つべこべ言わずに生きろ!!てな
考える事ができるってのは贅沢なことだ…
>>951 プログラム通りにはいかないと言ってるだけだが?
ヨガのそれは知ってたし、夢精するのだからあり得ないことじゃ無いと思ってるよ
956 :
コレ悟りかよ!?w:2012/12/25(火) 17:03:18.95 ID:P9uZoDuf
みんな、メリークリスマス!
>>956 メリークリスマス!!
コレ悟に所には、サンタさん来てくれたのかな?
958 :
コレ悟りかよ!?w:2012/12/25(火) 19:06:44.67 ID:P9uZoDuf
>>957 心の中にいつもデッカイ靴下を引きずってんだが、いまだかつてそれが満たされたことは無い。
通常の人間がなにものかを認識したという時、それは予め記憶の中にあるものを、外にあるものと照らし合わせて、合っていると思えばそれを認識したとなるじろう。
例えばりんごを見れば、赤い色と丸い形から頭の中の記憶と照らし合わせ、それはりんごである、りんごを認識したと成る。
それが記憶に依存した認識なのじゃ。
そのように認識作用が記憶に依存していると、過去の記憶の中に生き、今ここには生きていない事になるのじゃ。
過去に苦しかった事があれば、それを何度も何度も記憶から縁によって繰り返し苦が起こり、自ら止める事も出来ないのじゃ。
それが記憶に依存した認識による苦なのじゃ。
それを滅すれば記憶に依存しない、本来の認識が起こるのじゃ。
それが悟りと呼ばれる現象なのじゃ。
認識が記憶に依存しなければ、世界を記憶によって解釈する事も無くありのままに見えるのじゃ。
さらに記憶から起こる苦も無く、一切の苦を離れられるのじゃ。
それらが目覚めた者の智恵であり、一切の苦から離れる事なのじゃ。
それが既に唯識論によって語られている事なのじゃ。
>>960 五感という視点が含まれてないから
その答えだけだと「赤点」ですよ。
これは俺からのクリスマスプレゼントです
五感を除いた主観の排除だよ
主観を除いた認識における公平性がないと正しく口伝できませんよということ。
つまり頭の中に辞書があったというだけのもの。
それはヴェーダと諸々の自然現象からの記憶によるものに過ぎない。
言葉では出来そうに感じても、実際不可能って事はあるよね。
「正しい口伝」も、その1つ。
964 :
コレ悟りかよ!?w:2012/12/25(火) 22:15:09.43 ID:P9uZoDuf
>>960 俺記憶力悪いんだよね〜
やっぱ俺悟ってるかも!
>>962-963 釈迦が教えをあえて紙と文字で記録させなかったのなんでだろ〜?
忘れろ!記憶に依存するなってこと!?
まあいいや。寝る。
智慧を基準に考えて、智慧を阻害するものは何か?ということ
第一には主観であり、主観を形成するものは何か?ということ
それは希望であり欲望というもの。つまり好き嫌いが大きく左右する。
例えば神が好きというなら既存の神概念を踏襲することになり
正しく認識できない。神が嫌いというなら唯物的概念に走ることになり
心や意識を無視する傾向に陥ることになる。
つまりは肝心の智慧が発芽してないのであれば悟っていることにはならない。
帰結の前段階である知識は当然の如くあったことが予測され、
元々が天才と呼べる頭脳の持ち主であり、並々ならぬ努力家であったことが
釈迦という人物像から想像される。
確かに魚に生まれたら魚の運命があるわな
いくら善良でも魚以外の何かにいきなり変わるわけが無いし
そういうのが運命っていうんだな
967 :
素人A:2012/12/26(水) 07:10:48.74 ID:7TNNrXKl
ラーマクリシュナの言葉を書き連ねたサイトが有った。何という無邪気な聖人なんだろうか、でも金と女は嫌いとかでも
マンゴウを食うのは大好きで?カーリー神は女性だけどまあよいか?とにかく抵抗無く読みやすいしちょつとと思う所は
世界が聖人だらけでは神もつまらんきっと思う?まあ色々あるカラー。ラーマ良い人だし最初から最後まで同じ言葉◎だし
1・ブラフマンの智者は、内も外もすべてが実は、最高我・パラマートマーであることを見ます。 水が二つに別れて見えている
だけです。 内と外という感じがするだけです。 「私」という瓶があれば、そのような内と外という二つを見ている意識にな
ってしまうのです。 その「私というもの」が、もし消え去れば、そうすれば、あるものがあるだけです。
1−393要するにリンク読んで☆意のけど?まあよいかWWW
ラーマクリシュナの言葉
http://kuboakoru.web.fc2.com/la-makulisyuna4.html
>>960 まー、たしかにその通りだけど、そんなら、その記憶と認識を
分断して断ち切る「金剛王宝剣」とはどんなツールなのか、
