マハシゴエンカパオ☆ヴィパッサナー瞑想法Part.11
1 :
神も仏も名無しさん :
2013/06/26(水) 23:34:46.33 ID:GKNGJKM1
2 :
神も仏も名無しさん :2013/06/26(水) 23:38:35.75 ID:GKNGJKM1
3 :
神も仏も名無しさん :2013/06/27(木) 02:16:51.11 ID:EBTCj0e2
4 :
神も仏も名無しさん :2013/06/27(木) 04:20:38.03 ID:/Jzj5IOz
サードゥーサードゥー
5 :
神も仏も名無しさん :2013/06/29(土) 01:24:50.54 ID:BE7P+jPn
6 :
神も仏も名無しさん :2013/06/29(土) 01:30:16.65 ID:Gikm10XT
一乙 ヴィパッサナーいいよね〜
7 :
神も仏も名無しさん :2013/06/29(土) 19:29:50.25 ID:iMGbT57X
これで食事をすると、一口の味が いかにきらめいているか、実感できるようになる。 今まで自分は、何を食べていたのだろうか 特に一番はじめの一口目、わあと思う味に気づく感覚 食欲をとそれを満たされた喜びが明白に 混在していることに気づくことができる。 食べているものは何気ないものなのに
8 :
神も仏も名無しさん :2013/06/30(日) 01:23:11.91 ID:Sxfwmihq
たしかに はじめて食事瞑想やったときは世界が変わったかと思ったわ
9 :
神も仏も名無しさん :2013/06/30(日) 04:48:45.36 ID:IQsOlFE5
この方法は究極的なダイエット方法にもなる 食欲を観ることができると、自分の本当に必要とする 食事の量と質は何かがわかってくる。 自分の過体重が修正されてくるので 実感としてわかる。
>はじめて食事瞑想やったときは世界が変わったかと思ったわ 世界が変わる感覚って好きだなー。 接心を受けた後は景色が生き生きとして生まれ変わった感じがする。あれは一回死ぬ (代謝をおとして、静まる)ので、身体が常態に戻る時に血が目を覚ますからだろうね。 インドで放浪して帰って来たときもそうだったし、長い間(というか1週間程度)山に 籠った時もそうだった。最近ではウルトラ走った後も少しだけそんな感じになる。 目覚めってのはそういう非日常への移行やそこから戻る時に起る。特に戻る時は 「終わり」だから心も体もリラックスして条件が整いやすい。 「やっぱ普通が一番いいな」って感じかな。
ある記述から >慈しみの瞑想です。 >背筋を伸ばして、心の中に慈しみを広げていきます。 >慈しみの培養液に全身を浸します。 >私には慈しみの瞑想がとても合うようで、 >近行定まではすぐです。 この近行定というのは、どういう状態なのでしょうか?
色界禅定(の四つ) 第一禅 尋、伺、喜、楽、一境性がある禅定 第二禅 喜、楽、一境性がある禅定 第三禅 捨(喜を捨離し)、楽、一境性がある禅定 第四禅 不苦不楽、一境性がある禅定 近行定って、第一禅定に近い状態のことですかね。 言葉による思考はあるけど、それ以外は慈悲の念に集中できており、喜びや充実感のような楽しい気分に浸っている。 慈悲の瞑想に没頭できた時の感覚がそれかな、とは思うけど。
14 :
11 :2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN ID:SjYgVTfJ
>言葉による思考はあるけど、それ以外は慈悲の念に集中できており、 >喜びや充実感のような楽しい気分に浸っている。 >慈悲の瞑想に没頭できた時の感覚がそれかな、 わたしも、そのような感覚だと思います。 心が統一された状態で、ふらつくような思考がまったく無い、身体的には軽く楽な状態 おそらく近定行に入っているのだとおもいます。 この記述の方は、女性で第一禅定にも数度入ったことがあるようです。 ではこの第一禅定というのは、具体的にはどういう状態なのでしょうか? 慈悲の瞑想をしているわけですから(尋、伺)思考はある状態で 楽は感じているはずですし、身体は軽安状態になっている 認識対象に集中していますから、一境性はある状態でしょうし あと何が不足しているのでしょうか?(喜悦感??でしょうか?)
15 :
神も仏も名無しさん :2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN ID:cjiQNLdK
止」の瞑想で対象に集中すると、外的な感覚のない安定した内的なイメージ(取相)のみを意識に保持できるようになります。 この段階を「近行定(近分定)」といいます。 さらに、集中を深めると、対象はさらに明瞭で強いものになり(視覚的対象の場合は光度が増し)、 対象性をなくしていきますが、これを「似相」と言います。 これと一体化した集中が続く状態が達成され段階が、十分な「止」が達成された状態で、「安止定(根本定)」と呼ばれます。 「安止定」は、原始仏典ではさらに4段階、上座部(のアビダルマ)では5段階に分類されます。 「初禅」では「尋・伺(思考)」と「喜(精神的快感)」、「楽(身体的快感)」、「一境性(一体感)」があります。 「第二禅」になると「尋・伺(思考)」がなくなり、 「第三禅」では「喜」がなくなり、 「第四禅」では「楽」もなくなり、 「捨(対象への平等な無関心の状態)」と「一境性(一体感)」だけになります。 思考を「尋(意識的な思考)」と「伺(無意識的な思考)」に分けると5段階になります。 「第二禅」以上は「三昧(サマディ)」と呼ばれます。
普通の人の場合はそんな段階は無くて概ね第4禅じゃないの? 順番も特に意味ないだろうし。只管打坐の場合は集中はしないので最初から 第4禅的でしょ。
19 :
神も仏も名無しさん :2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:b3WCnq1e
1. 今の生活がこれ以上好きになれない。もう限界のように感じ、小さく思え、 もっと実現するものが何かあると思います。でも、まだそれが何かわかりません。 2. 今していることが好きでない。短期的な仕事やキャリア、経済状況、 人間関係、あるいは住んでいる場所など。そういうことで消耗する感じがします。 3. それまで幸せを感じられた物事に、もう楽しみがわかず、感じられない。 幸せがどんな感じなのか思い出せないほどになっているかもしれません。 4. 周りの人たちとの繋がりが感じられず、またこれ以上好きになれない (誰であるかは問題ではなく、それは家族も含めすべての人間関係に当てはまります)。 また相手もあなたを少し敬遠したり、離れていたり、一緒にいる時の会話が息が詰まり、話をすることが辛い。 5. 行き詰まりを感じ、どっちの方向へも動こうとしても動けないように思え、 動けたとしても悪い方向に行ってしまいそうに思える。 でも、どこでもいいから進みたいという意欲がある。 あるいは、今は混乱していて何か別のことをしようと考えることすら出来ない。
20 :
神も仏も名無しさん :2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN ID:b3WCnq1e
6. やる気がなくクリエイティブな力が湧いてこない。 もっと素晴らしいことをやろうという気がない。単純なことやよく知っていること でも、まるで泥の中を歩いているような感じがする。 7. ぼーっとしており、頭の中や心の中が定まらず、考えることが漠然としている。 小さなことにも集中することが難しい。物事を終わらせるのに長い時間がかかってしまうように思える。 8. この人生以外のどこかにいたい、と夢想(白昼夢)することがよくある。 9. 逃げ出したい、知らない所に行きたい、この人生を抜け出して幸せになれる ようなことが何か知りたいという強い衝動が起こる。 10. 住んでいるところをきれいにし、もういらないと思うものをどかして 捨てたいという強い衝動に駆られる。こんなものを持っているんだと驚いて、 捨てたくなる。
>20 それは16と同じようにに段階を踏んでステップアップする上昇思考の考え かただよ。そこでもがいている。11も16も探究のなかでもがいている。 もがきを突き抜けて悟りにいたるには探究を止めることだけど、本当は その必要はない。当たり前にもがけばいい。
こういう分類もあるようです。 初禅定の前の状態を分類すると 欲界における瞑想の段階 (1)粗住または粗定 一つの物事だけに集中して、雑念と闘う段階 (2)細住または細定 一つの物事により深く集中する事です。 (3)欲界住または欲界定 意念が安定した後、身体に様々な感覚(感情と感触)が出てきます。 (4)未到定または未来禅 次の瞑想の少し手前の段階です。体のいろいろな感覚が薄らいでいくと同時に、軽くなり、良い気持ちになった状態の瞑想です。 だいたい4番目の状態までは、少し訓練すればいけるように思います。この3から4番目が書かれてある近行定の状態なのでしょう
近行定と第一禅定にこだわるのは いかの理由にあります。 >マハーシ長老は禅定に入れればベストだが、 >達しなくとも近行定(禅定に入る手前)に達すれば五蓋などを抑えることが出来るので >第一禅まで達しなくとも悟ることが出来るという意見です。 >ヴィパッサナー・ジャーナというのはこの近行定のことです。 >サマタ冥想を通して作るのでなくヴィパッサナー冥想、連続したサティの実践を通じて作り上げるものです。 マハシ方式がやりやすい理由がここにあります。 第一禅定を形成するのは、難しくそれが近定行で良いなら、とりつきやすいのです。 またサティを微細化して走らせる必要があるのは、この理由によります。 サティを続けていくと、サティでどんどん心を埋めていくと、集中力(定力)が上がり始めるのです。
>>23 慈悲の瞑想から、そのままヴィパッサナー瞑想に入るやり方をしていますが、これだと自然とそうなっているような気がします。
テキストは「自分を変える気づきの瞑想法【増補改訂版】」とマハーシ長老のを併用しています。
わたしも結局同じようになってきています。 サマタである程度あげて、上がった定力で観ている(ヴィパッサナー) と言う流れです。 その観ると言う作業自体が定力をあげると言う構造です。
定力の正体は集中力であり、一種の虫眼鏡では無いかと 思っています。より微細化する力にみえます。 止観双翼、止観双運という言葉は、その根源的な同一性を 表している様に思います。
第一禅定(初禅定)の特色は、沙門果経によると歓喜それも たとえない様なよろこびを伴うとスマナサーラ長老の著作にあります。
「四つの条件を揃え、五つの蓋を越えると、 正しい禅定となり、四つの心三昧が現われる。 それでは、この四つの禅とは、如何なるものか。」 「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、 欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。 その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」 「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、 想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。 その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」 「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る 喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。 その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」 「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、 楽を捨てて生じる、空性を体験する禅である。 その時、全身は、無楽の空性で満たされている。」 「こうして、四つの心三昧を通過した者は、 その次に、如実知見の段階に向かうのである。 彼らは、在りのままに見て、在りのままに知る。」
サティしても筋力は付かないですよね。別の種類のものだから当然です。同様に サティで集中力は付きますか? 何故集中力がつくのですかね。そのあたりをもう少し微細化してほしい。多分sati と「微細化した説明能力」は比較的近い能力でしょう。 つまりsatiできれば「微細化して説明」できるはずです。 「サティ=集中力がつく」 は一般には単純に誰かの誤った主張の受け売りでは無いですか? すくなくともかなり大ざっぱな 説明ですよね。そこから説明が全く深まっていかない。サティとは程遠い気がします。 釈迦はそんなこといって無いのでは?
八正道の順番は 7.正念(サンマー・サティ) 8.正定(サンマー・サマーディ) あと有る程度気合入れてヴィパッサナーやったことある人なら 気づいている時に集中力が増す体験ぐらい普通にあるでそ 歩行瞑想の時とかさ
マハシでの修行記録より >前のヨギ(修行者)達のインタビューを、聞くともなしに聞いていると、自分と同じような質問や報告をしているのをよく耳にした。 >例えば歩く瞑想の時、「床が急な上り坂のように感じて前に進めない」とか、「体が重くて重くてものすごくゆっくりにしか動けない」とか。 >座る瞑想で、「妄想の出始める瞬間のモコモコ感をキャッチ出来るようになってきた」とか、「腕が消える」、「頭も足も消える」など。 >何を報告しても、応えは大抵「その事に気付きなさい」で、お終いだけれど。 >そうか、自分だけじゃなくて、同じように修行すると、皆似たような体験をしてゆくのだな、と納得してゆく。
勉強しても集中力は付くのだからサティが特別ってことではないでしょ。 「サティが上達する」ということ言い換えただけ?
サティって頭つかうの? それとも胸つかう? 念だと頭でmindfulnessなら胸って感じだけど。 どうも日本的には頭が主で アメリカは胸が主になってる気がする。 気付きじゃなくて気遣い的なのが アメリカ的な感じ。最初に仏教に出会ったのがヘルマンヘッセで彼の場合も ハートが主だね。
言ってる意味がわからない
>あと有る程度気合入れてヴィパッサナーやったことある人なら >気づいている時に集中力が増す体験ぐらい普通にあるでそ サティで集中力が増すってのは具体的にどういうことなの?
>言ってる意味がわからない 腑に落ちない? 腑を感じることないの?
俺はむしろ、ここ最近語られてる悟りについて、 全く意味が分からない。 たぶん俺と同じような奴が、他にもいるはず
心髄観 人は不安、後悔、怒りなどにより その本来のあるべき力の半分も出ていない それが減る、消えるようになると何が起こるか 勉強をするとすると、恐ろしくできる様になると思える 雑念の無い集中した心の生み出す力が どれほどのものになるか、 その具体的にどうすれば良いかの方法がここにある。
>>37 >全く意味不明
自分の瞑想に集中すればいいだけのこと。
別に何の問題も無い。
と思う。
あと、禅定の話は、悟りの話ではないよね。
そもそも、ヴィパッサナー瞑想と坐禅は違うのに、 なぜ禅定と呼ぶの? 亜羅漢とか慈悲とかみんな漢字なのに、 なぜヴィパッサナーだけ片仮名なの? 歩行禅とか立禅とか経行とかいうけれど、 それは日本版ヴィパッサナーなの? 調べても載ってなかったり、回りくどく難しい言葉ばかりで意味が分からない。 もうさっぱりなんで、 とりあえず修行(ヴィパッサナー)しよう状態だよ。
>38 雑念が消えるというのは、歳をとって欲がなくなるのと同じ現象ではないか? したらば、同時にエネルギーも小さくなる。不平不満はなくなるが、勉強は 興味を失うので捗らない。 多分日常的にいろんなことに興味が無くなってくる。 「雑念が無く、エネルギーが満ちている」状態でないといかんなと思う。 普通は雑念が多くて活動的な人の方が勉強が良くできるでしょ。作家とか雑念の塊だよ。
45 :
神も仏も名無しさん :2013/07/05(金) NY:AN:NY.AN ID:RSBbHA/X
この声を読んでみた 男性に聞かせると20代と判断し、女性に聞かせると30代と正しく判断した。 抑揚が無いので感情が読み取れない ある男性はお葬式の時の声と見事に職業を言い当てた 文章を読んでいるので、そのような声だが 冷静である事は全員が認識できている。 男性は女性の声に対してフィルターがかかっているのがおもしろい 話し方に限らず、声の質というかその中に秘められた心を 人は無意識に読み取っている。 話すことがいかに大切であるか、その内容だけで無く その声の質、抑揚までもが、最終的には声や仕草から その人の心を知ることができるようになるから
この一週間ぐらい前からヴィパッサナー瞑想を知って1日5分〜10分くらい実践してるけど 眉間に力が入ってしまってる…座ってやってるんだけど、首も何故か気づいたら上を向いてしまう…やった後は心に爽快感があるけど体には負担がかかってるのかな?
>>47 あんまり気にせず続けていったらいいと思うよ
首が動くのはあるある
眉間に力入ってるなら例えば「強張り、強張り」と気づきを入れたほうがいいかも
在家の五戒って、瞑想中の精神集中を妨げる要因を、あらかじめ軽減することにもなってるんだね。
>49 本来は精神集中を養うのが目的だ。 「嘘をつかない」を戒めにするなら、言葉に注意深くなる。適当にペラペラと受け売りを 喋らなくなる。 「常に机上を整理する」を戒めにするなら、徐々に心も散らからなくなる。無意識に 散らかしてる心が見えるようになる。これこそビッパサナだ。 しかしやりもちろん過ぎは良くない。「豚を食わない」という戒めはそういう戒めの 一つだったのだ。100年も200年も馬鹿の一つ憶えのごとく守るのは良くない。時代が 変わればトンカツもOKだ。 戒めは習慣化すれば良い習慣になるが、効果は無くなる。だから意味の無いことを戒め にしない方が好い。
>44 「念ずる」の言葉づかいが気色悪い。毎日のことだから気色悪いままではいかんな。 「念ずる」の意味をしっかりとするか、こんな言葉づかいは止めてしまう。些細なこと だが重要だ。放置したりのさばらせてはいかん。
座る瞑想をしているとき、座布団を折りたたんだ場合と 座禅で使う円形のものと比較したとき まったく状態が違うことに気がついた 雑念の出方がまったく違う 集中が取りやすく統一感がでてくる
53 :
神も仏も名無しさん :2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN ID:C12QbB6S
目的化するのはよくない。 戒律の効用は2つある 一つは戒律の実際的目的、もう一つはそれを守ることによる心理的効果 戒律が目的化するのは修行者には好ましくない。目的たる中身は寧ろ実際的には意味の 薄いものの方が良い。 「イワシの頭も信心から」 宗教の効用と同じように戒律は守ること自体に意味があるのであって、中身は何でもいい 「豚は食わん」とか「輸血はしない」とか愚にも付かないことの方が後者の効用が 際立ってよいのだ。 しかしながら折角の戒律だから、実際的には「食後は歯磨きをする」とか習慣化して しまい戒律としての効用がまったくなくなっても役に立つものを選んでおくと一石二鳥に なる。
>52 坐布などは不要だ。板の間に直接坐った方が気持ちよい。坐布などに坐るから 雑念が出る。丸でも四角でもそんなものは使わない方がよい。 柔らかいジョギングシューズなどを履くから膝を故障する。地下足袋か裸足なら 故障はしない。最近段々そういうことが分かってきてベアフットタイプが多くなって きている。ファッションを考えないなら地下足袋で十分だ。 坐禅もベアシットが一番だ。
50 >戒めは習慣化すれば良い習慣になるが、効果は無くなる。だから意味の無いことを戒め >にしない方が好い。 54 >戒律が目的化するのは修行者には好ましくない。目的たる中身は寧ろ実際的には意味の >薄いものの方が良い。 >「豚は食わん」とか「輸血はしない」とか愚にも付かないことの方が後者の効用が >際立ってよいのだ。 ID:8/hs3vhjは荒らし?頭のおかしな人?
手袋をして調理など出来まい。不味くなる。それと同じでケツで板を感じる のと坐布では大違い。場所にもよるが人気の少ない河原でスッポンポンで坐禅を すると気持ちいいぞ。 パンツを履いたり、袈裟を被ったりの坐禅は不味い料理と同じ。まして坐布なんて 不味くて料理にならん。
五戒を守るように努力すると 自分でははっきりと定力があがる あがると見えてくるものが 極端に変わってくる
不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を殺してはいけない。 不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない。 不邪淫戒(ふじゃいんかい) - 自分の配偶者以外と交わってはいけない(不倫してはいけない)。 不妄語戒(ふもうごかい) - 嘘をついてはいけない。 不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒を飲んではいけない。 おやまあ随分とハードルの低い戒律だこと。無理するな一戒で十分というつもりだったが、 こんなのは当たり前。 こういう軽いのとは別に密かに自分の戒律をもつといい。
説教したろかな いや、やめとこう 説教したろかな いや、やめとくか 説教したろかな いや、スルーだろ スルーしようとしている スルーしようとしている スルーする
スルーするぅw
スルーすべきだな、うん
気になってスルーできない。
64 :
52 :2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN ID:NxkRqccv
>52 座禅用座布団は高いので 他のものはないかと試してみた パイプ枕(プラスチックのパイプの入ったもの)が 案外とよいのではないかと思う イトーヨーカドーやイオンにあるみたいなので パイプの大きさを変更して試してみたい 安いものは1000円で買えるから
何でもかんでも安けりゃいいってもんじゃない。坐布くらいお布施とおもって 買えよ。ケチは悟れんぞ。
>>48 47です
レスありがとう
気にしないで続けてみます
ケチケチと坐っても得られるものは薄い。思い切って直感に従って飛び出してみる。 金がかかるとか、休みが取れんとかそういうことを気にしない。会社なんて一ヶ月 くらい休んでもなんも問題ない。どこかの接心でもゴエンカの瞑想センターでもパッと飛び込む。
>>67 が良いこと言った。
ケチケチしてないで、この馬がくると思ったら有り金すべてつぎ込む。
欲しいと思ったら、借りてでも買う。
いつ買うの?
今でしょ!!
それぐらいじゃなきゃ、悟りの道は遠い。
69 :
神も仏も名無しさん :2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN ID:XsO1QTr0
ヴィパッサナーとは、何なんだろうと思う ことをずっと続けていた。 観瞑想、観察瞑想ともよばれるが 今では自分では 集中力を使って理解すること 自分を理解すること 自分の心を理解することでは無いかと 思うようになった。
71 :
神も仏も名無しさん :2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:FU4wdqV5
順調すね
年がら年中自分と一緒にいて理解できんもんが集中したからって理解できるんかい? 「自分にはひょっとして隠れた能力があって、それを解放出来たら天才になるかもしれん」 というのが理解のいきつくところかな? で腹が膨らんだりへっこんだりするのを一日中 眺めていたら理解が進むんかい。そりゃ10年もやり続けたら超一流の出ベソの観察者に なれるかもしれんな。勉強せんとそんなことやり続けて自分の理解が深まるんかい。
73 :
神も仏も名無しさん :2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:1kAwNNO4
>68 悟りとは精神的に死ぬことだからな。思い切って飛ばんことにはなかなか難しい。 死に方にも二通りあってどこまでも死んでいくのが悟りだな。死んでから生き返るのが 生悟り。どちらかというと生悟りの方がおすすめだな。 死んでから復活するときに生まれ変わる。何もかもが新鮮に見えるようになる。 1段階、2段階、3段階、、、、ドンドン死んでいく悟りは暗いわ。 1段階死んだくらいでペヨーンと生き返る。無茶苦茶新鮮になるからね。 俺は何十回も死んだことがあるが死ぬのも悪くはないが、やっぱ生まれ変わる時が最高だな。 おまえらそんなに完璧に死にたいんか? 10段階くらいになったら御影石にでもなって 平らな台の上で直立してください。
無意識に考えてる思考に気づくっていうのはわかるんだけど、思考を観察するっていうのがよくわからない
粗い思考って観察しようとすると気づきと入れ替えに消えるな 観察と思考って両立しないんじゃないか
77 :
神も仏も名無しさん :2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:aDUHLBaS
>>76 思考を止めるのは
気づくことです。
気づきを続けるとわかるはずです
じぶんはこれこそお釈迦様が
伝えたかった事だとおもっています
気づきで心を埋めてください。 不完全でもいいですから、できるだけ 定力があがり始めますから その定力で心を見てください。 悪しき思考が見えるはずです それを否定も肯定もせずに すべてそれを受け入れ理解 してください。 それが根こそぎ消し去ることに つながるはずです。
悟りの世界はそこに入る様々な道があれども 最も効果的で肝心なものは、止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)の 二法に勝るものは無い なぜかと言えば、止は迷いへのとらわれと押さえつける 第一歩であり、観はまよいそのものを断ち切る力であるから また止は人の心を愛し養う良き助けとなり、観は 物事の正しい理解を起こすための妙術である。 止は禅定を得るためのすぐれた因となり 観は正しい智慧を発するよりどころであるから もしこの禅定と智慧の二法を成し遂げれば 自分を利益とし、他の人々のためににもなる 生活態度がおのずからその人の身にそなわる 天台小止観より 天台智
81 :
神も仏も名無しさん :2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN ID:M639WtsM
>>72 欲、怒り、怠け、プライドなどの煩悩は悩み苦しみの原因だと理解した上で、
自分の感情や思考に潜む煩悩に目を光らせる日常生活に入っていく。
隠れた才能をみつけるための修行ではなく、
隠れた煩悩をみつけるための修行ではないでしょうか。
ふーん。そんなに煩悩がみつけにくいんか? 俺なんか煩悩なんて簡単に見つけられるわ。 お前ら静かにして引き籠っているから煩悩が出てこんのだろ。だから見つけ難いんじゃ。 だからといってデベソの膨らみを観察して何で煩悩発見のトレーニングなる? さすがの俺でもそんなことしてたら煩悩出てこんわ。
他心通 「他人の心を(自分の心として)洞察する力(他心通)を獲得する」ことができる 「情欲に満ちた心であるか否かを知ることができる」 「憎しみをいだいた心であるか否かを知ることができる」 「迷いのある心であるか否かを知ることができる」 「集中した心であるか否かを知ることができる」 「寛大な心であるか否かを知ることができる」 「平凡な心であるか否かを知ることができる」 「安定した心であるか否かを知ることができる」 「解脱した心であるか否かを知ることができる」
84 :
神も仏も名無しさん :2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN ID:J9mpjjgZ
85 :
神も仏も名無しさん :2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN ID:M639WtsM
>>82 日常生活の中で素早く煩悩に気づくのは難しいよ
気づくにはある程度の集中力つまり定力がいります。 近行定程度あれば、はっきり見えるとおもいます。
歩くことを観ても、息を観ても、その気づきを 続けることで、自分の中の無駄な思考が 気づきによって出てくる時間を奪われ 減ってくるので余計に煩悩の思考がはっきりと見えるように なってきます
>歩くことを観ても、息を観ても、その気づきを >続けることで、自分の中の無駄な思考が気づきによって出てくる時間を奪われ >減ってくるので余計に煩悩の思考がはっきりと見えるように なってきます 息を見てる時間が一番無駄な時間という感じもしないでもないが、、、 息だけ見ているわけだから、当然別の思考は出てこないだろうな。 そいでなんではっきりみえるようになるの? 静まり返った部屋の時計がうるさいみたいな感じかな。それとも静まった時に限って 恐ろしい煩悩がよみがえってくるとかかな? 例えば前世で叩き殺した男をこの木の下に こっそり埋めた、、、、みたいな。 でも煩悩っていろんな種類があるでしょ。それこそ無限にあるよね。部分的にはクリアに 見えるようになるけども、全体像を見失うのでは? 例えば顕微鏡で爪の垢を毎日観察すれば、ものすごく集中力は付く。そして爪の垢について は非常に詳しくなる。爪の垢を毎日眺めて暮らすのがメインの生活ならそれで問題ない。 でも生活ってもっとダイナミックなものでしょ。ダイナミズムという煩悩を理解するには そこにあって実際に体験しないと無理でしょ。政治は政治を体験しないと分からない。 戦争は戦争体験しないと分からない。 爪の垢を眺めていて「集中力が付いて全て解った。」なんていうのは傲慢ではないかしら? 息を眺めて付く集中力も爪の垢を眺めて付く集中力も同じで、確かに集中力は付く。 息に関する洞察力も付く。そういう限られた時間限られた環境での頭に浮かんでくる妄想に 付いての洞察もできるようになる。このくらいは言える。 しかし本を読む勉強と比べてどちらが煩悩に関する洞察力が付くと思う?
>83 多少の洞察力というのは誰でもある。 それを研ぎ澄ましていけば常人では信じがたいレベルまで引き上げることは可能かもしれない。 凡人にとって「信じがたいレベル」というのは、ある程度の訓練を積んだものからすれば どってことないレベルだったりする。 嘗ては「無理、絶対無理」と思っていたことで自分でもできるようになったことが幾つかある。 素人相手なら自慢できるが、その世界のものであればどってことない。 さて瞑想で洞察力は上がるのだろうか?
いつもの人だな
91 :
神も仏も名無しさん :2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:nA70MKmE
40代無職独身社会不適応者自称インディゴチルドレンコンサル星人
92 :
神も仏も名無しさん :2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:YxFqqDgv
>>88 観察(ヴィパッサナー)は、四念処の実践です。
身体は浄くない、感受は苦るしみである、
心は無常である、法(頭で考えること)は無我(実体がない)である、と納得するための修行。
その納得を邪魔するのが煩悩。
怒ること、これは頭で考えていること これが無我つまり実態でないなら 怒ること事態が馬鹿馬鹿しく なるのではないか? とわかれば怒れなくなる やれやれ又出やがったかと 自分で思う
>身体は浄くない、感受は苦るしみである、 >心は無常である、法(頭で考えること)は無我(実体がない)である、と納得するための修行。 身体は清く貴いものなので納得できんだろなー。 苦しみあっての楽しみだしなー。 心は無常だろ。何を納得するんだろなー。 実体があるものと実体が無いもの優劣はないものなー。 >93 怒ることも練習しだいだよ。正しく練習すると、適切に怒ることが出来るようになる。 煩悩っていうが、煩悩も磨けば玉になる。磨き方次第だな。 エネルギーの使い方には静かに使う場合と激しく使う場合爆発的に使う場合がある。 両方の使い方をマスターするのがいい。偏るのは良くない。一方に偏ると陰湿になったり 変質的になったり不浄になったりする。栄養も技術も知識も偏るのは良くない。 偏ると栄養失調になる。
瞑想はビタミンCみたいなものだよ。不足している人が取ると急激に洞察力が上がる。 でもとり過ぎたら無駄に排泄するだけ。 もし運動が不足しているなら、運動をすると健康を回復して急激に洞察力が上がる。 でもやり過ぎると健康を害して馬鹿になる。 不足しているものを補うこと。もし瞑想が不足しているなら瞑想を、運動が不足している なら運動を、勉強が不足しているなら勉強を。 不足を知ることは足るを知ることと同じほど重要なのだよ。
96 :
神も仏も名無しさん :2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:/rfRry37
>>94 身体は不浄。
スマナサーラ長老の本か何かでこんな話が。
食事をするときに、食卓にならんだ食べ物をいったん口にいれ、ぐちゃぐちゃ噛んでから、再びお皿に盛る。
ごはんとおかず全品おなじようにいったんぐちゃぐちゃ噛んでから盛り付けて、
「いただきまーす」としてみる。
身体がきれいだったら、自分の口で噛んだものなんか汚くないはず。
でも、実際は気持ち悪くて食欲が失せる。
97 :
神も仏も名無しさん :2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:/rfRry37
>>94 見た目にだまされて「きれい」と思ってるだけで、
実際はそれほど「清らか」ではない。
それでも生活の中で「きれい」と思ってしまう煩悩に気付いていくのが修行。
ただ自論を述べたい欲求にある人と議論しても仕方ないでしょう 修行者はみな自論が正しいかどうか修行を通して自分自身知るのがいいでしょう
特に忙しくなく、やるべき用事もない。 昼寝しても問題ない。眠たい。 こういう時って、まぁ寝たいという煩悩に負けるよねw
合宿に参加したいなと思ってる。
俺も参加したい。 しかしゴエンカの瞑想センターはスピーカーがガンガンなっていて喧しいときいたけど ほんとうか?
素直に食物に感謝する方が自然な気がする。
>47 眉間にちからが入るのは、止瞑想の特徴の一種と 天台小止観に記述がある。 しかしこの天台小止観、マハシサヤドー 南伝、北伝の違いはあれど、共通点を 非常に感じる 禅定においては近行定(欲界定、未到地定)が 必要であると繰り返し述べている所など
★【国際】タイのぜいたく僧侶、僧籍剥奪 性的虐待の疑いで捜査
自家用ジェット機に乗る様子が動画投稿サイト「ユーチューブ」に公開され、
ぜいたく過ぎると波紋を広げたタイ人僧侶ネンカム氏について、同氏が寺院を
構える東北部シーサケット県の宗教当局は13日、ネンカム氏の僧籍を
剥奪することを決めた。地元メディアが14日、報じた。
報道によると、タイでは僧侶が異性との性的関係を持つことを禁じられているが、
ネンカム氏が関係を持った「明らかな証拠」が見つかったためだという。
ネンカム氏には子供がいるとの情報もある。
一方、法務省の特別捜査局は、ネンカム氏が15歳以下の児童への性的虐待の
疑いがあるとして本格的な捜査を始めた。
2013/07/14 16:09 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201307/CN2013071401001334.html
105 :
93 :2013/07/17(水) NY:AN:NY.AN ID:4NhqCJ2v
おこることと ギューーと言わせたげる ことは別だから
タイの仏教寺院、ロシア人母娘を保護
http://japanese.ruvr.ru/2013_07_15/117918117/ タイ北部の仏教寺院フアイ・プラカンで路頭に迷ったロシア人観光客の母娘が保護されていた。
Pattayadailynews.comが伝えた。
夫が妻と娘(2歳)を生活手段の保障なしにタイに置き去りにし、自らは急ぎロシアに帰国した。
女性は他になすすべもなく、地元住民に援助を求めた。
気がつけば僧院に保護されており、そこで住むことを許され、仕事も与えられた。
彼女は僧院に暮らす低所得者の世話を務め、僅かな賃金を得て、自身と娘の食費をまかなっていた。
しばらくのち夫は妻との連絡を回復し、帰国のための資金を送付した。
サイのように黙々と歩め いい言葉だよねぇ
異常気象しかアセンションネタが無いのが辛いよな、コンサル星人
109 :
神も仏も名無しさん :2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:cplYC12p
110 :
神も仏も名無しさん :2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:llSXAs/z
特に彼女もいない俺は、 隅田川の花火大会が豪雨で中止になった時 「ざまがいいぃ」と思った瞬間、ヴィパッサナーで感情を消す。 再び 「いい気味だあぁ」と思った瞬間、ヴィパッサナーで感情を消す。 「家でビール飲みながらテレビ見てる俺最高!」 と思った瞬間、ヴィパッサナーで感情を消す。 俺って小さいよね
彼女を探されたらどうでしょうか?
112 :
神も仏も名無しさん :2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:EmdDNjLf
まずはヴィパッサナーで感情を消すことへの執着を捨てられたらどうでしょうか? 薬物依存と同じでそれさえやめれば「治る」ことも多いですよ。
無職なんで彼女を探すより、 まず職を探さなきゃならないんですよ
他人の不幸を喜んだり幸福を怒ったりできるのはそれだけ元気があるということだと思います。 心が「小さい」状態がさらに進行して病的なレベルになると元気もなくなります。 まあそういうことを薄々感づいているから「まだ俺は大丈夫」と思っていることもあるでしょうけど。 なのでその元気を良い方向に活用しようと考えて心を観察するモチベーションにするのも良いと思います。
115 :
111 :2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:q++dJ08j
だいじょうぶ、しんぱいするな、なんとかなる いますることは 職をさがしましょうよ
すいません なんか気を使わせてしまって たまに不安になります
117 :
神も仏も名無しさん :2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:EmdDNjLf
118 :
神も仏も名無しさん :2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:WfxyQOUn
コンサル星人必死だな
119 :
111 :2013/07/31(水) NY:AN:NY.AN ID:O1J0Q3tn
身体を使っていると、不安は減りますよ 身体を使うという事は、今を生きていることにつながりますから 今を生きているなら、不安は無くなりますので 仕事がを見つけられることを祈っております。
そうだよ。坐禅だとかビパッサナは元気のない時はやらない方が好い。 代謝が落ちるので益々元気がなくなる。 運動したり仕事をしたりして活発に活動するほうがいい。 元気は体力ももちろん関係あるが、視野の広さだとか距離感のようなものも 関係している。動きまわらないと仕事も掴めないし、視野も広がらない。 そういう時は坐禅じゃだめ。
同感だな 座禅、ヴィパッサナーとは、理解することだから すべては無常だから、自分の考えなんて単なる思い込み だったら、いくらでもそれは変えられるものだから あとはそれにそって行動していけば 無常だからこそ、絶対に変わっていくから 身体を使って働くことは、そのときには過去の後悔や 未来の不安などは考えるヒマなど無くなるから
動きながら正念を保つのが禅でありヴィパッサナーだと思うんですけどね。 作務、動中禅、歩行や食事中のマインドフルネス、即今只今・・・
あと、110は「感情に気づいている」時点でよい線いっている。 ただ、ヴィパッサナーは感情を消すためにやるのではなく、ありのままをありのままに見るためのものなので、 操作のためにやるものではないので・・・ 感情も、音や感覚のヴィパッサナーと同じで、自然現象で悪いとか良いとかの判断を手放すと それ以上思考(自我に基づく判断)を発展させることが自然になくなります。 消そうと思ってやると抑圧になります。ただ気づくだけ、そして感情に巻き込まれた思考を発展させないだけでいい。
124 :
神も仏も名無しさん :2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:PVYtCmwj
そう、ヴィパッサナーとは人間の体内にある全ての細胞の活動を 一時的に停止させる瞑想法。 その停止状態から再生に向かうエネルギーが、 体のあらゆる部位を浄化する。 ここで細胞の全てをうまく停止させられないと、 軽い幻覚や幻聴がでたりしてしまう。 ただ、修行を積み上げ、完璧に停止から再生へすすめられれば、 テーブルの上にある10円玉を触らずに動かすぐらいなら、 簡単に出来るだろう。
125 :
神も仏も名無しさん :2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:La4uTnYF
w
ヴィパッサナー(観)とは、観察であり理解であるという認識です。 理解してしまうと言うことは、それを再度起こすことがあり得ないので 根こそぎ取り切るにつながります。根こそぎ伐られてしまったターラ樹の株のように
説法はしなくていい。
128 :
神も仏も名無しさん :2013/08/05(月) NY:AN:NY.AN ID:UQMsE6u4
仕事の面接で 「あなたの強みは?」と聞かれ 「ヴィパッサナー瞑想やってます」 「慈悲の瞑想もやってます」 とは答えられませんでした。 確実に俺の強みなのだが、言っても分からないだろう。 説明しても、理解してもらえないと思う。 説明するのもめんどくさい。 こういう場合、どうしたらいい?
>>129 いや、
> 「ヴィパッサナー瞑想やってます」
> 「慈悲の瞑想もやってます」
そう答えたら、カルト宗教の儀式と間違われるよ
余程それ系の人が理解しているわけでもない限り
「テーラワーダ仏教に興味があります」程度にとどめていれば話しやすいかもしれません
下手すると増上慢とか評価されそうなので注意した方がいいと思います
131 :
神も仏も名無しさん :2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN ID:Bi/6aX/8
>>129 就職の面接で強みを聞かれて本気で答える必要はない。
たとえば、会社とあなたが同じ方向性を向いているという、
会社とあなたが共有している目的に役立つ部分を示せばよい。
また、冥想で得た集中力とか、きめ細やかさとかをアピールするなら、「冥想」という言葉を出す必要はない。
「まずはミスのないように着実にやって、慣れてきたらスピードを上げてゆきます、
最初は慌てずに、一歩一歩着実に、自分を冷静に見ながら自分をプロデュースしていきます。」
とか言えばよいのでは。
慈悲は怒りのないときしか顕現しない。
慈悲が強い人は怒りが少ない。
つまり冷静でもある。
そこらへんも上手くアピールすればよいと思います。
でも、具体的な宗教名をだして面接のプラスになるとは思えません。
132 :
神も仏も名無しさん :2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN ID:Bi/6aX/8
なんでもやってみるチャレンジ精神があるというアピールとして、 「冥想にも挑戦してみました、宗教くさいとかマイナスイメージもありましたが、 自分でやってみないとわからないと思ってやってみました、そしたら…」 とかもいいかも。
>>130 >>131 面接でヴィパッサナーなんて言ったら、まず怪しいですよね。
社内で勧誘されそうw
>>131 さんの意見は素晴らしいですね。参考にさせていただきます。
ヴィパッサナーについて言えなかったので、ちょっと黙ってしまいました。
瞑想の効果について自分なりの言葉でまとめてみようと思います。
ありがとうございました。
曹洞宗だの永平寺だのと言えば、「ほほぉ」と関心するのに 「上座部仏教の・・・」、「お釈迦さまの時代から続く瞑想修行・・・」、「ミャンマーの瞑想センターで・・・・」 などと言うと、「宗教?!」と訝しがられる。 座禅と言えば大丈夫そうだけど、瞑想というと怪しいとか。
>>134 たしかに、「坐禅」ならまだ理解されやすいかも。
坐禅と言ったときに文化的な趣味ととらえられるか、
体育会系的なガマン強さがあるととらえられるかは面接官次第だけど。
私の経験上、大学でのマニアックな文化活動より、
中学・高校でのベタな体育会系部活の話を出したときのほうが面接官が頷いてました。
(「それを聞いてお前のキャラがやっと掴めたよ」的な顔だった。)
坐禅をやっていれば書道は非常に美味くなる。美意識が鋭くなって絵が上手になる。 それに頭もよくなる。発想力が人並以上になってアイデアがドンドン出てくる。 こういうことだから、その成果物を見せればよいだけの話だ。面接が心配なほど成果物 が無いような坐禅は坐禅ではないから、「坐禅をしている」なんていうのは嘘になる。
面接が受かったらいいね よいことがありますように
ちょっと細かいことが気になったんだけど、「座禅」と「坐禅」って ニュアンスは違ってくるのかな。 禅宗は坐禅という表記を好み、他宗派は坐禅という表記を好む、とか。 南方仏教は瞑想とか禅定とかを好むだろうし。
○ 他宗派は座禅 × 他宗派は坐禅
サンスクリットが好きか、パーリ語が好きかで、毛色が全然違うと思うし。
141 :
神も仏も名無しさん :2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN ID:Lte342dC
たいさないさ。
ここまで暑いと、エアコンかけなきゃ ヴィパッサナーできないよな
143 :
神も仏も名無しさん :2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:ddbH5b6Z
お風呂に水張って中でやればいいお!
