これでもなーい、とやってくわけですよ。
まぁそんなこんなでやっていくとね、
無というものが本当に実感できると思いますよ。
論理的にどうこうでなくね。
782 :
ほうねんさん:2014/03/31(月) 11:24:38.71 ID:BJe3Eeo7
すいません、別に宗教勧誘ではありません。
ごめんなさい。聞かれたから伝えた ました。
あと、私はそんなに賢くないので、本当に法然親鸞の
ように、修行しても無理かな、と思います。
なんじゃそりゃw
>782
そうですか。それは残念ですね。
>>779のいっているのは、別に779の主張ではなく浄土教はこうしてるって話じゃないの?
>>780のいってるのもただの理屈。本当に。つまらないよ。
「私って何」もいいし、私を「置いといて」念仏唱えるのもいい。
決め付けや組み伏せやダメなんだ、みたいなつまらないものは、「私」に任せておきなよ。勝手に「実感」も私にさせときゃいい。
>>781 本当の自分と偽の自分を区別しなけりゃならないと思うんだけど、
そこらへんはどうなんだろ?
ただそれを感じる自分と、そこに価値観を付ける自分
そういう区別は必要なんじゃないの?
>786
自分に本当も偽もあるかね。
あることを認めたくないとか、人に知らせたくないという思考、
それだって人の心の真実さ。
それで、もしね、あなたがあなた自身の中に
何かしら触れづらい領域のようなものを見つけたとするよ。
抵抗というか、急に見通しの悪くなる霧のようなもの、
血流が急に鈍くなるような感触のものをね。
それはまあ、ひとつの手掛かりになるだろうね。
霧の中にじっと立ってみることだ。
迂回したり、おっぱらったりせずにさ。
そしたらあなたは、その霧の中で、何かのあたらしい
一面を見つけるだろう。それに気付くということだ。
そうなったら、あなたが偽ものだという印象を抱いていた対象、
それは結局、真実の一部だったってことがわかるのさ。
>>786 感じるものの区別、あるいは感じるときと感じないときの区別
やりだしたらキリがなくなると思うよ。
デフォルトに私を設定してるから、区別が始まるわけで。
それからだね。
自分ていうのはいくつもあるだろうか?
いくつもないから、自分なのじゃないだろうか?
どうして、感じる自分と、価値観を付ける自分、
という2人の自分がいるだろう。
そんなこたないのさ。
ひとつのものにふたつの区別、なんてつけたら、
余計にこんがらがってしまうよ。
意識は現れては消えるものをただ映し出すだけで、
私を維持させ続けることもしなければ、それを望むこともないんじゃないかな。
実際1日24時間ずっと私を意識し続けることは不可能なんだし。
体験、経験と言われる感覚の纏まりも、意識というスクリーンに現れては消えるだけ、って
ラマナも言ってたことだしね。
デフォは沈黙なんでしょう。沈黙するんじゃなくでね。
ようするに「今」しか無いらしい
人間だという特権意識もラマナには無かったらしいし
実際に動物に対しても差別しなかったからラマナは
そういったカルマの延長である人間だからとかも関係無い
動物でも優れてたら優れてたと認めてたラマナ
過去も未来も無い悟りには「今」がベストらしい
過去の罪は過去の罪なんだよ
793 :
【大凶】 :2014/04/01(火) 08:56:22.43 ID:74VC+yrn
グルに会えますように
ラマナって写真が大体ほほ笑みをうかべてるけど
誰に会っても目をそらさずにあんな笑顔だったんかな
それって赤ちゃんみたいというか本当にリアルで出会ってみたかったな
不機嫌やイライラしてる所無かったなら凄いなあ
結構怒ってるような
ひとりよがに悟ってるような人と話してて「もう結構です!」っつって黙ったりする描写が
あった。
796 :
ほうねんさん:2014/04/03(木) 01:59:44.10 ID:5oRohHmP
人間は悟れないという人は法然親鸞派です。別に派閥ではありませんが。
もちろんラマナ・マハルシは立派な方と思います。
ちがうぞ。
法然、親鸞は、愚かな人でも悟れるよ、って
言ってるんだよ
798 :
ほうねんさん:2014/04/03(木) 02:28:34.89 ID:5oRohHmP
そうですか。
法然親鸞は自己を見つめれば見つめるほど名誉や欲望にさいなまれる
