仏教議論スレッド57

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762宝珠愚者@(規制代行)
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 『それ故に、ブッダはアートマン思想の正しい理解と実践を明らかにするために、ブッダ当時の
さまざまなアートマン観を否定した。このブッダの批判的立場が、仏教教団の発展に応じて、ブッ
ダはアートマンの存在を否定して、無我すなわちアートマンがないと主張した、と考えられるよう
になった。しかしながら、こうした後代の理解は、ブッダの教えを誤るものというべきだろう。(p76)
 第一の理由は、原始仏教から部派仏教になると、無我の考え方が変容したことである。すで
に前項で見たように、原始仏教における無我説は、決してアートマンが存在しないとは説いて
おらず、むしろ実体として固執する種々のアートマン論の過誤を指摘して、論理的実践的な意
味における本来の自己あるいは真実の自我の探求を教えた。その後、アビダンマ教学の盛ん
な部派の時代に進むと、積極的にアートマンは存在しないと主張することとなり、本書の編纂さ
れた時代は、こうした考え方が支配的であった。したがって、仏教の無我説は時代の変遷とと
もに、その解釈が大いに変わった。無我即無霊魂という考え方もその所産である。ナーガセー
ナ長老もアビダンマ教学の説く無我説の立場から、無我とは無住普遍の実体のないことであり、
個人にとっては実体としての人格的個体の存在しないことであり、更に無霊魂である、と明言し
ている。