炎天下で歩く瞑想 汗かく瞑想 お日様からもらうビタミンDは最高の免疫だよ
エアコンの冷風はヴィパッサナーに効果的らしいよ。 一緒にガリガリ君とか食べると深く瞑想に入っていける。 そんな話を聞いたような聞いてないような・・・
146 :
神も仏も名無しさん :2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:lmo0Etrm
雑念・・・雑念・・・雑念・・・
交番の前で歩く瞑想を何往復もすると、 3倍の速度で悟りに近づける。 たしかこんなような事が古い仏教の本に書いてあった気がするような しないような・・・・
認識が汚れてるのにどうして明確に観ることが出来るんだよ 集中してる”フリ”、観察してる”フリ”じゃなくて本物の集中、観察って何なんだよ 心の問題なのに正しい方向に向いてるか誰が指示してくれるんだよ とにかくごちゃごちゃしてます、助けてください
仏典にない、修行らしきものして時間の無駄だよ
150 :
神も仏も名無しさん :2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:yBWCsa5x
>>148 四念処に即して観察できてればよいのでは?
私もそう思うなあ、多分お腹の膨らみや縮みを観察していると思うんだけど それは四念住の身念住だけれども、色々妄想などが出るけど、それに引っ張られずに身体を注意して思い続けるけるのが 本来の念、サティの意味だから、 気づきという訳は間違いだよ さらにお腹の膨らみ、縮みを観察しているだけなら、必ずそれ以上進歩しないよ、とにかく仏典をよく読むことだ
瞑想中に出てきた雑念に巻き込まれた時、その瞬間にそう気づいて 瞑想対象に意識を引き戻すわけだから、気づきでも意味はあってる と思うのだが、思考をして考えることによる気づきではないんだよね。 瞑想実習を積み重ねていくとわかってくるはず。
雑念、妄想、連想、(痛い、かゆい、痺れといった)感覚。 そこに気持ちが向いた時に、集中対象に気持ちを引き戻し続けること。 1時間半なら1時間半の間、それを何度も根気よく繰り返し続けること。
七科三十七道品 [三十七菩提分法] 四念住 [四念処] (身念住、受念住、心念住、法念住) 四正勤 (已生悪断、未生悪令不生、未生善令生、已生善令増長) 四神足 [四如意足] (意欲、精進、念、思惟) 五根 (信根、精進根、念根、定根、慧根) 五力 (信力、精進力、念力、定力、慧力) 七覚支 (念、択法、精進、喜、軽安、定、捨) 八正道 (正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定) これ貼っておくわ。 どれも瞑想が上達するための要素だから、瞑想してない人に仏典の本当の意味はわからない。 必ず深い集中状態に達するぞという気持ち(意欲)で、怠け心、眠気や雑念に打ち勝って瞑想し(精進)、 対象にサティ(念)しつづけることで、禅定に近づき、あるいは深まっていく(定)。 そして、禅定の力をもって諸現象を観察することで智慧が生じるらしい。
155 :
神も仏も名無しさん :2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:xAM5POH4
雑念、妄想等々に瞬間的に気づいてそれに引っ張られずに腹の膨らみ等の対象に意識を引き戻す、 というだけではなく、 雑念、妄想等々がもつ意識の志向性を瞬間的に遮断して、 それらを構成している裸の実的構成要素(=意味付けを取り払った直接感じられている感覚的要素)を直接に観る、 という側面がある。 こっちの方が(禅と異なる)ヴィパッサナーに固有の方法だ。
禅定(サマタ)はヴィパッサナーと矛盾していない。 清浄道論では、まずサマタで禅定を得てから、ヴィパッサナーを行う。
八正道にもあるように、正念(サンマー・サティ)、正定(サンマー・サマーディ)。 お釈迦さまは最初から答えをすべて用意してくれている。
マハシを批判するつもりはないが、マハシしか知らない人が思っているヴィパッサナは 一般向けの簡易版ヴィパッサナだということは知っておいた方が良い。
入出息念については、あとで説明したいと思う みんな仏典をそのままよまないで、事実とかけ離れた解釈をしているから、心の静けさなんか、手に入らない
静けさは間違いなくあるよ 本当にすぐ隣に、うそじゃ無い
161 :
神も仏も名無しさん :2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:xAM5POH4
>>155 >意識の志向性を瞬間的に遮断してそれらを構成している裸の実的構成要素(=意味付けを取り払った直接感じられている感覚的要素)を直接に観る
のではなく、
意識の志向性そのもの(=意味付けそのもの)を(志向させずに)対象化して直接に観る
のだと思うが、違うかね?
んー、結局集中の対象を決めて意識がそれたときはほっといて戻ればいいわけ?
念とは認識対象を心に留めて忘れないこと、注意して気を付けるという意味である 入出息に念を向けるが、入出息念である。 まず身体的に呼吸の出入りを確認する、その時お腹の膨らみ縮み、胸の拡がり縮み、鼻腔の息風でもいい 念を向け続けると呼吸が長くなってくるので長いと思い続け さらに呼吸が自然に短かくなってくるで、呼吸が短い間短いと思い続ける
>>163 さらに呼吸に念を向けていると、微細な息風が鼻の先や唇から入出し始めるその後全身から微細な息風が入出するようになる
次に微細な呼吸がピタリと止まって、身体的な感覚が無くなる云々(´Д` )
たとえば対象を鼻先の空気の出入りをずーっと見続けて、 いつ心の対象とかの発展系に進んでいいって分かるの? 「はい、ここまで観察おkです、次これを観ましょう」って独習できるものなの? 本でこういう現象が起こるって書いてるからそれを追えばいいってなるの? ○×はっきりしないからわっかんねー
166 :
神も仏も名無しさん :2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:xAM5POH4
>んー、結局集中の対象を決めて意識がそれたときはほっといて戻ればいいわけ? 違う。戻らずにそれを観る。それにならずにそれを観る。 怒りがわいてきたら、もはや中心対象ではなく、しかし中心対象を観ていた時と同じ仕方で、その怒りを観る。だからもちろん怒らずに。
それにならずにそれを観る 怒らずに怒りを観る なるほど
お前らトンチンカンすぎてもう知らん
170 :
神も仏も名無しさん :2013/08/20(火) NY:AN:NY.AN ID:k6awHwt4
ヴィパッサナーの人たちは、座禅や静座みたいなゆるめる系?の瞑想は取り入れでらっしゃる?
トンチンカンになるのは言葉の指し示す方向がはっきりしてないから 各流派の高僧がテキストひとつに纏め上げてくれよ タイムマシンあれば2500年前に行って直にお説法聞きたいわ
パソコン修理中なんで、スマホだと書き込みに時間がかかってうまく説明できない
清浄道論は読んだのかや? ネットで日本語訳がタダで読めるのに。
解説書ないとわかんね
一番下のでしょ?わっかんねー 一番上のだけやってみるわ
>>171 激しく同意…といきたいけど、言葉が分からない
現代パーリ語とはとても思えないので
178 :
神も仏も名無しさん :2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:ilK1Ruh4
経典なんぞに頼らず自分で試行錯誤して自分なりの方法を開発していかなきゃ駄目さ。 (英語の医療系のものは客観的データが示されているから少し役に立つけどね)
心の切り替え、みたいなもので 気がつけば一瞬なんだけど いくら読んでも、探してもだめで、もどかしい
悟りなんてのはさ、 気温とか風、物や家具の配置なんかも影響してくるからね。 瞑想する部屋の南西の方角にぬいぐるみを置くといい。 出来ればコアラが良いらしいけど、 似た感じのぬいぐるみでも問題ない。 そうした状態で団扇でうまく風を作りながら瞑想すると、 悟りに行きやすい。 みんなトンチンカンな事を喋っているけれど、 真実を語っているのは俺だけだよ。
悟りと言う状態とは その状態とは想が無いこと そう考えると、いろいろな事がつじつまが あってくるし 可能であることも理解できる。(相当困難ではあるが)(ほとんど無理)
182 :
神も仏も名無しさん :2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN ID:P4Lb8P/n
コンサル星人迷走中
想の前には受がある 受の段階で、受け止めれば 想はでなくなる。 具体的には、歩くことなら、一歩一歩確認してあるく または自分の吸う息を吐く息を観ていく この時 想は起こらない、想自体か減る これを続けているとわかる 今という時間に生きている いままで、のべつ幕なし出ていた思考が 出てこれないまたは、非常に減ってくる そのとき気がつく 自分の心が平安と静寂にあることを ただすぐに思考が出てきて、平安と静寂を壊すだろうが わずかな時間でもそれがわかったとき 人は変わってゆく 想=考えることが苦しみの根元であることを
184 :
神も仏も名無しさん :2013/08/27(火) NY:AN:NY.AN ID:B61+7QV4
>>183 よくわからんが、想が出る前に止めるのって禅定のレベルでいうと、
色界の禅定でも可能?
受とは例えばアーナーパーナで息をすうと感じるのが受とおもいます。息を吸っていると思うと想になるのではないでしょうか
禅定など難しいことでなく誰でも今すぐに できると思いますが
誰でも出来たらぽんぽん悟ってるだろうね
でもおもしろというと語弊があるのですが できる人とできない人が存在しているのですよ
素直に教えられたとおりにやるか、やらないかの違いじゃないかな。
できる人は一瞬なんです。 なにか頭の切り替えみたいな所はあります。 ただ普通の何も無い状態の時に わかりやすいのでは無いかと思える所はあります。 へんにこだわらず、そのまま、純真にやってしまうとできるみたいな でもできないから、自分は純真では無いと思わないでください。 なんかの拍子でわかる部分もあります。 自転車に乗るようなもので、初めて自転車にのるとき、うまく乗れませんが 何かの拍子に乗れてしまうような
192 :
神も仏も名無しさん :2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:8nuTsw0Q
難しいな。 たとえば、膨らみを感じたときに、 体のどこの部分の膨らみなのかまでイメージがついてきてしまう。 音が聞こえたときに、すでに人の声だと知ってしまっています。
あーー やっぱりそうなんですか でもなにかあるんです。うそじゃなくて どう言えば 平安と安らぎの様なものが、息に意識が向かうと現れます。 これは戒をできるだけ守るようにすれば得られやすくなりますが 慈悲の瞑想をすれば、より強化してきますが 問題はそこでは無く、その断絶を飛び越える様な そこに行くと想がでれないというか 時間感覚をできるだけ最小化して、今という瞬間に焦点を当てるとでもいうか 今という瞬間には、想は無いと観ているのです。 瞬間の連続体とでも言うか 吸う瞬間をつかまえるとでも言うか 肩に力が入っていませんか?
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自分も右足左足と、何をしてるんだろうと思ってたのですけど 武術などをしていると、瞬間的に出るとか打つとか、その時には考えが無い状態なんです。 よくにている感触で 将棋や囲碁などで、答えは直感的にすぐ出るような、そこには考えが無い状態なんです。 ひらめくというか無意識とでも言うか
なにか一心不乱に夢中になってやってきた その状態と同じような物で、やはり集中力と言う事になるんでしょうけど 一瞬その集中力(やhりサマタか)で、入り込むみたいな 息を吸う瞬間に集中力をあげて、無心に流れを感じるとでも言うか
その息は、だんだん細く、細かくなってきます。 感じられないほど それでも追い続けると、その息を客観的に観ている自分が 意識できるようになるんですけど
何かコツとかないですかね? 瞑想中は意識はどんな感じですか? 意識を感じる?ことってできますか?
コツと言っても 入ってしまえば、いろいろな事が言えますけど そこにどうやって移るか おもしろいことに、移ろう移ろうと意識するとだめで なにか投げ捨てた様な所に あきらめたような所に あるみたいな感じです。 ある静かな、安心した、場所があるというような 自分でも変なことを言っているようにみえてるんですが この時こころを操作できるというか、いろいろな 心のおしゃべりが極端に減ってくるとでもいうか なにかに集中している そうゾーンとでもいうのですが 歩くのも軽く感じます。 もうはじめの頃は、喜びがなぜか出てくる 外から見たらなんでこの人にこにこして歩いてるんだろうか? おかしいのではないかくらいの感じでしたが なんなだろうか?どうすれば? なにか集中してやってきていた人は、すぐわかると思えるのですけど 自分でもこれが正しいとは、思えないので、確信は持てないのです。 でもいままでいろいろな事をやってきて、うまくいく事と 非常な関連性というか、みんなこの物を利用してきたんだ と言う実感があります。
200 :
神も仏も名無しさん :2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:EngoKL8H
>>198 水を入れたコップを二つ用意して、右手と左手で持つ。
その状態で瞑想する。
これは意識が鋭敏になるから効果的だよ。
水をギリギリまで入れるとか、頭にのせたりする応用編もある。
自分のレベルに合わせて、無理しないようにね。
まずきちんとした姿勢で座り続けるのが無理 さらに鼻先にだけ集中し続けると心が暗くなるんだが すぐ効果が実感できるんじゃないのけ?
>>201 座り続けられない場合は、スキップする瞑想やカニ歩きする瞑想に
移行した方がいい。
腰に手をあてたり、指でチョキチョキとポーズしたりすると
とても可愛らしい。
鼻先が黒くなる?
それは病院に行った方がいいよ。
>>199-200 ありがとうございます!
意気込まずに集中を高めるんですかね。
とりあえずまたやってみます!
何か疑問があるなら、きちんと瞑想指導の許可を受けた先生に習うべきだと思うよ。 質問に答える方も、下手に指導したり教えたりしようとするより、信頼のおける指導者に繋ぐべきじゃないかな。
その通りだわな あれこれ市販薬選んで試すより医者行ったほうがいいしな
>>204 それはいえる。
このスレでも適当なアドバイスする奴がいて困る!
正しいことなのか間違っているのか判断できないとまずいよね。
>>202 なんか、カニ歩きの瞑想はともかくとしても、
スキップの瞑想はおかしいだろ!!
迷走だな
読書してる時とか文字を読んでる時みたいに頭の中で一回声がでるかんじ?になっちゃうんだけどこれは抑えた方がいいなかな
209 :
神も仏も名無しさん :2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:eDrf8OEN
不安は自意識過剰から生まれ自意識過剰は集中力の欠如から生まれる エドガー・ケイシー
座る瞑想でリラックスって重要ですか? 余計な緊張があるとそっちに気をとられやすくなると思うのですが、 とにかく座れって感じであまり重要ではないのかなって
マインドフルネス(バンテ・H・グナラタナ) ってパオ式なんかな
肺を拡張するためには、立ったまま前屈して、手の指を足の横の地面につけて、その体勢のままゆっくり深呼吸を無理をしないで繰り返すがいいよ
サティというのは、気づくことじゃなくて妄想なら妄想と確認することじゃなくて、妄想から離れて、注意の対象に、戻ることる力のことが本来のサティの意味である
瑜伽師地論にも、ちからづくで呼吸を操作しようとすると、疾病を巻き起こすと書いてある
我慢して呼吸に戻る練習か
216 :
神も仏も名無しさん :2013/09/02(月) 00:56:35.14 ID:gC8Pjdx3
>>217 捨無量心の「捨」という漢訳はなかなかうまいと思いますね。
執着せずに手放す、心に沸いてくるゴミを捨てて捨てて捨て続けるんですね。
呼吸に意識を戻すためには、意識が呼吸以外の対象を手放す必要がありますから。
217 :
神も仏も名無しさん :2013/09/02(月) 01:05:54.38 ID:gC8Pjdx3
心に何かが生じたら、次にそれが消える、そして新しい対象が生じる。 生じたら、次に消える。(滅する。) あたりまえのことなんだけど、そのあたりまえのこと(滅)がいつでも隣にあるという感覚を忘れがち。 「祇園精舎の鐘の声…」みたいなネガティブな意味ではなくて、 智慧の手がかりであり、道を照らす灯火である「滅」はいつでも寄り添っていてくれるというか、 取りだそうと思えばいつでも取りだせるというか、そういう安心感みたいな感じになることがある。 難しく考える必要はない、意識すればいつでも滅は起きているじゃないか、みたいな。
断食して サティを切らさないでどこまで続けられるか ゲーム
>213 サティというのは、例えば崖から転げ落ちるような時に僅か1秒間が異常に鮮明でしかも 転げながらも即座に岩の割れ目を見つけて手をかけるような冷静な判断力を伴なった状態を 目指すものだと思う。 自分も何度か経験したが、現実的にそういう事態になればその力は出てくるので無理に トレーニングする必要もないような気がする。しかしトレーニングしたい向きには呼吸を 見つめるなんてことよりもいい方法がいくらでもあるように思うが、、、
220 :
神も仏も名無しさん :2013/09/02(月) 12:43:39.33 ID:gC8Pjdx3
>>213 なんかそれって、修行の目的が違う気がします。
仏教の修行なのだから、苦・無常・無我に気づくためのサティではないでしょうか。
集中力の達人ならこの世にごまんといるだろうな イチローとかちょっと心見たら悟れちゃうわけ? それとももう悟ってる?
クーサラ トイレ掃除してサティ力 UP!!!
集中力ってのは、とりあえずの目的のために他のことは犠牲にしたり棚上げしたりする 能力だろ。一郎だって野球を離れたら幼児プレイとかして精神のバランス保ってるわけで あまり過度に集中すると犠牲にしたものも大きくなるんじゃなかろうか? スマさんなんかも非常に立派なわけだが、人格的にはというと時折り変態というか少し おかしいところが覗くように思う。集中力特訓のマイナス面ではなかろうか?
サティってのは貧乏で何にもないので呼吸に集中しようってことだから、パソコンが あるならパソコンを超高速に使う練習だってサティになるだろ。 分けも分からずに呼吸に集中したりするよりも、たとえば仕事を 「次元の違うようなスピードでやり遂げる」というような実践的練習の中で 磨いた方がいいだろ。その方がモチベーションも上がりやすい。
仕事をするときに現在の感覚に集中しているとは限らない。 心は明日の予定、昨日の状況、今のほかの奴の動きなど、さまざま駆け回っている。 それは集中とはいわない。
瞑想してない人ばっかり。
227 :
神も仏も名無しさん :2013/09/03(火) 23:11:24.96 ID:ATkC+vyn
なんでヴィパッサナーやらないんですか?
マハシ式のヴィパッサナーは在家でもできる初心者向け。 スマさんもマハシも素晴らしいことに違いはないが、それが全てだと思っていてはいけない。 上座仏教の修行体系は、マハシだろうがパオだろうが、すべて清浄道論に基づくもの。
また迷わす
迷う必要などない。 考え方も方法論もお釈迦さまが教えた通りにやればいい。 ブッダ、ブッダの教え(パーリ三蔵)、それを護持するサンガ(戒があるかどうかで、 悟っていない人にも本物と偽物を見分けられる)。 要するに三宝。 最初からそこに全ての答えがある。 あれこれ考えて迷うのは、下手の考えなんとやら。
自説を語りたいだけの、悟っていない人の個人的意見など聞いても仕方が無い。 修行を進めるうえでは、なんの利益もない。
効果がすぐ実感できないから時間もったいないし そのくせやたら時間要求するしむかつくんよ。 5分でいいですとは絶対言わない。最低20分はやれと。 ヴィパッサナー教えてる人が悟ってるかどうかなんてわからんし。 座禅ひとつとっても禅やヨガや気功やらで目的が違うし、 なんでひとつの形式でいろいろ意味を持たすんだよ。 もっとシンプルにせえや、ヴィッパッサナーの〜式もよー。
結局見聞きできるのは仏典の解説なんよ、そのものやないんよ。 「よし、絶対についていこう」っていくパワーが出ないんよ。 必ず成功できる確証がほしいんよ。
ゴエンカ < マハシ < パオ
↑ ↑
在家(初心者)向け 出家(上級者または本気度高め)向け
簡単な三択。
1つ選んで、納得のいく結果が出るまで浮気せずにやり遂げるのが吉。
>>233 もしかして、自宅で一人でやられてます?
それだけ強く欲する気持ちがあるなら、思い切って十日間合宿とかに
入ってしまうのが一番ですよ。
「本当かなぁ?迷信かなぁ?」と迷っているなら、「よっしゃ、もう自分で確かめたる」と 意を決して仕舞った方が、ずるずると時間を無駄にしなくて済むかと。
ゴエンカさんの本は読んだんだけど実践向きじゃなかったね。 やってみて時間の無駄だったから気が向いたときにしかやらんよ。 合宿は覚悟が足りんわ、引きこもりやし。 気功とかならその場ですぐ実感できるんだけどな。
十日間引きこもって瞑想だけしていられるんだし、天国だと思うがな(笑)
238 :
神も仏も名無しさん :2013/09/04(水) 01:52:36.96 ID:CkwfQc4D
ヴィパッサナーもサティも四念処が基軸なんじゃないでしょうか? 集中力を鍛えるのだって、四念処に集中する力を養うためでは?
呼吸に念を向けていれば、(1)長い呼吸(2)短い呼吸(3)身体からの呼吸(4)身体からの呼吸の停止、が自然の流れで体験できるけどな ここまでが、四念住の身念住の範囲だ さらに呼吸に念を向けていれば、受行想も自然の流れで体験できるけどな
アナパナサティとサティパッターナスッタが分かれてる意味が分からない
「究極の悟り」というのは無いよ。絶対に。真理は無限だからね。 小悟と言われるような悟りはある。解放感だとか快感だとかそれがしばらくは続く。 でも続くのはだいたい1−2週間くらいで慣れてくるとその感覚は次第に消える。 仏教的には小悟を何回か経験して大悟がくるといわれる。しかし大悟というのは来るん じゃない。これは仏教を叩きこんで完成する。 小悟を繰り返して「こいつは見どころがある」と思われると「お前は悟った」ということ になって、それから10年くらいは仏教の文献などを叩きこまれる。それで完成するのが 大悟だ。小悟とはまったく違うものだな。大悟というのは猛勉強のことだ。
242 :
神も仏も名無しさん :2013/09/04(水) 21:12:15.75 ID:CkwfQc4D
>>241 10種類の煩悩を順番に消してゆき、10種類すべてが消えたら究極の悟り。
煩悩のリストは、裏を返せば悟りのリスト。
明確な基準がある。
>242 そんなことは絶対にありえない。 「煩悩」というのは、決して否定的なものじゃない。必要な能力でもある。 良い、悪いは関係性で決まるのだから、何時の時代も絶対的に変わらない 煩悩などというものはない。
無常つまり「明確な基準はない」というのが仏陀の教えの核心だ。
悟っていない人が、自説をあれこれと述べ、それについてまた悟っていない人が あれこれと意見を述べる。 以下、無限ループ。 全くの無駄。
まず、経典を読んですらいない人が何を知った風に話しているのか。 「無常とは明確な基準がないこと」といういい加減な解釈の元になった経典を引用してごらん。 できないでしょう。
悟りも解脱も、議論を深めて到達できる境地ではなく、瞑想修行を深めること でわかってくることなのだから、議論をしようとすること自体が、すでに横道に 逸れている。 議論で到達できるようなものなら、釈尊は議論の訓練を教えただろう。 そうではなく、瞑想修行を教えたことを思い出すべき。
248 :
神も仏も名無しさん :2013/09/04(水) 22:21:49.32 ID:CkwfQc4D
>>243 煩悩を必要だと思うこと自体が煩悩、しかも煩悩の親玉的な煩悩。
煩悩とは悩み苦しみの原因。
煩悩が場合によっては使える能力であることは理解できるが、
その能力があればあるほど悩み苦しみが増える、煩悩はそのような能力である。
痛みは必要だろ。同じように苦しみも必要なんだよ。まったく「苦しみ」を 感じないなんて確実に病気だろ。
今の段階で痛みも必要で、煩悩も必要だと感じているなら、それは もちろん自由だし、他人がどうすることもできないけれども、生きて いれば遅かれ早かれ生老病死に伴う苦はやってくる。 その時、苦を解決したいと思ったなら、いつでも四聖諦のことを思い 出して欲しい。 本当は予め備えておいて欲しいけど。
(仏縁のあるうちに)生きていれば対処のしようもあるけど、死んでし まってからでは遅い。 輪廻転生など本当にあるのか分からないと思うだろうし、自分だって 自分自身の目でそこまで確かめられたわけじゃないが、少なくとも初禅 の入り口までは自分で実際に体験したので、そこから帰納的に考えると、 二禅、三禅、四禅もあるだろうし、その先の天眼通、宿命通の話も本当 だろう。 なにより、仏陀の人格やパーリ経典の文脈などから考えても、嘘をつい たり、(迷信的な意味で)間違ったりしているとは到底思えない。
仏典ってそのまま読んだの?
日本語訳(主に片山一良先生)を読むか、日本語ができる上座仏教の比丘に教えて貰うかのどちらか。
パーリ語、独学だけじゃ無理でしょ。 いや、無理とは言わないけど難しいよね。 自習は当然として、駒澤大学で片山教授の聴講生になるか、テーラワーダ系のお寺に行くしかないのでは。
スマさんの本って解説で話それまくって原文の印象全くなくなるんだよな でもなぜかブッダの実践心理学だけはそろえてる
>251 聖書を読んでみたら冷静に理解できるんじゃないか? 冷静に読むなら 空想の入った物語だ。でも信者の読み方は全く違う。信者は頭のおかしい狂った 人ばかりじゃないよ。それどころか大多数は正常だしなかには信頼のできる大天才 だっている。 でもどちらも正しいとするのは矛盾がある。 もしキリスト教が正しいなら仏教は間違っている。 もし仏教が正しいならキリスト教は間違っている。 つまりどちらも少なからず間違っていると考えるのが順当だ。冷静に考えれば どちらも間違っている。キリスト教はパウロによって大きく修正されたし、それ以後も 修正を繰り返している。仏教も龍樹によって大幅に修正を加えた。 というように原初は間違っていて不完全だから修正が必要だということだ。 人間的に信頼できるから間違いないということにはならない。大天才も間違う。
>>256 論理的に追求していくとそうなるよ。
論理をたよりに類推していく方法ね。
ただ仏教の場合、瞑想してダイレクトに見ないと分からない部分があるんだよ。
そのかわり、瞑想体験があると経典に書いてあることの意味がわかってくる。
こればっかりは言葉で説明しようとしても無理。
片山先生の本高すぎワロタw レビュー見ても何言ってるかちんぷんかんぷん 仏教も知識ゲーかよ
自分でやってみて、禅定を得た人が禅定を得たと言わない気持ちがわかった。 迷信と区別がつくように話すのは難しい。 だから経典にのっとって、せいぜい禅支や五自在の話をするだけに止めるように なってしまう。 それでまた、こういう説明が某カルト宗教そっくりだということになってしまうだろ? でもね、それ逆なんですよね。 カルト宗教が仏教用語を真似て商売してたのであって、順番逆なんだけどね。
尊師といえば麻原彰晃、みたいなイメージでしょ。世間は。 でも、尊師といえばお釈迦さまですよ、本来は。 中村元訳でも「尊師」って出てきますよ。
気づきが大切っていうけど気づきってなんなの? 変化を察知する能力? サティ=気づき これ正しい訳なの?
>>261 雑念等(五蓋)が浮かんできて、瞑想対象から集中がそれる度に、そのことに気づいて注意を瞑想対象に引き戻す、ということをずーっと繰り返すわけだから、正しい訳だと思うよ。
瞑想対象に注意を向けて集中する(念ずる)。
これもサティ。
瞑想中にでてくる雑念や五蓋に気づき、気づいたらすぐに瞑想対象に注意を引き戻す。
これもサティ。
この2つは、五禅支の尋と伺の部分に相当すると思う。
これを、喜、楽、一境性が出てくるまで繰り返す。
別の言い方をすると、雑念との根比べで、雑念を考える部分の心が、集中しようとする心に降参するまで続ける。 集中しようとする心が、雑念で遊びたい心に勝つまで続ける。 そうすると、思考が止まり、思考が止まっているのに、止まっている思考を自覚する意識はある、という状態になってくる。 そういう状態になると、心がいくつものパートに別れた多重構造になっていることも見えてくる。 すると、次にどこを制御すれば、より深い集中に入れるかも見えてくる。
でも気づきって恣意的に働かせるものでもないじゃん 対象に引き戻す際に使われるのは意志じゃないの? ヴィパッサナーって明確に観るって事でしょ? 自分の意志を介在させずにそれ自体で働くものじゃないの? 心を純化させずにヴィパッサナーなんて出来るわけないと思うんだけど。 今の精神状態で「足を上げます、下げます」やったって 何の意味があるんだろうと立ち止まってしまう。
>>264 >でも気づきって恣意的に働かせるものでもないじゃん
気づき=洞察智という意味で言っているなら、その通りだと思う。
sati は mindfulness と訳されるように、パンニャー(慧)のことではない。
それは、マハシ式のヴィパッサナーが実はサティ瞑想法とでもいうべき
サマタ瞑想であることに起因すると思う。
この辺は、アビダンマ的に正確な理解を求めるなら、やはりちゃんとした
先生に聞いた方がいい。
マハシのヴィパッサナーは、身念住というサマタじゃないの?という意見はある。 また、そうだとしても別に問題ない。 なぜなら、本格的なヴィパッサナーにはサマタの集中力が必要だから、サマタ からヴィパッサナーにシームレスに移行できるメソッドということなのだろう(推測)。
理想は、止の瞑想の土台が出来た上で、観の瞑想(ヴィパッサナー瞑想)を行うのが理想なんだと思う マハシ式のヴィパッサナーは、止の瞑想を別段行わせないでも、ヴィパッサナーを行えば止の力もある程度培えるので、 というやり方を取ってるみたい
>>264 >今の精神状態で「足を上げます、下げます」やったって
>何の意味があるんだろうと立ち止まってしまう。
根気よくサティを入れ続けていると、雑念が沈静化して集中力が高まった状態になる。
その状態でものごとを見ると明瞭に見える。
あと、繰り返しになるけど、自分がやってる瞑想を教えている先生に直接聞く方がいい。
基本的なことだけど、そもそも戒が破れてるようだと、飛び回る心を手なずけるのは難しい。 心を制御するための基本的な土台なので。
270 :
神も仏も名無しさん :2013/09/06(金) 08:07:25.74 ID:xlW2Mds+
サティによって受(雑念を誘発する刺激)がすべて苦であることに気づける。
香具師: 根拠のない出鱈目を言っておきながら、答えに窮すると「瞑想すればいい」とこたえる。 これが上等手段だ。
>サティによって受(雑念を誘発する刺激)がすべて苦であることに気づける。 こんなこと何の根拠もない。 いくらサティを入れたところで、風邪の原因となるウイルスなど絶対に見えないだろう。 ウイルスと風邪には決定的因果関係があるが、サティを入れても絶対に解らない。 サティで解るようになる苦というのはほんのわずかしかない。99.99%はサティでは絶対に 解るようにならない。出鱈目をいうのはいい加減にしろと言いたい。
273 :
神も仏も名無しさん :2013/09/06(金) 12:16:51.02 ID:xlW2Mds+
>>272 眼耳鼻舌身意に入る受を100%捉えるのは無理でも、
サンプル調査を重ねることで、「どれもこれも苦だな」と納得することはできるのでは?
なお、眼耳鼻舌身意でとらえられなければ「受」とは言えない。
人間の目に見えないウイルスなら眼根に入る色の刺激はない。
しかし、ウイルスのせいで鼻がムズムズするという「触」の受が発生するなら、
そのムズムズを観察することはできる。
274 :
神も仏も名無しさん :2013/09/06(金) 12:23:38.95 ID:xlW2Mds+
鼻がムズムズすると、別の対象を見ていた意識がムズムズに引き寄せられる、 さらに、ムズムズを解消するための何らかの動作をしたくなる。 そのように、心身が何らかの反応・対応の動きをしたくなる、 落ち着いて完全停止できないようにする刺激を、「苦」と観察する。 性欲などの「きもちいい」刺激も、よりきもちいい行動をしたくなるなど、 次の動きをしたくなる刺激なので、快楽もまた「苦」。 もしも苦が完全になくなって、何の対応もしなくていい、何の動きもしなくてよいようになったら、 生命活動・輪廻を停止し、涅槃に入ることができる。 苦とは、何らかの対応をしなくちゃならない、満足していない状態。 満足したら動く必要がなくなり、停止、涅槃に入れる。
寝てりゃいいのか
276 :
神も仏も名無しさん :2013/09/07(土) 09:44:06.77 ID:ZANopq8T
喉に付着した唾液の一部を採取して、 顕微鏡で見ながらサティを入れるとといいようだ。 サティのためにも知識が必要であることがここからもわかる。
277 :
神も仏も名無しさん :2013/09/07(土) 09:51:00.33 ID:R/uW1YF0
>>275 寝てたって寝返りしたくなったり、また起きたくなったり、
次から次へと「このままではいられない、次の反応をしたくてたまらない」という苦(不満)の連続。
呼吸もしなくちゃいけないし、無意識でも心臓も動かさないといけない。
肺も心臓も、膨らんでは縮み、縮んではまた膨らみ、
次から次へと苦しみに追いかけられて次の反応・動作をせずにはいられない。
眼耳鼻舌身意・色声香味触法の一切の刺激は、苦(不満)であり、
満足して停止することとは反対の衝動的な刺激です。
「一切は苦である」。
「一切は楽である」と何ら変わらん。W
>次から次へと「このままではいられない、次の反応をしたくてたまらない」という苦(不満)の連続。 >呼吸もしなくちゃいけないし、無意識でも心臓も動かさないといけない。 今日は駅伝で最後の1Kでラストスパートをかけて追い抜いたんだが、心臓バクバクで涅槃にいって しまいそうなくらいヘロヘロになってメチャ楽しかった。
280 :
神も仏も名無しさん :2013/09/07(土) 22:33:36.73 ID:jSyTZZ0F
>>279 「楽しみ」もまた苦です。
楽しみがあると、また次も楽しいことをしたくなる、楽しんでもまた次、また次と。
「楽しみ」すらも涅槃を邪魔する刺激のバリエーションのひとつにすぎない。
満足していないから、次の楽しみを求める。
食べることに満足したら食べるのを止めるでしょう?
じゃあ、生きることに完全に満足したら?生きるのを止めて涅槃に入る。
まだまだ生きていたいというのも苦(不満)なのです。
音はどう観想すればいいの?
注意対象から注意が逸れるような音があった時はそちらにサティを入れて 気にならなくなったらすぐまた注意対象に戻るの繰り返し たとえば外を歩いているようなときも一歩一歩の歩みなど体の動きや感覚をメインにサティを入れるようにし 細かな音は追いかけずに気になる音のみ一瞬サティを入れるという感じ
いや、音で瞑想する方法なんだけど 何の本見ても呼吸ばっか飽きた
284 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 10:58:33.81 ID:+0EUrDiu
>>283 中心対象を呼吸から音にするだけではないの?
今生じてるものなら中心対象なんでもいいんやな? 思考はそのまま巻き込まれるから五感に合せると 気が楽になったわ
286 :
神も仏も名無しさん :2013/09/08(日) 22:27:00.46 ID:+0EUrDiu
>>285 何を観察してもいいと、テーラワーダ仏教協会のホームページにもあった気がします。
ただ、呼吸はやりやすい。
膨らみと縮みという複雑すぎない変化が常にあるので、間延びしにくい。
音の場合、もちろん耳に入る音は常に変化してるけど、
ラベリングは「音」「聞こえる」とかの一種類だろうから、
一歩間違うと「音・音・音」とマントラを念じてるみたいになっちゃう。
かと言って、音の変化は複雑すぎて、音に応じてラベリングを変えだしたらきりがないし。
ラベリングとかしないよ 鈴虫とか集中してるとすっきりする
>>286 音の種類をラベリングしようとすると、それが余計な思考・雑念になってしまうのでは?
単純に「音、音、音」で良いのではないかと
289 :
神も仏も名無しさん :2013/09/09(月) 11:06:31.61 ID:TGWsf0hD
それも要らないのではないかと
290 :
神も仏も名無しさん :2013/09/09(月) 12:23:44.38 ID:V+5KveKZ
>>289 意業とは別に口業にリンクしている神経と言っていいのか、
音声化していなくても心の中でおしゃべりしている部分の動きを意図的につかまえるためには、
初心者にはラベリングがやりやすい気がします。
ラベリングしないと頭の中でおしゃべりが一人歩きしそうになる。
291 :
神も仏も名無しさん :2013/09/09(月) 16:32:05.48 ID:R01Cxmz8
言葉が消えたときって言葉消えたままにしといたほうがいいの? それとも意図的にリセットしてでも言葉と感覚をリンクさせるべきなの?
292 :
神も仏も名無しさん :2013/09/10(火) 19:20:24.05 ID:z+eEZuba
それも本の説明に書いてあったけどな。 まず先生に聞くか、本を読むかした方がいいぞ。 こういう場所で雑音いっぱい入れるよりも。
293 :
神も仏も名無しさん :2013/09/10(火) 21:26:33.07 ID:L/cnqV1y
263と264、この2つのレス、今自分が悩んでいる部分とシンクロするので興味深く読んだ。
>>263 >別の言い方をすると、雑念との根比べで、雑念を考える部分の心が、集中しようとする心に降参するまで続ける。
>集中しようとする心が、雑念で遊びたい心に勝つまで続ける。
>そうすると、思考が止まり、思考が止まっているのに、止まっている思考を自覚する意識はある、という状態になってくる。
263さん、
ということはつまり、思考が止まれば、自動的に「気づき」が現れる、という理解でOK?
>>264 >でも気づきって恣意的に働かせるものでもないじゃん
>自分の意志を介在させずにそれ自体で働くものじゃないの?
>今の精神状態で「足を上げます、下げます」やったって
>何の意味があるんだろうと立ち止まってしまう。
まったく同じことを考えたことある。だけどさ、今の自分にその、恣意的でない気づきって
どんなものか想像つかない。今の自分にできることっていうのは、恣意的であるかもしれない
けど、小さな気づき(のようなもの)をなんとか努力して積み重ねていけば、いつかブレーク
スルーが起きるんじゃないかって、つまり本当の気づきが起きるんじゃないかって、甘い幻想
抱いてるんだけどね。
ここらへん、皆さん、どうお考えですか?
ご教示願えたら、と思います。
294 :
神も仏も名無しさん :2013/09/10(火) 21:57:12.05 ID:z+eEZuba
>>293 >思考が止まれば、自動的に「気づき」が現れる、という理解でOK?
