仏教議論スレッド48

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172/2 即非の論理? 大滝秀治
金剛般若経の「A即非A、是“名”A」の根本的意義は、
<A(分別相:仮観)はAではない(無分別相:空観)。ゆえにAと名づける(無分別の分別:中観)>と、
存在は二相(最終的には相そのものも空)で掴み得ることを明確にし、
無分別の分別相がわざわざ「言語ゲーム」であることを確認することにあります。
まさに二相の相即的実践です。*上記の仮観と空観の位置を入れ替えてもOK。

*ちなみにオウム真理教の根本的誤謬は誤った空観→存在の虚妄観(幻そのもの)+カルマ(業報)輪廻転生論で
カルマ落とし→殺人を肯定するところにあります。

ところが、西田や鈴木は彼らのチンケな不二一元論を基にして、語彙の持つ限界を捻じ曲げ、曲解してまで
【“AがAである”のは“A”が即“非A”であるからである】
すなわち、「A」と「非A」と「肯定」(即)と「否定」(非)とがそのまま自己同一であるという「即非的自己同一」なる独自の同一律を創提し、
これが西田哲学のいわゆる「絶対矛盾的自己同一」宗教論的基盤となりました。

彼らの思想はまさしく、金剛般若経自身が批判する<全一体という執着 piNDa-grAha>という
愚かな人々が、実体と見誤って執着するモノに他なりません。

<一合相者即是不可説    一合相は、すなわち、これ、説くべからず。
但凡夫之人貪著其事     ただし、凡夫の人は、その事に貪著するなり。>(金剛般若波羅蜜経一合理相分第三十)

鈴木や西田の思想は、もはや博物館行きを免れない誤謬化石思想です。