悟りを開いたことあるけど何か質問ある?26

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566神も仏も名無しさん:2014/06/22(日) 10:33:21.63 ID:BY6Hfe0h
己の本性を知りたい知りたい知りたい、それは空でしたと、いったい誰が知るのですか。
知るものがいないことを知るものは…、いったい…。
567素人A:2014/06/23(月) 08:13:53.17 ID:VRSvqHkX
ショーペンハウアー自身の決定的な貢献は次の認識にあります。私たちの外的な目は時空の場の中のみかけの現象しか見かけ
ませんが、しかしこれらの現象全ての内的経験は、意欲する主体としての彼、彼女、ないしそれ自身の経験なのです。この内
的経験はー私たちには隠されていますがー実際は、アートマン=ブラフマンすなわち普遍的自己のエネルギーの経験なのです。
ただそれは幻影である個人自身の死の恐怖および幻影としての生存への欲望によつてサンサーラ(時間的な幻影の影)に繋がれ
ているのです。つまり(生の意志)の衝動は自分自身としてのアートマンの経験ですが、それはーショーペンハウアーの認識で
はー「同情」(慈悲)の洞察という形でのみ生起します。それは菩薩の性質に他なりません。彼は有名な論文「道徳の基礎につ
いて」の中で次の問いをだしています。(続く)
568素人A:2014/06/23(月) 08:15:16.23 ID:VRSvqHkX
442 名前:素人A :2014/06/23(月) 08:11:36.77 ID:VRS
 (続き)「ところで、私のものでもなく、私と関わりない苦悩が、それ以外の場合には私自身の苦悩だけがそうである
ように直接に私動機となり、私を行為へと動かすという事は、どの様にして可能なのだろうか。[・・・]この過程は神秘的で
ある。それは理性が直接に報告しえないものであり、それらの根拠を経験によつて見出すことの出来ないものである。にもか
かわらず、それは日常的なことである無常このうえない人、我欲きわめて強い人にとつてさえ、無縁な事ではない。この現象
は日々われわれれの目前に、個々のことにあらわれる。熟慮を重ねる事も無く直接的衝動によつてある人が他人を助ける、
救援に駆けつける、それどころか見知らずの他人のために、その他者の大きな困惑と危険とを眼前にしているということ意外
には何も考えることなく、自分の生命をきわめて明白な危険にさらすことさえある。[・・・]と」(つづく
569素人A:2014/06/24(火) 07:32:07.16 ID:JxuZyn9g
何か今朝は頭の上に雲がかかって頭重い何もネタ思い着かないので孝子師匠の詩貼り付けよう。 あの海へ帰りたい
低く流れる雲が雨を連れて来る 淡い風がせつなさをかきたててく 愛を見失ってからずっとはぐれてる 行くあて当ての無い
航海をつづけている こうして何時かは知らない二人にになる 過ぎ行く季節は誰にも止められない 最後の夏にあなたと過ご
した あの海へ今帰りたい 呟く私に あなたは静かに笑った 古い映画のようにたどる思いでは いっかきっとモノクロの
世界になる あなたが私に注いでくれた愛を 心にしまつて誰かと歩くけれど 迷子になった雛鳥のように あの空をただ見つ
めてる こぼれた雨さえ 全てが私をまどわす 幾つの夏を二人で はしゃいた 青春はもう帰らない 溶けてく夕日が 
波間にひかってきらめく 手を振る私に 重ねた季節が微笑む
??結局師匠の詩は最後はひっくり帰って是で良いのだ少しずつ少しずつ安心が来るぽつ師匠も色即是空は空即是色と帰す視
知らず知らずの内に毎度コントロールされる歌も
570素人A:2014/06/25(水) 06:29:27.93 ID:FgPe2fkk
この頃あんまり冴えない朝になるのは何でか今日の夢も夢の中で平凡な社会生活
を家族と真面目に法を守つて窮屈に夢の中で生活していたなあ 起きてからもつと
