仏教議論スレッド48

このエントリーをはてなブックマークに追加
52宝珠愚者@(規制代行)
>>2
>『しかし、比丘たちよ、
>生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがあるから、
>生まれるもの、生成するもの、作られるもの、形成されるものの出離が知られる(paJJAyati)。』

セブン抽出の訳文“出離が知られる”
『出離が、覚知されるのである』(テーラワーダ初期仏教研究)
http://www.j-theravada.net/sakhi/udana.html
の双方を見ても同様、
“知る”ことと、そして“覚知される”ためにはその主体が必要です。
涅槃を何(誰)が知るのか?何(誰)に覚知されるのか?ということ。

ご隠居の特異なフレーズは使いたくないけれど、
己れの我を以って無我を語り、己れの我を以って涅槃を覚知することになる。
子供じゃないんだから、いつもまでの屁理屈ばかりで駄々捏ねてはいけませんよ。
誰が涅槃入りを知るの?いい加減に大人の返答で答えてけれ〜〜!!


まずは、スレ建てサンクスm(__)m
53宝珠愚者@(規制代行):2012/10/20(土) 21:21:46.75 ID:jocDIlWt
>そこに何か残ってたら涅槃にならないの。

追記:

消え去るものとは、
涅槃以前までの煩悩に塗れた自己であり、
煩悩と穢れがすべて取り去れる。
そこに残るものとは、本来の清浄そのものであるところの自己です。

 『この心は清浄である。しかし、これは本来的なものではない煩悩によって汚染されている。
…教えを聞かない凡夫たちは如実にこれを知らない。それゆえ、凡夫は心を実修していないと私は説く。
…教えを聞いた尊い弟子はこれを如実に知っている。それゆえ、教えを聞いた尊い弟子は心を実修した
と私は説く。』(SN.I/増一阿含経)

「教えを聞かない凡夫は如実にこれを知らない」
=アートマン否定の伝統仏教者たちすべてのこと