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「無我」の“アートマンはない”が意味的に通用するのは、精々、一切(有為)内だけです。時代の変色を
帯びて、無我が“アートマンはない”という本来はなかった使われ方をしたのは部派影響に拠るということは、
一代が天才と賛美する石飛氏も言及されていることです。
『「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我ではない」という意味です。--中略--
ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)
これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入っ てくるということ
です。』(管理人エム/マニカナ掲示板過去ログ2739.)
『ところが、やがて此の“アートマンでないもの”ということが“アートマンを有しない”という形容詞として用
いられ、我の存在の否定の意味をもつようになり、これが、部派佛教の考え方となったのである。』
(武邑尚邦著『東西思潮と仏教思想』)