そういう状態になると、気づき(サティ)が雑念に邪魔されなくなり、より明瞭に
瞑想対象みえる状態になりましたが、雑念等の五蓋に苛まれている最中も
ずっと、何度も何度も根気よくサティは入れていました。
入れ続けていました。
100回雑念がでてきたら、100回サティで瞑想対象に戻るぞ。
1000回雑念がでてきたら、1000回サティいれて瞑想対象に戻るぞ。
という感じで続けていました。
また、その段階に達するぞというチャンダ(意欲)を予め心に持っていました。
慈悲の念や三帰依、五戒は、それ以前の問題というか、前提条件というか
基礎的土台としていつもやっています。
なるほどね
296 :
神も仏も名無しさん :2013/09/10(火) 22:18:15.65 ID:z+eEZuba
>>293 恣意的でない気づきとは、おそらく念(サティ)ではなく慧(パンニャー)、悟りの
智慧のことを言われているものと推察します。
まず想起して欲しいことは、戒定慧の三学です。
戒定慧の三学において、慧がどのような段階を経て発展していくかは、ヴィスッディ
マッガ(清浄道論)に詳しく説かれています。
端的に言いますと、そもそも念(サティ)は定(サマーディ)の修行ですから、この
段階で、「念は慧ではない」と悩む必要はないのではないでしょうか。
297 :
神も仏も名無しさん :2013/09/10(火) 22:28:55.05 ID:z+eEZuba
テーラワーダなら、パーリ三蔵に清浄道論、アビダンマッタサンガハなど 同じ経典を使っているわけですから、基本的に同じことを教えているはず ですが、やはりマハシならマハシ、パオならパオの先生に聞いた方が良い と思います。 瞑想のメソッドは決して混ぜてはいけないと、口を酸っぱくして言われます。 そういう意味では、マハシ、パオ、ゴエンカ、地橋と色んな系統の人が自由 に発言できるこの場は、参考にもなり得ますが、危険でもあるかもしれませんね。
298 :
神も仏も名無しさん :2013/09/11(水) 02:32:55.47 ID:WjKpYUtu
どのやり方をやるかより、ひとつのやり方をとことんやることの方が大事なのかも。
299 :
293 :2013/09/11(水) 20:17:45.46 ID:sFeL/LCW
>>296 >恣意的でない気づきとは、おそらく念(サティ)ではなく慧(パンニャー)、悟りの
>智慧のことを言われているものと推察します。
私は「念(サティ)」と最終的な覚醒状態って同種のものだと思ってるんですよ。
「悟り」って小さな気づき(サティ)が数百倍になったようなものなんじゃないかと。
出来上がる料理のレベルはさておき、少なくとも同じ材料なんじゃないかと。
「目覚めた人(ブッダ)」というのはつまり、「生ける気づき」「生ける観察眼」
「客観認識状態のなかで生きている人」のことなのではないかと。
ただの直感です。根拠はないです。でもそう信じていますね。信仰に近いかな。
だから264氏の「恣意的な気づきに意味はあるのか」という疑問に「意味はある」と
答えたいわけです。294氏が100回、1000回サティを入れるこの「意識的な」努力に、
ものすごく「意味はある」と答えたいわけです。1回1回のサティは小さな火花でしょう
が、蓄積すれば炎となり、安定すれば火となり、暗闇を照らす光となります。
(最後の文章だけは誰かさんのサイトからの引用w あしからず。)
>ただの直感です。根拠はないです。でもそう信じていますね。信仰に近いかな。 根拠が必要だと解ってるんだろ。 何故ここのところだけ根拠を確実にしないで曖昧にしたがるの? 「サティ」の気付きは雑だと思わない? 「お腹が膨らんだ」を幾ら細かく見つめても 人体の構造だとかエネルギー交換だとか決定的なことがすべて抜け落ちた雑な観察にしか ならない。 雑なことズボラなことをずーーー―っとやり続けても進歩はないと思うよ。
301 :
神も仏も名無しさん :2013/09/12(木) 08:07:05.22 ID:8XLLJWwQ
何のために観察してるのか? 身は不浄である、受は苦である、心は無常である、法は無我であると納得するためでは?
そこがそもそも間違いだと思うよ。根本のところが間違っているから 間違いを見つめるのが怖い。でそこを誤魔化そうとするから本当の サティにならない。
303 :
神も仏も名無しさん :2013/09/12(木) 12:44:52.10 ID:MJhHpsN8
教えているとおりに素直にやらないから進歩しないんだよ(苦笑 どうしてそう横方向にどんどんずれて行ってしまうのかな。 呼吸を数えなさいと言ってるのに他のことを考えたり、やったりしている。 膨らみ縮みと言ってるのに、これは悟りか、いや悟りじゃないとかやってる。 膨らみ縮みだと言ってるのに。
304 :
神も仏も名無しさん :2013/09/12(木) 12:50:58.11 ID:iDLn6U5H
人体を構成するにはバランスよい栄養の摂取が欠かせない。運動だって同じだ 偏った運動は害になる。知識も思考力もバランスよく鍛えるのがいい。瞑想だけで 全てが解決するというような思い込みは間違いだ。 瞑想だけでは智慧は発現しない。逆に瞑想に偏れば馬鹿になる。これは栄養バランスと 全く同じことだ。
ティクナットハン氏のガーター(偈)って気づきの役に立つと思う? 一枚のパンに全宇宙が見えるらしいが分からん
座る瞑想をしていたら呼吸が浅く速くなって息苦しくなってくるんですが これはふつうなんでしょうか。また、ふつうでないとして、どうしたらいいんでしょうか。 ここで息苦しいからといって意識的に深い呼吸をしてしまうと 感覚に集中していたのが途切れてしまうし、客観的に観察しにくくなってしまいます。 どうしたらいいんでしょうか。
ふつうにあることですが、安全のため先生に聞いて下さい。
自分がやっているのはアナパナですが、集中が深まってくると自然な呼吸が 浅く速くなってきます。 その時、同時に心臓の鼓動が早くなることもあります。 気にせず、さらに瞑想を続けていくと呼吸が長く深くなってきます。 あるいは、その前に禅定体験が始まってしまうこともあります(ありました)。 光に包まれながら強烈な歓喜がわき上がってくるとか、具体的に描写すると あやしい話に見えてしまうかもしれないので控えますが、喜や楽や一境性が でてくるし、ただ集中が深まっただけの場合とははっきり違うので、わかると 思います。 ですが、具体的な体験の詳細は個人差がありますし、万人に共通することは 経典にすでに書かれていますから、そちらを参考にしてください。 そして、マハシならマハシの先生に聞いてください(笑;
>>308 >その時、同時に心臓の鼓動が早くなることもあります。
鼓膜が振動し、心臓が痛くなるくらい脈が早くなりました。
その時の脈の速さは、サティを入れる速さに対応していました。
素早く何度もサティを入れていると、心臓も同じタイミングで素早く脈打ち
苦しいのサティを入れる速度を落とすと、脈も遅くなりました。
ちょっと面白かったです。
311 :
神も仏も名無しさん :2013/09/13(金) 03:29:14.62 ID:ODzKwIRr
せまくるしい部屋で瞑想してたけど肺をながれていく空気がやたらおいしく感じた 山の頂上で深呼吸してるような感じで でもそれ目的で瞑想するとなかなかそうならない 不思議
>305 「Altered state of consciousness」という表現は、1966にArnold M. Ludwigによって提唱され [1]、1969年発行のチャールズ・タート(英語版)の著作[2]を通じて一般的に知られるように なった。「altered state of mind」または「altered state of awareness」とも表現する。 通常の覚醒時のベータ波意識とは異なる、一時的な意識状態をさす。人々がその体験を共有する ことも可能であり、社会学分野におけるひとつの研究対象となっている。 変性意識状態は「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、この体験は時に 人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われる。 その体験は精神や肉体が極限まで追い込まれた状態、瞑想や薬物の使用などによってもたら されるとされる。 また催眠等による、非常にリラックスした状態を心理学上こう呼ぶこともある。 トランスパーソナル心理学ではこれを人間に肯定的な効果をもたらすものとして研究する。 また精神疾患に対する有効な療法として、一時的にこの状態を患者に与える方法が活用され ている。
313 :
307 :2013/09/13(金) 09:35:37.25 ID:L4TnbTj1
>>308 くわしい体験談ありがとうございました。
呼吸が止まりそうだったのと
体が硬直しそうだったのとで、呼吸が止まったまま硬直したら
死ぬんじゃないかと、不安なったので質問させてもらいました。
自分の場合、住んでいる場所柄
指導を受けている人に会うことがなかなかできないので
こうしてインターネットで体験談をきかせてもらえると参考になります。
314 :
307 :2013/09/13(金) 23:28:28.30 ID:L4TnbTj1
>>314 自分で経験した範囲でしか申し上げられませんが、307さんの
呼吸が浅く速くなって息苦しくなるのも、目(まぶた)が素早く動くのも
集中力が深まっていく時に私もよく体験します。
「あー、あるある」というか、「わかるわかる」というか。
きっと頑張って瞑想しておられるのだろうなと思います。
もう少し先に進めばブレイクスルーするんじゃないかなぁ。
リトリートの機会が持てれば良いのですが。
>>314 すいません。
質問の答えにはなっていませんでしたね。
>レム睡眠を覚醒状態で行っているということなんでしょうかね。
んー、わかりません。
眠ってしまうと集中は途切れていますから、それはもう瞑想では
ありませんし、瞑想状態は瞑想状態というしかないのでは。
・意識を五感と思考・感情に分散させて起きている状態(通常時)
・意識を一点に集中させて起きている状態(瞑想している時)
・意識を失っている(眠っている時)
散漫な意識を集めてひとつの対象に集中させる、 虫眼鏡のような媒体をなす要素は何なの?意思?
318 :
307 :2013/09/14(土) 08:01:00.66 ID:H25CNUb/
>>315 さん
同じような体験をされているという方がおられて
安心しましたし、励みになりました。
いつかリトリートにも参加してみたいです。
いろいろなアドバイス、体験談ありがとうございました。
>317 勝手に「起こる」ことだよ。意志では直接的にはコントロールできない。 何かの変化(浸蝕?)が頭の中で起こる。徐々に浸蝕は進んでいき綺麗な景色を 作り出すこともある。部分的には同じような景色が出来上がることもある。 堤防が切れる時は最初はゆっくりと水が漏れるだけだがある時一気に切れる。 脳内で起こる洪水は誰もコントロールできない。強い意志でも賢い指導者であっても 全く手の打ちようがない。解っているのは「徐々に浸蝕を起こす」方法だけだ。 この方法は解っている。しかしコントロールする方法はない。為すがままだ。
320 :
神も仏も名無しさん :2013/09/15(日) 11:31:44.10 ID:qYvDn8jh
>>314 個人的な経験しか話せませんが・・・
体を感じるさいに、第3の眼を使うと効率的です。
第3の眼は、おでこの真ん中というか、眉間にあります。
314さんは、意識していないで、第3の眼を使われていると思います。
第3の眼とか他宗教の概念を混ぜて瞑想するのは危険じゃないかな とりあえずヴィパッサナーでは第3の眼という概念はないです
混ぜない方がいいですね。
323 :
神も仏も名無しさん :2013/09/16(月) 11:33:47.48 ID:JBGI1fj2
暗示ですね ヴィパッサナーの真逆かと
第三の眼というのは単純に体感の比喩だから概念云々とは違う。些末なことを 拡大解釈したり異常に恐れたりするのは未分化な土人レベルと同じこと。知識を 積み上げてその上で考えることが出来ないから迷信に左右される。 土人も瞑想するし多くの知識人も瞑想するが質的に違うのは正常な思考力との バランスがとれているかどうかだ。
>些末なことを拡大解釈したり異常に恐れたりするのは未分化な土人レベルと同じこと。 その通り おでこの真ん中がぷるぷるする等の瑣末な体感に価値を入れて 第三の眼と名付け妄想に遊ぶよりも、正しくサティを入れないとね
326 :
神も仏も名無しさん :2013/09/17(火) 12:18:40.47 ID:QJWip86d
サティを継続するために前頭葉を活発に使ってる可能性は高いだろうから、 前頭部に負荷を感じるのは仕方ない。
慈悲がないよね
不浄観自分の内臓を見てくわけでしょ? 最初ある程度ここには心臓があるとかイメージ用いないと内視できないとおもうんだけど
不浄観は十種の遺体の変化を観ていくことで、「九相詩絵巻」に書かれているのが近い 心臓とか身体の部分を観察するのは身起念という瞑想 不浄観も身起念もサマタだからヴィパッサナーとはちょっと違う
不浄なんてやめようぜ。清潔観でいいだろ。
331 :
神も仏も名無しさん :2013/09/19(木) 12:56:50.52 ID:dhur/VzM
>>330 そんなに清潔なら、見ず知らずのおっさんの身体を舐めまわせるか?
肉体は本来は不浄だけれど、性欲やら食欲やらにごまかされて、
そのときだけ汚いことを忘れられるだけ。
自分の唾液をコップにためて、10分後に飲みたいか?汚いからいやだろ。
332 :
神も仏も名無しさん :2013/09/23(月) 16:44:47.99 ID:WOjXnpuW
319の『浸蝕』も、320の『第三の眼』も 説明すれば、経験したことがある人だけが 「あのことか・・・」と解るだけで、他の人には意味不明です 本来、実践あるのみです そのことを話すのは、なかなか難しい
瞑想を深めていく段階で、深まった後のことを考えても仕方ないし 雑念になるだけ。 瞑想中にすべきことは、瞑想対象に集中すること。 ただそれだけ。
そのやり方については、それぞれの指導者が教えている通りにやるべきで あれこれ他のことを考えたり、他の流派や宗派、他宗教の概念ややり方と 混ぜるべきではない。 危険。
335 :
神も仏も名無しさん :2013/09/23(月) 19:39:35.91 ID:kZI5TYhH
混ぜるな危険って程でもないけど 第三の目? 経験した人でも、だからなに? だよ
336 :
神も仏も名無しさん :2013/09/24(火) 00:04:20.16 ID:9KIAGNjM
実践あるのみです。 他に手はない。
最澄などは、上座部(小乗)の僧侶は枯れ木ようだなどと批判しているけど 生の意志を否定するようになると、まずは身体に栄養を与えないようになるわけだから、身体が枯れ木のようになるのが、僧として本流だろう
>>334 319の浸蝕?の人はレスを読む限り、完全に妄想の世界に入ってて、
傍目からは結構ヤバい状態に見える
本当に危険だわ
悪いことは言わんからちゃんとした(ヴィパッサナーの)先生に相談した方がいいと思う
339 :
神も仏も名無しさん :2013/09/25(水) 00:01:39.86 ID:GMa2gtG7
第三の眼は、知らない人が聞くと気持ち悪いけど 335 が言うように、たいした話ではない 心眼=第三の眼 は、瞑想・座禅をする多くの人は知っているだろう 気をつけて聞いていれば、ゴエンカジの講話にも出てくる 「浸食」「洪水」「体に火がつく」「体が消える」、 人によって言い方が違い また個人的な体験だから確かめようがないけど どれも同じようなこと
>>339 >第三の眼は、知らない人が聞くと気持ち悪いけど
いや、別に瞑想界隈でそういうのに拘ってる人がいるのは知ってるし、それに近い体験もしたことあるけど
あんなもんに引っかかって「私、瞑想上手くいってる…!」と妄想するのは馬鹿だよ
>気をつけて聞いていれば、ゴエンカジの講話にも出てくる
あ、ホントに?ソースあったら教えてほしいけど
>「浸食」「洪水」「体に火がつく」「体が消える」、
>人によって言い方が違い
>また個人的な体験だから確かめようがないけど
>どれも同じようなこと
何を根拠にどれも「同じようなこと」と判定してるのか教えてくれ
その基準は?
例えば319の「浸蝕」体験のどこをどう解釈したら「体が消える」と「同じようなこと」だと解釈できるのか?
フロイトは無意識から意識への通路に「抑圧」を入れて認識の過程を説明しているが 瞑想は通路にたいして減圧的に働くのだろうな。いづれにせよ無意識の世界をのぞき こむことに成功しても乱雑に入り乱れているから「観る」ことにはならないだろう。 観るには整理する必要があり、それには何らかのフィルターは必要になるだろう。 浸蝕はある部分が壊れてある部分が作られてフィルターの性質が変わること。 麻酔注射で全く痛みを感じなくなるように、壊れ方によっては同じような状態になる。
身体が不浄とはどういう意味ですか? 心の欲と体の欲を分けて考えるというのも良く分かりませんが、体の欲は仕方ないけど心の欲は消せるんですよね。 心の欲というのは刺激を求める性質という認識です。サティを入れてると消えます。私には殆ど消せないですが。 対する体の欲は何度サティ入れても消えないから、食べ物ですとか物質を求めて行動する必要があると。そういう認識でよいですか? 刺激を求めるのが心の性質というのはなんとなく分かります。 自分は物欲に乏しいほうだと思っていたんですが、瞑想でそうではないと分かりました。 他者と違う形の物欲なので気付きにくかっただけで、何かの拍子に物欲が出てきているようです。 では、身体が不浄とはどういう意味なのか?心の欲が汚いのか、体の欲も汚いのか、それともまた別の話なのか?そこらへんが分かりません。
343 :
神も仏も名無しさん :2013/09/25(水) 22:16:41.09 ID:nYeKZzK4
欲があってもいいし、なくちゃ困るから瞑想中は欲を後回しにして集中できればよいかと 不浄ってのは「無」ではない、位の解釈で
344 :
神も仏も名無しさん :2013/09/26(木) 01:04:36.11 ID:FO4g3Z36
>>342 「不浄」、綺麗じゃない。
肉体やは、ダイヤモンドのような宝物ではなく、瞬間瞬間に腐っていっている汚物。
姿形が美しくても材料はウンコ、みたいな感じ。
ウンコでできたエロ本を見て興奮することは可能かもしれないが、
でも材料はウンコなんだと知ったら、ウンコに興奮している自分を冷めた目で見つめる
もう一人の自分を得ることができる。
悩み苦しみの原因である執着を手放し、悩み苦しみを減らすことができる。
不浄なんて極度の思い込み。WWW
心頭滅却すればウンコも美味し。
347 :
神も仏も名無しさん :2013/09/26(木) 08:21:38.64 ID:FO4g3Z36
>>345 要は、身体や物質には執着するほどの価値はない、宝物ではない、
という「捨」の心を育てるための観法でしょう。
執着が減れば悩み苦しみが減るのだから。
348 :
342 :2013/09/26(木) 08:47:04.18 ID:KIJmRRWg
すみません、なんだか質問の趣旨が伝わりにくかったですかね?^^;
諸行無常や諸法無我といった念処は修行の末に納得できる真実なんですよね?
それに対して貴方のお話ですと体の不浄は真実というよりはあくまで修行のためにそのように思い込むという便法でしかないということになります。
確かにそういう側面もあるかもしれませんが私の質問はそこではなくて修行の末に納得できる真実としての体の不浄についてです。
そして特に聞きたいのは心の欲と体の欲との関連性なんですがどなたか答えて下さらないでしょうか?
詳細は
>>342 にありますのでお読み頂いた上で何か疑問点があれば何卒の程をお願いします。
正しく理解して取り組んだほうが良いと思うので是非ともお願いします。
正確さを求めるなら師について聞いたほうが見解もあるでしょうが何分まだ始めたばかりで不自由な在家の身に甘んじるしかない立場でしてそこをなんとか。
悟りの末に分かって初めて意味を持つものなので悟っていない人に言葉で伝わるはずがないことなのかもしれませんが。
どうかよろしくお願いします。
349 :
神も仏も名無しさん :2013/09/26(木) 09:22:19.03 ID:FO4g3Z36
>>348 浄(きれい)という概念が幻みたいな観念であり、
その浄という幻の否定としての「不浄」です。
幻を否定して真実をみつけたら「不浄」です。
「汚い」ではなく「不浄」。
美しいと思っていたものが、実はたいして美しいものではない。
それが真実です。
真実を曲げて「汚い」と思い込むのではなく、
「浄ではない」が真実です。
350 :
342 :2013/09/26(木) 09:48:38.31 ID:KIJmRRWg
>>349 丁寧な回答ありがとうございます。
> 浄(きれい)という概念が幻みたいな観念
なんとなく分かる気がします。全然正しく分かってないんでしょうけど。要は不浄とは執着に値しないということですよね。
してその「執着に値すると思っていた」とか「美しいと思っていた」の中身とは?何でしょう?そこを私は質問したいんですよ。
まさか単に「俺の身体かっこいい」「私ってもしかしてキレイ」っていうような自分の肉体にナルシシズムだけの話ではないでしょう?
もっと一般的に体が要求する食欲といった欲望までを引っくるめた話なんでしょうか?それともそれは含まず心の欲だけの話なんでしょうか?
351 :
342 :2013/09/26(木) 09:57:10.82 ID:KIJmRRWg
よくよく考えてみれば執着は全てダメなんでしたね。ということは体の欲も執着してはいけないつまり不浄ということになりますか? てっきり精神的に刺激を求める気持ちから生まれる食欲だけでなく身体の欲までも否定するのは生きることそのものを否定するようでやり過ぎではと思っちゃっていたんですが 存在自体を否定しているわけではなく執着を否定しているのであればなるほどです。
352 :
神も仏も名無しさん :2013/09/26(木) 10:35:02.61 ID:02qT+/HV
353 :
342 :2013/09/26(木) 10:42:10.22 ID:KIJmRRWg
両方の場合があるんですよ。
>>342 に違いを書きましたので確認してください。食欲も性欲も睡眠欲も同じですよ。
瞑想中に眠気とサティ入れると消える場合と消えない場合があるでしょう?
ただ物欲や名誉欲といった精神的欲求の場合は心の欲しかないみたいです。物欲は消せるんですね。
金銭欲を排除した結果身体に飢えのような生命の危機が迫ることはあるでしょうけど別の話です。
「執着の否定も執着だ」ということに気が付けは、執着こそが必要なんだよ。 行動をして初めて自己認識がある。 馬鹿な行動も自己認識の糧になるということだ。馬鹿を削ぎ落とそうとして削っていけば 自己は消滅して何もなくなる。それこそが馬鹿げている。 師にこだわるようだが、師は正しくない。師は間違いの元だ。師が問題というよりも それにこだわることが問題なのだ。
355 :
342 :2013/09/26(木) 12:38:41.67 ID:KIJmRRWg
「執着は全てダメ」は正しいけど、それを思ったり口に出したりした途端に執着の否定という執着に陥る罠がある、というのは分かりますが、言葉にしないと伝わらないですからね。 それからある程度の段階までは修行のために悟りに対する執着が必要だという考えかたはありますよね。 いずれにせよ言葉にとらわれすぎると真実を見失うということだと思います。
356 :
神も仏も名無しさん :2013/09/26(木) 12:41:36.06 ID:FO4g3Z36
>>351 執着と悩みの関係を理解したうえでどんな生き方を選ぶかはその人次第ですが、
生きていることをやめて涅槃に入らないかぎりは苦の連続だと、まずはそこに納得しないと、
涅槃をめざすという選択肢もあることに気づきません。
生きているかぎり苦です。輪廻からの解脱だけが苦の消滅です。
357 :
342 :2013/09/26(木) 12:48:51.73 ID:KIJmRRWg
>>356 これまた誤解があったようです。何度もお手数かけて申し訳ございません。「執着してはいけない」というのはどのように生きるべきかという話ではなくてですね、
あくまで話題は不浄の定義の話です。不浄不浄と言っていますが私はまだその定義を理解していないことをお忘れ無く。
ですから不浄に生きてはダメなんてエラソーなことを言っているのではなく、体の欲への執着も不浄なのですかと聞いているのです。ご理解いただけましたか?
358 :
342 :2013/09/26(木) 12:51:34.35 ID:KIJmRRWg
再三心身の欲との関係性について質問を投げています。これくらい厳しく言わないと伝わらないかと思って強く言ってしまいましたが、 少し礼を失してしまった感があります。気分を害されたなら申し訳ないです。
359 :
神も仏も名無しさん :2013/09/26(木) 13:10:22.27 ID:02qT+/HV
360 :
342 :2013/09/26(木) 13:14:12.84 ID:KIJmRRWg
>>359 ですから不浄という言葉の意味すら知らないんですよ。体の欲や心の欲に関しても同じです。
不浄に生きるとは何かは知らないけれども、「フジョウニイキテハダメ」という発言をした覚えがないという意味で通じるでしょう?
そもそも不浄が真実ならば不浄に生きるもなにも最初から決まってるんですからそんなこと言うわけありません。だから言ってないですよ。
361 :
342 :2013/09/26(木) 13:16:36.88 ID:KIJmRRWg
>>359 だいたいどんな場面で不浄や執着といった言葉を使うのかは色んな人達が使う例を見てきているので分かりますが、
意味が正確に分からないから尋ねているんですよ。それをどういうことですかと聞かれても困ります。趣旨を理解頂いてないんだなとしか・・・。どうすれば伝わりましたか?
362 :
神も仏も名無しさん :2013/09/26(木) 14:00:58.11 ID:02qT+/HV
363 :
342 :2013/09/26(木) 14:04:30.89 ID:KIJmRRWg
>>362 あの・・・失礼ですが人の話聞いてますか?私がいったことに対する応答が皆無で質問を繰り返されても不毛なやりとりにしかならないと思います。
そんなに難しく考えなくてもいいよ。単純に「清らかじゃない」ことだよ。 なぜ悩むのかというと不浄感に違和感があるからだよ。 身体=不浄という式は大きな間違いなのだよ。仏陀が間違いを犯さないという 前提で理解しようとするから理解できなくなる。 単純に間違いなんだよ。それだけ。
365 :
神も仏も名無しさん :2013/09/26(木) 16:03:00.78 ID:Qf7VmpBT
>では、身体が不浄とはどういう意味なのか?心の欲が汚いのか、体の欲も汚いのか、それともまた別の話なのか?そこらへんが分かりません。 「豚は気持ち悪くて食えない」こういう生理的反応はある。 「あいつは生理的に嫌い」というのもある。 この理由は説明できない。納得も出来ない。瞑想してもこういうのは解決しない。 身体が不浄と感じるのも同じ生理現象だ。 正常な人からすると天才の持つ変質的な反応というのは特に理解できない。仏陀という天才も こういう好き嫌いを沢山抱えていたと思う。
仏陀とおもうからダメなんだよ。 ピカソと思えばいい。あの糞野郎から人間性を学んだりしないだろ。天才的な絵について学ぶ。 仏陀という天才も同じだ。何かな何までまともに理解して説明がつくと思ったら大間違い。 9割を捨てて1割を学ぶ。
>>353 >両方の場合があるんですよ。
>>342 に違いを書きましたので確認してください。食欲も性欲も睡眠欲も同じですよ。
ひとつ言えることがある
食欲と睡眠欲は確かに(あなたの言う)体の欲
だって食わないと死ぬし、寝ないとこれまた死にますからね
ただ、性欲はまったく心の欲そのものですよ
SEXしないからといってお坊さんは死んだりしないですもの
368 :
342 :2013/09/26(木) 19:26:16.39 ID:KIJmRRWg
>>367 そうですね。死ぬかでいえば死にません。性欲は少し違いますね。
ただ「心の欲」は死ぬかどうかではなく消せるかどうかだと私は理解しております。同じことでしょうか?
自分自身のオナ禁の経験や何年も性を断っている仏教者の話からも十分ありそうなことだとは思います。
性欲は消せるでしょ そもそもサティなんか使わなくても放って置いたら消えるし… ただ根絶したければ不還果に悟らないと無理でしょうけど(五下分結の貪欲が消える) 逆に最低限の食事・睡眠みたいなのは本当に生理的に必要なんでしょうな お釈迦様は悟ってからも睡眠はとったし、食事はなさりましたからね
370 :
342 :2013/09/26(木) 21:35:17.22 ID:KIJmRRWg
>>369 そうなんですか?貴重な情報をありがとうございます。
生きている限りはどうしようもないことってありますよね。メシ食うにはお金、お金には信頼や知識といった具合に。
それを無くしたいという気持ちはなぜか仏教を知る前から幼い頃から持っていたような気がします。多分面倒くさがりなんだと思います。
371 :
神も仏も名無しさん :2013/09/27(金) 00:44:17.46 ID:eB1+btvU
現実逃避もほどほどにしよう。みなさん。
千葉と京都の瞑想合宿参加した事ある人は居ますか?寄付って書いてあるけど、後でお金請求されたり、洗脳されたりしませんか? 興味があるのですが、中々情報が得られなくて。後、中の雰囲気も教えてもらえるとうれしいです
参加したことないけど、お金に関して。 寄付でまかなってるといってもタダで合宿させてもらって ハイ、さよなら〜ってのは一般常識としてどうかと思うけど 幾ばくかのお布施ぐらいするのはオトナの常識だと思う
374 :
神も仏も名無しさん :2013/09/27(金) 02:00:46.25 ID:hc0U+PRm
>>357 体が不浄なのです。
不浄の意味は、綺麗ではない、執着に値しない、
すばらしくない、欲しがるほどのものじゃない、という意味でしょう。
言い換えるなら、「不浄だ」は「執着するな」です。
「身体は不浄だ」と言うときは、「身体に執着するな」という意味になります。
「世界は不浄だ」と言うときは、「世界に執着するな」という意味になります。
欲があるのは、欲の対象について不浄だと思っていない
(すばらしいものだと思っている)からではないでしょうか。
身体が置かれている物質世界すべてが不浄だ(すばらしくない)と気付いたら、
この世に生きること自体がたいしてすばらしくないことになり、
生きることへの執着が減るはずです。
375 :
神も仏も名無しさん :2013/09/27(金) 02:11:34.02 ID:hc0U+PRm
>>357 >> 「体の欲への執着も不浄ですか」?
体は不浄です。
体(不浄なもの)の欲とは、心の動きですよね。
心に対しては、「不浄だ」と観察するよりも、「無常だ」と観察するのではないかと思います。
「不浄な体に関連して心に起こってくる欲は、無常だ」と。
で、その無常である(条件次第でコロコロ変化する頼りない)欲への執着もまた、
心の動きだから無常です。
同時に、欲についてあれこれ考えて概念を作って執着しているとすると、
そのような概念、つまり法(心で思い描くこと、頭で考えること)は、
無我(夢・幻みたいなあやふやで頼りないもの)です。
不浄である体の無常な欲に対してて執着している概念は、夢か幻みたいなもんだから、
それに執着するなということ。
376 :
神も仏も名無しさん :2013/09/27(金) 02:29:57.22 ID:hc0U+PRm
>>351 生きることをやめてこの世から消えて亡くなるのが無余涅槃です。
仏教のゴールはそれです。
生きるために必要な肉体的な欲も否定する、
「もっと生きていたい」という生存欲も否定するんですよ。
逆に言うと、体の欲を否定できない限り涅槃に入れませんしね。
めざすは輪廻からの解脱、平安なる滅びです。
例えば、お釈迦様はすでに平安なる滅びに入られましたよね。
だから、たとえ神々が全力でお釈迦様を捜索したとしても、お釈迦様をみつけられません。
この世からいなくなったのだから。
この世からいなくなったお釈迦様は、もう、微生物一匹さえも殺生する必要はありません。
この世に生きていたときは、いくら慈悲のかたまりの仏様あっても、
微生物は殺してしまう可能性がありました。
しかし、涅槃(平安なる滅び)に入ったら完璧です。もう誰も傷つけません。
不浄な体に執着して涅槃に入らないでいるかぎり、
知らず知らずのうちに殺生もしちゃうし、あれこれ苦しみも沸いてきます。
「迷わず成仏」したお釈迦様は、幽霊みたいにこの世に居座らずに、滅びたのです。
>>373 寄付で賄ってるって言うのは知ってます。参加出来たら自分も寄付はしますよ、そこまで人間腐ってないので。
ただ、勧誘とか後で請求があるのかなって疑問に思ったんです。寄付だって中には払わない人もいるだろうし
>>357 瞑想してる人の体験談を見ると、ことさらに不浄だ、不浄だと見るのではなく、
瞑想が進むと自ずから「ああ、この身体は不浄だ、汚い」という実感が湧くそうです
だから体の欲は不浄なのか〜なんなのか〜という妄想を入れる必要もなく
「アッ、これは嫌なものだ」と実感して、自然に執着しなくなるようですよ
誰も犬のフンにわざわざ執着する人はいませんよね
それと同じだと思います。
>>377 ちょっと黒い話をすると(笑)、合宿で瞑想の効果に感動したお金持ちは、しばしば莫大な寄付をするので、
そういう形態のビジネスモデルだ、というのは聞いたことがあります
2chでも参加者のレスを読んだことがありますが勧誘とか請求をされたという話はなかったと思います
その人も特別洗脳されておかしくなってるという印象はありませんでした。普通の人でしたね
ネット上でもゴエンカ氏への批判は目にすることがありますが、そういうカルト的な悪評は見たことがありません
なので、そういう心配はしなくてもいいと思います
>>379 詳しい情報ありがとうございます!そうだったんですね。だけど、皆が皆、幾ら払うか分からない、講師もボランティアでやってるって言うから凄い施設ですね。
また質問で申し訳ないのですが、精神疾患を抱えて通院してる場合ってやっぱり参加出来ないんですかね?日常生活などには全く支障ないんですが
381 :
神も仏も名無しさん :2013/09/27(金) 07:45:16.60 ID:8Fmo+1Ia
>>380 参加申込のときに、事情を説明することをお勧めします。
参加の可・不可は場合によるでしょう。
382 :
342 :2013/09/27(金) 13:30:15.50 ID:aaSrgDKf
>>374 ありがとうございます。あなたは質問の趣旨を理解くださっているように感じます。
思いの外的外れな回答が多い中きっと貴方のような人が現れると信じて粘っていました。
昨日の方と文体が似ているのでもしかしたら私の要望に応えて意図を汲んでくださったのでしょうか?何にせよ救われる思いです。
>>375 分かりますが・・・せっかくお答えくださっているのですが・・・そうではなく真実としての不浄について知りたいんですよ。^^;
あなたのおっしゃるような体の汚さを観察するという観法でもなく、
修行の末に体の汚さが痛感されるという主観(それが鮮明な体験を繰り返して作られる強い信念であろうと主観です)でもなく、
>>347 のような体は汚いものだと修行のために自己暗示して修行の能率を図るという便法でもなく、
ただ単純に不浄とは客観的に言えばどういう内容なんですかと質問しております。
何度も言っているんですが複数人に伝わらない所をみると自分の伝えかたに問題があったのでしょうけど。
私としては出来る限り誤解を解く努力をしてきたつもりで、これ以上は限界ですから、お願いですから
>>342 の最初から読み直してください。
新しい人が横レスするたびに私が最初から説明しないといけないのは労力の無駄であることをご理解ください。
お読み頂いたうえで疑問点があれば私のほうからお答えしますから。
383 :
342 :2013/09/27(金) 14:01:00.27 ID:aaSrgDKf
すぐに以下の文章を投稿する予定でしたが、2chが大規模のサーバーダウンで繋がらなかったようです。
>>382 で
>>374 さんへのレスをテキトーに済ませた形になってしまって申し訳ないです。
>>375 ちょっと今このスレと無関係な案件があって精神錯乱にあるのですぐには>>374-
>>376 の全貌が理解できなくて、落ち着いて内容を咀嚼しているところですが、取り急ぎお返事まで。
とりあえず体の欲は心の働きなので無常と観察するところは分かりました。
それは言葉の綾というやつで、別に体が無常であるとか、心が不浄であると言っても意味的には問題ないけど、慣用上はそのような言葉遣いをしないということですよね。
次に法というのは以前は現象界の法則だと思っていたんですが、概念(心で思い描くこと、頭で考えること)と呼んでも、見方が違うだけで中身は同じという話ですよね。
なるほど、これで諸法無我との関連性もわかりました。すっきりしました。
「不浄である体の無常な欲に対してて執着している概念は、夢か幻みたいなもんだから、それに執着するなということ。」が見事なまとめですね。
>>376 私のような見ず知らずの輩に懇切丁寧に説明くださってありがたいです。
生存欲というよりは生存そのものを否定するわけではないんですね。安心しました。
てっきり体の欲を否定するのは生存そのものを否定するのではと思っていたんですよ。
ですが体の欲を否定している(消せと言っている)わけではなく体の欲への執着を否定しているんですね。
そしてそれは修行すれば可能なことですから何も死ねと言っているわけではないんですね。
涅槃とも関係して仏教って生きようとすることを否定しますよね。だから誤解していたようです。
>また質問で申し訳ないのですが、精神疾患を抱えて通院してる場合ってやっぱり参加出来ないんですかね? >日常生活などには全く支障ないんですが 瞑想で病気が治るとは思わない方が好いと思う。 筋力を保持したまま体重を落とすと体が非常に軽くなる。断食をすれば一時的にそういう 軽快感が生まれる。しかし暫らくすると体重が落ちることで筋力も落ちるからその軽快感は 無くなる。繰り返すと身体全体としては悪化する。 瞑想も同じで思考を止めるので無駄な思考に使っていた脳の資源が余る。それで情報処理 空間が広がる。これが気持ちを軽くする。一時的に脳の回転も速くなる。しかし脳の負荷を 落とせば徐々に脳は退化する。 瞑想は脳を強くするのではなくて弱くしたり傷つける。傷つけることで狂気が生まれる。 この狂気が面白さや自由の表現に役立つ。実際自分もすこし狂うことでずいぶんと自由で 楽しくなった。あまちゃんの宮藤氏もどこか狂気を抱えている。それが作品を面白くしている。 貴方のように初めから狂っているのなら自由で楽しい筈だ。その楽しさを直視するのが良いと 思う。僅かなことでパニックになるのはその部分が弱いからでストレスをかけて鍛えなければ 解決できない。筋トレと同じように脳トレをするのがいい。 計算が速い人で気の小さい人がいるだろうか? 計算力を鍛えるだけでも気は強くなる。
>>385 別にゴエンカ氏の回し者ではないけど、気になったので・・・w
>私自身も10日間合宿に参加したことがあり、
>純粋に瞑想を学べ、素晴らしい経験ができたと思ってますが……
これ質問者自身も10日間合宿に参加したことがあるって言ってますよね
瞑想にハマって周囲に心配かけてるのは友人自身の問題じゃないのかな
ゴエンカ氏については、スマナサーラさんは「レベルが低い」と言っていました。
ヴィパッサナーに貴賎なし
>>382 >>342 「肉、血、骨、骨髄、脂肪、内臓、四肢、感覚器官、大便、小便、寄生虫、体毛、爪など、身体の不浄なる部分を識別せよ。」(ラマ・ミパム 静寂と明晰)
>>382 >>342 「執着が起ころうが起こるまいが、ただ不浄なる物の集合にすぎないものと、この「身体」を見よ。身体は汚い組織、管と汚物の塊、又、ぶくぶくした泡の如しと、念ずるべし。」(ラマ・ミパム 静寂と明晰)
391 :
神も仏も名無しさん :2013/09/28(土) 11:06:03.19 ID:Ozxu7va1
>>382 真実としての不浄は、「すばらしくない」という真実です。
すばらしいと思っていたことが真実ではなかった、真実は不浄、すばらしくも何ともない、です。
すばらしいとか美しいとかいう価値を入れて見ている考え方が真実を見えなくしている、
真実は、すばらしくない。
美しいとかすばらしいとかいう主観的な価値観察を捨てた状態が、客観的な真実を見られる状態でしょう。
また、あらゆる肉体・物質はすべて不浄なので、
修行によって肉体が不浄な状態に変化するわけもありません。
もともと不浄だったことに、客観的に見たとき初めて気づくだけ。
あと、仏教の究極の目標は涅槃なので、生きることを否定している面もあります。
生きることはすばらしいという思い込みが、あらゆる悩み苦しみの根源なのです。
392 :
神も仏も名無しさん :2013/09/28(土) 11:16:58.00 ID:Ozxu7va1
>>382 四念処という四種類の観察があります。
身は不浄、
受は苦、
心は無常、
法は無我、
の四つです。
この場合の「法」については、意識が感受する対象である
「法境」に限定して考えていいんじゃないかと思います。
つまり、「法(心で考えた事柄)は無我(実体がない)である」と。
393 :
342 :2013/09/28(土) 11:22:33.26 ID:qoH49owO
>>391 なるほどすばらしくないのは分かりました。それは何がですか?主語を最も問題にしていることをもう1度
>>342 からお読みになって再確認ください。
そして主語に関しては
>>374 さんが答えてくださっていますよ。
>>382 に述べた理由によりこれ以上私は最初から再び説明するつもりはありません。
ですので、
>>374 さんが「何に対して」回答しているか参考にされて、それに合わせて貴方の書き込みをされると良いと思います。
確かに私の伝え方にも問題があるのでしょうが、ここまで言葉を重ねても未だに揃いも揃って誤読が続く惨事を見ていますと、
きっと最初から読み直していない方が直前のレスだけ断片的に見て回答しているのではと思えてきました。
なるほどこれだけ長いやりとりですと最初から読み直すのは一苦労でしょう。しかし、質問の最も肝心の趣旨は
>>342 にまとまっていると今でも確信しています。
したがいまして回答をくださる方にはお手数をかけますが今一度
>>342 に沿って回答ください。もし趣旨に不明点があればそれを私に質問してください。
私が不明点を明らかにするように努力しますので。不明点が明らかになってから回答くださればきっと円滑にやりとりできるはずです。
このままですと私が一言発するたびに全く見当外れな回答がきて私にとっても負担が大きいですし、回答してくださる皆様にも無駄な手間をかけさせることになってしまいますので。
私が今ここで再び趣旨について説明しますと
>>342 から50レスにも渡って続いてきたように誤解の連鎖が続きそうな気がします。
一連のやりとりで私はここのスレ住民に正しく説明する自信をすっかり無くしました。正直に言って下手に言葉を重ねるよりもまず対話的な姿勢を呼びかけるのが先決なのではと思っています。
わざわざ親切心から回答してくださっているであろう皆様の善意を踏みにじる形になってしまいましたが、どうか私の苦肉の策を理解くださればと思います。
394 :
342 :2013/09/28(土) 11:33:03.73 ID:qoH49owO
>>392 その4つを随観するんですよね。
法は「法境」に限定して考えてよいというのは少し前にスレで話題になったので注釈くださったのだと思います。
私はそのように最初から(勝手に)解釈していましたので、そうではない考えかたもあることに驚いた次第です。
395 :
374 391 :2013/09/28(土) 11:43:00.10 ID:Ozxu7va1
何がすばらしくないのか、主語は、「身体・物質が」です。 身体・物質はすばらしくない。 身体が係わる物質世界のありとあらゆる物は、すばらしくない。
396 :
342 :2013/09/28(土) 11:51:21.50 ID:qoH49owO
>>395 >>374 さんでしたか。失礼しました。肝心の質問には答えずに別のことを言われるということが続いてついカッとなってしまいました。
そういうことでしたら私は
>>374 の回答で(ある程度)納得がいきましたよ。結局私が知りたかったのは体の欲と心の欲との関わりでした。
しかし心の欲のほうは語法上不浄という観察の仕方はせずに無常と観察するのだと教えてくださり納得がいきました。
よくよく考えてみれば
>>392 の四念処の枠組みで考えるとそうなるはずですよね。
397 :
342 :2013/09/28(土) 12:06:37.04 ID:qoH49owO
連投すみません。少し頭冷やしてきました。
>>396 に誤りがありました。正しくは納得いったのは
>>374 ではなく
>>375 でした。
もちろん
>>374 のほうも勉強になりましたし内容に不明点はないですけど私の質問の趣旨に合うのは
>>375 のほうですね。
それから
>>396 の「心の欲のほうは語法上不浄という観察の仕方はせずに」は正しくは「体の欲や心の欲に対する執着は」でした。
もっと冷静になるべきでした。反省します。
398 :
394 395 :2013/09/28(土) 23:32:33.29 ID:Ozxu7va1
>374>375 ともに私です。 名無しでわかりにくくて申し訳ありませんでした。
399 :
342 :2013/09/28(土) 23:50:51.57 ID:qoH49owO
いえいえ。
慈悲の瞑想ってあるでしょ 自分が嫌いな奴の幸せを祈るとか合理的に考えて理解不能なんだが 理想論ではまあそうなんだろうけど実際にそう思うのは無理じゃね? せいぜい無視が出来たり関係が薄かったりした場合のみじゃないかね 抽象的じゃなくて具体的、合理的に腑に落ちる説明できる奴いない? それとも宗教によくありがちなとにかく信じろ系のものかね
401 :
神も仏も名無しさん :2013/10/04(金) 12:58:25.37 ID:jLIGAZMn
>>400 嫌いな奴(たとえば敵)が不幸だったりイライラしていたら、
自分に危害を加えてくる可能性が高まる。
ヤクザだって宝くじに当たって金に困らなくなったら、
わざわざリスクの高い犯罪に手を出さなくなるでしょう。
嫌な奴ほど幸せに(不満なくニコニコ)暮らしてもらいたい。
嫌な上司が機嫌悪かったら部下にとばっちりがくるので、
嫌な上司ほど機嫌よく暮らしていてほしい。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言いますが、何も全て嫌いなのではなくて 嫌いな部分に毎回反応しているから、存在そのものが嫌いであるように感じられるんです。 それは瞑想による観察を凝らせばすぐに分かるので自分自身の目で確認するのが早道かと。 またその嫌悪反応すら抑えられることも瞑想を通じてすぐに分かってきます。
>>401-402 レスありがとう
例えば快楽で自分の愛する人殺された相手とか
詐欺られて自分の全てを持っていかれた相手に対しても
そう思えるかどうかは懐疑的だけど
自分が納得できるかどうかは別にしてロジックは分かった
実際やってみて確認してみるのがいいのかもしれんな
慈悲の瞑想は、私の場合、スマナサーラ長老の文句でやっているんですが
やっていると、「私の親しい人も幸せでありますように」のパートあたりから
なんか言葉がスムーズに出てこなくなるというのがあるんですよね。
頭がくらっと酔っちゃって、「私の親しい…も幸せ…ますように」というように途切れ途切れなっちゃう。
集中していれば集中していればそうなります。
>>403 私は三ヶ月くらい朝と晩(結構さぼる)やってますが、嫉妬心は少し和らいだ思います。
ただ、「私の嫌いな人も幸せでありますように」のパートをするにはまだ早いとの自己判断から
余りしていません。気合いをいれてやらないと嫌悪の感情がすぐ出てくるのでしんどいです。
405 :
404 :2013/10/04(金) 16:06:30.69 ID:hZuU9A5M
わかりにくい書き込みをしてしまいました。 上の書き込み中の下2行は ただ、「私の嫌いな人も幸せでありますように」のパートをするにはまだ早いとの自己判断から 当該パートは余りしていません。このパートは、気合いをいれてやらないと嫌悪の感情がすぐ出てくるのでしんどいです。 に訂正します。すいませんでした。
406 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 04:28:35.85 ID:LcNUcpML
嫌悪(怒り)の感情を作りだして苦しんでいるのは自分なんですよね。 相手のせいではなく自分の心の問題。 まずは、慈悲の冥想をしているときの心を日常生活でも保つことがゴール・理想だと決める。 そしたら、もう、憎い他人との争いは終わりになる。 自分の煩悩(怒り)との戦いがメインになり、他人との戦いはどうでもよくなってくる。
何をされても怒りの感情を消して怒らないってこと? 嫌悪の対象が罪を犯しても償わせないってこと? それでは犯罪天国の世界になってしまわないかね 罪は憎んで人は憎まずってことなのかね それとも罪を憎む感情さえも無くしてしまえってことかな
408 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 14:38:38.63 ID:LcNUcpML
>>407 罪を憎む感情もなくしてしまうのが理想。
たとえノコギリで体を切り刻まれても相手を憎むな、と経典にはある。
で、別に怒らなくても、世俗の法律は執行できる。
例えば自分の子供が罪を犯したとして、
子供を憎む怒りの気持ちはなくても、
ケジメとして法律で定められた償いはさせるでしょう。
409 :
神も仏も名無しさん :2013/10/05(土) 14:46:23.31 ID:LcNUcpML
>>407 罪を犯した他人を見たときに、相手(加害者)に自分を置き換えて考えればよいのでは。
もしが犯人ならば、もちろん罪は償う。
そして、できることならば、被害者や世間から感情的には許されたいと思う。
私自身、昔、他人を怪我させて警察のお世話になったことがある。
被害者の温情もあって不起訴になった。
相手に許していただいた(厳罰を望まないと警察に言ってくれた)こと、ありがたかった。
>>407 涅槃の世界と、善悪といった価値観の世界、そしてその価値観によって問題と感じたことを問題解決する世界、
これらは別ものですから、きちんと別ものとして区別している限り互いに矛盾することはありません。
仏教が扱うのは主に涅槃の世界で、善悪とは無縁の世界です。仏教は涅槃に至るのが目的です。
「罪を憎む感情もなくしてしまうのが理想」というのも涅槃の世界を目指すときの話で、
現実世界がそうあるべきという話ではありません。
慈悲の瞑想に関しても、涅槃に至る瞑想をするには心を落ち着かせる必要がありますから、
落ち着かせるために慈悲の瞑想という形で善悪を問題にしているだけで、
慈悲ある人間が世間において素晴らしいと教えているわけではありません。
極悪人の処遇など現実世界の話は、法学や倫理学といった問題解決の世界が扱う問題で、
仏教が直接問題とするところではありません。仏教の智恵が役立つことはあるかもしれませんが、
結局どうするか決めるのは世俗的な価値観と問題解決法です。
>>408-410 なるほどそういうことになってるのね
逆に考えると喜びも感動とかも無くすってことなんろうね多分
確かにヴィパッサナー瞑想で深いところまでいけばそうなりそうではある
うーん現実世界とはかなり乖離があるなあ
倫理や法律とは関係なしに涅槃の世界を目指すのだから仕方ないか
出家するわけでもない一般人の自分としては現実世界との折り合いをどうつけるのかが難しい所ですな
知識は多いは悟りを覚えずと言うけど、結局奥深いところは、言葉では言い表すことはできない
413 :
神も仏も名無しさん :2013/10/07(月) 23:51:46.87 ID:/KoDV6do
実践あるのみ
昨日、自分に否はないのだが客に 「ふざけるなコノヤロー」 と言われた。 数時間後に暴言の内容を同僚(女性)に訪ねられたが、すっかり忘れていて 「いいよな〜O型はひきずらなくて〜w」 と言われた。 分かってないよね。 ひきずらないようにヴィパッサナーで日々鍛えてんだよ。
415 :
414 :2013/10/08(火) 16:06:39.90 ID:msAbrIDS
それについて説明する気もないので、 「アハハ・・・」 と愛想笑いした。 めんどくせ(^^;)
(からかわれてイラッ)と思った (めんどくせ)と思った からかった奴が幸せでありますように
慈悲の瞑想がすんごい楽しい。 慈悲の瞑想を始めるとものすごく幸せな気持ちになる。 その場にいる人たちに慈悲を送れると思うと、 知らない人がたくさんいる場所が好きになったよ。 そんな自分の対人モットーは、 「いつもニコニコ真心こめて、その場限りのお付き合い」 これがものすごくうまくいってて、対人関係の悩みがなくなった。
>>417 慈悲の瞑想をすると、暖かい心になるのがいいよね。
相手を違った角度から見れるようになるのがいい。
案外苦労してる人が多いのに気づかされる。
個人的に、慈悲の瞑想とヴィパッサナーは相性が良いと思う。
419 :
神も仏も名無しさん :2013/10/09(水) 00:24:13.57 ID:9vVOhmIg
長いこと生きていると、本当に嫌な人、許せない人に何人かは出会う。 メッターは難しい。
420 :
神も仏も名無しさん :2013/10/09(水) 03:35:27.86 ID:gB8OFVZh
慈悲の冥想も含め、仏教を知ることで、 他人との戦いから、自分の煩悩との戦いへとステージが変わる。
外部の刺激に惑わされずにひたすら自分と向き合い続けるのって苦しくて難しい その苦しさを慈悲の瞑想で鎮めてヴィパッサナー瞑想で観察すればいいんだろうけどそこまでなかなか・・・
ボーっと植物人間みたいになればいいってもんじゃない
やらずに批判しても仕方ない
>>418 レスありがとう。
慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想の組み合わせ最強だよね。
どんな状況でも心が穏やかで居られる。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
ゴエンカ氏亡くなったかぁ...。 いろいろ教わりましたありがとう。
今のご時世、この世の中いろいろ欲望を刺激する環境があるので、本当にそれらを厭離して、捨て去ることができるのか ある意味すべての修行的なことは、お遊びで終始して愚行に終わる
428 :
神も仏も名無しさん :2013/10/10(木) 21:48:19.62 ID:smQyLM7C
ゴエンカ氏 ありがとう!
