仏教 議論スレッド 60

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543宝珠愚者@(規制代行)
>>476
>宝珠はココが気に入らないらしいけどw

 うーむ。少し誤解、もしくは語弊があるということだろうと思います。絶対他力を謳うものは仏教で
はなく、あくまでも法に添った自己の実践修行によって自らを変えていくということ。その最終ゴール
が自己救済ということであり、その道を説くべく遊行されたのがゴータマ成道後の生涯だったわけで
す。苦の克服の仕方は教えるけれども、あくまでも実際に克服するのは自分自身だということ。
 つまり、自己救済の法を説いてまわったことが衆生済度に当たるというのならば、そう言い方も確
かに可能なのかもしれませんけれど・・・。ただ祈るだけで、“救済してくれる”ことを説くのが仏教で
はないのであって、その辺が、何か余計な誤解を招きやすい表現だと言えるかもしれません。

 それから、何やら勘違いを起しているのはセブンなのであって、仏教というものは、原始経典におい
ても大乗においてもすべて一貫して輪廻転生が説かれます。
 業報による輪廻とは、悪業においては死後と来世に悪報をもたらし、善業においては死後と来世に
善報をもたらしますものであって、これを受け入れない者は邪見であるとして厳しく戒められています。
 『因果を否定する邪見があっては仏教の教えには決して入ることができないとされ、この邪見がもっ
とも悪いとされる。(p251-252)』(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

 そして、これがセブンの見解そのものですね。『さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精
神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。』(Sn.876)

 原始経典の説く四向四果(四双八輩)の解説に従うならば、仏道の歩みは死後の来世に跨って段
階的に進歩向上するものとして説かれています。
 従って、死の間際わずか数年の仏道修行であっても、死後の来世においては、その達成点から再
び仏道修行を再開することができるという明確な希望があります。これは仏教が救済するものとして
説いてるという意味合いではなくて、そういう自然界の法であるという意味です。