具体的に提示できないとな・・。
数息観と座禅の瞑想だけでは、鬼和尚以外のそこらへんの
小者どもはちょっと行き着けないような気がするけどww
970 :
基地子菩薩:2012/12/26(水) 08:18:06.74 ID:Tc8ows0T
>>968 トイ
i三i
〃 ヾ、
〃 ヾ、
〃 ヾ、
〃 ____ ヾ、
〃 / \ ヾ、
|| / _ノ ヽ、_ \ ||
|| / o゚⌒ ⌒゚o \ || もう自殺するしかないお
ヾ,| (__人__) |//
(⌒)、_ ` ⌒´ _,(⌒)
/ i `ー=======一'i ヽ
l___ノ,、 ,、ヽ___i
l l
トイ
i三i
〃 ヾ、
〃 ヾ、
〃 ヾ、
〃 ____ ヾ、 チラッ…
〃 / \ ヾ、
/ ̄ ̄\ || / ⌒ ⌒\ ||
/ _ノ \ || / (● ) (― )\ ||
| ( ●)(●)l 早く氏ねよ 金剛宝玉剣! ヾ,| ::::⌒(__人__)⌒:::::|//
. | (__人__) | (⌒)、_  ̄ _,(⌒)
| ` ⌒´ | / i `ー=======一'i ヽ
. | } l___ノ,、 ,、ヽ___i
. ヽ } l l
ヽ ノ
/ く
971 :
塩と味噌:2012/12/26(水) 08:55:45.42 ID:NZOQadKA
めりーくりすますじゃ
972 :
素人A:2012/12/26(水) 09:20:04.73 ID:7TNNrXKl
過去が死んでも間々琢磨に直ぐ原罪が生き返るしまた今後追う件が苦しい
時間に追われているし それほどでもないか
存在そのものは増えもしないし減りもしない。
がっかりしたこともありましたけど、存在を無くす夢も実現するのでしょうか。
キリスト教の信者の方々は死後、堅い信念により救世主が復活するまでけして眠りから覚めない
という逸話を読んだことがありますが…。
意識というものは、摩訶不思議な力があるらしいですね…。
死んだ後の事なんか考えてもしょうがない
975 :
素人A:2012/12/26(水) 12:17:06.79 ID:7TNNrXKl
紀野さん「・・人間のいのちというのは一刹那一刹那死んではまた生きている。一刹那とは七十五分の一秒である
つまり交流電流に似ている?仏の命から来ては帰り・・生きている時も生き返りしている」という死 向うが本家
というがよくわからん話?
976 :
神も仏も名無しさん:2012/12/26(水) 13:39:31.55 ID:6ee6GjNZ
977 :
コレ悟りかよ!?w:2012/12/26(水) 16:38:40.65 ID:417eJpvx
>>970 基地子次スレたのむわ!
テンプレも探して貼っといてくれ。
ご褒美に俺の金剛宝玉剣をしゃぶらせてあげるから。
>>966 そこがポイント。
人間に生まれたら人間の運命しか辿れない。
人間以外の何かに変わるわけがない。
しかし、それは決して天命などではない。
人間の個体差は敢然としてあるものであり、
能力は無理のない程度には上げておくべきである。
身体の不安(苦)というものはあるものであり、
この解消は即ち苦滅となるものである。
即ち数息観と座禅の瞑想では不足というのは紛れも無い
事実と見なされる。
979 :
アナクサゴラス:2012/12/26(水) 18:53:00.50 ID:yvDQwFJS
>>978 お前自分で頭良いと思ってるかも知れないけど、勘違いだぞ
基地子俺からも頼む ご褒美としてコレ悟りのをしゃぶらせる
>>980 それはお前の主観であり、
俺は事実を伝えているだけである。
最近は唯脳主義が盛んになっておるが、実際は全てが脳ではないのじゃ。
脳が介在しない脊髄反射というのもあるのじゃ。
脳は体の一部として情報を処理する役目を担っているだけなのじゃ。
意識は脳だけでなく、体全体にもあるものじゃ。
心を思考や感情などの他に意識も含めれば、脳だけでは心の働きを全て網羅できないのじゃ。
それが一番よくわかり易いのは、瞑想をしている時じゃろう。
瞑想をして集中状態になった時、意識を下の方に下げて行くのじゃ。
頭にある意識を下げていけば、脊椎から感じる意識があるとわかるじゃろう。
更に下げれば腹や足にも意識はあり、そこから感じる事も出来るのじゃ。
そして体に囚われず、肉体の他にも意識があると感じる事も出来るかもしれん。
それは集中していれば本来は誰にでも出来る事なのじゃ。
肉体だけが意識であると思っていれば、それが出来ても幻覚と認識するだけなのじゃ。
脳は本来心の道具であり、言葉やイメージを扱うための者に過ぎないのじゃ。
自ら観察し、何でも試してみればそれもわかるのじゃ。
>>983 あなたに問う。
あなたは何のために生きている?
