仏教議論スレッド48

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161/2 即非の論理? 大滝秀治
仏教質問箱31 >>773 F0fVday5
>如来が説きたもう所の三千大千世界と 凡夫の人が貪著している、この世界は異なる と言う意味で良いんですか?

相(仮設:仮観)が違う、ということです。それが(仮設)非です。

ここでは十分には言及できませんが、先ず、西田幾多郎と鈴木大拙の「思想」を特徴付ける短文を提示します。

<西田>・「実在の根底には精神的原理があって、この原理が即ち神である。インド宗教の根本義であるようにアートマンとブラフマンとは同一である。」(『善の研究』p121)
    ・我々の自己(個)は、どこまでも自己の底に自己を超えたもの(超個)において自己をもつ。自己否定において自己自身を肯定するのである。
     かかる矛盾的自己同一(即非)の根底に徹することを見性という。禅宗にて公案というものは、これを会得せしめる手段にほかならぬ。(西田幾多郎『場所的論理と宗教的世界観』)
<鈴木>・「仏教徒の考える絶対者は、その中に一切を保持し、かつそれをとうして、一切が顕現するという如き、個者ではなくして、
      かくかく個々の事物がそのままで絶対者の中に存し、又、それとはなれて絶対者があるわけではない。
      ・・・・一切がそれ自体の姿で、即ち、それぞれの個者として、またひとつの全に属するものとして、存するような時でも、彼らは絶対者それ自体なのである。(『続禅と日本文化』p274〜275)

これら、鈴木や西田の根底にある思想は明確な不二一元論であり、その「一」に唯一の実体=絶対者である一=神(ブラフマン)を想定する超越的神秘主義(スピリチュアリズム)に他なりません。
これが戦前において天皇を中心とする全体主義・軍国主義を支える論理となり、また、アタマの悪い禅僧を迷妄の淵に追い込む害悪思想として機能しました。

臨済の思想にも、「赤肉団上、有一無位真人」などと、容易にアートマン=ブラフマン=絶対者説と解釈できる如来蔵思想があります。

しかし、これでは明確に<無我・縁起・空>撥無の反仏法であるとの非難を免れません。