先月亡くなっていたのか
ヴィパッサナーをやっていると、 ヴィパッサナーをやらずに生きている人はスゴいと思うようになった。 よく日々を耐えられるよな
あれっー。ゴエンカさんてこんな人だったけ? 2,3年前にNHKで ビッパサナ瞑想をやっていたことがあったと思うけどこの人じゃなかったな。 確かその人の名前もゴエンカさんと記憶してるのだが。
瞑想の初期症状でやる気っていうか何もかもに興味がなくなるってのとか頭痛がするっていうのある? これが瞑想によるものなのかわからないんだけど。
>>434 素人が何にも考えずに適当にやったら危ないよ
執着をなくすのが瞑想だから何事にも興味なくなるってことはありえる
脳科学的にも通常の情報伝達を瞑想で機能させなくするようなものだから
頭痛がしてもおかしくない
>>435 レスありがとうございます。
ということは、皆様はどこかで講習みたいなものをうけているということなのでしょうか。
そんな危険な瞑想法だったら普通の本屋で自習できるマニュアルが売ってるわけない ただ出てる症状は特殊だと思う ちゃんとした指導者のいる瞑想会に参加して相談した方がいいよ
瞑想し始めたときはいっぱい変な夢をみたなぁ 普段しない脳の使いかたして刺激がつよかったのかな
>>437 これポイント
> そんな危険な瞑想法だったら普通の本屋で自習できるマニュアルが売ってるわけない
アルマットに出版されている「ミャンマーの瞑想法」とほぼ同じ瞑想法であることもポイント
これを非といったら日本人は智慧を得る瞑想法はまず得られないと思って諦めないといけない
そんなことでどうするんだ?上座仏教?と思うけれど…
上座仏教のすべての長老が自分らの故郷へ帰って日本に瞑想を教えないという約束を取り決めるならそれでもいいけど?
そうじゃないでしょ?禅の延長線上で瞑想法やっているんでしょ?
ならどうしてトラブルがネットでさえも噂されるのかなぁ…
テレビで医学的に非と証明できるのかなぁ…たけしの家庭の医学とかそういう番組で
やれるものならやってみろよって言いたいよ>医学界
>>437 そうですよね。そんなに危険なものなら、こんな一般人が簡単に瞑想してられませんからね。
とりあえず症状が治まるで様子見て、機会がある時に指導を受けて見たいと思います。
441 :
神も仏も名無しさん :2013/10/14(月) 21:03:35.77 ID:8HSyYSNu
素人が「何も考えず」適当にやるのがいちばん良い
ちなみに、何の本に従って瞑想しているんですか、440さん。
俺も瞑想を始めて仕事を全然やる気が無くなった。 だから値段を思いっきり吹っかけて納期間際でチョロチョロとやるのが癖に なってきた。
444 :
神も仏も名無しさん :2013/10/15(火) 22:05:41.65 ID:7CF3cO9V
ところで、『アップデートする仏教』はもう読んだかい?
よんだよ
一切皆苦とは深い境地に至ればどう見ても全て苦とわかるという意味ですか?
447 :
神も仏も名無しさん :2013/10/16(水) 10:46:22.36 ID:VQlZV7UU
苦ってのは静止した状態から動き始める時の摩擦みたいなもんじゃないかな? ヒッグス粒子とか
>>444 読みたくなーい
仏教がキリスト教圏のアメリカで誤解なしに受け入れられているとは思わないから
東南アジアだったら考える(ヒッピーとかカウンターカルチャーとかモロアメリカなんですけど)
そんなんだったら中村元訳の「ダンマパタ」読んで意味を考えていた方がいいや
つまり山下良道先生は仏教1.374にハマってしまったわけだ 可哀想に
ネーミングからして怪しげなものを感じる(仏教3.0)
さらに対談本ということで魅力は激減
混乱しか生じないでしょう
今台風が起きているのは「仏教3.0論」が遠因じゃね?とか疑われたらどうするのでしょうか?
時期もぴったりだし、それこそカルト宗教呼ばわりですよ?
オウム真理教の二の舞はごめんだ
だったら仏教1.0と仏教学者の書籍の通読で充分だ それすらできない人間の方が多いのだから
1.374とはなに?
意味無し 1 3 7 4
仏教学者の書籍はイラネ たまにまともな学者もいるけど
>>451 中村元の翻訳(岩波青)と片山一良の著書と水野弘元の著書を読み合わせて
仏教1.0をやれば(経典の読解も含む)大抵自分ちの大乗仏教とお釈迦様の教えの補完はできると思います
問題は悟りに繋がる瞑想法だけ、それも仏教2.0で方法論として広まって、今それが臨床試験中な段階
2020年までに浸透するとは考えづらいけどね
瞑想はミャンマーの瞑想センターに行って実習しないと無理じゃね。
>>453 それが日本でできなければ普及したとは言いがたいと思います
だから件の本でいきなり「仏教3.0」と言っても無理があるなと思ったのです
瞑想でマハシ式すら普及できていない状態、それは仏教2.0も臨床試験も出来ていない状態とみていいでしょう
だから興味のある方はもう一度仏教1.0へ立ち返って考えた方がいいのです
455 :
神も仏も名無しさん :2013/10/18(金) 12:43:20.36 ID:nWE7AhZS
456 :
神も仏も名無しさん :2013/10/18(金) 12:48:43.62 ID:nWE7AhZS
>>447 静止してるものを動かすにはエネルギー(刺激)が必要。
苦とは、動かねばならない理由。
たとえば、ソファーにくつろいでいる人をわざわざ動かすのは、なんらかの苦。
苦さえなければ動く必要がないのに、苦があるから動かねばならない。
458 :
神も仏も名無しさん :2013/10/18(金) 13:47:40.23 ID:3U6zMzDW
「苦」って表現だけど感情的な物じゃなくてもっとその奥にあるものじゃないですかね
分かりますがそれだと1つの解釈ですよね
煽り抜きで思うんだけどそういう教学的なことは本職のお坊さんに聞いた方がいいと思うの 2chで苦ってなんですか!?って聞いても素人なんだから分かるわけないよ
いいだろ素朴な疑問ぐらい投げかけても 誰かの発言がヒントになればそれでいいし 坊さんが正しいわけでもねえし それよりここのちょっとでも疑問投げかけることも許さない不寛容で宗教的な雰囲気が気持ち悪い
だってその人質問ばっかりして自分の気に入る答えしか受け付けないじゃん そういうのは仏教議論スレでやるべきだと思うんだよね まあこのスレ過疎ってるから賑やかしにはなるが、スレ違いだとは思う
463 :
神も仏も名無しさん :2013/10/19(土) 08:17:53.88 ID:ZXnjxEml
>>457 どう見ても苦だと心底納得できたら、預流果の悟りです。
悟ってないから苦だと納得できないのは仕方ありません。
苦・無常・無我は三位一体。
本当は苦なのに、苦ではないと見えてしまっている、
その「苦ではない」という思考は、無我(実体がない幻)なのです。
心身が受けるどんな刺激も無常で、刻一刻と変化していきます。
生き物は、ただただ移り行く刺激に乱され、踊らされ動かされ、生かされている。
涅槃に落ち着くのを苦(次々に襲ってくる刺激)が邪魔をしている。
苦は、やらねばならない仕事、みたいな感じ。
快楽でも苦痛でも、あらゆる刺激は、生命にとって、
刺激に反応するレスポンス(やらねばならない仕事)を作るウザい注文。
一切の刺激は、完全停止を邪魔する「次の仕事」。
464 :
神も仏も名無しさん :2013/10/19(土) 08:25:55.36 ID:ZXnjxEml
仕事を片付けてもまた次の仕事、また次の仕事がやってくる。 息を吸ったら吐かねばならない、吐いたらまた吸わねばならない。 音が聞こえたら意識を向けねばならない、光が見えたら意識を向けねばならない。 話しかけられたら返事しなければならない。 気持ちよくなったら勃起しなくてはならない。 おいしいものを見たら食べたくなる、口に入れたら噛まねばならない、噛んだら飲み込まねばならない、 次々に、「やらねばならない仕事」がひたすらひたすら来るだけ。 処理してもまた次の仕事、クリアしても新しい仕事、逃げても違う仕事、 色声香味触法は、涅槃(閉店ガラガラ)を妨げる仕事の発注。
465 :
神も仏も名無しさん :2013/10/19(土) 08:28:43.20 ID:OVb4scxv
466 :
神も仏も名無しさん :2013/10/19(土) 08:42:24.02 ID:ZXnjxEml
>>465 今やっている行動を1秒単位にでも分析してみれば、
苦(次々にくる仕事)の数珠つなぎです。
たとえば字を書くとき、指先のペンの感覚を確かめながら1画線を引き、目で確認し、
また次の線を引き、合間でまばたきをしたくなったらまばたきをしたり、
息をしたくなったら息をしたりしながら、
線を引き、また線を引き、1文字を造り上げる。
瞬間瞬間の苦は、つまらない刺激の連続。
それを観念でつなぎあわせて「楽しい」とか「悲しい」とか思ってしまうだけ。
>>460 質問内容と態度がまずい。質問ばっかりである。そう思うんですね。
ありがとうございます。参考にします。
>>463 ある僧侶にも「どう見ても」と言われました。
しかし苦を「動く理由」と特別に定義してる時点で1つの解釈ですよね。そこが謎です。
468 :
神も仏も名無しさん :2013/10/19(土) 08:53:43.69 ID:OVb4scxv
で何が動いているんでしょうね
469 :
神も仏も名無しさん :2013/10/19(土) 08:54:49.43 ID:OVb4scxv
批判とか肯定とかでなく縁起で解釈すれば
470 :
神も仏も名無しさん :2013/10/19(土) 11:11:41.85 ID:ZXnjxEml
>>468 何が動いているのかというと、生命がです。
苦があるということは、まだやるべきこと(動かねばならないこと)がある、ということ。
したがって、苦があることは、動くこと、つまり生命活動があることです。
完全に苦がなくなり、これ以上やるべきことは何もない、完全な満足、動く必要がないとなったとき、
生命は、生命活動(輪廻)をやめて、平安なる滅び(涅槃)に入り、
この世から消えて亡くなることができるのです。
471 :
神も仏も名無しさん :2013/10/19(土) 11:21:59.56 ID:ZXnjxEml
しかし、私たちは、本来は苦であるさまざまな刺激(生きる理由、やるべき仕事)に執着し、 次々にやってくる刺激にしがみつき、また次の苦、また次の苦と動き続けているのです。 そして、それ(生命活動)に伴うさまざまな悩みに直面しては、悲しんだり怒ったり愚痴をこぼしたりする。 根本的な苦悩の原因は生きていることそのものなのに、 「生きるってすばらしい」という夢を必死に守ろうとするのです。 「生きることは苦のくりかえし」と夢から覚めたとき、苦(刺激)を手放せる。 苦(刺激)への執着がなくなれば、やるべき仕事もなくなり、生きる理由もなくなり、 涅槃に向かうように方向転換できるのです。 日本の仏教者には、「生きているから苦しいのだ」という教えを、 逆にポジティブな励ましとして、生命の賛美(執着の増進)に使う人さえいますが、 「いやいや逆の意味でしょ」と思うことがあります。
一見、煩悩は喜ばしいものにしか見えませんけど、部分部分で苦しみは垣間見えることがあります。 老、病、死とか。 煩悩の喜びは、本来苦を内包したものであるけど、それを見ないで楽しい部分だけ見て生きていて 錯覚してるから、そういうのを取り除いて行くのが修行の1つの目的ではないでしょうか? 無常、三苦、老病死、とかについて考えてみたらどうでしょうね。
473 :
神も仏も名無しさん :2013/10/19(土) 20:24:05.22 ID:U7vXqbGg
みなさん被害者意識?
苦、苦、苦って何がそんなに苦しいんだ? 甘いからって砂糖ばっかり舐めてると糖尿になる。塩には塩の役割がある。苦だって 役割があるんだよ。
苦の役割って何ですか、気づきかな?
476 :
神も仏も名無しさん :2013/10/20(日) 11:36:23.04 ID:sfipT1HY
>>474 スマナサーラ長老が苦を「不満足」と表現しているように、
一切皆苦というときの「苦」は、苦痛だけのことではなく、苦痛も快楽もひっくるめた刺激のことでしょう。
満足していないから行動が必要になる。
心臓を(無意識に)動かすのだって、満足していないからですよ。
まだ生きていたい、まだ死にたくないという不満があるから、心臓を止められない。
完全に満足したら、心臓を動かす必要もなくなり、生命活動から卒業できるのです。
そのためには、生への執着、煩悩の親玉である無明を破らねばなりません。
人間は本質的に欠乏状態でその都度その都度、欲望によって食事や異性や商品などで、欠乏状態を一時的に満たしているにすぎす 自分自身が一つの大きな底無しの欲望のバケツであることを自覚しなければならない
瞑想やってると執着が幾分とれて、周りの人にとって大切なことを軽視してしまい、円滑な人間関係を築きにくい時が出てきました。 どうしても全体的な視点から見てしまうというか、相手の執着に合わせた視点で考えるのを難しく感じます。 無我が分かってくると、自然と相手を自分のことのように感じて慈悲が出てくると聞きましたが、本当に相手の拘りにも配慮できるようになるんですか? もっとも、瞑想のおかげで、色眼鏡で相手を決め付けることは減って、そういう意味では良かったとは思うんですが。
479 :
神も仏も名無しさん :2013/10/20(日) 15:23:27.05 ID:sfipT1HY
>>478 自分に嘘をつく必要はないし、相手に嘘をつく必要もないので、
相手が「これは大切だ」と思っていることでも、
「そこまでこだわる必要はないよ」と正直に言うのは良いと思います。
ただ一点、仏教は、自分と他人の悩み苦しみをなくす教えだと思います。
たとえ自分にとってとるに足らない物でも、それを大切にしている他人がいるなら、
むやみにそれを破壊して他人に苦痛を与えるのは避けたほうがよいでしょう。
たとえば、あなたがあなた自身の命にさえ執着がなくなり、いつ死んでもいいと考えていたとしても、
あなたにまだまだ生きていてもらいたいと執着しているあなたの家族に苦痛を与えないために、
あなた自身の体を大切にするとかです。
ケースバイケースで複雑ですが、判断規準として五戒を参考にするのもいいと思います。
480 :
流行性感冒 :2013/10/20(日) 15:28:48.33 ID:d+1iNxIn
>>478 全体的な視点というあなたの執著ではないですか・・・?
お
>>479 たとえば、いま周りの人が天気を気にしているけど、私は気になりません。
周りに合わせて天気の話をしますが、苦痛だし話も膨らみません。
相手の嫌がる言動があっても、こんなことで嫌がるのかというほど些細で、意識が難しいんです。
何より不安なのが、瞑想をやることで、こうしたことが起きたことです。
本当に相手の拘りにも配慮できるようになるんですか?
>>480 よく分かりません。詳しくお願いできますか?
>>482 >たとえば、いま周りの人が天気を気にしているけど、私は気になりません。
瞑想前は天気は気になったし、天気の話をするのは苦痛ではなかった?
なんか瞑想のせいにしてません?
>相手の嫌がる言動があっても、こんなことで嫌がるのかというほど些細で、意識が難しいんです。
相手に愛語(piya vaca)で話せないというのは悟りから遠い気もしますけど…
>>482 自分だったらですけど、
話題の内容があんまり苦痛で、
複数人の中で話題になっているなら
誰とも話さず淡々とサティを入れて過ごします。
一対一で特に興味のない話題を振られたら、
「この方は、自分のことを喜ばせようと思って
こうして話題を振ってくださったんだな、
無視されないなんてありがたいなあ」と思うので、
興味がなくてもとりあえず一生懸命拝聴します。
「それはどういう意味ですか?」
「どうしてそう思われるんですか?」と
相手にお話をしてもらうようにすると、なかなか楽しいです。
話題の内容が噂話とか、不倫自慢みたいな 明らかな悪行為の場合はできる限り逃げます。 しつこく言われたら「音、音、音」とサティを入れて黙ってます。 相手が善悪のわからない1歳ぐらいの子だと思って接すれば、 そんなにストレスもたまりませんよ。
>>483 瞑想で物事を気にしなくなるのが普通だと思いますが
何か違ったニュアンスで大袈裟に受け止めていませんか?
>>484 具体的にありがとうございます。
私も複数人だと角の立たない範囲でそうしています。
一対一だと反応を求められるのでそうもいきませんね。
確かに嫌なことでもありがたいと思うと雑念が減ります。
たしかに聞き手に回るのはいいんですが、やっぱり相手をある程度理解したいんですよ。
周りの人って繊細な部分で反応を期待して話す人が多いじゃないですか?
その期待に添えないと話の分からない人だと思われがちです。
そこまで合わせるのは難しいですよ。たまに嫌な顔されたり、
気さくに話しかけられることが減って、孤独に感じています。
487 :
神も仏も名無しさん :2013/10/21(月) 06:53:55.60 ID:RTB4sn3/
物事気にしまくってるじゃありませんか もっと気楽に
>>487 確かにそうなんですが、私は瞑想の問題点について意見を聞きたいんです。
489 :
神も仏も名無しさん :2013/10/21(月) 08:08:11.17 ID:qOKHa0UI
>>488 冥想の問題点ではなく、もともとあった、あなたのプライドの煩悩との戦いの話では?
冥想によって欲のベールがうすくなり、奥にあったプライドが浮き出てきた、みたいなかんじかも。
>>489 そういう変化は心当たりないですが、現にあったとしてこの問題とどう関係ありますか?具体的にお願いします。
私が提起した問題は、瞑想で執着がとれると他者の執着に合わせにくくなるのではということですよ?
合わせにくくなりますね それで?
492 :
神も仏も名無しさん :2013/10/21(月) 12:08:57.89 ID:qOKHa0UI
>>490 他人の執着と合わせにくいという裏に、
「私はあなたたち俗物とは違うんです」というプライドがあるのかも。
今までは、周りの人と価値観が似てたから、「あなたたちとは違うんです」というプライドに気づきにくかったが、
執着(欲)が変化して周りの人と価値観がずれてきたために、
「私はたなたたちとは違うんです」というプライドが鮮明になってきた。
493 :
神も仏も名無しさん :2013/10/21(月) 12:13:07.64 ID:qOKHa0UI
>>490 周りの人の執着と合わせにくくなったと言っておられますが、
そういう自分(他の人とは違って仏教的な価値観になってきている自分)がむしろ好きであり、
周りの人に本気で合わせようと考えていないのでは?
で、解決方法としては、
「合わせる必要なんてないですよ」です。
ただし、プライドは悩み苦しみの原因ですから、注意が必要です。
瞑想してみると他者に対してストレスを感じるくらいプライドが高かった 普通はそれに気づいてイカンイカンとなるところを それを気づいてか気づかずか瞑想のせいにしてしまっている
生きとし生けるものが幸せでありますように
いやはや自分のことを図星で言われたように思いますよ
497 :
神も仏も名無しさん :2013/10/21(月) 14:10:10.87 ID:EHTKPvCe
すいません初心者です。 呼吸を意識すると過呼吸になってしまいます。 何が悪いのでしょうか… これじゃダメだと思うのですが 気がつくと肩や背中に力が入っていたり 過呼吸になってしまいます
498 :
神も仏も名無しさん :2013/10/21(月) 14:34:41.20 ID:RTB4sn3/
>>497 吐く息に重点的に意識を向けるか、瞑想に慣れるまで集中の対象を呼吸以外にしてみると良かったりしますよ
499 :
神も仏も名無しさん :2013/10/21(月) 18:29:06.40 ID:3FIbx5YL
>>498 ありがとうございます。
また挑戦したくなりました。ありがとう。
500 :
神も仏も名無しさん :2013/10/21(月) 19:39:28.53 ID:PMJPLjzd
ヴィパッサナーでは悟れない。 。 いまのヴィパッサナーはオナニーのようなものに等しい。
501 :
神も仏も名無しさん :2013/10/21(月) 20:22:49.63 ID:RTB4sn3/
>>499 いえいえ、あと息が上がりやすい人は瞑想前の五体投地なんかもオススメですよ
>>485 >>484 です
どんな人(生命)も自分を大切にして欲しいと
思っているのは共通なので、
微細な部分、反応して欲しい部分=その方が
自分を認めて欲しいと思う部分、ですよね。
どんな方でも一番こだわりを持つのは自分の思考、知識(学歴)、身体ですから
いわゆる相手の自分語りには、なるべく丁寧に相槌を打つのがいいんじゃないでしょうか。
さも感心したように「そうなんですね」「なぜそう思われるんですか」と。
自分だったらどう思っていただろう、どうふるまっていただろう、と
過去の自分を思い返してみると良いかもしれません。
人が離れていくのは一時的なものと思って、
一人で居るのをいいことに、日常のサティをどんどんされてはいかがでしょう。
慈悲があふれる瞬間を迎えると、動物や虫や人がどんどん寄ってくるようになりますよ。
阿那波那念において、うまく呼吸を捉えるためには口唇の周りの筋肉をリラックスさせることで、息の風が上唇に当たるのがわかるはずだ。
504 :
神も仏も名無しさん :2013/10/23(水) 00:47:31.44 ID:CmGo6NL+
最近よくやるんだけど、お腹の膨らみ・縮みではなく、 鼻の膨らみ(吐くとき)・縮み(吸うとき)を見るほうが、 伸縮が微細だからこそかえって見やすい。
505 :
安堂 :2013/10/23(水) 00:51:55.15 ID:Ea0rq7z2
>>504 鼻の先っぽの息の出入を観る方がアーナパーナでは主流。
腹部の膨らみ縮みは日本のテーラワーダのヴィパサナらしいです。
506 :
神も仏も名無しさん :2013/10/23(水) 14:03:15.70 ID:f9dIdr1L
サマタがうまく出来出すと「普段もこんな感じでいたいな」ってなって必然的にヴィパッサナーに以降する感じだけど、これって小さい頃から(むしろ子供時代程)無意識にやってた事なんだなぁ、と感じる
前生で瞑想修行してたんじゃないの。
瞑想してて、グンダリーニが上昇することってあるの。
仏教のサマタ瞑想は、ダイレクトに色界に入っていくから クンダリニーとかはむしろ粗雑すぎて遅いと思う。
エクスタシィィィイイイイ
一点を見つめるタイプの瞑想の場合、呼吸への意識は向けなくても良いのでしょうか?
512 :
神も仏も名無しさん :2013/10/24(木) 19:19:05.68 ID:PwnCFCBo
どっちでもいいです 「別にごちゃごちゃ考えなくったっていいんだ」 ただ座り、ただ呼吸する事を自分に許すだけ 普段大抵の人は自分をいじりすぎなんではす 自分をほっとく事が大事かと
513 :
神も仏も名無しさん :2013/10/30(水) 14:06:00.70 ID:Ly4pzUdC
生きとし生けるものが幸せでありますように
514 :
神も仏も名無しさん :2013/10/30(水) 14:20:37.51 ID:uLXCOlgC
ライオンとシマウマの幸せが両立しますように
仏教が目指す幸せって、究極的には輪廻から抜け出すことだから その辺はあんまし問題じゃないんだと思うけどね。
そりゃ無理だろ。 ライオンとシマウマは人間同士でもあるんだなこれが。
517 :
神も仏も名無しさん :2013/11/02(土) 21:30:02.82 ID:v/wUDOkB
現代の日本人は輪廻なんて存在しないと思っているから、 仏教的に言うとみんなすでに幸せを掴んでいる。 ふつうにただ死ぬだけで解脱できるので。
半年くらい瞑想が全然できない。 もうダメかもしれんね。
519 :
神も仏も名無しさん :2013/11/03(日) 22:12:58.12 ID:dLlEvgRv
ふつうにただ死ぬだけで解脱できるので 何の心配もないよ。
瞑想が進むためには、体の歪みを直さないと先に進めず引っかかるような感じになる、特に頚椎、胸椎などの脊柱の歪みがあると完全なリラックスが得られず、それが障害になる。
521 :
神も仏も名無しさん :2013/11/04(月) 16:44:20.06 ID:J/XWQQCD
瞑想に坐る必要ないよ。 坐るのは単なる因習だから。
522 :
神も仏も名無しさん :2013/11/04(月) 16:50:36.70 ID:AA+L5zHo
寧ろ逆に前向きにして欲しい 他に別に積極的にして欲しい 当然正反対に楽観的にして欲しい
523 :
神も仏も名無しさん :2013/11/04(月) 22:52:39.15 ID:kO5MriGc
>>518 また瞑想をすれば良い
過去半年は問題ではなく
今、落ち着いて瞑想することができるか
今が大切なのでは・・・
知人が瞑想の合宿?に行ってきたみたいなんだが、 これっていわゆる新宗教なの?上座部仏教?新手の自己啓発セミナー? それとも宗教関係ない、ヨガ教室的なものなん? 知人とこの先どう接するべきか…
場所はどこですか?
千葉です
ゴエンカ氏のとこかな? 宗教は古典宗教だけど、団体自体は新しいと言えるかもしれないね。 日本の上座部と大乗との関係は 古典芸能をやってる新しい劇団と、現代劇をやってる古い劇団 みたいな関係になってる気がする。
上手い例えやね
530 :
神も仏も名無しさん :2013/11/15(金) 20:48:47.90 ID:IOErOO2a
背骨が曲がってる病気なんで瞑想がつらい
上座部で障碍者の人が書いた瞑想の本があったような・・・
ヴィパッサナーやってるおかげか、ほんと楽天的になった。 以前の自分は、未来について無駄に悩んでいたことが多かった。無駄に疲れていたと思う。
533 :
神も仏も名無しさん :2013/11/17(日) 15:05:19.54 ID:UldJw9BW
瞑想すると脳みそがブチブチ切れるから楽天的になれる。酒を飲むのと同じ 効果だね。疲れも飛ぶし。 ラニングなんかも同じ効果があるよ。昨日は嫁さんに付き合って買い物を したが2時間もあるきまわってほんとに疲れた。でも帰ってから10kほど 走ったら気分爽快になった。買い物はかなり頭を使って悩む。 「安いだろうか? 似合うだろうか?無駄にならないだろうか?」と悩む。これが かなり堪える。ラニングは身体が疲れる代わりに余分な考えが飛んで頭はリフレッシュする。 ラニング中に何か考えようと思っても考えられない。だからランニングを続けると 馬鹿になれる。それがいい。 散歩は思考力も使うし身体も使うので鍛錬する健康法としてはベストかもしれない。 実際に散歩しながら語学の勉強をしている人も多い。 ラニングや瞑想は楽天的な馬鹿になる方法としては非常にいい。特にラニングは身体 を使うので瞑想のように「考えない」というような訓練をしなくても簡単に馬鹿になれる。
>>533 瞑想と馬鹿になることとは違うと思うけどな。
535 :
神も仏も名無しさん :2013/11/19(火) 23:09:50.45 ID:TObv892n
ともあれ、瞑想によって悩み苦しみを無くすというのだけはやめた方がいい。 あくまでも、もっと現実的な解決を模索すべきだ。 そうしないと、結局は人生全体を棒に振ることになる。 通常の生のリアリティ全般に接触できなくなってしまって。
瞑想は苦しみを無くすのではなく、観察すること。
537 :
神も仏も名無しさん :2013/11/20(水) 03:44:23.61 ID:qUX47NoS
馬鹿というのは語感としてはVACANT(空っぽの)に似ている。ヴァカンスとか も同じだ。バ――――、カ―――――という語感はラテン語的にも世界的にも馬鹿なのだ。 瞑想は空っぽになること。馬鹿になることだ。 観察とは違う。観察はチマチマしていて小賢しい。馬鹿でなくてはいけない。
一般に言う観察っていうと、「観察してやろう」って明確な意思を持って行うって認識
が強いと思うけど、そこがやっぱり気づき(の瞑想)って言われる所以なんだろうな。
一応は観察してるんだけど、力みが抜けきった自然な観察じゃないかな。
>>535 一応、瞑想で苦しみは減ると思うよ。
煩悩とか執着を弱めると、相対的に苦しいことも減るし、瞑想すると心が多少なりとも平静になるよ。
ただ、日常生活送ってると、いつもの状態に引き戻され易いって感じはするけど。
かれこれ独学で二年程やってる者だが、職場で好きな人が出来てしまった。最近彼女のことばかり頭に浮かぶ。 その状態を打破しようと、今日一日時間が出来たので心随法で適切なサティを数十と入れていった。お陰でかなりわだかまりや緊張感が取れて楽になったけど、まだ少し恋をした時特有の興奮、高揚感が収まらない。 今まで辛いこと、苦しいこと、向き合いたくないことがあってもヴィパのお陰で一切思考や雑念の無い状態に戻すことが出来たのにこんなこと初めてです。 どんな感情や経験でも客観的に適正なサティを入れればいずれは収まったのに胸の高まりが収まらない…かといってもう入れるべきサティもなさそうな気がするし、気持ちを否定せず感情に流されないようにすれば良いかな。 似たような経験がある方居たら教えて下さい。
アーチャン・チャーの「無常の教え」を読んでサマタ瞑想するのがおすすめ。 どんな気持ちが出てきても「これは常ならざるものである」と認識する。
気持ちが静かになり過ぎてやる気が起きない。人でも物でもいいのだが恋する もののように気持ちを高ぶらせたい。 こういう時はどうしたらいい。
542 :
神も仏も名無しさん :2013/11/25(月) 06:58:13.48 ID:Wfub1gtI
もっと集中するとか 集中してるつもりが抑圧になってたり
仕事に集中できないんだ。 瞑想なら何ぼでも集中できるけど。 抑圧が無さ過ぎてリラックスし過ぎだと思うんだ。なにが起ころうと平気だし 緊張が全然ない。どうしたらいい?
自分は集中とは違うかもしれませんが仕事にのめり込み過ぎてしまいます。 それで身体に過大な負担をかけてしまうんですがどうしたら良いですか? 瞑想で集中力がつくとそうなる人が多いんでしょうか?