>>983 「意識が全てではない」とは言わないの?
「意識がある」と感じるのは錯覚では無いと言い切れる?
986 :
コレ悟りかよ!?w:2012/12/26(水) 22:05:08.91 ID:417eJpvx
>>983 この御言葉はぜひテンプレに追加だな!
でも俺瞑想とか苦手なんだよね〜
>>984 食うこと飲むことかな。
>>985 根本原因は既に提示した。
意識があると感じるは錯覚ではない。
意識の作用が錯覚を生みがちなのだ。
>>986 食うこと飲むことは確かに真理だ
間違いではない。
>>988 お前は何のために生きている?
意識がどうのと下らんことを言うためか?
今日までの問題は、およそ人間特有の無明のもとである認識が、認識としての問題の中を一歩も出られないこと
――いわゆる、認識自体が認識自体の微妙かつ自在なる活動のために惑わされて、これから一歩も出ることなく、
ただいたずらに認識上にあって、認識を問題にしていたということに気付かれた。
これは、人類の一大事件である。もしこの事(じ)なければ、釈尊の出世なし、これなければ世は暗黒ならん。
すなわち、地球上にあって地球の全体を見んとすると同様、全く不可能であることは何人(なんぴと)も知るところである。
従来の人は、識が識の混迷による誤りを誤りと知らず、今日の人もまたこの誤りを知らず、これに惑わされている。
この発見こそ、釈尊の偉大なる前人未到の田地であり、人類苦の元を発見するの鍵であった。
991 :
基地子菩薩:2012/12/26(水) 23:12:52.94 ID:Tc8ows0T
>>977 嫌だピョ〜ン♪ (笑) o(^o^)o
>>991 でわ 今回でこのスレ終了です。お疲れ様でした
>>989 「生きている」って想いこそが錯覚だよって言ったらどうする?
末那識を「意」と訳す。
「意」は思量の 意味であり、この識は常に第八識の見分 を縁じて、我である、法である、と思量 するから末那と言われる。
また、末那識 とは末那即識(意それ自体が第七識)の ことで、第六意識(意に依る識)と区別 する為に、manas マナスのまま音写して いう。
つまり 第六識 も「意識」というの で、その違いは、意識は意によって生じ る識であるから意識という。
末那識は持業釈である 我法二執 の根本である。
>>993 どうもしない。
それがお前に過ぎない。
八識はみな思量 の作用があるが、
末那識は特に恒(間断 なく常に作用する)と審(明瞭に思惟す る)との二義を兼ね有して
他の七識に 勝っているから末那(意)という。
思量 とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中 でも深層において働き続け、
審(つまび らかに根源的な心である 阿頼耶識 を対象 として、
それを自分であると考えて 執 着 し続ける。
この深層的な自我心を滅す ることによって、我々は初めて真の 無我 行 を実践することができる。
>>993 その理論だと、「生きている」って想いこそが錯覚だよって
思いが錯覚となる。キリがないから止めろw下らんw
999 :
あはさんpasiru語 ◆Zazen/rOho :2012/12/27(木) 02:48:17.82 ID:izAR2xwO
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p://www.youtube.com/watch?v=AqwZSvnbRpg&playnext=1&list=PLC969EED58C330FBE
1000 :
あはさんpasiru語 ◆Zazen/rOho :2012/12/27(木) 02:49:12.14 ID:izAR2xwO
1001 :
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