>>2 >『しかし、比丘たちよ、
>生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがあるから、
>生まれるもの、生成するもの、作られるもの、形成されるものの出離が知られる(paJJAyati)。』
セブン抽出の訳文“出離が知られる”
『出離が、覚知されるのである』(テーラワーダ初期仏教研究)
http://www.j-theravada.net/sakhi/udana.html の双方を見ても同様、
“知る”ことと、そして“覚知される”ためにはその主体が必要です。
涅槃を何(誰)が知るのか?何(誰)に覚知されるのか?ということ。
ご隠居の特異なフレーズは使いたくないけれど、
己れの我を以って無我を語り、己れの我を以って涅槃を覚知することになる。
子供じゃないんだから、いつもまでの屁理屈ばかりで駄々捏ねてはいけませんよ。
誰が涅槃入りを知るの?いい加減に大人の返答で答えてけれ〜〜!!
まずは、スレ建てサンクスm(__)m