単純作業だからだろ。そんな仕事はやめてもっとレベルの高い仕事をしたら? 単純作業や瞑想は何ぼでも集中力がつく。 問題は普通の仕事に集中できなくなることだな。
546 :
神も仏も名無しさん :2013/11/26(火) 21:25:03.99 ID:qvvOnjNQ
集中ってのは他を排除することで限定してしまうんだよね 本当に大事なのは注意力これは限定も境界線もない くだらない話を聞くと間違って集中集中ってなってしまう そして何も得ないで過ぎていく
ゴエンカさんのコースに何年か前に行ったんですけど 最後の方、呼吸に合わせて背骨に意識を上下させるよう指示があって ある程度できるようになったんですけど次は何をすればいいですか? 体の中はコース中にはまだ観察するなみたいな指示だけがあったけど表面はほぼできるように なったんで中に行くやり方があるのならやりたいんですけど。 それともこのまま背骨とか体の外側のあたりでやり続ければ勝手に中も開発されていきますか? もし中に行くとしたらどこがいいんですかね? 私は神経症だった人間なんでマハシ式の下腹部(丹田)メインのやり方でやってるんですけど ゴエンカ式は鼻孔の辺りでやるのでそこから中に入って観察して行くんですかね?
万能な注意力なんてのは存在しない。言葉への注意力であったり、身体への注意力で あったりそれぞれの注意力を訓練で鍛えることはできる。 宙返りの注意力は宙返りをしながら学ぶのが正しい。瞑想でも少しは注意力は付くだろうが 瞑想だけではいつまでたっても宙返りはできない。 では瞑想は何のためにするのだろうか? 注意力を鍛えるためにするのだろうか? 瞑想は「悟り」が目的なのだが、悟りと注意力は関係あるのだろうか? 悟りとは どういものだろうか? 宙返りと悟りはどう違うのだろうか? スッタニパータを読んだことがあるだろうか? これがブッダの言葉にもっとも近いが 般若心経とは全く別物だ。 スッタニパータも「悟り」だが般若心経も「悟り」だ。道元の正法眼蔵もまた「悟り」だ。 仏教の名著などは星の数ほどある。つまり「悟り」は星の数ほどあるのだ。 ここからも万能な「悟り」などというものはないのは明らかだ。 メンドクサがらずに本を読めよ。悟りなんて全部書いてあるだろが。悟りはそれ以上のもの ではない。
549 :
神も仏も名無しさん :2013/11/27(水) 06:00:39.51 ID:DoClP47/
注意力ってのはね鍛錬できないんだよ 注意力ってのはね自ら特定の対象を決めないの きみの言ってるのは注意力じゃなくて集中だ
仏教の悟りとは、四聖諦を悟ること。 四聖諦を悟ることは、涅槃に至ること。
>>547 > ゴエンカさんのコースに何年か前に行ったんですけど
> 最後の方、呼吸に合わせて背骨に意識を上下させるよう指示があって
私もゴエンカさんのコースに出ましたが、「呼吸に合わせて背骨に意識を
上下させる」という指示は記憶にないな。
それはサマタ瞑想ではなくヴィパッサナ瞑想として指導されてましたか?
>ゴエンカ式は鼻孔の辺りでやるのでそこから中に入って観察して行くん
>ですかね?
鼻孔の辺りの観察はサマタ瞑想ですから、中に入るということとは関係な
いと思います。
> ある程度できるようになったんですけど次は何をすればいいですか?
> 体の中はコース中にはまだ観察するなみたいな指示だけがあったけど表面はほぼできるように
> なったんで中に行くやり方があるのならやりたいんですけど。
> それともこのまま背骨とか体の外側のあたりでやり続ければ勝手に中も開発されていきますか?
> もし中に行くとしたらどこがいいんですかね?
> 私は神経症だった人間なんでマハシ式の下腹部(丹田)メインのやり方でやってるんですけど
> ゴエンカ式は鼻孔の辺りでやるのでそこから中に入って観察して行くんですかね?
>>551 >背骨に意識を上下
最後の方にちょろっとですがテープで指示がありました。
聞き逃してなければみんな聞いたと思います。他の人の体験記にも書いてありますし。
5年以上は前の話なので、もし最近行かれたのであればひょっとしたら内容が変わってるのかも。
私自身はヴィパッサナとは何かがまだいまいちよくわからないんですが
ゴエンカさんのとこの初参加者でやるのは最初の3日ぐらいのアナパナがサマタで
それ以降がヴィパッサナという扱いみたいなのでたぶんヴィパッサナとしての
指導かなと思いますが、マハシ式に比べてそれらがヴィパッサナと言えるのか疑問に思う感じは私もありまして
もしかしたらまだヴィパッサナじゃないのかもしれません。
瞑想状態になりやすくするために、まず体に対する気づきを開発していく作業みたいなものを兼ねてるのかもしれません。
私は一度、10日コースに参加しただけなのであまりよくわからないです。
観察じゃなくて感覚を「見物する」ぐらいの感じでちょうどいいね
集中するぞーって力んでやるより、心身ともに力を抜いて感じてるだけにすると良いね。
>>547 まず、聞きたい気持ちは十分理解できるが
良い悪いはともかく、メソッドを絞ってないならそこで本来話は終わる。
背骨うんぬんのくだり、また他のチェック、試みは、インストラクションの中に確かにある。
助言があるとすれば、メソッドにのっとってやるのであれば、
音声、ティーチャーともに口を酸っぱくして言う通りのこと
-何かが出来る出来ないが重要でなく、感覚を使って
「平静さをはぐくむこと」それがカギ-
自宅ですることは、10日目に語られ、また古い生徒向けに記されている。
初級も上級もかわりない。
557 :
神も仏も名無しさん :2013/11/30(土) 20:50:16.38 ID:0zOspn8i
瞑想に何を期待するのだろうか? 魔法は存在しない。有るとすれば日常こそが魔法だ。瞑想は日常であり風呂に入るのと なんら違いはない。
>-何かが出来る出来ないが重要でなく、感覚を使って >「平静さをはぐくむこと」それがカギ- 瞑想はどの程度役に立つのだろうか? 初めて瞑想をする人は、驚異的な体験をするかもしれない。自分もそうだった。 慣れないことをするので身体がビックリしたのだ。慣れるとそんな体験はしなくなる。 瞑想に慣れると簡単に禅定に入ることが出来るようになる。 禅定とはトランス(変性意識)だ。 トランスにはいろいろの種類がある。ウーロン茶で気持ち良く酔っぱらうのもトランス。 阪神タイガースを陽気に応援するのもトランス。サッカーで熱狂するのもトランス。 女装してウットリするのもトランス。 集会で懺悔して涙を流していい子ぶるのもトランス。 多くのことを体験すると常に平静でいられる。突然肛門にキュウリを突っ込まれても 平静であるためにはやはり経験がものを言う。 ところで瞑想とはトランスであり、ある種の酔狂である。だから気が大きくなって チマチマしたことは気にならなくなる。大言壮語もへっちゃらだ。 「俺は既に死んでいる。なにがおころうとヘッチャラだ」とか、そういう訳のわからん ことを口走るのもある種の擬似体験にはなる。これが「平静さをはぐくむ」ことになる のではあるまいか? 早速瞑想して肛門にキュウリを突っ込むイメージでもしてみてほしい。何かの役に立つ はずだ。
559 :
神も仏も名無しさん :2013/12/01(日) 10:27:40.63 ID:W9Iu24XB
>スッタニパータも「悟り」だが般若心経も「悟り」だ。道元の正法眼蔵もまた「悟り」だ。 読んではみたが小学生が書いたような文章なのでビックリする。こんな文章でも 当時のレベルでは十分こけおどしにはなったのだろうな。 プラトンなどと比較すると月とスッポン、愕然とするような文章力の違いを感じるのだが、 必ずしもインド人のレベルが低いということは無いだろうから、彼らの感覚というのは 面白いものだ。 つまりは酔っぱらってるのだろうか?
それはお前のレベルが低すぎるからだ。 西洋哲学はずいぶん凄い物のように見えるが中身は大した事ない。 西洋哲学が1000万ページかけて説いたところで中庸と金剛般若経のわずか30ページに遠く及ばない。
仏教は実践だから、経典読むだけじゃあかんのよね。 修行しないとわからない記述はいくらでもある。
読むだけじゃ解らんのは西洋哲学だっておなじだよ。違いは文章のレベルの話。 程度の低い文章だということ。人間のレベルが低いとか修行のレベルが低いって ことじゃない。 ただ文章のレベルは低いし拙い。何故なんだろう?
元々は口伝で、歌だったものを文章化して、さらに日本語に訳したからだよ。 和歌を英訳するとJPOPみたいになるで。
>>562 日本語訳(岩波文庫)とかじゃなくて?
偉そうな飾った文章を書くことで、賢そうに見せようという意図ばかりが透けて見えて
肝心の内容が全然なパターンの。
>>562 もう少し補足してください。
「読むだけじゃ解らんのは西洋哲学だって同じ」というくらいだから
ここでいう「程度の低い文章」というのは、内容の精緻さではなくて
美文・名文ではないという意味?
だとすれば、そもそも言葉の美しさに重きを置かない
というより、あたかも概念に対応する実体があるかのごとき認識の錯誤を
生じさせる言葉への不信を問題(のひとつ)とする仏教に
美を求めるのがそもそもナンセンスだと思いますけれども。西洋哲学は知りませんが。
瞑想しようよ。
>565 どれほどのレベルの違いがあるか比較してみたら? 中国経由の仏典なんて滅茶苦茶だよ。読んでいて恥ずかしい。まあトラック何百台分もあるので 誰も全部読んだことは無いと思うがね。襖の下張にでもした方が好いと思う。 字が汚くても頭のいい人はいる。文章が下手でも頭の良い人は偶にいる。 でも字が汚いと普通は性格に何らかの欠陥があるよ。オッチョコチョイとかせっかちとかね。 文章が汚いというのはもっと本質的なところの問題になるのでかなりの確率で問題を抱えている と思うよ。
人間的に成長すると立ち居振る舞いも無駄が無く美しくなるし、字も綺麗になる。 文章も意味が良くわかって簡潔で美しいものになる。そういうものだと思うけどね。
文章を読んで、汚くて問題があると思うという感想←全部主観。 きれいな文章が読みたかったら、クルアーンをアラビア語で読んでいればいい。
ID:7dQPJIyKの文章が簡潔だとも美しいとも思えないんだが・・・ いやみで冷笑的で優越感に満ちてはいるよね。
地橋本の熟読とある程度の在家瞑想したが次のステップをどうすれば良いだろう。 @他のヴィパッサナー瞑想の本を読む A中村元の本でも読む B原始仏教の経典を読む C瞑想会に参加してみてヴィパッサナー瞑想をする上で疑問になったことでも偉い人に質問してみる など考えてますが?皆さんのお勧めを教えて下さい。 あと、グリーンヒルで売ってる教材ってどうですか?
572 :
神も仏も名無しさん :2013/12/10(火) 09:55:37.63 ID:/9RnvlkA
D さらに瞑想を深める
573 :
神も仏も名無しさん :2013/12/10(火) 13:12:12.90 ID:Dv+QI81B
コンサル星人必死だな
ラベリングの言葉がサティに追い付かない場合は目、音、圧などのラベリングすべき言葉を「パッ、パッ、パッ」と意識すればいいですか?
>571 瞑想を止める。そうすると新しいエネルギーが入ってくる。 止めなければ古いままだ。瞑想であれ、聖書であれ蓄えた物は腐っていく。 それらは既に消化され残っているのはウンコ。
570,572,573,575これらはベテランばかりだ。 分類すると固いウンコと柔らかいウンコとに分けられる。
>>571 こういう事を掘り下げてやって行きたいなら、地橋さんは良い先生だと思う。
が、であるがゆえに、性格的にちょっと面倒くさい人だとも思うw
>571 そんなのは惰性でやってるからだよ。実際のところウンザリで飽きてるのさ。 でも「瞑想しなければならない」と思ってる。そうこうしている内に引っ込みが つかなくなる。なんせ10年も瞑想して何にもなってない。何にもならんのだよ。 実際何にもないのだから。 しかしそんな無駄骨を折ったとは認めたくない。なので 「瞑想は素晴らしい。だから一所懸命にやらなければ」 と無理やり納得する。 そもそも迷いが出るなんてのがおかしいとは思わんか? 瞑想が素晴らしいものだと したら、迷いなんて絶対に出ない。ただ突き進むだけだ。 下らん事はサッサと見切りをつけて止めなさい。
っていうか、あの人は楽しいから続けたいんじゃないの。知らんけど。 あんななにげないレスによくぞここまで妄想爆発させて反応できたと感心する。
581 :
神も仏も名無しさん :2013/12/13(金) 12:11:07.17 ID:c6jLDYvA
まぁ、自己紹介ってやつでしょう。
瞑想はいったい何を目指すのだろうか? 悟りとは何だろうか? 悟りに向かっていると 感じている人はいても悟りを知っている人はたぶん一人もいないだろう。何処まで行けば 悟りなのかも想像できない筈だ。そもそも終着点などあるはずがない。にも関らず方向性は 間違っていないと言えるのだろうか? 終着点が無いのに方向性が決まる筈もない。 ともかくも瞑想は修行だ。修行をすれば何かが変わる。では「漢字を覚える訓練」と 瞑想は何が異なるのだろうか? どちらがより効果が高いのだろうか? 効果に違いが あるのだろうか? 漢字を知らないというのは多くの場合は知っていても書けないことにある。つまり読めるが 書けない。ところが意識的に書くことを前提に覚えるようにしていると、書ける字が増えてくる のはもちろんだが、覚え方も上達する。出会った漢字も一瞬で記憶できるようになる。 同時に形状にも敏感になるので字も驚くほど綺麗になってくる。均整のとれた美しい字が 書けるようになる。すると当然性格にも反映する。字に対する観察力が上がれば物事に ついても観察力が増してくる。オッチョコチョイに性急に判断していたようなことも落ち 着いて判断できるようになる。とこのように漢字を覚えることは人間形成に大きく役に立つ。 別にこれが将棋の練習であっても同じように様々な影響と変化をもたらす。 では瞑想はどうだというのだろう。瞑想の一つの特徴は変性意識だ。変性意識を過大に 評価する人がいるが、集中や解放感、快感など一定の評価はできるが酔っぱらうことと それほどの違いはないと思う。むしろ素面の方が悟りにちかいだろうし、瞑想と悟りは あまり関係ないとおもう。実際に悟りに近いと自称する人々は変性意識は悟りとは違うという。
瞑想の効果が言われる。確かにそれはそうだろう。しかしそれは瞑想そのもの効果ではなく 訓練一般の効果だろう。瞑想だから特別ということはない。瞑想の中に訓練として組こまれた 練習の効果だ。瞑想として写経をやれば当然字が上手くなる。瞑想として計算をやれば 計算力がアップするし、事象の切だし(サティ)をやっていれば事象の切だしに素早くなる のは当然だ。もちろんサティに必要となる観察力もアップする。サティをやれば絵が上手くなる。 でもこれは逆の訓練であって、絵を書く訓練をする方が観察力を上げるには効果的だ。 「よく見て描く」というワークショップを一度受けたことがあるが、たった2時間で 驚異的に観察力が上がり絵が上達した。要するに「細部を良く見る」コツが呑み込めたのだ。
絵を描く訓練では思考は止められないが(描いてるときは別として)、サティの訓練なら思考を止められ、己を理解、客観視でき、またいつでも出来るから仕事でストレス感じる局面とか役にたってますよ。 ヴィパッサナー瞑想にゴールは無いとは思いますが、それは人格の形成や人生にゴールが無いのと同じだと思います。 いや、全ての物にゴールがないから原始人の頃からある衣食住でさえも日々進化を遂げてるんじゃね? まぁ、ヴィパッサナー瞑想もとうの本人が楽しんだり納得してりゃいいんじゃない? 私も変性意識まんせーのサマタは現実逃避の側面はあると思うお。人間はやっぱり現実に生きなきゃね。瞑想もいいけど現実に人と関わったり働いたりすることが大事だよね。 あと、あなたの書き込みほど無益なものは無いと思うけどね。あなたにとってもまわりにとっても。 って貴重な休日を何してんだ…
反応系を変える作業をしてるんですがお勧めの方法や本はありませんか? 地橋本では「一切煩悩経」と「削減経」で具体的な方法が書いてあるとありますので取りあえずそれを実践すべきですかね? あと、恐縮ですが原始仏教の考えは現実社会で働く身としては周囲の意見とそぐわない点も多いので反応系を変える際に原始仏教以外の考えを盛り込むのもいいですか? 例えば有名どこだと7つの習慣とか社会人としても人としても現代向きですし、反応系をそのような自分の任意で選んだ本や考えにしても問題ないですか?
586 :
神も仏も名無しさん :2013/12/15(日) 16:17:03.38 ID:ZU92/Eym
コンサル星人必死だな
NGの刑に処する
>585 それは問題だ。そもそも無礼だろ。罰が当たるぞ。
>>585 仏教の本道は出家隠遁なので、
社会で生きる事にはそぐわない事が多々あるよ。
自分にとって必要な所だけを取捨選択するがよろし。
Sun、法話中に会場内で乳児が泣いててうるさかったわー ウェーサカとかのイベント事ならまだしも、 お勉強の要素の時は、どうにかして。
>590 仏教の法話だとその餓鬼を確か川に放り投げるんだよな。
あ、俺もその話うるおぼえだった。放り投げるかはわすれたけど やっぱあったよね。なんてなまえだっけ経典? 記憶では、母ちゃんが説法聞きに行って、乳飲み子がないてうるさいので 大事な説法聞いてる他の人に迷惑かけたらダメだって、 説法してるところから離れたとこに子ども置いて、自分は説法きいていたら 子どものとこに戻ってきたとき、へびがどうこうじゃなかったっけ? なんか、2つ混ざってる気もするけどw 教訓としては、それくらいブッダ説法は貴重で、邪魔をするのもよくないみたいな感じ。
うるおぼえ・・・とほほ
))593 うわ的を得た指摘だね。 オレもmjdうるおぼえだと思ってたわw いいふいんき(←なぜか変換できない)壊してゴメン。
596 :
神も仏も名無しさん :2013/12/21(土) 15:57:09.29 ID:DUVb2l0a
}}595 別に壊れてないよ
↑ここまでテンプレ
悟りについてイロイロ シュミレーションしてみたけど、 日常は「ある」もしくは「いる」を保つのをキープするのがいいのん
瞑想って八正道の最後にちょっとつけくわえてあるだけじゃない? あんまり重要じゃないってことだよ。
600 :
神も仏も名無しさん :2013/12/22(日) 21:53:28.91 ID:dWt/VW/U
>>598 禅すなぁ
でもその‘ある,を「して」しまったり、演じてたりしてしまうです。
プッ。あるもんはあるの。馬鹿じゃね。
シュミレーション・・・とほほ
603 :
神も仏も名無しさん :2013/12/24(火) 07:13:38.14 ID:CqwTuO6j
瞑想初心者です。瞑想をしてもうまく集中できないので今は慈悲の瞑想だけをやっています。 人を嫌ったり人に嫌われたりした時に慈悲の瞑想で心を整えると、 素直に相手を受け止めたり自分を表現したりするのが普段より少しはやりやすくなるみたいです。 でも、しばらくするとまた心が汚れてくるみたいなので、暇さえあればなるべく慈悲の瞑想をやっています。 ちなみに、ネットのどこかで見た動画だと節をつけて歌っていましたが、よくよく調べてみると 声を出す必要はないみたいなので、頭の中で慈悲のフレーズを唱えています。節もつけていません。 他にもいろいろネットで調べたんですが、慈悲の瞑想は心を込めて念じるとのことでした。 ところが、心を込めようとするとかえって疲れてしまって、優しい心が深まるどころか嫌な気持ちに なってしまいます。だから今のところは、心を込めずにひたすら頻繁に唱えるようにしています。 この先慈悲の瞑想が深まって、心を込めて深く慈悲の瞑想ができるようになったらいいなと思います。 先日、スマナサーラ長老の『忘れる練習・記憶のコツ』を読んだら、慈悲の瞑想してから勉強すると 簡単に覚えられると書いてありました。やってみたところ、書物に書かれていることがいつもより 少し目に入りやすく、心に入りやすく、感動しやすくなった気がします。 それから、私は心身が弱くて慢性的な疲労感や憂鬱感があります。体調の波もあって、ちょっとした ことでダメージを受けてしまいます。つらいですが慈悲の瞑想をすると少しは精神面でましになることが多いです。 これからも慈悲の瞑想を続けることで、落ち着いた心を身に付けられたらなと思います。 生きとし生けるものが幸せでありますように。
たしかに余り心を込めようとすると、なんていうか「愛する」モードになって難しい すべての生命を「好き」になろうとして苦労してるって感じ(個人的な感想)
慈経を読んでみたら、仏教の慈悲のニュアンスがどういうものか 掴みやすくなるんじゃないかな。
まず自分が瞑想でいい状態になってハッピーならば人の幸せを願うこともたやすいだろうし、逆もまた真なりって事なんだろうけど難しい。またまだ未熟です。
>>604 です。アドバイスに従って、慈経の和訳テキストを探しましたが、
http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html 予想よりはるかに短いんですね。なるほどこれを何度も読んでニュアンスを心に刻もうと思います。
慈経に興味を持ってスマナサーラ長老の『ブッダの「慈しみ」は愛を超える』も買いました。
慈経の言葉をひとつひとつ詳しく解説した本です。まだ読んでいませんが、
タイトルにもある 愛 < 慈悲 という構図が
>>605 のこととも関連するのかなと思いました。
自分がハッピーなら人の幸せを願いやすいのに、というのは確かに思いました。
そんな折りに、スマナサーラ長老の『不安を鎮めるブッダの言葉』を読んでいたら、
4章の「さまざまな慈悲の実践」に、あえて1時間もかけて真剣に慈悲の瞑想するのだ、
丁寧に念じることで慈悲の心が刻まれるのだ、といった実践例が書かれていて感銘を受けました。
私はいつも5分、長くても10分しかかけていませんでした。
また、「念じる時は節をつけるのが普通」とも書かれていて正直戸惑いました。
節をつけたほうが気持ちが入りやすいのかなと思いますが、どうしたら良いか分かりません。
早速検索してみたらYouTubeに節のついた慈悲の瞑想の動画がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=HRysI_uwTkU これに合わせて慈悲の瞑想をやって節を覚えようと思います。
それから、たしか同書の別の箇所にまず「私」に対する慈悲の瞑想のパートで
慈悲の心とはどんな感じかじっくり確認するとあって非常に参考になりました。
なるほど、「私が幸せでありますように」云々の気持ちを保ったまま、好きな人、
嫌いな人、嫌われてる人、生きとし生けるものについて祈れば良いんですね。
この瞑想に限ったことじゃないけど、正しいやり方はこうだと主張するのがいくつもあって迷う 近くに瞑想指導するような場所もないし、一体何を基準にやり方を選べばいいんだ・・・
とほほ
>>610 東京、名古屋、大阪、もしくは京都まで
4時間以上かかるとこなのか?
613 :
神も仏も名無しさん :2013/12/28(土) 16:47:13.12 ID:AxNFNO22
>>610 誤解されやすい言い方かもしんかいけど、自分の感覚を基準にやればいいんじゃないですか?
権威やお墨付きから離れるのも瞑想ですよ
経典に準拠してるかどうかで判断できる。 それは正しい道を指し示す道標であって、権威主義とは違う。 というか、そもそも 経典に依らない、つまり仏陀の教えに依らない仏教などあり得ない。
最近はじめたのですが、気づきと雑念と呼吸の集中のバランスがよくわかりません。 必ずどれかに偏って、一々呼吸に戻そうとして四苦八苦している感じです。 とりあえず呼吸に集中し、雑念はただ観察し、気づきに気づき、徐々に呼吸に戻して行く感じで良いのでしょか? また、気づきは言語と感覚だったら、感覚でざっくりと捉えた方がいいのでしょうか?いつもどうしても言葉で細かく考えてしまって気づいたつもりになってるのかな?と思ってて。
>>615 雑念がわいたら気付いてすぐ呼吸に戻れば良いよ
すぐ戻れないのは観察ではなく「説明」しているからでは?
「言葉で考える」ことも「感覚で捉える」こともせず、ただ「存在を確認」すればいい
対象の性質を捉えようとしたらそりゃ時間がかかるし、断片的な観察になってしまって瞑想じゃなくなるよ
>>615 マハーシですよね。
雑念というのは、思考のことでしょうか。
だとしたら、「膨らみ、膨らみ、膨らみ」と言葉を連呼して
雑念を考えられないように、ラベリングで思考をいっぱいにしてしまうのが正解じゃないでしょうか。
瞑想対象(集中すべき対象)から意識が逸れそうになったら すぐに瞑想対象に意識を引き戻し、そのことを言葉でもラベリングして ラベリングは連呼して、雑念が入り込む隙間を無くしてしまうのです。
寒いと思考力が鈍る。だから暖房の無い部屋で難しい考え事とか計算とかを 練習する。そうすると思考を止めることが簡単に解る。 ぬくぬくした環境で思考を止めるというのは難しい。ラべリングなんて無駄。
雑念はスルー
疲れた時はもっと疲れるようにするとよく疲れが取れる。例えば風呂にはいるとかジョギングを する。これが疲れをとるコツだ。 思考には思考の癖がある。それをまったく異質の方法で取り去るのはできない。寧ろ思考を ドンドン加速していくと思考を止めようとする力が自然に強くなる。思考を加速できる人 思考に瞬発力のある人は無になる時間(まったく思考のない)も増える。 考えない練習(瞑想)をする人は多くは単に馬鹿になるだけだが、強く考える練習をする人 は無になることが自然に出来るようになる。 ラべリングが嵌るケースはあるが非常に限られている。だから普通は無駄だ。
「悟り」であれ、単に経済的に豊かになることであれ目的が達成できないのは何故だろうか? 目標がしっかりしていて迷うことなく10年の歳月を集中的に努力すれば多くの目標は達成できる だろう。しかし多くの場合は散漫になり流されて目標を見失う。だから達成できない。 「悟り」を本気で目標にする人などいない筈だ。そもそも「悟り」が正確に何なのかを知る人は 何処にもいない。「悟り」は不可解であり意味不明であり決して目標などにはなりえない。 漠然とした目標など決して到達できない。 「悟り」とは雑念に他ならない。
悟りとは、貪瞋痴を離れ、無常・苦・無我という実相を見抜くこと。 釈尊よって明確に定義されており、経典に書き記され、論書に書き記され 明確に定義されていること。 漠然としている原因はただ一つで、論評している人が実は経典すらろくに 読んだこともないまま評論しているせい。 それだけ。
>悟りとは、貪瞋痴を離れ、無常・苦・無我という実相を見抜くこと。 この中に計算力は入るのだろうか? 全く計算能力のない人が「貪瞋痴を離れ」た者と言いうるだろうか? それならば悟りに は計算能力は必須だろう。ではどの程度の計算能力が必要なのだろうか? 同時に瞑想で計算能力がアップするだろうか? まったくアップしないはずだ。 「実相を見抜く」には理解力が必要だ。理解力の基本は国語力だがそれは地道な基礎教育 によるのであって瞑想が大いに寄与をするとでも言うのだろうか? 悟りのプローセスには何らまともなメッソッドは組み込まれていない。だから10年を 費やしても、方向性も結果も何も得られない。基礎教育が9年で為し得る偉大な効果に 対してあまりにも貧弱かつ取るに足らないといえる。
625 :
神も仏も名無しさん :2014/01/02(木) 19:27:57.51 ID:HZbL07Ki
つまんないッス
瞑想やったことない人の意見だな。
>>617 「雑念を考えられないように、ラベリングで思考をいっぱいにしてしまう」
その解釈は、純粋なマハーシセヤド式とは違うと思うぜ。
悟りってヴィパッサナー瞑想中心に生きることじゃないでしょうか? 例えば、深い信頼関係のある者が亡くなった、机の角に足をぶつけた、苦手な人と仕事をする、子供が激高させるようなことをしでかした とかとか何があってもサティを失わなければ妄想と感情の嵐に巻き込まれることは避けられますが、 サティを入れることを手段としてするのではなく、あくまでもヴィパッサナー瞑想中心に生きることじゃないでしょうか。 お金だとか仕事だとか皆さん大事にしてる価値観や中心って様々ですよね。 お金が全て!妻が居なくなったら…家族にもし何かあったら…仕事に生きるんだ!人の迷惑なんか知らねえ。俺が楽しけりゃいいんだ! そうゆう価値観・人間性だといちいち一喜一憂しなければならないですよね! 金中心なら金のことで機嫌が変わり、 妻中心だと家内の顔色ばかり伺い、 家族中心だとかえって依存心ゆえの過干渉になって関係がこじれたり、 仕事中心なんてまあ仕事だしそれで人生スポイルするものでもないし(沢山壊れた人をみているが・・・)、 自分さえ楽しけりゃいい人間に限って本人は充実してないものだ。
もし、ヴィパッサナー瞑想を価値観の中心に添えればどうでしょうか。 ヴィパッサナー瞑想やってる人はそもそも上記のような考え方に依存しないでしょう。 ヴィパッサナー瞑想を通じて妄想せずに公正にものを見る視点が付いてるからそのような社会の罠を回避出来ます。まぁ何かあってもサティを入れればいいですし。 また、五戒や慈悲の瞑想を通じて人に迷惑をかけず、模範となるような人格を形成でき、外的な嫌な事柄(人を敵に回したり。賭け事、酒での失態などなど)も避けられるでしょう。 なにより我々にはヴィパッサナー瞑想者最強の武器であるサティがあります。(いい例えが見つかりませんでした。すみません。) 何があっても適切なサティが入れば収まるし、サティさえ失わなければ(勿論サティの技術自体の向上も必要ですが)もう俗にいう悟りってやつじゃないですか?
ヴィパッサナー瞑想中心に生きれば、慈悲の瞑想、五戒、サティなりを中心にものごとを捉え、それを人生観なり自分の色眼鏡にして(例:お金が色眼鏡の拝金主義者みたいな)生きることができます。 慈悲の瞑想や五戒を通じて立派な人格を形成できるし(またヴィパッサナー瞑想をする上での重要な土台ともなりますし)、 客観的、公平、公正な視点でものごとを見れます。 (人によってはヴィパッサナー瞑想を誤った風にとらえて過剰な自信や偽善、また、徳が高い、偉いとかの誇大妄想自己イメージを持ったり勘違いする方、人に対して見切りをつける方も居そうですが・・・あと、人に対して説教したりとか) また、何があってもサティを失わなければ妄想と感情の嵐に飲み込まれること はありません。 悩み、苦しみから解放されるのです。 だから悟りとはヴィパッサナー瞑想を手段や手法、行為で終わらすのではなく、人生の中心に添え、最も大切な価値観にすることによってサティを失わないようにすることではないかと思いました。 サティを失うことなく、怠らずに修行を完成させるのは勿論ですが、ヴィパッサナー瞑想中心を中心として生きていきたいと私は強く思いました。 余談ですが、ヴィパッサナー瞑想は続けるほど上手くなるし、心の大掃除もできるし、七覚支の喜、軽安、サマーディー、捨などのレベルを維持できるようになれば己も幸せで気持ちいいですし、(溺れないようにはしていますが) ヴィパッサナー瞑想を己の中心にするだけではなく、ライフワークかつ最高 の趣味にしたいとも思いました。 何事も経験や積み重ねですものね。 ベタウチの拙い長文すみませんでした。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
632 :
神も仏も名無しさん :2014/01/06(月) 17:39:05.70 ID:rUDiUIOj
こっくり必死だなw
>>609 のレスで講話の動画が沢山公開されているのを知りました。
>>609 さんありがとうございます。
家に居ながら無料で講話が聴けるのは素晴らしいことですね。
634 :
神も仏も名無しさん :2014/01/07(火) 17:51:39.48 ID:7OlyUAg6
>余談ですが、ヴィパッサナー瞑想は続けるほど上手くなるし、 そうかー? 疑問だ。 客観的評価がまったくできない。主観的にも「素晴らしい人格者だ」と思うような人を見たことが無い。 碌でもないやつはたくさん見てきた。W
635 :
神も仏も名無しさん :2014/01/07(火) 19:01:30.00 ID:WZm7ePCJ
瞑想のうまさと人当たりの良さ度量の大きさは別物でしょ。 瞑想は修練を積めばうまくなる。ただそれだけ。
>>634 そう?上手くならない?
厳密なサティが入り集中が増し、雑念、妄想に囚われにくくなるし、それ自体も観察できるようになるし、適正なサティがどんどん入れられていくようになる感じは個人的にはするが。
まぁ、ヴィパッサナー瞑想はホントに他人と比べようがない事だから瞑想を積み重ねていく上で解釈が異なることは間違いないが。
で、碌でもない奴を沢山見て来たのは何となくわかる。
若輩者ながら恐縮ですが、ブッタのダンマに囚われすぎていたり、世界が狭くなってることもあるのでは?
何より、社会的なものを絶ってる人が多そうだし、社交的、人からどう見られるか気にする、立ち振る舞いの部分に関して労力を注いだりする人が少ないだろうし、そういった面に関して客観的に成れない人が多いのでは?
まあ、現実は嘘やお世辞、建て前で生きなければならないことも多々あるし、ヴィパッサナー瞑想に馴染まない部分も多いでしょうしね。
私は市議の知り合いが居るがあの素晴らしい人格者の表面と部下を怒鳴り散らす裏面は鮮烈であった。
師匠はそんなことしないでしょう。
まぁ、確かに誤解を産むような書き方をしたしそこは反省するけど、嘘を付いたり、殺生をしない、慈悲心を養い、他人に迷惑をかけないという意味で「模範的な人」ということで許してくれ。
また、何より我々に大切なのは瞑想の実践だ。
先生だって何年間も座り続け、ヴィパッサナー瞑想の修行をし、指導者になったのだから、純粋に指導を仰ぎ、瞑想の上達に努めましょう。
あぁ、テーラワーダか地橋先生の合宿参加してぇ…社会人は辛いお。
まぁ、瞑想、人間性(人からどう見られるかという意味も含めて)にも共通しているのは経験を積み、客観的に適切なものを選択し、耐練や向上を怠らないことだよね。全てのものに共通して言えるのかもしれんが。 またまた駄長文すみません… こんな2ちゃんの書き込みより瞑想に力を入れます。 このスレの皆様に悟りの道が開けますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように
640 :
神も仏も名無しさん :2014/01/08(水) 06:03:04.71 ID:Ev+N7ArR
641 :
神も仏も名無しさん :2014/01/08(水) 07:41:36.03 ID:u+AYGeut
瞑想って思うほど汎用性はなくて、単にトレーニングの一つじゃないの? かなり部分的なものじゃないのかなとおもうよ。 ある種の瞑想が記憶力アップや創造力のアップに効果があるというのはあると思うが 記憶力をアップするならそれなりの効果的方法があるし組み合わせるべきだと思う。 「5戒をまもらないと瞑想は深まらない」というのは、つまりは瞑想は構造的に やった方がいいということを意味すると思う。 集中は構造的に集中した方がいい。 これは当然だよね。勉強の環境が悪いと集中なんてできない。集中できる環境を 作る方が大切だともいえる。環境がチャンとしていれば自然に集中できる。 学生時代に殆ど同じ学力だったのに、一方は東大に入り一方は2流の大学にはいると 4年間では歴然とした差ができる。というようなことも普通にありうる。 だから 「5戒をまもらないと瞑想は深まらない」というのは、意味としては間違い というか不正確なんだが実質的、現実的にはあってる。 実質が合えばいい。結果オーライ。こういう考えかたはあまり良くないと思う。宗教や 瞑想にはこの「結果オーライ」の考え方が蔓延している。機序が曖昧。
642 :
神も仏も名無しさん :2014/01/08(水) 07:49:34.55 ID:u+AYGeut
で何となく瞑想をしていれば、なんかいいことがありそう。皆が良いっていってるから 自分もやってみよう。みたいな感じで厳しく批判しないから、いい加減な考えが蔓延する。 このいい加減さの積み重ねは大きい。
サティだ。ビパッサナだと無暗に集中しようとしてもうまくいかない。楽に構造的に集中 するならそういうツールを準備したり体制を調えるのがいい。 1)日記をつける 2)作業日報を細かくつける 3)発想ノートをつける 4)時間を決めて本を読む まあ昔は鉛筆も紙も無かったわけで仕方がないが、なんでもある現代ならこういうものを 利用してそれを生かすような集中を学んだ方がいい。 仏陀の意図は、「瞑想はだめだ」ということ。少なくとも「瞑想だけではだめだ」 というもので、従来の修行者が瞑想(サマタ)にこだわっていたのを否定している。 「トランスはやめよ。目を覚ませ。」それがビパッサナだ。 サティやビパッサナは瞑想ではない。 サティもビパッサナも魔法でもなんでもない。特別な言葉を使うだけの具体的な実質は なにもない。サティというのは 「シツコク観察してみろ。そうしたら解ることがある」 その程度のメッセージだ。
サティだ。ビパッサナだと無暗に集中しようとしてもうまくいかない。 →無暗に集中することに関して言っていません。 集中力が散漫になっていたとしてもそれを事実としてありのままに認識する、それがヴィパッサナー瞑想かと。 楽に構造的に集中〜学んだ方がいい。 →集中力を養うことではないです。むしろサマタで集中力を養ってからヴィパッサナー瞑想にかつては移行していました。 だからヴィパッサナー瞑想は集中力を養うためではありません。 仏陀の意図は、「瞑想はだめだ」〜「トランスはやめよ。目を覚ませ。」それがビパッサナだ。 →ここだけは正解に近いと思う。むしろ正解かな。 サティやビパッサナは瞑想ではない。 →ヴィパッサナー瞑想はサマタ瞑想ではない、が正しい日本語かと。 サティもビパッサナも魔法でもなんでもない。特別な言葉を使うだけの具体的な実質は なにもない。サティというのは 「シツコク観察してみろ。そうしたら解ることがある」 その程度のメッセージだ。 →根拠は?ヴィパッサナー瞑想をブッタは悟りに至るための最重要なものと説いているはずだが。 では質問ですがブッタが伝えたかったことって何なのでしょうか? また、643様はどうするのが悩み、苦しみが少なかったり、より幸福だったり、充実した人生がおくれるか若輩者の私に是非ご享受していただきたいです。
嫌味にも取れなくもないな
>また、643様はどうするのが悩み、苦しみが少なかったり、より幸福だったり、充実した人生が >おくれるか若輩者の私に是非ご享受していただきたいです。 悩みを悩み、苦しみを苦しみ、喜びを喜べ。 悩みをビパッサナし、苦しみをビパッサナし、喜びをビパッサナすると人生が ビッパサナで台無しになる。
今まで、雑念や思考をラベリングしないで感覚を感覚でザックリとらえる方法で瞑想していました。心の中を、ふふふって感じの穏やかさで満たしながら。まさに受け入れるって感じで。 今回新しく、言語化してラベリングする方法を試してみました。 我慢できず、発狂しそうになるほど辛いです、、、。 身体のかゆみとか、わずかな雑念すら、ラベリングしただけでどんどん増幅されて、忍耐がききません。 まだしばらく続けてみますが、ラベリングだと受け入れている感じが全くせず、何か突き放しているように感じるのですが、何か間違っているのでしょうか?
648 :
神も仏も名無しさん :2014/01/11(土) 08:15:40.83 ID:IwbMOHhs
向き不向きもあるんじゃない?ラベリングについてのイメージとか。俺も言葉で片付けちゃってる感というか否定ぽくなって、マインドフルネスって感じがしないからラベリングやってない。 まぁ、うまく出来ない
649 :
神も仏も名無しさん :2014/01/11(土) 08:30:19.61 ID:C7SxOUDj
>従来の修行者が瞑想(サマタ)にこだわっていたのを否定している
http://youtu.be/pTKe9_cIa2A でもこの動画シリーズでは、
「サマタ、ヴィパッサナーの区別は元々なく、
ヴィパッサナーと呼ばれているものは全部最初はサマタで、サマタで禅定を
作ってからでないとヴィパッサナーはできない」と鈴木一生さんが言ってるけどどうなの?