自分しかいないことに絶望し、だからこそ浄土にて悟らせてやろう、
という阿弥陀仏の本願により信を置くことができる
という話だと思っていました。
立派なカリスマにも卑しいところがあるはずだという方向性の人は
そういう意味で法然親鸞系列かと思いました。
799 :
ほうねんさん:2014/04/03(木) 02:30:55.00 ID:5oRohHmP
ちなみに私も法然親鸞派です。
すいませんが、普通にエロ動画見ます。
法然親鸞が言いたいのは、凡夫の自己が努力して悟りを開くんじゃなくって、
凡夫の自己を越えたところに悟りがあるってこと。
凡夫の自己は愚かでどうしようもないんだよ。
いくら突き詰めても愚かな自分しか出てこない。
いくら聖人になろうとしても、どうしても愚かな自分が出てきちゃう。
この愚かな自分はどうしようもないんだ、ってこと。
そんな愚かな自分と、悟りの世界は、別なんだよ、ってこと。
愚かであれば、愚かなままでいい。
愚かであろうが、偉かろうが、それは凡夫の背比べで、
悟りの世界には全く関係ない。
そういうところを越えたところに、悟りの世界があるんだよ、ってこと。
801 :
神も仏も名無しさん:2014/04/03(木) 03:54:45.40 ID:Sh7B1P5O
凡夫と聖人が共に死ななくてはならない
人や悟りが共に破壊されなくてはならない
識別がある限り葛藤がある
瞑想する者は凡夫でもなかれば聖人でもない
行為の中に無行為を見なければどんな修業も功徳や悪果を作るカルマの蓄積に過ぎなくなる
天人五衰のように蓄積された功徳もいつか尽きる
修業の中に無修業を見なければ念仏も造地獄業
念仏の中に無念仏を見る
簡単に言えば無私
ジュナーナの道を通して識別を捨てる、それは凡夫と聖人を平等に見るということだ
私が凡夫や聖人になるのではない
凡夫や聖人や私あるいは性別そして人間や動物または物質との長い習慣的な同一視を終わらせる
802 :
ほうねんさん:2014/04/03(木) 04:29:27.22 ID:5oRohHmP
私は念仏を唱える時、阿弥陀仏が私に働きかけていると想定します。
そうすると、私に人を妬む感情があっても、仕方ない、というか、
そういう愚かな私を通して念仏させて働きかけると想定ちます。
そうすると、悟りはしませんが、バカな俺でも仕方ない、阿弥陀仏
が慰めてくれているから、ま、いいかと開き直れます。安心します。
精神的に安心できる実益があればなんでもいいと思います。
803 :
ほうねんさん:2014/04/03(木) 04:32:14.95 ID:5oRohHmP
阿弥陀仏というと擬人化効果がありますが、要するに無限大の光です。
納棺夫日記のイメージです。おくりびとの原作です。
804 :
神も仏も名無しさん:2014/04/03(木) 06:27:19.04 ID:Sh7B1P5O
阿弥陀仏と自己との間に開きを作り出しそれを現実と見ているものがいる限り
永遠に葛藤は続くわけで極楽がある限り極楽の外に地獄を作りださざるを得ない
極楽に行きたいと願う自己が地獄に誰かを送り出す
この世とかの世を共に捨て去ると言ったのは誰だったでしょうか
極楽と地獄を共に捨て去り
阿弥陀仏と愚かな自己を共に捨て去る
阿弥陀仏と愚かな自己は不可分一体である
あらゆるものに極楽と地獄を見て永遠の夜と無限の光を共に見る
しかし極楽であれ地獄であれ阿弥陀であれ愚かな自己であれ対象を求め見ようとする限りそれは到達不不可能です
ラマナの言うような主体は常にそこにあり無願・無欲・無私・無行為の念仏であり仏念であり無念です
対象を求める心が反転しなくてはならない
少なくとも他力宗の念仏にそんな小細工はいらんような・・・
ありのまま、そのままの自分のままで阿弥陀に任せる。
自分は変えなくていい。
と法然さんも言ってたような。
自分を捨て去ろうとかいうのは計らいだよ。自分を捨てられないから念仏で阿弥陀に任せるわけで。
いつから念仏のスレに成ったんだよw
807 :
ほうねんさん:2014/04/03(木) 10:39:29.66 ID:5oRohHmP
今、二項対立の話になっています。
詳しい方がいらっしゃって驚きですが、
阿弥陀仏も自分も同じ、不二一元だと