破天荒な夢みたいな夢見れないのかと怒つてもしょうがない夢が続くし社会に
こき使われて生きるしか人間に自由はあるのか 公安なのかこれじゃ戦争が怒つた
ら戦場に行く私七日 縛りのない自由とは?不自由でも楽な社会の中が良い鴨
571素人A:2014/06/26(木) 06:07:24.46 ID:cwrbiSqM
玄沙和尚はあるとき旅にでようとしてすぐ足の指を石にぶつけイテテ。この痛みは何処空着たのかと突然想い旅はやめて寺に
引き返したとか?雪峰和尚が何故お前は旅に出ないのかと聞いた。そうしたら、玄沙は「達磨は中国に行きませんでした、慧
可もインドに行きませんでした」と答えた。??テレビを見ている人が旅の番組で色々な所に旅する気分になるけど、冷静に
見ればテレビの光が色々に変化しているだけ、見ている人はテレビの前に居る。あたり前だ私は今パソコンの前で2ちやんの
朝の出鱈目を書いている。色即是黒写っても写らなくてテレビはテレビパソコンはぱそこん光の乱舞だけど真っ黒なパソコン
の前で見続けるのは辛い、けど坐前つまり坐前禅なら盲見続けられる視でも空たまには空でも色々な光も見ないと?色即是空
空即是色。テレビやコンピューターの機会がないと見ることも無い暇でもつまらないお年よりもいるし、まあそれもよいか。
もしかしたらいやもしかしなくても 今いる私の体や考えている思いも
体の外に見える風景や社会環境と一緒で見ている者?の外にある野かも
般若真今日では空が色々見えているのだと言う視 でも体は自己責任だ
しいい加減な事するとほらホラー映画見させられる視 いまはバーチャル
な夢というかテレビゲームの仲に居る渡しが主人公の役名なの化
572素人A:2014/06/27(金) 06:20:02.10 ID:+fH/Gq8J
外に見える物は実は無い?変換すると外にあると見得る物は真実は内になる野鴨?まあ色々見得るものは永遠の灯火?自灯明
法灯明から空くリーに映し出された映画の如し出今此処で見絵た物ばかり7日。習慣実話は適当なでっち上げの話題ばかりで
話題を引き伸ばそうとするが何故か今朝は三行も書かずに終わるのか?それで良いのかくだらない事にこだわる朝はもやもや
の中で無理に四行か?自灯明も泣いている鴨。得ろ意話題何でも話題にしている週間実話は面白い私は鴨いや読者か?自己反省
しているようで長く伸ばしているたけ?何か長くしてないといけないという事は無いけど習慣はじつはだしだらだらも実は内で
落ちは着かないので、探していた青い鳥は内にいた野鴨、毎日同じことばかりしていると毎度コントロールされる鴨
573神も仏も名無しさん:2014/06/27(金) 14:10:52.31 ID:SNbka1Zw
何も言わなければ伝わらないし、口を開けば枝葉ばかりで伝わらないし、立場が違えば受取り方も千差万別
同じ場所にいて違う夢ばかりで、いっそ何も思わず何も伝えずただ悶々と時が過ぎる。
それでいてさえ、己一人の心がざわざわ騒いで片時もじっとしていない有様。
いったい私は誰に何の言い訳をしているのだろうか…。
574素人A:2014/06/28(土) 06:53:15.27 ID:NiUvrqmu
十方玉城康四郎さんの解説より、・・次の項目は身体である。十方全体はしゃ門の全身であると言う。頭の頂き、眼の玉、
鼻の孔、皮にく骨髄その悉くが、十方を動かすことなしに十方に透徹している。もはや思慮分別のいとまもなく、十方全体そ
のまま紗門の身体である事が際立つて現われて来る。もとより業熟体も透徹している。がしかし、これまで私ににとってまっ
たく気が付かれなかつた風向である。『無量寿経』に記されている。業熟体は不可思議であるが、仏の護念はいっそう不可思
議であるという説法が、はるか遠い沖合いから伝わってくる潮騒のように響いてくる。(つづく)潮が騒いで続くのが潮騒化
是はしょうもない駄洒落化兎に角私には響きも泣く修業もあまり竹刀空か?坐禅や瞑想摺れば少しは潮が騒ぐのか私の周りは