650 :
神も仏も名無しさん :2014/01/11(土) 21:35:00.16 ID:WlZkYyPu
兜率天の弥勒菩薩が仏陀になるまで、4億3千年まで待つしかない
弥勒下生は56億年後らしいが、それだけ救いは程遠いということだ
652 :
神も仏も名無しさん :2014/01/12(日) 10:14:31.45 ID:OHKjxDjR
>649 これは凄くいいな。説明がまとまっていてよくわかる。9/10まで見たが面白かった。 次はないのかな。全部聞いてみたい。 このオッサンは騙されて50万の電気治療器を買ってしかも6000Vをかけたまま寝 て死にそうになるとか信じられんほどまぬけなんだね。 それだけに言うことは包み隠さず信用できる。 こういう人や動画に出会えるというのも縁だし幸せなことだよな。 >ヴィパッサナーと呼ばれているものは全部最初はサマタで、サマタで禅定を >作ってからでないとヴィパッサナーはできない」と鈴木一生さんが言ってるけどどうなの? オッサンの言うとおりじゃないかな。俺のは鼻糞ほじくりながらかんがえたことだし すったにーぱ?をチラッと立ち読みした程度しか知らんからな。第一あんな古代の レベルの低い文章はアフォ臭くて退屈で読めん。WWW オッサンが言うように集中して2,3か月の修行をすれば初禅(ニミッタをつかって集中 できる)レベルになるというのは自分のトレーニング感覚と一致している。 俺も禅定に入るのは1週間のレッスンでマスターしたがその後はチンタラやってたので光 とかは見えんな。ここまでくるとかなりちがうのかもしれん。 自分はそもそもアナパナはやってなくて只管打坐だけなので光が見えるタイプとは違うのかも。 逆にチャクラの開放だとかはよくわかるし、第三の目が額にあるというのも何となくわかる。 入門としては只管打坐系とフォーカス系と2種類あって、アナパナはフォーカス系だな。 仏陀もこの方法だった。 アナパナを2,3か月やれば初禅レベルにはなる。(間抜けなオッサンの場合は6か月くらい) 初禅で第3の目が開く切っ掛けが掴める(超能力の入口)ということかな。 でもこのオッサン心臓が悪くてクスリをのんでるんだろ。第三の目で自分の内蔵も他人の 内蔵も観察できるようになるといっているが、今病気をどんなふうに観察してるんだろね。
サマタは古い。いまはビパッサナだ。 いやビパッサナは間違い。やっぱりサマタだ。 こういうのを歴史は繰り返すのだろうな。歴史の中身を洞察すると間抜けなオッサン が見える。 仏陀の瞑想の基本はサマタ(フォーカス系)でこれは透視だどかの超能力開発に威力を 発揮する。この超能力を使って観察の精度を飛躍的に上げようというのが仏陀の目論み かもしれない。 古代にあって超能力という奇形にとどまることに疑問をもってより広い世界を覗こうと したところに仏陀の見識の高さがある。 しかしまあ現代なら超能力に頼らなくても世界を知る方法は沢山ある。 超能力を得たところで間抜けなオッサンは間抜けなまんまでこれを教育するのは瞑想 よりは小学校の方がはるかに優れている。
数日前にゴエンカさんの本を買って、 youtubeで葬儀のビデオらしきものもがあったのですが、 亡くなられたんですね。 「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法」の 原書か英語版だと思うのですが、具体的(詳細)な手法については 出てませんでしたが、簡潔でわかりやすい本でした。合掌。 とりあえず、経典とゴエンカ、グリクマン、グラナタナ、 テック・ナット・ハンなどの本やネットの情報を手がかりに、 少しずつはじめてみようと思います。
655 :
神も仏も名無しさん :2014/01/12(日) 17:18:56.54 ID:VZ6zZA9w
こっくり
サマタ瞑想やらなきゃ悟れないよ、という意見と いやヴィパッサナー一本でも悟れるよ、という意見対立がある見たいだけど ぶっちゃけ、どっちが正しいの? まぁ、どっちのやり方でも悟った人が出ていないというオチもありえるだろうが
657 :
神も仏も名無しさん :2014/01/12(日) 21:26:47.82 ID:M26XxVNz
658 :
神も仏も名無しさん :2014/01/12(日) 21:33:23.46 ID:M26XxVNz
6〜8ページあたりね。
本来お寺の住職になるには「悟る」ことが最低条件だった。これってなんなんだ? プッて思わんか? 「悟り」って認定基準はない。 「彼なら会社を任せられるから彼を社長にしよう。」とこんな感じだろ。なのでそれにふさわしい と思える人がいる場合もあるが、いない場合もある。 その時にはどうするのかというと「彼にやってもらおう。やりながら成長してほしい」 と願って認定する。 実を言うと「悟り」ってのは社長資格ではなくて社長候補の資格に過ぎない。だから 「君は悟った」と認定しても、それからの修行いかんによっては「だめだったなー」と なることも多い。 坊主社会の社長のことを住職という。
だから、生臭坊主の瀬戸内寂聴だってもちろん「悟った人」なのだよ。
身体的な病気で苦しいことがあるんですが、仏教では非生物(物品や事柄)に対する感謝(またはそれに近いポジティブな捉え方)はどう扱いますか? 病気については生老病死という言葉を聞いたことがありますが、これは無常の教えなので感謝とは違うのかなと思いました。 生物に対する感謝は慈悲の瞑想で扱います。慈悲と言って他の人を重視しますよね。では非生物はどうなんですか? 病気は非生物ですよね。だけど、蟻のような生き物と比べて私にとって大切な問題です。だから、慈悲の本を読んでいるうちに混乱してきたんです。。。 あるサイトを見たら精神病の方は合宿に参加できないとありました。別に仏教で病気を治したいわけじゃないですが、 病気の人は修行できないのかと絶望的な気持ちになったのと、仏教では病気をどう扱うのか興味を以前から持っていました。
>病気の人は修行できないのかと絶望的な気持ちになったのと、仏教では病気を >どう扱うのか興味を以前から持っていました。 無茶をいうなよ。仏教でなんもかも治るわけがない。仏陀だって腹痛で死んだのだから。 合宿に参加して意味があるというかふさわしいひとは ある程度の知性を備えていること 健康であること 仏教を志す人(ここが重要) 勉強なら大学に入る。病気なら病院に入る。あたりまえだろ。W
キリスト教の「聖人」となると認定は非常に厳しいのでとてもすごいことだけども 「悟り」は住職の資格程度だから大したことはない。ミャンマーでは700人の比丘の 内の毎年4,5人は悟るので、ある意味粗製乱造だ。 悟って更に修行を積んで世に出た人をみても例えば瀬戸内寂聴とスマナサーラとで どちらが上かというとそれは甲乙つけがたいし、実力者であるのは間違いないが どちらもかなり癖が強い。 ものすごい人格者かというと2chでもバリ叩かれるほどでそれほど抜きんでた人格者 というほどでもない。
664 :
神も仏も名無しさん :2014/01/13(月) 07:54:29.41 ID:sRFPp/py
>>663 >悟って更に修行を積んで世に出た人をみても例えば瀬戸内寂聴とスマナサーラとで
スマさんは学僧だから悟ってないっていう説も。
瞑想法あまり評判良くないし・・。
寂聴さんは知らないけれど。
>>664 瞑想法は「ミャンマーの瞑想」という本と大体同じで、マハシ流ですから
んで、肝心なのはその底本をさらに分かり易く解説しようとして日本テーラワーダ仏教協会でも本を出したわけです
神秘体験をしたがったり、誰かの上に立ちたくてエラくなりたいと思っているような人達にとって評判が良くないのはでしょう
神秘体験もしたくない。偉くもなりたくない。なら何で悟る必要あんの?
スマ氏は多く著作出したり、あちこちで講演や指導をしたりしているからな 疑問とかがあるなら、直接聞いたほうが早いんじゃ
668 :
神も仏も名無しさん :2014/01/13(月) 16:54:15.60 ID:mAL5wgHL
>スマさんは学僧だから悟ってないっていう説も。 長老だから悟ってますよ。悟りってそんなに難しいもんじゃないと思うよ。 ただトレーニング方法によって目指す頂上の様子は違う。だから道元の悟りと テラワーダの悟りは違うと思う。空海の悟りはまた全然様子が違う。 小浜の原田老師(もう亡くなったかもしれないが、、)ってのは道元の悟りに近い気がする。 南方系の場合に悟りってのは要するに超能力だろ。 「聖人の条件は奇跡をおこせること」これはカールヒルティの言葉で、宗教者は奇跡を 起こせるだけの超能力を持つべしというのがキリスト教では常識だった。キリストも超能力者 だったしそうなんだろ。 ただ超能力開発のメッソッドはキリスト教も禅も無くて、南方系やチベットにはある。 というか文明の発達したところでは超能力はいろいろ不都合が多いので削ぎ落とした。 それが現在の禅でありキリスト教だ。インドとか南方のレベルの低いところではそのまま 原始の形で残ってきた。
食欲や性欲をどうしようもない輩が、修行とか悟りとか、何かうわべだけのメソッドみたいなもんだな
670 :
神も仏も名無しさん :2014/01/14(火) 10:24:10.58 ID:N/buMxdr
相手の意見が気に食わないから、不確定情報まで出して貶そうとするのは意味がわからない 素直にあの人と私じゃ仏教の解釈が違います、でいいのに
と、いうかこれだけ瞑想方法がいくつもあって、日本でも何種類か学べるんだから 自分にあったのを選べばいいだけじゃ・・・ ヴィパッサナー系統はボランティアが無償でやってくれてるところが多いし
673 :
神も仏も名無しさん :2014/01/14(火) 12:44:36.64 ID:gegUMV0t
悟れる人はどの冥想でも悟れる、悟れない奴はどれでも悟れない。 ひとつの冥想を根気よくできないやつがコロコロと冥想方法を変えるのは、かえってよろしくない。 結論…どれでもいいからとことんやってみろ。 それでダメなら自分のカルマがその程度だったんだと諦めて、 来世にまた仏教に出会えるように善業をつめ。 と、最近はそのように思うようになった。
よろしければどなたか
>>661 の回答お願いします。
いろいろ自分で調べているのですが皆目見当がつかなくて・・・。検索用ワードだけでも教えて貰えると助かります。
675 :
神も仏も名無しさん :2014/01/15(水) 06:15:31.83 ID:voWrt4W9
>>674 >あるサイトを見たら精神病の方は合宿に参加できないとありました。
これは推測ですが、過去にその瞑想会に病気の方が来られて何かしらトラブル的な事があったのではないかと思います。
この法話↓の質疑応答のところにも書いてあるのですが、
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/sudhammacara.8.20.htm 「Q:私の友達でうつ病とか、怒りとかがすぐ回転してしまう人がいます。
そういう人にはどういう瞑想が良いでしょうか。
A:専門家の助けを必要とするような人たちには、こういう瞑想(アーナパーナ・サティ)は止めたほうが良いと思います。
きつすぎるのです。心がギュッーと煮詰まってしまうのです。」
とあります。
心が煮詰まってしまってしまっては瞑想どころではありませんからね。
676 :
神も仏も名無しさん :2014/01/15(水) 06:22:27.25 ID:voWrt4W9
>>674 >仏教では非生物(物品や事柄)に対する感謝(またはそれに近いポジティブな捉え方)はどう扱いますか?
これは個人的な事なので参考になるかわかりませんが、
基本的に仏教では執着(依存)は苦だと言いますよね。
ですから、私の場合、物品や事柄に宿った心や気持ちには感謝しつつも、
物品や事柄自体には執著しないように心がけています。
677 :
神も仏も名無しさん :2014/01/15(水) 08:07:48.74 ID:1F3pDCo+
>>661 病気に対して感謝したいということ?
病気に感謝する必要はないと思います。
生老病死は誰にでも必ず訪れます。
悟って輪廻から解脱しないかぎり、病気とも出会います。
しかし、同じ病気でも、煩悩が強い人は、無駄に悩みを増やしてしまいます。
過去や未来を妄想して、今・ここの痛み以外にさらに悩みを増やしてしまうのです。
それは賢い生き方ではありません。苦しみを増やすから。
678 :
神も仏も名無しさん :2014/01/15(水) 14:48:25.73 ID:c5fPLAs/
>>675 そういえば知的障害があっても無理と聞きました。
生物と非生物で何が違いますか?
>>677 ありがとうございます。
知橋さんはまだ解脱していないみたいだね。 昔のことで、テーラワーダ協会の瞑想会で知橋さんが指導していたころの話ですが、 瞑想会の後、食事会をしたのですが、そのときある人が「噂で聞いたのですが知橋 さんは解脱したそうですね」と言いました。 それを聞いた知橋さんは大笑いでした。 それを見て、ああまだ知橋さんは解脱していないんだなと思ったものです。 知橋さんのレベルでもまだ解脱していないとすると、凡人が解脱するのは相当に難し いと言うことになりますね。
横レスになりますが・・・
>>661 >>679 続きを読んでみてください
精神病の人も、歩く瞑想や日常生活に気づきを取り入れた実践などはできるとしていますよ
精神的に問題がないのなら、瞑想ができないという理由はありません
半身不随になっても、気づきの瞑想している人もいます。
>仏教では病気をどう扱うのか興味を以前から持っていました。
欧米では病気の痛みやストレスの緩和にヴィパッサナー瞑想が用いられたりして、実際の効果が見られるようです
(マインドフルネス・ストレス低減法)
個人的な意見ですが、仏教は苦しみを無くす為の教えなので
気づきの瞑想で病気の苦しみを減らせるなら実践すべきだと思います
大笑いの本当の意味は 「本気でそんなことをかんがえているのか? 頭おかしいんじゃない?」 ということ。 解脱しても何も変わらない。苦しみは依然として苦しみだし怒りはいつものように 襲ってくる。 ティクナットハンだって若い時は血の気の多い学生運動家で敵対する者に対して 「ぶっ殺してやる」と怒り狂ったのだ。一度でも発した怒りの言葉は宇宙全体に記憶 されて絶対に消えることはない。解脱などない。 文字通り人生をオシャカにするということであれば、それが解脱といえないことはない。 しかしそんなものはオシャカに過ぎない。
解脱はともかくとして瞑想をマスターしておくことはいろいろ良いと思う。 瞑想をマスターするなら合宿に参加した方がいいのではないか? 本で読んでマスター も出来ないことはないと思うが、1週間くらい合宿するほうが絶対にいいと思う。 肌で感じる雰囲気などがすごく参考になる。それに食事も違うので瞑想状態に入りやすい。 接心で一番印象に残っているのは食事だ。食事が非常に美味しかった。もちろん空腹を コントロールしているから美味しいのだがそれだけでもない。それとトイレの臭いが 全く違っていた。いい香りがしていた。多分排泄物が乳酸発酵しているんだね。 腸内環境が整うとホルモンの分泌が盛んになる。快感物質なども殆どは腸で作られている。 だから先ず「調える」のは腸。食事の量と質とタイミング。この三つを調えれば自然に 瞑想状態になる。坐る練習を幾らやっても環境が悪いとなかなかそのコツが掴めない。 良い環境で坐るとコツが掴める。一旦コツを掴むと環境づくりも巧くなるし瞑想にも簡単に 入れるようになる。 誰でも美味しい物を食べると快感だが、瞑想のコツをしっていると美味しさが全身に沁み 渡るようになる。満腹だとか、単に美味しいのとは全く次元の違う美味しさに浸ることが 出来る。空腹の快感も解るようになる。空腹も非常に気持ちいい。 食事の後のコーヒーも美味しいが良い食事の後ではきつ過ぎて快感を消してしまう。 一口含む程度で飲まないことが多い。 解脱などとあたまで考えないで、法をよりどころとする。法とは快感だ。
ラベリングって、自分の気づきを頭の中で言語化するってことだよね? するやり方としないやり方があるけど、これって具体的に効果に違いがでるの?
気付き自体が在る意味言語化だよね。自分は今はちょっと鈍いなぁって時にラベるwかな。
686 :
神も仏も名無しさん :2014/01/20(月) 17:55:37.05 ID:9etl4G4X
身・口(語)・意の三業でいうと、ラベリングは意業だけでなく口(語)業も使うということかな? そうすることで、口業まで管理下におき、勝手に頭の中でおしゃべりするのを制止させるのかな?
こっくり必死
688 :
神も仏も名無しさん :2014/01/25(土) 10:26:07.38 ID:7zvZw71A
タイ帰りの日本人僧侶がひろめてる手動瞑想も、ヴィパッサナーなの? ラベリングはまったくせず、その他の注意もかなり緩いみたいだけど
689 :
神も仏も名無しさん :2014/01/25(土) 23:33:40.59 ID:ETmyajbG
手の動きを観ることで、他の心の動きを止めれば、ヴィパッサナー。 立てる、上げる、降ろす、…、とラべリングすることもできる。
ラベリングはあくまで気づきの補助手段だから本質じゃない マハシ系の有名なチャンミェ・サヤドーも、 「もし本当にラベリングなしで充分に気づくことができるならラベリングしなくてもいいよ」と言ってるし (もちろん素人には難しいからしっかりラベリングしなさいという含みだが)
食事するとき結構な頻度で怒りの妄想が出るんだけど これはいったいなんなんだろ
不味いもの食うからだろ。どこでも坊主の食事は美味いよ。やっぱり瞑想で 味覚が鋭くなるんだろな。それと料理も自然と丁寧になるのだと思う。 俺も最近時々料理をするが不思議なことに美味いといわれることが多い。
不味いものは食べてないし食事内容に不満も無いのでそれは関係ないな
あんまり解釈せずに淡々とサティいれるしかないじゃろ
695 :
神も仏も名無しさん :2014/01/26(日) 20:38:24.58 ID:HP9rHK89
>>691 怒りの妄想っていうのは、
実際に体験した過去の嫌なできごとを思いだすの?
それとも、まったくの空想の中で怒る?
あるいは、起こりそうな嫌な未来を想定して怒るの?
実際体験じゃあない 空想未来w 普通に1人でご飯を食べてると 居もしない同僚女子社員が居もしない上司にセクハラされてる事を自分が知って怒ってどう解決しようとか 居もしない横柄な警察官にされもしない職務質問されて怒ってどう対処しようとか そんなわっけのわからない妄想がでる 座り瞑想のときにそういうの出て怒り。怒り。怒り。というサティして捨てたけど 1人食事のときはなんか瞑想してないのに気づくとそういう感じの妄想してたりする 病気か?それとも知らない間に瞑想状態なのかw 食事のときに怒ってると 怒り→食事の快感 が脳の回路に形成されて怒ることで快感につなげようとする性格にならないか ようはだだっ子というかDQN化するというか、そういうのがいやだなーってお茶を飲んで一息ついてから食事再開 ていうか座り瞑想のときにコレが出たときって「怒り」とサティいれて捨てちゃっていいのかな? それとももっと妄想の中で自分の気持ちを観察するべきなのかな でもそうするとモンキーフリップ?になりそうで捨ててるけど
人生というのは日々の些細な行動の積み重ねだ。この10分間に何をしたか、この10分間に 何を思ったか? その積み重ねが人生だろ。 仕事が充実していればそんな妄想は起こらないし、美味い飯を食ってる時にそんな妄想は絶対 に起こらないよ。 飯の所為じゃないと言うなら、「つまらん仕事をしているから」とか「つまらん人生を おくってるから」と言い換えても同じ。 不味い飯、つまらん仕事、つまらん人々、つまらん妄想、つまらん瞑想、そういうものの 集積がつまらん人生の中身なのさ。
つまらん人生を改善するのは簡単さ。一日のたった10分間でもいいから充実した時間をもつ ようにする。これで劇的に改善する。充実感を味わうには瞑想でも勉強でも仕事でも 良いけども、つまらん人生を送ってる人には多分どれも無理。だってつまらん瞑想している 人がそれで充実するなんてことはありえないだろ。 カバでもオットセイでもオスはみな喧嘩をする。喧嘩で充実する。どんな駄目男でも 大震災では目覚める。喧嘩や災害では生き生きと目覚める。戦争になると目覚める。 つまり怒りの妄想が出るのはこころの底から充実したいのだよ。 喧嘩にもっとも近いのはスポーツだね。10分間思い切り走ったら、間違いなく充実する。
純粋に技術としての瞑想を教えてくれるところって、意外とみつからないな あっても意味不明なほど金額が高いw 近場でイベントやってる仏教系団体のところいったら、なぜか政治や他宗教団団体の悪口ばっかり聞かされて辟易した オカルトっぽいことも言われたし(何かの比喩だったのかもしれんが)
700 :
神も仏も名無しさん :2014/01/27(月) 10:35:40.40 ID:Cf2eSese
スポーツマンの不祥事って異様に多いのはなぜ? それも一流といわれる人の。
701 :
神も仏も名無しさん :2014/01/27(月) 12:49:44.48 ID:7iEXrPnL
>>696 私だったら、そのようなときは「妄想」とサティを入れます。
で、一度「膨らみ」「縮み」で気持ちをリセットしてから、
食事の動作に意識をもどします。
>>700 それは、スポーツマンや一流と言われる人の問題ではなく、
あなたの関心(外界から取り入れる情報を選別するフィルタ
=あなたのろ過器)の問題だと思います。
瞑想(集中)は対象と自分が一つになること、
自己(主体)と対象(客体)との境界がなくなることだと言われています。
中性のもの(善悪、美醜、好き嫌いといった極性のないもの)はともかく、
自分がそうなりたい、そうなっても後悔のないものに
注意(意識)の焦点を合わしたいものですね。
「普段考えていることがその人である(普段考えているものにその人はなる)」 ということばは有名ですが、瞑想関連の書き物を読んでいると、さらに進んで 「注意を向けたものにその人はなる」といった趣旨のことばも目にします。
ヴィパッサナー瞑想をしてると意識が「空」に行くの?
>>699 まぁ瞑想教師にも生活があるからしょうがないだろう
空っていうのがどの宗教の解釈なのかによる
宗教ではなく某瞑想法で出てきた概念 空=無限の静寂=純粋意識=神
それが宗教ではない、という認識になる根拠の方を知りたい。 宗教ではない瞑想、宗教と関係ない瞑想ってのは、一般向けの売り文句であって 実際には宗教と無関係の瞑想なんて存在しませんと思いますけどね。
「宗教じゃないよ」という売り文句の背景に、どんな考え方があるかというと 「先進国の現代人はみんな、宗教はぜんぶ迷信、もしくはおとぎ話であると 考えており、現代物理科学で説明できることしか信頼しないし、安心しない。 だから、宗教色を消して、これは科学的なんだと言って宣伝しよう。」 という考え方が土台にある。 しかし、そこで宣伝される瞑想も瞑想法も、中身はヒンドゥー教か仏教から 持ってきたものであって、宗教色を極力廃したというだけのことでしかない。
しかし、勘違いして欲しくないのは、それが間違っているとか、姑息だなどと 言うつもりはないということ。 現代科学にも様々な立場があるが、現在、一般的に科学的であるといえば それは唯物論を前提とするものである。 従って多くの現代人は、心や精神、意識といったものは物質、もしくは物理 現象だけで説明できるものであり、肉体の死と共に消えて無くなるものだと 考えている。 それは仏教的には断見という邪見に基づく考え方であり、それこそが「迷信」 なのであるが、それが迷信だと分かるためには、どうしても自分自身で瞑想 してみるしかない。 だから、「科学的な方法です」といって瞑想を進めることは、間違いではない し、真に科学的であるのだが、ここで言っている科学は唯物論を前提として はいない。
仏教の「一部」では邪見だ、としているの間違い 死=消滅、という考えは初期仏教時代からある そういう「俺が信じているもん=正しい仏教」という発想はまったく科学的ではないな 科学は仮定はしても、証明できない限り断定はしないから
>>710 頭で考えた理論、(唯物論を前提とする)理論のみに基づく推測からは
そういう判断になるのは必然だろうけれども、瞑想してある程度のところ
まで行った人にとっては、推測ではないんですよ。
地球が丸いか、平らなのか。
知らない人同士は、論理を持ち出して議論するんです。
しかし、丸い地球を見た人にとって、そんな議論は意味がないのです。
>>707 インドのヴェーダの中にあった瞑想法だったかな?
マントラとヤントラを使って「空」に行く瞑想で、宗教っぽさはない
宗教色を消してこれは科学的だと言って宣伝されてるのかもしれないが詳しくは知らない
713 :
712 :2014/01/28(火) 19:25:33.23 ID:VDsoMEsm
でも「空」という言葉は仏教から取ってきたんだと思う その瞑想の創始者が仏教の寺でヒーリングの技術を習ってたみたいだから
小空経というものがあるよ
幸福や安楽を求めて、瞑想するのは動機としてお釈迦様の教えとは違うと思う。 アナパナサティの始まりは不浄観からくる精神的ダメージを和らげる理由で取り入れられたもののようだし
スマホが欲しいという欲望を消すにはどうすればいいの? その感情を観察すればいいの?
>そういう判断になるのは必然だろうけれども、瞑想してある程度のところ >まで行った人にとっては、推測ではないんですよ。 もうすぐ電車が来るで急いでいたら踏切の手前で信号がカンカンと鳴り始めた。 ところがやっと駅について時計をみたら勘違いでまだ5分も余裕があった。 あの鳴る筈のないリアルなカンカン音はどこから聞こえてきたのだろうな。 空耳だな。瞑想の中身は空耳と空目だろう。だから異常にリアルなんだ。 推測なんかじゃない。
>716 スマホを買えばいい。
サティとかヴィパッサナーとか、これだけ世に出てて、解説されてるのに、 悟った人があんまり出てこないよね・・・。 精神状態が改善したとか、その程度の人は出てくるけど、悟りを開いたって人は、 ほとんどいない。 考えられるのは、「サティ」や「ヴィパッサナー」を、単なる気分転換や、スピリチュアル的な 満足感を得るために、一時的に利用してて、毎日、どんなときでも工夫をしていない、 テレビを見るのもやめて、娯楽を中段して、ただもくもくとやってる人が、 いないからかもしれない。 もしくわ、現代のサティのやり方が、本当のやり方からすると、まだ足りないのか、間違っているか、 あるいは、やり方自体は正しいが、その人がまだ悟る時期じゃないというか、輪廻における修行の経験値がまだ足りない、 ということかもしれない。 いずれにしても、本気でサティをやって、悟りにつながる確かなものを得た、っていう人の 話を聞いてみたい。
悟りというものがどういう物か、定義がよくわからないから
悟りとは、この世界の否定であって決別することだと思うけどね
Wikipediaにいろんな定義の別々の言葉が日本語に翻訳されるときに 「悟り」だったか「悟る」だったかに集約されていると書いてあったのを みたことがある。 個人的には、「Die before you die.」のような意識の変容、 あの世にも、次の世にも生まれてこないような 因果律からも二元性からも外れることに通じる、 この世肉体をまとった状態での目覚めのことだと思う。
悟りの定義って、もういろんなところから悟りの話とか出てるから、 今の時代では、かなり明らかになってるよね。 だいたいまとめると、 もともとこの宇宙は・・・ 宇宙というか、「すべてのもの」 という言い方をしたほうがいいかもしれないけど、 それはただ一つのありのままの存在で、純粋な一なる意識なんだけど、そこに、仏教でいう「無明」によって、 幻想的な「個我」が生じた。 喩えて言うなら、広い海の中の、ほんの小さな水しぶきが、「自分」 という存在を確認した・・・ 本来その「自分」というのは幻想で、全体としての、海としての一なる全体存在しかないんだけど、 その一部分に「個我」が生じた。 個我の意識が強固になればなるほど、他と自という思考が強固になればなるほど、 肉体、物資というものが、完全にあるように感じられるようになり、 輪廻を繰り返すことによって、それらはいっそう強化された。 この個我は、一なるありのままの存在からはぐれているため、全体の動きについていけない。 たとえば、ここに個我的なものをキープしたいと思っても、それらは全体として刻々と変化しており(個我的な視点でみると)、 崩れる方に行ってしまう。 そこに苦が生じる。 個我の状態で世界をキープしようと思えば、その世界は、「一切皆苦」 となる。 悟りとは、そういう世界を作り上げてる個我を、幻想だと気づき、脱却して、 一なる意識というか、存在というか、そういうものに帰一するってこと。 帰一というか、幻想だと気づいた瞬間、それらが消えて、元からあるものを自覚できるって感じ。 だいたいこんな感じだと思う。
それで、個我的な思考から表現すると、その一なるありのままの存在は、 常に、瞬瞬刻々と変化しており、それを捉えることは、「今ここ」でしか出来ない。 ところが個我は、一なる存在から分離しているため、その瞬瞬刻々として変化しているありのままの一なる全体我を 覚知することが出来ない。 個我は「今ここ」に存在することは出来ない。 個我は、「今ここ」の変化に対する、二次的な反応の中に生きているといっていいかもしれない。 たとえば、叩かれたとする・・ 痛みが通り抜ける。 その痛みに対して、不安や恐れ、怒りといった二次的反応が、まさに個我の主体的な思考と言っていいかもしれない。 我欲というのも、「今ここ」の全体意識から離れた、二次的反応といえるかもしれない。 で、こういう二次的反応(個我)から離脱し、全体の一なる意識(今ここの世界)そのものになるためには、 ヴィパッサナー、サティといった、今ここへの気づき、が、手段になる。 禅は、静かに座を保つことによって、うずまく思考をありのままに観ずることが出来るようにし、 細かい日常の作法を決めることによって、日常の動作一つ一つに意識が向くようにしてる。 意識が「今ここ」に向いている時、欲望や、今ここから浮いている空想などは、 思い浮かんでる暇がない。 つまり、今ここに意識が戻ることによって、個我的な意識は活動できなくなる。 だから古来から、「今ここ」に意識を置くような修行法が伝えられてて、 現代でも、「今ここ」に意識を置く重要性が説れてる。 現代の心理療法でも、マインドフルネスなど、精神苦からの開放として、 こういう手段が用いられてる。 なので、悟りの方法としては、「今ここ」に意識を置く・・・ ということで、 間違いないと思う。
なるほど。でも指導者がいないと、できているのかいないのか分かりにくくて、難しそうだな…
726 :
神も仏も名無しさん :2014/02/02(日) 19:22:18.34 ID:hOaV34S4
>>725 「今ここ」に意識を置くって、それほど難しいことじゃないと思うんだよね・・・
だいたい言われてるのは、呼吸や、歩行、動作、今ここに沸きあがってくる想念の観察・・・
意識を置くってことだよね。
ただそれに気づいていればいいわけで、とくに複雑なことじゃないと思う。
個人で応用できるレベルだと思うね・・。
たとえば、机の上でペンをいろいろと動かしてみる・・・・
ゆっくりとした動作で、その動きに意識を置く。
置くっていうか、今ここのペンの動きに、意識が気づいている状態。
こういう意識の気づきが、一日24時間のうち、ほとんど続いているような状態・・・・
それが、悟りの修行にとって理想だと、思うんだよね・・・。
いろいろ調べてたら、こういうのが出てきた。
チャルーンサティ。
http://www.youtube.com/watch?v=gcBeC6Qdg9k これは笑ってしまったけど、手の上げ下げに意識を置く方法。
ようは単純なんだよね。
今ここから意識が離れているから、今ここを意識しつづけられるようにすればいいってこと。
そういう指導者がいればなおいいけど、一人でも、出来ないものじゃないと思う。
あんまりピンとこないなー。 意識的な観察をすることで「今ここ」という感覚が立ち上がるのは実感としてわかるが、 だいそれた「悟り」とはあまり関係ない気がする。心が自由になるとか、智慧が開くというのは 解るが、一つになるとか輪廻がどうたらはありえない気がする。
なぜ飛躍したり大げさに考えたり権威づけたりする必要があるのだろうか? 仏陀は些細なこと、些末なことを些末なままにとらえたと考えて何も問題ない気がする。 仏陀は自ら検証できないことに虚言盲信などしない人だと思う。
意のままに生きようとすること自体が意のままではないのだから、悟りというのは、無我夢中で生きている状態を指すのではないか。
仏道修行で意のままになるのは心であって、欲界のあれこれではない。 仏道修行で目指すところは涅槃であって、欲界で意のままに生きることではない。
精神だって同じじゃない?
仏道修行に無我夢中になっていたら、いずれ悟り、解脱、涅槃に達するはずだが 様々な欲望の対象に無我夢中になっていたら、輪廻を繰り返すことになる。
悟りは悟りではなくて悟りのようなもの、解脱は解脱のようなものであって 解脱なんてないよ。それは悟りを開いたらいずれ解ると思う。 修行は筋トレと同じで、普通の人に比べて驚異的とも言える能力を獲得できる こともあるけれども「人間」を超えることはできない。
735 :
神も仏も名無しさん :2014/02/04(火) 08:05:53.33 ID:i3zyAPsz
悟りとは、煩悩が消えていくこと。 煩悩のリストは悟りのリスト。
736 :
神も仏も名無しさん :2014/02/04(火) 12:24:57.95 ID:i3zyAPsz
>>723 悟りについて、個我うんぬんという説明は、
有身見という煩悩が消えることに該当する説明ではないでしょうか。
で、煩悩は有身見だけじゃないから、悟りはそこで完成ではない。(まだ他に煩悩は残っている。)
日本の僧には、有身見が消えた(個我から離れた)ところで悟りの完成だと思ってる人が多いのかも。
でも、そこをゴールにめざしてしまうと、梵我一如や煩悩即菩提などの誤った着地点になっちゃう。
日蓮系なんかも、梵我一如の亜流だろう。
あるがまま、バイアスのない透明な眼で世界を感受する。 これが果たして悟りなのだろうか。 記憶喪失になれば、何も考えないし、煩悩もまったく湧いてこない。 記憶がなければ、善悪・苦楽・美醜などの判断ができない。 悟りとはボケ老人のことか。
案外とあたっているかもしれない
三脚の上に立てたカメラが、ぐらついていたら、映像が乱れてあるがままに 映し出すことはできない。 まず、ぐらつきを止めること。 それが戒の護持と止瞑想によって煩悩が(一時的に)おさまった状態。 だが、煩悩が鎮まるというのは、カメラの電源を落とすことではない。 つまり、記憶喪失や植物状態になることではない。 そこは勘違いしないようによくよく注意しなければいけない。
植物状態や記憶喪失というのは、今生における、この肉体の 現在のコンディションにおける話で合って、死んでまた再生した 時には、新しい肉体で輪廻が始まる。
というか、瞑想していない人は 自分がよく瞑想せず、結果も出ていない状態で 憶測でものを言っていることを自覚した方がいい。 仏教徒を自認しながら、悟りが解脱なんてものはないと思ってる人もいるみたいだし。
742 :
神も仏も名無しさん :2014/02/04(火) 16:33:44.70 ID:Z2dzD5A2
メイホン必死w
「悟りとはこんなものだ」っていくら語っても、 それが実際に悟りを開いて輪廻を解脱した人の言葉でない限り、ただの言葉遊びになってしまうんじゃないかな? 苦諦という真理は解脱してはじめて正見できるもので、
途中送信してしまった…。 「悟りとはこんなものだ」っていくら語っても、 それが実際に悟りを開いて輪廻を解脱した人の言葉でない限り、 ただの言葉遊びになってしまうんじゃないかな? 苦諦という真理は解脱してはじめて正見できるもので、 枠組みの内側に取り込まれてる状態では、ただの知識として知ることしかできないのだと思う。 だから、「こういう悟りを目指すんだ」じゃなくて、今ここをただ観察するために瞑想するんじゃないかな。 なんて思ってみました。
自分は昔、二種類の三昧を、ちょっと体験したことがある。 一つは、スポーツに打ち込んでいたときの話。 毎朝、毎夕、修行のように、そのスポーツに打ち込んでた。 ある日、いつものように集中をしていると、その集中が段々深くなり、 不思議なことが起こった。 妄想が次から次へと、勝ってに湧き上がり、自分の意思では制御できなくなった、 集中しよう、集中しようと思っても、集中できない。 目は自然と半眼となり、相手がわずかに見える状態・・・・ 次の瞬間、通常の意識状態では出来ないようなファインプレーをしている直後で気がついた。 行動の直前から、ファインプレーの間の記憶が、全くない。 またもう一つは、武道に打ち込んでる時、集団で炎天下の中、防具をつけて3時間以上ぶっとうしで修練するんだけど、 少しでも気を抜いたら、付いていけなくなるほど厳しい修練で、最初から最後まで、気を抜けない状態だった。 それを毎日やるんだけど、ある日のこと、その日も最初から全力で気合を入れながら、 修練を開始した・・・ 5、6分経っただろうか・・ ふと時計を見ると、3時間経過していて、その直後、終了の笛が鳴った。 その間の2時間55分の記憶が、全くない。 こういう経験をすると、道元禅師の 「覚知に交わるは証則にあらじ」 っていう言葉もピンと来るし、 「弓と禅」の中の、阿波研造師範のいう、「それ」 という意味もよく分かる。 また、伊藤一刀斎のいう、「無想剣」 というのも、その類だろう。 脳機能の停止によって、自我意識が停止するのと、深い三昧によって、自我意識が停止するのと、 まったく意味がちがう。 前者は完全に体の動きが止まる・・・ もしくは、行動が支離滅裂になるのに対し、 三昧による自我意識の停止は、より完全で完璧な行動が伴う。 思うに、三昧による無我は、より深い我につながる・・・・ 小我が消えて、全体我のみになった状態、 つまり、ありのままそのものになった状態で、自然と完全に一体となっている状態なんだろう。 単なる脳機能の停止は、自我が眠った状態になってるだけで、相変わらずそこにあるんじゃないかな。 またそれが輪廻する。
三昧で自我が無くなっている間、一体誰が完璧な動きを為すんだろう・・ まさに、弓と禅の、「それ」なんだけど、全体我の「それ」 に、つながっているから、 小我には全く記憶に残らない。 小我は完全に滅して、全体我として動いてるから、小我で覚知することは出来ない。 サティ → 悟り と、いきなり飛躍しては、悟りはピンと来ないよね。 サティ → 三昧 → 悟り で、三昧をわずかながらでも経験しないと、 悟りは意味不明なものになっちゃう。 (広い意味での)自我が無くなっても、寝たきりになるわけじゃない。 ただありのままの本来に、帰するということ。 自我があるから、それが邪魔される。 たとえていうなら、風にはためく旗に自我があるとして、その旗は、自分であっちこっちにはためこうとしているが、 上手くはためくことが出来ない。 自我があるうちは、自然な風のはためきに、抵抗してることになる。 そういう力が全部抜けたとき・・・、道元さんのいう、「心身脱落」が起こったとき、 始めて旗は、旗本来の姿として、自然にはためくことが出来る・・・ こういう感じじゃないかな。
>>736 十二縁起のどの部分で「有身見」に該当するものが出てくるのか分からないけど、
確かに、「水しぶき」 というと、「有身見」に該当するような感じがするよね。
自分の身体を、無と断じ切っても、個としての存在は体だけじゃなくて、想念とか、業とか、
霊魂とかで残るかもしれない。
そういう個が残っている限り、悟りとは言えないよね。
悟りというのはそういう個が、完全に滅せられる・・・ ってことだから。
般若心経の「五蘊皆空」と、「有身見が消える」 ってのは、ちょっと意味が違うと思うね。
般若心経の「五蘊皆空」は、一切の我を空と断じ切った状態・・・・ 完全な悟りを現してるのに対して、
「有身見が無くなる」とは、「体がある」 という思いが無くなっただけで、
霊魂か想念か何か分からないけど、「自分」という個が存在している状態・・・・
だからまだ完全に無我じゃなくて、これだけでは悟りとは言えない・・・ ってことでしょ。
で、真我がある、という時、では、「真我という我があるじゃないか」、ていうかもしれないけど、
そもそもさっきのたとえの通り、旗が自然にたなびく時はもう、完全に旗の自我は滅却しているから、
その個我なんてものは一切ない。
「真我」は「個我」の延長線上にあるんじゃなくて、真我が仮に何かを感じ、見たとしても、それは
個我の延長線上の知覚ではないと思う。
華厳経に面白い表現がある。
「自分が見るということが無ければ、よく一切の真実の法を見るであろう。
法に於いて見るのであれば、その人が見るということはないのである。」
「見ることなくして見ることを説き、自我なくして衆生を説く。
見ることや衆生を説いてもことごとく有ではない。」
プンジャジの「覚醒の炎」でも、車を運転して目的地に向かった記憶がない、 自我なしでも神に任せることができる、みたいなエピソードがあったね。 まあ、酔っ払っても小脳が帰り方を覚えてる、ってこともあるけど、 それともまた違うみたいだね。
酔っぱらいが家に帰りつくのとおなじだろ。 そんなことは普通に起こっている。 意識の介在なしに自然に言葉がでてくる。楽器の演奏などもそうだ。勝手に 指が動く。慣れてしまったので不思議に思わないだけだ。 「右足をだしてそれから左を出して」と考えてあるいたりはしない。刀を振り回すの だって同じことだ。シツコク練習していれば刀が勝手に動くようになる。 こまることもあるぞ。スリは達人レベルになると足を洗えない。止めようと思っても手が 勝手に動いて財布をすってしまう。手を縛って電車に乗っても家に帰ったら知らない間に 誰かの財布が三つくらい入っている。 孫は経営戦略の天才だが、結婚式当日に式場に行くのを忘れていたり、店に入って 買い物をしてうっかり金を払わずに出てしまったりとか日常生活では抜けたところがあるらしい。 伊藤一刀斎も剣は達人だが、ボッとしていて野壺によく落ちてはウンコ三昧ということ もしばしばだった。 天才とはそういうものだ。 苛酷なスポーツで意識が飛ぶのは普通にある。マラソンでは途中は意識が飛んでることが多い。 10分くらいかなと思って時計をみたら1時間たっていたなんてのはめづらしくない。第一マラソン ランナーにとって10k程度走るのはお使いにいって帰ってくるくらいの感覚でほんの一瞬だ。
750 :
神も仏も名無しさん :2014/02/05(水) 06:43:52.94 ID:f5tgfO4n
>そういう力が全部抜けたとき・・・、道元さんのいう、「心身脱落」が起こったとき、 >始めて旗は、旗本来の姿として、自然にはためくことが出来る・・・ こういう感じじゃないかな。 これはパーフォマンスをやる人間だったら誰でも感じている。インプットしたら「身体は勝手に動く」 という感覚は普通にある。 逆に意識した瞬間にドテッと転倒する。 例えば暗算なんかも2桁くらいなら普通の人でも瞬時に計算できるが4ケタくらいになると頭の中で 筆算と同じような計算をする。ところが数字をよく扱う人や暗算をシツコク練習したなら10桁くらい でも一瞥しただけで瞬時に答えがでるようになる。計算の過程はまったく意識しない。 頭は単調な仕事はメンドクサイのでやりたくない。だから自動化する。 しかし何でもかんでも自動化すると天才みたいに頭が弱くなって、日常生活に支障をきたすことになる。 最悪なのが涅槃だ。もう頭が全く働かない。 最高度に自動化すると大抵は具合悪い。剣の達人は達人レベルに合わせて自動化するのでド素人の 俺みたいなのが予想外の動きでボコッと叩くと呆気なく叩かれる。だから達人はド素人と手合せは 嫌がる。
751 :
737 :2014/02/05(水) 22:17:08.73 ID:QPZWj43g
>>738 〜750のレスに感謝。なんとなくわかってきました。
意識を向ける対象だけでなく、意識の集中力に深浅があると言うことですね。
意識の集中度が上がり、相手の動きをスローモーションで見れるなら、
百戦百勝になるだろうと思います。
>>736 サマタ瞑想で偶然得られる自我感覚の喪失は有身見をやぶったのとは違うよ
感覚でなんとなく〜じゃなくて、無常をはっきり見て「自我がない」ことを智慧で理解しないと
悟りは自己完結ってことですね。まあある意味自己満足なのかな。 まあそれがどんなに素晴らしくても共有できないと殆ど意味をもたない。 悟り レベル1 共感度 30% 悟り レベル2 共感度 3% 悟り レベル3 共感度 0.1% 、 。 。 悟り レベル99 共感度 0.、、、、、、、、、、、、、、、、0.1% 悟り レベル100 共感度 0.000000000000、、、、、0000.11% みたいな感じです。 損益分岐点みたいなのを考えるとレベル1くらいが一番良い悟りです。 ゴームクあたりみかけるフルチン暮しのレベル10くらいの悟りの人とかあんまり意味ないです。
悟りが起こると内的な変化があるわけでその変化が非常に重大なことなのでぜひとも 知ってもらいたい。それが悟り。 是非とも知ってもらいたい。それが悟りです。 知ってもらいたくないような悟りはまあ意味ない。 是非とも知ってもらいたい。 ということです。
意識と五蘊仮和合 世界(色)と意識(識)を区別したらどうだろうか。 @ 世界と意識が関係することで意味のある感受(受)が生じる。 A 感受した体験は記憶され、その記憶と意識が関係することで (想)と(行)が生じる。 B 五蘊仮和合は最初から、意識(識)を世界(色)に解消している。 意識とは何か。意識は悟りに関係していると思うのだが
756 :
神も仏も名無しさん :2014/02/06(木) 17:35:26.63 ID:2s89YZHH
悟りを考える上で参考になるのは全身麻酔と部分麻酔だ。 全身麻酔では、体の感覚(視・聴・嗅・味・触)がマヒし、意識を失う。 ここで問題になるのは、 A 神経がマヒし、外部からの刺激が遮断されたから、意識を失ったか、 B それとも意識そのものがマヒしたから、意識を失ったかである。 これを考えるのに部分麻酔が参考になる。 部分麻酔では、体の部分(ex.手足など)の感覚を失うが、意識はそのまま。 自己意識は何も変化しない。意識と体とは別々に行動している。 そうするとどうも、Aが正しいように思われる。
歯の治療は部分麻酔だが、 その時のことを思い出せばなんとなくわかるかもしれない。 麻酔が切れるに従って、感覚がなかった歯茎に感覚が戻って来る。 意識が独立して存在するから、感覚が戻って来る経過をキャッチできる。 意識は独立して存在し、体に依存していない証拠ではないだろうか。 全麻で意識を失うのは、意識と体の神経回路がマヒ、遮断されたからであり、 意識自体がマヒしたわけではないと思う。意識は、意識の対象がなくなり、 刺激がなくなると「沈黙」してしまうのではなかろうか。
758 :
神も仏も名無しさん :2014/02/06(木) 22:29:43.32 ID:2s89YZHH
意識を体から独立したものと考えると、全身麻酔の仕組みが把握でき、 坐禅における「滅尽定」の仕組みも明らかになる。 静かな暗い場所で坐禅し、感覚的な刺激を一枚一枚脱いでいけば、 意識は全く刺激のない状態に置かれる。 あらゆる感覚から遮断された意識は、意識があっても意識を失ったようになる。 これが「滅尽定」だ。 全身麻酔には専門の麻酔医がついているから安心できるが、 ひとり坐禅で「滅尽定」に入るのは極めて危険、命を失う可能性がある。
思考はほっとくとここまでつっぱしるんですね。
760 :
神も仏も名無しさん :2014/02/06(木) 23:05:27.13 ID:2s89YZHH
死ぬと言うことは、この体から意識が抜けることだね。 意識が抜けたら、火葬されても土葬されても何も感じないw では意識とは何か。霊魂だよね。
>>758 >ひとり坐禅で「滅尽定」に入るのは極めて危険、命を失う可能性がある。
心配しなくても滅尽定には阿羅漢しか入れないよ
762 :
神も仏も名無しさん :2014/02/06(木) 23:07:38.25 ID:2s89YZHH
>>759 これだけのことを思考で言えるわけがないだろ。
全部体験だよw
>>760 >では意識とは何か。霊魂だよね。
違うよ
識はアートマンではない(cf. 大愛尽経)
>>762 これが野狐禅というやつか
>>762 あなた:
「わたしは麻酔を体験しました。
わたしは(三昧の体験はないけど)、三昧とは麻酔体験と同じだと思います。
いかがですか。」
答え: 違います。
>>762 >これだけのことを思考で言えるわけがないだろ。
>全部体験だよw
本格的にお寺で禅なり、瞑想なりやってる人も
ここを見てるんですよ?
