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>>176>>177 それは、
異なるアプローチの必要性ではないかと推察します。
>同じインド人である彼らからすれば、言葉上の「非我」を
>言葉上の「無我」にするのは当然だろう。
>大切なことならそりゃ言うだろうから。
「非我」(我ではない)というのは、つまり、「我」の存在を前提にしているということであって、もし
かしたら、それは“我は在る”ということを暗に示している可能性すらもあるということなのです。
もちろん、「在る」とはいってない。しかしながら、「我」を説くことを理由にバラモン・ヒンドゥーを
否定することは理に合わないこと。
後でその辺については、
参考までに仏教学者の一文でも紹介してみましょう。