卍 仏教 質問箱 卍 パート33

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25神も仏も名無しさん
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1275992988/104
104 1/2 sage 2010/06/10(木) 20:43:41 ID:LQQ+TrJr
仏教が、非生産的であり、出世や利益(利潤)・余剰追求をしない価値観である
ということは、留意されていい。
勿論、それは、世俗的価値観からすればマイナスの性格を持つ。
(だから、世俗の価値観に於いても、(理由として)そのフォローは必要とされる。)

今、これを托鉢という行為に引き当てて見てみよう。
(仏典にも、具体的にそのような記述があるが)、
托鉢に回った時、一軒も施して貰えなかったとしよう。或いはほんの少しだったとしよう。
その時、行者には次のような考えが起きる。「もう一度回ったら、貰えるかもしれない」、と・・。
だが、その考えは「私にとって(=修行者にとって)ふさわしくない」と、はっきりと排斥される。
この境界が、まさに、世俗と聖、在家と出家の(価値観の)明確な境界となる。
世俗的に見れば、「もう一度回って食を得て、身体の維持に資させる」ことは、
寧ろ目指されるべき判断だろう。
(また、身体の維持自体も聖なる価値観に於いて蔑ろにされるわけではない。)
だが、釈尊は再度托鉢に回ることをしなかった。
なぜか。 それは、「施物に余裕の無い所に対しても、しつこい勧誘になる」し、
「もっと欲しい」「食べたい、空腹を満たしたい」
或いは「“食べれない”ということ、一食抜くということがあってはならない」
といった欲の肯定或いは保身に繋がっているから。
 *そういう【形式に捕らわれている】という言い方をしてもいい。
  (一般的に言えば『必ず一日3食食べねばならない。【2食の日があってはならない】』という【形式】に。)
  捕らわれている、と。)
「自己の欲求(欲、ひいては貪り)を【肯定し】、【それに従うことを意味する】」から。
26神も仏も名無しさん:2013/10/09(水) 00:22:17.42 ID:EVSNdpJW
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1275992988/105
105 2/2 sage 2010/06/10(木) 20:45:12 ID:LQQ+TrJr
境界の話だったか。
たとえば、営業マンがいたとする。販路開拓の為、(あちこちに)足しげく通う。
ついに相手が折れ、繋がりができる。長い付き合いとなれば、三者(取引先・会社・自分)の利益となる。
それは儲けだけでなく「繋がり」や「信頼」、「充実感」「自信」「ノウハウ」等々、様々なものがある。
だから、再度と言わず、『相手が契約してくれるまで何度でも通う』という姿勢は、
悪い行為であるどころか、『営業マンとしてふさわしい姿勢、意気込み、情熱』ということになる。
そして、同じコースで二度三度托鉢に回った時も、財施・法施・功徳(衆生済度)として3者の利はあり得る。
そのことで、《各家の者に、“より強い”(仏)縁ができ、教えに強く耳を傾け、理解が高まる》
ということもあり得ないことではない。
だが、上で触れたように、《我欲の肯定に繋がる》ので斥けられる。
たとえ三者の利が見込まれても、【それが我欲の肯定、我欲への従属となるならば】、(それを背後に持つならば)、
斥けるのが「聖なる」「出世間の」価値観であろう。
その意味でも、この価値観の境界は押さえられるべきものとなる。
比丘(修行者・遊行者)足らんとしたなら、踏み越えてはならない境界となる。

翻って見た時、《現代日本仏教は、生活、寺院経営、伽藍の維持、慣習・前例・地域との繋がり関係性等のため》
この境界を踏み越えねばならない。
(上で言えば、【三者の利をこそ求めるべき】ということだ。これを「大乗的」と言えないこともないが・・。)