仏教議論スレッド57

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768宝珠愚者@(規制代行)
追記:
 原始経典の研究が進むほどに、実際上、ウパニシャッドとの決定的違いの明確さが無くなって
いくのです。部派の時代に無我の教えが歪められて、「アートマンがない」という教えに変容され
たとき、当時の弟子である彼らは、これを逆手にとって仏教の持つ独自性として打ち出していくこ
とにした。こうして、無霊魂としての無我説を説くことで、インドにおいて仏教は変わり者扱いにさ
れて、これが無視の放置対象となったのでした。インドにおいては、あくまでもアートマンの追求
だけが求められるものであり、後はそのための方法論や選択枠の提示の必要というものでした。
インドでは、そんな突飛な発想の新しい変り種などは求められてなどいなかったのです。

 『この涅槃は、異端者達が主張していたような、単なる苦行とか、単なる禅定とかによって得ら
れるものではなかった。世界人生の真理に関する正しい智慧によって得られなければならない。
この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく知り、それ
を体験することによって、理想が達成されるとしていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一
如の境を涅槃の語によって呼んではいないけれども、この境地は「非ず、非ず」(neti neti)と云わ
れているように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境であるとせられるから、実際には
仏教の涅槃が意味しているものと、それ程違ったものではないであろう。(p126)
 非正統のシャモンの中にも、涅槃を得たと称した者は少なくなかったようであるが、その何れもが、
釈尊を納得せしめるに至らなかったらしい。(p127)』
(『水野弘元著『原始仏教』<サーラ叢書4>平楽寺書店刊)


以上