>>784 >形而上学には無記ということはいいけど、
>従来の説はその意味を「扱わない」としていたんだけど、
>それを石飛先生が「説かない」という意味に変えた。
>どう違うかというと「扱わない」は可能性として有るかもしれないが、
>それついて釈尊は言及しないというような意味
>「説かない」というのは外道でそういう説を信奉している人のために直接否定せず、
>釈尊はそうは説かないという意味
つまりは、
「アートマンは在る」けれどもそれを「扱わない」だけなのか、
「アートマンは無い」けれども外道信奉者を直接否定したくないから「説かなかった」ということの違いだと。
話としては仰る意味は理解しますが、(この場合においては)真実はどちらなのかが特定できないのに、
ただ勝手に、「(無いけれども)説くことをしなかった」ことにしていますよね。
やはり、どちらが真実であったか特定できない限りにおいては、
依然として、無為としての“アートマンはある”という可能はまだ残されています。
この私は、アートマン直知体験の系譜の徒ですから(ゴータマ在世当時は実現者がいなかったようですが・・・)。
それは経験に基づいた無記にしない明確な教え(非仏教)です。