たとえ行いがあったとしても、
>>1のように「愛」が冷えている者のすることは、
すべてが空しいことである。
「愛」が冷えている者は、その傲りゆえに、自身がそうであることにすら、気づかないからである。
神のひな型となる者には、必ず「愛」があり、神が愛であることをまずは語り、教える。
他人をむやみに排斥したりせず、「聖書を読んでいるか否か」で他人を判断したりしない。
「愛」は、神から来るものである。
つまり、「愛」のない者は、どれだけ聖書に目を通していようが、行いが大切だと言おうが、
神の御言葉が身になっていない以上、神からは遠い存在となる。
神を愛する者は、「人間(肉)の基準」ではなく「神(霊)の基準」で判断することを身につけよ。
「聖書に目を通しているかどうか」は大した問題ではない。
神に対する愛を根付かせ、そういう者たちを増やし、彼らを神の御前に集めよ。
また、彼らに神の御言葉を心に蓄えさせよ。
「御言葉に渇く者」を作るな。
神を愛する者は、自らを「御言葉の湧く泉」とせよ。
そして、「御言葉に飢え渇いている者」に、霊的な潤い(御言葉)を与えよ。