【QUAECUNQUE SUNT VERA〜すべて真実なこと〜X】
ほい 今でも内容は正しい昔の教理対話^^
神父
贖宥、即ちラテン語の「インドゥルジェンチア」という言葉の宗教上の意味は「赦し」ということですが、罪の赦しということではありません。
ましてや、罪の特免ということではありません。事実、贖宥は、罪とは直接関係は全然なく、罪は悔悛の秘蹟をふさわしく授かることによって
既に赦されているのです。
贖宥は、罪の赦しではなく、既に赦された罪に対する有限の罰を(悔悛の秘蹟以外に)公教会が免除することであります。
青年
罪が赦された後でもやはり在るという「有限の罰」は、どういうものですか。
神父
一つの場合を考えてみましょう。かりにあなたが大罪を犯したとします。その結果あなたは永遠の罰を受けなければなりません。
しかし、あなたは心から罪を痛悔して告白をなさいますね。
青年
そうです。
神父
立派なその告白により、大罪は赦され、大罪に対する永遠の罰も赦されます。しかし、もしあなたの痛悔に、天主の望み給うような
熱心と深さがありませんと、恐らく天主は御不快に思召して、小さな不幸をお降しになるか、(或いは告白後にあなたが死なれた場合)
一時煉獄で罰をお課しになります。これがあなたの罪に対する「有限の罰」です。
その有限の罰は、償いを完全に果すこと、善業、祈りなどを為すことによって除けます。ですが、教会は、あなたの罪を完全に消すために、
「贖宥」を以ってあなたの霊魂にキリストの御功徳を施します。
この事実は、聖書の中にある例によって、もっとはっきりします。ダビド王の詩篇は、本人が犯した二つの大罪に対する痛悔のほとばしりなのですが、
王は、自分の罪は赦されるが、しかし、その子供は奪われるという天主の御知らせを、預言者ナタンの口を通じて受けました。
これは罪を痛悔し、これを赦された後の彼の有限の罰だったのです。
青年
この世で有限の罰が行われなかった場合や、償い、善業によって取り除かれない場合は、煉獄で課せられるのですね。
神父
そうです。教会が霊魂に贖宥を与えて、キリストの御功徳を施さなければ、そういうことになります。
499 :
神も仏も名無しさん:2012/12/20(木) 01:16:56.91 ID:5KK6dhRp
>>492 単に「永遠の裁き」などを避けたかったからではないの?永遠に裁いてしまうと、
リピーターがいなくなるから商売にならないw。
教会の指導者の連中は頭が良いから、「罪」も「罰」も「神」でさえも存在しない
ことを知っていたのだと思う。宗教の経営者は、皆そうだ。知らぬは無知に
洗脳信者だけ。
青年
贖宥は告白の時に与えられるのではありませんか。
神父
いいえ、教会は或る善業や祈りに贖宥を附けています。その贖宥を受ける望みを以って、聖寵の状態にある人や、
そうでなくともふさわしい心の人が、その贖宥に定められている事柄を守ると、贖宥の効果が生じます。
贖宥に、全贖宥と分贖宥があります。即ち、有限の罰を悉く赦すのが全贖宥であり、また一部だけを赦すのが分贖宥と云われています。
分贖宥は普通、色々の祈りに附けられていますが、全贖宥のほうは、御聖体を拝領し、教会に参詣し、そこで天主のこの世における
御事業の成就をお祈りするということが、殆どいつでも必要であるとされています。殊に、それが教皇の御恩召しである場合はそうしなければなりません。
青年
そういう条件に従えば、必ず全贖宥がいただけますか?
神父
そうばかりとは限りません。有限の罰の原因である罪に少しでも心を引かれているか、痛悔が十分に深くありませんと、
全贖宥を完全にいただくことはできません。
青年
贖宥は人の罪がすっかり赦された後にはじめて得られるのですから、死ぬ前に全贖宥が実際に得られますと、
その人は煉獄を免れて、真直ぐに間違いなく天国に行けると思いますが?
神父
そうです。
青年
他の人のために贖宥をいただくことができますか
神父
生きている人のためには贖宥をいただくことはできません。しかし、教会は、大部分の贖宥を煉獄の霊魂に譲ることを認めていますので、
その煉獄の霊魂のために贖宥をいただくことはできます
青年
それから、贖宥にお金を払うことはありませんか。
神父
いいえ、ありません。前にもお話しましたように、償いの業や祈祷、御聖体の拝領、教会への参詣などが贖宥を授かるための条件に挙げられています。
それから、施しは天主の嘉し給う行為であると聖書の中で勧めていますので、施しを行うように求められるかもしれませんが、しかし、それは
贖宥の代償ではないのです。
罪の告白と痛悔をしない人は、どれほど祈祷や施し、善業をしましても、贖宥をいただくことはできません。
いわゆる宗教改革者が教会を攻撃するための材料にする「贖宥の取引」という問題について、ここで反駁してみましょう。
ヨーロッパが全部カトリックだった十六世紀の初めに、教皇レオ十世は、キリスト教世界の首府にふさわしいような大天主堂を、
ローマに建立する決心をなさいました。
教皇は全ヨーロッパのカトリック信者にわずかな献金をお願いになり、この事業の成就のために祈りをし、告白と聖体拝領をふさわしく行い、
大天主堂の建立に施しをするすべての人に、全贖宥を与えることを発表されました。
現代の教養あるカトリック信者は誰でも、どれ程大きな施しを行ったとしても、その前に告白と聖体拝領をしていなければ、
贖宥を戴くことはできないということを知っています。
すでに申し上げましたように、今日でも教会にお参りするというような善業が、告白と聖体拝領の後でありましても、全贖宥を授かるために必要です。
聖ペトロ大聖堂の例で特に挙げられた善業は施しでしたが、貧しい人は他の種類の善業を行うことによって全贖宥が得られると、
その教皇の回勅にはっきり述べてありました。