766 :
神も仏も名無しさん :2014/02/06(木) 23:25:38.39 ID:2s89YZHH
わたしには体証もあるし、理証もある。 キミらには、キミら主張の根拠が何もないではないかw キミらはせめて、こうだからこうなのだ、という理証を展開しろ。
瞑想の実習をする人がその手の議論を好むはずがない。 答えならお釈迦さまとサーリプッタ尊者が全てお示しになっている。 個人の解釈などどうでもよい。
768 :
神も仏も名無しさん :2014/02/06(木) 23:39:20.77 ID:2s89YZHH
>>767 バカだなあw お前は経典を信じていればいい。
料理の方法を知っても、それを実際に食べてみないと
美味い不味いはわからないよねw
美味い不味い、全部食べた人がいても信じられないなら、
お前は経典を信じていればいいよ (TT)
プライドって突っ走ると本人置き去りにここまでいくのか
770 :
神も仏も名無しさん :2014/02/06(木) 23:55:20.69 ID:2s89YZHH
世界は広くて深いw キミたちの知らない世界がイッパ〜イあるのだねw 井の中の蛙クンたちに幸あれw
くだらね つまんない釣りだな
レベルの高い悟りってのは空だよ。中身は何もない。スッカラカン。 だからあれこれ空想で補う必要がある。 スッカラカンなんてあまり意味がない。ということでやはりレベルの低い悟り、たとえば 病気をなおせたり、水の上をあるいたり、空中浮遊できたり、瞬時に暗算できたり、 テレパシーが使えたりというような超能力を発揮することの方が万人受けするし実際に 意味がある。
773 :
神も仏も名無しさん :2014/02/07(金) 23:35:03.45 ID:IBAWIHiW
麻酔の話をしたのは、意識とは何か
>>755 を受けている。
意識は眼耳鼻舌身の五根とは異なる別の能力であり、
意識と五根が関係することで五識(視聴嗅味触)が成立している。〜 色受
時間と共に意識が経験することは脳細胞に記憶される。
意識が記憶と関係して比較判断することで想念や選択が成立する。〜想行
では、この意識とは何かをテーマにしている。
意識を理解しない限り、坐禅も瞑想も合理的に行うことができないと思う。
そこで意識をまな板にのせたのであり、そういう切り口の話です。
常見や断見という邪見に基づいては、正しい方向性が見いだせないってこと?
775 :
神も仏も名無しさん :2014/02/07(金) 23:55:48.17 ID:IBAWIHiW
わたしが阿羅漢であるかどうかはどうでもいい。 こういう所で誇っても虚しい。そうではなく匿名掲示板だからこそ、 滅尽定やその先にある涅槃定の経験を話すことができる。 滅尽定で驚くなかれ。その先に涅槃定があって霊魂を体験する。 霊魂は透明な球体だが、自己意識があり、そのうえ五識(感覚)もある。 意識そのものが霊魂(アートマン)なのだよ。〜ただし記憶装置なし だから意識を問題にしている。みんなも意識の正体を知ってほしい。 自分の視線の中に「自分なりの意識」があり、それが霊魂であり、 それが「わたし」であり、自分自身だと言うことですね。
植物状態の人はどうなってるの
777 :
神も仏も名無しさん :2014/02/08(土) 00:15:10.37 ID:rjZeFi1a
>>774 わたしは宗教書をほとんど読まないで坐禅を卒業してしまった。
坐禅で参考にしたのは天台小止観の流布本だけ。
恐いもの知らずで、静かな暗闇で毎日1時間程度の坐禅をした。
いま考えると危険なことをやっていたと思う。
ただ、神を「心底」信じていたから何の恐さも感じなかった。
仏教を知らないのだから、常見も断見もまったく関係ない。
何かに憑かれたように、「心底」喜んでやっていた。
メクラ蛇に怖じずですね。それが幸いしたのかもしれない。
778 :
神も仏も名無しさん :2014/02/08(土) 00:16:04.03 ID:TfVOts9Q
777おめでとうございます
779 :
神も仏も名無しさん :2014/02/08(土) 00:24:11.63 ID:rjZeFi1a
>>776 体の情報をキャッチできないだけで、まだ生きている。
全身麻酔のような状態に置かれている。
植物状態を死と認定することは完全に間違っていると思う。
でも家族や周囲の負担を考えると難しいよね。
しかし、ここはマハシゴエンカパオ☆ヴィパッサナー瞑想法のスレだった。
781 :
神も仏も名無しさん :2014/02/08(土) 00:28:49.12 ID:rjZeFi1a
>>778 ラッキー ♪
777に気づいたキミに、この幸運を全部あげる ♪
「わたしの瞑想体験を語りたい、布教したい」というオーラをびんびん感じる。
783 :
神も仏も名無しさん :2014/02/08(土) 00:39:44.59 ID:rjZeFi1a
>>780 >>782 えーとね、坐禅や瞑想の真の目的は「空」を知ることではなく、
「意識そのもの」になることだと言うことだね。
ラべリングは「安全を確保」した坐禅であり瞑想だ。
これはこれで認める。
目的によって、坐禅や瞑想のスタイルが変化するのは当然だろう。
この世界にあるものが、ただ在るだけならば、なぜそこに慈愛があるのでしょうか? 人を助ける・傷つける、幸・不幸は、生きている事の基準に当てはめているだけであって、この世界がただある以上、それらは本来意味などなくただ在るだけだと思うのです。 人の幸せを願ったり、慈愛を与えるってのは、すでに生きているという枠組みでの行動に入ってしまっていると思います。 生物も無機物もこの世にあるもの全てあるがままに見た場合、境目などないと思います。なので生も死も、この世界の中では本来同じであると思っています。 が、違うのでしょうか? 今生きていると感じながらも、生きると感じることに疑問を持ち、その矛盾に苦しんでいます。
>>785 あるがままに見たら、生物と無生物の違い、
生きている人と死んだ人の違いが、この世界に厳然と存在するよね。
それを無視するのは、あるがままではないと思う (^^)
>>785 >この世にあるもの全てあるがままに見た場合、境目などないと思います。
すべは一体なんだよね?
一体であるものの結びつきこそ、全体と個の結びつきこそ、
慈愛と言えるんじゃないの?
全体がピッタリと一致して調和している状態。
他と他がピッタリと一致している状態。
その状態がまさに愛でしょ。
いのちの本質は愛だよ。生きているからこそ慈愛もある。 無生物の世界は、月面のように荒涼として不毛だ。 しかし人間は、そういった荒んだ心境になることもあるね。 そしてその心境こそが妄想の産物。空だ
命は命を食って生きながらえてるのにその本質が愛なのか? W 都合のいいように勝手に放言してはいかんよ。
するどいツッコミ、ナイスです
>>790 ってか、基本的に勘違いしてる。
本質が愛 ←という時は、悟りの世界のことだよね。
命が命を食って ←という時は、迷妄の世界上のことだよ。 本質の世界じゃない。
たとえば、本質の世界では愛なのに、なぜこの世で殺人事件が起こるのか、
って言ってるのと同じ。
言葉が矛盾しちゃってる。
本質の世界と、そうでない世界があるのに、どちらも同じ世界として
扱ってる。
非常に浅い洞察だよね。
>本質が愛 ←という時は、悟りの世界のことだよね。 根拠レス 自分がそう思うからという自見です
悟りの世界の本質は智慧だと思う。 愛だと、その手前までしか行けないんじゃないかな。 涅槃は悪からも離れてるけど、善からすらも離れてるわけでしょう。
愛(善)があったら、また善なる生まれに生まれてしまうじゃない。 滅尽できない。
生物を大別すれば動物と植物になる。 動物は他の生き物を殺して食べないと生きていけない。 それに「抵抗がある」から、仏教の精進料理があるのではないだろうか。 ジャイナ教ではさらに厳しい食事制限をする。 本質が愛であっても、生きるためには他の生き物を殺さなければならない。 動物だけでなく、たぶん植物もそういった矛盾を生きているのだろう。 この矛盾は、命が物質に宿ったことの宿命ではないだろうか。 無用な殺生を避け、感謝していただく心があればよい。
>無用な殺生を避け、感謝していただく心があればよい。 感謝しようが殺生は殺生で、罪を犯したことにはなりますから 生命の本質として他を殺して食わねばならない以上、世界の本質が愛なんてことはありえない もし本当に本質が愛ならば生命は光合成でもして生きることが可能なハズ
この世には、実体があるものと、ないものがある。 生き物の実体は、個体としての「命」と「物質」 空=実体がないものは、人間のあれやこれやの思いだね。 個体の命は霊魂であり、霊魂には「わたし」という自己意識がある。 この意識の流れが、脳ミソに記憶されて自我が形成される。 しかし脳ミソが壊れたら、自我は消えてしまう。 ただし、われわれに「その人らしさ」があるように、 それはアラヤ識として霊魂を覆い、死後も残留するかもしれない。
またMr.霊魂か NG安定
800 :
神も仏も名無しさん :2014/02/09(日) 00:12:07.08 ID:QWAj2OBn
お薦めの本教えてください
801 :
神も仏も名無しさん :2014/02/09(日) 00:12:58.34 ID:QWAj2OBn
消えたい 無になりたい
>>797 ほんとうにそう思うなら、そうやって生きたらいいでしょう。
やってみたらいい。
通常、必要な食事だと思えば、後ろめたさを感じることもなく、
悪夢を見ることもない。
食事に関する悪夢を見なければ許されているのです。
>>794-795 善悪を相関関係で見るのが縁起であり、それは陰陽の太極図であり、
それはそれで有効な射程がある。
しかし、陰と陽が切り離され、善と悪が切り離される体験がある。
善が善そのものとなり、悪が悪そのものとなる。
善とは命そのものであり、悪とは物質のことです。
縁起の「空」とは、彼岸に到達したら捨てられる筏のことですね。
命そのものを体験することが「悟り」です。
たとえば、一枚のお皿があるとするよね。 で、その一枚のお皿が、10個に分かれたとする。 割れたわけじゃなくて、部分部分が、自我を持ったってこと。 そすると、そこに、自と他という区別が出てくるわけだよ。 そこで自分と他の利害関係に対立が起こって、争いになる。 ところが、悟りの目を通してみると、すべてのものは縁起していて、 一つなんだよね。 縁起ってのは、切っても切り離せない、お互いの状態を現してる。 当たり前だよね、もともと一つなんだから。 もともと一つなんだけど、個々に分かれている状態を、悟りの目を通してみると、 お互いが、完璧に、密接に、調和している。 その繋がりの間にあるものが、愛という形になって現れるんでしょ。 縁起=愛ってことだよ。
>>800 『なまけ者のさとり方』 タデウス・ゴラス
「私が意識しようとしまいと、
私は存在するすべてのものの源と一つである。」
「どんなことをしていようとも、
そうしている自分をそのまま丸ごと、愛してあげて下さい。」
>>797 その問題はバガヴァッドギーターが答えている。バクティが完全なら
それはその人の罪にならない。なぜなら罪を犯す主体がいないから。
別に俺も得心してる答えじゃないから突っ込まないでね。
>>806 それが日常として定着するのが難しいんだよね。
ときどき、ふっとそう感じることが増えたけど・・・日常の0.01%くらいだなぁ。
でも、自分が世界という皿の一片だという気持ちが常にあれば、世界を愛することと自分を愛することは
同時に起こることだと思うね。
>>808 ならそのバガヴァッドギーターに突っ込むわ
罪業に罪を犯す主体の有無は関係ない
(清浄道論)
[真実には]行為する者はいない、しかし行為はある
感受する者はいない、しかし感受はある
[主体はないけれども、現象の]構成要素だけが回り続ける。これが正見である
811 :
神も仏も名無しさん :2014/02/09(日) 18:12:25.24 ID:5haB5VuB
>>810 正見において、そもそも罪業は生じない。彼は罪業の大本である主体=自我を滅ぼしている。
主体の意識のとらわれる凡夫のみが、善と悪の行為をなし、その結果を受ける。
正見の人が行為をしてその結果を受けるように見えるのは、凡夫の視点からのみである。
>>811 >正見において、そもそも罪業は生じない。
自業正見(業は自分のものであるという正見)
kammassakatā sammādiṭṭhi
>彼は罪業の大本である主体=自我を滅ぼしている。
自我は元々存在せず、無我ですからそんなの関係ありません
業が五陰に相続されるだけです
>主体の意識のとらわれる凡夫のみが、善と悪の行為をなし、その結果を受ける。
我も忘れて混乱している殺人鬼にも「私という意識」はないけれども、
実際そこには不善なる心が確かに生じているので、業が生じます。
主体意識の有無は実に関係がありません
>正見の人が行為をしてその結果を受けるように見えるのは、凡夫の視点からのみである。
行為を受ける「受け手」が存在するという、主体の実体視は確かに世俗のものですが、業の果報は否定されません
「行為者が結果を受ける」という「主体」論ではなく、
「行為の結果の感受がある」と、「因果」論のみによって把握するのが正しい見方です
813 :
神も仏も名無しさん :2014/02/09(日) 19:47:49.59 ID:mU8uNaCw
>>812 正見にも段階がある。自我があると誤解している段階では、自業正見。
自我がないと悟った段階では、業を受けることはもはやない。受ける主体がないから。
殺人鬼は自我を消滅していない。自我を消滅した人は、欲望を持たない。彼が行う行為は善を超えた善である。
悟った人には業は存在しない。凡夫に説明するために、「感受のみがある」と説明しているかもしれない。
つまり、それに影響されないということを表すために。実際、感受があるというのも凡夫の視点に過ぎない。
無明が消えると順次きえてゆき、感受も消える。12縁起で書かれている通り。
この世界の惨状、欠乏からうまれる渇欲、満たされることのない生物の本質、最終的には避けられない死 この世界に愛すべきものはない
>>813 >自我がないと悟った段階では、業を受けることはもはやない。受ける主体がないから。
アングリマーラや目連尊者等が解脱後に業の異熟を受けたから、それは否定される
もはや外界のことに執着を起こさないのだから、業を作ることはないけれど、 肉体が過去の業を受けることはあるのじゃなかったっけ。しかしそれが本人にはなんの影響も及ぼさないという
817 :
神も仏も名無しさん :2014/02/09(日) 21:50:59.37 ID:mU8uNaCw
>>815 涅槃に達したのだから、聖者は何物の影響も受けない。業の結果を受けるように見えるのは凡夫の視点からのみ。
凡夫は聖者を体(ルーパ)として見るから、そのように見ざるを得ない。聖者はルーパを自分と見ない。
>>817 別に色を聖者と見ようが見なかろうが、五陰の相続に業の果が生じるだけだが
因果のみだから、主体の有無は関係ないって言ってるのに
どうしても屁理屈こねて自我がないと業の果報もない、としたいようだね
お前らが分けも分からずに適当なことを言うように、聖者もまた適当なのだ。 同じ人間だもの。ワンネス。一つだよ。
820 :
神も仏も名無しさん :2014/02/10(月) 06:35:48.22 ID:FTCHpm1u
>>818 聖者には「五陰の相続に業の果」も「因果」もないことが分からないんだろうな。今までの説明で分からないと無理だと思うけど、
あなたの好きな因果法則である12縁起で、「無明」が消えたら「受」も消えることをどう説明するんですかね。どこに業の果報
が存在するのか。「識」もないし、「色」もない。
聖者が業の果報を受けるように見えるのは、「自我を持つあなたの視点」からだけ。
821 :
神も仏も名無しさん :2014/02/10(月) 06:42:46.93 ID:FTCHpm1u
正直、あんまり興味ない話題ですから、後は好きにして下さい(笑)。仏教の本筋 でもなんでもないですし。じゃ、さよなら。
>>807 ありがとう
早速Amazonで注文した
>>796 の補足
>無用な殺生を避け、感謝していただく心があればよい。
アイヌには、熊やシマフクロウやシャチなどを、神の元に帰す
イオマンテという祭りがある。
人間は他の生き物を犠牲にしないと生きられない。
しかし、死んだ生き物の命は死なない。命は決して死ぬことがない。
体から抜けて神の元に帰る。
コレヘトの言葉 〜 旧約聖書 塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。 これもイオマンテと共通する考え方が基本にある。 大地(物質)と、霊(神)の二元論である。 釈迦も同じ立場であることに気づく。 釈迦が説いた縁起の理法(空)は、彼岸に渡るための筏であり、 彼岸に到達したら捨て去られる道具でしかない。
釈迦は彼岸に到達してこの世に戻って来る。 この世に戻って来れば、この世の法則に従わざるを得ない。 他の生き物を食べることになる。 では釈迦と凡夫はどこがどう違うのか。釈迦の体験には二つある。 @ 釈迦は、神が命であり、神が愛であることを体験した。 A その命が人間の霊魂であることも体験した。 生き物は「空」ではなく、生き物には「命」という実体がある。 それを知ることによって、釈迦は「安らぎ」を得た。 (→「空を悟ろう」という瞑想や坐禅は根本的に間違っています。)
>>825 神とか霊魂とか実体があるとか彼岸に到達してこの世に戻ってくるとか
全部釈尊が否定したものばっかりだなw
どこで釈迦は、神や霊魂や彼岸を否定している? その根拠を経典から示してください
神はどこにいるん
>>829 答えになってないね (^^)
スッタニパータに「彼岸に至る道の章」があるから熟読したらいい。
>>828 キミは生きてる? キミの命は神から与えられたものだよ。
神は物質の中ではなく、心の奥の奥底にいる。
こころはどこにあるん
>>830 俺が言ってるのは彼岸を否定ではなく彼岸にいたったものは輪廻しないのが釈尊の教えだといってる。
神と霊魂については釈尊が説いてるというなら教えていただきたい。
そういった形而上のものは説かなかったはずだ。
>>831 頭の中にある意識は、この世の外にある神とつながっている。
意識は霊魂であり、個体としての命ですね。
>>832 いまは輪廻の話をしていない。
Sn.1119に、「世界を空なりと観ぜよ」とある。観ずる主体は誰か。
釈迦は実体を否定していないのではないだろうか。
ごめん、これから外出するので他の話は夕方になると思う。
心の奥底にいる神がどうやって命くれるん そもそも命がなければ心も意識もないじゃん
>>833 神とか霊魂て言うのは当時としては常識なんだよ。
それに反して徹底的な唯物論、この世は何をしても許されるみたいなのもあった。
釈尊が示したのはこの世の苦しみを乗り越える具体的な方法なんだよね。
836 :
神も仏も名無しさん :2014/02/10(月) 16:19:06.93 ID:eEjH6GUe
うまく瞑想に入れそうなときや、良い瞑想状態からいつもの惰性的な自分に戻る時に妙に理屈っぽくなる時ってあるんだよなぁ。
あー。 あるかも。 思考が働き始めてきているのに、その制御を怠っている、ということかな。 必要とも有益とも言えない、雑念としての思考。
838 :
神も仏も名無しさん :2014/02/10(月) 16:51:29.45 ID:eEjH6GUe
瞑想の余韻を残しながら自我?が甦ってくると得意気になって哲学しちゃう。 いつもの惰性的な自分に戻るとそんな哲学もピンと来ない。瞑想状態に入ると理屈も哲学もどーでもよくなる。
839 :
神も仏も名無しさん :2014/02/10(月) 17:29:45.69 ID:T2FAxo4J
わかった気になってしまうってのが、ある。
原始仏教を志向する人たちにとっての仏教とは、お釈迦さまの仏教のことであって、それ以外の誰か個人の勝手な解釈になど、何の価値も見出すものではない。 そういうことは、個人の日記にでも書きつけて、お終いにするのがマナー。 しかし、自説をもって説法したがる人の後を絶たないこと。 答えなら、すでにお釈迦さまが全て述べておられるのだから、仏陀でもない者がそこに何か付け加えようなどと考えること自体が間違っている。 思い上がりも甚だしい。
何も付け加えることなしに釈迦を正しく理解してると思うこと自体が思い上がり。 考えない人間や他人の意見に耳を傾けないものは必然的に「思い上がり」に陥る。
842 :
神も仏も名無しさん :2014/02/10(月) 18:00:07.42 ID:T2FAxo4J
瞑想に関しては「敢えて言葉にするならば」っていう注釈付きで語るのがいいと思うし、辿ってきた道が個々に違うのにその相違を論じてもね。しかも道半ばで。
>>821 興味ない話題なのにあれだけ粘って珍説を述べてたのかw
おつかれちゃん
>>820 >聖者には「五陰の相続に業の果」も「因果」もないことが分からないんだろうな。
因果に左右されないのは涅槃だけだよ。聖者が因果を超えてるわけではない
聖者は霊魂、真我を実体とするのだ等々の邪見に則って考えるとそういうおかしな説がでてくる
>「無明」が消えたら「受」も消えることをどう説明するんですかね。
感受というのは勝手にオレが使っただけでvedanaaのことではないよ?
12縁起で受を滅するから感受作用がないという主張をみとめるなら阿羅漢には痛覚が全く無いことになるし
有(bhava)も滅しているから悟った瞬間に存在が消えてなくなるんだけどw
>>834 >心の奥底にいる神がどうやって命くれるん
神の経綸は神にしかわからない。それともキミは知っているのか。
>そもそも命がなければ心も意識もないじゃん
だから神は命そのもの、生き物は個体としての命だと繰り返している。
個体としての命が霊魂であり、霊魂には意識も感覚もある。
そして意識の流れが、脳ミソに記憶されることで自我が成立する。
こういった活動のすべてを「心」という。
瞑想で梵我一如体験したぐらいで、説法おっ始めるなよ、見っともないから。 そういうのは、ヨーガ好きのポエマーだけにしてくれ。 仏教ぽくない。
>>835 >神とか霊魂て言うのは当時としては常識なんだよ。
釈迦は「ヴェーダの達人」とも言われているね。
>釈尊が示したのはこの世の苦しみを乗り越える具体的な方法・・・
スッタニパータでは「死と老衰」が乗り越えるべき課題になっている。
命は死なない、と知れば、死は乗り越えられているではないか。
スッタニパータ五章を熟読した方がいいかもしれない。
ただ、微妙な言い回しで、その意味を理解するのは簡単ではない。
明示的ではなく、暗示的に展開されている。
「釈迦は〜」と呼び捨て。 そのくせ、ヴェーダを正当化するための権威付けに、その名を利用している。 ブッダの悟りがバラモン教のそれと同じならば、わざわざ別宗教にする必要などないし、三法印を繰り返し強調する必要もない。
>>845 キミはいったい何を体験したと言うのか。
本だけの知識だろ。
Sn.1079
世のなかで、真理に達した人たちは、見解によっても、伝承の学問によっても、
知識によっても聖者とは言われない。煩悩の魔軍を撃破して、苦悩なく、
望むことなく行う人々、かれらこそ聖者である、とわたしは言う。
釈迦が言う「望むことなく行う」とは、アガペーであり、慈悲ですね。
バラモン教的な捉え方で言うところの、死んでも残っている命は、輪廻を繰り返す。 それを涅槃と混同してはいかんし、そんな状態で教える立場に立とうなどとしてはいけない。
>>847 釈迦は「信仰をやめよ」と教えている。
その言葉には、釈迦への信仰も否定しろ、という意味合いがある。
釈尊でなく、釈迦で十分だよ。
人間だったイエスも同じ。イエスと呼び捨てでいい (^^)
ただし、神は「神さま」の方が座りがいいかもね。
巷によくいる、俺流解釈を詩的表現で気持ち良さそうに語るポエマーでいいなら、そのまま酔っ払ってヨガでもやってればいい。 いや、自分は仏教だというなら、悟ったと思うのは早すぎる。
なぜ三宝への帰依から修行が始まるのか、もう一度考え直すべきだ。 野狐禅に陥ってしまった時、間違っているのに、自分がもはや真理を体得したと思い込んで慢心してしまったなら、もはやそこから抜け出すことができない。
>>849 と、キミは上から目線で阿羅漢に教えているわけね。
わたしは想受滅も涅槃定も体験したから、定義上は阿羅漢らしいね。
一銭にもならない、むしろ損するばかりの匿名掲示板で、
そんなことはどうでもいいけどぉ (^^)
多くの仏教徒がそうであるように、わたしの師はブッダその人。 お釈迦さまです。 お釈迦さまの弟子と、そうでない人の違いは臭いですぐにわかります。 あなたは臭いが違う。
>>853 得てもいない境地を得たと称し、
阿羅漢でもないのに阿羅漢だと宣言し、自説を吹聴して他人を惑わす。
その悪業をやめなさい。
身の丈に合った生き方をすればいいんです。
病気と貧困が問題なら、まずそれを解決することが先決でしょう。
阿羅漢を自称して信者をあつめ、お布施と称して金銭を集めようなどと画策する
阿羅漢がどこにいますか。
お前は犬みたいに釈迦を臭いで判断するんか?
>>856 臭いで判断する。
面構えから何から、全然違う。
たとえば大作は臭い。
臭いのはすぐわかる。
たとえば、タバコを吸わない人はタバコを吸う人の臭いを敏感に察知する。
ウソをつかない人は、嘘つきの臭いに敏感になる。
>>854 自分の好き嫌いで判断したら煩悩丸出し
それでもいいから、スッタニパータを何回も繰り返し読んでください。
坐禅や瞑想の仕方も書いてあるよ。釈迦は観から止を説いているね。
五章14節1107、1111
>>855 キミから見たらわたしがウソつきに思えても、
わたしから言わせれば、わたしを知らないキミは100%のウソつきだね。
釈迦はホンモノを見分ける方法を「神々との対話」サンユッタニカーヤで
教えている。〜第三篇第二章第一節「結髪の行者」
ホンモノかどうかは、長い間観察して初めてわかることだと言っている。
興味があれば読んでください。
860 :
神も仏も名無しさん :2014/02/10(月) 19:52:34.48 ID:00w6uQwu
>>855 >阿羅漢を自称して信者をあつめ、お布施と称して金銭を集めようなどと画策する
>阿羅漢がどこにいますか。
この話はどこから出てきたの? キミの妄想だよね。
オウムスレが勢いトップに来てて、そこに阿羅漢を自称するコテが降臨してる。
862 :
神も仏も名無しさん :2014/02/10(月) 20:41:15.56 ID:FTCHpm1u
>>843 だから、無明が滅してバヴァ(存在)もなくなるという12縁起をどう解釈するの?あなたは?
聖者には無明があるの?それとも、12縁起を否定するの?聖者は涅槃に達しているから聖者なんだけど。
「体がある」「感受がある」というのは、何度も言うけど、「あなた=凡夫」の視点だけ。
>>861 そのコテと、なんでわたしを同一視するの?
キミは妄想タイプなんだね。
それからキミが、臭過ぎるニセモノなのもわかったよ (^^)
>>862 横ヤリだけど、無明を滅した釈迦には感覚がなくなったの?
生きていることを楽しんだようだよ。
2chにくると誰もが例外なしに罵りあって2ちゃねらーになる。 針を刺すと痛いように2chに刺されると2ちゃんねらーになる。 キリストの弟子も釈迦の弟子も。弟子がそうなら師も同じこと。
>857 弟子が臭いのは師が臭いからだろ。弟子がダメなのは師の責任。
867 :
神も仏も名無しさん :2014/02/11(火) 06:09:27.73 ID:gL35wO2p
おまえらまだやってんのからw
868 :
神も仏も名無しさん :2014/02/11(火) 06:39:00.16 ID:2hXMmORy
>>864 地球を地上から見て理解するのと宇宙から見て理解するのとは違うようなものかな。
昔の人に「地球は丸いよ」と言っても理解できない。
釈迦が体であると思うかぎり、ここは理解しがたい。たしかに、体には感覚がある。
しかし、釈迦は朽ちる体?色はナアッタ(我にあらず)と釈迦は説かなかったのか?
そして、煩悩を滅した聖者が達した涅槃とは何か。
869 :
神も仏も名無しさん :2014/02/11(火) 06:40:16.36 ID:2hXMmORy
「比丘たちよ、このような状態があります、そこには地も、水も、火も、風も、 空無辺処も、識無辺処も、無所有処も、非想非非想処も、この世も、あの世も、月と太陽の両者もありません。 さらに、また、比丘たちよ、私は[誰かが、そこから]来ることを、[そこへ]行くことを、[そこに]住むことを、 [そこで]死ぬことを、生まれ変わることを説きません。 これ(涅槃)は、[何ものにも]依存せず、[何ものにも]作用せず、[つまり縁起の]対象になりません。 これ(涅槃)こそが苦の終り(滅)です」 色々書く内に自分の勉強になりました。口調が偉そうなのは敬語体が面倒だったからです。すみません。 書いたことはもちろん知的理解にすぎません(遊びみたいなもんです)。みなさんが幸福でありますように。
870 :
神も仏も名無しさん :2014/02/12(水) 19:08:44.01 ID:yZ/7Bc+D
>>869 そこに引用された個所は、どの本にあるのですか。
経典に疎いので教えていただけたら幸いです。
スッタニパータ五章を改めて読んでみた。
平易な言葉の連続だが、これを理解するのは意外に難しいかもしれない。
難しいが、釈迦は真理を語っている、釈迦は悟っていると感じた。
真理とは「事物の真相」のことらしい。体験できる事物はひとつだから、
釈迦も聖書(特に旧約)も、結局は同じことを伝えようとしている。
いずれにしろ、体験しないと話にならないのだろう。
祈りってどんな感じなの? 坐禅の三昧の感覚はわかるんだが同じようなもの なのだろうか?
坐禅の三昧、非想非非想処は、想うでもなく想わないでもないような 意識の状態を言う。この状態より、さらに深い三昧もある。 祈りは、祈る対象があって成立する。 祈る対象が心の外なら 〜 そういった信仰は偶像崇拝として否定される。 祈る対象が心の中でも 〜 大日如来やイエスやアッラーなどは、 実際に体験したことのない思い込みに過ぎないから真の祈りにはならない。 真の祈りは、真の神を知って、その神に祈ることで成立する。 しかし真の神を知ることは困難であり、そういった意味から言えば 残念だが、祈りのほとんどは真の祈りに程遠い。
釈迦は梵天勧請でもスッタニパータでも「信仰をやめよ」と説く。 ブッダ最後の旅では、自灯明法灯明を説く。 釈迦がこのように語る意味は、あなたたちは真の神を知らないではないか、 役に立たない神ではなく、真の神を探しなさい、 ということではないだろうか。釈迦は神を否定していない。 Sn.147「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」と念じる時、 この念は誰に向けられたものなのか。自分自身なら自分に言い聞かせている。 それは「心がけ」だろう。しかし真の神なら「祈り」になる。
三昧の非想非非想処は、想いがない、あるいは想いが生じないように コントロールされた状態にある。これに対して「祈り」は、 何事かに意識を集中している状態にある。だから両者は異なっている。 しかし似ている側面もある。祈りは通常短時間で終了するが、その時、 癒されるような空気に包まれることがある。この空気は、非想非非想処の 感触ときわめてよく似ている。たぶん神の臨在から生じる。 意識の働きを消そうとする坐禅(止、三昧)と、 意識を何事かに集中する瞑想(観、祈り)は方向が逆になっている。 それをわきまえれば、止と観は車の両輪。
875 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 14:32:09.47 ID:BFpyikwX
今日のNGワード ID:mRM2pUNf
876 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 14:51:50.21 ID:BFpyikwX
>>824 旧約聖書にからめて語るのって、幸福の科学?
どこかの新興宗教に入っているんじゃないのかな、この人。
877 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 14:55:14.48 ID:BFpyikwX
いろんな宗教をごった煮にのちゃんぽんにして、あれもこれも同じ真理を説いている という口調は、多くの新興宗教に共通する特徴であって、伝統宗教にはそういう特徴は みられない。 特に南方仏教では、釈尊の言説をねじ曲げる行為は忌み嫌われる。
878 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 14:57:51.29 ID:BFpyikwX
経典を引用していても、その解釈が違っている。 釈尊の名前を出してバラモン教を正当化する。 オウム真理教、麻原彰晃ですら仏典を引用していた。 仏典を引用し、殺人やテロまで正当化する解釈をしていた。 そういうことは、宗教や仏教に無智な人には通用しても 根っからの仏教徒には通用しない。
聖書とパーリが同じことを説いてるとかキリスト教の人にも失礼だろ 宗教イナゴは自己流にアレンジした自分の考えが好きなんであって、それぞれの教えに敬意はまったくないんだろうな
880 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 19:10:49.88 ID:snD85G0o
でもまぁ感覚的なものを言葉に置き換えるのが上手だと感じたけど。
881 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 20:41:59.60 ID:BFpyikwX
瞑想の実習もして体験もあるしんだろうけど、一人で独習してて 梵我一如体験を解脱と思い込んじゃってる感じだな。 心に貪や瞋や慢が生じているのに、阿羅漢なわけないだろ。
>>876-878 おおざっぱ過ぎて反論する気にもなれない。
批判するなら、どこが、どう間違っているかを指摘しないと落第だね。
キミは勉強不足だし、それよりもなによりも体験不足だ (^^)
>>879 何がキリスト教だw キリスト教はパウロの作り話だよね。
>>880 ありがとう。体験から話しているせいだと思う。
知識は驚くほど貧弱です。仏教書はほとんど読んでないし、読む気もしない。
読書歴は、中論、唯識三十頌、法華経、中村訳の岩波文庫数冊程度。
中論にはかなり手こずったよ。
883 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 20:47:22.68 ID:BFpyikwX
反論する気にもなれないて、こっちのセリフやがな。 こっちが言うべきセリフでボケてくるあたり、オウムスレのオウム信者そっくりだわ。
884 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 20:49:56.22 ID:BFpyikwX
師もなく、ひとりで瞑想体験して、浅いところを解脱と勘違いしちゃう人の話は 聞いてたけどさ。 いままさにそれと遭遇しているんですよ。 自分がそこに陥らないようにだけ気をつけていればよいのかと思ってたら そこに陥った誰かに遭遇してしまうという危険もあったのね。 気付かなかったよ。
885 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 20:55:15.59 ID:Gp3qFUgK
人を裁けば裁かれる事になりますぞ。今現在の自分の感覚を発表する位いいじゃない。
>>881 梵我一如を非想非非想処にするのは同意する。
その他には同意できない (^^)
中村氏は、スッタニパータの解説で「この書は極めて難解であり」と
語っている。中村氏ほどの世界的な研究者がそう言うのは、
神や霊魂の体験がないからに他ならない。竜樹も体験していない。
この体験をすれば人格が一瞬に変わる。
神との出会いだが、止ではなく、観で神を体験する。
887 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 21:01:21.77 ID:BFpyikwX
梵我一如を非想非非想処だと思っちゃったってことね。 やはり当たってた。 もうええわ。
888 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 21:02:53.75 ID:BFpyikwX
>>885 自分は道から外れたら、正法を修する者から指摘してもらいたい。
この業が返ってきても1ミリの後悔もない。
>>887 それじゃあ聞くけど、キミは梵我一如をどう理解してるのw
890 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 21:10:44.48 ID:BFpyikwX
あなたの言う梵我一如の定義が何であれ、 滅尽定と非想非非想処とは違う。 つまり、あなたの定義に沿ったとしても その梵我一如は涅槃のことではない。 次に、わたしの言う梵我一如とは、自我が五蘊から離れることによって 自我の境界線が拡大する状態のことを言っている。 その時、自分と他人の境界線が消え、大いなる我、偉大なる我の状態になっているはずだ。
891 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 21:12:15.05 ID:BFpyikwX
大いなる我。 それは世界の実相を無常、苦、無我と観て、涅槃にいたろうとする仏教の修行が 目指すものではない。 肥大化した自我意識は、仏教的な観点からすると、まだまだ美しくない。
892 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 21:21:30.57 ID:BFpyikwX
ヨーガであれば、流派によっては聖者に列せられることもあるだろう。 しかし、仏教でいう聖者とは預流果からであって、その先はまだまだ長い。 まず、瞑想中に思考や感情があるならば、それは三昧ではない。 三昧に入っている時、五蓋は抑制され、かわりに禅支が生じてくる。 五蓋が抑制され、禅支が生じていなければ、それは三昧ではない。 きちんと三昧に入っていれば、思考は止まり、止まった思考をはっきりと 認識できている。肉体の感覚も認識していない。 思考があり、感情が動いているなら、それは三昧ではない。
>>890 >滅尽定と非想非非想処とは違う。
勘弁してくれw 滅尽定が非想非非想処などと言った覚えはない。
>>891 >肥大化した自我意識は・・・まだまだ美しくない。
それは大我どころか、自己愛の膨張だよ ナルシスト君w
894 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 21:26:06.35 ID:BFpyikwX
ここを読んでいる人たちも、あなたの文体の特徴と、考え方の主旨ついて だいたい把握できたと思う。 もう名無しでも区別するのは簡単だろうから、ニセ阿羅漢にスレをかき回さ れる心配はほとんどないと思う。
>>892 >きちんと三昧に入っていれば、思考は止まり、止まった思考をはっきりと
>認識できている。肉体の感覚も認識していない。
思考がないのに、どうやって「止まった思考を認識できる」の?
