仏教議論スレッド57

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872宝珠愚者@(規制代行)
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>>773
 『つまり、止・サマタが完成し観を、縁起・無我で正しく行じないものは光明などの禅定・三昧
体験をアートマンと勘違いしてしまうが、縁起・無我で正しく行じるものは光明などの体験を無
我と捉えることができるということです。つまり、我と捉える観は正しい観ではないのです。これ
は『梵網経』でいう聖者、つまり禅定・三昧体験をアートマンと勘違いしてしまう境地を指してい
ると考えます。
 さらに相応部では、次のように説かれます。
 つまり、なんども述べてきた『梵網経』に説かれるように、なんらかの三昧・禅定体験の感受を、
我・アートマン・実在・本質と捉えるのは、五取蘊のどれかを捉えているに他ならないと釈尊は
説かれる。その点で諸テキストは一致しています。 』
http://www28.atwiki.jp/buddha/pages/31.html

ここに述べられている内容ならば、この私も同意しますけれど。
一代は、ゴータマは五蘊以外のアートマンも認めていないといいつつも、
これは単に、バラモンの説くアートマンは五蘊に過ぎないから、
所詮、五蘊はアートマンではないから、という話でしかない。
真実のアートマンは、当時のバラモンたちのサマーディの境地を超えたものです。
つまり、五蘊のいずれでもない超越存在(五蘊はアートマンではない)です。