言っている方がいて、その意味ではラマナ・マハルシと
同じだとの考えの方がいます。
個人的には、二項対立の考えも不二一元の考えも
見方の違いなので、その人の状況にあったもの、
瞑想、仕事集中、読書、念仏、坐禅、何もしない
を、個人の選択にて選べばいいと思います。
808 :
ほうねんさん:2014/04/03(木) 10:46:29.93 ID:5oRohHmP
私は、今を重視すれば良いとの世間の悟りブームには
懐疑的です。
それができれば苦労しないよ、と。
今を重視するのであれば、虫とか植物とかになれ、
さらには考えるな、との方向性になり、
社会生活をまともに送れない点で危険と思います。
今やってることに完全に集中してれば自分は無いけどな
北は天であり生命・霊の象徴である。
南は地であり肉体の象徴である。
「南は無い、ただ阿弥陀仏のみが在る」
ということらしい
昔、インドで大変尊敬を集めていた聖者がいて、
ある人が、聖水を神像に振りかけて礼拝していると、
その聖者が、その神像に小便をかけて
「ワシの小便と、その聖水とどう違うというのかね?」と言ったという
悟りの境地を目の前の現実に持ち込むと、そういう事なんだろうね
だから、「私という思いが少しでも残っている間は、
その私を神様にお仕えする私として扱いなさい」
と言ったラーマクリシュナの言葉が、すごく正しいと思える
>>804 いつも浄土系が誤解されるのは、その部分なんだよね。
阿弥陀信仰が偶像崇拝か何かと混同されちゃう。
阿弥陀に救いを求めるんじゃないんだよ。
浄土系の教えってのは、もうすでに救われている、という信を持つこと。
愚かな凡夫である自己が、何かをして救われるってわけじゃない。
もし、愚かな自分が何かをして救われるなら、自力になっちゃうよね。
救われるまで、救われようと努力しちゃう。
こうなると、座禅で雑念を払おうとするのと一緒で、いつまでたっても、
ただ今のありのままに身を任せるってことが出来ない。
浄土系の教えが絶妙なのは、「もう救われている」っていう「信」を打ち出したこと。
救われているんだから、どんなことがあろうと、阿弥陀様にお任せすればいい。
救われることが確定しているんだから、自分が〜、自分が〜、って、やる必要がない。
どんな不幸が出ても、どんな状況でも、すべて阿弥陀様にお任せ。
そうすると、自我がなくなるでしょ?
自己としてはただ、もうすでに救われているんだから、ただ阿弥陀様を称えればいい。
阿弥陀様を称える念仏・・・・ 信の継続さえあれば、徐々に自分の思いが無くなっていく。
ただありのままの今に、身を任せる、受け入れる、という状態。
これが悟りなんだよ。
>>808 >社会生活をまともに送れない点で危険
本当にそうだろうか?
今に無い方が、よっぽど危険だと思うけどね。
例えばあなたがジュースを飲む時、その持つコップをきちんと意識しているだろうか・・・?
大抵は、考え事をしながら、無意識のうちに飲んだりしてるだろ。
そうしてコップを手から滑らせたりして、コップを落としてしまうことがある。
今に生きてる人というのは、常に今に集中している。
一つ一つの動作が丁寧になり、行動に対する配慮が緻密になる。
そうすると、突発的な事故に対する反応も、素早くなるわけ。
どんな職業でも、緻密な配慮とか、緻密な作業なしには、いい仕事は出来ないよね?
つまり、今にいる人間が多くいないと、良い社会にならないってこと。
本当の意味で人が良い仕事をしようとするなら、完全にその仕事と一致しないといけない。
そこに自分の考えが入る余地がないほどに。
思考が今から浮いていればいるほど、仕事が雑になり、思考が今に近ければ近いほど、
仕事が緻密になっていく。
そうして完全に今に一致すれば、思考の出る幕はない。
不自然さを探す作業をやめよう
>808
今を重視しろ、と言ってる?
であればそれは確かに間違いだ。
正しくは、今しかない、ってこと。
人間の大脳に由来する過去や未来の
概念の作用も、全て現在の中に現れている。
未来のある出来事が怖いなら、その映像や恐怖は全て現在にある。
今しかない。未来や過去なんて重視しようもない。
それは、虫であろうと人間であろうと変わらない。
それとも、人間だけ特別に時間の世界を超越している?
