1/3
>>753 >なぜ、文法に縛られるのですか?
いやいや、それは勝手に「アートマン(主体)はない」という話に摩り替えたのが伝統仏教
(部派影響)だからですよ。
私の主張は、仏教はアートマンを「説かなかった」ということであり、けれども、アートマンを
「ない」などとはいったことがないというものです。実際、ゴータマは無我(アナートマン)を有為
(現象界)についてだけ説いたが、無為(涅槃)における我(アートマン)に関しては無記の態
度を採りました。
従って、依然として無為(涅槃)における我(アートマン)は「ある」という可能性が残されてい
るのです。ただ、そのままに「ある」とは云わなかったのには理由(事情)があったからでしょう。
この私(宝珠)は、アートマンを直知体験し、無記の態度を採らずに明確に語る覚者存在の
系譜(仏教体系とは異なる)の教えを学ぶ一人ですから・・・。
然るに、このスレに集う仏教徒たちは、ゴータマは「ない」などといったことがないにも関らず、
勝手に「涅槃(無為)においてもアートマン(我)は存在せず」などと語っているわけです。
しかし、仏教が採った態度というのは、“涅槃におけるアートマンについては無記”というもの
でした。
私の主張する事柄が、すべて旨く纏められている良い文章が一つ見つかりましたので、ここ
に紹介したいと思います。暫し、長文となりますのでご了承下さい。