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『原始経典には一般に三法印とか四法印とかの説はない。しかし五蘊などの諸法の無常・苦・無我
については無我相として随所に説かれ、これを有為の三相としている。パーリ仏教もこの説を受けて
いる。有為を脱することによって寂滅涅槃が得られるから、以上四つで四法印とされたものであろう。
(p155)』(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
はい。“有為を脱することで寂滅涅槃が得られる”と明確に述べられていますね。これを認められな
いのなら、勘違い大王とまったく同じですね。「有為なるものは苦しい、ここで止まってしまう」のではな
く、そうであるから、有為からの解脱を目指すわけですよね。有為とは異なる無為(涅槃)であるから、
有為からの解脱をそれとして覚知できるのです。
一代ほどの人物がどうして、こんなところで引っかかっているのか?不思議なくらいですよ。やはり、
伝統の鵜呑み(間違った伝承の信奉)としか思えません。
>>536 >そこはねえ,ちょっと難しいところなんですが,
>涅槃や無為,空性も一応,一切に含まれるんですよ。
>一切はほんとに一切,全部です。
>一切(無我)=有為(無常)+無為(常)
こちらも同様に伝統に引っかかってしまっての間違いですね。
それら阿毘達磨というのは、部派が勝手に無為も一切法へと投じてものです。
本来の原始仏教にはまったくなかったことでした。