十方見渡しても人工の煩悩の中しか見えないしでもまあ良いか?まあ少しずつでも前進して全身使用
575素人A:2014/06/29(日) 06:42:27.99 ID:9JEbdwwn
人工が減ってく本当の原因はコンドームが使用されるからなのかと気が付いた。性的本能は子孫作るという目的がある
けど今は子供一人つくれば後は作らなても善いしれじゃ人口が減るのは当たり前か。男ならエロDVD見てオナニー
で済ますし?私は子作りの年齢は過ぎているから義務は果たしたからDVDおーなにいしても好いことになつている
けど?食欲にしても権力にしても今の時代は自然な動物の本能以上に目的から逸れて使用されるようになつているし、
国や社会は大法輪の応用なのにその輪を小さくしか守らないしそれより外の大は外としてしか見れないし兎に角少し
は本来に還らないと不味いことになる。でも今が楽で楽しけりゃ後まで面倒見るのは大変だし、私はするずるずるず
るく流されるし。まあ反省と努力は適当が良いし。まあ成る世うになるし、我々は僧では無いからまあ少しだけ輪気
おつけようで誤魔化そう。結局落ちも無くでも落ち着いている。居直りか?当たり前は当たり前の理屈がある空功や
つて説きは空廻りして適当に時はすすむカラーまあよいか
576素人A:2014/06/30(月) 06:24:43.49 ID:Lj9axJVF
タントラ思想の場合、ムーラーダーラにあるスシュームナーの門の両側、イーダー神経とピンカラー神経の始点に立つ、月の息
と太陽の息の人格化は、調度この二つの像(仏教寺院に聖域を守る二つの像仁王となんとかと、キリスト教ではケルビムとなんと
か)に相当すると考えるべきです。なぜなら前述のように、月と太陽に分化したエネルギーが混ざり合って一つの火となるのはま
さにこのユクタリトヴェニー、つまり三つの川の合流点においてなのですから。それからこの火は突風のように、覚醒したクン
ダリーニを伴って中央の道を駆けあがります。二つの息がこのように融合するまで、中央の門は閉じられたままです。つまりま
ず必要なのは、修行している個人の月の意識(肉体の中にある意識)が、万物を生気づけ照明する太陽の意識と同一のものとして
経験されることなのです。さもないと精神は物質の中に閉じ込められたままにとどまります。そして身体と経験が物質のみに属
するか、あるいはなんらかの超自然的な空想に心を奪われて(宇宙は物質のみから出来ているのだから)魂ないし精神はど゛こか
の宇宙とは別の場所に捜し求められるなどと考えてしまう事になります。(つづく)
577神も仏も名無しさん:2014/06/30(月) 09:24:54.93 ID:AfcCp1Zo
全てが今ここにある、目に見える世界も見えない世界も全てが今ここにある。
全てが我々の内側にある…。
578素人A:2014/07/01(火) 05:57:25.67 ID:ka4ROCHC
十方解説(つづき)最後の項目は光明である。十方全体は自己の光明であるという。その自己とは、父母未生以前の鼻
の孔であるという。その本当の自己が実現すると、仏殿の扉が開いて仏にまみえる。しかしいっのまにか、別人のための
ものと取替えられていままう。またそれを打破してあいまみえる。私はこの繰り返しを何十年ものあいだ性懲りもなくつづけ
てきたことであろうか。道元もまた同じ思いを経験していることに親しみを覚える。「本来の面目を呼び出す事はやさしいが
、忘れ去る事は難しい、しかし呼び出されるならば、これまでの私はぐるりと回転する。回転すれば何の用もなくなる。おや
おやまだ解らぬか、三十棒を恵んでやつたではないか」この簡潔な一節のなかに私の何十年の悦楽と失望の絡み合いが凝縮
されている。・・・
579素人A:2014/07/01(火) 09:44:48.21 ID:ka4ROCHC
鏡と鏡が出てきたのでネツト検索したら鏡と鏡が向かい合うがあった?