>思考があり、感情が動いているなら、それは三昧ではない。
だから〜 滅尽定(想受滅)を体験してるんだよw
さらにその先の涅槃定も体験している。これで理解できた?
思考があり、感情が動いているなら、それは三昧ではない。
896 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 21:32:17.24 ID:BFpyikwX
>>895 以前、ビデオカメラの三脚のたとえ話をしたことがある。
思考が止まるというのは、三脚や土台のぐらつきが止まることを意味しており
ビデオカメラの電源が落ちることではない。
そこがわからないというのならば、やはり三昧に入ったことはない
ということを意味している。
>>892 >思考があり、感情が動いているなら、それは三昧ではない。
これは滅尽定のことだね。
キミは、非想非非想処も、滅尽定も体験したことがないだろう?
自己顕示欲たっぷりで2chに書き込まずにはいられない聖者っていったい何なんでしょうね
>>897 >>思考があり、感情が動いているなら、それは三昧ではない。
>これは滅尽定のことだね。
滅尽定を体験したってのも大嘘だとバレましたー
>>896 そういうたとえ話はたくさん。キミは滅尽定を体験してないだろ。
これに答えてほしいな。
901 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 21:43:40.29 ID:BFpyikwX
心は同時に複数の部分が動いているので、心が止まる過程で 止まった心の部分を、まだ動いている他の心の部分が「あ、止まった」と 認識する、というような現象がおきる。 更に、その「あ、止まった」と思考した部分さえも、集中によって止めて いくと、さらに三昧に近づいていく。 修行寺で修行僧たちがやってるのは、そういう練習。そういう訓練。 梵我一如で気持ちよくなって、「おれは最終地点に到達した」とか 梵我一如が非想非非想処定であると解釈するとか、「マイワールドづくり」を 始めると、師匠から指導を受けることになる。
>>899 眠くなってきたので間違えたよ。ゴメンね。
だれだって間違える。
903 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 21:46:49.63 ID:BFpyikwX
心が止まるというのは、心を構成している全ての部分が、一箇所に集まり くっついて離れない状態のことを言っている。 心が、瞑想対象という一箇所に集まって、それによって思考が止まるので あって、眠っているわけではない。 ビデオカメラのたとえでいうなら、電源は入っている。 それが、明瞭な意識で一点に定まった状態ということ。 眠ることを滅尽とはいわない。 電源を落とすことが滅尽なのではない。
>>901 >心は同時に複数の部分が動いているので、心が止まる過程で
>止まった心の部分を、まだ動いている他の心の部分が「あ、止まった」と
>認識する、というような現象がおきる。
そんなことはないw キミには滅尽定の体験がないねw
905 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 21:56:49.60 ID:BFpyikwX
ヨーガスレに行って梵我一如を連呼するポエマーになりたいなら、どうぞ お好きになさったら宜しいと思います。 その場合は何もいいません。 追いかけていく気もありません。 仏教スレで、阿羅漢宣言して偽仏教をを語る場合は、目についた場合は 反論すると思います。
>>903 眠くなってきたから、また後でやろうw
でもキミに勝ち目はないよ。
なぜならキミは、滅尽定を体験してないから (^^)
907 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 22:15:26.33 ID:BFpyikwX
滅尽定に入れるということは、阿羅漢であることを意味しますが 阿羅漢の心には欲界の対象に対する欲や怒りは生じないはずです。 阿羅漢の心には十結がありませんから、慢もありません。 仏教用語でいう慢とは、自分と他人を区別する心の働きのことです。 よくご自身の心の中を観察して、十結が残っているかどうか 確認してみてはいかがでしょうか。
908 :
神も仏も名無しさん :2014/02/13(木) 23:56:30.82 ID:sv1Pc893
瞑想で浄化されていく時って 体が痛くなったり気分が悪くなったりしますか?
そういうこともあるんじゃないかな。馬鹿になっていくのもあるし。WWW でも普通は気持ち良くなっていくでー。
>908 瞑想会の時、腕が痺れ始めてどうしたものかと思っていたら1週間して瞑想会 が終わったら肩こりがすっかり治っていたことがある。 それとつい最近だけどキリスト教のあるサイトを見ていたら段々胸が熱くな ってきて身体がポカポカする。その後スッキリしてまるで子供の頃に帰った ような気持ちになった。そういう読むだけとか見るだけでも打たれる浄化も あるみたい。
>>906 君が体験したのは滅尽定じゃなくてただの三昧だね。
で、その一番低い小悟に囚われて慢心して逆に落っこちる奴はたくさんいるわけだよ。
今の君がまさにそれというわけだな。
滅尽定ってなんですか?
913 :
神も仏も名無しさん :2014/02/14(金) 11:09:14.89 ID:F7ZsfBaP
ふむ。滅尽定は瞬間的には誰でも経験あるんでは? 釈迦はそこらの「霊障がどうたら」といってるようなキチガイと違って普通の 人だから、普通の人の感覚を備えていてその能力が抜きんでていたわけだから ね。 普通の人が1秒間感じる滅尽定を5秒間くらいは感じることが出来た可能性 はある。敬愛する人は「いや100秒間でもできたのだ」と言いたい気持ちは解るが 同じ人間にしてそんなに能力が違うということはありえない。 例えば自分は100mを11秒台で走れるが、もし9秒台で走れるならオリンピック にでられる。せいぜい2秒程度しか違わない。 釈迦がどんなに偉大だったとして、「5秒で走れた」とか言い始めると嘘っぽい。
キチガイのバリエーションはいくらでもあるから無辺。無限大。 キチガイは色即是空。なんでもあり。発散。ロックンロール。 しかし、釈迦が説いたのは中庸だ。普通の人のもっとも均整のとれた普通さ。 その中庸に収束する美しさだな。
5ー4 滅尽定は悟りの体験
最後に九番目の禅定を説明しないといけません。
これだけは、今の世界では釈尊より前には誰にも達せられていませんでした。
想受滅とか滅尽定などと呼ばれていて、想がはたらいているかどうかも分からない非想非非想処からさらに進んで、
想で全ての触れることの滅を感受して、それでお終いになるのです。
後は滅だけで、想もない状態です。全ての感受を断ち切った、究極の「楽」です。
(略)
想受滅の間は何の心のはたらきもありません(略)
想受滅では心の状態に連動して、身体のはたらきもその間ほとんど止まります。
飲食や排泄はもちろん、呼吸さえほぼなく、細胞の活動自体がほぼ完全に休止します。
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta3.html#3-2
916 :
神も仏も名無しさん :2014/02/14(金) 12:06:50.34 ID:F7ZsfBaP
基本的にエネルギーを滅することはできない。なので転換するほうが理に適っている。 優れた料理人なら苦味をうま味に変えることが出来る。人生の達人なら苦しみを喜びに変えることが 出来る。滅するというのはあまり良い方法ではない。
>>912-915 仏教では、五蘊(色受想行識)の仮和合が人間だと言われている。
滅尽定あるいは想受滅で何が滅びるかと言えば、受想行識がほぼ滅びる。
ほぼ滅びるというのは、完全に滅びたら死ぬからです。
釈迦は滅尽定を体験してもこの世に戻って来た。まったくの滅ではないから
この世に戻れたのであり、それが成道でありブッダですね。
滅尽定へ入っても、坐禅の姿勢は何時間でもそのまま維持されている。
その後に身体の痛みも残らない。そういう神秘体験があるのです。
実際に体験しないことには理解できないと思う。
918 :
神も仏も名無しさん :2014/02/14(金) 18:49:41.27 ID:J6QsL7GC
>>905 >>907 >>911 キミは梵我一如をたびたび例にするが、キミが梵我一如を書いたから、
それは非想非非想処レベルだと言っただけ。
それに、滅尽定を体験したら阿羅漢というから、
それじゃ阿羅漢だと言っただけであり、そんな名称などどうでもいい。
ただ、偉そうに教える側も悟ってないし、悟りの方法論もヨレヨレだし、
迷い人があんまりにも気の毒なので書き込んでいる。
無名でも、神霊、霊魂を体験したことに変わりない〜 ♪
919 :
神も仏も名無しさん :2014/02/14(金) 19:59:04.49 ID:HFk3SUwp
youtubeでオウム真理教の紹介のビデオみたんですけど、アラカンがいっぱいいたみたいですね。 今では、みんな捕まったりしてるんでしょうか。水中クンバカをするアーナンダの映像はめちゃく ちゃおもしろかったです。思い出すだけで笑ってしまう。なんでだろう。 みんなアラカンになったって勘違いして人生棒に振ったんでしょうね。自業自得ですが、哀れですね。
920 :
神も仏も名無しさん :2014/02/14(金) 21:26:01.61 ID:4dDCMKY+
>>918 >神霊、霊魂を体験したこと
こういう実体論を平気で持ち出すところが語るに落ちるというかねw
憎めない奴だな、君はw
>>915 >想で全ての触れることの滅を感受して、それでお終いになるのです。
少しでも想が残っていたら、想受滅にならない。
>後は滅だけで、想もない状態です。全ての感受を断ち切った、究極の「楽」です。
想も感受もないなら、「楽」を感じることもありえない。
>想受滅の間は何の心のはたらきもありません(略)
そんな状態から、日常生活に戻って来るのは不可能だろう。
どうやって戻って来るの?
紹介サイトもかなり混乱していて参考にならなかった (^^)
>>920 釈迦は暗黙だが、実体(霊魂、我、アートマン)を想定しているよね。
空なりと観じるのはいったい誰?
Sn.1118 「どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか。」
Sn.1119 「つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、
世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
このように世界を観ずる人を、<死の王>は見ることがない。」
何で瞑想すると皆法螺吹きになるんだろね。W
924 :
神も仏も名無しさん :2014/02/14(金) 23:04:00.19 ID:umn8UNEr
仏陀のことを「釈迦」って呼び捨てにする人が語る仏教解釈はって 100%間違ってるんだよ。 面白いんだけど、外れたことがない。
925 :
神も仏も名無しさん :2014/02/14(金) 23:16:26.99 ID:WhufGIE5
Sn.1119 の文章は変だね。下記のように訂正すれば意味が通る。 「つねによく気をつけ、世間を空なりと観じ、 自我に固執する見解を打ち破れば、死を乗り越えることができるであろう。 このように世間を観ずる人を、<死の王>は見ることがない。」 世間と世界は意味が異なる。元の文章だと世界が消えてしまう。 訂正文であれば、観じる主体と、客観世界が残るから「二元論」になる。 釈迦の思想はもしかして「二元論」なのかもしれない。 そもそも縁起の理法が「二元論」ではないか。
>>925 全然ちがう。
自我の固執を打ち破って始めて、世界が空になるんであって、
世界が空と観じられれば、そもそも固執する自我などない。
「観じる」というのは、そういう境地のことであって、
思考の努力じゃない。
だれかが滅尽定を体験したと言っても、簡単には信じられないだろう。 そんな体験を認めたら、その人を「真理に達した人」と認め、 自分を「愚者」と認めるようなものだから、 自尊心が許さない。 でもそうやって他人の体験を信じないなら、 本当に滅尽定を体験した人も掃いて捨ててしまうことになる。 釈迦も、疑惑者を解脱させることはできない、と言っている。
>>926 だから〜 問いは「世界」ではなく「世間」になっているだろ。
世間が空であれば、自我に固執する見解は打ち破られる。
世界を空にする必要はないのだ。
苦の滅には、自我に固執する「見解」を打ち破ることが肝心なんだね。
自我への執着がなくなれば解脱する。
929 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 00:13:01.70 ID:MjZQ22SG
>>911 五蓋が抑制され、禅支が生じていれば三昧。
五蓋が抑制されておらず、禅支が生じいなければ、それは三昧ではない。
三昧に入っている時は、思考が止まり、身体の感覚を認識できなくなっている。
思考があり、身体の感覚を認識できていれば、それは三昧ではない。
>>906 の彼は、自らの瞑想経験を「神との出会い」、「神の体験」、「神霊、霊魂
を体験した」と表現している。
(
>>886 ,
>>918 )
これは三昧に入る練習をしている修行僧なら、何度も経験しているはずだが
自らが美しいと思う概念に没入してしまった状態であって、これはゴルフに
喩えるとOBのハズレ。初禅に入ることすら失敗している。
色界の三昧に入れないのに、無色界禅(非想非非想処など)に入れるはずが
ないし、滅尽定なんてあり得ない。
世間とは、キミたちの思いのトータルのことだよ。 その思いが空だってことね。 地球も太陽も月も、世界は厳然としてある。世界は空ではない。
>>929 >色界の三昧に入れないのに、無色界禅(非想非非想処など)に入れるはずが
>ないし、滅尽定なんてあり得ない。
キミは非想非非想処。滅尽定を体験したの?
偉そうな話はそれからだよ。
932 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 00:23:10.07 ID:MjZQ22SG
瞑想で気持ちよい体験して酔っ払ってしまう人、たーくさんいるんだよ。 自宅でひとりで瞑想やってて、瞑想体験できちゃったんだろ。 わかるよ、ありえるし。 通信講座の空手で黒帯になっちゃうタイプの勘違いだよ。 通信講座の黒帯は、道場で稽古している本物の黒帯と対戦したら、 3秒と持たないと思いますよ。 阿羅漢宣言ってのは、自宅で通信講座の空手をやってる人が 空手の奥義を究めたって思って、2ちゃんの空手スレに乗り込んで 最強宣言するようなもんです。
>>928 世間と世界はほぼ同じ意味じゃね?
調べてみると、「世間」の言語は、サンスクリッド語で「ローカ」。
意味は、「滅すべきもの」。
「世界」は、「ローカ・ダートゥ」。
「ダートゥ」は、「領域」。
まさか、サンスクリッドの言語も考えずに、漢字で意味を
判断したんじゃないだろうな?
934 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 00:24:15.74 ID:MjZQ22SG
>>931 だからね、それ以前の問題で
あなたの瞑想は初禅にすら達していないんだから
そういう問いをする立場にないんですよ、あなた自身が。
935 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 00:27:18.88 ID:MjZQ22SG
>>931 本当に独学でやってる?
本当はどこかの新興宗教団体に所属してるんじゃないの?
それだけ強く思い込めるってことは、外部からの刷り込みがあると思うんだけど。
本当に独学なら、学ぶ姿勢があるはずだもの。
>>934 >>931 の質問に答えないキミは狡猾だよ。
非想非非想処も滅尽定も体験していないのでは話にならない。
わたしのことを知らないくせに、キミは妄想しているだけじゃないか。
初禅がどうとか、どっからそんな話が出てくるの?
>>933 サンスクリットはまったく知らない。
釈迦はパーリー語を使ったし、日本人なら日本語で意味を読み取る。
世間と世界は明らかに違う。解脱には執着の消滅が肝心なのに、
空の方に重点をずらそうという改ざんを感じた。
937 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 00:45:40.23 ID:MjZQ22SG
・・・。 えっとね。 非想非非想処定というのは、無色界禅です。 初禅というのは、色界禅です。 初禅に入れない人は、無色界禅に入れません。 ですから、あなたが非想非非想処定だと思っている、ご自身の瞑想体験は 非想非非想処定ではありません。
938 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 00:47:53.45 ID:MjZQ22SG
せっかく瞑想体験できるぐらいの素養があるんだから、この機会にちゃんと 正師について基礎からやられたら宜しいと思いますよ。
939 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 00:59:25.84 ID:+3LgY/b7
>>935 わたしはもともと宗教にはまったく無関心。
ただ、人生の意味とか、いろいろ考えるのが好きだっただけ。
それがある日、神霊体験をし、慌てて聖書を読み始めた。
同時に簡単な入門書で坐禅を始めた。
神霊体験をしたから、神への信仰は半端じゃない。
最初から1時間の坐禅をし、じきに非想非非想処を体験し、
これは何度もやり、半年後には滅尽定、涅槃定を体験している。
いまは坐禅を卒業したが、全部体験先行。
宗教書を読み始めたのはそれからで、スッタニパータなどは最近。
>>922 >釈迦は暗黙だが、実体(霊魂、我、アートマン)を想定しているよね。
Attānudiṭṭhiṃ ūhacca(自我に関する見解を除去して)とあるから自我を想定してる証拠がない
>空なりと観じるのはいったい誰?
Mulaṃ papañca saṅkhāya (iti bhagavā)
Mattā asmiti sabbamuparundhe
(世尊が答えた)<考える私が存在する>という、<戯論の根本>をすべて破壊せよ
これによって「行為する主体」という邪見は否定される
>>936 あれだ、wikiで見ると、「サンスクリッド語」って書いてあるけど、
パーリ語でも「loka」は、「世間」、「世界」 ってことみたいだ。
同じ意味に扱われてる。
そもそも世界っていうのは、自我意識を通して見る、個々分別の世界だよね。
もし、一つの存在が宇宙にあまねく広がっていたら、その中は空だよ。
なんの区分もない。
区分を作れば、存在が生まれる。
区分がなければ、空。
ただ、宇宙にあまねく広がった、一つの存在があるだけ。
世界ってのは、その空の中に自我という区分を作って、その自我がまた
対象を区分して、各々存在があるように錯覚してる状態・・・・
だから、自我を滅すれば、対象区分が無くなって、ただ宇宙にあまねく広がる
一つの存在だけになるんでしょ。
一つってのは、対象が無くなるから、どこを見ても自分ってことになる。
月や太陽が無くなるってことじゃなくて、月、太陽としての対象区分が無くなり、
すべてが自分自身になる・・・ ってことかな。
空というのは虚無じゃなくて、言ってみれば、大いなる存在を表すことじゃないかな。
>>940 わたしは基本、引用文には典拠を示すようにしている。
キミもそうしてくれたらいいのに。
>(世尊が答えた)<考える私が存在する>という、<戯論の根本>をすべて破壊せよ
>これによって「行為する主体」という邪見は否定される
主体が空なら、主体は何も観じることはできないw
経典鵜呑みではなく、自分の頭で考えましょう。
自我に関する「見解」を除去して、とある「見解」と何か。
943 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 01:25:23.53 ID:MjZQ22SG
>>942 >頭で考えましょう。
んー
んんんー(笑)
>>941 それは通らない。日本語では世間と世界は違う。
中村氏は原文を正確に日本語にしたが、原文が変だったということだ。
たぶん改ざんされていると思う。
945 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 01:31:18.08 ID:MjZQ22SG
色、受、想、行、識の五蘊の働きは、色、受、想、行、識であって そこに私というものの実体があるわけではない。 そこにあるのは、あくまで色、受、想、行、識であり 観ずる作用というのは、想であり、行であり、識。 ということらしい。 というか、まず「有身見」、「十結」あたりのキーワードでググってみると 参考になる情報拾えると思うよ。
946 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 01:59:59.81 ID:MjZQ22SG
いつになっても、仏教の中身をバラモン教に書き換えようとする人たちが後を絶たない。
947 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 02:04:19.16 ID:MjZQ22SG
瞑想体験がある、神秘体験をした、おれの話を聞け。 釈迦はヴェーダの達人だ。 アートマンはある。 全部このパターンだろ。 何回目だ。
948 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 02:10:33.85 ID:c9VmrV8Q
>>942 >わたしは基本、引用文には典拠を示すようにしている。
>キミもそうしてくれたらいいのに。
Attānudiṭṭhiṃ…がSn.1119で、Mulaṃ…がSn.916だよ
>主体が空なら、主体は何も観じることはできないw
主体はなくとも受・想・行・識によって、観察される
>自我に関する「見解」を除去して、とある「見解」と何か。
「私がいる」という見解だろう
>>944 >日本語では世間と世界は違う。
伝統的な漢訳語では区別がない
lokaだけで世間とも世界とも訳し分けられる
たとえばsahālokaは娑婆世界と訳されるが、『金剛頂大教王經私記』では娑婆世間とあることから、
日本人にとっても本来、世間と世界に違いはなかったことが分かる
>>944 続き
有名なsattvalokaは『優婆塞戒経』では衆生世界と訳され、『大方等大集経』では衆生世間と訳されてる
『金剛頂大教王經私記』も参照すると、漢・日に渡って世間と世界に区別がなかったと知られる
ちなみに「原文か改ざんされてる」のに、中村元氏はどうやって正確な日本語を導き出したんだろうね?
サンスクリット(パーリも?)の知識がない君になぜそんな判断が下せるのか疑問だ
>>949-950 パーリーもサンスクリットもまったく知らない。
世間の原語ローカは世界のことでもある、ということも知らなかった。
しかし日本語では、世間と世界を区別している。辞書的には
世間・・・世の中。人々の住む社会。また、そこでの活動の範囲。
世界・・・@地球上で人間が占めるすべての空間。A世の中。社会。
B同じ子供の集まり。Cある限られた範囲。
世界は空間的な概念であり、世間は人間同士の社会関係を意味している。
Aは世間と似ているようだが、空間にウエイトがあり微妙に違う。
仰るように、原語ローカは世界と世間の両方を意味するのでしょう。 しかし日本語では微妙に使い分ける。その違いを無視、 その場の都合で交互に翻訳されたら、読者は誤解し混乱してしまう。 「世界を空なりと観ぜよ」と「世間を空なりと観ぜよ」では意味が違う。 世界にすれば、人間の身体も、自然的な宇宙も空になる。 世間にすれば、人間の社会関係だけが空になる。聖徳太子の世間虚仮。 釈迦がどっちで語ったかは、Snの他の個所と比較すれば明らか。 たとえば、Sn.1033に「世間は無明によって覆われている」とあるが、 この無明がなければ世間は輝く。釈迦は無明の空を説いている。
>>940 >>釈迦は暗黙だが、実体(霊魂、我、アートマン)を想定しているよね。
>(自我に関する見解を除去して)とあるから自我を想定してる証拠がない
意識の流れは脳ミソに記憶される。
意識とこの記憶が関係することで自我が生じる。自我それ自身は空だね。
釈迦が想定しているのは、実体としての霊魂、我、アートマン。
自我を想定しているわけじゃない。
>>940 >>空なりと観じるのはいったい誰?
>(世尊が答えた)<考える私が存在する>という、<戯論の根本>を
>すべて破壊せよ。これによって「行為する主体」という邪見は否定される
同じ個所の中村訳では、<われは考えて、有る>
もっともらしいが、その「われ」の正体が明らかになっていない。
だからこそ<迷わせる不当な思惟>になる。
では、考えることができても、考える行為主体がいないことになるのか。
キミはそう主張するが、この主張はいっそう不当な思惟だろう。
釈迦の真意は「われ」の正体を体験しろということだ。
955 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 13:21:37.27 ID:DdYwD15P
>>948 >>主体が空なら、主体は何も観じることはできないw
>主体はなくとも受・想・行・識によって、観察される
わたしという、統一的に把握し、判断する主体がないと観察できない。
意味のない、バラバラの受・想・行・識では観察が成立しない。
>>自我に関する「見解」を除去して、とある「見解」と何か。
>「私がいる」という見解だろう
見解の中身ではなく、見解それ自体の意味を聞いたつもりだった。
見解とは、あるものごとについての見かたや考えかたをいう。
だから、「私がいる」「私がいない」というのはどちらも見解に過ぎない。
>>952 >世間にすれば、人間の社会関係だけが空になる。聖徳太子の世間虚仮。
聖徳太子はまさに現代日本語における「世界」の意味で「世間」と言ってるんだよ そのあとに唯仏是真とあるだろ
「この世界は虚しい仮そめの物であり、仏(の教え)だけが真実である」ってこと
>Sn.1033に「世間は無明によって覆われている」とある
無明に覆われているのは社会だけじゃなくて、生命全般だから、世間を「社会」の意味にとるのは間違い
>その「われ」の正体が明らかになっていない。
だから「われがいる」というのが<迷わせる不当な思惟>だって
>>954 >この主張はいっそう不当な思惟だろう。
我々の常識では不当と思えることを説くのが仏教
つまり君は悟ったと言いながら、凡夫とまったく同じ思惟にもとづいてるって事さ
>>955 >わたしという、統一的に把握し、判断する主体がないと観察できない。
それが妄想だね
脳にすべてを統率する主体となる部分が存在するかい?
バラバラの神経細胞の組み合わせでしょ
>「私がいる」「私がいない」というのはどちらも見解に過ぎない。
「私がいる」「私がいない」というのはどちらも見解というのはその通り
958 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 17:07:47.92 ID:MjZQ22SG
仏教の特筆すべき特徴に三宝印がある。 無常、苦、無我だ。 仏教以外の多くの宗教は、真我などの永遠不滅、恒常不変、 絶対的な存在を想定し、それを崇め、あるいは最終到達地点とする。 仏教はそうは考えていない。 それも無常であり、苦であり、無我だと言っている。 ここが仏教と他宗教との違い。
959 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 17:11:35.08 ID:MjZQ22SG
三宝印 × 三法印 ○
960 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 19:06:50.15 ID:mfpY5XIF
哲学的なのもいいげど、技術的な方向でのプロレスも読みたいなぁ。
961 :
神も仏も名無しさん :2014/02/15(土) 19:29:17.36 ID:rTc4WzNu
仏陀への敬意 仏法僧への帰依 これがまず土台にないと、瞑想で気持ちよい体験をして慢心に陥った時に 軌道修正する術がない。
962 :
神も仏も名無しさん :2014/02/16(日) 08:11:08.91 ID:E2r7h70D
悪いニュースを見ると報いを受けてしまえと 思ってしまう。引き換えに慈悲の瞑想で自分のエゴを 帳消しにしようとしている。こんな悪知恵はどうやったら 消えるのだろう?
>>960 Sn.1119をめぐる話では、釈迦はどんな空を説いたのか、
これに関連して、世間と世界の使い方に問題はないのかと指摘した。
Sn.1119「世界を空なりと観ぜよ」という表現では、
釈迦は世界(人間も宇宙)を空にするように読める余地がある。
ここは止観を左右する重要個所だ。そこで、
世間と世界の使い方を問題にした。日本語はこのふたつを区別する。
世間知らず→×世界知らず、世界平和→×世間地図
インドでは区別しないから、日本語でも区別しないでは通用しない。
釈迦の説いた空とはいったい何か。Snの他の個所を参考にしよう。 Sn.1053「伝承によるのではなく、いま眼のあたり体得されるこの理法を、 わたしはそなたに説き明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて 行い、世間の執著を乗り超えよ。」・・・体得・行い・世間の執著 Sn.1078「世の中で、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、 伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。煩悩の魔軍を 撃破して、苦悩なく望むことなく行う人々、ーーかれらこそ聖者である、 とわたしは言う。」・・・Sn1082 にも同様趣旨あり
釈迦は、心の中にある煩悩、世俗的なものに対する(心の中の)執著、 (心の中の)無明を問題にしているではないか。 そういった(心の中の)思いを「空なりと観ぜよ」と説いたのだろう。 心(霊魂)は無明に覆われている。釈迦はこれを問題にしているのだ。 釈迦は人間や宇宙の自然的存在を「空」にしたのではない。 苦楽などの縁起「空」を説くが、存在自体を空にする般若「空」を説かない。 心に空を観じ、無明を完全に除去したあとに何が現れるのか。 釈迦はこれを積極的に語らない。だから釈迦を誤解する行列が延々と続いた。 しかしその先に、何もない「空」があるわけではない (^^)
それもまた妄想だ。
体験を妄想とは言わない。
>>963 の訂正
× インドでは区別しないから、日本語でも区別しないでは通用しない。
○ インドでは区別しないらしいが、日本語では区別しないと通用しない。
>体験を妄想とは言わない。 君は縄を見て蛇と誤解しているようなものだ
>>962 まともな人だなー
報いを受けて欲しいという気持ちは雷、
慈悲の気持ちはそよ風、どちらも自然現象だから、
起こってしまうことはしょうがない。
ただ、自分が雷と同化してしまわないように、雷を育ててしまわないように、
自分の本質はそのかなたにある青空だということを忘れなければいいのでは?
正直こんなクソスレはもったいない。
>>968 疑惑者を解脱させることはできない。
この世界には真理がある。真理とは事物の真相をいう。
古来より、それなりに支持された宗教には、何かしら共通した香りがある。
それは「体験された真理」に基づいているからに他ならない。
事物の真相は洋の東西を問わない。
全身麻酔と部分麻酔の例で、意識の正体を明らかにしようとした。 われわれ全員が、意識という不思議な能力を持っている。 そしてこの意識こそは、霊魂を基体にして活動し、「わたし」という意識の 根源に他ならない。霊魂とは、純粋意識であり、自己意識なのだ。 その人らしさは、霊魂という球体を覆っているアラヤ識から発生する。 何年経っても、その人らしさがまったく変化しないのは、 このアラヤ識を清算できないから。逆に、このアラヤ識を清算できれば、 人格が瞬間的に一変する。それが解脱であり悟りである。 意識の正体がわかれば、悟り、解脱の技術的方法も多少見えてくる。
止観の方法 @ 止(サマタ)は、意識そのもの、霊魂になることを目的にする。 観(ヴィッパサナー)は、意識を集中して神霊との出会いを目的にする。 A 止観は基本、観から止の順序で行う。 なぜなら、止のレベルは観のレベルを超えないから。観が止を左右する。 B そこで観だが、意識の集中度を上げるため、ラべリング瞑想をしたり、 慈悲の瞑想や、軽めの止(サマタ)などを利用することも可。 ただしそれらは観の準備でしかない。まだ観になっていない。 C 観の実際は、生きている意味や、自分とは何かをひたすら考え、 我を忘れるほどそれに没頭すること。ゆえにBの省略も可。
973 :
神も仏も名無しさん :2014/02/17(月) 22:41:40.83 ID:RDNLcGDX
止と観を比べたら、観の方が圧倒的に難しい。 D 観を進める武器が縁起の空だ。般若の空は迷い道になる。 E 自分の観察だけでなく、他人を観察することも気づきの契機になる。 F 宗教よりも、哲学や心理学の方が参考になる。 G 運が良ければ「神霊」と出会う。これが観の完成になる。 神霊に出会えば、生死を超えて、神を全面的に信頼することができる。 H ここでようやく、止(坐禅、サマタ)をスタートする。 止の目的は、意識そのものになることだから、感覚への刺激を断てばいい。 わたしは静かなくらい部屋で数息観をやった。 I 滅尽定を経て、意識そのもの、霊魂を体験したら成道ですね ♪
別にそんなややこしいことをしなくても成道はできます。WWW
アップデートする仏教の本のアマゾのレビューのコメントで nozawa_onsenちゃんいろいろ情報公開してるが、ほんとなのかよw 15年くらい前からの、いろいろな流れを考えると... まぁ、こちらでは小池ちゃんだけめのかたきにされてるようで よかったね。
宗教はママゴトだからママゴトだと自覚していなくてはいけない。 チベットの聖者
目の前が無色透明になって、そこには何もなくて、それが終わったら耳がシーンとなって、静寂に包まれて、元に戻った これ何?
脳貧血
979 :
神も仏も名無しさん :2014/02/21(金) 22:32:59.03 ID:8ZfuK5UK
★ アラハン(応供)とは何か。この問いは意外に難しい ★ @ まず最初に「縁起空」を直感する → しかし空など別段、有り難くない。 A 観の完成によって「神霊」に出会う → ここで修行者は苦の滅、 罪の赦しを得る。しかし修行者自身の話であり、応供には至らない。 B 止の完成によって「霊魂」に出会う → 自分自身との出会いであり、 自分が不死であることを知る。しかしこれも修行者自身の話である。 C 実はもうひとつ、最後の禅定〜「龍神」との出会いがある。 ここで神から、修行者の慈悲(愛)がホンモノかどうかを試される。 龍神とは梵天勧請の梵天だ → ここで修行者は応供、アラハンになる。
アラハンもママゴトだと自覚しなくてはいけない。
981 :
神も仏も名無しさん :2014/02/21(金) 22:52:54.57 ID:8ZfuK5UK
坐禅中に龍神を体験した人はいるだろうか? これがアラハンの条件であることを、だれも知らないと思う。 これは奥義中の奥義だ。 釈迦はもちろん体験している。しかしそれ以外に何人いるのか。 アラハンと龍神との関係はすっかり忘れ去られている。 大乗にも上座部にも、アラハンなどひとりもいないかもしれない。 仏法は、釈迦が最初で最後だった可能性もある。 でもそれは言い過ぎ、何人かいたことを信じたいと思う (TT)
982 :
神も仏も名無しさん :2014/02/21(金) 23:01:55.14 ID:8ZfuK5UK
梵天勧請を読んだらわかる。 悟ったとはいえ、まだまだ自分だけだった釈迦が、 梵天勧請で自分以外に説き始める。 わたしは釈迦の気持ちを理解した (^^)
983 :
神も仏も名無しさん :2014/02/21(金) 23:18:37.30 ID:8ZfuK5UK
三途の川を渡る人々を背後から見たことがある。 さらに龍神の背中に乗って「あの世」を見たこともある。 不思議なのは、川の向こう側に人々の姿がまったく見えないこと。 澄み切った、のどかな春の風景が広がっていた。 そういえば、浅い三途の川を歩いて渡る人々の姿も、 川の中途で消えてしまったw
>>975 >実際2年も前から法話の文字起こしのボランティアをやらせているが、
>中間報告のひとつも無く、ただやらせるだけの放置プレーだったが、
このあたりか。いまのうちにキャッシュだな。
そういえば、1.0とか3.0とかって、USB端子の話から出てきたことだよね。
そのこと本には書いてるのかね?
結局3.0なんて大きな変化全然なかったんですけど?
986 :
神も仏も名無しさん :2014/02/22(土) 05:44:26.47 ID:ecS5pxsP
987 :
神も仏も名無しさん :2014/02/22(土) 06:25:48.45 ID:3xs19KJn
>>977 >目の前が無色透明になって、そこには何もなくて、それが終わったら耳がシーンとなって、静寂に包まれて、元に戻った
>これ何?
どういう状況でそうなったのか、もう少し詳しく教えて欲しい。
988 :
神も仏も名無しさん :2014/02/22(土) 06:44:31.64 ID:3xs19KJn
>>979 >C 実はもうひとつ、最後の禅定〜「龍神」との出会いがある。
>坐禅中に龍神を体験した人はいるだろうか?
龍神(滅尽)だと思っていたものが実はバーバンガ、有分心(無意識状態)に堕ちていただけということもある。
初心者はよく有分心と悟りと勘違いをするらしいが。
その検証は必要。(^^)
>>988 Bの滅尽定とCの龍神体験は、違う日の坐禅で別々に体験する。
キミがどちらも知らないことはわかった (-_-)
990 :
神も仏も名無しさん :2014/02/22(土) 07:24:26.93 ID:3xs19KJn
>>989 ああ、龍神は聞いたことないわw (^^)
君は修行何年目で龍神の境地に達したの?
たったの一年以内だにゃ (-_-) その代わり「観」が長い。子供のころから神話を読み耽っていた。 何のために生きているのか、早く大人になって思いっきり 学びたいと願っていた。家庭的に不幸だったからね。
かってに大学に入学、授業そっちのけで小説や心理学や哲学を学び、 25ぐらいで「空」を洞察、30で神霊体験、 それから半年で滅尽定、霊魂体験、そしてさらに龍神体験をしている。 宗教本を読み始めたのは、神霊体験の後で聖書が最初。 しかしキリスト教徒ではない。定職につかず、ひどく苦労したけど、 子供時代の夢をかなえた実りある20代だったと思う。
カン違いしている人が多そうなので書くが、 滅尽定それ自体は記憶が飛んでるから全身麻酔と同じ意味でしかない。 重要なのは滅尽定の入と出にある。入は「アラヤ識を捨てる」ことから生じ、 出は神界での霊魂体験であり、神界から生還すれば「成道」になる。 たとえば周囲に頼み、滅尽定そのものから抜け出すのは邪道だろう。 滅尽定に入ること自体が超難関、生涯でたった一度のチャンスかもしれない。 それを台無しにしてしまう。神霊体験なしで坐禅(止)をスタートするから、 死を恐れ(この恐れ自体は当然だが)、成道を流産させる。 神霊体験の有無が決定的に重要。坐禅は生死を神に委ねて行う。
995 :
神も仏も名無しさん :2014/02/22(土) 10:11:45.70 ID:3xs19KJn
空海が行った求聞持法のネライは、呪文を何万回も唱えて瞑想状態に入り、 滅尽定に入り、神界で霊魂体験をするばかりでなく、 そこから生還するために、無意識に呪文を唱え出す訓練にもなっている。 これはこれでひとつの技法なのだろう。 昔から求聞持法で多くの死者が出ているとも聞く。全身麻酔が危険なように、 滅尽定から生還することはきわめて難しいと肝に銘じよう。 かりに成功しても神霊体験がなければ、その後の理解に偏りが生じる。 いまの日本で求聞持法をやりたがる人はほとんどいないと思う。 チベット仏教に残るらしいが、求聞持法はやめた方がいい。
>>995 真我の意味をよく知らないので体験を具体的に書けば、
霊魂とは肉体ではなく、透明な球であり、そこに自己意識があり、
感覚(眼耳鼻舌身)があり、しかも「判断能力」まである。
たとえば神界のような対象があれば、それに触れ、それを感じ、
それを見ることもでき、それを善いものとして判断することもできる。
しかし記憶できない。脳ミソがないから。
体験したこともないくせに、神霊(キ教的には聖霊)を「脳内麻薬」とか、 霊魂体験を「変性意識」とか言って、したり顔している学者もいる。 しかし神霊は、脳内に落ちてくる透明な雫であり、これを直接見る。 ドーパミンのようなものを見るのではない。 霊魂は純粋意識でもあり、「わたし」という意識がそこにある。 普段と変わりない「わたし」ではなく、鋭敏過ぎる意識になっている。 たぶん普段の50〜100倍の鋭敏さ。小さな声が雷のように轟く。 わたしは不安を感じ、そうつぶやいたことで神界から生還した。
いまはネット社会で、自分の体験を社会に発信できる時代になった。 宗教での金儲けに興味がなければ、ネットを利用すればすむ。 悟りやすい時代になったね。 せっかく悟りやすい時代になったんだから、次々に悟ってほしい(^^)
1000 :
、 :2014/02/22(土) 14:31:20.12 ID:wuBhGica
グヘヘ
1001 :
1001 :
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