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>>621-622 セブン、とてもためになる引用投稿をありがとうございました。
>『心性本浄説については、今日までわが国多くの学者によって取り上げられ、
>すでに論じ尽くされているといってよい。---中略---
>原始仏教や上座部系の部派では、そのような常住の心性は考えられず、
>【むしろ現象として生滅変化する心相が清浄であると】説いていると考えられるからである。
> 元来原始仏教では、外教で説くような常住不変の実体を問題とせず、
>経験可能の現象界だけを考察して、これを一切法と呼んだ。
>従ってそこには常住の心性というような考えが入る余地はないのである。
私もこういうことは、もちろん知っています。しかしながら、これらの指摘については私は同意しません。
仏典の記述はあくまでも“本来は清浄である”といっているわけですから、どう読んでも「元々、これは最
初から清浄である」ということをいっている(原語は読めませんけれど・・・)。
つまりは、不変的な性質を意味していますから、これは消滅変化する現象界の有為(一切法)ではなくて、
涅槃同様に分類されるべき“無為”だということになります。水野『要語』の解説にもある通り、「清浄」は
涅槃の顕著な特質であり、そして同義語なのですから。(『要語』「涅槃の同義語」p170-171)。