仏教議論スレッド48

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251宝珠愚者@(規制代行)
>>104>>106
遅くなりました。。。

 はい。確かに私は、「説一切有部」の支持者というわけではありませんけれども、ご指摘のよう
に、「説一切有部」的な志向やアプローチと近しい姿勢にある、というのならばその通りかもしれ
ません。
 私は仏教の専門的な勉強をしたことがありませんけれども(仏教書も殆ど読まない)、私の理解
に基づいて簡単に述べるならば、「説一切有部」というのは、ゴータマの教説を分類体系化する
上で、とにかくできるだけ細かく存在について分類細分化していって、そうすることでこれをより明
確化しようとし、その上でやはり“実在といえるものはどこにも存在しない”ということを示そうとし
たのだろうと思います。この遣り方は神智学に非常に酷似するものであり、これがしばしばそこま
でする必要があるのか?といった無意味無用視の批判が囁かれる部分でもある。これはきっと、
現代科学(理系文系を問わず)にも通じるアプローチだろうかと思われます。
 これが「五蘊・十二処・十八界」などというダルマ(法)の「五位七十五法」というものでした。そし
て、形成されたものである「有為」と(形成されたものではない)涅槃の「無為」を区別することで明
確化を図ったところも、それはそれで良いところかと。ただし、この「無為」も存在として説かれてし
まったというところが、本来のゴータマとは異なった点だったかと思います。
 ただ、「説一切有部」が本当に示したかったものとは、現象界には実在といえるものは何もない
けれども、しかし、これを成り立たせているところの、つまり縁起する作用と力、世界を成り立たせ
ている原理、ダルマ(法)そのものというのは永久不変に恒常だということ。これが“法は存在する”
という主張となった、と。つまり、ゴータマのいった「如来が出現しようがしまいが初めから制定され
ている自然界の摂理のこと」です。
252宝珠愚者@(規制代行):2012/10/24(水) 02:20:18.21 ID:TlqZYoot
 この私は、現象界の「有為」に限定するならば、“この一切は空である”という大乗/中観の表現
には別に異論はありませんよ。
ただ“涅槃・如来も空”などという馬鹿をいうから指摘するのです。

 ゴータマは「アートマンを説かなかった。」これはいい。無記の姿勢をとって、アートマンについて
は非我を説いただけですから。けれども、「涅槃・如来も空」などという馬鹿げた愚論を平気でいっ
てるから、あの緻密かつ繊細で宗教感性に世界で最も勝れたインドにおいてさえ仏教は誰にも見
向きもされず、インド宗教世界において蚊帳の外の放置プレイ状態が千年それ以上?も続いてい
るわけです。
 「涅槃・如来も空」などというのは、自ら無意味無価値だと宣伝してるも同然の行為ですから。彼
らご自慢の中論だろうとなんだろうと全部、結局は「空」だってのは、その立派な理論だって「空」っ
てこと。つまり全部、中身なしの空っぽということ。無意味、無価値です。

>>150
『依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、
所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。』(ウダーナ8:1/因縁略)>>77

 「涅槃」とは縁起に依らないことを認め、涅槃も如来も「空」などという恥ずかしいことをいうのを
辞めるならば、あとは信仰に従って好きにすればいいです。
 そしたらこれ以上、この私も別に何もいうことはない・・・。
253宝珠愚者@(規制代行):2012/10/24(水) 02:20:39.72 ID:TlqZYoot
>>118
>初期仏教というか釈尊の仏教そのものを復古で説かれたのが中論

うーむ。横レスですが、その辺どうなのかは疑問・・・。
私は中論の説くところに対して、それが間違ってるというのではありません。
抽象的な評価に留めますけれど、寧ろ、真理そのもので究極的なものだといえるでしょう。
しかしながら、これはゴータマの採るアプローチとはまったく違う。異質なものです。

申し訳ないけれども、簡単にいうと『中論』は役立たずであり、
逆に、大王や机さんを見てもわかるように弊害が生じるマイナス面のようが遙かに多大なのはハッキリしてる。
いい面というのは余りない・・・。精々、現象世界に対する捉われと執着を無くす方向で寄与するとは思うけれど・・・。
中論などいくら読んでも実際上の修行の実習には殆ど役に立たない。
私は昔、役立たずと判ったのでパラ見してすぐに手放しました(図書館寄贈へ)。