そんな馬鹿な話あるかい。
浄土系の他力本願、絶対他力ってのは全ての自力を捨てること。
自分が何かしらできる存在であるという思いや意志や個人存在感を完全に放棄することで
自分にできないことをやってもらってるみたいな安易なことではないと思うんだよねえ。
本当に徹底して自分を捨て去る方法論じゃないかと。
自分は一切何もできない、これまでも今もこれからも自分は何もしていない。
アドヴァイタでいうバクティみたいな。
くわしくないから知らないけど。
>自分が何かしらできる存在であるという思いや意志や個人存在感を完全に放棄する
それだと禅じゃないか。放棄(放下)するなんて修行じゃないか。
818 :
神も仏も名無しさん:2014/04/04(金) 00:39:10.63 ID:eGnmkwxX
意図的に放棄するってことじゃないだろ。
「結果的に完全に放棄した形」ってことだろ。
それから、禅も意図的に放棄するわけじゃないからな。
自然に放棄せざる負えないような状況に、身を置くってこと。
禅も基本的には他力だからね。
819 :
神も仏も名無しさん:2014/04/04(金) 03:23:32.39 ID:3qM/RQzH
悟りからは無限の生き方が出てくる。と考えを転換した方がいいよね。必ずしも
仏陀の倫理観、価値観を踏襲する必要なんかない。物理学がニュートンを乗り越え
アインシュタインをも乗り越えて進歩するように、瞑想哲学もどんどん変化すべき。
「私」が幻影だと悟っても、幻影は続いていく。孤独に引きこもるもよし、
アルジュナ王子の様に戦いに身を投じてもよし。
>819
そうだね。でも変化すべきってのはどうかな。
実際は変化しないんだろう。
不変の無である真理に身を委ねたら、変化はない。
それでも。
ラマナはすごく特殊な人、人間の在り方を
根本から変えた人だと思われている。
全く変わらない、ありのまま、ということは、
違う視点に基づいて見るなら、それが何の分野であれ
大変革を起こす、ということになるのかもしれない。
不思議だね。
思われてねえよ
お前ぐらいだろ
妄想激しいな
あぁ確かに思われてないわ。
何か知らねーけど周りの人間に劣等感を抱かせる
ムカつくじじいぐらいにしか思われてないわ多分。
823 :
神も仏も名無しさん:2014/04/05(土) 04:49:09.74 ID:5mc/cEMA
>>820 「それ」は変化しない。しかし、「それ」に対する人間の理解、説明の言葉は
変化する。そして、倫理も変化する。何もみんながマハリシみたいにふんどし
一つで生きねばならないわけではない。
>823
そうだね。
でも、ラマナと同じぐらい深く悟ったら、
何か変わったことを起こすことになるだろう。
それは別にふんどしひとつで生きることを意味してないけど。
悟っても特別なことはしないでしょう
特別に見えることはするかもしれない
服を着ている必要がない場合は、服を着なくなる
それは他人を怒鳴りつける必要がなくなったから、怒鳴るのを辞めるのと同じ
他人から罵詈雑言を浴びせられたらどういう反応をするだろうか
その他人に殴りかかるのが普通の反応だとしても、おそらくこのスレの人たちは、
まずその状況を見つめるとか、怒りを抑えるとか、「異常で特殊な」反応をするのでは無いだろうか
他人に殴りかかるのが普通の反応だとしてもってのが理解できない
>>826 思わず相手を殴りたくなるような状況を想像してください
天ぷら作ったあとの高温の油を菜箸でぴちゃぴちゃかけられるとかどうでしょうか
それは殴ってでも辞めさせた方がいいですね
すいませんでした
いやいや普通は反対方向に逃げるでしょう
なんで油のある方向に向かって行くんだよw
お前らアホか。
わかりませぬ。
Q 何故私達は自分を傷つけた人を傷つけて復習したいのですか?
