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(94)たとえば、大王よ、ある人が、自分の村から他の村へ行き、その村からまた別の村へ行き、
そしてその村から再び自分の村へと戻ってくるとします。彼はこう考えるでしょう。「わたしは自分の
村からあの村に行き、そこでこういうように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そのの
ち、その村からあの村へ行ったが、そこでもこのように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言で
いた。そして今はその村から再び自分の村へ帰ってきている」と。
まさにそれと同じく、大王よ、心が安定し・・・堅固な不動のものとなったとき、比丘は過去の生存
の境涯を想起する知に、心を傾け、心を向けます。---(93節の繰り返し)--。
これまた、大王よ、前に述べた果報よりもさらにすぐれてより霊妙な、目に見える沙門の果報であ
ります。』
(『ディーガ・ニカーヤ』2:93〜94/出家の功徳)