哲学難しいけど面白い。
http://swansong3478.web.fc2.com/00440taikakusen.html
580素人A:2014/07/03(木) 06:19:39.05 ID:3SvljAko
師匠哲学とは?瞳に映った悟りを百文いや見えない万文で誰にも解るように書く
事と?でもこの人はどうでも絵画を人々に見させるためにだらだらと書いて凄い
努力している。顔も難しい哲学者の顔だし。悟り体験した聴衆は言葉で答えが
庭先の柏の樹?是も体験したら解るのか。私もまた迷いだしてわけの解らない
今朝は何か書かないといけないと義務感なのか仕事なのか?詰まらない事を長く
伸ばしている。意外と私は哲学者タイプ鴨知れない。悟り途はさあ鳥合え図はまあ良い化
581素人A:2014/07/04(金) 06:40:27.98 ID:g5SoDssq
宇宙意識 ・・・さてこの伝説を概観して驚かされるのは、仏陀の敵対者の名前と、ジョイスがあげている芸術家を芸術の
「本来の」道からそらせるところの動機とが見事に一致してる事です。すなわち(1)カーマ(欲望)(2)マーラ(「死」すなわ
ち「死の恐怖」)(3)ダルマ(社会的義務、徳、および関与)というわけです。また未来の仏陀が己の目的を追求するために
坐った<不動の地点>という観念も意義深いものであり、これはブラック・エルクの言う「世界の中央」に対応しています。
つまりあらゆる処にあり、そこから彼が「聖なる作法にのっとつて」万物を見た場所です。それは地理的な場所ではなく、
処々の生命を苦悩と悲惨へと強いる妄想的な欲望、恐怖、関与の渦動から開放された精神状態なのです。T・Sエリオットの
「バーント・ノートン」の一説にもそれが表現されています。(つづき)
582素人A:2014/07/04(金) 07:25:52.48 ID:g5SoDssq
(つづく) まわる世界の静止点、肉でもなく、肉で無いものでもなく、そこからでもなく、そこえでもなく、
その静止点に踊りがある、しかし停止でもなく、運動でもない、それを固定点と呼んではいけない、そこに
過去と未来が集まる。そこからの運動でもなく、そこへの運動でもなく、登りでもなく、降りでもない、
静止点、その点がなければ、踊りは無いのだ、あるのは踊りだけだ。 
わたしたちは、そこへと行ってきたと言えるだけで、どこへとはいえない。どのくらい長くともいえない。
そんなことを言えば、時間のなかに、それを置くことになるからだ。実際的な欲望から解き放たれた内面的な自由、
行為と苦しみから解き放たれた内面的な自由、行為と苦しみから解放され、内面的と外面的な強制から開放されながら、
しかも恩寵感に包まれて静止しながら動く白い光〔・・・〕 (まだつづくのか)   
精神点は時間の仲に置く体?置いては遺憾と遺憾?でも此処に置いてるし?
583神も仏も名無しさん:2014/07/05(土) 03:10:28.71 ID:SSuOuMya
以上、デブオタニートの駄文でした
584素人A:2014/07/05(土) 08:01:48.26 ID:RiqBExxl
(つづき)<超越的ビジョンの眼>が開くのはどこでもない「そこ」においてです。芸術家の道においてもそれはまさに
あの瞬間「美の全体性によって捕らえられ、美の調和によって魅惑されていた心が、美の至高の徳性、審美的映像の明るい
光沢を輝かしく認識する瞬間[・・・]審美的快楽の輝かしい静寂な状態」に外なりません。インドではこの精神的状態に
到達することがヨーガの典型的な目標とされています。それはさまざま記載されていますが、究極的には涅槃と呼ばれるも
のです。これは天国のように場所としてではなく、情念、像悪、、?読めない字、そして迷妄という心の中の三重の火が消
えることとして理解されねばなりません。vaiという語は「吹く」を、nir-vanaは「消す」を意味しており、nir-vanaを文字
どおり解すれば「吹きけされた、消滅した」という意味になるからです。では吹きけされたものは何でしょうか。(つづき)
?私庭欲解らん起きて半分寝て半分でまあ良いかまだつづくのか朝の仕事?
585素人A:2014/07/05(土) 08:03:04.01 ID:RiqBExxl
(つづき増した)輪廻と関連して言えば「吹き消された」ものは再生の衝動および欲求であり、それゆえにこの意味では
生(未来の生)が吹き消されたと言えるでしょう。しかし現在の生との関連では吹き消されたものは生ではなく、欲望、像悪、
ないし恐れであり、またそれが喚起して代表しているところの無知ないし妄想です。これらは、すでに見たようにまさしく
ジョイスが非本来的芸術の特性と認められた動的な性格をもっています。他方本来的な芸術のは眼と精神の静的状態を呼び
起こします。眼と精神は「引きとどめられて」私達の物の見かた(ビジョン)を偏らせる諸要素を「超越したところへ高めら
れる」とジョイスは言います。ここから神秘家の道と「本来的な」芸術家には関連があるという結論が導かれます。
(つづく)つづ苦のか三増奉仕の旅は明日へつづくさあ吹けばとぶよな将棋の駒サイトか?台風の進路予想サイトに移行?
586神も仏も名無しさん:2014/07/05(土) 11:09:36.80 ID:SSuOuMya
以上、デブオタニートの駄文でした
587ama ◆BmUbLWewsM :2014/07/05(土) 15:30:38.78 ID:bsXjRm26
>>566
> 己の本性を知りたい知りたい知りたい、それは空でしたと、いったい誰が知るのですか。
> 知るものがいないことを知るものは…、いったい…。

