仏教議論スレッド55

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805神も仏も名無しさん
>>801 >あくまでも“本来は清浄である”といっているわけで
>>802 >ここは素直に読んで受け止め

まったくもって、その通りだと思いますよw
「本来清浄であり、煩悩や(悪)業に染まっている」と。
が、ここで重要なのは、「清浄なる」とはどういうことか?ということです。
仏教の文脈では、それは、「煩悩や悪業に染していない」ということ以外にありません。
それはどういうことかといえば、(中観的には浄も不浄もないのでしょうがw)
勝義に於ける諸法は、因により縁により生じきたり滅しゆくものであり、
そこには、善悪や浄不浄といった分別の働かない、
フラットな、無味無臭な、相の変遷があるのみです。その意味で、清浄なるものなわけです。
だから、煩悩や業といった染料を除けば、諸法が縁起するのみの、「清浄なる」世界が立ち顕われるわけです。
 *(以前言いましたよね?私見ですが、仏教に於ける事象の発現は“偶然”である、と。
  まさに、この意味です。 棒線が引いてあったとして、それを
  「シャーペンの芯が落ちてる」と見るか「一文字に結んだ口の絵」「切り傷」「罫線」と見るか。
  そうではなく、煩悩に染まって(→分別計らいが働いて))何かだと当てはめるのでなく、
  単なる線として認識される(→清浄なる)事象である、と見るべきなのだ、と。
  決して、目的的に、褒賞・懲罰的に事象が発言するわけではありません。
  決して、清浄なることは、【隠れていた】【素晴らしい上物】が、皮膜を除かれて顔を出す
  (→もともとそこに清浄なるものとしてある)ということではないからです。)