A これは本能的な生存上の反応でしょう。ところが智慧のある心、覚めていて、それについて深く
よく考えた心は、殴り返したいという願望を感じません。
徳を持とうとし、許しを涵養しようとしているからではなくて、殴り返すのは馬鹿げているし、
全く意味を持たないと知覚するからです。
しかし、それには瞑想が必要でしょう。
子どもたちとの対話 クリシュナムルティ
その瞑想というのはどんな瞑想なのかな。
あと、話は違うんだけど、物理的現実的に福を得る、幸運を呼ぶというのは
どうすればできるのかな。
現世的利益に執着するなといわれるかもしれないが、世の中理不尽なことも多い。
病苦や貧困にあえいでいる人に対してはそうは言えんわ。
現実的努力をしろ、という人の今もっているもののうちどれだけのものが自己努力の結果なのか
ということを考えると。
現世利益を謳ってる宗教団体のスレで聞いてみれば良いよ
物理的現実的に福を得る、幸運を呼ぶには現実的かつ合理的に努力するしかないよ。
人によって境遇や環境が違うという現実の中で自分が何を求めどう生きるのか一人一人が自分で考えるしかない。
他人と自分を比べて、理不尽さやマイナス点に焦点を当ててそれを努力しないことの言い訳に利用したり、
スピリチュアルに傾倒してそれを非現実的な魔術的思考を強化するために利用したりしていると、
現実的にコツコツ努力することの心理的抵抗が増していくだけだと思うがね。
そもそも物理的に何かを得ることが本当にいいことなのかっていう
病気や貧困もそれがいい修行になるから満たされているよりいいことだって見方もあるよね
修行するために修行できるぐらいの健康さや環境であることがいいという見方もあるけど
まあ大体予想通りの嫌悪感ありがとうという感じだ。
最近ハンセン氏病の人の本を読んで、病気は治せないとしても
あまりの物理的な苦しみに対して、少しでも周辺環境がよくなる
ことはないかなと、非常な切望が沸き起こったのできいてみた。
宗教的にはそうした苦しみの全てを「外的」なものとみなされるまでに
「私」を突き詰めたところに救いがあり、そうしてこそ苦しみの意義もある、というのが
模範解答なんだろうけど。
俺は正直自信ないな。ハンセン氏病はじめほとんどの現世的な苦しみに
合理的な理由なんてないのだし、かかって全てをうしなっても「私」だけは
手放せずに絶望したまま死にそうだ。
みんな自信満々だな。
他者への共感は大事だよ。
でもあんた自分を見失ってるよ。
起こっているすべてのことは、「私」ではない。
外的環境も、思考も、感情も、意見も、自論も。
病気も行動も罪も、利益も損失も
しかし真我を達成するまでは、それらと付き合っていかなければならないね。
「苦しみ」を通して真我に導くのが神のやり方だとラマナは言ったが、
そのなかでじたばたするのもまた神の計画だろう。自我がある以上は。
まあ自分に問うべきだよね
他人と話したり聞いたりするのもいいけど基本はさ
長くなったが、疑問はシンプルなもので、
病気の人間が病気を取り除いて欲しいと神に祈るのは、
間違いなく「現世利益」だがそういう祈りは否定されるものなのかな。
病気を取り除いて欲しい、ではなく、病気の苦しみを取り除いて欲しい、
あるいは苦しみとうまく付き合えるようにして欲しい、なら正しいのか。
しかし、結局同じことだね。どれも自我かわいさであるなら、現世利益だ。
ラマナのように粛々と受け入れるのが正道なのか、
それとも少なくとも神に心を向けている分、ましなのか。
結局はどちらも同じで、恩寵はむこうからやってくるんだろうけど。
自我が降伏するまで。
出来ることをやるだけだろ
苦しみとは何であるのかわかりたいでいいんじゃない?
苦しみが何なのかわからないのに苦しい苦しいなんとかしたいじゃたとえその苦しみがなくなっても
別のことで苦しみそうだよね
自我かわいさというけど自我を肯定しようという自我の働きと自我が何であるのか知ろうとする自我の働きの違いがあると思うよ
俺も病気のとき現世利益も願った慈悲の瞑想をやったんで、気持ちはわかる
自分より酷い病気の人のために祈る代わりに、自分にも癒しをくださいみたいな気持ちがあった
ただ、それでとりあえず良くはなったから、現世利益を願っても願わなくても、
システマチックにそういうものが働くのかもしれないと思っている
善がよこしまな気持ちで行われても、ある程度のリターンがある
ただ純粋に善であるのならば、自分がしたのと同じ善が返ってくるのではないかと
病気はつらいけど自我が降伏するまでってのもわかる
世俗に生きる我々は本当に中途半端だから困るよね
ああ言ったらこう言う的なグニャグニャしてるから悟れない
悟りの境地とは世俗を離れた別世界なんだって理解が仏教なんだとしたら
ラマナはそんなことはない
悟りとは日常にある在るがままなんだって話したからそこは違うよね
とは言っても
ラマナ本人はとっても世俗で仕事して生きていける状態じゃないけどね