「己」とした時点で「空」ではないですよね。

もちろん「知る」のは「己」です。
「空」は「知る」ことすらない・・・。
588素人A:2014/07/05(土) 15:45:14.94 ID:RiqBExxl
(つづき)<超越的ビジョンの眼>が開くのはどこでもない「そこ」においてです。芸術家の道においてもそれはまさに
あの瞬間「美の全体性によって捕らえられ、美の調和によって魅惑されていた心が、美の至高の徳性、審美的映像の明るい
光沢を輝かしく認識する瞬間[・・・]審美的快楽の輝かしい静寂な状態」に外なりません。インドではこの精神的状態に
到達することがヨーガの典型的な目標とされています。それはさまざま記載されていますが、究極的には涅槃と呼ばれるも
のです。これは天国のように場所としてではなく、情念、像悪、、?読めない字、そして迷妄という心の中の三重の火が消
えることとして理解されねばなりません。vaiという語は「吹く」を、nir-vanaは「消す」を意味しており、nir-vanaを文字
どおり解すれば「吹きけされた、消滅した」という意味になるからです。では吹きけされたものは何でしょうか。(つづき)
?私庭欲解らん起きて半分寝て半分でまあ良いかまだつづくのか朝の仕事?
589素人A:2014/07/05(土) 15:45:50.48 ID:RiqBExxl
(つづき増した)輪廻と関連して言えば「吹き消された」ものは再生の衝動および欲求であり、それゆえにこの意味では
生(未来の生)が吹き消されたと言えるでしょう。しかし現在の生との関連では吹き消されたものは生ではなく、欲望、像悪、
ないし恐れであり、またそれが喚起して代表しているところの無知ないし妄想です。これらは、すでに見たようにまさしく
ジョイスが非本来的芸術の特性と認められた動的な性格をもっています。他方本来的な芸術のは眼と精神の静的状態を呼び
起こします。眼と精神は「引きとどめられて」私達の物の見かた(ビジョン)を偏らせる諸要素を「超越したところへ高めら
れる」とジョイスは言います。ここから神秘家の道と「本来的な」芸術家には関連があるという結論が導かれます。
(つづく)つづ苦のか三増奉仕の旅は明日へつづくさあ吹けばとぶよな将棋の駒サイトか?台風の進路予想サイトに移行?
590素人A:2014/07/06(日) 08:30:08.32 ID:IPV92Q3F
この前適当に書いた私の心の中の空に全宇宙があるとか?師匠が宇宙を支えているとか鬼さんが宇宙を観た体験?など哲学
者の鏡と鏡並べる話や孝子師匠の私の中に答えはあるという事も。皆外ではなく内を追求して観えたのだから鬼和尚のも内
に宇宙を持っていた野鴨、という事は皆全員宇宙の鏡を持っていると言うことになり私のも出鱈目では無くなるのか?その
宇宙中では我々ぽつ師匠や鬼さんたち皆夢中でもがいて、またその中に夢中がありきりが無いというのも出鱈目では無いの
か?外は当然宇宙が見える空殻を破れば私の心となりその外に同じ宇宙が鏡写しに切りもなく続くのか?皆瞑想や坐禅の人
は心の中に旅して悟るから中の中外の外が同じなのは当たり前かも?で自灯明とか法灯明とはつまり映写機で写した映画の
ようなものと考えればそれを観照するという事鴨。とメモ帳からコピーしたら今朝は同じ野我鏡の様に○写しになってそれ
を消すのが大変だつた。それは何意味しているのか今此処で修業すれば宇宙全部修業するという事か?でも今私はサボりたい
でも鏡は他のみんなも丸写し陀体
591神も仏も名無しさん:2014/07/06(日) 10:28:38.40 ID:O2V8cbCp
空は何も責任を取らない…、ただ空で在り続けるだけ…?
592神も仏も名無しさん:2014/07/06(日) 10:52:02.74 ID:O2V8cbCp
最高神はただ在り続ける、と、どこかで読んだけれど…。
593神も仏も名無しさん:2014/07/06(日) 11:39:43.91 ID:O2V8cbCp
空は海に例えられるかもしれません。
魚も貝も昆布も若芽も、海は知らない。
魚も貝も昆布も若芽も、海を知らない。

