2/2
>そもそも『梵網経』は当時のバラモン・シャモンの見解ではなく
>一切智のブッダが時間・空間を超えてあらゆる見解を六十二に分類遮断したものなので、
>詭弁であることも明らかでしょう
>だから、仏教がアートマンを認めるというのは無理だんですよ。
いえ、一代のヴェブサイトにおける『梵網経』の解説も、所詮、やはり一切について述べたものに
過ぎませんでしたね。一切内でのアートマン否定ならば、この私もまったく同意します。
『「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、 耳と耳に聞
こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と
心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉
だけに終わらざるを得ないだろう。』(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
それと、その「一切(法)」のことなんですが、一代もそのヴェブで引用紹介しているように、仏典
においては「別の一切はないぞ」とハッキリと言い切っています。この経文にも一切とは五蘊であり、
それ以外はないといっているというのに、その五蘊の中の一体、何処に涅槃の入る余地があると
いうのです?
まずは、「一切法の中に涅槃もある」という間違った概念と矛盾に気づくことからお願いします。
これを勝手に始めたのは部派であると仏教学は明確に指摘しています。
話は、すべてそれからですね・・・。