そうですね。自我にデフォルトが沈黙って思わせればいいだけですもんね。
皆さん誠実な返答ありがとう。
仏教では生きること自体が苦しみであり、彼岸へわたることを目的に設定している。
キリスト教でも苦しみを恩寵としているね。
だが健康なとき、病の苦しさについてなんとでもいえるけど、きついのは単に病気そのもの
だけではなく未来を絶たれ現在も苦しく過去の追憶もまた自分を苦しめることだろう。
ハンセン氏病で日本人で、老境に入って発病した婦人がいきなり家族から切り離される
というケースもあった。家族との未来も過去も自分の現在もすべて奪われるような
事態は過去にいくらでもあったし自分にもいくらでも降りかかることだろう。
そのときにどう振舞うか、その答えがあるなら、健康なときにもそれを適用しないと
矛盾だよなぁ。ある程度今が恵まれているなら、あるがままでいるのも簡単だが、
予想外の外的事態の変化のさなかにあるがままでいられないなら、それは見せ掛けのあるがままなんだし。
自我に主体を置いている以上、現世利益を馬鹿にできない。
金や健康も現世利益かもしれないが、逆に金や健康に対する執着のなさを誇る気持ちも
それが自我に貢献するなら同じように現世利益だ。
主体が真我(神)にあれば、夢幻である自我や現世がどう転変しようと、ある部分では
安心できそうだけど、そんな降伏俺には無理だね。
>自我を肯定しようという自我の働きと自我が何であるのか知ろうとする自我の働きの違い
結局はここに行き着きますね。
ラマナ・マハルシの
「世界のことは世界にまかせない。」
「あなたは、自分の面倒を見なさい。」
この言葉でどれだけ楽になったことか。
世の中の事で何が起ころうと、自分にどうすることもできないから
正直気にしない。
変な正義感の強い人間に責められそうだが、知るかそんなもん。
そういう奴は、世の中の問題に全部責任をおって解決してみろクソがよ
>>849 行に重きをおくか、沈黙に重きをおくか、
ラマナは沈黙がデフォだと言っているのではないかと思う。
沈黙して生きるのと沈黙であるのとは、違うんじゃないかな。
852 :
神も仏も名無しさん:2014/04/06(日) 21:48:57.41 ID:He3bmrD3
TVやらラジオで普段なじみのない宗教放送を聴いていると、凄い妄想の世界
だなと思うだろ。 先入観なしの白紙の頭だと正しく見える。
ラマナは偉大だとおもうけどやはり妄想だとおもうよ。沈黙という妄想。
853 :
神も仏も名無しさん:2014/04/06(日) 22:10:04.19 ID:T9y+W7mb
思いが1つもない境地が沈黙。心が沈黙している。
活動に私を見い出すものにとっての探求は
活動を根拠にするか、沈黙を根拠にするか、どっちかだけだと思うけどね。
とは言え、行は常に沈黙の内に流れていくものだろうけれど。
「自分はかくも善良で慈悲深い人物である」という自己イメージを維持するために、
他者の不幸や不運が利己的に利用されているからでしょ
858 :
神も仏も名無しさん:2014/04/07(月) 13:36:47.43 ID:X4Cx6Jw3
ラーマクリシュナの信仰していた
カーリーは上級者向けだな。
なんか生首持っているし。
俺はラクシュミー様を信仰することにした。
富を与えていただく。
おっといかん。
見返りを求めてはいかんね。
ラマナ・マハルシのペットの牛の名前
ラクシュミー
ワロタwwww
心の破壊とは精神世界の喪失でもあるわけだな。
そういう意味で、私がラスボスになるわけだ。
私は私が在ることを保障するために、精神世界という虚構を作り上げてるんだな。
つまり、私は精神世界でしか存在できないと。
私は万物を精神で汚染してるわけだ。
私は万物を精神世界に閉じ込めることしかできない、ってことだな。
というか、できてないんだけど、そうしてると思い込んでるってところか。
そうだね。
では、これはどうだろう。
精神世界に閉じ込めてると思っているけど、
実は閉じ込められていない。
じゃあ、精神世界でしか存在できない私は
どこにどうやって存在しているんだ?
その精神世界をして私としてるんでしょ。
でも実は、私は意識の上に時折現れてくるだけ。
では、精神世界ってどこにある?
ないよ。自分の部屋が単なる空間だったってこと。
ふむ。まさに「私」は存在しない、ということだね。
そそ。ワンネスなんて結局は精神世界の消失を意味してんだろね。
シャンカラが言ってるのは、
そういう、いかにもなニューエイジ的発想ではないと思う
先哲、先賢の残したインドの伝統をきちんと学ぶべきだと思う
「イカサマ師に騙されて死ぬよりは、不信心者として死ぬほうが良いのだ」
というヴィヴェーカーナンダの言葉を思い出す
まぁそういうヒンドゥにかぶれている人はあれだが
結局自我考えがいろいろとうるさいから
悟りとか求めるんであって
それが収まっちまえばその先になにもないでしょ
早く収まりたいわ
収まるもなにも、一日のうちで収まってる時間の方が長くね?