人間は空を知らない。
空も人間を知らない。
594神も仏も名無しさん:2014/07/06(日) 11:59:33.18 ID:O2V8cbCp
神々も空を知らない。
空も神々を知らない。
595神も仏も名無しさん:2014/07/07(月) 07:05:36.45 ID:GB8IpMb6
>>589(つづき)事実東洋では両者は同一なのです、唯一の相異は神秘家には技術が無いというだけです。この主題について
アヘナンダ・K・ターマラスワーミは、こう述べています。「〔インドでは〕芸術の実践は修業(ヨーガ)である。注意(dhar
ana保持)から始まり。自己同化(sanmadhi)ーすなわち観照の対象ないし主題の自己同一化ーにおいて成就し、そして操作
の技術(kausala熟練)に終わる」ここには最初から、早くも『チャーンドギャ・ウンパチド』(紀元前九世紀ごろ)に記されて
いる形而上学的原理、「汝はそれなり」(tat tvani sai)が想定されています。この意味は、「本当は、汝はあの超越的意識
の一形態なのだ、物理的であると心理的であると問わず、一切はその超越的意識の一形態なのだ」ということです。・・・
芸術作品が己自身を越えたものを示しているという事実にある。ただ無明(avidya)によって曇らせられている者、覚めざる者
(a-pra-buddha)のみ、それが実在とみえるのだ。『犠牲とウェーダの文献に精通したバラモンにとって、神は火の中にある。
誠信の徒にとっては彼自身の心の中にある。未だ悟らざる者にとっては聖像の中にある。だが最高の自己を悟った者にとって
は、神は万物の中にある。
596素人A:2014/07/08(火) 06:09:41.05 ID:QKMia85+
今朝はネタも無くぼさあつとして何書けば良いのだろう?そうだ菩薩とは?まあ良い人なのだ。悟れる人なのだけどこの世
うにして来たから悟らず我々が迷わず安心できる世うに働いている人なのか?それは観音菩薩つまり色即是空だけど空即是
色でまあ夜の中に真っ暗になつて後ろに手を回し枕探してる。悟ったままでは自分は明るいけど衆生は真っ暗のままだし
それでは小○しまあ色々な適当な方便を使って手足も千本に眼も洗願して人助けするのか。如来つまり未来空頼まれて仕事
でこの世で働く人なのか。という事はみんな菩薩なのか。でも今は安心の意志が無いでもまあよい人だから不安でもまあ良
いか。みんなの人助けの石や樹も意識は有ると言えばあるかも、一心助けの意識はあるのか?今朝は朦朧な石木のなか適当
に書き進むだけで無意識に手がすすみまあノルマ果たした。でも適当な
597素人A:2014/07/09(水) 06:21:47.82 ID:sVmeF2Nr
禅語百選 把手共行 手を把って共に行く  仏の実在を信じ、そのおしえを学び、ともに手をとりあって人生を旅する仲間を
同行と呼び同朋と懐かしみます。四国遍路や西国巡礼の旅人たちは、たとい一人旅であっても「同行二人」と笠に記します。
自分以外の一人は弘法大師であり観音様です。禅者はこの同行を特に、どうあんと呼び習わしています、同行は師となり先輩
となり友となって、影と形のようによりそって修行にはげみます。つくしんぼうのように、どこか見えないところで、こころ
とこころが繋ぎあっているのです。人間と人間だけが「手を把って共に行く」のでなく、ほとけと人間、ほとけとほとけが、
ともに手を把りあって旅をつづけるのです。ほとけと修行者は、横に並んで歩くときもあり、前後になりあうときもあります。
同行は現実に同行する友だけではあのません。苦悩にあえいでいる自我の心の奥底に潜んでいるもう一人の友でもあります。
彼の名を自己といいます。人間とは現実の感性的自我と、本質的自己の同行の二人の存在です。感性的自我がどのように醜悪
でも、その心の奥底で清浄な同行の本来的自己が凝視していると信じるのが、禅の人間観です。信心です。この同行に出あつた
人を「さとつた人・めざめた人」といいます。ともに手をとりあう善友のあるのは幸いです。心中に信ずる同行のあるのは、
さらにさいわいです。
598神も仏も名無しさん:2014/07/09(水) 08:28:10.47 ID:qyOxwhl5
悟りを開いた人へ質問
https://www.facebook.com/akinori.kimura.161
これについての感想求む
599素人A:2014/07/10(木) 06:18:16.05 ID:IG51rut+
法華転法華 十方全世界の仏国土は悉くダンマの華開く所である。十方三世の一切の諸仏、いいかえれば、究極の悟りに達
しているものは全仏国土において、ダクマの華を降らしつづけている。あるいは、逆に全身ダンマの華に埋もれている。
これこそ本来の菩薩道であり、それは無始無終、不退転であると言うことである。諸仏の智慧は、はなはだ深くて、量りに
くい。それゆえに、証入することはむずかしいと言いながら、そのまま安らかで平静である。あるいは文殊はすでに仏とな
って、大海の仏国土は、ただ仏と仏との、ありのままの世界である。釈迦むに仏は世に出現して、ただひとりこの全世界を
知悉しているが、実は十方諸仏もまた、同様に世に出現している。このことは、いいかえれば、釈迦むに仏も十方諸仏も
全世界を知り尽くし衆生をして目覚ましめ、悟らしめている事に外ならない。あるいは普賢菩薩はダンマの華降りしきる
不可思議の功徳を成就して、深大にして久遠なる究極の悟りを、この現実全世界弘め尽くす。そして普賢みずから大小さま
ざまな草木を生み出す大地となり、またそれらの草木をうるおす雨となる。このように普賢は、ダンマの華降りそそぐのを
みずから知らないままに、ひたすらに行して、成就するのみである。(つづく)
600素人A:2014/07/11(金) 07:19:27.20 ID:F8mTTbXW
(つづき)しかるに、普賢の働きがまだ終わらないうちに、釈迦むに仏による霊鷲山の大法会が始まっている。普賢があ
ちこち往来している姿を釈迦むに仏は、みずからの眉間の白ごうから放たれている光明である証とされる。釈迦の法会が
まだ半ばに至らないうちに、文殊はすでに村度して、弥勒はやがて成る仏して法華を説くであろうと、予言する、この様に
普賢も、諸仏も、文殊も、大会も、いずれも「始めも善く、中も善く、終わりも善き」ダンマの華開くのを洞察する究極の
知見であろう。だからこそ釈迦むに仏は「ただ一乗をもって一大事となす」という説法のために出現したのである。しかし
その出現そのものが一大事あるから「ただ仏と仏とのみ、すなわち能く諸法実相を究尽す」となるのである。その法はまぎ
れもなく一仏乗であって、ただ仏は仏を究めしめる。過去七ほとけおよび諸仏は、それぞれ仏みずからを究尽しめ、そして
ついに釈迦むに仏として成就せしめるのである。  ??私は良くわからないけど道元が良い気分で適当に書いている何か
良いことがあつた野鴨。私は書き写すの続けるかどうか思案中でも面倒でも続けるか迷うなあ。この世に着た体仕事は明日
601素人A:2014/07/12(土) 06:52:42.24 ID:dWrTkOCb
私はこの頃何が起こっても平常心未知を気取って慌てない騒がない.何とかにはなるとか適当に安心を気取っている。今は
大した事怒っていないから其れで済ませるけど.其れで善いんだ老化.第一感動もなく何か物足りなく昔は何かふ闇な時何
とか使用として焦っても何も夢中解らず夢中だったけどハラハラドキドキの感動シーンも遇った。けど今は道もなく未知で
も何とかなる心では何の面白見もなく適当な平凡なまあ良い生活だけ.気合も泣く生が無い老化に立っているといえるし
呆けも進行しているのか。考えるという事も出来なくなつている。修行は適当で何でも解らないのに解った降りだけ
コンピューター将棋や囲碁はマツタの連続で勝って勝利しても価値とか?朝の書き込みも適当な出任せで情けない。
此処は一発孝子師匠に気合を入れて貰おうかという事で 青い日々 http://www.youtube.com/watch?v=uxmTjuWEI1w
でも今の書き込み事態が適当に書いているとも言えるしまあ善いのか?どうしたら気合がは入るのか?知るは知らずなり化
602神も仏も名無しさん:2014/07/12(土) 10:57:28.70 ID:65ftSG9V
ただそれが在るだけとしても、この世界は続いていく。
有るも無いも一つとして在る、神は創造をしなかった、ただ在るだけなのでしょうか…。
603神も仏も名無しさん:2014/07/12(土) 17:08:54.23 ID:65ftSG9V
神はただ在る。
私たちは全てがただ菩薩行をしているだけなのでしょう…。
604素人A:2014/07/13(日) 05:52:29.68 ID:o8Sy8/58
法華転法華はほっとけ鳴く(つづき)それは西インドから東の中国に至るまで、すべての十方世界の仏国土のこことであ
る。第三十三祖の大鑑大師に至っても、ただひたすら一仏乗を究尽してきたのである。それは疑いもなく一仏乗の一大事で
ある。それがいま。この世にあらわれているのでありここに行われているのであろう。青原行思の法門もいまここに伝わり
南岳えじょうの法門も世に開かれているが、悉く如来の知見に他ならない。それこそ、ただ仏と仏との究尽であり、仏祖か
な仏祖への開示であり悟入であって、まさにダンマの華開きつづけて行くのである。これを『妙法蓮華経』とも呼ぶのであ
り。菩薩に教える法なのでおる。これを諸法と名づけてきたのであるから、ダンマの華を仏国土として。そこは霊鷲山もあ
り、虚空もあり、大海もあり、大地もある。(まだつづく)のか?果てはないのかもうそろそろ飛ばしてもよいのではないか
605神も仏も名無しさん:2014/07/13(日) 09:11:20.62 ID:LDhB3SZ9
>>603
やがて悟り、自分を歓ばせるために…。
606素人A:2014/07/14(月) 06:17:54.19 ID:Ek97qN9M
サンキャ哲学の真我と自性の世界は何か心理学で?真我は純粋な精神的原理と言う我、自性の方は純粋な非精神的原理と言う
が?佐保田さんの解説では真我に悟らせようと自性ソフトがするというから。人為的な心理が隠れて見えるし、展開する原理
の三つのグナとはサトバグナ(喜徳) ランジャスグナ(憂徳) タマスグナ(闇)のグナの活動は何か心理的?我々も何か始める
時最初は楽しみから始めて、段々やる気がでて頑張るけど最後は疲れたり飽きが来てもう闇ようかと迷う世界だし。これは
精神ではないか。世界の向こうになにか生きた人が操るゲームというか夢の中に我々は居る野鴨。今朝は何か虚大な真実の
中で私は本の小さな思考の私で無理に書いてるけど何か書かなきゃ。サッカあ観ながら書いているので樹が地理もう疲れた。
意味不明かでもサッカー見よう
607神も仏も名無しさん:2014/07/14(月) 07:05:00.30 ID:/Y0JusKJ
69 :神も仏も名無しさん:2014/07/09(水) 08:41:39.32 ID:QIh5P2++
李氏朝鮮王朝は土地を国有化し、住む土地が簡単には与えられなかったため、
国民は路上や空き地を不法占拠して粗末な掘立小屋を建てて住んだが、
糞便を処理せず、不潔を極めた。
彼らは悪臭を気にせず、糞尿まみれの生活を当たり前と考え、見てくれに良いと信じて、
「小便」で顔を洗い、「人糞」を結核の特効薬として食べた。