>>870 ニューエイジ的ってのが詳しくないんでわかんないんだけれども、
要は精神活動の解体ってことだろうと思うよ。
素晴らしい境地とか、秘められたパワーとか、それこそ引き寄せの法則とか
そういうものが一切合切消えてしまうことを意味してんじゃないか、ってこと。
精神活動の解体を目指しても、行き着く先は精神病院じゃないかな
そういった精神活動等とは一切関係が無く、それらを照らして
あたかも、それらに意識があるかのように思わせているのが
アートマンだというのが、シャンカラの言っている事ではないかと自分は思う
>>874 在るは在る、ただ在るとは私の精神活動に支えられて存在しているわけではないよね。
知識の限界の継ぎ接ぎ論じゃなくて。
>>850 他者に怒るのも他者の不幸に絶望するのも、結局は自分の心の面倒見れて(整えられて)ないから。
同等だね。絶望も現状への怒りの一種だから。
>>856 それは自分の思考様式の投影。
世の中鬱の人とかで、本気で他人の不幸で気がめいる人はいる。
逆に走ってニヒリズムに陥るようなタイプすらいる。カラマーゾフのイワンとか。ま、病的だけど
このスレみたいにごちゃごちゃ理屈を言っても何の意味もないんだよ?
>>877 とりあえず書き込むボタン押す前に何をしてるか自覚してくれw
879 :
神も仏も名無しさん:2014/04/08(火) 22:49:45.38 ID:2Gdw9Tg4
おお、日夜怠惰に耽っている者よ
依然として第一歩に留まっている者よ
おお、お節介者よ、夜ごとそなたのために
神の最高峰から啓示が下されている
そなたは礼儀知らずの男のように己の場所から
昼も夜も歩を進めようとしない
栄光の最高峰から出迎えが来たが
そなたは後ずさりして彼らを避けた
ああ、哀れだ、そなたはそれを行う男ではない
結局、この苦しみは誰に告げることができるのか
そなたの前途に天国と地獄がある限り
そなたの魂はこの秘密をどうして知ることができようか
これら双方からそなたが完全に抜け出る時に
幸運の黎明が夜からそなたに訪れよう
天国の花園はこれらの者たちのためにあるのではない
なぜならそれは心ある人たちのための最高の館だからだ
そなたは男たちのようにあれこれを断念せよ
それらを超えよ、あれこれに執着するな
そなたが双方を超越した時に、そなたは独りになろう
たとえそなたが女であっても、男になろう
鳥の言葉
880 :
ほうねんさん:2014/04/08(火) 23:31:16.86 ID:bamyjR6F
不二一元論って
人類、生物界を海に喩えると、波が自我、アートマンで、
その背後にある海がブラフマン、宇宙の根源じゃないんですか?
881 :
ほうねんさん:2014/04/08(火) 23:35:54.15 ID:bamyjR6F
精神病の方を差別するのは、aの波をbの波が
嘲っているに過ぎない、しかし、今度はbの波を
…以下同文。
結論
人間は悟れない
お勧め
念仏
理由
集中して自己を光の世界に託す、お願いする点で気が楽だから。
日常生活か破綻しないから。
金もかからないから。
宜しければ、です。
883 :
ほうねんさん:2014/04/08(火) 23:51:48.83 ID:bamyjR6F
悟りたい悟りたい、上から目線で愉悦だから
悟っているヤツを攻撃したい、上から目線で愉悦だから
以下同文。
人間の感情はグルグル回る。
結論
人間は悟れない。
私は堀北真希の写真集買いました。
ええ、変態ですよ。変態でいいです笑。
結論
あなたは、人ではない
人という種別は、幸せになる事が出来ない欠格生物
理想を目指して、どんなに努力しても、ワタミのようになってしまう
あなたが、人である事から解放されない限り、幸せにはなれない
>>880 海がブラフマンなら、波は宇宙ということになるんじゃないかなあ。
>>882 具体的にどの書き込み?いくつか書き込んでるけど?
>>886 いくつか書き込んでるっつわれても、ID変わってるんだからわかるわけないだろW
どの書き込みっても、超能力者じゃないんだからさ。
いきなり自覚しろっつわれても、そこんところの常識まず自覚してくれ。
ちがうけどなにか。
ようするにあれか。
スレに書き込んでいる人が、スレに書き込んでいる人に対して、ごちゃごちゃ言っても
意味がない、といってることが矛盾している、それを自覚しろ、といってるわけだね。
すみません。俺がしっかりよまずぼけてました。
891 :
ほうねんさん:2014/04/09(水) 00:56:43.98 ID:yy9gcKRm
>>880 私はおおむね、それで正しいと思うけどな
ただ・・・、
>>883のレスが気に入らない。
掘北まきなんて、どうでもいい。
ほうねんさんは自分の心が全然見えないね。
心を無視するから現実も見えないね。
どうしてそんなに鈍いのさ?