李氏王朝の役人(両班)など有力者は、自分の労働を嫌い、国民を奴隷として酷使した。
国民は結婚したくても、毎年多くの若い女性が中国へ献上されるために取り上げられたので、
適齢の女性が不足し、その性的欲求解決のため、密かに「試し腹」の風習ができ、
李氏王朝が崩壊するまで継続して、親族間の近親相姦に明け暮れた。

英国人が、何故人糞まみれになって汚い暮らしをしているのかと聞くと
「清に責められたとき身を守るためわざと汚くしている」だと言った。
 
 
【東亜日報】調査結果に愕然、韓国人の71.2%が人格障害
20歳男性の45%が対人関係障害の可能性
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2003021117138
608神も仏も名無しさん:2014/07/14(月) 08:18:55.64 ID:garjZLti
地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。
創造されたものならば、永遠性はあり得ない。宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつある。
その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。
只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。

ひふみ神示ジシンの巻…。
609素人A:2014/07/15(火) 06:28:39.03 ID:SA6qUspX
インドの光 ラーマクリシュナ 「一つの貯水池にいくつもの水のみ場がある。ヒンズー教徒はこちらの水のみ場で水を汲ん
でジョルと言い。イスラム教徒はあちらの水のみ場から水を汲んでバーニーと言い。キリスト教徒はまた別な水のみ場から汲
んでウオーターとよんでいる。また違う水のみ場からくんでアキュアとよんでいるひともいる。名前は違っても内容は全く
同じもの。一つの神に色々な名前がついている」「宇宙の大実母は、子供達のおなかに合うように料理を作ってくださる。
みんなの胃袋の消化力は同じでは無いからね」国と時代と容器(人の理解力)に応じて色んな宗教をお作りになるということだ。
(不滅の言葉より)   仏教で言えば食即是食う 宇宙の神様が色んな節穴空覗いて星意空。あれ穴多の夢を明らめないでが
出てきた。私は詩外もなく夢の中に居る。夢をあきらめないで http://www.youtube.com/watch?v=6rByj71yURY
610神も仏も名無しさん:2014/07/15(火) 08:45:30.72 ID:dESk3Fb9
…善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにても また同様である。
故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。
悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。
悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神のもつ想念の本は大歓喜である。
故に、地上人は霊人によって総ての行為の本をなし、霊人は神により、神は大歓喜によりて総ての行為の本とする。
故に、地上人そのもののみの行為なるものはない。何れも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばならぬ。……

ひふみ神示ジシンの巻第九帖より…。
611神も仏も名無しさん:2014/07/15(火) 18:17:05.57 ID:dESk3Fb9
…本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。
これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。
一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。
地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。
悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ない如く、地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。
悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白となり
己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを知らねばならぬ。……

ひふみ神示ジシンの巻第七帖より…。
612素人A:2014/07/16(水) 05:37:23.74 ID:bwfhkK2y
玉城さん 業熟体?これはお釈迦さんの考えと思って良いのか?でも玉城さんはそう思ってる。私は良く解らんけど
まあ全てはまあ良いか?皆良く解らんで夢の中でまあ夜って入るのか?覚めてもそれも夢の中ま業GOで行く今の体化
で、あとは玉城さんの本の書き写しで業熟体。・・・限りなく過去から、生きとし生けるもの、ありとあらゆるもの
と交わりつつ、生まれ変り死に変わり、死に変わり生まれ変りながら輪廻転生し、いまここにあらわれつつある私自
身の総括体であると同時に、ありとあらゆるものと交わっているがゆえに、宇宙共同体の結び目である。私性の極み
であると共に公性の極みである。しかしその根本は、底なく深く、無意識であり、無智であり、無明であり、暗黒で
あり、あくたもくた。へどろもどろである。これが業熟体である。そして「この業熟体にこそダンマ如来は、顕にな
り、浸透して、通達しつづける」という事が(玉城さんに?)知られてきた。このダンマの無限活動こそ全仏道を包括
する原態であると(玉城さんは考えている)私は?朦朧とした頭で良く解らんでも私の脳力を超えたもの夢の中の夢の中
覚めても覚めても朦朧な夢が延々と続くのか?
613神も仏も名無しさん:2014/07/16(水) 07:54:32.72 ID:ImzKeRyR
自分を粗末に扱うべからず、そうでなければ他人の尊厳を素直に尊重出来るはずがないと云うことを知ってほしいと思います…。
614神も仏も名無しさん:2014/07/16(水) 12:34:42.54 ID:4v1Pqa2p
宗教、歴史、政治経済から社会問題まであらゆる情報の宝庫!

本日の講義は「日蓮を用いるとも悪しく敬わば国滅ぶべし」です。

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi
615神も仏も名無しさん
悟りを開いた人へ相談です
とある宗教組織の事です。

詳細は書けませんが、その団体に関わって、とんでもない霊体験をしました。
しかし、同時にこの団体が悪霊がやっている事もはっきりわかり、
しばらく、組織と距離を置いていました。

しかし、その体験を忘れようにも忘れられず、
インターネットでブログを作り、赤裸々な体験談を書きました。
すると、他の信者のブログで、
こんなものは嘘だ、さっさと消せ、やることもやらず(お金を納めず)
ブログを書く資格など無い、国語力が無いくせに・・・・・
といった罵詈雑言、中傷の記事を書かれてしまいました。
それも個人を特定できるやり方です。

神の存在や神の力ははっきり分かっているのですが、この組織の他の信者(幹部)
のやり方に不快感を感じています。

このまま、静かに去るのが良いのか、バトル(応戦)するのが良いのか、
アドバイスをお願いします。

ちなみに、この宗教組織の教祖は逮捕されましたが、もうすぐに出所してきます。