ゲシュタルト療法でも試してみたら?
894 :
ほうねんさん:2014/04/09(水) 08:23:56.74 ID:yy9gcKRm
そうなんです。
私は自分の心も見えないし現実も分からず、
ただ堀北真希をあがめる変態なんです笑。
堀北真希をあがめたり写真集を買うのが変態だという認識がすでにおかしいけどな。
まいた種を刈り取ることのない道があったとしても、その道を行く者は無に等しい
もともと変態の定義とは
898 :
850:2014/04/09(水) 16:40:50.83 ID:9ZnHwpDc
>>855 神の意志によりイライラさせられました。w
>898
イライラさせられたのか?
それともイライラしている何かを観ていたのか?
900 :
神も仏も名無しさん:2014/04/09(水) 23:53:26.63 ID:ToLpKLow
天使たちに愛はあるが、苦しみがない
苦しみは人間だけにふさわしい
愛において足元が強固な者だれも
不信仰やイスラームを超越する
愛はそなたに清貧の扉を開く
清貧はそなたに不信仰への道を示す
そなたに不信仰も信仰もなくなる時に
そなたの体は消え、魂はなくなろう
その後そなたはこのことを(旅)を行う男になろう
男にはこのような秘密が必要である
男らしく足を踏み出せ、恐れるな
不信仰・信仰を乗り越えよ、恐れるな
いつまで恐れるのか、稚気を捨てよ
勇者のようにことに立ち向かえ
もしそなたに突然百の障害が生じても
恐れることはない、この道では生じることだから
鳥の歌
>>870 それはいい言葉だね。
イカサマ師に騙されている人がどれほど多いことか。
俺は不信心者として死ぬか。
グルはいらねえ。イカサマグルに巡り合うだけだろ。
よほど徳のある人だな。ラーマクリシュナとかに巡り合えるのは。
ラーマクリシュナだけがグルとはあきれた。
一体あなたにとってグルって何なんだ。
名声か?
雨に濡れた蜘蛛の巣を静かに見てみろ。
そこにグルは居る。
あるいは沼の朽ち木にすがりき、一晩水に浸かって凍えた明け方、
霧の中で開く睡蓮の花弁をじっと静かに見ていろ。
そこにグルは居る。
仏教もブッダが生きてた頃は思い切りヨガなんだよね
ブッダ自体がバラモン教の聖者だし
何か仏教とヒンドゥーのヨガってまったく別々って感じするけど
坊さんがしてる座禅の原形はインドの宗教だから
ヒンドゥーからすると仏教もヒンドゥーの一派らしいね。
ブッダって釈迦の事か?
釈迦は王子だったからバラモンじゃ無くてクシャトリヤだろ?
>>903 ヨガっていうと日本ではハタヨーガだけとしか思われてないもんな・・
もうエクササイズとしか思われてない
東洋の精神文明は全てインドに負い、西洋の精神文明は全てユダヤに負う
って、誰か言ってたな。
すごい偏り方だな
908 :
ほうねんさん:2014/04/11(金) 01:15:47.71 ID:A4VSzlQO
話の流れが、ブッダもラマナマハルシもシャンカラも
法然親鸞も同じだと見なそうと思えば見なせる、
ということを、言いたいのだと思います。
ブッダとクリシュナってどちらが古いんだろね
インドも広いからブッダがどんなインド宗教の聖典を聞いたかわからないが
悟りの境地を重んじるあたりは凡我一如思想から影響受けてるような気はする
ヴェーダ聖典は釈迦がいた時代からあったでしょ
不二一元の思想の源流も、ヴェーダの一部であるウパニシャッド
お釈迦様も家を捨てて、いきなり独居して瞑想したわけじゃないんだよ
家を捨てた後、始めはバラモン僧の仲間に加わり一緒に修行していたはず
911 :
神も仏も名無しさん:2014/04/11(金) 10:42:45.83 ID:+6QhPV3f
ヒンドゥーの聖典バガバット・ギーターを読むと、
これ禅で言ってることと同じだと感じる
どんな聖典でも似たような所は必ず有る
>>902 それはいいな。
雨に濡れた蜘蛛の巣は洗脳してこないからな。
しかし、悪い教祖にだまされたら
悪い影響を受けて、悪い方に進み悪いカルマがたまるんだろうね。
悪い波動を放ってるだろうからな。